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第七章 血脈相承の本義

■日亨上人の血脈相承への問題提起

 第五十九世堀日亨上人は近代随一の碩学として知られ、宗義、宗史に対する深

い調査と研究をされているが、血脈相承についても先見的な探求をされていた。

そこでは血脈相承の内容を「御当人の実人」(第一案)「授受の法式」(第二案)、

「法式と実人が兼備した法人映発」(第三案)の三つの観点から考察している。

 「御当人の実人」とは法主にふさわしい資格・能力をもつ人物であること、「授

受の法式」とは血脈相承の形式作法、「法人映発」とは法式と実人の双方に権威

があって、これが共に実施されてはじめて相承と認められる、という三つの捉え

方をされていた。

 日亨上人が問題提起されたのは、血脈相承は法式に権威があるのか、血脈を受

ける当人に権威があるのかということである。

 日亨上人は預かり相承を例に考察され、実人に権威があるとすれば法式は形式

に過ぎないから血脈断絶にはならないが、実人でなく法式に権威があるとすれば

血脈断絶となり、また実人にも法式にもともに権威があるとすれば法水一時枯渇

となる、とされている。

 現宗門では法灯連綿と血脈が相承されているという前提に立って法主絶対論を

主張しているわけだが、実人、法式、法人映発の三つの観点からそれぞれ矛盾す

る史実があるのをどう説明するのか。早い話が、日顕自身がこの三つの観点にま

ったく適合しない。

 こうした史実、現実を無視した法主絶対・無謬論は単なる独善でしかない。

 日亨上人が指摘された「実人」に対して、嘘をついて登座した日顕は、その出

発点からして「嘘人」である。「実」の反語は「権」あるいは「嘘」にほかなる

まい。しかも日顕は、伝統、宗派、宗祖、教義に甘え、自らの権威付けのために

それを利用するばかりで、「実人」になる努力すら、まったくしてこなかった。

法主であれ、信・行・学を怠れば、容易に「実人」から「権人」「嘘人」に転落

しえるのである。これが日亨上人の血脈付法の「実人」に対して抱かれた厳粛な

態度であられた。また、「嘘人」であるからこそ、それを言い繕うために嘘をつ

き続けなければならないのである。

■日亨上人の血脈観

 その日亨上人が昭和二十六年、相承について、実に明快で重大な発言をしてい

る。当時の法主は水谷日昇上人。堀上人は畑毛の雪山荘で、御書の編纂に情熱と

意気を傾けられていた。そこで日亨上人は、身近にいた僧侶に対し、次のように

述べているのである。

「柱師がワシに相承する時は、有元広賀(総監)を使者として、ワシに相承する

よう柱師に頼んだ。柱師は、頑として言うことを聞かない。ついに有元が根負け

して、三千円あなたに渡すから、それで頼む、と切り出して、ようやく承諾した

ものだ。柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知っておる。何も三

千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから三千円の相承はワシには必要な

いと突っぱねたんだが、周囲の者が伝統の形というものがありますからなどと言

って承知しないものだから、しようがなく形の上で受けたにすぎんのじゃ。崎尾

の相承もそうだ。中(弥兵衛)とか多くの信者が涙声で頼み込むものだから、つ

いワシも傍観できず、二階に上げて聞いたが、案の定、学問する者にとってはビ

ックリするほどの内容もなく、大ミエを切って、これが相承であるぞというもの

ではなかったよ」

 大正十五年三月八日、柱師、つまり日柱上人から堀上人への相承の儀式が行わ

れた。前年の十一月に宗会が柱師に辞職勧告を突きつけてから、この相承にこぎ

つけるまで、宗内は柱師擁護派と堀上人擁立派に分かれて、逮捕者を出すほどの

すさまじい抗争が繰り広げられたのである。

 僧侶の大半が堀上人に味方し、柱師を守ろうとしたのは本山の総代や各地の有

力信徒たちで、僧侶はほとんどいなかった。それで、柱師は文部省宗教局に泣き

つき、その調停で大正十五年二月に管長選挙が行われた。だが、堀上人が八十二

票に対して、柱師は三票しかとれず惨敗。それでも、柱師は、”管長職は譲って

も法主の座は渡さない、血脈相承はしない”と抵抗したのである。

 それで、堀上人擁立派の中心者の一人だった、当時総務(現在の総監)の有元

広賀が柱師に隠退料として大石寺から三千円支払う等の待遇案を出して、ようや

く相承にこぎつけたというわけだ。

 この「隠退料三千円」の一件については、「静岡民友新聞」(現在の静岡新聞)

の大正十五年三月二十一日付にも掲載されている。

 問題は、堀上人が「柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知って

おる。何も三千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから三千円の相承はワ

シには必要ないと突っぱねた」と述べている下りだ。

 日顕は、”相承には未公開の法門があって、それが相承を受ける者を信仰的に

も人格的にも飛躍的に高める”かのようなことを言うが、そんなデマカセは、こ

の堀上人の談話一つで吹き飛んでしまうのである。

■法階が変わっても人格は変わらず

 堀上人は登座後の心境を、次のように述べている。

「法階が進んで通称が変更したから従って人物も人格も向上したかどうか私には

一向分明ません」「慈琳が日亨と改名しても矢張り旧の慈琳の価値しかありませ

ぬ事は確実であります」

 かつて日達上人も「相承といっても特別なものはない。御書をよく読めばみな

書いてあることだ」とおっしゃっていたが、そこには、”法主になれば大聖人の

法魂が乗り移って大御本尊と不二の尊体になる”などというバカげた血脈観は微

塵もないのである。

 堀上人が言う「崎尾の相承」とは、五十七世の阿部日正上人が持っていた相伝

書を正師の臨終間際、側に仕えていた崎尾正道がこっそり抜いて持っていたもの。

その相伝書の中身は、五十五世下山日布上人が相承のことを書き記したものと言

われるが、要するに、布師も正師も柱師も、堀上人が自分の研さんで得た以上の

ものは、持っていなかったということである。

 さらに柱師に至っては、自分が堀上人に伝えるべきものは何もないと自覚して

いたから、相承の儀式は行ったものの、相承の中身はあえて言わなかったという。

堀上人は同じ昭和二十六年の冬、次のように語っている。

「ワシは、柱師からあらたまって相承は受けておらん。それは形式的なものだ。

柱師も亦、相承というものは受けておらんかったようだ。考えてみれば、柱師が

ワシに相承しないのは、悪意ではなく柱師の善意であったように思う。ワシの方

が法門は勝れているのは柱師も解っていたので、あえて相承の中身を言わなかっ

たのだと思う。だから、ワシは昇師が、もし相承しないまま亡くなられても、次

の方に相承をせぬ覚悟じゃよ。ワシはそれ程うぬぼれてはいない。

 口決相承等というものは信仰の賜じゃよ。信仰もなく学も行もない、親分・子

分の関係を強いているヤクザの貫首が、いったい何を伝授するというのか。今、

もしこの様なことを言って公にすれば、宗門はまだ小さいし、また伝統を破壊す

ることになると思って、じっと黙っているまでよ。それをいいことにして、横

暴・無頼の限りを尽くすとは、いい加減にしなきゃ、いかん。柱師は卑しいこと

に、文部省に行ってまで、三千円の約束がある、三千円はどうしたと言っていた。

情ない話じゃ」

「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」とい

うのは、直接的には、柱師のことを指しているのだろうが、実に痛烈である。

■嘘をつく者は法主として論外

 堀上人は昭和二十六年夏の談話で、次のようにも述べている。

「英師は、『私は相伝者に非ず。相承の取継番人にすぎぬ』と言ったが、誠に偉

いものだ。口伝なるものは完器にして始めて可能なんじゃ。破器・汚器の者であ

れば、猊下と雖も何にもならんということに気がつかないんだから困ったものじ

ゃ。おかしくって。猊下というものは、法の取継に過ぎんのじゃよ。嘘をつく者、

如才ない者は論外だよ。でもな、いずれそのうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下

も出てくることだろうよ」

 英師というのは、五十一世日英上人のことである。堀上人は、英師の言葉を引

き合いに出しながら、「口伝というのは、ひっくり返ったり漏れたりする、いわ

ゆる覆漏汗雑のない完全な器の人物であって初めてできることであって、破れた

器や汚れた器の者は、たとえ法主になっても何にもならない、単なる取継者にす

ぎない」と言っているのである。

 さらに、「嘘をつくような者、手抜かりがない策略家は法主として論外だ」「そ

のうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくる」など、今の日顕の出現を予言

したかのような発言まである。登座自体が嘘で固められた日顕は、さしずめ論外

中の論外であろう。

■無相承法主ほど猊座を絶対化したがる

 堀上人は先に見た「血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙」という論文

で、冒頭、「吾宗本山代々貫首の血脈相承と云ふ事が頗る高潮せられたり、又大

に冷評せらる事があるやうである」と書き起こしている。ここに堀上人の血脈に

ついての見方の基本が出ている。

 すなわち、相承を持ち上げすぎるのも、下しすぎるのも間違いだ、と。その二

つを並べて二つともバッサリ否定しているのである。

 持ち上げすぎるというのは、大聖人の”法魂”が乗り移るとか、日顕が平成九

年の教師講習会で言った「学や徳がなくても、相承を受けた者はみな生身の釈迦

日蓮になる」といった神秘的な子ども騙しの相承観。歴史を精査した堀上人の目

から見れば、それが嘘であることは一目瞭然なのだ。

 そもそも、本当に相承を受けた法主が、「相承といっても大したことがない」

と言う。これに対し、日顕は相承を受けていないからこそ、相承を過剰に持ち上

げたがっているだけなのである。

 堀上人はこうした”高潮”した相承観を否定する一方、談話で「口伝なるもの

は完器にして始めて可能」と述べているように、「完器による口伝、相承」とい

うものを認め、それを理想とされている。江戸時代に造仏読誦を容認する京都・

要法寺出身の法主が九代、百年間続いた後、日寛上人が現れたように、破器・汚

器が十代、二十代と続いても、完器が現れるという見方をされているのである。

 堀上人が談話で”仮に時の法主・水谷日昇上人が相承しないまま亡くなって

も、次の方に相承をしないつもりだ”と述べているのも、自分は完器ではないと

いう謙遜と同時に、完器による相承は不断であるとの絶対の確信の表れともいえ

よう。

 これに対し、日顕は「完器」どころか、穴だらけで汚れきった「破器」「汚器」

といったところだろう。

■法主は「一閻浮提総与」の御本尊の管理者

 「血脈相承」の原点は、宗祖日蓮大聖人から日興上人へ、日興上人から日目上人

へという、この二つの相承の形にみることができる。これが永遠不変の「相承」

のあり方、考え方なのである。途中を云々しても始まらない。今こそ原点に立ち

返って血脈の本義を考えてみたい。

 弘安五年(一二八二年)九月、宗祖は「やせやまい」(慢性的な胃腸疾患であ

ったろうか)に苦しめられ、身延を下山されて、常陸の湯(温泉)に赴いて治療

されようとされた。身延を下山される前から、宗祖は示寂(入滅)を覚悟されて

いたのであろうか、まず「身延相承書」(日蓮一期弘法付嘱書)を認められた。

 身延相承書

 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきな

り、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時

を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきな

り。

  弘安五年壬午九月 日

                         日  蓮 在 御 判

                         血脈の次第 日蓮日興

 これによって日興上人への相承を明確にされたのである。途上、宗祖は武州池

上の池上宗仲の邸宅に立ち寄られたが、病いはますます重くなられる。日興上人

に書かせた書状に「所らう(労)のあひだはんぎゃう(判形)をくはへず候事恐

れ入り候」とあるように、書面に花押を認めることも困難な状況になられた。そ

して六人の「本弟子」を定められた後、十月十三日、次の書を示して入滅された

のである。

 池上相承書

 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきな

り、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬午十月十三日                武州池上

                             日蓮在御判

 この両書を総称する二箇相承こそ、相承の基本原理であって、深い意義をたか

えながら、ともに実に明快な書面である。宗祖の深甚のご意思が簡潔かつ明晰に

述べられている。

「身延相承書」をさらに子細に読んでみよう。この短い文書には絶対的、相対的

な部分がともに明示されている。「絶対的な基軸」、「相対的な基軸」と言い換え

てもいいだろう。

 まず「日蓮一期の弘法」、これこそ絶対的な基軸である。日蓮大聖人が生涯を

かけ身命を賭して完成された仏法、そして「事」として顕わされた大御本尊…こ

れは時間、空間を越えて遍満する揺るぎのない真実である。何一つ付け加えるこ

とも、減ずることもできない、唯一無二の完璧の三大秘法の仏法とみなくてはな

らない。そして「本門弘通の大導師たるべきなり」以下は、当時の状況に立脚し

た相対的な基軸と考えることができよう。ある特定の人物に付与するという相承

の手続き、系譜、つまり筋道である。時代や背景に適合させて、ベストの方法が

選ばれることになる。

「大導師たるべきなり」…この仏法を広める最大の指導者として任命されるので

ある。そしてやがては広宣流布を担うべき国主(具現者)が現れ、富士山を臨む

場所に戒壇が建立されるであろう。その時が必ず来るのだから、大事なのは「時

を待つ」ということである。事の戒法の原理は完全な形でここに残したのだが、

将来これをさらに完成させ発展させる者は誰であろうか。国主も時もともに必要

なのである。お互いに力を携えこの目的に邁進せよ。こうした宗祖の理念が脈々

と流れている。

「池上相承書」では、さらに明瞭に述べられている。弘通のリーダーと目された

日興上人が、大法を広宣流布する拠点である久遠寺の別当職を授けられたことが

明記されている。弘通のリーダーとして一つの教団をいかに管理、統率するか、

また社会的に、国家的に、さらには一閻浮提という全世界に向かって、どのよう

に大法を弘通するかという具体的で現実に対応する要素が前面に打ち出されてい

るのである。

 一般に「身延相承書」は仏法の一切を日興上人に付嘱されているところから総

付嘱書、「池上相承書」は身延山の別当を付嘱されているところから別付嘱書と

いわれているが、ここで間違ってはならないのは、もともと三大秘法の仏法は、

僧侶ばかりでなく、「一閻浮提総与」として全世界の民衆に与えられたものであ

り、法主の独占物ではない。相承者とは、この大法を後世に完全に伝えるための

管理者の役目を与えられたに過ぎないのである。

 全民衆に授けられるものを、一人の後継者に預けるのであって、それは法を正

しく伝えるための手段と考えてよいだろう。

 例えば国宝は全国民の宝物である。ところが貴重なこの宝を後代に大事に、完

全に伝えるために国の博物館なり個人なりが預かって、責任をもって保管してい

る。相承もこう考えると、分かりやすいだろう。唯一無二の大法を完全に残すに

は、こうした相対的なやり方が、もっとも安全な方法なのである。

 貫首とは、あくまで大法の流布を宗祖から預託された管領者に過ぎないのであ

る。これを間違って捉えると、貫首が宗祖の仏法を付嘱されたのだから、我こそ

本仏と錯覚し、日顕のような迷路に陥ってしまうことになるのだ。大法弘通は総

と別の逆説(総与というものを相承という形で一人に譲る)の上に具現化される

のである。

 あらためて言う、日蓮大聖人から日興上人への「身延相承書」に、「日蓮一期

の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」と。

 日興上人は、大聖人の「一期の弘法」を付嘱された「本門弘通の大導師」であ

る。つまり、「弘通の大リーダー」であることが日蓮大聖人からの「相承」の原

則なのである。弘教の先陣を切って戦う「大導師」、すなわち「弘教の大リーダ

ー」の交替なのだ。

 弘教も何もせず、ただ権威づくで威張っているだけ、しかも現実に全世界へ仏

法を流布している創価学会を破門、除名するような”大導師”では、微塵も日蓮

大聖人のお心にかなうはずもない。それどころか、宗祖に弓を引く天魔である。

■「廃嫡処分」が当然の錯乱した”嫡子”

 宗史をひもとくまでもなく、大聖人入滅後、御遺命に従って、身延に廟所を営

み、弟子十八人で、輪番制によって守護に当たることになったが、各地に安住す

る五老僧たちは、厳格な日興上人の姿勢や謗法厳誠の方針を快く思わず、ついに

墓輪番すらも空洞化させてしまう。そして宗祖の大法要を池上で行うことで、分

裂は必至となってしまった。

 民部日向が三年後、身延に上がった。日興上人や地頭たちは歓迎して、学頭の

要職につけたが、日向はすでに鎌倉の軟風に染まって厳粛な身延での生活に耐え

られない。とうとう地頭の波木井実長(日円)をも誘惑して、謗法を重ねるよう

になり、日興上人の警告に反発して、恨み言をいうようになった。全山には堕落

の空気が蔓延してしまう。

 日興上人は「もはや清浄の地に移るしかない」と汚濁化した身延を離れ、大石

寺を建立された。そして弘法に尽力され、正慶二年(一三三三年)二月七日、重

須本門寺で八十八歳で遷化されるが、次に貫首になるのは新田卿阿闍梨日目上人

である。

 日目上人は、伊豆国仁田郡畠郷(現在の静岡県田方郡函南町畑毛)の新田家の

出で、南条家の縁で幼少の頃から日興上人の門に入り、身延から富士へとひたす

ら常随給仕された。

 この相承にあたり、日興上人は『日興跡条条事』で内容を明記されている。

 これは全三か条からなるが、第一条は、本門寺建立の時は日目上人を座主とな

すこと。新座主の日目上人と僧侶、信徒に対し、「日本国乃至一閻浮提の内山寺

等に於いて…」と、日本ばかりか世界の国々で寺を建立して宗勢の発展を図ると

ともに、その管領の仕方についても述べられている。日興上人は宗祖の御遺命ど

おり世界への弘通を念頭に置かれていたと拝すことができるのである。次は日興

上人が「身に宛て給はる」弘安二年の大御本尊の日目上人への授与である。もち

ろんこれは宗祖が確立された出世の本懐の「法体」を伝持することであり、「広

宣流布をまかせたぞ」というご意思にほかならない。

 残りの一か条は「法体」、大御本尊を奉安する大石寺の管理、修理を促されて

いる。そして最後に「広宣流布を待つ可きなり」と順縁広布を希望して、最後の

条を終えられている。

これまた実に明快であり、後年から現在に至るまで、「秘儀・奥儀」を誇張し、

いかにも秘密めいたものに仕立て上げた偏狭な宗派の血脈観と異なって、いかに

現実的、具体的、開放的なものか一目瞭然である。

 血脈相承とは、「法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(生死一大事

血脈抄)という末法の民衆を救済する原理として、大聖人が確定された御本尊を

素直に伝え継承し、この大法をどのように広宣流布していくかという実践こそが

内容の核心である。このために寺を建立し、管理し、修理せよと、まさに新法主

にはその監督者の役目を命じられているのである。

 日興上人が身延離山の際に認められた原殿書の一節にも、開祖の血脈観がはっ

きりと打ち出されている。

「打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候

わん事こそ詮にて候え。(中略)日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り

候べき仁に相当つて覚え候えば、本意忘るること無くて候」

 これは血脈相承の根本の基準が述べられている。「唯授一人の血脈」の根本の

本義、内実はどこまでも「聖人の御義」であり、「本師の正義、本懐」であり、

「聖人の本意」であると明確に断定しているのである。

「血脈の次第 日蓮日興」(身延相承書)といわれる唯授一人の血脈の淵源の原

像を簡潔にまた明快に浮き彫りにされているのである。日蓮大聖人の仏法にあっ

ては、これが正否を決する根本の基準になるのである。

 これからみると「大聖人の仏法の化儀化法の一切の決定権は時の法主一人にあ

る」というような”日顕擁護論”は、いかに史実に反しているか、いかに時の法

主の個人的威信の絶対化を図るため意図的に作り出された神話、幻想にすぎない

か、明白になるのである。『親心本尊抄』にはさらにこうある。

「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行

ずる時は僧と成って正法を弘持す」

 これが広布の原型といっていいだろう。折伏を行い、社会に展開する者は賢王

(賢明な王、為政者)として出現し、摂受する者、つまり正法を護持し、監督し、

伝持する者は僧として現れることになる。同じ働きの異なる現れである。この僧

が唯授一人の流れ、系譜であって、この二者は同格でなくてはならない。

 人間として最高の行為である折伏は、賢王に象徴されるように、白衣を着て威

儀を正すこともなく、俗世間にあって働き生活する在家によって担われ、僧は摂

受の面を担当することになるのである。こうみると、血脈の一翼である広宣流布

の担い手の主体が在家であるのだから、血脈とは法主一人によって担われるので

はなく、本来、僧俗の共同で担われねばならないことになる。と考えるなら、

「我こそ絶対的な法主」という我一人高しとする日顕一派の血脈観がいかに血迷

ったものであるか、明確になるのである。

 日興上人は、日目上人への譲状「跡条条事」の中で目師を「嫡子分」と表現し

ているが、血脈相承を家督相続に当てはめて考えればきわめて分かりやすい。

 親の死後、嫡子が家督を受け継ぐ。多くの兄弟があっても家督を相続するのは、

ただ一人である。これが複数であっては争いの元になるからである。また、嫡子

が立派なのではなく、受け継ぐ家財の内容に意味があるのである。宗門の場合、

「三大秘法」「大御本尊」というたとえようもなく大きな財産を引き継ぐことにな

る。しかも、本来、これは全民衆に与えられたものである。この財産を確かに保

持する機能を嫡子である法主に与えられ、法主はその役目を担うわけである。

 嫡子は家を維持し、発展させる義務も負う。したがって家財を浪費し、疲弊さ

せ、崩壊の危機を招くようなら、廃嫡されるのは当然である。とても家財を相続

する嫡子として認めるわけにはいかないのである。

 日顕はまことに愚かにも、宗門を再興し世界的に発展させた創価学会を、嫉妬

と自分の権威の私物化のために切り捨て、宗門を自滅の道に追い込んだ。七百年

有余にわたる法灯と法門はいまや滅亡の淵に立たされている。

 日興上人は、「日興遺誡置文」ではっきりと述べられているではないか。

 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」

 廃嫡してよろしいというのである。宗祖、開祖の本義から離れて、勝手な理屈

を振り回し、一家を崩壊させる輩は、すでに自ら嫡子分を放棄したのであり、降

りてもらうしかない。遺誡置文では、貫首の権限にこう厳しい制限を与えている。

 むろん逆に、「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事」と貫首

の権能に言及している項目もあるが、日顕の場合は、むしろ衆議こそ仏法に適う

ものであり、廃嫡処分はしごく当然といわなくてはならない。嫡子が立派なので

はなく、家宝こそ立派なのだが、あたかも嫡子そのものが宝であるかのように曲

解し、絶対化、神秘化するのは、滑稽であり危険きわまりない。

「受けた私こそが立派で宝なのだ」という日顕の姿勢は血脈、唯授一人の”一人

歩き”というべきものだろう。

■「宗派の血脈観」でなく「宗祖の血脈観」の回復

 日顕が日達上人より相承を受けていないことは客観的な事実で裏付けられる。

しかもその行躰自体が法主としてあるまじきもので、まったく認められない。し

かし、それではいったい、我々の主張と正信会などのそれとはどこが違うのか。

 正信会を代表する久保川法章らは、いわば”血脈二管説”とでもいうべきもの

を採る。

 これは「元々、血脈の流れる管は二本用意されていて、本来は法主の管で流れ

ていくが、もし、それがつまったり、切れたりしたら、もう一方の大衆(僧侶)

の管に流れるのだから日顕が相承を受けたことは認められないから、現在の時点

では、広く大衆(僧侶)たちの管に流れている、だから適当な人物が登場するだ

ろう」というものである。

 また顕正会の浅井会長は、「先生所持の人」なる聞き慣れぬ用語を持ち出

し、”正統貫首再生論”を打ち出している。つまり、「日顕と宗門は認められな

い。過去世において大聖人の精神を体する正統な法主であった者がいつか再生す

ることがある。それを待つしかない」とし、浅井某自らが再生した存在であるか

のように暗示している。

 これらの主張と我々の主張との違いを明確にすることは、取りも直さず、我々

の主張する血脈観の本質にかかわってくる。

 端的に言えば、正信会の「血脈二管論」も、顕正会の「先生所持の人」を持ち

出す正統貫首再生論もともに「相承」なるものに宗教的絶対性、神聖性を認める、

旧来の宗派の血脈観の域を一歩も出ていないということである。

 血脈が器用に二管に分かれたり、相承がいったん途切れても、正統な貫首が再

生すれば血脈が再び蘇るという発想は、相承とは絶対・神聖であるべきという願

望の濃厚な反映以外の何ものでもない。

 我々はこのような旧来の「宗派の血脈観」をいったん脇に置き、単刀直入に

「宗祖の血脈観」を見据え、回復すべきであると思う。

 先に縷々検討したごとく、「宗祖の血脈観」は二箇相承・日興跡条条事にその

全容が明らかになっている。

 端的に言えば、宗祖の意図した血脈相承とは、自らの本懐(宗教的救済原理)

の滅後への遺託・遺嘱以外の何ものでもない。噛み砕いて言えば、宗祖の法財の

申し送り・継承のあり方こそ相承の実質内容であり、相承をもって宗祖の法財そ

のものの一部と見なすことがそもそも根本的誤りであると指摘したい。

 先述した原初の相承書はこの点を明確に浮き彫りにしている。

 宗祖の法財そのものと、その申し送りの手継・あり方は明らかに別である。

「宗祖の血脈観」から導かれることは、この点に極まるといえる。宗祖の法財は

仏の側に属し、その申し送りのあり方は衆生の側に属するものである。申し送り

のあり方の不手際、ギクシャクが起きても何ら不思議はない。先述したような宗

門の歴史を見れば誰もそれを否定できない。しかし、申し送りのギクシャクは、

宗祖の法財そのものに何らの損減を与えるものではない。

 我々は”(相承が)あった・なかった、(血脈が)切れた・切れてない”などの

議論に血道を挙げ、その一点に宗祖の仏法の根幹があると錯覚するのは、実に愚

かであり、不毛の議論であると言いたい。相承の断不断は宗祖の法財とは無縁の

もので、宗祖の法財は「万年の外・未来までもながるべし」という未来永遠の大

法なのである。「宗祖の血脈観」の骨格は、この点に尽きる。

 我々のめざすところは、「宗派の血脈観」の根本的見直しという作業を経た、

”徹底した解体”とも言える。それは単なる破壊ではなく、取りも直さず「信心

と血脈とは要するに同じ事になるなり」(有師化儀抄註解)という「宗祖の血脈

観」の回復なのである。

 我々は、こうした血脈相承の原点に立脚したうえで、あらためて、

 @現法主日顕の権威主義的人格、品格、教養の欠如、成り上がりの貴族趣味な

どの個人的人格の問題。とくに一宗の最高指導者、責任者としての資質、意識の

決定的欠如。

 A宗祖、開祖の本宗樹立の根本目的である末法の「全民衆救済」「広宣流布」

を忘れ、捨て去った日顕一派の信心の欠如。

 B血脈相承についての邪義の主張と、それによる法主絶対化、僧侶優位と信徒

蔑視の思想。

 C僧俗平等観の否定。

 D法主への過度の権限集中。

 E大石寺住職の職権の私物化。

 F教団の形成と機能に関する基本的認識の欠如。

 こうした点を追及し、宗門改革をめざし世論を喚起するために、日顕を不適当

な人物として即時”廃嫡”その一派の退陣を要求しているのである。

阿部日顕の正体「完」

2003年7月16日初版

  憂宗護法同盟

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