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第一章 日顕相承の真実

■西奥番室で決まった日顕登座

 事実は、こうであるー。

 昭和五十四年七月二十二日早朝。

 日達上人の御遺体が大奥対面所に戻り、身内、関係者による読経が終わった直

後のことだ。

 西奥番室に下がった、遺族の細井珪道、琢道、そして日達上人の娘婿の菅野慈

雲等、数人が話をしているところに、午前七時十五分から枕経の導師をすること

になっていた当時の阿部総監(日顕)が不安そうな顔をして入ってきた。

 三人の顔を見るなり、

 「あと(相承)のこと、君たち聞いてるか?」と切り出した。

 あきらかに相承についてのことだった。

 そこで菅野慈雲が、

 「いやぁ、それは、総監さん(日顕)じゃないですぅ?」と言った。

 その瞬間、日顕は、

 「あっ、そうか、、あぁ、そうだったなー」

 と呟き、複雑な表情をしたまま、考え込むような格好でゆっくりとうなずいた。

 前年の四月十五日(後に日顕が相承を受けたと言った日)ではない。この時の

菅野の言葉から、次の法主が日顕に決まったのだ。

 「あの時点では、次の法主といっても早瀬日慈さんか阿部(日顕)さんしかい

なかった。その二人の中で、どちらかと言えば、まあ、阿部さんの方がマシか、

そんなところから阿部さんを選んだんです」(関係者の話)

 相承といってもそんな程度である。なぜ「早瀬」より「阿部」なのか。宗門に

は当時、早瀬家の門閥「法器会」と日達上人の弟子の「妙観会」が長く対立して

いた。日慈は法器会のボスであった。猊座を「法器会」には渡したくない。そこ

で阿部を指名したのだという。

 むしろ、用心しなければならなかったのは「日達上人が次の猊下も決めないで

亡くなった」ということであった。後継者を決めないで亡くなることは考えられ

ないことだった。相承に断絶など絶対あってはならないのだ。だから、誰でもい

いから次の法主を決める必要に迫られ、日顕を次の猊下に指名したのだという。

 このことは、後日、日顕自身も逆手にとって、相承に疑問をもつ正信会に対し

て、「もし、そうなら(日顕が相承を受けていないというなら)お前たちの尊敬

する日達上人は相承しないで亡くなったことになるじゃないか!」と切り返した。

 この時、三人が心配したのも、まさにその一点だけだった。法主・日顕の誕生

は「日達上人が相承をしないで亡くなったことにだけはしたくない」というとこ

ろから出てきたのだ。

 相承で法主になったのではない。西奥番室で菅野から「総監さんじゃないです

ぅ?」と言われて誕生した六十七世なのだ。

 数時間後の重役会議で「実はわたしが前年の四月十五日に相承を受けていた」

との”自己申告”は、この菅野の言葉を受けて日顕が思いついた辻褄合わせだっ

た。

 日顕を法主と認めない正信会との裁判でも、自分で言っておきながら日顕は何

一つ「前年の四月十五日の相承」について事実関係を説明していない。

いや、できないのだ。

 「いつ」「どの部屋で」「どんなふうに相承を受けたのか」をー。

 日顕は、正信会僧侶が騒ぎだした頃、大坊において本山在勤の無任所教師を前

に、「自分の日記には四月十五日に相承を受けたと書いてある」と言ったことが

ある。

だが、裁判ではその日記を証拠として提出することすらもなかった。

 第六十六世細井日達上人は、昭和五十三年春頃から体力の衰えが目立ちはじめ、

持病の心臓病の悪化を訴えられることが多くなった。

 それまで総本山医薬坊(診療所)鈴木医師のほか、富士宮市民病院から医薬坊

に通勤して本山関係者の診療にあたっていたことのある後藤医師らにかかってい

たが、この頃から東京・築地の聖路加病院長・日野原重明博士を主治医にするよ

うになった。日野原博士は、心臓内科の専門医として知られ、高齢者医療の分野

で高い評価を得ていた。

 日達上人は都内の病院に入院して、日野原医師から、検査、治療だけでなく生

活指導まで受け、その指示を忠実に守った。その結果、体重を十五キロ近くも減

量し、日常の職務や生活には支障がないほどにまで、健康を回復した。

 しかし、高齢でもあり、血管の老化と心臓の疾患という”老人病”に、博士は

月一回の精密検査、時々のドック入りを要望した。上人は毎月一度、東京に出て

は病院に行き、そのあと、浅草や銀座などを散策して、どじょう鍋、いわし鍋、

精進料理など毎度変わった料理をとるのを楽しんだ。実際はほんの少々、箸をつ

けるだけだったが、その雰囲気を好まれたのだろう。

 全国各地の寺で二、三か月ごとに落慶式や入仏式があり、そのつど招かれた上

人は元気に過密なスケジュールをこなしていた。

 こうして七十七歳、喜寿の年、昭和五十四年を迎えたのである。この年もまた

多忙であった。夏には渡米し、ハワイに建立される寺院の落慶法要に出席する予

定まであった。

 七月十七日、福岡市の妙流寺の増改築落慶法要が行われ、法要のあと市内の料

亭で開かれた宴席に出て、懐石料理をとったが、すすめられて日ごろ口にしない

酒をわずかにたしなんだ。ホテルに帰ってからも、空腹だと言われて焼きソバを

食べ、帰途の新幹線ではサンドイッチもとられるという珍しい健啖ぶりだった。

 日達上人は丑寅勤行を欠かしたことがなく、所用が終わればすぐにも本山に帰

るのが通常だった。したがって過重なスケジュールでも、休養せずに帰途につい

たのである。しかし、いつもは節制される上人にとってこの過食は医師からの指

示に違反するものだったのだろうか。

 十八日、帰山してまもなく、「どうも調子がよくないな。通じもなく、食べ過

ぎたかな」と側近の者に語った。

 この日は後藤医師の診察を受けたが、確かなことは分からず、一応、盲腸炎の

疑いがあるという診断だった。

 翌十九日は、午前十時半から本種院佐藤日成師の一周忌、あわせて妙道寺の満

山供養が大客殿で、いずれも日達上人の導師で行われることになっており、また

午後には創価学会の最高幹部と宗門責任者との連絡会議も予定されていて、忙し

い一日になるものとみられていた。

 その早朝、上人は突然、激しい腹痛と腰痛を訴えられ、対面所で横になった。

やがて吐き気をもよおすようになった。最初に診察した鈴木医師は、注射して腰

に湿布するように言うだけだった。ついで後藤医師も呼ばれたが、やはり栄養剤

の点滴をし、痛み止めを処方しただけである。前日と同じく、この段階でははっ

きりした診断が下せなかったのだろう。

 聖路加病院の日野原博士にも急報したが、博士は宮崎市での医学会に出席のた

め出張中で、すぐに駆けつけることはできない。しかし、電話による指示で、白

糸の滝の近くのフジヤマ病院に入院することになった。午後も遅くなって上人は

看護婦付き添いの車で病院に向かった。

 ”日達猊下、入院”という情報は全山に流れ、僧侶たちを心配させた。

 だが満山法要は、法主不在のまま、三十分遅れて、本山執事の導師で行われた。

 病院ではレントゲン検査の結果、腸の働きがまったく停止していることがわか

った。血液検査をすると、白血球が増えているのも認められた。二度、三度のレ

ントゲンで腸間膜動脈閉塞、あるいは盲腸炎などの病名があげられたが、決定的

なものは出ない。

 翌二十日から抗生剤が投与されたものの、この日も腸の動きはまったくなく、

症状にも変化はなかった。

 日野原博士が到着したのは二十一日の昼前だった。ふたたび検査が行われ、上

人は検査室まで自分で歩き、その足取りも口調も平常と変わらず、知らぬ者には

とても重病とは見えなかったという。

 日野原博士をはじめフジヤマ病院長、後藤医師らがデータをもとに三時間にも

及ぶ会議を開いたものの、やはり結論は出ない。院長は開腹して検査することを

主張、日野原博士はこれに消極的で、一両日、安静にしたまま推移を見守った方

がよいと述べた。手術をするにしても、生命維持装置の完備した病院で専門家を

そろえてするべきだ、という意見だった。

 病室の上人からも、「どうなのか、知らせてもらいたい」という問い合わせが

再三、医師たちのもとにあった。

 ところが午後三時ごろ、腸が動きはじめた。通じもあり、医師団も付き添いも

ようやく愁眉を開いた。心臓にも血圧にもさほど変化はない。一刻を争う事態は

避けられたようだ。もう少し検査を続け、様子を見極めようということになって、

上人にも説明がなされた。

 付き添いには美佐子夫人をはじめ子息の細井珪道、琢道、玉道ら、また娘婿の

菅野慈雲らがいたが、上人はしっかりとした口調で、いろいろな会話を交わした。

 菅野に、「明日一日だけ本山に帰る。治療は東京の方がいいのなら、明後日に

は東京の病院に行く」とはっきりと言い、「寝たままでいいから対面所に布団を

敷いておくように」とつけ加えた。自分自身、病状の重大さを理解し、法主とし

ての責務を果たしたいと考えられたのだろうか。

 後に正信会は、この時の会話をもって、日達上人は菅野か光久のどちらかに相

承し、もう一人を立ち会いにするつもりだったと主張する。

 ようやく次に譲る決心がつき安心したのか、日達上人は食欲も出はじめ、初め

て牛乳や重湯もとられた。病室には安堵の色が流れた。九州から直行だった日野

原博士は、いったん東京に戻ることになり、本山にも「経過は良好で、回復に向

かっている」と知らされた。

 しかし、二十二日午前二時ごろ、容体が急変する。

 "心臓が停止”

 急遽、心臓マッサージが施された。

 すぐに日野原博士にも連絡され、病院に急行、二時間後に到着した。

 空が明るみはじめた頃、病院はすっぽりと白く厚い霧に包まれていた。

 病院では二人の医師が額から汗をしたたらせて、絶望的な心臓マッサージを三

時間近くも続けていたが、もはやすべてが終わったことは明らかだった。

 容体の急変をすぐに美佐子夫人が本山に知らせていたが、電話には誰も出ない。

当時、もっとも側近である、お仲居の光久諦顕は不在で、すぐに連絡はとれなか

った。そこで渉外部長の吉田義誠に連絡し、吉田から各方面に通知された。

 吉田は本山の僧侶を六壺に集め、病状の説明とともに病気平癒の唱題を行い、

自分は病院に急行したが、上人の心臓は止まったままだった。

 日野原博士は、正式に「二十二日午前五時五分死亡」の診断を下したが、実際

は鼓動が停止した午前二時に遷化したものとみられる。

 法主危篤そして死亡―慌ただしく重大な早朝だった。

 創価学会をはじめ法華講関係者、各地の支院長から各末寺へと、悲報はあちこ

ちにもたらされた。総監の日顕(当時、阿部信雄)も午前三時に連絡を受け、車

で東京・墨田区の常泉寺を出発している。

■第一関門・菅野慈雲を籠絡

悲しみのうちにも、本山では急ピッチで葬儀の準備が進められた。

対面所の床の間に御本尊を安置、北枕に床がのべられた。大奥門前で総監をはじ

め宗務役員、僧侶、所化、寺族ら三百人が唱題をして出迎える中、上人の遺体は

午前六時四十分、車で、庶務部長・藤本栄道、早瀬義孔、細井琢道、荻原昭謙ら

が付き添って帰山された。

この朝の模様について、当時の『大日蓮』には東野貫道が「御密葬の儀」という

タイトルでこう書いている。これが公式の報告書ということになる。

「折りから降りしきる東雲の愁雨に、杉浦要氏は大傘を奉持、財務部長、山口法

興、土居崎慈成、伊藤瑞道、三宅統道(略)の各師が白手袋で玄関より対面所へ

猊下を御負担申上げた。

 対面所で御着替を済ませ、三衣をお着け申上げて七時十五分、総監(日顕)導

師にて枕経の儀が厳修され、終了後、総監より突然の御遷化に茫然自失なるも、

宗門一同団結して正法護持に尽力し、葬儀等真心を尽くして御報恩申上げんとの

挨拶があった。

 更に主任理事(光久)の挨拶が述べられた後、宗務役員、遺弟代表が交代にて

導師を勤め、午後七時の仮通夜のために客殿へ御棺をお移しするまで、読経唱題

の声は間断なく、御宝前には焼香の淡煙が満ちた」

 遺族、親族をはじめ、弔問客は引きもきらず、内事部では主任理事が応待にあ

たり、焼香の列が続いた。

 午前九時すぎには、遺族や遺弟たちにより最後の剃髪、剃顔が行われた。一方、

内事部では密葬本葬の日程、式場の検討やマスコミヘの連絡などに忙殺されてい

た。

 こうした慌ただしさのなかで、宗門僧侶の誰の胸にも去来するのはー。

 日達上人の突然のご遷化、しかし、唯授一人の血脈は瞬時といえども断絶があ

ってはならない。法水瀉瓶の原理からいっても……。どう考えればいいのか?  

どう考えても、この数日間に相承が行われたとは思えない。

 複雑な思いと、重苦しい空気に包まれていた。

 実は、日達上人の遺体が帰るとともに、一部の僧侶の間ではさまざまな動きが

始まっていたのである。

 前総監の早瀬日慈は、遺体が本山に到着する直前、出迎えの大奥玄関前で、と

なりに並んで立っていた美佐子夫人に、「奥さん、何か書いたものはないですか」

とあけすけに聞き、夫人はむっとしたような表情で、「私は知りません」と答え

ている。

 同じ頃、日達上人次女の婿である早瀬義孔が、大奥の御本尊書写室で、日達上

人の書き付け類をかき回しているところを目撃されている。

 それぞれの思惑をからめながら、それぞれの行動をとっていたのだろう。

 そして、何よりもおかしいのは、その後、前に示した西奥番室での日顕のやり

とりである。

 「あと(相承)のこと、君たち聞いてるか?」

 この細井珪道、琢道、菅野慈雲らに対する一言は、どう考えても相承を受けた

者の発言ではない。少なくともこの時点で日顕は、日達上人から相承を受けたと

は一言も言っていないのだ。明らかに第三者の立場で、あるいは総監としての責

任感の上から、後継指名がどうなっているのか心配して尋ねている。

 ところが、意外にも菅野から返ってきた答えは、

 「総監さん(日顕)じゃないですぅ?」

 この時の日顕の心境やいかに?

日顕が法主になりたくてなりたくてしようがなかったというのは、宗門僧侶の

大半の見方だった。京都・平安寺にいた頃は何かにつけて日達上人にとり入って、

一籠何十万円もする松茸をわざわざ政子が車で本山に届けたりして、日達上人の

ご機嫌をとっていたという。

 正本堂工事の時に、歴代法主の墓を移したことがあった。その時、日顕の父で

ある日開の遺骨の一部が見つからなくて、そのまま新墓地に移したことがあった。

これには、日開の弟子たちが腹を立て、日達上人に文句を言いに行こうというこ

とになった。その時に「そんなことはしないでくれ! 出世に障る」と止めたの

が、日顕と母・妙修尼だった。「次期法主になりたいために、父親の遺骨まで無

視するのか?」と、遺弟たちは怒ったというエピソードが残っている。

 また、こんな笑い話もある。正本堂落成式に墨文字の看板が出た。運ばれて来

た看板を一目見るなり、早瀬日慈と阿部信雄(日顕)が「へたな字だなあ、誰が

書いたんだ?」と聞いた。所化が「日達上人です」と答えるやいなや、すかさず

「イヤ、うまい字だ」と日顕が言ったという。法主になりたくて、そのためにと

ても気を使っていたというエピソードとして伝わっている。

 午前七時十五分、日顕は一人複雑な思いを胸に秘めたまま枕経の導師を務める。

 三人の遺族との会話で明らかになったこと。それは、どうやら遺族も後継の指

名については、日達上人から何も聞かされていなかったこと。また、ひょっとし

てと思っていた菅野も相承を受けた形跡はなく、それどころか逆にその菅野から

自分が指名を受けたことである。

 つまり、日達上人は誰にも相承されずに逝去され、この血脈断絶の一大事を乗

り越えるにあたり、遺族は早瀬より自分を選んだことが明確になったのである。

 ”このワシが六十七世ーー。

 思わずニンマリしてしまいそうなところを必死でこらえ、日顕は一世一代の謀

略にその頭脳をフル回転させる。

 いつ相承を受けたことにするか? 最近では、ばれる、一年前なら分かるまい。

 発表のタイミングは? 通夜の席で一気に勝負に出る。

 根回しは必要か? まず菅野を確実に味方にしておいてから、重役会議を開く。

 反対する者はいないか? いるとすれば早瀬日慈。

 「昭和五十三年四月十五日」の”自己申告”を含め、日顕が登座へのシナリオを

描いたのは、まさにこの時であろう。おごそかに先師の冥福を祈ったのではない。

厳粛な表情のその裏で「法主詐称の大陰謀」を練り上げていたのだ。やはり日顕と

いう男、常人では計り知れない、恐るべき極悪坊主である。

 枕経が終わった後、日顕はただちに行動に移る。まずは第一関門、宗内最大勢力

の「妙観会」トップにして、日達上人の娘婿・菅野慈雲の籠絡である。

 「確か枕経が終わった後、午前八時から九時までの間だったと思います。総監室

で日顕が菅野慈雲と約三十分にわたり、何か真剣な面持ちでひそひそ話をしている

ところを、数人が見ています」(目撃者の証言)

 よほど他人に知られてはならない内容だったのだろう。日顕は総監室から出て

くるやいなや、すぐ近くでお茶の給仕をしていた所化たちを見つけ、すさまじい

形相で「おまえたち、何やってんだ! こんなところにいて。最初からここにい

たのか!」と怒鳴りつけている。

 その後、午前九時ごろ、本山に到着した学会幹部が弔問のため大奥を訪れる。

野村慈尊の案内で対面所に入ろうとした際、日顕との密談が終わったばかりの菅

野とバッタリ出くわす。菅野はあいさつもそこそこ、いかにも昂揚した様子でこ

んな場違いな発言をして一行を驚かせている。

 「次の次は私と聞いております」

 浮かれた菅野はその後、親しい者に「十年は我慢する」とも話している。

 約三十分の密談で、実際に二人の間で何が語られたのか知るよしもない。しか  

し、こうした菅野の発言から類推すると、日顕から「ワシの次はあんただ。うま

くやるから心配しなさんな」ぐらいのリップサービスがあったことは想像に難く

ない。その上で、新しい体制の重要ポストを約束し、反早瀬で共同戦線を張るよ

う要請したのだろう。

 事実、菅野は日顕の登座直後の八月二日、すでに海外部長だったにもかかわら

ず、兼任で庶務部長に抜擢される。異例の厚遇である。

 しかし、こうした蜜月関係もそう長くは続かなかった。日顕の相承に疑義を唱

える活動家僧侶(後の正信会)の動きが活発化するにしたがって、優柔不断な菅

野が反日顕のシンボル的存在に祭り上げられていったのである。何とか懐柔しよ

うとしていた日顕も、これ以上菅野を重要ポストにおくことはかえって危険であ

ると判断したのだろう。十一月には役職を解任。在任わずか三か月というあっけ

ない人事であった。

 以来、菅野は宗門中枢から追いやられ、日顕は「十年」どころか二十年以上も

猊座に居座り続けている。結果的に見て、馬鹿正直な菅野はまんまと日顕の”空

手形”にだまされたのだ。

■緊急重役会議で突然”既成事実”を披露した日顕

 めまぐるしい時間が経っていく。

 午前十一時十分、東奥番室の奥の応接間で緊急重役会議が開かれた。これには

総監の阿部日顕、重役の椎名法英(日澄)、能化の代表として早瀬日慈の三人が

出席した。

 重役会議とは日蓮正宗の責任役員会のことで、本来、出席者は管長、総監、重

役の三人。管長の日達上人亡き後、構成員は総監の日顕と重役の椎名の二人だけ

であったが、ここにあえて日顕は、正式メンバーではない日慈を招集したのであ

る。日慈自身、予想外の出席要請に驚き、「何で俺が行くんだ」としきりにぼや

きながら、重い腰を持ち上げたという。

 そこには余人には思いもつかぬ日顕一流の”読み”があった。

 ”菅野はおさえた。次は早瀬だ”ーー。

 かねてから宗内では、早瀬日慈こそ次の法主の最有力候補と目されていた。菅

野と”密約”を結んだ今、目の前に大きく立ちはだかるのは「法器会」の領袖・

早瀬日慈のみである。その日慈をどう抑え、どう自分が優位に立つか、これが日

顕にとっての第二の関門であった。

 次期法主については、日慈不在の重役会議で決めても、後日必ず問題になる。

日慈を擁する法器会が黙ってはいまい。それよりいっそのこと日慈も呼んで重役

会議を開き、そこで一気に勝負をかけた方が得策だ。宗規第十四条第三項には

「法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総

監、重役及び能化が協議して……次期法主を選定する」と定められている。能化

の日慈を加えておけば、後で問題になっても、この緊急重役会議を宗規で定めた

法主選定の会議だったとすり替えられる。

 この日顕の”読み”は当たる。狡猾な日顕は、日慈すら猊座強奪の共犯者に仕

立て上げることに成功する。仮通夜での椎名の発表の中で「能化であられる

観妙院様(早瀬日慈)にも特に御出席を頂き……」と、あえて重役会議に日慈も

いたことを強調し、宗内に「日慈も了解」と印象づけたのだ。ここらへんのした

たかさは、日慈など足元にも及ばない。要するに日慈は利用されたのだ。

 いずれにしても、その重役会議の席上、日顕から、突然

「今日までどなたにも秘してきたが、実は昨年四月十五日、総本山大奥において

猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の

儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを

御披露する」(『大日蓮』昭和五十四年九月号掲載、原文のまま)

 という発言がなされた。

 日顕が跡目争いの最大のライバルを蹴落とした瞬間である。日顕と日慈のにら

み合いは、先手必勝で臨んだ日顕の先制攻撃で、あっけなく勝敗が決まった。

 日顕にとっては、文字通り「快心の勝利」。後に日顕はこの時の様子を自慢げ

に語っている。

「日顕が登座して、しばらくしてからのことです。ある時、私たちが聞いたわけ

ではないのに、日顕は問わず語りにこう言いだしたのです。『ワシは、もしかし

たら早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、し

ばらく待っていても(早瀬が)何も言い出さないので、自分から言い出して登座

したんだ』と。この話は私だけでなく、当時、本山にいた何人もの若手僧侶が聞

いています」(吉川幸道住職)

 まさしく”自己申告”である。証拠は何もない。証人すらいない。「二人きり

の場」と言うのであるから、疑問だらけであるが、さりとて嘘だという証拠も何

もない。時すでに遅し、本来なら正規の手続きで六十七世に”繰り上げ当選”可

能だった日慈も、ただ黙って指をくわえて見ているしか術がない。かくして重役

会議は日顕の”自己申告”を確認したことで終了したのである。

 今一歩のところで日顕に出し抜かれた早瀬の悔しさは想像を絶する。

 ”まさか日付まで出してくるとは……。阿部にしてやられた”

 腸が煮えくりかえる思いを何とかおさえ、日慈はかろうじて仮通夜にだけは顔

を出す。しかし、それが終わるや、さっさと本山を後にし、東京に戻ってしまっ

た。日慈を頂点とする法器会と阿部日顕との微妙な関係は、実にこの時から始ま

るのである。

 一方、まんまと早瀬日慈を出し抜いた日顕だが、それでも、法器会の動向が気

になって仕方がなかったようだ。法器会関係者が、こんな話をしている。

 「日達上人が亡くなった日の午前、重役会議を終えた猊下が神妙な顔つきで、 

『こんど私がお受けして、やることになりました。よろしくお願いしますよ』と

告げ、その時、『観妙院(早瀬日慈)さんにしばらくやってもらってもいいんで

すがね……』と言ったんだ。私は『猊下がなさればいいじゃないですか』と答え

るしかなかった。だって、『そうですか』とは言えないだろう」

 嘘で登座した日顕の、微妙な心理状態が手に取るように分かる話だ。しかも、

軽々しく「観妙院さんにしばらくやってもらってもいいんですがね……」などと

発言すること自体、日顕の相承が作り話であったことを物語っている。また、こ

のやりとりからは、日顕をはじめとした宗内の僧侶にとって、相承がいかに”軽

い”ものであるかがうかがえる。

 ともあれ、すっかり落胆した日慈とは対照的に、日顕はこの重役会議から法主

として振る舞うようになる。

 外では葬儀をめぐり、話し合いが行われていた。通夜の会場をどこにするかで、

主任理事の光久諦顕は、「丑寅勤行があるので通夜は大講堂ですべきである」と

言い、顔をのぞかせた日顕は、「大客殿でやりたい」と主張した。光久にはお仲

居として日達上人のごく近くにいたという立場を誇示する気持ちがあったのだろ

う、大講堂がいいと言い張り、口論のようになった、と目撃者は言う。どちらも

譲らず、一時、休憩して、さらに話し合いを続けた。ついに日顕が、「お前は本

当にわからぬ奴だな。実はオレが猊下になったんだよ」と言った。これで勝負あ

り。光久は、その場に平伏して、日顕の言葉に従うのである。

 これで通夜の場所は大客殿に決定し、祭壇が組まれた。

 重役会議の少し前、妙光寺住職・野村学道は中啓で机をコツコツ叩きながら、

総監の日顕に、「信雄君、どうするんだ、この後」と威張った口調で言ったとい

う。僧階には年功序列があり、野村は日顕より上だったので、こんな発言になっ

たのだろう。

 日顕は重役会議に出かけた。重役会議が終わり、日顕が法主に決定したと聞く

やいなや、内事部で待機していた野村学道たちは、現れた日顕の姿に平伏して、

随従ぶりを示したという。

「仮通夜に行く途中、日顕の息子の阿部信彰と会って話していたんですよ。彼が、

『次の猊下は誰になるんでしょうね』つて言うから、『誰でしょう?』って言って

たら信彰の親父がなっちゃった。あれにはビックリしました」(中島法信住職)

 午後二時、遺体は棺に納められ、樒で荘厳された。

 夕方が近づいた。棺は行列を作って大客殿へ移された。行列は先導が青山理事、

御本尊を日顕が持ち、位牌は藤本庶務部長、以下細井珪道、琢道、玉道、弟子た

ち、遺族・寺族と続く。安置後、日顕の導師による読経があった。

 大広間の式場には、東側一面に黒白の幕が張りめぐらされた。御本尊を安置し、

御宝前には樒、白布の祭壇、遺族、重役それぞれの席がしつらえられ、導師席の

後ろには焼香台、さらにその後方の一方が僧侶たち、片方には池田名誉会長らを

最前列にして信徒たちが満場を埋めた。

 午後七時、大村教学部長の開式の辞とともに出仕太鼓を合図に、日顕が出仕し、

通夜の儀式となった。

■通夜の席上で唐突に発表された新法主決定

 重役、宗会議長、日慈、宗務役員、本山僧侶、一般僧侶、遺族、所化小僧、創

価学会、法華講幹部、一般信徒の順で焼香が行われた。

 八時五分、読経が終了し、葬儀委員長の重役・椎名法英から挨拶があった。

 ここで突然、血脈相承についての発表がなされたのである。

 これを再録すると、

「この席を借りまして、重大発表をさせて頂きます。

 本日、午前十一時十分より、総本山におきまして、緊急重役会議が開催せられ、

阿部総監様、私、椎名重役、それに能化であられる観妙院様(早瀬日慈)にも特

に御出席を頂き、この度の日達上人猊下御遷化にともなう緊急の協議が行われま

した。

 会議では、阿部総監様が臨時議長となられ、冒頭阿部総監様より、御相承に関

する重大なる御発表がありました。

 (ここで前記46ページの日顕の発言内容が、そのまま述べられる)

 日達上人猊下には、その以前よりお身体の不調を訴えられ、特に心臓機能の障

害によって、しばしば御入院遊ばされ、治療に専念遊ばされておりました。猊下

には、特に心臓の病気が急激性を持つものであることにより、これを深く御考え

あらせられ、不時のことを慮んぱかられて、本宗の重大事たる血脈の不断のため

に、あらかじめ御用意、御処置を遊ばされて、もって不時の事態にお備え遊ばさ

れたものであるということを、私共は深く痛感致すものであると同時に、猊下の

深い御用意と御配慮に対し奉り、私共はただただ恐懼感激致すものでございます。

 重役会におけるこの御発表により、私共出席者は深く感動致し、ひたすら信伏

随従を御誓い申し上げた次第でございます。

 何とぞ、宗内の僧俗御一同におかせられましても、本日ただ今より、新御法主

上人を仰ぎ奉り、新御法主上人のもとに、内外共に多難なる今日の局面において、

真の僧俗和合、一致団結を遂げて、さらに広宣流布の大目的のために、全力を傾

注せられ、もって日達上人猊下の御報恩にお供えしてまいろうではありませんか。

 以上をもちまして、発表とさせて頂きます」(同前『大日蓮』掲載)

 これで日顕の立場は公認されたことになる。

「五十三年四月十五日」に「内付」を受けたのではない。「阿部信雄」は、まさ

にこの「五十四年七月二十二日」の「大陰謀」で、「日蓮正宗管長、総本山第六

十七世」の座を盗み取ったのである。

 さて、仮通夜の席上における椎名法英の発表は、必ずしも僧侶たちに次期法主

決定の安心感を与えたわけではない。かなりの者は「少々、手回しが良すぎるの

ではないか」という不審を持ったのである。というのは、逝去の二日前の二十日、

本山塔中を代表して二人の執事、寂日坊・瀬戸恭道と雪山坊・中村慈政の両住職

が見舞いに行った際、日達上人は、「大丈夫です。皆さんに心配かけてすまない。

大事をとって四、五日静養して大坊に帰るから、ご安心ください」と言ったばか

り。それがいきなり「次の法主が決定」という発表なのだから、なんとも納得で

きぬ者がいたとしても不思議ではない。

 さらに、プロローグで詳述した日号変更のドタバタである。

「決まりました。日号は日顕です。父親が日開なので、ご自分は日顕にしました」

 深夜遅くの八木の発表に、ある者は”やっぱり”と舌打ちし、ある者は”これ

でいいのか”と愕然とした。

 当時本山にいた老僧も、この時の衝撃をこう語る。

「てっきり新しい猊下の名前は日慈上人とばかり思っていました。翌日の『静岡

新聞』の見出しだって『後任に阿部日慈師』となっています。それが”父親と

『開顕』で日顕”でしょう。こんなの言葉の遊びじゃないですか。最初はふざけ

てるのかと思いましたよ。それが本当だと分かった時には、はたしてこんなこと

が許されるのかと疑問に思いました。いったい、師匠からもらった日号を何だと

思っているのか。これでは、下にも示しがつきません。その傲慢さ、思いつきの

薄っぺらさに不安すら覚えました」

 ちなみにこの改名には後日談がある。葬儀で日顕新法主紹介の立役者となった

重役の椎名法英は、その半年後、能化となり、「日憲」を名乗った。しかしこれ

では「日顕」と「日憲」で、読みが同じで紛らわしい。そこで日顕は日憲に「日

号を変えてくれ」と頼み、椎名は譲って「日澄」につけ替えたのである。

 持ち前のその場しのぎの「嘘」と「謀略」で猊座を射止めたものの、改めて一

連の顛末を振り返ってみれば、あまりにも不可解なことが多すぎる。後に正信会

に走った若手の僧侶たちは、いち早く日顕の「相承を受けた」という言葉に疑義

を示し始めた。

■最初の目通りでタンカを切った日顕

 しかし宗門としては、次期法主の選定という最大のヤマを解決したわけで、葬

儀の諸行事に没頭することになる。

 二十三日は通夜第二夜となったが、前日からの読経はこの日も絶え間なく続き、

焼香には学会の夏季講習会の参加者も並び、混雑を極めた。また大客殿三階回廊

には、葬儀担当者を指名した十五メートルの紙が貼り出された。

 葬儀委員長・重役椎名法英、副委員長・執事瀬戸恭道、同・執事中村慈政のほ

か、庶務、式場、進行、会計、受付、饗応調度、記録、案内、渉外、配車、僧侶、

能化、教師、非教師、遺弟、寺族、遺族親族、総代、来賓、写真、駐車場、司会

の各係が任命され、全山を挙げて、行事に取り組むことになる。

 二十四日、密葬の儀。

 前夜からの読経唱題は三十分ごとに導師が交替して間断なく行われたが、午前

十時から密葬の儀が始められた。ふたたび日顕が導師となって読経と焼香。同十

時五十一分、棺を大客殿内陣に移して、遺族、親族、僧侶たちとの告別となる。

 十一時十六分、出発。創価学会女子部員たちが参道脇に並び唱題の中を三門ま

で行列が進み、ここから霊柩車で富士宮火葬場に向かった。

 午後三時三十六分、灰骨は帰山して大客殿へ。読経唱題ののち焼香、同五時、

密葬はすべて終了した。

 しかし、ここまでの儀式はすべて宗門内の密葬にすぎない。日達上人の灰骨は

六壺に安置され、ここでの読経唱題が行われたが、通夜、本葬は八月六日から八

日までの三日間、全国からの関係者を集めて盛大に行われ、最終日午後、本山内

の歴代法主墓所に埋葬されて、一連の儀式を終えるのである。

 こうした表の動きとは別に、裏では日顕の相承に対する疑惑、批判の声は、し

だいに濃く広がるばかりであった。真偽こもごもさまざまな情報が飛びかうので

ある。

 七月二十三日、宗門における本通夜が終わった夜九時半頃、日顕は元財務部長

の能勢順道に電話を入れた。「日淳上人(昭和三十四年十一月遷化)が亡くなっ

た時は、夫人に弔慰金をいくら払っているか」というものだった。そして、「日

達上人の夫人にどのくらい払ったらいいか」と、金額を相談している。普通、弔

慰金などは、葬儀もすべて終わり、家族も落ち着いてから相談したりして払うも

のだが、日顕は早くも新法主としての”既成事実”を作りたいためか、支払いを

急いで行おうとしたのである。

 八月五日、日顕は東京・常泉寺で「お別れ御講」を開いた。日顕をはじめとし

て同寺の檀家、信徒たちは誰も喜色満面、

 「わが寺の住職が法主になった」

 と祝福し合った。

 日顕はこの日のうちに、早々に大坊へと移った。

 この入坊式の前に、本山内の住職、僧侶は三門前に並んで、日顕を出迎えた。

この時、一同は題目を三唱、日顕は、

「本日は、山内の住職、教師、寺族各位、並びに信徒各位、従業員の皆さんには、

わざわざ出迎えをいただきまして、誠にありがとうございました。本日より大坊

に入居致し、法主並びに住職としての事務を執行致します。皆さんには今後とも、

どうぞ宜しくお願い申し上げます。御苦労様でした」

 と殊勝な挨拶をした。

 その後、大奥の対面所で最初の目通りとなった。一同は静かに並び、日顕の第

一声を待っていた。と、日顕は突然、こう切り出したのである。

「ワシの血脈のことでガタガタ言っているようだが、じゃあ、ほかに相承を受け

た者がいるのか。いたら手を挙げてみろ!」

 これが法主となっての初めての言葉である。いわばタンカを切ったわけだ。一

同、唖然とするとともに、この乱暴な言葉に驚愕した。

 本当に「相承を受けた」のなら、山内の住職たちに「いつ、このように相承さ

れた」と説明すれば済むことである。また、それが礼儀でもある。こんな発言で

は、新法主としてはあまりにも常識はずれではないか。そして、いまだにその説

明はなされていない。

 またこうした暴言とは逆に、登座直後の日顕が、あちこちで「このたび相承を

受けた阿部日顕です」と挨拶している姿が目撃されている。見かねた側近から、

「あまり、そういうことをおっしゃらないほうが……」と苦言を呈されたことも

あったようだ。このあたり、「ない」ものを「ある」と強弁しなくてはならない、

日顕の苦しい胸のうちを物語る出来事である。

 とにかく宗内を納得させる「証拠」が一切ないのである。この点については、

仮通夜の席で日顕の相承を発表した、当時の重役・椎名日澄までもが認め、同情

している。

 中島法信住職は証言する。

「正信会から相承をめぐる裁判を起こされ、揺れに揺れていた昭和五十六年頃の

ことです。本山から名古屋への帰り、新幹線で京都に帰る椎名日澄師と一緒にな

ったのです。その時、椎名師から直接聞いたのですが、『猊下も大変だねえ。た

だ自分がそう言うだけで、相承を受けたという証拠が何もないんだから』と言う

んです。早瀬日慈さんにも出席してもらって、三人で重役会議をやり、しかも仮

通夜の席で重大発表をした張本人が、こんなことを言い出したので驚きました」

 三人しかいない緊急重役会議のメンバーで、日顕登座を発表した椎名日澄のこ

の言は重い。

 さらにこんな話もある。

 昭和五十五年十一月、山崎正友が『週刊文春』で相承疑惑を取り上げた時のこ

と。その反論として、本山の若手僧侶がパンフレットを出すことになった。その

打ち合わせの際、呼び集めた若手僧侶を前に、日顕がこんな釈明をしたというの

だ。

 「私が日達上人から相承をお受けしたんだけれども、ほかにも、もしかしたら、

どなたかがお受けしているかも分からない。それで、みんなに相承のことを伺っ

たら、どなたも自分では言い出されなかった。そのため私は、実は、と言って、

昭和五十三年四月十五日に、日達上人から、内々に相承を受けたということを申

し上げた」

 一方では自分が相承を受けたと言いながら、もう一方では、ほかにも誰かが受

けているのではないかと心配する。まったく矛盾する話である。

 そもそも「金口嫡々」の相承は「唯授一人」のはずであり、日顕が本当に昭和

五十三年四月十五日に日達上人から相承を受けたというのであれば、ほかの人の

ことなどあれこれ詮索する必要などまったくないではないか。それが心配でしょ

うがなかったということ自体、「昭和五十三年四月十五日」の相承が、まったく

の”作り話”に過ぎなかったことの証左なのである。

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