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第二章

動機

「原告らの訴訟活動は、真に被害救済を求める者の訴訟追行態度としては極めて不自然であり、およそ信義則にかなうものとはいえない」

 前代未聞の狂言騒動を振り返る時、その背後にあった、様々な勢力の意図と事情と思惑を抜きにしては、その本質を理解できないことに気づく。

 というよりも、この騒動の本質とは、単に信平夫婦という特異な人格の持ち主が起こした騒ぎにあるのではない。むしろ、政界、宗教界、マスコミ界等々、創価学会を取り巻く諸勢力の謀略の構図そのものにあったといえるだろう。

 結論から言えば、それらの勢力には、もともと「どうしても創価学会を攻撃しなければならない」事情があった。そこにタイミングよく持ち上がったのが、信平の作り話であり、狂言訴訟であった。

 いわば、「まず創価学会への攻撃ありき」。そのための「道具」になるのであれば、別段、信平の作り話でなくてもよかったのである。事の真相に迫るには、そう理解したほうがよいだろう。

 つまり、この社会に、特定の団体と個人を何としても抑圧し、弾圧しようという意図と謀略がある限り、第二、第三の狂言騒動は再生産され続けるということである。

 今回の狂言騒動の真実と教訓を後世に厳然と、とどめゆく必要があるゆえんである。

政界をめぐる背景

 まず指摘しておきたいのは、当時の政治状況である。

 平成五年(一九九三年)夏、非自民の細川連立政権が誕生し、公明党が与党に入った。このことに危機感を抱いた者たちがいた。従来、自民党をバックアップしてきた宗教団体、かねてから創価学会批判の姿勢を強めていた一部の「文化人」たちである。

 翌平成六年(九四年)の五月、彼らは「四月会」なる団体を結成するに至る。表向き、同会は、「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」と名乗っていた。だが、その実態が、創価学会への攻撃を狙う宗教団体や、「文化人」らによる野合集団であったことは、衆目の一致するところであった。

 この四月会の面々は、一部の政治家たちと歩調を合わせるかたちで、公明党の支持団体である創価学会に的を絞って攻撃を始める。

 なかでも、オウム真理教事件の再発防止を名目に、平成七年(九五年)春から始まった宗教法人法「改悪」の動きは、まさしく創価学会をターゲットにしたものであった。

 当時の状況を知るために、ここでは四月会の内幕に精通し、早くから「改悪」反対の声を上げていた京都仏教会の安井攸爾氏の雑誌でのインタビュー発言を引用したい。

 ――政界再編成をめぐって、自民党政治家は、とりわけ創価学会に対して大変な危機感を抱いたわけです。

 彼らとしては、これまで自民党を支持してきた宗教団体を巻き込みながら、何とかして創価学会封じ込めの策を講じたい。しかしそれを党の機関として設けることはできません。それこそ「政教一致」になってしまう。

 そこで、自分たちの「ダミー団体」を作る必要があった。それが『四月会』です。

 設立された翌日の新聞にもちゃんと「学会の封じ込めが目的」と書いてある。

 京都仏教会は別の問題意識から四月会への参加を決めたが、実態が明らかになるにつれ、「これはおかしい」と距離を置くようになった。

 その後、俵孝太郎代表から「ぜひ常任幹事に」と持ち掛けられましたが、断りました。

 五月、六月と『四月会』の常任幹事会があり、オブザーバーとして出たのですが、そこでは「改悪法案」とほぼ同じ書類がすでに配られていました。

 実際の法案よりも厳しい内容で、同行した学識者とも顔を見合わせたほどでした。彼らが文部官僚とともに原案を作ったのですよ。

 宗教法人の「認証」について、所轄庁はすべて文部省とし、窓口を都道府県とする。もしくは、都道府県を所轄庁とするのであれば、活動が複数の都道府県にまたがった場合には、改めて文部省の再認証を必要とする。建設業や運送業のように、必要な書類を整備して申請することとなっている。

 創価学会のように東京都の所轄の団体がもし文部省に再認証の申請をする時、運送業、建築業と同じ、行政の厳しい審査が課せられるというものです。

 文部省や文化庁は書類審査にあたって、いくらでも文句がつけられる。どんな嫌がらせもできる。

 あまりの内容に私が「憲法二十条について、きちんと踏まえないと、とんでもないことになりますよ」と発言すると、俵氏や北野弘久・日大教授はムッとして「そんな議論より、一刻も早く“改正”の流れを」という姿勢でした。

 これははっきりした宗教弾圧です。これでは宗教が「政争の具」になってしまう。

 そこで京都仏教会は「同調できない」として『四月会』と決別したのです。

 宗教と国家、宗教と政治の問題を真剣に論じ合おうというのならば、まだ話は分かる。そうした論議は一切抜きで、一方的に権力が特定の宗教団体を弾圧し、「政争の具」にしようとする。

 しかも憲法の精神に明らかに反する法律「改悪」を進めようとする。これは宗教に対する許しがたい侮辱です。宗教者として、これほどの屈辱はありません。

 少々、引用が長くなったが、安井氏の言葉は、当時の状況を実に明快、的確に伝えるものといえる。

 四月会が結成された翌年の平成七年(九五年)七月に行われた参院選では、こうした四月会と、それに連なる一郎の政治家の意に反し、公明党が合流した新進党が大きく勢力を伸ばした。

 比例区では千二百五十万票を獲得し、千百万票だった自民党を抑えて比較第一党に躍り出た。

 この投票結果を翌年に想定されていた次期衆院選に当てはめれば、新進党は、さらに躍進し、第一党になる可能性がある。新進党の進出を阻止するには、その中軸にある公明党と、それを支持する創価学会を押さえ込むしか対策はない――そう考えた自民党の一部が学会攻撃に躍起になったとしても不思議ではない。

 危機感を募らせた四月会、自民党の一部政治家が、創価学会封じ込めのために全力を注いだのが、宗教法人法の「改悪」であった。しかし、同法をめぐる学会攻撃は、平成七年(九五年)十二月八日の「改悪」宗教法人法成立で、ひとたび、その幕を閉じる。学会に対する批判勢力にしてみれば、これで学会攻撃の「ネタ」を失ったわけである。

 だが、きたるべき衆院選は、すでに射程距離内に入っていた。どうしても創価学会を攻撃する新しい「ネタ」が必要であった。

 そこへ転がり出てきたのが、平成八年(九六年)二月十五日発売の『週刊新潮』に掲載された「信平手記」だったのである。四月会系の政治家たちが飛びついたのは、いうまでもあるまい。

 詳細は後述するが、事実、『週刊新潮』に手記が出た直後から、この年の五月にかけて、信平の一方的な作り話が三回にわたって国会で取り上げられ、池田大作・創価学会名誉会長の証人喚問が要求された。

 また自民党の機関紙にも、信平の手記をベースにした内藤国夫による記事が都合四回も掲載された。

 ここにおいて狂言騒動は、まさしく「政争の具」とされ、政治権力による宗教弾圧の道具として悪用されたのである。

 なお、平成七年(九五年)末から翌年前半にかけての国会は、いわゆる「住専処理問題」で紛糾していた。

 「住専」とは住宅金融専門のノンバンクで、バブルの崩壊にともない不動産融資の焦げ付きが表面化し、破綻に追い込まれていた。都銀や生保などの金融機関が住専に多額の融資を行っていたことから、金融システム全体の問題に発展。その処理のために公的資金を導入するかどうかで与野党が激しく対立し、国会審議に国民から高い関心が寄せられていたのである。

 国民の目を住専問題からそらすためにも、創価学会を攻撃することが必要だ――そんな政治的思惑が、政界の一部に働いていたことも、見逃せぬ歴史の事実として付記しておきたい。

日本共産党の影

 四月会と、それに連なる政治家たちのほかにも、創価学会攻撃の機会をうかがう政治勢力があった。日本共産党である。

 共産党は昭和五十八年(八三年)、昭和六十一年(八六年)の参院選で、それぞれ四百十六万票、五百四十三万票と四百万票以上の比例票を維持してきたが、平成に入ってからは三百万票台に低迷していた。新進党が躍進した平成七年(九五年)七月の参院選でも、得票結果は三百八十七万票にとどまった。

 従来から「反自民」を掲げることで党勢拡大を図ってきた共産党だが、新進党が発足してからは、反自民票は、ほとんど新進党に流れていたという事情もあった。

 共産党内部に、党勢の伸び悩みへの焦りがあったことは論を待つまい。

 平成八年(九六年)の衆院選でも、複数の選挙区で新進党候補との競合が想定されていた。この時期、共産党には、四月会系政治家と同じく、学会攻撃の機会を狙う必要があったのである。

 そもそも同党が創価学会に対して長年にわたって遺恨を抱いてきたことは、多くの人が指摘するところである。かねてから選挙の時期になると、必ずといってよいほど、学会批判に力を入れてもきた。

 実際、後に詳述するが、信平信子が『週刊新潮』に捏造手記を発表する約二ヵ月前の段階で、早くも共産党の機関紙「赤旗」に信平信子が登場していた。

 のみならず、信平夫婦をめぐる貸金訴訟において、なぜか共産系の弁護士が信平の代理人になっていたことが分かっている。

 訴訟のうちの一件について平成五年(九三年)八月、信平が控訴した際、その代理人についたのが、内田信也、佐藤博文の両弁護士。いずれも共産系弁護士といわれている。

 さらに平成八年(九六年)七月、信平醇浩は二千九百四十万円もの借金を返さないとして、また新たな訴訟を起こされた。この訴訟の信平の代理人は高崎暢弁護士。これまた共産系で知られる弁護士であるのみか、その夫人である高崎裕子弁護士は、北海道共産党の「顔」といわれた人物。平成七年(九五年)七月の選挙で落選するまで、参議院議員を務めていた共産党の大幹部である。

 信平狂言騒動の背後には、当初から共産党の影が見え隠れしていたのである。

金銭問題で解任された逆恨み――信平夫婦の動機

 ありもしない“事件”なるものをデッチ上げ、週刊誌に手記を発表し、訴訟まで起こして騒ぐ――「狂言事件」の主役となった信平夫婦は、なぜ、このような行動に走ったのであろうか。

 二人の「動機」を如実に示す一本の録音テープがある。

 平成四年(九二年)五月十四日午後二時、北海道函館市・創価学会函館平和会

館の一室で、学会副会長の高間孝三、宮川マ也の両氏と、信平夫婦らが交わした

会話の録音テープである。以下、やり取りの大要を再現しよう。

 最初に高間氏が慎重な口調で切り出した。

高間「今日は大事な話し合いですから、後日のため、しっかり記録を取っておきたい。

 信平さんの金銭貸借について何人もから投書がきている。

 すでにSさん、Yさん、Oさんといった人たちからも話を聞いています」

 ――信平夫婦はこれら三人の会員から総額二千百万円の借金をしておきながら、様々な理由をつけて返済しようとしなかったというのである。

 そもそも信平醇浩は、地元でも有名な「借金魔」であった。事実、数々の貸金返還訴訟で次々と敗訴が確定し、裁判所から返済を命じられた借金だけでも数千万円にのげっている。

 夫婦の手口は、こうである。

 まず高齢の独り暮らしの女性を狙う。その際、信平信子が「ウチのお父さんは金を動かすのが上手で、何倍にもなって返ってくる」「言う通りにしなければ損をするよ」などと持ちかける。

 その執拗さに負けて、相手は金を貸してしまう。そしてその後、返済を求めても、「もう返したはずだ」などと言い張っては、遂に脅しつけ、借金を踏み倒すという悪質なものであった。

 「醇浩は、常に私につきまとい、脅かしたり、家の周りや路上で待ち伏せしたり、恐ろしくてならなかった。

 必ず夫婦一緒で現れ、信平信子は“ウチの父さんの名前を聞くと、函館の人はみんな震えるほどだ”とか、“私がついているのだから安心して金を出せ”など執念深く言い張る。

 最後には疲れ果て、つい貸してしまったのです」――被害者の一人は、こう語っているほどである。

 信平醇浩を相手取って起こされた返還訴訟の裁判についても、いずれも最初から信平の敗訴がハッキリしていた。

 金を借りた以上、返すのは当然のことである。ごく単純な貸借関係である。従って法廷での過程は、どれも同じパターンを繰り返した。

 第一審で信平側が敗訴する。

 ところが信平醇浩は必ず控訴する。

 控訴審でも信平醇浩の控訴は棄却。

 信平醇浩は最高裁に上告するが、上告審でも棄却され、

 第一審の判決が確定する。

 すべてが判を押したように同じ経過をたどる裁判なのである。

 事実関係は明白であり、誰が見ても「控訴」「上告」など、まったく理由のない訴訟だった。

 あるいは逆に信平醇浩が原告となって無謀にも債権者に対し「貸金請求」「返還要求」「債務相殺の申し立て」などで訴訟を起こしたケースもある。

 もちろん、そのどれもが信平側の敗訴となっている。

 「借金魔」であるばかりでなく、負けると分かっている裁判を次々と起こす「訴訟魔」。それが信平醇浩の正体であった。

高間「信平さんの立場からみて、こうした金銭の貸借関係が良いか、悪いか、よく分かっているはずです。

 秋谷会長も言われているでしょう。組織の中で金銭貸借は厳禁であると。しかも幹部の立場にある者として絶対に悪いことだ。

 今日は結論として最初に言いますが、今までのいろいろなことからみて、信平さんご夫婦に辞職願を出していただきたい。こう思うわけです」

醇浩「辞職願とはどういうことか。役職を取るということか。やめることか」

高間「お二人から(辞職願を)出していただく。そうしていただきたいのです」

 創価学会には、会員間の金銭貸借は厳禁という鉄則があるという。

 会員同士を結びつけ、組織と秩序を維持する基盤は、あくまでも純粋な信仰心によらなければならない。もし会員間に金銭貸借関係といった夾雑物が加わると、信心の純粋性は蝕まれてしまうからである。

 創価学会は草創期から、このルールを守り続け、また会員同士の関係を商売などの利害関係に利用することも禁じてきた。

 かりにも長年、学会婦人部の幹部を務めた信平信子が、それを知らないわけはない。高間氏の要求は当然のことであろう。

 夫婦とも率直に自分たちの行いを反省し、潔く辞職するのが筋というものだろう。ところが――

醇浩「誰がそういうことをせいと言うのか」

高間「私が言っている。金銭貸借は悪い。戸田先生(=創価学会第二代会長)以来、禁じられていた問題だから、立場をよく考えた上で、辞職願を出していただくほうがいいと配慮したからです。まず、この点についてはどうですか」

醇浩「ワシはやめない。一人ではやめない。あんたら全部、辞職願せい。オレ、訴訟起こすから」

高間「訴訟を起こそうが、なんであろうが、私の言っているのは、そんな問題とは別に、あんたらの金銭貸借問題で、そのことでこうしている」

醇浩「それでオレに辞職せいと言うのか、(突然、大声で)あんた、やめれ」

高間「何を言っているのか」

醇浩「バカなことを言うな。このヤロウ。キサマ、てめえ何だと思っているんだ。この片輪もの(=発言のママ)、訴訟すっからな」

宮川「信平さん、口論するためにやっているのではない。あなたに辞表を出すように言っているんです」

醇浩「オレを何しに止めさせようと言っているのか。ヤメレよ。小生意気な。ヤメレよ。このヤロウ。てめえら、人ば手いっぱいコケにしやがって。(書類をかざして)これが悪いか。いいか、これが金銭の貸借だ。見れ」

 はしなくも信平醇浩という人物の特異な性格をも露呈する会話であろう。

 創価学会側か、反省を求めて辞職を促すと、突然、逆上し、無頼漢そのものの口調で罵詈雑言を浴びせかける。道理も何もあったものではない。

 さらにテープでは、信平醇浩の尻馬に乗るような妻・信子の支離滅裂な発言が続く。

 どうやら「たしかに貸借関係はある。しかし金を貸してもいる。借金の保証人になったこともある。助けてやって何が悪い」と言いたいようだが、よく分からない。ただただヒステリックな声が響くばかりである。

 こんな押し問答が三十五分も続く。そして――

高間「今日は今まで私もやっだけれど(とても話し合いにならないので)解任の手続きは取ります。またこれ以上、会員に脅しをかける場合は、除名の手続きを取ります。これ以上、話し合っても、結論はそこです」

醇浩「お前ら。気をつけろ。このヤロウ。訴訟すっぞ。片輪(=発言のママ)にしてやるから」

 信平醇浩は何度も「訴訟する」という脅し文句を繰り返す。自分の主張には何の根拠も論理も説得力もないのに、「訴訟に持ち込む」とブラフ(=揺さぶり)をかける。まず虚勢を張るのである。訴訟と言えば、その言葉に相手が驚き、萎縮するにちがいないと計算してのことであろうか。

 結局、創価学会側は辞任願が出されなければ夫婦の役職を解任する旨を伝えて話し合いは終わったが、夫婦は不満でならなかったようだ。この直後、信平信子は自宅から学会本部に電話し、弁解を繰り返すが、逆に厳しい指導をされ、一蹴されている。

 そして、その翌日の五月十五日、夫婦に対して役職解任の通告がなされたのである。

 もはや多言は要すまい。

 悪名高い「借金魔」であり「訴訟魔」である夫婦が、それゆえに学会の役職を解任された。誰が見ても当然至極であり、身から出たサビにほかなるまい。

 ところが、その夫婦は反省するどころか、かえって創価学会を逆恨みし、夫が何度も口にしているように、訴訟を起こした――何のことはない。この常軌を逸した逆恨みこそ、信平夫婦の「動機」なのである。

「怨念の権化」山崎正友

 平成五年(九三年)四月、一人の人物が、栃木県・黒羽刑務所を仮出所した。

 山崎正友。昭和五十五年(八〇年)、弁護士の立場を悪用して創価学会を恐喝した揚げ句、懲役三年の実刑を宣告されて服役した男である。

 「東京へ出たら金儲けするぞ」。これが司法試験に合格したころの山崎の口癖だったという。

 昭和四十五年(七〇年)、周囲の期待を受けて創価学会の法務関係業務に携わるようになってからも、金儲けへの異常な執念は変わらなかった。

 やがて、弁護士の立場を利用して四億五千万円の裏金を着服したといわれる「富士宮土地転がし事件」を起こす。大金を手に入れた山崎は、たちまち派手な生活に陥ち入っていく。夜ごと銀座や赤坂の高級クラブに繰り出しての豪遊。賭け麻雀をはじめ、ギャンブルヘの熱中――山崎の金銭欲と野心は、時とともに肥大していった。

 やがて己の支配欲と金銭欲を満たすために冷凍食品会社「シーホース」を設立。しかし同社は、山崎の素人商売、乱脈経営がたたり、昭和五十五年(八〇年)四月、四十五億円ともいわれる負債を抱えて倒産した。

 この過程でも、山崎は「手形の乱発」や「取り込み詐欺」など悪質な事件を多発させ、経理書類まで改竄するなど犯罪行為に狂奔した。

 他方で、怪文書や謀略文書で情報操作を行い、創価学会と日蓮正宗との離間を画策。また、創価学会から金を脅し取るために、デマ情報でマスコミを撹乱。マスコミの学会批判を煽り立てることで、「マスコミを抑えられるのは自分しかいない」と売り込み、自分の要求を突きつけるという卑劣な手段に出た。

 そして同年、ついに学会を恐喝した結果、昭和五十六年(八一年)一月に逮捕。その後、七十五回に及ぶ審理の末、昭和六十年(八五年)、東京地方裁判所は、山崎に懲役三年の実刑判決を下した。平成三年(九一年)二月二十五日、東京拘置所に収監。同年四月、栃木県の黒羽刑務所に移送されて服役する。

 その恐喝事件裁判の判決文で裁判長は、山崎を厳しく断罪した。

 「(山崎は)幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない」「犯情が悪く被告人の罪責は重大である」

 ――大要、このような経歴をもつ男である。

 同年一月に最高裁判決が下り、実刑判決が確定した後も、山崎に反省の色は見られなかった。それどころか、自分が乗っ取りを企てて失敗した創価学会に対して、これまた逆恨みの妄執を募らせていく。

 その逆恨みは刑に服し、刑務所を仮出所した後も、決して消えることはなかった。

 後に述べるように、山崎は仮出所直後から、阿部日顕に、学会攻撃をけしかける書簡を頻繁に送っている。阿部日顕は、山崎と同様、創価学会に対する「妬み」では右に出る者はいない男である。

 この書簡で山崎は、信平の狂言騒動に至る学会攻撃のシナリオを描いてみせた。

 マスコミの利用。宗教界を巻き込んだ工作。そして政治家を使った工作。なかでも当時、山崎が執着していたのは、政界への工作であった。

 四月会系の政治家に、創価学会攻撃の意図と動機があったことは前述した。ここに目をつけた山崎は積極的に政界とのパイプをつかもうとする。

 例えば、山崎が仮出所した平成五年(九三年)の十一月、反学会色の強い一部政治家による「民主政治研究会」なるグループの勉強会が開かれた。

 講師は山崎と創価学会の脱会者やブラックジャーナリストなどである。この勉強会で山崎は、創価学会に関するデマ情報を次々と吹き込んでいく。

 参加した政治家たちも、何とか創価学会を政治問題化できないかという観点から熱心に耳を傾けていたようである。勉強会は、翌月の十二月までの間に六回も開かれるという熱の入れようであった。山崎は、そのうち四回にわたって姿を見せている。

 山崎という男が、自分が起こした恐喝事件の判決文で“信用できない”と四十数回も断罪された「希代の大ウソつき」であると知ってか知らずか、政治家たちは、この男を、大いに持ち上げていたようである。

 山崎のウソのつき方は常に「小さなウソより大きなウソを」を地でいくやり方である。この勉強会でも、言いたい放題のウソ八百を並べ立てていたようだ。だが、出席した議員にしてみれば、話が大きければ大きいほど、興味がわく。

 それでも二回目の勉強会で、さすがに一人の議員から質問の手が挙がった。

 「山崎氏の話による、創価学会が脱税しているという内容は当然、国税当局が手をつけていいような問題ばかりだ。それなのに創価学会は、なぜ脱税などで摘発されないのか」

 誰もが疑問をもつところだろう。

 これに対する山崎の答えは、「小沢一郎氏がもみ消したからです」。

 議員たちの間に驚愕の色が走ったことはいうまでもない。

 いうまでもなく小沢一郎氏は、自民党を離脱し新進党をまとめ上げた人物である。

 多くの政治家にとっては、かつての同僚。小沢氏の存在の大きさ、その実力、発言力を知っていただけに出席議員たちは一瞬、愕然としたに相違ない。あるいは創価学会の脱税もみ消し工作があったのか――勉強会では山崎の放言を真に受けてしまった議員も多かったようである。

 もちろん、そうした事実は皆無である。これまた山崎得意の、その場をわかせて自分を高く売り込むための「口から出まかせ」である。

 ことほどさように山崎は、当時の政界の流れのなかで、いかにも政治家たちが注目せざるを得ないようなデマを吹き込んでいったのである。

 また、山崎が「民主政治研究会」と関係をもつようになってから、『週刊新潮』等が学会中傷のデマ記事を掲載し、それを一部政治家が利用して騒ぐという事態が続発する。

 平成六年(九四年)には、北海道の創価学会員・白山信之氏が運転する車に、日蓮正宗住職の車が突っ込むという事件があった。ここで白山氏はまったくの被害者だったにもかかわらず、『週刊新潮』が加害者扱いする記事を掲載したのである。これが政治的にも利用された。

 前提になる背景を略記しておく。

 同年七月二十一日、北海道胆振管内大滝村の国道を走行中のトラックに、対向車線を猛スピードで走ってきた乗用車が、側壁に接触、センターラインを越えて、正面衝突した。その結果、乗用車は大破し、運転者が死亡した。

 伊達警察署の現場検証では、原因はすべて乗用車側にあると判断。また保険会社も同じ見解を採り、「過失割合」は「一〇〇対ゼロ」と、トラック側に責任はなく、まったくの被害者であることを認定した。

 死亡した乗用車の運転者は、室蘭市の日蓮正宗・深妙寺の住職、大橋信明。一方のトラックの運転者は創価学会員の白山氏だった。

 ところが『週刊新潮』(九月一日号)は、この事件を、創価学会と宗門との対立から生じた「事故を偽装した殺人事件」であると悪意に満ちた歪曲をし、大々的に報道したのである。

 さらに同年十月十一日、衆院予算委員会で自民党代議士が、この記事をもとに質問を行い、白山氏の名誉を大きく傷つけたのであった。

 実は、この国会質問の原稿作成にも、山崎が絡んでいた。そのことは、山崎本人が明確に認めていることである。

 同年九月二十七日、四月会系政治家の白川勝彦代議士(当時)と山崎が、東京・赤坂のホテルで密会した。このことについて山崎は、阿部日顕に宛てた書簡に、こう述べている。

 「二十七日、自民党の幹部と、今後の作戦の打合せをしました」「十月十一日〜十三日の予算委員会の審議で、テレビ中継の入る時間帯に、一時間ばかりかけて、創価学会問題を集中的に取り上げることで一致した」と書いている。

 そして、そのための資料作りも、山崎を中心に、売文ライターの段勲、乙骨正生とともに進めると明記していたのである。

 事実、かの国会質問が行われたのは、十月十一日。一件の背後で山崎が画策し、一部政治家と連携の上で動いていたことは明白である。

 それにしても、国会議員の国会質問の内容が、このようなかたちでつくられていたとは、驚くほかない。国会議員たる者、自分の言葉に責任をもつべきことは、いうまでもない。まして、国会質問ともなれば、なおさらのことである。質問の根拠となる事実の確認をはじめ、慎重かつ綿密に組み上げていくべきは当然である。そのために国会議員は、多額の歳費と手当をもらい、調査を行うスタッフを抱えているのではないのか。

 それを山崎、段、乙骨と、いずれも創価学会批判で日々の糧を得てきたような手合いがつくった質問内容を使って、国民の人権を大きく侵害する質問を行う。これほど国会議員の職責をないがしろにし、国民を愚弄する話もない。

 その後の平成七年(九五年)九月、かねて創価学会を批判していた東京・東村山市議が、ビルから転落して死亡した。

 この事件についても『週刊新潮』『週刊現代』等が、あたかも創価学会がこの転落死に関わっているかのような記事を掲載した。

 この記事も三人の政治家が国会で取り上げ、創価学会批判の道具とされた。ここにも山崎の影があったといわれている。

 そして、翌年二月に信平の手記が発表されるに至るのである。

 つまり、政界の一部に、反創価学会のデマ情報への需要があった。となれば、デマ情報を供給する人間が必要になる。それが山崎だったのである。

 また、弁護士資格も失い、恐喝犯として服役した山崎には、学会批判情報を操作することによって「生活費」が稼げるという狙いもあった。

 かつて昭和五十年代、山崎がマスコミを利用し、学会批判を煽り立てていた当時、この男は、まず「覆面」で批判記事を書き、後に実名で大同小異の記事を書くという卑劣な手口で、多額の原稿料を懐にしたという経緯がある。

 学会批判の情報を供給することで金が稼げるという旨味を、他の誰よりも知っている山崎なのである。

 恨みも晴らせる。金も儲かる。一石二鳥――その欲望を満たすためには、常に創価学会を陥れるデマを生み出し続けるしかない。これが狂言騒動に関わる山崎の「動機」であった。

「買春事件の意趣返し」を狙った阿部日顕一派

 信平夫婦による狂言騒動の陰で、当初から暗躍していた勢力に、もう一つ、忘れてはならないグループがある。

 日蓮正宗の管長・阿部日顕の一派である。

 詳細は次章に譲るが、「阿部日顕の直属」といわれる信徒グループが、信平信子の「手記」を載せた『週刊新潮』の発売前から、「手記」掲載の情報を入手し、機関紙に大々的な「予告」まで載せていたことが分かっている。

 また「手記」発表直後の平成八年(九六年)二月二十三日、信平信子が東京で記者会見を開いた際の会場の予約も、この信徒グループの手によるものであった。

 ――こうした阿部日顕一派による一連の「お膳立て」には、のっぴきならない「お家の事情」が隠されていた。

 時間は少々、さかのぼる。昭和三十八年(六三年)三月十九日、阿部日顕(当時、阿部信雄)は、アメリカ西海岸のシアトルにいた。日蓮正宗の教学部長として、初の海外出張御授戒を目的とした渡米だった。本来であれば、重要な宗教的意義をとどめるはずの旅だった。

 ところが阿部日顕は、三月二十日未明、市内で買春行為を行った後、売春婦とトラブルを起こしていた。いわゆる「シアトル事件」である。

 当夜の状況について、平成十二年(二〇〇〇年)三月、東京地裁が判決で認定した事柄を引用しよう。

 「阿部は、オリンピックホテルに帰った後、間もなく、一人で外出し、メイフラワーホテル内にあるカルーセルルームに入り、飲酒をした。カルーセルルームのウェイトレスは、肩や太ももを露出した水着スタイルの服を着て働いており、また、当時、カルーセルルームには、売春婦が来ることがあった。

 阿部は、カルーセルルームを出た後、セブンスアベニューとパイク通りの交差点の南東角にあるマッケイ・アパートメント又はその付近にあるホテル等において、売春婦に対し、ヌード写真を撮らせてくれるように頼み、売春婦と性行為を行った。

 なお、マッケイ・アパートメントは、当時、売春婦が、売春をするために利用するホテルとして知られていた。

 その後、阿部は、翌二〇日午前二時ころ、セブンスアベニューとパイク通りの交差点の南東角の路上付近において、売春婦らと、右ヌード写真撮影ないし性行為の料金の支払について、トラブルになった」

 ――このトラブルは警察沙汰になったのである。やがて警察から連絡を受けた、現地の創価学会員ヒロエ・クロウさん(故人)が駆けつけ、事態の収拾に奔走。そのおかげで、阿部日顕は、犯罪者として検挙されることなく、解放されたのであった。

 阿部日顕は、かりにも聖職者である。

 真面目に信仰している信徒にとって、宗門の教学部長という要職にあった僧侶の、こうした行動は、到底、口外することのできないスキャンダルだった。クロウさんは、約三十年もの間、この事件について沈黙を守り、自身の胸のうちに固く封じ込めていたのである。

 しかし、その後、管長となっていた阿部日顕の堕落ぶりが、平成三年(一九九一年)以降、次第に明らかになるにつれ、やむにやまれぬ思いにかられたクロウさんが平成四年(九二年)、真相を告発。学会の機関紙の一つである「創価新報」が、この事件を報道したのである。

 ところが阿部日顕らは、事実を認めて反省するどころか、クロウさんを「ウソつき」呼ばわりしたのみならず、平成五年(九三年)十二月十五日、創価学会側を名誉毀損で訴える裁判を、東京地方裁判所に提起したのである。

 この裁判における阿部日顕側の主張は、“買春事件は事実無根”というものであった。問題のシアトルの夜についても、阿部日顕は「ホテルから一歩も出ていない」と断言していたのである。

 平成六年(九四年)八月にも、多くの信徒の前で、「あれが本当でしたらね、私はもう即座にやめますよ。やっちゃいられませんよ、あんなものが本当なら」と言い放つなど、買春の事実を否定するのに躍起になっていた。

 ところが平成七年(九五年)九月、阿部日顕側は、突如、それまでの主張を一八〇度翻し、“ホテルから出ていた”と認めた。

 宗内でも「買春事件が事実だったら、僧侶をやめる」と断言した者が数多く存在していただけに、裁判の審理の中でクルクル変遷する日顕側の主張は、宗内にも大きな不安を投げかけていた。

 さらには平成七、八年当時、阿部日顕本人が事実審理のため出廷しなければならない、という話も現実味を帯び始めていた。

 こうした動きを受けて、日蓮正宗の信徒組織である「法華講」を脱退する者も、このころから相次ぐようになる。宗内の動揺は、もはや押しとどめようのないところまできていたのである。

 こうした状況のなかで、阿部日顕らにしてみれば、かたや人心離れる一方の宗内をまとめ、かたや買春事件発覚の「意趣返し」として、何とか創価学会に攻撃を仕掛けたい。そのためのネタが、ノドから手が出るほど欲しいというのが実情だった。

 そこに転がり込んだのが、信平の作り話だったのである。

 阿部日顕一派が、今回の狂言騒動で初動段階から暗躍した裏には、阿部日顕本人のスキャンダルにまつわる深刻な「お家の事情」があったのである。

『週刊新潮』編集部に渦巻いていた「創価学会への敵意」

 さて、信平の手記を掲載した『週刊新潮』である。

 同誌は、平成八年(九六年)二月に手記を掲載して以降も、長短あわせて三十五本もの信平関連の記事を掲載した。

 まさに「ウソも百ぺん繰り返せば本当になる」の手法を地でいく捏造報道を繰り返したのである。

 その動機、背景の第一に挙げられるべきは、同誌の「お家芸」ともいえる、根深い「反人権体質」であろう。

 元来、同誌は過去、数々の人権侵害記事で法務当局から幾度も勧告を受けながら、何ら態度を改めようとしないことで悪名を馳せてきた。

 信平の狂言騒動が起こる以前にも、『週刊新潮』には、あからさまな人権侵害記事が、毎号のように掲載されていた。

 創価学会に関する報道に限ってみても、前述した通り、平成六年(九四年)七月に起きた北海道の創価学会員・白山信之氏への人権侵害報道、また平成七年(九五年)九月に起きた東京・東村山市議の転落死事件でも学会に罪を着せるような中傷記事を掲載していた。

 いずれの事件も、後に法廷に持ち込まれ、創価学会側の全面勝訴が確定している。

 さらに同誌は、かの「松本サリン事件」の例に見られるごとく、悪質な人権侵害報道を繰り返していた。

 いうまでもなく、この事件は、平成六年(九四年)六月、長野県松本市で猛毒サリンが撒かれ、住民七人が死亡、百四十四人が重軽症を負った事件である。

 この事件の被害者であり、通報者でもあった河野義行氏が各マスコミから一方的に「犯人扱い」され、報道されたのである。

 なかでも、当の被害者・河野氏が「最も悪質」と指摘したのが『週刊新潮』であった。

 事件発生後に出た同誌の記事の見出しだけを拾ってみても、「『猛毒ガス事件』発生源の『怪奇』家系図―長野県松本市毒ガス発生事件」「おどろ、おどろしい『河野家』の謎」「猛毒サリン『製造犯』をめぐる『怪情報』と一つしかない突破口」と、その悪質さが分かる。河野氏が犯人であるとの一方的な予断と臆測をもって、その家系図までさかのぼって人権を侵害していたのである。

 後に河野氏は、『週刊新潮』の不誠実極まる態度について、こう語っている。

 ――(河野氏への謝罪について)『週刊新潮』からは、最初、誌面の一ページを自由につかってもいいという話がきました。それで、私は新潮社の社長と編集長の写真を載せて謝罪文を書けと、いったんです。すると、写真は勘弁してくれというから、「だってウチの先々代の写真を勝手に載せているじゃないか。そういうのは簡単に載せて自分たちの写真を載せないのはどういうことなんだ」ってやってたんですけど、週刊誌も商品だからということで配慮して、謝罪は謝罪の文章で書いて、サイド記事という形で経緯を書くような形でどうだ、ということになりました。

 私の最終的な要求は、一ページを使うということと、電車の中吊り広告に『週刊新潮』がちゃんと謝ったというのがわかるようにそこに入れてほしいということと、それからあとは謝罪が出る号の目次に謝罪がわかるように明記してほしい、そして各新聞に出す広告にもそれがわかるようにしてほしいということにしました。

 向こうが「わかりました」ということで(あったが)、結局は、謝罪文も約束していたものにならず、(中略)約束がそのとおり履行されなかったのはこの雑誌だけでした。だから今でも私は『週刊新潮』はいちばん悪質だなと思っています。(『松本サリン事件報道の罪と罰』第三文明社刊より)――

 もとより、こうした『週刊新潮』の記事が、次々と名誉毀損で訴えられたことは、いうまでもない。

 そのことは月刊誌『インテリジェンス』(平成八年五月号)のインタビューで、当時の佐藤隆信副社長(現社長)が「多いですよ、訴訟は。でもなかなか勝てません」と述べている通りである。

 こうした、なり振り構わぬ人権侵害記事の背景には、同誌の部数低迷もあったといわれる。

 事実、『週刊新潮』は、この時期、長期の部数低迷に悩まされていた。

 あるデータによると、昭和六十一年(八六年)七〜十二月の平均販売部数は六十二万三千二百三十三部であり、平成七年(九五年)一〜六月は五十五万二千二百三部と、九年で七万部ほど落ち込んでいたことが分かる。

 同誌編集部の思考回路には、「人権侵害記事を乱発するから、読者が離れていく」という分析はなかったらしい。

 むしろ、部数が低迷するほど、ますます際どい記事と見出しが必要だという、歪んだ思考が一貫して支配してきたようである。

 信平の狂言騒動をめぐる報道は、同誌ならではの反人権体質、「売らんかな」の計算と密接に関わっていたといえる。

 ただ、こうした同誌の体質を考慮に入れても、信平信子の手記の掲載は尋常ではなかった。他のマスコミ関係者の目にも、明らかに異常と映ったようだ。

 同誌の“ライバル雑誌”でもある『週刊文春』の当時の編集長も、「あの記事にはやや疑問を感じますね。真偽については不明な部分がある。『新潮』の通常の取材の厳しさからすると、やや甘い感じがします」と、前出『インテリジェンス』で述べている。

 なぜ同業他誌すら疑問符を投げかける記事を載せたのか。そこでさらに一歩進めて、編集部内に目を向けるとき、そこには、抜きがたい「創価学会への敵意」が、横たわっていたことに気づく。

 そもそも「週刊新潮は、学会ぎらいでは人後に落ちません」――前述した元恐喝犯・山崎正友が、阿部日顕に宛てた書簡で、こう評したほどの雑誌である。

 しかも、当時の編集長・松田宏は、駆け出し記者のころから「創価学会批判」に奔走していたという人物。山崎とも「二十年来の仲」である。

 昭和五十三年(七八年)ごろ、山崎はマスコミにデマ情報をリークし、学会批判を煽り立てたが、この山崎のデマに真っ先に飛びついてきたのも、当時、『週刊新潮』の編集部員であった松田だった。

 当時、この二人はホテルで密会したが、山崎は直接顔を見せず、ホテルの内線電話にハンカチをかぶせ、声色を変えて偽名を使って松田の質問に答えた。この直後、同誌は山崎の情報をもとに創価学会を中傷する記事を掲載する。そのころからの仲なのである。

 実際、松田の「創価学会嫌い」は、関係者の間では有名だったようだ。

 あるルポライターが松田に会った際、学会のことが話題にのぼると、こう罵っていたという、

 「あんな宗教団体は潰したほうがいい。早く解散したほうが日本のためになる」

 自他ともに認める「創価学会嫌い」の彼が編集長になったのは平成五年(九三年)。就任当初から、学会中傷記事を続々と掲載したが、加えて彼は、編集長としての社会的、道義的、法的責任への鈍感さについても、人後に落ちない人物であった。

 そのことは「ぼくは面倒くさくてね。雑誌を作るほうに専念したいし。訴えられるのは、もう過去の記事だし。いちいちフィードバックしたくないんです」(「東京新聞」平成五年十一月五日付夕刊)と本人が述べている通りである。

 さらに『週刊新潮』編集部には、もう一人、忘れてはならない男がいる。

 門脇護記者である。

 信平の手記を担当しただけでなく、「白山氏に対する人権侵害報道」でもデマ記事を書いた張本人である。

 しかも信平の手記が掲載された時期は、白山氏への人権侵害報道の裁判の審理が進み、門脇らがデッチ上げ記事を作成した過程が明らかになるなど、次第に追い込まれつつある時期にあたっていた。

 すなわち、門脇らが白山氏のコメントまで捏造していたこと。

 取材する前からタイトルが決まっていたこと。

 取材過程で記者が明確に認識していたはずの事実も、シナリオに合わないものは切り捨てていたこと等々――。

 あらかじめ『週刊新潮』編集部が考えていた方向、結論に沿って、事実が歪曲され、偏向記事が書かれていたという実態が浮き彫りにされつつあったのである。

 当時、すでに白山氏の事件の裁判が敗色濃厚となっていた門脇にとってみれば、「創価学会に対する意趣返しのネタ」を必死に追い求めていたであろうことは、容易に想像がつく。

 同誌の「反人権」体質。

 創価学会への敵意を剥き出しにするばかりか、掲載した記事には責任をもたないと公言してはばからない編集長。

 そして「意趣返し」の機会を狙う記者。

 『週刊新潮』が、狂言騒動に異常なまでに執着した動機を挙げるには、これだけでも十分であろう。

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