はじめに  国会議事堂内を「ガセネタ」という名の「妖怪」が徘徊していた。  予算審議たけなわの衆院予算委員会。「禁断の玉手箱」を開けてしまったのは、民主党の永田寿康代議士(当時、以下同)である。二〇〇六年二月十六日、永田氏は提供されたメールが偽造されたものとも知らず、声をはりあげて追及した。  「お金で魂を売っているのは、自分(武部勤・自民党幹事長)ではないですか!」  メールが本物であれば、確かに政変すら予想される事態であったろうが、肝心の情報提供者は「ガセネタ屋」ともいうべき、怪しげな人物であった。  永田氏は、東大-大蔵省の前歴をもち、派手なパフォーマンスで、同じ党の議員からも煙たがられる存在だったという。自己顕示欲が強く、そのせいか、同氏は、「公人」である国会議員が絶対に飛びついてはならないガセ情報に、簡単に乗せられてしまったのだった。  永田氏の資質もさることながら、憂うべきは、そうした「ガセネタ」が国権の最高機関であり、言論の府たる国会に入り込み、国民利害と直結する予算審議の時間を奪ったばかりか、広範な政治不信を植え付けたという事実である。  永田氏に情報を提供した人物の名は、同氏によって三月二十四日、初めて公式に明らかにされた。「西澤孝」と称するその「元記者」は、業界では過去にも多くの週刊誌などでトラブルを引き起こしてきた悪名高いライターとして知られていた。  問題は、「ガセネタ」を平気で商いの道具にする人物の情報を、選良たる国会議員がなんら選別する能力に欠けていたばかりか、「政権準備政党」と公言してきた野党第一党が、政党としてチェック機能を果たせなかったという事実である。  結局、たった一つの「ガセネタ」の扱いによって、質問した永田氏本人が議員辞職しただけでなく、前原誠司代表以下、民主党の執行部はわずか半年間で総退陣する結果となった。過去にこんなことが起こりえただろうか。国権の最高機関が、たった一つの「ガセネタ」によっていいように翻弄されつづけたのだ。国会の威信は地に堕ちたといってよい。  筆者は過去、出版界において「ガセネタ」を売り歩いてきた一人の人物を俎上に乗せ、早い時期から警鐘を鳴らしてきた。いわば今回、世間を騒がせた「送金メール事件」より、ずっと以前から、同種の人間を追及してきたという自負がある。故に、今回の事件は、大胆不敵という程度の差こそあるものの、「元祖・ガセネタ屋」ともいうべき男の行動の、実は二番煎じにしか映らなかった。  今回の「送金メール事件」のきっかけとなった西澤氏は、スポーツや芸能といった自分の得意分野で幾多の「ガセネタ」を垂れ流し、マスコミ界はおろか、政界にまで影響を及ぼす事態となった。同じように、本書の"主人公"である乙骨正生も、自分の得意分野(?)で多くの「ガセネタ」を「生産」して飯の種にしてきた過去をもつ。  そのためか、人は彼のことを「ガセネタ屋」と呼ぶ。だが、ほかにも似たような存在が明らかになった今、むしろ、「元祖・ガセネタ屋」と呼ぶほうがふさわしいだろう。  なにしろ、週刊誌だけでなく、国会にまで「ガセネタ」を持ち込み、政治を混乱させた事例としては、乙骨のほうがずっと古い。裁判で断罪された回数も、西澤氏を上回る。  だが、国際的なジャーナリスト団体として知られる「国境なき記者団」(本部パリ)は、二〇〇三年度の年次報告書のなかで、こうした乙骨の裁判沙汰の多さを指して、「独立ジャーナリストヘのハラスメント」などと指摘したという。この異国の記者団体に、判断材料としてどのような形で基礎情報が入っていたのか、筆者は確認するすべもないが、かなりバイアスのかかった情報が基準になっていたことは想像に難くない。  ことわっておくが、本書を一読していただければ、乙骨がいかにとりつくろおうと、彼が「独立ジャーナリスト」などと呼べるような代物では決してないことをご理解いただけよう。乙骨は、都合よく複数の教団を渡り歩き、さらに政党までも渡り歩いてきた、「ジャーナリスト」を隠れ蓑にした「渡り鳥」というべき存在である。  さらに、彼をめぐる一つひとつの裁判についても、決して「ハラスメント」(嫌がらせ)などといったものではない。自ら裏づけをとることもなく、伝聞情報や創作情報を垂れ流してきた「ガセネタ屋」としての、必然的結果であることがご理解いただけるはずである。  かの地(フランス)においても、言論の自由が保障されているからといって、事実に基づかないことを自在に書き飛ばしていいとは決してならないはずである。 ジャーナリズムの根本精神は、「事実の探求」にこそあって、都合のよい思い込みや憶測をまじえてはならないことは、万国共通の事柄のはずである。まして、乙骨のように、結論を一定方向に誘導しようと企図することなど、もってのほかの行為といえよう。いわば乙骨は、ジャーナリストとしては"欠陥品"である。先の団体がこうした真実の情報を知らされていれば、報告書の内容も少しは変わったのではあるまいか。  増補改訂版を上梓するにあたり、「送金メール事件」の顛末を中心に新たに一章を書きおろした。また、第三章で最近の裁判事例を追録したほか、各章で情報を更新した。そのうえで、紙数の関係で一部の文章を割愛し、整理してある。  今回も多くの方々から貴重なご証言、ご協力をいただいた。あらためて感謝申し上げる次第である。 二〇〇六年四月 著 者 第1章 「騒動」 国会を翻弄した「ガセネタ」  その議員は、わずか三回の当選回数にもかかわらず、すでに四回もの懲罰動議を出されていることで、永田町ではちょっとした有名人だった。永田寿康、三十六歳。二〇〇〇年に初当選以来、議員経験は六年足らず。民主党の「爆弾男」として名を知られ始めたこの議員は、その後、「送金メール事件」で、五度目の懲罰動議を提出されることになり、結果を待たずに議員辞職した。  発端となった永田議員の質問は、二〇〇六年二月十六日午前、衆院予算委員会の場で飛び出した。  「お金で魂を売っているのは、自分(武部幹事長)ではないですか!」  当時、証券取引法違反の罪で起訴されていたライブドアの堀江貴文前社長が、衆院選公示直前の二〇〇五年八月、自民党の武部幹事長の次男あてに三〇〇〇万円を振り込むように社内メールで部下に指示していたとの「衝撃の告発」だった。  このときの衆院選挙で、堀江氏は広島六区の亀井静香氏の対立候補として、自ら立候補。自民党の公認は得なかったが、このときの選挙で武部幹事長は、堀江氏のことを「わが息子」とまで持ち上げ、二人の親密ぶりはよく知られていた。  その武部氏の次男に対し、堀江氏が選挙戦のさなか、多額の資金援助をしていたというのである。事実なら、幹事長更迭もまぬかれない話であったかもしれない。実際、この「告発」の直後、テレビに映し出された武部幹事長のいかにも青ざめた表情は、国民に「クロ」の印象を抱かせることになった。  だが、このネタは、与党中枢の幹事長を「直撃」する可能性をもっていたものの、ガセネタであれば、逆に相当の返り血を覚悟しなければならない問題だった。  実際、「疑惑」を指摘された自民党側の反応はすばやかった。  衝撃的な永田質問によってマスコミからの取材が殺到することになった武部氏の次男は、その日の昼、「まったく身に覚えのない話で、そのような事実もない。なぜそんな疑念をかけられるのか、まったく理解できない」と、「疑惑」を真っ向から否定してみせた。報道によると、武部氏の次男は、過去に飲食店やネット証券会社などを経営した経験をもち、都内で服飾関係の店を経営しているという。  一方、自民党の最高責任者である小泉純一郎首相も敏速に対応した。同日夜には、永田氏の質問を「ガセネタ」と断定し、首相官邸で記者団の質問にこう答えた。  「根拠のないことを公の場で言うのはおかしいと思う。『ガセネタ』を委員会で取り上げるのはおかしい」  さらにライブドア事件を捜査した東京地方検察庁も異例のコメントを発表。伊藤鉄男次席検事は、指摘された事実関係について、「当庁では全く把握していない」と述べ、民主党への追い討ちはさらに続いた。  翌日、東京拘置所に拘留されていた堀江前社長本人も、「そのようなメールは送っていないし、金を送るつもりもない。金を送った事実もない」と、接見した弁護人を通じて完全否定した。  「疑惑」の矛先を向けられた武部幹事長白身も、「次男と会社のすべての銀行口座、通帳を本人が明らかにし、第三者によって確認したが、指摘の事実は見つからなかった」と潔白を主張した。  他方、民主党内では、十六日の永田質問の直後は、「武部が辞めるだけでは済まない。政局になる」との高揚感も見られたというが、相次ぐ「否定発言」に、雲行きは怪しくなる一方だった。翌日の予算委員会で再び質問に立った永田氏は、「ガセネタ」という言葉をめぐり、首相と、次のような象徴的なやりとりをかわすことになる。 永田議員 総理がガセネタといった根拠は何か。 小泉首相 「ガセ」とは偽物、「ネタ」は商品。「ガセネタ」は転じて、「警察や報道関係でインチキな情報をいう」と辞書には出ている。(民主党は)いまだに事実に基づく証拠を出していない。ガセネタと信じてもおかしくない。  こうした相次ぐ「反撃」に、それまで攻めていたはずの民主党は、野田佳彦国対委員長(=当時、以下同)が、黒塗り部分のある「送金指示メール」なるものを公表、さらには国政調査権の発動を主張する展開へ。だが、メール上に記載された「受信時刻」のその時間、肝心の堀江氏は選挙運動中であり、メールを打つことは困難な時間帯だったことも判明した。  自民党と民主党の威信をかけた「送金指示メール」をめぐる真贋論争は、早くもピークを迎えていた。 迷走を重ねた民主党の対応 「なかなか確度の高い情報だ。武部幹事長の資質の問題、任命者である小泉首相の責任も含めて、党を挙げて追及したい」(民主党・前原誠司代表=当時、二月十六日)  当初は威勢のよかったはずの民主党も、その後は国政調査権の発動を主張するくらいしか打つ手がなくなった。もともと一か八か、場当たり的に始めた追及だっただけに、蹉跌をきたすのも早かった。  一方、自民党内には一転して勝ちムードがただよい、武部幹事長が青い顔をしながら報道陣に答えた場面など、すっかり忘れ去られたように見えた。  首相と民主党代表の一騎打ちとなった二十二日の党首討論でも、前原氏の迫及は腰砕けに終わった。同じ日、ライブドアの平松庚三社長は、「社内で確認させたが、報道されているような意味での出金があったという報告は受けていない」と記者会見で述べている。  翌日の二十三日の夕方、「送金メール」疑惑で何ら証拠を示せないままの永田議員は、議員辞職の意向を固めたと、夕刊各紙が大きく取り上げた。国会近くのホテルを訪ねた同党の鳩山由紀夫幹事長に対し、永田議員は「自分の思い込みがあった」と率直に認め、鳩山氏自身も、記者団とのやりとりのなかで、「(永田氏は)地獄の状況だ。進んでも退いても国民から批判される」と苦悩の深さを口にすることになる。  同じ日、永田氏は、東京都内の病院に緊急入院した。二十八日に退院するまで、世間から姿を消したが、病院は、民主党の元同僚議員の関係するものといわれた。  その後、民主党内では過激な執行部批判も飛び出す。「攻めているつもりが、オウンゴール。地方議員にもたいへんな風当たりだ」(県議)など、地方からの声は切実だった。都議会民主党も、永田氏の議員辞職を求める申し入れ書を直接、鳩山幹事長に手渡すなどした。後述するが、兵庫県の民主党地方議員からは、特にその声が強かった。  さらに二十七日、焦点の「送金指示メール」は、送受信者とも同一人物であったとの驚くべき事実も明らかとなる。  二十八日、退院した永田氏は国会内で謝罪会見を行い、深々と頭を下げた。責任を感じた野田国対委員長は辞任。前原執行部は、永田氏の「爆弾質問」からわずか半月足らずで、党として「全面降伏」の成り行きとなる。  もともと、防衛施設庁による官製談合事件、耐震強度偽装問題、米国産牛肉問題、ライブドア問題といういわゆる「四点セット」で、野党にとってこれ以上ないともいえる絶好のチャンスを迎えていたが、そうしたチャンスをたった一枚のガセネタの「送金指示メール」が奪い去った。そればかりか、民主党は結党以来の最大の窮地に陥った。野田氏の後任である民主党国対委員長が、二転三転後にようやく決定をみたのは、月がかわった三月二日のこと。副議長経験者である渡部恒三氏の「異例の起用」となった。 問題発言を繰り返してきた永田議員  永田氏が国会議員として、いかに資質を欠く人物であったか。「送金メール事件」は、国民にわかりやすい形で知らせる結果となったが、この人物の過去の言動歴をたどってみると、さらに信じられないような人権侵害の事例を見つけることができる。その最たるものが、耐震偽装問題をめぐって阪神大震災の被害住民を、カネ目当ての「放火犯」扱いした事件であろう。  永田氏が確たる根拠もないまま、武部幹事長の次男を国会審議の場で「悪者扱い」したのと同様、この事件も、兵庫県内の被害住民を、国民の代表であるはずの「国会議員」が、なんの根拠もなく「犯罪者扱い」するという、およそ信じられないものであった。  ときは二〇〇五年十二月十八日。地元(千葉県)の国政報告会で、永田議員が耐震偽装問題に関連して、阪神大震災を話題にした場面で「問題発言」は飛び出した。  「もう一つの視点として、地震が起こって倒壊しましたと。地震保険は出るのかって言ったら、出るって。火事が起こって全焼しました。火災保険は出るのかって言ったら、出るっていうんです。そうするとですね、住民は火をつけたくてしょうがないんですよ。おかしいと思うんですよ。火をつけたほうが、地震になったほうが、結果的に得をするっていうのは、僕は制度としてはおかしいと思う」  「実際ですね、一部の話ではありますけれども、兵庫県で例の神戸地震が起こったときにですね。あの被害が少ないと激甚災害指定が受けられないので、みんなで火をつけてまわったんですよ。で、それで本当に激甚災害指定が取れたんですね。そうすると、再建する人の一〇パーセントの自己負担で再建ができるんですよ」(ゴシック=いずれも筆者)  当然ながら、こうした事実は全くない。当時、震災の現場では、炎が迫りくるなか、親の目の前で瓦礫の下敷きになって逃げられない子どもが「お母さん、もういいから、私を放って逃げて」といった悲劇が、いたるところで起きていた。関東の、震災の現実も知らない国会議員から、逆に、カネのために放火してまわっていたと断定的に発言されたと知ったら、遺族はどういう気持ちになるだろうか。  この「問題発言」は、翌二〇〇六年一月、あるスポーツ紙がスクープとして大々的に取り上げ、市民から怒りの声が上がった。その結果、神戸市長から永田議員に対し、謝罪要請がなされ、さらに兵庫県の民主党県議団からも、永田氏の発言に抗議の声が出た。そのため永田氏はこのとき、平謝りに謝る結果となった。  一方、この頃、民主党の当選二回の国会議員である馬淵澄夫氏が、耐震偽装問題の国会論戦において次々と新事実を暴き、仲間内のヒーローとなっていた。同党の若手議員の間では、「馬淵に続け」が合言葉になっていたという。それだけに「先輩格」である当選三回の永田氏には、焦りがあったのだろう。 起死回生の"挽回"を図りたい。そんな矢先、目の前に現れた「元週刊誌記者」の誇大妄想のネタは、永田氏にとって、新鮮で、信頼できる情報に映ったようだ。 「ガセネタ」を持ち込んだ情報提供者  結局、今回の「送金メール事件」の最大の責任が、「ガセネタ」を使って質問した永田議員本人にあり、さらにそれをチェックできなかった民主党にあることは変わりない。  永田氏は、情報提供者について、「私をだます動機は一切思いつかず、完全に信じ切った」と、懲罰委員会の「弁明」の中でも振り返った。二日後に行われた「質疑」では一転、一ヵ月以上隠してきた「実名」をようやく明らかにした。  西澤孝氏、三十二歳。一九七三年生まれの群馬県出身の男性で、高校を卒業後、米国に留学。オレゴン大学で一時期学んだというが、卒業した形跡はない。日本に帰国した後の九七年ごろから、『週刊ポスト』などの「専属記者」として仕事をするようになる。その後、週刊誌業界において、多くの「捏造ネタ」でトラブルを引き起こしたほか、彼の関わった複数の記事は裁判でも敗訴。業界から追放される格好となったため、やむなく自ら出版社を起こした。  永田氏自身の申告によると、二人が知り合ったのは、「爆弾質問」から四ヵ月ほどさかのぼる二〇〇五年十月。  新雑誌創刊のためのパイロット版で、西澤氏が永田氏本人を取材したのがきっかけだったという。  翌年一月末には、二人は東京・中目黒の焼肉屋で会食するなど、急接近した。問題の「メール」のコピーは、二月八日、議員会館において直接、永田議員に手渡された。すでにアドレス部分は黒塗りされており、このときの西澤氏の説明では、「(メールを持ち出したライブドアの)元社員は、(武部氏の次男に)振込みを実行した本人」ということだったという。こうして「爆弾質問」は、党幹部の了解を得た上、十六・十七日の予算委員会にセットされた。  永田氏は、「情報提供者」はライブドアを辞めたばかりでホテルに匿われていて直接は会えないという西澤氏の説明に納得し、「情報仲介者」と自称する同氏のことを完全に信じきっていた。永田氏は国対委員長の野田氏に対し、こう大見得をきったという。  「(情報仲介者は)長い間お付き合いした同志中の同志。自分の三十数年間の人生経験、人物観に照らして、この人がうそをつくようであれば、自分の全人格を否定するような話だ。全幅の信頼を置いている」  だが、それからわずか1ヵ月後、永田氏は懲罰委員会の質疑で次のように説明することになる。  「率直にいって(西澤氏に)だまされたと思っている。だまされたわけだから被害者だが、同時に加害者であることも間違いない。弁解することはないし、西澤氏に責任を転嫁するつもりもない」  永田氏にとって、国会で名を上げるはずの「爆弾質問」は瓦解。その後、前原代表の辞任に伴い、議員辞職を余儀なくされることになった。 ▼ガセネタ記者の犯罪1−−女子アナウンサーをめぐるデマ事件  すでに知られるとおり、「元記者」は、国会を混乱に陥れただけでなく、これまで多くの媒体でトラブルを引き起こしてきた。「元記者」が、どのような犯罪的行為を繰り返してきたか、具体的に検証してみたい。いずれも、謝罪広告という、メディアや政党にとっては、最悪の事態を招いた事件である。  まず、確認できる限り、「元記者」が自らのネタで裁判沙汰となったのは、『週刊現代』(一九九九年九月二十五日号)に掲載された三ページの特集「テレビ朝日新人美女アナは『六本木のランパブ嬢』だった」の記事が最初である。  このころ週刊誌上では、「女子アナブーム」に火がつき、各誌とも競ってこの種の情報を探し求めていた。この記事の内容は、女性アナウンサーがテレビ局に入社する以前の学生時代、六本木のランジェリー・パブ(風俗店)でこっそりアルバイトし、その金でハワイやグアムに頻繁に海外旅行をしていたというもので、記事には重要な裏付けとして、その学生の接客を受けたと称する「三十代前半の常連客」のコメントなるものが付されていた。  裁判記録などによると、「三十代前半の常連客」がこの記事の主要な情報源であり、その後、証人として出廷した社員記者(講談社)の証言によれば、「常連客」は、「海外留学の経験があるマスコミ関係者」であり、さらに「会社に社員として籍を置いているわけではない」立場の人間だったという。実はこの人物こそ、西澤氏本人と推定される。  結論をいうと、この記事で摘示された事実は、すべてがデタラメだった。  女性アナウンサーはこうした風俗店でアルバイトをした経験もなく、ハワイやグアムに旅行した経験も皆無。これらは過去のパスポートで完全に裏付けられた。  さらに、「常連客」が女性から接客を受けたという当時、学生だった女性は所属していた「劇団」の公演が追っており、主役の一人でもあったため、毎夜遅くまで練習に余念がなく、六本木でそのようなアルバイトをする時間など、物理的にありえなかった。  裁判ではこれらの証拠が次々に提出され、『週刊現代』側は窮地に陥る。  そこで同側から出てきたのが、「常連客」の手による「宣誓供述書」なる証拠だった。作成の日付は二〇〇〇年二月八日。  千代田区内幸町にある霞ヶ関公証人役場において、「常連客」と社員記者、講談社側弁護士、公証人が同席し、「常連客」が署名捺印して作成された文書である。 なぜこのようなことが行われたかといえば、「常連客」は名前を明かしたくなかった。そこで肝心の名前の部分は「黒塗り」にした供述書を作成し、公証人らが証人となって、本人の供述であることをわざわざ証明してみせるという書面だったのである。  「宣誓供述書」はB5判で八ページ。だが、「匿名」で書かれた書面の内容は、結論からいうと、ウソにウソを重ねたものだった。  内容をかいつまんで紹介しよう。「常連客」が学生時代の女性とランジェリー・パブで最初に会ったとする様子から、その後、店外デートを重ねるようになったことなどが具体的に記されている。「常連客」は、この女性とその後、たびたび、性的関係をもったなどと記していたが、これらは記事にも全く書かれていない事柄で、突き詰めると、これらの話も何の裏付けもない「デマ」だったことが後の裁判で明らかとなる。 前途有望な新人アナウンサーの人生を狂わす  供述書において、「常連客」は、最初に店で会ったときに、女性が「ユカ」という源氏名のほかに、本名を名乗り、携帯電話の番号まで教えてくれたと書いていた。通常この種のアルバイトを秘密裡に行っている女性が、初対面の客に、携電話番号を教えるかどうかさえ疑問だが、裁判において、その番号が、講談社側から証拠として示されることは最後までなかった。  もともとこの裁判は、女性アナウンサーが当時、その店でアルバイトをしていたかどうかという真実性が最大の争点となっており、それを立証するには、携帯電話番号を明示し、女性アナウンサー本人のものであることを証明すれば簡単なはずだった。もちろん、記事が真実で、「常連客」の供述が事実であるという前提での話である。だが、そうしたものは、『週刊現代』側からは最後まで、なんら明らかにされなかった。  さらに、「常連客」が、印象深いデートとして具体的に記述していた「九七年十月二十八日のデート」なるものがあった。「常連客」は、渋谷で女性と待ち合わせし、二万円の靴とインナーシャツを購入してプレゼントし、六本木の寿司屋で三万五〇〇〇円の食事をし、六本木交差点近くのホテルを利用したと書いていた。すべてクレジットカードで支払いがなされたため、カードの利用記録を問い合わせることで、日時が確定できたとも書いていた。  だが、この肝心の「利用記録」なるものも、証拠として提出されることは最後までなかったのである。さらに、編集部の担当編集者さえ、「記録」そのものを自分の目で確認していなかった。  要するに、もっともらしい具体的な主張がなされているものの、その裏付けとなるデータは裁判では全く提出されなかった。いずれも、「足」のない幽霊のようなものである。  さらに滑稽なことは、帰国子女でイギリスでも三年間の生活経験のある女性アナウンサーについて、「英語力がまったくといっていいほどなく、SOMETIMESを『ソメティメ』と発音していた」などと書いていたくだりであろう。この不自然さについては、判決文も厳しく指摘している。  結局、「常連客」は、実名を明らかにすることもなく(当然、証人として出廷することもなく)、記事だけでなく、裁判においても、虚偽事実を垂れ流し続けた。  そのせいか、一審判決(二〇〇一年九月)では、七七〇万円の損害賠償とともに、謝罪広告まで命じられるという、出版社側にとっては「最悪の結末」となった。当事者である講談社側は「控訴」することもなく、判決はそのまま一審で確定。あまりにもお粗末な取材内容であったことを認める結果となった。  『週刊現代』の「おわび」と題する謝罪広告は、十月十三日号の奥付部分に掲載され、記事内容が「事実無根」であり、「そのような事実は全くありませんでした」「記事をすべて取り消します」と、全面降伏の文面でアナウンサーに詫びることになった。  それにしても、なんたる「マスコミ関係者」がいたことか。捏造話で記事を作成させ、裁判になると自分の正体を現すこともなく、さらなる人権侵害のウソを垂れ流す。  いま振り返って検証すれば、今回の送金メール事件の「予兆」ともいえる事件であった。違いは、舞台が「国会」ではなく、「週刊誌」であったというにすぎない。  それでも、女性アナウンサーという、実害を受けた被害者(民間人)は存在する。入社一年目の前途有望だった新人アナウンサーが、職業人生を大きく狂わされてしまったのだ。  狂わされたのは、本人だけでなく、家族らも同様である。  筆者は、永田議員が「送金指示メール」の仲介者の実名を「西澤孝」と明らかにした翌日、東京郊外の女性アナウンサーの自宅を訪問した。母親とおぼしき中年女性が、インターホン越しに応じてくれた。  「もう、そのことで取材はお受けしたくありません。申し訳ありません。すいません」  消え入りそうな声だった。小型犬が窓際に寄ってきて、さかんに吼えていた。  わずかの賠償金と、ほとんどの読者が気付かない謝罪広告などで、事実無根の「報道被害」が償われることはない。  だが、「元記者」にとって、こうした事件は一度だけではなかった。 ▼ガセネタ記者の犯罪2−−清原和博事件  「元記者」の起こした問題記事で、たびたび取り上げられ、もっとも有名なのは、『週刊ポスト』(二〇〇〇年二月四日号)に掲載された四ページの「やっぱり! "虎の穴"自主トレ清原が『金髪ストリップ通い』目撃!」なる特集記事であろう。結論をいうと、「目撃!」という威勢のいいタイトルはついているものの、目撃した人間は実際には存在せず、「いつ」「どこで」「誰が」のうち、「誰が」が欠落した、典型的なガセネタ記事であった。  清原選手も、「本件記事は、真実の部分がほとんどない、全くのでっち上げ記事」と書面で指摘している。実際、自主トレの初期から、同氏の婚約者が行動を共にしており、その状況下で「ストリップ通い」など、ありえない話だった。  『週刊ポスト』の取材経緯を追っていくと、その杜撰な取材方法には驚かざるをえない。  ネタを提供したのは、いわずとしれた「元記者」。同氏は、自らオレゴン大学に留学した経験があり、同大でレスリング部に所属した経験があることなどをポスト編集部に売り込み、そうした人脈で得た米国在住の人物(匿名)から、確たる情報を得たと主張した。  だが、この記事を作成するにあたり、ポスト編集部は、清原選手が自主トレを行ったシアトルに、誰一人として記者を派遣していない。現地にいる「元記者の知人」なる人物から送られてきた「メール」が主な情報源だったという。だが、その肝心の「メール」自体、裁判で証拠として提出されることは、最後までなかった。要するに取材の詳細について編集部は関知しておらず、すべて「元記者」が正体不明の人物から得た情報によってつくられたデマカセ記事にすぎなかったことが裁判で明らかとなった。  つまり、この「問題記事」を取材したのは、「元記者」一人だけだったのである。  一方、担当編集者は小学館に入社して十年ほどの社員。「元記者」に対し、最初はかなりの信頼を寄せていたことが裁判記録からうかがえる。  「西澤記者も、仮にうそをつくような立場でもありませんので、これは非常に信憑性の高い話だということで……(以下略)」(陳述書)  「編集者の指示を、的確かつ期待以上の取材をしてくれる、評価できる記者というふうに思っておりました」(尋問記録)  考えてみれば、捏造すれば、編集者の指示どおり、あるいは期待以上の取材成果をもたらしてくれるのは当然のことであろう。  だが、肝心の裁判では、先のアナウンサー事件と同様、「元記者」は雲隠れし、証人として法廷に出頭することもなく、小学館は一審で1000万円の損害賠償の支払いと謝罪広告の掲載を求められるという「屈辱的な敗北」を喫した(二〇○一年三月)。これは、当時において、名誉毀損の最高額の記録を塗り替える新記録であった。 プロ野球の有名選手を激怒させる  実は、この裁判が起きた「後」に初めて、「元記者」はシアトルで現地取材するため、米国に飛んでいる。時期は二〇〇〇年三月二十一日から二十五日まで。このとき初めて、「元記者」はA、Bという二人の情報源に面談したと主張する。  記事掲載のための取材では、現地を訪れることもなく、裁判になったあと、初めて、現地取材にとりかかったというのである。まるで順序がさかさまだ。  裁判では、A氏は「元記者」がオレゴン時代に知り合った米国在住の三十代後半の日本人で、B氏は三十代の米国人。いずれも格闘技関係者だという。  両名とも、清原選手のストリップ通いに同席した人物と「元記者」は主張したが、裁判ではいずれも、「実名」や「所在場所」すら明かされることはなかった。つまり、ここでも、主張の根拠はなんら示されることはなかったのである。  「元記者」は二〇〇〇年の訪米取材で、B氏の案内で「ホット・ホット・シリー」という名のストリップーバーに行き、「店員」に聞いたところ、「清原は間違いなく三回来た」旨の証言を得たとし、さらに同店のホステスもその旨証言したと、四月十四日号の続報記事でも記載していた。だが、これらも「ガセ」であった。  裁判で、このときの「取材なるもの」の実態はなんら明らかにされなかったからである。ストリップーバーで取材した内容やテープなどの物証は、法廷には一切提出されなかった。そのため、「元記者」の自作自演であった可能性が高い。  通常、名誉毀損の裁判になって、追加取材する場合、裁判に提出するために必ずテープやMDなどで録音するか、あるいは弁護士が同行するなどするものだが、なぜかこのとき、小学館は、「元記者」一人を取材に行かせている。そのため、「元記者」はこのときも自己に都合よく、事実を捏造し、被害をさらに拡大させた疑いが強い。もともと「元記者」は、最初の情報はA氏から電子メールで寄せられたと主張していたが、肝心のその「電子メール」が「物証」として法廷に提出されることもなかったのである。  かわりに提出された。物証は、次のような摩詞不思議なA氏との「事後」の第1章「騒動」やりとりのメールである。肝心のAという固有名詞の部分は「黒塗り」されており、今回の「送金指示メール事件」を連想させるものだ。「西澤より」と題する、二〇〇一年五月二十三日付(一審敗訴後まもない時期)のメールである。          ◇    ◇    ◇  (以下原文のママ)  ■■さま  西澤です。大変御無沙汰しております。清原の件では、善意で御協力して頂いたのにも関わらず、多大な御迷惑をおかけいたしまして失礼致しました。重ねてお詫び致します。  御存知かと思いますが、清原の件は訴訟で清原側か勝訴致しました。「ポスト」サイドの一方的な敗訴です。裁判に私もできる限り、また■■さんに、迷惑のかからない範囲で情報を提供をしていたのですが、結果が出た途端、今まで一緒に仕事していた仲間はおろか、弁護士や編集部までからも、「あれは西澤の捏造だ」と決めつけられ、今ではそれがいかに事実であるかのようになっています。  負けた途端、私だけに責任をなすりつけたのには正直僕も納得がいきません。■■さんを特に怒らせた2回目の記事などは、編集部が勝手に進めたことなのですが、その責任まで私に被すのは、本当にどうかと思っています。  そこまで私も色々言われているので、控訴した現在は協力して一緒に闘う必要などないと思うのですが、あまりにも好き勝手に言われている現状が面白くないので、今は裁判で少しでも私の言い分か認められればと思い、裁判に協力しています。  本当に勝手な言葉ばかり並べて、私からのメールなどは見たくないでしょうが、無理と不快を承知で再度お願いさせて頂けるのであれば、」■■さんにも再度裁判への協力をお願いできませんでしょうか? よろしくお願い致します。  ■■さんとの約束は自分の立場が、例え今後さらに悪くなっても絶対に守ります。お返事お待ちしております。  西澤拝          ◇   ◇   ◇  一方、この私信への返事は、十日後の「六月三日」付で返信されてきた、という。タイトルは「Re:西澤より」というものだが、肝心のA氏のアドレスは、黒塗りにされており、「自作自演」の疑いも残る。          ◇    ◇    ◇  西へ  お前はいつも困ったばかりメールしてくるけど、この件はもうおわったんだろう?  ■■さんと清原さんの関係もあるし、無理だから。  ■■も■■も呆れていたぞ。■■さんだって、俺とお前の関係を薄々とは気付いているんだから。書いたのはお前なんだから、自分で何とかしてくれ。  ■■より 「元記者」は、裁判対策のために翌二〇〇一年四月にも再度、渡米している。このとき初めて、担当編集者も同行した。この調査で、肝心のA氏はつかまらなかったというが、もともとA氏という人物が存在したのかどうかさえ、疑問に思われて仕方がない。  このメールの作成者を、最後まで明らかにしなかったのは、今回の「送金メール事件」で永田議員に最後までその作成者を明らかにしなかったのと、まったく 同様の手口である。  ウソには「誰が」という主語がない。主語が明らかだと、逆に検証を受け、ウソのからくりがばれてしまうからだ。  この裁判の二審では、「元記者」自身のメールにもある通り、「元記者」がようやく出廷(二〇〇一年十月三日)し、損害賠償額は六〇〇万円に減額されたもの、謝罪広告の命令は変わらなかった(二〇〇一年十二月)。『週刊ポスト』の清原和博氏に対する謝罪文は、二〇〇二年二月一日号の、まったく別の記事の本文中に、努めて目立たないような形で小さく掲載された。「この記事は、見出しを含めて、重要部分が事実ではありませんでした」。  つまり、わずか四ヵ月の間に、同一の「元記者」が流した捏造話が原因で、二つの週刊誌が謝罪広告を出したのである。おそるべき「記者」というほかあるまい。  「元記者」はこのほかにも、多くの問題記事を手がけてきた。『女性セブン』(二〇〇〇年九月十四日号)に掲載された、「K−Iグランプリ」の覇者として著名な格闘家の死をめぐる「日本人妻との一問一答」なる記事もそうである。この「一問一答」の内容自体、創作であり、捏造とされている。二〇〇三年には、中小出版社の笠倉出版社が創刊した『リアルマガジンン』という実話系月刊誌に悪質な捏造ネタを掲載させ、スポーツ紙四紙に謝罪広告を掲載させる原因ともなった。問題となったのは、パ・リーグのプロ野球球団(オリックス)の選手が都内のホテルで若い女性を強姦したという記事で、同年五・六月号に連続掲載されたが、球団側は事実無根として直ちに出版社を提訴。出版者側は何ら証拠を示すことができず、謝罪広告と賠償金の支払いを行うことで裁判を終結。結局、「元記者」が取材したと主張していた「被害者」なる女性も、裁判所はおろか、記事を掲載した編集部でさえ最後までその存在を確認することはできなかった。  『リアルマガジン月刊ルパン』は創刊から一年も待たずに廃刊。この雑誌も、「ガセネタ記者」の犠牲者といえよう。 ▼ガセネタ記者の犯罪3−−送金メール事件  このように「ガセネタ」を商いの道具とする常習犯の「元記者」に、野党第一党が見事に騙されるという異常事態がなぜ起きたのか。結論すると、「爆弾質問」まで野田国対委員長や永田議員など、ごく少数の仲間内だけにしか情報が明らかにされず検証されなかったためである。 政界を混乱させ、四度目の謝罪広告  すでに民主党は、三月十五日付で、朝日、毎日、読売、産経、日経の全国五紙と武部氏の地元紙である北海道新聞に謝罪広告を掲載した。これで、「元記者」のからむ通算四回目の謝罪広告となったわけだ。  その「元記者」である西澤氏は、衆議院懲罰委員会で四月四日に証人喚問されることが決定されていたが、「元記者」の証言をおそれたのか、民主党は三月三十一日、前原代表ら執行部が総退陣するとともに、永田議員も議員辞職を宣言。懲罰の必要性がなくなり、元記者の証人喚問も立ち消えとなった。  同日、民主党「メール」問題検証チームがまとめた報告書では、「元記者」が、永田議員に対し、メールが記録されているハードディスクを売買する話をもちかけていた事実も明らかになった。その際、永田議員や野田国対委員長は、「一〇〇〇万円程度なら用意できる」旨の会話を交わしていたことも明るみに出た。  実際は、党顧問弁護士のアドバイスで、金銭のやりとりはなかったと報告書は結論づけているが、国会対策費などの名目で、「元記者」に対し、約一〇〇万円の情報見返り料が支払われたとの指摘は根強くある。民主党はこれらの疑惑を否定し続けているが、「元記者」が口を開かない限り、真相は永久に闇の中だ。  「ガセネタ記者」の典型ともいえる西澤氏だが、本書の主人公である乙骨正生も、大なり小なりこれらと類似する問題を引き起こしてきた。次章以降をお読みいただくことで、二人の共通点を十二分にご理解いただけるはずである。 第2章 「捏造」 二人の「ガセネタ屋」の共通点 〈共通点その1〉裁判で何度も断罪  前章で、西澤氏が関わった取材記事をめぐって、過去三度にわたって出版社が訴えられた裁判で完敗したことを紹介した。一方、乙骨正生も、裁判での敗訴は西澤氏以上である。すでに敗訴が確定したものだけでも、これまで四件が断罪されている。  裁判とデマの詳細はあとに譲るとして、ここでは簡単に乙骨の"敗訴歴"のみを列挙してみよう。 1 北新宿「地上げ」デマ事件  「創価学会が北新宿で地上げ」などとする『週刊新潮』のデマ記事に実名で寄せたコメントについて、「軽々に誤信したものにすぎず、被告乙骨の故意又は過失は否定されない」(判決)と断罪され、賠償命令が最高裁で確定(二〇〇二年一一月) 2 北海道墓苑デマ事件  北海道での墓苑建設をめぐって、「創価学会が裏金をつくった」などとするデマを公言。学会側から訴えられた裁判に敗訴し、賠償命令を受ける。上告断念により、東京高裁で敗訴確定(二〇〇三年一月) 3 「身延の脱税」をめぐるデマ事件  自らが発行人をつとめる雑誌『FORUM21』で、身延山久遠寺支院の元別当が脱税で告訴された事件について、あたかも創価学会が裏で仕掛けたかのように中傷。学会側から訴えられた裁判で敗訴。賠償命令が最高裁で確定(二〇〇三年十一月) 4 N・ラダクリシュナン博士デマ中傷事件  雑誌『FORUM21』で、インドの平和運動家N・ラダクリシュナン博士について、事実無根の中傷を行い、博士側から訴えられた裁判でも敗訴が確定(東京地裁、二〇〇三年十二月)。  西澤氏は今回の「送金メール事件」で事実上マスコミ界から追放されたから、彼の敗訴記録がこれ以上伸びることはあるまい。それに対し、乙骨はいまなお一部週刊誌などに頻繁に登場しており、今後も敗訴が増えることが予想される。  実際、今年の五月十五日に判決が予定されている裁判でも、乙骨が敗訴する可能性が高い。敗訴すれば、じつに五件目となる。まがりなりにも「ジャーナリスト」を名乗る者が、わずか四年の間にこれほどデマで断罪されてぎたのは、前代未聞のことだろう。 〈共通点その2〉コメントや事実を「捏造」  「火のないところに煙は立たない」というが、西澤氏や乙骨のような「ガセネタ屋」は、火のないところにも煙を立てる。相手が全く言っていないコメントを捏造したり、根も葉もないごとを捏造したりということが、平然とできるのだ。  西澤氏が行った主な捏造の事例は、前章で列挙した通りである。一方、乙骨の捏造も枚挙にいとまがない。先に挙げた四件の敗訴はいずれも乙骨のデマが断罪された事例であるし、それ以外にも、記事中のコメントを捏造し、取材相手から抗議を受けるなどしたことが多いのだ。 しかも特徴的なことは、二人とも、海外記事の場合に、あからさまな捏造が目立つということだ。「海外ものなら、捏造を行ってもバレにくい」という計算が働くのであろうか。  乙骨が行った捏造の具体例については、後述する。 〈共通点その3〉狭い分野で専門的に活動  西澤氏と乙骨は、いずれも、特定の狭いジャンルで活動してきた。西澤氏が格闘技・スポーツ界と芸能界をフィールドにしていたのに対し、乙骨の活動は創価学会批判の分野にほぼ限定されている。  もちろん、ライターが専門分野をもつことそれ自体はなんら悪いことではない。しかしこの二人の場合、「格闘技に詳しい」「創価学会に詳しい」ということを、ガセネタで商売するためのいわば「看板」としている点が問題である。  とくに乙骨の場合、「ジャーナリスト」を自称してはいるものの、実質は職業的学会批判者、すなわち「"学会批判"でメシを食っている」輩なのである。しかも、乙骨は元創価学会員であり、その学会批判には"脱会者の逆恨み"という側面がある。中立公正を旨とすべきジャーナリストとは、到底呼べないのだ。 〈共通点その4〉政党にすり寄り、政界を混乱させる  四つ目の共通点は、政党にすり寄ることである。  西澤氏がガセネタを使ってまで民主党に取り入ろうとしたように、乙骨も、日本共産党や民主党にすり寄り、影響力をもとうと目論んでいる。また、十年ほど前に自民党が創価学会攻撃の動きを強めていた時期には、乙骨は自民党議員たちの勉強会で「講師」を務めるなど、同党にすり寄る動きを見せていた。要は、その時々に創価学会と対立している政党にすり寄るのが、乙骨のやり方なのである。  西澤氏のガセネタは日本の政界を大混乱に陥れたが、かつて乙骨も、デマ情報を使って政党をけしかけ、国会を無用の混乱に巻き込んだ"前科"がある。それは、『週刊新潮』による捏造報道で名誉を傷つけられた白山信之さんという一市民が、その記事をネタにした国会質問によって、さらに深く人権を侵害された事件である(第3章で詳述)。  「送金メール事件」について民主党側か発表した報告書では、西澤氏が"自分の妻を民主党から立候補させられないか"と打診していた事実が明らかになり、世間を呆れさせた。一方、乙骨も、かつて民主党に対して自らの立候補を打診し、けんもほろろに断られたことがある。 下調べもしない 「学会への邪推」でメシを食う  ここからは乙骨がいかにいいかげんなデマを撒き散らしてきたか、その具体例を並べていこう。それによって乙骨こそ「元祖ガセネタ屋」であるという意味が分かっていただけると思う。  乙骨の書き手としての"売り"は、「創価学会に詳しいこと」である。実質はどうあれ、彼を学会批判記事に起用してきた週刊誌の編集部などは、そう評価しているはずだ。  だが、「創価学会に詳しい」はずの乙骨が、学会員なら誰でも知っていることを実は知らないのである。  具体例を挙げよう。『週刊新潮』二〇〇四年十月十四日号に、「『聖教新聞』で信心をカミングアウトした『桜金造』」という記事が載った。  タレントの桜金造氏が、「聖教新聞」に学会員として登場したことをとらえ、"これまで学会員であることを公にしてこなかった彼が「聖教新聞」に登場したのは、何か理由があるのではないか"と邪推してみせた記事である。  乙骨はこの記事に寄せたコメントの中で、"来年早々には北九州市で市議選、夏には東京都議選も予定されている。学会としては、この二つを重要選挙と位置づけており、桜金造の聖教新聞登場は、それに向けての布石"と、訳知り顔で解説してみせた。  だが実は、桜金造氏が「聖教新聞」に登場したのはこのときが初めてではない。その数年前から何度も登場しており、氏が学会員であることは、大半の学会員が知っている周知の事実なのである  たとえば、「聖教新聞」二〇〇一年十月十三日付では、「友だちトーク2001」と題された対談コーナーに、桜氏とあご勇氏が登場している。そして、七面の半分ほどを使った大きな扱いのこの記事で、桜氏は自らの信仰について語っているのだ。 要するに、二〇〇四年になって初めて桜氏が「信心をカミングアウト」したとうのは、『週刊新潮』と乙骨の誤報だったのだ。  乙骨が週刊誌の学会批判記事にコメンテイターとして"重用"されるのは、編集部が望むとおりの邪推コメントを提供してくれるからでもある。しかも、そのコメントには、たいていの場合、邪推以上の根拠はない。最低限の下調べすらしないまま、ただ邪推しているのだ。  桜金造氏についてのこの記事が、その典型例である。「『聖教新聞』で信心をカミングアウトした『桜金造』」という記事を作るなら、それ以前に桜氏が「聖教新聞」に登場しているかどうかくらい確認するのは当然である。それさえ行っていないのだ。 取材相手のコメントを「捏造」  一九九五年一月一・六日号の『週刊ポスト』に、「池田大作の長男がスペインでやっていたこと」という記事が掲載された。この記事は乙骨本人の署名入りである。  記事の冒頭は、こう始まる。  「『寄付をするから池田大作名誉会長になんらかの称号を与えてほしい』−−長男である博正副会長は、スペインの大学に対し、そう求めたという」  「という」。これこそ乙骨お得意のフレーズである。「といわれる」「と囁かれている」「と語られている」−−そんな「噂話」や「怪情報」を冒頭に置いて駄文は始まる。乙骨の常套手段である。  そして記事中には、荒唐無稽のデマ話に何とか真実味をもたせようと「関係者」「元学会員」といった正体不明の証言者を仕立て上げる。さらには、反逆者・脱会者の実名コメントを並べて、記事に何とかハクをつけ、説得力をもたせようとするのである。  この記事にしても、実名で出てくるの、野口信之なる脱会者に、あの極悪ペテン師の山崎正友。しかし、この人物たちの素性を知れば、説得力などカケラもないことは一目瞭然だ。  山崎正友といえば、弁護士でありながら、恐喝事件を起こし、懲役三年の実刑判決を受けた元服役囚。裁判の判決文ではその供述を、五十ヵ所以上にもわたって「信用できない」と断罪された男である。  スペインのアウトノマ大学に、寄付の見返りとして名誉称号を要求したかのようにコメントしている野口というのも、かつてスペインSGI(創価学会インタナショナル)の理事長を務めながら、女性問題を起こして、会員から総スカンを食らい、組織にいられなくなった人物。こんな類の人間の話を真に受けるほうが、おかしいというものである。  当然のことながら、こんなバカげた話は、アウトノマ大学からも、学会や創価大学からも、一度も交わされていなかった。  さて、この記事には、もう一人、実名で登場する人物がいる。「ホアン・マーチ財団の渉外部長」と記されたホセ・カパ氏である。  乙骨が書いた記事に、脱会者などの「反学会」以外の実名者が出てくることは、非常に珍しい。本当に取材したのかと思いきや、なんと乙骨は、この人物のコメントそのものを「捏造」していたのである。  そもそも、「渉外部長」なる肩書自体が、すでに間違い。カパ氏は「美術局長」である。渉外担当という意味では、別に広報局長が実在する。のちに触れるが、乙骨は直接、カパ氏に取材し、話を聞いている。取材相手の「職責」など、その場で確認すればわかること。これだけでも、乙骨がいかにいいかげんな男であるかは明白である。  では、乙骨はどんな。"取材"を行ったのか。  くだんの記事が掲載された『週刊ポスト』発売の二ヵ月前、スベイン・マドリードでは「日本美術の名宝展」が開催されていた。この展示を、東京富士美術館と共催したのが、ホアン・マーチ財団。スペイン最大の文化団体である。  さて乙骨、スペインの脱会者・野口を連れて、この展覧会の"取材"に出向いた。そして展示会場のホアン・マーチ財団本部を突然、「アポなし」で訪ねたのである。  だいたい、スペインを代表する文化団体に、何の事前連絡もなく取材に行くこと自体、取材マナーに欠ける。乙骨の常識のなさを物語って余りあるが、この男の奇行は、なおも続く。  急な来客に驚いた受付係は「日本人が来ているので、応対してほしい」と連絡を取った。それが、カパ氏であった。カパ氏は、日本から、わざわざ来てくれたのだからと、多忙ななかを展示の案内に立った。ところが、この常識外れの日本人は、自分の名刺を出そうともしない。それどころか、話もろくに聞かず、「展示の資金は、どこから出ているのか」「学会と財団は、どういう関係なのか」と、不躾な質問を繰り返してきた。  カパ氏はこのとき、次のように明確に答えている。  「東京富士美術館ならびに創価学会と我が財団は、素晴らしい友好関係にあります。提供してくださった作品も超一流、派遣してくださったスタッフも第一級の方々であり、心から感謝している」  ところが乙骨は、その答えに何度も不満そうに首をかしげながら「本当に、そうなのか」「そうじゃないでしょう」と繰り返した。  その無礼な態度に呆れたカパ氏は、さすがに「我々には、あなたのような人の質問に答える義務はない」と言い、そこで「名刺をください」と改めて迫ると、乙骨は、やっとのことで名刺を出し、「『週刊ポスト』の記者」と名乗ったという。  乙骨は、学会を高く評価している財団から、学会の批判を引き出すのは無理だと観念したのだろうか。はたまた自分たちの素性が、これ以上バレると、まずいと思ったのか、質問を打ち切った。そして、すごすご逃げるように帰っていった−−これが、乙骨の"取材"なるものの顛末である。  アポイントもなく訪れて、不躾な質問を繰り返す。相手の回答も聞こうとせずに、自分の思惑通りの答えを引き出そうとす。ジャーナリストの世界では、これを。"取材"とは呼ばない。"詐術"である。  ところが乙骨は、これだけの "取材"で、デマ記事を書き上げるのである。  この"取材"のニカ月後、くだんの『週刊ポスト』の記事が掲載された。問題となるカパ氏の発言は二ヵ所である。  一ヵ所は「(学会側か)当方と接触したのは、空港到着時とセレモニー前後のわずかな時間だけ。というのも、こちらが用意していたさまざまな歓迎行事をすべて不要と断って、姿を消してしまったからなのです」というもの。あたかも「雲隠れ」をして、称号を得るために大学との"裏交渉"か何かにあたっていたとでもいわんばかりの発言である。  ところが実際は、「姿を消した」どころか、打ち合わせや会食会など、毎日のように準備されており、すべての行事に、学会・東京富士美術館の関係者は全員、出席していた。行事日程など、まともな取材をすれば、すぐ分かることだ。  さらに、もう一つの発言。「準備段階で、創価学会側から、スペイン国王をはじめとするエスタブリッシュメントや、大学などのオーソリティを紹介してほしい、その窓口になってもらえないかとの相談を受けたのです。しかし、私どもは文化交流を進めるのが仕事で、取り次ぎ屋ではない。そうしたことは日本大使館に相談したらどうですかと、お断わりしました」と。  この発言についても、カパ氏は明確かつ完全否定している。 国を超えての文化交流の展示会である。オープニングの儀式に、スペインを代表する来賓を招待するのは当然のこと。その際、共催団体であり、スペイン最大の文化団体である同財団に、出席者や招待者について相談するのは、むしろ常識といえる。  まして「取り次ぎ屋ではない」とか「お断わりしました」といったやり取りなど、あるはずがない。事実無根のコメントを捏造されて、カパ氏が怒ったのも当然のことであった。  この記事について、カパ氏は『週刊ポスト』編集長ならびに出版元の小学館社長宛に、すべての内容訂正を強く求める抗議書を送った。  その抗議書には「私の発言を意図的に捏造した内容に関して、断固として、全面的に否認(拒絶)せざるを得ません」とある。  さらには東京富士美術館と同財団の極めて友好的な関係について詳述した上で、「私としては、上で述べた本展や東京富士美術館について協力関係以外に他の如何なる事も思い浮かびません。従って、自分が思いもしない事について述べることなど、一切、できるはずがない」と、記事が、すべてウソであることを断言しているのである。  要するに「はじめに結論ありき」。乙骨は、取材する前に、はじめから「ウソを書く」と決めていたのである。 「怪しい」「おかしい」その「結論」を書きたいがために、それに見合った情報が欲しいだけ。事実を知り、真実を見極めるという本来の「取材」とは、ほど遠い。  しかも今回のように、取材相手が、自分の意のままの発言をしてくれなかった場合−−つまり、書こうと思っている結論にかなう情報を探し出せなかった場合は、平気で取材相手の発言まで捏造するわけである。 取材もせずにコメントを「捏造」  乙骨が実在の人物のコメントを捏造したのは、これが初めてのことではない。  一九九四年十月十四日号の『週刊ポスト』に、「金ピカトイレの『池田ハウス』」なる記事が掲載された。  アメリカSGIがロサンゼルス周辺に所有している不動産について、取得方法や取得資金に、大きな疑惑があるかのように書き立てたものであった。  この記事では、まず仮名の「元支部長」に、マリブ研修所に「会員が絶対に立ち入ることができない"池田ハウス"があります」などと語らせる。ところが、この前提からして、まったくの「捏造」である。  同研修所には。"池田ハウス"などという名の建物はない。あるのは「マリブ研修所本館」と、これに隣接する「研修道場」だけ。いずれも、現地メンバーが各種会合を行ったり、日本および各国からの研修メンバーが利用しているものであり、特殊な建物などではない。  そして大見出しにもなっている「金ピカトイレ」云々の証言者は、これまた匿名の「脱会した男子部元幹部」。その得体の知れない人物は、次のようにまことしやかに語っている。  「池田ハウスに入ったのは、後にも先にもあの時一回きりですが、トイレが豪華だったことはよく覚えています。ドアの取っ手や蛇口はノブではなく、金持ちが使うハンドルタイプ。しかもすべて金貼り。また、トイレの床には分厚いじゅうたんが敷かれていました」  さらに、こんどは実名でスティーブ・ゴアなる人物が登場。乙骨が書く記事の「方程式」通り、「実名」で登場するのは、ここでも「脱会者」である。  このゴアなる人物、研修所についても「(内装には)最高級の檜材をふんだんに使い」「露天の岩風呂」「ベッドは金ピカのパイプでできたキングサイズ」などと、見てきたようなウソを並べ立てている。  現実はといえば、研修所の管理人は、次のように明確に証言している。  研修所内の建物の中には、ハンドルタイプになっている取っ手や蛇口のものもある。  しかし、それも「一九七〇年代から普及しだした、ごく一般的なタイプ」。それも「金貼り」などではなく、現物は「真鍮製」。さらにトイレの床のじゅうたんは、アメリカの一般的家庭のバスルームでは、ごく当たり前の「ただのマットにすぎない」。  さらに建物の内装も「最高級の檜材を使うどころか、あまりに安物のベニア材だったので苦情が出た」「ベッドは、ありふれた木製」「風呂は露天になったことなど一度もない」−−つまりは、ことごとくが「大ウソ」だったわけである。  乙骨の記事の進め方は、先のスペイン云々の文章と、まったく同じである。まずはデマの噂話を頭に置く。それで、得体の知れない匿名コメントや、脱会者のコメントで真実味を装う。  そして、この記事の中で「スティーブ・ゴア」なる脱会者以外に実名のコメントを寄せるのが、一番、最後に登場する「ロサンゼルス・タイムズ」紙の記者、ジョン・ダーツ氏である。  乙骨は、このウソにウソを重ねたデマ記事の最後を、なんと、あくどい「捏造のコメント」でしめくくる。  記事中、ダーツ氏は「創価学会が日本で問題のある宗教として話題になっている」かのように、学会について批判的な声を寄せたことになっている。  ところが、この記事が掲載された直後、ダーツ氏は、乙骨からも、『週刊ポスト』からも、取材されたことは一切ないことを告白した。そして「こんなことを話した覚えはない」と、乙骨の文章が、完全なる捏造であることを証明する本人の署名入り文書が届けられたのである。  ジョン・ダーツ氏は「ロサンゼルス・タイムズ」の宗教欄担当記者。七〇年に一度、アメリカSGIについて、記事を書いたことがあるが、それも決して批判的なものではない。  ダーツ氏が記した文書の説明によれば、記事の出る数週間前、日本人女性から電話があり、コメントを求められたという。でもその時、「私は日本で創価学会が、どのように言われているのかなど、コメントしていません」と明確に証言している。  さらにはダーツ氏にコメントを求めた女性と乙骨との間で、勝手にコメントがつくられたのであろうと推測する。  いずれにしても乙骨は、ダーツ記者に取材もしていなければ、記事を書いた後、そのコメント内容の確認もしていなかったわけである。  ホアン・マーチ財団のホセ・カパ氏しかり「ロサンゼルス・タイムズ」紙のジョン・ダーツ氏しかり。一応の取材をした体裁を取りながら、まったく違うコメントを捏造する。場合によっては、取材すら面倒くさがって、勝手にコメントを捏造する。  しかも乙骨は、スペインにも、ロサンゼルスにも足を運んでいる。すでに海外を飛び回るだけの取村費は貰ってしまった。無理があろうが何だろうが記事をデッチ上げて、「アリバイづくり」に精を出しているのである。これは仕事ではない。取材にかこつけての「観光旅行」である。  日本で捏造記事をつくれば、すぐにバレる。そこで海外へ行って、デッチ上げ記事を書き殴ったのであろう。  また、日本の週刊誌記事など、当人が目にすることはないと、タカをくくっていたのだろう(この点も西澤氏を彷彿とさせる。第1章で紹介したとおり、西澤氏も、米シアトルを舞台にした清原和博選手に関するデマ記事で、大胆不敵な捏造を行っていた)。  だが、世界的に恥をかくのは、こんな男を使う週刊誌であり、発行元である。この二つの事件で小学館も少しは懲りたのか、『週刊ポスト』への乙骨の「署名入り記事」は、翌年以降、現在に至るまで、たった1回しかない。  ただし、使い勝手のいい「コメント屋」としては、たびたび登場させている。だが、週刊誌各誌は、こんなデタラメな男を使う危険性を、もう一度、よくよく考えたほうがいい。 「黒道記者」乙骨正生 乙骨が騒いだデマは、アジアでも糾弾された。  一九九九年七月号の『諸君!』には「池田大作創価学会名誉会長が『石原包囲網』で暗躍」なる記事が掲載された。  石原包囲網の「石原」とは、同年四月、東京都知事に就任した石原慎太郎氏のこと。石原氏といえば、中国に対する問題発言で、中国政府の神経を逆なでしてきたことは、つとに有名だ。  それにかこつけて乙骨は、中国政府と学会が、あたかも石原氏に対する包囲網をつくっていると、愚にもつかない妄想をめぐらしているわけである。  その根拠はといえば、石原新都知事が誕生した翌日、東京都港区の中国大使公邸に、池田名誉会長と秋谷会長が表敬訪問したという、たった、これだけのこと。中国大使公邸訪問については、翌日付の「聖教新聞」にも掲載されているが、大使が着任した時に学会側か招待したことに対する返礼の意味で、偶然、日程的に都知事選の翌日にあたっただけのことである。  しかし、ここから、乙骨の偏った頭の中では、例のごとく「邪推」が始まる。乙骨は筆を走らせる。「会談の真の目的は別にあったようである」。これまた、得意の「ようである」である。  その後、登場するのは、「元創価学会広報担当幹部」なる、またまた得体の知れない人物。  「石原氏は、創価学会と中国にとって"共通の敵"なのです。この時、中国側は池田氏を通じて、いち早く日本に警告を発すると共に、都議会でキャスティングボートを握る公明=創価学会と連携して対石原包囲網を形成したい意向を示したようです。この会談は、そのためのセレモニーに他ならない」  見出しに躍る「石原包囲網」の根拠は、この誰かも分からない、何の裏付けもない「匿名コメント」だけ。これだけで乙骨は、「石原包囲網」云々の記事をデッチ上げたわけだ。 この記事については、在日中国人向けの華字紙「中和資訊」が、九九年九月一日付で、乙骨を「黒道記者」、つまり「ブラック・ジャーナリスト」と大見出しを掲げて、糾弾の声を上げた。見出しの全文は「中国大使を誣告報道したブラック・ジャーナリスト乙骨正生」である。  そこには、次のように糾弾の言葉が並んでいる。  「いい加減な取材と、匿名のコメントによる、このような中国に対する屈辱的な言辞を中国政府は許してはならない」  「乙骨というジャーナリストは、自分の意図するところに無理矢理、話をもっていこうとしている。これはマスコミ人としては、絶対にやってはいけないことである」  「『創価学会と共闘』などというのは、乙骨氏の邪推である。べつに中国は、そんなことをしなくても、ストレートに中国外務省を通して石原氏の発言に対して反応している。池田名誉会長らの訪問は、ただの表敬訪問と聞いている。それを何の根拠もなしに邪推して、さも何かを共謀しているかのような書き方をすることは失礼だし、許し難いことだ」  「マスコミ人なら事実のみを語り、意図的に話をつくってはいけない。恥ずかしいことである」  この「中和資訊」は、日本だけでなく、中国、香港、台湾、東南アジアにも多くの読者をもつ新聞である。その論調も非常に明快。「いい加減な取材と、匿名のコメント」「自分の意図するところに無理矢理もっていく」「邪推」「意図的に話をつくる」−−すべて、乙骨の仕事ぶりを鮮明に表している言葉ではないか。 「コメント屋」としても捏造を濫発  先にも述べたが、乙骨が「署名記事」を書かせてもらえることは珍しい。メインの仕事は週刊誌に「コメント」を出すことである。  そのコメントも「そう見ています」「だそうです」「なるでしょう」と「感想」を書き連ねるだけ。つまりは「編集の意図に沿って、何でも言います」という、体のいい「ウォッチャー」「覗き屋」である。  その「覗き屋」を最も重用しているのが、『週刊新潮』であろう。同誌の学会攻撃記事には、必ずと言っていいほど乙骨が登場している。  かつて、『週刊新潮』に悪質なデマ記事が載った。  池田SGI会長が撮影した写真について、「学会ウォッチャー」なる人物に、「あれは担当のカメラマンが行動を共にしていて、池田氏がシャッターを押すと、大体、あの方角にカメラを向けたと想定して、ほぼ同じ目線で撮影しているのだと聞きました」などと語らせている、荒唐無稽なデマ記事である。  いまや、池田会長が著名な「写真家」でもあることは、創価学会員ではなくとも、周知の事実である。  池田会長の撮った写真の展示会である「自然との対話」写真展は、国内はおろか海外三十六力国・地域、八十五都市でも開催されている(二〇〇五年九月現在)。さらに、池田会長には、写真に対する数多くの賞も授与されている。  一九九一年には、「オーストリア芸術家協会」から、同協会最高位の「在外会員証」が、日本人で初めて贈られた。  九四年には、中国の「新疆シルクロード撮影協会」から「名誉主席」の称号。  九八年三月には、「写真文化発祥の地」にあるフランス「ヴァル・ド・ビエーブル写真クラブ」から「名誉写真芸術会員」。  九九年七月には、ハンガリーの"学術・芸術の殿堂"である「タルシャルゴ協会」から、第一号の「在外名誉会員証」が全会一致で決定。  さらに同年十月には、シンガポール写真家協会が、外国人初の「終身名誉会員証」を授与。  二〇〇二年六月にも、「マレーシア写真協会」から「上級名誉会員」の称号。  二〇〇五年八月、プーミポン国王後援の「タイ写真協会」から「名誉会員」称号。  二〇〇五年十一月「ネパール写真家協会」から「終身名誉会員」第一号に。 「赤毛のアン」の作者モンゴメリ研究の第一人者であるエリザベス・エパリー博士は池田会長の写真を評してこう述べている。 「その写真は燦々たる光彩をもって、私たちに語りかけます。それはエネルギーに満ち、生命力に溢れ、閃光に輝いています。そして、その輝きは創造的な輝きです。その光を受けて、あらゆる良き可能性が生い立つような輝きなのです。まさに、これこそが、生命の本質を写したものといえます」  このように、池田会長の写真の功績は、世界から賞讃を受けているのである。  日本写真家協会の会長を務めた三木淳氏も、池田会長の写真を、高く評価する。  「数多くの作品を拝見して私か痛感したのはこれは指導者の写真作品であるということだ。被写体に単刀直入にレンズを向け、その内容を適確に把握し、その表現にはいささかのおもねりもなく正々堂々毅然としたシャッターをきられた作品は偉大な指導者池田大作の全人格が出ていると思う」と、讃嘆の声を寄せている。  これだけの写真芸術を「ニセモノ」呼ばわりするからには、それ相当の根拠が必要であろう。ほかのカメラマンが撮っているところを見た人間がいるのか。それは、いつ、どこでのことなのか。  ところが問題の記事は、出所の怪しい匿名コメントを並べ立てて、作り話を展開しているにすぎない。「いつ」「どこで」「誰が」の事実的根拠が一切ない、典型的なデマ記事なのである。  そして匿名コメントが並ぶなか、実名でコメントを出しているのが、乙骨である。「学会ウォッチャー」なる人物も、結局は乙骨だと推測されても仕方あるまい。  この記事について学会側は、すぐさま「抗議並びに謝罪要求書」を送った。しかし、新潮側から送付された「回答書」なるものは、全く答えになっていないシロモノだったという。学会側か直接抗議に行っても、何のまともな返答もなし。つまりは「回答不能」というわけである。   第3章 「断罪」 それにしても、乙骨や西澤氏のような怪しげな輩にすべてをまかせ、彼らの書く記事やコメントなどを鵜呑みにする各誌編集部や民主党の感覚は、筆者には理解しがたい。  事実確認さえ行えば、重大な失態は避けられたはずなのである。  乙骨の「コメント」は、どれもこれも素人でも言えるタワゴトの類にすぎない。 「かもしれません」「だそうです」といった何ら事実的根拠のない「憶測」「風聞」ばかりである。  記事の流れを受けて、編集者の思惑通りに"きっとこうだ""こういう見方がある"と邪推するだけである。  取材もいらない。どれだけデタラメを並べても、いざとなれば編集サイドに責任を押しつけて逃げられる。しかも稼げる。まことに「気楽な稼業」である。  ところが裁判では、そんな手前勝手な逃げ口上は通用しない。乙骨の「コメント稼業」「ガセネタ稼業」は、司法の手で次々と断罪されている。  ここでは乙骨が関与し、裁判沙汰となった名誉毀損事件を検証したい。 ▼ケース1 「北新宿地上げ」デマ事件  まず、乙骨自身に対する損害賠償金百万円の支払い命令が最高裁判所で確定している「北新宿地上げ」デマ事件である。  問題となったのは、『週刊新潮』に一九九九年七月、二週連続で掲載された"創価学会が北新宿の東京都再開発地域でダミー企業を使って大規模な地上げをしている"云々という捏造記事。創価学会は同年十月、「まったく事実無根のデマ記事である」として、新潮社と『週刊新潮』の編集人兼発行人・松田宏(当時)、および同誌にコメントを寄せた乙骨の三者を相手取って提訴した。  東京地裁は二〇〇一年十二月三日、学会側の主張を全面的に認め、新潮側に損害賠償金四百万円(乙骨との連帯分を含む)と謝罪広告の掲載、乙骨に賠償金百万円(新潮側と連帯)の支払いを命令。新潮・乙骨側は、これを不服として控訴したが、続く東京高等裁判所も○二年六月二十七日、一審判決を支持し、新潮・乙骨側の控訴を棄却した。さらに同年十一月二十二日、最高裁判所が新潮・乙骨側の上告を棄却。新潮・乙骨側の全面敗訴が確定している。  この判決で注目すべきは、記事そのものだけでなく、コメントに対しても名誉毀損を認めた点である。  長年、マスコミ界に身を置く筆者も、記事にコメントを出しただけの人間に対し、我が国の裁判所が百万円もの賠償命令を下した前例は、そうそう聞いたことがない。乙骨のような得体の知れない「コメント屋」の跳梁跋扈を封じる意味で、この判決は、極めて画期的なものといえよう。  また、東京高裁の判決は、「匿名のコメント」の信憑性についても厳しい精査を加えた上で、匿名のコメントをした「地権者の実在及びその説明の真実性を認めることはできない」とまで述べて、記者が捏造したコメントである旨を指摘している。これは、『週刊新潮』独自の「藪の中方式」すなわち、「○○ウォッチャー」「○○消息通」といった出所不明、正体不明の人間の「コメント」を繋ぎ合わせてデマ記事を捏造する手法そのものが断罪されたともいえよう。  以下、『週刊新潮』のデマ記事と、乙骨のデタラメなコメントが、いかに断罪されたか、裁判資料に基づいて詳細に検討する。 怪しい「コメント」がズラリ  まず、裁判で断罪されたデマ記事の概要を見てみよう。  『週刊新潮』は一九九九年七月八日号で、「特集 東京都再開発地域 創価学会ダミーが地上げを始めた北新宿『1万4000坪』」と大見出しをつけた記事を三ページにわたって掲載。小見出しに「『主婦』地上げ部隊」「新たな学会村づくり」といったセンセーショナルな文言を躍らせ、こう書き出している。  「バブル華やかなりし頃ならいざ知らず、今時これだけの地上げをおこなっているのだからブツたまげるのだ。場所は、東京都が再開発事業に乗り出した1万4000坪の広大な都内の一等地。……その再開発地域を、創価学会系のダミー企業が次々と買い占めているというのである。しかも、地上げ資金を融資してきたのが例の長銀系ノンバンク。一体、どうなっているのか」−−一見して、創価学 会が、地上げ計画を進めているかのように臭わせる内容である。  記事本文では、まず「問題のダミー企業とは『大和エンタープライズ』という不動産業者で、社長は本荘修氏」と決めつける。その後は、『週刊新潮』お得意の「匿名コメント」がズラリと並ぶ。  「彼(=本荘氏)は……古くから学会とは深い関係でした。昭和30年代に不動産業を始め、地元で公明党の市議などを連れて地上げをするようになったのです」(ある創価学会の関係者)  「都の計画決定の直前から、この辺ではまったく見たこともないような人たちが"土地を売ってはどうか"と訪ねて来るようになったのです。……まわりの人たちに聞いてみると、彼女たちは創価学会の婦入部だったのです。そうして、あれよあれよという間に、ここらあたりの土地の名義が『大和エンタープライズ』に変わっていった。創価学会が『大和エンタープライズ』というダミーを使って地上げを始めたとしか思えないのです」(地権者)  「私のところには、50歳ぐらいの3人の主婦が突然やって来ました」「どうもおかしいと思い、一度、つけてみたのです」「すると、家は2階の窓に創価学会のシンボルマークである3色旗が貼られ、機関紙の聖教新聞の販売所になっているではないですか」(地上げされた土地の隣の住人)  「『大和エンタープライズ』には、(長銀系ノンバンクから)これまでの融資額が500億円。さらにこの地上げで融資枠を400億円追加し……」「まるで、都と学会、それに長銀の3者が計画決定前に示し合わせたような地上げなのです」(ある地主)  といった具合である。つまり、その存在すら疑わしい人物(実際、後に詳述するように、新潮側は、これらの「コメントの主」を誰一人、証人として法廷に呼べなかった)のコメントを数珠繋ぎにして"創価学会が東京都から再開発計画の情報を事前に入手し、ダミー企業や婦人部員を使って地上げをしていた"という話を捏造したのである。  この記事は、とにかく「匿名のコメント」が多い。筆者が数えたところ、最後に乙骨が登場するまでの二百六十六行のうち、何と百七十八行、つまり七割近くが「匿名コメント」で埋め尽くされているのである。しかも、そのほかの「地の文」も、コメントを受けた「憶測」や「解説」が、ほとんどである。  こんな手抜きのシロモノなど、およそ、まともな「報道」「記事」と呼べるはずがない。しかし、『週刊新潮』は創刊以来、こうした「藪の中方式」という悪辣な手口で、幾多の人権侵害記事を濫発し、デマの捏造を繰り返してきたのである。 荒唐無稽な乙骨のデマ  この悪質な捏造記事の末尾に、唯一の実名でシャシャリ出てくるのが「ジャーナリストの乙骨正生氏」。乙骨は、この作り話をさらにふくらませる。  「地上げなどにはダミー企業を使うケースが増えています。その場合、表向きは学会とは関係ないように見えるが、実際は公明党の議員や学会の大幹部などが関係し、その利益に学会が群がるというパターンです」  「結果、学会系企業が大地主になり、これから、大きな土地の所有権を都に行使できる。ビルが完成したあかつきには、他の学会系の外郭企業を続々と入居させることもでき、そうすれば、街全体が学会員以外は近づきにくい雰囲気になる。まったく新しい学会村づくりの手口なのかもしれませんね」  もちろん、すべて乙骨の荒唐無稽な「デマ」であり、「邪推」「妄想」であることが、裁判でも明確になっている。だいたい、東京・北新宿という大都会のド真ん中に、「新しい学会村づくり」という発想自体が稚拙この上ない。この一事をもっても、乙骨が、いかなる知性の持ち主かがわかろうというものだ。  『週刊新潮』は、この続報として翌週号(一九九九年七月十五目号)の巻頭にも、「これが創価学会ダミーの『地上げ』現場」と題して三ページにわたってグラビア記事を掲載し、学会への中傷を繰り返した。  これらの『週刊新潮』の記事および乙骨のコメントの内実が、法廷で徹底的に検証されたのである。 そもそも「地上げ」自体が存在しない  裁判で大きな争点となったのは、果たして『週刊新潮』が報じたような「地上げ」が行われていたのか、そこに学会が関与していたのか−−という点であった。 厳正な審理の結果、学会が関与していないことは当然として、そもそも『週刊新潮』の言うところの「地上げ」なるもの、それ自体が存在しなかったという驚くべき事実が判明したのである。 まず、『週刊新潮』が「学会のダミー企業」と名指しした「大和エンタープライズ」については、どうか。この会社は一九七八年、株式会社「本荘」の子会社として設立された。両社の代表取締役は、ともに本荘氏であるが、同氏も同社も、学会とは、まったく何の関係もない。ほかならぬ新潮側か裁判に提出した「調査報告書」にも、学会との繋がりを示す記述など、まったく存在しないのである。  この大和エンター・プライスは、九四年三月ごろから、北新宿地域の多数の土地について所有名義の移転を受けている。  しかし、それらの土地は、本荘氏個人のものを除けば、すべて法人かち取得したものであり、その法人も、ほとんどが親会社の「本荘」をはじめ関連法人だったことが判明した。  つまり同社は、「地上げ」などやっておらず、ただ、関連法人等の土地の名義を「取りまとめた」にすぎないのである。  それどころか、『週刊新潮』が「創価学会ダミーが地上げを始めた」「今どきこれだけの地上げを行っている」と書いた九九年七月ごろには、「土地の取りまとめ」すら、全くなかった。  要するに、そもそも「地上げ」自体が、影も形も存在しなかったのである。  これらの事実を踏まえて裁判所は、「『地上げを始めた』あるいは『地上げの真っ最中』であると認めることはできない」「この程度の単なる土地のとりまとめをもって大和エンタープライズが『地上げ』を行っていると表現することは行き過ぎである」と新潮の虚構を一刀両断したのである。 「『主婦』地上げ部隊」も真っ赤なウソ  また裁判では、記事中の見出しにも使われた「『主婦』地上げ部隊」なるものも、完全な捏造であることが明らかにされた。  新潮が「地上げ部隊」の根拠としているのは、先はども紹介した「地上げされた土地の隣の住人」と称する怪しげな人物の「コメント」である。この人物を仮に「怪人A」とでもしておこう。  「怪人A」によると"ある日、自分の家に五十歳ぐらいの三人の主婦がやって来て、地上げに協力するように働きかけた。不審に思い、尾行したところ、そのうちの一人が、聖教新聞の販売所の看板と三色旗が貼ってある家に入った。この家は「稲城市のS家」だった"という。  この「コメント」の虚構性が法廷で暴露されたのである。裁判で明らかになった事実によれば、この家に「主婦」は実在するものの、当時七十三歳という高齢で、しかも長年、座骨神経痛を患って一人では自由に歩けない状態だったのである。  もちろん「捏造コメント」にあるような「五十歳ぐらい」という年齢とも一致しない。さらに驚くことに、新潮の記者は、こうした事実を知っていながらデタラメな記事を書いたのである。  その「主婦」の娘の証言によると、『週刊新潮』に記事が出る前に、新潮の記者が夜中に突然、自宅に押しかけ、母親の名前を出した。その際、娘はインターホン越しに"母は高齢で、新宿などには行けない"と、はっきり答えたという。  つまり『週刊新潮』は、「『主婦』地上げ部隊」など存在し得ないことを先刻承知の上で、デタラメな「コメント」を載せ、それをもとに大見出しを躍らせたわけである。 「匿名コメント」自体が記者の捏造  法廷でも当然"学会の婦人部員が地上げに来た"という「怪人A」のコメント自体が大きな争点となった。ところが新潮側は、いつまでたっても「怪人A」を出してこない。その身元も一切、明らかにできない。  追いつめられた新潮側は一審で"新潮記者と「怪人A」との会話を録音したテープ"なるものを証拠提出するという奇怪千万な行動に出た。  もちろん、そんな得体の知れないテープが、裁判所の信頼を得られるはずがない。判決で東京地裁は「記者と話している人物(=怪人A)が、真実、本件地域の地権者であるかどうか……を判断することは不可能である」と厳しく断じたのである。  続く二審の東京高裁でも、やはり新潮側は「怪人A」の正体を明らかにできず、代わりに「代理人弁護士が作成した報告書」なるものを出してきた。  しかし、これまた「コメントの捏造疑惑」を決定付けただけ。その「報告書」について、高裁判決は指摘している。  「(報告書には)新宿駅という日中でも一定の混雑がある場所を通りながら対象者を見失うことなく尾行することができた理由、行き先が不明である中で乗車券を購入した経緯等……尾行したのであれば当然に意識したであろう事実についての記載はなく……迫真性、真実性に欠ける」と退けたのである。  その上で判決は「地権者(=怪人A)の実在及びその説明の真実性を認めることはできない」と判断した。  すなわち「怪人A」も、その「説明=コメント」も、記者が捏造したものだと認定したわけである。  これは、怪しげな「匿名コメント」を並べて人権侵害記事を粗製濫造するという、悪辣な『週刊新潮』の「捏造体質」そのものが断罪されたものといえよう。  さらに判決は「事実の重要な部分において真実であることの証明がないといわざるを得ない」「新潮社の記者らによる取材が極めて不十分」等と厳しく指摘。一審、二審、そして最高裁が学会側の主張を全面的に認め、新潮側に損害賠償金四百万円の支払いと謝罪広告の掲載を命じる判決が確定した。 取材情報も聞かずに「コメント」  この裁判の一審で、被告である乙骨本人が二〇〇一年四月十一日と同年七月十六日に出廷し、「被告本人尋問」を受けた。原告側代理人の厳しい追及によって「コメント屋」乙骨の正体が白日の下に晒された。  法廷という場所は、ある意味で残酷である。日ごろ、どれほど虚勢を張っている人間も、客観冷静な裁判官たちの前に出ると、たちどころに虚飾の化けの皮が剥がれ落ちる。以下、尋問の調書に沿って、乙骨という男が、どれほど、いい加減か。虚構に満ちているか。姑息で小心者か。その実像を暴いていきたい。  この尋問で原告側、すなわち学会側の弁護士が力点を置いたのは、乙骨が、いかなる情報、取材に基づいて「コメント」を話したのかという点である。       ◇ 弁護士 学会員が地上げに関与していたということが事実かどうか、あなたは自分で調査したことがありますか。 乙骨 新潮の取材結果を聞きました。 弁護士 そうすると、あなた自身が調査したことはないということですね。 乙骨 はい。 (中略) 弁護士 あなたが新潮からコメントを求められた平成十一年六月当時、「大和エンタープライズ」が、この北新宿地域で地上げをしているということについて、あなた自ら確認したことはありますか。 乙骨 いや、それは知らなかったです。 (中略) 弁護士 そうすると、あなたは実際に「大和エンタープライズ」が地上げしていたかどうか、それはもう全然、分からない立場ですか。 乙骨 この事件を僕が自分で直接、取材をしてたわけじゃありません。 (中略) 弁護士 あなたは新潮から言われたことを、そのまま信じたんだということですね。 乙骨 取材の説明を受けてね。 (中略) 弁護士 この記事にあるような、平成六年当時に創価学会がダミーを使って地上げをしていたかどうか、あなた自身は分からないということですね。 乙骨 それはわかりません。       ◇  つまり"自分では全然、取材していない。全部、新潮の記者から聞いてコメントした"と白状したのである。  これは重大である。乙骨は、あくまでも「地上げ」を前提として、「地上げなどにはダミー企業を使う」「まったく新しい学会村づくりの手口」等々と言い放った。その肝心の前提部分について、まるで自分は取材をしていないと開き直っているのである。取材もせず、ただデタラメな「コメント」を垂れ流す。こんな人間は間違っても「ジャーナリスト」とは呼べない。編集部に媚びているだけの「コメント屋」である。  しかも、新潮記者から聞いた取材内容なるものも、じつにいいかげんであった。 たとえば、新潮が「『主婦』地上げ部隊」の一員と名指しした婦人宅に関する取材内容について。       ◇ 弁護士 記者から、その婦人の名前というのは聞きましたか。 乙骨 ですから、その時は聞いていないですよ。 弁護士 名前自体は聞かなかったわけですか。 乙骨 ええ、聞いていないです。 (中略) 弁護士 インターホンで出た婦人が地上げに行ったことを認めていたとか、認めていないとか、そういうやり取りは全然、聞いていないのですか。 乙骨 そういう場合は、そういう細かいことは聞かないです。 弁護士 全然、聞かないのですか。 乙骨 ええ。       ◇  なんと乙骨は「婦人の名前」も、「地上げを認めたのか、否定したのか」も、まったく確認しなかったというのである。いずれも「地上げ事件」なるものの存否を判断する上で、欠くことのできない重要情報である。  それを乙骨は「そういう細かいことは聞かない」と平然と言い捨てたのである。裁判長以下、法廷にいた人間は皆、我が耳を疑ったことであろう。 事実を突きつけられると支離滅裂に  乙骨の「珍答」は続く。  乙骨は、法廷での供述や陳述書で"新潮の記者から、婦人が学会員であることを聞いた上でコメントした"と主張してきた。ところが、これまた真っ赤なウソだったのである。       ◇ 弁護士 新潮の記者から、いつ「(婦人が学会員だという)確認を取った」と聞きましたか。 乙骨 取材の過程だったと思いますよ。 弁護士 もう少し具体的に。 乙骨 ですから、私に電話をかけてくる以前に確認を取っているということだったと思いますよ。       ◇  乙骨は、新潮記者が自分にコメント取材の電話をかけてきた時点で、婦人が学会員であるという確認が、すでに取れていたはずだと強弁し続けた。しかし、それが、ほかならぬ新潮記者の証言によって瓦解する。  すなわち、現実に取材に行った新潮記者の供述によれば、婦人が学会員であるという確認が取れたのは「六月二十八日」、つまり乙骨にコメント取材を行った日の翌日のことだったのである。この事実を突きつけられ、乙骨は法廷で立ち往生する。       ◇ 弁護士 あなたが『週刊新潮』の川面記者からコメントを求められた二十七日夜の段階では、まだ確認が取れていなくて、川面記者が、あなたに創価学会組織から確認を取ったなんて言うはずがないんですけれども、どうなんですか。 乙骨 ……(絶句)。確認を取ってると、たしか言ったような記憶がありますよ。じゃ、確認を取っていると言ったのかな。僕は、学会員であることは間違いないと、組織カードも、というふうに聞いたから、陳述書には、そういうふうに書いたわけですけどね。陳述書に書いたのかな……。 (中略) 弁護士 だから、あなたは創価学会組織の関係者に確認を取ったと陳述書に書いたし、証言もした。そうすると、それは間違いであるということですね。 乙骨 いや、そう……(絶句)。       ◇  まったく支離滅裂である。「すでに確認を取った」のか、「確認を取っているところ」なのかは極めて重要な部分である。その前提条件を曖昧にしたまま、乙骨は安直に「コメント」したということになる。さらに手厳しい追及を受けると、今度は責任を新潮サイドに、なすりつけ始める。       ◇ 弁護士 これは、べっに、いい加減な話じゃなくて、この法廷で新潮の記者さんたちが同じことをおっしゃっているんだから、あなたのほうが間違っているんじゃないですか。 乙骨 いや、そういうふうに聞いていますからね。だから、それはアレじゃないですか。もしかしたら川面さんのご説明の中で、あるいは、その地権者の方が行って、そういうものを見ていたという話か川面さんの中に入っていたことを僕に言ったのかもしれませんよ。ですから、そのへんは混同があるんじゃないですか。川面さんのほうにも混同があるかもしれないし、僕のほうに混同があるのかもしれないし。 弁護士 いや、新潮の記者さんたちの話は、それぞれ一致しているから、あなたの話だけ一致していないんですよ。矛盾しているから、あなたの話は、おかしいんじゃないかと聞いているんです。 乙骨 だから、それは僕は、きちんと聞きましたよ。 (中略) 弁護士 そう言い張るわけですね。 乙骨 はい。       ◇  真実を突きつけられた途端に、しどろもどろ。「僕のほうに混同があるかもしれない」と言ったかと思えば、「僕は、きちんと聞きました」と供述をクルクル変える。その場を取り繕うためなら、平気で仲間を切る。乙骨の姑息な一面が如実に表れている。  「呼吸するようにウソをつく」という言葉があるが、まさに乙骨にピッタリであろう。  要するに乙骨は、自らは一切、取材もせず、しかも唯一の情報源であった新潮記者の話さえも、ろくに聞かず、ただ「憶測」と「先入観」だけで、先述のようなデタラメなコメントを発していたのである。 乙骨の主張が続々と崩壊  さらに尋問が進むにつれて、乙骨が「コメント」の根拠としていた事実が、片っ端からガラガラと崩れていった。  その一つが、新潮が「ダミー企業」と名指しした「本荘」「大和エンタープライズ」をめぐる乙骨の「認識不足」「事実誤認」である。  乙骨は陳述書や被告側弁護士による主尋問において、学会が地上げに関与しているとコメントした根拠として、"「本荘」が創価学会に近い関係にあると考えていた"と主張した。乙骨は、その「関係」について、すでに新潮の記事以前、一九九四年から知っていたというのである。  その情報源とは、九五年に自殺したとされる東京・東村山の元市議・朝木明代である。乙骨は被告側弁護士による主尋問で、こう明言している。       ◇ 被告側弁護士 川面記者から、平成六年十一月ごろに東村山駅の東口前の、いわゆる本荘ビルに関して、東村山市の公明市議だけでなく、大宮市の公明市議が地元の住民のもとを訪れて、ビル建設に同意するよう説得した、そういう取材を行ったと、そういう話を聞きましたか。 乙骨 それは聞いたと思います。 (中略) 被告側弁護士 あなたは、今、申し上げた平成六年十一月ごろの本荘ビル云々の話は知っていたんじゃないですか。 乙骨 知っておりました。 被告側弁護士 あなたは、どういうことで、それを知ったのですか。 乙骨 私は東京の東村山市で市会議員をしていた朝木明代さんと懇意にさせていただいておりまして、お付き合いをさせていただいている過程のなかで、たしか、その話を聞いておったと思います。       ◇  朝木明代と乙骨の関係は別に詳しく触れるが、ここで乙骨は、朝木から、東村山駅前の「本荘」のビル建設をめぐって公明党の市議が動いたと聞いた。だから「本荘」と学会が近い関係にあると考えていた、というのである。  ところが学会側弁護士による反対尋問によって、そもそも朝本の情報が「ガセネタ」であることが判明する。       ◇ 弁護士 あなたは、この東村山駅前のビル建設に関与した(公明党市議の)名前として、大橋議員と大宮の川上議員の名前を挙げていましたけれども、その二人には確認を取りましたか。 乙骨 いえ、お会いしたことはありません。 弁護士 その二人が、どう言っているか聞いたことはありますか。 乙骨 後の陳述書か何かが出ているのを読ましてもらいましたけど。 弁護士 二人とも本荘氏とは一面識もない、というふうに述べているのは聞いていますね。 乙骨 読みました。 弁護士 そうすると、大橋議員が東村山市議会で、この件について、自分は本荘氏とは一面識もない、と。言われていることは誹謗中傷である、というふうに言っていたことは、あなたは聞いていましたね。 乙骨 聞くというか、陳述書とあわせて出ている書証で読みましたけど。 弁護士 当時、朝木議員から、そういう話を聞いたことはないのですか。 乙骨 聞いたことはなかったですね。 (中略) 弁護士 「本荘」が創価学会と親しいかどうかということについて、名前を挙げたのは大橋議員と川上議員なわけですから、この二人が一面識もないとなれば、「本荘」と、そもそも公明党議員というつながりすらないじゃないですか。 乙骨 だから、それは彼らが、そういうふうに否定をしているわけでしょう。それを額面通り取ればね。 弁護士 そうじゃないという根拠を、あなたはもっていないわけですね。 乙骨 だから、それはわからない。 弁護士 何も調べていないというわけですね。 乙骨 ただ、それはわからないけれども、僕は朝木氏から、そういうふうに聞いておって、それを僕としては、ああなるほどというふうに信じていたということですよ。       ◇  ここは重要なポイントなので、もう一度整理しておこう。  そもそも乙骨が「本荘」と学会の関係を疑わせる話として、自分から法廷に持ち出してきたのが「本荘」ビルの建設をめぐる二人の公明党議員と本荘氏の「関係」なるものである。木物の「ジャーナリスト」なら、そこに当然、客観的な証拠あるいは取材によって裏付けられた「根拠」があるのが普通である。  ところが乙骨が自分で白状しているように、この話には何の根拠もない。二人の議員に取材したことすらない。何を聞かれても「わからない」。ただ朝木の言うことを「ああなるほどというふうに」信じ込んでいただけ、と供述しているのである。  では、その朝木の話の信憑性は、どうか。とてもではないが、「ああなるほど」と信じ込めるようなシロモノではない。  実は当時、朝木は、あたかも「本荘」のビル建設に不正があったかのごとく喧伝していた。しかも朝木は、先に名前の挙がった二人の公明党議員だけでなく、市の助役に対してまで濡れ衣を着せようとした。そこに、いかなる思惑があったかは定かでないが、まったく根拠のない、悪意と偏見に凝り固まった「言いがかり」にすぎない。朝木は生前、こうしたエキセントリックな行動を、しばしば取っていたが、これも、その一環である。  これに対し、名指しされた大橋議員が議会で本荘氏との関係を明確に否定したほか、助役も「誹謗中傷である」「ひどい事実誤認である」と同じ議会で明言している。何のことはない。朝木は、根も葉もないデマを捏造して、市議会で大騒ぎしただけのことである。  ところが乙骨は、そうした経緯も、議会の議事録の存在も、まったく知らなかった。乙骨は尋問で、いよいよ弁護士の苛烈な糾問に晒されていく。       ◇ 弁護士 そういうやり取りがなされたということは、あなたは当時、朝木さんから聞いたことはないのですか。 乙骨 当時は知らなかったですね。 弁護士 あなたは先程おっしゃったように、朝木議員の死亡について、『怪死』という本を書いているぐらいだから、朝木議員というのは、ある意味で一貫して創価学会を批判している立場にあることは分かりますよね。 乙骨 はい。 弁護士 それで、朝木議員の話というのは、自分が体験したことじゃなくて、間接的に聞いたことを言っていることですよね。 乙骨 私から見ればね。 弁護士 いや、朝木議員自身が、例えば大橋議員とか川上議員に会ったわけでもないし、話を聞いただけでしょう。その話を、さらにまた、あなたが伝聞で聞いたということですよね。 乙骨 はい。 弁護士 そういう一方当事者にすぎない、しかも創価学会に対して非常に批判的な立場にある人の話か真実かどうかを確認するには、やはり当事者である大橋議員、川上議員であるとか、あるいは「本荘」そのものとか、あるいは「本荘」のビルの設計を請け負っていた岩月さんとか、そういう人に事実確認しなければ、真実は分からないと思わなかったんですか。 乙骨 この件に関して取材をしていたわけじゃありませんから、そういう必要性は感じておりませんでした。 弁護士 あなたは今回、この裁判所での証言でもそうだし、陳述書でもそうだし、この件を取り上げて、創価学会と「本荘」が非常に近しい関係にあると述べているわけですよ。 乙骨 はい。 弁護士 その根拠はないということですね。 乙骨 いえ、そんなことはないですよ。ですから、以前、朝木氏から、そういう話を聞いて、そういう認識をもっていたというふうに申し上げているわけですよ。 弁護士 それについて自分自身は何も調査しなかったわけですよね。 乙骨 調査は、しておりません。 弁護士 それだけで、そういう一方的な話を、どうして信じられるのですか。 乙骨 いや、それは、いろんな要件がありますが、一つには、一企業にすぎない本荘の手がけているビルに公明党の議員が二人も関わるというようなことは、やはり、それなりの関係があるだろうというふうに、当然、推測するわけですよ。 弁護士 いまの話は、公明党の二人の議員が関わっていることが前提なんですよ。 乙骨 そうですよ。 弁護士 でも、関わっているかどうかはわからないわけでしょう? 乙骨 いや、ですからそれは、朝木氏から、このビルの件に関して二人の議員が来てこうだという説明を聞いていたわけですよ。 (中略) 弁護士 そうすると、結局、あなたの話は、今回の裁判所に出した書類とか、証言、いずれにしても、朝木議員の話だけが根拠になっているわけですね。 乙骨 この件に関してはね。本荘と東村山のビルの件に関しては、そういうことですよ。       ◇  引用が少々長くなったが、これで乙骨という男の知性のほどが、よくおわかりいただけたのではないだろうか。乙骨にはャーナリストにとって必須条件である論理的思考力というものが、決定的に欠如しているのである。  なかでも「どうして朝木の話を信じたのか」と聞かれて、「二人の議員が関わっていたから」と答える。では「二人の議員が関わっていたという根拠は」と聞かれると、「朝木から聞いた」と大真面目に答えるあたり。その堂々めぐりの滑稽ぶりは、大いに笑っていただけたのではないか。  何のことはない。「ジャーナリストの乙骨正生氏」を名乗って行ったコメントの根拠とは、取材に基づく事実ではない。客観的な証拠でもない。「朝木議員」という一方的な立場に立つ人物の、いかがわしい「ガセネタ」を、何の疑いも裏付けもなく信じ込んだだけなのである。 法廷でもデタラメ放題のデマ  乙骨が法廷に提出した「陳述書」のデタラメぶりも、乙骨に対する本人尋問で明らかにされた。これは、乙骨が裁判を有利に運ほうと、審理の本筋とは関係ない学会中傷のデマ、憶測、風聞の類を書き並べたものである。乙骨は、週刊誌のデマ記事よろしく、得意になって、あれこれと「ガセネタ」を持ち出した。だが、それも逆に裁判で突き崩され、墓穴を掘る結果となったのである。  例えば乙骨は陳述書の中で「学会のダミー企業による土地取得」の一例と称して、学会本部周辺にあった「みかど」という店舗の名前を挙げた。その「みかど」の土地を買収した「ダミー企業」として名指ししたのが、やはり学会本部周辺でレストラン等を経営している「東西哲学書院」である。  乙骨は陳述書に、こう書いている。  「創価学会所有地推移一覧表にも明らかなように、喫茶ミカドの土地は、その後、東西哲学書院の所有地となり、現在、同地にはレストラン博文と中華博文の入った博文ビルが建てられています」  たった、これだけの短い一文に、二重三重の虚構と事実誤認が含まれている。  まず、乙骨は「喫茶ミカド」と書いているが、ここからして完全な間違いである。       ◇ 弁護士 あなたの陳述書に「みかど」が喫茶店であったと書いていますけど、それは、どういう根拠から言っているのですか。 乙骨 「社長会」(=乙骨が法廷に持ち出した出所不明の文書)でしょう。「社長会」に「喫茶ミカド」つて出ていなかったですか。 弁護士 「博文の横の"みかど"」でした。「喫茶ミカド」と言った根拠は何かと聞いているんです。 乙骨 「喫茶ミカド」というふうに思っていましたから。 弁護士 そうすると、根拠はないんですね。 乙骨 根拠は、ですから以前、原島氏(=元創価学会員)とか、そういう人たちから聞いた時に「喫茶ミカド」というふうに聞いた覚えがあったものですから。       ◇  実に曖昧、いいかげんな男である。自分で裁判所に提出した書類に「喫茶ミカド」と書いておきながら、その根拠すら明確に示せない。  では「みかど」とは何か。学会側弁護士は、ごく一般的に手に入る市販の地図を示した。       ◇ 弁護士 ここに「おそばみかど」つて書いてある。 乙骨 ああ、そば屋。 弁護士 「みかど」というのは、ずっと、そば屋だったんですよ。 乙骨 ああ……(絶句)。それは喫茶という思い込みがありました。 弁護士 そうすると、こんな簡単に調べられることも調べないで、陳述書に書いたわけですね。 乙骨 まあ、その点については、思い込みがありましたね。       ◇  乙骨という男は、簡単な地図一つ調べられないのである。  まだまだある。くだんの乙骨の陳述書には「創価学会所有地推移一覧表にも明らかなように」と明記されている。これは、乙骨自身が作成したと称する書類だが、学会側弁護士は、それを示しながら質問した。       ◇ 弁護士 この中で、あなたのおっしゃっている「喫茶ミカド」から東西哲学書院に移転され、現在、博文ビルが建てられている土地というのは、どれですか。 乙骨 これは創価学会の土地所有一覧だから、ここには出ていなかったですかね? 弁護士 出ているのか、出ていないのか、あなたは陳述書に、そこに書いてあるというんだから伺っているんですよ。 乙骨 これは東西哲学書院の所有ですから、たぶん、ここには記載をしておりません。 弁護士 そうすると"この書証の推移一覧表にある通り"というのは間違い? 乙骨 それは、ちょっと勘違いをして、そこに載せているだろうと思って書いたんだと思います。       ◇  ことわっておくが、乙骨は、自分で作ったと称する書類をもとに、自分で陳述書を書いたはずである。その内容について、なぜ弁護士に逆に質問しなければならないのだろうか。陳述書では勝手放題に書いておきながら、いざ法廷に出てくると、厚顔にも相手方の弁護士に「出ていなかったですかね」と尋ねる。これほど無責任な男もいまい。  しかも話は、これで終わらない。実は「東西哲学書院」の所有地も、乙骨が自分で作ったと称する「創価学会の一覧表」なるものに、厳然と出ていたのである。  学会側弁護士が冷厳に言い放つ。       ◇ 弁護士 東西哲学書院の土地も、それに載っていますよ。 乙骨 そこには、だから、一覧表で作った種類が、いくつかあるものですから、ちょっと、ここには載っていないのかなと思いますけど。 乙骨 いや、そこは調べていないから分からないですけれどもね。 弁護士 「みかど」の土地が東西哲学書院に移転したかどうかは、登記簿謄本を見なきや分からないことだし、それで、あなたが確認したから陳述書に書いたわけでしょう? 乙骨 ……(絶句)。       ◇  事実をもとに詰められると、途端に黙り込む。主張が破綻する。これが乙骨の正体である。  学会側弁護士の言う通り「登記簿謄本」を見なければ、土地の所有者の移転状況など分かるはずがない。そして乙骨自身、陳述書等では「登記簿謄本」を取って「一覧表」を作成したと強弁してきたのである。  ところが実際に「登記簿謄本」に基づいて検証してみると、乙骨の言うような「ダミー企業による土地買収」など、根も葉もないウソであることが判明したのである。  学会側弁護士は、続けて「みかど」のあった土地の登記簿謄本等をもとに乙骨を追及した。すると驚くことに、乙骨は「みかど」の経営者を知らなかったばかりか、そもそも「みかど」のあった場所すら特定できなかったのである。  客観的な証拠を突きつけられた乙骨は、ついに「みかど」から「東西哲学書院」に移転された土地など存在しなかったことを認めた。       ◇ 弁護士 あなたが陳述害に書いたことが正しいかどうか聞いているんですから。あなたの書いたことは事実に反しますね。 乙骨 現実としては、それは合っていなかったのでしょう。 弁護士 じゃ、どうして、ああいうことを書くのですか。 乙骨 ですから、そういうふうになっていたと、まあ、それは思い込みがあったわけですよ。 弁護士 じゃ、調査もしないで思い込んで書いたわけですか。 乙骨 基本的には調査というか、登記簿とかを取ってやったわけですけども、ちょっと錯誤があったり思い込みがあったということですよ。       ◇  乙骨は姑息にも「思い込み」「錯誤」で逃げようとしているが、もう遅い。乙骨が、ろくな調査もしておらず、「登記簿謄本」すら見ていないことは明々白々である。乙骨自身が、法廷で事実無根のデマを垂れ流したと認めたも同然である。  一事が万事である。乙骨は、これまでにも、これと同様の作り話で騒いできた。 しかし、いずれも「事実」という光を照射すれば、たちどころに雲散霧消する他愛もないデマにすぎない。  所詮、虚飾は虚飾。捏造雑誌には通用しても、裁判の場では簡単に剥がれ落ちる。乙骨は、さんざん法廷で大恥を晒したあげく、判決でこう断罪された。  「被告乙骨は、被告新潮社の記者による取材経過について詳細な内容を全く聞かなかったから(被告乙骨)、本件コメントが論評であり、前記のような緩和された要件で真実相当性が認められることを考慮に入れても、前記地上げの事実を真実と信ずるについて相当の理由があると認めることはできない。したがって、この点について、被告乙骨の故意又は過失は否定されないというべきである」 「原告(=学会)が一般的にダミー企業を使って地上げをし、その利益に群がっているとの摘示事実を真実と認めることはできない。また、被告乙骨は、前記の同被告が根拠として掲げる事実から、原告が一般的にダミー企業を用いて地上げをしていると軽々に誤信したものに過ぎず、前記の根拠だけからは、被告乙骨のかかる誤信につき相当の理由があったとは認められない」  その上で裁判所は、乙骨に対して百万円の賠償を命令したのである。 ▼ケース2 北海道の墓苑をめぐるデマ事件  この「北新宿地上げ」デマ事件の裁判の過程で、乙骨の新たな「デマ」が発覚した。  学会側か証拠として裁判所に提出した録音テープによって、乙骨が新潟県小国町(現在の長岡市。一九九八年六月十三日)や和歌山県下津町(現在の海南市。一丸九九年八月三十日)で話した内容が明らかになった。そこで乙骨は北海道にある学会の墓苑について"学会は墓苑の用地を購入した際、二つのペーパーカンパニーを使って金を儲け、裏金をつくった"云々と、根も葉もない「作り話」を騒いだのである。  学会側は、この新たなデマ事件について二〇〇一年十一月、乙骨を相手に名誉毀損による損害賠償を求める裁判を提起した。  裁判は○二年九月十八日、東京地裁が乙骨に損害賠償金五十万円の支払いを命じる判決を下している。  この問題は「北新宿事件」の法廷でも厳しく追及されたが、結局、乙骨は何の証拠も出せなかった。  例えば乙骨は、「北新宿事件」の尋問で、「二つのペーパーカンパニー」なるものの会社名を問い質されたが、「思い出せません」と言うばかりで、いつまでたっても一つしか出てこない。これに対して、学会側弁護士が「開発行為許可申請書」など関係書類を示し、「もう一つの会社」なるものは書類上も存在しないことを突きつけた。のらりくらりと逃げ回っていた乙骨も、最後は「勘違いかもしれません」と白状した。「思い込み」「勘違い」の多い男である。  さらに驚くことに、乙骨は、自分で「ペーパーカンパニー」だとして実名を挙げた「望来開発」という会社についても、自分では何の取材もしていないことが判明したのである。 ネタ元は「デマ新聞」  かつて乙骨は日蓮正宗に反旗を翻した僧侶グループである「正信会」の機関紙「継命新聞」編集部に所属していた。実は、この墓苑をめぐるデマのネタ元は「継命新聞」(一九八〇年一月一日号)の記事である。乙骨は、その記事を鵜呑みにして「ペーパーカンパニー」だの「裏金」だのと根も葉もないデマを吹聴していたのである。しかも、その記事の取材にすら、乙骨は、まったく関与していない。       ◇ 弁護士 そのような取材もしないで、ペーパーカンパニーということを言ったわけですか。 乙骨 ですから、私は継命の記事ならびに、これの取材をした人間から話を聞いて、ペーパーカンパニーという言い方が、あなた方で言えば妥当じゃないというのならば、トンネル会社という、少なくとも認識をもっておったわけです。 ◇  当然のことながら、乙骨が実名を挙げた「望来開発」は「ペーパーカンパニー」などではない。この会社は七五年ごろから、北海道でゴルフ場の開発計画を進めていた。具体的に行政に対して各種の申請を行うなど、数年にわたって活発な事業活動を行っていたのである。       ◇ 弁護士 あなたは、こうした事実については調査しましたか、していませんか。 乙骨 しておりません。       ◇  乙骨は、会社の業務実態も調べずに「ペーパーカンパニー」と騒いだわけである。  では「裏金」云々のほうは、どうか。  「望来開発」のゴルフ場開発計画は、行政の許可が下りたものの、深刻な不況のあおりを受けて中止となる。その土地が「望来開発」から学会に売却され、墓苑が建設された。  その時の売却価格について、乙骨のネタ元である「継命新聞」は「坪一万五千円で買った」云々と報じていた。乙骨は、それを鵜呑みにして、小国町等でデマ発言を行っていたのである。       ◇ 弁護士 あなたは平成十年六月の小国町の講演会で、裏金を貰った、貰ったと話をしているわけですよね。 乙骨 はい。 弁護士 いくら貰ったのか、ということが分からないで、そういう話をしたということですか。 乙骨 そうですね。裏金が特定できるわけがないでしょう。 弁護士 根拠もなしに、裏金を貰ったと。 乙骨 いや、根拠がないというわけではありません。ここ(「継命新聞」の記事)に書かれているように、その土地の値段が、べらぼうに上がっていると。じゃ、そのお金は、どこへ行ったんだというような疑惑があるわけですよ。そういう疑惑に基づいた話として、裏金を貰ったんだというニュアンスで話をしたわけです。 ◇  要するに乙骨は「継命新聞」の記事だけを根拠に「裏金、裏金」と騒いだという。では、その「継命新聞」の言うように「土地の値段が、べらぼうに上がった」事実はあるのだろうか。  学会側弁護士は、当時の「土地売買契約書」を示して、乙骨のゴマカシを木っ端微塵に粉砕した。      ◇ 弁護士 これを坪単価にしますと約八百八十三円になるんです。今あなたが「継命新聞」の記事に基づいて、坪一万五千円で買ったんじゃないかと言われましたけど、だいぶ違いますね。 乙骨 まあ、これを見ると違いますね。 弁護士 坪単価約八百八十三円という金額は、あなたの認識として高額な金額だと思いますか。 乙骨 案外、安いんじゃないですか。 弁護士 この坪単価八百八十三円という金額で、どうやって裏金をつくることが可能になるんですか。 乙骨 ……(絶句)。まあ、それは、額面通りの、この金額であれば、大した金は入りませんねということですね。       ◇ またしても「絶句」である。「幽霊の正体見たり枯尾花」。何のことはない。乙骨は「坪八百八十三円」を「坪一万五千円」と勝手に思い込み、「べらぼうに上がった」「裏金を貰った、貰った」と大騒ぎしたのである。 簡単な算数もできない男  ちなみに乙骨は『週刊実話』(一九九七年十月十六日号)の記事にも、この北海道の墓苑をめぐるデマのコメントを出している。そこで乙骨は"北海道の墓苑で百二十億円の利益を上げた"と言い放った。  この一件についても、乙骨は尋問で厳しい追及を受けたが、その結果、「百二十億円」なる数字の算出根拠が、実に幼稚な間違いに基づくものであることが鮮明となった。  乙骨はなんと、この「百二十億円」についても、八〇年の「継命新聞」の記事を、ソックリそのまま九七年の『週刊実話』のコメントに流用していたのである!  もともと乙骨のデマには他人のデマの焼き直し・蒸し返しが多いのだが、これまた二十年近くも前の他人のガセネタである。いくら「継命新聞」が知名度ゼロのデマビラ同然の印刷物だからといって、その情報を、さも自分のネタであるかのごとく他のメディアに売りつけるとは、面の皮が厚すぎる。  しかも、その「継命新聞」の当時の記事には「百二十億円」の算出根拠が、そのまま記述されていた。それによると「全体の造成費」を「墓苑の坪数」(三十万坪)で割って、一区画あたりの造成費を「二万五千円」と弾き出しているのである。  これほど幼稚な発想もない。一区画あたりの造成費を出したければ「全体の造成費」を「墓苑の坪数」ではなく、「墓苑の区画数」(四万基)で割らなければならないことは、小学生でもわかる。その方法で割り出せば、一区画あたりの造成費は「約十六万円」となる。  乙骨には、こんな簡単な算数すら理解できなかったことになる。 あまりに危険な乙骨のガセネタ  ともあれ「ペーパーカンパニー」もウソならば、「裏金」云々も、まったくデタラメ。その上、乙骨は、またしても何の取材もせず、いいかげんな「デマビラ」を鵜呑みにしただけ。この墓苑をめぐるデマ事件でも、乙骨に厳しい断罪が下ったのも当然である。  ところで、この"墓園建設で「ペーパーカンパニー」を使って裏金"云々の乙骨の作り話(一九九九年八月)と"北新宿で「ダミー企業」を使って地上げ"云々の『週刊新潮』の捏造記事(九九年七月)は、その時期といい、土地がらみの内容といい、まさに「ウリニつ」のデマである。  そもそも『週刊新潮』に「北新宿」云々のガセネタを持ち込んだのは、乙骨ではないのか−−そんな疑問も生じてくる。  この件については、乙骨を、よく知る関係者による、こんな証言もある。  「そもそもネタを新潮に持ち込んだのは、。乙骨だろう。新潮はいちいぢそんなことまで追いかけていないよ。乙骨の情報で取材した。ところが、何の事実も出てこない。だから、乙骨の話を鵜呑みにして『コメント』でお茶を濁すしかなかったんだ。結局、乙骨も新潮も、詰めが甘いから敗訴しちゃったんだよ」  ともあれ、乙骨がからむ「ガセネタ」は、あまりに危険で、最終的に高くつくのである。 ▼ケース3 東村山デマ事件  一九九五年九月一日。東京、東村山市議朝木明代が市内のマンションから転落し、数時間後に死亡した。朝木は、その数力月前に万引き事件を起こしたとして書類送検されていた。転落死の数日後には、検察庁への出頭も控えていたことから、それを苦にした自殺とする見方が当初から強かった。すべての状況証拠も、それを裏付けていた。  ところが、そうした証拠をいっさい無視し、一部の週刊誌が、あたかも創価学会が事故に関わっていたかのように報じた。いわゆる「東村山デマ事件」である。完全な「誤報」「虚報」であり、悪質な名誉毀損事件であった。  この卑劣なデマの謀略は、すでに法廷で完璧に粉砕されている。  『週刊現代』(講談社)のデマ報道事件(後に詳述)では、創価学会が編集長・元木昌彦(当時)らと、記事にデタラメなコメントを寄せた明代の夫・大統、娘・直子を提訴。この裁判は最終的に、二〇〇二年十月、最高裁判所が講談社、朝木父娘側の上告を棄却。講談社らと朝木父娘に対して、同誌への謝罪広告の掲載と損害賠償金二百万円の支払いを命じた二審判決が確定した。  また、学会が『週刊新潮』の捏造記事を訴えた裁判では、東京地裁が○一年五月、発行元の新潮社と編集人兼発行人・松田宏(当時)に対し、損害賠償金二百万円の支払いを命令した。新潮側は当初、「控訴する」と明言し、誌面でも、さんざん裁判所を中傷したものの、結局、控訴を断念。新潮側の敗訴が確定し、学会側に賠償金を支払っている。  さらに朝木らが編集する「東村山市民新聞」なるビラで創価学会を中傷した名誉毀損事件では、一、二審ともに朝木らが全面敗訴。朝木側の上告断念により、損害賠償金二百万円の支払いと謝罪広告の掲載を命じる判決が確定した。これを含め、一連のデマ事件に絡んで、朝木らは五件の裁判で全面敗訴。朝木らの言い分か認められた事例は、ただの一件たりとも存在しない。 市議の転落死を食い物にした乙骨  乙骨は、一九九四年前後から、死んだ朝木明代らと付き合い始め、朝木が主催していた反学会を内容とする講演会に講師として呼ばれるなど「親密な関係」にあった。その朝木の転落死である。乙骨は、いち早く情報をつかんだのを幸いに「ガセネタ屋」「コメント屋」としてフル回転した。  事件後、最初に発売された『週刊新潮』(九五年九月十四日号)は「東村山女性市議転落死で一気に噴き出た創価学会疑惑」とのセンセーショナルなタイトルでデマ騒ぎを煽った。同誌編集部に、この「ガセネタ」を最初に持ち込んだ張本人も乙骨であることが、裁判で明らかになっている。  当然、この記事にも乙骨がシャシャリ出てくる。 「生前の朝木市議と親しかったジャーナリストの乙骨正生氏はいう」との前振りに、乙骨のコメントが続く。  「私はいろいろな面で今回の事件は納得がいきません。この事件の背後にはどうしても創価学会の影を感しるんです」  例によって例のごとく、裏付けとなるような証拠も事実的根拠も示さず、ただ「怪しい」「怪しい」と大騒ぎするだけ。こんな「コメント」を、有り難がる編集者も編集者であろう。  さらに乙骨のデマはエスカレートしていく。月刊『文語春秋』(同年十一月号)では、乙骨が珍しく署名入りで「東村山市議怪死のミステリー」なる記事を書いている。副題は「"自殺"に固執する警察捜査にこれだけの疑問」。 「ガセネタ屋」が、居丈高に捜査当局をなじった副題である。いったい当局が何のために「自殺に固執」する必要があるというのであろうか。複数の捜査員が予断を排し、あらゆる証拠を勘案した上で「自殺」という結論を導いただけのことである。何の証拠もなく、物事を客観的に判断する能力も知性もなく、ただ妄想と偏見にとらわれて「他殺に固執」しているのは、乙骨だけである。  この記事で乙骨は、転落死当日の模様を次のように描写している。  「その朝木さんが亡くなったとの矢野市議の電話が、私のもとに入ったのは二日の午前六時。矢野氏は、絞り出すような声で朝木さんの死を私に伝えた。  『朝木さんが殺されました』  一瞬、信じられなかった。というのも、この日の夕方五時半の飛行機で、私は、朝木さん、矢野氏、ジャーナリストの段勲氏とともに、翌三日の午後に高知市で開かれる市民団体『ヤイロ鳥』主催のシンポジウム『宗教法人法と政治を考える』に、パネラーとして出席するため高知に向かう予定だったからだ。  『東村山駅前のビルの上から突き落とされたようです』  矢野氏の言葉に、私は取るものもとりあえず、東村山に向かった」  ここで乙骨は、朝木市議の同僚であった市議・矢野穂積のコメントを利用して「朝木さんが殺された」「東村山駅前のビルから突き落とされた」と、まるで何者かが、朝木市議を狙って殺害したかのような印象づくりを図っている。もちろん乙骨は、何としても創価学会が関与したかのように話をねじ曲げたいわけである。  後にも詳しく触れるが、警察の入念な捜査によって、朝木が「突き落とされた」などとする証拠は一切、存在しないことが判明している。  例えば「突き落とされた」のであれば、放物線を描いて落下するのが普通だが、朝木は真下に落下している。しかも、落下したと思われる五階の手すりには、朝木が、ためらってしがみついた時に残したと思われる手のこすれた跡が、はっきりと残されていた。また、「救急車を呼ぶか」との問いに対し、朝木は、はっきり「拒否」の意思表示をしたという。  つまり、朝木は、自らビルの五階に上り、自ら壁を越えて落ちたと考えるのが自然である。逆に言えば、これらの明白な証拠をもって、「他殺」と考えることなど、到底、不可能なのである。もちろん、この一件に関し、警察は「犯罪性はない」との最終判断を発表し、検察も「自殺した可能性が高い」との結論を下した。  ところが乙骨は、そうした事実的根拠を一切、無視し、デマの吹聴に狂奔した。かねてから呪懇の仲であった朝木の死を、「千載一遇のチャンス」ととらえ、最大限に食い物にしたのである。  事実、乙骨は「友人」の転落死を「踏み台」にして、年来の悲願であった自著の出版を果たす。朝木の転落死をテーマに九六年五月、『怪死』と題する本を出版したのである。  乙骨は、いっぱしの「ジャーナリスト」を気取っているが、内実はといえば、その場しのぎの半端なコメントを求められるだけの「ガセネタ屋」。その惨めな境遇を一気に跳ね返そうと、この本の出版には一世一代の力みぶりを発揮したのである。  だが悲しいかな、力めば力むほど無知・無能ぶりばかりが顔を出す。でき上がった二百五十ページの本は全編を通じて、ただ感情的に「怪しい」「怪しい」と連呼するだけ。客観的な証拠も、冷静な分析もない。 他人の出版計画を横取り  この本の出版をめぐっては、乙骨の醜悪な一面を示す裏話も存在する。  実は、そもそも朝木市議の転落死をネタに本を出そうと最初に計画したのは、ブラック・ジャーナリストの段勲と野田峯雄だったというのである。  その二人の計画を聞きつけ、図々しく割り込んできたのが乙骨であった。当時、乙骨には一冊の著作もなかった。ジャーナリストとしてハクをつけたかった乙骨は、先輩格の段らに「オレにもやらせてくれ」「ここで一つ、名を上げたい」と頼み込む。そこで当初は乙骨にも一部分を手伝わせ、三者の連名で出版することになったという。  ところが乙骨は、最終的に「この話、オレにくれないか」と言い出し、まんまと計画を独り占めしたのだという。いわば、軒先を借りて母屋を乗っ取ったわけである。  ただし、元々、段や野田も「朝木の話は筋が悪い」ということで、あまり乗り気ではなかったふしもある。乙骨の周囲にも「なんであんな事件を扱うのか?」と呆れる声が囁かれていたという。 噂話で墓穴を掘った『怪死』  その初めての著書で、乙骨は、無能さゆえに取り返しのつかない大失敗をやらかしている。笑い話として、ご紹介しよう。  乙骨は、誰も見向きもしない「筋の悪いネタ」を本にまでした。本来なら、当事者である朝木直子らからは、最大に感謝されてもおかしくない。ところが実際は、逆に直子らから恨みを買う結果となった。直子らが乙骨に対し、本の内容について猛烈な抗議を行ったというのである。  その原因というのが、乙骨が本の中で筆を滑らせた「朝木母娘の『W不倫関係』疑惑」。  乙骨は『怪死』(二三二ページ)で、こんなことを書いている。  「朝木さん(=明代)と矢野さんは、以前からW不倫関係にあり、二人が性交渉していた声が、事務所から漏れていたなどとの噂が」あった。  「朝木さんの死は、『矢野と娘の直子が不倫関係に陥り、それにショックを受けたのが朝木の自殺の動機』」という噂が流されていた−−と。  そういう「噂」がウソか本当かの検証もなく、わざわざ噂の内容を、ただ、そのままなぞって世に出してしまったわけである。  これに怒ったのは直子ら。ついには裁判沙汰にまで発展した。当然であろう。これでは、朝木側の味方なのか敵なのか分からない。だいたい、このような噂話について書こうと思うなら、事前に当事者に取材するなり、了解を取りつけるのが筋であろう。ところが乙骨は、その基本中の基本すら怠り、自ら墓穴を掘ったわけである。 関係者によれば、この一件で乙骨と朝木らの間に一時期、大きな亀裂が入ったという。  取材もせず、いいかげんな話を書き飛ばす。そんな乙骨の習性が招いた大失態の一幕である。 『怪死』の杜撰な取材 『怪死』を出すにあたって、乙骨は、またもや驚くほど杜撰な取材しかしていない。その端的な事例を検証しよう。  まず、もう一度、朝木明代の転落死直後の状況を振り返っておく。  朝木が転落したのは一九九五年九月一日の夜十時ごろ。場所は西武線東村山駅から徒歩一分の距離にある駅前のビルだった。ビルの裏手に隣接したところに駐車場があり、ビルと駐車場の間は、金網のフェンスで仕切られていた。  その時刻、「キャー!」という女の悲鳴がした。直後に「ドスン」という車のぶつかるような音がしたと、近くにいた人が後に語っている。  この時、転落した朝木を最初に発見したのは、同じビルの一階にあったハンバーガー店「モスバーガー」で働いていた店員だった。ハンバーガー店の裏手がゴミ捨て場になっており、その店員が、たまたまゴミを捨てに行った時に、誰かが寝ころんでいるのが見えたという。店員は、そのことを店長に報告。店長が様子を見に行った時は、あたりは暗闇で、最初は、てっきり酔っぱらいかと思ったという。  店長が「だいじょうぶですか?」と声をかけると、相手は「はい、だいじょうぶです」と明確に答えた。倒れている女性の足のほうに血が流れており、脇にあった駐車場との境のフェンスが、ねじ曲がっていた。この時点では、まだ女の意識は鮮明で、受け答えもはっきりしていたという。  店長と、そこにいたアルバイト店員が「救急車を呼びましょうか?」と問いかけると、女性は首を横に振って「いいです」とキッパリ断った。それでも大変なケガだと判断した店長は、救急車を呼んだ。病院に運ばれた朝木は、その後、死亡した。  −−以上が事件のあらましだが、乙骨の書いた単行本『怪死』では、事実関係が、まったく違う。これを本人は、ハンバーガー店での取材をもとに書いたと言っているが、そもそも取材したかどうかすら疑わしい内容なのである。  乙骨は、まず「自殺断定の根拠となる救急車を断ったとする発言も、事実とは異なる」とし、次のように書く。  「私の取材に対して店長は、店長と(筆者注=ビルと隣接する駐車場の)管理人との間で、『救急車を呼びましょうか』との会話があったことは認めているが、店長が朝木さんに『救急車を呼びましょうか』と問いかけた事実はないと話している。この点は、事件性の有無を判断する上で重要なポイントなので、私をはじめマスコミの取材陣は、二度、三度と確認したが、店長は、そうした事実はないと断言している。にもかかわらず、東村山署はこの発言を重要視。創価学会も、存在しない会話を根拠にして自殺説を執拗にくり返している」  たしかに、この点は、事件性の有無を判断する上で「重要なポイント」だろう。  乙骨は「店長への取材で、二度、三度と繰り返して、そのことを確認した」と主張する。その結果、乙骨は、あくまでも「店長が朝木さんに『救急車を呼びましょうか』と問いかけた事実はない」というのである。  ところが、事実はまったく違う。じつは、この乙骨の本が出て間もなく、筆者と取材チームのメンバーが、同じハンバーガー店に直接取材した。その際、店のオーナーは明確にこう答えてくれたのである。 「女性に最初に話しかけたのは、店長とアルバイトの店員です。私は店のオーナーであり、事件当時、業務上の都合から、マスコミの取材は、すべて私か仕切っていました。店長の話によると、店長とアルバイトの店員が、その女性に『救急車を呼びましょうか』と尋ねたそうです。その時、女性は断つたというのです。そのことは警察の調書にも載っていますし、私自身、マスコミの方にも、そのように答えてきました」  オーナーの話によれば、当初からマスコミの取材に応じていたのは「店長」ではなく、「オーナー」だったという。また、肝心の内容について、どのマスコミに対してもオーナーは、「店長と店員が『救急車を呼びましょうか』と朝木に尋ねたこと、朝木が、その申し出を断ったことを、はっきり説明してきた」という。  すなわち、乙骨が書いていることは、この証言とまったく矛盾しているのである。  さらに、重ねての質問に、オーナーはキッパリと答えている。 「店長の話によると、女性に『救急車を呼びましょうか』と尋ねたそうです」 「本当に尋ねたのですか?」 「ええ、尋ねたことは間違いありません」  要するに、乙骨白身も「重要なポイント」と言っている肝心の部分で、乙骨は事実とまったく違う大ウソをデッチ上げているのである。  しかも乙骨は「店長」に取材したと称しているが、仮に本当に取材を行ったとしても、取材に応じていたのは「オーナー」だったはずである。  つまり、実際には、乙骨は「取材をしていない」か「取材で得た証言を百八十度、ねじ曲げて書いていた」かの、どちらかである。  私たちは確認のために「店長」その人にも取材を試みた。店長は、すでにハンバーガー店を辞めていたが、当時のことを思い出して答えてくれた。  「救急車を呼びましょうか」と問いかけた事実については「朝木さんに私とアルバイトの店員が聞きました」と店長は、はっきり答えてくれた。  オーナーも店長も、証言はピタリと一致している。乙骨の書いた話など、どこにも出てこない。つまり真実は一つ。完全に乙骨のデッチ上げであると考える以外にないのである。  さらに店長は、決定的な証言をしてくれた。  「もし誰かに突き落とされたというのであれば、私か聞いた時点で『突き落とされた』とか『助けて』とか言うはずでしょう。彼女は、そんなことは、まったく言わなかったし、もし突き落とされたのだというふうに僕が思ったとしたら、むしろ僕のほうが騒いでいますよ」  まったく、その通りである。つまり、乙骨は、この店長にも直接、取材をしていないのだ。乙骨は「重要なポイントなので、私をはじめマスコミの取材陣は、二度、三度と確認したが、店長は、そうした事実はないと断言している」と書いているが、何のことはない。これもウソ八百だったのである。 一冊の本で発言が矛盾  もう一度、乙骨の本の記述に戻ってみよう。乙骨は本の前半部分で「重要なポイントなので」「二度、三度と確認した」云々と、店長に直接、何度も取材したかのように書いている。  ところが、同じ本の後半で乙骨は、厚顔無恥にも、こう書いているのである。 「店長に直接取材を試みたが、いずれも拒否され」た、と。つまり店長には、直接、取材していないと書いているのである。  一冊の本の中で、一方は「取材した」と書き、別の場所では「取材していない」と書く。恐るべき虚構、フィクションではないか。「言ったのか言わないのか」「事情を聞いたのか聞かないのか」。その事実が「どうだったのか」。これこそが文章の「肝」である。ところが乙骨は、そうした確認を一切していない。  要するに乙骨は、ジャーナリストにとっては「命」ともいうべき「取材」も、ろくにせず、いい加減なデマを書き飛ばして恥じない男なのだ。だからこそ、一冊の本の中で相矛盾する内容を平気で書くという、これ以上ない大失態を演じる羽目になるのである。  それだけではない。一九九七年七月号の『文藝春秋』にも、こう書いている。  「店長に、私を始めとするマスコミ陣は、二度、三度と確認を求めた。その結果、店長は『現場の駐車場の管理人との間で〈救急車を呼びましょうか〉との話はしたが、朝木さんに〈救急車を呼びましょうか〉とは問いかけていない』と明確に答えているのである」  当然のことながら、これまた真っ赤なウソである。 アルバイト店員の存在すら知らなかった乙骨  乙骨の杜撰な取材ぶりは「新潮事件」の法廷でも明らかになっている。乙骨は、店長に直接取材しなかっただけではない。なんと「アルバイトの店員」については、その存在すら知らなかったのである。  法廷で尋問台に立った乙骨は、原告側弁護士から、厳しい追及を受けた。朝木の転落死現場に、誰がいたかをめぐる、やり取りである。       ◇ 弁護士 オーナーは、倒れていた現場に、誰と誰がいたというふうに言っていましたか。 乙骨 駐車場の管理人、あと、ほかに何人かいたと言ったのかな。 弁護士 大事なポイントですよ。何人いたか、いなかったかわからないんですか。 乙骨 二人で話をしたというふうには記憶がありますね。 弁護士 店長と駐車場の管理人がいたことは分かりますね。ほかには誰もいなかったんですか。 乙骨 アルバイト店員もいたと言っていたのかな。 弁護士 アルバイト店員もいたとも言っていたわけですね。 乙骨 それはいま突然のご質問ですから、ちょっと記憶を喚起しないと、はっきりしたものは言えませんね。少なくとも、この話を誰としたのかということで聞いていましたから、周りに何人いたかということについて、正確に聞いたかどうかということは、ちょっと記憶にないですね。 弁護士 事件性の有無で重要なポイントなんだから。取材活動する上においても、その場に誰がいたんですかというのはイロハじゃないですか。       ◇  弁護士が指摘する通りである。現場に誰がいたかという確認作業は、取材の「イロハのイ」である。それすら乙骨はしていない。おかげで乙骨は、自分で「重要なポイント」と言っておきながら、その肝心の部分に関して、重大な見落としをしてしまったのである。  すなわち、弁護士が問い質している「アルバイト店員」こそ、「店長」と一緒に、朝木市議に「救急車を呼びましょうか」と問いかけた張本人だからである。  乙骨に対する追及は、さらに続く。       ◇ 弁護士 アルバイトの店員は、いませんでしたか。そうオーナーは答えていませんでしたか。 乙骨 アルバイトの店員も、いたかもしれませんね。いたというふうに話をしたかもしれませんが、ここのなかでの話というのは、朝木が救急車を断つたかどうかという点がポイントでしたから、周りまで、そのへんのことを聞いたかどうか、はっきり記憶にないです。       ◇ 自分で「救急車を断ったかどうかという点がポイント」と言いながら、最も重要な「アルバイト店員」については、スッポリ取材が抜けている。ここまでくると、哀れなほどの愚劣ぶりである。  ただし、この時点で乙骨本人は、まだ質問の本質部分が、全く理解できていない。乙骨は法廷で、さらに弁護士から追い込まれていく。       ◇ 弁護士 オーナーは、その場にいたアルバイトの店員が、朝木さんに対して救急車を呼びましょうかと聞いたところ、いいですと答えたというふうには言っていませんでしたか。 乙骨 聞いたことはありません。 弁護士 店長が言わなくたって、アルバイトの店員に聞いていれば、そういった会話が出たという話になるんだけれども、あなたは、そういった大事なことは聞いていないんですか。 乙骨 アルバイトの店員がいたかどうかというのは、確認していませんから、記憶にはっきりしませんね。 弁護士 (書証を示し)「店長が『落ちたのですか』と聞いたところ、故朝木市議は左右に顔を何度も振りながら『違う』とはっきり否定したほか、アルバイトの店員が『救急車を呼びましょうか』と申し向けたところ『いいです』と拒否したこと」ということで、その場の様子を述べてくれているんですけれども、こういった話は聞いていませんでしたか。 乙骨 いや、初めて聞いて驚きましたね。(中略)初めて聞く話ですね、これは。モスバーガーのアルバイト店員が聞いたなんていう話は初めて聞きますよ。 (中略) 弁護士 この時点で、こういった取材情報は得ていたんではないですか。 乙骨 いや、初めて聞きました。僕はモスバーガーの店長が聞いたというふうに千葉さん(=当時、警視庁東村山署広報担当)が言っていますから、そういう話だと思っていましたので、店員が聞いたというのを今、初めて聞いて驚きましたですよ。       ◇  乙骨は、弁護士の口から語られる「真相」を前に、ただオロオロしながら「初めて聞きました」「驚きました」を繰り返すだけであった。  要するに乙骨の頭には、最初から「学会を中傷する」ことしかないのである。そのために正確な事実を知ろうとしない。都合の悪い情報は最初から遮断してしまう。  「事実」など、どうでもいい。朝木の死因がどうであろうと、関係ない。学会をターゲットにして、中傷し有名になれるかどうか。ただ、それだけなのである。  乙骨の、こうしたデマ捏造の実例は、それこそ枚挙にいとまがない。取材もしていない人間を平気で「取材した」と言い、「事実」でなく自分の「誇大妄想」を、そのまま書き殴る−−それが乙骨正生という男なのである。 捜査当局も「事件性なし」と結論  朝木の転落死から四ヵ月近くたった一九九五年十二月二十二日、所轄の警視庁東村山署は、重大な発表を行った。同署は転落死について、犯罪性を明確に否定し、飛び降り自殺だったと断定する最終的な捜査結果を公表したのである。  その理由として、転落現場近くで争う声や不審な目撃情報がなかったこと、市議の着衣に突き落とされた形跡が、まったくないこと、店長に「大丈夫です」と話し、被害を訴える言葉がなかったことなど、具体的な根拠を挙げた。そして「転落について他人が介在した状況はなく、犯罪性はない」と結論づけたのである。  続いて東京地検は九七年四月十四日、「自殺とは断定できないが、証拠などの結果から、他殺との確証は得られなかった」と発表している。  その主な理由として検察は、朝木は、@転落直後の発見時、救急車の出動を拒否した A意識がある間も、危害を加えられたことを訴えなかった B転落の直前に付近を一人で行ったり来たりしている姿が目撃されていた C争った形跡がなかった−−などを挙げた。  つまり、遺族や乙骨が執拗にこだわってきた「他殺」説は、一年半に及ぶ綿密な捜査によって、完全に否定されたのである。 「紛争報道の名に値しない」と判決  一連の週刊誌報道の中でも『週刊現代』の「夫と娘が激白! 『明代は創価学会に殺された』」との記事(一九九五年九月二十三日号)は悪質極まる内容だとして、学会側が、講談社と当時の編集長・元木昌彦、朝木市議の夫・大統、娘・直子を名誉毀損で訴えた。  『週刊現代』は、朝木大統、直子の邪推に基づく学会中傷のコメントを、何の裏付け取材もなく、そのまま掲載し、市議の転落死に学会が関与していたかのように騒ぎ立てた。誰が見ても悪質なデマ報道であり、重大な人権侵害事件にほかならない。  この裁判の一審判決が九九年七月十九日、東京地裁で言い渡された。当然のことながら裁判所は、創価学会側の主張を認め、講談社と元木元編集長に対し、謝罪広告の掲載と、二百万円の損害賠償を命じた。  その後、二〇〇一年五月十五日に東京高裁は講談社側の控訴を棄却するとともに、一審で責任をまぬかれた朝木父娘に対しても、謝罪広告と損害賠償を命令。  さらに最高裁判所は○二年十月、講談社と朝木父娘の上告を棄却し。両者に対し同誌への謝罪広告の掲載と二百万円の賠償を命じた二審判決が確定した(元木は上告を断念)。  当時、この種の裁判で「謝罪広告」の掲載までを認めるケースは異例。謝罪広告は、被害者にとっては傷つけられた名誉を回復する有効な手段の一つとされる半面、加害者であるメディア側の編集権との絡みで、裁判所は極めて慎重な扱いをする。その意味で、謝罪広告を命じたこの判決は、『週刊現代』のデマ記事が、いかに悪質であったかを示す何よりの証左なのである。  さらに、裁判の過程でも、朝木父娘や乙骨らの「言いがかり」に何の根拠もないことが明白になっている。すなわち『週刊現代』側は法廷で、自分たちのデマ報道が真実であるとの根拠を、何一つ示すことができなかったのである。"大統、直子が言ったことを、そのまま伝えただけ"とする逃げの一手に終始するばかりで、"創価学会に殺された"などと報じた裏付け証拠は、まったく示すことができなかった。結局、自分たちでデマを流したと認めたも同然である。  このデマ記事でも、例によって乙骨のコメントが重要な役割を果たしている。  「彼女の存在は、ただの地方議員というだけにとどまらず、創価学会はかなり危機感を持っていたはず」  完全に乙骨の邪推であり、それも悪意に基づく推測である。  先の判決は『週刊現代』の記事を、こう断じている。  「原告(=学会)による朝木市議殺害の疑惑の存在を読者に強く印象づけようとする意図が読み取れる表現方法がなされている」  「全体として、朝木市議の死亡に原告が関与しているとする被告朝木らの主張に好意的な内容になっている」  その上で判決は『週刊現代』の悪質さを次のように「断罪」する。  「当事者の一方のみに偏った情報を流すだけの報道は、民主主義社会において尊重されるべき紛争報道の名に値しない」  「紛争報道としての公正中立性を維持していないと判断される」  「当事者の一方のみに偏った情報を流すだけの報道」という指摘。『週刊現代』をはじめとする週刊誌の学会に対する多くの記事が、記事にする時点で、すでに悪意に基づいており、中立報道というマスコミとしての当たり前の姿勢から外れていると思われる。  乙骨も、脱会した時点で学会に対して悪意、怨念を持っている。対立する宗教団体に身を置いた時期もあり、いわば反創価学会の運動家である。ケース5でも詳しくふれるが、要は一方の「当事者」であって、それを中立者を装って"ジャーナリスト"として使うこと自体、その雑誌は偏向しているといっていいだろ  ともあれ、この裁判は途中から、取材した側である『週刊現代』と、取材された側である「朝木父娘」という被告同士の醜い内紛劇に発展。審理の大半は「学会が関与したと言った、言わない」をめぐる争いに費やされた。本来なら、被告としては「学会関与」の証拠を提出し、これを立証すればいいものを、所詮、ウソはウソ。そんなことができるはずもなく、こうした不毛な内紛に陥ったのである。  この裁判の過程それ自体が、何よりも朝木父娘や乙骨、『週刊現代』らの主張に何の根拠も裏付けもないという明白な証拠といえよう。  ちなみに乙骨は、この裁判にもシャシャリ出て、一連の被告同士の内紛では『週刊現代』側に加担、朝木父娘らを排撃する側に回っている。しかし当然のことながら、そうした乙骨の主張の中にも、"学会関与"の確たる証拠はいっさい出てこなかった。  乙骨のからむガセネタが、いかに悪質かつ危険か――この裁判の判決も、それを明確に立証したのである。  東村山デマ事件といえば、今年の五月十五日、この事件についてのもう一つの裁判で、判決が下る。それは、乙骨が発行人をつとめる雑誌『FORUM21』の二〇〇四年一月十五日号に掲載された、座談会「やはり『他殺』だった朝木明代東村山市議怪死事件」という記事をめぐる裁判。当該記事の座談会には、朝木直子、矢野穂積と乙骨が参加していた。  ここまで述べてきたように、朝木市議の死が他殺ではないことは、警察・検察が綿密な捜査のすえに出した最終的な結論である。にもかかわらず、捜査終結から数年を経て蒸し返してみせたのだ。  この悪質な中傷記事を重くみた学会側は、発行元の有限会社フォーラム、同誌発行・編集人の乙骨、記事に登場する矢野穂積を相手取って名誉毀損訴訟を起こしたのである。  東村山デマ事件に関する裁判で、乙骨自身が被告となるのは、じつはこの裁判が初めて。  五月十五日の判決が乙骨側の敗訴なら、乙骨個人にとっては裁判での五件目の敗訴となる。また、『FORUM21』の記事をめぐる裁判としては三件目の敗訴となる。 ▼ケース4 白山氏に対する名誉毀損事件  乙骨は『週刊新潮』が犯した別の重大な人権侵害報道事件にも深く関与している。  事の起こりは、一九九四年七月二十一日、北海道胆振管内大滝村(現在の伊達市)の国道で起きた、ある交通事故であった。乗用車の運転手が運転を誤ってセンターラインを大きく越え、たまたま対向車線を走ってきたトラックと衝突、死亡した。トラックを運転していた被害者、苫小牧市在住の白山信之氏も深い傷を負った。  現場検証にあたった地元の伊達警察署は、事故の原因が全面的に乗用車側にあると判断。保険会社も、白山氏側の過失割合をゼロ、相手方を百と判定した。  つまり、元々は「事件」でも何でもなかった。地元紙もべ夕記事扱いした、普通の「交通事故」だったのである。 事故の被害者を人殺し扱いした『週刊新潮』  ところが『週刊新潮』は、この「事故」を無理矢理「事件」に仕立て上げたのである。死亡した運転手が日蓮正宗寺院の住職(室蘭市・深妙寺)であり、被害者の白山氏が、たまたま学会員であったことに目をつけ、学会と日蓮正宗との対立を背景とした「偽装事故」であるかのごとく報じた。それが、一九九四年九月一日号の「大石寺『僧侶』を衝突死させた創価学会幹部」という記事であった。  新潮は「住職の知人」「信徒」などという出所不明の匿名コメントを並べ立て、さも事故に疑惑があるかのように騒ぎ立てた。いわば"暴走運転"の事故に巻き込まれた被害者であった白山氏は『週刊新潮』の、なり振り構わぬ学会中傷に巻き込まれ、"人殺し扱い"されてしまったのである。  当然のことながら、白山氏の一家は、この記事によって深刻な被害を被った。夫人の栄子さんは、心労から1ヵ月の入院を余儀なくされた。白山氏は『週刊新潮』の発行元である新潮社を相手取り、損害賠償請求の民事訴訟を起こした。  この裁判で、一審の札幌地裁は九六年十二月、記事が名誉毀損にあたることを認め、新潮社に百十万円の賠償金支払いを命じる判決を下した。これは、当時のこの種の裁判での賠償額としては高額であり、いかに裁判所が名誉毀損の程度を重く見たかがうかがえる。  欧米では、人権侵害報道による損害賠償額は日本とは比べものにならないくらい高額である。悪質なものは「懲罰的損害賠償」として数億円から数十億円にもなる。  日本でも近年、損害賠償金は高額化の傾向にある。本書の第1章で紹介した、西澤氏による女性テレビ局アナウンサーやプロ野球の清原和博選手に対する人権侵害報道では、数百万円の賠償金の支払いが命じられている。  賠償金高額化の傾向と軌を一にして、週刊誌に対する国民の信頼も低下の一途をたどっている。  たとえば、『読売新聞』が二〇〇一年に行った世論調査では、対象者に「信頼できるメディア」を三つ挙げさせたところ、一般の新聞が七六%、NHKテレビが八二%の人から「信頼できる」とされたのに対し、週刊誌を挙げたのはたったの一・二%だった。残る九八・八%の人々は、「週刊誌は信頼できない」と考えているのである。  週刊誌の報道メディアとしての信頼性はもともと高いとは言えなかったが、これほどまでに低下したことはなかったのではないか。  白山さんは私人ではあるものの、「殺人犯に仕立てられた」という事態の重要性を考えれば、やはり現在ならば数百万円近い賠償額になっていたであろう。  新潮社側はこの判決を不服として控訴したが、二審の札幌高裁も翌年九月、一審判決を全面的に支持。さらに新潮社側は上告したが、一九九八年三月、最高裁も上告を棄却。新潮社側の完全敗訴が確定している。  この記事は、一部政治家の創価学会攻撃にも利用された。白山氏の一家が記事のショックから立ち直りかけた矢先の九四年十月十一日、自民党の川崎二郎議員が衆院予算委員会で、『週刊新潮』のデマ報道を取り上げたのである。その模様は国会中継で全国にテレビ放映された。  もとより国会法第百十九条には「各議院において、無礼の言を用い、又は他人の私生活にわたる言論をしてはならない」と定められている。日本における憲政の歴史を振り返っても、およそ国会の場で、無事の一市民に対し、党利党略から人身攻撃が行われたことなどないであろう。  国民の人権を最大に尊重すべき国会議員が、率先して国民の人権を蹂躙することなど、いかなる理由があれ許されるはずはない。その意味でも、恐るべき人権侵害事件であり、憲政史に残る恥辱であろう。ガセネタによる永田質問の先例があったわけである。  西澤氏がどういうつもりで「ガセネタ」を売り歩いているのか知るよしもないが、乙骨の場合は白山さんを利用し、創価学会を貶めるために仕掛けたのである。  この川崎議員による国会質問に、乙骨がどう深く関与していたのか説明しよう。 政治家とつるんで民間人を攻撃  いつの時代であれ、政権をめぐる闘争ほど熾烈な争いはない。政敵を攻撃するため、あらゆる謀略がめぐらされる。民主党を激震させた「送金メール事件」も、まさにそのような熾烈な争いの中で起きた同党の自爆行為である。  民主党は焦っていた。「政権準備政党」を名乗りながら、昨年(二〇〇五年)九月の総選挙で党始まって以来の大惨敗を喫し、その後も所属議員の逮捕などの不祥事が相次ぎ……そうした状況からの起死回生を狙っていた。だからこそ、その真贋を検討することもなくガセネタに引っかかり、政界を大混乱に陥れたのである。  「歴史は繰り返す」という。十二年前の一九九四年に起こった、「送金メール事件」とまったく同じ構図をもつ事件。それが、自民党の川崎二郎代議士が『週刊新潮』のデマ記事をあえて国会で取り上げ、白山信之氏の人権を侵害した事件であった。  現在は公明党と連立政権を組んでいる自民党だが、九四年当時は社会党(現・社民党)、新党さきがけの二党とともに「自・社・さ連立政権」を組んでいた。いまとは逆に、公明党とは敵対する立場にあったのである。  しかも、前年の九三年夏には、公明党も加わった細川井自民連立政権の誕生で、自民党は四十年近く君臨してきた政権の座からすべり落ちていた。そしてそこから、なりふり構わぬ公明党・創価学会攻撃も始まっていた。  九四年になって「自・社・さ連立政権」が誕生し、自民党は政権に復帰。だが、この連立政権は政策面ではまったくの「水と油」。政権欲しさの寄り合い所帯でしかなく、支持率も低迷していた。自民党にとって、再度の下野も十分あり得る状況だった。ゆえに、自民党には焦りがあり、野党叩き、とりわけ公明党叩きに血眼になっていたのである。その焦りから、冷静に検証すれば容易にデマとわかる『週刊新潮』の記事を、国会で取り上げてしまった。  政権争いに焦る政党が、さしたる検証もなくガセネタに飛びつき、テレビ中継も入る国会質問の場で一民間人(「送金メール事件」の場合は武部自民党幹事長の次男)を中傷。そのことで国会を混乱させ、大切な予算審議を滞らせて国民全体にも不利益をこうむらせた……以上が、「送金メール事件」と「白山事件」の二つを貫く共通の構図である。  そして、同じ構図をもつ二つの事件の背後には、それぞれ「ガセネタ屋」の暗躍があったというわけだ。  そもそも、この一件を仕掛けたのは、学会攻撃を飯の種とする山崎正友であった。かつて、自分の事業の失敗で莫大な負債を抱えた末、弁護士という立場にありながら学会を恐喝。懲役三年の実刑判決を受けた元服役囚である。  山崎は一九九三年、服役先の栃木県・黒羽刑務所を仮出所するや、学会攻撃を再開。その活動の足場にしたのが日蓮正宗であり、頼った先が当時の同宗管長の阿部日顕であった。  仮出所した後、山崎が日顕に宛てた手紙が、宗教専門紙「中外日報」(九五年一月七日付)によってスクープされた。この手紙には、山崎が自民党と水面下で結託し、学会攻撃を仕掛けた事実が詳細に記されていた。  「二十七日、自民党の幹部と、今後の作戦の打合せをしました」  手紙が書かれたとおぼしき時期などを勘案すると、ここで言う「二十七日」とは、九四年九月二十七日のことであると考えられた。実際に、この日、山崎は自民党の白川勝彦議員(当時)と東京・赤坂のプリンスホテルで密会していたのである。そして、この密会現場に段勲とともに同席していたのが乙骨である。  白川といえば、当時、自他ともに認める反学会の急先鋒。反学会の一部議員で構成されていた「憲法二十条を考える会」の「会長代行」も務めていた。  白川と山崎、乙骨らが密かに集まって行った「打合せ」の中身についても、山崎の日顕宛の書簡には、こう書かれている。  「十月十一日〜十三日の予算委員会の審議で、テレビ中継の入る時間帯に、一時間ばかりかけて、創価学会問題を集中的に取り上げる、という方針で、これを戦宣(=ママ)布告とし、各種委員会で追久(=ママ)をつづけ、来年には、証人喚問へと積み上げて行きたい、というのが一致した意見でした」まさに、くだんの川崎議員による国会質問と、日付、時間までピタリと一致している。要するに川崎議員の質問は、山崎らの入れ知恵に基づく謀略の一環であったのである。 国会での人身攻撃質問資料を作る  山崎が日顕に宛てた書簡には、こういう記述もある。  「国会質問のための資料づくりを、私を中心に、段、乙骨の三人で作った上で、十日までに、自民、社会、さきがけの首脳、国対をまじえて最終打合せをすることになっています」  川崎議員の質問のための「資料づくり」を、山崎・段・乙骨の「反学会トリオ」が行い、当時の与党三党の「首脳」らと「最終打合せ」までやったというのだから、聞き捨てならない。これは、国政の場を悪用した謀略である。  この謀略の主犯が山崎であることは書簡からみて間違いない。この山崎の使い走りとして働いていたのが乙骨である。  なお、国会質問で無事の市民の人権侵害を行った川崎二郎議員に対しては、世論からも強い非難が浴びせられていたが、一九九八年五月、ついに川崎議員本人が、白山夫妻に直接会って謝罪をした。その際、白山氏が「今後、政治のために一市民を巻き込むようなことはしないでいただきたい」と要望したところ、議員は深々と頭を下げ、その旨を約したという。これに対し、山崎、乙骨といった、川崎質問を"側面援護"した連中は、ダンマリを決め込んだままである。  この名誉毀損事件の発火点となった『週刊新潮』の記事に対しては、司法の場で三度にわたって、その不当性が厳しく裁かれた。『週刊新潮』編集部は白山氏に謝罪したわけではないが、少なくとも賠償金は支払った。その記事を政治的に利用した川崎議員も謝罪し、自らの非を認めた。「送金メール事件」においても民主党及び、永田氏は謝罪している。  日本の憲政史、マスコミ史において有数の人権侵害事件を起こした加害者側が、そろって法的、道義的責任を一端なりとも果たしているのである。そうしたなかで、山崎、乙骨らだけが責めを逃れるとすれば、これほど理不尽なことはあるまい。しかも当人たちは、その後も何の痛痒もなくデマ捏造、人権侵害を平気で行っている。改悛の情など微塵もないのが現状である。 ▼ケース5「信平捏造報道事件」で蠢動  乙骨が裏工作を仕組み、法廷を使って騒ぎ立て、最後は無残に破綻し潰え去った最大の「ガセネタ」といえば、「信平捏造報道事件」であろう。北海道在住の信平信子と夫・醇浩が一九九六年、学会のイメージダウンと金銭目当てで三度の「事件」なるものをデッチ上げ、『週刊新潮』に捏造手記を掲載。そのデマを使って民事訴訟まで起こし、捏造報道を繰り返したという、およそ前代未聞の謀略事件である。 「百万件に一件」の悪辣な「謀略訴訟」 この裁判は、二〇〇〇年五月、一審の東京地裁が、信平の訴えを「訴権の濫用」で却下。翌年には高裁(一月)、最高裁(六月)ともに、一審判決を支持し、信平側の完全敗訴が確定している。  判決で「訴権の濫用」が認められるケースは極めて珍しい。日本裁判史上、わずか十数件――「百万件に一件」しかないともいわれている。  「訴権の濫用」の「訴権」とは「裁判を起こす権利」のこと。「濫用」とは「みだりに用いる」こと。つまり「他人を陥れたり、嫌がらせをするために、裁判制度を悪用する」という意味である。  いうまでもないが、「裁判を起こす権利」は憲法で保障された国民の権利である。その権利を認めないというのであるから、裁判所も慎重の上にも慎重を重ねて判断を下すものである。信平の起こした訴訟を「訴権の濫用」として却下したということは、それだけインチキかつ悪辣極まるものだった、ということにほかならない。いわば、訴訟制度を悪用した信平らの陰湿な謀略に対する、裁判所の厳しい「断罪」であったといってよい。  判決には、こうある。  「本件訴えは、その提起が原告(=信平側)の実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするものではなく、被告(=学会側)に応訴の負担その他の不利益を被らせることを目的とし、かつ、原告の主張する権利が事実的根拠を欠き、権利保護の必要性が乏しいものであり、このことから、民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き、信義に反するものと認めざるを得ない」  「このまま本件の審理を続けることは被告にとって酷であるばかりでなく、かえって原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」  すなわち裁判所は、この夫婦の訴えが、はじめから「わざと裁判を起こして騒ぐ」「裁判沙汰に巻き込んで学会を陥れる」ことが目的だったと明確に認定。その上で裁判所は、「裁判を起こす権利はない」と厳しく断じ、訴え自体を「却下=門前払い」したのである。  確定した一審判決について、日本民法界の権威である北海道大学の五十嵐清名誉教授は、「立派な判決です。裁判長の加藤新太郎さんは名裁判官の一人だと思います」と高く評価している。  同じく民事訴訟の権威である宮原守男弁護士も「裁判史上に大きな意義を残すものである」と明言している。まさに歴史に残る、画期的な判決であった。 ウソつき夫婦の「提灯持ち」  この信平事件の背後では、山崎正友、『週刊新潮』を中心とした一部の週刊誌、悪徳政治家、日本共産党、当時の管長・阿部日顕をはじめ口蓮正宗の坊主・信徒といった反創価学会の人間が蠢動し、それぞれの思惑で野合して、騒動を仕立て上げてきた事実が明らかになっている。  そうした輩の大半が水面下で信平事件に関与してきたなかで、「オレが、オレが」と表舞台に割り込んできたのが乙骨である。  信平事件と乙骨とは切っても切れない関係にある。  信平は一九九六年二月、事件の発端となる狂言手記を『週刊新潮』に掲載した直後に記者会見を行っている。その司会席にあって、まるで「関係者」「身内」のような顔をして仕切り役をやっていたのが乙骨であった。  そもそも「記者会見」とは、記者やジャーナリストが質問役に回る場である。  そんなところで一方の当事者に肩入れし、出しゃばって司会を務めるなど、およそ尋常な精神ではない。  さらに、控訴審が結審するという、まさに、その日。最後の最後に信平側か悪あがきで「証人申請」しようと無理押ししてきた人物がいた。これまた乙骨である。  まさに、この事件の「揺りかご」から「墓場」まで、乙骨は提灯持ちよろしく付きまとっていたのである。  この間、「信平といえば乙骨」「乙骨といえば信平」という"定位置"を獲得。『週刊新潮』をはじめ週刊誌で信平問題が取り上げられる際には、決まって「コメント屋」として登場した。  乙骨は、くだんの「記者会見」の前に、信子と綿密な打ち合わせも行っていた。会見場の新宿・ワシントンホテルから、信子と仲良く寄り添って出てくる場面が写真に残されている。  また、記者会見の席上、「どうして(手記を発表するメディアを)『週刊新潮』にしたのですか?」との質問を受けた信子は、あっけらかんと舞台裏を漏らしてしまった。  「主人が、龍年光(脱会者)さん経由で乙骨さんを紹介されたので……」  信平のガセネタを『週刊新潮』編集部に持ち込んだのが乙骨だというのである。  ともあれ、ここまでくれば乙骨は、裁判所から断罪された「信平事件」の、まさしく「当事者」であったというしかない。  この一件だけを見ても、乙骨はジャーナリストなどではないことが明確である。ジャーナリストは中立でなければならない。  彼は「一方の当事者」なのである。  それを「ジャーナリスト」と称するから紛らわしくなる。というより、乙骨自身がわかっていないのである。 「信平側の人間」として傍聴  乙骨は裁判のたびに、信子や弁護団、『週刊新潮』の記者とともに法廷に現れた。審理が終われば終わったで信子らと連れ立って、いそいそと法廷をあとにする。  こんな「当事者」を信平側弁護団は、最後の頼みの綱として「乙骨さんは創価学会に詳しい方で、ジャーナリストとして、かなり定評のある方です」などと裁判長に紹介したのである。いったい乙骨の何を指して「定評あるジャーナリスト」と呼べるのであろうか。  乙骨は学会中傷ネタ以外、まともな記事など書いたことのない男である。「ブラック・ジャーナリスト」にも優劣があるとすれば、間違いなく最下位にランキングされる男。  創価学会があるから騒げるにすぎない男である。  当然、控訴審の裁判長は信平側の企てを、あっさり見破り、乙骨の証人申請を、あっけなく却下した。 腹いせに裁判長を悪罵  信平の"応援団"である『週刊新潮』が提灯記事を出す際には、乙骨が必ずコメントを出していた。なかでも一審の審理中に、賢しらにも裁判長を激しく罵倒した事実は特記しておく必要があろう。  これは『週刊新潮』 一九九七年十一月二十七日号の「裁判官の『挙動不審』」なる記事。  狂言訴訟の第六回口頭弁論(東京地裁)で、満田明彦裁判長は、信子の請求について弁論を終結すると宣言。信子の請求には、まったく理がなく、証拠調べや証人尋問など、するまでもないから、もうこれ以上、弁論を続ける必要はない、との判断が示されたのだ。そもそもがデマに基づく不当訴訟であり、審理の経過から言っても信平側の敗訴は確定的であった。  その後、信平側は何とか裁判を引き延ばそうと「裁判官忌避」すなわち裁判官を拒否する旨の申し立てを行うわけだが、その下地づくりの意味もあったのであろう、先の「裁判官の『挙動不審』」なる記事の登場となった。  内容はタイトルどおり、"裁判長がこんな決定を下したのは、創価学会の「圧力」に屈したからにちがいない"という妄想に凝り固まった、お粗末な記事である。  その中で乙骨は、邪推と妄念に満ちた「裁判長への人格攻撃」を展開した。  「入廷した時から、いつになく満田裁判長が緊張しているな、という感じがしていたんです。席についてもきょろきょろと視線が定まらないし、言葉も"えーと、えーと"が連発され、おどおどした感じでした。人間、平常心でいられない時にいろんなアクションを起こしがちですけど、彼の行動はまさにそれでした。それに、いつも緊張して険しい顔をしている池田弁護団の面々がこの日に限って、裁判官の入廷前から妙ににこにこしていた」 「裁判長が偏向している」という『週刊新潮』のレッテル貼りに、まさに、おあつらえ向きのコメントである。だが、乙骨が「学会の圧力」の根拠として挙げるのは、裁判官の「表情」と「口調」、それに学会側弁護団の「表情」だけ。「裁判官の『挙動不審』」などと大騒ぎする根拠はといえば、乙骨ごときの薮睨みの雑感だけなのである。  もとより、表情や口調などというものは極めて曖昧なものである。たとえば、ある裁判の証人が証言台で微笑を浮かべたとしよう。その証人を「善人」として報じたいA誌は「自信に満ちた余裕の笑み」と書くだろうし、逆に「悪人」として報じたいB誌は「反省の色なく不敵な笑い」とでも表現するだろう。  物事を客観的に分析・洞察する力に乏しい乙骨は、裁判長の「表情」と「口調」に対する思い込みだけを根拠に、「創価学会の"攻勢"で、司法の判断が歪められていないことを祈るのみです」とまで言い放つたのである。もちろん、歪められているのは「司法の判断」ではなく「乙骨の判断」のほうである。  この記事が出た後、まさに判決が予定された日の直前に、信平側は案の定、「裁判官忌避」の申し立てを行った。つまり"裁判官側に裁判の公正を妨げる事情があるから、裁判官を替えてほしい"と要請したのである。しかし実際には、満田裁判長に「裁判の公正を妨げる事情」など、あるはずがない。信平側とて、これが認められるとは思っていなかったであろう。あくどい裁判の引き延ばし工作である。  信平らが「裁判官忌避」という"戦法"を選んだ理由について、法律家は言う。  「何らかの事情で、どうしても裁判を引き延ばさなければならない場合に、最後の最後の手段として、無駄と知りつつ行ってくる場合があります。悪用としか考えられないケースが目につきますね。そんな場合は、むろん、申し立ては棄却されますが、裁判は当然、長引くことになります」  当然のことながら東京地裁は"物的、人的に圧力がかかったとは認められない"として、忌避申し立てを却下。信平側は、この却下を不服として、さらに東京高裁に「即時抗告」という最後の悪あがきまで行っている。もちろん、そんな抗告は、あっけなく「棄却」という結果に終わった。  そして、確定した東京地裁判決も、こう断じている。  「(信平らの裁判官忌避の申し立てには)およそ忌避の理由がないことは経験ある法律実務家にとっては明らかであり、この申立ては専ら訴訟の引き延ばしを目的としてされたものではないかとの疑問が残る」  これまた「訴権の濫用」と認定される大きな要因となったのである。まさに「人を呪わば穴二つ」である。  信平をめぐる一巡の騒動は、前述のごとく、最終的に「訴権の濫用」として断罪された。判決には、この一件の悪質さを裁断する痛烈な批判が並ぶ。  「極めて不自然かつ不合理」  「納得させられるところはなく、およそ信用性に乏しい」  「(学会側に対し)有形、無形の不利益を与える目的で本件訴えを提起した」  「訴訟を撹乱してともかくその引き延ばしを図ることだけを目的にしたものと取られてもやむを得ない」  さらには、こんな裁判を続けることは、「かえって原告(=信平)の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」とまで断言している。  信平夫婦に与した輩の策謀は、司法の場で一切が見抜かれ、完膚なきまでに粉砕された。  もとより、このデマ事件で終始、一貫して虚言夫婦と行動をともにした乙骨もまた、断罪されたといってよい。 ▼ケース6 「身延の脱税」をめぐるデマ事件  もはやまともなマスコミから見向きもされない乙骨は、二〇〇二年三月、ついに自らが発行人となって"デマ雑誌"を創刊した。それが、隔週刊誌『FORUM21』である。  ところが、創刊してからほどなく、同誌二〇〇二年五月一日号の記事をめぐって、早くも名誉毀損訴訟を起こされてしまった。  記事は、二〇〇二年三月に東京国税局が告発した、身延山久遠寺支院の元別当による脱税事件にからめて、創価学会を中傷したものであった。  もとより、創価学会はこの脱税事件となんの関係もない。にもかかわらず、記事はあたかも事件の背後に学会がいるかのように書き立てた。匿名の「宗教関係者」による憶測コメントだけを根拠に、「(事件の)背景に創価学会の動きがある」「創価学会が仕掛けたとも言われているんだ」「(学会は)国税に圧力をかけることも可能だ」などと、デマを並べて学会を中傷していたのである。そのため、創価学会側か乙骨と発行元の有限会社フォーラムを名誉毀損で訴えたのだった。  乙骨はこの裁判の過程で、記事の裏付けとなる事実を何も出すことができず、「記事は真実である」との主張すらできなかった。"記事は脱税事件を取り上げただけで、学会をターゲットにしたものではないから、名誉毀損にはあたらない"などという姑息な言い逃れに終始したのである。 『FORUM21』の"体質" だが、裁判所はこの言い逃れを一蹴。そして、二〇〇三年五月二十九日、東京高裁が、記事の名誉毀損を認めて五〇万円の賠償金支払いを命ずる判決を下したのだった。  控訴審の判決文は次のように、『FORUM21』の"体質"にまで鋭く言及している。  「創刊当初から本件雑誌(第五号)まで、毎号欠かすことなく、控訴人(=創価学会)及びその関係者を批判する記事を掲載し続けており」、「そのような掲載経緯・掲載状況に照らせば、本件各問題部分の記載も、控訴人に対する批判活動の一環、延長として行われたもの」、「控訴人批判をも、そのねらいの一つとしていたことは否定できない」(カッコ内は引用者補足)  乙骨はこの判決を不服として上告したものの、判決を待たずして、自らこっそりと上告を取り下げた。最終的に乙骨の敗訴が確定したのである。  「ガセネタ屋」から「ガセネタ雑誌屋」へと転身を図ったところで、その下劣な本性が変わるわけはない。今後も司法の場で、乙骨のデマ・捏造の手口とその卑しい正体が、いっそう鮮明に暴かれ、断罪されていくことであろう。  かつて、筆者が創価学会の広報関係者に取材したところ「今後も、乙骨が絡んだデマ記事があったら、当然、どんどん訴える」と語っていた。乙骨の「ガセネタ」を取り扱う週刊誌は、それ相応の覚悟が必要であろう。 ▼ケース7 N・ラダクリシュナン博士デマ中傷事件  『FORUM21』の記事をめぐる二つ目の裁判沙汰は、そのすぐあとに起こった。〈ケース6〉で紹介した記事から三ヵ月後の二〇〇二年八月一日号に掲載した記事をめぐって、またもや名誉毀損で提訴されたのである。  記事は、世界的に著名なインドの平和運動家N・ラダクリシュナン博士(マハトマ・ガンジー非暴力開発センター所長)について、次のように口を極めて中傷するものだった。  「N・ラダクリシュナン氏は、昭和57年にインド政府から『問題人物』として告発を受けている、いわば"いかがわしい人物"なのである」  「(インド)政府所管の財団の名称を勝手に使用して諸外国に寄付を募り、私腹を肥やしている」 「寄付の見返りとして賞を濫発する人物として、インドの有識者の間ではよく知られた人物だというのである」  これらの中傷は、まったく事実無根のデマであった。 学会の理解者まで攻撃対象に  なぜ『FORUM21』がインドの文化人を中傷したのかといえば、ラダクリシュナン博士が創価学会の池田名誉会長と親しく、名誉会長を高く評価した著作も出版しているからである。創価学会攻撃を主目的とする『FORUM21』は、学会の理解者まで攻撃対象にしたというわけだ。  デマで中傷されたN・ラダクリシュナン博士側は、乙骨と発行元の有限会社フォーラムを相手取り、名誉毀損訴訟を起こした。  この裁判では、乙骨のあまりにずさんな仕事ぶりが明らかになった。記事の中では「ラダクリシュナン氏を告発するインド政府のレポート」なるものが紹介されていたが、じつはこれは、K・S・ラダクリシュナというまったく別人について書かれたレポートであった。しかも、インド政府による公式な報告書でもなかった。  乙骨は、名前が似ているだけの赤の他人についてのレポートを、N・ラダクリシュナン博士のことだと思い込んで中傷記事を作ってしまったのである。  しかも乙骨は、レポートの全文を読んでさえいなかった。当該レポートは全五十六ページに及ぶものであったが、乙骨はレポートの一ページ目のコピーを入手したのみであった。二ページ以降を確認もせずに記事を書いていたのである。かりにも「ジャーナリスト」を名乗りながら、最低限の確認作業すら怠るこうした姿勢は、信じがたい。 別人物と取り違えた全くの誤報  東京地裁の判決は、こうした事実をふまえ、次のように乙骨を断罪している。  「冊子の作成者や記述内容の確認さえしていれば、それがインド政府の調査報告書ではないことや、冊子中にK・S・ラダクリシュナの名前はあっても原告(=N・ラダクリシュナン博士)に関する記述はないことに容易に気づくことができたと考えられる」(カッコ内筆者補足)  「原告を別人物と取り違えた全くの誤報であり、弁明の余地はない」  まさに「一刀両断」という趣の厳しい言葉である。  乙骨はこの裁判の証人尋問で証言台にも立ったが、その際、"自分でも直接取材した"と苦し紛れの言い訳をした。その取材とは、"二〇〇〇年四月にインドのプーラン・デヴィ国会議員に会って、N・ラダクリシュナン博士について意見を聞いた"というものだった。  プーラン・デヴィ氏(故人)は、日本でもベストセラーになった伝記『女盗賊プーラン』で知られる。女盗賊から国会議員に転身した「民衆の英雄」である。乙骨としては彼女の権威を借りることで、少しでも自分のずさんな仕事ぶりを払拭しようと考えたのだろう。  だが乙骨は、デヴィ氏に会ったときの取材内容について法廷で詳しく追及されると、急にシドロモドロになった。挙げ句の果てには、"デヴィ氏に質問した際、「ラダクリシュナン」と発音したか、「ラダクリシュナ」と発音したか、自分でもどちらかわからない"などと白状する始末だった。  乙骨が劣勢挽回を狙って持ち出したデヴィ氏の名前だったが、判決はこの証言について次のような判断を示し、あっさりと退けている。  「デヴィの意見は、このK・S・ラダクリシュナを念頭に置いたものであった可能性がある」  「ところが、被告乙骨は、デヴィの発言内容を確認するために、さらに具体的な質問をしたり、他の取材をすることはしていない」  なお、N・ラダクリシュナン博士を中傷したこの記事の「ネタ元」は、じつはいまから十八年も前に週刊誌に掲載されたデマ記事であった。また、「ラダクリシュナン氏を告発するインド政府のレポート」なる英文冊子も、「反学会ブラック・ジャーナリスト」仲間である段勲から提供されたものであった。  「乙骨のデマには他人のデマの焼き直し・蒸し返しが多い」と指摘してきた通り、この記事もまたしかりであったのだ。  これほど自分のデマで裁判沙汰を起こし、その裁判のたびに厳しく裁かれてきた男が、これまで日本のジャーナリズム界に存在したであろうか。 第4章 「売名」 民主党から「立候補」を目論む  乙骨の国政選挙出馬をめぐるドタバタ劇がある。 「送金メール事件」の西澤氏は"自分の妻を民主党から立候補させようと打診していたこと"が明らかにされたが、実は乙骨もかつて、民主党の幹部に比例区から立候補させてくれるよう頼んでいたという。  民主党には、比較的若い人間が多い。また、政治思想も経歴もさまざまである。とかく「市民派」的な看板をもつ人々が、立候補しやすい環境でもある。そのファジーさが付け目であったのか。乙骨は、「民主党なら、自分も立候補させてもらえるかもしれない」と妄想をたくましくしたのである。  高校進学も失敗。大学受験も二度の挫折。まともな就職もできなかった。  過剰な自己顕示欲に比べて、現実は、あまりにも惨めであった。  安易に地位と名声を握れる抜け道はないか。手っ取り早く社会的ステータスを手に入れる近道はないか。そこで、選挙にしても「比例区」であれば、これは個人ではなく政党に下される審判である。乙骨にとって比例区選出の国会議員とは、「楽で」「派手で」「手っ取り早い」望み得る最上の抜け道と映ったにちがいあるまい。  しかし当然のことながら、民主党サイドの反応は冷ややかで、拒否されたという。  いうまでもなく比例代表候補とは、集票能力が厳しく問われる。労働団体なり、各種の組織、団体なり、十万、百万単位の集票力のあるバックがあるか、タレントや著名文化人のように大量の浮動票の汲み上げが見込めるか。そのいずれかでなければ、おいそれと比例名簿に登載など、できるはずがない。  バックもなければ社会的知名度も無に等しい「自称ジャーナリスト」など、誰も相手にするわけがない。いわんや、野党第一党の比例名簿である。まさしく「狂気の沙汰」である。  こんなバカげた話を持ち込まれた民主党にとっても、迷惑はおろか、神経を疑うような与太話であったにちがいない。  関係者は、当時の乙骨の挙動を指して、こう評している。 「乙骨という男は、論理的に動くことのできない男だ。有名になりさえすれば、何でもいいんだ。要するに『軽い』。それで結局、皆にバカにされてしまう」  もはや多言は要すまい。 「提灯記事」で売り込む  乙骨が民主党に甘い幻想を抱いたのには、わけがある。  さんざん乙骨が世話になった宗教紙「仏教タイムス」に、一九九九年秋以降、とりわけ民主党をめぐる記事が頻繁に登場しだした。  まず、当時、民主党が公明党対策のために立ち上げた「宗教と政治を考える会」の発足を報じる記事(九九年九月九日付)をはじめ、同会の事務局長(当時)末松義規衆院議員らとの四回にわたる対談(同月十六日、三十日、十月七日、同月十四日付)を掲載。  二〇〇〇年十二月には、党代表(当時)の鳩山由紀夫氏が登場(七日付)した。さらに翌年には前田雄吉衆院議員(六月十四日、二十一日付)、そして菅直人幹事長(当時、同月二十八日、七月五日付)と、顔写真入りでインタビュー記事が掲載された。この間、衆院選が○○年六月、参院選が○一年七月に行われている。  いずれも、「レポート」や「聞き手」は、乙骨である。鳩山氏へのインタビュー記事など、まるで同氏と対等に語り合うかのような格好で、乙骨は鳩山氏と一枚の写真に納まっている。  肝心の記事も、全体の四百九十九行のうち、乙骨がしゃべっている部分は百六十五行。実に三分の一が乙骨の発言である。  乙骨の狙いは、ただ「有名になること」「自分を大きく見せること」に尽きる。 その目論見が、ありありとわかる記事である。  自民党は公明党と連立を組んでいる。そこで、野党第一党の民主党を焚きつけ、学会攻撃の前面に出す。その過程で民主党側に自分の顔を売り、メディア等を使って"実績"もつくる。  一連の提灯記事等で、自分を十分に売り込めたと思ったか、党首や有名議員と対談を気取っているうちに有頂天になったのか知らないが、これで国政選挙出馬の話を持ちかけるだけの感触をつかんだ――と自分では思い込んだのであろう。 政治家を前に「迷講義」  世の中には、有名人や名士と会っているうちに、自分もその仲間であるかのように夢想し、のぼせ上がる単細胞型の人間が存在する。その夢想の増大とともに、持ち出す話も大きくふくらむ。乙骨も、そうした一人である。  一九九三年十二月十六日には、当時、下野していた自民党の「民主政治研究会」(以下、民政研と略す)の勉強会に「講師」として招かれたこともあった。  その際の肩書は「社会的不正を糾す会」なる団体の事務局長。山崎正友が昭和五十年代、「正信会」といわれる日蓮正宗に反旗を翻した若手坊主や一部の信徒らを煽り、結成させた、創価学会攻撃のためのダミー団体である。乙骨は、後に正信会を裏切るが、一時期、その事務局長をやっていた。  この日、会に参加したのは、国会議員が約三十五人、議員秘書やマスコミ等が約四十人。総勢約七十五人の「お歴々」を前に乙骨は、ここでもまた舞い上がった。あたかも自分か「大物」であるかのような妄想をふくらませた結果、持ち前の妄想癖・虚言癖を、いかんなく発揮したのである。  この民政研、表向きは選挙制度改革「慎重派」議員の集いということになっていたが、実質的には、当時、反創価学会の立場に身を置いていた議員の会合である。  民政研は、同年九月に発足し、同年十一月から十二月にかけて、六回に及ぶ「勉強会」を開催。その間、「講師」として招かれたのは、乙骨のほか、山崎正友、龍年光、内藤国夫(ブラック・ジャーナリスト、故人)と、学会の脱会者、あるいは学会中傷を飯の種にする人間ばかりであった。  当時、自民党は、細川連立政権の発足によって下野しており、政権復帰が至上命題であった。そのため、連立政権の一翼を担っていた公明党の支持団体である創価学会を、盛んに攻撃していた。民政研の勉強会が異常なほどのハイペースで開かれたのも、そうした背景があってのことであった。  この勉強会で乙骨は「創価学会の外交活動の実態について」と題して講演。いつもながらタイトルは大仰だが、所詮は「妄想の産物」。タイトルに比べて、内容は「お粗末」の一語に尽きた。わざわざ駆り出された議員らも、あまりの無内容ぶりに一様に幻滅。憤りをあらわにする議員もいたという。  以下、自民党サイドが関係者に配布した記録をもとに、乙骨の荒唐無稽な妄想ぶりを見ていただこう。 「邪推」「憶測」ばかりのデマ  講演の冒頭、乙骨は「過去に私自身取材をしたこと、あるいは見聞をしたことを中心に(中略)話させていただきます」と述べた。ところが、「取材」した内容など、いつまでたっても出てこない。出所不明のあやふやな噂話と憶測の類ばかりが飛び出す始末であった。  たとえば−−。 「クリントン大統領と会いたかったようですが、会えずに帰ってきまして」 「工作が激しかったと聞いています」 「外務政務次官に私の先輩にあたる創価大学の一期生の東祥三さんがなったりしていますので、よけい工作が激しかったようであります」  「のようであります」「と聞いています」。自分の足で集めた情報は、一向に出て こない。伝聞なら伝聞で、どこから得た情報かを示せばよいものを、それすらない。すべては乙骨の生み出した「妄想の産物」なのであるから、当然である。  乙骨は、こうも言った。  「例えばゴルバチョフ大統領とかサッチャー首相とかに会っている。会って、結局あんなことを言っているわけです。しかし通訳が、うまく訳して、全く違うことを言っている」  これまた、「取材」も「裏付け」もない勝手な邪推である。  乙骨が「通訳が、うまく訳して」などと何の根拠もなく言ったところで誰も信じまい。しかも国家元首級の要人ともなれば、相手側だって専属の通訳を抱えている。相手の通訳の前で、どうやって「うまく訳して」もらうのか。そうした事情を少しでも知る人間からすれば、常識の埓外である。結局、乙骨は「何も知らない」のである。 出所不明の「匿名証言」をフル活用  すでに読者にはおわかりのように、乙骨の妄想話には、「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「なぜ」「どのように」といった、具体的な事実の提示が、ものの見事に欠落している。  民政研に集った議員らは、当然、講演内容によっては国会内外での学会攻撃に利用しようと目論んでいたことであろう。ところが、どれもこれも出所不明の信用できないものばかりの乙骨の話である。とても実戦に耐え得るレベルではなかった。  たとえば、こんな話。  「(学会の活動が)すべて金絡みでやるということが、さまざま証言から明らかになったのである」  「帰国したM氏(国家元首)に対して、SGIの幹部が『Mなんて金を貰いにきたのだよ。金だよ、金』と吐き捨てるように語っていたというのである」  「SGIの幹部」という、これまた出所不明の匿名の話を、しかも「語っていたという」。二重にあやふやな「伝聞」である。M氏が、いつ、どこで、誰から、いくら貰ったのか。それが明らかにできて初めて、匿名証言も証言としての意味をもつ。逆に、それが明らかにできない以上、公の場で、それを伝えること自体、悪辣な誹誇・中傷でしかない。  かりにもM氏は国家元首である。政権を担おうという日本の公党が、どこの馬の骨とも分からぬ乙骨を講師に招いて、まったく根拠のない国家元首批判をさせていたことが明るみに出れば、それだけで大きな外交問題に発展する可能性すらあった。  何も、この講演の一件ばかりではない。一事が万事で、乙骨が人前で話す内容は、えてして同種の経路をたどる。 だが、うっかりそうした話に付き合うと、M氏の例に見るごとく、聞かされた方も、とんだ火傷を負いかねない。現に乙骨自身、自分の講演内容で名誉毀損の訴えを起こされ、敗訴しているのは、先に述べた通りである。  「ガセネタ屋」は、いわば「歩く火薬庫」のような存在だ。不用意に近づき、その話を鵜呑みにすると、大きな危険にさらされるのだ。もう一人の「ガセネタ屋」である西澤氏が、複数の雑誌と民主党に大火傷を負わせた姿が、そのことを如実に示している。 共産党への接近  乙骨は、自民党、民主党のみならず、日本共産党にも接近している。  近年、乙骨は、共産党の機関紙「赤旗」に、たびたび実名で登場している。もちろん、すべて創価学会の中傷を狙った記事である。  それにしても、良識ある者には、およそ理解できない節操のなさである。その成り立ち、政治信条から、政策に至るまで、共産党は、自民、民主とは、まるで水と油である。その三者を渡り歩く臆面のなさである。  が、当の乙骨、そのような「筋目」など、まるで眼中にない。そもそも乙骨の挙動を見る限り、「節操」という感覚自体が存在しない。乙骨を突き動かす行動原理は「学会に対する怨念」と「売名」「金儲け」ーーただ、それだけだからである。  そもそも、乙骨が創価学会を脱会後、真っ先に登場した先が共産党であった。  乙骨は共産党の機関紙「赤旗」(一九八一年四月七日付)に「創価大学第六期生O君(二五)」として匿名で登場。以来、共産党との関係は今日まで続く。  乙骨は、個人的にも何人もの共産党系の人間と繋がっていることが、すでに判明している。  また乙骨が発行している雑誌『FORUM21』には、共産党に関係する人間が次々と登場。二〇〇二年四月十五日号には、共産党の佐々木憲昭代議士へのインタビューを掲載しているが、聞き手は乙骨である。  乙骨は共産党系の出版社、「かもがわ出版」から三冊も本を出させてもらっている。『公明党=創価学会の野望』(一九九九年十二月)、『公明党=創価学会の真実』(○三年一月)、『公明党=創価学会の深層』(○四年十月)。もちろん内容はすべて創価学会・公明党に対する中傷である。  ○三年一月二十八日、京都市四条通り烏九西の「シルクホール」で乙骨は"宗教ジャーナリスト"として講演している。主催は「日本の選挙と民主主義を考える京都の会」いわゆる共産党系の"集会"である。  そこで乙骨は講演後、大物作家気取りでサイン会までやり、自著を販売したという。  乙骨が民主党に「自分を比例区で立候補させてくれ」と売り込み、言下に拒否されたことは先述した。次いで最近、急速に共産党との間合いを詰めつつある乙骨。民主党がダメなら、今度は共産党の比例名簿にでも載せてもらおうという魂胆か。希代の妄想家の乙骨である。あり得ない話ではない。 共産党員の父・邦夫の影響  ちなみに乙骨の性格形成の過程を語る上で欠かすことのできないのが、両親の影響である。  乙骨一家が脱会した一九七八年当時、乙骨の父・邦夫は学会で「大ブロック長」という役職に就いていた。  彼を、よく知る地元の東京・東村山市の学会員の証言等によれば、この邦夫もまた野心家で、長年、「公明党から立候補して議員になりたい」という願望を抱いていたという。  一説によれば、元々、共産党員であった邦夫が学会に入会した、そもそもの動機も「公明党から議員になるという野心からだった」といわれている。  邦夫が共産党を除名されたのは五七年四月。翌年の十二月に学会に入会している。  七〇年三月十七日付の「聖教新聞」には、邦夫の手記が大きく掲載されている。  真偽のほどは定かではないが、手記を読む限り、邦夫は当時の共産党の中でも、第一級の活動家だったようだ。  五〇年五月三十日に皇居前広場で行われた「五・三〇人民決起大会」では「整理行動隊長」を務めた。その後のデモでアメリカ兵に暴行を加え、投獄されて二年間の獄中生活。刑務所内でもアジビラを作るほどの活動家だったという。出獄後は、日本民主青年団(H「民青」の前身)の東京都委員長として、武装闘争の指揮にあたった、と本人は語っている。  額面通りに受け取れば、「筋金入り」の共産党員だったのである。  母親のノブも、同じく共産党員で、党の最高幹部・徳田球一の秘書だったともいわれていた。  ちなみに乙骨正生かマスコミにデビューしたのも、前述のとおり、実は共産党の機関紙「赤旗」(八一年四月七日付)である。  邦夫も息子の正生と同じく、自己顕示欲の強い、手前勝手な男だった。学会員となった後も、かつて自分が「赤旗」や共産党の機関誌に出たことがあると自慢げに語っていたという。  学会にあっても、学会の組織を利用しては会員をアゴで使う、会員の持ち物を勝手に質に入れる、寺への供養の品を買うための金を自分の飲み食いに使うなど、傍若無人な振る舞いが目立ったという。  それでいて、邦夫は公明党の公認を得て市議会議員になれると思っていたようである。実際に、このころ公明党の東村山市議が引退を迎えることもあり、邦夫は盛んに自分を次期候補として売り込もうとしていた。会合でも折あるごとに「次の議員はオレだ」と公言していたという。  だが、地元の会員からも日ごろの素行に疑問をもたれるような男が、議員の候補に推薦されるはずもない。  野心の実現がかなわないと知った邦夫は、前述の通り、七八年十二月、学会を脱会する。  邦夫の「変節の軌跡」は、象徴的である。「共産党→創価学会→反学会の正信会」というように、つねに、それまでの立場とは逆の勢力に身を投じている。  自らが身を置いているところに反発し、批判することで、新たに身を寄せる勢力の歓心を買う――そうした処世の下心が一貫しているのである。  息子の正生もまた同じである。  正生は学会を脱会して、正信会に身を投じた後、十年ほどで正信会から離れる。そして今度は正信会が敵対し続けてきた阿部日顕一派にすり寄っていく。「学会→正信会→日顕一派」との軌跡は、まさに父親がたどった道と軌を一にする。 乙骨の「デビュー作」  さて一九八〇年に大学を卒業した乙骨は、アルバイト先の正信会の機関紙「継命新聞」に、そのまま就職。九〇年には編集長となる。  もっとも、この「継命新聞」、名前こそ「新聞」とついてはいるものの、毎号毎号、創価学会の中傷記事ばかりを掲載した、ただの「アジビラ」同然の出版物。その編集長を名乗ってみても、うだつは上がらない。  そんなところからはさっさと足を洗って、メジャー・デビューを飾りたいと考えたのであろう。九二年には「継命新聞」を辞めている。辞めるにあたっては、当時から関係のあったブラック・ジャーナリストの段勲らの勧めがあったとされる。  そもそも乙骨は「継命新聞」の編集長になったころから、正信会の仇敵である日蓮正宗管長(当時)の阿部日顕に接近し始めている。九〇年十二月二十五日には、身延にほど近い、山梨県の西山温泉で、日顕と密談してきたばかりの段勲、同じくブラック・ジャーナリストの内藤国夫、学会を脱会した原島嵩と密議を交わしていたことがわかっている。反日顕の急先鋒だった正信会の機関紙の編集長が、不倶戴天の敵と手を結んでいたのである。  たとえ面倒を見てくれた人間であっても、自分の野心のためには平然と裏切る。たとえ仇敵であろうと、自分の売名のためなら、平気で鞍替えする。一般人には、なかなかできないことである。  さて、正信会を飛び出し、念願のメャー・デビューを果たそうとはしたものの、悲しいかな乙骨には"売るもの"がない。そこで売り物にしたのが、「創価大学出身者」という経歴であった。  それが『週刊文春』(九四年一月二十七日号)に掲載された「創価大学出身ジャーナリストが朝日論説委員を叱る」なる記事である。  名もない宗教団体の、無名の機関紙の記者しかやったことのない「自称ジャーナリスト」が、天下の「朝日新聞」の、しかも熟練の「論説委員」を「叱る」。ずいぶん大きく出たものだが、この記事については、出るに至った経緯を説明しておく必要があろう。  『週刊文春』が、同年一月六日号で、「創価大学出身官僚・政治家 マスコミ入全リスト」なる特集を組んだ。  文字どおり、創価大学出身の官僚や政治家など百人以上をリストアップし、実名を挙げて、出身学部、卒業年、現在の部署まで暴き立てたものである。人権侵害の極致ともいうべき記事であり、その不見識ぶりに対しては当然、厳しい批判の声がわき上がった。  その一つが「朝日新聞」一月十三日付夕刊一面のコラム「窓/論説委員室から」であった。  記事は、「業界の憲法」である出版倫理綱領の第三項「言論出版の自由を濫用して、他を傷つけたりするような行為は行わない」を引用。「卒業者即信者ではないとしても、個人名と職場を一覧表にするのは、他人の信仰を意に反して表に出す可能性が大きく、不当な圧迫を呼び寄せる恐れがありはしないか」「リスト発表は行き過ぎだろう」と痛烈な批判を浴びせている。  朝日の論説委員ならずとも、マスコミ界で仕事をしてきた人間ならば、誰しも正論と思う内容である。じつは、そもそもこの「リスト」を『文春』に売った張本人が乙骨だったのである。  そこで乙骨が、この朝日のコラムに対する「反論記事」として書いたのが、先の「朝日論説委員を叱る」である。  もちろん、知性・見識・経験・筆力のいずれをとっても、乙骨と大朝日の論説委員とでは、まるで「格」が違う。  くだんの記事は、「天下の朝日」への気兼ねと気後ればかりが目立つ、「腰の引けた」内容となっている。「ちょっと待ってほしい」「朝日新聞の論説委員なら御存知ないはずはあるまい」などと、まったく覇気がない。威勢がいいのはタイトルだけという羊頭狗肉の好例である。  むしろ、いかに「売名」のためとはいえ、また自分に"売るもの"がないとはいえ、世話になった大学の同窓生のプライバシーを売るという乙骨の下劣さばかりが際立つ内容でもあった。  下劣さばかりではない。そもそも「リスト」に載っている同窓生は、乙骨から見れば、いずれも社会で華々しく活躍している人間たちである。             自分はといえば、挫折に次ぐ挫折。どれほど口先で取り繕おうが、結局、同窓生に対する醜い嫉妬心が「リスト」暴露の動機であることは、誰の目にも明らかであった。  ジャーナリストの坂口義弘氏も、この記事について「社会的に成功をおさめている先輩や同窓生を"売った"にがいデビューだった」と述べている。  「作家は、その処女作に、その作家のすべてが込められている」という。次元ははるかに異なるものの、念願のメジャー・デビューを果たした乙骨の記事には、底知れぬ「下劣さ」「妬み」「怨念」がこもっていた。これこそが、まさしく「乙骨の全て」なのである。 仕事は「学会批判」だけ  ライターとして"売るものがない"乙骨が商売道具にしているものは「創価大学出身」という看板と「自分を大きく見せる」ことだけである。  宗教界全般の事情についても、乙骨は周囲が呆れるほど疎い。  さる宗教界関係者によると「乙骨は反学会としての知識はあるが、他の宗教については何も知らない。伝統教団も新宗教もまったく知らない」という。  月刊誌『インテリジェンス』(一九九六年六月号)に、興味深い記事がある。この記事によると、ライターに「学会だけで食えるのか」と尋ねられた乙骨が「学会(関係記事=編集部注)の仕事は全体の半分くらいです。経済物、バイオテクノロジー関連も書いています」と答えている。  乙骨が「経済もの」や「バイオテクノロジー関連」を書いているとは、筆者も初耳であった。  そこで、情報会社の日外アソシエーツの雑誌情報検索で調べてみると、「著者=乙骨正生」に該当する雑誌記事は七十五件(二〇〇六年三月現在)。このうち七十三件が、学会関連の記事であった。残る二件は、乙骨がイトマンをめぐる巨額詐欺事件の被告と会ったという記事。しかし、この記事は一九九九年の記事なので、先の『インテリジェンス』の記事が出た九六年の時点で考えれば、検索結果の記事は「一〇〇%学会関連」となる。  乙骨が「学会ものは半分」と言うからには、経済や生物工学関連の記事がかなりあってもよさそうなもの。それが一つも見当たらないのだから奇怪千万である。これまた乙骨の「口から出まかせ」と考えたほうがよさそうである。  近年でこそ、学会への中傷記事を恒常的に掲載する雑誌などで、乙骨の肩書を「ジャーナリスト」としているが、ごく最近までは違った。  数年前までは「創価学会ウォッチャーのジャーナリスト」と表記されていることが多かったのである。真っ当なジャーナリストではなく、「ウォッチャー」つまり「覗き屋」「野次馬」という「限定つきのジャーナリスト」にすぎなかったのである。  調べてみると、九二年ごろまでは「ジャーナリスト」という言葉さえ入っていない。単なる「ウォッチャー」か、あるいは当時の乙骨の仕事をそのまま表現して「『継命新聞』編集長」であった。  月刊『現代』九〇年二月号には、「創価学会ウォッチャーの驚愕座談会」なる記事が出ているが、ここでも乙骨は「ウォッチャー」。この記事には、内藤国夫、溝口敦、段勲の三人が乙骨とともに出ているが、乙骨以外の三人は、いちおう「ジャーナリスト」の肩書がついている。だが、乙骨にだけはついていない。このことが如実に示すとおり、乙骨はごく最近まで、反学会マスコミの世界でさえも「ジャーナリスト」として認知されていなかったのである。  さるマスコミ人が言っていたことを思い出す。  「ジャーナリズムは、乙骨を評論家としては認めていないんだよ。『ウォッチャー』なんだ。だけど、自分だったら怒るよ、『ウォッチャー』なんて書かれたら。ひどい肩書だよ。『覗き屋』じゃないか」