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第六章 法主絶対論の大嘘

■意図的に喧伝された異常な「法主賛美論」

 日顕が創価学会を破門、除名し、さらに日顕の法主にあるまじき、さまざまな

謗法、悪行が一挙に表面化して、世間の批判を浴びるようになるとともに、逆に

宗門の一部からは、狂的な「法主賛美論」がわき上がってきた。これは法義の上

からも歴史からみても、常軌を逸した滑稽なものであった。

 実例をあげてみよう。

「猊下様が現代における大聖人様であり、御内証において人法一箇の御法体を御

所持遊ばす御尊体であらせられます・・・」(『大日蓮』平成三年六月号)

「当宗の信仰は、御法魂を伝持遊ばされる御法主上人の御指南に信伏随順し奉り、

三秘総在の大御本尊を拝し奉ることこそ成仏の要諦なのである」(『富士学報』

第十一号論文)

「凡夫身としてのお姿、法器は変わろうとも、その御法水・御法魂は大聖人已来

寸分変わることなく御当代日顕上人の御身に伝えられ…」(同前)

 「三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、そ

の内証において、一体不二の尊体にましますということであります・・」(「能化文

書」平成三年九月)

「日蓮大聖人の仏法は、唯授一人法体別付の血脈相承をもって、現御法主上人が

御所持あそばされることは衆知のことであります。したがって、御法主上人御一

人が、本門戒壇の大御本尊の御内証をお写しあそばされる権能をお持ちになるの

であります、、」(『大日蓮』平成四年十二月)

 例証をあげればきりがないので、このくらいにしておこう。どれをみても”こ

れでもか、これでもか”と日顕を持ち上げ、日顕を御本仏日蓮大聖人そのものの

ように歪曲し、誇張し、低俗な邪教の教祖を連想させるような”日顕本仏論”

”日顕生き仏論”なのである。ことさら法主・日顕を権威づけ、神秘性を加えよ

うとする愚かしい表現のオンパレードがここにある。

「いったい、これはなんだ。”御法魂は御当代上人の御身に伝えられ”とは、狂

った坊主の戯言としか言いようがない。新興宗教の教祖やオカルトじゃあるまい

し」

 ある高僧は吐きすてるように語ったが、これは少数派とはいえ心ある者に共通

する思いであろう。誰がこのような愚かな僻見を教義論文のような形式で公表し

たのか。これは水島公正(埼玉県所沢市・能安寺)、原田輝道(本山・了性坊)

らが日顕に迎合し、その意向を汲み、勝手にでっちあげた暴論なのである。

 しかし、極めつけは何といっても”顕本仏迹論”だろう。”顕本仏迹論”とは、

現法主・日顕が「本」で、御本仏日蓮大聖人が「迹」であるという大妄論である。

こんな教義破壊の大邪説を言い出したのは宗務院の福田毅道元海外部書記で、平

成三年八月の行学講習会で披露したものだ。

 福田元書記といえば、同年初頭、学会破壊工作「C作戦」の存在を暴露し、日

顕が直接深く関与していた事実が発覚したことによって、日顕の身代わりに謹慎

処分を受けた人物である。常識的に考えれば、そんな人物がなぜ宗門の公式行事

で講義できるのか理解に苦しむが、それだけ日顕の側近として信任が厚かったわ

けである。

 どういう内容の妄論なのかーー。百六箇抄の「立つ浪・吹く風・万物に就いて

本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の御文から、「立つ浪」というのは次から次へ

と起こっては消えていくものだから、いま起こっている浪が「本」で、過ぎ去っ

た浪が「迹」である。したがって、宗祖日蓮大聖人、第二祖日興上人、また歴代

法主も過去だから迹であり、当代の日顕法主が本である。しかも、日顕法主の指

南の中でも新しい指南が本であり、昔の指南は迹である。したがって、新しい指

南にそっていくのが正しい……。

 この妄論が出たすぐ後に、今度は御本尊と法主・日顕の”一体不二論”が出現、

これは、法主日顕が「僧宝」である日興上人を飛び越えて大聖人に並ぶというも

のであった。もはや”悩乱”の一語に尽きる邪説である。

 この福田元書記による”大妄論講義”は、宗門として何ら訂正や処分を行って

おらず、これが法主絶対主義の日顕宗”公認”の教説になっているのである。宗

門には、戦時中に”神本仏迹論”なる大妄論を吐いた小笠原慈聞もいたが、自己

の保身や権威付けなどのためには易々と教義の根本まで破壊してしまう、どうし

ようもない体質があるのだ。

■宗制宗規の処分条項に明白な法主絶対化の意図

 幼児性と狂暴性をあわせ持ち、破局への道をやみくもに突っ走る日顕に、当初

から僧侶の間には「何を言ってもダメだ」「下手な諌言や反抗はかえって日顕の

猊座への執着心を強めるだけだ」「面従に徹して大慢を増長させ、その大慢の炎

で自らの身を焼き尽くすのを見守ろう」、そういった声が蔓延し、宗門の高位の

僧でさえ「ダメだよ、あの性格は。徳がない。絶望的だ」と言っていたのである。

この日顕のすべてを知る高僧の言葉に、日顕の本質と前途への失望ぶりが凝縮し

ているのではなかろうか。

 このような人物とその一派が「唯授一人の血脈」を唯一の旗印に、「本宗の根

本命脈は戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈」という紋切り型の言葉を繰り返して

いればこと足りるといった安易な姿勢が、すでに形骸化以外の何ものでもないの

である。ちょうどテレビの水戸黄門のように「葵の紋所」さえ示せば、すべて片

がつくという幼稚な権威主義、形式主義にどっぷりと漬かっていて、宗門内でさ

え”印籠教学”と冷笑の声が起こっているのである。

 このような人物を中心にする宗門だけに、自己防衛の本能はきわめて強く、そ

れが法主絶対、法主無謬の風潮や法主信仰という外道の敬神崇天信仰のような低

次元な形で、露骨に現れてくる。

 宗門執行部は「法主絶対や法主無謬など言っていない」と必死で否定している

が、しかし現行の宗制宗規、とくにその処分条項を一読すれば、そこに流れる法

主の絶対化、無謬を図る意図は明白に読み取ることができる。この強権体制下で

は法主に対する異見や批判は一顧だにせず排除され、処分の対象にされる。そこ

に底流するのは我一人高し、我一人尊しという法主の権威の絶対化以外の何もの

でもない。

 宗門の宗制宗規は、明治三十三年九月の制定以来、平成三年七月までのおよそ

九十年間に二十九回の改正が行われている。驚くべきは、この二十九回の改正の

うち、実に十六回が日顕の代になって行われていることだ。もちろん、改正の目

的はほとんど法主の権限強化である。

 例えば、平成二年十二月二十七日の宗規”改悪”では信徒処分を容易にするた

め、「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、めん謗したとき」

(第二百二十九条五項)との項目が追加された。この時、宗規変更にかこつけて、

創価学会池田名誉会長を総講頭職から罷免している。これを初めとして、宗門が

創価学会破壊を目的とした処置を次々に打ち出していったことはよく知られている。

 また、平成三年七月六日の宗規改悪では僧侶の処分について懲戒の種目を六種

にし、新たに「奪階」を設けた。これは「現僧階を剥奪し、沙弥に降す」という

もので、僧階が現在何であれ、袈裟・衣を着すことの許されない最下位の「沙弥」

まで一気に降格させるというのである。

 こんな統制による恐怖政治、時代錯誤の独裁体制の下では、宗内の僧侶は日顕

に対して沈黙、盲従せざるをえず、心ある者も面従腹背を決め込むしかない。宗

門の宗制宗規には、もはや感情のおもむくままに暴走する法滅の法主・日顕を押

しとどめる機能はまったくないのである。

 妙楽によれば、仏法でいう「絶対=絶待」とは、相待するあらゆる個々の総体

を超え、超勝したものという単純なものではなく、より徹底した思想性の上で捉

えている。

 「相待を以って示す可から不、絶待を以って示す可から不、待絶倶に絶す、故に

滅待滅絶と名く」(天台大師全集・玄義釈籤第二上・五十三左)と。つまり、「滅

絶」の語が示す如く、自らの「絶対」という在り方さえ、絶(否定)し、超えて

ゆく「徹底した否定性」の運動そのものとして捉えるのである。物事の真価、一

切法の真の肯定は、徹底した否定を介して、はじめて到達し得る。徹底した否定

(絶)は、自らの”否定(絶)するという行為”そのものを否定(絶)し、遂に

徹底した肯定・大肯定へと転じるという。これが仏法の「絶対観」の基本であろ

う。

 この「絶対観」に照らせば、自己否定という自省の念など微塵もなく、他の一

切を差別視し、排除・否定する現宗門の「法主絶対」は到底、仏法と呼べる代物

ではない。まさに、独善、独絶(同・玄義第二上・五十二左)であり、独裁以外

の何ものでもない。

 妙楽の師・天台はこういった”吾独り勝れる”とし、自らの内に明確な否定を

産出し得ぬ「絶対」などは、無窮に流浪するのみであり、遂には戯論に堕すと明

確に断じている。

「此を降りて已外に若し更に作らば、何物を絶して、何れの理をか顕さん。流浪

無窮にして則ち戯論に堕す」(同・玄義第二上・五十四左)と。

 平成三年一月、日顕は「結句は一人になりて日本国に流浪すべきみ(身)にて

候」(富木殿御書)の一文を引いて絶句落涙した。堪え性のない老人がひとり興

奮した末の醜態だったが、これにもし宗祖の言わんとされた並々ならぬ護法の決

意を感じ取った者がいたとしたら、それは一時の感傷、高揚感による幻影にすぎ

ず、寺族の女性向けのパフォーマンスでしかなかったのである。女々しいという

ならば、これ以上のものは無い。

 多くの僧侶はあの我を失った落涙の姿に、まさに、「絶対」を踏み違えた揚げ

句「流浪無窮……」(前引・法華玄義第二)するであろう一法主の不明と迷妄を

感じ取り、絶句する日顕に、万骨が枯れて屍累々、今日の宗門の疲弊と混乱の姿

を察知したのである。日顕もやがて宗門の僧侶たちから疎外され、消滅すること

を予感しているのだろう。大石寺のある塔中の腹心の部下を訪ね、酒を飲みなが

ら「六十七世(自分のこと)は後世には宗史からも抹殺されるかも知れぬ」と、

深刻な表情で語ったことがあるが、その恐怖を自ら掻き消すように「この宗門の

体制は後になっても絶対に変わらない」と現体制の不動ぶりをことさらに力説し

ている(平成四年一月二十八日)。

 このまま不満が高まり批判の声が大きくなれば、あるいは自分が退座すれば、

「日顕」は宗史から抹消され、一族もまた石もて追われるごとく宗門から消え去

らねばならない。それは予感としてひしひしと追ってくる。その恐怖を払い除け

るように、日顕は”現状不変、永久に、この法主中心のパターンが続くのだ。ワ

シに忠節を尽くせ”と必死に予防線を張っているのだ。

 平成三年正月の日顕の落涙こそ、宗門内で企図した「法主絶対化」の路線が矛

盾と欺瞞に満ちた戯論に過ぎぬことを日顕自身認めた涙であり、敗北の絶句でも

あったのである。

■こんなにもある珍妙な”血脈相承”の数々

 宗門には『家中抄』『続家中抄』という私家版の歴史書がある。『家中抄』は第

十七世日精上人が寛文二年(一六六二年)に、また、『続家中抄』は四十七世

日量上人が天保七年(一八三六年)に著したものだ。

 この中にはさまざまな相承の形が記録として残っている。通常の相承ばかりで

なく、長期間の断絶、少年僧のような若年貫首を便宜的に就任させる稚児相承、

あるいは在家相承、死活相承など、時代や当時の社会状況を背景にいろいろな相

承が記録に残っている。もちろん、真偽が定かでないものもあるが、現宗門執行

部が金科玉条としている「唯授一人の血脈」が少なくとも宗門史の史実を踏まえ

ないまやかしの暴論であることがよくわかる。

 [四年間の空白後の相承]

 第十七世日精上人は、大石寺の御影堂などを寄進したとされる阿波徳島の城

主・蜂須賀至鎮の内室、敬台院日詔に養母として幼少の頃から恩顧を蒙った。ま

た、要法寺日瑶の弟子であり、十六世日就上人に教学を学んだ。出自もスジもよ

かった。女性ながら当時かなりの権力を握っていた敬台院は、江戸・浅草鳥越に

寺院を建立し、敬台山法詔寺と称した。そして日精上人を寺主とした。

 寛永九年(一六三二年)、日精上人はこの寺で日就上人から相承を受け、大石

寺に移る。これは、スポンサーを意識した登座であった。

 自分が面倒を見てきた日精上人が貫首になったため、敬台院の寄進はさらに盛

んになり、その財力もあって、やがて大石寺の御影堂、二天門、総門など多くの

供養がなされた。

 だが日精上人は就任して遠からず、敬台院との間に確執を生んだ。”金も出す

が、口も出す”で、欝陶しくなったのだろうか、秋風が立ち始めたのである。確

執はしだいに激しくなり、日精上人は大石寺を逃れて江戸に移り、下谷に常在寺

を再建してそこの住職になってしまった。つまり、大石寺は法主無住になったの

である。考えられないことだが、大聖人の正統を名乗る一宗の貫首が本山を捨て

て逃げ出してしまったのだ。

 そのうえ、この貫首離山によって、当時、実施されていた幕府からの大石寺へ

の経済援助は断絶しそうになった。朱印制といい、当時、寺院の由緒や縁由に応

じて幕府からの援助があったのである。寛永十八年(一六四一年)の朱印改めの

時、「法主無住では朱印改めを更新できない」ということになった。たちまち宗

内外から苦情が出てくる。寺としてもなんとか苦況を打開しなければならない。

 大石寺側は敬台院に直訴し「なんとかしてもらいたい」と懇願したが、法主も

失踪したような寺には朱印は出せない。しかも敬台院と日精上人の感情はますま

す対立するばかりである。

 結局、幕府からの経済援助ほしさに、法詔寺にいた日感の推薦により、同年、

日舜上人が大石寺に入った。大石寺に入った日舜上人は、その四年後にやっと離

山した日精上人と和解が成立し、相承された。(続家中抄舜師伝)

 [稚児相承]

 第九世日有上人から猊座は日乗上人、日底上人の順で引き継がれたが、日乗、

日底の二人はともにまもなく病死したため、当時、十四歳であった日鎮に譲位さ

れることになった。これには特殊な事情があった。日鎮は下野の国の有力者の出

であると言われている。つまり、日鎮を貫首にすることで、その一族からの経済

的な支援を期待したのである。早い話が宗門も食べていかなくてはならないので、

貫首の座をエサに裕福なスポンサーを探し、援助してもらおうとしたのだ。その

一つが稚児貫首である。十四歳の少年が「唯授一人という本義」を十分に理解、

体得し、宗内を統率する力があったと説明するには無理がある。

 宗門は、南条日住らこの頃の元老を稚児貫首日鎮の世話係に立てた。

 しかし日鎮がどれほど優れていたとしても、年少の身であり、貫首の立場に対

する多くの僧侶からの嫉妬、反発があった。当然といえば当然だが、少年貫首が

イジメられていたのだ。

 こうした事態に世話係は、少年貫首を擁護する指令を出すのである。

「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代

りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ

……当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」

 たとえ若くとも、この法主の所に本尊はあるのだ。この法主こそ御本仏日蓮天

聖人の生まれ代わりなのだから、宗祖にお会いしたと思わなければならないーー。

 最大級の神秘的な言葉で若年貫首を”生き仏”のように権威づけようとしてい

る。宗門と法主の権威を高めるための神秘化はこの頃からすでになされていた。

 宗内から不信の声があがり、しかもその貫首が人格、力量的に批判に耐えられ

ない時、このようなオカルト的な法主擁護論が出てくるのは、今も昔も変わらな

い。だが、この程度の指令で宗内の和合という目的が達せられるものではない。

何年経っても日鎮上人への非難の火の手は収まらない。日鎮もとうとう我慢でき

なくなったのか、二十二歳の時、三位阿闍梨日芸に手紙を送り、「もう堪らない。

ぜひ会いたい。この書状を見しだい、すぐ登山して私を後見して助けてもらいた

い」と訴えている。そうした後見人のお陰か、日鎮上人は大永七年(一五二七年)

まで四十五年間も猊座にあった。

 [死活相承]

 死活とは只事ではないが、これは現実離れしたオカルトというよりも、ほとん

ど喜劇的な相承伝説である。

 第十四世の日主上人は、上野(群馬県)館林城主の血を引くとされ、十三歳か

ら十三世・日院上人の直弟子であった。

 伝説によると、日主上人危篤の知らせを受けた代官の寂日坊が、栃木県の蓮行

寺に駆け付けたが臨終に間に合わず、日主上人はすでに息を引き取った後であっ

たという。これでは代官による預かり相承とはいえ口頭で相承することはできな

い。「唯授一人の血脈」は断絶してしまう。

 ところが、死亡して床に横わっていた日主上人は、寂日坊が入室するとガバッ

と生き返り、相承を無事に終え、ふたたび死んだという。

 むろん後世に捏造された話だろうが、「法水瀉瓶」「血脈相承」の伝統を守るた

めには系譜が途切れてはいけない。そのために死人まで生き返らせてしまったの

である。このような話を作り出さなければならないほど、すでにこの当時、「血

脈相承」に神秘性をつけ加え、権威を持たせる必要があったのである。

 面授相承を重視するあまり、「面授は本当にあったのだ、その証拠に・・・」と、

怪しげなというよりも滑稽極まる「死活相承」まで作り出したのである。

 日主上人にまつわる根強い死活相承の伝説に対して、大正十二年四月号の『大

日蓮』において堀日亨上人は、今までの死活相承は後世の捏造であったと論評し

ている。

 ちなみに富士年表では、日主上人は天正元年(一五七三年)から二十三年間も

法主の座にあり、慶長元年(一五九六年)日昌上人に猊座を譲り、臨終は元和三

年(一六一七年)となっている。

 [夢相承]

 神秘主義を通り越し、もはや喜劇としか言いようのない死活相承だが、現法

主・日顕もオカルトじみた血脈相承の”奥義”を得々と披露している。

 これは平成四年八月の全国教師講習会で行ったものだが、自分が教学部長にな

ったときの夢物語を持ち出して、血脈相承にも共通する「授受感応の心」を披露

し、自分の血脈相承の正当性を何とか主張したかったようである。

 この時の日顕の”迷説法”を要約するとーー。

 昭和三十六年八月、自分が教学部長に任命される日の早朝午前三時、まだ寝て

いたらフーッと体が起き上がって、そのことについてまだ何も聞かされていなか

ったのに、「教学部長」という言葉がふと自分の口をついて出てきた。そして不

思議にも、その日、本山で日達上人に目通りした際、本当に教学部長の任命を受

けた。これが仏法でいう「授受感応の心」というもので、この心が血脈相承に共

通する心である、と。

 そして、続けて「やはりあの者に譲るという場合、重大な意味の場合はね、や

はりその凡人凡夫の形だけみて、あれがないから違うとか、この形式がないから

違うとか、そんなようなもんじゃないね、やはり。そのー、深い意味は血脈とか

そういう意味においても当然存在する意味があると思うんですね。

 私の時も、血脈相承があったとかなかったとか、確かに言われた点もあったし、

いまそのことを弁護しているという意味は決してないんですよ。そういうことじ

ゃないけれども、いろいろなこの形だけのところを見てね、あれがあったなかっ

たというその短絡的な考え方が、実は違うんだと。もっと、深く厳然と大聖人様

からの御仏意による御指南、相承の元意はですね、厳然と伝わるのであるという

ことをね、今はとくにこの血脈という問題が誤って伝えられている中において申

し上げておきたいのであります」

 何を言いたいのだろうか。血脈相承に対する自己弁護としか聞こえない。日顕

の”夢説法”で言う「血脈相承」とは、「授受感応の心」によって「お告げ」が

あるというのである。自分はこういう”お告げ”を受けるほどの特別の人間だか

らこそ、後に血脈相承を受けることになったのだと主張したかったのであろう

か。

 こんな神がかり的な話を誰が信じるだろう。

 [在家相承]

 第八世日影上人は、応永二十六年(一四一九年)六十七歳で遷化されたが、相

承にふさわしい適当な人物がいず、在家である柚野浄蓮なる人物に貫首を譲られ

たとする説がかねてよりあった。浄蓮は当時、大石寺の寺男であったとされる。

 現在の福島県いわき市の妙法寺に「大檀那大伴浄蓮」と第九世日有上人が記さ

れた御本尊があり、これが根拠の一つになったようだが、後年、日亨上人は、

「実際に相承はなかったようである」と否定する見方をとっている。

 しかしこれに関連して注目したいのは、五十六世日応上人が、この問題にふれ、

涅槃経の四衆平等の文を根拠にして、

「今吾カ金口嫡々相承ノ最要ハ是等惣付ノ類ニアラストイヘトモ其ノ状態ニ至ツ

テハ彼此異ルコトナク偏ニ正法ヲ護持スルニアルナリ故ニ當器ノモノナクンハ優

婆塞・優婆夷(在家の男女)ニ附スルモ何ノ妨ケカ之アラン況ヤ浄蓮ハ精師記ニ

云フカ如ク公白衣タリトイエトモ信心甚深ク故ニ之ヲ授ク」(法之道 研究教学

書 巻二十七)と言っていることである。

 血脈相承に適する者がいなければ、経文に照らし、この正法を守るために僧侶

でなくても在家の男女に授けても一向にさしつかえない。浄蓮はやっと白衣を着

たような身分の者であるが、信心が深いので相承をしたというのである。

 浄蓮相承は誤説としても、これは僧侶たちに対する痛烈な警告になったろう。

「僧侶の中にふさわしい者がいなければ、在家の男女が相承してもさしつかえな

い……」。唯授一人の血脈は僧侶の独占物ではないのである。ましてや現在の宗

門のように限られた一族の独占物といった風潮など語るに足りない妄論である。

 僧侶だけではなく、在家に継承されても何の不思議もないという開かれたダイ

ナミックな血脈観こそ、宗祖本来の血脈観ではなかったか。血脈観にはこのよう

な生き生きとした理念が流れていることを忘れてはなるまい。

 [法主失踪事件]

 文久二年(一八六二年)、五十二世の日霑上人は、日盛上人に猊座を譲り、隠

居する。日霑上人はかなり個性的、つまりワンマンであったといわれ、他に猊下

の器量に達する者がいなかったせいもあるが、自ら指名した日盛上人とソリが合

わず、むしろ嫌悪してことごとに辛く当たった。

 日盛上人は困ったがどうにもならない。ある時、大石寺内で火災が発生し、客

殿、六壺、大坊を焼失した。日霑上人はこれをチャンスとして日盛上人の追い出

しを図る。日盛上人ももはやこれまでと、大石寺を離れ、栃木県の寺に移った。

この法主失踪で系譜は乱れ、日盛から日英、しかしこれも登座わずか一か月あま

りで、ふたたび日霑、そして日胤、日布とめまぐるしく法主が変わり、明治十八

年(一八八五年)、三たび日霑上人が登場してくる。

 こうなると寺は権力闘争の舞台以外の何ものでもなく、法主の座をめぐって激

しい抗争が展開されたのである。

 このような醜い争いの中に、大聖人の「内証」がきちんと継承されてきたので

あろうか。はなはだ疑問である。

 

[法主追い出し事件]

 大正十四年十一月二十日、大石寺で聞かれた宗門の宗会は、五十八世日柱上人

の不信任を決議、辞職勧告を決定した。宗門がこのように露骨に反法主の姿勢を

打ち出したのはむろん前例がない。

 ここに至るまで、議員の間で何度か根回しや密議が進められ、脱落者を出さぬ

ための誓約書なども交わされていた。

 その内容は「現管長日柱上人は私見妄断を以て宗規を乱し、宗門統治の資格な

きものと認む、吾等は速かに上人に隠退を迫り、宗風の革新を期せんが為、仏祖

三宝に誓ってここに盟約す」と前書きし、不法行為としていくつかの点をあげ、

ボイコットを確約しているのである。

 すでに知られているように、日柱上人はその二年前、日正上人から法主の座を

譲られたのだが、この猊座をめぐって日顕の父・日開と暗闘、日正上人の強い意

思によって法主の座を獲得したのである。

 そういう意味では日柱上人は反対派からの被害者のようにみえるが、実はこれ

ほど僧侶たちに評判の悪い法主も少なく、現在の日顕といい勝負なのである。

 日柱上人は、名刹の出であることをつねに誇示し、堪え性がなく、所かまわず

中啓で僧侶を打ちつけ、時によっては殴る蹴るの乱暴を働いていた。

 したがってクーデターにまで発展するのも自業自得というわけだが、議決の二

日前の深夜には、勤行中の日柱上人に対して、客殿に石や瓦を投げつけたり、ピ

ストルを発砲し、脅かす者まで現れる有様だった。

 クーデター派は次期法主まですでに決めておくという手回しの良さで、日柱上

人の辞職を勝ちとったが、これは大石寺の檀家たちの反発を生み、文部省も不祥

事として介入、大石寺には日柱前法主、日亨新法主の二人が並立するという異常

な事態となった。

 むろん血脈相承どころではない。結局、管長選挙で決定することになり、日亨

上人が正式に就任するのだが、それも二年で自ら辞任、こんどは阿部日開が泥仕

合のすえ選出される。

 当時、本山の立木を勝手に伐採して選挙費用に充てたり、元法主の隠居所の維

持費を横領した疑いなどが次々に表面化して警察沙汰になるなど、血脈相承をめ

ぐり大スキャンダルが繰り広げられたのであった。

 その時の首謀者・日開の息子が目顕で、親子二代、”黒い霧の中の相承”の立

役者になったわけである。

 さらに、言いわけもできない厳然たる事実によって、法主絶対論を根底から揺

さぶるこんな法主もいた。六十一世水谷日隆上人である。

 宗務総監であった昭和五年十二月、寺の金で芸妓の身代金を払って妾にし、背

任罪に問われて書類送検された。そんなハレンチ僧にもかかわらず、どういうわ

けか昭和十年六月に法主になる。法主になった後もほとんど本山にはおらず東

京・向島の常泉寺に住み続け、七百年にわたる宗門伝統の丑寅勤行の大導師を勤

めることなく、御本尊を一幅も書写しなかったのだ。

 しかも、大正十四年十一月に起こった五十八世日柱上人追い落とし事件では、

クーデター派の首謀者の一人でもあった。日顕一派が言うように「法主に信伏随

従せずに逆らう者は三宝を破壊する者で、これ以上の謗法はない」のであれば、

この日隆上人も”三宝破壊者”であり、なぜそんな人間を法主にしたのか、そん

な人間が法主になれたのか明確に説明すべきであろう。

■法主と大衆が共同で推持してきた「唯授一人の血脈」

 我々は宗門の歴史を無視したり、ことさら美化することで、法主や宗門の真の

あり方に盲目であってはならない。できるかぎり冷徹な目と知識で、宗史の生き

た側面に肉薄しなければ正確に対応することはできないのである。

 ここで我々が主張したいのは、「一本の絹糸のような唯授一人の血脈は、それ

を継承する法主一人の力、働きで維持厳護されてきたものではない」ということ、

さらに歴史的に見ると、法主と当時の大衆(僧侶と信徒も含む)が、ある時はせ

めぎ合い、ある時は補い合い、共同の連関作業として「唯授一人の血脈」を成立

させてきたということである。ところが現在の宗門の悲劇は、このか細い絹糸が

いかに尊いか、それをことさら強調することばかりに目を奪われ、一本の絹糸を

支えるためあらゆる時代を通じて実在した無数の相互の力関係を見捨て、切り捨

ててしまったことにある。その結果、法主のみが絶対、無謬といった妄論を生ん

だに過ぎない。

 愚かで軽薄な日顕崇拝がその端的な現象で、日顕を生き仏か現人神のように敬

うといっても、支持する僧たちはただ日顕の狂暴性、威圧性に恐れおののき、盲

目的に恭順の姿を装って、台風一過を待っているだけなのだ。

 ご自身、相承についての波乱の中に身を置かれることになった堀日亨上人は、

「血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙」という論考(大正十二年)の中

で、血脈相承は冷静に考察すべきであるとし、いたずらに神秘化することを厳し

く戒められているが、そのうえで「信仰の対象」と「尊厳の対象」とを明確に区

別されている。

「仏法と御本尊に対する信仰」と「法主に対する尊厳」、この二つは混同しては

ならない。現在の法主絶対化は、まさにこの二つを意識的に混同させている。も

ともと法主は尊厳の対象として存在するのだが、日顕にはその尊厳性もないため、

それを規則や強制によって周囲から求めようとしているのである。尊厳、尊敬の

念は決して強制や制裁によって生じるものではない。人としての振る舞い、言動

が法主にふさわしければ、周囲が自然と認める。その基本の道理さえ分からない

日顕の姿は、狂乱と断定せざるを得ない。

 猊座は尊崇なものであるが、そこに座る人間は必ずしも尊崇とは限らないので

ある。

 平成九年八月の教師講習会で日顕は、学や徳があろうとなかろうと、どんな僧

でも相承を受けた以上は「生身の釈迦日蓮」であるかの如き発言をしたが、この

発言など、自身を正当化するために猊座の本義を完全にねじ曲げたまったくの邪

義と言わざるを得ない。

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