言論の テロリズム 週刊新潮「捏造報道事件」の顛末 元読売新聞社編集委員 山本栄一 はじめに  当節、“なんでもあり”の現象が続く。やって良いことと悪いこと、その区別もない。  親が子を殺し、子が親を殺す。教師が生徒を襲い、警察官が犯罪に走る……。見方によっては、戦国・下克上の時代もかくやと思わせる世相となった。  それもそうだろう。国民を守り、その生活を擁護すべき義務と責任を担う者たちが、平然と国民に背を向け信頼を踏みにじる。しかも恬として恥じるところがない。今、崩壊しつつあるモラリティー。これでは、社会の浄化、改善、向上など、できるはずがない。まして次代の子どもたちに生きる方向を明示することなど望むべくもないだろう。  その善悪の見境を完全に失った者の最たる例が、本書で取り上げる信平狂言騒動の主役たちである。  私は、ジャーナリズムに身を置いてきた一人として、本来、この騒動のいずれの当事者の立場にも与するものではない。  しかしながら、事の経緯を虚心にたどる時、いずれに理があり、非があるか、自ずと結論づけるほかはない。そればかりか心中に込み上げてくる怒りを、どうすることもできないでいる。  そう思うに至った経緯は、以下、本文を見ていただこう。ここでは、一連の騒動の渦中において、政治権力が、その権力を行使して、特定の団体と個人を抑圧し、弾圧したという事実。国会議員が、まったく事実無根のデマを利用し、国権の最高機関である国会で、ためにする証人喚問を、それも三回にわたって要求したという事実――およそ民主主義を掲げる社会にあって、あるまじき暴挙が繰り返されたという一点を、まず強調しておくにとどめたい。  とともに私は、恐らく日本のマスコミ史上でも類例を見ないであろう、一つの「やらせ事件」について語りたい。  その主役は『週刊新潮』である。  『週刊新潮』は、この狂言騒動において、終始一貫して旗振り役を務め、実に三十五回にわたって悪質なディスインフォメーション(虚偽報道)を行った。  これだけでも厳しく責任が問われるべき人権侵害事件であり、「言論のテロ」だが、私が取材を進める過程で、さらに驚くべき事実が発覚した。  なんと問題となった「手記」自体、すべて捏造されたものであったのみならず、その捏造の背景には、『週刊新潮』記者の執拗な誘導、教唆、煽動があったという疑惑が、はっきり浮上したのである。  そればかりか、その場で同誌記者は、デマを社会問題にするための手はずや、訴訟を起こす段取りまで指示していたのである。  もともと、ありもしない事柄を捏造し、あたかも自分のスクープであるかのように報道する。これは紛れもなく「やらせ」であり、「スクープの捏造」である。ジャーナリズムが決して使ってはならない「禁じ手」である。  この狡猾な「やらせ」に対して、平成九年(一九九七年)、ブラック・ユーモアのような事態が起こった。第三回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」の、その名も「スクープ賞」が、『週刊新潮』のくだんの捏造手記に与えられたのである。  かつて世界的に権威のある「ピュリッツァー賞」の受賞記事が、まったくの捏造記事であった事実が発覚し、大問題になったことは記憶に新しい。またメディアの種類を問わず、「やらせ」「捏造」事件が往々にして起こることも知られている。  だが、その動機の多くは、取材者の功名心、名誉欲である。『週刊新潮』の場合は、そればかりではない。特定の団体、個人を、なんとしても攻撃しよう――攻撃するための「ネタ」がなければ、自分たちでデッチ上げてしまえ、という恐るべき動機に基づくものである。  その動機の不純、手口の悪辣さにおいて、『週刊新潮』のそれは、他の捏造報道事件を圧する犯罪性を帯びている。その罪はいつまでも消えるものではないだろう。  さらにジャーナリズムの在り方、責任という観点から、ひとこと付言しておきたい。  北海道の元創価学会員である信平醇浩・信子夫婦が、事実無根のデマをデッチ上げ、騒ぎを大きくするために狂言訴訟を起こしたのは、平成八年(九六年)六月五日のことである。  信平らは提訴の日、マスコミ受けを狙って大袈裟な記者会見まで開いた。  同日夜、テレビ朝日「ニュースステーション」、TBS「NEWS23」をはじめ、NHK以外の民放各社が記者会見の模様を放映。翌日は、「読売」「朝日」を除く全国紙、スポーツ紙がこぞって取り上げた。各マスコミは何ら「真実性」を検証することもなく、信平らのデマに踊らされたのである。  私事にわたって恐縮だが、筆者はこの日の朝刊を読み、毎日新聞編集局読者室に電話をかけた。氏名、住所、職歴などを述べた後、こう尋ねた。  筆者「こんな怪しい、名誉毀損の恐れのある記事を、なぜ掲載したのか」  毎日「訴訟という事実を伝えたまでだ」  筆者「もし、どこかに頭のおかしい女性がいて、橋本首相(当時)に暴行されたと訴訟を起こしたとする。それでも記事にするのか」  毎日「それは、まあ、しないでしょう……。しかし今回は、はっきりと訴訟が提起されたから」  ――その五年後、最高裁判所の最終判断が下った。東京地裁での一審判決通り、信平夫婦の訴えそのものが虚偽に立脚し、不適法な「訴権の濫用」であると厳しく裁断した。  確定した一審判決は、信平側の提訴は、マスコミを使って騒ぎを起こし、創価学会に不利益を与えるための「不当な企て」(判決文)であったと喝破している。  結果的にマスコミは、その「不当な企て」に加担したといえよう。  そもそも信平らの主張に司法の断が下った現在においてなお、『週刊新潮』は、謝罪はおろか、先の「スクープ賞」を返上すらしていない。  また、この恐るべき厚顔無恥について、他のジャーナリストから非難の声が上がったとか、賞を与えた人々から反省の弁があったとも、私は寡聞にして知らない。  まさしく日本のジャーナリズムの貧困さ、未熟さを象徴する話ではないか。  狂言訴訟は、司法の場で完全に破綻した。このような陰険、陰湿な策謀を、二度と再び許さぬために、一連の狂言騒動の真相を明らかにし、それに関わった者たちの素顔を記録にとどめたいと思う。  なお、その趣旨から、関わった者たちへの敬称は略している場合があるので、御了承いただきたい。 平成十三年十一月                        山本栄一 目次 はじめに 第一部 週刊新潮「捏造報道事件」 第一章 顛末     「司法制度悪用」の典型     「百万件に一件」の画期的判決     判決が「不当な企て」と断罪     法廷で破綻した「作り話」     信平夫婦の異常な人格を指摘     「裁判引き延ばし」の姑息な策謀     「創価学会を批判する勢力」の野合     マスコミ界に対する大きな警鐘     事件の中心にいた阿部日顕、山崎正友 第二章 動機     政界をめぐる背景     日本共産党の影     金銭問題で解任された逆恨み――信平夫婦の動機     「怨念の権化」山崎正友     「買春事件の意趣返し」を狙った阿部日顕一派     『週刊新潮』編集部に渦巻いていた「創価学会への敵意」 第三章 経過     『週刊新潮』に売り込んだのは山崎正友     何度も「信平とは無関係」と強調する山崎     話をもっていったのは山崎     「山崎が仕掛け人であることは間違いない」     手記発表を「予告」していた日蓮正宗     信平信子が初めて登場したのは「赤旗」     政治権力による「宗教弾圧」     選挙狙いの「デマビラ」を大量配布     四月会の動き     信平側の「身内同然」だった『週刊新潮』     もう一人の「身内」――売文屋・乙骨     山崎に操られる乙骨     偏向記事のオンパレード     裁判官をも誹誘中傷     『週刊新潮』の「特別な事情」 第二部 言論のテロリズム 第一章 捏造     『週刊新潮』の“取材”は、こうして始まった     言葉巧みに信平に作り話を切り出させる     「刑事」でなく「民事」でいこう     弁護士すら「これでは話にならない」     「証拠」はあるのか?     「証人」はいるのか?     解任は借金問題ではなく、学会に意見したからとウソ     結論として訴訟は無理 第二章 偏見     完膚なきまでに破綻した「デマ報道」     市民社会の趨勢は「人権侵害」の根絶     「誹誇中傷」は創価学会への嫉妬     新しい「価値」をもたらした創価学会 第三章 対談「週刊誌ジャーナリズムはどこまで狂うのか」     最初から、いかがわしかった手記     言論のテロ     会社ぐるみの犯行     二十世紀最後の「週刊誌の犯罪」として歴史に残る エピローグ     時の総理が、創価学会に二度謝罪     凋落、退潮する共産党     四月会系議員の末路     更迭された『週刊新潮』編集長     もはや「過去の男」となった山崎正友     「シアトル事件」に打ちのめされる阿部日顕 巻末資料(判決文抜粋・関連年表) 第一部 週刊新潮「捏造報道事件」 第一章 顛末 「本件訴えは、訴権を濫用する訴えであるから、不適法なものとして却下する」  平成十三年(二〇〇一年)六月二十六日、最高裁判所の最終判断が下され、前代未聞の「狂言訴訟」は幕を閉じた。「訴訟」に名を借りた悪質極まる狂言騒動が、ここに完全に破綻したのである。  この「事件」の異常性、悪質性は、どこにあったのか。  一つは、日本の司法制度を悪用した点である。後に詳しく触れるが、裁判所は、信平が起こした狂言訴訟を、「訴権の濫用」として却下した。これは日本裁判史上わずか十数例しかないという厳しい判断である。それほど類まれな「不当訴訟」「悪質訴訟」であったということである。  二つ目は、この事件が、広範かつ巧妙に仕掛けられた、戦後最大級の「権力による宗教弾圧」であった点にある。信平夫婦という特異な人格の持ち主を表に立てながら、その裏で、特定の宗教団体を弾圧しようという政治的思惑が働いていたのである。  三つ目は、捏造報道による人権抑圧の策謀であった点である。一部マスコミは、信平が捏造した事実無根の“事件”なるものを何の検証もなくスキャンダラスに騒ぎ立てた。それどころか、『週刊新潮』に至っては、本書で検証するように、この謀略の当初から信平と深く結託し、騒動の成り立ちそのものに深く関与していたのである。そこには、およそ「社会の公器」たる姿は微塵もない。  まずここでは、読者に事の全容を把握していただくために、裁判の判決文に即しながら、事件の概要に触れてみたい。 「司法制度悪用」の典型  事の発端は、平成八年(一九九六年)二月にさかのぼる。  信平夫婦が、架空の「事件」なるものを捏造し、それに基づく「手記」を『週刊新潮』に連載。さらに同年六月、この「事件」で被害を受けたと称して、池田大作・創価学会名誉会長に対し、巨額の損害賠償を求める不当な訴訟を起こしたのである。  そもそもが、まったくの虚構に基づいて起こされた訴訟である。当然のことながら法廷で次々とウソが暴かれ、すべての段階で信平側が敗訴するかたちで進行した。  まず、時効であることが明白な信平信子の訴えのすべてと夫・醇浩の訴えの一部に対し、平成十年(九八年)五月に東京地裁、翌年七月に東京高裁が、信平側敗訴の判決を言い渡した。信平側は上告を断念し、敗訴判決が確定している。  一方、これと分離されて残った信平醇浩の訴えについても、平成十二年(二〇〇〇年)五月、東京地裁が「訴権の濫用にあたり不適法である」として却下。平成十三年(○一年)一月に東京高裁が一審判決を支持し、信平側の控訴を棄却した。  信平は、最後のあがきで上告したが、最高裁は同年六月、異例ともいえるスピードで「上告棄却」の判断を下したのである。 「百万件に一件」の画期的判決  ここで確定した判決は、司法界でも注目を集めている。この判決は、信平の訴えを「訴権の濫用」として「却下」したものだが、これが「百万件に一件」あるかどうかという画期的な判断だったからである。  「訴権の濫用」とは、「裁判を起こす権利をみだりに用いること」を指す。民法第一条は、「権利の行使及び義務の履行は信義に従ひ誠実に之を為すことを要す。権利の濫用は之を許さず」として、権利の行使に一定の歯止めをかけているのである。  もちろん「裁判を受ける権利」は憲法で保障された国民の権利である。従って、「訴権の濫用」に当たるか否かは極めて慎重な判断が要求される。訴訟のなかで一方の当事者が、相手方に対して「訴権の濫用」を主張することは比較的多いが、実際に認められることは、まずない。事実、「訴権の濫用」を理由に訴えが却下されたケースは、日本の裁判史上、わずか十数件しかないのである。  この一事だけでも、信平夫婦の起こした狂言訴訟が、いかに異常かつ悪質であったかが分かるというものであろう。 判決が「不当な企て」と断罪  高裁、最高裁から支持された一審の判決文は、百六十四ページに及ぶ大部であるが、その隅々には、「不当な訴訟は許さない」との強い意志が脈打っている。  それは、判決主文に、あえて「却下」という言葉を選んだ事実に、よく表れている。通常の民事訴訟で訴えを退ける場合、判決の主文には「請求を『棄却』する」となるところである。それを、あえて「棄却」でなく「却下」としているのである。  判決文は、この点について、特に「請求棄却との違い」と題する一節を立てて論及している。  「請求棄却の本案判決をするという選択肢も考えられないわけではない」。しかし、「訴権濫用の要件があると認められる場合には、当該訴え自体を不適法として排斥することが、民事訴訟手続上裁判所に要請されているものと解すべきである」と。  つまり、最後まで実体審理を行った上で「請求棄却」の判断を下すという選択肢も当然あった。だが、もしも訴訟自体が、裁判制度の利用を許してはならないほど不当なものであれば、これを「排斥」つまり「却下」することこそ、裁判所の使命だというのである。  裁判所は、この信念に基づいて信平の訴えを緻密に検証した結果、「訴権を濫用するものとして不適法」であり、「このまま本件の審理を続けることは…原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねないから、この時点で本件訴訟審理を終了することが相当である」として、「却下」したわけである。 法廷で破綻した「作り話」  では、信平の訴えは、なぜ「訴権の濫用」と判断されたのか。  その最大の理由は、ほかでもない。「事実的根拠が、まったくなかった」からである。要するに、「すべてが真っ赤なウソ」「作り話」であることが、完全に明らかだったということである。  判決は、信平が捏造した「作り話」に鋭いメスを入れ、その虚構を完膚なきまでに粉砕している。  信平は『週刊新潮』の手記の中で、「忌まわしいスキャンダル」(判決文)をデッチ上げた。昭和四十八年(一九七三年)六月、昭和五十八年(八三年)八月、平成三年(九一年)八月の三回、創価学会函館研修道場で「事件」なるものが発生し、信平信子が被害を受けたという荒唐無稽な「作り話」である。  これに対し裁判所は、まず昭和五十八年の「事件」について、次のような根拠を挙げて、その虚構性を打ち破っている。 @航空写真等の証拠に基づき、信平が「事件現場」と称する場所(=函館研修道場内のプレハブ建ての「喫茶室ロアール」)が当時、存在しなかった。 A「事件」があったと称する日時・場所が合理的な説明もなく変遷した。 B提訴から三年八ヵ月も経過した時点で、突然、信平信子が「事件は三回でなく四回だった」と訴えの基本的骨格に関わる部分を変更したが、理由が極めて不合理で信用性に乏しい。 C学会側の反論・反証が提示されるたびに信平の主張がクルクル変遷している。 D事件があったと主張する直後に撮影された写真に、笑っている信平信子が写っていて、被害などあったとは到底思われない。  そして、「事実的根拠は極めて乏しいものといわざるを得ない」と明確に論断しているのである。  また、平成三年の「事件」についても、こう論破している。 @合理的な説明がないまま主張が変遷した。 A「事件」があったと主張する時間に、信平は現場にいなかった。 B信平の主張する「事件現場」には人通りがあり、「事件」が発生するはずがない。 C「事件」があったと主張する直後に撮影された写真に、にこやかに笑う信平信子が写っており、被害を受けたなどとは到底考えられない。  ――すなわち、「事件」なるものが時間的にも場所的にもあり得ないことを指摘し、これまた事実無根であると結論づけたのである。 信平夫婦の異常な人格を指摘  さらに判決は、信平が狂言訴訟を起こすに至った経緯や、信平夫婦の異常な人格にまで踏み込み、厳しい視線を注いでいる。  まず、判決で認定された事実経過をたどると、大要、こうなる。  信平夫婦は創価学会にいたころ、幹部という立場を利用して、会内で禁止されている会員間の金銭貸借を繰り返し行って、会員に多大な迷惑をかけていた。平成四年(九二年)五月には、これを理由に学会の役職を解任され、その後、脱会するに至った。  ところが信平夫婦は、役職を解任されたことを根にもち、創価学会を相手に、自分が購入した墓苑代金の返還請求訴訟を起こしたが、平成七年(九五年)四月に敗訴。その後も、同年九月から十二月にかけて、学会本部宛に恐喝まがいの電話を執拗にかけて金銭を要求した。ところが、まったく相手にされなかったため、その仕返しとして翌年二月に信平信子が問題の「手記」をセンセーショナルなかたちで週刊誌に発表したのである。  この「手記」について、判決文は、こう糾弾している。  「(信平らが)被告及び創価学会に対して強烈な憎悪の感情を有していたとしても、何故にそこまでするのかについては、健全な社会常識からすると若干の疑問が残らないわけではないが、原告ら(=信平夫婦)の個性、人柄に由来するところが大きいとみるほかない」と。  要するに信平は、そもそも社会常識を大きく逸脱した異常人格の持ち主であった。ゆえに、このようなウソを捏造した、との指摘である。  さらに判決は、この「狂言訴訟」は、その捏造手記と同じ狙いをもつ「延長上のもの」であると看破した。  「訴訟上又は訴訟外における有形、無形の不利益を与える目的で本件訴えを提起したものであると推認されてもやむを得ない」  「実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするものではなく、被告(=学会側)に応訴(=訴訟に応じること)の負担その他の不利益を被らせることを目的とし、かつ、原告(=信平)の主張する権利が事実的根拠を欠き、権利保護の必要性が乏しい」  「著しく相当性を欠き、信義に反するものと認めざるを得ない」――等々、痛烈に糾弾している。  まさしく「狂言訴訟」は、マスコミを使って「騒ぎ立てること」「創価学会に不利益を与えること」を狙った「不当な企て」であると鋭く見破っているのである。 「裁判引き延ばし」の姑息な策謀  しかも、信平側は審理の過程でも、いたずらに裁判の引き延ばしを画策したり、理由もなく主張を変遷させるなど、異常かつ不誠実極まる訴訟態度に終始した。  例えば、一審で審理が一部終結し、判決の宣告期日が通知された後、信平側は突然、「裁判官忌避」、すなわち「裁判官を代えてくれ」という申し立てを裁判所に提起した。  この「裁判官忌避」の申し立てとは、裁判官に関して、裁判の公正を疑わせるような、極めて特殊な事情がある場合に行われるものである。  もちろん信平の訴訟に関して、そうした事情など存在しなかった。要するに信平側は、予想された判決が、自分たちに不利であることが明らかだったことから、少しでも裁判を引き延ばそうと姑息な手を打ったわけである。訴訟の狙いが「騒ぎ立てること」にある以上、支離滅裂であろうが何であろうが、少しでも騒ぎ続けようという魂胆だったのである。  判決では、この点にも厳しく言及している。いわく、「およそ忌避の理由がないことは経験ある法律実務家にとっては明らかであり、この申立ては専ら訴訟の引き延ばしを目的としてされたものではないかとの疑問が残る」と。  こうした信平の悪辣な訴訟態度を総括し、判決は記す。  「真に被害救済を求める者の訴訟追行態度としては極めて不自然であり、およそ信義則にかなうものとはいえないことは明らかである。これも、結局のところ、各事件について事実的根拠が極めて乏しいことに由来するものであるものと解される」とバッサリ斬って捨てている。  以上の裁判の概要に示される通り、裁判所は、事件の経緯、信平の主張の虚構性、さらには人格、人間性、悪質な訴訟態度を勘案した上で「訴権の濫用」であると断じ、「百万件に一件」という判決を下したのである。 「創価学会を批判する勢力」の野合  しかし、経緯の表面をたどるだけでは、この前代未聞の狂言騒動の本質に迫ることはできない。その背後にある構図にまで光を投じなければ、事件の真相は見えてこない。  この「事件」は、創価学会のイメージダウンを図ろうと、学会に怨恨を抱く日蓮正宗管長・阿部日顕、元弁護士で学会への凶悪な恐喝事件で懲役三年の実刑判決を受けて服役した山崎正友をはじめ、一部政治家、マスコミが一体となって起こした恐るべき「宗教弾圧」「人権抑圧」の謀略であったことが、後に明らかになっていくのである。  実は判決も、あえて「創価学会を批判する勢力との関係」との一節を設け、そうした背後関係にも斬り込んでいるのである。  詳細は後に触れるが、信平は『週刊新潮』に「捏造手記」を掲載する以前に、水面下で、様々な勢力と接触をもっていた。  その一つが日本共産党である。手記掲載の二ヵ月ほど前に、なんと信平信子が同党機関紙に匿名で登場し、学会に対する誹謗中傷を行っているのである。  その掲載日は平成七年(九五年)十二月三十日付となっている。信平醇浩は同年十二月、創価学会に対し何度か、金銭目的で恐喝まがいの電話をかけている。その最後の電話は十二月二十二日、つまり機関紙掲載の直前のことである。  しかも信平醇浩は、一連の電話のなかで、“金を出さなければ、東京の人間に学会を売る”と明言している。判決も、この点に着目し、「(信平醇浩が)繰り返し、創価学会を批判する勢力との連携をほのめかし」たと指摘している。  信平が「連携」していたのは共産党だけではない。阿部日顕直属の謀略グループで、山崎正友も所属する日蓮正宗の信徒組織「妙観講」が事件の当初から深く関与し、一連の騒動の「お膳立て」をしていたことが明らかになっている。これは判決でも、「それらの団体との間の一定の協力関係があることを推認することができるというべきである」と認定されているところである。 マスコミ界に対する大きな警鐘  さらに判決が厳しく言及しているのが、『週刑訴潮』との結託である。判決では、「手記」の掲載前後の状況について、こう疑問を投げている。  「信平信子が原告(=醇浩)に対し、事件を告白し、夫婦間の葛藤を乗り越え、マスコミを通じて事件を社会に公表することを決意し、『週刊新潮』らとの接触を図り、取材を受けて、記事が掲載されるという一連の出来事が、ほんの数日の間にすべて生じたことになる」  「短期間にこれを決断したばかりか、マスコミとの接触、取材などについて首尾よく段取りが整ったというのは、論理的可能性としてあり得ないこととは言えないが、経験則上、明らかに不自然であるというほかない」  さらに、『週刊新潮』をはじめとする一部マスコミの狂気のごとき報道の在り方に対しても、判決は、厳しく論断している。  「本件のような事実的根拠が極めて乏しい事柄について、しかも、スキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはないというべきである」――判決文という性格を考えると、これほど厳しい糾弾の言葉もあるまい。これは、ひとり『週刊新潮』のみならず、全マスコミ界に対する大きな警鐘ともいえよう。 事件の中心にいた阿部日顕、山崎正友  加えて指摘しておかねばならないのは、「信平狂言事件」は、ほぼ同時期に起こった、創価学会に対する事実無根のデマ事件の一つであったという点である。  第二部で詳細に述べる通り、まったく同じ構図をもったデマ事件が、わずか三年の間に三件も立て続けに起こったのである。  平成六年(九四年)の「白山信之氏に対する人権侵害報道」、平成七年(九五年)の「東京・東村山市議の転落死をめぐるデマ報道」、そして平成八年(九六年)の「信平狂言事件」である。  この三件は、いずれも同じ宗教団体を狙ったものである。また、デマ報道に始まり、それを一部議員が国会で取り上げて騒ぎを大きくするという、まったく同一の経緯をたどっている。  しかも、この三大デマ事件は、平成七年(九五年)の参院選、平成八年(九六年)の衆院選と時期を重ねて起こっている。  さらに、この三件の事件のすべてに「一部の政治家」「週刊誌」「日蓮正宗」「反学会系ライター」が必ず絡んでいる。その人脈をつなぐ中心軸にいたのが、山崎正友と阿部日顕である。  ここまでくれば、「信平狂言事件」は、偶発的に起こったものでないことが分かる。その「手法」といい、「登場人物」といい、「意図」といい、他の二つの事件と一連一体となって、政治的状況を背景に、明確な悪意をもって仕組まれた謀略だったということである。  しかし、三大デマ事件は、いずれも法廷で断罪され、一切が事実無根であったことが明白となった。政界、マスコミを舞台にした謀略は、すべて灰燼に帰したのである。  そして何より、謀略の陰で蠢動していた者たちの醜い姿が、白日のもとに暴き出されたのである。  では、それらの者たちの「動機」が何であったのか。以下、章を改めて詳しく検証していきたい。 第二章 動機 「原告らの訴訟活動は、真に被害救済を求める者の訴訟追行態度としては極めて不自然であり、およそ信義則にかなうものとはいえない」  前代未聞の狂言騒動を振り返る時、その背後にあった、様々な勢力の意図と事情と思惑を抜きにしては、その本質を理解できないことに気づく。  というよりも、この騒動の本質とは、単に信平夫婦という特異な人格の持ち主が起こした騒ぎにあるのではない。むしろ、政界、宗教界、マスコミ界等々、創価学会を取り巻く諸勢力の謀略の構図そのものにあったといえるだろう。  結論から言えば、それらの勢力には、もともと「どうしても創価学会を攻撃しなければならない」事情があった。そこにタイミングよく持ち上がったのが、信平の作り話であり、狂言訴訟であった。  いわば、「まず創価学会への攻撃ありき」。そのための「道具」になるのであれば、別段、信平の作り話でなくてもよかったのである。事の真相に迫るには、そう理解したほうがよいだろう。  つまり、この社会に、特定の団体と個人を何としても抑圧し、弾圧しようという意図と謀略がある限り、第二、第三の狂言騒動は再生産され続けるということである。  今回の狂言騒動の真実と教訓を後世に厳然と、とどめゆく必要があるゆえんである。 政界をめぐる背景  まず指摘しておきたいのは、当時の政治状況である。  平成五年(一九九三年)夏、非自民の細川連立政権が誕生し、公明党が与党に入った。このことに危機感を抱いた者たちがいた。従来、自民党をバックアップしてきた宗教団体、かねてから創価学会批判の姿勢を強めていた一部の「文化人」たちである。  翌平成六年(九四年)の五月、彼らは「四月会」なる団体を結成するに至る。表向き、同会は、「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」と名乗っていた。だが、その実態が、創価学会への攻撃を狙う宗教団体や、「文化人」らによる野合集団であったことは、衆目の一致するところであった。  この四月会の面々は、一部の政治家たちと歩調を合わせるかたちで、公明党の支持団体である創価学会に的を絞って攻撃を始める。  なかでも、オウム真理教事件の再発防止を名目に、平成七年(九五年)春から始まった宗教法人法「改悪」の動きは、まさしく創価学会をターゲットにしたものであった。  当時の状況を知るために、ここでは四月会の内幕に精通し、早くから「改悪」反対の声を上げていた京都仏教会の安井攸爾氏の雑誌でのインタビュー発言を引用したい。  ――政界再編成をめぐって、自民党政治家は、とりわけ創価学会に対して大変な危機感を抱いたわけです。  彼らとしては、これまで自民党を支持してきた宗教団体を巻き込みながら、何とかして創価学会封じ込めの策を講じたい。しかしそれを党の機関として設けることはできません。それこそ「政教一致」になってしまう。  そこで、自分たちの「ダミー団体」を作る必要があった。それが『四月会』です。  設立された翌日の新聞にもちゃんと「学会の封じ込めが目的」と書いてある。  京都仏教会は別の問題意識から四月会への参加を決めたが、実態が明らかになるにつれ、「これはおかしい」と距離を置くようになった。  その後、俵孝太郎代表から「ぜひ常任幹事に」と持ち掛けられましたが、断りました。  五月、六月と『四月会』の常任幹事会があり、オブザーバーとして出たのですが、そこでは「改悪法案」とほぼ同じ書類がすでに配られていました。  実際の法案よりも厳しい内容で、同行した学識者とも顔を見合わせたほどでした。彼らが文部官僚とともに原案を作ったのですよ。  宗教法人の「認証」について、所轄庁はすべて文部省とし、窓口を都道府県とする。もしくは、都道府県を所轄庁とするのであれば、活動が複数の都道府県にまたがった場合には、改めて文部省の再認証を必要とする。建設業や運送業のように、必要な書類を整備して申請することとなっている。  創価学会のように東京都の所轄の団体がもし文部省に再認証の申請をする時、運送業、建築業と同じ、行政の厳しい審査が課せられるというものです。  文部省や文化庁は書類審査にあたって、いくらでも文句がつけられる。どんな嫌がらせもできる。  あまりの内容に私が「憲法二十条について、きちんと踏まえないと、とんでもないことになりますよ」と発言すると、俵氏や北野弘久・日大教授はムッとして「そんな議論より、一刻も早く“改正”の流れを」という姿勢でした。  これははっきりした宗教弾圧です。これでは宗教が「政争の具」になってしまう。  そこで京都仏教会は「同調できない」として『四月会』と決別したのです。  宗教と国家、宗教と政治の問題を真剣に論じ合おうというのならば、まだ話は分かる。そうした論議は一切抜きで、一方的に権力が特定の宗教団体を弾圧し、「政争の具」にしようとする。  しかも憲法の精神に明らかに反する法律「改悪」を進めようとする。これは宗教に対する許しがたい侮辱です。宗教者として、これほどの屈辱はありません。  少々、引用が長くなったが、安井氏の言葉は、当時の状況を実に明快、的確に伝えるものといえる。  四月会が結成された翌年の平成七年(九五年)七月に行われた参院選では、こうした四月会と、それに連なる一郎の政治家の意に反し、公明党が合流した新進党が大きく勢力を伸ばした。  比例区では千二百五十万票を獲得し、千百万票だった自民党を抑えて比較第一党に躍り出た。  この投票結果を翌年に想定されていた次期衆院選に当てはめれば、新進党は、さらに躍進し、第一党になる可能性がある。新進党の進出を阻止するには、その中軸にある公明党と、それを支持する創価学会を押さえ込むしか対策はない――そう考えた自民党の一部が学会攻撃に躍起になったとしても不思議ではない。  危機感を募らせた四月会、自民党の一部政治家が、創価学会封じ込めのために全力を注いだのが、宗教法人法の「改悪」であった。しかし、同法をめぐる学会攻撃は、平成七年(九五年)十二月八日の「改悪」宗教法人法成立で、ひとたび、その幕を閉じる。学会に対する批判勢力にしてみれば、これで学会攻撃の「ネタ」を失ったわけである。  だが、きたるべき衆院選は、すでに射程距離内に入っていた。どうしても創価学会を攻撃する新しい「ネタ」が必要であった。  そこへ転がり出てきたのが、平成八年(九六年)二月十五日発売の『週刊新潮』に掲載された「信平手記」だったのである。四月会系の政治家たちが飛びついたのは、いうまでもあるまい。  詳細は後述するが、事実、『週刊新潮』に手記が出た直後から、この年の五月にかけて、信平の一方的な作り話が三回にわたって国会で取り上げられ、池田大作・創価学会名誉会長の証人喚問が要求された。  また自民党の機関紙にも、信平の手記をベースにした内藤国夫による記事が都合四回も掲載された。  ここにおいて狂言騒動は、まさしく「政争の具」とされ、政治権力による宗教弾圧の道具として悪用されたのである。  なお、平成七年(九五年)末から翌年前半にかけての国会は、いわゆる「住専処理問題」で紛糾していた。  「住専」とは住宅金融専門のノンバンクで、バブルの崩壊にともない不動産融資の焦げ付きが表面化し、破綻に追い込まれていた。都銀や生保などの金融機関が住専に多額の融資を行っていたことから、金融システム全体の問題に発展。その処理のために公的資金を導入するかどうかで与野党が激しく対立し、国会審議に国民から高い関心が寄せられていたのである。  国民の目を住専問題からそらすためにも、創価学会を攻撃することが必要だ――そんな政治的思惑が、政界の一部に働いていたことも、見逃せぬ歴史の事実として付記しておきたい。 日本共産党の影  四月会と、それに連なる政治家たちのほかにも、創価学会攻撃の機会をうかがう政治勢力があった。日本共産党である。  共産党は昭和五十八年(八三年)、昭和六十一年(八六年)の参院選で、それぞれ四百十六万票、五百四十三万票と四百万票以上の比例票を維持してきたが、平成に入ってからは三百万票台に低迷していた。新進党が躍進した平成七年(九五年)七月の参院選でも、得票結果は三百八十七万票にとどまった。  従来から「反自民」を掲げることで党勢拡大を図ってきた共産党だが、新進党が発足してからは、反自民票は、ほとんど新進党に流れていたという事情もあった。  共産党内部に、党勢の伸び悩みへの焦りがあったことは論を待つまい。  平成八年(九六年)の衆院選でも、複数の選挙区で新進党候補との競合が想定されていた。この時期、共産党には、四月会系政治家と同じく、学会攻撃の機会を狙う必要があったのである。  そもそも同党が創価学会に対して長年にわたって遺恨を抱いてきたことは、多くの人が指摘するところである。かねてから選挙の時期になると、必ずといってよいほど、学会批判に力を入れてもきた。  実際、後に詳述するが、信平信子が『週刊新潮』に捏造手記を発表する約二ヵ月前の段階で、早くも共産党の機関紙「赤旗」に信平信子が登場していた。  のみならず、信平夫婦をめぐる貸金訴訟において、なぜか共産系の弁護士が信平の代理人になっていたことが分かっている。  訴訟のうちの一件について平成五年(九三年)八月、信平が控訴した際、その代理人についたのが、内田信也、佐藤博文の両弁護士。いずれも共産系弁護士といわれている。  さらに平成八年(九六年)七月、信平醇浩は二千九百四十万円もの借金を返さないとして、また新たな訴訟を起こされた。この訴訟の信平の代理人は高崎暢弁護士。これまた共産系で知られる弁護士であるのみか、その夫人である高崎裕子弁護士は、北海道共産党の「顔」といわれた人物。平成七年(九五年)七月の選挙で落選するまで、参議院議員を務めていた共産党の大幹部である。  信平狂言騒動の背後には、当初から共産党の影が見え隠れしていたのである。 金銭問題で解任された逆恨み――信平夫婦の動機  ありもしない“事件”なるものをデッチ上げ、週刊誌に手記を発表し、訴訟まで起こして騒ぐ――「狂言事件」の主役となった信平夫婦は、なぜ、このような行動に走ったのであろうか。  二人の「動機」を如実に示す一本の録音テープがある。  平成四年(九二年)五月十四日午後二時、北海道函館市・創価学会函館平和会 館の一室で、学会副会長の高間孝三、宮川マ也の両氏と、信平夫婦らが交わした 会話の録音テープである。以下、やり取りの大要を再現しよう。  最初に高間氏が慎重な口調で切り出した。 高間「今日は大事な話し合いですから、後日のため、しっかり記録を取っておきたい。  信平さんの金銭貸借について何人もから投書がきている。  すでにSさん、Yさん、Oさんといった人たちからも話を聞いています」  ――信平夫婦はこれら三人の会員から総額二千百万円の借金をしておきながら、様々な理由をつけて返済しようとしなかったというのである。  そもそも信平醇浩は、地元でも有名な「借金魔」であった。事実、数々の貸金返還訴訟で次々と敗訴が確定し、裁判所から返済を命じられた借金だけでも数千万円にのげっている。  夫婦の手口は、こうである。  まず高齢の独り暮らしの女性を狙う。その際、信平信子が「ウチのお父さんは金を動かすのが上手で、何倍にもなって返ってくる」「言う通りにしなければ損をするよ」などと持ちかける。  その執拗さに負けて、相手は金を貸してしまう。そしてその後、返済を求めても、「もう返したはずだ」などと言い張っては、遂に脅しつけ、借金を踏み倒すという悪質なものであった。  「醇浩は、常に私につきまとい、脅かしたり、家の周りや路上で待ち伏せしたり、恐ろしくてならなかった。  必ず夫婦一緒で現れ、信平信子は“ウチの父さんの名前を聞くと、函館の人はみんな震えるほどだ”とか、“私がついているのだから安心して金を出せ”など執念深く言い張る。  最後には疲れ果て、つい貸してしまったのです」――被害者の一人は、こう語っているほどである。  信平醇浩を相手取って起こされた返還訴訟の裁判についても、いずれも最初から信平の敗訴がハッキリしていた。  金を借りた以上、返すのは当然のことである。ごく単純な貸借関係である。従って法廷での過程は、どれも同じパターンを繰り返した。  第一審で信平側が敗訴する。  ところが信平醇浩は必ず控訴する。  控訴審でも信平醇浩の控訴は棄却。  信平醇浩は最高裁に上告するが、上告審でも棄却され、  第一審の判決が確定する。  すべてが判を押したように同じ経過をたどる裁判なのである。  事実関係は明白であり、誰が見ても「控訴」「上告」など、まったく理由のない訴訟だった。  あるいは逆に信平醇浩が原告となって無謀にも債権者に対し「貸金請求」「返還要求」「債務相殺の申し立て」などで訴訟を起こしたケースもある。  もちろん、そのどれもが信平側の敗訴となっている。  「借金魔」であるばかりでなく、負けると分かっている裁判を次々と起こす「訴訟魔」。それが信平醇浩の正体であった。 高間「信平さんの立場からみて、こうした金銭の貸借関係が良いか、悪いか、よく分かっているはずです。  秋谷会長も言われているでしょう。組織の中で金銭貸借は厳禁であると。しかも幹部の立場にある者として絶対に悪いことだ。  今日は結論として最初に言いますが、今までのいろいろなことからみて、信平さんご夫婦に辞職願を出していただきたい。こう思うわけです」 醇浩「辞職願とはどういうことか。役職を取るということか。やめることか」 高間「お二人から(辞職願を)出していただく。そうしていただきたいのです」  創価学会には、会員間の金銭貸借は厳禁という鉄則があるという。  会員同士を結びつけ、組織と秩序を維持する基盤は、あくまでも純粋な信仰心によらなければならない。もし会員間に金銭貸借関係といった夾雑物が加わると、信心の純粋性は蝕まれてしまうからである。  創価学会は草創期から、このルールを守り続け、また会員同士の関係を商売などの利害関係に利用することも禁じてきた。  かりにも長年、学会婦人部の幹部を務めた信平信子が、それを知らないわけはない。高間氏の要求は当然のことであろう。  夫婦とも率直に自分たちの行いを反省し、潔く辞職するのが筋というものだろう。ところが―― 醇浩「誰がそういうことをせいと言うのか」 高間「私が言っている。金銭貸借は悪い。戸田先生(=創価学会第二代会長)以来、禁じられていた問題だから、立場をよく考えた上で、辞職願を出していただくほうがいいと配慮したからです。まず、この点についてはどうですか」 醇浩「ワシはやめない。一人ではやめない。あんたら全部、辞職願せい。オレ、訴訟起こすから」 高間「訴訟を起こそうが、なんであろうが、私の言っているのは、そんな問題とは別に、あんたらの金銭貸借問題で、そのことでこうしている」 醇浩「それでオレに辞職せいと言うのか、(突然、大声で)あんた、やめれ」 高間「何を言っているのか」 醇浩「バカなことを言うな。このヤロウ。キサマ、てめえ何だと思っているんだ。この片輪もの(=発言のママ)、訴訟すっからな」 宮川「信平さん、口論するためにやっているのではない。あなたに辞表を出すように言っているんです」 醇浩「オレを何しに止めさせようと言っているのか。ヤメレよ。小生意気な。ヤメレよ。このヤロウ。てめえら、人ば手いっぱいコケにしやがって。(書類をかざして)これが悪いか。いいか、これが金銭の貸借だ。見れ」  はしなくも信平醇浩という人物の特異な性格をも露呈する会話であろう。  創価学会側か、反省を求めて辞職を促すと、突然、逆上し、無頼漢そのものの口調で罵詈雑言を浴びせかける。道理も何もあったものではない。  さらにテープでは、信平醇浩の尻馬に乗るような妻・信子の支離滅裂な発言が続く。  どうやら「たしかに貸借関係はある。しかし金を貸してもいる。借金の保証人になったこともある。助けてやって何が悪い」と言いたいようだが、よく分からない。ただただヒステリックな声が響くばかりである。  こんな押し問答が三十五分も続く。そして―― 高間「今日は今まで私もやっだけれど(とても話し合いにならないので)解任の手続きは取ります。またこれ以上、会員に脅しをかける場合は、除名の手続きを取ります。これ以上、話し合っても、結論はそこです」 醇浩「お前ら。気をつけろ。このヤロウ。訴訟すっぞ。片輪(=発言のママ)にしてやるから」  信平醇浩は何度も「訴訟する」という脅し文句を繰り返す。自分の主張には何の根拠も論理も説得力もないのに、「訴訟に持ち込む」とブラフ(=揺さぶり)をかける。まず虚勢を張るのである。訴訟と言えば、その言葉に相手が驚き、萎縮するにちがいないと計算してのことであろうか。  結局、創価学会側は辞任願が出されなければ夫婦の役職を解任する旨を伝えて話し合いは終わったが、夫婦は不満でならなかったようだ。この直後、信平信子は自宅から学会本部に電話し、弁解を繰り返すが、逆に厳しい指導をされ、一蹴されている。  そして、その翌日の五月十五日、夫婦に対して役職解任の通告がなされたのである。  もはや多言は要すまい。  悪名高い「借金魔」であり「訴訟魔」である夫婦が、それゆえに学会の役職を解任された。誰が見ても当然至極であり、身から出たサビにほかなるまい。  ところが、その夫婦は反省するどころか、かえって創価学会を逆恨みし、夫が何度も口にしているように、訴訟を起こした――何のことはない。この常軌を逸した逆恨みこそ、信平夫婦の「動機」なのである。 「怨念の権化」山崎正友  平成五年(九三年)四月、一人の人物が、栃木県・黒羽刑務所を仮出所した。  山崎正友。昭和五十五年(八〇年)、弁護士の立場を悪用して創価学会を恐喝した揚げ句、懲役三年の実刑を宣告されて服役した男である。  「東京へ出たら金儲けするぞ」。これが司法試験に合格したころの山崎の口癖だったという。  昭和四十五年(七〇年)、周囲の期待を受けて創価学会の法務関係業務に携わるようになってからも、金儲けへの異常な執念は変わらなかった。  やがて、弁護士の立場を利用して四億五千万円の裏金を着服したといわれる「富士宮土地転がし事件」を起こす。大金を手に入れた山崎は、たちまち派手な生活に陥ち入っていく。夜ごと銀座や赤坂の高級クラブに繰り出しての豪遊。賭け麻雀をはじめ、ギャンブルヘの熱中――山崎の金銭欲と野心は、時とともに肥大していった。  やがて己の支配欲と金銭欲を満たすために冷凍食品会社「シーホース」を設立。しかし同社は、山崎の素人商売、乱脈経営がたたり、昭和五十五年(八〇年)四月、四十五億円ともいわれる負債を抱えて倒産した。  この過程でも、山崎は「手形の乱発」や「取り込み詐欺」など悪質な事件を多発させ、経理書類まで改竄するなど犯罪行為に狂奔した。  他方で、怪文書や謀略文書で情報操作を行い、創価学会と日蓮正宗との離間を画策。また、創価学会から金を脅し取るために、デマ情報でマスコミを撹乱。マスコミの学会批判を煽り立てることで、「マスコミを抑えられるのは自分しかいない」と売り込み、自分の要求を突きつけるという卑劣な手段に出た。  そして同年、ついに学会を恐喝した結果、昭和五十六年(八一年)一月に逮捕。その後、七十五回に及ぶ審理の末、昭和六十年(八五年)、東京地方裁判所は、山崎に懲役三年の実刑判決を下した。平成三年(九一年)二月二十五日、東京拘置所に収監。同年四月、栃木県の黒羽刑務所に移送されて服役する。  その恐喝事件裁判の判決文で裁判長は、山崎を厳しく断罪した。  「(山崎は)幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない」「犯情が悪く被告人の罪責は重大である」  ――大要、このような経歴をもつ男である。  同年一月に最高裁判決が下り、実刑判決が確定した後も、山崎に反省の色は見られなかった。それどころか、自分が乗っ取りを企てて失敗した創価学会に対して、これまた逆恨みの妄執を募らせていく。  その逆恨みは刑に服し、刑務所を仮出所した後も、決して消えることはなかった。  後に述べるように、山崎は仮出所直後から、阿部日顕に、学会攻撃をけしかける書簡を頻繁に送っている。阿部日顕は、山崎と同様、創価学会に対する「妬み」では右に出る者はいない男である。  この書簡で山崎は、信平の狂言騒動に至る学会攻撃のシナリオを描いてみせた。  マスコミの利用。宗教界を巻き込んだ工作。そして政治家を使った工作。なかでも当時、山崎が執着していたのは、政界への工作であった。  四月会系の政治家に、創価学会攻撃の意図と動機があったことは前述した。ここに目をつけた山崎は積極的に政界とのパイプをつかもうとする。  例えば、山崎が仮出所した平成五年(九三年)の十一月、反学会色の強い一部政治家による「民主政治研究会」なるグループの勉強会が開かれた。  講師は山崎と創価学会の脱会者やブラックジャーナリストなどである。この勉強会で山崎は、創価学会に関するデマ情報を次々と吹き込んでいく。  参加した政治家たちも、何とか創価学会を政治問題化できないかという観点から熱心に耳を傾けていたようである。勉強会は、翌月の十二月までの間に六回も開かれるという熱の入れようであった。山崎は、そのうち四回にわたって姿を見せている。  山崎という男が、自分が起こした恐喝事件の判決文で“信用できない”と四十数回も断罪された「希代の大ウソつき」であると知ってか知らずか、政治家たちは、この男を、大いに持ち上げていたようである。  山崎のウソのつき方は常に「小さなウソより大きなウソを」を地でいくやり方である。この勉強会でも、言いたい放題のウソ八百を並べ立てていたようだ。だが、出席した議員にしてみれば、話が大きければ大きいほど、興味がわく。  それでも二回目の勉強会で、さすがに一人の議員から質問の手が挙がった。  「山崎氏の話による、創価学会が脱税しているという内容は当然、国税当局が手をつけていいような問題ばかりだ。それなのに創価学会は、なぜ脱税などで摘発されないのか」  誰もが疑問をもつところだろう。  これに対する山崎の答えは、「小沢一郎氏がもみ消したからです」。  議員たちの間に驚愕の色が走ったことはいうまでもない。  いうまでもなく小沢一郎氏は、自民党を離脱し新進党をまとめ上げた人物である。  多くの政治家にとっては、かつての同僚。小沢氏の存在の大きさ、その実力、発言力を知っていただけに出席議員たちは一瞬、愕然としたに相違ない。あるいは創価学会の脱税もみ消し工作があったのか――勉強会では山崎の放言を真に受けてしまった議員も多かったようである。  もちろん、そうした事実は皆無である。これまた山崎得意の、その場をわかせて自分を高く売り込むための「口から出まかせ」である。  ことほどさように山崎は、当時の政界の流れのなかで、いかにも政治家たちが注目せざるを得ないようなデマを吹き込んでいったのである。  また、山崎が「民主政治研究会」と関係をもつようになってから、『週刊新潮』等が学会中傷のデマ記事を掲載し、それを一部政治家が利用して騒ぐという事態が続発する。  平成六年(九四年)には、北海道の創価学会員・白山信之氏が運転する車に、日蓮正宗住職の車が突っ込むという事件があった。ここで白山氏はまったくの被害者だったにもかかわらず、『週刊新潮』が加害者扱いする記事を掲載したのである。これが政治的にも利用された。  前提になる背景を略記しておく。  同年七月二十一日、北海道胆振管内大滝村の国道を走行中のトラックに、対向車線を猛スピードで走ってきた乗用車が、側壁に接触、センターラインを越えて、正面衝突した。その結果、乗用車は大破し、運転者が死亡した。  伊達警察署の現場検証では、原因はすべて乗用車側にあると判断。また保険会社も同じ見解を採り、「過失割合」は「一〇〇対ゼロ」と、トラック側に責任はなく、まったくの被害者であることを認定した。  死亡した乗用車の運転者は、室蘭市の日蓮正宗・深妙寺の住職、大橋信明。一方のトラックの運転者は創価学会員の白山氏だった。  ところが『週刊新潮』(九月一日号)は、この事件を、創価学会と宗門との対立から生じた「事故を偽装した殺人事件」であると悪意に満ちた歪曲をし、大々的に報道したのである。  さらに同年十月十一日、衆院予算委員会で自民党代議士が、この記事をもとに質問を行い、白山氏の名誉を大きく傷つけたのであった。  実は、この国会質問の原稿作成にも、山崎が絡んでいた。そのことは、山崎本人が明確に認めていることである。  同年九月二十七日、四月会系政治家の白川勝彦代議士(当時)と山崎が、東京・赤坂のホテルで密会した。このことについて山崎は、阿部日顕に宛てた書簡に、こう述べている。  「二十七日、自民党の幹部と、今後の作戦の打合せをしました」「十月十一日〜十三日の予算委員会の審議で、テレビ中継の入る時間帯に、一時間ばかりかけて、創価学会問題を集中的に取り上げることで一致した」と書いている。  そして、そのための資料作りも、山崎を中心に、売文ライターの段勲、乙骨正生とともに進めると明記していたのである。  事実、かの国会質問が行われたのは、十月十一日。一件の背後で山崎が画策し、一部政治家と連携の上で動いていたことは明白である。  それにしても、国会議員の国会質問の内容が、このようなかたちでつくられていたとは、驚くほかない。国会議員たる者、自分の言葉に責任をもつべきことは、いうまでもない。まして、国会質問ともなれば、なおさらのことである。質問の根拠となる事実の確認をはじめ、慎重かつ綿密に組み上げていくべきは当然である。そのために国会議員は、多額の歳費と手当をもらい、調査を行うスタッフを抱えているのではないのか。  それを山崎、段、乙骨と、いずれも創価学会批判で日々の糧を得てきたような手合いがつくった質問内容を使って、国民の人権を大きく侵害する質問を行う。これほど国会議員の職責をないがしろにし、国民を愚弄する話もない。  その後の平成七年(九五年)九月、かねて創価学会を批判していた東京・東村山市議が、ビルから転落して死亡した。  この事件についても『週刊新潮』『週刊現代』等が、あたかも創価学会がこの転落死に関わっているかのような記事を掲載した。  この記事も三人の政治家が国会で取り上げ、創価学会批判の道具とされた。ここにも山崎の影があったといわれている。  そして、翌年二月に信平の手記が発表されるに至るのである。  つまり、政界の一部に、反創価学会のデマ情報への需要があった。となれば、デマ情報を供給する人間が必要になる。それが山崎だったのである。  また、弁護士資格も失い、恐喝犯として服役した山崎には、学会批判情報を操作することによって「生活費」が稼げるという狙いもあった。  かつて昭和五十年代、山崎がマスコミを利用し、学会批判を煽り立てていた当時、この男は、まず「覆面」で批判記事を書き、後に実名で大同小異の記事を書くという卑劣な手口で、多額の原稿料を懐にしたという経緯がある。  学会批判の情報を供給することで金が稼げるという旨味を、他の誰よりも知っている山崎なのである。  恨みも晴らせる。金も儲かる。一石二鳥――その欲望を満たすためには、常に創価学会を陥れるデマを生み出し続けるしかない。これが狂言騒動に関わる山崎の「動機」であった。 「買春事件の意趣返し」を狙った阿部日顕一派  信平夫婦による狂言騒動の陰で、当初から暗躍していた勢力に、もう一つ、忘れてはならないグループがある。  日蓮正宗の管長・阿部日顕の一派である。  詳細は次章に譲るが、「阿部日顕の直属」といわれる信徒グループが、信平信子の「手記」を載せた『週刊新潮』の発売前から、「手記」掲載の情報を入手し、機関紙に大々的な「予告」まで載せていたことが分かっている。  また「手記」発表直後の平成八年(九六年)二月二十三日、信平信子が東京で記者会見を開いた際の会場の予約も、この信徒グループの手によるものであった。  ――こうした阿部日顕一派による一連の「お膳立て」には、のっぴきならない「お家の事情」が隠されていた。  時間は少々、さかのぼる。昭和三十八年(六三年)三月十九日、阿部日顕(当時、阿部信雄)は、アメリカ西海岸のシアトルにいた。日蓮正宗の教学部長として、初の海外出張御授戒を目的とした渡米だった。本来であれば、重要な宗教的意義をとどめるはずの旅だった。  ところが阿部日顕は、三月二十日未明、市内で買春行為を行った後、売春婦とトラブルを起こしていた。いわゆる「シアトル事件」である。  当夜の状況について、平成十二年(二〇〇〇年)三月、東京地裁が判決で認定した事柄を引用しよう。  「阿部は、オリンピックホテルに帰った後、間もなく、一人で外出し、メイフラワーホテル内にあるカルーセルルームに入り、飲酒をした。カルーセルルームのウェイトレスは、肩や太ももを露出した水着スタイルの服を着て働いており、また、当時、カルーセルルームには、売春婦が来ることがあった。  阿部は、カルーセルルームを出た後、セブンスアベニューとパイク通りの交差点の南東角にあるマッケイ・アパートメント又はその付近にあるホテル等において、売春婦に対し、ヌード写真を撮らせてくれるように頼み、売春婦と性行為を行った。  なお、マッケイ・アパートメントは、当時、売春婦が、売春をするために利用するホテルとして知られていた。  その後、阿部は、翌二〇日午前二時ころ、セブンスアベニューとパイク通りの交差点の南東角の路上付近において、売春婦らと、右ヌード写真撮影ないし性行為の料金の支払について、トラブルになった」  ――このトラブルは警察沙汰になったのである。やがて警察から連絡を受けた、現地の創価学会員ヒロエ・クロウさん(故人)が駆けつけ、事態の収拾に奔走。そのおかげで、阿部日顕は、犯罪者として検挙されることなく、解放されたのであった。  阿部日顕は、かりにも聖職者である。  真面目に信仰している信徒にとって、宗門の教学部長という要職にあった僧侶の、こうした行動は、到底、口外することのできないスキャンダルだった。クロウさんは、約三十年もの間、この事件について沈黙を守り、自身の胸のうちに固く封じ込めていたのである。  しかし、その後、管長となっていた阿部日顕の堕落ぶりが、平成三年(一九九一年)以降、次第に明らかになるにつれ、やむにやまれぬ思いにかられたクロウさんが平成四年(九二年)、真相を告発。学会の機関紙の一つである「創価新報」が、この事件を報道したのである。  ところが阿部日顕らは、事実を認めて反省するどころか、クロウさんを「ウソつき」呼ばわりしたのみならず、平成五年(九三年)十二月十五日、創価学会側を名誉毀損で訴える裁判を、東京地方裁判所に提起したのである。  この裁判における阿部日顕側の主張は、“買春事件は事実無根”というものであった。問題のシアトルの夜についても、阿部日顕は「ホテルから一歩も出ていない」と断言していたのである。  平成六年(九四年)八月にも、多くの信徒の前で、「あれが本当でしたらね、私はもう即座にやめますよ。やっちゃいられませんよ、あんなものが本当なら」と言い放つなど、買春の事実を否定するのに躍起になっていた。  ところが平成七年(九五年)九月、阿部日顕側は、突如、それまでの主張を一八〇度翻し、“ホテルから出ていた”と認めた。  宗内でも「買春事件が事実だったら、僧侶をやめる」と断言した者が数多く存在していただけに、裁判の審理の中でクルクル変遷する日顕側の主張は、宗内にも大きな不安を投げかけていた。  さらには平成七、八年当時、阿部日顕本人が事実審理のため出廷しなければならない、という話も現実味を帯び始めていた。  こうした動きを受けて、日蓮正宗の信徒組織である「法華講」を脱退する者も、このころから相次ぐようになる。宗内の動揺は、もはや押しとどめようのないところまできていたのである。  こうした状況のなかで、阿部日顕らにしてみれば、かたや人心離れる一方の宗内をまとめ、かたや買春事件発覚の「意趣返し」として、何とか創価学会に攻撃を仕掛けたい。そのためのネタが、ノドから手が出るほど欲しいというのが実情だった。  そこに転がり込んだのが、信平の作り話だったのである。  阿部日顕一派が、今回の狂言騒動で初動段階から暗躍した裏には、阿部日顕本人のスキャンダルにまつわる深刻な「お家の事情」があったのである。 『週刊新潮』編集部に渦巻いていた「創価学会への敵意」  さて、信平の手記を掲載した『週刊新潮』である。  同誌は、平成八年(九六年)二月に手記を掲載して以降も、長短あわせて三十五本もの信平関連の記事を掲載した。  まさに「ウソも百ぺん繰り返せば本当になる」の手法を地でいく捏造報道を繰り返したのである。  その動機、背景の第一に挙げられるべきは、同誌の「お家芸」ともいえる、根深い「反人権体質」であろう。  元来、同誌は過去、数々の人権侵害記事で法務当局から幾度も勧告を受けながら、何ら態度を改めようとしないことで悪名を馳せてきた。  信平の狂言騒動が起こる以前にも、『週刊新潮』には、あからさまな人権侵害記事が、毎号のように掲載されていた。  創価学会に関する報道に限ってみても、前述した通り、平成六年(九四年)七月に起きた北海道の創価学会員・白山信之氏への人権侵害報道、また平成七年(九五年)九月に起きた東京・東村山市議の転落死事件でも学会に罪を着せるような中傷記事を掲載していた。  いずれの事件も、後に法廷に持ち込まれ、創価学会側の全面勝訴が確定している。  さらに同誌は、かの「松本サリン事件」の例に見られるごとく、悪質な人権侵害報道を繰り返していた。  いうまでもなく、この事件は、平成六年(九四年)六月、長野県松本市で猛毒サリンが撒かれ、住民七人が死亡、百四十四人が重軽症を負った事件である。  この事件の被害者であり、通報者でもあった河野義行氏が各マスコミから一方的に「犯人扱い」され、報道されたのである。  なかでも、当の被害者・河野氏が「最も悪質」と指摘したのが『週刊新潮』であった。  事件発生後に出た同誌の記事の見出しだけを拾ってみても、「『猛毒ガス事件』発生源の『怪奇』家系図―長野県松本市毒ガス発生事件」「おどろ、おどろしい『河野家』の謎」「猛毒サリン『製造犯』をめぐる『怪情報』と一つしかない突破口」と、その悪質さが分かる。河野氏が犯人であるとの一方的な予断と臆測をもって、その家系図までさかのぼって人権を侵害していたのである。  後に河野氏は、『週刊新潮』の不誠実極まる態度について、こう語っている。  ――(河野氏への謝罪について)『週刊新潮』からは、最初、誌面の一ページを自由につかってもいいという話がきました。それで、私は新潮社の社長と編集長の写真を載せて謝罪文を書けと、いったんです。すると、写真は勘弁してくれというから、「だってウチの先々代の写真を勝手に載せているじゃないか。そういうのは簡単に載せて自分たちの写真を載せないのはどういうことなんだ」ってやってたんですけど、週刊誌も商品だからということで配慮して、謝罪は謝罪の文章で書いて、サイド記事という形で経緯を書くような形でどうだ、ということになりました。  私の最終的な要求は、一ページを使うということと、電車の中吊り広告に『週刊新潮』がちゃんと謝ったというのがわかるようにそこに入れてほしいということと、それからあとは謝罪が出る号の目次に謝罪がわかるように明記してほしい、そして各新聞に出す広告にもそれがわかるようにしてほしいということにしました。  向こうが「わかりました」ということで(あったが)、結局は、謝罪文も約束していたものにならず、(中略)約束がそのとおり履行されなかったのはこの雑誌だけでした。だから今でも私は『週刊新潮』はいちばん悪質だなと思っています。(『松本サリン事件報道の罪と罰』第三文明社刊より)――  もとより、こうした『週刊新潮』の記事が、次々と名誉毀損で訴えられたことは、いうまでもない。  そのことは月刊誌『インテリジェンス』(平成八年五月号)のインタビューで、当時の佐藤隆信副社長(現社長)が「多いですよ、訴訟は。でもなかなか勝てません」と述べている通りである。  こうした、なり振り構わぬ人権侵害記事の背景には、同誌の部数低迷もあったといわれる。  事実、『週刊新潮』は、この時期、長期の部数低迷に悩まされていた。  あるデータによると、昭和六十一年(八六年)七〜十二月の平均販売部数は六十二万三千二百三十三部であり、平成七年(九五年)一〜六月は五十五万二千二百三部と、九年で七万部ほど落ち込んでいたことが分かる。  同誌編集部の思考回路には、「人権侵害記事を乱発するから、読者が離れていく」という分析はなかったらしい。  むしろ、部数が低迷するほど、ますます際どい記事と見出しが必要だという、歪んだ思考が一貫して支配してきたようである。  信平の狂言騒動をめぐる報道は、同誌ならではの反人権体質、「売らんかな」の計算と密接に関わっていたといえる。  ただ、こうした同誌の体質を考慮に入れても、信平信子の手記の掲載は尋常ではなかった。他のマスコミ関係者の目にも、明らかに異常と映ったようだ。  同誌の“ライバル雑誌”でもある『週刊文春』の当時の編集長も、「あの記事にはやや疑問を感じますね。真偽については不明な部分がある。『新潮』の通常の取材の厳しさからすると、やや甘い感じがします」と、前出『インテリジェンス』で述べている。  なぜ同業他誌すら疑問符を投げかける記事を載せたのか。そこでさらに一歩進めて、編集部内に目を向けるとき、そこには、抜きがたい「創価学会への敵意」が、横たわっていたことに気づく。  そもそも「週刊新潮は、学会ぎらいでは人後に落ちません」――前述した元恐喝犯・山崎正友が、阿部日顕に宛てた書簡で、こう評したほどの雑誌である。  しかも、当時の編集長・松田宏は、駆け出し記者のころから「創価学会批判」に奔走していたという人物。山崎とも「二十年来の仲」である。  昭和五十三年(七八年)ごろ、山崎はマスコミにデマ情報をリークし、学会批判を煽り立てたが、この山崎のデマに真っ先に飛びついてきたのも、当時、『週刊新潮』の編集部員であった松田だった。  当時、この二人はホテルで密会したが、山崎は直接顔を見せず、ホテルの内線電話にハンカチをかぶせ、声色を変えて偽名を使って松田の質問に答えた。この直後、同誌は山崎の情報をもとに創価学会を中傷する記事を掲載する。そのころからの仲なのである。  実際、松田の「創価学会嫌い」は、関係者の間では有名だったようだ。  あるルポライターが松田に会った際、学会のことが話題にのぼると、こう罵っていたという、  「あんな宗教団体は潰したほうがいい。早く解散したほうが日本のためになる」  自他ともに認める「創価学会嫌い」の彼が編集長になったのは平成五年(九三年)。就任当初から、学会中傷記事を続々と掲載したが、加えて彼は、編集長としての社会的、道義的、法的責任への鈍感さについても、人後に落ちない人物であった。  そのことは「ぼくは面倒くさくてね。雑誌を作るほうに専念したいし。訴えられるのは、もう過去の記事だし。いちいちフィードバックしたくないんです」(「東京新聞」平成五年十一月五日付夕刊)と本人が述べている通りである。  さらに『週刊新潮』編集部には、もう一人、忘れてはならない男がいる。  門脇護記者である。  信平の手記を担当しただけでなく、「白山氏に対する人権侵害報道」でもデマ記事を書いた張本人である。  しかも信平の手記が掲載された時期は、白山氏への人権侵害報道の裁判の審理が進み、門脇らがデッチ上げ記事を作成した過程が明らかになるなど、次第に追い込まれつつある時期にあたっていた。  すなわち、門脇らが白山氏のコメントまで捏造していたこと。  取材する前からタイトルが決まっていたこと。  取材過程で記者が明確に認識していたはずの事実も、シナリオに合わないものは切り捨てていたこと等々――。  あらかじめ『週刊新潮』編集部が考えていた方向、結論に沿って、事実が歪曲され、偏向記事が書かれていたという実態が浮き彫りにされつつあったのである。  当時、すでに白山氏の事件の裁判が敗色濃厚となっていた門脇にとってみれば、「創価学会に対する意趣返しのネタ」を必死に追い求めていたであろうことは、容易に想像がつく。  同誌の「反人権」体質。  創価学会への敵意を剥き出しにするばかりか、掲載した記事には責任をもたないと公言してはばからない編集長。  そして「意趣返し」の機会を狙う記者。  『週刊新潮』が、狂言騒動に異常なまでに執着した動機を挙げるには、これだけでも十分であろう。 第三章 経過 「それらの団体との間の一定の協力関係があることを推認することができる」  前章では、狂言騒動をめぐる「動機」についてのあらましを述べた。  次に、それぞれの動機、思惑をもった輩が、狂言騒動の舞台の上で、どのような役割を演じていたのかについて解説してみたい。 『週刊新潮』に売り込んだのは山崎正友  まず、創価学会攻撃には必ず「この人あり」といわれる山崎正友である。  山崎は、創価学会の陥れを図る陰謀の舞台裏で、常に暗躍してきた。この男の仮出所以来、創価学会を狙う勢力の動きは、がぜん騒々しくなる。  怨念にさいなまれたであろう牢獄で、山崎がめぐらした創価学会攻撃の策略――その「第一歩」が、平成五年(一九九三年)四月の仮出所直後から、阿部日顕に宛てて出した「謀略書簡」である。同書簡は、知られているだけで、五通にわたる。  この書簡を見ると、この後に繰り広げられる狂言騒動が、すべて山崎の書いたシナリオ通りに進められていったことが分かる。  まず、山崎は、週刊誌を使った学会攻撃を提案するのだが、文中、この男はマスコミ各社を、こう論評している。  「文芸春秋は、(中略)すべて私の友人で、全社が学会ぎらいです」  「講談社系は、出版物も極めて多彩で、学会とのかかわりも複雑です」  「週刊新潮は、学会ぎらいでは人後に落ちません」  まるで各マスコミは、すべて自分が手玉に取っているといわんばかりの言葉だが、中でも注目すべき点は、信平の狂言騒動を最初に騒ぎ立てたのが、「学会ぎらいでは人後に落ちない」と評された『週刊新潮』であったことである。  とともに、注目すべきは、次のくだりである。  「今後、元学会幹部に証言をしていただく必要が多くなります」  反創価学会の雑誌に、学会の元幹部を登場させて騒がせる――「信平狂言騒動」の構図とピタリと一致する。  否、最初に騒動の口火を切った週刊誌といい、「元学会幹部の証言」という文言といい、むしろ、すでに信平の存在をうかがわせていたかのような山崎の言葉ではないか。 何度も「信平とは無関係」と強調する山崎  事実、山崎は、信平狂言騒動が持ち上がるや、待ってましたとばかり、「援護射撃」を始めている。信平夫婦が訴訟を起こしたわずか二ヵ月後、平成八年(九六年)八月の『週刊文春』に自らの手記を掲載したのである。  記事の内容はといえば、かつて自分が煽り立てたウソの“焼き直し”ばかりだが、注目すべき点は、信平の提訴について「当の女性の直々の告発」などと持ち上げていることである。  しかも、この記事の中で山崎は、こんなことを書いている。  「断っておくが、私個人はこの二十数年来、信平さんと一面識もないし交信したこともない」  いかにも怪しい。誰に聞かれるでもなく、どうしてわざわざ、目分から、あえて「無関係」を強調しなければならないのか。  また、平成九年(九七年)十二月、ある集会に山崎は信平信子と仲良く姿を現した。  その際、山崎のいわく。  「さきほど信平さんの話を楽屋で聞かせていただきました。信平さんのおっしゃった通りに、創価学会の中にいたころも、私は信平さんと一度もお会いしたり、お話しした記憶はございません」  「二十年間、今日に至るまで、一度もお目にかかったこともなければ、口をきいたこともない。手紙のやりとりもありません」  一方、信平も、こんなことを話した。  「私は学会であったころも含めて山崎さんとお目にかかったのは、今日が初めてでございます。もちろん電話でお話ししたこともございませんし、手紙のやりとりすら一度もしたことはございません」  何とも奇妙な話ではないか。初顔合わせだという双方の話が、細部の細部に至るまで、まるで口裏合わせでもしたかのように、ピタリと符合するのである。 話をもっていったのは山崎  そもそも山崎と狂言騒動の関わりについては、山崎に詳しい人物の、こんな証言がある。  「(どうして信平の作り話が『週刊新潮』編集部の知るところとなったのか)ニュースソースについて、あれこれ話が出ているようだが、『週刊新潮』に話をもっていったのは、間違いなく山崎だ。山崎が、『週刑新潮』編集長の松田宏に渡りをつけたようだ。  山崎が話をすると、『週刊新潮』は山崎のところへ、それこそスッ飛んでいったらしい。そのことは山崎に近い人間が周囲にもらしていることだ」  この証言が世に出る前は、『週刊新潮』に口をきいた者として、脱会者の竜年光や売文屋の乙骨正生らの名前が取り沙汰されていた。しかし、この証言によれば、「ネタ元」は紛れもなく山崎だというのである。  さもあろう。元来、山崎と『週刊新潮』編集長の松田宏が「ツーカー」の仲であることは、関係者の間では周知の事実である。 「山崎が仕掛け人であることは間違いない」  さらに別の有力な証言もある。山崎と京都大学時代の同級生であり、長年、共産党の国会議員秘書を務めた兵本達吉氏のそれである。  同氏は山崎と、狂言騒動に関わる者たちについて、こう明確に言い切っている。  「彼らは全部、つながっている。完全につながっている」「山崎正友が仕掛け人であることは間違いない。私が見ていても」  平成七年(九五年)暮れ、兵本氏は、関係者が顔をそろえた忘年会にも参加したという。  奇妙なことに、その忘年会の直後、あたかもタイミングを見計らっていたかのように、信平信子が共産党機関紙に登場。そして翌年、問題の「手記」が『週刊新潮』に掲載されるのである。この忘年会で、どのような会話が関係者の間で語られていたかは、想像に難くない。  いかに山崎が真相を覆い隠そうと、事実が真相をあぶり出す。狂言騒動の中心には、当初から山崎がいたことに、疑う余地はない。 手記発表を「予告」していた日蓮正宗  次に日蓮正宗である。  山崎正友と同じく、騒動が持ち上がる前から深く関与していた。  というのも『週刊新潮』に「信平手記」が発表された直後の平成八年(九六年)二月十六日、日蓮正宗の信徒グループが発行している「慧妙」なる出版物の一面に「緊急予告ついに発覚!!」「乞う御期待」云々と、スポーツ新聞と見まがうような大見出しが掲載された。この「ついに発覚」した内容が、くだんの手記であることは明白であった。  だが、「慧妙」編集部は、ここで決定的なミスを犯した。  つまり、「信平手記」が載った『週刊新潮』が、書店や駅売店の店頭に並んだのは、二月十五日。  月二回しか発行されない「慧妙」が、十六日付で予告を掲載するためには、少なくとも『週刊新潮』発売の三、四日前に、あらかじめ情報を入手しておく必要があった。この「予告」は、「慧妙」編集部が、『週刊新潮』と何らかのルートでつながり、情報を入手していたことを明瞭に物語っているのである。  信平夫婦はもとより、騒動を起こした面々にとっては、あくまでも夫婦の「個人的動機」によるものでなければならなかったはずである。  戦略上、その背後にある「組織的意図」は、隠し通すべきであった。  ところが「慧妙」編集部は、ウッカリ自分で自分の正体を明かしてしまったのである。  事実、一審の判決文も、この点を見逃していない。あえて「創価学会を批判する勢力との関係」という一節を立て、「『慧妙』の編集担当者は、『週刊新潮』の信平信子の手記掲載をあらかじめ認識していた」「それらの団体との間の一定の協力関係があることを推認することができる」と鋭く指摘しているのである。  日蓮正宗が、いかに一連の騒動と密接に関わっていたか。すべては、はじめから「連携プレー」だったのである。  その証拠は、この「慧妙」のポカばかりではない。同月二十三日、信平は東京で記者会見を行った。ここで信平信子は“ウソ泣き”までして、哀れな一婦人を演じて見せた。  だが、この会場となった都内のホテルを予約したのも、「慧妙」を実質的に編集している日蓮正宗の信徒グループ「妙観講」の一員であったことが発覚している。  このグループは“阿部日顕直属”の謀略集団として名高い。これまで、盗聴、違法ビラ配布など、数え切れない犯罪行為を繰り返してきた集団である。  付け加えれば、あの山崎正友が日蓮正宗内において所属するグループでもある。  その後、この妙観講は、狂言騒動を全面的にバックアップしていく。  平成八年(九六年)二月、妙観講員が実質的に取り仕切る出版物「自由の砦」は、『週刑新潮』と同内容の信平の手記を、こちらは信平の署名入りで掲載。  また関係者筋によれば、信平を支援するためとの名目で、かなりまとまった額の「カンパ」まで集めていたという。  それだけではない。阿部日顕一派は、信平の手記の内容の骨子まで用意していたのではないかといわれる。  というのも、信平の手記にある「事件」なるものは、まったくの事実無根のデッチ上げであるわりに、細かい部分が、かなりリアルに書かれているからである。  ――実は、この信子の手記と「ウリ二つ」の実例が、かつて北海道の地元誌『北方ジャーナル』(昭和五十九年九月号)に掲載されたことがあった。  それは昭和五十七、八の両年、札幌市の日蓮正宗・仏見寺で従業員をしていた鴇田まさ子さんが書いたものである。  これは実際に本人が書いた手記で、後に同宗の宗務院宛にも送られている。  鴇田さんは昭和五十七年(八二年)十月、翌年二月の二度にわたり、同寺の住職・藤原広行に襲われたという体験をもつ。  藤原は、前述の「白山氏に対する人権侵害報道」のデッチ上げに加担した男。白山氏を加害者呼ばわりしたデマを、最初に『週刊新潮』に流した男である。  鴇田さんの話は、こうである。  一度目は、藤原から台所に呼び出され、不意に後ろから抱きつかれ、そのまま風呂場へ。そこで暴行されかかったが、来訪者の呼び鈴で間一髪、救われた。  二度目には、寺の二階の庫裏に呼びつけられた。  住職の妻もいるものと思って部屋に入ると、藤原がいきなり襲いかかった。自分の足で鴇田さんの足を払って押し倒すと、馬乗りになり、鼻息も荒く事に及ぼうとした。  鴇田さんは、藤原のアゴを掌で押し返すことで、のしかかる藤原の大きな顔と重い身体と格闘した。  そして「やめてください! 奥さんに話しますよ!」と大声を張り上げたという。  不幸中の幸いで、格闘している途中で藤原が果てたため、その隙を見て鴇田さんは脱出。  泣きながら一階に駆け降り、トイレヘ。そこでスラックスについた藤原の体液を何度も拭きながら、あふれる怒りの涙を、どうすることもできなかった――という内容であった。  この事件の後、むろん鴇田さんは寺を退職するが、藤原はまったく反省を見せない。  鴇田さんは口惜しさが忘れられず、勇気を奮って昭和五十九年(八四年)に実名で藤原を告発。彼は躍起になって強姦未遂を否定したが、この騒ぎは信徒の間に大きな動揺を招いた。  藤原の妻も知るところとなり、離婚する、しないの騒動に発展した。藤原が妻の前で、鴇田さんに土下座して謝ったという経緯も付記しておく。  鴇田さんの手記が『北方ジャーナル』に掲載されたころ、まだ創価学会の幹部だった信平信子も、その記事を読んでいるはずである。  また藤原はかねて『週刊新潮』と関係のある間柄である。  さらに藤原の仏見寺は、信平夫婦がいた北海道における反学会の策謀の拠点である。藤原が自分で体験した強姦未遂事件を下書きにして、手記の捏造に一役かったとも考えられよう。  でなければ、鴇田さんの手記の内容が、信平信子が被害を受けたと称していた作り話の内容と、詳細部分までピタリと一致していることの説明がつかない。  その後も仏見寺は、狂言騒動をめぐって執拗に策謀をめぐらしてきた。  平成八年(九六年)十月には、街宣車が狂言訴訟をダシにして、札幌の創価学会の会館前で嫌がらせの宣伝活動を行った。これにも仏見寺が関わっていたとみられている。  藤原は平成九年(九七年)六月発行の日蓮正宗の法華講機関紙にも「信平夫婦に心からエールを送りたい」と、わざわざ書いている。  加えて、仏見寺では「信平捏造手記」パンフレットを独自につくり、函館市内の各所に無差別郵送を行うなど、積極的に騒動を大きくしようと画策したことも分っている。  今回の狂言騒動において、藤原に代表される日蓮正宗は、見逃すことのできない働きをしてきたのである。  余談になるが、実際に強姦未遂事件に遭った鴇田さんは、信平の手記を、どう見ていたか。平成八年(九六年)九月二十日発行の月刊誌『第三文明』の臨時増刊号の中で、彼女は――。  掲載当初から「信平手記」を冷静に批判していた。  「いきなり背後からのしかかられたとか、足を掛けられ押し倒されたとか。とくに二階から駆け降りて、女子便所に逃げ込んで、付着したものを何度も拭いたなどという描写は、私の告発とウリ二つ、そっくりです。  また私は最初から『手記』はウソだと分かりました。  第一、こんな最低のことを本当にされたなら、しかも三回も繰り返されたというなら、誰にも打ち明けないなんておかしい。  私も黙っておこうと思ったことがありましたが、それは藤原が一旦は土下座して謝ったからです。  また『手記』では、恐怖のあまり声が出なかったなどとありますが、いきなり襲われたら、誰だって大声で助けを求めるもの。声が出なくなったのは、むしろ必死で逃げ出したあとでした。  背後から襲われただけで、すぐ気を失うというのも変です。一対一なら、女性でも結構、抵抗できるもの。『手記』はどこからみても不自然、現実味に欠け、これはウソだなとすぐ分かりました」  実際に経験した人から見れば、手記はウソだと、すぐに見破られる代物だったのである。 信平信子が初めて登場したのは「赤旗」  信平が、初めて手記を掲載した『週刊新潮』のタイトルは、「沈黙を破った北海道元婦人部幹部」云々というものであった。まるで「我慢に我慢を重ねてきた人間が、やっとの思いで口を開いた」とでも言いたげなタイトルである。  ところが、この約二ヵ月も前に、信平はマスコミに“デビュー”を果たしていたのである。  平成七年(九五年)の暮れも押し迫った十二月三十日、元創価学会幹部のインタビュー記事が共産党の機関紙「赤旗」に掲載された。  「元婦人部幹部が語る」と、なぜか匿名で掲載された、この記事。内容を子細に見れば、この匿名者が信平信子を指していることは明白であった。  さらに翌年六月、「赤旗」は信平が狂言訴訟を起こしたことを報道した。  ここで同紙は“信平さんは昨年十二月三十日付本紙に登場”と記し、匿名であったはずの信平の正体を、はっきりと掲載したのである。  その後も「赤旗」は数回にわたって、他紙が一行も報道していない、裁判の細かい過程まで報道するに至る。  しかも、信平夫婦と共産党の関係は、「元婦人部幹部」云々の記事が掲載された平成七年(九五年)末に始まったものではない。  元来、信平夫婦といえば、地元・函館では知らぬ者もいない「借金魔」であった。創価学会の役職を解任されたのも、学会で禁じている会員間の金銭貸借が原因であったことは先述の通りである。  この金銭貸借をめぐり、信平夫婦は被害者から何件もの訴訟を起こされている。  前章でも触れたが、この訴訟のうち、信平側の数件の代理人を、なぜか共産系の弁護士が務めていたのである。  すでに信平の記事が「赤旗」に掲載される二年以上前の平成五年(九三年)八月の時点で、共産系の弁護士二人が、信平の裁判の代理人を務めている。  さらに平成八年(九六年)七月、信平醇浩が二千九百四十万円もの借金を返さないとして訴えられた裁判でも、共産系の弁護士が代理人となっていた。この弁護士の妻は、元国会議員で北海道共産党の「顔」ともいわれる人物であった。  信平夫婦と共産党が、かなり以前から一定の“協力関係”にあったことは明白である。 政治権力による「宗教弾圧」  信平信子の「狂言手記」が発表された平成八年(九六年)当時、反創価学会の一部政治家たちは、深刻な“手詰まり”の状況にあった。  後に、かの四月会と連携する自民党の一部政治家は、平成五年(九三年)の衆院選での惨敗以来、政治的思惑から創価学会に対し攻撃を仕掛けていた。その最大のものが宗教法人法「改悪」問題であったが、これも平成七年(九五年)末には決着がついた。  次期衆院選は、間もなくである。ここでさらに学会の封じ込めを図らなければならない――彼らは焦っていた。  そこにタイミングよく転がり込んできたのが、くだんの「信平手記」である。  これを学会攻撃を狙う一部政治家が見逃すはずもなかった。  実際、それら政治家の“対応”の早さには、目を見張るものがあった。  「捏造手記」を掲載した『週刊新潮』が店頭に並んだのは平成八年(九六年)二月十五日。  そのわずか四日後の十九日には、もう国会で取り上げられた。  衆院予算委員会の理事会で深谷隆司代議士(当時)が、この「手記」を使って「証人喚問」云々と大騒ぎしたのである。  当然、同議員には、「手記」に書かれた内容について、詳細に調査する時間などあろうはずがない。  頭から「捏造手記」の内容を鵜呑みにした上での、「国会質問に名を借りた宗教弾圧」であった。  その後も、一部議員の陰湿な宗教弾圧は続く。  四月には白川勝彦代議士(当時)が、五月には原田昇左右代議士が、いずれも信平の作り話をもとに国会質問を行っている。  前章で付記したように、当時の国民の最大の関心事は「住専問題」であった。この重大事をそっちのけにして、一部のマスコミ以外からは見向きもされなかった「狂言騒動」を国会に持ち込む――これほど国民を愚弄した「党利党略」もない。  そもそも、証人喚問要求の理由というのが、“住専問題に関して、野党が与党幹部の関係者の喚問を要求するというのなら、創価学会幹部の喚問を要求する”という、「党利党略」剥き出しのそれであった。  事実、こうした一部政治家の姑息な姿勢に、国民の批判が集中した。二月二十一日付の「朝日新聞」には、こんな記述がある。  「こんなおかしな話はない。いま問われているのは住専問題である」「国民が求めている住専問題の解明より、党利党略を優先する態度であり、厳しく責められなければならない」  そもそも国民の負託を受けた国会議員が、国権の最高機関たる国会で、しかも、何ら明確な事実確認もしないデマ話を使って、特定の宗教団体を一方的に誹膀中傷するのみならず、一個人を証人喚問の名を借りて脅しつけるとは、何事であろうか。  改めて確認するまでもないが、日本の国会における証人喚問は、往々にして、その本義から逸脱し、特定の人物を「見せしめ」にする便法として用いられる傾向が強い。  とりわけ創価学会に対しては、ことあるごとに過去数十年間にわたって、この国会喚問要求という手段が、事実上、政治権力の「合法的な脅迫」の道具として使われてきた。  恐るべき、卑怯、卑劣の宗教弾圧といわざるを得ない。  しかも、その弾圧が、数十年もの長期にわたって、ちらつかされてきたという事実――「権力」というものの傲慢と陰湿さに、心からの怒りを覚えるのは、筆者一人ではあるまい。  しかも、狂言騒動をめぐる一部政治家の蠢動は、その後、さらにエスカレートしていく。 選挙狙いの「デマビラ」を大量配布  参議院岐阜補選公示の翌日にあたる平成八年(九六年)三月八日。  岐阜、愛知、三重の三県で、信平手記を掲載した『週刊新潮』の「抜き刷り」が、大々的に配布された。  さらに四月中旬には、同じ抜き刷りが、「自民党本部の帯封入り」で、各種団体に郵送されている。  また同月、「民主政治を考える会」なる団体の発行による、信平狂言騒動を特集したデマビラが、自民党組織広報本部に納入されている。  その数、なんと数百万枚というから、驚きを禁じ得ない。  当時の組織広報本部長は亀井静香代議士であったが、同氏は平成七年(九五年)秋、『週刊ポスト』のインタビューに答えて、こう語っていた。  「次の総選挙で自民党が負けたら、自民党そのものが消えてなくなってしまうのだから、生き残るためには手段を選ばずにやる。十月中に三百万枚、年内に千万部の紙つぶて(戸別配布の宣伝ビラ)を打ち、新進党をやっつける」(十一月十日号)  「三百万枚」「千万部」――その言葉通り、創価学会中傷ビラが全国でバラ撒かれた。  こうした一連の「ビラ作戦」の中心にいた政治家の一人が、白川代議士(当時)である。白川は、ビラの発行元となった「民主政治を考える会」に深く関与していた。  当時、白川が、いかに深く内情に関わっていたか。後に、同会の内部告発文書によって、実態が暴露された。  その内容を要約すると、以下のようになる。  ――ビラは自民党はじめ、各宗教団体(日蓮正宗、霊友会、仏所護念会教団、新生仏教教団など)や個人がまとめて購入し、全国的規模で戸別配布されてきた。  ビラは基本的に一枚三円となっていた。しかし印刷関係者の話によると、この種類の印刷物の場合、紙代、印刷代、折り代などを含めても総額で一円五十銭だという。  原価が一円五十銭なら売価三円の半分は差益となる。  毎号の発行、配布数には当然、差違が出るが、平均して各号は一千万枚、ビラ一回だけで千五百万円の差益が生まれることになる。  ビラは六号まで出ているので、差益の総額は約一億円とみられる。  では、その金はどこに消えたのか。カギは、山崎正友である。山崎は収入支出を一手に握っていたにもかかわらず、経理内容について一度も報告したことがない。  彼はビラ作成の印刷、納入業者のホクシンカンテック・オー・エー・サービス(港区)からもバックマージンを取り、懐にしていたらしい。差額プラス・マージン、これを自由にしていたのである。  そして、白川勝彦党総務局長(当時)との関係。通常、「民主政治を考える会」の口座に振り込まれるビラの代金が、自民党については、白川から山崎に現金で支払われていた。  白川から山崎が受け取っていた金が何億円にのげるのか、山崎以外は誰も知らない。  山崎は、しばしば“自民党がそうしてくれというのだから仕方ない。オレが好きこのんで現金支払いを指定しているわけでない”と弁明し、他の者には一切、タッチさせなかった。  おそらく、一枚三円以上の作成費のほか、配布料も受け取っていたのではないか。  自民党に対しては、口癖のように「赤字だ」と言っていたことも分かっている……。  こうした内容である。つまり、白川は、ビラの費用面についても関与していたというのである。  このことは、この「民主政治を考える会」の名目上の代表世話人であった売文ライターの内藤国夫が、山崎をよく知る人物と交わした会話で、こう話していたことからも、うかがえる。  ――そいで、表でちゃんとハデにケンカして決着つけるなら勝手だし、誰がどうやってどれだけ山分けしようが、オレは知ったこっちゃないわけだ。白川を一時期は追及したよ、「いくら渡したのか」と。だけど、所詮、そういうことを表にできないのが裏金だから、オレは分かって、「もう勝手にしろ」と、「バカヤロー」と、オレは白川にも大バカ呼ばわりしたよ。――  「表にできない裏金」で、ビラの費用は、まかなわれていた――。事実とすれば、明確に政治資金規正法に抵触する重大な違法行為である。  しかも、白川は後の自治大臣、国家公安委員長である。公明正大な選挙活動を司る最高責任者が、自ら不透明な裏金の動きに関与していたとすれば、これまた重大な責任問題ではあるまいか。  ともあれ、こうしたビラ配布の動きも、平成八年(九六年)の秋に想定されていた次期衆院選を狙ったものであったことはいうまでもない。 四月会の動き  次に四月会である。この団体は、この問題の当初から、表向き一貫して「信平とは無関係」と言い張っていた。  もとより世論の批判をかわし、自らの正体を覆い隠すためであったことはいうまでもない。  だが、その後、ひょんなことから馬脚を露わにする。  後述するが、自民党は平成十年(九八年)四月、機関紙に狂言騒動にまつわる中傷記事を掲載した非を認め、創価学会に謝罪する。  ところが、この自民党の謝罪に対し、「信平とは無関係」のはずの四月会が突然「緊急アピール」を発表。“信平の言い分を虚偽と認めたのはけしからん”と、自民党にかみついたのである。  さらに五月には、信平をめぐる一連の経緯をテーマに、総会まで開催。ここでも内部国夫や俵孝太郎などの登壇者は、こぞって「けしからん」「けしからん」と大合唱だった。  「信平とは無関係」と主張してきた団体が総会まで開いたのだから、当惑したのは、何も知らない参加者である。登壇者が信平擁護を叫べば叫ぶほど、会場には白けたムードが漂ったという。  結局、四月会は、狂言騒動への関与を自ら認めたかたちとなったのである。 信平側の「身内同然」だった『週刊新潮』  どれほど滑稽な「猿芝居」も、「舞台」がなければ始まらない。  信平の狂言騒動――その最大の舞台となったのが『週刊新潮』である。  信平の捏造手記が『週刊新潮』に掲載されて以降、他の一部週刊誌等も、『週刊新潮』を後追いするかたちで、センセーショナルに騒ぎ立てた。  しかし、法廷で審理が進み、信平の訴えが、まったく荒唐無稽なウソであることが明らかになるにつれ、ほとんどのマスコミが、この問題から距離を置くようになる。  ところが、『週刊新潮』だけは、終始一貫して全面的に信平を援護し、執拗なまでに偏向報道を繰り返した。  それだけではない。審理の進む過程についても、同誌は逐一、信平側の一方的な言い分に沿って、援護射撃を続けたのである。  そもそも毎回の法廷でも、『週刊新潮』の記者は、信平側の関係者と連れだって現れ、終了後は、また信平側の人間とともに消えていくのである。閉廷後、それらの関係者と親しげに打ち合わせをする姿も頻繁に目撃されている。  この種の訴訟の公判では、記者クラブに所属しない一般ジャーナリストは、「くじ引き」によって傍聴券を得るしかない。  しかし、『週刊新潮』の記者は、信平側の関係者として傍聴券を受け取っていたようである。  要するに『週刊新潮』は、はじめから最後まで、信平側の「身内」も同然だったのである。 もう一人の「身内」――売文屋・乙骨  ところで、信平側の「身内」といえば、もう一人、法廷が開かれるたびに、信平とともに現れ、信平とともに消えていった得体の知れないブラックジャーナリストがいる。  名前を「乙骨正生」という。  実は、この乙骨、事件の当初から、信平に陰に陽に付きまとっていた売文屋なのである。しかも、その絡み方が尋常ではない。  というのも、信平が平成八年(九六年)、一連の狂言手記を『週刊新潮』に掲載した直後、東京都内で記者会見を開いた。どういうわけか、その司会を務めていたのが乙骨なのである。  さらに、その記者会見に先立って、信平信子と綿密に事前の打ち合わせを行っている姿も目撃されている。  それだけではない。  信平信子の訴えをめぐる高裁の審理が結審となった法廷で、信平側が、まさに最後のあがきとして証人申請を行った。  信平側弁護士が、「ジャーナリストとして、かなり定評のある方です」といって名前を出したのが、乙骨だったのである。  ちなみに乙骨が、ここでの触れ込みのように「ジャーナリストとして、かなり定評」があったかどうかは、極めて疑わしい。実際のところ、当時、法廷で傍聴していた人の話によると、裁判長も「乙骨」という名前を、どう読むのか分からなかったらしい。  また、信平側弁護士の「定評」云々のくだりにくると、傍聴席のそこここから、思わず失笑が漏れたという。  また信平狂言事件をめぐる『週刊新潮』の記事の中でも、「学会ウォッチャー」「ジャーナリスト」の肩書で、乙骨のコメントが必ず出てくる。  まさに、この問題の「ゆりかごから墓場」まで付き添っていたのが乙骨なのである。  では、この乙骨とは、いかなる人物なのか。  信平側の弁護士は、「ジャーナリストとして、かなり定評のある方」と言っているようだが、これは、かなり身勝手な言い方であろう。  私もジャーナリストの一人だが、信平狂言騒動に関わる以前には、「乙骨」などという名前は、ただの一度も聞いたことがない。  そこで調べてみて分かったが、たしかに乙骨は、しばしば週刊誌に顔を出してコメントを寄せている。しかし、それはすべて創価学会を中傷する記事である。  学会批判以外の記事で、乙骨が顔を出すことは、まったくといっていいほどなかった。 山崎に操られる乙骨  たしかにジャーナリストにも、専門分野をもつ人々もいる。しかし、どう間違っても、一民間団体だけを相手にした「アンチ××」を売り物にするジャーナリストなどいない。  さらに調べてみると、驚くべきことが分かった。  乙骨は、元恐喝犯・山崎正友の意のままに操られる「子分」「手下」だったのである。  そもそも乙骨は、元創価学会員だが、学会にいる間は、自己顕示欲が強く周囲に迷惑をかけていた。学生時代に脱会して以降、山崎のもとに身を寄せ、反創価学会の団体で機関紙の編集に携わるようになる。  要するに、ジャーナリストとして正規の訓練など、何一つ受けていない。ただ山崎の学会攻撃の道具として使われてきただけの存在なのである。  乙骨が「物書き」として、いかに低劣かを物語るエピソードがある。  乙骨は平成六年(九四年)、米国ロサンゼルスに取材に行き、帰国後、週刊誌に反学会の記事を書いた。その際、乙骨は現地「ロサンゼルス・タイムズ」紙のジョン・ダーツ記者のものと称するコメントを掲載した。  ところが、これが、まったくの捏造だった。記事掲載後、当のダーツ記者が、厳重抗議を申し入れたのである。ダーツ記者によれば、乙骨などという人間から取材をされたこともなければ、発言内容もまったくのデッチ上げだという。  『週刊新潮』は、こんな男を重用し、臆面もなく「ジャーナリストのコメント」と称して掲載していたのである。どれほど低劣なデマに満ちていたか――語るに落ちたとは、このことである。 偏向記事のオンパレード  『週刊新潮』は、狂言騒動をめぐって、大小あわせて三十五回も記事を掲載した。この回数は、同趣旨の記事を扱った他のメディアに比べて、断然、突出している。  しかも、その内容たるや、いずれも信平への「提灯記事」のオンパレードであった。  中には、「畏縮する『報道』陣」という大見出しを立てて、他のマスコミにかみついた記事すらあった。  自分たちのデマ記事に、他のマスコミが思うように食いついてこない、というのである。それをとらえて「畏縮」と中傷するとは、驚くべき神経である。  そもそも、この訴訟は最終的な判決で、「百万件に一件」あるかないかといわれる「訴権の濫用」が認められたほどの、悪質極まるデッチ上げ訴訟であった。  裁判の過程でも、信平側は、いたずらに裁判を引き延ばそうとあがいたり、主張をクルクル変遷させるなど、悪質かつ粗暴な訴訟態度に終始した。  ところが、『週刊新潮』にかかると、そうした「真実」とは、ものの見事に正反対の記事となる。  例えば、こんな記事があった。  いわく「裁判を引き延ばす創価学会弁護団」「創価学会弁護団のヘンな戦術」。  いかにも裁判が、信平側に有利に展開しているかのような書きぶりである。  しかし実際は、「裁判を引き延ば」し、「ヘンな戦術」をとったのは信平側であった。  論より証拠である。判決文は信平側の訴訟態度を、こう断罪している。  「(信平側が行った裁判官忌避の)申立ては専ら訴訟の引き延ばしを目的としてされたものではないかとの疑問が残る」  「(信平の訴訟態度は)事実的根拠を欠くことをうかがわせるものであるばかりでなく、訴訟当事者として、到底、真摯な訴訟追行態度と評価することはできない」  「原告(=信平)らの訴訟活動は、真に被害救済を求める者の訴訟追行態度としては極めて不自然であり、およそ信義則にかなうものとはいえない」  いかに『週刊新潮』の記事が偏見と邪推に満ち満ちたものか、この一点でも分かるというものであろう。 裁判官をも誹謗中傷  さらに、『週刊新潮』の偏向ぶりを強く印象づけた記事がある。  一審で東京地裁が、信平側の訴えの主要部分を分離して結審した直後のこと。『週刊新潮』は、「裁判官の『挙動不審』」(平成九年十一月二十七日号)という大見出しで、裁判官に対して常軌を逸した人格攻撃を加えたのである。  この記事では、「挙動不審だった」「裁判官に何があったのか」「事なかれ主義だ」云々と、当たり散らした揚げ句、裁判長のプライバシーにまで踏み込んで「八つ当たり」をしていた。  また別の記事では、「裁判官が“逃げた”」などと見出しを立て、信平側の弁護士の、こんなコメントを紹介している。  「証拠調べをしないまま被害者本人分の請求を蹴るというのは、全く前代未聞の訴訟指揮(=訴訟の進行)です」  別の号でも、  「(一審の訴訟指揮に)法曹専門家が目を剥いた」  「偏向した訴訟指揮」  「不可解な訴訟指揮で司法への信頼を失わせた」等々、裁判所への罵詈雑言を並べている。  冗談ではない。  「前代未聞」であり、「偏向」「不可解」なのは、『週刊新潮』の報道姿勢のほうである。  もはや、何をかいわんやであるが、例えば『週刊新潮』が難癖をつけていた一審の訴訟指揮についても、本物の「法曹専門家」が、全面的に支持を表明していたのである。  というのも、控訴審で創価学会側は、一審判決の妥当性を裏付けるために、新堂幸司・東京大学名誉教授の「鑑定意見書」を法廷に証拠提出した。  新堂名誉教授は、民事訴訟法研究では、我が国の最高権威の一人。  主著「民事訴訟法」をはじめ、いずれの著書も法律実務家にとっての、いわば「教科書」となっている。  その新堂名誉教授は鑑定書で、一審の内容を詳細に検討した上で、こう述べている。  「訴訟経済の観点から、無用な証拠調べを経ずに弁論を終結すべきであり、本件訴訟におけるこの点の訴訟指揮に問題があるとは思われない」  「裁判所の訴訟指揮は、当事者の立場を公平に尊重しつつ訴訟経済を図った、適切な訴訟指揮であったと思料される」  民法の最高権威が「適切な訴訟指揮」と断ずる判断も、『週刊新潮』にかかると、「前代未聞」「偏向」「不可解」となる。  まさに「世間の常識は『新潮』の非常識」というべきか。 『週刊新潮』の「特別な事情」  しかし、なぜ『週刊新潮』が、同業他誌が相次いで撤退するなかを、依然として、狂言騒動に固執し続けたのであろうか。  それも、時を追うごとに、次第にその偏向ぶりをエスカレートさせていったのか。  単に、信平の手記を最初に掲載したからという理由だけでは、到底、説明のつくものではない。  実は、『週刊新潮』には、どこまでも信平と心中せざるを得ない「特別な事情」があったのである。  第二部で、その「特別な事情」について検証したい。 第二部 言論のテロリズム 第一章 捏造 「記事が掲載されるという一連の出来事が、ほんの数日の間にすべて生じたことになる……首尾よく段取りが整ったというのは、論理的可能性としてあり得ないこととはいえないが、経験則上、明らかに不自然」  ここまで狂言騒動の経緯と構図を述べてきた。  その上で、筆者の手元にある決定的資料を紹介したい。  筆者が入手した十七枚のMD。  そこに収められている記録は、信平夫婦、『週刊新潮』記者の門脇護、日蓮正宗の阿部日顕直属のグループである「妙観講」の幹部らが集まり、「どうすれば創価学会を効果的に攻撃できるか」を話し合った謀議そのものの録音記録である。  謀略の真相を生々しく暴き出す「動かぬ証拠」である。  この記録は、もともと私と旧知のジャーナリストのもとに送られてきたものを、彼の好意で提供してもらったものだが、いずれも、世に出るのは本書が初めての未公開記録である。  そのジャーナリストの弁によれば、資料を入手した経緯は、こうである。  ――平成十一年(一九九九年)八月二十四日、事務所に、七冊に綴じられた二百六十四枚にもわたる膨大な書類が郵送されてきた。消印は静岡県富士宮市。書類は取材の記録をワープロ打ちで起こしたものだった。  書類の最初に一枚の手紙がつけてあり、そこには、  「信頼できる方より一つの書類を頂きました。内容の余りのひどさに困惑し、自分の生き方を曲げるべきかどうか悩んだ結果、郵送させて頂きました。(中略)信仰の名の元(=原文のママ)に、平然とやるオウム真理教と何も変わらない先輩たちに落胆しました。(中略)仲間を救いたい気持ちで書類を同封いたします。何卒、懸命(=原文のママ)な御判断をお願いすると同時に、本当の真相を明らかにして頂きたいと思います」  元妙観講、阿部信之と名乗る差出人の文面からも、並々ならぬ心情が伝わってきた。  送られてきた書類は、なんと、あの『週刊新潮』が、信平信子を取材した記録をワープロ打ちしたものであった。本物かどうか、にわかに信じがたく、裁判の推移を見守っているうちに、今年の二月二十二日、同一と思われる人物から、今度は十七枚のMDが送られてきた。  聞いてみると紛れもない信平信子、醇浩の声。そして話されている内容は前回送られてきたワープロ打ちの書類と同様の内容と、その後の打ち合わせなどが録音されたMDであった。  その内容は、生々しい肉声だけに、悪意、下劣さまでが手に取るように迫ってきて、おぞましい限りであった……。  ここで特筆すべきことは、『週刊新潮』の門脇が当初から謀議の主導権を握り、訴訟の段取り、騒動の起こし方など、一切を取り仕切っていたという衝撃の事実である。  この記録を見れば、なぜ『週刊新潮』が、あそこまで狂言騒動に固執したのか。当初から信平側と「身内」も同然の関係で、偏向報道を繰り返したのかが、よく分かる。  『週刊新潮』は、まさしく信平側と「抜き差しならぬ関係」にあったのである。  同業他誌が、あまりのバカバカしさに、次々と、この騒動から手を引いていった後も、ただ独り気を吐かざるを得ないほど、どっぷりと謀略の泥沼につかっていたのである。  記録はまた、一連の狂言騒動が、どれほど虚偽と作為に満ち満ちたものであったかも明らかにしてくれる。  例えば記録の後半部分、信平信子と門脇が、新潮社側の弁護士と、訴訟の見通しについて話し合うくだりがある。  検事出身という弁護士の質問に、信平信子は冒頭からシドロモドロになる。弁護士は「とても話にならない。訴訟にならない」と客観的な判断を下す。  要するに、新潮社側の弁護士ですら、はじめからサジを投げていたほどの、いい加減な話だったのである。  にもかかわらず、「手記」は仕立てられ、報道された。記者会見も開かれた。訴訟も起こされた。  すべてはウソと承知の上で進められた筋書きだったのである。  そして、その狂言芝居の一切を操っていたのは、本来、公平・客観報道に徹するべきマスコミであったという恐るべき事実――今回、『週刊新潮』という雑誌の体質が、いかなるものかを、まざまざと見せつけられるにつけ、慄然とする以外にない。  ジャーナリズムの世界に身を置いてきた者の一人として、これほど悪辣極まるマスコミの手口を筆者は知らない。  お断りしておくが、原資料が膨大な量に及ぶため、ここでご紹介するのは、全体のごく一部分であることを、あらかじめご承知願いたい。  また、彼らの会話調をそのまま掲載したのでは、かなり読みにくいので文意の変わらない程度に抜粋し、まとめてみた。 『週刊新潮』の“取材”は、こうして始まった  信平は、創価学会を脱会した後、学会を誹診中傷するための様々なデマ話を吹聴する。それらのデマ話は、関係者の間でそれなりに注目され、四月会、共産党、日蓮正宗、創価学会の脱会者のグループ等々が、それぞれの思惑を持ち、“学会攻撃”のネタを求めて盛んに信平に接触を試みていたとみられる。  その中で、『週刊新潮』は、彼らを出し抜き、独占取材の約束を取り付けるが、その「デマ話」の内容はあまりにもおそまつであった。そこで、『週刊新潮』と信平らの謀議によって、「捏造手記」と「狂言騒動」が生み出される事となった。その経過を辿ってみたい。  まずは、『週刊新潮』が、言葉巧みに信平夫妻に単独取材に応じることを説得するくだりである。 ●平成八年(九六年)二月二日(金)函館。  『週刊新潮』記者・門脇護と妙観講副講頭・佐藤せい子、支区幹事・佐貫修一が同行。 門脇 あのね、これはですね、ずーっと黙っといて、ある日、突然に、一斉に「バッ」と出て、向こうがもう引き返せない、「あーっ」というヤツでやらないとダメなんです。 途中で情報が漏れたり、味方と思ってる人に、例えば自民党とか、そっから抜けてですね、途中で妨害が入ってきて、それでその最大のパンチ力が落ちたりしたりすると困りますので、これはもう、ズドンと(やらなくてはダメだ)。 佐貫 信平さん、四月会だとか(を相手にしないで)。はっきり言って、私ども で(やらせてほしい)……。 門脇 それは、あの四月会も、共産党のほうも、僕たちはルートありますから。それは後になって、私たちがアレしますけど、でも、事前に漏れたりすると……。 信子 これは、共産党にも言ってませんし。言ってません! 佐貫 それは、それ(共産党に先に言うこと)はダメです! それは私のほうで丁重に……。 信子 ただ、ほら、共産党さんの弁護士を使ったためにね、「記録分帳」って、私のアレ(=資料)を載せているんですよ。名前を消して、ココだけ残してね。 「赤旗」に一度載せたんです。それは選挙のことだけです。「選挙のABC」とかいって、それだけ。 門脇「赤旗」も、最初にボーンと、これ出たら、後追いしてくれますから。 先に「赤旗」に出る? あの、もし、出たりすると……。 信子 (「赤旗」の記者は)栗田さんっていう人。社会部の。 門脇 社会部の栗田さん! 僕も、友達ですから。栗田氏、よく知ってますけど、来ました? ここへ? 信子 ええ。栗田さんと私、二日、会いましたから。 門脇 そうですか。 信子 そいでね、その時に、こう言ってましたよ。あの……。 醇浩 (話をさえぎって)いや、結局ね、うちでね、ほら、この共産党の弁護士を(金銭問題の訴訟の弁護に)使ったわけよ。札幌の高裁で。その関係で……。 信子 だから、(共産党の弁護士が)札幌から来て、そういう関係なので。 それでね、栗田さんの言うには、「(脱会者である)竜(年光)さんのところに僕の知っている人も行ってます!」っていう話はしてましたよ。 門脇 栗田さんとはそれで、いつごろお会いしました? 信子 うーんと、お正月前。 門脇 正月前? あのね、栗田さんにも出る(=記事として掲載する)時には、僕が、出る直前になったら栗田さんに教えますから。こっちのほうから教えますから。 要するに最初に、最初に報じるところがどこかっていうのが、結構大きな問題なんですよ。マスコミの中では。 信子 そうですよね。(乗り気の様子) 門脇 それで、「赤旗」とか、要するに、党派性のあるところで、しかも政党の機関紙で出た場合に、伝播力がね、アレされちゃうわけですよ。 「ああ、これは日共か」っていうことになると、扱いにくくなるわけ。 (『週刊新潮』で最初にやれば他のメディアが)ワイド特集でも何でも、いくらでも後押ししてくれますから。 栗田さんには僕からよく言っときますから。彼らも後から(記事として)出てきますので。最初のパンチがものすごいものでないとダメなんです。  以上の発言に示されるように、門脇は、はじめから騒ぎを大きくすることを計画していたのである。  念のために付け加えておくが、この時点で彼は、信平の言う“事件”なるものの詳しい内容を聞いてもいないし、その真偽の確認もしていない。 「まず中身を確かめてから、記事にできるかどうかを判断する」という取材の常識によるのではなく、はじめから「記事にする」と決めた上で信平夫婦に面談しているのである。  まさに「はじめから結論ありき」である。  その上で信平に対し、「創価学会の役職解任の逆恨みや私怨ではなく、あくまで社会正義のための告発とすることが必要」とまで知恵をつけていく。事実、後に『週刊新潮』は、これを「社会正義の告発手記」に仕立てた。  繰り返すが、これは「取材」ではない。「どうすれば創価学会を攻撃できるか」に的を絞った「仲間うちの談合」である。  「談合」は、このあと、いきなり「どうやって創価学会相手の裁判を起こすか」の打ち合わせに入る。 醇浩 おたくさんにも弁護士さんはいるんだ? 門脇 ええ、いますよ。僕自身が創価学会と今、(裁判を)やってますから。 醇浩 ああ、そうかい。そうすると、結局、すぐ話は通るわけだな。 門脇 そうです、そうです。ただ、例えば、(新潮社が信平の弁護をすることになると)ほら、新潮社の顧問弁護士ってことになっちゃうから、これは避けなくてはいけないですよね。 醇浩 それ、いらない! 佐藤 それは、それで、相談する弁護士いますからね。 醇浩 うんうん。だから、なにも、どうのこうのって言うんじゃなく、要は、私はね、池田を告訴さえしてくれればいいんだ。 門脇 うん。 醇浩 こういう訴訟を起こしてくれれば、後はね、池田はね、裁判していかない。やめますから。  信平醇浩の“訴訟さえ起こしてくれればいい、創価学会側は、絶対に訴えてこないから”という計算が、この話からも分かる。  彼らの狙いは、法廷で真実を争うことではなかった。  創価学会に対する嫌がらせの道具として、法廷を利用する、ということだったのである。 言葉巧みに信平に作り話を切り出させる  録音記録を聞くかぎり、当初、信平信子が語った話は、門脇が聞いても、あやふやな、要領を得ない内容であった。  そこで門脇は、話の内容を確認することを一旦やめる。それで「これでは記事にならない」と取材をやめたのかといえば、そうではない。  誘導尋問のようなかたちで、よりオーバーな作り話を切り出させるよう仕向けていくのである。以下は、その一部分である。 門脇 これ、ものすごい重要なんですけども。その強姦未遂ということになると、かなりすごくないと強姦未遂というのは訴えられませんので……。 醇浩 いや、いいの。「強姦未遂をしたんじゃないか」って言って……それだけの話で。 佐藤 だからこれを今度、実際に、公に裁判にかけるということになると、やはりその内容に……。 醇浩 うん。そうそう、迫力がなけりやダメだっていうんでしょ? 佐藤 いや、迫力っていうよりも、真実が……。 門脇 実際は、真実が、どこまであったのかということが、かなりのものでなければ、法廷というものは動きませんしね。 だから、その辺のところで、単なるセクハラというかですね、親しみを込めたセクハラだったとかで済ませられるような内容だと、何にもならないし、損害賠償も門前払いになっちゃうし、ためにする訴訟であったと、逆にこちらが攻撃を受けてしまいますよ。 門脇 要するに、日本の社会というものは、例えば『週刊新潮』で、酒に酔った上司が、こんなことをした。それで法廷に出されるかといったら、それは一般の常識というものがありますから、「これは親しみを込めた何とかであった」とかね、「酒の上の……だから」(といって告訴にならない)。 かなりすごいものでないと、日本の社会は、アメリカの訴訟社会、イギリスの訴訟社会とは違うわけですよ。 醇浩 うん。 門脇 その点で、法廷も納得させないといけないし、もちろん一般の人も納得させなくちゃいけない。 信平さんのその怒りはもちろん僕、分かっておりますから、最大のパンチでいくために、今、話を聞いてるわけで、その事実関係がどこまで。かなりのものでなければ、これは……。 醇浩 かなりって、ど、ど、どの程度か……。 門脇 「からみついた程度」では、もちろんダメですよ。 門脇 いや、信平さんのお考えと、僕たちの考えは同じなわけですよ。何とかして、「訴訟を成立させたい」と思って聞いてるわけですよ。 それは(創価学会に対する)最大のパンチ力になるから、さっき言ったみたいに、「記者会見」もやる、「法廷闘争」もやる、「雑誌にも出す」。全部やるということは、これはもう、全員の合致した意見ですよね。 「それをやりたい」ということで、お話は始まっているわけなんですけど。 ところが強姦未遂の肝心な事実というものが、単にセクハラで終わるようなものを「強姦未遂」にするとなると、これは要するに宗教戦争の問題をその場に出してきたというふうに世の中から見られて、あまり顧みられないことになるわけですよ。  訴訟することを決めたはいいが、いつまでたっても信平信子からは、具体的な話が出てこない。はじめからウソなのだから、当たり前である。通常の取材であれば、その段階で、「これはモノにならない」と判断を下すところである。  ところが門脇は長時間にわたって、もっと「かなりすごい」話はないのか、と信平夫婦にたたみかけていく。  追い詰められた信平信子は以後、シドロモドロになりながら、従来の作り話に尾ヒレをつけていく。  だが、その作り話の詳細は、あまりにも低劣、荒唐無稽であるため、ここで は、あえて略す。  彼らの目的が悪辣なスキャンダル話を捏造して一個人を誹謗することにあった以上、その内容を繰り返し詳述することは、無意味であるばかりでなく、結果として、その邪悪な意図に加担しかねないからである。 「刑事」でなく「民事」でいこう  とともに、信平の告白なるものが、あまりにもいい加減な話ばかりなので、談合では、司法当局の捜査を伴う刑事告訴ではなく、民事訴訟を起こそうという展開になる。  そのプランを出したのも、以下のくだりで明らかなように、門脇であった。  「訴権の濫用」への道は、まさしく門脇によって開かれたといえるだろう。 醇浩「強姦未遂」でないで、「婦女暴行」はどうだ? 門脇 同じですよ! 「素顔の暴露」(という内容)ね、これは(『週刊新潮』の記事で)やります。 これは約束します。こんなとんでもないヤッだということは、これは書けます。これはやります。 醇浩 それを終わって、あれですか? じゃあ、訴訟になるんですか? 信子 だから、立証するのが難しいって。 門脇 あのね、「精神的苦痛」を被ってるわけですから、「損害賠償請求」できますよ。 佐藤 そうですね。 門脇 うん、民事の訴訟できますよ。民事しかない! 信子 民事でやるしかないですね。 門脇 あのね、「強姦未遂」つてあんまりダンビラを振りかざさないで、民事でいきましょう。民事なら「精神的苦痛」をこれだけ被っているわけですから。刑事はちょっと難しい。最初の段階で。 それでね、後で刑事(訴訟)に転ずることができますから。 それは何かというと、ここで民事(訴訟)を起こして、それで『週刊新潮』も出て、そして、かつ記者会見もやって、テレビにも出ると。 醇浩 テレビにも出る。はいはい。 門脇 そうすると、向こうが、今度は人格攻撃に出てくる。要するに向こうのやり口って、あることないこと、また例によって言ってきますよね。 そうすると、今度は刑事(告訴)に切り替えるわけ、それはなんでやるかっていったら、名誉毀損でやるわけ。 門脇 いやあ、とにかくこれはね、こういうかたち(=民事訴訟)のほうがいい。 最初からダンビラ振りかざしてね。(難しい刑事告訴をする必要はない) 醇浩 いやいや、だからそれは、ね、ダンビラ振り回さない。あなたのほうでもって……。(無理だと言ったわけだから) 門脇「損害賠償」でやりましょう、「損害賠償」で! 信子 損害賠償でやればいいじゃない。 醇浩 いや、そういうふうにしてちょうだい。  「訴権の濫用」でも何でもかまわない。記者会見を開き、テレビや雑誌で書き立てると創価学会は必ず反論に出るだろう。そうしたら、それを「人格攻撃」として刑事告訴すればいい。  あらかじめ反論を予想して仕掛けを練っていたわけである。  裁判の判決文で『週刊新潮』側は「事実的根拠が極めて乏しい事柄について、しかも、スキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはない」と断じられたが、この一文は、まさに彼らの邪悪な意図を明確に見抜いたものといえよう。  こうして訴訟の進め方は決まった。次は、「どう騒ぐか」である。 門脇 それでも、記者会見は、やる戦略でいったほうがいい。 醇浩 記者会見? どういうふうにするの? 門脇 これね、メディアがセットすると、また『週刊新潮』が糸を引いてるってことになるから、あの……。 佐藤 うん。 佐貫 「被害者の会」で! 醇浩 ああそう、なるほど。 門脇 記事は、「ガーン!」てやりますから。ただ、(新潮は)記者会見仕切ったりはしませんので、『週刊文春』なんか、よく記者会見仕切ったりして、問題になるんです。 醇浩 うん、知ってる知ってる。 門脇 これはね、マスコミはそういうことしちゃいけないから、だから、そっちでセッティングして。  「記者会見を行い、大騒ぎしよう。しかし『週刊新潮』が会見をセットすると裏で糸を引いていると見られるので他の者にやらせる」。門脇は、ここまで裏工作をしていたことが分かる。  この筋書き通り、平成八年(九六年)二月二十三日、東京・新宿ワシントンホテルで信平信子が記者会見をした。  この会場を手配したのは、この記録に出てくる妙観講員・佐貫修一の関係者であった。  ちなみに司会は、先にも紹介した売文ライターで、信平と因縁浅からぬ乙骨正生。呆れてモノが言えないとは、このことであろう。  また、同年二月十六日発売号の宗門機関紙「慧妙」には「緊急予告 ついに発覚!! 乞う御期待」と『週刊新潮』の信平手記(二月二十二日号)の予告が載っている。  「慧妙」を実質的に編集しているのは、日蓮正宗の妙観講であるといわれている。  何のことはない。妙観講副講頭の佐藤せい子と支区幹事の佐貫修一が最初から関わり、『週刊新潮』とグルになっていたのである。  判決でも、これほど短期間に信平手記が新潮に掲載された背景について「マスコミとの接触、取材などについて首尾よく段取りが整ったというのは、論理的可能性としてあり得ないこととは言えないが、経験則上、明らかに不自然」と鋭く指摘。  つまり、信平手記が、ずいぶん手回しよく『週刊新潮』の記事になったのは不自然だというのである。  それもそのはず、もともと学会攻撃の作戦を立て、一切の段取りをしていたのは、信平ではなく、『週刑新潮』だったのである。  その舞台裏が今までのやりとりで、よく分かる。 弁護士すら「これでは話にならない」  北海道・函館での談合の直後、信平信子が上京。  そこで新潮社側のM弁護士から、そもそも本当に訴訟が起こせる内容なのかどうか確認を受けることになる。  結果は、おそらく門脇らが予想していた通りのものであったろう。  ちなみに、ここでは省略するが、原資料では、この弁護士との面談の前に、すでに『週刊新潮』で信平の捏造手記を六ページを使って掲載することが決まっていた旨が明かされている。ここで門脇は言う。「それもメイン記事で。『大々的にいきますから』って言ったら、『それはすごいな』となって。それで記者会見はしてー。そうすっと次は、ほかのメディアがドンドンドンドン来ますから、大きくなると思いますよ」と。  弁護士が内容の真実性を確認する前に、すでに「メイン記事で六ページを使ってやる」という結論が出されていたのである。まさに本末転倒。これが『週刊新潮』の手法なのである。 ●二月六日(火)、M弁護士に会う信平信子。  門脇が付き添う。 M 弁護士のMです。はじめまして、どうも。 門脇 お忙しいところ、恐縮でございます。 信平 はじめまして、信平と申します。 M 僕、渡してなかったっけ?(門脇に)名刺、昨日、渡したよね? 門脇 昨日、いただきました。あの、札幌の信平さんでございます。 M それじゃ、ちょっと、やりましょう。えーと、お名前、何ていったかしら。信子 信平……、私は信平信子と申します。 M どういう字を書きましょうか。 信子 しんぺい、のぶたいら……。 門脇 信ずる平ら、信ずる子ども。 信子 のぶこです。 M 生年月日はいつでいらっしゃいますか。 信子 昭和二年五月二十九日です。 M 二十九日生まれ。昨日、ちょっとですね、門脇さんのほうからお話をいろいろ。信平さんのほうから、伺った話を聞いて、で、私のほうでちょっとメモさせていただいたんですが、弁護士としてですね、詳しい、ちょっと話を伺うということ、訴訟を起こす、あるいは起こせるかどうかという、そういう問題でですね、そういう判断のもとに、話を伺っていくわけなんですが、そういうわけで、ご主人には今日、遠慮願ったということなんですが、門脇さんがいるところで、かなり、私のほうは細かい、非常に、その、込み入った話までお伺いするけれども、それでよろしいですか? 信子 はい。 M ご一緒でよろしいですか。 信子 いいです。 「証拠」はあるのか? 第一回目の「事件」なるものについて。 M あのね、理由はいらないんで、そういう(事件の)事実があるかどうかってことなんだけど。「どうしたの、そんな頭打ってけがしちゃったの?」とかね、「なんで、洋服がそんな破けてるの?」とか、いうようなこと(周囲の人に)言われたことはないですか? 信子 洋服はもう、あのーそのー、そこの部屋に入ったときに……。 M いやいや、だから理由じゃなくて、そういうこと、言われたことないですか? 信子 ないです。 M 洋服はどうしました? いつ、どういうふうにしたんですか? 信子 もう、あのー、全部、自分の、あのー、だいたい大沼(=研修所の所在地)へ行くときは、五、六着か、七着くらい持っていきます、洋服。毎日、着替えるから。そいで、全部こう、丸めちゃって、ナイロンの袋みたいなものに入れちゃって、そいでこう、毎日、ゴミの車が来るんです。 M (イライラした様子で)要するに、ゴミに出しちゃったの? 信子 ゴミに出した。 M 要するに、破かれたもの、そういうものは、ひとかけらもなく残ってないということですか?・ 信子 残ってないです。 第二回目の「事件」なるものについて。 M 分かりました。それじゃね、時間も(限りが)あるんでね、ちょっと伺うけど、こういうことがあって、破れた洋服や何かっていうのは、どうされたんです? 信子 だから、ここ(=プレハブ喫茶・ロワールの中)で着替えました。 M 着替えて? 着替え、持ってたんですか? 信子 ちゃんと持ってきます。この、掃除するときと、着替えの、あのー……。M じゃあ、着替えて、で、どうしたんですか? 信子 それを、丸めて、そして、ここにゴミ、いつでも取りにきますから、ゴミのあれに、破いちゃって……。 M そんなとこにゴミ入れたらば、そんなものがあったらば、もしも、そのゴミが発見されたらば、えらいことになると思いませんでしたか? 信子 いや、それは、発見されないと思ってました。えー、あのー、もー、そういうものは、誰も広げてみる人は。だいたい、生のものとか、魚の骨とか、それから野菜のものとかって、あのー、朝に入れたものを、昼に、腐っちゃいますから。 M だから、要するに、ゴミで捨てちゃったんですね! 信子 えー。捨てちゃったんです。 「証人」はいるのか? M で、襲われたことも、これも誰にも話さなかったんですか? 信子 話さなかったです。ただ……。 M 気がついている人、いないんですか? 信子 ただ、あの、「ここに傷ついてるね」とかって言った人はいました。 M 誰に言いました? 信子 いや、婦人部の……。 M だから、今、覚えてますか。誰に言ったか。 信子 いや、言ったんじゃなくて、来た婦人部が……。 M いや、だから、来た…(婦人部で)気がついた人は誰ですか? 信子 そうだねえ、あのころは、誰が来たんだろうねえ。(とぼけ始める) M ね、「信平さん、あなた、おでこ傷ついてる」とかね、「ひざがひどいね」とか言った人はいますか? 信子 今は、もう年とってるから、どうしたか。私よりも、やっぱり年配の人だから。 M 誰だか分かりますか? 信子 んー、分かるけど、今、病院に入院してるんでないかしら。亡くなったのか、このごろ、あの全然、消息がないから。そういう人が、ま、一番、先に来る人で、全然、創価学会とは、あえて、どこに行ったか分からない。(次第にシドロモドロになる) M 分からない?(念を押す)  当然のことながら、いい加減な話であることは一目瞭然である。  信平は証拠となるべき洋服は全部、ゴミ袋に入れて捨てたという。  証人についても「もう亡くなったんじゃないかな」ととぼける。  本当なら懸命になって消息を求め、捜そうとするはずである。 解任は借金問題ではなく、学会に意見したからとウソ M どうして、そういう話をする気になったんですか? 信子 私、池田大作に手紙書きましたから。もう、あなたには、あなたにはこうこうこうこうされましたと。あなたにはついていけませんということを。平成三年に、私は手紙を書いたんです。 門脇 よ、四年じゃないですか? 信子 (慌てて)平成四年に! 門脇 ね。 M その手紙は、そのまま取ってあるんですか? 信子 いや、それはもう人に見せられるものじゃないから。破いて……。 M じゃあ、「そういう手紙が来ました」と、「(手紙が)池田のとこに行きました」ということを証明できます? 信子 いやいや、あの書留速達でやったんです。 M じゃ、その書留のあれ(=控え)は残ってますか? 信子 いや、それもー、もう、張ってあったんですけどもー。あのー、なんで、その書留速達なんかってまあ。原稿用紙に書いてー、こういう袋に入れてー。(次第に話をはぐらかす) M (イライラした調子で)分かりました! 信子 えー。 M 例えばね、内容証明でやったということでもないわけでしょ! 信子 ないんです。えー。 M それから書留でやったんだけども、その書留の配達がいつされたかとか、そういうことも分からないわけですね。 信子 えー、戻ってきませんから着いた(と思う)。 結論として訴訟は無理 M 何かやっぱりないとダメだ。少なくとも裁判ではダメだ。全部、こう聞いてきたけど。全部聞いて、まったくそういうあれ(=先入観)なしに、ぼくは聞いてきたけど……。 M だから、ちょっとね、今日、今から帰って、そういう見方でね。 信子 はい。 M いろいろ思い出してごらんなさい。 信子 はい。 M 要するに、プラスアルファが何か欲しい。それをよーく、もう一回ね、今日ずーっと話したことで、自分の記憶もよけい鮮明になってきてると思うので。 信子 えー。 M 昭和四十八年のころの、あのときの状況から、こうやって(忘れていたことが)浮かんで「あっ、あの人!」っていうか、「あっ、あの物!」っていうか。(証人や証拠品を思い出してほしいと) 信子 えー。 M そういうことも、一回ちょっと、ここの場じゃなくて考えてごらんになったらどうですか? 信子 はい。 M ねっ。 信子 ええ。 M それが出てこないで、訴えをもし起こしたとすれば、もっと悔しい思いしますよ。 向こうの言いなりになって「大ウソつきの、何とかだ」と、いうふうに言われて、それが自分で結局、弁明できなかったときは、もっと辛い思いしますよ。 だから、とにかく、まず、もう一回、真っ白の……白紙の状態に戻して。記憶を、四十八年の時から。 「今日の弁護士は、私(=信平)が言うことは信じられる(と言う)、だから、遂に私(=信平)の言ってることを支える、私(=信平)が言ってることが真実であるといわれる何かを探してるから、そういうものを一つでも二つでも思い出そう」という考えで、ちょっとやってごらんになったらどうです。 少なくとも今日伺ってるなかで「訴えを起こせ!」と言われても、これは難しい。「私の言うことを信じてください」だけではね、やっぱり訴えはまずい。何かあれば別ですよ。 信子 ええ。 M 恥ずかしい話、私の経験から、そういう、どっちが言うことが、こう、信じられるか。それはもちろん女性の言うことだと思うけれども、裁判で「こっちがやった」と。そういうようなことを言うには、そういう証拠があって「バチッ!」と言ったんだということまでお話できたらと思うんで。 そこまではないにしても、何かあなたの言うことのほうが信じられるというものを、支えるものを探してください。  この章の冒頭で述べたように、信平の作り話は、面談した弁護士ですら、「話にならない」と結論づけざるを得ないものだったのである。  それもそのはずである。  もともと事実無根の捏造話である以上、当然のことながら、“事件”なるものを裏づける証拠もなければ証人もいるはずがない。  到底、訴訟を維持できる内容などではなかったのである。  だが信平側は、この後、別の弁護士を立てることで、民事訴訟の提起を強行する。  ここでは紙数の関係上、割愛するが、その弁護士も記者・門脇護の紹介であったことが、この資料にハッキリ記録されている。  そこまで訴訟にこだわった理由は、ただ一つ。  はじめから「裁判を起こして騒ぐ」ことが狙いだったからである。  以上、読者には、一切の裏事情がお分かりいただけたかと思う。  最初から、まったく事実無根だった信平信子の作り話を、「その程度では裁判を起こせない」と迫って、よりオーバーなそれに仕立て上げさせたのは、誰だったのか。  事実関係も確認しないまま、まず「訴訟を起こすこと」を既定の路線とし、それも厄介な刑事告訴ではなく、訴えを起こせば、ともかく裁判にはなる、民事でいこうと知恵をつけたのは、誰だったのか。  デッチ上げの記事を出すと同時に、記者会見を開いて、「正義の告発」を装うかたちで騒ぎを起こせとけしかけ、段取りを進めていったのは、誰だったのか。  そして、検事出身の弁護士が、当事者の話を聞いていてイライラしたほどのデタラメ話を、それと知った上で別の弁護士を紹介して訴訟を強行させたのは、誰だったのか。  一連の狂言騒動は、すでに詳しく述べたように、政界、宗教界等、利害の一致する諸勢力の連携によって、まともな市民社会の常識では、到底考えられないほど、大きな騒動となった。  しかしながら、その火元をたどってみれば、何のことはない。一夫婦の、取るに足らない、かつバカバカしい作り話であった。  どう転んでも、社会の耳目をそばだたせるような騒動には発展しようのない、くだらないウソであった。  その取るに足らない低劣なウソに、はじめから特別な意図をもって色をつけ、道筋をつけ、かかる騒動にまで仕立て上げたのは、誰でもない。『週刊新潮』の記者だったのである。  事実経過に照らして考えるならば、『週刊新潮』こそ、今回の騒動を引き起こした張本人である。  けだし、恐ろしいマスコミがあったものである。  とともに、筆者は思う。  『週刊新潮』が捏造した“事件”は、果たして、この狂言騒動だけだったのか――と。  同誌は、戦後、数々の人権侵害報道によって、日本で最も名誉毀損訴訟を起こされ、敗訴してきたことで知られる。  その報道の少なからぬ件数もまた、同様の手口で捏造されてきたものではなかったか……。  いずれにしても今回の騒動における『週刊新潮』と、その中心的役割を果たした記者・門脇の責任は限りなく重い。  かりに『週刊新潮』の見出し流に言うならば、こうなろう。「こんな男が、何の法的、社会的責任も問われない日本の社会とは何なのか」  新聞、雑誌の記事には、取材不足や判断ミスなど結果的に虚報になった例も少なくない。しかし意図的な捏造は、メディアにとっては自己破壊的行為である。  そのような愚かな行動を、なぜ同誌は実行したのだろうか。  その一つは同誌の基本的な編集方針にあるものとみられる。  同誌の生みの親といわれる故・斉藤十一相談役は、生前、「どのような編集方針か」というインタビューに対して、「読者が関心、興味を持つものはなにか。それは女とカネと事件だ。『週刊新潮』は人間の俗物性に応え、この三つを基本にする。文芸には正義も真実もない」と揚言してはばからなかった。まさに“語るに落ちた”といえるだろう。  報道でも情報でもジャーナリズムでもない。同誌は文芸だというのである。なるほど文芸という作り話なら、社会正義も倫理も品格もいらない。事実かどうかの取材も検証もいらない。  ただ大衆の俗物性に応えるという売らんかな主義の路線を歩めばいいだろう。  しかし読者は、まさか同誌を文芸誌とは思っておるまい。その虚と実の大きな落差の“影の部分”に逃げ込み、人権軽視の記事を作り続けたのである。  その反人権誌『週刊新潮』が創刊四十五年を迎えたとし、平成十三年(二〇〇一年)三月八日付の記念特大号では「四十五年を飾った画期的な記事」なるものをピックアップ。その前文に誇らしげにこう書いた。  「画期的な視点と取材で社会にインパクトを与えた……」  臆面もなく、よく言えたものである。本来なら、  「画期的な人権侵害と歪曲、捏造、虚報によって、社会に多大な害毒を流した……」とすべきではないか。  そして採録された“画期的な記事”も関係者から抗議を受け、名誉毀損とされたものがズラリと並ぶ。  これらの犯罪的記事によって、どれだけ多くの人たちが人権を侵され、侮辱され、怒り、苦しみ、悔し涙を流したか、その重みを同誌は一度でも考えたことがあるのだろうか。  もう一点、誰のため、何のために書くかという問題意識である。  門脇は誰のために、こんな捏造をしたのか。  それは松田編集長(当時)との私怨の合体といえるだろう。松田は山崎と極めて近い存在で根っからの創価学会嫌いである。度重なる訴訟に敗訴し、編集長としての面目は失われ続けた。創価学会に対する恨みは骨髄に達している。  一方の門脇も、北海道の「白山氏に対する人権侵害報道」で、名誉毀損の訴訟を起こされ、敗北するのは目に見えていた。何とか学会に意趣返しをしたい。  こうして二つの私怨は相乗されたのである。  門脇にとって信平信子の話は期待から大きく外れた。話はウソで、これでは記事にならないと直感したにちがいない。  しかし盲目的な怒りの感情に支配された彼は、もはや迷走するしかなかったのだろう。  新聞であれ雑誌であれ、記者が理性を失って、ただ感情に走った場合、大きなミスを引き起こす。  これは、その典型であった。  彼は一時的には編集室のヒーローになったろう。しかし今や類まれな“捏造記者”として汚名を末長く残すことになる。  まさに『週刊新潮』の特質、特性の極致が、この「信平狂言訴訟」であった。だが、すべてが露見し、これで“一件落着”と考えるべきではないだろう。  人間の退廃性の集積ともいうべき、こうした人権無視は、ここに登場したような人物や週刊誌が存在する限り、いつまた発生するかもしれない。  今回のような根っからのデッチ上げは、もはや論外で批評にも値しないが、週刊誌はじめ様々なメディアは今、多くの課題を抱えている。  作家・辺見庸氏は著書『不安の世紀から』(角川文庫)でのマスメディア批判でフランスの作家レジス・ドウプレの言葉を引用し「イメージが論理を駆逐している」と指摘する。  「信平狂言事件」記事を見ても、そこには何ら論理はない。正しい視点もない。ロジックの正当性は皆無である。あるのは“創価学会憎し”のイメージだけだ。しかも、あまりにも低次元、無責任な“錯乱”に包み込まれていたのである。  さらにドウプレは「状況のヒステリー化、短絡化」、そして「大衆迎合主義」を挙げている。  『週刊新潮』は自らデッチ上げた虚構の芝居の幕をもはや下ろすこともできず、ますます「ヒステリー化」し、三十五回に及ぶ狂気を演じなくてはならなかった。  通常の記者、編集者なら、どんなに甘いエサをちらつかされても、頭のどこかで「これはおかしい」という制御の警報が鳴るものだ。  それが「信平狂言記事」の場合、警報が鳴るどころか、はじめから警報器を放棄し、短絡的に反創価学会の道を突っ走ったのである。  このような週刊誌の虚構性、構造的な退廃、卑劣なトリックなどの無軌道ぶりには、かねてから批判が集まってきた。  しかし、いつまでたっても改善されないのは衆目の一致するところだ。つまり一部の週刊誌は“自浄作用”など持ち合わせていないのである。  追っても追っても飛び交う不潔なハエさながら、再発を根治することなど不可能と見るしかない。  では放置するだけなのか。いや日本が法治国家であるからには、司法の手に委ねるしか対応策はあるまい。例えば、審理のスピード化と罰則強化が望まれる。日本は長い間、“名誉の価値”は安く抑えられてきた。それは人格権の軽視、また報道の真実性や公益性にのみ重点を置き、人権擁護が争点にならなかったことなどが理由だった。  しかし現在、司法界からも賠償金アップの声が上がっている。  人権に対する社会通念の高いアメリカでは、真否の確認もなく、ウソと知りつつ記事を掲載した場合は、「懲罰的損害賠償」として数十億円もの賠償金が科せられることも珍しくない。日本でも賠償金の一桁、二桁もの大幅アップがインチキ記事再発防止の最大の対策となるにちがいない。 第二章 偏見 「被告に訴訟上又は訴訟外における有形、無形の不利益を与える目的で本件訴えを提起したものであると推認されてもやむを得ない」 完膚なきまでに破綻した「デマ報道」  「信平狂言事件」が、偶発的なデマ騒動でないことは、前章で述べた。すなわち、平成六年(一九九四年)の「白山信之氏に対する人権侵害報道」、平成七年(九五年)の「東京・東村山市議の転落死をめぐるデマ報道」、そして平成八年(九六年)の「信平狂言事件」は、その「手法」「背後の登場人物」「思惑」という点で、まったく同じ根をもつ一連一体の「冤罪報道事件」だったのである。  しかし結局、この三大デマ事件は、ここ数年の間に、すべて法廷で決着がついている。  「白山氏に対する人権侵害報道」の被害者である白山氏が平成六年(九四年)十月、『週刊新潮』に対し損害賠償を求める訴訟を提訴。  一審の札幌地裁(平成八年十二月)、二審の札幌高裁(平成九年九月)ともに新潮側全面敗訴の判決を下し、平成十年(九八年)三月、最高裁が新潮側の上告を棄却した。  「東京・東村山市議の転落死をめぐるデマ報道」では、創価学会側が平成七年(九五年)十一月に『週刑新潮』を相手に提訴した裁判で、一審で新潮側が全面敗訴。新潮側が控訴を断念したため平成十三年(二〇〇一年)六月初めに判決が確定し、賠償金二百万円を支払っている。また『週刊現代』を相手取った裁判でも、一審、二審ともに現代側に損害賠償と謝罪広告を命じる判決が出ているほか、すべての裁判で創価学会側が全面勝訴している。  そして「信平狂言事件」も最高裁の最終判断が下り、信平側全面敗訴で決着した。  創価学会をめぐる近年の悪質なデマ事件は、司法の手によっても、「事実無根である」と永久に歴史に刻印されたのである。 市民社会の趨勢は「人権侵害」の根絶  注目したいのは、これら三つの事件の判決文では、いずれにおいても悪質な「デマ報道」「人権侵害報道」を繰り返す一部マスコミに対し、厳しく断罪していることである。  「取材は予め決められた創価学会批判の方向に沿ってされたのではないかとの疑問は払拭できない」(白山事件の判決文より)  「当事者の一方のみに偏った情報を流すだけの報道は、民主主義社会において尊重されるべき紛争報道の名に値しない」(東村山事件の判決文より)  「本件のような事実的根拠が極めて乏しい事柄について、しかもスキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはないというべきである」(信平狂言訴訟の判決文より)  それぞれの事件の本質を法廷で見抜いた裁判官たちが、異例ともいえる厳しい口調で、デマ報道に関わった一部マスコミの姿勢を一刀両断にしているのである。  昨今、一般市民までがマスコミによる深刻な人権侵害にさらされるケースが増えている。巨大化した「マスコミ企業」の暴走行為は、もはや社会問題化しているといってよい。  こうした「報道被害」を救済するために、政府や司法機関、弁護士などが、より強固な人権擁護制度の確立を検討している。また、諸外国に比べて低すぎるといわれる名誉毀損の賠償額の見直し、罰則の強化も具体的に俎上に載せられている。  特に最近では、「デマ報道」に対する裁判所の姿勢も厳しく、高額な賠償額を認定する判決が相次いでいる。  かつて日本は、名誉毀損に対する賠償額が安く、「何を書いても百万円」というのがマスコミ界の通り文句であった。商業主義に狂った一部の「マスコミ企業」は、そこにつけこみ、「慰謝料も必要経費のうち」等と嘯き、スキャンダラスなデマ報道を繰り返してはばからなかった。  しかし、もはやそんな甘い考えが通用する時代ではない。  そもそも「言論の自由」「報道の自由」は、ヨーロッパの近代市民革命以来、民衆が血で購い、獲得してきた最も重要な人権である。現代社会にあっても、「真実を伝える」ことを前提に、市民からマスコミに付与された「特権」といえよう。平然と「デマ」「ウソ」を撒き散らし、市民の人権を踏みにじるような「悪質マスコミ」には、「言論の自由」を語る資格など断じてない。  裁判の判決は、市民社会の「常識」を基盤としている。「信平狂言事件」をはじめ、デマ報道事件をめぐって『週刊新潮』ら悪質マスコミに厳しい判決が相次いでいるが、これも次第に高まりつつある市民の人権意識の表れであるといえよう。 「誹謗中傷」は創価学会への嫉妬  では、なぜ創価学会が、一部マスコミや権力から不当な弾圧を受けるのか――その深層を考察しておきたい。  かつて文芸評論家の岡庭昇氏は、こう論じている。  「わたしが生まれ、育ち、いま住む地域は、関西では甲子園、東京では馬込である。戦後の匂いをいささかでも知る世代の一人として、創価学会が精力的に組織を広げる過程を、東西の二大拠点である大森、尼崎の傍らにあって、それなりに見届けてきた。その宗教的な情熱は、まさに零細中小企業、商店に生きる人々によって支えられたものであることを、わたしは知っている。  夫婦二人以外に、誰もあてに出来ないちっぼけな店。五人ばかりの労働者が、夜も昼も交代で働く町工場。病気で倒れればそれまで、誰も助けてはくれない。何の保障もない。行政や組織のバックアップを、もっとも切実に必要とするこれらの人々を、冷酷に切り捨ててきたのが、戦後日本の“労使”双方であった。  創価学会は、未組織大衆のこの切実な窮状に立脚し、その情念を汲み上げてきた民衆運動であると、わたしは理解している。つまり学会の歴史にこそ、在家ならではの運動があり、まさに在家という文字が輝いているのではないか。  反創価学会キャンペーンが定期的に打ち出されてくる背景は、日本の一党独裁体制を理解しなくては読み取れない。これはたんに、自民党の長期政権という意味ではない。総評に代表される労働運動は、下請け町工場の労働者を“組合員資格なし”として切り捨ててきた。言い換えるなら、自民党=大企業、社・共・総評=大企業労働者というブロックが形成され、それらは“対立”というセレモニーを通じて、じつはひとつの場を分かち持った。いや、排除的に独占したというべきか。一党独裁とは、このような場の固定化のことである。  当然、一方的に切り捨てられてきた側か、正当な自己主張を獲得することを、もっとも恐れる。だからこそ学会を定期的に非難・攻撃し、デマをばらまき、内部分裂まで仕掛けて、社会的な影響力を封じ込めようとするのだ」――  極めて正鵠を射た論評だと思う。  また、私の知る多くの識者が、今や創価学会が、「一宗教団体」という枠を大きく超え、日本という狭い国土に縛られず、世界に向かって発展していることに大きく注目している。学会の活動の領域は、開かれた宗教性を軸に、平和、文化、政治、経済など多方面にわたっている。その深さ、広がりという点で、他の民間団体を圧倒するスケールで展開しているというのである。  それゆえ創価学会は、既成の社会構造にしがみつく者たちの目にとって、以前にも増して、「意のままにならない存在」に映らざるを得ない。  創価学会は創立以来、“大衆とともに、庶民とともに”という基本理念を掲げてきた。それは同時に、既成権力による「支配の論理」に迎合しないことを意味する。  日本政治史上初めての「大衆政党」として公明党が誕生したのも、その一つの象徴である。  創価学会という「大衆の中から生まれた団体」は、「支配の論理」で形成されている既成社会に対するアンチテーゼとして発展してきたともいえる。  それは、旧来の支配構造にとっては、“自らの主張をもち、沈黙していない大衆”の出現であり、なんとも目障りな存在、排除すべき人々と映ったにちがいない。  こうして既成の権力構造から抜け出せない勢力のなかに、嫉妬ややっかみ、違和感に基づく「偏見」が醸成されていくのである。  その最たる例が、『週刊新潮』である。同誌は既成権力に盲従する“タカ派雑誌”として知られるとともに、“反人権の権化”でもある。  市民運動や人権活動に冷笑を浴びせ、「この国では、誰も彼もが人権を持ち出し、国全体がまるで“人権地獄”と化している」(平成元年十月十二日号)、「“人権屋”というのは一種の利権団体」(平成二年一月二十五日号)等、罵詈雑言の限りを尽くす。  こういう歪んだ視点から見ると、人権運動、平和運動を広範に広げる創価学会は、まさしく「邪魔者」と映るのであろう。 新しい「価値」をもたらした創価学会  『偏見と差別はどのように作られるか』(ジョン・ラッセル著、明石書店)という本がある。岐阜大学で教鞭をとるラッセル氏が、自らの経験を踏まえて書いたものだ。  その「プロローグ」に、こう書かれている。  少々長いが引用したい。  「偏見、差別という“神話”は、われわれの理性ではなく、感情、先入観、偏見や差別意識にアピールしているからこそ、その幻想の世界から抜け出すことが非常に困難なのである。  これを支えているのは、知識人、文化人、政治家、報道人、企業家などであり、社会的に大きな責任を持っている彼らこそが幻想の要塞の『建築家』といってもよい。  それらの神話は、マスメディアと大衆文化に反映されているだけでなく、両者は神話の助長に重大な役割を果たしている。  他者をデーモナイズ(悪魔化)し、恐怖や嘲笑の対象にさらすことは他人を理解するより楽であるし、経済的、政治的に利益も大きい。異なっていると思われている人びとを同じ人間として見るのでは市場で売れない。  売れるのは、曲解され、デフォルメされている煽情的な他人像なのである。マスメディアと大衆文化が提供する他人像は、怪物であり、脅威であり、道化であるが、けっして自分と同じ理性、感情を有する人間でないのが、情報世界の常識である」  歴史的に迫害を受け続けてきた黒人、ユダヤ人などについての論及だが、この論調はそっくりそのまま創価学会を取り巻く体制、組織、支配構造についてもいえることではないか。  創価学会は市民社会に根を張り、成長を遂げてきた。ラッセル氏の批判する知識人、政治家、報道人といった既成の権力構造にがんじがらめにされている人々にとっては、その存在と拡大は、目の上のタンコブともいうべきものなのだろう。  同書にもあるように、彼らは、既成勢力を脅かす「新しい価値観」を到底、受け入れることはできない。ゆえに、「創価学会の本質は何か」「なぜ、こうも発展するのか」を考察し、理解するのではなく、ことさらに創価学会を脅威であるとし、“彼らは別なんだ、だから何を書いても……”という「無知の錯乱」に陥っているといえるだろう。  反創価学会勢力の意識・意図を理解するには、どうしても、この偏見の根底を踏まえておく必要がある。  そして、日本が二十一世紀をリードして、真の「人権社会」「人道国家」を打ちたてることができるかどうか――すべては、政界、マスコミ界だけでなく、我々一人ひとりが「意識改革」によって、古い幻想から、いかに脱却するかにかかっていると思えてならない。 第三章 対談 「週刊誌ジャーナリズムはどこまで狂うのか」  ここまで事実をもとに構成してきたが、最後にもう一つ客観的な視点を取り入れるという意味で、私は対談を試みた。長年、戦時下ジャーナリズムの研究をされ、軽佻浮薄な現代のマスコミに鋭い目を向けておられる評論家の高崎隆治氏に、『週刊新潮』の一連の記事について、どうお考えになるか、ぜひ、伺ってみたかったのだ。  以下は、『週刊新潮』の信平記事を前にしての、氏(写真・右)との対話である。 最初から、いかがわしかった手記 山本 今回は『週刊新潮』のやってきたことについて、お話を伺いたいと思っています。こうやって記事を並べると随分あるでしょう。全部で三十五回ですよ。しかも、ある号では記事とグラビアの二本立てです。 高崎 悪質ですね。本当に。 山本 ええ。それと、合併号というのがかなりありまして、つまり、それだけ長く店頭に並ぶ号には無理をしてでも記事にして入れてるわけです。お話ししましたように、悪質な『週刊新潮』記者と、記事になることの意味さえ分かっていない信平夫婦が結託して誌面を私するという前例のない出来事なのです。 高崎 記事が出た最初の一回目、二回目までは人に教えられて、「どう思うか」って聞かれまして、本屋で買って読んでみたんです。正直、そのときは妙な感じがしました。なぜ、このようなものが載るのかと。信平信子の手記だということで、もちろんリライトされているのだろうけど、それにしても、この文章は物凄くいかがわしい。これを編集者が気づかないというのは、よほど新潮社の編集者というのは愚かなのかと。基礎的なことというか、文章作法の初歩も知らないのかなと思ったのです。二回目のを読んだときに、これは一〇〇%ウソであると確信しました。で、当然これが分からないほど編集者は愚かではないだろうから、これには裏があるなと思ったんです。 山本 週刊誌を読む側の心理としては、不審を抱きながらも「ひょっとしたら」みたいな、どこかに信憑性があるように感じてしまいます。また、そう感じさせるように作られている。それが狙いなのでしょうから。 高崎 ええ、「随分いかがわしい文章だけど、ちょっと待てよ」と思うんですね。私は、週刊誌の中では、この問題以前は『週刊文春』が最も悪質だと思っていました。で、その次は講談社かなと。『週刊新潮』は悪いといっても三番目か四番目かそのくらいで、まだ良心があるだろうと思っていたというか信じていたんですよ。だから、信平記事の顛末を知って、乱暴な言い方ですが「編集者、編集長含めて愚かなヤツだ」と思うようになっちゃったんです。あれが『週刊文春』の記事だったら、はじめから疑って見ましたが。と、いいますのは私は二十代から四十代の半ばまで高校の教員をやっていまして、そのころ週刊誌がブームになりました。 当時、職員室の机の上に置いていても、校長がちょっと見ても何も言わなかったのが、『週刊新潮』だけなんです。あれだけは何も言わなかった。というのは、あのころの『週刊新潮』はヌードを載せていなかったんです。ほかの雑誌は、ほとんど載せてあって「うーん、困ったもんだね」と言われていましたが、『週刊新潮』はなかったんですよ。そんなことも、私の頭に残っていたので、『週刊文春』が一番ワルで、次は講談社の『週刊現代』で、『週刊新潮』はそこまで悪くないだろうという先入観があったのですね。それさえなければ、最初からデマだと気がついたでしょうね。 山本 まあ、デッチ上げ記事というのは昔からありました。「朝日新聞」の共産党・伊藤律架空会見記事。それから同紙カメラマンのサンゴ傷つけ事件など。そういうケースでは編集局長以下、責任を取るわけです。でも、この信平記事の場合には『週刊新潮』は平然としています。罪だという意識がないんですね。 高崎 そうですね。私は二十年ほど前に、講談社に五年ほどいたことがあるのです。ただ、部署は週刊誌ではなく昭和万葉集編纂部という全二十一巻の全集ものを手がけていたのですが、他の部署の者と顔もあわせるし、話もしますから様子は分かるんです。『週刊現代』は、そのころ、編集長が「これは裏が取れているのか」と全部チェックしていました。ところが、今回、山本さんの原稿を読ませていただくと、この『週刊新潮』はどうやら編集長がチェック機能をもっていないばかりか、編集長自ら確信犯的な動きをしている。これだと、どうしようもないですね。 山本 こういう記事を作る場合、普通は記者が取材に行って取ってきたネタをデスクや編集長が見て、アンカーというライターに書かせるというシステムがあって、それが時々、イカサマ記事を作るようなベースになることもあるのですが、これなんか、もともとゼロのところで状況をつくってますからね。そこが唖然としてしまいますね。 高崎 ええ。講談社の場合ですとアンカーは、昔、芥川賞、直木賞を取った作家で、今はもう作品を書いてないという人たちがやっていました。ですから良心的なところがあったんですね。ただ、やっぱり『週刊現代』も、随分くだらないことをやりましたんで、私は部署が違うから言いたい放題のことを言っていました。 それを言えたのは、会社の幹部で当時の服部副社長という人が、私の中学時代の剣道部の大先輩だったので、「文句があるなら副社長に言ってくれ」と開き直ったものですから。だから言いたいことを言えたんですね。 山本 今、高崎さんがお話しされた編集長の記事チェックですけど、必ずされていたのですか。 高崎 はい、講談社の場合、月刊誌も週刊誌も編集長が最終的に確かめます。その前に編集次長もいますから、何段階ものチェックがあります。裏が取れているのか、事実に即したものなのかと。万一、裏の取れていない記事が出たときなど、担当の記者も、もちろん怒られますが、編集長が常務に呼びつけられて責任を問われます。それでも、いかがわしい原稿が出ることがあるんです。それくらいやっても完璧ではないわけです。というのは薄っぺらな編集者や記者が売れればいいんだ、当てればいいという自分の功名心に走るからです。 山本 なるほど。それにしても記者にそういうことがあったとしても、上の方が冷静にそれを吟味し、チェックすることになっていたから、比較的正常に動いていたということですね。 高崎 ええ、そうなんです。これは当時の『週刊現代』『月刊現代』の記事作りでした。今は知りませんが。 山本 やはりそうですか。私はずっと社会部(読売新聞)にいたのですが、社会部には怖いデスクと呼ばれる次長がいるんです。非常に厳しくチェックされました。印刷に回す前に取材した当事者の確認だけでなく、必ず傍証を取れと言われました。入社した時から、そのことは徹底して教え込まれましたね。困るのは、時間がないのに、確認を取りに行った先が留守だったりした場合です。でも取れるまで戻ってくるなと言われまして途方に暮れたものです。一方だけを取材しての「片聞き原稿」は絶対にだめだ。これは鉄則ですね。 高崎 まったくそうですね。 山本 この『週刊新潮』の信平記事は、そういう取材のセオリーを、はじめから崩壊させていますからね。犯罪ですよ。単なる功名心だけでは説明がつかない。これは悪意です。ところで、先ほど、この記事の一回目を読んでいかがわしいと感じられたと言われましたが、どの辺りにそれを感じられたのでしょう。 高崎 私が思うに、週刊誌であって、学芸雑誌ではないわけですから、もっと具体的に書けるはずだと。それがあまりにも曖昧すぎる。私は大学が文学部の国文学出身でして、近代文学を専攻しました。私の先生は片岡良一、現代文学を学問として定着させた研究者のナンバーワンといわれている方でした。大変いい先生に教えていただいたと思うのですが、その先生の文章の読み方というものを、私はいまだに守っているのです。 山本 具体的にはどういう読み方ですか。 高崎 ある一つのテーマについて、あるいは一つのセンテンスについて、何でこういう言い方をしたか、なぜ、この単語がここに挟まってるのかということを、ああでもない、こうでもないと裏からも表からも、上からも下からも、あらゆる角度から見るんです。それで、ああも言える、こうも思える、いやしかし、ここのところがおかしいのじゃないかと。センテンス一つで九十分も話をされるんですよ。そういう先生に教わったものですから、自分で文章を書くのはヘタクソですけれども、人の文章というのは分かるつもりなんです。 山本 なるほど。 高崎 例えば作家の里見クが小説を書いた。戦後の初めですけど。「美事な醜聞」というタイトルの小説で、このタイトルを見ただけで中身が分かるというんですね。つまり、スキャンダル(=醜聞)というのは社会通念から非常に芳しくない、好ましくない語である。ところがここに「美事な」と付けたことで、里見は、スキャンダルは必ずしも反道徳的なものではないのだという考え方をもっているのだと。 山本 つまり、スキャンダルにも文学性があるということですね。 高崎 ええ。こういうふうに、たった一言の単語やセンテンスでも「これをここに使った意味」というのを叩き込まれてきたものですから。それなら、お前もっと文章がうまいはずだと言われそうですけど、自分の文章はだめで、人の文章は気がつくんですよ。 山本 なるほど。では、第二回の一〇〇%ウソだというのは、どこら辺でお感じになりましたか。 高崎 あの、二回目だったと思うのですが、ひょっとしたら三回目かもしれません。前に言ったことを(信平信子が)、ちょっと変えました。訂正というか修正というか、しましたよね。それを読んだ瞬間に思いました。こんな重大なことを修正するとはどういうことだ。そのことはもう、頭の中にこびりついて、何月何日の何時何分ごろ、どこ、というのは、もう、きちっと言えるはずであると。 山本 一番根幹になる部分がズレるということは、もうすでにフィクションであると。 高崎 ええ。これはウソだと。 山本 私の知り合いに週刊誌の記者がいるのですが、この記事を見て首をひねっていました。「ストーリーは、ちゃんと描かれているけど、登場人物が、その人であるという臭いがしない。他の話をなぞって書いたモノだろう」と。高崎さんが先ほどおっしゃった、「曖昧すぎる」というのは、そういう意味での曖昧さですね。非常に丁寧に書き込まれているのに、どこかおかしいと。 高崎 だから読んでいてね、イメージがはっきりしないんですよ。漠然とするんです。 山本 そう、イメージですね。まるで人形が動いてるみたいで、人間としてのリアリティーがないですね。また、この門脇記者という人物についてなのですが、「記者会見をやって」「テレビにも出てください」と騒ぎを大きくしようとしています。 彼は取材をして記事にするのではなくて、「ああしましょう、こうしましょう」と取材対象を仕切って動かす。おまけに「これは裁判として民事訴訟でいけるぞ」なんて言うわけです。私自身も新聞記者生活は長かったですが、そんな記者には、お目にかかったことがありません。 高崎 ないでしょう。普通は。 言論のテロ 山本 これは立派な誘導ですね。 高崎 そうね。教唆ですかな。煽動かな。 山本 捏造。ヤラセ。他に類例をみない悪辣さです。 高崎 まったくそうですね。 山本 それと、九州のほうのある集会では信平へのカンパと言って、お金を集めたりしました。もともと捏造された手記を元に、カンパ金を集めようというのですから、詐欺的な行為にまで加担したことになりますね。 高崎 ははあ。なるほどね。 山本 マスコミ人がこういうことをやってしまったら、世の中はメチャクチャになってしまいますね。 高崎 ええ。何でもできますよね。私は新聞社の体験はないから新聞社のことはよく分からないんだけど、記者で親しいのは朝日新聞にいた本多勝一氏で、もう二十年の付き合いですが、彼に聞きますと「戦前から大新聞の記者は学芸部であっても、社会部であっても皆、ある種の誇りがあった」と言ってましたね。ところが「そう言っちゃ悪いけど出版社は、まあ、岩波書店のようなのは別だけど、その他の出版社には全然、その出版社の記者だ、編集者だという誇りが薄い」というようなことを言っていましたね。たしかに講談社を見ていても薄いですね。新聞記者はみんな誇りをもっていますね。だから週刊誌にしても、新聞社系の週刊誌も、ときには問題を起こしますけど、もう問題を起こすのは皆といっていいくらい出版社系の週刊誌ですね。『文春』、『現代』、『新潮』、みんな出版社系ですね。 山本 話は戻りますけど、門脇のような記者が煽動したり教唆したりする。それでデッチ上げた記事が大きく社会を動かしてしまうというのは本当に問題です。言い方を換えると、ピストルを持った警官が、そのピストルで強盗をするようなものでしょう。自分が持っている一番大きな表現という力を、世の中に弊害を撒き散らすために使うというのは許せませんね。よほどきちんと取り締まらないと。 高崎 そうですね。野放しの状態ですから。 山本 新聞にも誤報はあるんですよ。認識の違いなどで、ごくまれにですけどね。でも、自分が間違って書いた記事というのは、ずっと心に残ってるんですね。 東京の下町で通り魔殺傷事件がありました。「あの子が似ている」という被害者の証言があって、隣近所からも、あの少年ではないかと噂になっていまして。 それで、記者たちがその子をマークしてたんです。ところがある晩、「オレはこれから天国へ行く」って、いなくなったんです。記者連中も驚きましてね。 自殺するんじゃないかと。で、みんな急いで社に戻って記事にしたんです。そうしたら、その子が夜中にひょっこり帰ってきたんですね。なんと「天国」っていう名前のパチンコ屋に行ってたんです。間に合わずに後から「間違いだった」と出した新聞もありましたけどね。 高崎 山本さんの場合は、間に合いましたか。 山本 ええ。間一髪のところでストップしたんですけど。一応、原稿を作りました。これなどは笑い話に終わりますが、重い記憶はいつまでも消えません。本人の両親に当たり、行きそうなところを聞いていれば防げたのですから。「片聞き」で記事を書くのは危険です。 ですから記事にするときには注意に注意を重ねないと。しかし『新潮』の場合は片聞きどころか、最初から「仕掛けよう」と決めてデッチ上げた記事ですから、お話になりませんが。 高崎 これは、もう信平夫婦が乗っかっちゃってる感じなんですね。動かされている。操られているという感じですね。 山本 まあ、信平自身もよく分からないうちにやっていて、本気になってしまうのかもしれませんね。 高崎 本気になるというのはあるね。そういうことあるんですね。 山本 信平の場合、自己催眠のようなところがあるかもしれませんね。本人は役職を解任された恨みがある。それをいろいろ言われる。すると、いつの問にか悲劇の主人公みたいになってしまう。周りによってたかって、そうされてしまったともいえる。 高崎 はい。本人もそういう、脅してやろうという気持ちがある。それを利用しようという個人、集団が周りに集まってきたということですね。 山本 三十五回ですよ、一誌だけで。『週刊新潮』が仕掛けて、他誌がやらないから、これでもか、これでもかというふうに、やる。今までにこういうケースってありましたかね。 高崎 ないでしょう。まあ、二、三回というのはあったと思いますけど、こんなのはないですよ。 山本 不思議ですよ。オウム真理教の松本教祖に対して各誌メディアが記事にしたことはありました。でも一誌に相当すると、それほどたくさんの量ではないですよ。この場合は他誌が手控えているのに、自分たちが祭り上げたから、やらなければいけないということはあったにしても、一誌で三十五回も特定の人物を個人攻撃してる。 高崎 これはいわばテロです。 山本 ああ、言論のテロですね。しかも、こういうのにスクープ賞まで与えて。それについても何の反省もない。 高崎 異常です。誰が読んでもおかしいのに賞まで与える。私は昔の『週刊現代』や『月刊現代』の人間しか知りませんけれど、あのころの講談社の人間ならば、週刊誌であろうと月刊誌であろうと、この信平記事はおかしいと分かります。これが分からないようなのは講談社には、いなかったはずです。 山本 それなのに、そこに対して平然と賞が贈られている。 会社ぐるみの犯行 高崎 編集者が「信平」に騙されたのではなくて、「これはウソだな」と承知をしていて編集者が仕掛けていることだと思う。そんなことも分からなければ編集者とはいえないでしょう。講談社の場合、一番多いのは早稲田大学(卒業)なんです。 早稲田が圧倒的に多い。その次は東大(卒業)ですけど。まあ、どっかの部署には、おかしなのもいるかもしれないけど、私の知っている『週刊現代』も『月刊現代』の人間もみんな優秀ですよ。 山本 するとやっぱり最初に『週刊新潮』が作った作文みたいなものは、他誌の編集者も当然おかしいと気づいていただろうけれど、とりあえず信平手記が「受賞」ということになったときには、「まあ週刊誌として、世間の目を引き、話題になったのだからスクープ賞でもよいのではないか」というぐらいの意識しかなかったのでしょうね。 高崎 そうでしょうね。 山本 でも、その陰には一人の人物を個人攻撃していることも分かっていただろうし、まして裁判で事実無根の話であったとの結末を知ったときに、この記事に賞を贈った編集者たちの中で「申し訳ないことをした」というような意識というのはどうなのでしょう。 高崎 そうですね。そんなに深く考えていませんね、きっと。「まずかったな、もう少しあそこで、こうすればよかったかな」ぐらいのものでしょう。 山本 プレイ感覚ですね。真面目な選考や審査ではない遊びみたいなものだと。では、『週刊新潮』はどうでしょう。三十五回も書き散らしておいて、裁判でも「まったくのデタラメである」「訴訟など起こせる内容ではない」と判決されたということは、「ウソであった」ということが公になったわけです。三十五回も書き散らした『週刊新潮』は書いた責任を本来は取るべきですよね。 高崎 ええ、本来は取るべきですけれどね。それが痛くも痒くもないんですね。ただ「金取られるのはまずいな」という程度ですね。新潮社は、あれだけいい文学関係の書籍を出しているし、文庫などでも岩波書店が明治文学までしかやらなかったけど、大正、昭和文学までやっていたのは新潮文庫だけだし、その意味では、私は本当にお世話になった。新潮社の歴史を考えれば、これ(=今回の一連の信平記事)は新潮社を傷つけたなというふうに思うのがマスコミ人だと思うんです。それが現在の新潮社にはないんですね。 山本 たしかに、そうですね。 高崎 私たちの世代でしたら、極端にいえば「腹を切る」、辞表を提出するというぐらいの不祥事ですよ。「すみません」「申し訳ありません」では済まないですよ。それが裁判の判決が出てもこの静けさですから、知らんぷり、会社がグルになっているとしか思えないですね。 山本 たしかに、裁判の結果が出て、というか裁判にもならないということになっても、これを書いた門脇記者が、どう責任を問われたとも聞いていませんし、編集長が更迭されたけど、これのためとは聞いていませんものね。誰の責任なのか。不思議な点ですね。例えば新潮社の他の部署からも『週刊新潮』に対して何も抗議などがないというのも変だし、非常に奇形ですね。珍しい形です。これは全社あげて「よし」としていると思われても仕方ない。また他の記事で提訴されたりした場合、小さな謝罪文を掲載するけど、これに対しては、まったくありませんね。これはどういうことでしょう。あまり多くやりすぎて、今さら謝るわけにはいかないのでしょうか? 高崎 何もしていないということは会社ぐるみだったということでしょう。だから何もしない。何かあっても記者は「いや、これは編集長から言われた」と、編集長は「もっと上から言われてる」とね。 山本 なるほどね。責任の所在がないのですね。そうなると、もうマスコミではないですよ。いわば怪文書を作って大騒ぎをして、それだけ部数が売れたのだからよし。で、もとはといえば上司から「やれ」と言われたからと。新潮社の体質みたいなところへ行ってしまう。 高崎 だから、会社ぐるみだという結論になってしまうんですよ。 山本 そうですね。まあ、この問題をはじめとして、日本の週刊誌は先ほど高崎さんもご指摘されたように、間違いが多いように思われるのですが、この辺りの荒廃の原因というのは何でしょう。 高崎 私はやはり、儲かればいいという営利第一主義だと思います。それともう一つは、責任感の欠如だろうと思います。私は「戦争」から来てるのではないかと思います。戦争の後始末、戦争責任、戦後責任をどういうふうに考えてきたか。何も考えませんから。無責任で通ってきましたから。あれだけの人間が死んで、相手も殺しても、ほんの一握りの人しか、その責任を問われなかったということですから。まあ、「言論の自由」の時代に人を傷つけても、そんなことは大したことではないという無責任。それと営利主義が一緒になっていると思います。 山本 戦争中、戦後のそういう体質が温存されてきてしまった、引きずってしまったということですね。 高崎 はい。そうだと思いますね。これは実名は出せませんが、講談社のある部署の部長が東大出で、年は私より下ですが優秀な人です。彼が東大生のとき、出版社に入りたいということで、講談社と文芸春秋と両方受けたそうです。文芸春秋のほうが試験日が早かった。で、優秀な男ですから一次試験は通った。で、最後の選考に二十人残った。文芸春秋は、その二十人を帝国ホテルに呼んで、フルコースの食事をさせた。会社の幹部と向かい合って。片側に会社の幹部、片側に二十人の学生が並んで何を話したかというと、世間話だったそうです。「学生生活はどうだった」とか、「近ごろの世界情勢はどうか」という、どうでもいい話しかしなかった。で、終わって「では、この中から若千名を採用します。それでは近日中に通知をしますから。どうも今日はご苦労さまでした」で終わりなのです。では幹部は何を見ていたかというと、フルコースのマナーを見ていたんです。彼の分析によると、フルコースを食べるには三通りの人間がいると。一つは、ものの見事にナイフとフォークを操って、もう西洋人顔負けのマナーで食べる者。もう一つは、どうしていいか分からないで周りを見る者。彼は帝国ホテルも初めてなら、フルコースも初めてだから、もう、おどおどしながら食べてたというんです。で、三つ目が、そんなことはどうでもいいんだ。食えればいいんだとばかりにナイフもフォークも滅茶苦茶に食べるタイプ。受かったのは、しっちゃかめっちゃかのヤツと見事なマナーのヤツ。おどおどしたのはダメだった。 山本 ほう。どういう意味があるんでしょうね。 高崎 大出版社にはいろいろな部署がありますが、見事なマナーで、非のうちどころがないようなヤツを表舞台に回して、しっちゃかめっちゃかなタイプは、週刊誌にもっていくわけですよ。(笑い) 山本 なるほど。押しが強いほうがいいし、あまり作法にとらわれずに。 高崎 私が大学で講演したときに、「大出版社は、いかがわしいところが、いっぱいある。講談社も少しはいかがわしい。そのいかがわしいところへ、どうしても行きたいんだというなら、しっちゃかめっちゃかにやれ。今からマナーなんか練習しても間に合わんから。君たちに行ってもらいたくないけど、それしか方法がないよ」って言ったんです。最終選考でそういう基準で採用していた。これはね、ルールも何もない。週刊誌が悪くなるわけです。 山本 ああ、それなんかはいい例ですね。たしかに、そういう人格であれば、こういう文章をウソだと思いながらも平気で書くことができるかもしれない。でも一回や二回ならまだしも、三十数回もウソを書いてるというのは、一種の人格崩壊ですね。 高崎 なんでもいいんですね、結局。しっちゃかめっちゃかというのは、儲け主義とつながってくるわけですから。もう、モラルも何もないんです。会社も、儲けてくれればいいんだと。 山本 マスコミが、儲けを最優先させるようになったら、おしまいですね。 高崎 部長にその話を聞いたのは、ちょうど、私が文芸春秋の批判を雑誌に連載していたころです。「講談社だけ受けたの?」って聞いたら、「いやあ、その前に他を落っこったんですよ」。「どこ?」って言ったら「文芸春秋」って言うから「えーっ!」って、「それでどうだった」って聞いたんです。「やっぱり」なって思いましたね。 それじゃあ、『週刊文春』が、ああいう根も葉もないようなものを平気でやるわけだよなと思いましたね。 山本 高崎さんのご専門の一つは戦時下のジャーナリズムですが、日本の国全体も戦争責任を取らなかったけど文芸春秋も大政翼賛の片棒を担いでいたわけですが、片棒担いでいた文芸春秋がその後、何も責任を取らないどころか、そんなことなどなかったかのような……。 高崎 NHKを攻撃したんですよ。「ラジオはひどすぎる」なんてことを、戦争が終わってすぐ言い出した。「それじゃ、戦争中あなた方(=文芸春秋)はどうなの?」ということになっちゃうわけですよ。もう話にならない。自分のやったことは棚に上げて他を批判している。新聞でも雑誌でも戦後の態度の在り方を私は見ているのですが、反省をして、二度とそういうような雑誌の誌面を作ってはいけないと考えているようなところは、主婦の友社なんかそうですけど、当時、『主婦の友』の編集者たちは随分反省してましたよ。『主婦の友』では満州版を刊行していた。「どんなことを書いていたのか知りたいから持っていたら見せてほしい」と頼まれました。 山本 ほほう。 高崎 そういう人たちは、私は批判しないんです。それは個人も一緒です。例えば女性作家では佐多稲子は自己弁護をやっておったから、ちょっと批判しましたけどね。戦後の作品を見て、「ああ、これは戦争中の自分の言動や行動への反省を込めて、この作品を書いているな」というのは私はやらないんですよ。だから壺井栄を批判したことは一度もありません。 山本 なるほど。 高崎 住井すゑもそうね。ただ、住井すゑは『論座』でかなり批判されましてね。 共産党というのは卑怯です。選挙のたびに住井すゑを利用しておきながら、『論座』で批判された途端、一斉に横を向いて誰も住井を弁護する者はいないんです。私は「橋のない川」をずっと読んでいて、あれは、まあ大衆小説ですけど、住井すゑは、戦後これを書きながら心の中で格闘しているんだな、随分傷を負っているなというふうに思ったから、私は住井を批判したことは一回もないんです。それで『論座』で彼女の批判をやったから、本多勝一がやっていた『週刊金曜日』に反論を書いたんです。そういうことで、戦後、反省をしている者は個人であっても団体であっても私は批判しないんです。 山本 やはりペンを持っている者は、それくらい影響も大きいし、その分の責任も自覚しておかなくてはいけないということですね。 高崎 そうです。大出版社であればあるほど、責任は大きいんです。結局、いろんな分野での出版物を出しているわけですから。影響を受ける読者が多いのですから、責任は大きいと思います。 山本 少し話は戻りますけど、新聞社であれ、雑誌社であれ、財産というのは人材ですからね。人間一人ひとりが財産ですから。人を育てなくてはいけない。入社したてのフレッシュマンのときは「いいものを作ろう」と思って入ってくるのでしょうけど、だんだん、鈍化していく。高崎さんがおっしゃったように、社として戦中の記事や行動に関心がなかったり、まったくそのことに目をつぶっている、という体質が影響しているのではないでしょうか。 高崎 とぼけていても責任を問われないで済むような日本の社会であるという考え方、傲慢な考え方があるのでしょうね。戦中のマスコミもそうでしたから。そのために潰れちゃったというのは、小さいところは潰れましたけれども、大きいところは皆、残ったんです。 山本 こうした悪質な週刊誌ジャーナリズムというのはどうしたらいいでしょう? 今、盛んにいわれてます、いわゆる懲罰的損害賠償とか。 高崎 アメリカは懲罰的損害賠償というか、こういうペンの暴力に対しては厳しいですね。賠償額が日本の何十倍といわれています。五千万円とか八千万円とかいうのはザラだということですね。日本も十年前と今ではかなり違ってきて一千万円くらいまではいくようになりましたからね。二十年前は百万円くらいが限度であったようです。ただ、百万円とか二百万円だと雑誌を売ったほうが儲かりますからね。何とも思わないんですね。純益の中から何%は、こういうのに払わなきゃならんかなと考えていますから。 山本 三十五回分の人権侵害記事。これがアメリカだったら、かなりの賠償額ですよね。 高崎 アメリカだったら新潮社はつぶれちゃいますよ。間違いなく潰れます。こんなに一人の人物を集中的に攻撃して、それが間違いだと判決されたら一億円や二億円の賠償金では済まないですよ。 山本 昭和五十五年、私か関係した「チョモランマ登山隊」について同誌が歪曲した記事を書きました。私が抗議すると、編集長は「こうした表現も文化的行為だ」と平然と嘯たのです。だから何をしても恥ずかしいと思わない。 高崎 愚かな考え方ですよね。無反省というか。 山本 言い方を換えると、さっき儲け主義とおっしゃっていましたけど、例えば、レストランでいえば「うちの店では、この料理はこんな味付けにしましたよ」と特徴をつけて売り出した、だから「文化」だと。『週刊新潮』は「何をそんなに騒ぐのか。うちはこのスタイルで売ってるんだ。買ってくれるお客さんもいて、そりゃ多少捏造もあるけど、売れているから他人にとやかく言われる筋合いはない」と。これくらいの意識でしかないようですね。捉え方がまるで違う。 高崎 そうですね。本当に。それ以上のものはないですね。 山本 高額な損害賠償も、日本にも少し定着してきましたけど、これでどれくらいの効果が望めるのでしょう? 高崎 いや、こういう『週刊新潮』、『文春』、『現代』なんていうのは、今どのくらい売れているのか分かりませんが、少ない部数ではありませんからね。賠償金の一千万円やそこら、何とも思わないでしょうね。 山本 さらに一桁上がれば少しは変わるでしょうか。しかし、週刊誌の体質については、長い間、様々な批判が加えられているにもかかわらず、一向に改善されていません。これは自分たちで浄化しようという自浄作用が、まったくないからでしょう。 高崎 ないですね。 山本 だからいつまでたっても、“百年河清を俟つ”で、まったく変わらない。 高崎 やはり反論権だとか、報道オンブズマンみたいなものを日本にも定着させていかなければいけないと思いますね。歯止めにはなると思うんですよ。既成の雑誌が、そんなことのために誌面をさくとは思えないですから、オンブズマンのようなものが機関誌をもたないといけない。そういうものがないとダメですね。もちろん、その機関誌は新潮社だけでなく講談社のほうも睨んでいく、文春のほうも睨むというように主に週刊誌メディアを睨んでいく。いかがわしいものや品位を疑われるものをピックアップして機関誌に載せるといった具合に。 山本 片方は何十万部売るという週刊誌。もし、そういうチェック機能のある雑誌ができたとしても、それほど売れはしないでしょう。効果は厳しいのでは? 高崎 ええ。でも、それをマスコミ関係の人、新聞、雑誌、ラジオ、テレビに携わる人たちが読むようなものとして作っていかなくてはいけないと思います。そうすることで次第に自主規制されてくると思います。 山本 やはり週刊誌に自浄作用のあるチェック機能が欠如してるのが問題ですね。 高崎 ええ。週刊誌の場合、毎週何部売れたかは、よくチェックします。で、売れた号はなぜ、この号が売れたのかと。やはり、この記事がよかったのかとなるわけです。 山本 となると、読者の覗き見的な好奇心、世俗的なものに媚びていくという感じにならざるを得ないですね。 高崎 そうです。売上を意識すればするほど、迎合していくことになるんです。編集者の側に読者の意識や教養を高めようなんていう考えは、まったくない。でも、それは編集者が自分で自分の個性というか人間性というか、そういうものを自らボロボロにしていくというかたちになっていくわけです。 山本 まったく、その通りですね。自分たちで壊している。せっかく積み上げてきたものを壊していく。 高崎 どうしてそれが分からないかな。そうなってくると、また後から後から、新人をそこへつぎ込んでいって、またダメにしていく。 山本 さっき高崎さんが、無作法な新人が無作法であるがゆえに週刊誌向きだと。そのために採用されてると。たしかに、きちっとしてたら「それは裏が取れていないから記事にはできません」とか「人間的に信用がおけないから、記事にするのを控えます」となりますけど、無作法なヤッはそういうことを考えませんから平気で記事にできる。二回でも三回でも繰り返し書き、それがついには三十五回書き散らしてしまった、それで記事を捏造することに何らの痛痒さえ感じないんでしょう。 高崎 もともと抵抗する気持ちそのものがないんでしょうね。だから、だんだん決めつけになって、熱くなっていったのでしょう。 二十世紀最後の「週刊誌の犯罪」として歴史に残る 山本 そういえば、たしかに最初の記事は曖昧なんです。ところが、最後のほうになると曖昧なところが、まったくないんです。もうこの「手記」の話題から抜けているから、重箱の隅をつつくようにして創価学会の批判だけを言っています。 高崎 もう、そういうふうに回を重ねてしまうと引き返すことは不可能ですから、普通の判断力があれば、とっくに引き返してるでしょ。最初の二、三回やって、これはもうダメだ、この辺でやめておこうとなりますけど、続けてしまったら、引き返すことができませんから。最後までやりますってなっちゃうんですね。で、編集者は、ますます自分の人間性を痛めつけていくという格好になりますね。 山本 そういうふうにお話を伺っていると、これは紛れもなく歴史に残る週刊誌の恥部の堆積ですね。非常にいい加減な話が裁判にまで持ち込まれた。「訴権の濫用」との判決が出た。まして「最初からこんなに都合よくマスコミとリンクできるなんておかしい」と裁判官にヤラセ記事が見破られるほど。それを一、二回ではなく三十五回も積み重ねた。二十世紀最後の「週刊誌の犯罪」として歴史に残るでしょう。 高崎 そういうことになりますね。 山本 これは後にきちっと報道オンブズマン制度が確立したり、損害賠償額がアメリカ並みになり、やがて週刊誌が何らかのかたちで良識を取り戻したときに「とんでもない週刊誌があったものだ」と言われるでしょうね。週刊誌史上に残る汚点として永遠にとどめられるのではないでしょうか。 高崎 あの戦中の報道の犯罪と同じだね。私は当時のバックナンバーをたくさん持っていますが、半世紀たっても解決していないわけですから。今回のこの問題も、これは何十年でも二十世紀最後のところでこのようなことがあったというふうになりますよ、これは。マスコミの研究課題として残るでしょう。 山本 戦争中でも大本営発表に従って新聞を発刊するということに、若干の抵抗はあったのでしょうね? 高崎 あったと思います。例えば昭和二十年(一九四五年)三月十日の東京大空襲の「朝日」の記事を見ますとね、あのころの大本営の発表は「我がほうの損害は軽微である」としか言っていないんですよ。ところが「朝日」で、天皇が焼け跡を歩いている写真がありますが、その文章には「関東大震災のときの東京を知っているが、それに匹敵する」というふうに書いているんです。「ええっ、これは損害は軽微だと言ってたのに」って。私はそのとき軍隊にいたのですが、「東京がやられたらしいぞ」というので、大隊本部に用があって行ったときに見せてもらって立ち読みしましたけどね。関東大震災に匹敵するようじゃ、これはひどくやられたなと思いました。 山本 でも、そのころに、そういうことを書く記者がいたということですね。 高崎 やっぱり書き方があるわけですよ。関東大震災に匹敵するような焼け跡って、これはギリギリの表現だったと思います。 山本 甚大とは書けないですものね。やはり、その記者の個性とか才能とか見る目とかが素晴らしいですね。正しい視点をもった人ですね。 高崎 だから、例えばこれ(=信平記事)を、他の出版社の場合、上司にやれと言われて、一編集者がそれを担当してやる。その編集者がキチンとした目をもった人であれば、これは大ウソだなと分かる書き方をしてボツにする。 山本 なるほど。なるほど。 高崎 ええ。そういう抵抗の仕方があるわけです。 山本 昔の記者の中には、そういう記者魂みたいなものをもった人がいましたね。聞いたことがあるのですが、「記者というのは書くほうに力点を置くのではなく、書かないほうに力点があるのだ。どんなに上司に言われようと、一方を利するような肩入れをしたり、誰かに対して害を及ぼすようなことに筆をとらないということに気をつけるべきだ。そうでないと提灯記事を書かされたり、気がつかないうちに誰かを害するようなものを書かされてしまう」と。なるほどと感心しました。 「どんなに強要されても書かない」って。先ほど高崎さんは書かされたら、誰が読んでもウソと分かるように書くとおっしゃいましたけど、記者というのは本来そういうものがないとダメですね。 高崎 それがベースでしょうね。それはね、私がいたころの講談社の、ある編集長が、そう言ってました。上に言われて嫌なものを書く時にはボツになるような書き方をするんだと。自分はそれを講談社に入ったときに先輩に教わったと。 山本 新聞社もそれは同じですね。書かないということを主張できる、そういう精神をもった記者ですね。本日は、どうもありがとうございました。 エピローグ 「本件のような事実的根拠が極めて乏しい事柄について、 しかも、スキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはない」  前代未聞の狂言騒動の幕は閉じた。  では、この騒動に加担した勢力は、その後、どのような運命をたどったのであろうか。本書を締めくくるにあたって、概観しておきたい。  その点を検証してこそ、真の意味で狂言騒動の教訓を後世に残すことができると考えるからである。 時の総理が、創価学会に二度謝罪  自民党は当初、この信平狂言騒動について、売文屋の内藤国夫が書いたデマ記事を機関紙「自由新報」に四回(平成八年四月二日付、七月二日付、八月十三日付、十月十五日付)にわたって掲載した。  しかし、その後、狂言訴訟の審理の過程で事件の虚構性が次々と明らかになり、平成十年(一九九八年)五月二十六日、東京地裁が信平側の訴えの主要部分について退ける判決を下すと、騒動への認識、創価学会に対する態度は自ずと変化していった。  まず、創価学会が同年四月十三日、自民党の加藤紘一幹事長(当時)宛に「抗議書」を送付。「自由新報」の記事を撤回し、創価学会に謝罪する旨の記事を掲載するよう要求した。  自民党は、これに応え、四月二十八日付の「自由新報」に同抗議書を全文掲載するとともに、与謝野馨・同党広報本部長(当時)名でコメントを発表。  「調査不十分のまま一方の当事者の主張のみを採用し」「結果としてその虚偽をあたかも容認することになった点け不適切であり、申し訳なかったと考え、遺憾の意を表します」と公式に謝罪した。  また、当時の橋本龍太郎首相は同年四月、創価学会に「遺憾の意」を表明したが、六月一日にも創価学会本部に電話をかけ、「この前、私が『名誉会長にいろいろご迷惑をお掛けし、申し訳なく思っています』と述べたことについて、(公の場で)おっしゃっていただくことはかまいません。本当に済まないことをしたと思ったからです」と、創価学会と池田名誉会長に重ねて謝罪した。  同じく当時の加藤自民党幹事長も六月十日、記者懇談会で「政党機関紙として行き過ぎがあり、関係者の名誉と人権を傷つけたことは、遺憾に思っております」と語り、池田名誉会長の名誉と人権を傷つけたことに「遺憾の意」を表した。なお加藤代議士は平成十二年(二〇〇〇年)にも山形で、この件に関して再度、創価学会に謝罪している。  さらに平成十三年(○一年)一月三十一日、狂言訴訟の信平醇浩の訴えに対する控訴審(東京高裁)で、創価学会側完全勝訴の判決が下された際にも、「自由新報」(平成十三年四月十七日付)はこれを紹介、掲載した。  「この度の極めて明確な判決により、平成八年(一九九六年)四月以降に本紙が掲載した記事には、意図せざることとはいえ、行き過ぎがあったことが明らかであり、一方の当事者の主張のみを採用し、関係者の皆様にご迷惑をおかけした」と改めて謝罪した。  また、自民党の一部の国会議員が平成八年(九六年)二月から五月にかけて、信平の「捏造手記」を国会審議の場で取り上げ、創価学会を中傷した件等でも、すでに多くの議員が学会に謝罪、陳謝したと伝えられている。  例えば、そのうちの一人、原田昇左右代議士(静岡二区選出)。  東京地裁の判決後、静岡県内の創価学会の会館を訪れ、「大変に申し訳ないことでした」「私としては慚愧に堪えません」「デッチ上げのことを確かめもせず、やってしまった。名誉会長に対して、とんでもないことをしてしまった」等と陳謝している。  このように自民党は創価学会と池田名誉会長に対して、党の機関紙で公式に謝罪し、時の首相、幹事長、また多くの国会議員が謝罪・遺憾の意を表明したのである。  平成十三年(二〇〇一年)、一連の狂言訴訟は最高裁の上告棄却により最終的に決着がつけられた。  その意味からすれば、最終的な法的決着を待たず、すでに平成十年(一九九八年)の段階で、時の総理と自民党が創価学会に謝罪、陳謝したことは、むしろ同党にとって賢明な判断であったといえよう。  もし、一切の法的決着がつくまで謝罪の機会を逸していたならば、同党は公党としての見識を自ら著しく損なっていたはずだからである。 凋落、退潮する共産党  真っ先に信平信子を機関紙で取り上げ、その意味で今回の騒動の糸口をつくったともいえる共産党は、どうか。  創価学会に謝罪した自民党とは異なり、同党には自らの責任を厳しく問う姿勢は絶えて見られない。  共産党が従来から学会批判に極めて熱心である理由は、とりもなおさず、それが選挙戦略の一環であり、政党としての利害に直結すると同党が頑なに考えているからである。  だが、肝心要の選挙結果は、近年、まったく思わしくない。  全国各地の地方選でも惨敗続き。軒並み現有議席を減らしつつある。  平成十三年(二〇〇一年)六月の東京都議選でも、前回より十一議席も減らし、第二党から第四党に一気に転落。各紙も、「共産惨敗」「党勢退潮止まらず」「共産大敗」「大きく後退」等と大見出しを掲げ、こぞって共産党の凋落を報じた。  さらに七月の参院選では、三年前の参院選と比べて比例区票で約三百八十七万票の減。選挙区でも、かろうじて東京の一議席を確保するにとどまった。  前回参院選で獲得した十五議席から、一挙に五議席――実に三分の一という歴史的な大敗北を喫したのである。  しかも、参院選以後の各地方選挙においても、長期凋落傾向に一向に歯止めがかからず、機関紙部数の低迷、青年層に顕著な共産党離れの問題等と相まって、深刻と焦燥の度を一段と増しているという現状である。  むろん、マスコミや識者の間では、様々な理由が指摘されている。  だが何よりも、公党が、あろうことか政党の支持団体への攻撃に憂き身をやつす・人権擁護を標榜する政党が、なり振り構わぬ「宗教弾圧」に狂奔する―― その不見識ぶり、自語相違と独善の体質が、有権者の厳しい批判にさらされるのは自明の理ではあるまいか。 四月会系議員の末路  「四月会」は平成十三年(○一年)三月、発足からわずか七年足らずで崩壊した。  結成当時、代表幹事の俵孝太郎は“不退転の決意で”と創価学会攻撃の姿勢を鮮明にした。だが、実態は、すでにここ数年、事実上の開店休業。  年に一回の総会を開くのがやっと、という状態であった。  同会設立時には八十四人もの国会議員が来賓として参加したが、二回目の総会以降は減り続け、平成十二年(○○年)八月の総会に参加した議員は、ついにゼロという有り様であった。  平成十年(一九九八年)、自民党が学会に謝罪した際、わざわざ緊急アピールまで発表して、今まで無関係と言ってきたにもかかわらず、信平への「援護射撃」にこれつとめた四月会であったが、狂言騒動の破綻とともに空中分解するに至ったのである。  とともに哀れをとどめるのが、四月会に深く関与してきた国会議員の末路である。  宗教法人法「改悪」の当時、文部大臣でありながら、創価学会弾圧の先頭に立っていた島村宜伸代議士(当時)も、平成十二年(二〇〇〇年)の衆院選で、あえなく落選。  そして、信平狂言騒動にあっても、その「捏造手記」をもとに国会で証人喚問を要求するという暴挙に出た白川勝彦代議士(当時)も、秘書の「交通違反もみ消し事件」が響いて、同衆院選で落選した。  白川元代議士を見舞った不幸は、それだけにとどまらなかった。  平成十三年(○一年)の参院選に、元代議士は新党を結成し、比例区に当人を含めて十人の候補を擁立、雪辱を期した。「立正佼成会が支持してくれるから、百四十万から百五十万票は取れる」――七月二十九日の投開票を二日前に控え、こう豪語していたという。  しかし、有権者は、厳しい審判を突きつけた。  当人の皮算用とは裏腹に、元代議士の得票は、ようやく三十万票に手が届いた程度。党全体の得票も、総計で約四十七万票。見るも無残な惨敗に終わった。  後に残ったのは、選挙の供託金の全額没収、広告費等の全額自己負担等による、総額二億円を超えるともいわれる「赤字」だけという結果に終わった。  昨今ではグループ内の醜い内紛騒ぎが取り沙汰されるなど、まさしく「踏んだり蹴ったり」の窮状にあるという。  元代議士が売り物にしてきた自らのホームページも、更新すらままならない状態のようである。  誰を恨むべき筋合いのものではない。  事実無根のデマを利用し、国権の最高機関たる国会の場で宗教団体の弾圧に狂奔した政治家が、当然にして受けるべき報いであったといえよう。  恨むべきは己自身といわざるを得ない。 更迭された『週刊新潮』編集長  平成十三年(○一年)七月三日、かつては一世を風靡した新潮社発行の写真週刊誌『フォーカス』が、売上低迷の末、休刊、事実上の廃刊となることが発表された。記者会見の席上、齢六十を過ぎた一人の男の姿が、関係者の哀れを誘った。  『フォーカス』の編集に深く関わってきた、松田宏である。  会場を後にする際にも、ガックリと肩を落としたままの後ろ姿が印象的であった。  松田といえば、『フォーカス』そして『週刑新潮』と、同社の出す二大雑誌を担ってきた人物である。  しかし、その『フォーカス』はすでにない。  また『週刊新潮』においても、同年八月、約八年にわたった編集長の職を更迭されるに至った。  その主な理由として考えられる一つは、同誌が、毎号のように繰り返す人権侵害記事によって、被害者から頻々と裁判を起こされ、そのことごとくで敗訴しているという現実である。  創価学会関連の訴訟一つとってみても、その傾向は顕著である。  『週刊新潮』が深く関わってきた信平の「狂言訴訟」は、先述の通り学会側の全面勝訴が確定。  また、北海道の創価学会員、白山信之氏に対する人権侵害報道では、一審の札幌地裁、二審の札幌高裁ともに、『週刊新潮』側を断罪。損害賠償金百十万円の支払いを命令した。平成十年(一九九八年)三月には、白山氏の完全勝訴が最高裁で最終的に確定している。  さらに東京・東村山市議の転落死事件では、平成十三年(二〇〇一年)の五月十八日、新潮側に損害賠償金二百万円の支払いを命じる一審判決が下った。  この事件について、元来、『週刊新潮』側は、創価学会が訴えを起こした直後から、「なぜ、このような無益な訴訟を起こされるのか、まったく理解に苦しむ」と強弁していた。  この敗訴判決を受けてもなお、「全く納得できない判決で、当然、控訴を検討する」と断言していた。  ところが、六月二十一日になって、その強気の姿勢は一転する。  前言を翻して判決通り、創価学会に損害賠償金二百万円と遅延損害金を支払ってきた。すなわち「記事の内容は全部、デマだった」と自ら認めたのである。  以上の創価学会関連訴訟に端的に示されているごとく、「デマは書きっぱなし」「裁判は負けっぱなし」の『週刊新潮』編集部が、社内的にも厳しい立場に立たされていたであろうことは、容易に推察できよう。  創価学会関連の訴訟だけではない。『週刊新潮』は、質量ともに他誌を圧倒する裁判を被害者から起こされ、そのことごとくで敗北を喫して、損害賠償金等の支払い命令が出ている。例えば――。 ●薬害エイズ事件をめぐっての報道で、三百万円(平成十三年七月)。 ●カリフォルニア大教授父娘殺害事件をめぐる一連の報道で、計三百六十万円(平成十二年七月)。 ●系列テレビ局のCM間引き問題を取り上げた記事で、二百万円(同年二月)。 ●市民グループ「ピースボート」に関する報道で、計約二百万円(平成十年十月)。 ●故スカルノ・元インドネシア大統領の夫人を中傷する記事で百万円(平成八年九月)。 ●鐘紡会長を中傷する記事で五百万円(平成六年九月)。  等々(係争中のものも含む)――  松田が編集長となって以降、主だったものだけでも、敗訴の事例は枚挙に暇がないほどである。  ただでさえ、平成十年(一九九八年)にも十四億円もの赤字を出している新潮社である。  しかも、司法当局の判断は、明らかに「損害賠償額の高額化」へと向かっている。プロ野球の清原和博選手が、『週刊ポスト』を名誉毀損で訴えた事件の裁判で、東京地裁が『週刊ポスト』の記事が虚偽であると認め、一千万円の損害賠償金の支払いを命じた件など、その端的な例であろう。  女優の大原麗子さんが週刊誌を訴えた裁判でも、裁判長は「多少の賠償金では違法行為が自制されない」「とかく軽く評価してきた過去の名誉毀損訴訟の慰謝料額にこだわることは、必ずしも正義と公正の理念にかなうとは言えない」として、五百万円の賠償を命じる判決を下している。  こうした世の趨勢に抗して、旧来通りの手法に固執し得るのかどうか――そうした社としての判断が、松田更迭の背景にあるのではないかともいわれている。  また、狂言騒動に当初から深く関わっていた門脇護記者。彼も松田編集長更迭にあたって、その後任の最有力候補として名を取り沙汰されていたが、いかなる理由によるものか、実現には至らなかった。  ともあれ、先に詳述したごとく、狂言騒動の一切を当初から取り仕切ってきた『週刊新潮』編集長であり、編集部員である。  これまた当然の末路といわざるを得まい。 もはや「過去の男」となった山崎正友  狂言騒動の仕掛け人・山崎正友も、歳月とともに哀れな老醜をさらけ出している。  かつて山崎は、「オレはスーパースターだ。マスコミの連中にもてるんだ」などと周囲に吹聴していたという。マスコミを思いのままに操る、いっぱしの「策士」を気取っていたのであろう。  しかし最近の山崎は、そのマスコミからも、すっかり敬遠されているようである。  事実、山崎は平成八年(九六年)九月五日発行の『週刊文春』を最後として、すでに五年以上にわたって、週刊誌、月刊誌等の誌上から姿を消している。  簡単にいえば「飽きられた」のである。  実際のところ、山崎が握っていると宣伝してきた創価学会関連の情報なるものは、いずれも二十年以上も前の、古色蒼然たるものばかり。すでに情報としての価値はない。  また、山崎の手口なるものも、この男の正体が次第に明らかになるにつけ、すっかり効き目を失った。  もはやマスコミにとって山崎は、利用価値のない「過去の男」なのである。  さらに、山崎はかつての盟友とも次々とケンカ別れを繰り返している。  例えば、山崎が二十年来、行動をともにしてきたブラックジャーナリスト・内藤国夫とは、同年、創価学会中傷のデマビラをめぐる醜い内輪もめで袂を分かった。  当時、このビラをめぐっては、「元代議士の白川勝彦氏から山崎に、億単位の金が渡った」という内部告発があった。それを知った内藤は、「山崎が金を独り占めした」と逆上し、山崎に絶縁を宣言したのである。  その後の内藤は、「山友に担がれた、利用された」と盛んに愚痴をこぼしていたという。ほどなく内藤は、山崎への怨みを抱えたまま、世を去っている。  さらに、山崎と二人三脚で謀略をめぐらしてきた白川とも、いかなる事情があってか、最近になって関係が絶たれたようである。  このように、マスコミや一部政治家といった「金づる」を失った山崎は今、どこから収入を得ているのであろうか。  自らを「闇の帝王」と豪語し、「マスコミの寵児」と称した山崎も、社会から急速に忘れられ、嘲りを受け、失笑を呼ぶ身と成り果てつつある。  それでも昔を忘れられず、意のままにならぬ社会に呪いの言葉をつぶやき続け、もがき続ける山崎の姿は、もはや滑稽以外の何ものでもないといえよう。  さらに、ありもしない女性問題を、好んで騒ぎ立ててきた山崎だが、近年、こちらは正真正銘の自分の女性問題で追い込まれている。というのも山崎は、かつて大分在住の女性を心身ともに弄び、さらに詐欺まがいの手口で二千数百万円もの金を手に入れたとして、この女性から訴えられた。  さらに、この女性の夫からも訴えられ、平成十三年(二〇〇一年)十月、大分地裁から、三百万円の損害賠償金を支払うよう命じられたのである。  根も葉もない女性問題のデマで騒いだ結果、自ら女性問題でのたうち回る。「因果応報」というべきであろう。 「シアトル事件」に打ちのめされる阿部日顕  「法華講員(=信徒)が立候補しているから応援してやってほしい。ワシも祈っているから」  「大勢の講員がいるんだから、大いに呼びかけてもらいたい」  ――阿部日顕は、参院選も終盤に差しかかった平成十三年(○一年)七月二十五日、僧侶たちを前に、こう檄を飛ばしたという。  というのも、この参院選に際し、日蓮正宗からは、二人の信徒が、白川勝彦元代議士の立ち上げた新党の一員として立候補したからである。  六月初旬には、白川新党の後援会への入会申込書が全国の宗門の各末寺に郵送された。七月には、信徒の候補の一人によって、「理境坊御住職・小川只道御尊師にも御許可をいただき、反学会・反公明の立場を鮮明にして出馬することを決意したものであります」等と記した挨拶文が、末寺に送付された。  冒頭の阿部日顕発言が端的に示すごとく、信徒の二人の候補者は、いわば「阿部日顕管長公認の参院選候補」であった。日蓮正宗は教団をあげて、丸抱えともいえる支援態勢を敷いて参院選に臨んだ。  なぜ、そこまでしなければならなかったのか。これも第一審において阿部日顕側敗訴の判決が出ている「シアトル事件」の衝撃に打ちのめされた阿部日顕の「意趣返し」の一つであったことは、論を待つまい。  しかし、結果はどうであったか。  二人の候補者は、阿部日顕の期待も空しく大惨敗。結局、二人が集めた票は、合計しても一万六千票足らずであった。「意趣返し」どころか、信徒数三十数万人を公称する日蓮正宗の微弱な実勢力を、自ら露呈する結果を招いてしまったのである。  さらに選挙期間中、全国各地で信徒が、公職選挙法違反等で次々と告訴、告発され、果ては信徒一派の事務所が警察の強制捜査を受けた末、責任者が送検されている。  この惨状に阿部日顕は、よほど衝撃を受けたのであろう。日蓮正宗の重要行事である御開扉や丑寅勤行といわれる儀式を、開票翌日は欠席するほどの意気消沈ぶりであったという。  そもそも、どれほど阿部日顕が、買春事件を気にしているか。  それは、阿部日顕が同年五月、わざわざ「真実の証明」なる本を自ら出して、言い訳にこれつとめている事実によっても、よく分かる。  タイトルは大仰だが、その内容はといえば、すでに裁判所から粉砕されたウソを再び持ち出して延々と並べ立て、揚げ句の果てには裁判長や日本の司法制度そのものに対して八つ当たりを繰り返すばかり、といった代物である。  いささか本題からはずれるが、そもそも「シアトル事件」の訴訟は、それこそ法廷に「真実を証明」してほしいと求めて、阿部日顕のほうから起こしたものである。しかも、その審理の過程で「真実を証明」するために、阿部日顕本人が三回も出廷したのである。すでに法廷において、「真実」についての審理は、尽くされているのである。  それを、自分の意に沿わない判決が出たからといって、裁判所に八つ当たりする。それでは、わざわざ、裁判を起こす必要など、どこにあったのかと、誰もが思うところである。  また、このようなものを、しかも自ら出版するならば、いったい、どのような結果となるか。まさしく「恥の上塗り」である。  もうろくの故か、阿部日顕本人は、その辺りの想像力が、すでにまったく欠如しているようである。  ともあれ、一切は「目くらまし」である。一宗の管長たるものが、「売春婦と性行為を行った」等と認定されたのでは、信徒への威信など保ちようもない。  その「目くらまし」のための信平狂言騒動であり、くだんの言い訳本であり、平成十三年(○一年)の参院選をめぐる騒ぎであった。  だが、「迹を滅せんとして雪中を走る」の格言の通り、阿部日顕は騒げば騒ぐほど、自分の恥辱と汚名を、世間に広めるだけのようである。  来年(平成十四年)で齢八十、「傘寿」を迎えるはずの阿部日顕。「老醜」とは、まさにこのことであろう。 巻末資料 判決文抜粋・関連年表 信平狂言訴訟の判決丈から  読者の参考に資するために、この前代未聞の狂言訴訟を断罪した東京地裁判決文(平成十二年五月三十日)の主要部分を掲げる。  この訴訟が、どれほど悪質かつ虚偽に満ちたものであったか。それぞれの項目を見れば、一目瞭然のことであろう。 ■信平信子の捏造した「作り話」 *“事件現場”など存在しない 「昭和五八年八月に、原告が主張する場所に『ロアール』が存在していたことを認めることはできない」 「信子が思い出したという記憶に基づく主張事実は、その思い出した経緯として述べるところが極めて不自然であるし、記憶に混同があったという理由も極めて不合理であり、納得させられるところはなく、およそ信用性に乏しい」 *信平信子は“事件現場”にいなかった 「原告が主張するような時間帯(午前五時三〇分ないし七時三〇分)には、事件が発生した場所には到着していないことが明らか」 「(ラジオ体操に参加しているので=筆者注)事件が八月一八日であったことはあり得ない」 *常識では考えられない主張 「いつ何時人が通りかかるかもしれない屋外で、原告主張のような事件が発生したということは、経験則上にわかに想定し難いところである」 ■法廷で暴かれた信平の素性 *司法制度を悪用する姿勢 「原告の提出した書証のいくつかについて、金額欄の明白な改ざん、訂正印のない作成日付の変更を認めている。この点は、一見小さな事実にみえるが、原告の民事訴訟手続の利用における姿勢を示すものとして見逃すことのできないものがある」 *信平醇浩の悪質な人格 「原告の反発及び不満を述べる態度と言辞は、激烈にして口汚いものであり、原告の個性、人柄の一端をうかがうことができるものというべきである」 *見逃せない「恐喝まがい」の言辞 「繰り返し、創価学会を批判する勢力との連携をほのめかしつつ、墓地代金等を返還しなければ、被告を詐欺・強姦罪で告訴する旨の電話をかけているのである。その中での原告の話しぶりは、有無を言わせない強硬なものであり、その個性、人柄をうかがわせるに足りるものであるばかりか、まさに恐喝まがいと評されてもやむを得ないように思われる」 ■悪質極まる「訴訟態度」 *「事実無根」を如実に示す主張の変遷 「一貫して被告の加害行為は三回としてきたものであるのに、右変更後の主張によれば、加害行為は四回であることになる。これは、信子の訴えの基本的骨格に関わるところであって、その観点からも、主張の変更について、納得させるような理由があってしかるべきである。  しかしながら、原告が自己の主張を変遷させるに至った理由として述べるところは、以下で検討するとおり、いずれもおよそ納得させるに足りる合理的なものとはいえない」 *信義に反する信平夫婦の訴訟態度 「事実的根拠を欠くことをうかがわせるものであるばかりでなく、訴訟当事者として、到底真摯な訴訟追行態度と評価することはできない」「およそ信義にかなったものということはできない」 *「訴訟引き延ばし」の悪あがき 「原告らが行った裁判官忌避の申立ては、裁判官が創価学会から組織的、継続的に不当な圧力を受けているとの理由であるが、結局は、訴訟指揮の不当をいうにすぎず、およそ忌避の理由がないことは経験ある法律実務家にとっては明らかであり、この申立ては専ら訴訟の引き延ばしを目的としてされたものではないかとの疑問が残る」 *司法制度悪用の意図は明白 「原告らの訴訟活動は、真に被害救済を求める者の訴訟追行態度としては極めて不自然であり、およそ信義則にかなうものとはいえない」 ■ドス黒い“悪の結託” *手記発表の前から連携 「原告は、(平成七年=筆者注)九月一四日から一二月二二日までの間、創価学会本部にたびたび電話し、創価学会を批判する勢力との連携をほのめかしつつ、被告を詐欺罪又は強姦罪によって告訴すると述べるなど、恐喝まがいの言辞を用いて墓地代金及び寄付金返還の要求をしていたが、結局それが功を奏さなかったことから、その仕返しとして、信子の手記を週刊誌等においてセンセーショナルな形で発表することとしたものと推認されてもやむを得ない」 *不自然な手記発表前後の経緯 「信子が手記を発表した『週刊新潮』平成八年二月二二日号は、同月一五日発売であり、それ以前に信子に対する取材がなされていたことは明らかであるから、信子が原告に対し、事件を告白し、夫婦間の葛藤を乗り越え、マスコミを通じて事件を社会に公表することを決意し、『週刊新潮』らとの接触を図り、取材を受けて、記事が掲載されるという一連の出来事が、ほんの数日の間にすべて生じたことになる。しかしながら、一般人にとって、マスコミを通じて自らが被害を受けた事件を公表することは軽々に決することのできない重大事であり、相当に逡巡するのが通常であると思われるところ、右のような短期間にこれを決断したばかりか、マスコミとの接触、取材などについて首尾よく段取りが整ったというのは、論理的可能性としてあり得ないこととは言えないが、経験則上、明らかに不自然」 *デマを騒いだ一部マスコミに鉄槌 「本件のような事実的根拠が極めて乏しい事柄について、しかも、スキャンダラスな内容のものをいたずらに報道されるいわれはない」 *反創価学会勢力との野合 「『慧妙』の編集担当者は、『週刊新潮』の信子の手記掲載をあらかじめ認識していた」 「少なくとも、原告及び信子に対する取材ができなければ記事を掲載することは不可能であるから、取材を受けるという限りで、それらの団体との間の一定の協力関係があることを推認することができる」 ■総括 *“狂言訴訟”は「訴権の濫用」 「本件各事件の事実的根拠が極めて乏しいことを前提として考えると、原告らは、禁止されている創価学会会員間の金銭貸借を幹部の立場を利用して繰り返し行い、会員に迷惑を及ぼしていることを理由に創価学会の役職を解任されたことを根に持ち、創価学会を脱会した後、墓地代金等の返還を求めたが果たせず、そのため創価学会本部に恐喝まがいの電話を繰り返しかけたが、なお功を奏さなかったため、その仕返しとして、信子の手記をマスコミを通じて公表し、その延長上のものとして、被告に訴訟上又は訴訟外における有形、無形の不利益を与える目的で本件訴えを提起したものであると推認されてもやむを得ないというほかない。すなわち、本件訴えは、その提起が原告の実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするものではなく、被告に応訴の負担その他の不利益を被らせることを目的とし、かつ、原告の主張する権利が事実的根拠を欠き、権利保護の必要性が乏しいものであり、このことから、民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き、信義に反するものと認めざるを得ないのである。したがって、本件訴えは、訴権を濫用するものとして不適法なものというべきであり、このまま本件の審理を続けることは被告にとって酷であるばかりでなく、かえって原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねないから、この時点で本件訴訟審理を終了することが相当である」 関連年表 平成4年 (1992年) 5月14日 信平夫婦、悪質な金銭貸借を理由に創価学会より役職辞任の勧告を受けるが、信平側は拒否。翌日、解任。 5月22日 信平、債権者3人より、借金問題で提訴される。 平成5年 (1993年) 4月27日 山崎正友、栃木県・黒羽刑務所から仮出所。 8月27日 信平醇浩、貸金訴訟敗訴のため共産系弁護士を選任。 10月12日 高石シゲ子さんからの貸金訴訟、信平醇浩の敗訴確定。 11月16日 山崎、自民党の「民主政治研究会」で講演(以下4回)。 11月―― 山崎、このころに出した阿部日顕宛の手紙で「元学会幹部に証言をしていただく必要が多くなります」等と、信平狂言事件の推移と酷似する作戦計画を吹き込む。 12月15日 信平夫婦、脱会届を提出。 平成6年 (1994年) 8月25日  『週刊新潮』(9月1日号)による白山信之氏への人権侵害【↓3大デマ事件の@】。 9月16日 日蓮正宗機関紙「慧妙」で、竜年光が信平信子の虚言を匿名で紹介。 12月24日 山崎正友の仕掛けによる「創価学会による被害者の会」第1回大会。 平成7年 (1995年) 1月6日 信平醇浩、創価学会に対し墓苑代金等の返還訴訟を起こす。4月25日、請求棄却。 9月1日 東村山市議が転落死。以後、各週刊誌が悪質な報道を繰り返す【↓3大デマ事件のA】。 9月14日 信平醇浩、創価学会への仕返しとばかり、学会本部に脅迫まがいの電話(以後、年内に7回)。12月の電話では“金を出さなければ、東京に行って情報を売る”と学会側を恫喝。直後の30日、信平信子が、「赤旗」に登場。 12月8日 “改悪”宗教法人法、可決・成立。 12月10日 北海道で「被害者の会」が設立1周年記念大会。ブラックジャーナリストの段勲、乙骨正生らが北海道入り。 平成7年 (1995年) 12月―― 山崎正友が『週刊新潮』記者、共産党関係者らと“疑惑の忘年会”。 12月30日 信平信子、「赤旗」に匿名で登場し創価学会批判。 平成8年 (1996年) 2月2日〜3日 『週刊新潮』の記者が信平夫婦と接触、“手記”の大要がデッチ上げられる。山崎の手先である日蓮正宗の謀略グループ妙観講の幹部が同席。 2月15日 信平信子、『週刊新潮』(2月22日号)に“手記”(第1回)【↓3大デマ事件のB】。 2月16日 日蓮正宗機関紙「慧妙」(2月16日付)、1面に「緊急予告」として「信平捏造手記」を大宣伝。 2月19日 衆院予算委員会理事会にて、自民党の深谷隆司が『週刊新潮』の報道を取り上げ、池田名誉会長の証人喚問を正式に要求。 2月22日 信平信子、『週刊新潮』(2月29日号)に“手記”(第2回)。 2月23日 信平夫婦、新宿区内のホテルで記者会見。司会は乙骨正生、会場申し込みは妙観講関係者。 「被害者の会」の機関紙「自由の砦」が信平の「捏造手記」を掲載。 2月29日 信平信子、『週刊新潮』(3月7日号)に“手記”(第3回)。 3月1日 ブラックジャーナリストの内藤国夫が『THEM―S』誌上で、平成6年9月に竜年光が紹介した虚言の主が、信平であることを明言。「慧妙」、1面で、「自由の砦」の手記をもとに騒動の概況を伝える。 3月9日 北海道・仏見寺による信平の「捏造手記」の1、2回分をまとめたパンフレットが、函館で無差別郵送される。 3月17日 信平信子、「被害者の会」九州大会に登壇。内藤国夫は信平への支援を呼びかけるとともに、「(手記を)僕に書かせればよかったとは思っていないんです。僕は『週刊新潮』が書いたものを読んであげて」等と白状。 4月2日 内藤国夫、「自由新報」紙上に「捏造手記」を取り上げる(以下4回)。衆院予算委員会にて自民党の白川勝彦代議士(当時)が、信平の“狂言騒動”を持ち出し、池田名誉会長の証人喚問を要求。 平成8年 (1996年) 4月―― このころ、山崎正友・内藤国夫が結託した「民主政治を考える会」の「捏造手記」を取り上げたビラが大量に配布される。 5月28日 衆院金融問題特別委員会にて、自民党の原田昇左右代議士が、池田名誉会長、信平信子らの証人喚問を要求。 高橋節さんからの貸金訴訟で信平醇浩の敗訴確定。 5月30日 山本照子さんからの貸金訴訟で信平醇浩の敗訴確定。 6月5日 信平夫婦、総額7469万円の損害賠償を求める民事訴訟を提訴(東京地裁)。同日、信平夫婦ならびに弁護士らが記者会見。 6月6日 「赤旗」が、信平の提訴を報道。加えて同紙7年12月30日付に匿名で登場し創価学会批判をしていた人物が、信平信子であることを明らかにする。 6月23日 創価学会を中傷する団体「ヤイロ鳥」の公開シンポジウムで、内藤国夫と乙骨正生が信平についてやりとり。内藤「(カンパのことで)この中から2万円、信平さんに回します。乙骨さんから信平さんの事務局に回してください」乙骨「いいえ、私は事務局しているわけではないですから」内藤「でも関係あるね」乙骨「はい」。 6月24日 信平信子、外国人記者クラブで会見。借金問題についての質問に公然とウソをつく。 8月22日 山崎正友、『週刊文春』に「十三人の女」なるデッチ上げ記事を掲載。信平の名を挙げ、公判間近の狂言訴訟への“援護射撃”を行う。さらに、わざわざ問わず語りに「断っておくが、私個人はこの二十数年来、信平さんと一面識もないし交信したこともない」と強弁。 9月24日 狂言訴訟第1回口頭弁論(東京地裁)。創価学会側は、信平側の訴状内容と捏造手記の矛盾点を指摘、釈明を要求。 11月26日 清水菊枝さんからの貸金訴訟で信平醇浩の敗訴確定。 12月17日 狂言訴訟第2回口頭弁論(東京地裁)。矛盾を指摘した日時・場所につき、信平側がさらに曖昧に変更。 平成9年 (1997年) 2月25日 狂言訴訟第3回口頭弁論(東京地裁)。創価学会側の釈明要求に信平側が回答拒否。 5月13日 狂言訴訟第4回口頭弁論(東京地裁)。創価学会側、時効の成立が明白な部分についての判決を要求。 9月2日 狂言訴訟第5回口頭弁論(東京地裁)。創価学会側、信平側の矛盾点を再度指摘。重ねて判決を要求。 11月11日 狂言訴訟第6回口頭弁論(東京地裁)。東京地裁が信平側の訴えの主要部分を分離して結審。創価学会側の主張を全面的に採用。 11月20日 『週刊新潮』(11月27日号)は「裁判官の『挙動不審』」と題して裁判官に対し常軌を逸した人格攻撃を加える。 12月12日 信平夫婦、裁判の終結を恐れ引き延ばしのために裁判官忌避を申し立てる(東京地裁)。 「読売新聞」(地方版朝刊)、信平の息子のノミ行為を報道。「朝日新聞」「北海道新聞」「函館新聞」が12日夕刊で、翌13日朝刊で「毎日新聞」「北海タイムス」も報道。 12月27日 信平信子、「被害者の会」3周年集会に山崎正友とともに登壇。山崎が「私は信平さんとお会いしたり、お話しした記憶はございません」「一度もお目にかかったこともなければ、口をきいたこともない。手紙のやりとりもありません」と語れば、口裏を合わせたように信平も、初対面であると不自然なまでに強調。 平成10年 (1998年) 1月10日 「自由の砦」、前月の「被害者の会」での山崎と信平の話の詳細を掲載。 2月2日 東京地裁、裁判官忌避の申し立てを却下。信平側は、即時抗告。 3月26日 最高裁も新潮側の上告を棄却。白山氏の勝訴確定。 4月6日 東京高裁、裁判官忌避の申し立てを却下。 4月21日 「自由新報」(4月28日号)、信平狂言関連の内藤記事につき与謝野馨広報本部長(当時)名で謝罪文を掲載。信平夫婦は、6月26日になって、自民党の謝罪は名誉毀損に当たるとして東京地裁に提訴。 4月23日 自民党の謝罪を受け信平弁護団が記者会見。「緊急アピール」を発表。同日、四月会も「緊急アピール」発表。 平成10年 (1998年) 5月26日 狂言訴訟に判決。信平側、全面敗訴。信平信子の訴えのすべてと信平醇浩の訴えの一部が棄却。以後、東京地裁で信平醇浩の残りの訴えについて審理が続く。 6月1日 自民党総裁・橋本龍太郎総理大臣(当時)、創価学会に対し電話で、信平絡みの記事を同党機関紙に掲載したことについて直接、陳謝。 6月10日 自民党・加藤紘一幹事長(当時)が記者懇談会で、「自由新報」の謝罪に関連して創価学会に対し、謝罪・遺憾の意を表明。 6月16日 自民党・服部参院議員が「奈良日日新聞」のインタビューに「当然謝罪すべきものだ」と答える。 6月26日 信平夫婦、自民党と橋本総裁(当時)を相手取り、名誉毀損に基づく3千万円の損害賠償及び謝罪要求訴訟を東京地裁に提訴。 12月24日 近江アキさんからの貸金訴訟で信平醇浩の敗訴確定。 平成11年 (1999年) 5月13日 裁判長から審理終了の終結宣言(東京高裁)。 6月22日 信平醇浩による脅迫まがいの電話録音テープ、証拠として正式採用。 7月19日 『週刊現代』に対する損害賠償請求訴訟の一審で原告の創価学会側が全面勝訴(東京地裁)。 7月22日 東京高裁、信平信子の控訴を棄却。信平信子は最高裁へ上告せず、8月5日に判決が確定。 10月1日 信平醇浩、4人の弁護士を突如解任。 平成12年 (2000年) 2月22日 東京地裁、弁論の終結を宣言。 5月11日 信平夫婦が自民党を訴えていた裁判で、信平の請求棄却の判決(東京地裁)。信平は控訴せず判決は確定。 5月30日 東京地裁、信平醇浩の請求を“訴権の濫用”として却下。 平成13年 (2001年) 1月31日 東京高裁が信平側の控訴を棄却。創価学会側か勝訴。 5月18日 東村山事件報道で『週刊新潮』が一審で全面敗訴(東京地裁)。控訴断念で敗訴確定。 6月26日 最高裁が信平側の上告を棄却。創価学会側の全面勝訴が確定。 山本栄一(やまもと・えいいち) 昭和4年(1929年)栃木県生まれ。学習院大学政経学部卒業、読売新聞社に入社。社会部記者を経て編集局連絡部長、編集委員を歴任。この間、アマゾン学術調査隊、エベレスト・スキー登山隊、アフリカ飢餓援助キャンペーンなど約40カ国で取材を行う。エチオピア、ガーナ、ベニン、トーゴなどアフリカ各地では、農業、食糧問題および非政府組織(NGO)の活動を取材。読売新聞退社後は、学習院大学法学部講師も務めた。主な著作に『よみがえれ・アフリカの大地』(ダイヤモンド社)など。 2001年11月28日 第1刷発行 著者 山本栄一