巻末資料
判決文抜粋・関連年表
信平狂言訴訟の判決丈から
読者の参考に資するために、この前代未聞の狂言訴訟を断罪した東京地裁判決文(平成十二年五月三十日)の主要部分を掲げる。
この訴訟が、どれほど悪質かつ虚偽に満ちたものであったか。それぞれの項目を見れば、一目瞭然のことであろう。
■信平信子の捏造した「作り話」
*“事件現場”など存在しない
「昭和五八年八月に、原告が主張する場所に『ロアール』が存在していたことを認めることはできない」
「信子が思い出したという記憶に基づく主張事実は、その思い出した経緯として述べるところが極めて不自然であるし、記憶に混同があったという理由も極めて不合理であり、納得させられるところはなく、およそ信用性に乏しい」
*信平信子は“事件現場”にいなかった
「原告が主張するような時間帯(午前五時三〇分ないし七時三〇分)には、事件が発生した場所には到着していないことが明らか」
「(ラジオ体操に参加しているので=筆者注)事件が八月一八日であったことはあり得ない」
*常識では考えられない主張
「いつ何時人が通りかかるかもしれない屋外で、原告主張のような事件が発生したということは、経験則上にわかに想定し難いところである」
■法廷で暴かれた信平の素性
*司法制度を悪用する姿勢
「原告の提出した書証のいくつかについて、金額欄の明白な改ざん、訂正印のない作成日付の変更を認めている。この点は、一見小さな事実にみえるが、原告の民事訴訟手続の利用における姿勢を示すものとして見逃すことのできないものがある」
*信平醇浩の悪質な人格
「原告の反発及び不満を述べる態度と言辞は、激烈にして口汚いものであり、原告の個性、人柄の一端をうかがうことができるものというべきである」
*見逃せない「恐喝まがい」の言辞
「繰り返し、創価学会を批判する勢力との連携をほのめかしつつ、墓地代金等を返還しなければ、被告を詐欺・強姦罪で告訴する旨の電話をかけているのである。その中での原告の話しぶりは、有無を言わせない強硬なものであり、その個性、人柄をうかがわせるに足りるものであるばかりか、まさに恐喝まがいと評されてもやむを得ないように思われる」
■悪質極まる「訴訟態度」
*「事実無根」を如実に示す主張の変遷
「一貫して被告の加害行為は三回としてきたものであるのに、右変更後の主張によれば、加害行為は四回であることになる。これは、信子の訴えの基本的骨格に関わるところであって、その観点からも、主張の変更について、納得させるような理由があってしかるべきである。
しかしながら、原告が自己の主張を変遷させるに至った理由として述べるところは、以下で検討するとおり、いずれもおよそ納得させるに足りる合理的なものとはいえない」
*信義に反する信平夫婦の訴訟態度
「事実的根拠を欠くことをうかがわせるものであるばかりでなく、訴訟当事者として、到底真摯な訴訟追行態度と評価することはできない」「およそ信義にかなったものということはできない」
*「訴訟引き延ばし」の悪あがき
「原告らが行った裁判官忌避の申立ては、裁判官が創価学会から組織的、継続的に不当な圧力を受けているとの理由であるが、結局は、訴訟指揮の不当をいうにすぎず、およそ忌避の理由がないことは経験ある法律実務家にとっては明らかであり、この申立ては専ら訴訟の引き延ばしを目的としてされたものではないかとの疑問が残る」
*司法制度悪用の意図は明白
「原告らの訴訟活動は、真に被害救済を求める者の訴訟追行態度としては極めて不自然であり、およそ信義則にかなうものとはいえない」
■ドス黒い“悪の結託”
*手記発表の前から連携
「原告は、(平成七年=筆者注)九月一四日から一二月二二日までの間、創価学会本部にたびたび電話し、創価学会を批判する勢力との連携をほのめかしつつ、被告を詐欺罪又は強姦罪によって告訴すると述べるなど、恐喝まがいの言辞を用いて墓地代金及び寄付金返還の要求をしていたが、結局それが功を奏さなかったことから、その仕返しとして、信子の手記を週刊誌等においてセンセーショナルな形で発表することとしたものと推認されてもやむを得ない」
*不自然な手記発表前後の経緯
「信子が手記を発表した『週刊新潮』平成八年二月二二日号は、同月一五日発売であり、それ以前に信子に対する取材がなされていたことは明らかであるから、信子が原告に対し、事件を告白し、夫婦間の葛藤を乗り越え、マスコミを通じて事件を社会に公表することを決意し、『週刊新潮』らとの接触を図り、取材を受けて、記事が掲載されるという一連の出来事が、ほんの数日の間にすべて生じたことになる。しかしながら、一般人にとって、マスコミを通じて自らが被害を受けた事件を公表することは軽々に決することのできない重大事であり、相当に逡巡するのが通常であると思われるところ、右のような短期間にこれを決断したばかりか、マスコミとの接触、取材などについて首尾よく段取りが整ったというのは、論理的可能性としてあり得ないこととは言えないが、経験則上、明らかに不自然」
*デマを騒いだ一部マスコミに鉄槌
「本件のような事実的根拠が極めて乏しい事柄について、しかも、スキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはない」
*反創価学会勢力との野合
「『慧妙』の編集担当者は、『週刊新潮』の信子の手記掲載をあらかじめ認識していた」
「少なくとも、原告及び信子に対する取材ができなければ記事を掲載することは不可能であるから、取材を受けるという限りで、それらの団体との間の一定の協力関係があることを推認することができる」
■総括
*“狂言訴訟”は「訴権の濫用」
「本件各事件の事実的根拠が極めて乏しいことを前提として考えると、原告らは、禁止されている創価学会会員間の金銭貸借を幹部の立場を利用して繰り返し行い、会員に迷惑を及ぼしていることを理由に創価学会の役職を解任されたことを根に持ち、創価学会を脱会した後、墓地代金等の返還を求めたが果たせず、そのため創価学会本部に恐喝まがいの電話を繰り返しかけたが、なお功を奏さなかったため、その仕返しとして、信子の手記をマスコミを通じて公表し、その延長上のものとして、被告に訴訟上又は訴訟外における有形、無形の不利益を与える目的で本件訴えを提起したものであると推認されてもやむを得ないというほかない。すなわち、本件訴えは、その提起が原告の実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするものではなく、被告に応訴の負担その他の不利益を被らせることを目的とし、かつ、原告の主張する権利が事実的根拠を欠き、権利保護の必要性が乏しいものであり、このことから、民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き、信義に反するものと認めざるを得ないのである。したがって、本件訴えは、訴権を濫用するものとして不適法なものというべきであり、このまま本件の審理を続けることは被告にとって酷であるばかりでなく、かえって原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねないから、この時点で本件訴訟審理を終了することが相当である」
関連年表
平成4年
(1992年)
5月14日
信平夫婦、悪質な金銭貸借を理由に創価学会より役職辞任の勧告を受けるが、信平側は拒否。翌日、解任。
5月22日
信平、債権者3人より、借金問題で提訴される。
平成5年
(1993年)
4月27日
山崎正友、栃木県・黒羽刑務所から仮出所。
8月27日
信平醇浩、貸金訴訟敗訴のため共産系弁護士を選任。
10月12日
高石シゲ子さんからの貸金訴訟、信平醇浩の敗訴確定。
11月16日
山崎、自民党の「民主政治研究会」で講演(以下4回)。
11月――
山崎、このころに出した阿部日顕宛の手紙で「元学会幹部に証言をしていただく必要が多くなります」等と、信平狂言事件の推移と酷似する作戦計画を吹き込む。
12月15日
信平夫婦、脱会届を提出。
平成6年
(1994年)
8月25日
『週刊新潮』(9月1日号)による白山信之氏への人権侵害【↓3大デマ事件の@】。
9月16日
日蓮正宗機関紙「慧妙」で、竜年光が信平信子の虚言を匿名で紹介。
12月24日
山崎正友の仕掛けによる「創価学会による被害者の会」第1回大会。
平成7年
(1995年)
1月6日
信平醇浩、創価学会に対し墓苑代金等の返還訴訟を起こす。4月25日、請求棄却。
9月1日
東村山市議が転落死。以後、各週刊誌が悪質な報道を繰り返す【↓3大デマ事件のA】。
9月14日
信平醇浩、創価学会への仕返しとばかり、学会本部に脅迫まがいの電話(以後、年内に7回)。12月の電話では“金を出さなければ、東京に行って情報を売る”と学会側を恫喝。直後の30日、信平信子が、「赤旗」に登場。
12月8日
“改悪”宗教法人法、可決・成立。
12月10日
北海道で「被害者の会」が設立1周年記念大会。ブラックジャーナリストの段勲、乙骨正生らが北海道入り。
平成7年
(1995年)
12月――
山崎正友が『週刊新潮』記者、共産党関係者らと“疑惑の忘年会”。
12月30日
信平信子、「赤旗」に匿名で登場し創価学会批判。
平成8年
(1996年)
2月2日〜3日
『週刊新潮』の記者が信平夫婦と接触、“手記”の大要がデッチ上げられる。山崎の手先である日蓮正宗の謀略グループ妙観講の幹部が同席。
2月15日
信平信子、『週刊新潮』(2月22日号)に“手記”(第1回)【↓3大デマ事件のB】。
2月16日
日蓮正宗機関紙「慧妙」(2月16日付)、1面に「緊急予告」として「信平捏造手記」を大宣伝。
2月19日
衆院予算委員会理事会にて、自民党の深谷隆司が『週刊新潮』の報道を取り上げ、池田名誉会長の証人喚問を正式に要求。
2月22日
信平信子、『週刊新潮』(2月29日号)に“手記”(第2回)。
2月23日
信平夫婦、新宿区内のホテルで記者会見。司会は乙骨正生、会場申し込みは妙観講関係者。
「被害者の会」の機関紙「自由の砦」が信平の「捏造手記」を掲載。
2月29日
信平信子、『週刊新潮』(3月7日号)に“手記”(第3回)。
3月1日
ブラックジャーナリストの内藤国夫が『THEM―S』誌上で、平成6年9月に竜年光が紹介した虚言の主が、信平であることを明言。「慧妙」、1面で、「自由の砦」の手記をもとに騒動の概況を伝える。
3月9日
北海道・仏見寺による信平の「捏造手記」の1、2回分をまとめたパンフレットが、函館で無差別郵送される。
3月17日
信平信子、「被害者の会」九州大会に登壇。内藤国夫は信平への支援を呼びかけるとともに、「(手記を)僕に書かせればよかったとは思っていないんです。僕は『週刊新潮』が書いたものを読んであげて」等と白状。
4月2日
内藤国夫、「自由新報」紙上に「捏造手記」を取り上げる(以下4回)。衆院予算委員会にて自民党の白川勝彦代議士(当時)が、信平の“狂言騒動”を持ち出し、池田名誉会長の証人喚問を要求。
平成8年
(1996年)
4月――
このころ、山崎正友・内藤国夫が結託した「民主政治を考える会」の「捏造手記」を取り上げたビラが大量に配布される。
5月28日
衆院金融問題特別委員会にて、自民党の原田昇左右代議士が、池田名誉会長、信平信子らの証人喚問を要求。
高橋節さんからの貸金訴訟で信平醇浩の敗訴確定。
5月30日
山本照子さんからの貸金訴訟で信平醇浩の敗訴確定。
6月5日
信平夫婦、総額7469万円の損害賠償を求める民事訴訟を提訴(東京地裁)。同日、信平夫婦ならびに弁護士らが記者会見。
6月6日
「赤旗」が、信平の提訴を報道。加えて同紙7年12月30日付に匿名で登場し創価学会批判をしていた人物が、信平信子であることを明らかにする。
6月23日
創価学会を中傷する団体「ヤイロ鳥」の公開シンポジウムで、内藤国夫と乙骨正生が信平についてやりとり。内藤「(カンパのことで)この中から2万円、信平さんに回します。乙骨さんから信平さんの事務局に回してください」乙骨「いいえ、私は事務局しているわけではないですから」内藤「でも関係あるね」乙骨「はい」。
6月24日
信平信子、外国人記者クラブで会見。借金問題についての質問に公然とウソをつく。
8月22日
山崎正友、『週刊文春』に「十三人の女」なるデッチ上げ記事を掲載。信平の名を挙げ、公判間近の狂言訴訟への“援護射撃”を行う。さらに、わざわざ問わず語りに「断っておくが、私個人はこの二十数年来、信平さんと一面識もないし交信したこともない」と強弁。
9月24日
狂言訴訟第1回口頭弁論(東京地裁)。創価学会側は、信平側の訴状内容と捏造手記の矛盾点を指摘、釈明を要求。
11月26日
清水菊枝さんからの貸金訴訟で信平醇浩の敗訴確定。
12月17日
狂言訴訟第2回口頭弁論(東京地裁)。矛盾を指摘した日時・場所につき、信平側がさらに曖昧に変更。
平成9年
(1997年)
2月25日
狂言訴訟第3回口頭弁論(東京地裁)。創価学会側の釈明要求に信平側が回答拒否。
5月13日
狂言訴訟第4回口頭弁論(東京地裁)。創価学会側、時効の成立が明白な部分についての判決を要求。
9月2日
狂言訴訟第5回口頭弁論(東京地裁)。創価学会側、信平側の矛盾点を再度指摘。重ねて判決を要求。
11月11日
狂言訴訟第6回口頭弁論(東京地裁)。東京地裁が信平側の訴えの主要部分を分離して結審。創価学会側の主張を全面的に採用。
11月20日
『週刊新潮』(11月27日号)は「裁判官の『挙動不審』」と題して裁判官に対し常軌を逸した人格攻撃を加える。
12月12日
信平夫婦、裁判の終結を恐れ引き延ばしのために裁判官忌避を申し立てる(東京地裁)。
「読売新聞」(地方版朝刊)、信平の息子のノミ行為を報道。「朝日新聞」「北海道新聞」「函館新聞」が12日夕刊で、翌13日朝刊で「毎日新聞」「北海タイムス」も報道。
12月27日
信平信子、「被害者の会」3周年集会に山崎正友とともに登壇。山崎が「私は信平さんとお会いしたり、お話しした記憶はございません」「一度もお目にかかったこともなければ、口をきいたこともない。手紙のやりとりもありません」と語れば、口裏を合わせたように信平も、初対面であると不自然なまでに強調。
平成10年
(1998年)
1月10日
「自由の砦」、前月の「被害者の会」での山崎と信平の話の詳細を掲載。
2月2日
東京地裁、裁判官忌避の申し立てを却下。信平側は、即時抗告。
3月26日
最高裁も新潮側の上告を棄却。白山氏の勝訴確定。
4月6日
東京高裁、裁判官忌避の申し立てを却下。
4月21日
「自由新報」(4月28日号)、信平狂言関連の内藤記事につき与謝野馨広報本部長(当時)名で謝罪文を掲載。信平夫婦は、6月26日になって、自民党の謝罪は名誉毀損に当たるとして東京地裁に提訴。
4月23日
自民党の謝罪を受け信平弁護団が記者会見。「緊急アピール」を発表。同日、四月会も「緊急アピール」発表。
平成10年
(1998年)
5月26日
狂言訴訟に判決。信平側、全面敗訴。信平信子の訴えのすべてと信平醇浩の訴えの一部が棄却。以後、東京地裁で信平醇浩の残りの訴えについて審理が続く。
6月1日
自民党総裁・橋本龍太郎総理大臣(当時)、創価学会に対し電話で、信平絡みの記事を同党機関紙に掲載したことについて直接、陳謝。
6月10日
自民党・加藤紘一幹事長(当時)が記者懇談会で、「自由新報」の謝罪に関連して創価学会に対し、謝罪・遺憾の意を表明。
6月16日
自民党・服部参院議員が「奈良日日新聞」のインタビューに「当然謝罪すべきものだ」と答える。
6月26日
信平夫婦、自民党と橋本総裁(当時)を相手取り、名誉毀損に基づく3千万円の損害賠償及び謝罪要求訴訟を東京地裁に提訴。
12月24日
近江アキさんからの貸金訴訟で信平醇浩の敗訴確定。
平成11年
(1999年)
5月13日
裁判長から審理終了の終結宣言(東京高裁)。
6月22日
信平醇浩による脅迫まがいの電話録音テープ、証拠として正式採用。
7月19日
『週刊現代』に対する損害賠償請求訴訟の一審で原告の創価学会側が全面勝訴(東京地裁)。
7月22日
東京高裁、信平信子の控訴を棄却。信平信子は最高裁へ上告せず、8月5日に判決が確定。
10月1日
信平醇浩、4人の弁護士を突如解任。
平成12年
(2000年)
2月22日
東京地裁、弁論の終結を宣言。
5月11日
信平夫婦が自民党を訴えていた裁判で、信平の請求棄却の判決(東京地裁)。信平は控訴せず判決は確定。
5月30日
東京地裁、信平醇浩の請求を“訴権の濫用”として却下。
平成13年
(2001年)
1月31日
東京高裁が信平側の控訴を棄却。創価学会側か勝訴。
5月18日
東村山事件報道で『週刊新潮』が一審で全面敗訴(東京地裁)。控訴断念で敗訴確定。
6月26日
最高裁が信平側の上告を棄却。創価学会側の全面勝訴が確定。