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第四章 山崎正友との結託

■日顕を罵詈罵倒した”山崎語録”

 日顕の相承問題を語る上で、もう一人、欠くことのできない人間がいる。元弁

護士・山崎正友の存在である。そもそも、日達上人から日顕への相承に、いの一

番に「疑義あり!」と難癖をつけたのが、ほかならぬ山崎であった。

 日顕登座後、宗門乗っ取りを目論む山崎は、日顕の籠絡に血道をあげる。とこ

ろが、その画策は失敗に終わり、昭和五十四年九月、山崎は日顕から「大嘘つき」

と面罵され、本山出入りを禁止された。その際の「あの野郎!」「ふざけやがっ

て!」「畜生!」を連発した山崎の激高ぶりは、今でも語りぐさだ。

「俺は頭に来たよ。こうなりゃ俺も命がけだよ。俺は徹底してやってやるよ。あ

の野郎!」

「阿部が俺に向かって、『あんたは大嘘つきだ。あんたを絶対に信用しない』っ

て、さんざん罵ったよ」

「阿部の野郎、俺に対して『こちらからいいと言うまで、本山に来ることはまか

りならぬ』だってさ」

「俺は、あの野郎のきのう言ったことを絶対に死ぬまで忘れないよ。あの野郎を

必ずブッ殺してやるよ。絶対に仕返しするよ。今に見ていろってんだ」

 等々、ものすごい剣幕で仲間に怒鳴り散らしたという。

 そして、当時の『週刊文春』。

「宗内で一、二を争う遊とう児」

「独裁者ぶりを発揮して、『宗門に民主主義は不要』とうそぶいている」

                      (昭和五十五年十月三十日号)

「まことに信仰心のうすい、功利主義の権化」

「およそ法主にふさわしくない野心家であり、乱れた生活」

「歴代御法主の御高徳な姿に比べて、余りにかけはなれた行態」

「私生活はゼニゲバであり、遊興以外の何ものでもない」

                       (同五十六年二月十二日号)

 などと、悪口雑言の限りを尽くした。

 問題の「相承疑惑」についても、

「近年では、御相伝の事は、後世に疑いをのこさぬために明確かつ公然と行われ

ている。もし、日達上人が、御在世中にその事を行われていたならば、必ず公表

されておられるはずである。ただちに法主の座を譲られぬ場合でも、あらかじめ

定めた次期法主を学頭職につけられるのが、伝統である」

「日達上人は、事実上の”指名”なり、心づもりなりを周囲の人に話されたこと

はあるが、”御相伝”そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見

た人は、だれもいなかった」          (同五十五年十一月二十日号)

「ルールを無視して、何と、『だれもしらぬうちに、一年前にゆずられておった』

という本人の申し立てだけでバタバタと決まってしまったといういいかげんさ」

「日達上人の亡くなられた後のドサクサまぎれに、阿部日顕が、『俺がなる』と

いっただけで決まってしまった」

 「あらゆる状況ーー前後を通じてーーからみて、阿部日顕は、相伝を受けている

とは考えられず、また、宗規にてらしても、違法である」                                    (同五十六年二月十二日号)

 と言ってはばからなかったのである。

 昭和五十六年一月には、山崎に踊らされた百八十名に及ぶ僧が、日顕を相手に

「代表役員等地位不存在確認請求訴訟」を起こし、ついには、百六十名に及ぶ僧

が宗門追放という前代未聞の不祥事に発展した。

 このいわゆる正信会問題の陰の首謀者こそ、山崎正友だったのである。

■「地獄へ何回堕ちても足りない」

 日顕自身も昭和六十年三月三十日、非教師指導会で山崎について次のように言

っている。

「山崎正友の行ったすべての考え方なり、その行為・行動というものは、仏様の

眼から見るならば絶対に許されるべきでない、もっと大きな罪がーー地獄へ何回

堕ちても足りないほどの罪が存する」

「昭和五十四年の九月に、山崎正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であると

いうことを見抜いて『あなたは大嘘つきである』ということをはっきりと言いま

した」

 よほど相承を否定され、宗内を撹乱されたことが悔しかったのだろう。「地獄

へ何回堕ちても足りないほどの罪」の一言に、日顕の山崎に対するすさまじいば

かりの恨みの深さがにじみ出ている。

 その怒りは、登座後、八年たってもおさまらない。

 昭和六十二年四月二十九日の河辺メモには、「河辺お目通り」として、次のよ

うな記述がある。

「猊下=常泉寺時代、台所の湯沸器の事故があった。山下釈道が彼女と逢引して

いて助ったが、今でも此の事故は、山友、菅野の仕業と思っている」

 要は、日顕が常泉寺の住職だった時に、台所で、あわや大惨事につながるとい

う湯沸かし器の事故があった。

 たまたま、在勤者の山下釈道が女性と逢い引きしていて異常に気づいたため事

なきを得たのだが、日顕は、この事故を単なる事故とは受け止めず、「山友、菅

野の仕業」、すなわち山崎と菅野による”日顕暗殺計画”だと、ずっと思ってき

たというのだ。

 先にも触れた通り昭和六十二年といえば、ちょうど正信会との裁判で菅野発言

をめぐり、日顕が窮地に追い込まれていたということもあろう。しかし、八年も

九年も前の湯沸かし器の事故まで、山崎と菅野のせいにするなど、もはや病的で

ある。

 まさに山崎正友こそ、日顕にとっては「不倶戴天の敵」。自分の血脈相承を否

定した張本人だったのである。

 ところが、その山崎に対して日顕は、「C作戦」を発動した直後の平成三年一

月初頭、「あの時は嘘つきと言って悪かった。かんべんしてください」と頭を下

げたのである。宗祖日蓮大聖人仰せの「大慢のものは敵に随う」とは、まさしく

このことだ。

 しかし、当時の山崎といえば、恐喝事件で最高裁から懲役三年の実刑判決が下

る、まさにその直前である。

 そのような犯罪者に、人の生きる道を説くべき僧侶、それも信徒に「現代の大

聖人様」と崇めさせている一宗のトップが詫びたのだ。常識では、到底、考えら

れない愚行である。

■日顕宛の山崎「謀略書簡」

 日顕と山崎の結託は、ちょうど前著『法主の大陰謀』の発刊(平成六年十二月

二十日)と前後して明らかになった。

「同盟通信」(十二月二十二日付)で報じたが、同年十二月十日、大石寺の富士

見庵で山崎と総監の藤本日潤、渉外部長の秋元広学が極秘会談を行っていたこと

が発覚したのだ。

 まさかまさかの極秘情報に、「猊下ご乱心!」「すわ正信会復帰か?」等々、

様々な憶測が飛び交い、暮れも押し迫った宗内はたちまち大混乱に陥った。それ

ほど、宗内は山崎を忌み嫌っていたのである。さる情報筋からは、こんな弱気な

本音も漏れ伝わってきた。

 「極秘会談に信憑性はあるが、今回の情報だけは虚報であってほしい……」

 しかし、そんな願いも空しく、年明け早々、「中外日報」(一月七日付)が、山

崎直筆の日顕宛「謀略書簡」をスクープした。もはや日顕と山崎の結託は明白で、

波乱含みの年明けに宗内は戦々恐々。まるで疫病神に取り憑かれたかのように、

誰もが宗門の行く末に暗澹たる不安を覚えたのである。

 この「謀略書簡」は、山崎が仮出所した平成五年四月二十七日の直後から日顕

宛に送られており、現在までに五通が確認されている。

 一読して、驚くのは、百八十度豹変した山崎の日顕評である。

「御法主上人猊下の御英断と、歴史的な御振舞いにつきましては、心より讃嘆申

し上げる」

「御法上人猊下の御慈悲により、富士の清流がたもたれたことを、後世の僧俗方

は、感謝されることでありましょう」

「人格高潔な方ほど、苦痛を味わされるものです」

「御法主上人が、一段と高いお立場に立たれ、より多くの人達を救済せられよう

と念願しておられる御心がわかるような気がしております」

 等々、いかにもへりくだって、歯の浮くようなお世辞を並べている。

 いったい、いつから山崎にとって日顕は、「人格高潔な方」になったのか。

 前述の通り山崎は、「文春」誌上で日顕のことを「遊とう児」「独裁者」「功利

主義の権化」「野心家」「ゼニゲバ」等々、散々罵倒し、ご丁寧にも日顕をよく知

る僧侶の証言まで、次のように紹介している。

「俺も、あの人とは親友でたいていの遊びは俺が教えたが、女遊びだけは、生ま

れつき、あいつの方が上手だった」

「日開(日顕の父親)が亡くなったとき、日顕は、吉原にいつづけをしていた。

吉原から帰ってみると、親父の上人が死んでいて、大さわぎだった」

「熱海に愛人が出来て、女房と離婚していっしょになるとさわいだことがあった。

止める母親の尼に”くたばれ”と乱暴を働き、たまりかねて、尼は何か月も家出

をしていた。金がなくなると、先輩の寺に朝早く来て、門前で無心して行った。

はなれたところの電柱のかげで、女がかくれて待っていたよ」

「この愛人のことは、最近まで、”良い女だった”とおしそうにいっている」

「京都の平安寺にいる間も、神戸の福原、大阪ミナミのピンクサロン、生駒の岡

場所などへ毎日のようにくりこんでいた。弟子と同じ女を相手にしたこともあ

る」

「地方に法要に出たあと、夜は必ず遊びに出るので、女房が心配でたまらず、法

主になったあとは、必ず同行するようにしている」

 率直に言おう。日顕の行躰は、昔も今も、ちっとも変わっていない。否、むし

ろ登座後は、その「ゼニゲバ」「遊興」「乱れた生活」「独裁」「乱暴」は、ますま

すエスカレートしたことは、拙著『法主の大醜聞』『法主の大悪行』にも詳しく

書いた。

 実に嘆かわしいことだが、御開山日興上人が「二六の掟」に定められた「先師

の如く予が化儀も聖僧為る可し」の条文は、日顕という腐敗堕落の権化によって

完全に泥まみれにされたのである。この行躰面から見ても、日顕の法主失格は誰

の目にも明らかである。

 それを百も承知でシャーシャーと美辞麗句を並べるとは、やはり山崎という男、

天性のペテン師と言うほかあるまい。

■取り引きされた「血脈相承」

 問題は、かつて日顕の血脈相承に疑難を呈した「文春手記」である。この「手

記」について山崎は、日顕宛て「書簡」の中でこう書いている。

「私は、今、御相伝について、信じております。その点については、御疑念をお

払い下さるよう、伏してお願い申し上げる次第です」

「私が、かつて週刊文春誌上に指摘しました御相承に関する疑難につきましては、

これをそのまゝにして置くことは後世に混乱を残し、又、私自身の信仰上あって

はならぬことだと充分に心得ております」

 信心の「し」の字もない謀略家の山崎が「信仰上あってはならぬ」云々とはお

笑いぐさだが、これがまったくの大嘘で、この時点においても山崎が日顕に相承

などあるはずがないと踏んでいることは、同じ「書簡」の以下の下りに明白だ。

「ことが重要でありますだけに、手順方法、論法を誤れば、新たなる混乱と取り

かえしのつかぬ禍根を残しかねません」

「書いた内容は、調査で判明した事実の四割にすぎません。のこりは、反論や、

名誉毀損の訴えがあったときにそなえ、手の内にとっておいたのです」

「私の書いた手記は、簡単に、抽象的な否定行為で消せるような内容のものでは

ありません。仮に私がそれをすれば、正信会サイドから、私の裏切りに対する非

難だけでなく、残りの六割の資料によるきびしい反論が行われるでしょう」

 つまり、かつての「文春手記」には相当の裏付けがあるし、そのうち公表した

のは「四割」にすぎない。まだ表に出していない調査事実が「六割」あり、事と

次第によっては、正信会側から激しく反論されるぞと脅しているのだ。

 おだてたり、すかしたり、さんざん日顕の心を揺さぶった上で山崎は、この相

承問題を解決するための具体的な「手順方法、論法」を示す。

「まず、正信会、宗門双方、現時点において訴訟をとり下げる」

「正信会僧は、復帰をのぞむ者は受け入れ、そうでない者は、寺ごと単一独立を

認めてやる」

「次の段階で、宗門より、五五年の処置について一言言及なされ、同時に、改め

て御相承の経過について公式に発表していたゞきます。日時、場所、いきさつ、

お言葉の内容、証人がいればその証言、そして重役会議の内容等です」

「過去にも、御相承にかゝわる争いはなかったわけではありません。お大事の中

味についてはもちろん秘伝ですが、その経緯については、常に御宗門で明らかに

なされ、説明されています。それは、人間社会の常識であります。地位の主張は、

主張する者によって立証されるべきものです」

 要は、相承の経緯を改めて公表し、破門した正信会と和解せよというのだ。

 注目すべきは、その相承の経過について、「日時、場所、いきさつ、お言葉の

内容、証人がいればその証言」等を公表せよと、無理を承知で日顕に詰め寄って

いるところ。

 これまでに公表された、相承の経緯に関する日顕の発言といえば、日達上人が

亡くなった昭和五十四年七月二十二日、緊急重役会議の場で行った”自己申告”

のみ。

 それ以上は、正信会との裁判の場ですら、経緯も、日達上人のお言葉も、まし

てや証人など、一切公表していない。

 無理もない。相承の事実がない以上、公表などできっこないのである。

 その意味で、以下の山崎の記述は大変に興味深い。

「発表の仕方、内容については、もちろん、私も充分協力させていたゞき、落し

穴にはまらぬよう万全を期する必要があります」

 裁判所公認の大嘘つきが言う「充分協力」とは、いったい何を意味するのか?

それは、以下の恐喝裁判の判決文を読めば、明らかであろう。

「幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど全く反省の態度が見ら

れない」(昭和六十年三月二十六日、東京地裁・吉丸真裁判長)

 法廷ですら、偽証はおろか、証拠偽造までやってのけた山崎である。この男に

とっては、かつて否定した日顕の相承を認めることぐらい、朝飯前に違いない。

■欺瞞に満ちた「相承拝信」

 この山崎の「書簡」に対し、日顕が相当、心を揺さぶられたであろうことは、

容易に想像がつく。

 何しろ、人一倍プライドが高く、自分のメンツに異常なこだわりをみせる日顕

のことだ。同門を大量処分した”残忍法主”として宗史に汚名を残すことを恐れ

ていた。

 平成六年十二月十日の富士見庵における極秘会談にしても、その内容は正信会

の復帰問題。当然、会談に臨んだ総監、渉外部長の両名は、ともに日顕の意を受

けていたと伝えられている。

 しかし、現実は日顕の思惑、山崎のシナリオ通りには進まなかった。「中外日

報」のスクープというハプニングで、日顕と山崎が極秘で進めていた謀略の全貌

が白日の下にさらされてしまったためである。

 山崎直筆の「書簡」という動かぬ証拠に宗内は騒然とした。

 これまでも日顕一人の「狂の振り子」に翻弄され続けてきた宗門人だが、今回

の「振り子」のブレ具合、その角度は、恐らく登座以降、最大級のものである。

 重ねて言うが、日顕登座直後の昭和五十五年、相承疑惑の口火を切ったのは、

ほかならぬ山崎である。

 その男と結託するとなれば、日顕にとって、また宗門人にとっても、唯一の拠

り所であり、切り札のはずの血脈相承の重みはどうなるのか?

 さらに裁判にまで訴えた正信会を、問答無用で首切ったのは日顕である。現末

寺住職のほとんども、当時の日顕に信伏随従し、一体となって自らの言動をもっ

て正信会を否定した。すべては血脈相承を護らんがため、心を鬼にし涙をのんで、

かつての同門を否定したのである。

 それを、よりによって正信会問題の首謀者の口車に乗って、無条件で裁判を取

り下げ、宗内復帰を画策するなど、まさに「振り子が振り切れる」とは、このこ

とだ。

 宗内が騒然とする中、さすがの日顕も、いつまでも頬被りを決め込んでいるわ

けにもいかず、ついに平成七年二月十六日付の宗門機関紙「慧妙」に山崎を登場

させ、「私が”御相承”を拝信するに至るまで」と題する「寄稿」を掲載させる。

山崎が改心して詫びてきたから許したという体裁にし、ついでに自らの「相承疑

惑」も払拭せんとする下心がみえみえである。

 しかし、その内容たるや、とても宗門の内外を納得させられるような代物では

なかった。

 当然である。山崎があれほど「手順方法、論法を誤れば、新たなる混乱と取り

かえしのつかぬ禍根を残しかねません」「落し穴にはまらぬよう万全を期する必

要があります」と進言したのに、単なるその場しのぎで一方的に山崎に謝罪させ

ているのだ。しかも、謝罪しているのが札付きの大嘘つきでは、信じろというほ

うが無理がある。

 もちろん、山崎が要求した相承の経緯の公表も一切なし。これでは、いくらペ

テン師の山崎にしても、変心した具体的な理由など示せるはずがない。

 その点は山崎自身も相当気にしていたのだろう。「私の態度に対し、『無節操』

『変節』等の批判もあるかもしれない」が、これを「勇気」というのだと、苦し

紛れの弁明に努めている。

 だが、”懺悔”の甲斐無く山崎に対する宗内の視線は極めて冷やかだった。厚

顔無恥な変節漢を侮蔑する者はいても、”軍師”と仰ぐことはおろか、同情する

者すらいなかった。結局、日顕に利用され振り回された山崎こそ、いい面の皮で

あろう。

 山崎は山崎で、そんな宗門を見限ってか、某宗教団体でこんな発言をしてい

る。

「(宗門で)本当に純粋に信仰し、学んでいる僧侶というのは、本当にごく少数

で、あとは、皆金の為にやっているような僧侶が多く、嫌気がさしている」

「私も教団組織にとらわれず、自由な立場で活動している。日蓮正宗に対しても

同様」「S先生(その教団の教祖)は師匠で、私は弟子だ」

 建前も本音も自在に使い分ける希代のペテン師・山崎のこと、何が本音かなど

と問うこと自体が愚かなことだが、やはりこの男にとっては、日顕も宗門も利害

の対象でしかないことだけは、本音として滲み出ている。

 そして、こんな男が「拝信」した相承とはーーある老僧もしみじみ語ってい

た。

 「かつて、これほど血脈相承が軽々しく扱われたことがあったであろうか」

 山崎の宗内復帰が意味するもの。とりもなおさずそれは、血脈相承すら取り引

きの道具にされたということである。宗内の誰もが強烈な挫折感とともに、日顕

一人の「狂の振り子」に振り回される宗門の行く末に、深刻な不安を覚えた。

■山崎に裏切られた「正信会」

 さて、山崎にさんざん利用された揚げ句、一方的に裏切られた正信会である。

「慧妙」が発行された直後に開かれた緊急会議は、「まんまと山崎にだまされた」

「和解はあり得ない」等々、山崎批判が続出。荒れに荒れて、結局、日顕、山崎

の目論見は完全に破綻する。

 無理もない。正信会にしてみれば、山崎を信じたからこそ、それこそ体を張っ

て裁判に訴えたのだ。その代償が宗門追放である。それを今になって突然掌を返

されては元も子もない。日顕が土下座でもしない限り、おいそれと宗内復帰など

できるわけがない。

 この頃、正信会の内部で流れた山崎評がふるっている。

「山崎は七並べのジョーカーと同じだ。最初は使い勝手がいいが、最後まで持っ

ていた奴は負ける」

 けだし名言である。「最後まで持っていた奴は負ける」とは、暗に日顕をさし

て言っているのだろう。

 当然、日顕、山崎の恐れた正信会側からの反論も出た。

 かつて山崎と一蓮托生だった者の証言など、当事者の話だけに、実にリアル

だ。

 例えば平成三年の日顕から山崎に対する謝罪についても、日顕は頭を下げただ

けではなく、「頼むから、俺に相承があったってことを認めてくれ」と泣きつい

ていたこと、それに対して山崎が、勝ち誇ったように「今さら僕のすごさが分か

ったんだよ、あの男にもね。僕にひれ伏したんだよ。ハッ、ハッ、ハッ」と自慢

していたことを暴露している。

 さらに驚愕すべきは、平成七年の正月、すなわち富士見庵での極秘会談の後、

いよいよ「慧妙」に宗内復帰を公表する直前の山崎からの電話である。

「実は僕は宗門に帰ることにしたよ。正信会をやめてね」

「でも、俺は、阿部から『嘘つきだ』って言われた言葉を忘れたわけじゃないよ。

誰が忘れるもんか! 今に見てろってんだ。あん畜生、必ず仕返ししてやるよ。

俺を見損なうなってんだ。それじゃ、長い間、お世話になりました」

 何のことはない。復帰を決めた後になっても、山崎は日顕のことを「あん畜生」

と罵り、「必ず仕返ししてやる」と復讐を口にしていたというのである。

 その意味では、山崎の”懺悔”に対する正信会サイドの評価は、まことに正鵠

を射ている。

「私は思わず声に出して笑ってしまった。大嘘つきの山崎氏から認められた血脈

相承の主の顔が目に浮かんだ。大石寺の血脈相承の権威が、私の中で完璧なまで

に崩壊した瞬間であった」

 この点については、まったく同感である。

 山崎との結託で本宗の「血脈相承」は地に落ちた。まずもって宗史に残る大汚

点であることは間違いない。

■共犯者の暴露本で疑惑再燃

 山崎の「相承拝信」が、いかに欺瞞に満ちたものだったか。その反論は、昨年、

思わぬところから出た。

 五月十日、『私は山崎正友を詐欺罪から救った!!』というタイトルの本が発刊

されたのである。

 著者は、元暴力団組員の塚本貴胤氏。

 かつて山崎の四十億円にものぼる「手形詐欺」や「計画倒産」、果ては「富士

宮市議殺害計画」にまで手を貸した”共犯者”が、「過去の行状に対する懺悔の

気持ちを込めて」「山崎正友への決定的な鉄槌になれば」と筆をとった手記であ

る。

 その本の中で塚本氏は、かつて山崎が、

「日顕は、宗門ではナンバー7なんだ。日達上人の娘婿が菅野といって国立にい

るが、これが跡目だった。日顕は悪いやつで、日達上人から相承もないのに相承

があったと言い張って法主になってしまいやがった。

 俺は日達上人が死ぬまぎわまでそばについていたから、日顕なんかに相承され

なかったことはわかっている。日達上人は日顕を全然信用していなかった」

 と話していたことを暴露。

 さらに最終章では、例の山崎の「慧妙」手記について、次のようにバッサリ切

り捨てている。

「まあ、よくここまで図々しく厚顔無恥になれるものだ。十数年間唱え続けてき

た自説を、これ程簡単に、変節できるものなのか、無節操にも程がある」

 白眉は、著者が明かす「なぜ山崎が変節したのか」、その本当の動機である。

 塚本氏によれば、事の真相はこうだ。

 出所した山崎の所に、ある日、ある筋から大石寺の墓苑建設の話が舞い込んだ。

 当時、金に困っていた山崎は、

「まとまった金が必要だ。いい知恵がある」

「日顕が自分に会いたがっている。自分と日顕の手打ちをさせようとする仲介者

がいる。自分が日顕の血脈相承を認める。その代わり条件として、日顕から墓苑

建設のお墨付きをもらおう。それが一番いい」

 と、二つ返事でその話に乗ったというのである。

 何のことはない。「相承の嘘」という日顕の最大の弱味を握っている山崎が、

今後二度と触れないから、墓苑の利権を任せろというのが本音で、「御相承を拝

信」どころか、結局、山崎が拝信していたのは金だけだったことが暴露されたの

である。

 思えば、日顕の登座後、山崎が日顕を誑し込もうと作成した密書「申し上げる

べきこと」の中に、こんな一節があった。

「墓園は、戦略的二〇三高地であり、ぜひすすめさせていただきたい」

 かつて富士宮の墓苑開発で巨額の裏金を手にした山崎にとって、墓苑は何にも

まして、己の金儲けのための「戦略的二〇三高地」なのだろう。

 当時は、その申し出を「あんたは大嘘つきだ。あんたを絶対、信用しない」と

却下した日顕だが、今回ばかりは自分の相承という最大の弱味を握られ、まんま

と山崎の口車に乗ったということだろう。

 金で取り引きされた血脈相承ーー日蓮正宗も落ちるところまで落ちたものであ

る。

 この塚本氏の暴露本について、山崎が裁判に訴えている。

 万が一にも山崎に勝ち目がないであろうことは素人目にもよく分かる。

 では、いったいなぜ山崎は、こんな自爆に等しい裁判に踏み切ったのか? そ

のあたりの事情について宗内では、日顕と山崎の間に裏で密約があったとの見方

がもっぱらである。

「大坊内無任所教師有志一同」の名で出回った告発文書によれば、山崎が「大白

法」を使って、日顕の「相承疑惑」を否定する。その見返りとして、日顕が山崎

に対し、裁判名目で資金援助を行うというのだ。

 告発文では、具体的に平成十四年七月二十八日、日顕の息子・信彰と山崎が東

京・新宿の京王プラザホテルで極秘会談を行い、そこで密約が交わされたことを

明かしている。

 この告発を裏付けるかのように八月十六日付「大白法」には、本書でもこれま

で何度か触れた、日蓮正宗青年僧侶邪義破折班なるグループによる、相承疑惑に

関する反論(「新興宗教『創価学会』と離脱僧らの再度の邪難を推破す」八月六

日付)が掲載された。

 その中で、若手坊主が山崎に直接「面談」して問いただしたとして、問題の塚

本氏の暴露本について、「まったくのデマ」と全面否定している。

 しかし、若手坊主が山崎と「面談」などというのはまったくの嘘で、京王プラ

ザで阿部信彰と密会した際に確認されたものであることは、まず間違いない。

 宗内からの情報によれば、そもそも反論を作成したのが若手坊主というのから

して眉唾物で、実際には日顕を筆頭に宗門執行部が角つき合わせて書いたという

のが真相のようだ。

 いずれにせよ、山崎が裁判に踏み切った以上、真偽は法廷で決着がつく。

 最後までジョーカー頼みの日顕だが、山崎が裁判に負けたらどうするのか?

これは見ものであろう。

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