法主ファミリーの大悪行 宗門の私物化をこれ以上許すな! 憂宗護法同盟著 はじめに 前刊「法主の大醜聞」では、日蓮正宗阿部日顕法主の現今の「堕落」と「愚行」の根源を、あえて法主自身の血統に遡り、その人格形成のルーツをたどって検証した。これによって、われわれは現在の法主の失格ぶりと、その法主を頂点に仰ぐ現日蓮正宗の危機を明らかにしようと考えたからである。  「法主の大醜聞」が発刊されてから、僧侶・信徒を問わず、全国の様々な方々から励ましのお手紙やご批判の葉書をいただいた。その反響の大きさにわれわれ自身驚くとともに、発刊までの永き逡巡の時期を振り返るとき出版して本当によかったと実感している。 この頁をお借りして改めてお礼を申し上げる次第である。  そして、反響と同時に「ぜひ、続編を――」との声が寄せられ、また、多くの方々から資料の提供、貴重な証言をいただいた。寄せられた資料、お手紙の中には、末寺の現状や窮状を訴えるものと同時に、いわゆる日顕法主ファミリーの宗門私物化に対する怒りの声が相当数あり、再度、憂宗護法同盟の有志と話し合った結果、続編は、法主の身内、及び その周辺に群がる人物に光を当ててまとめてみることで一致した。  近時、日顕法主を中心とした一族・閨閥による宗門支配がまかりとおり、そこに入る者と入れぬ者との間に、優遇・差別の明確な立て分けが生じている。そこでは、単に法主の親族である、また、法主の信任を受けている、という一事だけで、富と権勢をほしいままにすることができるという、日蓮大聖人の教えとは全く掛け離れた世界が存在する。いわば僧侶貴族社会が形成されているといっても過言ではない。  このような日蓮正宗にしてしまった責任は誰にあるのか。本書は、まさにこのような体制の下で権勢をふるう日顕法主周辺の人物を検証の対象とするものである。  もちろん、その根源に位置する張本人は日顕法主その人であり、法主の「堕落」と「愚行」が、その周辺までをも汚染させていることは明らかであり、この点前刊の基調と同様である。  宗門は外から崩れるより、日顕とその一族周辺の堕落によって中枢部から崩壊する、と公言する人は多い。本書は、その事実の一端を、特定の人物から浮かび上がらせる手法をとった。もちろん醜聞暴露が本意ではない。しかし、万を述べるよりひとつの事実を示す ほうが、宗門の体質を理解するには容易である。  御書にいわく「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と。  真に日蓮大聖人の仏法を理解体得しているならば、その行体も正しくあるはずである。 あえて醜聞を晒すことによって諸人の判断を仰ごうと考え本書を公にする次第である。 出版にあたり、資料、証言をいただいた方々に、この項をもって厚くお礼を申し上げたい。                           憂宗護法同盟代表 小板橋明英 目次 はじめに 第一章 豪邸捜しの不動産屋・谷平明      ひそかに世田谷の豪邸捜しをしていた男の正体とは      「芙蓉荘」に群がる遊蕩坊主たち      日顕と芙蓉荘の娘・久子のむかしの噂      宗門御用達、“清昌”の事業内容と商売繁盛      信量の”愛人妊娠”騒動を揉み消した谷平親子 第二章 女漁りの金庫番・石井信量      趣味の女子従業員ヌード写真が発覚      “日顕の金庫番”になれた本当の理由      むかしから妙修尼・日顕母子のお気に入りだったナッ子      “金庫番”と“女狂い”信量の二つの顔の使い分け      誰もが知っている子連れ愛人の素性      御本尊と書かれたダンボール箱から“裏ビデオ”が!      実兄・栄純の法照寺に絡む“十億円”疑惑 第三章 無資格の経理士・野坂昭夫      宗門末寺の経理をみている日顕の義弟は還俗男だった      税務調査の影に脅える無資格経理士の心労      日顕が一千万円納税者リストから消えた怪      西片の“裏法主”政子の金銭感覚      政子がブラジル“お忍び”旅行に連れていった妹とは 第四章 小型瞬間湯沸かし器・阿部信彰      妻の髪をつかんで引きずり回す暴力住職      平身低頭も供養金欲しさのサル芝居だった      帰国するたびにトランクが四〇個      「一億円送って!」の無心と政子送金の疑惑      地元で大顰蹙、日顕一行の飲めや歌えのブラジル乱痴気親修      所化に暴力「俺に殴られると宿業がひとつ減る」?      ポスト欲しさに電話口で哀願、飽くなき出世欲      地獄寺から脱出した女子従業員の一部始終 第五章 飽食グルメ・早瀬義純 酒グセの悪い呑んべえ・百合子      門閥・閨閥にみる宗門腐敗の権力構造      ラブホテル「法道院」の性欲坊主、故・早瀬日慈の夜毎      台所だけで三千万円かけた妙国寺の信心より料理      法主日顕を操る母と娘の女の野望      独占! 日顕親修の影の仕掛け人たち      皇室御用達(ロイヤルブランド)に狂気奔走      蕎麦屋の喧嘩、百合子の酒量と酒癖 1 第六章 全員そろって、綱紀自粛破りの目顔ファミリー      日顕がカマス綱紀自粛とは      綱紀自粛破り「八・三〇温泉豪遊事件」の全貌      これだけあるぞ、温泉豪遊の数々 関係資料・同盟通信 資料1 同盟通信N030 資料2 同盟通信N034 資料3 同盟通信N038 資料4 同盟通信N044 第一章 豪邸捜しの不動産屋・谷平明  証言 「宗門には頭の黒いネズミがチョロチョロして、大石寺を食い物にしている」と谷平明を評して工事関係者が言っています。平成二年の三門前の道路の付け替え工事のときなど工事を発注したK組に自宅の改装工事を一緒にやらせたり、コーヒー店「藤のや」のサッシを取り替えさせたり、工事発注の見返りにそういうことをやらされたと工事関係者が言っていました。(本山塔中坊住職) ●ひそかに世田谷の豪邸捜しをしていた男の正体とは  昭和五十八年十月、大石寺内事部管財室にひとりの男が勤めた。谷平 明、当時、四十歳。  出身地は北海道島牧郡島牧村である。  その翌年、五十九年九月、日顕法主夫人政子が実弟・野坂昭夫夫婦と三人だけで父の故郷に初めて里帰りをした。北海道島牧郡島牧村であった。谷平明は島牧村・永豊、政子の実家は島牧村・原歌である。  海岸沿いの細長い島牧村は永豊、原歌と続いている……。  前著(法主の大醜聞)でも述べたが、政子の島牧村帰りは、多くの謎に包まれている。日頃、所化の運転する高級車でしか移動したことのない法主夫人・政子がわざわざ、すでに肉親はなく、遠縁にあたる者がひとりいるだけの島牧村にレンタカーを借りて、五時間以上もの道のりを訪ねて行ったのは?  夫人政子の里帰りの表向きの理由は父の残した土地の名義書き換えであった。その頃、 谷平明は本山の管財室土地係の仕事をしていた。  平成五年十月、夫人政子は日顕の金庫番石井信量とその妻ナツ子をともなって世田谷の高級住宅地に現れた。ひそかに豪邸の下見に来たのだった。  政子は豪邸の前に立って、「ここから見る景色は、すばらしいわねえ」と満足そうに、この物件の紹介者に向かって言ったという。この紹介者こそ政子と同じ出身地(ルーツ)を持つ谷平明である。  以前、目黒区八雲に寺院とウソまでついて地下にプールやトレーニングルーム等の施設をつけた豪邸の建設計画があった。二十数億円ともいわれたこの建物は日顕、政子の隠居後の住まいだった。  平成三年三月十二日のFAX通信「地涌」に暴露されるや、翌十三日、宗務院は「東京都目黒区八雲の大石寺出張所建設計画並びに取り止めについてのお知らせ」という通達を出して、「御法主上人猊下より目黒出張所はまだ未契約のことでもあり、その他種々の事情により建設計画を取り止める様指示がありました」と発表。急遽つぶしてしまった。  末寺の困窮状況から見て、プール付きの豪邸はまずいと思ったのであろう。でも、だからといって決して日顕、政子にとって隠居後の豪邸を諦めたわけではなかった。前にも述 べたように谷平にひそかに捜させていたのだった。  日顕夫婦の執念の豪邸取得計画、その尖兵となって動く谷平 明とは?  大石寺内事部管財室土地係、そして内事部理事の石井信量とは親密な間柄である。  とくに肩書きもないこの男が実は日額ファミリーの一員であり、大石寺においては一介の本山従業員でありながら、信量と共に隠然たる力を発揮しているのである。  信量は日額の“金庫番”、谷平は不動産担当として、特に本山ばかりでなく全国の末寺の土地取得、購入、転売といった不動産関係を扱う第一人者なのである。  「最初は本山のまわりの土地の買収係だったが、どういうわけか日顕猊下にかわいがられて、アッという間に宗門の土地問題を全部まかされるようになったんだ」(元本山従業員)。  本山に隣接している日の出山荘の北側の五百坪以上の土地を地主が売りたいと言ったことがあった。谷平は誰にも相談せずに直接、日顕に進言、坪七十万、四億円以上の金を大石寺から支払わせた。これが谷平の最初の大仕事であった。  それからというもの、全国末寺の土地問題の相談が谷平のところに来るようになる。 「境内を広げたい、墓地をつくりたい、駐車場を大きくしたい」等々。谷平はこれらの現地の状況を調べ、最終的には日顕に報告する。そのため末寺は日顕の許可をもらってくれ るように谷平を大切にする。彼の権力は本人も気がつかないうちにいつの間にか増幅していった。全国の末寺から戻ってきた谷平が管財室で末寺の様子を自慢そうに話すのを聞いた者も多い。  管財室の理事なども、一職員の谷平に対して「谷平さん、なんとかならないだろうか」とへりくだり、「そんなもん、なるわきゃないだろう」と彼はにべもなく返事をするのだという。  谷平が手掛けた仕事で違法のものがある。一つは平成二年の三門前の道路の付け替え工事だ。「交通量が多くて危険」という理由で新しい道路に付け替えようというものだった。これは六十一年頃からやっていたが、道路が市道と県道にまたがっていたため、工事許可が取れず中断していた。日顕はそれを谷平にやらせた。谷平は下請け業者K組にまかせ、道路法二十四条を使って県のかわりに大石寺が強引に工事を請け負った形にして、アッという間に造ってしまった。ねらいは三門前の境内の拡張にあったといわれている  「いくら三門の前を広くしたいからといって、これは違法ですよ。このたび農地法違反の決定が下りました」(告発人・小宮山元氏)  もう一つは、平成五年六月三日に歌手の沢たまきさんら二十名が大石寺の違法墓地販売 を提訴した事件があった。これは大石寺が、昔から平然と違法墓地を造成して売っており平成二年からの分だけでも約三百五十基造成されている。その時の一基の永代使用料が百万円だから、それだけで三億五千万円も不当利益を得ることになる。この違法墓地も谷平がやったものだ。  こうなると谷平は単なる一職員ではなく、大石寺の金庫番・石井信量のパートナーとして、大きな金を動かす男ということになる。自ずと、日顕の信頼度もまた高くなってくるのである。  日顕私邸の購入計画に加わり、世田谷・等々力の豪邸の下見に同行し、この物件について綿密な調査をし、価格の妥当性などを判断したのも谷平である。  「こんな時に何が豪邸ですか! 谷平は坊主じゃないから宗門がどうなろうと関係ないんだ。要は自分が猊下に気に入られることだけを考えて、何十億もの隠居後の住まいを 次々と捜してくるんだろうけど、こんなこと許してたら、宗門はつぶれますぞ」と宗門の老僧は嘆く。  日顕の最初の目黒区八雲の豪邸計画も―。  「あの土地を探してきたのは谷平明です。あの土地は東急不動産のものなのです、彼は 大学を卒業して最初に勤めたのが、東急電鉄なんです。その関係で見つけてきたんです」(元本山従業員) 日顕にさえ気に入られれば内事部の理事よりも権力を得ることが出来る。そのためには宗門がどうなろうが、日顕のために何十億もの豪邸を捜す。日顕もまた宗門の利害より自分のためにだけ働く男を重用する。その顕著な例が「日顕の豪邸捜し」である。 ●「芙蓉荘」に群がる遊蕩坊主たち  石井信量は実兄・石井栄純が住職をしている横須賀市日の出町・法照寺の敷地に隣接している計約八〇〇平方メートルの土地を大石寺名義で購入、実際には法照寺の移転新築地に転用しようとしていることが発覚した。また、この購入資金約十億円は勝手に流用したものではないかという疑惑が持たれているが、それはともかく問題の土地の取得のため動いたのも信量の意向を受けた谷平であった。このように日顕ファミリーの不動産売買には谷平が参加している。  谷平が日顕の信頼を受けているのは、その才覚ばかりでなく、日顕と“影の部分” 有しているためだ。  職員としての在籍年数もそう長くないのに、彼のキァリアや活動内容を追っていくと、いろいろな点で日顕・政子夫婦と重なるところが出てくる。  日顕の悪徳の根源にあるのは、その気質と環境といわれるが、谷平はまさにその環境の部分で結びつくのである。 『法主の大醜聞』には、大石寺の坊主たちの遊び場として、料理屋「芙蓉荘」が出てくる。  同寺の周囲には明治時代からすでに遊び場が存在した。現在も宗務院の左手に「三幸旅館」があるが、ここはかつて「牛や」というささやかな呑み屋だった。普通の居酒屋ではなく、小部屋が並び、ここで女中が酒のお酌をしたり、セックスの相手もした。当然、若い坊主たちの溜り場として繁盛した。その後、店名を「牛や」からやや上品に「三幸」と変えたが、営業の内容は同じであった。  当時、信雄と名乗っていた日顕も仲間と、しばしば蓮葉庵で酒を飲んでは、この「三幸」にも顔を見せていた。  昭和十三年頃、もう一軒、既存のものよりもアカ抜けた感じの料理屋が出現した。それ が「芙蓉荘」である。開店に一役買ったのが日顕の父・元法主の日開といわれている。その三年前、日開は損傷の甚だしい三門の改築を計画、福島県出身の宮大工、谷平利三郎に依頼した。  谷平の仕事ぶりはなかなか見事で、日開を十分に満足させた。谷平は妻を同行させており、その妻・すへは一見、芸者上がりのような色気のある女で、たちまち日開の歓心を買ったようである。  日開はかれら夫婦をこの地元に引きとめておきたかったのだろう。三門の仕事が完成すると、今度は二年前に焼失した蓮葉庵の復興を利三郎に命じる。これも仕上がった。ここを隠居所として、日開は妻の妙修尼とともに死ぬまで住むことになる。  日開は蓮葉庵の復興後、さらに「坊主たちの息抜きの場所を作ってくれ」と依頼する。宿坊を作れというのならまだ分かるが、遊び場をというところが、いかにも“遊蕩法主”日開らしいが、同時に、当時の大石寺の僧侶たちのモラルの程度を物語るものだろう。  いや、日開は、僧侶たちのためといいながら、自分自身がこの大工の妻と、公然と会える遊び場をというのが、本音だったのではあるまいか。  当時、現在の三門のあたりは川になっていた。低い滝もあった。川の流れは急で大雨が 降ると土手が崩れた。利三郎は富士山の溶岩を集めて土台にし、自宅兼用の二階建ての料理屋を建築した。宮大工として腕のいい男なので、料理屋などは簡単だった。渡り廊下をつけ、小部屋を並べ、客の僧侶たちが鉢合せしないような工夫もほどこした。  女たちは富士宮の色街からやってきた。ときには三、四人の女たちが、夏になると着物の襟もはだけたままで黄色い声を上げては、店先にたむろしていた。とても素朴な地元の農民たちの近寄れる所ではなく、村人は「生臭坊主たちが…」と渋面を作っていたのである。  なにしろ日開の肝煎でできた店である。僧侶たちは大手を振って出入りするようになった。日開も下にも置かぬもてなしに連日のように顔を見せていたと、これも老僧たちの証言である。  利三郎とすへの間には、日顕よりは一歳若い娘の久子がいた。  日開の弟子、高野法玄、千種法輝といった連中はここの常客だった。三門の近くで、こんなに地の利のよい場所はない。大宮町(昭和16年・富士宮市となる)の新杵屋から芸者を呼んでバカ騒ぎをしていたとその頃を知る老僧は語っている。当時の世相は、ここ大石寺周辺のようにのんびりしたものではなかった。  太平洋戦争は激化し、多くの地元信徒や僧侶たちもいつしか戦場に赴き、立正大学の学生だった信雄たちも学徒出陣となる。信雄は妙修尼の意向で慌しく政子と結婚するが、日開が死亡したり、宗門が時の軍事政権にスリ寄るなど、別天地のような大石寺にも、疾風怒濤の時代の波が襲った。  終戦。信雄たちは次々に寺に戻ってきた。この混乱の中で信雄はかつての恋人であった蓮成坊の娘、川田T子と再会し、これが“隠し子事件”にまで発展するのだが、恋愛中にT子とひそかに会っていた場所は「芙蓉荘」、戦時中、妙修尼に政子との結婚を迫られた信雄が、T子にそれとなくプロポーズし、返事をもらえず、ヤケ酒を飲んだのもここ「芙蓉荘」、政子と結婚式をあげたのも、なんと「芙蓉荘」だった。また久子は妙修尼に華道や茶道を教わっており、こうした複雑な人間関係をこの「芙蓉荘」の建物は眺め続けていたのである。 ●日顕と芙蓉荘の娘・久子とのむかしの噂 久子は昭和十八年、地元で働いていたSという男と結婚する。この頃には信雄はすでに この店を利用していて、女に手の早い彼は久子とも関係ができたとみられ、久子の長女が信雄の子ではないかという噂も流れたことがある。  当時、店で働いていた女性従業員で、つい最近まで富士宮で料理屋をやっていた人の証言では、「信雄がふらりとやってくると、いつもの部屋に通され、酒の相手は久子がするのです。女中たちが酒などを運ぼうとすると、すへが厳しい顔になって、『信雄様がいる間は、あの部屋に近付かぬように』と、その都度、釘を刺したものでした。それで部屋でなにが行われているか、二人がどんな関係なのか、何となく察しがついたのです」と。  実母公認の不倫だったのであろうか。また、「芙蓉荘を手伝っている頃、わたし信雄さんが大好きで大好きで……」と、久子自身、多くの人に語っている。  長女を出産した後、久子夫婦は満州に渡り、長男を生む。戦争は終わり、この夫婦はまた「芙蓉荘」に戻るが夫・Sはほとんどおらず久子が、営業を手伝うのである。  当然、信雄、久子との関係も復活するが、信雄はこれ以外にも了性坊の娘とも関係を噂されていた。こうした次から次の多彩な色模様の舞台になったのがすべて「芙蓉荘」、日顕の性をめぐる頽廃ぶりが露呈しているではないか。  ようやく戦後も落着きを取り戻した二十八年三月、久子夫婦は離婚する。一説には死別 と言われている。彼女は四十年ごろまで、店を一人できりもりし、三人の子供を育てる。 本行寺、平安寺住職時代、そして教学部長になっても、日顕は登山すると、ときどきここで久子と会っていたといわれている。  ここまでの経過が長くなったが、いよいよ谷平 明が登場する。  久子の長女は地元の高校を卒業して東京の私立大学商学部に進学する。ここで法学部の学生だった同級生の竹口明と親しくなる。  明は四十年に卒業して、東京急行電鉄に入社するが、一年後、退社して日本経営者団体連盟に移り、さらに一年後、こんどは大映株式会社に入る。四十一年に久子の娘と結婚した明は、妻の実家のある本山近くの上野村に帰ってきた。そして二人は本山の参道で「藤のや」というコーヒー店を経営する。  登山者もしだいに多くなり、店は繁盛していた。  久子はここでの僧侶の生活ぶりを熟知していた。久子たちにはなにしろ日顕という有力なバックがあった。以前、日顕に頼んで長男を得度させてもらったこともあった。  「日顕の弟子になって本行寺にしばらくいたことがあったけど、いつの間にかいなくなった」(当時の本行寺の所化)  つまり早々に還俗してしまったのだ。その後、久子の長男は明と一緒にコーヒー店を手伝ったりしていた。  こんな状態が十年以上も続いた。  昭和五十年六月、久子は母すへの土地・家屋(富士宮市黒田)を譲渡書き換えする。半年後の五十一年一月、二人の子供までおりながら、明は久子と養子縁組して竹ロから谷平の姓にかわる。  今、その住所には再婚して家を出た久子にかわって、谷平明の一家が住んでいる。  本山にも喫茶店など競争相手が増え、コーヒー店もそうそう面白い商売でもなくなった。またいつまでもやっていける安定した仕事でもない。  明は転職を考える。「明を内事部に入れてもらうために直接、大奥まで行って猊下にお願いしてきた。それで、明は内事部に入れることになった」久子が知人に語った話である。「長男を所化小僧の修行に出したが途中で還俗したため、せめて娘婿の明に大石寺にご奉公してもらおうと思って」ともつけ加えている。いずれにしても、こうして谷平は内事部管財室に就職した。  「最初、久子は妙蓮寺の吉田日勇住職のところに明を内事部に入れてもらえないかと頼みに行ったんだよ」(本山関係者)  ところが吉田日勇住職は「(明を)内事部なんかには入れないほうがいいよ」と久子に対してやんわりと拒否。そして内事部にも「谷平が入りたがっているが入れない方がいい」とも言っていたという。  当時の谷平明は地元の創価学会の幹部でもあったため、坊さんたちも内情を知られたくないという気持ちもあったのだろう。  「ところが、妙蓮寺ではラチがあかないと思ったのか、久子が直接、大奥に行って、日顕猊下にじかに会って、内事部入りを頼んだんです」(本山関係者)  この時の保証人は石井信量がなっている。  「もともと、日蓮正宗宗務院といったって、全国末寺を統轄している組織であって、経済的には何も動かないんです。むしろ、地元と結びついている大石寺内事部が宗門の金さえも動かしているといえます。だから、宗門の利権もすべて内事部にあると言っていいと思います」(本山塔中坊住職)  ただ、日顕登座以前も、その後も直接、土地問題を含めて渉外、交渉のできる人がいな かったので妙蓮寺の吉田日勇住職がやっていた。内事部管財室土地係というのは、昔は「第三管財の土地部」などと呼ばれていた。そして妙蓮寺から引き継いだ岩切俊道(当時・蓮成寺住職)にかわって、その後、日顕が吉田秀晃(当時、典礼院住職)に交替させた。  この頃、谷平久子の紹介で昭和五十八年、明が内事部に入る。吉田秀晃は北海道・苫小牧の寺に転勤した。その間、谷平が一手に引き受けることになる。六十一年、宅地建物取引主任の資格を取ってからは、ますます日顕から重宝がられ、地元有力者のWと組んで、ずいぶん派手な仕事もした。三門前の道路付け替え工事などもその一例である。その後、上司として山崎慈昭理事が入ってきたが、こまかいところまでは分らず谷平にまかせっぱなしにならざるを得なくなっていた。  内事部は主任理事が日顕の一番弟子、八木信瑩。その下に五人の理事がいる。お仲居の駒井専道、小川只道、山崎慈昭、新井契道、そして金庫番の石井信量である。これらの下に僧侶、一般の職員など数十名がいる。谷平明などは、その中の一人であったのだ。  こう証言する僧侶もいる。  「谷平を管財実務のエキスパートと見るのは間違いですよ。というのも管財室の仕事は 頭を下げることが、一つもないんです。金を払うだけでもらうことがないんだから、交渉といったって工事費や土地代の安い方を選ぶだけなんです。それでさえも谷平は、土地に詳しい学会関係者に聞き回って教えてもらっていたんです」(本山関係者)  平成二年末、宗門問題が起こって、学会の協力を得られなくなってからは、宗門では土地のことは谷平以外できる者がいなくなっていた。それで彼が宗門で力を持つようになったのだという。  明の出身地は、北海道島牧郡島牧村である。この海に臨んだ漁村は政子の父・野坂益雄の生れた村でもあった。つまり法主夫人・政子と明は偶然にも出身地が同じだったのである。  益雄はまだ若い頃、この村を離れ、東京に出て政子の母・あいと知り合い結婚、株屋で一時、成功し東京・中野に家も作ったが、まだ幼い政子と弟・昭夫を残して死亡した。  この時から親子三人の苦労が始まり、ラーメン屋なども開いたことがある。この時、材料の海苔をこの島牧村に残る益雄の親類から送ってもらったこともあった。  その後、あいは兵庫県川辺郡中谷村の鉱山に流れつき、料理屋の仲居になるが、政子姉弟は遠縁に当たる日顕の母・妙修尼に引き取られ、大石寺の「蓮葉庵」で女中として働く うち、妙修尼の強い意思で日顕と結婚することになる。こうして法主夫人への道が開かれたのだ。 ●宗門御用達、“清昌”の事業内容と商売繁盛  宗門は隆昌の一途を辿っていた。明は中途採用ながら、この発展のブームに乗り、末寺などの用地確保という陽の当たる、しかも大きな資金を運用できる重要な仕事につくことになる。  用地を拡大したり、本堂を改築する寺も多く、明は東奔西走、土地担当者としての経験を積んでいく。彼がこうした不動産業務の勉強をしたのは、経営者団体の付属の学園だったという。  明は六十一年に宅地建物取引主任の試験などにパス、石井信量たちのように僧侶だけの世界で育った世間知らずではない。いくつもの会社を転々とし、社会の荒波もくぐりぬけている。それもまた日顕の明に対する評価になったのだろう。  たいした経歴もない明夫婦だか、ここまで順調にやってきたといっていい。明は創価学 会員で、当初、活動にも一生懸命だった。  「なんら取柄のない私がここまで来られたのは、学会の指導のおかげです」などと殊勝なことを周囲の学会員たちにしばしば話していたのである。  地元の圏書記長、圏青年部長、県主任部長となり、ここでも注目を集めていた。  しかし大石寺に勤め、信量との二人三脚が忙しくなり、また宗門に台頭してきた反学会の動きに同調して、しだいに学会活動から疎遠になり、公然と叛旗を翻すようになるのである。  わずかばかりの信徒と言えども法華講を擁する宗門である。その目でみるとカネになる事業は、無数といっていいほどころがっていた。少々の才覚とアイデアさえあれば、儲け仕事は次々に飛びこんでくる。そのための会社が必要だと、明は信量に持ちかけた。  石井信量は管財室に出入りしている理境坊住職小川只道に持ちかけ、石井信量、小川只道が三百五十万、谷平明が三百万を出資して会社をつくったと言われている。  出資金の配分は噂であるが、谷平が役員のこの会社は元はエスエスジーという有限会社であった。それを名義変更して当初、有限会社“清昌”にした。この清昌の命名は日顕と言われている。仕事内容も保安警備、旅行代理業、保険代理業、不動産業などである。  平成四年十月に有限会社から株式会社に組織変更し、表面上は谷平明ともう一人Nという人物が代表取締役になり、石井信量や小川只道の名前は一切でてこない。だからといって一切無関係というわけではない。今まで学会の外郭団体、日光警備がやっていた本山警備を小川只道の理境坊の妙観講員でやることにした。  また、この宗門問題が起こったため、住職になれるあてのない無任所教師が本山にたくさんおり、それらの若者がやり場のない鬱積した気持ちを先輩住職から安く譲り受けた中古車を乗り回すことで発散している。谷平たちは「自動車保険のことなら、ぜひ清昌へ」と、抜け目なく、これも仕事にしている。  また海外のSGI(創価学会インターナショナル)メンバーを切り崩すために渡航する僧侶の旅行代理業務も清昌の仕事の一つである。  平成五年十二月のあまりにも有名になってしまったスペインでの、合掌すらできず、数珠を見ながらコックリ、コックリやってしまった日顕法主の居眠り親修、渡航手続きの一切を行なったのも清昌である。  こう見てくると、内事部職員になって、わずか十年余りで、ここまで日顕の寵愛を受けるようになった谷平という男、なかなかの手腕と言わざるを得ない。本山近くの谷平の自 宅の後ろに瀟酒な建物が建った。谷平が建てたものである。「本山内ではゆっくり休んでもらう場所もないので政子夫人が来た時の、休息用に建てたんだ」という。「初任給が十四万円、今でもせいぜい月四十万円足らずの本山従業員の給料で、どうしてそんなことができるんだ」と、谷平の背景を知らない地元の人達は首をかしげている。  谷平は警察関係にコネがあって、日顕親修の折には地元の警察に連絡して警備を頼んだりしている。以前、北海道・札幌の日正寺(河辺慈篤住職)に日顕が親修に行ったときのこと。河辺が地元の警察署に警備を頼みに行ったところ、交通課の課長が応対に出た。それを聞いた谷平は「オレが行ったなら、もっと上の役職の者が出てくるぞ」と言ったという。  また、谷平は警察官僚出身で反創価学会の急先峰の亀井静香とも親しいという。 ●信量の“愛人妊娠”騒動を揉み消した谷平親子  石井信量と明は、持ちつ持たれつの関係だった。明の土地取引は、しだいに金額の大きなものになり、それだけに明は業者の間で注目される存在になった。  それは当然、信量をも潤すことになった。本来なら信量の給与は、内事部勤務として月給十五万円、蓮成坊住職として月額三十五万円、計五十万円で、そう高額というわけではない。それなのにどうして贅沢三昧、豪華な生活ができるのか。  管財室土地係とその保証人との結束、しかも『清昌』という日顕公認の会社も持っている。天下御免のマネーメーキングであった。  信量が妻・ナツ子の目を盗みながら従業員良子(仮名)と関係し、これは義弟に“お下げ渡し”して事なきをえたが、東京の里美(仮名)とのケースは露見して大騒ぎとなった。信量は里美とデートするため東京・赤坂にマンションを借りた。(詳細は石井信量の章で)  こうした“非常事態”の際、もっとも役に立つのは言うまでもなく谷平明である。まさか信量が東京の不動産屋などをうろうろして物色するわけにはいかない。坊主頭が人目を引くし、どんなトラブルの種にならないとも限らない。また見知らぬ他人に頼めるものでもない。したがって推測に過ぎぬとしても、この場合、腹心の部下の明に物件の物色を依頼したのは、当然であろう。  マンションの貸借契約は、信量や明の知っている建築設計事務所名義でなされたが、この交渉も明ならではのことだ。まさか信量が秘密の要望を関係者に直接、頼むわけはない。  このような微妙な行動を、明は信量の希望どおりスムースに手際よく仕上げた。もっともこのマンションの所在が明らかになり、ナツ子に踏み込まれたのは醜態だったが、これは、いわばナツ子の作戦勝ち。明には責任はない。  明の石井信量に対する最大の貸しは、里美の妊娠の始末であった。  信量と里美の関係がナツ子にわかり、大喧嘩のあげくマンションを解約した。二人は再び東京の一流ホテルで密会することになるのだが、この期間に、里美ははじめて妊娠に気づく。  このような場合、男のうろたえ方は、いくらカネがあろうが、地位があろうが大差ない。信量のように曲がりなりにも僧侶で、宗門の幹部の一人であれば、余計に具合は悪いことになる。  若い女性を中年の毒牙にかけ、妻とのトラブルに巻き込んだあげく、「妊娠など知らない」とうそぶくわけにはいかない。  信量は困惑しながらも、なんとなくその場しのぎの言葉をかけながら、解決策を模索したことだろう。こうした逃げの姿勢は、当の女性にはたちまち分かる。「どうしてくれるの。あなたの赤ちゃんなのよ」などと責められ、「責任はキチンととる。認知もする」な どと言っても、その結果どうなるか。ナツ子はどうか、宗門ではどうか。寺族の間ではどんな波紋を巻き起こすことになるのか……と考えると、本来、小心者の信量には生きた心地がしなかったろう。  これが男と女の不倫の終着点なのである。里美は嘆き、苦しみ、悶えた。肝心の信量は子供を認めるどころか、もう逃げの一手なのである。  彼女は夜も眠れず、自殺を考えるまでになっていた。  そのような彼女の姿に、信量はあらためて愕然とする。もし里美が自殺でもしたら、自分も破滅だ、堕落坊主として追放も覚悟しなくてはならない。地位も名誉も贅沢な生活ものこらず放棄しなくてはならなくなる。彼女のこれからの人生を考えるのではなく、エゴイスティックに自分のことと体面だけを心配したのである。  こうした場合、なんとか力になってくれて、解決を期待できるのは明しかいない。どんな代償を払っても、この窮地から抜け出さねばならない。  そんな打明け話を、明はこともなく聞いた。「なにも心配いりませんよ。私にまかせて下さい」。そう答えたのではないだろうか。  男女問題の機微に精通している義母・久子に相談した。  久子は里美に会い、里美の気持を聞いた。里美はこれまで誰にも言えなかったことを残らず久子に告白し、いつしか久子に親身なものを覚えた。久子の説得により里美も中絶を了解する。  彼女は幾日も眠った。病院のベッドにいることも忘れたように、ひたすら眠った。そして目がさめ、気づくとすべてが終わっていた。赤ちゃんの痕跡もなく、一人の捨てられた女がいるだけだった。  泣こうがわめこうがすべては終わった。もう彼女にはそんな気力すら残っていず、セミの抜殻のようになっていた。  信量は明と久子の手を借りて厄介払いをしたのである。女犯の罪、生まれてくる子を水子にした“殺人”の罪、頭を剃り、衣をまとい、平然と仏前で合掌していても、汚れた手はどうにもならない。  しかも、信量は明に大きな借りを作ってしまった。しばらくして、久子や明からさりげなく多額の金の調達を申し入れられる。  明の長男をぜひ医者にしたい。中国地方の瀬戸内海に面した都市にある私立の医科大学に行かせたい。それにはどうしても二千万円は必要だ。卒業して一人前の医者になったら 返すから、この際、なんとかお願いできないだろうか…。  体のいい無心である。脅迫でも威しでもないが、全てを知っている者の否応ない金の申し込みである。  どこからどう工面したかは分からないが、数日後、二千万円という大金が信量から明に渡った。借用書はあるのか。利子はどうなっているのか。この長男はすでに卒業し、医者になっているが、借金の返済は行われているのか、ぜひ知りたいところだ。  これが信量個人のカネであるなら(もっとも本来、僧侶の立場と寺の構成組織からすればそうした多額のカネができるのが不思議だが)目をつむるしかない。しかしこれがわれわれ僧侶もふくめた宗門の公金であったのなら、背任横領であり、末寺の多くがこんなに困窮している時、即刻、返却するのがスジというものだろう。  むろん事情を知る明の責任も免れるものではない。まず事の真相を明らかにし、場合によれば司直の手にゆだねることにもなるのではないか。  信量と明の結託はいよいよ強いものになってきた。  石井信量と谷平明、この日顕ファミリーの尖兵たちは、日顕夫婦に忠節を尽くしながら同時に自分たちの懐もふくらませていく。 1 第二章、女漁りの金庫番・石井信量  証言  石井信量が女子従業員に手をつけたりするのは日顕を見ているからです。師匠をマネしているんですよ……。というのは平安寺時代に、日顕が当時のお手伝いのナツ子(現在の信量の女房)と何かあったという噂を、平安寺の在勤者から聞いたことがありました。そういう意味で信量の気持ちは屈折していると思いますよ。(滋賀県・法乗寺・能勢宝道住職) ●趣味の女子従業員ヌード写真が発覚  瞬間、その婦人従業員は、全身の血が逆流し、視界は虚ろになった。アッと叫んだような気もする。  震える指先から落ちそうになる写真を、あらためて握りしめた。  もう一度、視線を走らせる。  そこには女の白い肉体が広がっていた。女はまぎれもなく良子だった。以前にこの蓮成坊に勤め、後に石井の妻ナツ子の実弟に嫁いだ山田良子(仮名)だった。  石井はあられもない良子の表情や姿態をポラロイド写真におさめていたのである。  石井信量が自室に戻ってきた。  次の瞬間、彼女が手にしているものが何であるかを確認した。  彼はあきらかにうろたえた。みるみる顔を紅潮させた。  写真はあきらかに良子と信量の行為中のモノであり、部屋は良子の部屋であった。  彼はいきなり座って、畳に両手をつき、頭を下げた。  「良子は父親を早く亡くしているので、父親の愛情を示したかったのだ。女房には絶対黙っていてくれ!」  日顕の金庫番といわれる石井信量の人物評をこのような描写から始めたのは、彼を表現するもっとも適切な実例が、こうした場面に集約されているからである。  日顕の寵愛を受けて、大石寺での実権を手中に納め、多くの僧侶たちから一目も二目も置かれ、贅沢は思いのまま、自分でも不安になるほどの満たされた生活を送っている信量である。  だが、妻ナツ子という一人の女だけでは満足できないのも事実である。同じ屋根の下に住む蓮成坊の若いお手伝いに、つい食指が動いた。  思えば大胆な話である。いつ露見するかもしれない。どんな地獄のようなトラブルを招くことか分からぬはずはないのに。  それでも止められなかった。昔からの俚言に「一盗、二俾、三妾」という。しだいにより刺激を求め、良子とのみだらな写真まで撮るようになっていた。  そして彼女が結婚して去った後も、OLや従業員と、ナツ子には言えぬ深い関係になっ た。 ●“日顕の金庫番”になれた本当の理由  石井信量は、北海道・深川市の日蓮正宗の末寺・宝龍寺に生れた。まだ信徒も少ない田舎の貧乏寺だった。  父は早く死んで、母と六人の兄弟が残された。貧乏暮らしが続いた。当然、長兄が出家し後を継ぐことになるが、所化小僧の生活に辛抱できなかったのか還俗し、故郷で働きながら弟たちの面倒を見続けた。  その兄弟の中からこんどは五番目の兄の栄純が得度する。  信量は高校を卒業したが、ろくな就職口もない。車の免許を持つほかは、頼るべき技術も資格もない。下雇いのトラックの運転などをしてあちこち走り回るしかなかった。  いつまでこんな仕事をしているのか、明日への希望もなく、その日暮らしの生活だった。そんな時、栄純から手紙が届いた。  「僧侶になれば心配なく食っていける。お前も坊主になれ」。  とくに信仰心があるわけではない。しかし今の状況よりも将来性があるのは確かだと思えた。信量は兄・栄純の言葉に賭けることにした。昭和三十七年四月、二十歳の時である。  その頃、宗門は外護団体の創価学会の尽力で、未曾有の発展期を迎えつつあった。  次々に建築物が建てられ、農地解放で失った土地は買い戻され、日一日と信徒は増えた。宗教界が「現代の奇跡」とさえ仰天するほどの躍進ぶりだった。  信量にとってもタイミングが良かったというべきだろう。  得度した信量は、東京・本行寺の住職だった日顕の内弟子になる。  日顕は元法主・日開の息子であることを武器に、宗門でも着々と地位を固めていた。反面、“遊び人・信雄”としての名を馳せ、「遊びたければ本行寺へ」という合言葉を生むほど、遊蕩ぶりを発揮していた頃である。  現在、内弟子をとるという制度は、法主以外にはないが、かつては実力ある僧は自由に内弟子を養育することができた。  兄の栄純は日淳・元法主の内弟子である。本来なら信量は日達・前法主の弟子になるのがスジだったろう。しかし小学生の年分得度が多いなかで信量はすでに二十歳、いねば青年得度であったため、日顕のところで預かることになったのだろう。  青年得度(臨時得度)は出世が遅い、信量も本来ならそんな運命にあった。しかし後に日顕が猊座を射とめたことにより、信量もまた思いがけず陽の目を見ることになるのである。  日顕の内弟子で、宗内に残っている者は六人いる。  その順番は、上から八木信瑩(大石寺主任理事)、次に八木の弟で宗会議員の藤本信恭、御本尊紛失事件で有名になった高橋信興(東京・仏乗寺住職)、息子の阿部信彰と続き、北海道・深妙寺住職で室蘭からせっせと女子従業員を西片に送りこんでいた故大橋信明、そして金庫番の石井信量である。  信量が得度した翌三十八年四月、京都の平安寺が創価学会の寄進により建立され、日顕は初代の住職として任命される。  当時の日達法主は若い僧侶たちの教育に力を入れ、東京ばかりでなく、京都の仏教系の大学でも勉強させたいと希望していた。しかし生活の根拠地がない。そこで創価学会に「ぜひ京都に正宗の寺を」と要請し、その希望通りに現代建築の様式を取入れた新寺院が建立されたのである。  その頃、東京では大宣寺が学生憎の居住寺で、京都では平安寺ということになる。所化 たちはここから龍谷大学など仏教系の大学に通うのである。  信量は、日顕とともに平安寺に移った。やがてここには七、八人の学生僧が集まった。当時、大宣寺の学生たちは「平安寺は落ちこぼれの集まる所」と冷笑していた。  先輩八木たちが次々に本山に登り、信量はいつしか所化たちのリーダー格となった。  当時の信量についての情報はほとんどといっていいほどない。赴任してさっそく遊び始め留守がちな日顕と、所化たちの間に立って、それなりに寺を守っていたらしい。  金庫番という性質は当時から認められ、僧侶というより商売人に向いていたとみる仲間も多い。八木をはじめ内弟子たちにはこのようなタイプは珍しく、それがやがて日顕の信頼と寵愛を受ける理由になった。 ●むかしから妙修尼・日顕母子のお気に入りだったナツ子  後に信量の妻になるナッ子が、平安寺にお手伝いとして住み込んだのは翌三十九年である。  彼女は昭和二十一年、熊本県球磨郡相良村に生れた。熊本とはいっても鹿児島県に近く 球磨川の上流で「五木の子守歌」で知られる五木にほど近い寒村であった。貧しい小農、その六男一女の二番目、男の中の一人娘であった。  中学を終えると、次々に仕事口を求めて故郷を去っていく。ナツ子も当然のように中学を卒業すると集団就職で、紡績会社に勤めることになった。  故郷を離れて、カゴの鳥のような寄宿舎生活、いくら戦後とはいえ、どうしても小説の「野麦峠」のような印象がつきまとう。ナツ子にとっても楽しい日々とはいえなかったようである。  ナツ子の遠縁の女性が当時、大石寺の遠信坊で働いていた。同坊の住職は信量の先輩にあたる八木信瑩である。  彼女はナツ子に同情し、「どうせ働くなら私と一緒にどうか」と、遠信坊に勤めるよう誘った。ナツ子は承知して、遠信坊に住みこんで働くようになる。  一方、平安寺では、日顕の母、妙修尼と妻の政子が大勢の所化の世話に追われていた。 「どこかに働き者の従業員はいないか」、妙修尼たちはあちこちに尋ねた。その声が日顕の弟子、八木信瑩の耳にも入る。「実は最近、よく働く少女が来たが、平安寺に回してもよい」、そんな信螢の計らいで、ナツ子は京都に移ってきたのである。  確かに働き者だったという。妙修尼は、はじめてのお手伝いを徹底的に仕込んだ。掃除、洗濯、料理…すべてを妙修尼の思いのままに教え込んだ。しだいに料理の味つけまで妙修尼そっくりになっていったという。  現在、日顕にとっても、ナツ子は“母の味”を蘇えらせる貴重な女である。いまでも本山で、日顕が信量とナツ子夫婦の住む蓮成坊に時々、食事に現れたり、時には大奥の日顕にナツ子が食事を作って届けることがあるのは、彼女が日顕の味の好みを、誰よりも知り尽くしているからなのだ。  信量とナツ子は、顔を合せて間もなく親しくなった。やがて休日などに二人の寄り添って歩く姿を見かけることになる。  日顕は日顕で、この働き者のナツ子を至極便利な女と評価していた。妻の政子はテキパキと気の回る妙修尼の陰にかくれてしまい、日顕の日々のスケジュールの調整や食事の支度、薬の調合まで秘書的な仕事は、ほとんどナツ子が果たすようになっていたのである。ナツ子に対する日顕のかわいがりようも日に日に度を増してきた。日顕は当時、よく「書きものがある」という理由で京都市内のホテルにこもっていたことがあった。そして突然、寺に電話をかけてきては「あの本を持って来い」などと言い、それらを届けるのが決まっ てナッ子だった。また所化の車で行くのだが、着くと運転手の所化を帰らせて、本を持ってナッ子だけが部屋に入り、しばらく戻らないということもしばしばあったという。タクシーでも同様であった。ついには自分で車の免許をとって届けに行くようになった。  ナッ子はここで成人式を迎える。その頃、日顕は彼女に七、八枚もの和服を買い与えている。いくら働き者とはいえ、このプレゼントはいささか過剰と見られる。  しかも、一枚ずつ着せ替えては写真を撮らせている。  僧侶仲間では「信雄(当時の日顕の僧名)は、若いお手伝いにも手をつけたようだ」という噂が流れた。  こうした噂を信量がどんな思いで聞いていたか分からないが、龍谷大学を卒業した信量は、相変わらず平安寺で、日額の側近として忠節を尽くすことになる。  四十八年三月、信量は佐賀の深遠寺の住職に任命され、晴れてナッ子と結婚して赴任する。  しばらくしてこの子飼いの新婚夫婦の寺を妙修尼が訪れ、自分の家のような気安さで一か月も滞在、あちこち旅行をしたり、有田焼きを物色したりしていく。この時、妙修尼は「このナッ子は私がすべてを仕込んだ文句のつけようのない住職夫人だ」などと近所の人 に自慢そうにいったことがある。これは妙修尼の真意だったであろうし、ナツ子もまた日顕一家に絶対的な信頼を得ていることを実感しただろう。  信量は三十代になり、子供も次々に三人生れた。寺は隆盛の一途を辿った。むろん創価学会の熱心な外護によるものだが、信徒からの供養が集まり、自由になるカネが少しでも流れ込むようなると、信量の生活に変化がでてくる。それは遊びの虫がうごめき出したことであった。  カネで相手をする夜の女を求めていったのである。といっても地元の武雄温泉や嬉野温泉では、どこに信徒の目があるか分らない。噂を立てられては困る。そこで特急電車で一時間ほどの博多まで繰り出すことにした。  博多には遊び場として有名な中洲がある。ここならまず見つかる心配はない。信量は体質的に酒を受けつけなかったが、バーやクラブに通い、酒も飲まずに、ひたすらホステスを口説く。また周囲にも「誰か女を紹介してくれ」「月何万円出したら彼女を囲えるかな」などと声をかける。ほどほどのカネはある。いつしかあるバーのホステスと親しくなって、せっせと通いつめたと、昔の僧侶仲間は証言している。  彼は師僧にあたる日顕の行動を十年以上も子細に観察していた。東京の本行寺から京都 の平安寺へ。つねに日顕の傍らにあって、どのように時間や人の目を盗んで遊べばよいか、カネをどう捻出するか、いかに女房を騙すかを学んだ。そしてまた宗門の僧侶たちは例外なくが遊び好きだが、どんなに勝手な行動をしようと、スキャンダルさえ表面化しなければ問題にはならない、宗門での昇進、出世にはいささかも関係がないことも熟知した。いねば日顕直伝の遊蕩学の極意である。  こうして佐賀での六年半が過ぎていった。  五十四年七月、突然、信量の前途が開けた。日達法主が死亡し、日顕が六十七世の法主に就任したのである。  日顕からの急報があった。「本山塔中の蓮成坊の住職に任命する」というのである。  蓮成坊は本山でも権威のある坊の一つであった。法主の居住する大奥に近く、本山中枢の業務と法主親衛を担う栄光の坊である。  坊とは本山内の独立した寺院であり、また全国からの登山者の研修所や宿舎もかねている。  各坊は三門を入り、大坊に至る石畳の坂道の左右にずらりと立ち並んでいる。蓮成坊は、その中でも格式が高く、現にこれまで総監の藤本日潤がその住職をしていた。ところが日 顕登座の人事異動で、藤本が東京・常泉寺の住職となり、空席となった蓮成坊の住職として、信量に白羽の矢が立ったのである。これは異例な抜擢であった。彼の僧階や経歴からはとても考えられず、本来なら日顕の一番弟子の八木信瑩あたりが登用されるべきものであった。  なぜ信量がこの抜擢を受けたか。当然、彼の日顕に対する秘書的な才能もあっただろう。しかし、それ以上にナツ子の存在がものをいったのである。日顕の性格、味の好みまですべてを知り尽くしているナツ子は、すでに日顕ファミリーのかけがえのない一員だった。日顕はぜひともナツ子を近くに置きたかったのだという。  塔中坊についてもう少し付け加えれば、日達法主の晩年から給与の面で変化があった。本山内の寺院かつ信徒の宿舎としての収入という漠然とした経営体制を、給与制度、つまり月給制にかえ、ここの住職は内事部勤務としたのである。法主の“旗本的”な地位とはいえ収入としては減収になった。したがって坊の住職の魅力が僧侶の間で軽減したことは事実である。また内事部の職員として使いやすい者を集める傾向にもなった。つまり信量が金的を射止める素地はできていたということができるだろう。  信量一家は佐賀から本山に移転する。この一行の中に山田良子(仮名)がいたのである。 良子は深遠寺のお手伝いであった。ナツ子と同じ熊本県相良村の生れでナツ子の縁者でもあった。ナツ子の父の妹の孫、つまり二人は血縁関係にあった。  そんなわけで佐賀・深遠寺時代、よく寺に遊びに来て手伝いをしていた。  高校を終えて地元の会社のOLになったが、半年ほどでやめて、正式に同寺の従業員となった。五十三年、十九歳の時であった。彼女がナツ子らと本山入りをしたのはその翌年である。 ●“金庫番”と“女狂い”信量の二つの顔の使い分け  さて佐賀で遊びの味を覚えた信量は、本山にきていよいよ拍車をかけることになる。  チャンスはしばしば舞込んだ。秘書役として日顕の親修に随行する。これは絶好の機会でもあった。たとえば五十七年十一月の滋賀県大津市の親修の後、現地に残った信量は、僧侶仲間に「なんだか、モヤモヤしてたまらない。すっきりしたい」とロ走った。その真意を察した仲間の僧侶は、「それなら雄琴へ」と誘った。雄琴はソープランドの発祥地として有名である。信量はそこの超高級ソープランドの「マキシム」という店に直行し、時 間をたっぷりかけて楽しんだ。そしてこの夜の満足ぶりをいつまでも本山の仲間に吹聴したという。これを聞いた理事の小川只道ら数人が、相次いでわざわざこのソープランドに繰り出したというのは、今でも語り草になっている。  信量は人前では実直な法主の金庫番の顔を保たねばならなかった。これが日顕の信頼を得る最大の方法であることも知っていた。その反面、マグマの噴出のような欲望にさいなまれてもいた。遊びはやりたし人目は怖し……佐賀時代と違い、競争相手の多い本山である。そうしばしば雄琴までは行けない。  あるとき、ふと気付いた。自分の寺の蓮成坊にも若いお手伝いの良子がいた。  高校を終え深遠寺から蓮成坊へと、共に暮らした経験からしても、秘密をぺらぺらとナツ子に喋るような女ではない。  いつしか信量はそのような視線を良子に向けていたのかもしれない。期待をこめた目に、魚心あれば水心、良子の気持ちも信量に傾くようになった。  二人は関係を持った。人目をしのぶ関係を持った。  後に信量は良子との関係を「良子は父親を早く亡しているので、父親の愛情を示したかったんだ」と言っているが、倒錯した複雑な親密感を抱いていたのだろう。  が、やがて事のさなかに、ポラロイド写真を撮るという刺激を求めるようになっていた。   “お下げ渡し”という言葉がある。宗門、特に日顕の代になってから“お下げ渡し”なる言葉がささやかれるようになり、それが置物・宝飾品ばかりか、女性にまで使われるようになっているという。つまり、自分と関係のあった女性を弟子や後輩と結婚させることの意味である。そうしたことは下げ渡す側からすると、自分の責任を回避したり、あるいは自己の勢力をより確立にするという女性の“処理法”だ。一方、お下げ渡された方からすれば、これによって世話する者の勢力の傘下に加わり、将来の地位を安定させることにもなる…こんな結婚の形を宗門では“お下げ渡し”と呼んでいたようだ。つまりこうした慣習がまだここには残っているという証左である。  明治の初め、僧侶の妻帯が公式に認められるようになってから、このような“お下げ渡し”も行われるようになってきた。むろん表面的には断定されぬものの、「あれの妻は、誰々の“お下げ渡し”だ」などと僧侶たちの間では、公然の事実として話し合われたというのである。  つまり宗門という世界は、性的にきわめて寛容、いや、ルーズだったのである。ある高僧の一人は「宗門は昔は貧乏な教団だったから、カネにはうるさかったが、女は個人の力 量、甲斐性の問題だとして、見て見ぬふりをしていた」とも語っていた。  ポラロイド写真を撮影した良子もこの“お下げ渡し”と噂されている。昭和五十七年春ナツ子の実弟、四男の検道との結婚がそれだ。姉のナツ子一家の庇護下にあり、今後も信量たちに依存することの多い検道が、この結婚を断れるはずがなかった。話はとんとん拍子に進み、この年の五月、結婚式をあげて、任地の北九州市小倉の法貴寺に引っ越していったという。 ●誰もが知っている子連れ愛人の素性  これで一件落着かにみえた。  ところが、ほどなくして、今度は東京の信徒木村里美(仮名)を知ることになる。たちまち、淫欲の食指を動かす信量、いつしか妻ナツ子の知るところとなる。  ナツ子は信量をののしり、物が飛び、暴力沙汰にもなる。  何しろ派手な夫婦喧嘩だった。ナツ子は信量を「なによ、素人の女に手を出して」となじり、信量は吸っていた煙草を、ナツ子の顔に投げつけたり、挙げ句の果て、ナツ子がヤ ケ酒をあおってあたり一面に嘔吐、豪華な部屋を台無しにするなど、殴る、怒鳴るの夫婦喧嘩はイヌも食わぬどころか、塔中の住職や寺族の間で誰知らぬ者がいなくなった程である。  ついにはナツ子も子供を連れて家出する。とはいっても今更、ナツ子が身を寄せるところはない。富士宮グランドホテルに泊まったのはいいが、坊を出て一人思えば思うほど、信量が許せなくなり、まだ夜も明けぬというのに髪を振り乱して坊に帰り、戸をドンドンとたたいて、山内の話題になったこともあった。  だが信量は里美から簡単には手を引かない。ナツ子に比べ、若い女の魅力にあふれる里美が忘れられないのだ。信量は妻ナツ子の目を盗んで、その後も東京で里美を呼びつけ会っていた。  もちろん一信徒の里美にしてみれば、宗門の高僧で中年の信量は、畏敬の対称でこそあれ、一般の男性のようにつき合う相手ではない。信量は衣の権威で強引に交際を迫り、選択の余地すら与えなかった。  名門坊の蓮成坊には所属する講員(実修講)が東京はじめ京都、長野、横浜などの各地に数十名ずついて、東京の北区には「蓮成坊東京出張所」もあった。ここは講員たちの集 会所で御書や教義の講義などがしばしば行われていた。住職の信量はこれに毎月、何度か通わなければならない。「住職は熱心にわれわれのために上京してくれる」、なにも知らぬ講員たちはそう感謝したが、信量の狙いは別なところにあった。  里美と会うためである。  しかし上京が度重なれば、いつ誰と顔を会わせるか分からない。宗門の者ばかりでなく学会関係者も警戒しなくてはならない。となるとどこか交通にも便利な所に、誰も知らない密会の場所を確保する以外にはない。  信量は、里美との密会の場所を、信量と取り引きのある設計事務所の名義で借りた。  ぴったりの物件があった。  赤坂の、東宮御所の向かい、周囲には各国大使館、高級事務所などがならぶ都心の超一等地の豪華マンションである。赤レンガ張りの品格あるリッチな感じの建物で、一か月の家賃は三、四十万円もする立派なものである。  部屋は台所とリビング、それに二つの居間。ダブルベッド、ソファなどはすべて華やかな色彩のモダンなものに新調した。  信量は有頂天だった。そして里美の歓心をかうため徹底的なプレゼント作戦に出た。高 価な指輪、ネックレス、腕時計、…カネにものを云わせてのプレゼントである。この豪華マンションもその一つといえるだろう。カネならいくらでもあった。惜しむことはなかった。  反面、里美にも厳しい要求をつきつけた。他の男との交際を禁じ、信量からの呼び出しがあれば、たとえ夜中でも出てくることを強要した。  だが、ナツ子の妻としてのカンは信量の行為を見破る。  なにかおかしい。上京する時の積極さだ。そわそわした態度はなにかを隠しているに違いない。ナツ子は疑い、ついに赤坂のマンションを発見する。  夏の夕方、ナツ子は信量の兄、石井栄純とその妻・恒子の三人でマンションの部屋を急襲した。栄純夫婦と同行したのは、のっぴきならぬ証拠をこの夫婦にも確認させようと考えたのであろう。  栄純もナツ子の強烈な要望を断りきれず、歓迎されぬ役割りを演じる羽目になった。豪華なマンションはたちまち修羅場と化した。大声で罵り、悲鳴が上がった。  この一件で、信量はマンションの解約を約束させられることになったのである。  だがこれでもまだ里美に対する呪縛を解こうとしなかった。信量にはそれだけ未練と愛 着があったのである。今度は都内の超一流ホテルで会い続けた。  信量は彼女に会いたいと思うと、職場の内事部管財室から東京の里美のもとへ、正午きっかりに電話をかける。もっともこれは合図だから無言である。  この無言電話があると、里美が折り返し管財室の信量の直通電話にダイヤルする。その電話の下四ケタはなんと0594(ゴクヨー)という偶然にしてはふざけたものだった。信量はそれに場所と時間を指定するのである。帝国ホテル、サンシャインシティプリンスホテル、ホテルーニューオータニなど一泊数十万円という贅沢なスイートルームが使用された。  信量は情事の場所をそのまま書斎代わりにし、お講の原稿の執筆や日顕の説法、挨拶の原稿の清書などを行っていたという。ここから出張所にも出掛けていくのである。  そして決定的な事態を迎える。里美の妊娠であった。知らされた信量は狼狽した。  はじめは“オレの子だから産みなさい”などと格好つけていたが、実際にそうなることを考えると、簡単に決心はできない。  全山に広がる噂、僧侶や寺族たちの冷笑、狂乱するナツ子…おそらく日顕からも遠ざけられるに違いない。産ませるのはムリだ。  そこで里美に冷たくなる。“子どもの認知はできない”“堕胎するしかない”。  非情な会話が何回となく繰り返され、信量は次第に無責任な言動を見せるようになった。里美は自殺を考えるまでになった。  信量にとっては最悪の事態である。  進退きわまった。  信量は谷平を通して谷平の義母久子に相談した。  久子は昔、三門近くにあって僧侶たちが贔屓にした元料亭「芙蓉荘」の女将、こうした男女問題のトラブル解決には手馴れている。  放心状態の里美を病院に入れて付添い、中絶させてしまった。  信量は久子に大きな借りを作ったことになる。窮地をなんとか切り抜けたのだ。破滅の淵から危うく生き伸びた。前記したが、この解決のペイバックは相当に高価なものについたのである。  信量はこれで十分に懲りたはずである。  今後は品行方正とまではいかなくても、女性とのスキャンダルは自制するのではないか。だが、彼は違っていた。  またもや新しい女が出現する。  田中恭子(仮名)であった。蓮成坊にはどうしてもお手伝いが必要である。女がトラブルの種になるとはわかっていても、お手伝いがいないと、生活ができないのである。  蓮成坊に高校卒業したての若い女性が来た。  その恭子とまた信量はできてしまった。  この男にはなにをいってもムダだ。かっての流行語でいうなら“ほとんどビョーキ”なのである。そしてまもなく恭子もまた良子と同様に、やはりある男性に“お下げ渡し”されていった。しかし、信量とこの恭子との関係はいまだに続いている。  平成六年六月八日夕刻、伊豆長岡の高級旅館に信量は練馬ナンバーの濃紺の高級車で乗り付けた。同行者は三十歳くらいの女性と三歳ぐらいの女の子である。知らない人が見たら家族と思ったかもしれない。信量は一人一泊五万円はするというこの旅館の常連客で、この“母と子”もまた、信量と何度も泊まりに来ている。  しかし、この女性が実は恭子である。そして、信量がこの三歳になる女の子を異常なまでにかわいがっていることから、関係者の間で「信量の子では?」と思われている。  「自分が手をつけた従業員を“お下げ渡し”で嫁がせ、いまだに密会しているんです。 こんな男が内事部理事ですから、宗門も永くないですよ。こんな男を理事にしておく猊下も猊下ですよ」(本山僧侶)との声を日顕はどう聞くのだろう。 ●御本尊と書かれたダンボール箱から“裏ビデオ”が!  信量は根っからの好色男であった。彼はまた坊主たちの間では一、二といわれる裏ビデオの収集家として知られていた。露骨な性行為を撮影し、表立って売買できない裏ビデオを、信量はなんと数千本も所持して、仲間との間で交換し、ダビングし合っていたのである。各地の仲間から「新しく刺激的なものが入った」などと情報がはいれば、送らせ、悦に入っていたのである。  ある時、信量と同じ大石寺理事の小川只道(理境坊)から、信量のところに大きなダンボール箱が届いた。表面には「御本尊」と書いてある。受け取った人は返納の御本尊と思い、開けてみると、箱の中には裏ビデオがいっぱい入っていた。「御本尊」をいかがわしいビデオを交換するためのカモフラージュに利用していたのである。  大坊に居住する所化たちが、地元の中学、高校でこのようなビデオを持参し、交換し合 っているのを摘発され、PTAや警察から「他の生徒たちにも悪影響を与えるので、なんとかしてもらいたい」という抗議があった。しかし所化たちは、信量ら諸先輩を見習っているわけで、これでは所化たちに注意も叱責もできないだろう。  信量の職場、内事部での彼の評判はきわめて悪い。  「昼休みなど、スーツと女子更衣室に入ってきて、へんな目付きで見ながら、下品なことをいうのです」  「猥らなことを御書を引用していったりするのですから、聞いて気持ちが悪くなり、こっちまで頭がおかしくなりそうです」…とにかく悪評プンプンである。そんな信量のセクハラエピソードなどもある。  本来、清純で禁欲的な聖域であるはずの本山は、こうした女性蔑視の気風、慣習が蔓延し、誰もがそれを不思議に思わぬようになってしまっているのである。  ある高憎が「宗門では男女関係にはきわめてルーズな環境にあった」と語ったことは前述したが、調べれば調べるほど、その頽廃ぶりは常識外で唖然とするばかりなのである。 僧籍八十年といういわゆる高僧がいた。ある坊の住職だが、彼にセクハラをされた従業員は数限りないとさえいわれている。  「夜中に“もう寝たかい”などとネコ撫で声を出して、部屋に入ってくるのです。そしていきなり布団の中に手を入れ、表現できないようないやらしいことをするのです。  部屋にカギをかけて入れないようにすると、夜でもカギをがちゃがちゃさせて、開けようとするし。挙げ句の果ては、窓に顔をこすりつけて中を覗こうとするのです」…まさに色欲餓鬼とでもいうほかはない、当時二十歳前後だったこの従業員は、耐えきれなくなって辞めたという。  大石寺にかつてフードセンターがあった。ここを担当する坊主は職権を濫用して、夜な夜な女子従業員の寮に忍び込んだ。ここで働く者はいずれも各地からやってきた十六、七歳の若い娘ばかり。本山である大石寺で働けることを誇りにし、仕事に失敗したら恥ずかしくて故郷には帰れない。僧侶のいうことはなんでもハイ、ハイと聞こう。そんな純粋な少女たちであった。  坊主にとってはこんなに都合のいいことはない。まさにニワトリ小屋を襲うオオカミである。寮はプレハブ建てで、一室に五〜七人が同居していた。  「早朝から夜遅くまで、大石寺への登山者のため心をこめて弁当を作り、くたくたになって寮に帰ります。寝る間もなく深夜の一時ごろになると、この坊主が侵入してきます。 そしてお目当ての女性だけを残し、他の者は外に追い出すのです。  どんな寒い冬の夜でも、私たちはパジャマのまま、戸外で彼の“用事”が済むまで震えて待っていなければならないのです」  ナチスのアウシュビッツ強制収容所を連想させるような残酷物語だが、これが現実に行われていたところに、本山の腐敗堕落した本質が露呈しているのである。  それにしても、「お山では信仰中心の生活ができる。故郷の誉れだ。きっと幸福になれる」などと、世間知らずの少女ばかりか、その家族までも欺き、送りだしていた室蘭・深妙寺の住職・故大橋信明ら“女衒坊主”の罪はあまりにも大きいといわねばならない。  このようにして、本山には性的にアナーキーなムードが際限なく広がっていったのである。  所化や若い坊主は、大石寺や関連施設の女性従業員たちに平然と手を出し、関係を持つ。AはB女と、CはD女と…しかし彼らはやがて東京や京都の大学などに行き、各地に派遣されると、地元の有力な信徒などの娘と結婚し、かつての女性をあっさり捨てるようになる。しかし誰もがスネに傷を持つ身だ。互いに隠し合い、かばい合う。  したがって同窓会などか開かれると、こんな会話もしばしば飛びだす。  「おい、お前が交際していたA子は、今、坊の誰々と結婚したぞ、たしかお前は彼女を中絶させたことがあったよな。ほら、お前の後ろにA子の水子の霊が立っている」「悪い冗談はやめてくれ。お前だって、たしかB子と…」  こうして彼らは口外できぬ旧悪をかかえた戦友同士になるのである。  こうしたところから「今のうちに遊んでおけ。こうした経験をつんでおかないと、住職になってから檀家の女房と問題を起こし、スキャンダルになる心配もある」などと“狂った論理”が広がり、女性との性的関係を助長するような傾向が出てくるのである。  また本山周辺は若い僧侶たちを堕落させる条件も揃っていた。ここの富士の高原にはモーテルやラブホテルが軒を並べ、これらの部屋の構造にまで精通している所化も少なくないという。  信量はこうした爛れた土壌から生れた典型的な生臭坊主であった。 ●実兄・栄純の法照寺に絡む“十億円”疑惑 信量にさらにカネという武器がつけ加えられた。彼の肩書きは内事部管財担当、つまり 総本山という巨大な組織で使用する物資、材料、設備、建物、これらをめぐる物品の購入、本山ばかりでなく末寺までもふくめた土地の選定、購入、など膨大なカネの流通の要(かなめ)に彼は存在しているのである。  信量がこういった要職にあるのは、むろん日顕の承認と信頼があるからに他ならない。 日顕のいうままにいくらでもカネを動かし、持参する“金庫番”なのである。  平成元年七月、日顕はこともあろうに亡父・日開の故郷、福島市荒井字寺屋敷の曹洞宗『白山寺』に先祖代々の墓を建立、法主の大謗法として厳しい非難を受けた。この時、スウェーデン産の五五〇万円もする素材を選び、墓石の製造に当たったのは、なんと兄の石井栄純であった。  というのも、以前、地元・福島市の広布寺の住職をしていたのが栄純ということもあって、日顕の希望通りの最高の“謗法墓”を建てたのである。  平成五年十月、日顕夫婦は退座後に備え、新しい私邸を手に入れる計画を立て、信量に物色させた。  その三年前、目黒区・八雲にプール、サウナ付の豪華邸宅を建築する計画を進めたが、創価学会との破門問題が発生、宗門、末寺の思惑を恐れ、工事寸前で急遽、取り止めるこ とになった。そして再び新邸計画がまたぞろ頭を持ち上げたのである。  東京・世田谷の等々力渓谷の高級住宅地に物件がみつかった。二階建てモダンな邸宅である。環境は抜群に素晴らしい。緑濃く、鳥は飛び交い、水音は清らか。いずれ改造して日顕好みの純日本風の屋敷にしたら申し分はない。  これを下見したのは政子、信量、その妻ナツ子、それに信量の部下で、管財室職員の谷平明であった。いずれも日顕ファミリーを構成するメンバーである。  政子は一目で気に入り、即座に契約することになった。  すべて日顕、政子の思いのまま、言われる通り、いや、言われる前からその意向をくんで行動するのが、信量の仕事なのである。  「谷平が見つけてきて石井信量が金を出す。日顕のやりたい放題をあの二人が実行しているんです。いまや、宗務院も内事部もないですよ。あの二人が大石寺を動かしています」(末寺住職)  かつて蓮成坊の二階に一歩でも足を入れた者は、その豪華さに仰天したという。最高の調度品に金箔の蒔絵、飾り棚、逸品そろいの壷、焼き物、絵画の数々。  「本当に素晴らしい」などと仲間の寺族たちが褒めると、ナツ子は澄ました顔で「“お下げ渡し”で…」などとうそぶき、露骨に日顕夫婦との深い関係を誇示したという。  “金庫番”信量が公金十億円を流用し、実兄・石井栄純が住職をしている法照寺(横須賀市)に隣接している土地を購入したという疑惑が生れ、宗内で注目されている。  創価学会との絶縁、「C作戦」の失敗などで、宗門は経済的に困窮し、経営不能にまで落ち込み、毎月、本山から運営費の援助をうけている“民生寺院”が続出、その数は現在、百八十ヵ寺に達している。  宗門は現状を打開する方法として、全末寺の預金残額など財産、財務の実態を調査、また寺院等級査定も新しく行い、上納金の金額を変更するなど大ナタを振るった。  この結果、当然、降格、昇格するところもでたが、なんと石井栄純の法照寺は多額の預金が発覚、いきなり一等級寺院に昇格した。  ところが今度、問題になったのは横須賀市日の出町の同寺に隣接するA地、一四四・四九平方メートル、購入資金は推定一億八千万円とその近くのB地、六五九・四五平方メートル、八億五千万円で、平成五年四月までの約一年半の間に、いずれも大石寺の名義になっている。  その買付けに暗躍したのが「大石寺理事・石井信量」の印鑑を手にする信量自身なので ある。  なぜ彼は、この法照寺の周辺の土地を買い漁っているのか。  石井栄純は、「さあ、なんに使うのか、私はなにも知らない。私の寺には関係ないことだ」などと素知らぬ顔でうそぶいているが、同寺勤務の所化は「あの土地は法照寺のものです。今は駐車場に使っていますが、法照寺の移転建設予定地です」と、当然のように答えている。  名義こそ大石寺になっているが、ここは法照寺がやがて移築される場所だというのだ。これはどういうことか。大石寺が購入し、法照寺に提供するというなら、本山が大金を出して、法照寺にだけ、特別な恩恵を与えたことになる。  生活困窮寺が増加の一途を辿っている“非常時”に、自分の実兄の一ヵ寺にだけ、こんな大金が支出されるのはなぜだろうか。  もともと栄純は坊主仲間では“守銭奴”と呼ばれるほどの蓄財家で、平成二年度の収支決算では定期預金だけでなんと十四億円以上という報告が出され、それで一等級寺院にランクが上がったのである。  また昭和五十九年、栄純は新寺院建設という名目で、宗務院には無届けで信徒に「特別 供養」をさせ、莫大な資金を集めた。  その後、移転新築を計画、山側の同市上町に土地を購入したが、地元住民の反対で着工できず、計画は中止となった。この土地は法照寺名義で登記されているが、寺を建てられぬため、現在、宅地または戸建て住宅敷地として売りに出されている。つまり売り地を持つほどの金満寺なのである。  そしてもう一つの疑惑は、この十億円もの支出がまったく信量一人の裁量で決まったものだというのだ。大石寺の中枢機関である代表役員会の裁決を経たものではないのだ。大石寺の年間の一般支出は約五十億円とされるが、その五分の一の大金が、一理事の独断で動かせるという不明朗さだ。  理事の一人、小川只道は「あれは法照寺のものではないですか。こちらのものではない。法照寺に聞いてくれ」という無関心な姿勢なのだ。つまり役員である小川自身、なにも知らされていないのである。  “金庫番”の信量が実兄のため情実支出、公金を流用できるものと断定するほかはない。  また先に、新寺院建立のため「特別供養」として集めたカネはどこにいったのか。いまどこに眠っているのだろうか。信量兄弟にまつわる疑惑はますます広がるばかりである。  これだけみても、日顕とその取り巻きグループによって本山の財政はまったく好き勝手にされているといってもいい。  現在、全国末寺の状態は、こんな甘えが許されるようなものとはほど違い。例えば、広島・興福寺の住職・青山聴瑩は、参議で中国大支院長という要職にあるが、寺の新築費用の十一億円を本山から借りた。そのローンの返却金は何と毎年一千万円の百十年払い。すでに学会員から見離されたため、返済は青息吐息の火の車。こうした寺はいたるところにある。  そうした現状における十億円の大盤振る舞い、他の寺から「えこひいきは止めろ」と怨嵯の声が上がっているのは当然ではなかろうか。  こんな信量を日顕はしきりに庇っている。さる五月二十六日の全国教師・寺族指導会の席上、日顕はわれわれ憂宗護法同盟が上梓した『法主の大醜聞』を意識してか、「『私は若い頃にちゃんとあそこに遊びにいった』と堂々と言い切れ」と、ヤケのような遊び人宣言をしろなどと、開き直った発言をしたが、ここで信量の“公金流用”にも触れ、「土地を買ったというなら、『ああ、買っといたよ』。建物があるというなら、『建物、あー、買っといたよ』と。そんなことにビクビクしなさんな!」といって虚勢を張り、自分の“金庫番”信量の援護に躍起となっていたのである。  このような証言、事実から見ると、信量は宗門を荒廃させ、再興不能にまで追い込んだ日顕ファミリーというガンの、その中核とさえいうことができるのではなかろうか。 第三章 無資格の経理士・野坂昭夫  証言  西片(夫人政子がいる大石寺東京出張所)のお金も全部、野坂さんが見てはります。 「急に呼ばれたので、いまから、西片に行かなくちゃならないんです」「泊まり込んで帳簿調べをすることもあるんですよ」って言うてはりました。だから、日顕から目をかけられて、よう東京の高級料亭“吉兆”などに連れていってもらうんだとも言うてはりました。(十年以上も寺院の帳簿を見てもらっていた能栄寺の小板橋洋子夫人) ●宗門末寺の経理をみている日顕の義弟は還俗男だった  宗門を私物化する“日顕ファミリー”の中で、一人だけ地味で目立たぬ男がいる。  感じも身体つきも、“お天気おじさんの福井幸雄さん”のような風体のこの男は、よく見ると神経質な顔付きで小心翼々として見える。  日顕の個人資産をすべて管理する政子の実弟・野坂昭夫だ。“地味”“目立たぬ”“小心者”、この三拍子がそろっていたからこそ、日顕は野坂を経理係にしたといえなくもない。  経理といっても、野坂は経理士ではない。小さな貿易会社で経理課にいただけなのだ。 しかし、野坂昭夫は日顕ファミリーの一員になるや、あっという間に生活が豊かになっていった。日顕ファミリーに加えられると、なぜ豊かになれるのか。ここに興味深い証言がある。  「誰かに寺の経理を頼もうと思っていた矢先、石井栄純が『ぜひ野坂さんに』というもんだから、『じゃあ、いいですよ』となって来てもらったんです」  石井栄純とは、日顕の“本山での金庫番”石井信量の実兄である。弟に負けじと、日顕 や政子にゴマをすりたい一心の勧誘だったのか、政子に言われて末寺にも声をかけろと言われての行為なのか。  「野坂さんが寺に一回来ると、謝礼が十万円ですわ。来たからには一泊するし、そうなればプラスアルファを出さざるを得ない。…まあ、日顕の義弟ということで、御供養みたいなもんですわな」  そのうち、諸物価が上がった、新幹線の料金が上がったと、結局いつのまにか一回の報酬が十五万円から二〇万円になったという。  「最初の頃はまだ十ヵ寺位しか見ていなかったはずですよ。それでも一ヵ寺十五万円以上として、月に百五〇万円以上の収入でしょうか」  さらに、「詳しく説明すると、野坂さんが自分の収入として申告するのは、月額十万円なんです。これは寺が支払い証明を出すので間違いありません。…それ以上の分はどんな処理をするのか、あちらはプロだからうまくやっているんでしょう」  あるとき、宗務院財務部から「どういう人に寺の経理を見てもらっているか」という調査があった。この住職は当然、野坂を有資格者の税理士だと思い込んでいたという。  「事情通の住職に聞いたら、野坂は経理士の資格は持ってないという。いやー、驚くや ら呆れるやら…」  しかし、日顕の義弟を断るわけにはいかない。  「しかも寺に来るたびに、西片の話がしょっちゅうでる。あるときなど、『急に西片に呼ばれてるんで、今日はすぐに帰る』というわけですよ。これは効きます。さらに『西片には何日も泊まり込んで帳簿作りをやるんです』といわれたんじや、『ハハァー、ご苦労様でございます』というしかありませんて」  右肩からは日顕の威光を発し、左肩からは“裏法主”政子の威厳を放っての商売である。何ともウマミのある“経理士”なのだ。  事実、野坂が末寺の経理を見るようになってからは、寺の経営状況が政子に筒抜けになっていったという。毎月のお講でどれくらいの人数が集まっているのか、お正月、お会式などのご供養はどれくらい入るものなのか、春と秋の彼岸の塔婆のあがりは、そして所化や従業員の経費はどれくらい出ているのか、十ヵ寺も見れば、宗門全体の寺院の経営状況は読める。  日顕の代になってからは寺院賦課金のランクが二十等級からさらに細かく三十一等級まで細分された。名目は救済寺院の見直しとなっていたがこれによって、いままでのように 大雑把なランク分けから、一歩、きめ細かく管理されることになった。そして、今年に入ってついに寺の預金まで本山が監視して、寺院等級見直の対象にしてしまった。  それだけではない、本山の末寺収奪対策はいよいよ厳しくなっている。たとえば、さる四月からは、経本、過去帳、書籍など、これまでは本山が卸値千円で仕入れそれを、各末寺で、二、三千円で信徒に売り、その差額を各寺院の利益としていたが、今後はすべて本山からの委託販売とし、本山で決定した値段で売ることになった。簡単にいえば末寺の“うまみ”を本山が掠めとろうというのである。念珠なども、今後、数量、価格については本山が業者と一括交渉し、少しでも利益を増やそうというねらいで、末寺を乗り越えて、信徒・法華講員の懐を直撃しようとする本山の意図は露骨になってきたのである。こんな細かいところまで、本山が口を出してくるというのは、そのような細かな情報までもが入ってくるということである。  日顕のカネヘの欲望だけは、ますます熾烈になっているのである。  野坂の家は増築され、さらにクラウンの新車を購入するなど突然、羽振りがよくなる。  「背広もいいものを着てますよ。靴もカバンも、持ち物は金のかかった物ばかりですわ」  しかも野坂はかなりな”喋り好き”で、つい、いわずもがなのことまで口にする。  いわく、「日顕とは銀座の高級料亭『吉兆』などによく行く」と。そんな話を聞けば、末寺の住職は気をまわし、その辺の安い店など案内できなくなる。  こうして野坂は、着実に日顕ファミリーの一員として定着していく。  だが一方では、野坂昭夫の正体の“不透明”さを指摘する住職もいる。  「何ていうか、とにかく訳の分からん人ですよ。出身大学にしても明治の商学部を出たという人もいれば、いや日大だという人もいる。生まれにしても先祖は松前藩の家老だったなどと言ってるが、本当は海老採りの小漁師だったりと、あちこちで結構いいかげんな話もしているんです。  ことに自分は学生結婚をして、結婚前はダンスホールでデートをしていたなんて、モボ、モガ気取りを自慢したいんでしょうが、すべてがウソつぽいんだ。…だって女房は大手広告代理店の電通の課長をしていたというんですが、今の時代ならともかく、年代から考えても民間会社であの頃に女性の課長なんて有り得ないですよ」  野坂の言によれば大学を卒業後、野村證券に入社を希望するが就職試験に落ち、さる貿易会社に入社したという。  しかし別の所では貿易会社のサラリーマンではなく、請負いであちこちの会社の経理を 見ていたとの話もしている。さらには「病院の医療事務を担当していた」だの、変わったところでは「整体師をしていた」との説もあるが、これは本人が「私のような体の小さい者は、整体師は無理ですよ」と否定したという。  どちらにせよ、野坂自身が話している話がウサン臭さを呼んでいるのだ。  いやいや、「野坂というのは、人は悪くないよ」という声もないではない。「やっぱり、その、彼は世間を知っているから。我々が日顕に睨まれても、ある意味じゃ同情してくれるしね。あれで、バランス感覚は日顕ファミリーの中で一番持っているんだ」 ●税務調査の影に脅える無資格経理士の心労  こんなエピソードもある。  シアトル事件が発覚した当初、たまたま末寺に経理を見に来た野坂に報道された新聞を見せながら「こういう記事が出た以上、猊下のためにも退座されたほうがいい」と話したところ、ジッと記事を読んでいて「折りを見て話してみます」と言ったこともあった。  しかし、どうも「政子と比べて人は悪くない」、「政子と比べて世間を知っている」との感が伝わってくるから不思議だ。  「姉弟といっても、政子とは全然似ていないですね。私は政子より野坂さんの方が善人だと思う。でも気が小さいね。…しかしああいう人は、最後まで秘密をいわない人なんだよ。だから、お金をまかせるには安心だけど、気が小さい人だから、のっぴきらなくなるととんでもないことをしでかすか分からない。それでも秘密はいわない人だよ」とさんざんの評価をする人も出る始末。  が、この評価は、まんざら的外れではない。  彼の小心翼々さを物語る、こんなエピソードがあるからだ。  「野坂は帳簿を見ている寺に税務署が入ったりすると、とたんにガックリするんですよ。彼は胃が弱いから、何かあるとすぐ胃に来るんです。  うちは野坂に十年間帳簿を見てもらいましたが、税務署が入ったことも何度かありました。  税務署は脱税の容疑とは関係なく、定期的に調査に入るんです。それなのに、野坂は自分の落度を見つけられたように不安になってしまうんです。『こないだも、どこそこに(税務署員が)入ったんですよ』と、その都度、気に病んで体調をくずしていました。そんなときは帳簿を見に来ても、『今日はお昼ごはんは少しでいいです』といって本当に少ししか食べられないんです。それでなくてもやせて、細い人なのに」  野坂は、税務署が入った際の“立ち会い”ではかなりこたえていたという。  また、東京・常泉寺の帳簿も見ているのだが、常泉寺は向島に古くからある寺院のため、借地も多く持っていて、その借地料もけっこうあるという。それを帳簿上のミスから向島税務署に指摘され追徴金をとられたことがあった。このときもショックで、しばらく落ち込んでいた。だから、何を言われてもこたえない日顕から見ると歯がゆくてしようがない。  「『なんで君がそんなに気にすることがあるんだ』『君は気が弱すぎるんだよ』とよく猊下に言われるんですよ」と自嘲気味に語っていたという。  「あそこまでうろたえてしまうというのは、やっぱり経理士の資格がないのに営業しているという不安からなんでしょう。もう、心労で目のまわりが真っ黒でしたよ」  その頃、大阪で、免許がないにも拘らず税理士行為をした男が、税理士法違反で逮捕される事件があった。  「別に野坂さんは経理士だと偽っているわけじゃないのに、必要以上に不安がってた」という。これを称して「善人」というのだろうか。 ●日顕が一千万円納税者リストから消えた怪  ところで、日顕が地元の富士宮税務署が発表する高額納税者リストから宗門問題の起こった翌々年の平成四年以降、忽然と名前が消えた。奇っ怪なことである。  静岡県富士地区管内の高額所得者名簿によれば、日顕の平成元年の納税額は二〇五九万六千円、翌平成二年が一九九二万円で、富士宮高額納税者の百位。平成三年は二〇八六万二千円で百二十一位。それが平成四年からは1000万円の納税者にも入ってこない。  一〇〇〇万円納税者というと、約三〇〇〇万円の収入があるということになる。ところがそうなると、日顕は三〇〇〇万円の年収すらないということになる。  「あれだけの生活をして所得が三〇〇〇万円もないなんておかしいですよ」(富士宮の法華講員)。  「野坂の収入は、末寺の帳簿付けの収入より、西片の日顕個人の財産管理による収入の方が、はるかに多い」という人もいる。つまり野坂の仕事とは、日顕の個人収入をあちこちに隠すのが役目だというのだ。  というのも、全国末寺六百ヵ寺の目通りの際に出す「奉供養」だけでもいうに及ばず、全国各地の親修や年に二回の寺族同心会での供養、さらには満山供養と、そのたびに日顕への供養があたり前となっている。誰が見ても日顕の収入は億単位のものであるはずだ。  しかも野坂は、日顕が猊座にあがる前、京都の平安寺時代から姉の政子と共に、日顕の金の管理をしてきたという。  「ある時、野坂さんが割引債の話をしていたことがあるんです。割引債のことは、実に詳しい人ですよ」(西片にくわしい関係者)  割引債とは、券面に利札(クーポン)がついていない債券のことだ。割引債の発行に際しては、必ず額面以下の価格で発行され、満期がくると額面で償還される。つまり、発行価格と額面との差額が利息相当分として利益を生むのだ。しかも、利回りは複利である。そして、何より無記名。  「当時、野坂と彼の奥さん、それに政子の三人で大阪や京都にしょっちゅう来ていたことがあったんです。それで、あれはご親修のあとの現金を、無記名の割引債に変えて歩いているんだ」と、まことしやかな噂が流れたことがあったという。また、こうでもしなければ日顕の個人収入は、隠し通せないほど莫大だというのである。  「いや、あの野坂の自信に満ちた口調からして、日顕の財産は絶対に割引債で隠している」と前述の証言者は断言する。  「たまたま、野坂さんに聞いたんです。『お金って、どういう風に保管するんでしょうね』つて、そうしたら『割引債がいちばんでしょう、無記名ですし、だいいちお金だと五億円なんていうと結構な量になるけど、割引債は五〇〇〇万円券というのがあるので、五億円といっても、それが十枚ですから』つて」  ここで、“地味で目立たぬ小心な男”、野坂昭夫のルーツを見てみよう。  野坂昭夫は昭和五年、豊多摩郡中野町、現在の東京都中野区で生まれている。株屋だった父の野坂益雄は、花柳界にいた母、伊藤あいと結婚。そのためか姉の政子は、赤坂の田町で生まれている。  昭夫が四歳のとき、父の益雄は病死した。母は二人の子供を茅ケ崎の実家に預け、兵庫県の小さな鉱山町の料理屋の仲居となる。  やがて母はここで再婚話が持ち上がり、二人の幼い姉弟は遠戚にあたる日顕の母、妙修尼に引き取られ、大石寺に登ることになる。  十二歳の政子は妙修の住む蓮葉庵の下働きとなり、九歳の昭夫は得度して本境坊の所化 小僧となった。…この大石寺に引き取られた日を境に、二人の姉弟の運命は大きく変わっていった。  僧侶の世界は上下の身分差別が厳しい特殊な世界だという。そのためか、やがて昭夫は、母あいの両親が住んでいた茅ケ崎に逃げ帰る。そして、十七歳の時に還俗した。  「なんと政子の弟・野坂昭夫が還俗していたなんて! 全然知りませんでした。身内に甘く、他人には冷酷なファミリーですからね。わたしが僧侶をやめる時などは『還俗は身内、親類七代成仏しないぞ』つて散々、脅かされたんです。おかげで、わたしと同じようにやめていった所化小僧たちの中には『身内に申し訳ない』って、いまだに日陰者のようにこそこそ暮らしている者もいるんです。野坂の還俗のことを聞いたらどれほどみんな気が楽になることか」(還俗した元所化)  還俗した昭夫は政子からわずかな仕送りは有ったものの、苦学して大学を卒業したことになっている。が、前述のごとく、その詳細は不明だ。  当人の自己PRでは「証券会社に勤めたこともあり、経理事務にくわしく、語学も得意」というものだが、日顕の長女百合子にこの話をした住職夫人の話だと、不快な顔をして何も語らなかったという。  ともあれ後に日顕が法主として登座するや、政子の実弟という立場を利用して宗門末寺の経理を見るに至った。  「野坂さんはお寺に来ても、めったにお題目あげたことありません、勤行もしてないんですよ」(野坂をよく知る住職夫人)  それでも政子の実弟であれば許される? ●西片の“裏法主”政子の金銭感覚  実はこのことには、もうひとつの側面があった。いまや宗門の人事にまで口を出し“裏法主”とまでいわれるほどになった姉の政子に、末寺の経理を見てもらっていた寺はもとより、見てもらっていない寺の経理内容や金の流れのカラクリがすっかりあからさまになってしまったからだ。これにより、日顕は各寺の実情を正確に把握し、生殺与奪の権力を握ることに成功したのだ。いわば昭夫が現場の隠れた情報収集役だとすれば、政子はその情報を分析する作戦本部長であり、日顕はそのシナリオ通りに演ずる、司令官といえなくもない。  日達前法主の夫人は、法主の行動を管理するようなことはなかった。それは秘書役の奥番の仕事であるからだ。ところが政子の場合は日顕の隣で、いつも日顕法主のスケジュールを管理しているのだ。そして、いつのまにか宗門の官房長官気取りで住職の妻にも「お坊さんは女と金の問題を起こしたらおしまいなのよ」と指導する。シアトル事件の証言者クロウ夫人への贈り物もすべて政子がやっていた。その教訓が言わしめた一言かも知れない。  こうして亭主の地位を自分にあてはめて、さも自分も偉くなったかのように錯覚しだすと、池田名誉会長のことでも、寺の中では、「メイヨが、あのメイヨが」と口汚く呼ぶようになっていった。  やがて放蕩に明けくれる日顕を真似したわけでもあるまいが、政子もまたカネの魔性のとりこになっていった。そして莫大な散財をし始めている。  ことに平成二年春からの政子は、常軌を逸している。彼女は何と一ヵ月に数回も、石井ナツ子等日顕ファミリーを引き連れ、京都に豪華な旅行を繰り返したのだ。  まず京都に着くとハイヤーを仕立て、超高級のオートクチュール店に直行する。この店はスーツー着何百万円というのもあるほど高級品ばかりの店だ。客が決まっているせいか、 店には看板すら出ていない。  政子の買い方は、何かに憑かれたようにすさまじい。オホホ、オホホとはしゃぎながら、店員に「ここからここまで」と洋服の生地を指し示す。つまり、たくさんの生地の中からまず、政子が気にいった品物を好きなだけ選び出すのだ。その残りの中から、ファミリーの連中がさらに選ぶ。  こうして、この店だけで一年半で八千万円もの買物をしている。さらにはエステティック・サロンでの美顔やら全身美容の一回の料金に十数万円、パーマだけでも数万円という散財ぶりである。  ところで、実はこの“ファミリー・ツアー”の中に、謎の人物がいる。むろん女性だ。しかも、ほぼ毎回お伴をしているうえ、政子とは対等以上のソンザイな口をきいている。 藤本禮子、八木澄子という宗門の役僧夫人たちですら、この“謎の女性”には敬語で接するうえ、一目も二目も置いているのが分かる。  知らない人が見たら、政子の“娘”ではないかと間違うらしい。が、年令的にも娘の百合子ではない。  この謎の人物の名は、野坂嘉代という。弟、野坂昭夫の妻である。  十二歳と九歳で親に捨てられ、山に登った政子と昭夫の姉弟。しかも十六歳で日顕に嫁いだ政子にとり、唯一気を許せるのは今でも三歳年下の弟、昭夫だけだという。  それだけに、弟の嫁も数少ない身内としての意識が働くのだろう。裏返せば、孤独な政子の、寒々とした胸の裡が透けて見える。  だからこそ、こんな“事件”が起きている。  広島県尾道市に住む森原意淳子さんの証言を元に、屈折した政子の心理を追ってみよう。 ●政子がブラジル“お忍び”旅行に連れていった妹とは  「私はサンパウロ市内にある、旅行会社に勤めていました。この会社はブラジル最大の旅行代理店で、私はここに二〇年間勤務していたのです」  昭和五十八年の、五月の中旬だった。  森原さんに、日顕の長男で、当時、サンパウロの一乗寺の住職をしていた阿部信彰から、「旅行をしたいので、寺まで来てくれ」との電話が入った。  日頃から森原さんは、阿部信彰の出張や旅行に際し、窓口になっていたという。  「私は同じ会社に勤め、国内線の担当者である姪を連れて一乗寺に行きました。『どなたが旅行されるのですか』と阿部住職に聞くと、『まだ分かりませんので、決まり次第連絡します』とのことでした」  数日後、姪が再度寺に呼ばれ、旅行者の名が「阿部政子」だと判明した。  森原さんはとっさに、オヤッと思ったそうだ。なぜなら、その年の一月二十二日に行われた一乗寺の移転新築落慶法要に、日本からはるばる日顕が親修に訪れ、その際、宗門の総勢三十三人と共に、政子も同行してきたばかりだったからだ。  そして落慶法要を終えた一行は、観光旅行へと繰り出した。リオデジャネイロ、イグアス、マナウス等々。ことにイグアスでは世界最大の滝を見物し、マナウスでは日顕自らがホテルのプールで水泳までしてはしゃいだという。  しかし、あれから半年もたっていないのに、同じ所をもう一度観光するとはどういうことだろう。森原さんが不思議に思うのも無理はない。ここはブラジルなのだ。日本の国内旅行とは、わけが違う。しかも社用ならともかく、日本から個人で、同じ場所に観光に来るという。常識では考えられないことだ。  旅行日程を詳明に調べてみると、政子の目的地はイグアスの滝だという。  この滝はブラジルとアルゼンチンとの国境に位置し、リオデジャネイロと並ぶブラジルの観光コースの目玉には違いなかった。  予約のとき阿部信彰は、「母が落慶法要の際に観光したイグアスの滝がとても気に入り、“妹”にぜひ見せておきたい」といい、「母と叔母がお忍びでまいりますので、学会の方には内緒にしておいて下さい」と、念を押したという。  お忍びやら内緒やら、何やらうさん臭いものを感じるのだが、案の定。政子たちの一行がイグアスに出発する直前の空港で、イグアス指導に行くブラジルSGIの婦入部幹部とバッタリ顔を合わせ、秘密がバレてしまった。  「ずいぶんぜいたくな旅行ではないか。こんな豪遊をさせるなんて、猊下は相当なお金持ちなんだ」、その時、森原さんは思ったという。  ともかく、政子の一行はイグアスヘと出発した。しかし現地は季節はずれの豪雨のため、行くには行ったが帰りのサンパウロ行きの飛行機が飛ばないという。これでは帰るに帰れない。  政子と野坂嘉代たちの一行は、次の日にヨーロッパに行くスケジュールが組まれていた。そのためには、何としてもこの日のうちにサンパウロに帰らなくてはならない。政子は案 内人に、強い口調でいい続けたという。  お金を出せば何とかなる。政子の悲しい“浅知恵”は、イグアスとサンパウロ間をタクシーを飛ばして強引に戻るというものだった。が、この間は一二一〇キロ、ほぼ東京から九州までの距離に匹敵する。ましてやこんな豪雨の中を、走ってくれるタクシーなどあるわけがない。  止むを得ず一行はイグアスに一泊し、サンパウロに戻った。そして、そこからタクシーを飛ばし、やっとの思いでドイツに向かっている。  義理の妹・嘉代に世界一の滝を見せようとした政子。しかし、ここにあるのは熱い肉親の愛でもなければ、深い姉弟愛でもない。  幼くして安寿と厨子王のごとく本山に預けられたあの時から、怨念を引きずって生き続けたイビツな人となりが、黒い陰となってたたずんでいるにすぎない。 第四章、小型瞬間湯沸かし器・阿部信彰  証言  「学会の寄進した土地では満足なものが出来ない、となりの土地を買い足せないか?」と信彰は言い出して、埓があかないと思ったのか皆の見ている前で日本に電話を掛けたんです。相手は母親の政子、『一億円いるんだけど……』『一億円? いいわよ、買っちゃいなさいよ』と言って本当にポンと一億円送金してきたんです。あれは政子のポケットマネーかしら? それとも宗門のお金だとしたら…?」 (当時、ブラジルで信彰の世話をした故シルビアーサイトウBSGT名誉理事長夫人) ●妻の髪をつかんで引きずり回す暴力住職 日顕の息子の阿部信彰ほど不思議な人物も少ないだろう。  一見、慇懃のように見せながら狂的なまでに暴力を振るう。誠実そうな態度をとりながら平気で裏切る。真面目そうな言葉とはまるっきり反対の行動をする。小心でいながらふてくされたように図々しく、そしてマザーコンプレックスの甘えん坊。この二重、三重人格をどう考えたらいいか。正体が判明すればするほど、ますます“狂的人物”としか思えなくなる…これまで信彰と交流のあった坊主仲間たちは、そう口を揃えて語るのである。  信彰は昭和十九年八月、本山の「蓮葉庵」で生れた。太平洋戦争の末期で、本山にも戦禍の色が濃く忍び寄っていた。  そして、終戦。信彰は幼年時代を東京の本行寺で。後に京都に移って、龍谷大学仏教科を卒業する。  二年後の四十三年十二月、埼玉・能持寺が落慶し、信彰は初の住職として赴任した。  「阿部教学部長(当時)の長男で二十四歳」、まだ初々しい新鋭の僧侶とみられ、地元では期待を集めていたのである。  来たばかりの頃は、所化と二人暮らしで、この所化が食事の世話もしていた。後に食事の世話をする年配の女性が出入りするようになった。この頃の信彰は誰の記憶にもないほど、目立たぬ平凡な若いというだけの坊主だった。  翌年、結婚する。妻の信子は兵庫県出身で寺族ではなく、法華講員の娘である。  日顕が出席して兵庫県西宮の法華講の会館で入仏式が行われたことがあり、法華講の女子部から二人の女性が受付に立った。その中の一人が信子だった。この日、彼女は短いピンクのミニスカートをはいてきて、「こんな服装で来てしまった、どうしよう」などとうろたえていたという。日顕はその姿を見て、どこが気に入ったのか「長男の嫁に」と望んだといわれている。結婚式は京都グランドホテルだった。  結婚そのものも地元では知る者は少なく、「いつの間にか、妻ができた」と驚くほどであった。  四十八年、長男の正教が生れるが、この頃から信彰の信子への態度に変化がみられるようになった。僧侶とも思えぬ横暴な行動をとるようになったのである。  巷間、「信子の指先にシモヤケができていて、いかにも痛々しく、慣れぬ寺の生活が大 変なのだろうと、皆が同情したものだ」という。  信子は信彰に対して常にオドオドし、普通の結婚間もない夫婦のようにはとても見えなかった。学会の幹部らも、二人と会うのが辛かったといっている。信彰はことさら言葉で苛めるのでなく、“目で不満や怒りを伝える”のだった。ちょっとした目の合図で、お茶がでたり、菓子や灰皿が出たりする。信彰の目や手、指先や身振りの合図に信子は敏感に反応し、その指図通りに動いているという感じだった。  客は誰もいたたまれぬような気持ちになった。とにかく客がいる間中、彼女はなにか失敗しないか、信彰に叱られないか絶えず落ち着きなくハラハラしているのが、姿や態度からはっきり見てとれた。  客の席に信子は同座しない。客には分からないが、かすかな信彰の合図に従って接待の品などを運び、さっと別室に去る。それでもその部屋から注意しているのか、信彰がなにか合図をすると、たちまち菓子などを持ってくる。そうした時の信子にむける信彰の顔はあまりにも厳しく、意地悪そうで、客ですら「これではかなわないな」と感じ取ったというのだ。  率直にいうと、信子にもたしかにルーズなところがあった。台所などには皿や茶碗が山 積みされていたり、野菜や食材がいたるところに転がっていたりして、足の踏み場のないこともあった。また男性客の前で胸を広げ、赤ん坊に乳をふくませたりする姿には、目のやり場に困ることもあった。  信彰には偏狭で神経質な一面もあり、こうした信子のルーズさに不満を待ったのか、しだいに人前でも平気で暴力を振るうようになるのである。それも父親・日顕そっくりのあまりにも激しい怒りようなので、ある学会の幹部が「住職、かわいそうです。その位にしてやってください」ととりなしたことがある。すると信彰はさも憎々しげに、「まったく気がきかない、グズだから」と答えたという。  ある出入りの仏壇屋は、信彰に髪をつかまれ、数十メートルも引きずられていく信子を目撃している。彼女は泣きもせず、ただ「ごめんなさい、ごめんなさい」と乾いた声でいうばかりだった。その余りの恐ろしさに目撃者も唖然として立ちすくんだという。  なにをいわれても、すぐに「すみません」「申し訳ありません」というのが信子の口癖、条件反射のように、この言葉が出てくるのだった。  これが信彰とその妻の日常生活の素顔なのである。 ●平身低頭も供養金欲しさのサル芝居だった  その反面、信彰の学会員に対する姿勢はがらりと違う。  まず学会員への頭の下げ方。直角にお辞儀する。こちらが上げてもまだ下げている。もういいかと思うと、まだ下げている。  この姿をみると、なんと丁寧で謙虚な住職なんだろうと思ってしまうが、それが曲者で実はサル芝居、形だけだったのである。  しかし一見するとバカ丁寧に見える。そして寒気がするような声で「皆様は日蓮大聖人様のお客様です。学会員の皆様にはどんなに頭を下げても下げ過ぎるということはないのです」などと、もったいぶっていうのだ。  「私は御本尊様のお使いをしている皆様をいつでも心からお迎えする立場にあるものです」「創価学会あっての私です。池田先生あっての私です」、これが常套句だった。そして後頭部が見えるほど九十度も頭を下げる。ここまでされれば「この住職は素晴らしい」、ついそう錯覚しても仕方あるまい。  学会員が、本堂を会場にして集会を開き、学会歌を合唱すると、信彰は決まって出てきて拍手し「私はこの歌を聞くと元気が出るのです」などという。また本堂で経机を動かして、少々、傷つけたことがあったが、恐縮する会員に「なに、いいんですよ。これは広宣流布のために使っていただく机ですから、まったく気にしていません」などと答え、まわりにいた人たちを感激させたのだった。  男子部の会合で出陣太鼓を打つことになり、その練習に寺の太鼓を使わせてもらおうと願い出た。信彰は即座に「どうぞ、どうぞ。広宣流布のためになることですから、太鼓も喜んでいるでしょう」などと答えている。  また信彰は、殊勝にも町内の夜回りをしたことがある。その途中、婦人部員などが「住職、ご苦労様です」などとあいさつすると、例によって深く頭を下げて、「とんでもございません。学会の皆様は、日夜、広宣流布のために働いていただいております…わたしの夜回りぐらい…。」などと答えるのだった。こうした態度をみると、学会活動を理解し、協力してくれる物分かりの良い住職だとつい信じるようになったという。  ところが寺に手伝いに行った婦入部の幹部は、信彰が所化に「学会にはなんでも適当に言っておけばいいんだ」と吐き捨てるように言っているのを耳にした、「この人は、とん でもない人だ!」とたちまち不信を覚えてしまった。  妻に対してこれほど暴力的な人間だから、所化にも容赦はない。とにかく怖い顔で叱る、睨みつける。その物凄い形相に一般の者すら怯えるほどだった。子供のような所化が勤行の途中、つい居眠り等をすると、信彰は鐘を叩く棒で経机を激しく叩く。ヘマをする者は何時間でも納骨堂にとじ込め、カギをかけてしまう。そのバカバカしい幼児的行為には、「この人はどんな生き方をしてきたのか」とつい顔をみつめてしまうほどだったという。 後に自動車電話が流行しはじめたころ、早速とりつけ、自分の寺に用事もないのにかけてははしゃでいる。これが大のオトナのすることかと、その未熟ぶりに寺の従業員はあきれてしまったのである。  そして肝心の信彰の信仰姿勢、信心の度合いはどうだったろう。  これがまた最低なのだ。学会員は昼夜を問わず、折伏に懸命になった。まだ会館が現在のように完備されていない頃で、夜遅くまで寺を貸してもらっていた。信彰もストーブを持ってきて、「寒いでしょう」などとサービスはしたが、根本の折伏には絶対に協力しない。本来、僧侶は広宣流布、折伏を根本とし、寺はその最大の舞台である。ところが、信彰は仏法の話を人に伝えられない。だまって学会員の努力を眺めているばかりなのである。 なんのことはない。僧侶とはいえ、布教の精神など露ほども持ち合せていないのだ。  ある時、「どうして学会のみなさんは、これほど折伏ができるのですか。私たちにはとてもマネができません」と何度も言ったことがある。聞く者は謙遜の言葉と受けとめたが、実は信彰は本当に折伏という日蓮大聖人の御精神に従う意思も能力もなかったことが、しだいに明らかになっていくのである。  毎月十三日、各寺ではお講(住職による教学講義)が行われるが、その内容がなっていない。最低のつまらぬ話で、そのつど頭をかいては「きのうは勉強ができなかったので」と弁解する。信徒側がお講の内容についての報告書をまとめるのだが、とても報告できるような代物ではない。信彰もそれを気にして「どうか、助けてください」と泣き言をいうのがいつものことだった。  このような信心姿勢だから、学会員たちの熱心な体験発表もまったく理解できない。  「そんな信仰体験は信じられない」「信心の功徳なんてわたしにはわからない」などと本気でいう。つまり信仰の基盤、仏法の本義がなにも理解できないのである。こうした坊主が法主の長男で、宗門幹部の一人であるということは、深甚な仏法を冒涜するものとさえ、やがて信徒は考えるようになったのである。  そのくせ、カネ集めは本能的にうまい。例えば寺で結婚式を行ったりすると、経本や念珠と一緒に、祝い金なども贈る。それも直接にではなく、出席者一同に分かるように仲人を通して渡すのである。金額も三万円、五万円と高額だ。結局、「ご住職からお祝い金までいただいた」、こうなると、信徒の供養も五万円、十万円と予定より多くならざるをえない。誘い水をしてもっと出させる。そのテクニックだけは見事なものだった。  これが信彰の若い頃の素顔だが、そのまま年齢を加え、少しも僧侶として成長もせずに、ただ傲慢、強欲な部分だけをふくらませて今日に至っているのである。  こうした不勉強ぶりが埼玉県能持寺で十二年も続き、信徒もほとほと呆れ果てた五十五年の七月、ブラジルーサンパウロ市の一乗寺住職に任命された。 ●帰国するたびにトランクが四〇個  海外で布教の最前列に立つ、と考えるなら栄誉ある任務だが、これが名誉どころか、この上ない恥辱に満ち、また信徒たちからは総スカンを食う羽目に陥ったのである。  南米ブラジル、日系移民は百万を数え、多くの信徒が熱心に日蓮大聖人の仏法を護持し ている。極限の生活の中で信仰を続け、人生の喜びと明日への希望を実感している人たちだ。決して生半可な信仰ではない。  しかし当時、前の住職・毛利正顕は信徒の信頼を裏切り、学会員の切り崩しに狂奔したあげく、擯斥されると寺の板本尊を勝手に持ち去ってしまった。  このことで一乗寺は約一年にわたって閉鎖され、地元の信徒を嘆かせていた。そこに法主の息子の信彰の派遣である。地元の人達がどんなに喜んだことだろう。  信彰はまず単身で赴任した。現地のメンバーは熱心に世話をし、食事は三度三度、交替で日本食を作っては寺まで運んだのである。  やがて「素人料理では申しわけない」と専門の料理人まで雇うようになり、料理人の休日にはむろんメンバーが代わって食事の世話に当たる。このように下にも置かぬ奉仕と歓待をしていたのである。いかに信彰に期待したか、その熱意が伝わってくるではないか。  十ヵ月後の五十六年四月、妻信子と三人の子供がブラジルに到着した。「これで住職も落ち着いて、弘教や指導にがんばってもらえるだろう」と誰もが思った。皆、真剣に信彰一家の世話に当たった。子供が病気と聞くと、飛んでいって看病をする。現地の生活に慣れない信子のためにつきっきりで面倒をみた。それほど信彰一家を誇りにし、尊敬し守っ ていたのである。  ところが家族が着いた頃から、信彰の意外な素顔、病的な側面がのぞくようになった。  「すぐカッとして奥さんを殴りつけるのです。それも本当に些細なことで…ある時、奥さんがお茶を入れてきたのですが、茶碗を置くか、置かぬうちに“パチーン”と猛烈な平手打ち、なんでこんなことをするのかと、こっちも呆然としてしまいました」  これは序の口だった。  信子がモタモタしている。三指をついたお辞儀の仕方が面白くない、愛嬌のない顔をしていた、返事が遅い…そのつど、アザになるほど膝をつねり上げるなど、陰険な仕打ちをするのだった。  食事がまずい、気にいった料理がない…これでテーブルをひっくり返す。皿やスプーンを投げつける。側にいる者は目のやり場に困るほどの“狂的”な暴力である。  さまざまな民族の混在しているブラジルでは、西欧的な習慣、マナーが広く浸透していて、地位や教養、学歴などを重視する。なにしろ現在でも大学卒業者には「ドットール(学士さん)」と呼んで尊敬する国だ。まして女性に対しては、ギャラントな(恭しく対応する)マナーが要求される。女性を殴ったり、乱暴したりすることはこの上ない野蛮なこ とで、そんな男は仲間ばかりか、世間からもつまはじきにされる。これはブラジル人に深く染みついている感覚なのである。  ところがこれに反する野蛮な行為を、聖職者とあろう者が、日常茶飯事のように行っているとしたら、信徒としては社会にも顔向けできないのである。一般のブラジル人はこれだけで仏法に背を向けてしまう。信彰の暴力は大変な法を下げる行為としかいいようがない。  「お講にいくと、所化の顔にバンソウコウが貼ってあるんです。人前で所化を殴るのはよく見ていたけど、人のいない所ではバンソウコウを貼るほどの暴力を振るうのかと、ソッとしました。こんなに遠くまできて、所化さんがかわいそうだと、よく皆と話しあったものです。あの怒り方は、なるほど“瞬間湯沸かし器”といわれる日顕にそっくりです ね」。現地の会員の言葉である。  そのうち子供にも手を上げるようになってきた。  「当時、小学校三年だった長男は学校に順応できず、家では父が怖いので、家にも帰れない。そこで信徒の家に入りぴたりとなる。すると信彰が“なぜ帰らないのか”と連れ戻しに来て、子どもの頭を殴りながら引き立てていくのです」  このような姿をいつも見ていたら、「とんでもない人が来てしまった」と、誰もが愕然とする思いになるのは当然であろう。  信彰の異常性格ぶりは、いろいろな面にも出てきた。  “己れ一人貴し”なのである。  ブラジルの日系人はどんなに成功し、リッチになったとしても、本来的には、異国の土地で汗と血を流して、築き上げた労働者である。この平等性が低流にある。  だが信彰はそんなブラジルで、僧侶社会の貴族性を存分に発揮しようとした。  些細な理由でしばしば日本に帰る信彰が、ブラジルに戻る時は、日本から多量の品々を持ち込むのである。  それが毎回、何とトランク四十個。信彰一人分で四十個だから恐れ入る。  中身は高級和服、ブランド物のスーツやバッグ、靴…といった身の回り品、漆塗りの食器、屏風、高級調度品、食料なら日本産の上等な味噌、醤油、油、梅干し、佃煮、とにかく一切合財、運んでくる。当時のブラジルは(いや、現在もそうだが)外貨不足のため、生活日用雑貨の輸入は数量も少なく、規制も厳しいものがあった。したがって当時、二千円の日本の品物は、サンパウロの空港の関税を通過する時、価格の倍以上の税金を徴収さ れ、四千円以上になる。重量税を加えると、さらに加算される。  「一体、これだけで税金がいくらになるのか」まわりの人たちは心配するが、当人は平然としたものだった。そしてこの再人国のたびに持ち帰る四十個のトランクの運搬役が必要になる。トラックを用意し、人数を揃え、信彰を出迎えるのである。信彰は感謝するでもなく、悠然とファーストクラスから姿を見せる。  そして大きな財布から、ドル紙幣をどっさり取り出す。カネ漬かり、品物漬かりの光景である。貧しい現地の人々にこれがどう映っただろう。それでも宗門の実態をまだ知らなかった人々は、「住職が喜んでくださるなら」とただ有難く、奉仕していたのである。  時々、地方への出張御授戒も行われた。これがまた大変だった。鉄道はなく空港の数も少ないので、通常、車で出掛ける。信彰は車が好きで、地方に行くと、景色がよく見えるからといい、前の席に座りたがる。いう通りに前に座らせるが、何か気に入らないことがあると今度は逆に「住職を助手席に乗せるのは失礼だ」と怒り出す。日頃、自分で「僧侶は後部座席に一人だけ。お供の者は助手席に」などと決めておきながら、その時の気分で前だ、後だといい何かあると怒り出す。  「たまったものではなかった」、当時の同行者はいまでも憤慨している。  それだけではない、スピード狂の信彰は、自分で運転すると言い出す。しかたなくハンドルを持たせると信彰は地方の舗装されていない道を時速百五十キロ以上の猛スピードで飛ばす。同行者たちは生きた心地がしない。信彰は自分が満足するまで、車を走らせるのである。とても僧侶の自覚はない。その辺の暴走族とかわらないのだ。 ●「一億円送って!」の無心と政子送金の疑惑  常識外の行動はなおも続く。  創価学会が寄進した一乗寺は、日本人街にあるBSGI(ブラジル創価学会)本部に隣接していた。信彰はこれが不満だった。サンパウロ市の繁華街、コンセルフルタードに、一乗寺が新築移転することになった。  ここでもまた、信彰のわがままが始まった。「学会が寄進した土地では満足な寺ができない、もっと大きな寺院にしたい、隣の土地を買い足せないか」と言い出したのだ。その価格が一億円。  もう誰のいうこともきかない。日本と比べ、地価も安いが、それでも一億円は大変な金 である。  信彰は皆の見ている前で、東京・西片の母・政子に国際電話をかけた。  「土地を買うので一億円いるんだ」と、こともなげにいう。  政子の返事はこうだった。「一億円、安いじゃないの。買いなさいよ。すぐ送金するから」  そして数日後、日本から一億円が送られてきたのである。  いくら法主の息子とはいえ、こんな安易な方法があっていいのだろうか。この一億円、いったいどこから捻出されたのだろうか。一般には末寺への資金援助は宗務院からである。だが…? 宗務院の金か? 大石寺の金か? それとも裏金なのか?  宗務規則の財務の項、第五十四条に「予算作成後に、やむを得ない事由が生じたときは、宗会及び責任役員会の議決を経て、既定予算の追加又は更正をすることができる」とあるが、宗会の議決どころか、右から左へ“ポン”という具合の支出なのだ。寺が火災で焼失したというような緊急なケースではない。信彰だから特例なのか。それとも政子のポケットマネーからの支出なのか。いずれにしろ不明朗な会計であることは間違いない。  しかしカネは届いた。すぐさま着工に移った。工事はスピーディーに進み、翌年には 新・一乗寺が完成したのである。  「日顕や政子には公(おおやけ)という感覚がわからないんです。宗門は自分のもの、大石寺の金は全部、自分たちのモノという意識があるんです」(本山塔中住職)  だから気に入った僧侶や関係者には惜しげもなく金を配る。  「平成三年の初めに青森県・専妙寺の住職沼田凡道が『金がないので何とかして欲しい』と日顕に泣きついたことがあったんです。するとすぐに一千万円が本山からご供養されたというんです。ところが、この一千万円は大石寺の帳簿には載っていないんです。」(本山住職)  つまり日顕が勝手に出した金だというのだ。日顕の不明金と言えば、平成五年六月に竜年光の口座に日顕名義で振り込んだ一千万円がある。しかも、この時は宗教法人大石寺の金を日顕が竜年光に払ったことになっている。だが、二人の大石寺の総代は「私たちは一言も聞いていません」という。  また、新しいところでは、写真週刊誌「フライデー」にもスッパ抜かれた日顕の弟子の高橋信興(杉並・仏乗寺)。高橋が紛失した御本尊を見つけ出してくれた人にすぐに二千万円払って買い戻そうとしたりしている。民生寺院が百八十ヵ寺を超えているという時に 身内だけは大盤振る舞いなのだ。ところが、本当はこんなものではなかった。  「このほど発覚したところによると石井栄純(石井信量の兄、横須賀・法照寺)に十二億円、秋元広学(東京・宣徳寺)に三億円を日顕の口座からひそかに振り込まれていたんです」(某宗会議員)  宗務院や寺院建設委員会という公的な機関は名目だけで実情は日顕の好き嫌いで勝手に大金が配られている。 ●地元で大顰蹙、日顕一行の飲めや歌えのブラジル乱痴気親修  そしてブラジル一乗寺新築とともに落慶の法主親修が行われることになった。  その一行たるや、日顕夫婦をはじめ、藤本日潤総監夫婦、早瀬義雄宗会議長、秋元広学渉外部長、前川慈肇海外部長、その他、河辺慈篤、光久諦顕、関快道、高野法雄、早瀬義純といった日顕取り巻きの役僧たち、なんと三十三人という大パレードだった。  なんでこのような常識では考えられぬ大団体旅行になったのか。  ある僧侶はいう。「政子の見栄ですよ。ブラジルにいる息子がこんな立派な寺院を、自 らの力で建立したという業績を宗門に誇示したかったからです。そのためカネに糸目をつけず、無理して大きな寺を建てたのです」。まだ宗門が露骨に学会排斥を口にする前で、法主日顕たちはことさら「世界広布がここまで進んだのは池田名誉会長のおかげです。感謝しております」などと殊勝な外交辞令を振りまいていた。  とはいっても一行の世話をするのは、現地の学会員ということになる。親修が終わるや否や、僧侶の化けの皮が次々と剥がれ出したのである。  とにかく我がままで贅沢なのだ。そして旅の恥はがき捨ての放蕩三昧ぶりであった。  一行はサンパウロからイグアス、リオデジャネイロ、アマゾンのマナウスと観光旅行を続けた。観光というより場所もわきまえぬ豪遊であった。  リオでは、カーニバルで有名なサンバを見ようと、超一流ホテル「シェラトンホテル」の最上階の「サロン・デ・ショー・ド・ソル・エ・マール(太陽と海のショーの間)」を午後八時から十時半まで借り切っての盛大なパーティーとなった。これにはサンバをおどるダンサー二十人が呼ばれた。いずれもグラマーな美女ばかりである。 日顕一行はグラマーなダンサーを目にしたとたん、興奮し、たちまち破目を外して下品な踊りに興じた。坊主頭に開襟シャツ、みな同じ異様な姿だからいやでも目につく。この連中がダンサーたちの腰に手を回し、体をすりよせ、両手を上げ、足まで挙げての“万歳踊り“。中本代道(当時・アメリカの寺院に勤務、現・大坊内)など大声で笑いながら、女の腰に抱きつく始末。これがいつまでも続いている。案内の現地メンバーならずとも、「もう、いい加減にしろ」と叫びたくなるという光景だった。  日顕はこの破廉恥パーティーの直前、リオの学会の会館を訪問し、「大聖人は御自らの御振る舞いによって、成仏という永遠の幸せを得ることができると我々に示してくださっている」などと臆面もなく説法しているのだ。“現代の大聖人”を自認する日顕は、この醜態でなにを示そうというのか。  次の観光地はマナウスである。団体旅行とはいっても食事の世話は、現地のホテルに任せておけない。ブラジルの食事はまず彼らの口に合わない。となると学会の婦入部のメンバーが先に行って、準備をしなくてはならない。サンパウロから十人、現地メンバーが十人、計二十人が家庭をなげうち、食事係として随行することになった。  これにはたいへんな器材と経費がかかったのである。膨大な量の食器と日本食の材料を飛行機で先に運んでおく。熱帯、亜熱帯の野菜は値段が高いが、現地調達しなくてはならない。水は現地のものでは、慣れぬ者は下痢をする。そこでミネラルウオーターを用意す る。人員と日数、これだけでも大変な量になる。飛行機と車を使っての大移動なのである。  調理するとはいえ、ホテルの調理場を借りるわけにはいかない。断られるのは分かりきっている。そこでホテルの同行幹部の部屋が臨時の調理場となる。まさに戦場のような忙しさだ。部屋中に電気釜を並べ、一斉にご飯を炊く。一挙に電気を使用するため停電も発生する。もう泣きたいほどだ。「それでも僧侶たちに日本と同じような安心した食事をと夢中だったのです」、参加した一婦人部員の話だ。  坊主の一行はこんな人々の好意に満ちた努力を全然、分かろうとしない。いや、そんな感謝の気持ちなど毛頭、持っていないのだ。  「こんなまずいもの食えるか」「とてもロに入る代物ではない」などとうそぶき、手付かずの状態で戻ってくる、また「よくこんな料理ができたものだ、これでも料理かね」などという声も聞こえる。  「なんのためにこんな苦労しているの」と泣き出す婦人部員もいたのだ。とにかくこの坊主どもには、「自分たちは偉いのだから、奉仕されるのは当然、奉仕するなら、われわれが満足する最高のものを出すべきである」、そんな思い上がりの気持ちがある。  純粋な好意が分からぬほど悪質なものはない。この態度が旅行の終わるまで続くのであ つた。口では「どうも恐縮です」などといいながら、学会員が部屋を出るやいなや陰口が始まる。心底、信徒を甘く見、バカにしているのである。これほど思い上がった種族もあるまい。  遊興を求める心も驚くほどだった。ここは異国、なにをしても恥ずかしくない。いや、日本でできぬことをここでやろう。オレたちにはその権利があるのだといわんばかりに、好き勝手な行動するのである。  アマゾンの大河に臨む関税のフリーゾーンーマナウス。ここはアマゾン沿岸の最大都市で、日本人開拓民の功績が大いに評価されている町だ。かつてゴムの産地として発展し、ヨーロッパを凌駕するオペラ劇場までできた。外国客も多いので、ここには会員制のクラブもある。日顕一行は、その中の一つ、某会員制クラブに行こうと言い出した。「会員制だから」といくら説明しても聞こうとしない。「世界一の宗教団体の僧侶なのだから、入れてくれてもいいだろう」とうそぶき、「入れないのは交渉が下手だからだ。もう一度、やってみろ」などと言い張る。むろんどこの誰とも知れない坊主どもが相手にされるはずはない。「なんで僧侶がそんな場所に行かなくてはならないのだ」、同行の学会員もついに怒りだした。  さんざんモメたが、結局、入るのを拒否された。腹のおさまらぬ一行は、マナウス最高のホテルに帰ってから、浴びるほど酒を飲み、どんちゃん騒ぎとなった。他の宿泊客からどんなに苦情が来ようとも知ったことではない。全員がぐでんぐでんに酔い、ロビーに繰り出して、女性観光客にからみ、アベックを冷やかすという、与太者のような醜態ぶり。あげくの果て部屋に帰った一行は、「疲れた」と地元の男子部のメンバーに肩をもませたり、婦人部員に湿布を貼らせたりした。「あんな情けないことはなかった」と今でも、会員たちはロを揃えていうのだ。  宿泊先のトロピカルーホテルの支配人は「ホテル開設以来、最低の客だった」と酷評し、以来、しばらくの間、日本人客とみると「こういう坊主を知っているか」と侮蔑のネタになっていたのである。  こんな醜態を日顕は一言も注意するでもなく、ブラジルのメンバーに謝罪するでもなく、「まだ遊び足りない」といわんばかりの態度だったのである。  こうした恥知らずの乱行は最後まで続く。  最後の夜は、日本料理店「みやこ」で、お別れの会食となった。ここでもまったく変わらない。しかも日本語が使える場所で日本の食事、安心して大騒ぎする。怒鳴り、歌をう たい、「いい女はいないか」などと放言し、みんなへべれけに酔い、ホスト役の信彰でさえ最初に酔いつぶれて、身動きもできぬ有様だった。  「この連中は何をしに来たのか」、現地幹部の一人が吐き出すように言ったのも当然である。ここは日系移民たちが、命をかけて築いた都市だ。そして多くのブラジル人から「さすが日本人だ」という尊敬を勝ち得た土地なのである。それなのにこの連中は、その誇りを無残にも壊してしまったのである。形だけは僧侶という格好をしながら、最低の人間どもであった。  翌日、彼らは二日酔いで、フラフラしながら旅客機で次の海外親修、メキシコヘと飛び立っていったのである。現地メンバーに「有難う」も「お世話になりました」の言葉もなかった。  二日酔いでブスッとしながら、物もいわず機上の人になったのである。 ●所化に暴力「俺に殴られると宿業がひとつ減る」? 嵐のような親修旅行が過ぎ、また一乗寺での信彰の“暴力住職”ぶりが再開された。  唱題の途中で気に入らないことがあると突然、所化や執事に、バーンと念珠をぶつける。庫裏に帰ってから説得というような余裕はない。まさに親子二代の“湯沸かし器”で、その場でなにがなんでも爆発させずにはいられないのである。  地元メンバーはもうあきれ果てた。「あの住職の存在は広宣流布の大きな障害だ。早くなんとかしたい」と真剣になって話し合ったりした。かつて期待を込めて迎えた頃とは雲泥の差、ホウキで叩き出したいような気持ちだった。その思いが通じたのか、五年後の六十一年三月、東京・府中の大修寺への就任が決まるのである。  信彰の大修寺着任は、地元にとっては受難の始まりだった。  もともとこの寺は、池田名誉会長の発願による学会寄進の寺院だった。  寺の本堂やさまざまな施設のほか、3DKの立派な家族用の住居、庫裏がついていて、生活にはなんの不便もなかった。これを見た信彰は即座に「狭い、とても住めない」などと渋い顔をした。なにしろバックには日顕・政子という無限のカネ蔓がついている。なんの心配もない。寺の外に大きな家を二軒も借り、ヤマのような調度品を納め、寝泊まりもできるようにしながら、寺の庫裏の増築にかかった。  出来上がったのは、前の部分もふくめて、なんと1〇LDKもある城のような立派なも のとなったのである。  内部はむろん超デラックスである。あそこを見、ここの寺を参考にし、それ以上に、もっと豪華に、そんな目論見で増築したわけだから、希望通り完成したのはいうまでもない。一つ何十万、一点何百万といった陶器や絵画が当たり前のように並んだ。これらは西片の政子からの“下げ渡し”なのである  もともと信彰は極端なケチ男だから、カネは自分で全部握っていて、信子にさえも、生活費をろくに与えない。自分の居室はこれ以上ないほどに豪華な内装なのに、所化の部屋などは畳は破れ放題、見かねた信徒たちが、敷物をプレゼントしてボロ隠しをさせたほどであった。  ここでも信彰は相変わらずのカーマニアだった。高級車を次々に買い替え、スピード狂ぶりを発揮する。「府中から本山まで一時間で行けた」と暴走族のように自慢し、百四、五十キロのスピードは普通だから、同乗者は生きた心地もしないのである。かつて車ごと谷底に転落事故を起こしたことがあり、一週間ほど入院した。当然、スピードの出し過ぎでカーブを曲がりきれなかったためだった。  信彰の乱暴ぶり、暴力ぶりは、埼玉県・能持寺、ブラジル・一乗寺時代といささかも変 わっていない、むしろさらに加速したかのようだった。  ここには夜間の大学に通う二人の所化がいる。かれらは信彰から部屋に呼ばれたとたんタラタラと鼻血が流れだし、「タオル、タオル」と叫びながら、台所に飛び込み、鼻血を洗い流している。まだ何もされたわけでもないのに。なんとも滑稽なのだが、彼らはいつも信彰に殴られているので、呼ばれると殴られる前から鼻血が出てしまうのである。パブロフの犬のように、信彰イコール暴カイコール鼻血という条件反射の図式が出来上がっているのである。先輩のもう一人の所化も悲しそうに声をひそめて「私もはじめはそうでした」と告白している。  いちど、近くの病院で診察してもらったが、原因は不明、「多分、精神的なもの、ストレスに起因するのではないか」という診断だった。病名をつけるとすれば、“信彰恐怖症”とでもいうのではないだろうか。  ここでは信彰に呼ばれて、一分以内に現れなくては、すぐさまメッタ打ちにされる。信彰がポンポンと手を打つと、所化は外からでも、二階からでも転がるように飛んでくる。どんな大事な用事かと思うと、「新聞を持ってこい」「ハサミを持ってこい」といった程度のことなのだ。これも一分以内に持参できないと、ビンタが飛ぶ。したがって急ぐためにかき回したり、下から探したりするので、所化が用事を云いつけられた後は、目も当てられぬ惨状を呈するという。  ある朝、一人の従業員が「お早よう」と所化の肩を軽く叩いた。すると所化は「ギャッ」と悲鳴とともに飛び上がったのである。彼の肩、背中、腰…いたるところにミミズ腫れや殴打による黒いアザができていたのである。  信彰は顔は中啓(儀式用の扇)でひっぱたき、ゲンコツで殴るのは衣の下と決まっていた。「飛び散った鼻血で赤く染まった衣を洗う時、『なぜそこまで……』と胸がつまるような悲しい気持ちがした」と元従業員の一人は語っているのである。  信彰が狂ったように暴力を働いている時も、所化たちはむろん抵抗はしない。正座して合掌し、題目を唱え続ける。このような無抵抗の者を中啓がバラバラになるまで、飽きるまで殴り、蹴り続けるのである。  信子に対しても依然として同じだ。いや能持寺の時のように目くばせや怒りの表情で、威嚇していたのと違って、公然と暴力を振るい始めたのだ。東京・府中の人々は実際に見聞することで、あらためて驚かされる。  信子がサイドボードに積んであった本を崩してしまった。よくあることである。ところ が信彰は「なに、やっているんだ」と怒鳴り、手が飛ぶのと同時に「バカ者、日本一のバカ者だ」と罵る。  信子は正座し「申し訳ございません、申し訳ございません」とひたすら詫びて合掌、題目を唱える。  日頃、勤行唱題などほとんどしない信子だがこんな時だけは題目を唱える…なんとも理解に苦しむことだが、これは彼らにとっては僧侶社会というちっぽけな世界での“仏教儀式”のひとつなのである。信彰にも又“暴力は悪だ”といった意識がまったくないのはそのためだ。滑稽にもこうして殴られることによって「前世の宿業がこれで切れる、罪障がこれで消滅する」と本気で信じているのである。信彰の本能的な暴力は、こうした理由が背後にあり、これが免罪符になると信じているのである。  「オレに殴られることで宿業がまた一つ消えるのだ」と。 ●ポスト欲しさに電話口で哀願、飽くなき出世欲 信彰は財布を絶対に信子には持たせない。金がないわけではない、信子を信頼していな いのか。どうやら、我がままからくるケチというのが正解のようである。信子はブラウス一枚、自分で買うこともできない。「おカネがない。おカネがほしい」が口癖だった。  ある時、信彰の許可も受けず、高島屋から三十万円の食器洗浄器を買ったことがある。つい衝動買いをしたのだろう。この時の信彰の怒り方は狂人のようで、あまりにも大きな怒声に近所の人まで駆け付けたほどだった。  政子の娘・百合子と嫁の信子、また板橋と府中という立地条件もあって、むろん百合子の方が信子よりも政子に親密、連日のように行き来しているが、信彰のケチな性質を知っているだけに、政子はシーズンごとに自分の洋服のお下がりを信子に送っている。素材はよし、仕立てはよし、いずれもブランド品で、せいぜい一、二度手を通しただけのものなので、信子は買わないですんでいる。二人の子供も年に何度か、「西片のおばあちゃまのところへ」と行かせると、政子はすべて心得ていて、頭の先から足の先まで洋服を新調し整えてくれる。  ほかに西片からの下げ渡しは豊富である。花瓶、茶器、一枚物の皿、鍋島、伊万里の焼き物…むろん贈答品に違いないが、これらも続々と運ばれてくる。これも政子の指示で、客のランクによって使用する茶器の類も程度を変えるのである。  こんな無能な男でも法主の息子となると、親の七光、全国の末寺からのプレゼント攻勢はかなりのもので、季節の味覚、土地の名産品など、大きな冷蔵庫に入り切れぬほどである。法主の息子の寺という虚名はかつて莫大な供養を大修寺に集めた。お講などでは、供養の包みは三方に乗せきれないほどになったという。  そして根っからのケチ、女房にもカネを使わせず親からの貰い物ばかり、ひたすら溜る一方で、全国の寺院の中でも横綱クラスのリッチな寺にのし上がったのである。  こうなると後は出世欲。このまま昇進のコースに乗って、あわよくば日顕の後釜を狙って法主にと、それなりのヤマッ気はあるのだ。  宗門はむろん、日顕の独裁制だが、一応、十六人の宗会議員がおり、全国の約六百人の住職の投票により選挙される。出世するにはこれが最初のステップ。三年ごとの選挙には信彰はひたすら投票依頼の葉書を書き続ける。一晩に五百枚も書いたことがある。「宗門の発展のため命を賭けて努力する私に一票を」と、二晩でも三晩でも、徹夜で書き続ける姿は、出世亡者以外のなにものでもない。とにかく肩書きが欲しいのである。この根回しには政子も応援し、一階級でも上へ、と夢中なのである。  「いま、こんな役職が空席になっている」などという情報を聞くと、「その役職、ぜひ私に、なんとかお願いします。ぜひ…」などと電話口で哀願している声を聞いたものが、何人もいる。  とにかく出世するためには、忠節を尽くす姿をあちこちに示さなくてはならない。その絶好のチャンスが到来した。シアトル事件である。父親・日顕が教学部長の頃、海外初の出張御授戒のさい、アメリカのシアトル市で、売春婦を買いにいって、トラブルを起こしたことが、訴訟騒ぎにまで発展した。法主日顕の名誉挽回に“現地調査”をと、信彰は尾林広徳海外部長とすぐにシアトル市に赴いた。現場のダウンタウンで、写真を撮ったり、車を走らせたりしたが、むろん、これはゼスチャーにしか過ぎない。  何十年も前の話に、いまさら現地に行ったからといって、どうなるものでもない。むしろ、空港で写真まで撮られて「改めて息子が調査に来るのは、やっぱり何かあるからだ。それほど心配なのか」と現地の人たちの疑惑を深めることになっただけだ。  でも、こうしたデモンストレーションが効を奏したのか、信彰は、本山の庶務部副部長に昇進したのである。  庶務部には現在、高木伝道(本山・本種坊住職)という副部長がおり、二人の副部長人事は異例のことといわねばならない。上司にあたる早瀬義寛庶務部長(義雄・義純の実兄 で、信彰とも親戚にあたる)は、「法華講を担当する部門」と説明したが、信彰はかつて法華講と学会の絶縁をPRする葉書の稚劣な文面の作製者として、全国に赤っ恥をさらした経験があり、また宗門の綱紀粛正に反して温泉豪遊を続け、とても庶務部副部長という要職とはほど違い存在なのである。それがなぜこんな立場に就いたのか。  「本当は日顕も自分が教学部長であったこともあって、息子信彰は教学部副部長にしようと大村寿顕教学部長にもちかけたところ、体良く断られてしまった。そこで急遽、庶務部の副部長に回したというのが真相なんです」(宗務院関係者)  しかも、大村教学部長が「目上にペコペコし、目下を虐待する。あんな男(信彰)相手にできないよ」と身内にもらしたという噂まで広まっている。  また他の僧侶たちはこうも分析している。「日顕の力は日増しに衰え、多くの僧侶の心は日顕から離れて、いまや口では『猊下』などと言っているが、どこまで信用できるか。その証拠に、もはや僅かな情報しか入ってこない。それも一部の者の日顕にとって耳に心地好い話しか入らない。これでは日顕の打つ手がない。生き延びるためには末寺や法華講からの正確な情報が欲しい。そのために息子信彰を情報収集係に配置するという日顕の公然たるスパイ活動である。つまり日顕ファミリーの団結による“恐怖政治の再開”なの だ」と。  むろん日顕はこのまま、いつまでも猊座にしがみついていられるとは思っていない。  日顕が退座すると現在の力関係では早瀬義寛庶務部長が総監にという希望的観測が日顕の周辺から出ている。そうなったら信彰が次期庶務部長に最短距離となるだけに、その後の法主の座も期待されぬわけではない、というヨミもある。  もっともエキセントリックなその性向から「あの人間はとても宗門では使いものにならない」という厳しい指摘(大村教学部長)もあるが、追詰められている日顕は、なにがなんでもファミリーを身辺に配置し、劣勢挽回の一助にしようと懸命なのである。  かつて自分の無能ぶりが露呈しても、悪びれもせず、学会員に弁解したり、泣きついたりしてその場しのぎをしていた信彰だが、日顕の暴挙で創価学会を破門すると、途端に態度が大きくなり、虚勢を張るようになった。  宗門・学会対立の初期の頃、ひとりの学会員が信彰に「法主は挨拶に来た秋谷会長に“目通りかなわぬ身”と対面を拒否したのはなぜか」と質問すると、信彰はドーンとテーブルを叩いて「猊下を人間と思ってはいけない。猊下が目通りかなわぬと言われたら、ハハーッとひれ伏して信伏随従するのが真の信徒の在り方です」と平然と答えている。  いろいろな劣等感、コンプレックスにさいなまれている信彰は、父の威光を利用し自己と父を同一化することで自己の存在を誇示しようとしているのである。  大修寺でも納骨の管理不備が発覚したため、学会員から遺骨を返却するよう再三、申し入れを受けた。 こうした場合、信彰も渋々ながら対応するが、たちまち“瞬間湯沸かし器”の本性をむき出しにし、学会員が少しでも口を出そうものなら「私の話を聞きなさい!」「お詫びしなさい!」「地獄に堕ちてもいいのか!」などと悪態の限りをつくすのである。  昔からの信彰を知っている僧侶仲間は「頭を下げたり、逆に見下したり、その時の気分と状況でどうにでも変わる天気屋なのです。はじめて住職になった頃の事もまざまざと思い出しますよ。一、二年先輩の我々にも両手をついて、『お世話になります』と、こうでした。なんと礼儀正しいのかと感心したのですが、その実、大事な会合には常に遅れてくるし、無断欠席するわで、そのうち誰も相手にしなくなりました。従順なのか反抗的なのか分からないから、だれも付き合わない、なんでも単独行動です。わがまま坊やですから。  反面、融通がきかないとでもいったらいいか。  若い遊びたい盛りでしたから、芸者などを呼んで宴会を開いたことも再三ありました。 そんな場ですからね、互いに名前や寺名をだすのは止めよう。一度口にしたら罰金二千円だと、ふざけ半分に約束したのです。  そしたら信彰という男は、平気で『○○寺さん』『××寺さん』って、寺の名で呼ぶんです。なんとそれが三十回にもなり、多額の罰金を払ったのですよ。なんとも座もシラケてしまいましたよ。変わった男ですよ。ですから一緒に酒を飲もうなんていう者はいませんよ。これからも不思議な性格が次第に分かるでしょう。こんな男が宗門中枢の庶務部副部長だなんて、まったく宗門崩壊の兆しですな」そう苦笑しながら言うのである。  またこうもつけ加える。  「殴る、蹴るの暴力といったって、人間には理性もあり、また殴る方も痛いわけだから、実際にはそう暴力など振るえない、と思うでしょう。それが信彰の場合は、本当に徹底に殴るのです。蹴るのです。ですから被害者は動物に襲われたような恐怖感を持つのです」また、こうも言う。「殴りながら『ぶったオレが悪いのか?』『いいえ、私が悪うございました』そう言わせてから折檻するんです。たちが悪いというか、残忍というか。所化たちは彼の寺に行くのを嫌がりましてね、青年改革同盟の諸君の話を聞くと、まったく残酷物語ですよ」  誰の目から見ても“異常人格”なのである。 ●地獄寺から脱出した女性従業員の一部始終  痛快なエピソードだか、このような獰猛な信彰にかみついた女性従業員がいる。これらの寺の従業員はほとんどが、北海道・室蘭の深妙寺の住職・故大橋信明の斡旋で来る、西片の行儀見習、関係の寺の従業員は、大橋が信徒の家を回り、「娘時代を寺で過ごすのは、立派なこと、福運がついて生涯、幸福になれる」などと言葉巧みに集め、送りこんだ。西片では行儀見習といえば聞こえはいいが、女中奉公をさせ、政子が見込んだ若い僧と結婚させ、勢力拡大に一役買わせたのである。  大修寺で働いたM子さんも、この大橋の斡旋で五年半つとめた。  朝五時ころから夜十一時過ぎまで、休みなく働かされる。洗濯、炊事なんでもさせられ、子供の遊びの相手までする。ある時、子供とトランプをし、つい勝ってしまった、子供は悔しくて泣き出した。すると信彰が子供を苛めたと、M子さんの両腕を挟んで、振り回したという。  M子さんは翌日、体中がむくんでしまった。  まだ若い娘である。たまには泣いたりもするが、思い直してまたがんばろうと決意する。しかし給料は安く、もう辞めたいというと、信子はいらないイミテーションの指輪をくれたり、海外旅行に連れて行くなどとごまかす。むろん実行されたことはない。ある時、勤務のことで、信彰は怒り出し、「馬鹿者」と怒鳴って殴り、両腕の肉をつかんで放り出した。  普通ならここで正座して合掌、題目を唱え、信彰におわびをする。  だがM子さんはそうはしなかった。逆にキッと信彰を睨み、「親にもされないことをどうしてするのですか」と反撃したのである。  日頃、「御住職様」といかなる場合も呼ばせていた信彰はこの反抗にびっくり、真っ赤になって口をパクパク開くだけだったという。しかしこれがきっかけで彼女は故郷の北海道に帰った。  「あの寺は悪鬼の住むところでした。僧侶といった人格はカケラもない。未熟なただ威張るだけの男と、それに追従する妻、勉強嫌いでカネ使いの荒い子供、寺とはいえ、信仰の息吹はなにもない。私はこの坊主は日蓮大聖人様をどう思っているのか、不思議でなり ませんでした。第一、「大聖人」といった言葉を、あの人たちのロからは一度だって出たことはないのです。  これが寺なのでしょうか。宗門がこんな寺ばかりとしたら、日蓮正宗ってなんなのでしょうか。  今になってみると別次元の世界と思われてならないのです」  M子さんは冷たく言い放つ。しかしこの言葉はまことに正鵠を射ていると言えよう。 第五章 飽食グルメ・早瀬義純 酒グセの悪い呑んべえ・百合子  証言  天皇が泊まった高級旅館とか宮内庁御用達の店とか、ロイヤルブランドと聞くと異常なほど、こだわっていましたね。(元妙国寺在勤・福島県・開蓮寺・渡辺道粛住職)  昭和五十九年十一月八日の大経寺の改築落慶法要を義純、百合子夫妻に任せたわけです、そのほうが何かと円満にいくので世話をしてもらったのです。法要終了後、日顕他代表者十四名等会食のため、箱根の天成園に招待した中にもちろん、義純夫婦も入っていました。 ところが、百合子が旅館の中の蕎麦屋で、かなり飲み過ぎちゃって、ベロンベロンに酔っ払ったあげく、まわりの客に絡みだしたんです。あれには驚きました。 (神奈川県・大経寺・渡辺慈済住職) ●門閥・閨閥にみる宗門腐敗の権力構造  日顕ファミリーの中核をなすのは、なんといっても早瀬義純、百合子夫婦である。とりわけ日顕法主の一人娘・百合子の存在は絶大な影響力を持っている。  宗門の多くの僧侶たちは、地位が高くなればなるほど百合子におべっかを使い、ご機嫌を損なわぬようひたすら腐心しているのである。  早瀬義純は宗門の実力門閥・早瀬日慈の三男だが、義純・百合子の夫婦を語るには、まず早瀬一族と宗門を牛耳る権力構造について説明しなければならない。  かつての日蓮正宗を“日顕宗”に腐敗堕落させた要因は、日顕法主ファミリーの“血族支配”による目に余る閨閥、門閥作りだったといわれている。いわゆる実力門閥の出身者、 追従者しか宗門の中軸には登用されない。光は当たらず、甘い汁を吸うことはできない。したがってこうした門閥に少しでも接近し、傘下に加わることが僧侶の最大目標になってしまった。修行や仏法の研鑽どころか、出家の目的とは無縁の出世餓鬼に変身してしまうのである。  閨閥、門閥とは僧侶たちが婚姻に基づいて構成する勢力組織である。もともと出家とは仏道に帰依するため、親兄弟の絆を切り家を捨てて得度し、その証しとして剃髪をするわけだが、明治以降、政府から妻帯が認められるようになると、本来の“出家”どころか、僧侶になることで“入家”“立家”するという矛盾がうまれた。それどころか婚姻関係によって自己の勢力を拡大しようという、根本的に僧侶の本義に反した在り様になってしまった。  “日顕宗”において、この門閥作りにもっとも熱心だったのが、早瀬義純の父・故日慈だった。宗門にはかねて細井、高野、野村などという、いわゆる名門の“代々坊主”(宗門では坊主の子が坊主になることをこう呼ぶ。逆に在家の者が決意して得度する者を。発心坊主”といい一段、低く見る)の家系がある。日慈はこれらの家系と縁組みすることで、早瀬家を宗門の中枢にのし上がらせようと画策した。  東京・池袋の『法道院』の元主管の故日慈には義寛(長男)、義雄(二男)、義純(三男)の三人の息子がいる。暴力坊主として悪名高い元東京・大願寺住職で、現在法道院主管、宗務院庶務部長の義寛は、仙台・仏眼寺住職・佐藤暢道の娘・邦栄と結婚した。宗会議長、関西大支院長の義雄は最初、高野日深の二女・恵子と結婚したが死別し、大村寿顕教学部長の二女の夫の姉・三枝と再婚している。そして宗会議員で妙国寺住職の義純は日顕の長女・百合子の夫というわけである。  今でこそ日顕は法主の座にいるが、この結婚当時はまだ教学部長で、むしろ自分の方から最高実力者・日慈の傘下に入ったという感があった。ところが百合子の父日顕が猊座に登ったことによって、今はその勢力バランスが逆転し、この政略結婚の恩恵を受けたのはむしろ義純ということになるのである。  かつて特別御形木御本尊の印刷と表装、過去帳や勤行要典の印刷、販売、機関誌『大日蓮』の編集発行などを一手に独占していた『法道院』は、その膨大な資産をバックに、自己の権力と利益を擁護するために『法器会』を結成し、宗門での最大派閥を誇った。  日慈は当時の日達法主を補佐すべき総監の立場にあったが、これは“党中党”を作ったことになり法主に対する反逆行為でもあった。  後に日達法主はこれを不快視し、自分の直弟子たちによる『妙観会』を組織、抵抗したのである。さらにこの頃、若い坊主を中心とする反学会派の『正信会』も出現し、三極構造となっていった。  日顕は一人娘の結婚相手を早瀬家から選んだ。日顕はかつて東京・向島の本行寺にいたことがあり、同じく東京で面識のある『法道院』の日慈に接近する。  当時の模様にくわしい僧侶は、「もともとこうした会は、表面的には、互いに門閥どうしで協力していこうと発足したものだったが、子供の結婚、親戚の結婚などで、組織は限りなく広がって行き、『法器会』などは会合を熱海で開いたりすると、大きな旅館を一軒まるまる借りきらなくては収まらなくなっていった。日顕はこのどちらの派閥でもなく、強いていえば、高野日深の息子の日海を中心とする小さな派閥の一員だったが、『法器会』への接近が有利だと考えたのではないだろうか」とみている。  義純は七歳で得度、自家の『法道院』で過ごしながら、立正大学仏教科に学んだ。最初は本山勤務となり、日達前法主の奥番(側用人)をしている。同前法主は、なにか思惑があってのことか、対抗する『法器会』のボス日慈の三男を秘書にしていたのである。そのため義純は日達前法主の死後、法類以外で唯一、形見分けとして袈裟、衣一式を受領して いる。  後、米子市の専修寺、大津市の仏世寺をへて、三十歳の時、東京・豊島区の妙国寺に赴任した。  百合子は義純よりちょうど五歳年下で、山脇学園高校を卒業したが、父・日顕が京都・平安寺の住職だったため、東京・浅草の藤間流の踊りの師匠の家に寄宿して、学校に通っていた。義純と結婚したのは義純が専修寺住職の頃で、新婚時代を米子で過ごした。昭和四十七年、義純夫婦は東京の妙国寺に戻ってきた。当時、妙国寺は父親・日慈の法道院と同じ豊島区にあった。その後、妙国寺は板橋区に移転された。  後年、日顕が登座し、政子が西片(日顕の東京の住まいは、文京区西片にある)に来ることになり、百合子と母・政子の母娘の距離は狭まり、ファミリーの核としての存在意義はますます大きくなったのである。 ●ラブホテル「法道院」の性欲坊主、故・早瀬日慈の夜毎 早瀬三兄弟の評判はきわめて悪い。長男義寛はつねに所化たちに「殴る、蹴る」の暴力を振るい、以前は新宿の大願寺にいたところから“鬼の大願寺”とまでいわれてこわがられていた。  次男義雄は、反学会行動の先頭に立ちながら、一方、夜のクラブ通い、ゴルフヘの熱中ぶりと遊びもまた凄まじい。  問題の三男義純は妻・百合子とともに、王侯貴族顔負けの贅沢三昧な生活で知られている。末寺の坊主たちの困窮した暮らしぶりとは無縁の、生活なのである。日蓮大聖人の御聖訓の「少欲知足」は、義純、百合子夫婦にとっては死語のまた死語、よくこんな贅沢が…と唖然とする日常である。その事は、後でくわしく述べるとしよう。  悪評といえば、『法道院』の故早瀬日慈の女犯、人目もはばからぬ爛れた生活は、宗門の恥部とさえ非難され、いまでも語り草になっている。  宗門の重役職にあり、“高僧”とされながら、その日慈の好色は想像以上のものがあった。  かねてこの『法道院』に勤める女性には、「セクハラに十分注意を」という申し送り事項があった。「お師匠さん(日慈のこと)の部屋に入る場合は、戸は閉めずに必ず開けておくこと。なにが起こるかわからないから」などという、動物園のオリに入るような注意 がなされていた。  仏道修行らしきものはなにもしない。昼間から部屋を暗くして布団は一日中、敷きっぱなし。いつもサラシの寝間着を着て、だらしのない格好で寝たり起きたりしている。そして女性従業員に用事をいいつけては、入ってくる彼女の手を握ったり、握った手をなめたり、抱きついたり、果ては関係したりと、とても描写できないような行為をするのだ。したがって従業員は定着せず、次から次と辞めていく。その都度、職業安定所に従業員を求人し、紹介でやって来た女性に又、同じことをするため、呆れて辞めていってしまう。そのため“ラブホテル法道院”だとさえいわれるようになったのである。  こうした乱行は、妻・ちかが生きていた時も公然と行っていた。例えば有名な話で部屋に女を入れ、そこにちかを呼びつけて二人の行為を見させたりしたという…又、妻・ちかが死亡し、四十九日の法要がまだ済まぬ内から女を部屋に入れていたという。百鬼夜行のような堕落寺だった。  法道院に日慈より三十五歳も若い愛人のM子が住むようになる。新潟県出身で、色白、肉感的な女で料理屋のレジ係などの経験ある女性だった。家族はおらず「天涯孤独」などと語っていたという。いつしか寺内に一室を与えられ、日慈との関係が噂されるとともに、 M子の発言力は日増しに大きくなり、また二人の行動も、なんの遠慮もない大胆なものになっていった。本堂で法要の最中、二人で寝室に入ったり、風呂に入ったりする。  「昼間から変な声がするので、日慈主管のお部屋に行ったら、中にM子さんがいて…」と目撃した従業員が所化に告げたところ、所化はニヤニヤして、「そんなのまだ、いいほうだよ。みんなが本堂で題目を上げている時、お師匠さん(日慈)は自分の部屋にM子を呼んで重なり合っていたこともあるよ」という始末なのだ。  こんな笑い話もある。従業員の日課に、毎朝、主管を起こしに行く仕事がある。ところが、いつも主管が寝ている枕の位置にふさふさの髪が見え隠れしているのだ。むろん、日慈にはもとより毛髪は無い。起こしに行った従業員は、ハッとして我に返り、二時間後に改めて声をかけに行った。寝床はモヌケのから、枕のところには間違いなくボブカットの長さのM子の髪の毛がたくさんついていたという。が日慈をはばかって誰もなにもいえない。  M子は、いつしか法道院の“淀君”などと異名で呼ばれるようになった。そして間もなく、寺の預金通帳、印鑑、金庫のカギまで彼女が持つようになり、会計や従業員の給与まで金銭の運用はすべてM子が行うようになっていった。  心ある従業員は退職したり、今後を憂いて自殺した法華講の幹部まで出たのである。こうして同寺は文字通り、堕地獄の寺に変貌したのである。  こうした状況に、三兄弟は手も足も出ず、顔を見せれば、逆に「親不孝ども」と日慈に罵られ、実権を握るM子からは「余計な口出しをしないで!」とオドされる有様だったという。そんな妖怪日慈もすでに亡くなり、今は法道院に長男・義寛が住んでいる。義寛と犬猿の仲であったM子はその後、どうなったのだろう? ●台所だけで三千万円かけた妙国寺の信心より料理  平成二年十月十九日、妙国寺の新築落慶が行われた。この日は日顕も出席して「まことに立派に新築が成り…」と説法をしたが、それは言葉通り、余りにも立派に完成したのであった。  「東京で一番広い本堂を持つ兄・義寛の寺(当時、新宿・大願寺)より一畳でも広い本堂を作りたい」と義純は兄・義寛に対抗意識を燃やし、大願寺より二十畳広い、二百六十畳敷きの本堂を建造したが、ケ夕外れは本堂だけでなく、自分たちの生活の場である庫裏 まで超豪華にしてしまったのである。  浴室が二つ、家族用と所化用である。家族用はサウナ付きの温泉風呂で、この工事費だけで当時、五百万といわれた。  誰もが驚いたのはダイニングルームとキッチンでなんと総額三千万円を軽く突破するといわれている。  義純は長兄・義寛の寺をライバル視していた。この大願寺がまたとてつもない豪華なものである。道路から玄関までの敷石は御影石で千八百万円、玄関の表札は彫刻入りで二百万円、庭は日本でも一流の造園業者が手掛け、庫裏や書院は秋田杉やヒノキ、ケヤキをふんだんに使った。とくに厨房には七百万円のドイツ製のシステムキッチンを取付けたり、風呂場までジェットバスで、月の電気代だけでも何十万円もかかるというのは有名な話。  義純夫婦は「すべて、それ以上のものを」と夢中になり、一流ホテルなみの厨房を揃えたのである。さまざまな機器が付いており、ボタン一つで、取り出したい食器が自動で出てくる装置までついている。そのために約千五百万円もかかった。特大の冷蔵庫など約六百万円、デラックスな食堂には、約五百万円を投じたという焼き肉用テーブルもセットされている。これは有名デパート特注の無煙設備のつくテーブルだ。とても寺院の庫裏のキ ッチンとは思えない。一流ホテルであってもここまではできないだろう。  大願寺はタクシーの運転手がきまって「ここは高級料亭ですか」と間違えるといわれるが、妙国寺もとても寺院とは見えず、しばしば高級マンションと間違われるのである。こうした外観にこだわり、悦に入っているところにも、かれらの僧侶意識の喪失が伺われるのである。  このような環境の中で、当然、義純たちの生活も変わってきた。  結婚したての頃は、早瀬家にとっては、一教学部長の娘を貰ってやったという程度で、百合子も夫義純にはしおらしく仕えているという感じだったが、日顕が猊座についたあたりから百合子の態度が変わってきた。それまで夫の袈裟・衣は妻百合子がたたんでいたがそれもやらなくなり、本山に来てもすぐに大奥の日顕のところに母政子と一緒に行ってしまう。夫と立場が逆転したのだ。  かつて妙国寺に勤務し、二人の生活ぶりを熟知している僧侶たちの証言によると、とにかく庶民感覚とは遠く隔たっている。「たとえば百合子の和服。著名な老舗の『大徳』が毎週のように出入りし、揉み手で反物を広げ、注文を取って行く。着物の数は何着あるかわからない」という。  母親政子も京都の平安寺時代から「東京の本行寺に比べ、ご供養が少ない」と言いながら、よく高級呉服の展示会に行っていた。ただし、夫人政子の賢いところは、柄は地味で目立たない物ばかり選ぶため、色や柄だけ見ていたのでは、それほど高い物には見えない。でも、着物などは、どれも百万円以上する物ばかりだったという。  日顕の還暦の祝いの宴会がホテルオークラで行われた時、「洋服は禁止、全員着物で出席するように」と僧侶、寺族に達しがあった。なんという貴族意識だろうか。信徒の供養で豪華な着物に着飾ったその様子は、さながら高級着物の展示会のようだった。その時、娘の百合子がなかなか現れないので政子がイライラして妙国寺に電話をかけ「まさか洋服で来るわけじゃないでしょうね」と怒鳴ったことがあった。政子が心配するまでもなく、遅れて現れた百合子は一段と豪華な着物でまわりを圧倒したという。  妙国寺は西武デパート外商部の大の得意先である。カタログなどがつねに送られ、さまざまな催しのDMが山積する。ところが、それらの品物がスゴイ! 一般のコマーシャルなどに出るものとは大違い、貴金属などはヨーロッパの王室御用達のようなものばかり。たとえばブレスレットは、残らずルビーが嵌めこまれていたりして、価格も千万から億の単位。精巧きわまりないスイスの懐中時計などスイス有数の職人が、年に一、二個しか作 らない逸品、黄色がかって色彩の珍しいダイヤモンドの指輪など、とにかく大衆とは関係ない高級品ばかりなのだ。義純、百合子はこうした高級品のお得意さまなのである。  ときどき、こうした所に成人式などの祝いに、高価なネクタイピンなどを数個も纏めて発注する。こうして顧客リストの中でも高位を占めるようになるのである。  義純の書棚にはグルメガイドとか温泉ガイド、レストランや旅行先の資料や本が並んでいる。「どこかよいところはないか」と、つねに首っぴきである。旅行先なら天皇が泊まった部屋とか、宮様愛用の部屋とか、なぜか皇室御用達が大好きなのである。“法主”とは“天皇”と同格、したがってそのファミリーは皇族並み、そんな感さえある。とにかく最高の場所ばかりを丹念に選ぶのである。  レストランといえば、一流のシェフの推薦、三つ星の店など、これも有名中の有名なところばかりを見つける。義純は酒はダメだが、食べるのはまさに大食いのグルメ、百合子は酒も食べ物もなんでもござれだから、二人して情熱をこめて食べるところを探すのである。  義純は宗会議員でもあり、全国あちこちと行く。「あそこはよかった」「いや、期待したほどのことはなかった」などと百合子に報告している。  東京でも有名な「吉兆」「天一」「カニ瀬里奈」などという店よりもさらに通好みの高級店を選んでいたのである。  「いまもって、あの店はなんだったんだろう?」と首をかしげているのは、元妙国寺に在勤したことのある僧侶の証言。というのは、あるサンドイッチ屋。  「どう見てもサンドイッチ屋には見えないんです。坂の途中にその店はあるのですが、店頭のショーウィンドーなどはなく、玄関はマンションの受付のようなんです。呼び鈴を鳴らすと『いらっしゃいませ』とお店の人が出てきて、『早瀬ですが、今朝、注文しておいた品物は出来ていますでしょうか?』というと、『少々、お待ちください』と言って、奥から箱の包みを持ってくるんです。看板も何もないのに、そこがサンドイッチ屋なんだそうです」  それは神奈川県の某寺院の入仏式に妙国寺から昼食用に差し入れしたものだった。たまたま当時の妙因寺の河辺住職が、このサンドイッチを一口食べるなり「これはうまいなあ」と感心したという。サンドイッチ一つにしてからがこうである。宮内庁ご用達とか世界の一流品の店ばかり行っているから、段々、普通のものでは満足しなくなるのかもしれない。  お会式などの料理は仕出し屋から取るなどというケチなことはしない。料理屋の厨房をそのまま持ち込むのだ。つまり明治座の割烹の板前さんから下働きまで、吟味した材料と共にやって来て、腕前を振るう。皆このキッチンを見るなり「ここなら存分に腕を発揮できる」などと喜んでいる。とにかく場所も人手も材料もカネも存分にあるから、どんな料理も可能なわけだ。一つのレストランがそっくりこの寺に移動してくる贅沢さなのである。 ●法主日顕を操る母と娘の野望  このような住職の生活ぶりを眺めながら成長する所化や若い憎がどのような意識を持つ僧侶になるのだろう。愛用する車などもそうだ。東京や神奈川の大きな寺には車も三、四台とある。住職は国産ならかつては三ナンバーのクラウン、ソアラ、プレジデント、セドリック、セルシオ、グロリア、ウィンダム…、外車ならリンカーン、ベンツ…妻たちだって同格の車に乗り、所化たちは一、二格下の大衆車が与えられる。「よし、オレもいつかは住職のような車に…」という願望を持つようになる。  妙国寺の場合は義純も百合子も車が大好きだから五十七・八年当時、まだ国産品のター ボエンジンが出回っていない頃に、義純はクラウンに、百合子はソアラにターボチャージャーをわざわざ取り付けさせて乗っていた。だから外から戻ってきても「ターボエンジンだから、キーを切ってもエンジンがかかっているから気をつけてね」などと百合子は言ったりしていた。ガソリンスタンドなどに寄ると、エンジンルームを開けたとたん、珍しいものだから従業員が集まってきて覗きこんでいたという。そんな車をレーシング用のハンドルをつけて寝ているような格好で運転している百合子はどこから見ても僧侶の妻には見えない。今、義純はインフィニティーQ四五という全長五メートルもある大きな車に乗っている。  こうなると所化たちは修行などより、いかに出世の早い寺に行けるか。そのため自分のいる寺の住職より、有力な寺の住職にゴマをすったりする。阿部一族や早瀬一族につながる者には特に密着したりする。こうして将来、誰についていたら得か、所化たちは本能的に読み取るようになる。こうして修行もしないゴマすり僧侶が増えていくのである。  日顕が法主になったとたん、周囲の僧侶の義純、百合子に対する態度が変わった。それまでたかが教学部長の娘と扱ってきた多くの僧侶たちが、「百合子さん、お元気ですか」とか「百合子さんは、あいかわらずお美しい」などと歯の浮くようなお世辞をいうように なる。  彼女の存在や発言が大きな意味と影響を持つようになったからである。  「おいしいお菓子が入ったから」「こんなお茶はどう」「食べきれないほどカニをもらったから」などと、百合子の所に西片の母、政子から電話がかかる。あるいは逆に百合子から政子に連絡がある。政子も嫁のいる息子・信彰の大修寺(府中市)より、実の娘の百合子のいる妙国寺の方が気が楽だから、頻繁に行き来する。  「何回か妙国寺でお会いしたことがあります」とは元在勤僧侶の証言。また、西片(政子)にもしょっちゅう百合子が行っていた。そうなるとそれだけ日顕との距離が狭いというわけで、百合子の役目もしだいに大きなものになるのである。  このように妙国寺イコール西片、それは同時に大奥そのものであるかのようになってしまった。  大石寺の日顕の居住区域、大奥に自由に出入りのできる者は、政子や百合子とごく一部の日顕ファミリーだけである。たとえ役僧や講頭であろうと対面所どまりなのである。日顕とともに政子、百合子が食事したり、遅くまで共に時間を過ごす。ここでの会話からさまざまな情報が伝達され、交換される。宗門内の動きや妙国寺に入ってきた情報が報告さ れる。これが日顕の判断や行動に大きな作用をするのである。多くの僧侶には油断できない“家庭団欒”なのである。 ●独占! 日顕親修の影の仕掛け人たち  大石寺では日顕を中心にしていろいろな法要の儀式が行われる。たとえば満山供養。これは法類(一門の僧侶の親子、親類関係)、あるいは師僧(得度してからの指導の僧)の法要や古い法華講員などが先祖や家族のため特別に供養を日顕に願い出る。  この希望をまとめ月に数度の割合いで大客殿で行われ、本山の全僧侶が列席することになっている。  当然、これには供養金がかかる。この分配を「開満割り(ご開扉と満山供養は参加した僧侶で供養金を分配したところから、この呼び名が付いた)」と称し、僧侶たちのいいアルバイトになるが、相当額が日顕の懐に入る。また全国教師指導会、寺族同心会などの会合のさいは、必ず日顕への目通りがまずなされ、この時、「奉供養」として多額のカネが日顕に差し出されることになっている。このカネの包みを開き、記録するのが、身内の政 子や百合子の役目になるわけだ。  供養という形で具体的に日顕への忠誠心の程度が示されることになる。「あら、あの人、少ないわね」「あの人は楽でもないのに、こんなにがんばっている」、政子と百合子の間で評価され、これが日顕の耳にも入り、査定や人事の重要資料になるという。これでは宗門の坊主たちが気がかりになるのは当り前だ。  百合子と義純が、より直接に関係するのは、末寺の落慶法要、親修など日顕が自ら出かけて行く時だ。  「別に二人を通さなくてもいいんだけど、妙国寺を通すと日顕猊下のきげんがいいんです。『娘(百合子)に声をかけてくれた』って、またこういうことで、人脈が増えていくことを喜ぶ人なんです。猊下は」(末寺の住職)  また、数年前に親修を無事終えたある末寺の住職の話では「義純、百合子を通さないで親修をやると猊下はきげんが悪いんです。まして、チョットでも手違いがあったりするとすごい勢いで怒られるんです」。ところが、二人に頼んでとり行った親修の場合、たとえ失敗しても、百合子のとりなしで猊下の怒りが直接、住職にはいかない。だから、無理しても義純、百合子夫婦に頼むことになる。  「妙国寺さんにお願いするのが多いですよ、でも関西は義純の兄の義雄がいるのでこのあたりは義雄さんが仕切っていましたね」(関西のある住職)  いずれにしても身内を通すとスムーズにゆく。  「これだけなら法主の威光を貸りて甘い汁を吸う身内というだけですが、許せないのは、それをいいことにこの夫婦(義純、百合子)は親修をドンドン豪奢にしていったんです。器(うつわ)は九谷焼きでなくてはいけないとか『食事も仕出し弁当なんて失礼じゃない、板前を呼んで、その場で作らせなさい』って、おかげで今では親修は大名行列になっていったんです」(本山住職)  「義純は、そういう親修のレジメをつくるのが大好きで一回の親修に何枚も作っていましたよ」(妙国寺元在勤者)  綱紀自粛は義純夫婦が破っているのだ。  「天皇より偉い」と自分でも思い、他人にも思い込ませようとしている日顕である。大坊の所化たちには生き仏として教育し、根檀家の中には、今でも土下座して迎える者もいる。  そんな日顕の親修である座布団はどんなものでなければいけない。食事はどういう物が いいか。部屋の調度品はなにを置くか。机にはなにを準備しておくか。筆自慢の日顕はすぐ一筆書きたがるが、どんな色紙を用意するか、硯はどうするか…などなど江戸時代の幕府への勅使下向のような騒ぎとなる。  そうして、こういった品々を用意できない末寺は、どうしても費用は負担するが、「妙国寺さんの方で、そろえていただけないでしょうか」となる。だいたいお茶一つにしたって、京都のお茶の専門店で特別に作られた玉露なのだ。それを聞き付けた京都の妙清寺の菅原信了の夫人すえ子がその店に行き「同じ物を欲しい」と言ったところ、「あのお茶は静岡の阿部様(日顕)にしかお売りしないお茶です」と断られたことがあった。お茶にしてからがこうである。  ある末寺の親修に行った折、地元の宿泊するところのものは一切使わずミネラルウォーターから便座まで持ち込んだため、「ウチのはそんなに汚いのですか?」と文句を言われたことがあった。それでなくても末寺を通して「天皇さま以上の方がお泊まりになられるのですから、粗相があってはなりません」と、ふすまを張り換えさせたり、備品を買い直させたりしただけに、相手の怒りはもっともである。  日達前法主の親修に同行したことのある老僧は「『田舎なので何もありませんが』と言 って、信徒のおばあちゃんが用意してくれた塩むすびを『おいしい、おいしい』と言って食べていた日達上人とは大違いだ」と言う。  なにしろ“瞬間湯沸かし器”の異名で知られる日顕である。なにが原因で急に立腹し機嫌が悪くなるかもしれぬ。末寺の住職たちは戦々恐々である。いくらカネがかかってもそのような事態は避けねばならない。  したがって百合子夫婦は、どこにでも列席するようになる。日顕の出る法事、結婚式、入仏式、親修…ほとんどの行事に二人を呼ぶ。これが坊主たちの間の基本ルールのようになってしまった。こうして百合子、義純もいつしか自分たちが宗門や僧侶を牛耳っているかのような錯覚に陥っていく。  五十九年十一月八日、大経寺の渡辺慈済住職のケースはこうであった。  「改築落慶の法要でしたが、一体、客や同僚の僧を何人呼ぶか、誰を呼ぶか、どういう方法でやるか、終わって宴会はどうするか、料理はとくに何がいいか…問題点はいろいろあります。  本来なら内事部の八木信瑩あたりに聞けば分るのだろうが、日顕はお天気屋だから、予測がつかない。それならいっそのこと百合子夫婦にすべて任せてしまう方がいいというこ とになるのです」  公私混同もいいところだが、末寺にとってはこれが最良の選択となる。  満山供養もそうだ。本来、この法要は百合子にはなんの関係はないが、万一の場合を考慮して百合子の参加という方法をとることになる。百合子だけでは具合が悪いので、政子も義純もとなるが、法類、師僧筋とは関係ない義純がいたからといって、とがめることなどなく、むしろ「そうか、妙国寺も来たか」などと日顕はたちまち上機嫌になるのである。  義純、百合子の威力はますます増大する。地方の末寺から『法道院』を訪れる者があれば、必ず妙国寺まで足を延ばし、義純、百合子の御機嫌伺いをする。わずかの縁をたよりに絆を太くしておこうというものだ。 ●皇室御用達(ロイヤルブランド)に狂気奔走  宗門の頂上に立つ法主の寵愛を集める一人娘で、今や宗門全体が私を必要としている。このような自意識と自負心はいよいよ強くなり、そうなると身につける物も最高の品々を求める気持ちが強くなる。  日常生活品ですら、ロイヤルブランドでなくては面白くない。いや、それ以上のものが欲しくなる。  母の政子も、美智子皇后御用達の最高のオートクチュールの店に自分の洋服を注文していたが、仕立ての順番を皇室関係のものより後回しにされたことに腹を立て、京都の店に代えたことはイメルダ買い物旅行として、よく知られている。  義純の手帳を開くと、ホテルや料理の一流の場所がびっしり書いてある。ホテルオークラ、帝国ホテル、メトロポリタン、サンシャイン…などと料亭や最高のレストランばかり。中華料理も宮廷料理などを出す最高の店で、夫婦はこうした店で、フカヒレとか、北京ダックなど値段の高い料理を惜しげもなく次々に注文する。義純は有名な大食漢で、相撲取り並みに食べる。文字通りヤマほど食べる。その食事の量は、どのレストランでも驚かない者はないほどの超人的なものなのである。妻の百合子ですら「恥ずかしい」というほどだ。店でもっとも高価なものを、腹に詰め込めるだけ、詰め込む。ローマ時代のネロの饗宴を想像させるような光景である。  そして胃が悪くなるといって、漢方薬と鈴木その子式のダイエットに懸命になる。  寺族同心会などのパーティーなども百合子や義純の好みが多分に影響する。このような 宴席の出店は、おでん、お汁粉、焼き鳥、寿司やソバなどが普通だが、いつからか一流ホテルのコックなどを呼ぶようになり、地方の寺族や年配者にはとても口に合わぬフランス料理の前菜などが並ぶようになった。「とても、油濃くて。主催者だけが満足しているのだ」などと年配の参加者の不満をかうことになる。  また「奉供養」に対する寺族同心会の引き出物もだんだん凝るようになった。これもまた百合子や義純の趣味を反映した「ピラミッドの形の時計」や「液晶カレンダー」などの実用的ではない物ばかり。多額の供養のこんな見返りに、僧侶の家族たちは「なんだこれは」と渋面を作るばかりである。  このように自分たちの特異性、恣意性を発揮するような傾向は、さまざまな面にも見られ、新築された妙国寺の構造でも、多くの信徒が帰りには靴をはいて一度に出られるよう特別に設計されたが、今や寺への参詣者も少なく、このような設備は一回も使用されていない。また東京一という大きな本堂も必要はなかったし、冷房施設もあまりにもオーバーで、なんとも空しいムダばかりが目立つ。まさにこれが現在の宗門の“巨大な廃墟”の姿を象徴しているかのようである。  そして、その寒々しい空虚さを埋めるかのように、さらにカタログなどで珍しい品物な どを見ると、すぐ発注する。浄水器がまだ珍しい頃から、西片と妙国寺では衣装箱ほどの大きな浄水器を取り付けたり、アメリカ製の掃除機で底に水を入れて、ゴミ、塵を残らず吸収するという一式数十万円の電気掃除機など、他の寺どころか、日本の寺ではまず見られぬものばかりがある。  義純の収集癖はかなりのもので、文房具といえば、店が開けるほどあらゆる種類の品物がなんでも揃っている。世界中の有名品ばかりで、贅沢な遊びの世界という他はない。  まさに浮世離れした貴族のような道楽である。実際にこの夫婦の生活ぶりに接した僧侶はこう語るのである。  「お正月に“吉兆”の桐のお重に入った特別のおせちを食べていた事がありました。一組が四の重まであって、十万円以上する料理といっていました。値段に驚いていましたら、『それでも大のお得意さん以外は注文されても作らないんだ』と。中身は初めて見るような珍しいものばかりでした」  「もし学会員がこれを見たら、これが本当に僧侶の世界なのか、僧侶とはどんな種族なのか、おそらく不思議に思えてならないでしょね」  その贅沢な生活も学会員たちの純粋で真摯な供養によって築かれてきたことを、肝に銘 じるべきだろう。 ●蕎麦屋の喧嘩、百合子の酒量と酒癖  義純、百合子夫婦には二人の娘がいて、日顕夫婦に溺愛されている。日顕の孫娘だけに、やはり他の僧侶たちが放っておかない。正月など年始の客から、やれ、お年玉、お小遣いだとたくさんもらっていた。服装や所持品はブランド物ばかりだし、欲しいものはなんでも与えられるから、一般の子供とは違って、お小遣いなど必要としない。  日顕はこの孫娘たちを目の中に入れても痛くないほどで、「女だから坊主にはできないが、将来は弁護士に」などといって相好を崩している。  長女は東京・広尾の東京女学館から早稲田大学の法学部を卒業、そして妹も早稲田大学に入学。  彼女たちの卒業、入学を祝って、平成四年三月二十二日、政子はじめ百合子、信彰の妻信子、石井信量の妻ナツ子、それにそれぞれの娘たち女ばかりが総勢十一人で、伊豆高原の高級旅館で華やかな祝いの旅行をやった。ところが、それだけではない。その翌日も今 度は奥湯河原に場所を移し、日顕、信彰、義純など男達も合流、二日間にわたる温泉旅行を楽しんだ。  末寺では生活がたちゆかなくなり、住職夫人がパートに出たり、夜になっても本堂の電気はほとんど点けず節約している有様だというのに。「宗門の苦境をよそに自分たちばかり」と末寺から不満の声が上がっている。  日顕はこの妙国寺の二人の孫娘には弱く、姉妹がはじめた鈴木その子式ダイエットも、彼女らの言うままに取り入れ、「おじいちゃま、お酒、だめよ」などといわれると「そうか」としぶしぶ従ったりしている。したがって今や日顕に強い発言権があるのは、政子、百合子そして二人の孫娘ら四人で、この一族が、いまなお母性家系を構成していることがわかるだろう。  結婚当時、義純は病気がちで痩せており、今のように何人前もの大食漢とは大違いだったという。したがって百合子は「だまされたようだ」などとしばしば嫌味をいったりする。義純は「若い頃は病気ばかりしていて、ほとんどモテなかった」などといっているが、これはウソ。実はなかなかの発展家であった。  「早瀬三兄弟の仲で、女にすご腕だった父親・早瀬日慈の血を一番色濃く継いでいるの が義純です」(宗門の老僧)  というのは、大津の仏世寺にいた頃、京都の法華講の娘が手伝いに来ていた。義純はその娘に手をつけてしまい、東京の妙国寺に転勤になってからも一緒に連れてきてしまう。「妙国寺に来てからは二人の仲はますます大っぴらになり、百合子が留守の時などは義純が、このお手伝いの部屋に行き、行為に及ぶこともしばしばあったんです。行為の後乱れた布団が部屋の隅にそのまま放置してあったりして、昭和五十年頃はそれはひどいものでした」(当時の在勤者)  この在勤者は当時の様子を周囲に言い過ぎたため、辺地の寺に飛ばされてしまった。こんな証言もある。  「当時の小さな妙国寺にあって義純、百合子は寝室は別だったんです。というのも、義純は夜は平然とお手伝いの女性と寝ていたからです。それを知った義純の父・早瀬主管 (法道院)と百合子の父・阿部教学部長(当時の日顕)は法道院の在勤者に運転させて早朝、妙国寺に駆けつけたんです。この時はお手伝いの女性も義純もすでに出掛けてしまっていなかったのですが、以来、毎朝、早瀬主管の奥さん(ちか)から妙国寺に電話がかかってきて、『今朝は勤行に出たか?』と所化に聞いていました」(当時の妙国寺の在勤者の証言)  そのお手伝いは早瀬主管、阿部教学部長によって別れさせられ、京都に帰ったが二人の関係はまだ続いていた。京都も東京も人目があるので、ふたりは中間の名古屋で逢引きをしていたという。その関係は昭和五十一年頃まで続いていた。  「浜松でデートしていたという話を聞いたことがあります。その女性は兵庫県・徳成寺の住職をしている清水孝信の姉だと聞いています」(元法道院在勤者)  「日慈主管はメモ魔で何でもよく書くんです。当時の義純さんのことも『女の件について』などと項目をつけて、こまごまとメモしていました。また、その頃、百合子さんにも電話をかけて状況を聞いたりなぐさめていました」(当時、法道院にいた所化)  その後、日顕が猊座に登り、妙国寺が今の板橋に移ってからは、義純の女遊びは落ち着いた、というのだが……。  また、こんな話もある。  大学在学中に妙国寺にいた若い僧侶が卒業後本山に在勤した後、西片勤めとなった。この僧侶に義純夫婦は妙国寺の女子従業員と見合いさせ、結婚話を承諾させた。そしてただちに日顕の元に報告した。住職の妻となる女子従業員は西片に行儀見習いに出され、かわ って妙国寺にこの僧侶を戻した。結婚前の若い男女を同じ西片には置けないと配慮したものだろう。ところがこの若い僧侶は、このわずかな期間に妙国寺の他の女子従業員を妊娠させてしまった。これによってせっかくの結婚話もキャンセルになってしまった。ここまでの話を聞くと何と浮気性の僧侶なのだろうと思うのだがこれにはもうひとつの真相があると言われている。  「実は義純の病気が又、始まったんですよ」妙国寺にくわしい、その住職の話では見合いをさせられた女子従業者とも、義純は関係をもったという。  あくまでも噂でしかないが、もしこれが事実だとすれば、いちばんの被害者は彼女だろう。  そして、こういうことが平然と行われているとすれば僧侶とはなんなのか?  しかしこれは僧侶や寺の世界ではごく一般的な事例なのかもしれない。  百合子にも結婚前に交際していた男性がいたともいわれる。  現在のように猊下の娘として、権力を持つようになると、行動もしだいに男っぽくなり、寝ている所化を平気で跨いだりするようになる。「女のくせによく人を跨いで行くんだ」とは、複数の元在勤者の目撃談である。彼女は夫と違い、酒を飲むのでときどき荒れる。 酔うと人に当り、乱暴な口をきいたりして見境いがなくなる。  酔って車を運転、本山近くの妙蓮寺のドブに車をおとしたことも評判になった。また修善寺に『柳生の庄』という高級旅館があるが、友人たちと酒を飲み、オイチョカブに夢中になっていたことも目撃されている。娘や所化の誕生日に妙国寺の茶の間で百合子がみんなとよくルーレットをやる。ルーレットならまだしも、オイチョカブではレディの資格が疑われる。  彼女は心臓が弱く本来は酒は控えるべきなのに、かまわず飲んでいるのは「なにか屈折した気持ちがあるのではないか」という人もいる。  前述した大経寺の落慶法要の後で、箱根の高級旅館『天成園』で代表者会食に夫婦で招待された時も、百合子は「すべて私のいうとおりにやってくれたので、大成功で終了したわ」と大満足だった。そして宴会が終わって、「ソバが食べたい」と旅館内のソバ店に繰り出した。  この店にはたまたま他の宿泊客の男性たちがいたが、あまりに百合子の威勢がよく、態度が横柄なので、つい「ご機嫌ですね」と冷やかした。すると百合子はカッとなり、「なによ、あんたは」と怒鳴り返した。  双方、酔っているので「なによとはなんだ」と険悪な空気になったが、上客と知っているソバ屋が「まあ、まあ」ととりなし、男性客も恐れをなして引き上げたため、これで済んだという。  一緒にいた者は皆びっくり、具合の悪い思いをしたが、義純は「こんなことしょっちゅうですよ」と苦笑して言っていたという。  「今日の成功も私の努力、手腕によるのだ」という増上慢なのであろう。天狗のように鼻が高いので、その場の雰囲気で面白くないことがあると、パッとぶつかる。この時も虫の居所が悪かったのだろう。  まさに百合子は宗門の“女帝”なのである。  ある年の初めの百合子、義純のスケジュールが注目されたことがある。とにかく三日をあげず、フグ、懐石、ステーキといった超豪華な食事の連続で、「これが僧侶の食事か」とびっくりする前に、「よくこれで病気にならないものだ」と不思議になるほどである。  ・一月二日 デパートヘ年賀用品の買付け、新年会  ・  三日 法要、新年法類初顔合せ、新年会  ・  五日 大奥へ新年挨拶、ホテル泊「富士宮・富士急ホテル」  ・  七日 兄弟縁故新年初顔合せ、料亭「ふく源」  ・  九日 教区新年会、浅草・料亭「一直」  ・  十日 大相撲初場所、新年会料亭「京味」  ・ 十一日 水島公正夫妻と会食、「ホテル・オークラ」  ・ 十三日 大村寿顕夫妻と会食、料亭「ふく源」  これはほんの一部だが、豪勢な日々が想像できるだろう。この大半に百合子も同伴するが、九日の教区新年会など百合子の束縛から離れたためか、義純は大はしゃぎ、芸者をたくさん呼んで、チップを紙屑のようにばらまいている。  日顕ファミリーの奥伊豆、箱根、熱海、伊豆長岡、修善寺などでの間断ない豪遊はこの延長上にあるもので、ファミリーにとっては、なんの不思議もないごく当り前の“散歩”程度にしか過ぎないのである。 第六章 全員そろって、綱紀自粛破りの日顕ファミリー  証言  嘘ついちゃいけませんよ。まして猊下なんだから、末寺に自粛を強要しておいて、その日のうちに自分たちだけで温泉遊びだなんて。もう、末寺住職の気持ちは“嘘つき猊下”から離れていますよ。(某布教区の元支院長)  生活が苦しくて住職夫人がパートに出たりしているお寺もあるんですよ。  なんという人たちでしょう、自分たちさえ良ければいいんでしょうか。 (某末寺の住職夫人) ●日顕がカマス綱紀自粛とは  「御供養を湯水のごとく自分のために使いですね。まるでそれじゃ何のために寺にいるのか。根本的な自覚が失われておる」  「信者がみんな見ておりますよ。信者が。必ず見ております。今日、(寺の)奥さんはどんな指輪をしていったなんてことまで、婦入部が、法華講の人達も絶対見てんですから」  「坊さんが非常な贅沢な格好をしたり、あるいは寺族の奥さんがとにかく贅沢な格好をして、これ見よがしなことで、虚飾虚栄にふけったような姿を信者に見せるってことも、深く考えていかなきゃならない」  これ、日顕の説法の一部である。  実はこの説法からちょうど一年前の平成二年八月二十九日、教師指導会の席で、日額は二十一項目にわたる「綱紀自粛に関する規準」を打ち出している。    一、品行について。少欲知足を旨として、行住座臥に身を慎むこと。  一、妄りに遊興に耽り僧侶として信徒や一般から非難・顰蹙を買うような言動は厳に慎    むこと。  一、服装・装身具等について。僧侶としての品位を汚すものは禁止する。また華美・贅   沢なものは慎むこと。寺族の場合もこれに準ずる。 と、「規律」が延々と続いている。つまり、この「自粛問題」は、平成二年十月に大石寺開創七百年を迎えるにあたり、大聖人・日興上人の「少欲知足」の宗風があまりに形骸化し、さらには全国の僧侶の堕落・腐敗の姿が目立ったため、学会側が綱紀の是正を厳しく要請した結果、宗門側が新たに打ち出したものがコレなのだ。  危機感を覚えたのか、日顕もかなり大マジメで号令を発している。  「綱紀自粛は宗務院でじっくり検討したものだ。今回の規準は新しく定めた規定と考えてもらいたい」と述べ、ことに僧侶間で流行のゴルフについては、「ゴルフをやりたければ法衣を脱いでやれ」と得意のカマシを浴びせてから、「ゴルフセットなど、古道具屋に売ってしまえ!」と重ねてダメを押している。これが八月二十九日の指導会でのこと。  さらに翌三〇日の教師講習会閉講式でも、日顕は再度綱紀について言及し、「昨日の指導会における自粛の意味をよく考えていただき、その根本はやはり我々のふだんの信心と 行学にある」と真顔で力説した。  ところが、である。  舌の根も乾かぬうちにこの綱紀自粛をドットと破ったのがほかならぬ日顕自身だったのだ。 ●綱紀自粛破り「八・三〇温泉豪遊事件」の全貌  教師講習会が終わった八月三〇日の午後、皆が解散したことを見届けるやいなや、日顕を乗せた高級車は大石寺を出発、一時間後、伊豆の温泉町にこっそり横付けされていた。 同伴者は政子に息子の阿部信彰とその妻・信子、日顕の“金庫番”の石井信量と妻・ナッ子(大石寺蓮成坊)の六名。  日顕らが泊まったのは、伊豆長岡の温泉旅館「三養荘」。ここは数寄屋造りの純日本建築で、離れ風に部屋が造られ、敷地が四万坪。庭だけで五千坪の超高級温泉旅館である。日顕の部屋は一人一泊十五万円。これに十万円の特別懐石料理を注文する。  この夜の散財は、わずか一晩で百万円ナリ。“少欲知足”が聞いてあきれる。  しかも当夜は、大石寺開創七百年の慶祝記念文化祭を三日後の九月二日に控え、静岡の学会員が夜を徹して準備に当たっていた時である。  当の大石寺住職の日額はみんなに一言激励するわけでもなく、寺からこっそり抜け出し、丑寅勤行もサボつて温泉につかっていたのだ。  当然のことながら、法主の綱紀破りはまたたく間に露見してしまった。  大石寺の内事部など大アワテで、「温泉に行った事実があったとも、なかったとも申し上げられません」と頭を抱えるばかりだ。  日顕の息子、阿部信彰の大修寺の所化なども、「事実なら考えなければなりません」と悲鳴にも似た声をあげる始末。  追い打ちをかけるように、この綱紀破りの「八・三〇温泉豪遊事件」を生々しく語る証言者まで現れた。  ーあの日(平成二年八月三〇日)、日顕上人様ご夫婦と息子さんの阿部信彰様ご夫婦、それに石井信量様ご夫婦の六人が来られました。  三つの部屋に分かれて泊まられたのですが、もちろん日顕上人さまは、旅館で一番高い 部屋にお泊まりになりました。一人十五万円ですからご夫婦で一泊三〇万円です。この部屋は本間、次の間、三の間と三部屋あり、数寄屋造りの純日本建築です。  日顕上人さまの係になると法外なチップがもらえるので、仲間の間では羨ましがられているんです。チップを十万円下さったこともあります。  あの日の夕食は日顕上人さまのお部屋でみなさまご一緒にされたのですが、六人がテーブルにつき、しばらくたって息子さんの信彰さまが向かいに座っていた日顕上人さまにお酒をつごうとして、ガラスの冷酒の容器をテーブルに落として割ってしまったんです。  その時の、日顕上人さまのお怒りようといいましたらそれはすごいものでした。  信彰さんが青ざめておいででした。あまりの剣幕にわたしどももビックリしてしまいました。  日顕上人さまはさかんに自慢話をされていましたね。自分が中学生(旧制・富士中学)の時、富士山に下駄を履いて登ったことがあるが、「下駄を履いて登った中学生はオレくらいなもんだろう」などと。「すごいですね」と相づちは打ちましたけれど…(笑)。  それに、「自分が小さい頃に住んでいた大石寺の蓮葉庵が新しくなった、庭もきれいになったので一度遊びにきなさいよ」とも言って下さいました。  後日、旅館の人達と一緒に行ったのですが、驚きました。蓮葉庵には大きな池はあるし、まるでうちの旅館の離れのようでした。うちは五千坪の庭園があるのですが、しょっちゅう遊びに来られるので、それを真似られたんでしょうか(笑)。  日顕上人さまは奥さまや息子の信彰さま、娘さんの百合子さまご夫婦と毎月のように来ておられましたよ。日顕上人さまの運転手に聞いて下さればよく判ります。  当時、うちには十五万円のお部屋が二つあったんですが、日顕上人さまはいらっしゃると必ず、そのうちのどちらかのお部屋に泊まりになられます。  ご予約はいつも石井信量さんがして、総監の藤本日潤さんや早瀬義寛さん、大村寿顕さんらも来ておりました。  多いときで二十二、三人、いつもはお身内だけで十六、七人です。十数部屋は借り切りになりましたですね―。 ●これだけあるぞ、日顕の温泉豪遊の数々 綱紀自粛を打ち出した平成二年八月三〇日以前の日顕ファミリーの温泉豪遊をチョツと 並べてみるだけでもすごい。  当の伊豆長岡の温泉旅館で四月十三日(四月一日に大石寺開創七百年の法要が終わった直後)。  総勢二十数人。「みんな夫婦連れでしたね。大宴会場で宴会をやって。この時、娘の百合子さんがべ口ベロになるまで飲んで、荒れていたのを覚えています。片膝を立てて、あられもない姿で、よくも恥ずかしくないもんだと思いましたよ。母親の政子さんは『飲むのをやめなさいよ。おホホホ』と言うだけ。日顕さんもニヤニヤしているだけでした。百合子さんは高飛車で横柄で、とても評判が悪かったですよ。日顕さんは娘だからかわいいらしく、娘は娘で“法主に何でも言えるのは自分だけだ”と思っているようでした」(旅館関係者)  その後も五月十五日、早瀬日慈の妻・ちかの一周忌の満山法要が終わった直後。メンバーは早瀬一族が加わり藤本総監や阿部信彰といういつもの顔ぶれ。「そのあと、六月にも来て、その時は桐箱入りのサクランボを忘れて帰って、一騒動あったので覚えています。旅館の人がわざわざ大石寺まで問い合わせの電話をしたんですから」(旅館関係者)  日顕自身「ここ(三養荘)はゆっくりできるし、この温泉のお湯が好きで来るんだ」と しょっちゅう来る理由を述べている。  この旅館には、平成二年八月の、いわゆる“綱紀自粛”後も日顕ファミリーが姿を見せ、今まで何回も出入りしている。  「年間にすると数千万円は使う“上得意”で旅館に芸者を呼んで派手な宴会をしたこともあります。お金は大石寺まで取りに行ったこともありますよ。平成三年四月十五日に、蓮成坊の石井さん(石井信量のこと)のところへ行きました」との証言もある。  この他にも息子信彰が手術後の長期療養で大仁温泉にいたことがあり、日顕夫婦はそこの旅館へも何十回となく行っている。  他に平成元年の下半期の記録によると。  熱海随一といわれる超高級料亭K旅館では、まず九月十九日に、夫人の政子と石井ナツ子(大石寺理事石井信量の妻)が下見目的で投宿。この宿泊費が何と二人だけで三十万円。 それから一週間後の九月二十八日、日顕が住職・寺族ら十人で現れ、日顕は政子と二人で一泊二十五万円の部屋に、他の坊主らも最高級の部屋に泊まった。二日間も宿泊し、宿泊代だけで数百万円。おまけに、この時、息子の信彰が特上のヒラメを食べて、呼吸が苦しくなり、救急車で病院に担ぎ込まれているという騒ぎまであった。  十二月二十七日、日顕が坊主を大挙引き連れて忘年会。この時は八人もの芸者をあげて、ドンチャン騒ぎをしている。それも「遊ぶ人を」とわざわざ頼んだという。  そのうえ、帰る時には売店で三百万円もする壷を見るや、ポンと購入し、後日、大石寺に届けさせている。  とにかく日顕の時代になってからの宗門は宴会づくめ温泉漬けなのだ。もっともらしい「綱紀自粛」など、身内、法類以外の末寺住職やその寺族に守らせるためのものと考えているのである。 ●関係資料・同盟通信 〈資料1〉同盟通信 N0.30(1994・2・14)  =猊下および一握りの役僧だけが、贅を弄ぶほどの豊かな生活をしている。しかし、耐乏生活を強いられる“民生寺院”は、すでに百か寺を突破した。その後方には、倍する予備軍が待機している。  “富み”の格差は、心の亀裂の深さを示す。そして、心の離脱は、増える一方だ。心の離脱は、猊下の退座を意味する。  ―「狂人走れば不狂人も走る」の諺通り、猊下に付和雷同し、「建前」で盲従した末寺住職こそ、哀れな犠牲者だ=  今月の十七日に宗会が招集される。会期は三日だ。議題は、宗務院の予算と四月一日から施行する新寺院等級の確定だ。先月(NO二九)でも触れたが、今回の等級見直しでは法人の預貯金が査定の大きな基準となった。すでに全国の各布教区では、教区会が行われ各末寺から提出されていた財政報告に従い、各寺院の等級が申し渡されている。従って、宗会招集といっても、そこで各寺院の等級が検討されるわけではない。今の宗会は「翼賛 195 宗会」「御用宗会」との通称が定着しているように、まったく討議などない形式的な場でしかない。今回の等級見直しは、当初の予想を超える民生寺院の急増と猊下の身内に偏った末寺貸出金の乱発がたたり、護法局の財政が悲鳴を上げたことに始まる。末寺のことは、末寺で負担させるとの基本方針通り、本山が末寺の預貯金の吸い上げに着手したものだ。 従来通り、一等級三百個から始まっているが、一等級寺院がこれまでは、常泉寺と法道院の二か寺であったが、今回の見直しで十数か寺に増えている。これは一等級の査定基準を、常泉寺の法人預貯金を目安にしたことによる。それを超える預貯金を有している寺院は、すべて一等級寺院となったからだ。そして、一個六万円(宗費賦課金プラス護法局負担金)とこれまでより、五千円の値上げとなっている。  ちなみに猊下の金庫番と最近、つとに有名なり、また政子夫人に同行し、世田谷の隠居所の物件を下見し、購入に当たっては、一役買ったとされる石井信量君の蓮成坊も、目出度く一等寺院に昇格した。自坊の玄関回りを料亭風に改築し、駐車場も裏側に建て直し、そこにはBMW、ゴルフの外車など計五台が収まっている。また、従業員も内事部から派遣されているほかに、自坊として三人を雇う羽振りの良さだ。「皆、実修講のお陰だ」とは本人の弁だ。額面通り受け取りたいが、そういえば広布坊の施工に当たっているゼネコ ンの幹部社員にも実修講員がいるそうだ。そのへんからも御供養を頂戴しているのだろうか。そうなると、宗門版ゼネコン汚職との塔中での噂も、あながち否定できないものがあるのかもしれない。  確かに二十億に近い額の預貯金を有する一等寺院の負担額を増すことに対して、全く異論はない。しかし、富める寺院とのありすぎる経済的格差と生活実感の隔たりに、多くの貧しき末寺住職は、あんぐりと開いたロが塞がらないのが本音だ。その一方では、百か寺を超える援助を必要とする民生寺院とその後方には民生寺院の予備軍として、その倍の数の寺院が待機している。豊かな寺院の大多数は、大都市部にあり、貧しい寺院は、農山村に点在する。とくに雪に閉ざされる北国の寺院では、経済的逼迫に加え、寒さが一層、身にしみる。  民生寺院として、援助を受ける場合は、法人預貯金二百万円を切った段階でその対象となるが、実際に援助を受けるためには、申告が必要だ。毎月の月次報告では、自動的に援助とはならない。あくまでも申告、否、猊下に願い出なければ援助は受けられない官僚的なシステムになっているのだ。すでに対象寺院であるにもかかわらず、願い出ない寺もかなりの数に上っている。寺院等級見直しは、“富み”の格差を改めて思い知らせたに過ぎ ず、末寺住職に何らのメリットも与えない。  十七日の宗会に続き、二十三日には、全国支院長会議が行われる。ここでの議題は「六万塔の御供養」が、主要議題となろう。すでに猊下の指示に従い、柳沢氏が、連合会として、御供養の具体的な振り込みの仕方まで細部に至るまで発表し、動き始めた。この背景には、柳沢氏が「六万塔の御供養」を成功に導いた暁には法華講総講頭の位と「六万塔」の石塔の裏に、柳沢氏の名前を刻印する約束が、取引として猊下との間で交わされたようだ。それで「六万塔の御供養」を引き受けたのだ。  末寺住職のなかには、六万総登山の高校生以上の千円の御供養と同じようなものと考えている住職も多いが、この「六万塔の御供養」は、一口一万円以上なのだ。ロコミのみで静かに、しかも計画的に進める手筈になっている。十二万人に対して、一万円となる。十二億円だ。その推進の根回しが、支院長会のメインテーマらしい。「六万塔」といっても、所詮は、石塔だ。それも六メートルの塔だ。台座を七十センチにして、いつも通り語呂合わせをしている。川俣組への発注と聞くが、どれほどの予算なのか。そこまで煽る必要があるのだろうか。「広布坊」に回すためか。それとも、世田谷の隠居所の支払いのためか。いつまでたっても枯れず脂ぎっている猊下に直接聞いて見たい。  大白法で「六万塔の御供養」のことを知った住職は、誰もが「まず、指導教師を集めて『六万塔の御供養』について、猊下の説明があり、それを自坊に持ち帰り、講中に指導するのが当然の在り方ではないか。それが事後に指導教師が知るというのは、本末転倒ではないか。筋が違う」「猊下は、学会に対して学会中央の指導性を否定し、学会員は学会員である前に、あくまでも末寺の信者であると言ってきたではないか。それを猊下自らが、連合会に対しては、本山直轄で手継ぎの師匠である末寺住職を土俵外に追いやり、切り離しているとはどういうつもりか」「講中こそ、末寺の信者ではないのか。猊下自らが罪を犯しているのではないか」との批判の声が全国に起きた。  『指くわえ 過ぎゆく供養 眺めつつ うち(自坊)も建てたし 六万塔を』  末寺の預貯金に、まず手をつけたのは末寺ではない。本山なのだ。そして、今度は、末寺の信者に手をつけたのも、末寺ではなく本山なのだ。これまでの時局を考えると、末寺が、どんなに苦しくても、信者に御供養のことを口にすることはできなかった。そんな心情におかまいなく、末寺住職を飛び越えて、いとも簡単に、信者からの御供養の収奪に着手したのは、またしても猊下だった。 ―「狂人走れば不狂人も走る」との諺通り、猊下に付和雷同し、「法主絶対」の建前で、 盲従し、走っては見たものの、待ち受けていたものは“自滅”という苛酷なゴールだったことを、末寺住職はようやく感じ始めて来た。「六万塔の御供養」を奨励すればするほど、末寺は、疲弊する。  「六万総登山」に励めば励むほど、末寺の活力は、枯渇する。まさに、自らの手で、自らの首を絞めていることに気付き始めたのだ。猊下及び一握りの役僧だけが、贅を弄ぶほどの豊かな生活をしている。しかし、その一方で、耐乏生活を強いられている“民生寺院”がある。寺族が働きに出なければ、との声もある。宗内僧侶は、この両極の事実の姿に、暗譜たる思いに襲われている。 ―“富み”の格差は、心の亀裂の深さを示している。そして、心の離脱は増える一方だ。更に、心の離脱は、猊下の退座を意味する。  顕さん、絶対に途中での“食い逃げ”いや“持ち逃げ”は、もっといけませんよ。 〈資料2〉同盟通信 N0.34(1994・2・22) =「オヤジは、中啓・息子は、革のスリッパ。孫は、足げり」―段々と凶暴化する阿部家の“気質”。本山での荒廃した所化の姿は、阿部家三代に続く“気質”を映し出しているのだ。猊下の性根を、映し出している鏡なのだ=  富士宮の街では「丸刈りの坊主の運転する車には、気をつけろ」「何でも保険にすら入っていないようだ。事故ったら大変だ。泣き寝入りになってしまう」と囁かれているという。どうも、本山の無任所教師のことを言っているらしい。確かに彼らが、先輩から払い下げてもらった中古車を乗り回しているのは本当だ。また、任意保険に加入していない者が、多いのも事実らしい。どうやらそのことを指しているようだ。だからと言って、すぐに彼らを頭ごなしに責めるわけにはいかない。忍びない厳しい無任所教師の生活実態があるのだ。何せ、彼らの月給は、十一万円なのだ。確かに、保険代を支払う余裕すらないのが実情だ。彼らは、先輩のお下がりの車にすら乗れる境遇にないのかもしれない。しかし、田舎の上野村での生活では、どこに出掛けるにしても車は必要だ。車は生活の必需品でもある。ゲタ代わりなのだ。また、翠明寮にいる妻帯の無任所教師には、配偶者手当として三万円、また、子供一人に対し、一万円の家族手当が支給されている。しかし、赤ちゃんの紙オムツを買うのもままならない苦しい生活状態だ。  そんな境遇に置かれている彼らに、八木主任理事は、昨年十月に「大坊でメシを食べる場合は、必ず金を払え。給料から食事代が、天引きになっていない者は、食べてはならない」と実に狭量な発言をし、顰蹙をかった。しかし、現在、天引きされている者だけが、大坊での食事を許されている。まともに対話の出来ない赤面恐怖症の信瑩君には、無任所教師の生活苦など到底分かろうはずがない。猊下と同じで、常に権威で身を包み、見下すようにしか物事が言えない信瑩君には無理からぬことだ。  もう一人、八木君と同じように、上しか見えない権力志向の愚かな役付き僧侶がいる。小川只道君だ。彼は無任所教師達に「清昌」取り扱いの自動車保険の加入を勧誘している。手短な所で営業しているようだ。なにせ「清昌」は、平成四年に、石井信量君と小川只道君が、三百五十万円、もう一人が三百万円出資して、資本金一千万円で設立した有限会社だ。谷平君が雇われ社長で収まっている。もちろん、会社名の「清昌」は、猊下の命名だ。常に自らの利殖にしか目がいかない猊下の取り巻きの姿を、無任所教師をはじめ所化たちはじーっと見ている。一遍でもいいから、自分達の姿を所化の目線から見上げて見たら、猊下も八木君も小川君も、よーく自分の醜悪さが見えるはずだ。  厳しい生活状況下にある無任所教師の中でも、抜け道をもっている者もいる。親が役僧 や富める寺院の住職の子供達だ。例えば、早瀬庶務部長の長女・千勢子女史を嫁にしている國島道保君などは、その典型の一人だ。車は、勿論、先輩の払い下げではない。女房の車は、無線電話付きの新車だ。渉外の仕事が終われば、夫婦で法道院にひとっ飛び。そして、親のクレジットカードで、欲しいものを好きなだけ買い物をする。両手に持ち切れない品物を、車一杯にして帰ることは日常茶飯事のことだ。早瀬家の場合は、道保君に限らず、新潟の長男・道寧君も親のカードを頼りにしている。子も子なら親も親だ。なにせ、還俗した次男・正寛君が、僧侶をやめただけではなく、御本尊までもう要らない、と言い出し、さすがに慌てた早瀬庶務部長は、息子に買い与えたマンションに、心配の余り自らが出向き、どうやら御本尊の安置だけはしてきたようだ。  無任所教師達は、こうした不公平極まりない姿を知っていても、どうすることも出来ない。それだけに、猊下及び役僧に対する不信と先行きの不安に、心はすさむ一方なのだ。民生寺院でも、同じ現象が沢山ある。富める寺の親が、金を内緒で子供に援助している。血族社会の端的な光景だ。  二月三日、信量君の蓮成坊で、数十人程の在勤所化を集めて、慰労会がもたれた。その後、夜更けの本山に、突然、静けさを切り裂く救急車のサイレンが鳴り響いた。所化四人 が、急性アルコール中毒で、いつもの病院に運ばれた。一人は、重症だった。こうした出来事は、正信会問題の時にもあった。確か昭和五十二年、当時、中三の所化が、急性アルコール中毒症で、病院に運び込まれた。不幸にもこのときは、その所化は亡くなった。当然のごとく診断書には、急性心不全とされたという。また、同じ年に、失火事件が大坊であった。所化が、押し入れの中でロウソクの火で、足袋を乾かしていた、その火の不始末が失火の原因だったという。この時にも一人の所化が犠牲となり、亡くなった。当時、責任者として駒井君は、学衆課にいた。  その後、昭和五十五年ごろまで、集団脱走、山内での酒盛り、異性交遊、中・高生のタバコの喫煙など荒んだ所化小僧に纏わる荒廃し切った問題が、多発したことは衆知の通りだ。一筋の希望の曙光すら見いだせない暗闇同然の宗門の中で、抑えつけられた心の鬱積が一気に爆発した姿だといえる。  本山で亡くなった“犠牲者”の墓が、典礼院・三師塔に向かって左横奥の方に静かに並んでいる。  健全なストレス解消法もなく、常に力で隷属させる環境下では、精神が歪むばかりだ。子供たちがバランスを崩してしまっている状態にあることを正確に把握している人間は、 本山には、誰一人いない。御仲居の駒井君などは、自分の子供が年分得度試験(一月二十八、二十九日)を受けるのに、受験当日、内事部から食堂に行くソファーの所で息子を出迎え、親バカぶりを発揮するのが精一杯だ。所化仲間では“御仲居の息子だから間違いなく合格するだろう。これでやっとこれまでの駒専からの借りをきっちりお返しできる”と一日も早い駒井ジュニアのお目見えを楽しみにしている。ご期待通り、ジュニアは合格した。  また、先日も、斎藤栄順房、宮澤親道房の子供が、本山を飛び出した。原因は、信量君の子息のイジメが原因だった。更に、所化が所化から金をせびり取ることなども、しばしば起きているという。こうした本山の所化の心の荒廃は、学校でも問題になっている。更に、猊下の退座が近いと膚で敏感に感じとる在勤所化らは、達師の弟子が譲り弟子となり、悲哀を被ったように、やがて自分達もその運命をたどり、譲り弟子となることに不安を感じ、ますます心を荒ませているのだ。  今回の問題を惹起した要因の一つに、猊下の“気質”即ち“素性”が挙げられる。この部分を避けては、今回の本質は見えない。私生児として産み落とされ、五歳まで認知されなかった猊下の幼年期。「三つ子の魂百まで」というが、猊下にとっては五歳までの幼年 期に、屈折した精神の原形が、すでに形成されていたのだ。瞬間的に激情し、爆発させる禽獣と同じ“凶”を持つ性格。恩は忘れても恨みは忘れないという畜生の性癖。猊下は、その激情を鎮めるために、中啓で人を殴りつける。息子の信彰君は、親と同じように激情すると、女、子供の見境なく皮のスリッパで殴りつける。宣徳寺に在勤する孫の正教君も、阿郡家伝統の“気質”をたっぷりと受け継ぎ、信者を足で蹴り挙げている。  「オヤジは、中啓。息子は、革のスリッパ。孫は、足げり」―段々と凶暴化する阿部家の“気質”だ。まさに、信雄・信彰・正教の三代に貫かれる“素性”の悪さとしか言いようがない。 ―本山の荒廃した所化の姿は、阿部家三代に続く“気質”を映し出しているのだ。 ―猊下の性根を映し出している鏡なのだ。 〈資料3〉同盟通信 N0.38(1994・3・18)  =「エッヘヘ」と下卑た笑いを見せる“信雄”。「オホホッ」と高慢ちきな高笑いをする“政子”ーこの二人の“凶”の組み合わせが、守銭奴・信量君などの太鼓持ちを踊らせ、 宗門の教義と宗風をメチャメチャにした。そして、後世から糾弾されるのは、それを阻止できなかった一宗挙げての無能さに違いない=  三十、三十一等の最下級にある末寺が、新規等級によると二百か寺を超えている。財政的に困窮する末寺である。その一方で、この“民生寺院”の年間収入を軽く超える、年額一千六百五十万円も、本山に上納する“富める” 一等寺院が十六か寺もある。一等寺院のほとんどが、年間収入では億を超える豊かな財政にある。また、預貯金高にしても、十億を超える寺院が大半だ。  この一等寺院の中で、異色とも言える寺院が一か寺ある。それは本山塔中の蓮成坊だ。他の塔中坊と比べ、余りにも突出した財政の豊かさを持つ蓮成坊の存在が、宗内でいま、専らの評判だ。塔中内では、羨望の的だ。同時に、その意外性に驚くのか、「どうして、石井さんの蓮成坊だけが、塔中の中で、そんなに裕福なのか」とも噂されている。猊下の親衛隊を自認する妙観講を抱える小川君の理境坊が「十四等級」と同格だ。重役の吉田能化の妙蓮寺ですら「六等級」と対等な位置なのだ。  また、猊下の「金庫番」と言われるだけあって、あり余る豊かさと贅を十分に満喫して いる信量君の生活の羽振りの良さも、塔中では“一等級だ”と囁かれている。料亭風に改築した玄関、BMW、ゴルフなど五台の車の所有、そして骨董収集は、宗内でつとに有名だ。蓮成坊の二階に置ききれない程の量だ。所化が、「使用禁止」の張り紙が貼ってある登山客用のトイレの扉の隙間から覗くと何やら荷物がぎっしりと積み上げられていた、という話もある。更に、娘の通学のためか、骨董を保管するためかは不明だが、静岡にマンションまで購入しているのだ。私生活の派手さ加減でみれば、“一等級”さもありなん、ということだろうか。  蓮成坊が一等寺院と同格になった富の蓄積の根拠は、本人に聞かないと断定はできないが、信量君から「ええ、それは実修講の皆様のお陰です」と、もっともらしい答えが返って来そうなので、この点だけは、前もって信量君にクギを剌しておきたい。公称一千世帯、実動三百ぐらいの実修講の力では、とてもここまで押し上げることなどあり得ないことだ、と。もちろん、宗内の石井評である“お金大好き人間”との形容通り、師の僧道哲学である“お金が一番頼りになる、一番信用できる”とする守銭奴そのままの、供養収奪が出来ていないと言っている訳ではない。むしろ逆だ。商人顔負けの徹底ぶりだ。信量君の守銭奴を地で行く今日までの来し方については、誰もが認めるところだろう。  信量君が今日の権勢と富みを手中にすることが出来たのは、猊下の“金庫番”と言われるだけに、猊下との二人三脚の密接な関係の中にこそあるのではないか、との思いが疑惑と共に膨らむのだ。  石井師は、昭和三十七年、猊下が、まだ本行寺住職だったころ、内弟子として得度した。そして、猊下が平安寺に転任してからも、平安寺在勤となり、更に、昭和五十四年八月、猊下の大石寺住職就任と同時に、蓮成坊住職となっている。得度から今日までずーっと一緒だ。猊下にとっては、まさに身内なのだ。そして一方、女房のナツ子夫人(旧姓早川)も、政子との関係が深い。ナツ子夫人は、もともと八木師の遠信坊の手伝いをしていた。それを政子が引き抜き、平安寺に連れて行ったようだ。そして後に、政子の口添えで信量君と一緒になる。猊下と信量君、政子とナツ子夫人、夫婦双方、身内同然の関係だ。  政子は、西片に常に二、三人の手伝いの若い女性を置いている。内弟子、法類等の縁故筋から、従業員として呼び寄せているものだ。そこで政子は、西片教育なるものを仕込んでいる。江戸幕藩の昔にあった大奥に似せているのかもしれない。まず政子が、最初に躾と称して自分自身の呼称から徹底して教え込む。「私のことは“大奥様”と呼びなさい」「末寺の女房は“奥様”と呼びなさい」「信者にも、奥さんではない。必ず“奥様”と呼ばせなさい」。 以前は末寺でも所化が“お母さん”と呼んだり、自由の気風があった。しかし今は、政子の仕込み通り、このバカバカしい、自分達は信者とは違う、とする特別意識を込めた呼称で統一されるまでになっている。政子の洗礼を受けている松本随道君の女房などは、信者の人が“奥さん”と親しみを込めて呼んだら、ムッとした顔で「“奥様”と、呼んで下さい!」と言い返したというから唖然とするばかりだ。義寛君の女房すら“奥様”と呼べと言っているくらいだから、当然なのかも知れない。  こんなことは本来さほど問題にすべきことではないのだが、猊下、政子という“凶”の組み合わせの本質を理解するうえでは、最も重要なことなのだ。まさに二人に共通する歪んだ精神の本性を抉り出している端的な事柄と言える。猊下の強権を振るう心の奥には、他者との関係では対等ではない。常に自分を高みに据えた間合いの置き方がある。自分は、皆とは違う。平たく言えば、皆より偉い。皆とは対等ではない。その差別的な性癖ともいえるイビツな思考が、僧侶に対しても“者ども”“××の分際で”との表現になるのだ。信者に対しても“信者ども”“信者達”と見下す言動が登座の当初から見られた。もともと小心で臆病なのだ。この差別的体質を浮き彫りにしている話がある。  「『報恩抄』に御指南でございますが、この『有智無智をきらはず』という御文を深く拝しまするときに、『有智』とは仏教の色々な筋道を悟り学んでおるところの僧侶という立場であります。また、『無智』とは仏の教えをほとんど勉強せず、知らないで、世間の道において生活をしておる在家の人々をいうのでありまして、この有智も無智もともに南無妙法蓮華経と唱えるということが大聖人様の御指南でございます」(昭和六十三年の元旦勤行の話)  「有智」は僧侶、「無智」は信者、と御書にもない、自分の無智を棚に上げ、勝手な珍説を披露している。御書をねじ曲げても、自らの屈折した性癖から発する差別思想をごり押しする猊下の性根が、クッキリと見える。「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり、僧とは我等行者なり」(御義口伝七六六頁)の文を引くまでもない。教門はいざ知らず、一度、証道・観心門に到らば、宗祖は、僧俗の間に本質的差別など認めてはいない。我等法華経の行者を悉く“僧”と断じられている。何と雄渾壮大な僧宝観であろうか。ぎりぎりの証道・感得の世界に入れば、僧俗の小異などもともと取るに足らぬものだ。この宗祖の気宇広大な僧宝観が、中興寛師にも踏襲されているのは容易に察しがつく。 「当宗の俗は他宗の僧に勝れたり、何となれば事相の髪を剃らずと雖も已に内心の髪を剃る、法華経誹謗の黒心無きが故也、是の故に却て僧なり。(略)当宗の俗尚は他宗の僧に勝る、況んや当宗の僧をや。而るに予が如き徳行倶に欠けたり、恨むらくは当宗の俗に劣る」(法衣供養談義・富要三・二七六頁)。ことに最後の「恨むらくは当宗の俗に劣る」の文は、この全編中、含蓄の深さの点でも、珠玉の一文であり、注目に値する。  一宗の猊座に登り、智徳、四方に普く聞こえた寛尊にして、なお自らを省み、謙譲に住し、内徳の積聚を生涯、止むことがなかったのである。この寛尊の姿に宗内の僧俗、誰もが自ら頭を下げざるを得まい。できることならこの寛尊の爪の垢の一分でも、いまの“狂”の御一人に飲ましてやりたいものだ。尤も“狂人”にどんな薬も効きはすまい。  前引の箇所に続けて、寛尊は「然りと雖も此の経を受持し妙法を唱ふる故に当宗の真俗は一切衆生の中に第一也。所依の経に拠る故也」と断じている。当宗の真俗という小異に眼を向けず、妙法という所依の法に依って僧俗共に一切衆生の中に第一と断じた寛尊の壮大雄渾な器量に注目すべきだ。それが、我等行者を一括して三宝中の僧に位置づけた宗祖の雄大な僧宝観に通ずることは多言を用しない。いまの猊下の唱える偏狭な僧俗差別観が如何にこじつけかは言うまでもない。要するに猊下は、御書を単に利用しているに過ぎないのだ。これがいつでも、阿部一族という身内と一般僧侶の構図に置き換えらることは身をもって宗内僧侶は知っているはずだ。  かつて本種院さんが「“坊さん”はもともとは乞食なんだ。他人のものを戴く立場なんだから“信者さん”と呼ぶべきなんだ」と言っていた。そして自分では“御信者さん”と言っていたことが思い出される。また、ある老僧は、猊下が“信者ども”“信者達”ということに「そういう言い方はない」「彼の僧としての資質の無さを感じる」と憮然と言い放っていた。  政子が「大奥様」「奥様」と呼ばせる発想と猊下のもつ差別的体質は全く同根のものだ。猊下は登座当初から、毎月のように身内の定例会を東京や伊豆で行ってきた。猊下、政子を中心に、信彰・百合子・八木・石井・秋元・高橋信興・大橋信明・藤本信恭夫婦等のメンバーだ。定例会の目的は、グルメを楽しむことと、もう一つは各地散っている内弟子や法類から教区の情報収集のためだ。  それをもとに猊下は、逐一、指弾するのだ。先月の二十三日の全国支院長会議の「ある支院長は、その非常に教区に対する徹底の仕方が不明瞭である…」との情報も、こうした身内からの提供なのだ。ここに宗内僧侶の脅えがあることも確かだ。猊下は、宗内行政を阿部一族で固め、牛耳って来たことは、周知の事実だ。それが宗門そのものだとも言える。  こうした異常なまでの猊下、政子の身内意識からくる差別的体質の恩恵によって、信量 君の今日の権勢を誇り得る立場があるのだといえる。しかし、最近、一等になったことがあまり嬉しくないのか、信量君はどうしたことか、あまり元気がないのだ。どうもその原因は、世田谷の豪邸の一件で、猊下に一喝されたことにあるらしい。「うまくやると言ったじゃないか。バレないと言ったじゃないか」と怒鳴りつけられたのであろうか。でも、普通は隠居所といえば、現役を引退し、世俗を離れるわけだから当然住まいの構えも、生活ぶりも質素になるのが普通だ。ところが、この人の場合は、普通の尺度が合わないのだ。そういえば、先月二十三日の時も、目通りで全支院長を前に「ワシは、酒をやめた。もう、やらない。やめたら体も調子がいい」と大見えを切った。ところが、今月四日、富士学林大学の卒業式後、東京・市ヶ谷の中華料理店に繰り出し、酒を飲んでいるのだ。やっぱり普通の人とは思考回路が違う。自分の心さえ、満足に律することが出来ない人間なのに、他人には有無を言わせず強権で押さえ付ける。全く常人の物差しが合わないのだ。  人を威嚇する言動の後に、フッと見せる「エッヘヘ」と下卑たあの笑い。おぞましさを感ずる。そしてまた、似た者夫婦とはいえ、政子の高慢ちきな勝ち誇ったように「オホホッ」と高笑いをする姿が二重写しに浮かんで来る。  いずれにしても、この二人の“凶”の組み合わせが、守銭奴・信量君などの太鼓持ちを 踊らせ、一宗の教義と宗風をメチャメチャにしたと断定できる。そして、後世に残るのは、阿部一族に蹂躙された宗門の残骸というより、それを阻止できなかったとする一宗挙げての無能さを証明する歴史でしかあり得ない。  我々同盟は、それを恐れるのだ。 〈資料4〉同盟通信 N0.44(1994・7・1)  =ゴルフが発覚して大布教区長職を失い、片や客殿御本尊を盗まれても、身内なる故に、お咎め無し! こんな不公平が許されるのか! 長期に亘る一族支配の悪弊が遂に浮上し始めた。  東京第二高橋支院長に対し、猊下がこのまま不問に付せば、猊下一族と宗門の亀裂は決定的となろう=  六月十日付の宗務院広報は実に面白い。一宗の公的なメディアであるべき宗務広報が「フライデー」の記事に振り回され、必死で追従抗弁する醜態を演ずるまで堕ちてしまっ た。この図式を宗門人は冷静に受け止めるべきだろう。  一体、この事態を破邪顕正の剣をどこまでも掲げる猊下の崇高な姿などと受け取る能天気な宗門人は、おりはすまい。それ処か、多くの宗門人は、先行きもなく蛇行・自滅の坂を転げ落ちて行く猊下の姿を読み取ったに違いない。「どうしてこうも猊下は正直にすべてに反応してしまうのか。黙っていれば済んだろうに!」。「フライデー」の記事に慌てふためき反応した十日付の宗務広報に対し、宗門人が抱いた平均的な印象はこの言葉に集約されるようだ。  確かに我々は今年の春頃、高橋支院長が自坊の常住御本尊を盗まれたという情報が宗内に漏れ出している事実をキャッチしている。その後、高橋支院長が猊下から大変な叱責を受け、かなり落ち込んでいるという話が事情通関でも話題になっている点も確認している。しかし、あえて我々同盟はこれに触れることは極力避けてきた。  何せ猊下は最近、自ら信奉する「野菜スープの教祖」・立石某が逮捕されたのも、学会の通告に依る仕業だと自ら仄めかして、側近にも言わしめている。若し事件発生直後、我々が、この件に下手に触れれば今回の盗難事件には、同盟が関与しているなどと、あられもないことを言い出しても何ら不思議はない。自分の意に添わぬ不都合は、皆学会の仕 業だと短絡させる思考回路には呆れ果てるが、抑々、今回の問題の発端の張本人・第一の加害者は自分である点を棚に上げ、状況が劣勢に転ずるや、自分こそ第一の被害者だと負け犬同然にほざきまくる無責任・幼児性には憐憫の余地もない。根っからの悪人でも憎めない人というのはいる。だが猊下の場合は「可愛さ」の片鱗もない。困った猊下だ。「もういい加減に目を覚ましたらどうか! この二段頭の信夫君よ!」我々同盟ならずとも誰しもそう叫びたくもなる。  実際のところ、仏乗寺高橋支院長は事件発生当初、盗んだのは学会男子部だと、気を許せる宗内の身内の者に触れ回っていたようだ。猊下としても厳しく叱責したものの、開師の福島の実家の親戚でもあり、内弟子でもある高橋支院長が言うことに、ハタと膝を打ち、「今回の盗難事件も学会の仕業・イヤガラセだと仕立ててしまえば宗内への弁解も立つ」などと底意地の悪い発想を抱いたことは十分に考えられ、その形跡もある。  いずれにせよ、窮地に追い遣れた者の被害妄想は手のつけようがない。「フライデー」が先駆を切り、その報道に慌てふためいて「事実無根」の紋切型の弁明を載せた宗務広報に対し、毎度の事乍ら宗内の反応は「またか!」という程度で相手にもせず実に素っ気ない。この場に及び猊下が口にする「事実無根」を額面通り受け取る程無邪気な宗門人など おりはしないのだ。  現在まで、毎度の宗務広報・大白法・慧妙等で繰り返された「事実無根」がどれほど底の浅い嘘で、まさに、宗門人を小馬鹿にしたものでしかないのを宗門人は骨身に染みて感じている。  しかし、今回の場合に限らず、猊下の場合、語れば語るほど、打ち消せば打ち消す程、宗門人にとっては「あの猊下ならありそうな話だ!」となってしまうのは、何とも皮肉としか言いようがない。今回の宗務広報について、ある宗内事情通は、苦笑い混じりで吐き捨てる様に言っていた。「宗務広報もついに『慧妙』並のレベルに堕ちてしまった。誰も相手にしないよ!」と。その通りだ。ご多分に漏れず今回の広報もすぐ底の割れる嘘であるのが発覚するのも時間の問題であろう。  それより我々が此処で問いたいのは、余事はいざ知らず、こと御本尊に関して不始末が起これば、法主たる者、僧階・法類・縁戚の如何を問わず、何らかの処分やけじめが住職になされたのが従来の宗門の美風ではなかったのか。  宗門の僧道にあっては「戒」に厳である以上に「乗」に厳たることを求められるからだ。戒の持破に汲々とする以前に、「乗に緩なるを許さず、汝は今、一介の勤息なれど、地涌 の眷属たるを思いて勤めよ、励めよ!」と銘戒を残し、末法の仏道に第一義として要請される「乗急戒緩」の在り方を力説された先代達師の闊達な薫化を遺弟の法類方が忘れているはずはない。  尤もこの分厚い銘戒板は、裏返しにされて放置された。思い余った大宣寺が払い下げを願ったが、猊下は大変な剣幕で怒鳴りつけ拒否したようだ。だが、この銘戒板は、未だに内事部階段下の倉庫にひっくり返して放り込まれ、ホコリを被っている。“地涌”という言葉を何故か嫌う猊下であれば、当然あり得る話だ。  ゴルフが発覚しただけで大布教区長職を失い、片や自坊の常住様を盗まれても一族なる故に何の咎もなく、それ処か猊下近親者の間でその事件の発覚を隠密裡に葬り去ろうとさえしていたのだ。もう姑息とか秘密主義などの言葉で言い括れる事態では断じてない。これでは「乗緩戒急」と達師に笑われよう。無論達師が、ゴルフを公に許したことは一度もない。しかし、ゴルフが発覚して大布教区長職を失うと言った笑止千万なお粗末が達師時代に一度たりともあったろうか。この賞罰の一事の采配を見ても現宗門が如何に狂ってしまったか一目瞭然だ。  猊下の恣意と横暴に麻痺してしまった宗門人に改めて訴えたい。これこそ長期に亘る馴 れ合いと情実に依る猊下の血族主義・一族支配の悪弊が浮上し始めた象徴的な事件ではないのか。今回の件などは、たまたま発覚した氷山の一角でしかない。  ある宗会議員が密かに語ってくれた。公私の極めて不透明な猊下が掌握する口座から平成二年から四年に亘り、横須賀・法照寺石井君へ十二億円、東京・宣徳寺秋元君へ三億円、隠密裡に融資されているという。この事実を、一体宗内の何人が知っていようか。無論、返済期限も無い返せたら返せば良いと言う不透明な馴れ合いの「補助融資」であることは言うまでもない。  更には猊下の息の掛かった自称「親衛隊」と称する単純そのものの若手住職たちに、猊下がポケットマネーから一千万・二千万円の単位でポンと渡している事実は宗内の一部でも漏れ始めている。その中の一人は「まさしく軍資金だよ、これは!」と公然と自慢して歩いているのだから開いた口が塞がらぬ。曲がりなりにも宗務院と寺院建設委員会という公的な機関を経て、本山より建設資金の融資を受けていた全末寺は、こんな杜撰究まる私的な裏融資の実態を知って何を思うだろうか。  更には月上限五十万の財政援助を受け子供の医療費さえ捻出できずにいる「民生寺院」の住職は何と言うだろうか。  我々は問いたい。「日蓮正宗という集団は一体何なのか?」と。  残念ながら我々は答えざるを得ぬ。「法人と呼べるような代物ではない」「凡そ、組織の体をなしていない、前時代の集団・閉ざされた馴れ合いの村社会でしかない」と。  猊下の血族主義・一族支配の悪弊は誰の眼にも明らかだ。でもその悪弊に辛酸を舐め尽くし乍ら、糾弾の声を口にできぬ宗門人一人一人の意識こそ問われるべきだろう。猊下の血族主義・一族支配の非を唱える前に、宗門人一人一人の意識にある閉ざされた血族主義 ・身内第一主義に眼を向け、問い糺すべきではないのか。現猊下の眼に余る血族主義・一族支配の構造とその悪弊は、他ならぬ全宗門人の意識の反映でもあり、その凝縮された産物である点は否めないからだ。  そんな閉ざされた集団が、出家とは凡そ対極に位置する異様な集団であることは誰が否定できようか。最近、吉田能化が、気を許した者に口にする最近の猊下評は辛辣を究めているようだ。猊下を「あの人はネッ!」と呼び捨てにしている話も漏れている。竹馬の友として「信夫」と呼ばれた若年の頃より猊下の後ろ姿を見て育ち、すべてを知悉している吉田能化にとって、現法主の犯した宗史に拭い切れぬ大失態も我慢の限度を越え、その本音の部分が、つい「あの人はネッ!」と呼び捨てにさせているようだ。  何でも「あの人はもう全く気が狂っているよ!」との発言を聞いた者もいる。さらに「ワシが立ち上がれば少なくとも百五十名の坊さんはついて来るはず!」と豪語しているようだ。  吉田能化に限らず、全能化・老僧方・宗会議具に言上したい。身内の者に猊下の非を口を極めて豪語する前に、自らの意識の内にある日和見主義・身内第一主義を見つめ問い糺していただきたい、と。偏に宗門の未来を思うが故である。  身内という枠を越え、宗門人が公然と猊下の非をロにする勇気を奮い起こした時、長期に亘る猊下の独裁支配は音を立てて瓦解する。だが、身内に限るとは言え、能化が猊下の非を口にし始めたことは、猊下一族と宗門の亀裂が、もはや修復し難いものであることを何より物語る。  常住御本尊を盗まれた高橋支院長に猊下が、どんな処置をするか、宗門人は今、息を殺して見守っている。我々もこの猊下にとって苦しい「踏絵」をじっくり拝見したい。  猊下にとって、七月の六万総登山という暑い踏絵の前に、とんだ「踏絵」が身内から転がり込んだものだ。                           以上 1994年8月20日初版