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第一章

顛末

「本件訴えは、訴権を濫用する訴えであるから、不適法なものとして却下する」

 平成十三年(二〇〇一年)六月二十六日、最高裁判所の最終判断が下され、前代未聞の「狂言訴訟」は幕を閉じた。「訴訟」に名を借りた悪質極まる狂言騒動が、ここに完全に破綻したのである。

 この「事件」の異常性、悪質性は、どこにあったのか。

 一つは、日本の司法制度を悪用した点である。後に詳しく触れるが、裁判所は、信平が起こした狂言訴訟を、「訴権の濫用」として却下した。これは日本裁判史上わずか十数例しかないという厳しい判断である。それほど類まれな「不当訴訟」「悪質訴訟」であったということである。

 二つ目は、この事件が、広範かつ巧妙に仕掛けられた、戦後最大級の「権力による宗教弾圧」であった点にある。信平夫婦という特異な人格の持ち主を表に立てながら、その裏で、特定の宗教団体を弾圧しようという政治的思惑が働いていたのである。

 三つ目は、捏造報道による人権抑圧の策謀であった点である。一部マスコミは、信平が捏造した事実無根の“事件”なるものを何の検証もなくスキャンダラスに騒ぎ立てた。それどころか、『週刊新潮』に至っては、本書で検証するように、この謀略の当初から信平と深く結託し、騒動の成り立ちそのものに深く関与していたのである。そこには、およそ「社会の公器」たる姿は微塵もない。

 まずここでは、読者に事の全容を把握していただくために、裁判の判決文に即しながら、事件の概要に触れてみたい。

「司法制度悪用」の典型

 事の発端は、平成八年(一九九六年)二月にさかのぼる。

 信平夫婦が、架空の「事件」なるものを捏造し、それに基づく「手記」を『週刊新潮』に連載。さらに同年六月、この「事件」で被害を受けたと称して、池田大作・創価学会名誉会長に対し、巨額の損害賠償を求める不当な訴訟を起こしたのである。

 そもそもが、まったくの虚構に基づいて起こされた訴訟である。当然のことながら法廷で次々とウソが暴かれ、すべての段階で信平側が敗訴するかたちで進行した。

 まず、時効であることが明白な信平信子の訴えのすべてと夫・醇浩の訴えの一部に対し、平成十年(九八年)五月に東京地裁、翌年七月に東京高裁が、信平側敗訴の判決を言い渡した。信平側は上告を断念し、敗訴判決が確定している。

 一方、これと分離されて残った信平醇浩の訴えについても、平成十二年(二〇〇〇年)五月、東京地裁が「訴権の濫用にあたり不適法である」として却下。平成十三年(○一年)一月に東京高裁が一審判決を支持し、信平側の控訴を棄却した。

 信平は、最後のあがきで上告したが、最高裁は同年六月、異例ともいえるスピードで「上告棄却」の判断を下したのである。

「百万件に一件」の画期的判決

 ここで確定した判決は、司法界でも注目を集めている。この判決は、信平の訴えを「訴権の濫用」として「却下」したものだが、これが「百万件に一件」あるかどうかという画期的な判断だったからである。

 「訴権の濫用」とは、「裁判を起こす権利をみだりに用いること」を指す。民法第一条は、「権利の行使及び義務の履行は信義に従ひ誠実に之を為すことを要す。権利の濫用は之を許さず」として、権利の行使に一定の歯止めをかけているのである。

 もちろん「裁判を受ける権利」は憲法で保障された国民の権利である。従って、「訴権の濫用」に当たるか否かは極めて慎重な判断が要求される。訴訟のなかで一方の当事者が、相手方に対して「訴権の濫用」を主張することは比較的多いが、実際に認められることは、まずない。事実、「訴権の濫用」を理由に訴えが却下されたケースは、日本の裁判史上、わずか十数件しかないのである。

 この一事だけでも、信平夫婦の起こした狂言訴訟が、いかに異常かつ悪質であったかが分かるというものであろう。

判決が「不当な企て」と断罪

 高裁、最高裁から支持された一審の判決文は、百六十四ページに及ぶ大部であるが、その隅々には、「不当な訴訟は許さない」との強い意志が脈打っている。

 それは、判決主文に、あえて「却下」という言葉を選んだ事実に、よく表れている。通常の民事訴訟で訴えを退ける場合、判決の主文には「請求を『棄却』する」となるところである。それを、あえて「棄却」でなく「却下」としているのである。

 判決文は、この点について、特に「請求棄却との違い」と題する一節を立てて論及している。

 「請求棄却の本案判決をするという選択肢も考えられないわけではない」。しかし、「訴権濫用の要件があると認められる場合には、当該訴え自体を不適法として排斥することが、民事訴訟手続上裁判所に要請されているものと解すべきである」と。

 つまり、最後まで実体審理を行った上で「請求棄却」の判断を下すという選択肢も当然あった。だが、もしも訴訟自体が、裁判制度の利用を許してはならないほど不当なものであれば、これを「排斥」つまり「却下」することこそ、裁判所の使命だというのである。

 裁判所は、この信念に基づいて信平の訴えを緻密に検証した結果、「訴権を濫用するものとして不適法」であり、「このまま本件の審理を続けることは…原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねないから、この時点で本件訴訟審理を終了することが相当である」として、「却下」したわけである。

法廷で破綻した「作り話」

 では、信平の訴えは、なぜ「訴権の濫用」と判断されたのか。

 その最大の理由は、ほかでもない。「事実的根拠が、まったくなかった」からである。要するに、「すべてが真っ赤なウソ」「作り話」であることが、完全に明らかだったということである。

 判決は、信平が捏造した「作り話」に鋭いメスを入れ、その虚構を完膚なきまでに粉砕している。

 信平は『週刊新潮』の手記の中で、「忌まわしいスキャンダル」(判決文)をデッチ上げた。昭和四十八年(一九七三年)六月、昭和五十八年(八三年)八月、平成三年(九一年)八月の三回、創価学会函館研修道場で「事件」なるものが発生し、信平信子が被害を受けたという荒唐無稽な「作り話」である。

 これに対し裁判所は、まず昭和五十八年の「事件」について、次のような根拠を挙げて、その虚構性を打ち破っている。

@航空写真等の証拠に基づき、信平が「事件現場」と称する場所(=函館研修道場内のプレハブ建ての「喫茶室ロアール」)が当時、存在しなかった。

A「事件」があったと称する日時・場所が合理的な説明もなく変遷した。

B提訴から三年八ヵ月も経過した時点で、突然、信平信子が「事件は三回でなく四回だった」と訴えの基本的骨格に関わる部分を変更したが、理由が極めて不合理で信用性に乏しい。

C学会側の反論・反証が提示されるたびに信平の主張がクルクル変遷している。

D事件があったと主張する直後に撮影された写真に、笑っている信平信子が写っていて、被害などあったとは到底思われない。

 そして、「事実的根拠は極めて乏しいものといわざるを得ない」と明確に論断しているのである。

 また、平成三年の「事件」についても、こう論破している。

@合理的な説明がないまま主張が変遷した。

A「事件」があったと主張する時間に、信平は現場にいなかった。

B信平の主張する「事件現場」には人通りがあり、「事件」が発生するはずがない。

C「事件」があったと主張する直後に撮影された写真に、にこやかに笑う信平信子が写っており、被害を受けたなどとは到底考えられない。

 ――すなわち、「事件」なるものが時間的にも場所的にもあり得ないことを指摘し、これまた事実無根であると結論づけたのである。

信平夫婦の異常な人格を指摘

 さらに判決は、信平が狂言訴訟を起こすに至った経緯や、信平夫婦の異常な人格にまで踏み込み、厳しい視線を注いでいる。

 まず、判決で認定された事実経過をたどると、大要、こうなる。

 信平夫婦は創価学会にいたころ、幹部という立場を利用して、会内で禁止されている会員間の金銭貸借を繰り返し行って、会員に多大な迷惑をかけていた。平成四年(九二年)五月には、これを理由に学会の役職を解任され、その後、脱会するに至った。

 ところが信平夫婦は、役職を解任されたことを根にもち、創価学会を相手に、自分が購入した墓苑代金の返還請求訴訟を起こしたが、平成七年(九五年)四月に敗訴。その後も、同年九月から十二月にかけて、学会本部宛に恐喝まがいの電話を執拗にかけて金銭を要求した。ところが、まったく相手にされなかったため、その仕返しとして翌年二月に信平信子が問題の「手記」をセンセーショナルなかたちで週刊誌に発表したのである。

 この「手記」について、判決文は、こう糾弾している。

 「(信平らが)被告及び創価学会に対して強烈な憎悪の感情を有していたとしても、何故にそこまでするのかについては、健全な社会常識からすると若干の疑問が残らないわけではないが、原告ら(=信平夫婦)の個性、人柄に由来するところが大きいとみるほかない」と。

 要するに信平は、そもそも社会常識を大きく逸脱した異常人格の持ち主であった。ゆえに、このようなウソを捏造した、との指摘である。

 さらに判決は、この「狂言訴訟」は、その捏造手記と同じ狙いをもつ「延長上のもの」であると看破した。

 「訴訟上又は訴訟外における有形、無形の不利益を与える目的で本件訴えを提起したものであると推認されてもやむを得ない」

 「実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするものではなく、被告(=学会側)に応訴(=訴訟に応じること)の負担その他の不利益を被らせることを目的とし、かつ、原告(=信平)の主張する権利が事実的根拠を欠き、権利保護の必要性が乏しい」

 「著しく相当性を欠き、信義に反するものと認めざるを得ない」――等々、痛烈に糾弾している。

 まさしく「狂言訴訟」は、マスコミを使って「騒ぎ立てること」「創価学会に不利益を与えること」を狙った「不当な企て」であると鋭く見破っているのである。

「裁判引き延ばし」の姑息な策謀

 しかも、信平側は審理の過程でも、いたずらに裁判の引き延ばしを画策したり、理由もなく主張を変遷させるなど、異常かつ不誠実極まる訴訟態度に終始した。

 例えば、一審で審理が一部終結し、判決の宣告期日が通知された後、信平側は突然、「裁判官忌避」、すなわち「裁判官を代えてくれ」という申し立てを裁判所に提起した。

 この「裁判官忌避」の申し立てとは、裁判官に関して、裁判の公正を疑わせるような、極めて特殊な事情がある場合に行われるものである。

 もちろん信平の訴訟に関して、そうした事情など存在しなかった。要するに信平側は、予想された判決が、自分たちに不利であることが明らかだったことから、少しでも裁判を引き延ばそうと姑息な手を打ったわけである。訴訟の狙いが「騒ぎ立てること」にある以上、支離滅裂であろうが何であろうが、少しでも騒ぎ続けようという魂胆だったのである。

 判決では、この点にも厳しく言及している。いわく、「およそ忌避の理由がないことは経験ある法律実務家にとっては明らかであり、この申立ては専ら訴訟の引き延ばしを目的としてされたものではないかとの疑問が残る」と。

 こうした信平の悪辣な訴訟態度を総括し、判決は記す。

 「真に被害救済を求める者の訴訟追行態度としては極めて不自然であり、およそ信義則にかなうものとはいえないことは明らかである。これも、結局のところ、各事件について事実的根拠が極めて乏しいことに由来するものであるものと解される」とバッサリ斬って捨てている。

 以上の裁判の概要に示される通り、裁判所は、事件の経緯、信平の主張の虚構性、さらには人格、人間性、悪質な訴訟態度を勘案した上で「訴権の濫用」であると断じ、「百万件に一件」という判決を下したのである。

「創価学会を批判する勢力」の野合

 しかし、経緯の表面をたどるだけでは、この前代未聞の狂言騒動の本質に迫ることはできない。その背後にある構図にまで光を投じなければ、事件の真相は見えてこない。

 この「事件」は、創価学会のイメージダウンを図ろうと、学会に怨恨を抱く日蓮正宗管長・阿部日顕、元弁護士で学会への凶悪な恐喝事件で懲役三年の実刑判決を受けて服役した山崎正友をはじめ、一部政治家、マスコミが一体となって起こした恐るべき「宗教弾圧」「人権抑圧」の謀略であったことが、後に明らかになっていくのである。

 実は判決も、あえて「創価学会を批判する勢力との関係」との一節を設け、そうした背後関係にも斬り込んでいるのである。

 詳細は後に触れるが、信平は『週刊新潮』に「捏造手記」を掲載する以前に、水面下で、様々な勢力と接触をもっていた。

 その一つが日本共産党である。手記掲載の二ヵ月ほど前に、なんと信平信子が同党機関紙に匿名で登場し、学会に対する誹謗中傷を行っているのである。

 その掲載日は平成七年(九五年)十二月三十日付となっている。信平醇浩は同年十二月、創価学会に対し何度か、金銭目的で恐喝まがいの電話をかけている。その最後の電話は十二月二十二日、つまり機関紙掲載の直前のことである。

 しかも信平醇浩は、一連の電話のなかで、“金を出さなければ、東京の人間に学会を売る”と明言している。判決も、この点に着目し、「(信平醇浩が)繰り返し、創価学会を批判する勢力との連携をほのめかし」たと指摘している。

 信平が「連携」していたのは共産党だけではない。阿部日顕直属の謀略グループで、山崎正友も所属する日蓮正宗の信徒組織「妙観講」が事件の当初から深く関与し、一連の騒動の「お膳立て」をしていたことが明らかになっている。これは判決でも、「それらの団体との間の一定の協力関係があることを推認することができるというべきである」と認定されているところである。

マスコミ界に対する大きな警鐘

 さらに判決が厳しく言及しているのが、『週刑訴潮』との結託である。判決では、「手記」の掲載前後の状況について、こう疑問を投げている。

 「信平信子が原告(=醇浩)に対し、事件を告白し、夫婦間の葛藤を乗り越え、マスコミを通じて事件を社会に公表することを決意し、『週刊新潮』らとの接触を図り、取材を受けて、記事が掲載されるという一連の出来事が、ほんの数日の間にすべて生じたことになる」

 「短期間にこれを決断したばかりか、マスコミとの接触、取材などについて首尾よく段取りが整ったというのは、論理的可能性としてあり得ないこととは言えないが、経験則上、明らかに不自然であるというほかない」

 さらに、『週刊新潮』をはじめとする一部マスコミの狂気のごとき報道の在り方に対しても、判決は、厳しく論断している。

 「本件のような事実的根拠が極めて乏しい事柄について、しかも、スキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはないというべきである」――判決文という性格を考えると、これほど厳しい糾弾の言葉もあるまい。これは、ひとり『週刊新潮』のみならず、全マスコミ界に対する大きな警鐘ともいえよう。

事件の中心にいた阿部日顕、山崎正友

 加えて指摘しておかねばならないのは、「信平狂言事件」は、ほぼ同時期に起こった、創価学会に対する事実無根のデマ事件の一つであったという点である。

 第二部で詳細に述べる通り、まったく同じ構図をもったデマ事件が、わずか三年の間に三件も立て続けに起こったのである。

 平成六年(九四年)の「白山信之氏に対する人権侵害報道」、平成七年(九五年)の「東京・東村山市議の転落死をめぐるデマ報道」、そして平成八年(九六年)の「信平狂言事件」である。

 この三件は、いずれも同じ宗教団体を狙ったものである。また、デマ報道に始まり、それを一部議員が国会で取り上げて騒ぎを大きくするという、まったく同一の経緯をたどっている。

 しかも、この三大デマ事件は、平成七年(九五年)の参院選、平成八年(九六年)の衆院選と時期を重ねて起こっている。

 さらに、この三件の事件のすべてに「一部の政治家」「週刊誌」「日蓮正宗」「反学会系ライター」が必ず絡んでいる。その人脈をつなぐ中心軸にいたのが、山崎正友と阿部日顕である。

 ここまでくれば、「信平狂言事件」は、偶発的に起こったものでないことが分かる。その「手法」といい、「登場人物」といい、「意図」といい、他の二つの事件と一連一体となって、政治的状況を背景に、明確な悪意をもって仕組まれた謀略だったということである。

 しかし、三大デマ事件は、いずれも法廷で断罪され、一切が事実無根であったことが明白となった。政界、マスコミを舞台にした謀略は、すべて灰燼に帰したのである。

 そして何より、謀略の陰で蠢動していた者たちの醜い姿が、白日のもとに暴き出されたのである。

 では、それらの者たちの「動機」が何であったのか。以下、章を改めて詳しく検証していきたい。

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