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第三章 河辺メモの”告発”

■戒壇の御本尊を「偽物」と断定

 日顕の盟友・河辺慈篤が昨年十一月十日、七十二歳で死去した。

 本書でも度々引用している通り、「メモ魔」で知られる河辺のメモは、これま

でも数多くの日顕の悪事を暴き、宗内を震撼させてきた。その最たるものが、い

わゆる「C作戦」についてのものであった。

 平成二年七月、六人の僧侶を集めて二度にわたって行った謀議の中で、日顕自

身が池田名誉会長を追放せよと激しい口調で述べていたこと、また、学会を切る

この謀略を「C作戦」と命名したのも日顕であったことなどが、メモによって暴

露されたのである。

 さらに宗内を根底から揺さぶったのが、平成十一年七月七日、我々が発行する

「同盟通信」がスクープした「河辺メモ」である。驚いたことに日顕は、登座前

年の昭和五十三年二月七日、宗旨の根幹であり、本宗の命脈であるはずの「戒壇

の御本尊」を、こともあろうに「偽物」と断じていたことが判明したのである。

メモの内容はこうだ。

S53・2・7、A面談 帝国H

一、戒旦之御本尊之件

  戒旦の御本尊のは偽物である。

  種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)

  多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の

  題目と花押を模写し、その他は時師か有師の

  頃の筆だ。

  日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている

一、Gは話にならない

  人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の

  事ではGでは不可能だ。

一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻

  るだらうと云う安易な考へを持っている

  ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の

誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して

購入したもの。(弘安三年の御本尊)

この中に出てくる「A」とは阿部(日顕)、「帝国H」とは東京・千代田区の帝

国ホテル、「G」とは「猊下」の頭文字で、当時の法主・日達上人をさす。筆跡

といい、内容といい、主観や感情を交えず、核心の事実のみを冷徹に記載してい

く独特の文体は、河辺以外になしえるものではない。それは、河辺自身をして、

常々、「ワシのメモはテープレコーダーと同じくらい正確だ」と言わしめている

ほどである。特に「戒壇の御本尊」に関する内容は、極めて具体的で、そのあま

りのリアルさに誰しも我が目を疑った。

 しかも、「筆跡鑑定」「字画判定」等の記述からして、日顕が当時、それなりの

手を尽くした上で「偽物」と判断したのであり、それが単なる思いつきや、漠然

とした感想、あるいは疑惑にとどまらぬ、まさに日顕独自の”持論”であること

は明白であった。

 メモにある「日禅授与の本尊」とは、大聖人が弘安三年五月九日、少輔房日禅

に授与した本尊のこと。日禅とは、日興上人が選んだ六人の高僧の一人で、大石

寺の南之坊を開いた人物である。

 日禅授与の本尊は一旦紛失後、天文八年(一五三九年)頃、北山本門寺が所蔵。

明治四十三年六月、売りに出されていたところを、東京・法道院の開基である五

十六世日応上人が買い、以後、法道院に置かれていた。そして昭和四十五年三月

二十五日、法道院から大石寺に納められた。こうした経緯は、身延系の他山・他

門では到底、うかがい知れず、大石寺の事情に精通した者でなければ、言及し得

ない内容だ。それもそのはず、この本尊が、大石寺に納められるときに立ち会い、

検分をしたのが、誰あろう教学部長の日顕だったのである。

「戒壇の御本尊」とは、宗祖日蓮大聖人が弘安二年十月十二日にお認めになった

出世の御本懐である。ゆえに二祖日興上人も三祖日目上人への譲状「日興跡条条

事」の中で、「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」と仰せられ、

日寛上人も文段で、「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐

の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故

なり」と仰せになっているのである。

 それに対し、幕末以降、他山・他門、ことに興門派、要法寺、北山系および身

延系から出たのが、戒壇の御本尊が「偽作」であるとする説だ。この邪説に対し、

大石寺の歴代法主は大聖人、日興上人等の仰せを通して、明確に破折してきた。

特に安永弁哲の邪義邪説に対しては、先師日達上人が「悪書『板本尊偽作論』を

粉砕す」で、完膚なき反駁を加えた。

 しかるに日顕は、本宗にありながら大御本尊に疑念を抱き、畏れ多くも戒壇の

御本尊を鑑定にかけた上で「偽物」と断定していたのである。他門ならいざ知ら

ず、歴代で宗旨の命脈を「偽物」呼ばわりしていた者など、あろうはずがない。

 さらに注目すべきは、その後に続く「Gは話にならない」との記述である。

 この発言からほぼ二か月後の「五十三年四月十五日」に、日顕は日達上人から

相承を受けたと”自己申告”している。わずか二か月の間に、日顕の日達上人に

対する認識が改まったとでもいうのであろうか。答えは「ノー」である。

「相承の日」からわずか一か月半後にも日顕は、工藤玄英、大橋正淳の両住職に

対し、以下のように語っている。

「ワシも(日達上人に対抗して)仲間を募ってやろうと思ったが、宗内を二分し

てしまう。こういう時は何もしないほうがいいんだ」

要するに、「相承の日」の前であろうが後であろうが、日顕の認識は変わって

いない。口では「信伏随従」を説きながら、自らの日達上人に対する思いは一貫

して批判的なのだ。

片や日達上人は日達上人で、そんな日顕の心根を見透かしてか、日顕のことを

まったくといっていいほど信用していなかった。

 当時の宗門をよく知る、ある関係者は証言する。

「昭和五十三年の三月頃のことだと思います。当時、日顕は”法華講を大事にし

ない”という理由で法華講幹部から突き上げられていたんです。ある日、連合会

委員長の佐藤悦三郎(当時)らから、その状況を聞いた日達上人が内事部の事務

所で、『阿部はとんでもない、よく言っておこう』と強い口調で語っていました。

その姿は、誰が見ても日達上人が日顕を信順しているという様子ではありません

でした。まして、その一か月後に相承があったなんて考えられません」

 同様に日達上人が、「阿部はダメだ」「阿部は信用できない」などと発言したの

を聞いたという僧侶もいる。

 また、その年の夏、日達上人は「跡がいないんだよ、跡が……」と後継者を決

めかねていた胸の内を周囲の親しい人に漏らしている。

 さらに、もし日達上人が日顕に相承したのなら、亡くなるまで一年余の間に、

なぜ日顕を能化にしなかったのか、という疑問も残る。明確に次期法主と決めて

いたなら、後に混乱を残さぬためにも、能化にするのが当然であろう。ところが

日達上人は、とうとう御遷化されるまで日顕を能化にしなかったのである。

 もし、それでもなお日達上人から相承があったというのなら、大石寺の師資相

承など、これほどいい加減なものはないということになる。「師資」とは師弟で

はないのか。その弟子が師匠を批判したうえ、相承される法門そのものまで否定

する。これでは、「唯授一人」もへったくれもない。まさに宗門そのものが、土

台から瓦解してしまうのだ。

■弱味を握られ河辺に屈服

 河辺メモが発覚するや大慌ての日顕は、七月九日、十日と立て続けに「宗務院

通達」を連発した。同盟通信が出たのは七月七日。それから、わずか二日後、三

日後のことである。日顕の動揺、狼狽が手に取るように伝わってくる。

 あまりのショックに思考停止、錯乱状態に陥った日顕は、まず九日付「通達」

で取り返しのつかぬすり替えをしてしまった。メモの内容を「外部からの疑難」

を説明したものと釈明したのである。

 ところが、そんな疑難など、当時、どこにも存在していない。

 だいたい、メモに「種々方法の筆跡鑑定の結果解った」とあるが、外部の人間

で「戒壇の御本尊」と「日禅授与の本尊」を筆跡鑑定できる者など誰もいない。

いたなら、その人物の名前を特定し、公表すべきであろう。

 ちなみに、この点については、通達から三年も経った昨年六月になって、

”疑難の主とは、当時宗内にいた後の正信会僧”などと、とってつけたような辻

褄合わせの作り話が宗内に出回った。まさか宗門の公式見解ではあるまいが、こ

れとて理屈はまったく同じ。二体の御本尊の照合を思いつき、実際に鑑定できる

者など、宗内でもごくごく一部に限られている。後に正信会に走った僧で、それ

が可能な者など誰一人いないのである。

 初めの一歩からつまずいた日顕だが、翌十日付の「通達」は、それにさらに追

い打ちをかける。

 無責任にも日顕は、筆者の河辺にその責任をすべて押しつけ、”メモは私の主

観”であり、”記録ミス”だと認めさせて謝罪させたのである。

 「主観」も何も、河辺本人が御本尊を鑑定できる立場にないのだから、こんな

「主観」を開陳できるはずがない。”記録ミス”との弁明にしても、もしそれが本

当なら、日顕の「どのような発言」を「どのように記録ミスした」のか、その点

をはっきり示すべきであろう。

 事は戒壇の御本尊に対する疑難である。通り一遍の謝罪ですむような話ではな

い。

 しかも、その河辺の謝罪自体が、まったく本心ではなかったことが、他ならぬ

河辺自身のメモ、それも謝罪が出た前日を意味する「7/9」の日付が入ったメ

モによって明らかになった。

 宗内からの情報によれば、この問題が発生した七月七日晩から、河辺は自坊か

ら姿を消して、九州方面に潜伏している。そして九州の某ホテルにおいて、ちょ

うど九州・開信寺の法華講対策で出向いていた総監・藤本日潤、庶務部長・早瀬

義寛、日顕の息子・信彰の三名と合流する。

 メモは、その話し合いを前に、河辺が自らの身の処し方を分析したものと思わ

れる。

 内容は以下の通り、極めて簡潔だ。

メモの件

 1、当局の云う通りやるか

 2、還俗を決意して思い通りでるか

 3、相談の結論とするか、

 7/9

 自坊tel

 宗務院より「河辺の勘違」

 とのFAX(宗内一般)

 @の「当局の云う通りやるか」は、河辺らしく日顕の出方を冷静に分析した表

現。

 Aの「還俗を決意して思い通りでるか」は、日顕への対決姿勢を想定したもの。

宗内には、息子・正信、娘婿・金塚義明もいる。それでいながら「還俗」をシミ

ュレーションするとは、かなりの腹の括り方だ。よほどの攻撃材料を用意してお

り、いざ日顕と対峙しても優位に立てるという自信、あるいは余裕すら読みとれ

る。

 Bの「相談の結論とするか」は、まさしく、日顕と河辺が行き着いた対応策を

そのまま裏付けるものだった。

 つまり、いかにも恭順を装った十日付の「通達」は、河辺の本心から出たもの

ではなく、宗務当局との「相談」のうえで出したものだったのである。

 見返りは、北海道・日正寺の住職から東京・新宿の大願寺住職への”栄転”。

 何とか自分の体面を傷つけないように、表向きは河辺に責任をとらせ、裏で

は口止め工作のこの厚遇。姑息で陰謀好きの日顕らしいやり方だ。

 しかし、事は宗旨の根本にかかわる問題である。ここまで宗内を混乱させてお

きながら、「厳重処分」ならいざ知らず、”栄転”では宗内も納得するわけがな

い。

 日顕の意に反して事態はますます紛糾し、ついに八月には広島・善聴寺の藤田

雄連師、九月には神奈川・大円寺の佐藤伴道師、十一月には鹿児島・蓮秀寺の山

根雄務師が宗門から離脱、我々同盟に加わったのである。

 結局、河辺を処分できなかった日顕だが、最近、この問題にまつわる新しい事

実が判明した。実はこれ以前にも日顕は、同じメモをネタに河辺本人から脅され

ており、何とその際、河辺の靴底をなめた苦い経験があるというのだ。

 日顕登座直後の昭和五十四年十二月、日顕が早瀬義孔を庶務部長に抜擢したの

に腹を立てた河辺が、その日顕を自分のところ(徳島・敬台寺)に呼びつけ、”メ

モをマスコミに発表する。「『戒壇の御本尊のは偽物』と日顕が言った」と、記者

会見を開いて、大々的に宣伝する。それとともに、猊座乗っ取りの真相もばらす

ぞ”と恫喝したというのである。

 その背景には、こんな出来事があった。

 義孔は、早瀬日慈の弟子である。この義孔を庶務部長につけるにあたり、日顕

は石井信量に車を運転させ、池袋の法道院まで出向いて、日慈に「常在寺(義孔)

を庶務部長にしたいのだが」と、事前に話を通しに行った。日慈をだまし討ちに

して登座した、日顕の後ろめたさを象徴しているが、ところが、これが河辺には

気に入らなかった。というのも、それまで日顕は、何事についても、河辺に相談

をして、事を進めてきた。ところが、この義孔の人事については、河辺には一言

も言わず、日慈のところに相談に行った。後になって、それを聞きつけた河辺が

怒って、わざわざ徳島まで日顕を呼びつけたというのだ。

 日顕と河辺の”関係”を物語る話だ。しかし、河辺は、「偽物」発言だけでな

く、相承についても日顕の弱みを握っていることになる。

 日顕を恫喝した河辺は、その場でさらにこう言い放った。

「じゃかましいっー ワシが全部、お前に教えてやったろうが。いわば、お前の

御師匠さんやで。『御師匠さん』と呼べ!」

 そして、しばらくの沈黙の後、日顕の口から出た言葉が何とーー

 「御師匠さん……」

 何とも情けない話だが、これではメモ流出で、日顕が河辺を処分できないのも

当たり前。それこそ、河辺に還俗覚悟で思い通り出られては、自分の”政治生命”

は完全に断たれてしまう。河辺を「御師匠さん」と仰がざるを得ない日顕にして

みれば、河辺の大願寺栄転は、”口止め料”として当然の帰結であった。

■山口範道師の重大証言

 河辺メモの波紋は、さらに広がる。

 日顕の姑息なやり方が許せなかったのだろう、いかにも感に堪えないといった

口調でこう切り出した人物がいた。

 「これで、猊下は河辺メモの問題に蓋をするんだな」

 発言の主は、昨年末に亡くなった山口範道師。宗内にあって長年、古文書も含

め、御本尊の研究に勤しんできた人物である。メモの当時、日顕が教学部長だっ

たのに対して、山口師は富士学林図書館長。史料の専門家であった。

 山口師は、河辺メモの背景、特に、そこに出てくる「日禅授与の本尊」につい

て、言葉を選びながら、以下のように証言した。

「昭和四十五年春、日禅授与の本尊が法道院から本山に納められる直前、今の日

顕猊下に京都の平安寺に呼ばれて、二泊三日滞在した。その時猊下が、写真を見

せてくれた。大キャビネのカラー写真だった。猊下は大変にご満悦で、写真を手

にしながら『どうだ、君、素晴らしいだろう』と何度か言い、『これが今度法道

院から山に入るんだ』と、私にその写真を手渡して見せてくれた。私はそれを見

て、『あー、素晴らしいですね。これは本物ですね』と言った」

 日顕は日禅授与の本尊の写真を持っていたーーこの証言は非常に重大である。

 何しろ、戒壇の御本尊と日禅授与の本尊の照合を思いついた者は、二体の御本

尊の両方を間近に拝し、熟知している人物でなければありえないのだ。

 ところが日顕は、すでに昭和四十五年当時から日禅授与の本尊の大判のカラー

写真を所持していたというのである。これさえあれば、大御本尊の筆跡との照合

も可能になる。

 山口師の証言はさらに続く。

「日禅授与の本尊が実際、東京・法道院から大石寺に奉納される時、日顕猊下を

中心とした役員三人が立ち会い、日禅授与の本尊を検分した」

 確かに宗門機関誌『大日蓮』(昭和四十五年五月号)には、日禅授与の本尊が

本山に納められた直後、四月七日の虫払法要で初めて宗内にお披露目された際、

この本尊の説明を当時の阿部教学部長が行ったと記録されている。

 そして、証言はいよいよ核心部分、誰が御本尊の照合を思いつき、筆跡鑑定な

どしようとしたのか? 山口師はこう断言する。

「河辺メモが記された昭和五十三年当時、宗内で、御本尊を鑑定できるのは日顕

猊下だけだ。猊下はずっと前から御本尊の鑑定を専門にやってきているんだ」

 長年御本尊の研究をずっとやってきた山口師の証言だけに、これはもう決定的

だ。

 事実、日顕は昭和三十八年、東京・本行寺から京都・平安寺に移った頃から、

御本尊の鑑定等の研究を続けてきているという。以来、河辺メモに記された帝国

ホテルの面談まで約十五年。その間、宗内では、御本尊の鑑定ができるのは日顕

以外にいないと目されるようになっていたのである。

 「種々方法の筆跡鑑定の結果解った」

 「日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」

 こんな発言ができるのは、外部でも、内部で後に正信会に走った者でもない。

紛れもなく日顕以外にいないのだ。

 戒壇の御本尊を「偽物」と断じたのは、間違いなく阿部日顕その人である。

■メモで再現された”西奥番室”

 さて、日達上人逝去直後の西奥番室でのやりとりは、その片鱗が「河辺メモ」

からもうかがえる。

 昭和六十二年五月十六日、河辺が秋元広学渉外部長と電話でやりとりした中で、

その問題の場面が出てくるのだ。

(昭和62年)5・16

  秋元部長、河辺通話(15日通話を確認するため)

秋元=1、菅野から事情聴取をするのは、秋山徳道証言を弾該するため

   2、正信会は、この菅野の話による「日顕上人には相承がない」という

   原田知道の話をフクラマしてくる。

   以上の事から、今日、菅野と会い、若し菅野がそれを認めれば、この間

   の大願寺で打合せたように菅野を首にする肚だ

河辺=基本的には、菅野に聞く事は反対。それは結果によくない。俺なら無視

   していく。ヤブヘビの恐れがある。

秋元=猊下の話として、54年7月22日、達師の枕経の直後、藤本総監、細井珪

   道、菅野慈雲の居る場で、猊下が菅野に『何か達師から聞いているか』

   の話の事もあるので。

 メモで「枕経の直後」となっているのは、「枕経の直前」の誤りと思われる。

 このメモが書かれた昭和六十二年当時は、正信会との裁判が大きなヤマを迎え

ていた。メモにもある通り、秋山徳道をはじめ、各地の裁判で正信会が、菅野が

原田に「日達上人は阿部を選定していない」「日顕は相承を受けていない」と言

っていたと証言したのである。正信会は、この原田の話で裁判に勝てるかもしれ

ないと踏んでいた。つまり、発言の主として名指しされた菅野がどう出るか?

誰もがこの一点に注目していたのである。

 そこで、裁判担当の渉外部長・秋元広学が、菅野に事情聴取をすべきか否かで

河辺に意見を求めたのがこのメモというわけだ。

 日顕の相承の秘密を握る河辺が、菅野の事情聴取は「ヤブヘビ」になるから無

視せよと反対しているのは興味深い。一方、秋元は、それとは逆に事情聴取の必

要性を感じているのだが、その理由としてあげているのが「猊下の話」。すなわ

ち日顕自身から聞いた話として、例の西奥番室で日顕が菅野ら遺族に「あと(相

承)のこと、君たち聞いてるか?」と尋ねた事実を問題にしているのだ。

 このメモは大変に重要である。つまり、日達上人の逝去直後、日顕と菅野の間

で間違いなく件のやりとりがあったことを証明するとともに、何よりそのことを

日顕自身が相当まずいと認識しており、それを聞いた秋元、さらにはメモに残し

た河辺も頭を悩ませていたことを物語っているのだ。

 さらに別の河辺メモには、相承をめぐる日顕自身の発言も記されている。

 大方、「五十三年四月十五日」の作り話だけでは心もとなくなったのだろう。

昭和六十一年二月十一日の河辺メモによると、目通りに来た河辺に対し、こんな

ことを言い出している。

 「お前だけに云っておくが、相承は昭和五十三年四月十五日と合せて二回あっ

た」

 何が「合せて二回」であろうか。これではまるで、ローン相承、分割相承では

ないか。そもそも本当に二回あったのなら、なぜ河辺にだけ教えるのか。その二

回目がいつなのか、宗内に公表し、裁判所にもその旨、陳述書を提出すべきであ

る。

 ところが日顕は、結局、何もできなかった。これなど、「一つ嘘をつくと次か

ら次に嘘をつかなければならなくなって本当に苦しくなる」とのかつての自身の

説法を、身をもって証明しているようなものである。

■「アレは除歴しなきゃならん」

 こうして「河辺メモ」を詳細に検証していくと、いかに日顕の相承が嘘で塗り

固めたものかよく理解できる。これだけ日顕の弱味を握っていれば、日顕に対し

て「『御師匠さん』と呼べ!」などと高圧的に出れるのも、充分得心がいく。”影

の総監”あるいは”裏猊下”の異名もハッタリではない。

 その河辺について昨年暮れ、追悼談として聞き捨てならない話が同盟に寄せら

れた。実は、日顕すら知り得なかった相承の中身を、河辺がつかんでいたという

のだ。

 話はこうだ。昭和十五年に出家した河辺だが、大石寺の所化になった河辺の師

僧は、あの戦前戦中を通じて軍部政府に迎合し、御書削除、御観念文の改変、神

宮遥拝、神札受諾等々、数々の大謗法を犯した六十二世鈴本日恭上人だった。そ

の後、河辺は日恭上人が死ぬまで、その奥番を務めることになる。

 そして、終戦直前の昭和二十年六月、大石寺大坊から出火した火災により、日

恭上人は焼死する。その際、当時現場にいた河辺が、ドサクサ紛れに日恭上人の

手元にあった大きめの「茶巾袋」を持ち出した。そこには、日恭上人が所持して

いた書き物など大切な品々が数多く入っていたという。

 河辺はこれをダシに、日顕に法主としての作法について教えをたれ、日顕は日

顕で相承を受けていないものだから、何かあるとすぐに河辺に聞くという関係が

できあがったのだ。

 「日顕に御本尊の書写の仕方を教えたのもワシだ」

 こう言ってはばからなかった河辺だが、ある時など、「どうもワシが教えたの

と違う」と、日顕書写の本尊を公然と批判したこともあったという。

 さらに衝撃的なのが、平成四年、「C作戦」の内容が発覚した直後の教師講習

会の折の河辺の発言である。

 こういう時の河辺は、必ずといっていいほど日顕のつまらない講義をサボつて

大講堂のロビーに下り、タバコを一服している僧侶数人を相手に説教をたれる。

その日も三浦接道(宮城・広安寺)らを前に一席ぶった。その中で河辺は、耳を

疑うようなことを口走ったというのだ。

 「アレ(=日顕)は除歴しなきゃならん。六十七世はいないんだ!」

 日顕の裏の裏まで知り尽くした河辺の発言だけに、「除歴しなきゃならん」「六

十七世はいないんだ!」との言はずっしりと重い。

 今、改めて問いたい。「六十七世」を詐称する阿部日顕とは、いったい何者な

のか、と。

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