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第二章

偏見

「被告に訴訟上又は訴訟外における有形、無形の不利益を与える目的で本件訴えを提起したものであると推認されてもやむを得ない」

完膚なきまでに破綻した「デマ報道」

 「信平狂言事件」が、偶発的なデマ騒動でないことは、前章で述べた。すなわち、平成六年(一九九四年)の「白山信之氏に対する人権侵害報道」、平成七年(九五年)の「東京・東村山市議の転落死をめぐるデマ報道」、そして平成八年(九六年)の「信平狂言事件」は、その「手法」「背後の登場人物」「思惑」という点で、まったく同じ根をもつ一連一体の「冤罪報道事件」だったのである。

 しかし結局、この三大デマ事件は、ここ数年の間に、すべて法廷で決着がついている。

 「白山氏に対する人権侵害報道」の被害者である白山氏が平成六年(九四年)十月、『週刊新潮』に対し損害賠償を求める訴訟を提訴。

 一審の札幌地裁(平成八年十二月)、二審の札幌高裁(平成九年九月)ともに新潮側全面敗訴の判決を下し、平成十年(九八年)三月、最高裁が新潮側の上告を棄却した。

 「東京・東村山市議の転落死をめぐるデマ報道」では、創価学会側が平成七年(九五年)十一月に『週刑新潮』を相手に提訴した裁判で、一審で新潮側が全面敗訴。新潮側が控訴を断念したため平成十三年(二〇〇一年)六月初めに判決が確定し、賠償金二百万円を支払っている。また『週刊現代』を相手取った裁判でも、一審、二審ともに現代側に損害賠償と謝罪広告を命じる判決が出ているほか、すべての裁判で創価学会側が全面勝訴している。

 そして「信平狂言事件」も最高裁の最終判断が下り、信平側全面敗訴で決着した。

 創価学会をめぐる近年の悪質なデマ事件は、司法の手によっても、「事実無根である」と永久に歴史に刻印されたのである。

市民社会の趨勢は「人権侵害」の根絶

 注目したいのは、これら三つの事件の判決文では、いずれにおいても悪質な「デマ報道」「人権侵害報道」を繰り返す一部マスコミに対し、厳しく断罪していることである。

 「取材は予め決められた創価学会批判の方向に沿ってされたのではないかとの疑問は払拭できない」(白山事件の判決文より)

 「当事者の一方のみに偏った情報を流すだけの報道は、民主主義社会において尊重されるべき紛争報道の名に値しない」(東村山事件の判決文より)

 「本件のような事実的根拠が極めて乏しい事柄について、しかもスキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはないというべきである」(信平狂言訴訟の判決文より)

 それぞれの事件の本質を法廷で見抜いた裁判官たちが、異例ともいえる厳しい口調で、デマ報道に関わった一部マスコミの姿勢を一刀両断にしているのである。

 昨今、一般市民までがマスコミによる深刻な人権侵害にさらされるケースが増えている。巨大化した「マスコミ企業」の暴走行為は、もはや社会問題化しているといってよい。

 こうした「報道被害」を救済するために、政府や司法機関、弁護士などが、より強固な人権擁護制度の確立を検討している。また、諸外国に比べて低すぎるといわれる名誉毀損の賠償額の見直し、罰則の強化も具体的に俎上に載せられている。

 特に最近では、「デマ報道」に対する裁判所の姿勢も厳しく、高額な賠償額を認定する判決が相次いでいる。

 かつて日本は、名誉毀損に対する賠償額が安く、「何を書いても百万円」というのがマスコミ界の通り文句であった。商業主義に狂った一部の「マスコミ企業」は、そこにつけこみ、「慰謝料も必要経費のうち」等と嘯き、スキャンダラスなデマ報道を繰り返してはばからなかった。

 しかし、もはやそんな甘い考えが通用する時代ではない。

 そもそも「言論の自由」「報道の自由」は、ヨーロッパの近代市民革命以来、民衆が血で購い、獲得してきた最も重要な人権である。現代社会にあっても、「真実を伝える」ことを前提に、市民からマスコミに付与された「特権」といえよう。平然と「デマ」「ウソ」を撒き散らし、市民の人権を踏みにじるような「悪質マスコミ」には、「言論の自由」を語る資格など断じてない。

 裁判の判決は、市民社会の「常識」を基盤としている。「信平狂言事件」をはじめ、デマ報道事件をめぐって『週刊新潮』ら悪質マスコミに厳しい判決が相次いでいるが、これも次第に高まりつつある市民の人権意識の表れであるといえよう。

「誹謗中傷」は創価学会への嫉妬

 では、なぜ創価学会が、一部マスコミや権力から不当な弾圧を受けるのか――その深層を考察しておきたい。

 かつて文芸評論家の岡庭昇氏は、こう論じている。

 「わたしが生まれ、育ち、いま住む地域は、関西では甲子園、東京では馬込である。戦後の匂いをいささかでも知る世代の一人として、創価学会が精力的に組織を広げる過程を、東西の二大拠点である大森、尼崎の傍らにあって、それなりに見届けてきた。その宗教的な情熱は、まさに零細中小企業、商店に生きる人々によって支えられたものであることを、わたしは知っている。

 夫婦二人以外に、誰もあてに出来ないちっぼけな店。五人ばかりの労働者が、夜も昼も交代で働く町工場。病気で倒れればそれまで、誰も助けてはくれない。何の保障もない。行政や組織のバックアップを、もっとも切実に必要とするこれらの人々を、冷酷に切り捨ててきたのが、戦後日本の“労使”双方であった。

 創価学会は、未組織大衆のこの切実な窮状に立脚し、その情念を汲み上げてきた民衆運動であると、わたしは理解している。つまり学会の歴史にこそ、在家ならではの運動があり、まさに在家という文字が輝いているのではないか。

 反創価学会キャンペーンが定期的に打ち出されてくる背景は、日本の一党独裁体制を理解しなくては読み取れない。これはたんに、自民党の長期政権という意味ではない。総評に代表される労働運動は、下請け町工場の労働者を“組合員資格なし”として切り捨ててきた。言い換えるなら、自民党=大企業、社・共・総評=大企業労働者というブロックが形成され、それらは“対立”というセレモニーを通じて、じつはひとつの場を分かち持った。いや、排除的に独占したというべきか。一党独裁とは、このような場の固定化のことである。

 当然、一方的に切り捨てられてきた側か、正当な自己主張を獲得することを、もっとも恐れる。だからこそ学会を定期的に非難・攻撃し、デマをばらまき、内部分裂まで仕掛けて、社会的な影響力を封じ込めようとするのだ」――

 極めて正鵠を射た論評だと思う。

 また、私の知る多くの識者が、今や創価学会が、「一宗教団体」という枠を大きく超え、日本という狭い国土に縛られず、世界に向かって発展していることに大きく注目している。学会の活動の領域は、開かれた宗教性を軸に、平和、文化、政治、経済など多方面にわたっている。その深さ、広がりという点で、他の民間団体を圧倒するスケールで展開しているというのである。

 それゆえ創価学会は、既成の社会構造にしがみつく者たちの目にとって、以前にも増して、「意のままにならない存在」に映らざるを得ない。

 創価学会は創立以来、“大衆とともに、庶民とともに”という基本理念を掲げてきた。それは同時に、既成権力による「支配の論理」に迎合しないことを意味する。

 日本政治史上初めての「大衆政党」として公明党が誕生したのも、その一つの象徴である。

 創価学会という「大衆の中から生まれた団体」は、「支配の論理」で形成されている既成社会に対するアンチテーゼとして発展してきたともいえる。

 それは、旧来の支配構造にとっては、“自らの主張をもち、沈黙していない大衆”の出現であり、なんとも目障りな存在、排除すべき人々と映ったにちがいない。

 こうして既成の権力構造から抜け出せない勢力のなかに、嫉妬ややっかみ、違和感に基づく「偏見」が醸成されていくのである。

 その最たる例が、『週刊新潮』である。同誌は既成権力に盲従する“タカ派雑誌”として知られるとともに、“反人権の権化”でもある。

 市民運動や人権活動に冷笑を浴びせ、「この国では、誰も彼もが人権を持ち出し、国全体がまるで“人権地獄”と化している」(平成元年十月十二日号)、「“人権屋”というのは一種の利権団体」(平成二年一月二十五日号)等、罵詈雑言の限りを尽くす。

 こういう歪んだ視点から見ると、人権運動、平和運動を広範に広げる創価学会は、まさしく「邪魔者」と映るのであろう。

新しい「価値」をもたらした創価学会

 『偏見と差別はどのように作られるか』(ジョン・ラッセル著、明石書店)という本がある。岐阜大学で教鞭をとるラッセル氏が、自らの経験を踏まえて書いたものだ。

 その「プロローグ」に、こう書かれている。

 少々長いが引用したい。

 「偏見、差別という“神話”は、われわれの理性ではなく、感情、先入観、偏見や差別意識にアピールしているからこそ、その幻想の世界から抜け出すことが非常に困難なのである。

 これを支えているのは、知識人、文化人、政治家、報道人、企業家などであり、社会的に大きな責任を持っている彼らこそが幻想の要塞の『建築家』といってもよい。

 それらの神話は、マスメディアと大衆文化に反映されているだけでなく、両者は神話の助長に重大な役割を果たしている。

 他者をデーモナイズ(悪魔化)し、恐怖や嘲笑の対象にさらすことは他人を理解するより楽であるし、経済的、政治的に利益も大きい。異なっていると思われている人びとを同じ人間として見るのでは市場で売れない。

 売れるのは、曲解され、デフォルメされている煽情的な他人像なのである。マスメディアと大衆文化が提供する他人像は、怪物であり、脅威であり、道化であるが、けっして自分と同じ理性、感情を有する人間でないのが、情報世界の常識である」

 歴史的に迫害を受け続けてきた黒人、ユダヤ人などについての論及だが、この論調はそっくりそのまま創価学会を取り巻く体制、組織、支配構造についてもいえることではないか。

 創価学会は市民社会に根を張り、成長を遂げてきた。ラッセル氏の批判する知識人、政治家、報道人といった既成の権力構造にがんじがらめにされている人々にとっては、その存在と拡大は、目の上のタンコブともいうべきものなのだろう。

 同書にもあるように、彼らは、既成勢力を脅かす「新しい価値観」を到底、受け入れることはできない。ゆえに、「創価学会の本質は何か」「なぜ、こうも発展するのか」を考察し、理解するのではなく、ことさらに創価学会を脅威であるとし、“彼らは別なんだ、だから何を書いても……”という「無知の錯乱」に陥っているといえるだろう。

 反創価学会勢力の意識・意図を理解するには、どうしても、この偏見の根底を踏まえておく必要がある。

 そして、日本が二十一世紀をリードして、真の「人権社会」「人道国家」を打ちたてることができるかどうか――すべては、政界、マスコミ界だけでなく、我々一人ひとりが「意識改革」によって、古い幻想から、いかに脱却するかにかかっていると思えてならない。

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