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第三章

経過

「それらの団体との間の一定の協力関係があることを推認することができる」

 前章では、狂言騒動をめぐる「動機」についてのあらましを述べた。

 次に、それぞれの動機、思惑をもった輩が、狂言騒動の舞台の上で、どのような役割を演じていたのかについて解説してみたい。

『週刊新潮』に売り込んだのは山崎正友

 まず、創価学会攻撃には必ず「この人あり」といわれる山崎正友である。

 山崎は、創価学会の陥れを図る陰謀の舞台裏で、常に暗躍してきた。この男の仮出所以来、創価学会を狙う勢力の動きは、がぜん騒々しくなる。

 怨念にさいなまれたであろう牢獄で、山崎がめぐらした創価学会攻撃の策略――その「第一歩」が、平成五年(一九九三年)四月の仮出所直後から、阿部日顕に宛てて出した「謀略書簡」である。同書簡は、知られているだけで、五通にわたる。

 この書簡を見ると、この後に繰り広げられる狂言騒動が、すべて山崎の書いたシナリオ通りに進められていったことが分かる。

 まず、山崎は、週刊誌を使った学会攻撃を提案するのだが、文中、この男はマスコミ各社を、こう論評している。

 「文芸春秋は、(中略)すべて私の友人で、全社が学会ぎらいです」

 「講談社系は、出版物も極めて多彩で、学会とのかかわりも複雑です」

 「週刊新潮は、学会ぎらいでは人後に落ちません」

 まるで各マスコミは、すべて自分が手玉に取っているといわんばかりの言葉だが、中でも注目すべき点は、信平の狂言騒動を最初に騒ぎ立てたのが、「学会ぎらいでは人後に落ちない」と評された『週刊新潮』であったことである。

 とともに、注目すべきは、次のくだりである。

 「今後、元学会幹部に証言をしていただく必要が多くなります」

 反創価学会の雑誌に、学会の元幹部を登場させて騒がせる――「信平狂言騒動」の構図とピタリと一致する。

 否、最初に騒動の口火を切った週刊誌といい、「元学会幹部の証言」という文言といい、むしろ、すでに信平の存在をうかがわせていたかのような山崎の言葉ではないか。

何度も「信平とは無関係」と強調する山崎

 事実、山崎は、信平狂言騒動が持ち上がるや、待ってましたとばかり、「援護射撃」を始めている。信平夫婦が訴訟を起こしたわずか二ヵ月後、平成八年(九六年)八月の『週刊文春』に自らの手記を掲載したのである。

 記事の内容はといえば、かつて自分が煽り立てたウソの“焼き直し”ばかりだが、注目すべき点は、信平の提訴について「当の女性の直々の告発」などと持ち上げていることである。

 しかも、この記事の中で山崎は、こんなことを書いている。

 「断っておくが、私個人はこの二十数年来、信平さんと一面識もないし交信したこともない」

 いかにも怪しい。誰に聞かれるでもなく、どうしてわざわざ、目分から、あえて「無関係」を強調しなければならないのか。

 また、平成九年(九七年)十二月、ある集会に山崎は信平信子と仲良く姿を現した。

 その際、山崎のいわく。

 「さきほど信平さんの話を楽屋で聞かせていただきました。信平さんのおっしゃった通りに、創価学会の中にいたころも、私は信平さんと一度もお会いしたり、お話しした記憶はございません」

 「二十年間、今日に至るまで、一度もお目にかかったこともなければ、口をきいたこともない。手紙のやりとりもありません」

 一方、信平も、こんなことを話した。

 「私は学会であったころも含めて山崎さんとお目にかかったのは、今日が初めてでございます。もちろん電話でお話ししたこともございませんし、手紙のやりとりすら一度もしたことはございません」

 何とも奇妙な話ではないか。初顔合わせだという双方の話が、細部の細部に至るまで、まるで口裏合わせでもしたかのように、ピタリと符合するのである。

話をもっていったのは山崎

 そもそも山崎と狂言騒動の関わりについては、山崎に詳しい人物の、こんな証言がある。

 「(どうして信平の作り話が『週刊新潮』編集部の知るところとなったのか)ニュースソースについて、あれこれ話が出ているようだが、『週刊新潮』に話をもっていったのは、間違いなく山崎だ。山崎が、『週刑新潮』編集長の松田宏に渡りをつけたようだ。

 山崎が話をすると、『週刊新潮』は山崎のところへ、それこそスッ飛んでいったらしい。そのことは山崎に近い人間が周囲にもらしていることだ」

 この証言が世に出る前は、『週刊新潮』に口をきいた者として、脱会者の竜年光や売文屋の乙骨正生らの名前が取り沙汰されていた。しかし、この証言によれば、「ネタ元」は紛れもなく山崎だというのである。

 さもあろう。元来、山崎と『週刊新潮』編集長の松田宏が「ツーカー」の仲であることは、関係者の間では周知の事実である。

「山崎が仕掛け人であることは間違いない」

 さらに別の有力な証言もある。山崎と京都大学時代の同級生であり、長年、共産党の国会議員秘書を務めた兵本達吉氏のそれである。

 同氏は山崎と、狂言騒動に関わる者たちについて、こう明確に言い切っている。

 「彼らは全部、つながっている。完全につながっている」「山崎正友が仕掛け人であることは間違いない。私が見ていても」

 平成七年(九五年)暮れ、兵本氏は、関係者が顔をそろえた忘年会にも参加したという。

 奇妙なことに、その忘年会の直後、あたかもタイミングを見計らっていたかのように、信平信子が共産党機関紙に登場。そして翌年、問題の「手記」が『週刊新潮』に掲載されるのである。この忘年会で、どのような会話が関係者の間で語られていたかは、想像に難くない。

 いかに山崎が真相を覆い隠そうと、事実が真相をあぶり出す。狂言騒動の中心には、当初から山崎がいたことに、疑う余地はない。

手記発表を「予告」していた日蓮正宗

 次に日蓮正宗である。

 山崎正友と同じく、騒動が持ち上がる前から深く関与していた。

 というのも『週刊新潮』に「信平手記」が発表された直後の平成八年(九六年)二月十六日、日蓮正宗の信徒グループが発行している「慧妙」なる出版物の一面に「緊急予告ついに発覚!!」「乞う御期待」云々と、スポーツ新聞と見まがうような大見出しが掲載された。この「ついに発覚」した内容が、くだんの手記であることは明白であった。

 だが、「慧妙」編集部は、ここで決定的なミスを犯した。

 つまり、「信平手記」が載った『週刊新潮』が、書店や駅売店の店頭に並んだのは、二月十五日。

 月二回しか発行されない「慧妙」が、十六日付で予告を掲載するためには、少なくとも『週刊新潮』発売の三、四日前に、あらかじめ情報を入手しておく必要があった。この「予告」は、「慧妙」編集部が、『週刊新潮』と何らかのルートでつながり、情報を入手していたことを明瞭に物語っているのである。

 信平夫婦はもとより、騒動を起こした面々にとっては、あくまでも夫婦の「個人的動機」によるものでなければならなかったはずである。

 戦略上、その背後にある「組織的意図」は、隠し通すべきであった。

 ところが「慧妙」編集部は、ウッカリ自分で自分の正体を明かしてしまったのである。

 事実、一審の判決文も、この点を見逃していない。あえて「創価学会を批判する勢力との関係」という一節を立て、「『慧妙』の編集担当者は、『週刊新潮』の信平信子の手記掲載をあらかじめ認識していた」「それらの団体との間の一定の協力関係があることを推認することができる」と鋭く指摘しているのである。

 日蓮正宗が、いかに一連の騒動と密接に関わっていたか。すべては、はじめから「連携プレー」だったのである。

 その証拠は、この「慧妙」のポカばかりではない。同月二十三日、信平は東京で記者会見を行った。ここで信平信子は“ウソ泣き”までして、哀れな一婦人を演じて見せた。

 だが、この会場となった都内のホテルを予約したのも、「慧妙」を実質的に編集している日蓮正宗の信徒グループ「妙観講」の一員であったことが発覚している。

 このグループは“阿部日顕直属”の謀略集団として名高い。これまで、盗聴、違法ビラ配布など、数え切れない犯罪行為を繰り返してきた集団である。

 付け加えれば、あの山崎正友が日蓮正宗内において所属するグループでもある。

 その後、この妙観講は、狂言騒動を全面的にバックアップしていく。

 平成八年(九六年)二月、妙観講員が実質的に取り仕切る出版物「自由の砦」は、『週刑新潮』と同内容の信平の手記を、こちらは信平の署名入りで掲載。

 また関係者筋によれば、信平を支援するためとの名目で、かなりまとまった額の「カンパ」まで集めていたという。

 それだけではない。阿部日顕一派は、信平の手記の内容の骨子まで用意していたのではないかといわれる。

 というのも、信平の手記にある「事件」なるものは、まったくの事実無根のデッチ上げであるわりに、細かい部分が、かなりリアルに書かれているからである。

 ――実は、この信子の手記と「ウリ二つ」の実例が、かつて北海道の地元誌『北方ジャーナル』(昭和五十九年九月号)に掲載されたことがあった。

 それは昭和五十七、八の両年、札幌市の日蓮正宗・仏見寺で従業員をしていた鴇田まさ子さんが書いたものである。

 これは実際に本人が書いた手記で、後に同宗の宗務院宛にも送られている。

 鴇田さんは昭和五十七年(八二年)十月、翌年二月の二度にわたり、同寺の住職・藤原広行に襲われたという体験をもつ。

 藤原は、前述の「白山氏に対する人権侵害報道」のデッチ上げに加担した男。白山氏を加害者呼ばわりしたデマを、最初に『週刊新潮』に流した男である。

 鴇田さんの話は、こうである。

 一度目は、藤原から台所に呼び出され、不意に後ろから抱きつかれ、そのまま風呂場へ。そこで暴行されかかったが、来訪者の呼び鈴で間一髪、救われた。

 二度目には、寺の二階の庫裏に呼びつけられた。

 住職の妻もいるものと思って部屋に入ると、藤原がいきなり襲いかかった。自分の足で鴇田さんの足を払って押し倒すと、馬乗りになり、鼻息も荒く事に及ぼうとした。

 鴇田さんは、藤原のアゴを掌で押し返すことで、のしかかる藤原の大きな顔と重い身体と格闘した。

 そして「やめてください! 奥さんに話しますよ!」と大声を張り上げたという。

 不幸中の幸いで、格闘している途中で藤原が果てたため、その隙を見て鴇田さんは脱出。

 泣きながら一階に駆け降り、トイレヘ。そこでスラックスについた藤原の体液を何度も拭きながら、あふれる怒りの涙を、どうすることもできなかった――という内容であった。

 この事件の後、むろん鴇田さんは寺を退職するが、藤原はまったく反省を見せない。

 鴇田さんは口惜しさが忘れられず、勇気を奮って昭和五十九年(八四年)に実名で藤原を告発。彼は躍起になって強姦未遂を否定したが、この騒ぎは信徒の間に大きな動揺を招いた。

 藤原の妻も知るところとなり、離婚する、しないの騒動に発展した。藤原が妻の前で、鴇田さんに土下座して謝ったという経緯も付記しておく。

 鴇田さんの手記が『北方ジャーナル』に掲載されたころ、まだ創価学会の幹部だった信平信子も、その記事を読んでいるはずである。

 また藤原はかねて『週刊新潮』と関係のある間柄である。

 さらに藤原の仏見寺は、信平夫婦がいた北海道における反学会の策謀の拠点である。藤原が自分で体験した強姦未遂事件を下書きにして、手記の捏造に一役かったとも考えられよう。

 でなければ、鴇田さんの手記の内容が、信平信子が被害を受けたと称していた作り話の内容と、詳細部分までピタリと一致していることの説明がつかない。

 その後も仏見寺は、狂言騒動をめぐって執拗に策謀をめぐらしてきた。

 平成八年(九六年)十月には、街宣車が狂言訴訟をダシにして、札幌の創価学会の会館前で嫌がらせの宣伝活動を行った。これにも仏見寺が関わっていたとみられている。

 藤原は平成九年(九七年)六月発行の日蓮正宗の法華講機関紙にも「信平夫婦に心からエールを送りたい」と、わざわざ書いている。

 加えて、仏見寺では「信平捏造手記」パンフレットを独自につくり、函館市内の各所に無差別郵送を行うなど、積極的に騒動を大きくしようと画策したことも分っている。

 今回の狂言騒動において、藤原に代表される日蓮正宗は、見逃すことのできない働きをしてきたのである。

 余談になるが、実際に強姦未遂事件に遭った鴇田さんは、信平の手記を、どう見ていたか。平成八年(九六年)九月二十日発行の月刊誌『第三文明』の臨時増刊号の中で、彼女は――。

 掲載当初から「信平手記」を冷静に批判していた。

 「いきなり背後からのしかかられたとか、足を掛けられ押し倒されたとか。とくに二階から駆け降りて、女子便所に逃げ込んで、付着したものを何度も拭いたなどという描写は、私の告発とウリ二つ、そっくりです。

 また私は最初から『手記』はウソだと分かりました。

 第一、こんな最低のことを本当にされたなら、しかも三回も繰り返されたというなら、誰にも打ち明けないなんておかしい。

 私も黙っておこうと思ったことがありましたが、それは藤原が一旦は土下座して謝ったからです。

 また『手記』では、恐怖のあまり声が出なかったなどとありますが、いきなり襲われたら、誰だって大声で助けを求めるもの。声が出なくなったのは、むしろ必死で逃げ出したあとでした。

 背後から襲われただけで、すぐ気を失うというのも変です。一対一なら、女性でも結構、抵抗できるもの。『手記』はどこからみても不自然、現実味に欠け、これはウソだなとすぐ分かりました」

 実際に経験した人から見れば、手記はウソだと、すぐに見破られる代物だったのである。

信平信子が初めて登場したのは「赤旗」

 信平が、初めて手記を掲載した『週刊新潮』のタイトルは、「沈黙を破った北海道元婦人部幹部」云々というものであった。まるで「我慢に我慢を重ねてきた人間が、やっとの思いで口を開いた」とでも言いたげなタイトルである。

 ところが、この約二ヵ月も前に、信平はマスコミに“デビュー”を果たしていたのである。

 平成七年(九五年)の暮れも押し迫った十二月三十日、元創価学会幹部のインタビュー記事が共産党の機関紙「赤旗」に掲載された。

 「元婦人部幹部が語る」と、なぜか匿名で掲載された、この記事。内容を子細に見れば、この匿名者が信平信子を指していることは明白であった。

 さらに翌年六月、「赤旗」は信平が狂言訴訟を起こしたことを報道した。

 ここで同紙は“信平さんは昨年十二月三十日付本紙に登場”と記し、匿名であったはずの信平の正体を、はっきりと掲載したのである。

 その後も「赤旗」は数回にわたって、他紙が一行も報道していない、裁判の細かい過程まで報道するに至る。

 しかも、信平夫婦と共産党の関係は、「元婦人部幹部」云々の記事が掲載された平成七年(九五年)末に始まったものではない。

 元来、信平夫婦といえば、地元・函館では知らぬ者もいない「借金魔」であった。創価学会の役職を解任されたのも、学会で禁じている会員間の金銭貸借が原因であったことは先述の通りである。

 この金銭貸借をめぐり、信平夫婦は被害者から何件もの訴訟を起こされている。

 前章でも触れたが、この訴訟のうち、信平側の数件の代理人を、なぜか共産系の弁護士が務めていたのである。

 すでに信平の記事が「赤旗」に掲載される二年以上前の平成五年(九三年)八月の時点で、共産系の弁護士二人が、信平の裁判の代理人を務めている。

 さらに平成八年(九六年)七月、信平醇浩が二千九百四十万円もの借金を返さないとして訴えられた裁判でも、共産系の弁護士が代理人となっていた。この弁護士の妻は、元国会議員で北海道共産党の「顔」ともいわれる人物であった。

 信平夫婦と共産党が、かなり以前から一定の“協力関係”にあったことは明白である。

政治権力による「宗教弾圧」

 信平信子の「狂言手記」が発表された平成八年(九六年)当時、反創価学会の一部政治家たちは、深刻な“手詰まり”の状況にあった。

 後に、かの四月会と連携する自民党の一部政治家は、平成五年(九三年)の衆院選での惨敗以来、政治的思惑から創価学会に対し攻撃を仕掛けていた。その最大のものが宗教法人法「改悪」問題であったが、これも平成七年(九五年)末には決着がついた。

 次期衆院選は、間もなくである。ここでさらに学会の封じ込めを図らなければならない――彼らは焦っていた。

 そこにタイミングよく転がり込んできたのが、くだんの「信平手記」である。

 これを学会攻撃を狙う一部政治家が見逃すはずもなかった。

 実際、それら政治家の“対応”の早さには、目を見張るものがあった。

 「捏造手記」を掲載した『週刊新潮』が店頭に並んだのは平成八年(九六年)二月十五日。

 そのわずか四日後の十九日には、もう国会で取り上げられた。

 衆院予算委員会の理事会で深谷隆司代議士(当時)が、この「手記」を使って「証人喚問」云々と大騒ぎしたのである。

 当然、同議員には、「手記」に書かれた内容について、詳細に調査する時間などあろうはずがない。

 頭から「捏造手記」の内容を鵜呑みにした上での、「国会質問に名を借りた宗教弾圧」であった。

 その後も、一部議員の陰湿な宗教弾圧は続く。

 四月には白川勝彦代議士(当時)が、五月には原田昇左右代議士が、いずれも信平の作り話をもとに国会質問を行っている。

 前章で付記したように、当時の国民の最大の関心事は「住専問題」であった。この重大事をそっちのけにして、一部のマスコミ以外からは見向きもされなかった「狂言騒動」を国会に持ち込む――これほど国民を愚弄した「党利党略」もない。

 そもそも、証人喚問要求の理由というのが、“住専問題に関して、野党が与党幹部の関係者の喚問を要求するというのなら、創価学会幹部の喚問を要求する”という、「党利党略」剥き出しのそれであった。

 事実、こうした一部政治家の姑息な姿勢に、国民の批判が集中した。二月二十一日付の「朝日新聞」には、こんな記述がある。

 「こんなおかしな話はない。いま問われているのは住専問題である」「国民が求めている住専問題の解明より、党利党略を優先する態度であり、厳しく責められなければならない」

 そもそも国民の負託を受けた国会議員が、国権の最高機関たる国会で、しかも、何ら明確な事実確認もしないデマ話を使って、特定の宗教団体を一方的に誹膀中傷するのみならず、一個人を証人喚問の名を借りて脅しつけるとは、何事であろうか。

 改めて確認するまでもないが、日本の国会における証人喚問は、往々にして、その本義から逸脱し、特定の人物を「見せしめ」にする便法として用いられる傾向が強い。

 とりわけ創価学会に対しては、ことあるごとに過去数十年間にわたって、この国会喚問要求という手段が、事実上、政治権力の「合法的な脅迫」の道具として使われてきた。

 恐るべき、卑怯、卑劣の宗教弾圧といわざるを得ない。

 しかも、その弾圧が、数十年もの長期にわたって、ちらつかされてきたという事実――「権力」というものの傲慢と陰湿さに、心からの怒りを覚えるのは、筆者一人ではあるまい。

 しかも、狂言騒動をめぐる一部政治家の蠢動は、その後、さらにエスカレートしていく。

選挙狙いの「デマビラ」を大量配布

 参議院岐阜補選公示の翌日にあたる平成八年(九六年)三月八日。

 岐阜、愛知、三重の三県で、信平手記を掲載した『週刊新潮』の「抜き刷り」が、大々的に配布された。

 さらに四月中旬には、同じ抜き刷りが、「自民党本部の帯封入り」で、各種団体に郵送されている。

 また同月、「民主政治を考える会」なる団体の発行による、信平狂言騒動を特集したデマビラが、自民党組織広報本部に納入されている。

 その数、なんと数百万枚というから、驚きを禁じ得ない。

 当時の組織広報本部長は亀井静香代議士であったが、同氏は平成七年(九五年)秋、『週刊ポスト』のインタビューに答えて、こう語っていた。

 「次の総選挙で自民党が負けたら、自民党そのものが消えてなくなってしまうのだから、生き残るためには手段を選ばずにやる。十月中に三百万枚、年内に千万部の紙つぶて(戸別配布の宣伝ビラ)を打ち、新進党をやっつける」(十一月十日号)

 「三百万枚」「千万部」――その言葉通り、創価学会中傷ビラが全国でバラ撒かれた。

 こうした一連の「ビラ作戦」の中心にいた政治家の一人が、白川代議士(当時)である。白川は、ビラの発行元となった「民主政治を考える会」に深く関与していた。

 当時、白川が、いかに深く内情に関わっていたか。後に、同会の内部告発文書によって、実態が暴露された。

 その内容を要約すると、以下のようになる。

 ――ビラは自民党はじめ、各宗教団体(日蓮正宗、霊友会、仏所護念会教団、新生仏教教団など)や個人がまとめて購入し、全国的規模で戸別配布されてきた。

 ビラは基本的に一枚三円となっていた。しかし印刷関係者の話によると、この種類の印刷物の場合、紙代、印刷代、折り代などを含めても総額で一円五十銭だという。

 原価が一円五十銭なら売価三円の半分は差益となる。

 毎号の発行、配布数には当然、差違が出るが、平均して各号は一千万枚、ビラ一回だけで千五百万円の差益が生まれることになる。

 ビラは六号まで出ているので、差益の総額は約一億円とみられる。

 では、その金はどこに消えたのか。カギは、山崎正友である。山崎は収入支出を一手に握っていたにもかかわらず、経理内容について一度も報告したことがない。

 彼はビラ作成の印刷、納入業者のホクシンカンテック・オー・エー・サービス(港区)からもバックマージンを取り、懐にしていたらしい。差額プラス・マージン、これを自由にしていたのである。

 そして、白川勝彦党総務局長(当時)との関係。通常、「民主政治を考える会」の口座に振り込まれるビラの代金が、自民党については、白川から山崎に現金で支払われていた。

 白川から山崎が受け取っていた金が何億円にのげるのか、山崎以外は誰も知らない。

 山崎は、しばしば“自民党がそうしてくれというのだから仕方ない。オレが好きこのんで現金支払いを指定しているわけでない”と弁明し、他の者には一切、タッチさせなかった。

 おそらく、一枚三円以上の作成費のほか、配布料も受け取っていたのではないか。

 自民党に対しては、口癖のように「赤字だ」と言っていたことも分かっている……。

 こうした内容である。つまり、白川は、ビラの費用面についても関与していたというのである。

 このことは、この「民主政治を考える会」の名目上の代表世話人であった売文ライターの内藤国夫が、山崎をよく知る人物と交わした会話で、こう話していたことからも、うかがえる。

 ――そいで、表でちゃんとハデにケンカして決着つけるなら勝手だし、誰がどうやってどれだけ山分けしようが、オレは知ったこっちゃないわけだ。白川を一時期は追及したよ、「いくら渡したのか」と。だけど、所詮、そういうことを表にできないのが裏金だから、オレは分かって、「もう勝手にしろ」と、「バカヤロー」と、オレは白川にも大バカ呼ばわりしたよ。――

 「表にできない裏金」で、ビラの費用は、まかなわれていた――。事実とすれば、明確に政治資金規正法に抵触する重大な違法行為である。

 しかも、白川は後の自治大臣、国家公安委員長である。公明正大な選挙活動を司る最高責任者が、自ら不透明な裏金の動きに関与していたとすれば、これまた重大な責任問題ではあるまいか。

 ともあれ、こうしたビラ配布の動きも、平成八年(九六年)の秋に想定されていた次期衆院選を狙ったものであったことはいうまでもない。

四月会の動き

 次に四月会である。この団体は、この問題の当初から、表向き一貫して「信平とは無関係」と言い張っていた。

 もとより世論の批判をかわし、自らの正体を覆い隠すためであったことはいうまでもない。

 だが、その後、ひょんなことから馬脚を露わにする。

 後述するが、自民党は平成十年(九八年)四月、機関紙に狂言騒動にまつわる中傷記事を掲載した非を認め、創価学会に謝罪する。

 ところが、この自民党の謝罪に対し、「信平とは無関係」のはずの四月会が突然「緊急アピール」を発表。“信平の言い分を虚偽と認めたのはけしからん”と、自民党にかみついたのである。

 さらに五月には、信平をめぐる一連の経緯をテーマに、総会まで開催。ここでも内部国夫や俵孝太郎などの登壇者は、こぞって「けしからん」「けしからん」と大合唱だった。

 「信平とは無関係」と主張してきた団体が総会まで開いたのだから、当惑したのは、何も知らない参加者である。登壇者が信平擁護を叫べば叫ぶほど、会場には白けたムードが漂ったという。

 結局、四月会は、狂言騒動への関与を自ら認めたかたちとなったのである。

信平側の「身内同然」だった『週刊新潮』

 どれほど滑稽な「猿芝居」も、「舞台」がなければ始まらない。

 信平の狂言騒動――その最大の舞台となったのが『週刊新潮』である。

 信平の捏造手記が『週刊新潮』に掲載されて以降、他の一部週刊誌等も、『週刊新潮』を後追いするかたちで、センセーショナルに騒ぎ立てた。

 しかし、法廷で審理が進み、信平の訴えが、まったく荒唐無稽なウソであることが明らかになるにつれ、ほとんどのマスコミが、この問題から距離を置くようになる。

 ところが、『週刊新潮』だけは、終始一貫して全面的に信平を援護し、執拗なまでに偏向報道を繰り返した。

 それだけではない。審理の進む過程についても、同誌は逐一、信平側の一方的な言い分に沿って、援護射撃を続けたのである。

 そもそも毎回の法廷でも、『週刊新潮』の記者は、信平側の関係者と連れだって現れ、終了後は、また信平側の人間とともに消えていくのである。閉廷後、それらの関係者と親しげに打ち合わせをする姿も頻繁に目撃されている。

 この種の訴訟の公判では、記者クラブに所属しない一般ジャーナリストは、「くじ引き」によって傍聴券を得るしかない。

 しかし、『週刊新潮』の記者は、信平側の関係者として傍聴券を受け取っていたようである。

 要するに『週刊新潮』は、はじめから最後まで、信平側の「身内」も同然だったのである。

もう一人の「身内」――売文屋・乙骨

 ところで、信平側の「身内」といえば、もう一人、法廷が開かれるたびに、信平とともに現れ、信平とともに消えていった得体の知れないブラックジャーナリストがいる。

 名前を「乙骨正生」という。

 実は、この乙骨、事件の当初から、信平に陰に陽に付きまとっていた売文屋なのである。しかも、その絡み方が尋常ではない。

 というのも、信平が平成八年(九六年)、一連の狂言手記を『週刊新潮』に掲載した直後、東京都内で記者会見を開いた。どういうわけか、その司会を務めていたのが乙骨なのである。

 さらに、その記者会見に先立って、信平信子と綿密に事前の打ち合わせを行っている姿も目撃されている。

 それだけではない。

 信平信子の訴えをめぐる高裁の審理が結審となった法廷で、信平側が、まさに最後のあがきとして証人申請を行った。

 信平側弁護士が、「ジャーナリストとして、かなり定評のある方です」といって名前を出したのが、乙骨だったのである。

 ちなみに乙骨が、ここでの触れ込みのように「ジャーナリストとして、かなり定評」があったかどうかは、極めて疑わしい。実際のところ、当時、法廷で傍聴していた人の話によると、裁判長も「乙骨」という名前を、どう読むのか分からなかったらしい。

 また、信平側弁護士の「定評」云々のくだりにくると、傍聴席のそこここから、思わず失笑が漏れたという。

 また信平狂言事件をめぐる『週刊新潮』の記事の中でも、「学会ウォッチャー」「ジャーナリスト」の肩書で、乙骨のコメントが必ず出てくる。

 まさに、この問題の「ゆりかごから墓場」まで付き添っていたのが乙骨なのである。

 では、この乙骨とは、いかなる人物なのか。

 信平側の弁護士は、「ジャーナリストとして、かなり定評のある方」と言っているようだが、これは、かなり身勝手な言い方であろう。

 私もジャーナリストの一人だが、信平狂言騒動に関わる以前には、「乙骨」などという名前は、ただの一度も聞いたことがない。

 そこで調べてみて分かったが、たしかに乙骨は、しばしば週刊誌に顔を出してコメントを寄せている。しかし、それはすべて創価学会を中傷する記事である。

 学会批判以外の記事で、乙骨が顔を出すことは、まったくといっていいほどなかった。

山崎に操られる乙骨

 たしかにジャーナリストにも、専門分野をもつ人々もいる。しかし、どう間違っても、一民間団体だけを相手にした「アンチ××」を売り物にするジャーナリストなどいない。

 さらに調べてみると、驚くべきことが分かった。

 乙骨は、元恐喝犯・山崎正友の意のままに操られる「子分」「手下」だったのである。

 そもそも乙骨は、元創価学会員だが、学会にいる間は、自己顕示欲が強く周囲に迷惑をかけていた。学生時代に脱会して以降、山崎のもとに身を寄せ、反創価学会の団体で機関紙の編集に携わるようになる。

 要するに、ジャーナリストとして正規の訓練など、何一つ受けていない。ただ山崎の学会攻撃の道具として使われてきただけの存在なのである。

 乙骨が「物書き」として、いかに低劣かを物語るエピソードがある。

 乙骨は平成六年(九四年)、米国ロサンゼルスに取材に行き、帰国後、週刊誌に反学会の記事を書いた。その際、乙骨は現地「ロサンゼルス・タイムズ」紙のジョン・ダーツ記者のものと称するコメントを掲載した。

 ところが、これが、まったくの捏造だった。記事掲載後、当のダーツ記者が、厳重抗議を申し入れたのである。ダーツ記者によれば、乙骨などという人間から取材をされたこともなければ、発言内容もまったくのデッチ上げだという。

 『週刊新潮』は、こんな男を重用し、臆面もなく「ジャーナリストのコメント」と称して掲載していたのである。どれほど低劣なデマに満ちていたか――語るに落ちたとは、このことである。

偏向記事のオンパレード

 『週刊新潮』は、狂言騒動をめぐって、大小あわせて三十五回も記事を掲載した。この回数は、同趣旨の記事を扱った他のメディアに比べて、断然、突出している。

 しかも、その内容たるや、いずれも信平への「提灯記事」のオンパレードであった。

 中には、「畏縮する『報道』陣」という大見出しを立てて、他のマスコミにかみついた記事すらあった。

 自分たちのデマ記事に、他のマスコミが思うように食いついてこない、というのである。それをとらえて「畏縮」と中傷するとは、驚くべき神経である。

 そもそも、この訴訟は最終的な判決で、「百万件に一件」あるかないかといわれる「訴権の濫用」が認められたほどの、悪質極まるデッチ上げ訴訟であった。

 裁判の過程でも、信平側は、いたずらに裁判を引き延ばそうとあがいたり、主張をクルクル変遷させるなど、悪質かつ粗暴な訴訟態度に終始した。

 ところが、『週刊新潮』にかかると、そうした「真実」とは、ものの見事に正反対の記事となる。

 例えば、こんな記事があった。

 いわく「裁判を引き延ばす創価学会弁護団」「創価学会弁護団のヘンな戦術」。

 いかにも裁判が、信平側に有利に展開しているかのような書きぶりである。

 しかし実際は、「裁判を引き延ば」し、「ヘンな戦術」をとったのは信平側であった。

 論より証拠である。判決文は信平側の訴訟態度を、こう断罪している。

 「(信平側が行った裁判官忌避の)申立ては専ら訴訟の引き延ばしを目的としてされたものではないかとの疑問が残る」

 「(信平の訴訟態度は)事実的根拠を欠くことをうかがわせるものであるばかりでなく、訴訟当事者として、到底、真摯な訴訟追行態度と評価することはできない」

 「原告(=信平)らの訴訟活動は、真に被害救済を求める者の訴訟追行態度としては極めて不自然であり、およそ信義則にかなうものとはいえない」

 いかに『週刊新潮』の記事が偏見と邪推に満ち満ちたものか、この一点でも分かるというものであろう。

裁判官をも誹謗中傷

 さらに、『週刊新潮』の偏向ぶりを強く印象づけた記事がある。

 一審で東京地裁が、信平側の訴えの主要部分を分離して結審した直後のこと。『週刊新潮』は、「裁判官の『挙動不審』」(平成九年十一月二十七日号)という大見出しで、裁判官に対して常軌を逸した人格攻撃を加えたのである。

 この記事では、「挙動不審だった」「裁判官に何があったのか」「事なかれ主義だ」云々と、当たり散らした揚げ句、裁判長のプライバシーにまで踏み込んで「八つ当たり」をしていた。

 また別の記事では、「裁判官が“逃げた”」などと見出しを立て、信平側の弁護士の、こんなコメントを紹介している。

 「証拠調べをしないまま被害者本人分の請求を蹴るというのは、全く前代未聞の訴訟指揮(=訴訟の進行)です」

 別の号でも、

 「(一審の訴訟指揮に)法曹専門家が目を剥いた」

 「偏向した訴訟指揮」

 「不可解な訴訟指揮で司法への信頼を失わせた」等々、裁判所への罵詈雑言を並べている。

 冗談ではない。

 「前代未聞」であり、「偏向」「不可解」なのは、『週刊新潮』の報道姿勢のほうである。

 もはや、何をかいわんやであるが、例えば『週刊新潮』が難癖をつけていた一審の訴訟指揮についても、本物の「法曹専門家」が、全面的に支持を表明していたのである。

 というのも、控訴審で創価学会側は、一審判決の妥当性を裏付けるために、新堂幸司・東京大学名誉教授の「鑑定意見書」を法廷に証拠提出した。

 新堂名誉教授は、民事訴訟法研究では、我が国の最高権威の一人。

 主著「民事訴訟法」をはじめ、いずれの著書も法律実務家にとっての、いわば「教科書」となっている。

 その新堂名誉教授は鑑定書で、一審の内容を詳細に検討した上で、こう述べている。

 「訴訟経済の観点から、無用な証拠調べを経ずに弁論を終結すべきであり、本件訴訟におけるこの点の訴訟指揮に問題があるとは思われない」

 「裁判所の訴訟指揮は、当事者の立場を公平に尊重しつつ訴訟経済を図った、適切な訴訟指揮であったと思料される」

 民法の最高権威が「適切な訴訟指揮」と断ずる判断も、『週刊新潮』にかかると、「前代未聞」「偏向」「不可解」となる。

 まさに「世間の常識は『新潮』の非常識」というべきか。

『週刊新潮』の「特別な事情」

 しかし、なぜ『週刊新潮』が、同業他誌が相次いで撤退するなかを、依然として、狂言騒動に固執し続けたのであろうか。

 それも、時を追うごとに、次第にその偏向ぶりをエスカレートさせていったのか。

 単に、信平の手記を最初に掲載したからという理由だけでは、到底、説明のつくものではない。

 実は、『週刊新潮』には、どこまでも信平と心中せざるを得ない「特別な事情」があったのである。

 第二部で、その「特別な事情」について検証したい。

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