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第二章 疑惑の「相承の日」  

■誕生パーティーなどで慌ただしく過ぎた一日

 問題の昭和五十三年四月十五日。

 正信会による訴訟の裁判記録には、克明に日達上人のその日の行動が証言され

ている。そこには日顕に相承する時間的余裕など、まったくなかったことが明ら

かだ。

 前夜(四月十四日)から順を追って検証していこう。

 四月十五日は日達上人の七十六歳の誕生日であった。そこで前日の四月十四日、

大坊でも法主の長寿を祝賀する会合が開かれた。

 塔中坊の住職たち、その妻、家族、大坊の所化小僧、本山関係者、また地元の

日達上人の友人、知人が集まって誕生祝賀会が催された。会場は大坊の大食堂で

あった。時間は午後五時四十五分から六時半頃までで、日達上人も機嫌よくこれ

に出席している。そして自室に戻られた。

 問題の、日顕が相承を受けたという十五日、日達上人の法主としてのこの日の

任務は丑寅勤行に始まる。

 これは広宣流布を祈願する勤行で、「毎朝」行われる。いかなる場合にも実施

されるわけである。

 本来なら丑寅の時刻であるから、午前二時から四時にわたるわけだが、日達上

人の時には、午前零時から始まることになっていた。所要時間は一時間半だから、

午前一時半に終了する。

 これは法主が主宰する法要で、日達上人は一日たりとも欠かしたことはなく、

親修、旅行、病気など仕方のない場合には、代理として高位の憎が代行すること

になっていた。

 この日は丑寅勤行が終了すると、上人は大奥に戻り、就寝された。

 四月十五日未明には、無断で入った者はいない。奥番の証言である。

 とくにこの日は行事が立て込んでいた。

 日達上人も六時半には起きていた。

 宗制宗規にも明記されているように、四月十五日は、第三祖日目上人の御講日

に当たり、御影堂において法主の導師による法要が行われるのである。

 宗規第八条による恒例行事としては毎月七日、十三日、十五日に三師報恩講が

あり、十五日は日目上人への法要になっていた。

 午前七時から始まり一時間で終わる。日達上人は仕度して御影堂まで歩いて出

仕されたのである。

 また、日達上人の誕生日でもあったため、御講終了後、塔中の住職たちはみな

大坊へ来て祝賀を述べ、日達上人もていねいにこれを受けられ、大奥に帰った。

 その後朝食をとられ、しばし休憩をとるのだが、その時間を見計らって、塔中

坊住職以外の末寺の僧侶が参上する。いずれも日達上人の弟子筋に当たる者ばか

りだ。

 この日の奥番の記録日誌によると、

「大石泰成、三宅統道、山口範道の三名で午前九時半ごろ大奥で目通り」を許さ

れている。誕生日の祝賀のためで、それぞれの寺の最近の情勢なども簡単に報告

され、十分から十五分の対面だった。

 次に賑やかな一行がやって来た。

 当時、静岡県袋井市遠信寺の住職・原田篤道で、その日、午前九時から本山の

塔中・本住坊において自らの「結納の儀」を執行した。媒酌人は日達上人の息子

の細井珪道であり、若いカップルと双方の両親、媒酌人らが打ち揃って、挨拶に

来たのである。

 奥番日誌では午前十時前になっている。

 日達上人は非常にご機嫌で相好をくずして「オー来た来た、やっと来たか」と

言われたという。

 そして当人をはじめ両親らの御礼の挨拶を受けられた。十五分後には全員退出

している。

 原田一行はこの後、午前十一時から富士宮の料亭で祝宴を開くことになってお

り、十時半には本住坊を車で出発しているので、この日の時間の経過については

よく記憶していたという。

 裁判記録には、

「仲人である細井珪道師が原田篤道師に対して、『日達上人は既にお山を出発さ

れている。今からいかに急いでも間に合わないけれども、できるだけ急がなけれ

ば』ということで、十二時前、早々と(原田の祝宴を)退席されまして東京へ向

われました。そのようなことから日達上人は午前中だいたい十一時前ぐらいには

本山を出発されているということが分かるのでございます」「細井珪道師は実の

息子さんですから、当然、細井珪道師ご夫婦も(日達師の誕生パーティーに)参

加されることになっておりました。そのような関係で日達上人が本山をお出にな

る時間をお聞きになって知って、お見えになったわけでございます」と、ある。

 日達上人は当日の夕方、東京・千代田区のホテル・グランドパレスの地下の中

華料理店「萬寿苑」で誕生祝賀パーティーを開くことになっており、「細井」の

名で予約、客は三十人であった。上人は身仕度をして十一時ごろ東京に向かっ

た。

 東京に向かった日達上人は、まず文京区西片の大石寺東京出張所に入って休憩

することになった。というのは、法主は毎早朝に丑寅勤行を執り行うため、どう

しても睡眠時間が短くなる。そこでどこにいても昼寝をする習慣があり、当時、

東京での行事に出る場合は、必ず一度、「西片」に立ち寄り、休みをとり、体調

を整えてから行くようにしていたのである。

 パーティーには家族や親戚縁者、宗門の最高幹部など三十人が出席、午後六時

から八時ごろまで行われた。

 終わって上人は「西片」に戻り、慌ただしい一日を終えたのである。翌日未明

の丑寅勤行のため無理に帰山することも不可能ではなかったが、行事が続いたた

め七十六歳という高齢を考えて大事をとり、この夜は「西片」泊まりになったわ

けである。

■奥番日誌のどこにも出てこない日顕の名前

 この奥番日誌の中に日顕の名はどこにも登場しない。彼は当時、総監で東京・

墨田区の常泉寺の住職を兼ねていた。「十五日は誕生日の祝賀言上のために本山

に行った」ということになっているが、日顕を本山で見たという者もおらず、こ

れを裏付ける資料もない。ただ一つ、日達上人の車両日報を調べてみると、なん

とその四月十五日の頁だけが紛失してしまっていたというのだ。当時の運転手は

川田法成で、その弟の川田乗善の調査で日報の紛失が判明したというのである。

この日の日達上人の車の動きなどを不明にするため、後に誰かが工作したのでは

ないかと言われている。

 日顕の主張では、この慌ただしい日に、大奥において日達上人と二人きりで相

承の「内付」が行われ、「相承の儀に関するお言葉を賜った」というが、この日

の時間の経過からみて、どこに相承という最重要の行為をする時間の余裕などあ

っただろう。

「それはおかしいですよ。四月十五日にお誕生日のお祝いに本山に行ったところ、

相承のお話があったというが、呼ばれもしないのにわざわざ本山までお誕生のお

祝いに行くのはおかしい。だって、昼過ぎには西片に戻ってくるのだから、わざ

わざ本山に出かけて行かなくても西片でお待ちすればいいし、もし、お祝いに行

ったのなら、日達上人の気性からして『じゃあ、常泉寺(日顕)、お前も来い』

と言って、夕方からのホテル・グランドパレスのお誕生会に連れて行くはずです

よ。まして”相承”していたのなら、周りに紹介するでしょう」(本山の僧侶)

 日達上人は、たとえ不始末をした僧侶を叱った後などでも、次に会食などの予

定があったりすると「お前も来なさい」という気性の方であったという。

 その日、日顕に会っていれば、必ずグランドパレスのお誕生会に連れてきたは

ずだと断言する僧侶は多数いる。

「ただ、ずーっと不思議だと思っていたのは、前年の四月十五日に相承を受けて

いたとしたら、日顕はともかく、その後の日達上人の日顕に対する対応はあまり

にも無神経です。宴会で、『オイ、常泉寺(日顕)、ひとつ歌でもうたえ』とか、

人前で平気で『オイ、お前』と呼んでいたのです。次期法主に決めていたのなら、

当然、そんな言い方はしないはずでしょう」(宗門の老僧)

 たしかに、当時は早瀬日慈が総監を辞めて、次に阿部信雄(日顕)が総監にな

ったので、「阿部の時代だ」という空気が宗内に流れていた。

 しかし、日達上人は次の法主を決めかねていたという話もある。

 宗内では「テープレコーダーより正確」といわれる河辺慈篤の直筆メモには、

五十九年十二月七日に、菅野慈雲が「(日顕の)総監決定の時に、日達上人が躊

躇されていたので、未だ相承をされていないのか、と思った」と証言したことが

明記されている。

 日顕が総監になったのは、五十四年五月七日である。もし日顕の”自己申告”

通り、「五十三年四月十五日」に相承があったとすれば、日達上人が日顕の総監

決定に躊躇する必要などあるはずがない。ところが、実際には躊躇されたので、

この時点ではまだ相承されていないと思ったというわけだ。

 ほかにも、「本当は阿部にやらせたいけど、阿部はダメだ。早瀬の子分だから」

と言い、また、「光久諦顕(当時のお仲居)にやらせたい。でも、光久はイヤだ

と言ってるんだ」と話されたこともある。

「日達上人は、『次はお前だ』と数人の人に言っているんです。こうやって、本

人の自覚をうながしていたんでしょう。でも、この”次”というのが何を指すの

か明確にはしないんです。猊下なのか、総監なのか、もっと漠然とした意味なの

か。そういう”声掛け”をなさる方でした」(本山僧侶)

 さまざまな疑惑・不信の声を浴びた日顕は、正信会事件の最中、大奥において、

本山在勤の無任所教師を前に開き直りの発言をしている。

「血脈相承をしていなければ、日達上人は宗門の後継者について考えていなかっ

たことになる。それでは法主として不適格者として上人を冒涜することだ。当然、

日達上人は生前に相承をしており、それが私なのだ」

 日達上人遷化の枕経の始まる前、西奥番室で、

「総監さん(日顕)じゃないですぅ?」

 との菅野慈雲の言葉に、

「あっ、そうか…あぁ、そうだったなーーー」

 と何とも奇妙な返答をした日顕だったがーー。

■二十三年ぶりに出てきた不可解な「証人」

 プロローグでも触れた通り、日顕は昨年夏、若手僧侶を使って「相承疑惑」に

対する反論らしきものを出している。しかし、その内容たるや、「お粗末」の一

言。結局、「昭和五十三年四月十五日の何時から」「大奥のどの部屋で」「どのよ

うにして相承を受けたか」、問題の核心部分についてはダンマリを決め込んだま

ま、「仮に真実を答えたとしても、必ず『信じられない』との難癖が返ってくる

ことは明白だから」と開き直っているのだ。機関紙「大白法」で大々的に取り上

げた割には、この歯切れの悪さはどうであろう。

 さらに驚いたのが、「相承の日」から二十三年もたって、まるで長い冬眠から

覚めたかのように、突如現れた「証人」たち。とくに、現富士学林大学科事務局

長の楠美慈調の証言は、宗内からも失笑を買った。

 反論文書によると、当時、宗務院書記として本山に在勤していた楠美は、その

日、大講堂三階の宗務院の東側端にあった印刷コピー室でコピー中に、ふと内事

部玄関の方を眺めた。すると偶然、事務衣に小袈裟を着けた日顕が内事部玄関に

入るところを目撃した、というのだ。

 しかし、まったくの門外漢ならともかく、少なくとも宗門人なら、こんな都合

のいい話を真に受ける者など百パーセントいない。

 まず第一に、なぜ今頃になって、このような証言が出てくるのか? これまで

見てきた通り、この二十三年間、問題の「相承の日」に本山で日顕の姿を見たと

いう目撃情報は、ただの一つもなかった。もちろん、楠美自身も、こんな証言は

一言もしていない。もしもしていたなら「証人」として、ただちに正信会との裁

判に出廷させていたはずである。

 また、仮に楠美がコピー中に日顕を目撃していたとしよう。それにしても、そ

の日が「五十三年四月十五日」だと、どうやって特定できるのか。まったく根拠

がない。

 さらに、楠美をよく知る僧侶から、こんな証言も届けられた。

「楠美が嘘を言わされていることはすぐにピンときました。なぜなら楠美は近眼

で、少し離れただけでも、それが誰なのか判別できない。しかも当時、メガネは

車を運転する時以外、ほとんどかけない。そんな楠美が、大講堂の三階からチラ

ッと見ただけで、それが日顕だと特定できるはずがありません」

 楠美の「偽証」は明らかだ。

 反論には、光久までもがノコノコと登場している。

 昭和四十九年一月、日顕の母親・妙修尼が亡くなる数日前に、日達上人が京

都・平安寺に妙修尼を見舞った。その際日達上人は妙修尼に対して、「あなたの

息子さんに後をやってもらうのですからね、早く良くなって下さいよ」と述べ、

それを聞いた妙修尼が感涙にむせんでいた、というのである。

 しかし、事実はまったくのあべこべであった。実は、この場での会話は、妙修

尼の方が日達上人に対し、「信雄をよろしくおねがいします」と懇願し、それに

対し日達上人が「そんなことに気を煩わさずにがんばってください」と答えたに

過ぎないのである。

 だいたい、光久は当時のお仲居である。当日の日達上人の動きを誰よりも知る

立場ではないか。その光久が当日の話をするならまだしも、その四年前の話を持

ち出して「あった」「あった」と強弁しても、説得力は”ゼロ”である。

 しかも決定的なのは、当の光久本人が日顕に対し、かつて面と向かって「四月

十五日にしていいのですか、あの日は達師が忙しい日だが」と質問していた事実

である。

 昭和六十一年十月四日の「河辺メモ」には、東京・八王子市の法忍寺住職・水

谷慈浄の証言としてこう記されている。

「光久諦顕が、かつて(宝浄寺に於て、鎌田卓道論文『相承の有無』の反論会議

の時)光久が猊下に『4月15日にしていいのですか、あの日は達師が忙しい日だ

が』と云った記憶があると云っていた」

 すなわち、水谷の言によれば、正信会の鎌田卓道が書いた「相承の有無」とい

う論文の反論を書くための会議が、教学部長の大村寿顕(日統)の宝浄寺(東京

・大田区)で行われた。その際、光久がかつて日顕に”本当に昭和五十三年四月

十五日に相承を受けたことにしていいのか、あの日は達師の誕生日で忙しく、

とても相承をする時間的余裕などなかったはずだが”と注進していたことがある

と話していたというのだ。

 当日のスケジュールを誰よりも知る人物だけに、この発言は重要だ。少なくと

もこの発言からは、お仲居であった光久をして、この日に日達上人から日顕への

相承があったと確信していなかったことだけは明白である。

 さらに、この反論には、日顕に煮え湯を飲まされたあの菅野慈雲の名前も出て

くる。

 やはり、前作で暴いた西奥番室のやりとりが痛かったのだろう。今頃になって

「総監さんじゃないですぅ?」という発言は、実際は「総監さん(日顕上人)と

伺っていましたが」という趣旨だった、などと弁明している。

 しかし、これも真っ赤な嘘。もしも本当に菅野が日顕に相承があったと聞いて

いたなら、それこそ正信会の裁判で真っ先に証言すべきであろう。日顕があれだ

け裁判で八つ裂きにされたのも、元はといえば、日顕自身の”自己申告”以外に

こうした「証人」が誰一人出てこなかったからである。

 だいたい、菅野はもともと正信会の活動家僧侶にとって後ろ盾のような存在で、

それが原因で日顕から隠居同然の”過去の人”に追いやられたはずである。

 昭和五十五年十二月十三日には、自らが住職をつとめる大宣寺で第一回の東京

檀徒大会を開催し、そこには日顕から既に擯斥処分にされた佐々木秀明、丸岡文

乗ら正信会の中心者を招いている。のみならず自分自身も登壇し、「日達上人の

御遺志に一刻も早く報いたい」などと、暗に日顕批判をにおわせる発言をしてい

る。

 日顕もこうした菅野の動きが許せなかったのだろう。昭和五十八年八月の教師

講習会では、さすがに感情を抑えきれず、公衆の面前で「少しは、大宣寺さんに

も考えてもらいたい!」と声を荒げたこともあった。

 正信会との裁判でも、菅野の発言が焦点になったことがあった。各地の裁判で、

「仲間の僧侶が菅野から『日達上人は阿部を選定していない』と聞いている」と

いう証言が続出。日顕としても、これ以上、菅野を放置しておくわけにはいかな

くなり、ついに説得の上、菅野に「そのような発言はしていない」という旨の報

告書を書かせ、裁判所に提出したのである。

 しかし、その昭和六十二年五月十六日付の報告書には、「総監さんと伺ってい

ました」などとは、どこにも書かれていない。それどころかむしろ逆に「(昭和

五十三年六月二十五日に日達上人がある信者に)『次は阿部に譲るつもりでおり

ますので宜しくお願いします』と挨拶され(中略)その場に私も同席していた」

などと、問題の「五十三年四月十五日」から二か月以上もたった時点で、まだ日

達上人が「譲るつもり」という不確定な状況であったことを浮き彫りにしてしま

ったのである。

 ちなみに当時の日顕がいかに菅野の存在に神経を尖らせていたか、渡辺慈済住

職がこんな証言をしている。

「昭和六十三年頃のこと、突然、日顕から連絡があり、『菅野がいまだに正信会

の連中と行き来があるのか。お前、友達だから早瀬義寛(現庶務部長)と一緒に

聞いてこい』と言うんです。なぜ急にそんなことを言い出したのか、不審に思い

ましたが、仕方がないので菅野と都内のあるホテルで会いました。菅野は『そん

なことはない』と言うので、早速、日顕にその旨、報告すると、日顕は『じゃ、

大丈夫だな』と安心した様子でした」

 裁判の報告書だけでは物足りず、こんな姑息な手まで打っていたのだ。

 いずれにせよ、菅野と親しい人物が、かつて菅野からこう聞かされたことを明

確に記憶している。

 「日達上人は相承をしていないんだよ。もし、していたら私か知っているよ」

 これこそ、まさしく菅野自身の偽らざる本音であろう。

 こうしてみると、昨年夏に宗門が出した反論は、光久のものにしろ、菅野のも

のにしろ、ことごとく「偽証」で塗り固めたものであることは明白である。その

証拠に、この反論が出てから二か月後、日顕は菅野(日龍)、光久(日康)の二

人を、能化に登用している。能化昇進を餌に、「偽証」を強要する阿部日顕。そ

の狼狽ぶりは、滑稽を通り越して哀れですらある。

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