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第5章 日顕相承の’軽さ‘

■荘厳さに満ちた日達上人への「略式相承」

 「日顕の相承」と先師の例とを比較してみよう。これまた疑問だらけである。

 法主が新しい法主を指名する相承をめぐっては、当然、画一的でないさまざま

な状況、情勢が考えられる。仮に前法主の病気などの緊急の場合には、宗門では

「略式相承」という方式もある。日達上人への相承はこのケースであった。

 日淳上人の側近として日達上人への相承を間近に見聞した柿沼広澄庶務部長(

当時)の証言によれば、相承はこういうふうに行われている。(昭和三十五年二

月二十三日「日淳上人百ヵ日法要」於本山客殿)

 日淳上人は、昭和三十四年十一月十七日に遷化されたが、その二日前、十一月

十五日、ちょうど日目上人の御講日に当たる日の午後二時頃、日淳上人から柿沼

庶務部長(東京・品川区、妙光寺)のもとに電話が入り、庶務部長は早速日淳上

人の自宅(大田区池上町)を訪れる。この時、当時総監だった細井日達上人(東

京・池袋、常在寺)に猊座を譲る旨が伝えられた。柿沼庶務部長はすぐさま本山

にいる日達上人に電話をするとともに、常泉寺(東京・墨田区向島)の高野日深

重役(能化)に連絡をとった。高野重役は直ちに日淳上人の自宅に駆け付け、相

承が決まった以上、「今夜のうちにでも相承をしなければならない」と、日淳上

人にその旨を申し上げる。日淳上人もその申し出を承諾される。

 主治医も「医者として今晩は十分保障するけれども、明日のことは明日になら

なければ分からない」という急迫した病状にあった。

 日達上人もすぐに本山から日淳上人の自宅に駆け付け、今夜相承を行う旨を受

けて、自坊の常在寺に帰られる。そして、斎戒沐浴し、その夜再び日淳上人の自

宅に来られた。

 午後六時頃、相承に必要な相承箱を塔中の住職たちが守護し、ちょうど六時半

に本山を車で出発、十一時半に大田区の日淳上人の自宅に到着した。その時、高

野重役は「私は三度ほど御相承の警護の役をしたから私の指図に従えば心配ない」

と庶務部長を安心させている。

 妙光寺から取り寄せた屏風を開いて相承の場の四方を囲み、次の間に重役、庶

務部長、教学部長、塔中住職たちが警護役として控え、日淳上人の家族には離れ

に待機してもらった。

 相承は午前零時過ぎから一時半にわたって行われた。事前に高野重役から「御

相承が終わると南無妙法蓮華経という声が聞こえるから、その時には唱和しなさ

い」とのことで、一時間半後に題目の声が聞こえてきたところで、警護役の一同

も唱和して、相承の儀は終わった。

 こうして十一月十六日午前二時半、十五夜の月が皓々と照るなか、相承を終え

られた日達上人は待たせておいた車で、すぐさま本山に帰られた。

 相承が終わると、日淳上人は途端に元気になられた。この状態なら翌日も大丈

夫だろうということで、親戚の人も帰ったが、翌十七日午前五時五十五分に遷化

された。

 いわば最後の全力をふりしぼって相承の儀式を行い、法主の責務を果たして万

事を終了させ、力尽きて遷化されたというような崇高な使命感を感じさせる。

 これが日達上人への「相承」であった。緊急の場合の略式とはいえ、絶対的に

濃密な時間であり、緊張と荘厳な様子がひしひしと伝わってくる。

 このように、略式ではあるが斎戒沐浴して出直すなど手順を踏まえた儀式を受

けた日達上人が、自分の後継の者に相承するに当たって、それを誰にも知らせず、

警護役もおかずに密かに二人きりで行うわけがない。

 ところが日顕が”自己申告”した「相承」の場合、時間の余裕は十分にあった

というのに、あまりにも安直で、この「略式相承」のような真剣な気迫の片鱗さ

えも感じ取れないのである。

この時の相承については、『大日蓮』(昭和三十四年十二月号)に、「記録」と

して、日淳上人の命を受けた本山僧侶が相承箱をもって出発するところから日淳

上人の発言などの詳細に至るまで、実に細かい記録が宗内に公表されている。そ

こには、日淳上人が言葉とともに「譲書」を残していることも明記されている。

ところが日顕の相承にはまったく記録が残っていないのである。

 相承の記録については、昭和三十一年三月三十日の六十四世日昇上人から六十

五世日淳上人への相承についても明確である。その厳粛な様子は、以下の通り、

三十一年四月号の『大日蓮』に克明に記録されている。

「三月三十日、午前二時、此処總本山大石寺大客殿に於て恒例の丑寅勤行に続い

て新法主日淳上人へ、前法主日昇上人から唯授一人適々の御相承が行はれた。

 大客殿の内陣に六枚一隻の金屏風で席がしつらへられ両法主が左右に対座して

時余に渡って行はれたのである。外陣のリン座に總監高野日深師、正座し、外陣、

廊下は宗務院各部長、客殿外の周囲は大坊執事、理事補が警護した古式に則り静

粛に行はれた。

 内陣内は寂々として時折、けい咳の響かもれる外は何の音もなく刻々と時が経過

して、東天のほの明るくなった時ようやく終了したのであった」

 緊張に満ちた空気が伝わる、細やかな描写である。その場に立ち会った者でな

ければ書くことのできない実に具体的な記述である。「いつ」「どこで」「どのよ

うに」が明快なのはもちろんのこと、立ち会い人や警護にあたった者など「証人」

まで明確に記されている。この記録を書いたのは、当時庶務部長だった細井精道、

後の日達上人その人である。かつて先師の相承を記録し機関誌に公表した日達上

人が、自分が相承するにあたり、それを公表はおろか、まったく記録に残さない

などということがありえるだろうか。

■日元−日穏上人の息づまるような相承の模様

 歴代の法主をみても、さまざまな相承のケースがあった。

 第三十四世日真上人は明和元年(一七六四年)に猊座についたが、急病で明和

二年七月二十六日、死去した。あっという間の死で次期法主に相承する時間もな

かった。

そこで前法主の日元上人(三十三世)が、亡くなった日真上人に代わって三十

五世日穏上人に相承した。御隠尊からの相承である。

 この時の状況については、『世界之日蓮』(昭和十年十一月号)に「昔の面影」

というタイトルで掲載されている。

 日穏上人が参上すると、隠尊の日元上人ばかりでなく、大隠居の日因上人(三

十一世)もいる。日元上人がまず日穏上人に向かって言う。「当山には宗祖、開

祖以来伝わる一大事の秘法があるが、お前には受け奉る思いはあるか」。日穏は

答える。「一身一命にかえてお受けいたしたい」。重ねて言葉がある。「本当に相

違ないか」。日穏は言う。「ございません。何度でもお誓いいたします」。ここで

大隠居日因上人から声がかかる。「日穏が相承をお受けしようとする願について

はいささかも間違いはないようだ」。また日元上人。「もしこの法を受けるなら、

不肖な私だが私の弟子になってもらいたい」。日穏は「長く大法大恩の師範と仰

ぎたてまつります」。日元上人「それでは相違ない固めの盃を交わしましょう」。

 ここで盃が交わされ、師弟の契約は定まったのである。大隠居日因上人が言う。

「日元は私の弟子であり、日穏は日元の弟子である。今、この三人はともに師弟

となった」。

 このようにして師弟の契りが結ばれ、日穏は大坊に戻った。そこにまた使いの

理境坊住職が来て、日元上人から、「今夜、子の刻(午前零時ごろ)、一大事を授

与する。この事を決して他に漏らしてはいけない」との言葉が伝えられ、「因師

の内意だが」と前置きして「今夜、日元師から御大事が渡されるだろう。ついて

は執事にひそかに命じて、餅をついておきなさい。また赤飯も作らせておきなさ

い。客殿は残らず障子を閉めるが、特に裏口が大事である。先年、この大事を立

ち聞きしようとして忍び入った者がいたが、この男は一日で死んでしまった。し

たがって裏口をきちんとしないことは、殺生を犯すようなものだ。面倒だが、自

分できちんと見きわめなさい」

 その夜は皆、寝ないでその時刻を待つのである。

 定刻、日元上人がやってくる。それを中門まで出迎えて、客殿に案内する。理

境坊住職は客殿から書院通り口を固め、執事の慈性坊は玄関口を固める。他に忍

び込む者はいないけれど、日元、日穏の二人はあらためて客殿の前後左右を調べ、

異常なしと確認して、初めて経机をはさみ向き合って座る。

 日穏が合掌する。日元上人は「日蓮大聖人が胸中の肉団に秘し隠して持ち給う

唯以一大事の秘法を三十五世の日穏に残らず付嘱せしむ」と述べ、さまざまの箇

条をすべて話されて、終了するのである。

 そして書院に移り、盃を交わした後、御本尊書写の相伝、終わると雑煮を食べ

合い、日元上人は戻っていくーー。

 当時の文語文を現代文に直すと以上のようになるが、息づまるような二人の会

話や相承の模様がまざまざと浮かび上がるのである。

■壮絶ともいえる三つの相承を知る日達上人

 五十八世日柱上人は、日顕の父・日開らが策謀したクーデターのため在位二年

余で退座となるのだが、登座をめぐり反対派が暗躍する中で、五十七世日正上人

との間で行われた相承もまた、緊張に満ちたものであった。

 日正上人は、大正十二年六月ごろから、病気で床につくようになった。東京の

病院で診察を受けると、ガンの症状がはっきりしている。上人も現状を冷静に受

け止めて、静岡県興津の海岸に一軒家を借りて静養されることになった。若い所

化たちが交替で給仕に当たった。

 上人は自らの死期が近付いていることを察知されたのだろう、八月十一日の夕

方、大学頭の日柱師、および大阪の中弥兵衛、牧野梅太郎の三人を呼ばれた。こ

の二人は在家ながら信心厚く、日正上人の信頼を得ていた。

 乱れきった宗門の坊主たちはもう信用できない。誰を次の法主に選び相承する

か。在家の二人を後日のために証人として列席させよう。そう考えられたのだろ

う。

 上人は病気ですでに言葉もはっきりしなかった。後に法主になる日達上人が当

時は所化で、日頃、日正上人に接していたため、そのもつれる言葉を通訳して伝

えた。

 日柱師らは一度、旅館に戻ったが、深夜の午前零時、もう一度、上人に呼ばれ、

上人の寝る蚊帳の中に入った。

 日達上人、中、牧野氏らは家の周囲で警戒に当たった。この警戒は前述のよう

に、相承の場合の当然の警備である。

 二人の話し合いは約一時間で終わったが、この時、相承は正常にとどこおりな

く行われたものと確信したと、警備に当たった日達上人も述べている。

 また、同月十七日の夕方、「明朝、遺言するから皆を呼べ」ということになっ

た。ただちに連絡、準備に移った。

 明け方、「これに呼べ」という声に関係者は上人の枕元に集まった。一同が座

ると、上人は見渡し、侍僧に紙と筆を持ってくるように命じた。侍憎が静かに立

って用意する。上人はおもむろに「大僧正の権は大学頭日柱に相承する」と遺言

した。

 侍僧が認めた料紙を確認したうえで、署名と花押を記すよう命じられ、指で指

図された。これが終わると、また一同を見渡され、目を閉じられた。

 これが日正上人の逝去であった。

 同上人はこうした二重の儀式をとることにより、相承の事実を明確にし、上人

にあからさまな圧力を加え、相承という最大の儀式を妨害しようとしている日開

らの陰険な勢力に対抗したのである。

 これは日正上人の第五十回忌法要の際の日達上人の話、および論文「悪書『板

本尊偽作論』を粉砕す」で、日達上人が述べたことである。このように壮絶とも

いえる相承の歴史を見る時、日顕の場合はあまりにも安易で重みがないといわざ

るをえない。

 日顕が相承を受けたという四月十五日は、第三祖日目上人の御講日であり、本

山には塔中住職が全員いた。まして、日達上人はご自分の相承の折の警護の大切

さと相承における警護の仕来りの重要さも充分知っていた。警護を付けようと思

えばいつでも付けられる状況にあり、相承の仕来りからいって、特に必要な警護

すら付けずに相承したというのは、考えれば考えるほど合点がいかない話である。

日達上人はまた六十三世日満上人から六十四世日昇上人への相承にも立ち会わ

れている。昭和二十二年七月十七日、日満上人より宗務院に通達があった。

 一筆啓上致候 明十八日御示伝致候間御用意なさるべく右申進候恐々

   十七日                           日満

  佐藤総監殿

 というもので、予告状である。

 宗務院ではさっそく準備に移るが、戦時中、客殿は火事で焼失している。「す

べて質素に」という日満上人の内意もあったので仮客殿で行われることになり、

佐藤総監が内陣を、若い日達上人と川田利道蓮成坊住職が外陣を担当した。

 十八日夜十時から十一時三十分まで、新法主日昇上人への相承が行われた。

 そして二十一日には御代替式を御影堂で執行したのである。

 日達上人は三度もこのような場に遭遇されている。

その謹厳な日達上人が、立ち話のような安直な相承をされるはずがないというの

が、大方の僧侶たちの胸に底流する思いだったのである。

 日顕の法主就任の翌年、つまり昭和五十五年夏、日顕の相承を認めようとしな

い僧侶たちが正信会を結成し、翌五十六年一月、百八十余名が日顕を相手取り、

地位不存在確認請求訴訟と、職務執行停止仮処分申請を静岡地方裁判所に提出し

て、日顕に公然と叛旗を翻した。

 この時の彼らの主張を要約すると、

 @血脈相承を受けたというなら、なぜその時点で公表しなかったのか。

 Aこれまでの実例では、相承するとすぐ法主になるのが宗門の慣例である。そ

れなのになぜそうしなかったのか。

 B法主になるべき位(能化)ではなく、一段下であった日顕がなぜ法主に就任

したのか。

 Cなぜ相承の儀式、手続きをしなかったのか。

 というものであった。我々と立場や理念は異なるが、正信会によるこれらの主

張は常識的な疑問でもあった。

■裁判における日顕相承の陳腐な答弁

「相承を受けた」という日顕の主張について宗門の上層部はどう見ていたのか。

むろん内面での個々の意見はさまざまであったろうが、外部に向かっての公式見

解は「いささかも不審なところはない」というものだった。

 正信会の日顕に対する告発事件で、裁判所で行われた宗務院関係者に対する尋

問のなかに、こんなおもしろいやりとりもあった。

 弁護士「証人は弁護士の質問に答えて『昭和五十四年六月七日の鹿児島での日

達上人と椎名(法英)重役との会話』について述べていますが、その会話は空港

に向かうハイヤーの中でのことですか」

 答「お車の中ということです」

 弁護士「同乗者は椎名さん以外にいましたか」

 答「そこまではよくわかりません」

 弁護士「椎名さんが、日達上人に『猊下が飛行機に乗るのは心配です』と言っ

たということですが、どういう意味ですか」

 答「椎名さんから聞いた話では『その日は天候が悪いので、法主という大事な

身であるから心配した』と言っていました」

 弁護士「椎名さんは、飛行機が落ちるのではないかと心配して、尋ねたという

ことですか」

 答「飛行機が落ちる落ちないではなく、猊下の御身を心配されて言ったわけで

す」

 弁護士「その時、日達上人はなんと言ったのですか」

 答「『後のことはちゃんとしてあるから』とおっしゃったと聞きました」

 弁護士「それは日達さんが椎名さんに、飛行機が落ちても心配ないという意味

のことを言ったということですか」

 答「はい」

 弁護士「椎名さんはあなたに、その返事を『相承は済んでいる』という趣旨に

受け取ったというように、話してくれたわけですか」

 答「いいえ、相承が済んでいるとか、済んでいないということではなく、日達

上人がそのようにおっしゃったということ、そしてご自分が日達上人の遷化の時、

日顕上人のお言葉を拝して『ああ、今にして思えば、そのことをおっしゃってお

られたのだな』というように考えられたということです」

 弁護士「そうすると、会話の時点ではなんとも思わない普通の会話だと思って

いたが、その後、日達さんが亡くなり、日顕さんが名乗られた時に、思い当たっ

た、とこういうことですか」

 答「そこまで詳しく突っ込んだ話ではなく、椎名重役は、大事な猊下の御身を

心配して聞いたのだと思います」

 弁護士「空港に向かう車の中での雑談のような形で、日達さんが宗門の最重要

な儀式である相承について言われるのはおかしいと思いませんか」

 答「御相承のことに関しては、まさに御法主上人猊下の御胸中にすべてがある

ことであって、椎名重役としては、猊下は大事な人ですから、こんな天候の日に

飛行機に乗って万一のことがあってはいけないという、その心配から尋ねた。そ

れに対し日達上人は、その御胸中の一端を、椎名さんに漏らされたというわけで

す。それがどういうことかということは、日達上人のお言葉は、そうであったわ

けですから、後になって今から思えば、ああ、それほどのことだったのかと感ぜ

られるのです。なぜ日達上人がそのようなことを、その時におっしゃったのか、

我々には判断がつきかねます」

 弁護士「そのようなことは、阿部さんが相承を受けたのかどうかということと

は関係ないですね」

 答「もちろん、その時にはそういったことはおっしゃっていません」

 弁護士「今の話は、阿部さんが受けたかどうかということと関係づける点はな

いですね」

 答「ですから日達上人は日顕上人であるとか、そういうことは一切言ってない

のです。『後のことは心配ない』ということです」

 弁護士「そうすると、飛行機が落ちても心配ないということからすると、その

時、飛行機に同乗されている方以外の方が相承を受けているというふうに、考え

るのが椎名さんの考えということになりますか」

 答「私どもの話を椎名重役から聞けば、そのようなお考えではなかったと思い

ます」

 弁護士「その時の飛行機には、阿部さんは乗っていなかったのですか」

 答「乗ってなかったと思います」

 弁護士「当時、日達さんは自分が飛行機に乗られる際に、誰かを別の便にする

ようにというような指示を、自分の口から与えられていたかどうか、知っていま

すか」

 答「そこまではよく分りません」

 弁護士「先程の話の半月ほど前の、昭和五十四年五月十七日、八丈島の無上寺

で法要がありましたか」

 答「ありました」

 弁護士「当日は雨で、あなた方の乗った飛行機が着陸できるかどうか危ぶまれ

るような天気だったことを記憶していますか」

 答「私と同じ教区なので、私は一日先に着いていました」

 弁護士「日達上人の乗った飛行機が雨で予定通り着くかどうか、皆さんが心配

していたという記憶はありますか」

 答「確かに雨であったことは間違いありません」

 弁護士「日達さんと阿部さんは一緒の飛行機じゃあなかったのですか」

 答「そのへんの詳しいことまでは覚えていません」

 弁護士「あなたは迎えにいったのではありませんか」

 答「いや、当時の記録をみればわかるかもしれませんが・・・」

 弁護士「八丈島へ行く飛行機は小さいから危険と思われますか。日達さんと阿

部さんが一緒の飛行機に乗ったとすれば、先程の話からすれば、飛行機が落ちて

も心配ないということではなくて、飛行機というのは落ちることなんかないから

オレは大丈夫だよという趣旨に、解釈するのが普通ではありませんか」

 答「私が椎名重役から聞いた限りでは、そうではなかったと拝しております。

椎名重役もそういう趣旨でとらえております」

 弁護士「昭和五十四年五月十七日に、阿部さんが日達さんと同乗したというこ

とは、今の話の前提からすれば、すくなくとも阿部さんは御相承の相手ではない

という理屈になりませんか」                ’

 答「飛行機で一緒だったかどうかはっきり分かりませんから」

 弁護士「もし同乗していたとすれば、そういう理屈も成り立つということにな

りますか」

 答「いいえ、そんなことは言っていません」

 弁護士「(『大日蓮』の昭和五十四年八月号を示して)ここに法要の記事が載っ

ていますね」

 答「はい、載っています」

 弁護士「これによると日達さんは、阿部さんや大村さんと一緒の飛行機で行か

れたのではありませんか」

 答「この記事によればそのようです」

 弁護士の執拗な質問に対して、回答者は懸命に日顕相承の妥当性を説明しよう

としている。

 このやりとりをみていると、宗門を支配する考え方、とらえ方がよくわかるが、

日顕が「相承」を受けていたと言うから、何とかしてその証拠を揃えようと躍起

になっている。

「多くの僧侶は、僧侶として育ってきて、僧侶の世界しか知らないのです。法水

瀉瓶を金科玉条として学んできたため、日達上人の突然の死は『法水瀉瓶の断

絶!』、『あってはならないことが起こりつつある』と、当時の宗門の僧侶であれ

ば、皆、そんな不安な思いでした。それだけに、日顕が自己申告であっという間

に猊座に登ったからといっても、それに対する不信を口に出すことより、むしろ

法水が断絶せずによかった、ほっとしたというのが、宗門僧侶の一般的な気持ち

だったのです」(宗門僧侶)

しかし、登座してからの日顕については次々と不信の声があがった。

■一般僧に相承を否定された前代未聞の「法主」

 昭和五十六年一月十日、大石寺の対面所でのことである。

 これは大奥の対面所で百五十人の在勤教師(住職になっていない僧)とその家

族が日顕に正月の挨拶をした席上での出来事だった。

 出席者の話を総合すると、第一幕は対面所に日顕が入ってきた時に始まる。

 長いテーブルの前に日顕が座った時、テーブルに大きな茶封筒が置いてあるの

を目にした。その瞬間、日顕はムッと気色ばんで「これは何だ!」と叫んだ。

 この中には、先に出されていた反日顕派僧侶たちの質問状が入っていたのであ

る。そこで一人の僧侶が「先だって差し上げましたお伺い書のご返事をいただき

たく…」と言った。日顕は「答える必要はないッ!」と大声で怒鳴りつけた。

 僧侶たちも黙ってはいない。口々に「そう言われますが、相承の問題につきま

しては、、」などと言い出した。

 日顕と僧侶たちとの間で、激しいやりとりが始まった。正月の目通りで、寺族

も居合わせた。日頃、とり澄ました日顕しか見ていない寺族たちは、さぞ驚いた

ことだろう。みな顔は青ざめ、中には泣き出す者もいた。

 この法主と在勤教師たちとの大激論はなかなか終わらない。双方とも怒鳴り合

うのだから言葉も通じ合わない。

 午前中にはケリがつかず、昼飯をはさんで午後も続行されることになった。

 日顕も坊主たちも興奮した赤い顔で立ち上がる。口々に何かをわめきながら、

対面所を出ていった。

 午後二時ごろ、第二幕の”開演”となった。テーブルに座った日顕が先制攻撃

に出る。

「質問のあるやつは、前に出ろッ!」

 数人の僧侶がザワザワと衣擦れの音をさせながら、進み出た。

 日顕「一人ずつ質問しろ」

 僧侶たちが質問状の趣旨を言い出した。日顕が罵声を浴びせた。

「バカものッ! 過去のことです、それは」

 僧侶「いいえ、その問題は、、」

 日顕「よく聞け。なんだキサマ、黙っていろッ!」

 僧侶「(何か言いかける)……」

 日顕「凡僧に何が分かるか」

 僧侶「(負けずにさらに言いかける)……」

 日顕「なんだ、黙っていろッ。出ていけ、下がれ、下がれッ!」

 僧侶「はい、それじゃあ、出ていきます」

 こんな具合である。もう話にならない。「質問しろ」と言っておきながら、僧

侶たちが何か言いかけると、こんどは「黙れ、キサマ、凡僧に何が分かるか」と

くる。

 理性も知性もカケラもない。憎悪と相手を屈伏させようという修羅の生命のぶ

つかり合い、低次元な闘争心の爆発である。冷静に話し合って相手を納得させよ

うなどという対話の姿勢など、まったくないのである。

 不毛の”論争”はなんの意味もなく終わった。

■日顕が相承を受けていない決定的な証拠

「血脈相承」という全僧侶にとって関心のある問題を、日顕は「何も文句を言う

な。オレの言う通りにしろ」と抑えつけた。

「相承」を受けたと言うのだから、自信と余裕をもって対応すべきなのに、問答

無用の強圧ーー。疑問には何一つ答えず、「相承」を確固たるものにしようとす

る動きだけが目立った。

 昭和五十七年一月十九、二十二日、当時の能化、宗会議員全員が「日顕を血脈

付法の法主と仰ぐ」という趣旨の声明文、決意書に署名している。いや、署名を

させられたのだ。

 これも裁判記録に見ることができる。

 弁護士「署名している方々は、日顕上人を血脈付法の法主と仰いでいるという

ことでございますね」              ‐

 答「これはですね、(日顕が)怖いからじゃないんでしょうか。昭和五十四年

七月二十二日の日達上人の御通夜の後におきましても、各塔中で御老僧方が『あ

れでは早い者勝ちではないか、日達上人は次の方をお選びにならずに御遷化され

た』などと、盛んに言ってたわけでございまして、そういう方々がおりますから

こそ、こういう決意書とか決議文を出さざるを得なかったんだろうと思います。

(中略)宗門の七百年の歴史においてこのようなもの(声明文、決意書)を出さ

せるなどということは、前代未聞のことでございます」

 陰で不信の声をあげる住職たち、その声を抑えるために証明書として決意書を

強要して出させる日顕ーー。

 こんな証言もあった。登座した新法主に仕える奥番たちの証言である。

「どこかに鶴の紋の入った衣はしまってないのか」「鶴の紋の入った袈裟はない

か」

 と日顕は法主の着用する鶴の紋の刺繍の入った衣を探していた。これを見た奥

番たちは、

「ホントに相承を受けていたのなら、その時点で用意ぐらいしておくのが当然だ

ろうに」

 と、疑問を抱いた。

 また、日達上人の頃から側に仕えていた奥番に、

「日達上人は護秘符をどのようにしておられた?」

 などと護秘符の作り方を聞いたりして、当時の奥番にも不審がられていた。

 また老僧たちは、別な面から「あれ(日顕)はニセモノだ」と噂し、見抜いて

いたという。別な面とは、御本尊書写についてである。御本尊書写については、

宗門の僧侶であれば一応書写方法は知っている。しかし、ひとたび猊座につくと、

自己流に書写したりはしないものなのだ。どうしても前の猊下の書写を真似る形

となる。心構えが、自然に「先師の如く」と謙虚になり、そうなってしまうのだ

という。

 例えば昭和三十五年から三十六年頃の登座当初の日達上人の御本尊は、先師日

淳上人にそっくりの書写であったし、日淳上人も登座当初の御本尊は先師日昇上

人に筆跡がよく似た御本尊であった。

 ところが日顕は、最初から達筆な筆さばきで書写していた。

 「(相承を)受けていないんだから、ああなってもしようがないだろう」と、老

僧をして言わしめている。

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