[ 戻る ] [ トップページ ]

エピローグ

「本件のような事実的根拠が極めて乏しい事柄について、

しかも、スキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはない」

 前代未聞の狂言騒動の幕は閉じた。

 では、この騒動に加担した勢力は、その後、どのような運命をたどったのであろうか。本書を締めくくるにあたって、概観しておきたい。

 その点を検証してこそ、真の意味で狂言騒動の教訓を後世に残すことができると考えるからである。

時の総理が、創価学会に二度謝罪

 自民党は当初、この信平狂言騒動について、売文屋の内藤国夫が書いたデマ記事を機関紙「自由新報」に四回(平成八年四月二日付、七月二日付、八月十三日付、十月十五日付)にわたって掲載した。

 しかし、その後、狂言訴訟の審理の過程で事件の虚構性が次々と明らかになり、平成十年(一九九八年)五月二十六日、東京地裁が信平側の訴えの主要部分について退ける判決を下すと、騒動への認識、創価学会に対する態度は自ずと変化していった。

 まず、創価学会が同年四月十三日、自民党の加藤紘一幹事長(当時)宛に「抗議書」を送付。「自由新報」の記事を撤回し、創価学会に謝罪する旨の記事を掲載するよう要求した。

 自民党は、これに応え、四月二十八日付の「自由新報」に同抗議書を全文掲載するとともに、与謝野馨・同党広報本部長(当時)名でコメントを発表。

 「調査不十分のまま一方の当事者の主張のみを採用し」「結果としてその虚偽をあたかも容認することになった点け不適切であり、申し訳なかったと考え、遺憾の意を表します」と公式に謝罪した。

 また、当時の橋本龍太郎首相は同年四月、創価学会に「遺憾の意」を表明したが、六月一日にも創価学会本部に電話をかけ、「この前、私が『名誉会長にいろいろご迷惑をお掛けし、申し訳なく思っています』と述べたことについて、(公の場で)おっしゃっていただくことはかまいません。本当に済まないことをしたと思ったからです」と、創価学会と池田名誉会長に重ねて謝罪した。

 同じく当時の加藤自民党幹事長も六月十日、記者懇談会で「政党機関紙として行き過ぎがあり、関係者の名誉と人権を傷つけたことは、遺憾に思っております」と語り、池田名誉会長の名誉と人権を傷つけたことに「遺憾の意」を表した。なお加藤代議士は平成十二年(二〇〇〇年)にも山形で、この件に関して再度、創価学会に謝罪している。

 さらに平成十三年(○一年)一月三十一日、狂言訴訟の信平醇浩の訴えに対する控訴審(東京高裁)で、創価学会側完全勝訴の判決が下された際にも、「自由新報」(平成十三年四月十七日付)はこれを紹介、掲載した。

 「この度の極めて明確な判決により、平成八年(一九九六年)四月以降に本紙が掲載した記事には、意図せざることとはいえ、行き過ぎがあったことが明らかであり、一方の当事者の主張のみを採用し、関係者の皆様にご迷惑をおかけした」と改めて謝罪した。

 また、自民党の一部の国会議員が平成八年(九六年)二月から五月にかけて、信平の「捏造手記」を国会審議の場で取り上げ、創価学会を中傷した件等でも、すでに多くの議員が学会に謝罪、陳謝したと伝えられている。

 例えば、そのうちの一人、原田昇左右代議士(静岡二区選出)。

 東京地裁の判決後、静岡県内の創価学会の会館を訪れ、「大変に申し訳ないことでした」「私としては慚愧に堪えません」「デッチ上げのことを確かめもせず、やってしまった。名誉会長に対して、とんでもないことをしてしまった」等と陳謝している。

 このように自民党は創価学会と池田名誉会長に対して、党の機関紙で公式に謝罪し、時の首相、幹事長、また多くの国会議員が謝罪・遺憾の意を表明したのである。

 平成十三年(二〇〇一年)、一連の狂言訴訟は最高裁の上告棄却により最終的に決着がつけられた。

 その意味からすれば、最終的な法的決着を待たず、すでに平成十年(一九九八年)の段階で、時の総理と自民党が創価学会に謝罪、陳謝したことは、むしろ同党にとって賢明な判断であったといえよう。

 もし、一切の法的決着がつくまで謝罪の機会を逸していたならば、同党は公党としての見識を自ら著しく損なっていたはずだからである。

凋落、退潮する共産党

 真っ先に信平信子を機関紙で取り上げ、その意味で今回の騒動の糸口をつくったともいえる共産党は、どうか。

 創価学会に謝罪した自民党とは異なり、同党には自らの責任を厳しく問う姿勢は絶えて見られない。

 共産党が従来から学会批判に極めて熱心である理由は、とりもなおさず、それが選挙戦略の一環であり、政党としての利害に直結すると同党が頑なに考えているからである。

 だが、肝心要の選挙結果は、近年、まったく思わしくない。

 全国各地の地方選でも惨敗続き。軒並み現有議席を減らしつつある。

 平成十三年(二〇〇一年)六月の東京都議選でも、前回より十一議席も減らし、第二党から第四党に一気に転落。各紙も、「共産惨敗」「党勢退潮止まらず」「共産大敗」「大きく後退」等と大見出しを掲げ、こぞって共産党の凋落を報じた。

 さらに七月の参院選では、三年前の参院選と比べて比例区票で約三百八十七万票の減。選挙区でも、かろうじて東京の一議席を確保するにとどまった。

 前回参院選で獲得した十五議席から、一挙に五議席――実に三分の一という歴史的な大敗北を喫したのである。

 しかも、参院選以後の各地方選挙においても、長期凋落傾向に一向に歯止めがかからず、機関紙部数の低迷、青年層に顕著な共産党離れの問題等と相まって、深刻と焦燥の度を一段と増しているという現状である。

 むろん、マスコミや識者の間では、様々な理由が指摘されている。

 だが何よりも、公党が、あろうことか政党の支持団体への攻撃に憂き身をやつす・人権擁護を標榜する政党が、なり振り構わぬ「宗教弾圧」に狂奔する――

その不見識ぶり、自語相違と独善の体質が、有権者の厳しい批判にさらされるのは自明の理ではあるまいか。

四月会系議員の末路

 「四月会」は平成十三年(○一年)三月、発足からわずか七年足らずで崩壊した。

 結成当時、代表幹事の俵孝太郎は“不退転の決意で”と創価学会攻撃の姿勢を鮮明にした。だが、実態は、すでにここ数年、事実上の開店休業。

 年に一回の総会を開くのがやっと、という状態であった。

 同会設立時には八十四人もの国会議員が来賓として参加したが、二回目の総会以降は減り続け、平成十二年(○○年)八月の総会に参加した議員は、ついにゼロという有り様であった。

 平成十年(一九九八年)、自民党が学会に謝罪した際、わざわざ緊急アピールまで発表して、今まで無関係と言ってきたにもかかわらず、信平への「援護射撃」にこれつとめた四月会であったが、狂言騒動の破綻とともに空中分解するに至ったのである。

 とともに哀れをとどめるのが、四月会に深く関与してきた国会議員の末路である。

 宗教法人法「改悪」の当時、文部大臣でありながら、創価学会弾圧の先頭に立っていた島村宜伸代議士(当時)も、平成十二年(二〇〇〇年)の衆院選で、あえなく落選。

 そして、信平狂言騒動にあっても、その「捏造手記」をもとに国会で証人喚問を要求するという暴挙に出た白川勝彦代議士(当時)も、秘書の「交通違反もみ消し事件」が響いて、同衆院選で落選した。

 白川元代議士を見舞った不幸は、それだけにとどまらなかった。

 平成十三年(○一年)の参院選に、元代議士は新党を結成し、比例区に当人を含めて十人の候補を擁立、雪辱を期した。「立正佼成会が支持してくれるから、百四十万から百五十万票は取れる」――七月二十九日の投開票を二日前に控え、こう豪語していたという。

 しかし、有権者は、厳しい審判を突きつけた。

 当人の皮算用とは裏腹に、元代議士の得票は、ようやく三十万票に手が届いた程度。党全体の得票も、総計で約四十七万票。見るも無残な惨敗に終わった。

 後に残ったのは、選挙の供託金の全額没収、広告費等の全額自己負担等による、総額二億円を超えるともいわれる「赤字」だけという結果に終わった。

 昨今ではグループ内の醜い内紛騒ぎが取り沙汰されるなど、まさしく「踏んだり蹴ったり」の窮状にあるという。

 元代議士が売り物にしてきた自らのホームページも、更新すらままならない状態のようである。

 誰を恨むべき筋合いのものではない。

 事実無根のデマを利用し、国権の最高機関たる国会の場で宗教団体の弾圧に狂奔した政治家が、当然にして受けるべき報いであったといえよう。

 恨むべきは己自身といわざるを得ない。

更迭された『週刊新潮』編集長

 平成十三年(○一年)七月三日、かつては一世を風靡した新潮社発行の写真週刊誌『フォーカス』が、売上低迷の末、休刊、事実上の廃刊となることが発表された。記者会見の席上、齢六十を過ぎた一人の男の姿が、関係者の哀れを誘った。

 『フォーカス』の編集に深く関わってきた、松田宏である。

 会場を後にする際にも、ガックリと肩を落としたままの後ろ姿が印象的であった。

 松田といえば、『フォーカス』そして『週刑新潮』と、同社の出す二大雑誌を担ってきた人物である。

 しかし、その『フォーカス』はすでにない。

 また『週刊新潮』においても、同年八月、約八年にわたった編集長の職を更迭されるに至った。

 その主な理由として考えられる一つは、同誌が、毎号のように繰り返す人権侵害記事によって、被害者から頻々と裁判を起こされ、そのことごとくで敗訴しているという現実である。

 創価学会関連の訴訟一つとってみても、その傾向は顕著である。

 『週刊新潮』が深く関わってきた信平の「狂言訴訟」は、先述の通り学会側の全面勝訴が確定。

 また、北海道の創価学会員、白山信之氏に対する人権侵害報道では、一審の札幌地裁、二審の札幌高裁ともに、『週刊新潮』側を断罪。損害賠償金百十万円の支払いを命令した。平成十年(一九九八年)三月には、白山氏の完全勝訴が最高裁で最終的に確定している。

 さらに東京・東村山市議の転落死事件では、平成十三年(二〇〇一年)の五月十八日、新潮側に損害賠償金二百万円の支払いを命じる一審判決が下った。

 この事件について、元来、『週刊新潮』側は、創価学会が訴えを起こした直後から、「なぜ、このような無益な訴訟を起こされるのか、まったく理解に苦しむ」と強弁していた。

 この敗訴判決を受けてもなお、「全く納得できない判決で、当然、控訴を検討する」と断言していた。

 ところが、六月二十一日になって、その強気の姿勢は一転する。

 前言を翻して判決通り、創価学会に損害賠償金二百万円と遅延損害金を支払ってきた。すなわち「記事の内容は全部、デマだった」と自ら認めたのである。

 以上の創価学会関連訴訟に端的に示されているごとく、「デマは書きっぱなし」「裁判は負けっぱなし」の『週刊新潮』編集部が、社内的にも厳しい立場に立たされていたであろうことは、容易に推察できよう。

 創価学会関連の訴訟だけではない。『週刊新潮』は、質量ともに他誌を圧倒する裁判を被害者から起こされ、そのことごとくで敗北を喫して、損害賠償金等の支払い命令が出ている。例えば――。

●薬害エイズ事件をめぐっての報道で、三百万円(平成十三年七月)。

●カリフォルニア大教授父娘殺害事件をめぐる一連の報道で、計三百六十万円(平成十二年七月)。

●系列テレビ局のCM間引き問題を取り上げた記事で、二百万円(同年二月)。

●市民グループ「ピースボート」に関する報道で、計約二百万円(平成十年十月)。

●故スカルノ・元インドネシア大統領の夫人を中傷する記事で百万円(平成八年九月)。

●鐘紡会長を中傷する記事で五百万円(平成六年九月)。

 等々(係争中のものも含む)――

 松田が編集長となって以降、主だったものだけでも、敗訴の事例は枚挙に暇がないほどである。

 ただでさえ、平成十年(一九九八年)にも十四億円もの赤字を出している新潮社である。

 しかも、司法当局の判断は、明らかに「損害賠償額の高額化」へと向かっている。プロ野球の清原和博選手が、『週刊ポスト』を名誉毀損で訴えた事件の裁判で、東京地裁が『週刊ポスト』の記事が虚偽であると認め、一千万円の損害賠償金の支払いを命じた件など、その端的な例であろう。

 女優の大原麗子さんが週刊誌を訴えた裁判でも、裁判長は「多少の賠償金では違法行為が自制されない」「とかく軽く評価してきた過去の名誉毀損訴訟の慰謝料額にこだわることは、必ずしも正義と公正の理念にかなうとは言えない」として、五百万円の賠償を命じる判決を下している。

 こうした世の趨勢に抗して、旧来通りの手法に固執し得るのかどうか――そうした社としての判断が、松田更迭の背景にあるのではないかともいわれている。

 また、狂言騒動に当初から深く関わっていた門脇護記者。彼も松田編集長更迭にあたって、その後任の最有力候補として名を取り沙汰されていたが、いかなる理由によるものか、実現には至らなかった。

 ともあれ、先に詳述したごとく、狂言騒動の一切を当初から取り仕切ってきた『週刊新潮』編集長であり、編集部員である。

 これまた当然の末路といわざるを得まい。

もはや「過去の男」となった山崎正友

 狂言騒動の仕掛け人・山崎正友も、歳月とともに哀れな老醜をさらけ出している。

 かつて山崎は、「オレはスーパースターだ。マスコミの連中にもてるんだ」などと周囲に吹聴していたという。マスコミを思いのままに操る、いっぱしの「策士」を気取っていたのであろう。

 しかし最近の山崎は、そのマスコミからも、すっかり敬遠されているようである。

 事実、山崎は平成八年(九六年)九月五日発行の『週刊文春』を最後として、すでに五年以上にわたって、週刊誌、月刊誌等の誌上から姿を消している。

 簡単にいえば「飽きられた」のである。

 実際のところ、山崎が握っていると宣伝してきた創価学会関連の情報なるものは、いずれも二十年以上も前の、古色蒼然たるものばかり。すでに情報としての価値はない。

 また、山崎の手口なるものも、この男の正体が次第に明らかになるにつけ、すっかり効き目を失った。

 もはやマスコミにとって山崎は、利用価値のない「過去の男」なのである。

 さらに、山崎はかつての盟友とも次々とケンカ別れを繰り返している。

 例えば、山崎が二十年来、行動をともにしてきたブラックジャーナリスト・内藤国夫とは、同年、創価学会中傷のデマビラをめぐる醜い内輪もめで袂を分かった。

 当時、このビラをめぐっては、「元代議士の白川勝彦氏から山崎に、億単位の金が渡った」という内部告発があった。それを知った内藤は、「山崎が金を独り占めした」と逆上し、山崎に絶縁を宣言したのである。

 その後の内藤は、「山友に担がれた、利用された」と盛んに愚痴をこぼしていたという。ほどなく内藤は、山崎への怨みを抱えたまま、世を去っている。

 さらに、山崎と二人三脚で謀略をめぐらしてきた白川とも、いかなる事情があってか、最近になって関係が絶たれたようである。

 このように、マスコミや一部政治家といった「金づる」を失った山崎は今、どこから収入を得ているのであろうか。

 自らを「闇の帝王」と豪語し、「マスコミの寵児」と称した山崎も、社会から急速に忘れられ、嘲りを受け、失笑を呼ぶ身と成り果てつつある。

 それでも昔を忘れられず、意のままにならぬ社会に呪いの言葉をつぶやき続け、もがき続ける山崎の姿は、もはや滑稽以外の何ものでもないといえよう。

 さらに、ありもしない女性問題を、好んで騒ぎ立ててきた山崎だが、近年、こちらは正真正銘の自分の女性問題で追い込まれている。というのも山崎は、かつて大分在住の女性を心身ともに弄び、さらに詐欺まがいの手口で二千数百万円もの金を手に入れたとして、この女性から訴えられた。

 さらに、この女性の夫からも訴えられ、平成十三年(二〇〇一年)十月、大分地裁から、三百万円の損害賠償金を支払うよう命じられたのである。

 根も葉もない女性問題のデマで騒いだ結果、自ら女性問題でのたうち回る。「因果応報」というべきであろう。

「シアトル事件」に打ちのめされる阿部日顕

 「法華講員(=信徒)が立候補しているから応援してやってほしい。ワシも祈っているから」

 「大勢の講員がいるんだから、大いに呼びかけてもらいたい」

 ――阿部日顕は、参院選も終盤に差しかかった平成十三年(○一年)七月二十五日、僧侶たちを前に、こう檄を飛ばしたという。

 というのも、この参院選に際し、日蓮正宗からは、二人の信徒が、白川勝彦元代議士の立ち上げた新党の一員として立候補したからである。

 六月初旬には、白川新党の後援会への入会申込書が全国の宗門の各末寺に郵送された。七月には、信徒の候補の一人によって、「理境坊御住職・小川只道御尊師にも御許可をいただき、反学会・反公明の立場を鮮明にして出馬することを決意したものであります」等と記した挨拶文が、末寺に送付された。

 冒頭の阿部日顕発言が端的に示すごとく、信徒の二人の候補者は、いわば「阿部日顕管長公認の参院選候補」であった。日蓮正宗は教団をあげて、丸抱えともいえる支援態勢を敷いて参院選に臨んだ。

 なぜ、そこまでしなければならなかったのか。これも第一審において阿部日顕側敗訴の判決が出ている「シアトル事件」の衝撃に打ちのめされた阿部日顕の「意趣返し」の一つであったことは、論を待つまい。

 しかし、結果はどうであったか。

 二人の候補者は、阿部日顕の期待も空しく大惨敗。結局、二人が集めた票は、合計しても一万六千票足らずであった。「意趣返し」どころか、信徒数三十数万人を公称する日蓮正宗の微弱な実勢力を、自ら露呈する結果を招いてしまったのである。

 さらに選挙期間中、全国各地で信徒が、公職選挙法違反等で次々と告訴、告発され、果ては信徒一派の事務所が警察の強制捜査を受けた末、責任者が送検されている。

 この惨状に阿部日顕は、よほど衝撃を受けたのであろう。日蓮正宗の重要行事である御開扉や丑寅勤行といわれる儀式を、開票翌日は欠席するほどの意気消沈ぶりであったという。

 そもそも、どれほど阿部日顕が、買春事件を気にしているか。

 それは、阿部日顕が同年五月、わざわざ「真実の証明」なる本を自ら出して、言い訳にこれつとめている事実によっても、よく分かる。

 タイトルは大仰だが、その内容はといえば、すでに裁判所から粉砕されたウソを再び持ち出して延々と並べ立て、揚げ句の果てには裁判長や日本の司法制度そのものに対して八つ当たりを繰り返すばかり、といった代物である。

 いささか本題からはずれるが、そもそも「シアトル事件」の訴訟は、それこそ法廷に「真実を証明」してほしいと求めて、阿部日顕のほうから起こしたものである。しかも、その審理の過程で「真実を証明」するために、阿部日顕本人が三回も出廷したのである。すでに法廷において、「真実」についての審理は、尽くされているのである。

 それを、自分の意に沿わない判決が出たからといって、裁判所に八つ当たりする。それでは、わざわざ、裁判を起こす必要など、どこにあったのかと、誰もが思うところである。

 また、このようなものを、しかも自ら出版するならば、いったい、どのような結果となるか。まさしく「恥の上塗り」である。

 もうろくの故か、阿部日顕本人は、その辺りの想像力が、すでにまったく欠如しているようである。

 ともあれ、一切は「目くらまし」である。一宗の管長たるものが、「売春婦と性行為を行った」等と認定されたのでは、信徒への威信など保ちようもない。

 その「目くらまし」のための信平狂言騒動であり、くだんの言い訳本であり、平成十三年(○一年)の参院選をめぐる騒ぎであった。

 だが、「迹を滅せんとして雪中を走る」の格言の通り、阿部日顕は騒げば騒ぐほど、自分の恥辱と汚名を、世間に広めるだけのようである。

 来年(平成十四年)で齢八十、「傘寿」を迎えるはずの阿部日顕。「老醜」とは、まさにこのことであろう。

inserted by FC2 system