「法主詐称」   富士大石寺六十七世     阿部日顕の正体を暴く 憂宗護法同盟著 はじめに  我々憂宗護法同盟が前著『法主の大陰謀』を上梓してから八年半の歳月が過ぎ た。『法主の大陰謀』は、『法主の大醜聞』『法主ファミリーの大悪行』に次ぐ、 日蓮正宗法主・阿部日顕糾弾の書の第三弾であり、阿部日顕をはじめ、現宗門執 行部が唯一の切り札にしている「唯授一人の血脈付法」に対して、真っ向から論 断を加えたものであった。幸い、前二作以上に、宗内外から多くの賛同と反響の 声が寄せられた。  日顕は昭和五十四年七月二十二日、先師・日達上人が逝去された直後、緊急重 役会議で、「猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々 に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を 賜ったことを御披露する」と、前年の昭和五十三年四月十五日に、自分が血脈相 承を受けていたことを主張し、宗門の伝統に則った正式な相承の儀式も経ずに、 六十七世法主の座に就いた。  しかし、この日顕の相承には、「証拠」も「証人」も、何一つ、誰一人なかっ た。正信会が日顕の血脈相承に異を唱え、地位不存在確認の訴訟と職務執行停止 仮処分の申請を裁判所に提出した際にも、日顕側は「昭和五十三年四月十五日の 何時から」「大奥のどの部屋で」「どのように相承されたのか」という、ごく素 朴な疑問についても、何ら明快なる答弁をすることができなかったのである。  前作では、こうした日顕の相承をめぐって、日達上人が倒れてから日顕が登座 するまでのドキュメント、日顕が相承されたという「昭和五十三年四月十五日」 の全貌を明らかにし、さらには、歴代の相承と日顕のそれとを比較するなど、疑 惑の徹底追及を試みた。  その後、この八年間で、日顕の相承に関する疑念は、ますます深まった。日顕 の言動それ自体が、自ら相承なき「偽法主」であることを証明するかの如き、異 常極まる狂言悪行の連続だったからである。  中でも、先師・日達上人の御事跡をことごとく本山から葬り去ったことなど、 その最たるものであろう。とりわけ、日達上人が、「もとより正本堂は、本門戒 壇の大御本尊安置の霊堂にして、梵天帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇也」 (昭和四十四年十月十二日、正本堂定礎式「表白文」)と定められた正本堂の破 壊は、まさしく「先師違背」「先師否定」の極みであり、さらには「本門戒壇」 破壊の大謗法である。  そして平成十一年七月には、「河辺メモ」の流出により、日顕の「大御本尊偽 物」発言が発覚した。このいわば平成版「板本尊偽作論」は、一宗派の最高位に ある者が、就任前年(昭和五十三年)の発言とはいえ、自らの宗派の信仰の根本 対境を「偽物」と断じたセンセーショナルな”事件”として、宗の内外を問わず 大きな波紋を広げた。  さらに立宗七百五十年を迎えた昨年前半、宗門は我々同盟の寺院を含む三か寺 に対する明け渡し請求訴訟において、最高裁で相次ぎ敗訴した。いずれの裁判で も、被告の寺院側は、日顕が血脈相承を受けていない、即ち正式な法主ではない ことを主張し、宗門側はそれを覆すことができなかったのである。この”事件” は、登座から二十数年が過ぎたというのに、いまだに日顕が自らの疑惑を払拭で きずにもがき苦しんでいる姿を如実に露呈したのである。  以来、日顕の「血脈詐称」疑惑が、にわかに再燃。前作の再版を望む声も聞か れたことは嬉しい限りである。  そこで、本書では、前作に加えて、この八年間で明らかになった河辺メモ、山 崎正友の日顕宛書簡等、新事実を大幅に加筆し、改めて日顕の「法主詐称の大陰 謀」に鋭くメスをいれた。特に最終章に初公開した堀日亨上人の血脈観は、日顕 のそれとはまったく対照的で、血脈の本義とは何か、宗門改革を志す我々にとっ ても大いなる指針となった。  「はたして日顕には相承があったのか?」ーこうしたこれまでの疑難を単純に くり返すことにとどまらず、いかに日顕の血脈相承がインチキか、宗祖本来の血 脈観に照らし、より鮮明になったものと自負している。  もちろん、本書の中心テーマは、「六十七世」とはいったい何者なのか、「嘘」 と「陰謀」で猊座を奪った阿部日顕の相承の事実関係に的を絞り込んでいる。し かし、それは宗祖以来の血脈そのものを根底から突き崩すことが目的ではない。  前作でも確認したことだが、宗祖大聖人は「信心の血脈なくんば法華経を持つ とも無益なり」と仰せである。  相承の有無、血脈の断・不断の次元を超えて、結局は「信心の血脈」以外には ないのである’この結論こそが、我々憂宗護法同盟の存在理由であり、我々の運 動の目的なのである。 平成十五年七月十六日   「立正安国論」奏呈の日に 憂宗護法同盟代表 小板橋明英 目 次 はじめに プロローグ「相承箱」  日顕の手元にない「相承箱」  不可解な登座後の日号変更 第一章 日顕相承の真実  西奥番室で決まった日顕登座  第一関門・菅野慈雲を籠絡  緊急重役会議で突然“既成事実”を披露した日顕  通夜の席上で唐突に発表された新法主決定  最初の目通りでタンカを切った日顕 第二章 疑惑の「相承の日」  誕生パーティーなどで慌ただしく過ぎた一日  奥番日誌のどこにも出てこない日顕の名前  二十三年ぶりに出てきた不可解な「証人」 第三章 河辺メモの“告発”  戒壇の御本尊を「偽物」と断定  弱味を握られ河辺に屈服  山口範道師の重大証言  メモで再現された“西奥番室” 「アレは除歴しなきゃならん」 第四章 山崎正友との結託  日顕を罵詈罵倒した“山崎語録” 「地獄へ何回堕ちても足りない」 日顕宛の山崎「謀略書簡」  取り引きされた「血脈相承」  欺瞞に満ちた「相承拝信」  山崎に裏切られた「正信会」  共犯者の暴露本で疑惑再燃 第五章 日顕相承の”軽さ”  荘厳さに満ちた日達上人への「略式相承」  日元−日穏上人の息づまるような相承の模様 壮絶ともいえる三つの相承を知る日達上人 裁判における日顕相承の陳腐な答弁 一般僧に相承を否定された前代未聞の「法主」  日顕が相承を受けていない決定的な証拠 第六章 法主絶対論の大嘘     意図的に喧伝された異常な「法主賛美論」  宗制宗規の処分条項に明白な法主絶対化の意図  こんなにもある珍妙な“血脈相承”の数々  法主と大衆が共同で維持してきた「唯授一人の血脈」 第七章 血脈相承の本義  日亨上人の血脈相承への問題提起  日亨上人の血脈観  法階が変わっても人格は変わらず 嘘をつく者は法主として論外 無相承法主ほど猊座を絶対化したがる  法主は「一間浮提総与」の御本尊の管理者  「廃嫡処分」が当然の錯乱した“嫡子”  「宗派の血脈観」でなく「宗祖の血脈観」の回復 プロローグ 「相承箱」 ■日顕の手元にない「相承箱」 「相承箱」ーー。約四十五センチ(一尺五寸)四方の立方体で、黒塗りの手垢が ついた木製の箱。普段は上に錦の布がかけられている。  古来、この箱は代々の法主によって受け継がれ、日達上人の時代には、御宝蔵 の中にある鍵付きの戸棚に大切に保管されていた。鍵は執事が持っており、法主 の命令がなければ絶対に開けることができなかった。いわば、この箱を所持して いることが、相承を受けた法主であることの何よりの「物証」だったのである。  ところが、この大切な相承箱が、今現在、本来あるべき日顕の手元にないとい うのだ。  この相承箱の行方については、日達上人が危篤に陥ってからというもの、内々 ではその所在が焦点となっていた。  病院から日達上人危篤の知らせをはじめに受けた吉田義誠(日勇)は、すぐさ ま大石寺理事の野村慈尊に命じて御宝蔵で相承箱を探させた。ところが、いくら 探しても見つからなかったという。  では、いったい相承箱はどこにあるのか。  ある僧侶は語る。  「日達上人はかなり以前から、大宣寺の菅野に相承箱を預けていたと言います」  「大宣寺の菅野」−昨年十月、なぜか能化に昇格した、故日達上人の娘婿にし て側近中の側近であった菅野慈雲のことで、知る人ぞ知る日顕の相承の裏舞台を 知る最重要人物である。  この証言を裏付けるようについ最近、大変に興味深い話が飛び込んできた。  実は、失われた相承箱を取り返すために、日顕自ら菅野が住職を務める東京・ 国分寺市の大宣寺に乗り込んだことがあるというのだ。  何しろ宗内を欺いて猊座に登った日顕にとって、相承箱の行方は自分にとって の死活問題である。というのも、正式な相承の場合は、宗内にも発表してから儀 式を行い、重役なり総監なりきちんと立会人をたて、警護役も用意する。だから、 万が一、相承箱がその場になくても、相承があったことは証明できる。ところが 日顕の場合、日達上人からの相承は、こうした正式、公のものではなく、「内付」 であったと主張している。ならば、なおさらのこと、日達上人からの相承を裏付 ける相承箱の存在が不可欠なのだ。  そこで満を持して強行したのが、「相承箱奪還作戦」だったというわけだ。  この作戦が実行に移されたのは、日顕の登座から一年半後の昭和五十六年一月 十三日。計画に加わったのは、当時庶務部長兼海外部長の早瀬義孔、早瀬義寛、 そして日顕の一番弟子の八木信瑩と息子の阿部信彰。日顕も含めて合計五人のそ うそうたる顔ぶれである。  この時のことについて後に、早瀬義寛本人も「オレ、警護」と発言。また、日 顕の娘婿の早瀬義純も、「兄貴は腕っぷしが強いから、ボディーガードで行かさ れた」などと周囲に話している。彼がここでいう兄貴とは「袋(池袋)の寛チャ ン」の異名をとる、宗内でも喧嘩の強さでは右に出る者がいない義寛のことであ る。ちなみに義寛は、日淳上人から日達上人に相承が行われた際、本山から日淳 上人の自宅まで相承箱を運んだ当事者であり、当日の相承の模様も詳細に記録す るなど、相承における相承箱の大切さを知悉している人物である。  本山での御講が終わった後、一行は信彰の運転で大宣寺に向かった。到着する や、寺に入ろうとした八木は、菅野から「若造!」と一喝され、玄関から中には 入れなかったという。  結局、八木、信彰の二人を玄関で見張り役にして、奥座敷での菅野に対する直 談判は、日顕、早瀬義孔、早瀬義寛の三人が行った。  話の中で日顕が切り出した。 「時に……」  相承箱の話であることに、菅野はピンときた。  菅野は、すかさず切り返した。 「御相承をお受けになったんでしょう……?」  これに対し、日顕は、 「ア、ア、そう、そうなんだ」と言って、黙るしかなかった。  鼻息荒く奥座敷までは押し入ったものの、自分から相承箱の話を出せば、逆に 相承がなかったことを証明してしまう。結局、日顕は何も言えずにすごすごと尻 尾を丸めて本山に帰るしかなかったという。  にわかには信じがたい話だが、相承箱が日顕の手元にないことだけは確実のよ うだ。  相承箱については、日顕の裏の裏まで握っていた河辺慈篤も、「日顕の手元に は、相承箱はない」と宗内の複数の人間に語っていたことが確認されている。こ の河辺、ある時、学会の幹部にも、「お山には相承箱がない」と、ポロッと漏ら してしまったことがある。後で心配になった河辺は、その幹部に電話をかけ、 「実は内事部の金庫の中にあった」と、何とか言い繕った。何も知らないその幹 部は、「それは良かった」と安心していたという。とんだ笑い話である。 立宗七百五十年を迎えた昨年、皮肉にも日顕の相承疑惑が再燃した。 発端は、離脱した三か寺に対する寺院明け渡し請求訴訟において、宗門が相次 ぎ最高裁で三敗したことだった。宗門は、これらの裁判においても、ついに阿部 日顕が正統な法主であることを証明することができなかったのである。  さらに、立宗七百五十年を前に日顕は、突然、”宗旨建立は三月と四月の二回 あった”と言いだし、三月二十八日に「開宣大法要」なるものを強行、自ら「偽 法主」論議に油を注いだ。  この、再燃した相承疑惑を払拭するべく、昨年八月、日顕は「日蓮正宗青年僧 侶邪義破折班」なる小僧名で、何やら「相承疑惑」に対する反論らしき文書を出 してきた。  しかし、案の定、この「相承箱」については、一切触れていない。こと「相承 箱」の話になると、まるで「唖法を受けたる婆羅門」の如く頬被りを決め込む阿 部日顕。よほど口が裂けても言えない事情がありそうだ。 ■不可解な登座後の日号変更  この相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、「百六箇抄、本因妙抄と、こ の両書に関するもの。あとは授受の代々の法主が伝える一枚の紙切れ」と明かさ れている。「紙切れ」とは、いかにも堀上人らしい表現だが、「誰が誰に相承し た」という系譜図のようなものといわれている。  そこで、俄然、問題になるのが、「誰が誰に相承した」と書き付けられた「紙 切れ」に、果たして六十七世法主・阿部日顕の名前はあるのかという疑問である。  詳細は後に譲るが、日顕は「昭和五十三年四月十五日」に相承があったと主張 する。この時点で、日顕の名前は「阿部信雄」。まだ僧階が「大僧都」だったの で、日号を名乗れる能化にはなっていない。 「日号」とは、僧侶が袈裟免許を受ける時点で、時の法主からもらう名前であり、 それを名乗ることができるのは、能化、つまり「権僧正」以上の僧階の僧侶だけ なのだ。  日顕が初めて日号を名乗るのは、日達上人の急逝に乗じて猊座に登り、僧階も 最高位の「大僧正」になった時のこと。それも、もともと授かっていた日号を捨 てて、自分で勝手に日顕とつけたのである。  当時を知る関係者はこう語る。 「日達上人の仮通夜が終わった後、翌日付の『聖教新聞』で発表するために、日 号を聞きに、日顕の宿坊だった学寮に行った時のことです。日顕は『実は困っち ゃってね。私の日号は法道院さんと同じ日慈なんですよ』と言うんです。しかし、 『今晩中に分からないと、新聞発表に間に合わない』と伝えると、『よわったな あ、法道院さんは今、東京に向かっている道中で連絡が取れない』と言うのです。 日顕が『ともかく、もう少し待ってください』と言うので、ひとまずその場は辞 したのです」 「間もなく日付が変わろうという午前零時前になって、学寮で日顕の側にいた八 木信瑩から電話が入りました。『決まりました。日号は日顕です。父親が日開な ので、ご自分は日顕にしました』との話でした」  しかし、これもおかしな話である。自分の日号が早瀬と同じ「日慈」であるこ となど、とっくの昔に分かっていたはずである。もしも本当に日顕が相承を受け ていたなら、相承箱には「阿部信雄」ないしは、「阿部日慈に相承する」という 趣旨の書き付けがあるはずだ。早瀬と同じであっても「阿部日慈」と明記されて いれば何の問題もない。日達上人から相承を受けた「阿部日慈」として堂々と登 座し、早瀬の日号を変えれば済む話なのである。  よしんば早瀬に遠慮して日号を変えるにしても、それは日達上人の生前に行っ ておくべきことで、それも本来は相承を受けた時点で日達上人と相談のうえで変 更するのが筋であろう。いよいよ自分が登座する段になって、慌てて先師から授 かった日号を捨てて、父・日開との「開顕」の語呂合わせで日顕と名乗る。こん な先師否定、先師違背の大冒涜も珍しい。まさに慢心の極みで、そこには師資相 承を授かるという厳粛さも謙虚さも、微塵もない。  この日号改変の慌ただしさは、日顕に相承がなかったことを何より雄弁に物語 っている。当然、相承箱には、阿部日顕の名前は影も形もないに違いない。  また、この系譜図のような「紙切れ」について、堀上人は「精師は(歴代から) 抜いてある」と語られている。  つまり、江戸時代に「造仏読誦」の邪説を唱えた十七世の日精上人は歴代から 削除、「除歴」されているというのだ。  大石寺は江戸時代の十五世・日昌上人から二十三世・日啓上人までの九代、約 百年間にわたって、京都・要法寺から法主となる人間をスカウトしたため、要法 寺系の邪義が流れ込んだ。中でも「造仏読誦」の邪説を唱えた日精上人について、 堀上人はことのほか厳しく、「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺 に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せる……」「日精に至りては江戸に地盤を居 へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流 たらしめたり」(『富士宗学要集』)と、明確に批判している。  ところがこれに対して日顕は、「堀上人が、ちょっと訳の分からないようなこ とをおっしゃっている」「堀日亨上人は非常に大学者ではあったけど、日精上人 のことについては、正しくご覧になっていないという感がある」などと、堀上人 を批判し、日精上人を擁護する発言を繰り返し行ってきた。  日精上人の「除歴」については、箱が手元にない日顕には確認しようのないこ とだが、それだけに日顕自身も相当気にしていたようである。  昨年一月三十一日、自ら訴えたシアトル裁判において、一審の全面敗訴に続き、 控訴審でも訴え自体を取り下げるという屈辱的な敗北を喫した日顕だが、勝ち負 けはともあれ裁判が終わってホッとしたのだろう。取り下げ直後の法華講幹部と の目通りの席で、安堵の吐息とともに、  「これでワシも精師のように言われなくて済む」  と胸をなでおろしていたという。  「除歴」にビクビクしていた六十七世法主・阿部日顕。その原因は、何もシア トルだけではあるまい。さらに深いところに、「法主詐称」という嘘と陰謀で猊 座を盗み取ったことに対する、抜きがたい後ろめたさがあるのだ。  かつて日顕が周囲の人間にポロッと漏らしたことがある。  「ある理由があって、ワシは死ぬまで猊座にあり続けることになる」  ある理由−。それは日顕が先師・日達上人から相承を受けずに登座したことに ほかならない。相承もなければ、相承箱もない。つまり日顕は、「次」に相承し ようにも、相承するものを何も所持していないのである。これ、嘘で登座した日 顕の末路、何という哀れな姿であろうか。 第一章 日顕相承の真実 ■西奥番室で決まった日顕登座  事実は、こうであるー。  昭和五十四年七月二十二日早朝。  日達上人の御遺体が大奥対面所に戻り、身内、関係者による読経が終わった直 後のことだ。  西奥番室に下がった、遺族の細井珪道、琢道、そして日達上人の娘婿の菅野慈 雲等、数人が話をしているところに、午前七時十五分から枕経の導師をすること になっていた当時の阿部総監(日顕)が不安そうな顔をして入ってきた。  三人の顔を見るなり、  「あと(相承)のこと、君たち聞いてるか?」と切り出した。  あきらかに相承についてのことだった。  そこで菅野慈雲が、  「いやぁ、それは、総監さん(日顕)じゃないですぅ?」と言った。  その瞬間、日顕は、  「あっ、そうか、、あぁ、そうだったなー」  と呟き、複雑な表情をしたまま、考え込むような格好でゆっくりとうなずいた。  前年の四月十五日(後に日顕が相承を受けたと言った日)ではない。この時の 菅野の言葉から、次の法主が日顕に決まったのだ。  「あの時点では、次の法主といっても早瀬日慈さんか阿部(日顕)さんしかい なかった。その二人の中で、どちらかと言えば、まあ、阿部さんの方がマシか、 そんなところから阿部さんを選んだんです」(関係者の話)  相承といってもそんな程度である。なぜ「早瀬」より「阿部」なのか。宗門に は当時、早瀬家の門閥「法器会」と日達上人の弟子の「妙観会」が長く対立して いた。日慈は法器会のボスであった。猊座を「法器会」には渡したくない。そこ で阿部を指名したのだという。  むしろ、用心しなければならなかったのは「日達上人が次の猊下も決めないで 亡くなった」ということであった。後継者を決めないで亡くなることは考えられ ないことだった。相承に断絶など絶対あってはならないのだ。だから、誰でもい いから次の法主を決める必要に迫られ、日顕を次の猊下に指名したのだという。  このことは、後日、日顕自身も逆手にとって、相承に疑問をもつ正信会に対し て、「もし、そうなら(日顕が相承を受けていないというなら)お前たちの尊敬 する日達上人は相承しないで亡くなったことになるじゃないか!」と切り返した。  この時、三人が心配したのも、まさにその一点だけだった。法主・日顕の誕生 は「日達上人が相承をしないで亡くなったことにだけはしたくない」というとこ ろから出てきたのだ。  相承で法主になったのではない。西奥番室で菅野から「総監さんじゃないです ぅ?」と言われて誕生した六十七世なのだ。  数時間後の重役会議で「実はわたしが前年の四月十五日に相承を受けていた」 との”自己申告”は、この菅野の言葉を受けて日顕が思いついた辻褄合わせだっ た。  日顕を法主と認めない正信会との裁判でも、自分で言っておきながら日顕は何 一つ「前年の四月十五日の相承」について事実関係を説明していない。 いや、できないのだ。  「いつ」「どの部屋で」「どんなふうに相承を受けたのか」をー。  日顕は、正信会僧侶が騒ぎだした頃、大坊において本山在勤の無任所教師を前 に、「自分の日記には四月十五日に相承を受けたと書いてある」と言ったことが ある。 だが、裁判ではその日記を証拠として提出することすらもなかった。  第六十六世細井日達上人は、昭和五十三年春頃から体力の衰えが目立ちはじめ、 持病の心臓病の悪化を訴えられることが多くなった。  それまで総本山医薬坊(診療所)鈴木医師のほか、富士宮市民病院から医薬坊 に通勤して本山関係者の診療にあたっていたことのある後藤医師らにかかってい たが、この頃から東京・築地の聖路加病院長・日野原重明博士を主治医にするよ うになった。日野原博士は、心臓内科の専門医として知られ、高齢者医療の分野 で高い評価を得ていた。  日達上人は都内の病院に入院して、日野原医師から、検査、治療だけでなく生 活指導まで受け、その指示を忠実に守った。その結果、体重を十五キロ近くも減 量し、日常の職務や生活には支障がないほどにまで、健康を回復した。  しかし、高齢でもあり、血管の老化と心臓の疾患という”老人病”に、博士は 月一回の精密検査、時々のドック入りを要望した。上人は毎月一度、東京に出て は病院に行き、そのあと、浅草や銀座などを散策して、どじょう鍋、いわし鍋、 精進料理など毎度変わった料理をとるのを楽しんだ。実際はほんの少々、箸をつ けるだけだったが、その雰囲気を好まれたのだろう。  全国各地の寺で二、三か月ごとに落慶式や入仏式があり、そのつど招かれた上 人は元気に過密なスケジュールをこなしていた。  こうして七十七歳、喜寿の年、昭和五十四年を迎えたのである。この年もまた 多忙であった。夏には渡米し、ハワイに建立される寺院の落慶法要に出席する予 定まであった。  七月十七日、福岡市の妙流寺の増改築落慶法要が行われ、法要のあと市内の料 亭で開かれた宴席に出て、懐石料理をとったが、すすめられて日ごろ口にしない 酒をわずかにたしなんだ。ホテルに帰ってからも、空腹だと言われて焼きソバを 食べ、帰途の新幹線ではサンドイッチもとられるという珍しい健啖ぶりだった。  日達上人は丑寅勤行を欠かしたことがなく、所用が終わればすぐにも本山に帰 るのが通常だった。したがって過重なスケジュールでも、休養せずに帰途につい たのである。しかし、いつもは節制される上人にとってこの過食は医師からの指 示に違反するものだったのだろうか。  十八日、帰山してまもなく、「どうも調子がよくないな。通じもなく、食べ過 ぎたかな」と側近の者に語った。  この日は後藤医師の診察を受けたが、確かなことは分からず、一応、盲腸炎の 疑いがあるという診断だった。  翌十九日は、午前十時半から本種院佐藤日成師の一周忌、あわせて妙道寺の満 山供養が大客殿で、いずれも日達上人の導師で行われることになっており、また 午後には創価学会の最高幹部と宗門責任者との連絡会議も予定されていて、忙し い一日になるものとみられていた。  その早朝、上人は突然、激しい腹痛と腰痛を訴えられ、対面所で横になった。 やがて吐き気をもよおすようになった。最初に診察した鈴木医師は、注射して腰 に湿布するように言うだけだった。ついで後藤医師も呼ばれたが、やはり栄養剤 の点滴をし、痛み止めを処方しただけである。前日と同じく、この段階でははっ きりした診断が下せなかったのだろう。  聖路加病院の日野原博士にも急報したが、博士は宮崎市での医学会に出席のた め出張中で、すぐに駆けつけることはできない。しかし、電話による指示で、白 糸の滝の近くのフジヤマ病院に入院することになった。午後も遅くなって上人は 看護婦付き添いの車で病院に向かった。  ”日達猊下、入院”という情報は全山に流れ、僧侶たちを心配させた。  だが満山法要は、法主不在のまま、三十分遅れて、本山執事の導師で行われた。  病院ではレントゲン検査の結果、腸の働きがまったく停止していることがわか った。血液検査をすると、白血球が増えているのも認められた。二度、三度のレ ントゲンで腸間膜動脈閉塞、あるいは盲腸炎などの病名があげられたが、決定的 なものは出ない。  翌二十日から抗生剤が投与されたものの、この日も腸の動きはまったくなく、 症状にも変化はなかった。  日野原博士が到着したのは二十一日の昼前だった。ふたたび検査が行われ、上 人は検査室まで自分で歩き、その足取りも口調も平常と変わらず、知らぬ者には とても重病とは見えなかったという。  日野原博士をはじめフジヤマ病院長、後藤医師らがデータをもとに三時間にも 及ぶ会議を開いたものの、やはり結論は出ない。院長は開腹して検査することを 主張、日野原博士はこれに消極的で、一両日、安静にしたまま推移を見守った方 がよいと述べた。手術をするにしても、生命維持装置の完備した病院で専門家を そろえてするべきだ、という意見だった。  病室の上人からも、「どうなのか、知らせてもらいたい」という問い合わせが 再三、医師たちのもとにあった。  ところが午後三時ごろ、腸が動きはじめた。通じもあり、医師団も付き添いも ようやく愁眉を開いた。心臓にも血圧にもさほど変化はない。一刻を争う事態は 避けられたようだ。もう少し検査を続け、様子を見極めようということになって、 上人にも説明がなされた。  付き添いには美佐子夫人をはじめ子息の細井珪道、琢道、玉道ら、また娘婿の 菅野慈雲らがいたが、上人はしっかりとした口調で、いろいろな会話を交わした。  菅野に、「明日一日だけ本山に帰る。治療は東京の方がいいのなら、明後日に は東京の病院に行く」とはっきりと言い、「寝たままでいいから対面所に布団を 敷いておくように」とつけ加えた。自分自身、病状の重大さを理解し、法主とし ての責務を果たしたいと考えられたのだろうか。  後に正信会は、この時の会話をもって、日達上人は菅野か光久のどちらかに相 承し、もう一人を立ち会いにするつもりだったと主張する。  ようやく次に譲る決心がつき安心したのか、日達上人は食欲も出はじめ、初め て牛乳や重湯もとられた。病室には安堵の色が流れた。九州から直行だった日野 原博士は、いったん東京に戻ることになり、本山にも「経過は良好で、回復に向 かっている」と知らされた。  しかし、二十二日午前二時ごろ、容体が急変する。  "心臓が停止”  急遽、心臓マッサージが施された。  すぐに日野原博士にも連絡され、病院に急行、二時間後に到着した。  空が明るみはじめた頃、病院はすっぽりと白く厚い霧に包まれていた。  病院では二人の医師が額から汗をしたたらせて、絶望的な心臓マッサージを三 時間近くも続けていたが、もはやすべてが終わったことは明らかだった。  容体の急変をすぐに美佐子夫人が本山に知らせていたが、電話には誰も出ない。 当時、もっとも側近である、お仲居の光久諦顕は不在で、すぐに連絡はとれなか った。そこで渉外部長の吉田義誠に連絡し、吉田から各方面に通知された。  吉田は本山の僧侶を六壺に集め、病状の説明とともに病気平癒の唱題を行い、 自分は病院に急行したが、上人の心臓は止まったままだった。  日野原博士は、正式に「二十二日午前五時五分死亡」の診断を下したが、実際 は鼓動が停止した午前二時に遷化したものとみられる。  法主危篤そして死亡―慌ただしく重大な早朝だった。  創価学会をはじめ法華講関係者、各地の支院長から各末寺へと、悲報はあちこ ちにもたらされた。総監の日顕(当時、阿部信雄)も午前三時に連絡を受け、車 で東京・墨田区の常泉寺を出発している。 ■第一関門・菅野慈雲を籠絡 悲しみのうちにも、本山では急ピッチで葬儀の準備が進められた。 対面所の床の間に御本尊を安置、北枕に床がのべられた。大奥門前で総監をはじ め宗務役員、僧侶、所化、寺族ら三百人が唱題をして出迎える中、上人の遺体は 午前六時四十分、車で、庶務部長・藤本栄道、早瀬義孔、細井琢道、荻原昭謙ら が付き添って帰山された。 この朝の模様について、当時の『大日蓮』には東野貫道が「御密葬の儀」という タイトルでこう書いている。これが公式の報告書ということになる。 「折りから降りしきる東雲の愁雨に、杉浦要氏は大傘を奉持、財務部長、山口法 興、土居崎慈成、伊藤瑞道、三宅統道(略)の各師が白手袋で玄関より対面所へ 猊下を御負担申上げた。  対面所で御着替を済ませ、三衣をお着け申上げて七時十五分、総監(日顕)導 師にて枕経の儀が厳修され、終了後、総監より突然の御遷化に茫然自失なるも、 宗門一同団結して正法護持に尽力し、葬儀等真心を尽くして御報恩申上げんとの 挨拶があった。  更に主任理事(光久)の挨拶が述べられた後、宗務役員、遺弟代表が交代にて 導師を勤め、午後七時の仮通夜のために客殿へ御棺をお移しするまで、読経唱題 の声は間断なく、御宝前には焼香の淡煙が満ちた」  遺族、親族をはじめ、弔問客は引きもきらず、内事部では主任理事が応待にあ たり、焼香の列が続いた。  午前九時すぎには、遺族や遺弟たちにより最後の剃髪、剃顔が行われた。一方、 内事部では密葬本葬の日程、式場の検討やマスコミヘの連絡などに忙殺されてい た。  こうした慌ただしさのなかで、宗門僧侶の誰の胸にも去来するのはー。  日達上人の突然のご遷化、しかし、唯授一人の血脈は瞬時といえども断絶があ ってはならない。法水瀉瓶の原理からいっても……。どう考えればいいのか?   どう考えても、この数日間に相承が行われたとは思えない。  複雑な思いと、重苦しい空気に包まれていた。  実は、日達上人の遺体が帰るとともに、一部の僧侶の間ではさまざまな動きが 始まっていたのである。  前総監の早瀬日慈は、遺体が本山に到着する直前、出迎えの大奥玄関前で、と なりに並んで立っていた美佐子夫人に、「奥さん、何か書いたものはないですか」 とあけすけに聞き、夫人はむっとしたような表情で、「私は知りません」と答え ている。  同じ頃、日達上人次女の婿である早瀬義孔が、大奥の御本尊書写室で、日達上 人の書き付け類をかき回しているところを目撃されている。  それぞれの思惑をからめながら、それぞれの行動をとっていたのだろう。  そして、何よりもおかしいのは、その後、前に示した西奥番室での日顕のやり とりである。  「あと(相承)のこと、君たち聞いてるか?」  この細井珪道、琢道、菅野慈雲らに対する一言は、どう考えても相承を受けた 者の発言ではない。少なくともこの時点で日顕は、日達上人から相承を受けたと は一言も言っていないのだ。明らかに第三者の立場で、あるいは総監としての責 任感の上から、後継指名がどうなっているのか心配して尋ねている。  ところが、意外にも菅野から返ってきた答えは、  「総監さん(日顕)じゃないですぅ?」  この時の日顕の心境やいかに? 日顕が法主になりたくてなりたくてしようがなかったというのは、宗門僧侶の 大半の見方だった。京都・平安寺にいた頃は何かにつけて日達上人にとり入って、 一籠何十万円もする松茸をわざわざ政子が車で本山に届けたりして、日達上人の ご機嫌をとっていたという。  正本堂工事の時に、歴代法主の墓を移したことがあった。その時、日顕の父で ある日開の遺骨の一部が見つからなくて、そのまま新墓地に移したことがあった。 これには、日開の弟子たちが腹を立て、日達上人に文句を言いに行こうというこ とになった。その時に「そんなことはしないでくれ! 出世に障る」と止めたの が、日顕と母・妙修尼だった。「次期法主になりたいために、父親の遺骨まで無 視するのか?」と、遺弟たちは怒ったというエピソードが残っている。  また、こんな笑い話もある。正本堂落成式に墨文字の看板が出た。運ばれて来 た看板を一目見るなり、早瀬日慈と阿部信雄(日顕)が「へたな字だなあ、誰が 書いたんだ?」と聞いた。所化が「日達上人です」と答えるやいなや、すかさず 「イヤ、うまい字だ」と日顕が言ったという。法主になりたくて、そのためにと ても気を使っていたというエピソードとして伝わっている。  午前七時十五分、日顕は一人複雑な思いを胸に秘めたまま枕経の導師を務める。  三人の遺族との会話で明らかになったこと。それは、どうやら遺族も後継の指 名については、日達上人から何も聞かされていなかったこと。また、ひょっとし てと思っていた菅野も相承を受けた形跡はなく、それどころか逆にその菅野から 自分が指名を受けたことである。  つまり、日達上人は誰にも相承されずに逝去され、この血脈断絶の一大事を乗 り越えるにあたり、遺族は早瀬より自分を選んだことが明確になったのである。  ”このワシが六十七世ーー。  思わずニンマリしてしまいそうなところを必死でこらえ、日顕は一世一代の謀 略にその頭脳をフル回転させる。  いつ相承を受けたことにするか? 最近では、ばれる、一年前なら分かるまい。  発表のタイミングは? 通夜の席で一気に勝負に出る。  根回しは必要か? まず菅野を確実に味方にしておいてから、重役会議を開く。  反対する者はいないか? いるとすれば早瀬日慈。  「昭和五十三年四月十五日」の”自己申告”を含め、日顕が登座へのシナリオを 描いたのは、まさにこの時であろう。おごそかに先師の冥福を祈ったのではない。 厳粛な表情のその裏で「法主詐称の大陰謀」を練り上げていたのだ。やはり日顕と いう男、常人では計り知れない、恐るべき極悪坊主である。  枕経が終わった後、日顕はただちに行動に移る。まずは第一関門、宗内最大勢力 の「妙観会」トップにして、日達上人の娘婿・菅野慈雲の籠絡である。  「確か枕経が終わった後、午前八時から九時までの間だったと思います。総監室 で日顕が菅野慈雲と約三十分にわたり、何か真剣な面持ちでひそひそ話をしている ところを、数人が見ています」(目撃者の証言)  よほど他人に知られてはならない内容だったのだろう。日顕は総監室から出て くるやいなや、すぐ近くでお茶の給仕をしていた所化たちを見つけ、すさまじい 形相で「おまえたち、何やってんだ! こんなところにいて。最初からここにい たのか!」と怒鳴りつけている。  その後、午前九時ごろ、本山に到着した学会幹部が弔問のため大奥を訪れる。 野村慈尊の案内で対面所に入ろうとした際、日顕との密談が終わったばかりの菅 野とバッタリ出くわす。菅野はあいさつもそこそこ、いかにも昂揚した様子でこ んな場違いな発言をして一行を驚かせている。  「次の次は私と聞いております」  浮かれた菅野はその後、親しい者に「十年は我慢する」とも話している。  約三十分の密談で、実際に二人の間で何が語られたのか知るよしもない。しか   し、こうした菅野の発言から類推すると、日顕から「ワシの次はあんただ。うま くやるから心配しなさんな」ぐらいのリップサービスがあったことは想像に難く ない。その上で、新しい体制の重要ポストを約束し、反早瀬で共同戦線を張るよ う要請したのだろう。  事実、菅野は日顕の登座直後の八月二日、すでに海外部長だったにもかかわら ず、兼任で庶務部長に抜擢される。異例の厚遇である。  しかし、こうした蜜月関係もそう長くは続かなかった。日顕の相承に疑義を唱 える活動家僧侶(後の正信会)の動きが活発化するにしたがって、優柔不断な菅 野が反日顕のシンボル的存在に祭り上げられていったのである。何とか懐柔しよ うとしていた日顕も、これ以上菅野を重要ポストにおくことはかえって危険であ ると判断したのだろう。十一月には役職を解任。在任わずか三か月というあっけ ない人事であった。  以来、菅野は宗門中枢から追いやられ、日顕は「十年」どころか二十年以上も 猊座に居座り続けている。結果的に見て、馬鹿正直な菅野はまんまと日顕の”空 手形”にだまされたのだ。 ■緊急重役会議で突然”既成事実”を披露した日顕  めまぐるしい時間が経っていく。  午前十一時十分、東奥番室の奥の応接間で緊急重役会議が開かれた。これには 総監の阿部日顕、重役の椎名法英(日澄)、能化の代表として早瀬日慈の三人が 出席した。  重役会議とは日蓮正宗の責任役員会のことで、本来、出席者は管長、総監、重 役の三人。管長の日達上人亡き後、構成員は総監の日顕と重役の椎名の二人だけ であったが、ここにあえて日顕は、正式メンバーではない日慈を招集したのであ る。日慈自身、予想外の出席要請に驚き、「何で俺が行くんだ」としきりにぼや きながら、重い腰を持ち上げたという。  そこには余人には思いもつかぬ日顕一流の”読み”があった。  ”菅野はおさえた。次は早瀬だ”ーー。  かねてから宗内では、早瀬日慈こそ次の法主の最有力候補と目されていた。菅 野と”密約”を結んだ今、目の前に大きく立ちはだかるのは「法器会」の領袖・ 早瀬日慈のみである。その日慈をどう抑え、どう自分が優位に立つか、これが日 顕にとっての第二の関門であった。  次期法主については、日慈不在の重役会議で決めても、後日必ず問題になる。 日慈を擁する法器会が黙ってはいまい。それよりいっそのこと日慈も呼んで重役 会議を開き、そこで一気に勝負をかけた方が得策だ。宗規第十四条第三項には 「法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総 監、重役及び能化が協議して……次期法主を選定する」と定められている。能化 の日慈を加えておけば、後で問題になっても、この緊急重役会議を宗規で定めた 法主選定の会議だったとすり替えられる。  この日顕の”読み”は当たる。狡猾な日顕は、日慈すら猊座強奪の共犯者に仕 立て上げることに成功する。仮通夜での椎名の発表の中で「能化であられる 観妙院様(早瀬日慈)にも特に御出席を頂き……」と、あえて重役会議に日慈も いたことを強調し、宗内に「日慈も了解」と印象づけたのだ。ここらへんのした たかさは、日慈など足元にも及ばない。要するに日慈は利用されたのだ。  いずれにしても、その重役会議の席上、日顕から、突然 「今日までどなたにも秘してきたが、実は昨年四月十五日、総本山大奥において 猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の 儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを 御披露する」(『大日蓮』昭和五十四年九月号掲載、原文のまま)  という発言がなされた。  日顕が跡目争いの最大のライバルを蹴落とした瞬間である。日顕と日慈のにら み合いは、先手必勝で臨んだ日顕の先制攻撃で、あっけなく勝敗が決まった。  日顕にとっては、文字通り「快心の勝利」。後に日顕はこの時の様子を自慢げ に語っている。 「日顕が登座して、しばらくしてからのことです。ある時、私たちが聞いたわけ ではないのに、日顕は問わず語りにこう言いだしたのです。『ワシは、もしかし たら早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、し ばらく待っていても(早瀬が)何も言い出さないので、自分から言い出して登座 したんだ』と。この話は私だけでなく、当時、本山にいた何人もの若手僧侶が聞 いています」(吉川幸道住職)  まさしく”自己申告”である。証拠は何もない。証人すらいない。「二人きり の場」と言うのであるから、疑問だらけであるが、さりとて嘘だという証拠も何 もない。時すでに遅し、本来なら正規の手続きで六十七世に”繰り上げ当選”可 能だった日慈も、ただ黙って指をくわえて見ているしか術がない。かくして重役 会議は日顕の”自己申告”を確認したことで終了したのである。  今一歩のところで日顕に出し抜かれた早瀬の悔しさは想像を絶する。  ”まさか日付まで出してくるとは……。阿部にしてやられた”  腸が煮えくりかえる思いを何とかおさえ、日慈はかろうじて仮通夜にだけは顔 を出す。しかし、それが終わるや、さっさと本山を後にし、東京に戻ってしまっ た。日慈を頂点とする法器会と阿部日顕との微妙な関係は、実にこの時から始ま るのである。  一方、まんまと早瀬日慈を出し抜いた日顕だが、それでも、法器会の動向が気 になって仕方がなかったようだ。法器会関係者が、こんな話をしている。  「日達上人が亡くなった日の午前、重役会議を終えた猊下が神妙な顔つきで、  『こんど私がお受けして、やることになりました。よろしくお願いしますよ』と 告げ、その時、『観妙院(早瀬日慈)さんにしばらくやってもらってもいいんで すがね……』と言ったんだ。私は『猊下がなさればいいじゃないですか』と答え るしかなかった。だって、『そうですか』とは言えないだろう」  嘘で登座した日顕の、微妙な心理状態が手に取るように分かる話だ。しかも、 軽々しく「観妙院さんにしばらくやってもらってもいいんですがね……」などと 発言すること自体、日顕の相承が作り話であったことを物語っている。また、こ のやりとりからは、日顕をはじめとした宗内の僧侶にとって、相承がいかに”軽 い”ものであるかがうかがえる。  ともあれ、すっかり落胆した日慈とは対照的に、日顕はこの重役会議から法主 として振る舞うようになる。  外では葬儀をめぐり、話し合いが行われていた。通夜の会場をどこにするかで、 主任理事の光久諦顕は、「丑寅勤行があるので通夜は大講堂ですべきである」と 言い、顔をのぞかせた日顕は、「大客殿でやりたい」と主張した。光久にはお仲 居として日達上人のごく近くにいたという立場を誇示する気持ちがあったのだろ う、大講堂がいいと言い張り、口論のようになった、と目撃者は言う。どちらも 譲らず、一時、休憩して、さらに話し合いを続けた。ついに日顕が、「お前は本 当にわからぬ奴だな。実はオレが猊下になったんだよ」と言った。これで勝負あ り。光久は、その場に平伏して、日顕の言葉に従うのである。  これで通夜の場所は大客殿に決定し、祭壇が組まれた。  重役会議の少し前、妙光寺住職・野村学道は中啓で机をコツコツ叩きながら、 総監の日顕に、「信雄君、どうするんだ、この後」と威張った口調で言ったとい う。僧階には年功序列があり、野村は日顕より上だったので、こんな発言になっ たのだろう。  日顕は重役会議に出かけた。重役会議が終わり、日顕が法主に決定したと聞く やいなや、内事部で待機していた野村学道たちは、現れた日顕の姿に平伏して、 随従ぶりを示したという。 「仮通夜に行く途中、日顕の息子の阿部信彰と会って話していたんですよ。彼が、 『次の猊下は誰になるんでしょうね』つて言うから、『誰でしょう?』って言って たら信彰の親父がなっちゃった。あれにはビックリしました」(中島法信住職)  午後二時、遺体は棺に納められ、樒で荘厳された。  夕方が近づいた。棺は行列を作って大客殿へ移された。行列は先導が青山理事、 御本尊を日顕が持ち、位牌は藤本庶務部長、以下細井珪道、琢道、玉道、弟子た ち、遺族・寺族と続く。安置後、日顕の導師による読経があった。  大広間の式場には、東側一面に黒白の幕が張りめぐらされた。御本尊を安置し、 御宝前には樒、白布の祭壇、遺族、重役それぞれの席がしつらえられ、導師席の 後ろには焼香台、さらにその後方の一方が僧侶たち、片方には池田名誉会長らを 最前列にして信徒たちが満場を埋めた。  午後七時、大村教学部長の開式の辞とともに出仕太鼓を合図に、日顕が出仕し、 通夜の儀式となった。 ■通夜の席上で唐突に発表された新法主決定  重役、宗会議長、日慈、宗務役員、本山僧侶、一般僧侶、遺族、所化小僧、創 価学会、法華講幹部、一般信徒の順で焼香が行われた。  八時五分、読経が終了し、葬儀委員長の重役・椎名法英から挨拶があった。  ここで突然、血脈相承についての発表がなされたのである。  これを再録すると、 「この席を借りまして、重大発表をさせて頂きます。  本日、午前十一時十分より、総本山におきまして、緊急重役会議が開催せられ、 阿部総監様、私、椎名重役、それに能化であられる観妙院様(早瀬日慈)にも特 に御出席を頂き、この度の日達上人猊下御遷化にともなう緊急の協議が行われま した。  会議では、阿部総監様が臨時議長となられ、冒頭阿部総監様より、御相承に関 する重大なる御発表がありました。  (ここで前記46ページの日顕の発言内容が、そのまま述べられる)  日達上人猊下には、その以前よりお身体の不調を訴えられ、特に心臓機能の障 害によって、しばしば御入院遊ばされ、治療に専念遊ばされておりました。猊下 には、特に心臓の病気が急激性を持つものであることにより、これを深く御考え あらせられ、不時のことを慮んぱかられて、本宗の重大事たる血脈の不断のため に、あらかじめ御用意、御処置を遊ばされて、もって不時の事態にお備え遊ばさ れたものであるということを、私共は深く痛感致すものであると同時に、猊下の 深い御用意と御配慮に対し奉り、私共はただただ恐懼感激致すものでございます。  重役会におけるこの御発表により、私共出席者は深く感動致し、ひたすら信伏 随従を御誓い申し上げた次第でございます。  何とぞ、宗内の僧俗御一同におかせられましても、本日ただ今より、新御法主 上人を仰ぎ奉り、新御法主上人のもとに、内外共に多難なる今日の局面において、 真の僧俗和合、一致団結を遂げて、さらに広宣流布の大目的のために、全力を傾 注せられ、もって日達上人猊下の御報恩にお供えしてまいろうではありませんか。  以上をもちまして、発表とさせて頂きます」(同前『大日蓮』掲載)  これで日顕の立場は公認されたことになる。 「五十三年四月十五日」に「内付」を受けたのではない。「阿部信雄」は、まさ にこの「五十四年七月二十二日」の「大陰謀」で、「日蓮正宗管長、総本山第六 十七世」の座を盗み取ったのである。  さて、仮通夜の席上における椎名法英の発表は、必ずしも僧侶たちに次期法主 決定の安心感を与えたわけではない。かなりの者は「少々、手回しが良すぎるの ではないか」という不審を持ったのである。というのは、逝去の二日前の二十日、 本山塔中を代表して二人の執事、寂日坊・瀬戸恭道と雪山坊・中村慈政の両住職 が見舞いに行った際、日達上人は、「大丈夫です。皆さんに心配かけてすまない。 大事をとって四、五日静養して大坊に帰るから、ご安心ください」と言ったばか り。それがいきなり「次の法主が決定」という発表なのだから、なんとも納得で きぬ者がいたとしても不思議ではない。  さらに、プロローグで詳述した日号変更のドタバタである。 「決まりました。日号は日顕です。父親が日開なので、ご自分は日顕にしました」  深夜遅くの八木の発表に、ある者は”やっぱり”と舌打ちし、ある者は”これ でいいのか”と愕然とした。  当時本山にいた老僧も、この時の衝撃をこう語る。 「てっきり新しい猊下の名前は日慈上人とばかり思っていました。翌日の『静岡 新聞』の見出しだって『後任に阿部日慈師』となっています。それが”父親と 『開顕』で日顕”でしょう。こんなの言葉の遊びじゃないですか。最初はふざけ てるのかと思いましたよ。それが本当だと分かった時には、はたしてこんなこと が許されるのかと疑問に思いました。いったい、師匠からもらった日号を何だと 思っているのか。これでは、下にも示しがつきません。その傲慢さ、思いつきの 薄っぺらさに不安すら覚えました」  ちなみにこの改名には後日談がある。葬儀で日顕新法主紹介の立役者となった 重役の椎名法英は、その半年後、能化となり、「日憲」を名乗った。しかしこれ では「日顕」と「日憲」で、読みが同じで紛らわしい。そこで日顕は日憲に「日 号を変えてくれ」と頼み、椎名は譲って「日澄」につけ替えたのである。  持ち前のその場しのぎの「嘘」と「謀略」で猊座を射止めたものの、改めて一 連の顛末を振り返ってみれば、あまりにも不可解なことが多すぎる。後に正信会 に走った若手の僧侶たちは、いち早く日顕の「相承を受けた」という言葉に疑義 を示し始めた。 ■最初の目通りでタンカを切った日顕  しかし宗門としては、次期法主の選定という最大のヤマを解決したわけで、葬 儀の諸行事に没頭することになる。  二十三日は通夜第二夜となったが、前日からの読経はこの日も絶え間なく続き、 焼香には学会の夏季講習会の参加者も並び、混雑を極めた。また大客殿三階回廊 には、葬儀担当者を指名した十五メートルの紙が貼り出された。  葬儀委員長・重役椎名法英、副委員長・執事瀬戸恭道、同・執事中村慈政のほ か、庶務、式場、進行、会計、受付、饗応調度、記録、案内、渉外、配車、僧侶、 能化、教師、非教師、遺弟、寺族、遺族親族、総代、来賓、写真、駐車場、司会 の各係が任命され、全山を挙げて、行事に取り組むことになる。  二十四日、密葬の儀。  前夜からの読経唱題は三十分ごとに導師が交替して間断なく行われたが、午前 十時から密葬の儀が始められた。ふたたび日顕が導師となって読経と焼香。同十 時五十一分、棺を大客殿内陣に移して、遺族、親族、僧侶たちとの告別となる。  十一時十六分、出発。創価学会女子部員たちが参道脇に並び唱題の中を三門ま で行列が進み、ここから霊柩車で富士宮火葬場に向かった。  午後三時三十六分、灰骨は帰山して大客殿へ。読経唱題ののち焼香、同五時、 密葬はすべて終了した。  しかし、ここまでの儀式はすべて宗門内の密葬にすぎない。日達上人の灰骨は 六壺に安置され、ここでの読経唱題が行われたが、通夜、本葬は八月六日から八 日までの三日間、全国からの関係者を集めて盛大に行われ、最終日午後、本山内 の歴代法主墓所に埋葬されて、一連の儀式を終えるのである。  こうした表の動きとは別に、裏では日顕の相承に対する疑惑、批判の声は、し だいに濃く広がるばかりであった。真偽こもごもさまざまな情報が飛びかうので ある。  七月二十三日、宗門における本通夜が終わった夜九時半頃、日顕は元財務部長 の能勢順道に電話を入れた。「日淳上人(昭和三十四年十一月遷化)が亡くなっ た時は、夫人に弔慰金をいくら払っているか」というものだった。そして、「日 達上人の夫人にどのくらい払ったらいいか」と、金額を相談している。普通、弔 慰金などは、葬儀もすべて終わり、家族も落ち着いてから相談したりして払うも のだが、日顕は早くも新法主としての”既成事実”を作りたいためか、支払いを 急いで行おうとしたのである。  八月五日、日顕は東京・常泉寺で「お別れ御講」を開いた。日顕をはじめとし て同寺の檀家、信徒たちは誰も喜色満面、  「わが寺の住職が法主になった」  と祝福し合った。  日顕はこの日のうちに、早々に大坊へと移った。  この入坊式の前に、本山内の住職、僧侶は三門前に並んで、日顕を出迎えた。 この時、一同は題目を三唱、日顕は、 「本日は、山内の住職、教師、寺族各位、並びに信徒各位、従業員の皆さんには、 わざわざ出迎えをいただきまして、誠にありがとうございました。本日より大坊 に入居致し、法主並びに住職としての事務を執行致します。皆さんには今後とも、 どうぞ宜しくお願い申し上げます。御苦労様でした」  と殊勝な挨拶をした。  その後、大奥の対面所で最初の目通りとなった。一同は静かに並び、日顕の第 一声を待っていた。と、日顕は突然、こう切り出したのである。 「ワシの血脈のことでガタガタ言っているようだが、じゃあ、ほかに相承を受け た者がいるのか。いたら手を挙げてみろ!」  これが法主となっての初めての言葉である。いわばタンカを切ったわけだ。一 同、唖然とするとともに、この乱暴な言葉に驚愕した。  本当に「相承を受けた」のなら、山内の住職たちに「いつ、このように相承さ れた」と説明すれば済むことである。また、それが礼儀でもある。こんな発言で は、新法主としてはあまりにも常識はずれではないか。そして、いまだにその説 明はなされていない。  またこうした暴言とは逆に、登座直後の日顕が、あちこちで「このたび相承を 受けた阿部日顕です」と挨拶している姿が目撃されている。見かねた側近から、 「あまり、そういうことをおっしゃらないほうが……」と苦言を呈されたことも あったようだ。このあたり、「ない」ものを「ある」と強弁しなくてはならない、 日顕の苦しい胸のうちを物語る出来事である。  とにかく宗内を納得させる「証拠」が一切ないのである。この点については、 仮通夜の席で日顕の相承を発表した、当時の重役・椎名日澄までもが認め、同情 している。  中島法信住職は証言する。 「正信会から相承をめぐる裁判を起こされ、揺れに揺れていた昭和五十六年頃の ことです。本山から名古屋への帰り、新幹線で京都に帰る椎名日澄師と一緒にな ったのです。その時、椎名師から直接聞いたのですが、『猊下も大変だねえ。た だ自分がそう言うだけで、相承を受けたという証拠が何もないんだから』と言う んです。早瀬日慈さんにも出席してもらって、三人で重役会議をやり、しかも仮 通夜の席で重大発表をした張本人が、こんなことを言い出したので驚きました」  三人しかいない緊急重役会議のメンバーで、日顕登座を発表した椎名日澄のこ の言は重い。  さらにこんな話もある。  昭和五十五年十一月、山崎正友が『週刊文春』で相承疑惑を取り上げた時のこ と。その反論として、本山の若手僧侶がパンフレットを出すことになった。その 打ち合わせの際、呼び集めた若手僧侶を前に、日顕がこんな釈明をしたというの だ。  「私が日達上人から相承をお受けしたんだけれども、ほかにも、もしかしたら、 どなたかがお受けしているかも分からない。それで、みんなに相承のことを伺っ たら、どなたも自分では言い出されなかった。そのため私は、実は、と言って、 昭和五十三年四月十五日に、日達上人から、内々に相承を受けたということを申 し上げた」  一方では自分が相承を受けたと言いながら、もう一方では、ほかにも誰かが受 けているのではないかと心配する。まったく矛盾する話である。  そもそも「金口嫡々」の相承は「唯授一人」のはずであり、日顕が本当に昭和 五十三年四月十五日に日達上人から相承を受けたというのであれば、ほかの人の ことなどあれこれ詮索する必要などまったくないではないか。それが心配でしょ うがなかったということ自体、「昭和五十三年四月十五日」の相承が、まったく の”作り話”に過ぎなかったことの証左なのである。 第二章 疑惑の「相承の日」   ■誕生パーティーなどで慌ただしく過ぎた一日  問題の昭和五十三年四月十五日。  正信会による訴訟の裁判記録には、克明に日達上人のその日の行動が証言され ている。そこには日顕に相承する時間的余裕など、まったくなかったことが明ら かだ。  前夜(四月十四日)から順を追って検証していこう。  四月十五日は日達上人の七十六歳の誕生日であった。そこで前日の四月十四日、 大坊でも法主の長寿を祝賀する会合が開かれた。  塔中坊の住職たち、その妻、家族、大坊の所化小僧、本山関係者、また地元の 日達上人の友人、知人が集まって誕生祝賀会が催された。会場は大坊の大食堂で あった。時間は午後五時四十五分から六時半頃までで、日達上人も機嫌よくこれ に出席している。そして自室に戻られた。  問題の、日顕が相承を受けたという十五日、日達上人の法主としてのこの日の 任務は丑寅勤行に始まる。  これは広宣流布を祈願する勤行で、「毎朝」行われる。いかなる場合にも実施 されるわけである。  本来なら丑寅の時刻であるから、午前二時から四時にわたるわけだが、日達上 人の時には、午前零時から始まることになっていた。所要時間は一時間半だから、 午前一時半に終了する。  これは法主が主宰する法要で、日達上人は一日たりとも欠かしたことはなく、 親修、旅行、病気など仕方のない場合には、代理として高位の憎が代行すること になっていた。  この日は丑寅勤行が終了すると、上人は大奥に戻り、就寝された。  四月十五日未明には、無断で入った者はいない。奥番の証言である。  とくにこの日は行事が立て込んでいた。  日達上人も六時半には起きていた。  宗制宗規にも明記されているように、四月十五日は、第三祖日目上人の御講日 に当たり、御影堂において法主の導師による法要が行われるのである。  宗規第八条による恒例行事としては毎月七日、十三日、十五日に三師報恩講が あり、十五日は日目上人への法要になっていた。  午前七時から始まり一時間で終わる。日達上人は仕度して御影堂まで歩いて出 仕されたのである。  また、日達上人の誕生日でもあったため、御講終了後、塔中の住職たちはみな 大坊へ来て祝賀を述べ、日達上人もていねいにこれを受けられ、大奥に帰った。  その後朝食をとられ、しばし休憩をとるのだが、その時間を見計らって、塔中 坊住職以外の末寺の僧侶が参上する。いずれも日達上人の弟子筋に当たる者ばか りだ。  この日の奥番の記録日誌によると、 「大石泰成、三宅統道、山口範道の三名で午前九時半ごろ大奥で目通り」を許さ れている。誕生日の祝賀のためで、それぞれの寺の最近の情勢なども簡単に報告 され、十分から十五分の対面だった。  次に賑やかな一行がやって来た。  当時、静岡県袋井市遠信寺の住職・原田篤道で、その日、午前九時から本山の 塔中・本住坊において自らの「結納の儀」を執行した。媒酌人は日達上人の息子 の細井珪道であり、若いカップルと双方の両親、媒酌人らが打ち揃って、挨拶に 来たのである。  奥番日誌では午前十時前になっている。  日達上人は非常にご機嫌で相好をくずして「オー来た来た、やっと来たか」と 言われたという。  そして当人をはじめ両親らの御礼の挨拶を受けられた。十五分後には全員退出 している。  原田一行はこの後、午前十一時から富士宮の料亭で祝宴を開くことになってお り、十時半には本住坊を車で出発しているので、この日の時間の経過については よく記憶していたという。  裁判記録には、 「仲人である細井珪道師が原田篤道師に対して、『日達上人は既にお山を出発さ れている。今からいかに急いでも間に合わないけれども、できるだけ急がなけれ ば』ということで、十二時前、早々と(原田の祝宴を)退席されまして東京へ向 われました。そのようなことから日達上人は午前中だいたい十一時前ぐらいには 本山を出発されているということが分かるのでございます」「細井珪道師は実の 息子さんですから、当然、細井珪道師ご夫婦も(日達師の誕生パーティーに)参 加されることになっておりました。そのような関係で日達上人が本山をお出にな る時間をお聞きになって知って、お見えになったわけでございます」と、ある。  日達上人は当日の夕方、東京・千代田区のホテル・グランドパレスの地下の中 華料理店「萬寿苑」で誕生祝賀パーティーを開くことになっており、「細井」の 名で予約、客は三十人であった。上人は身仕度をして十一時ごろ東京に向かっ た。  東京に向かった日達上人は、まず文京区西片の大石寺東京出張所に入って休憩 することになった。というのは、法主は毎早朝に丑寅勤行を執り行うため、どう しても睡眠時間が短くなる。そこでどこにいても昼寝をする習慣があり、当時、 東京での行事に出る場合は、必ず一度、「西片」に立ち寄り、休みをとり、体調 を整えてから行くようにしていたのである。  パーティーには家族や親戚縁者、宗門の最高幹部など三十人が出席、午後六時 から八時ごろまで行われた。  終わって上人は「西片」に戻り、慌ただしい一日を終えたのである。翌日未明 の丑寅勤行のため無理に帰山することも不可能ではなかったが、行事が続いたた め七十六歳という高齢を考えて大事をとり、この夜は「西片」泊まりになったわ けである。 ■奥番日誌のどこにも出てこない日顕の名前  この奥番日誌の中に日顕の名はどこにも登場しない。彼は当時、総監で東京・ 墨田区の常泉寺の住職を兼ねていた。「十五日は誕生日の祝賀言上のために本山 に行った」ということになっているが、日顕を本山で見たという者もおらず、こ れを裏付ける資料もない。ただ一つ、日達上人の車両日報を調べてみると、なん とその四月十五日の頁だけが紛失してしまっていたというのだ。当時の運転手は 川田法成で、その弟の川田乗善の調査で日報の紛失が判明したというのである。 この日の日達上人の車の動きなどを不明にするため、後に誰かが工作したのでは ないかと言われている。  日顕の主張では、この慌ただしい日に、大奥において日達上人と二人きりで相 承の「内付」が行われ、「相承の儀に関するお言葉を賜った」というが、この日 の時間の経過からみて、どこに相承という最重要の行為をする時間の余裕などあ っただろう。 「それはおかしいですよ。四月十五日にお誕生日のお祝いに本山に行ったところ、 相承のお話があったというが、呼ばれもしないのにわざわざ本山までお誕生のお 祝いに行くのはおかしい。だって、昼過ぎには西片に戻ってくるのだから、わざ わざ本山に出かけて行かなくても西片でお待ちすればいいし、もし、お祝いに行 ったのなら、日達上人の気性からして『じゃあ、常泉寺(日顕)、お前も来い』 と言って、夕方からのホテル・グランドパレスのお誕生会に連れて行くはずです よ。まして”相承”していたのなら、周りに紹介するでしょう」(本山の僧侶)  日達上人は、たとえ不始末をした僧侶を叱った後などでも、次に会食などの予 定があったりすると「お前も来なさい」という気性の方であったという。  その日、日顕に会っていれば、必ずグランドパレスのお誕生会に連れてきたは ずだと断言する僧侶は多数いる。 「ただ、ずーっと不思議だと思っていたのは、前年の四月十五日に相承を受けて いたとしたら、日顕はともかく、その後の日達上人の日顕に対する対応はあまり にも無神経です。宴会で、『オイ、常泉寺(日顕)、ひとつ歌でもうたえ』とか、 人前で平気で『オイ、お前』と呼んでいたのです。次期法主に決めていたのなら、 当然、そんな言い方はしないはずでしょう」(宗門の老僧)  たしかに、当時は早瀬日慈が総監を辞めて、次に阿部信雄(日顕)が総監にな ったので、「阿部の時代だ」という空気が宗内に流れていた。  しかし、日達上人は次の法主を決めかねていたという話もある。  宗内では「テープレコーダーより正確」といわれる河辺慈篤の直筆メモには、 五十九年十二月七日に、菅野慈雲が「(日顕の)総監決定の時に、日達上人が躊 躇されていたので、未だ相承をされていないのか、と思った」と証言したことが 明記されている。  日顕が総監になったのは、五十四年五月七日である。もし日顕の”自己申告” 通り、「五十三年四月十五日」に相承があったとすれば、日達上人が日顕の総監 決定に躊躇する必要などあるはずがない。ところが、実際には躊躇されたので、 この時点ではまだ相承されていないと思ったというわけだ。  ほかにも、「本当は阿部にやらせたいけど、阿部はダメだ。早瀬の子分だから」 と言い、また、「光久諦顕(当時のお仲居)にやらせたい。でも、光久はイヤだ と言ってるんだ」と話されたこともある。 「日達上人は、『次はお前だ』と数人の人に言っているんです。こうやって、本 人の自覚をうながしていたんでしょう。でも、この”次”というのが何を指すの か明確にはしないんです。猊下なのか、総監なのか、もっと漠然とした意味なの か。そういう”声掛け”をなさる方でした」(本山僧侶)  さまざまな疑惑・不信の声を浴びた日顕は、正信会事件の最中、大奥において、 本山在勤の無任所教師を前に開き直りの発言をしている。 「血脈相承をしていなければ、日達上人は宗門の後継者について考えていなかっ たことになる。それでは法主として不適格者として上人を冒涜することだ。当然、 日達上人は生前に相承をしており、それが私なのだ」  日達上人遷化の枕経の始まる前、西奥番室で、 「総監さん(日顕)じゃないですぅ?」  との菅野慈雲の言葉に、 「あっ、そうか…あぁ、そうだったなーーー」  と何とも奇妙な返答をした日顕だったがーー。 ■二十三年ぶりに出てきた不可解な「証人」  プロローグでも触れた通り、日顕は昨年夏、若手僧侶を使って「相承疑惑」に 対する反論らしきものを出している。しかし、その内容たるや、「お粗末」の一 言。結局、「昭和五十三年四月十五日の何時から」「大奥のどの部屋で」「どのよ うにして相承を受けたか」、問題の核心部分についてはダンマリを決め込んだま ま、「仮に真実を答えたとしても、必ず『信じられない』との難癖が返ってくる ことは明白だから」と開き直っているのだ。機関紙「大白法」で大々的に取り上 げた割には、この歯切れの悪さはどうであろう。  さらに驚いたのが、「相承の日」から二十三年もたって、まるで長い冬眠から 覚めたかのように、突如現れた「証人」たち。とくに、現富士学林大学科事務局 長の楠美慈調の証言は、宗内からも失笑を買った。  反論文書によると、当時、宗務院書記として本山に在勤していた楠美は、その 日、大講堂三階の宗務院の東側端にあった印刷コピー室でコピー中に、ふと内事 部玄関の方を眺めた。すると偶然、事務衣に小袈裟を着けた日顕が内事部玄関に 入るところを目撃した、というのだ。  しかし、まったくの門外漢ならともかく、少なくとも宗門人なら、こんな都合 のいい話を真に受ける者など百パーセントいない。  まず第一に、なぜ今頃になって、このような証言が出てくるのか? これまで 見てきた通り、この二十三年間、問題の「相承の日」に本山で日顕の姿を見たと いう目撃情報は、ただの一つもなかった。もちろん、楠美自身も、こんな証言は 一言もしていない。もしもしていたなら「証人」として、ただちに正信会との裁 判に出廷させていたはずである。  また、仮に楠美がコピー中に日顕を目撃していたとしよう。それにしても、そ の日が「五十三年四月十五日」だと、どうやって特定できるのか。まったく根拠 がない。  さらに、楠美をよく知る僧侶から、こんな証言も届けられた。 「楠美が嘘を言わされていることはすぐにピンときました。なぜなら楠美は近眼 で、少し離れただけでも、それが誰なのか判別できない。しかも当時、メガネは 車を運転する時以外、ほとんどかけない。そんな楠美が、大講堂の三階からチラ ッと見ただけで、それが日顕だと特定できるはずがありません」  楠美の「偽証」は明らかだ。  反論には、光久までもがノコノコと登場している。  昭和四十九年一月、日顕の母親・妙修尼が亡くなる数日前に、日達上人が京 都・平安寺に妙修尼を見舞った。その際日達上人は妙修尼に対して、「あなたの 息子さんに後をやってもらうのですからね、早く良くなって下さいよ」と述べ、 それを聞いた妙修尼が感涙にむせんでいた、というのである。  しかし、事実はまったくのあべこべであった。実は、この場での会話は、妙修 尼の方が日達上人に対し、「信雄をよろしくおねがいします」と懇願し、それに 対し日達上人が「そんなことに気を煩わさずにがんばってください」と答えたに 過ぎないのである。  だいたい、光久は当時のお仲居である。当日の日達上人の動きを誰よりも知る 立場ではないか。その光久が当日の話をするならまだしも、その四年前の話を持 ち出して「あった」「あった」と強弁しても、説得力は”ゼロ”である。  しかも決定的なのは、当の光久本人が日顕に対し、かつて面と向かって「四月 十五日にしていいのですか、あの日は達師が忙しい日だが」と質問していた事実 である。  昭和六十一年十月四日の「河辺メモ」には、東京・八王子市の法忍寺住職・水 谷慈浄の証言としてこう記されている。 「光久諦顕が、かつて(宝浄寺に於て、鎌田卓道論文『相承の有無』の反論会議 の時)光久が猊下に『4月15日にしていいのですか、あの日は達師が忙しい日だ が』と云った記憶があると云っていた」  すなわち、水谷の言によれば、正信会の鎌田卓道が書いた「相承の有無」とい う論文の反論を書くための会議が、教学部長の大村寿顕(日統)の宝浄寺(東京 ・大田区)で行われた。その際、光久がかつて日顕に”本当に昭和五十三年四月 十五日に相承を受けたことにしていいのか、あの日は達師の誕生日で忙しく、 とても相承をする時間的余裕などなかったはずだが”と注進していたことがある と話していたというのだ。  当日のスケジュールを誰よりも知る人物だけに、この発言は重要だ。少なくと もこの発言からは、お仲居であった光久をして、この日に日達上人から日顕への 相承があったと確信していなかったことだけは明白である。  さらに、この反論には、日顕に煮え湯を飲まされたあの菅野慈雲の名前も出て くる。  やはり、前作で暴いた西奥番室のやりとりが痛かったのだろう。今頃になって 「総監さんじゃないですぅ?」という発言は、実際は「総監さん(日顕上人)と 伺っていましたが」という趣旨だった、などと弁明している。  しかし、これも真っ赤な嘘。もしも本当に菅野が日顕に相承があったと聞いて いたなら、それこそ正信会の裁判で真っ先に証言すべきであろう。日顕があれだ け裁判で八つ裂きにされたのも、元はといえば、日顕自身の”自己申告”以外に こうした「証人」が誰一人出てこなかったからである。  だいたい、菅野はもともと正信会の活動家僧侶にとって後ろ盾のような存在で、 それが原因で日顕から隠居同然の”過去の人”に追いやられたはずである。  昭和五十五年十二月十三日には、自らが住職をつとめる大宣寺で第一回の東京 檀徒大会を開催し、そこには日顕から既に擯斥処分にされた佐々木秀明、丸岡文 乗ら正信会の中心者を招いている。のみならず自分自身も登壇し、「日達上人の 御遺志に一刻も早く報いたい」などと、暗に日顕批判をにおわせる発言をしてい る。  日顕もこうした菅野の動きが許せなかったのだろう。昭和五十八年八月の教師 講習会では、さすがに感情を抑えきれず、公衆の面前で「少しは、大宣寺さんに も考えてもらいたい!」と声を荒げたこともあった。  正信会との裁判でも、菅野の発言が焦点になったことがあった。各地の裁判で、 「仲間の僧侶が菅野から『日達上人は阿部を選定していない』と聞いている」と いう証言が続出。日顕としても、これ以上、菅野を放置しておくわけにはいかな くなり、ついに説得の上、菅野に「そのような発言はしていない」という旨の報 告書を書かせ、裁判所に提出したのである。  しかし、その昭和六十二年五月十六日付の報告書には、「総監さんと伺ってい ました」などとは、どこにも書かれていない。それどころかむしろ逆に「(昭和 五十三年六月二十五日に日達上人がある信者に)『次は阿部に譲るつもりでおり ますので宜しくお願いします』と挨拶され(中略)その場に私も同席していた」 などと、問題の「五十三年四月十五日」から二か月以上もたった時点で、まだ日 達上人が「譲るつもり」という不確定な状況であったことを浮き彫りにしてしま ったのである。  ちなみに当時の日顕がいかに菅野の存在に神経を尖らせていたか、渡辺慈済住 職がこんな証言をしている。 「昭和六十三年頃のこと、突然、日顕から連絡があり、『菅野がいまだに正信会 の連中と行き来があるのか。お前、友達だから早瀬義寛(現庶務部長)と一緒に 聞いてこい』と言うんです。なぜ急にそんなことを言い出したのか、不審に思い ましたが、仕方がないので菅野と都内のあるホテルで会いました。菅野は『そん なことはない』と言うので、早速、日顕にその旨、報告すると、日顕は『じゃ、 大丈夫だな』と安心した様子でした」  裁判の報告書だけでは物足りず、こんな姑息な手まで打っていたのだ。  いずれにせよ、菅野と親しい人物が、かつて菅野からこう聞かされたことを明 確に記憶している。  「日達上人は相承をしていないんだよ。もし、していたら私か知っているよ」  これこそ、まさしく菅野自身の偽らざる本音であろう。  こうしてみると、昨年夏に宗門が出した反論は、光久のものにしろ、菅野のも のにしろ、ことごとく「偽証」で塗り固めたものであることは明白である。その 証拠に、この反論が出てから二か月後、日顕は菅野(日龍)、光久(日康)の二 人を、能化に登用している。能化昇進を餌に、「偽証」を強要する阿部日顕。そ の狼狽ぶりは、滑稽を通り越して哀れですらある。 第三章 河辺メモの”告発” ■戒壇の御本尊を「偽物」と断定  日顕の盟友・河辺慈篤が昨年十一月十日、七十二歳で死去した。  本書でも度々引用している通り、「メモ魔」で知られる河辺のメモは、これま でも数多くの日顕の悪事を暴き、宗内を震撼させてきた。その最たるものが、い わゆる「C作戦」についてのものであった。  平成二年七月、六人の僧侶を集めて二度にわたって行った謀議の中で、日顕自 身が池田名誉会長を追放せよと激しい口調で述べていたこと、また、学会を切る この謀略を「C作戦」と命名したのも日顕であったことなどが、メモによって暴 露されたのである。  さらに宗内を根底から揺さぶったのが、平成十一年七月七日、我々が発行する 「同盟通信」がスクープした「河辺メモ」である。驚いたことに日顕は、登座前 年の昭和五十三年二月七日、宗旨の根幹であり、本宗の命脈であるはずの「戒壇 の御本尊」を、こともあろうに「偽物」と断じていたことが判明したのである。 メモの内容はこうだ。 S53・2・7、A面談 帝国H 一、戒旦之御本尊之件   戒旦の御本尊のは偽物である。   種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)   多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の   題目と花押を模写し、その他は時師か有師の   頃の筆だ。   日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている 一、Gは話にならない   人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の   事ではGでは不可能だ。 一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻   るだらうと云う安易な考へを持っている   ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の 誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して 購入したもの。(弘安三年の御本尊) この中に出てくる「A」とは阿部(日顕)、「帝国H」とは東京・千代田区の帝 国ホテル、「G」とは「猊下」の頭文字で、当時の法主・日達上人をさす。筆跡 といい、内容といい、主観や感情を交えず、核心の事実のみを冷徹に記載してい く独特の文体は、河辺以外になしえるものではない。それは、河辺自身をして、 常々、「ワシのメモはテープレコーダーと同じくらい正確だ」と言わしめている ほどである。特に「戒壇の御本尊」に関する内容は、極めて具体的で、そのあま りのリアルさに誰しも我が目を疑った。  しかも、「筆跡鑑定」「字画判定」等の記述からして、日顕が当時、それなりの 手を尽くした上で「偽物」と判断したのであり、それが単なる思いつきや、漠然 とした感想、あるいは疑惑にとどまらぬ、まさに日顕独自の”持論”であること は明白であった。  メモにある「日禅授与の本尊」とは、大聖人が弘安三年五月九日、少輔房日禅 に授与した本尊のこと。日禅とは、日興上人が選んだ六人の高僧の一人で、大石 寺の南之坊を開いた人物である。  日禅授与の本尊は一旦紛失後、天文八年(一五三九年)頃、北山本門寺が所蔵。 明治四十三年六月、売りに出されていたところを、東京・法道院の開基である五 十六世日応上人が買い、以後、法道院に置かれていた。そして昭和四十五年三月 二十五日、法道院から大石寺に納められた。こうした経緯は、身延系の他山・他 門では到底、うかがい知れず、大石寺の事情に精通した者でなければ、言及し得 ない内容だ。それもそのはず、この本尊が、大石寺に納められるときに立ち会い、 検分をしたのが、誰あろう教学部長の日顕だったのである。 「戒壇の御本尊」とは、宗祖日蓮大聖人が弘安二年十月十二日にお認めになった 出世の御本懐である。ゆえに二祖日興上人も三祖日目上人への譲状「日興跡条条 事」の中で、「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」と仰せられ、 日寛上人も文段で、「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐 の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故 なり」と仰せになっているのである。  それに対し、幕末以降、他山・他門、ことに興門派、要法寺、北山系および身 延系から出たのが、戒壇の御本尊が「偽作」であるとする説だ。この邪説に対し、 大石寺の歴代法主は大聖人、日興上人等の仰せを通して、明確に破折してきた。 特に安永弁哲の邪義邪説に対しては、先師日達上人が「悪書『板本尊偽作論』を 粉砕す」で、完膚なき反駁を加えた。  しかるに日顕は、本宗にありながら大御本尊に疑念を抱き、畏れ多くも戒壇の 御本尊を鑑定にかけた上で「偽物」と断定していたのである。他門ならいざ知ら ず、歴代で宗旨の命脈を「偽物」呼ばわりしていた者など、あろうはずがない。  さらに注目すべきは、その後に続く「Gは話にならない」との記述である。  この発言からほぼ二か月後の「五十三年四月十五日」に、日顕は日達上人から 相承を受けたと”自己申告”している。わずか二か月の間に、日顕の日達上人に 対する認識が改まったとでもいうのであろうか。答えは「ノー」である。 「相承の日」からわずか一か月半後にも日顕は、工藤玄英、大橋正淳の両住職に 対し、以下のように語っている。 「ワシも(日達上人に対抗して)仲間を募ってやろうと思ったが、宗内を二分し てしまう。こういう時は何もしないほうがいいんだ」 要するに、「相承の日」の前であろうが後であろうが、日顕の認識は変わって いない。口では「信伏随従」を説きながら、自らの日達上人に対する思いは一貫 して批判的なのだ。 片や日達上人は日達上人で、そんな日顕の心根を見透かしてか、日顕のことを まったくといっていいほど信用していなかった。  当時の宗門をよく知る、ある関係者は証言する。 「昭和五十三年の三月頃のことだと思います。当時、日顕は”法華講を大事にし ない”という理由で法華講幹部から突き上げられていたんです。ある日、連合会 委員長の佐藤悦三郎(当時)らから、その状況を聞いた日達上人が内事部の事務 所で、『阿部はとんでもない、よく言っておこう』と強い口調で語っていました。 その姿は、誰が見ても日達上人が日顕を信順しているという様子ではありません でした。まして、その一か月後に相承があったなんて考えられません」  同様に日達上人が、「阿部はダメだ」「阿部は信用できない」などと発言したの を聞いたという僧侶もいる。  また、その年の夏、日達上人は「跡がいないんだよ、跡が……」と後継者を決 めかねていた胸の内を周囲の親しい人に漏らしている。  さらに、もし日達上人が日顕に相承したのなら、亡くなるまで一年余の間に、 なぜ日顕を能化にしなかったのか、という疑問も残る。明確に次期法主と決めて いたなら、後に混乱を残さぬためにも、能化にするのが当然であろう。ところが 日達上人は、とうとう御遷化されるまで日顕を能化にしなかったのである。  もし、それでもなお日達上人から相承があったというのなら、大石寺の師資相 承など、これほどいい加減なものはないということになる。「師資」とは師弟で はないのか。その弟子が師匠を批判したうえ、相承される法門そのものまで否定 する。これでは、「唯授一人」もへったくれもない。まさに宗門そのものが、土 台から瓦解してしまうのだ。 ■弱味を握られ河辺に屈服  河辺メモが発覚するや大慌ての日顕は、七月九日、十日と立て続けに「宗務院 通達」を連発した。同盟通信が出たのは七月七日。それから、わずか二日後、三 日後のことである。日顕の動揺、狼狽が手に取るように伝わってくる。  あまりのショックに思考停止、錯乱状態に陥った日顕は、まず九日付「通達」 で取り返しのつかぬすり替えをしてしまった。メモの内容を「外部からの疑難」 を説明したものと釈明したのである。  ところが、そんな疑難など、当時、どこにも存在していない。  だいたい、メモに「種々方法の筆跡鑑定の結果解った」とあるが、外部の人間 で「戒壇の御本尊」と「日禅授与の本尊」を筆跡鑑定できる者など誰もいない。 いたなら、その人物の名前を特定し、公表すべきであろう。  ちなみに、この点については、通達から三年も経った昨年六月になって、 ”疑難の主とは、当時宗内にいた後の正信会僧”などと、とってつけたような辻 褄合わせの作り話が宗内に出回った。まさか宗門の公式見解ではあるまいが、こ れとて理屈はまったく同じ。二体の御本尊の照合を思いつき、実際に鑑定できる 者など、宗内でもごくごく一部に限られている。後に正信会に走った僧で、それ が可能な者など誰一人いないのである。  初めの一歩からつまずいた日顕だが、翌十日付の「通達」は、それにさらに追 い打ちをかける。  無責任にも日顕は、筆者の河辺にその責任をすべて押しつけ、”メモは私の主 観”であり、”記録ミス”だと認めさせて謝罪させたのである。  「主観」も何も、河辺本人が御本尊を鑑定できる立場にないのだから、こんな 「主観」を開陳できるはずがない。”記録ミス”との弁明にしても、もしそれが本 当なら、日顕の「どのような発言」を「どのように記録ミスした」のか、その点 をはっきり示すべきであろう。  事は戒壇の御本尊に対する疑難である。通り一遍の謝罪ですむような話ではな い。  しかも、その河辺の謝罪自体が、まったく本心ではなかったことが、他ならぬ 河辺自身のメモ、それも謝罪が出た前日を意味する「7/9」の日付が入ったメ モによって明らかになった。  宗内からの情報によれば、この問題が発生した七月七日晩から、河辺は自坊か ら姿を消して、九州方面に潜伏している。そして九州の某ホテルにおいて、ちょ うど九州・開信寺の法華講対策で出向いていた総監・藤本日潤、庶務部長・早瀬 義寛、日顕の息子・信彰の三名と合流する。  メモは、その話し合いを前に、河辺が自らの身の処し方を分析したものと思わ れる。  内容は以下の通り、極めて簡潔だ。 メモの件  1、当局の云う通りやるか  2、還俗を決意して思い通りでるか  3、相談の結論とするか、  7/9  自坊tel  宗務院より「河辺の勘違」  とのFAX(宗内一般)  @の「当局の云う通りやるか」は、河辺らしく日顕の出方を冷静に分析した表 現。  Aの「還俗を決意して思い通りでるか」は、日顕への対決姿勢を想定したもの。 宗内には、息子・正信、娘婿・金塚義明もいる。それでいながら「還俗」をシミ ュレーションするとは、かなりの腹の括り方だ。よほどの攻撃材料を用意してお り、いざ日顕と対峙しても優位に立てるという自信、あるいは余裕すら読みとれ る。  Bの「相談の結論とするか」は、まさしく、日顕と河辺が行き着いた対応策を そのまま裏付けるものだった。  つまり、いかにも恭順を装った十日付の「通達」は、河辺の本心から出たもの ではなく、宗務当局との「相談」のうえで出したものだったのである。  見返りは、北海道・日正寺の住職から東京・新宿の大願寺住職への”栄転”。  何とか自分の体面を傷つけないように、表向きは河辺に責任をとらせ、裏で は口止め工作のこの厚遇。姑息で陰謀好きの日顕らしいやり方だ。  しかし、事は宗旨の根本にかかわる問題である。ここまで宗内を混乱させてお きながら、「厳重処分」ならいざ知らず、”栄転”では宗内も納得するわけがな い。  日顕の意に反して事態はますます紛糾し、ついに八月には広島・善聴寺の藤田 雄連師、九月には神奈川・大円寺の佐藤伴道師、十一月には鹿児島・蓮秀寺の山 根雄務師が宗門から離脱、我々同盟に加わったのである。  結局、河辺を処分できなかった日顕だが、最近、この問題にまつわる新しい事 実が判明した。実はこれ以前にも日顕は、同じメモをネタに河辺本人から脅され ており、何とその際、河辺の靴底をなめた苦い経験があるというのだ。  日顕登座直後の昭和五十四年十二月、日顕が早瀬義孔を庶務部長に抜擢したの に腹を立てた河辺が、その日顕を自分のところ(徳島・敬台寺)に呼びつけ、”メ モをマスコミに発表する。「『戒壇の御本尊のは偽物』と日顕が言った」と、記者 会見を開いて、大々的に宣伝する。それとともに、猊座乗っ取りの真相もばらす ぞ”と恫喝したというのである。  その背景には、こんな出来事があった。  義孔は、早瀬日慈の弟子である。この義孔を庶務部長につけるにあたり、日顕 は石井信量に車を運転させ、池袋の法道院まで出向いて、日慈に「常在寺(義孔) を庶務部長にしたいのだが」と、事前に話を通しに行った。日慈をだまし討ちに して登座した、日顕の後ろめたさを象徴しているが、ところが、これが河辺には 気に入らなかった。というのも、それまで日顕は、何事についても、河辺に相談 をして、事を進めてきた。ところが、この義孔の人事については、河辺には一言 も言わず、日慈のところに相談に行った。後になって、それを聞きつけた河辺が 怒って、わざわざ徳島まで日顕を呼びつけたというのだ。  日顕と河辺の”関係”を物語る話だ。しかし、河辺は、「偽物」発言だけでな く、相承についても日顕の弱みを握っていることになる。  日顕を恫喝した河辺は、その場でさらにこう言い放った。 「じゃかましいっー ワシが全部、お前に教えてやったろうが。いわば、お前の 御師匠さんやで。『御師匠さん』と呼べ!」  そして、しばらくの沈黙の後、日顕の口から出た言葉が何とーー  「御師匠さん……」  何とも情けない話だが、これではメモ流出で、日顕が河辺を処分できないのも 当たり前。それこそ、河辺に還俗覚悟で思い通り出られては、自分の”政治生命” は完全に断たれてしまう。河辺を「御師匠さん」と仰がざるを得ない日顕にして みれば、河辺の大願寺栄転は、”口止め料”として当然の帰結であった。 ■山口範道師の重大証言  河辺メモの波紋は、さらに広がる。  日顕の姑息なやり方が許せなかったのだろう、いかにも感に堪えないといった 口調でこう切り出した人物がいた。  「これで、猊下は河辺メモの問題に蓋をするんだな」  発言の主は、昨年末に亡くなった山口範道師。宗内にあって長年、古文書も含 め、御本尊の研究に勤しんできた人物である。メモの当時、日顕が教学部長だっ たのに対して、山口師は富士学林図書館長。史料の専門家であった。  山口師は、河辺メモの背景、特に、そこに出てくる「日禅授与の本尊」につい て、言葉を選びながら、以下のように証言した。 「昭和四十五年春、日禅授与の本尊が法道院から本山に納められる直前、今の日 顕猊下に京都の平安寺に呼ばれて、二泊三日滞在した。その時猊下が、写真を見 せてくれた。大キャビネのカラー写真だった。猊下は大変にご満悦で、写真を手 にしながら『どうだ、君、素晴らしいだろう』と何度か言い、『これが今度法道 院から山に入るんだ』と、私にその写真を手渡して見せてくれた。私はそれを見 て、『あー、素晴らしいですね。これは本物ですね』と言った」  日顕は日禅授与の本尊の写真を持っていたーーこの証言は非常に重大である。  何しろ、戒壇の御本尊と日禅授与の本尊の照合を思いついた者は、二体の御本 尊の両方を間近に拝し、熟知している人物でなければありえないのだ。  ところが日顕は、すでに昭和四十五年当時から日禅授与の本尊の大判のカラー 写真を所持していたというのである。これさえあれば、大御本尊の筆跡との照合 も可能になる。  山口師の証言はさらに続く。 「日禅授与の本尊が実際、東京・法道院から大石寺に奉納される時、日顕猊下を 中心とした役員三人が立ち会い、日禅授与の本尊を検分した」  確かに宗門機関誌『大日蓮』(昭和四十五年五月号)には、日禅授与の本尊が 本山に納められた直後、四月七日の虫払法要で初めて宗内にお披露目された際、 この本尊の説明を当時の阿部教学部長が行ったと記録されている。  そして、証言はいよいよ核心部分、誰が御本尊の照合を思いつき、筆跡鑑定な どしようとしたのか? 山口師はこう断言する。 「河辺メモが記された昭和五十三年当時、宗内で、御本尊を鑑定できるのは日顕 猊下だけだ。猊下はずっと前から御本尊の鑑定を専門にやってきているんだ」  長年御本尊の研究をずっとやってきた山口師の証言だけに、これはもう決定的 だ。  事実、日顕は昭和三十八年、東京・本行寺から京都・平安寺に移った頃から、 御本尊の鑑定等の研究を続けてきているという。以来、河辺メモに記された帝国 ホテルの面談まで約十五年。その間、宗内では、御本尊の鑑定ができるのは日顕 以外にいないと目されるようになっていたのである。  「種々方法の筆跡鑑定の結果解った」  「日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」  こんな発言ができるのは、外部でも、内部で後に正信会に走った者でもない。 紛れもなく日顕以外にいないのだ。  戒壇の御本尊を「偽物」と断じたのは、間違いなく阿部日顕その人である。 ■メモで再現された”西奥番室”  さて、日達上人逝去直後の西奥番室でのやりとりは、その片鱗が「河辺メモ」 からもうかがえる。  昭和六十二年五月十六日、河辺が秋元広学渉外部長と電話でやりとりした中で、 その問題の場面が出てくるのだ。 (昭和62年)5・16   秋元部長、河辺通話(15日通話を確認するため) 秋元=1、菅野から事情聴取をするのは、秋山徳道証言を弾該するため    2、正信会は、この菅野の話による「日顕上人には相承がない」という    原田知道の話をフクラマしてくる。    以上の事から、今日、菅野と会い、若し菅野がそれを認めれば、この間    の大願寺で打合せたように菅野を首にする肚だ 河辺=基本的には、菅野に聞く事は反対。それは結果によくない。俺なら無視    していく。ヤブヘビの恐れがある。 秋元=猊下の話として、54年7月22日、達師の枕経の直後、藤本総監、細井珪    道、菅野慈雲の居る場で、猊下が菅野に『何か達師から聞いているか』    の話の事もあるので。  メモで「枕経の直後」となっているのは、「枕経の直前」の誤りと思われる。  このメモが書かれた昭和六十二年当時は、正信会との裁判が大きなヤマを迎え ていた。メモにもある通り、秋山徳道をはじめ、各地の裁判で正信会が、菅野が 原田に「日達上人は阿部を選定していない」「日顕は相承を受けていない」と言 っていたと証言したのである。正信会は、この原田の話で裁判に勝てるかもしれ ないと踏んでいた。つまり、発言の主として名指しされた菅野がどう出るか? 誰もがこの一点に注目していたのである。  そこで、裁判担当の渉外部長・秋元広学が、菅野に事情聴取をすべきか否かで 河辺に意見を求めたのがこのメモというわけだ。  日顕の相承の秘密を握る河辺が、菅野の事情聴取は「ヤブヘビ」になるから無 視せよと反対しているのは興味深い。一方、秋元は、それとは逆に事情聴取の必 要性を感じているのだが、その理由としてあげているのが「猊下の話」。すなわ ち日顕自身から聞いた話として、例の西奥番室で日顕が菅野ら遺族に「あと(相 承)のこと、君たち聞いてるか?」と尋ねた事実を問題にしているのだ。  このメモは大変に重要である。つまり、日達上人の逝去直後、日顕と菅野の間 で間違いなく件のやりとりがあったことを証明するとともに、何よりそのことを 日顕自身が相当まずいと認識しており、それを聞いた秋元、さらにはメモに残し た河辺も頭を悩ませていたことを物語っているのだ。  さらに別の河辺メモには、相承をめぐる日顕自身の発言も記されている。  大方、「五十三年四月十五日」の作り話だけでは心もとなくなったのだろう。 昭和六十一年二月十一日の河辺メモによると、目通りに来た河辺に対し、こんな ことを言い出している。  「お前だけに云っておくが、相承は昭和五十三年四月十五日と合せて二回あっ た」  何が「合せて二回」であろうか。これではまるで、ローン相承、分割相承では ないか。そもそも本当に二回あったのなら、なぜ河辺にだけ教えるのか。その二 回目がいつなのか、宗内に公表し、裁判所にもその旨、陳述書を提出すべきであ る。  ところが日顕は、結局、何もできなかった。これなど、「一つ嘘をつくと次か ら次に嘘をつかなければならなくなって本当に苦しくなる」とのかつての自身の 説法を、身をもって証明しているようなものである。 ■「アレは除歴しなきゃならん」  こうして「河辺メモ」を詳細に検証していくと、いかに日顕の相承が嘘で塗り 固めたものかよく理解できる。これだけ日顕の弱味を握っていれば、日顕に対し て「『御師匠さん』と呼べ!」などと高圧的に出れるのも、充分得心がいく。”影 の総監”あるいは”裏猊下”の異名もハッタリではない。  その河辺について昨年暮れ、追悼談として聞き捨てならない話が同盟に寄せら れた。実は、日顕すら知り得なかった相承の中身を、河辺がつかんでいたという のだ。  話はこうだ。昭和十五年に出家した河辺だが、大石寺の所化になった河辺の師 僧は、あの戦前戦中を通じて軍部政府に迎合し、御書削除、御観念文の改変、神 宮遥拝、神札受諾等々、数々の大謗法を犯した六十二世鈴本日恭上人だった。そ の後、河辺は日恭上人が死ぬまで、その奥番を務めることになる。  そして、終戦直前の昭和二十年六月、大石寺大坊から出火した火災により、日 恭上人は焼死する。その際、当時現場にいた河辺が、ドサクサ紛れに日恭上人の 手元にあった大きめの「茶巾袋」を持ち出した。そこには、日恭上人が所持して いた書き物など大切な品々が数多く入っていたという。  河辺はこれをダシに、日顕に法主としての作法について教えをたれ、日顕は日 顕で相承を受けていないものだから、何かあるとすぐに河辺に聞くという関係が できあがったのだ。  「日顕に御本尊の書写の仕方を教えたのもワシだ」  こう言ってはばからなかった河辺だが、ある時など、「どうもワシが教えたの と違う」と、日顕書写の本尊を公然と批判したこともあったという。  さらに衝撃的なのが、平成四年、「C作戦」の内容が発覚した直後の教師講習 会の折の河辺の発言である。  こういう時の河辺は、必ずといっていいほど日顕のつまらない講義をサボつて 大講堂のロビーに下り、タバコを一服している僧侶数人を相手に説教をたれる。 その日も三浦接道(宮城・広安寺)らを前に一席ぶった。その中で河辺は、耳を 疑うようなことを口走ったというのだ。  「アレ(=日顕)は除歴しなきゃならん。六十七世はいないんだ!」  日顕の裏の裏まで知り尽くした河辺の発言だけに、「除歴しなきゃならん」「六 十七世はいないんだ!」との言はずっしりと重い。  今、改めて問いたい。「六十七世」を詐称する阿部日顕とは、いったい何者な のか、と。 第四章 山崎正友との結託 ■日顕を罵詈罵倒した”山崎語録”  日顕の相承問題を語る上で、もう一人、欠くことのできない人間がいる。元弁 護士・山崎正友の存在である。そもそも、日達上人から日顕への相承に、いの一 番に「疑義あり!」と難癖をつけたのが、ほかならぬ山崎であった。  日顕登座後、宗門乗っ取りを目論む山崎は、日顕の籠絡に血道をあげる。とこ ろが、その画策は失敗に終わり、昭和五十四年九月、山崎は日顕から「大嘘つき」 と面罵され、本山出入りを禁止された。その際の「あの野郎!」「ふざけやがっ て!」「畜生!」を連発した山崎の激高ぶりは、今でも語りぐさだ。 「俺は頭に来たよ。こうなりゃ俺も命がけだよ。俺は徹底してやってやるよ。あ の野郎!」 「阿部が俺に向かって、『あんたは大嘘つきだ。あんたを絶対に信用しない』っ て、さんざん罵ったよ」 「阿部の野郎、俺に対して『こちらからいいと言うまで、本山に来ることはまか りならぬ』だってさ」 「俺は、あの野郎のきのう言ったことを絶対に死ぬまで忘れないよ。あの野郎を 必ずブッ殺してやるよ。絶対に仕返しするよ。今に見ていろってんだ」  等々、ものすごい剣幕で仲間に怒鳴り散らしたという。  そして、当時の『週刊文春』。 「宗内で一、二を争う遊とう児」 「独裁者ぶりを発揮して、『宗門に民主主義は不要』とうそぶいている」                       (昭和五十五年十月三十日号) 「まことに信仰心のうすい、功利主義の権化」 「およそ法主にふさわしくない野心家であり、乱れた生活」 「歴代御法主の御高徳な姿に比べて、余りにかけはなれた行態」 「私生活はゼニゲバであり、遊興以外の何ものでもない」                        (同五十六年二月十二日号)  などと、悪口雑言の限りを尽くした。  問題の「相承疑惑」についても、 「近年では、御相伝の事は、後世に疑いをのこさぬために明確かつ公然と行われ ている。もし、日達上人が、御在世中にその事を行われていたならば、必ず公表 されておられるはずである。ただちに法主の座を譲られぬ場合でも、あらかじめ 定めた次期法主を学頭職につけられるのが、伝統である」 「日達上人は、事実上の”指名”なり、心づもりなりを周囲の人に話されたこと はあるが、”御相伝”そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見 た人は、だれもいなかった」          (同五十五年十一月二十日号) 「ルールを無視して、何と、『だれもしらぬうちに、一年前にゆずられておった』 という本人の申し立てだけでバタバタと決まってしまったといういいかげんさ」 「日達上人の亡くなられた後のドサクサまぎれに、阿部日顕が、『俺がなる』と いっただけで決まってしまった」  「あらゆる状況ーー前後を通じてーーからみて、阿部日顕は、相伝を受けている とは考えられず、また、宗規にてらしても、違法である」                                    (同五十六年二月十二日号)  と言ってはばからなかったのである。  昭和五十六年一月には、山崎に踊らされた百八十名に及ぶ僧が、日顕を相手に 「代表役員等地位不存在確認請求訴訟」を起こし、ついには、百六十名に及ぶ僧 が宗門追放という前代未聞の不祥事に発展した。  このいわゆる正信会問題の陰の首謀者こそ、山崎正友だったのである。 ■「地獄へ何回堕ちても足りない」  日顕自身も昭和六十年三月三十日、非教師指導会で山崎について次のように言 っている。 「山崎正友の行ったすべての考え方なり、その行為・行動というものは、仏様の 眼から見るならば絶対に許されるべきでない、もっと大きな罪がーー地獄へ何回 堕ちても足りないほどの罪が存する」 「昭和五十四年の九月に、山崎正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であると いうことを見抜いて『あなたは大嘘つきである』ということをはっきりと言いま した」  よほど相承を否定され、宗内を撹乱されたことが悔しかったのだろう。「地獄 へ何回堕ちても足りないほどの罪」の一言に、日顕の山崎に対するすさまじいば かりの恨みの深さがにじみ出ている。  その怒りは、登座後、八年たってもおさまらない。  昭和六十二年四月二十九日の河辺メモには、「河辺お目通り」として、次のよ うな記述がある。 「猊下=常泉寺時代、台所の湯沸器の事故があった。山下釈道が彼女と逢引して いて助ったが、今でも此の事故は、山友、菅野の仕業と思っている」  要は、日顕が常泉寺の住職だった時に、台所で、あわや大惨事につながるとい う湯沸かし器の事故があった。  たまたま、在勤者の山下釈道が女性と逢い引きしていて異常に気づいたため事 なきを得たのだが、日顕は、この事故を単なる事故とは受け止めず、「山友、菅 野の仕業」、すなわち山崎と菅野による”日顕暗殺計画”だと、ずっと思ってき たというのだ。  先にも触れた通り昭和六十二年といえば、ちょうど正信会との裁判で菅野発言 をめぐり、日顕が窮地に追い込まれていたということもあろう。しかし、八年も 九年も前の湯沸かし器の事故まで、山崎と菅野のせいにするなど、もはや病的で ある。  まさに山崎正友こそ、日顕にとっては「不倶戴天の敵」。自分の血脈相承を否 定した張本人だったのである。  ところが、その山崎に対して日顕は、「C作戦」を発動した直後の平成三年一 月初頭、「あの時は嘘つきと言って悪かった。かんべんしてください」と頭を下 げたのである。宗祖日蓮大聖人仰せの「大慢のものは敵に随う」とは、まさしく このことだ。  しかし、当時の山崎といえば、恐喝事件で最高裁から懲役三年の実刑判決が下 る、まさにその直前である。  そのような犯罪者に、人の生きる道を説くべき僧侶、それも信徒に「現代の大 聖人様」と崇めさせている一宗のトップが詫びたのだ。常識では、到底、考えら れない愚行である。 ■日顕宛の山崎「謀略書簡」  日顕と山崎の結託は、ちょうど前著『法主の大陰謀』の発刊(平成六年十二月 二十日)と前後して明らかになった。 「同盟通信」(十二月二十二日付)で報じたが、同年十二月十日、大石寺の富士 見庵で山崎と総監の藤本日潤、渉外部長の秋元広学が極秘会談を行っていたこと が発覚したのだ。  まさかまさかの極秘情報に、「猊下ご乱心!」「すわ正信会復帰か?」等々、 様々な憶測が飛び交い、暮れも押し迫った宗内はたちまち大混乱に陥った。それ ほど、宗内は山崎を忌み嫌っていたのである。さる情報筋からは、こんな弱気な 本音も漏れ伝わってきた。  「極秘会談に信憑性はあるが、今回の情報だけは虚報であってほしい……」  しかし、そんな願いも空しく、年明け早々、「中外日報」(一月七日付)が、山 崎直筆の日顕宛「謀略書簡」をスクープした。もはや日顕と山崎の結託は明白で、 波乱含みの年明けに宗内は戦々恐々。まるで疫病神に取り憑かれたかのように、 誰もが宗門の行く末に暗澹たる不安を覚えたのである。  この「謀略書簡」は、山崎が仮出所した平成五年四月二十七日の直後から日顕 宛に送られており、現在までに五通が確認されている。  一読して、驚くのは、百八十度豹変した山崎の日顕評である。 「御法主上人猊下の御英断と、歴史的な御振舞いにつきましては、心より讃嘆申 し上げる」 「御法上人猊下の御慈悲により、富士の清流がたもたれたことを、後世の僧俗方 は、感謝されることでありましょう」 「人格高潔な方ほど、苦痛を味わされるものです」 「御法主上人が、一段と高いお立場に立たれ、より多くの人達を救済せられよう と念願しておられる御心がわかるような気がしております」  等々、いかにもへりくだって、歯の浮くようなお世辞を並べている。  いったい、いつから山崎にとって日顕は、「人格高潔な方」になったのか。  前述の通り山崎は、「文春」誌上で日顕のことを「遊とう児」「独裁者」「功利 主義の権化」「野心家」「ゼニゲバ」等々、散々罵倒し、ご丁寧にも日顕をよく知 る僧侶の証言まで、次のように紹介している。 「俺も、あの人とは親友でたいていの遊びは俺が教えたが、女遊びだけは、生ま れつき、あいつの方が上手だった」 「日開(日顕の父親)が亡くなったとき、日顕は、吉原にいつづけをしていた。 吉原から帰ってみると、親父の上人が死んでいて、大さわぎだった」 「熱海に愛人が出来て、女房と離婚していっしょになるとさわいだことがあった。 止める母親の尼に”くたばれ”と乱暴を働き、たまりかねて、尼は何か月も家出 をしていた。金がなくなると、先輩の寺に朝早く来て、門前で無心して行った。 はなれたところの電柱のかげで、女がかくれて待っていたよ」 「この愛人のことは、最近まで、”良い女だった”とおしそうにいっている」 「京都の平安寺にいる間も、神戸の福原、大阪ミナミのピンクサロン、生駒の岡 場所などへ毎日のようにくりこんでいた。弟子と同じ女を相手にしたこともあ る」 「地方に法要に出たあと、夜は必ず遊びに出るので、女房が心配でたまらず、法 主になったあとは、必ず同行するようにしている」  率直に言おう。日顕の行躰は、昔も今も、ちっとも変わっていない。否、むし ろ登座後は、その「ゼニゲバ」「遊興」「乱れた生活」「独裁」「乱暴」は、ますま すエスカレートしたことは、拙著『法主の大醜聞』『法主の大悪行』にも詳しく 書いた。  実に嘆かわしいことだが、御開山日興上人が「二六の掟」に定められた「先師 の如く予が化儀も聖僧為る可し」の条文は、日顕という腐敗堕落の権化によって 完全に泥まみれにされたのである。この行躰面から見ても、日顕の法主失格は誰 の目にも明らかである。  それを百も承知でシャーシャーと美辞麗句を並べるとは、やはり山崎という男、 天性のペテン師と言うほかあるまい。 ■取り引きされた「血脈相承」  問題は、かつて日顕の血脈相承に疑難を呈した「文春手記」である。この「手 記」について山崎は、日顕宛て「書簡」の中でこう書いている。 「私は、今、御相伝について、信じております。その点については、御疑念をお 払い下さるよう、伏してお願い申し上げる次第です」 「私が、かつて週刊文春誌上に指摘しました御相承に関する疑難につきましては、 これをそのまゝにして置くことは後世に混乱を残し、又、私自身の信仰上あって はならぬことだと充分に心得ております」  信心の「し」の字もない謀略家の山崎が「信仰上あってはならぬ」云々とはお 笑いぐさだが、これがまったくの大嘘で、この時点においても山崎が日顕に相承 などあるはずがないと踏んでいることは、同じ「書簡」の以下の下りに明白だ。 「ことが重要でありますだけに、手順方法、論法を誤れば、新たなる混乱と取り かえしのつかぬ禍根を残しかねません」 「書いた内容は、調査で判明した事実の四割にすぎません。のこりは、反論や、 名誉毀損の訴えがあったときにそなえ、手の内にとっておいたのです」 「私の書いた手記は、簡単に、抽象的な否定行為で消せるような内容のものでは ありません。仮に私がそれをすれば、正信会サイドから、私の裏切りに対する非 難だけでなく、残りの六割の資料によるきびしい反論が行われるでしょう」  つまり、かつての「文春手記」には相当の裏付けがあるし、そのうち公表した のは「四割」にすぎない。まだ表に出していない調査事実が「六割」あり、事と 次第によっては、正信会側から激しく反論されるぞと脅しているのだ。  おだてたり、すかしたり、さんざん日顕の心を揺さぶった上で山崎は、この相 承問題を解決するための具体的な「手順方法、論法」を示す。 「まず、正信会、宗門双方、現時点において訴訟をとり下げる」 「正信会僧は、復帰をのぞむ者は受け入れ、そうでない者は、寺ごと単一独立を 認めてやる」 「次の段階で、宗門より、五五年の処置について一言言及なされ、同時に、改め て御相承の経過について公式に発表していたゞきます。日時、場所、いきさつ、 お言葉の内容、証人がいればその証言、そして重役会議の内容等です」 「過去にも、御相承にかゝわる争いはなかったわけではありません。お大事の中 味についてはもちろん秘伝ですが、その経緯については、常に御宗門で明らかに なされ、説明されています。それは、人間社会の常識であります。地位の主張は、 主張する者によって立証されるべきものです」  要は、相承の経緯を改めて公表し、破門した正信会と和解せよというのだ。  注目すべきは、その相承の経過について、「日時、場所、いきさつ、お言葉の 内容、証人がいればその証言」等を公表せよと、無理を承知で日顕に詰め寄って いるところ。  これまでに公表された、相承の経緯に関する日顕の発言といえば、日達上人が 亡くなった昭和五十四年七月二十二日、緊急重役会議の場で行った”自己申告” のみ。  それ以上は、正信会との裁判の場ですら、経緯も、日達上人のお言葉も、まし てや証人など、一切公表していない。  無理もない。相承の事実がない以上、公表などできっこないのである。  その意味で、以下の山崎の記述は大変に興味深い。 「発表の仕方、内容については、もちろん、私も充分協力させていたゞき、落し 穴にはまらぬよう万全を期する必要があります」  裁判所公認の大嘘つきが言う「充分協力」とは、いったい何を意味するのか? それは、以下の恐喝裁判の判決文を読めば、明らかであろう。 「幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど全く反省の態度が見ら れない」(昭和六十年三月二十六日、東京地裁・吉丸真裁判長)  法廷ですら、偽証はおろか、証拠偽造までやってのけた山崎である。この男に とっては、かつて否定した日顕の相承を認めることぐらい、朝飯前に違いない。 ■欺瞞に満ちた「相承拝信」  この山崎の「書簡」に対し、日顕が相当、心を揺さぶられたであろうことは、 容易に想像がつく。  何しろ、人一倍プライドが高く、自分のメンツに異常なこだわりをみせる日顕 のことだ。同門を大量処分した”残忍法主”として宗史に汚名を残すことを恐れ ていた。  平成六年十二月十日の富士見庵における極秘会談にしても、その内容は正信会 の復帰問題。当然、会談に臨んだ総監、渉外部長の両名は、ともに日顕の意を受 けていたと伝えられている。  しかし、現実は日顕の思惑、山崎のシナリオ通りには進まなかった。「中外日 報」のスクープというハプニングで、日顕と山崎が極秘で進めていた謀略の全貌 が白日の下にさらされてしまったためである。  山崎直筆の「書簡」という動かぬ証拠に宗内は騒然とした。  これまでも日顕一人の「狂の振り子」に翻弄され続けてきた宗門人だが、今回 の「振り子」のブレ具合、その角度は、恐らく登座以降、最大級のものである。  重ねて言うが、日顕登座直後の昭和五十五年、相承疑惑の口火を切ったのは、 ほかならぬ山崎である。  その男と結託するとなれば、日顕にとって、また宗門人にとっても、唯一の拠 り所であり、切り札のはずの血脈相承の重みはどうなるのか?  さらに裁判にまで訴えた正信会を、問答無用で首切ったのは日顕である。現末 寺住職のほとんども、当時の日顕に信伏随従し、一体となって自らの言動をもっ て正信会を否定した。すべては血脈相承を護らんがため、心を鬼にし涙をのんで、 かつての同門を否定したのである。  それを、よりによって正信会問題の首謀者の口車に乗って、無条件で裁判を取 り下げ、宗内復帰を画策するなど、まさに「振り子が振り切れる」とは、このこ とだ。  宗内が騒然とする中、さすがの日顕も、いつまでも頬被りを決め込んでいるわ けにもいかず、ついに平成七年二月十六日付の宗門機関紙「慧妙」に山崎を登場 させ、「私が”御相承”を拝信するに至るまで」と題する「寄稿」を掲載させる。 山崎が改心して詫びてきたから許したという体裁にし、ついでに自らの「相承疑 惑」も払拭せんとする下心がみえみえである。  しかし、その内容たるや、とても宗門の内外を納得させられるような代物では なかった。  当然である。山崎があれほど「手順方法、論法を誤れば、新たなる混乱と取り かえしのつかぬ禍根を残しかねません」「落し穴にはまらぬよう万全を期する必 要があります」と進言したのに、単なるその場しのぎで一方的に山崎に謝罪させ ているのだ。しかも、謝罪しているのが札付きの大嘘つきでは、信じろというほ うが無理がある。  もちろん、山崎が要求した相承の経緯の公表も一切なし。これでは、いくらペ テン師の山崎にしても、変心した具体的な理由など示せるはずがない。  その点は山崎自身も相当気にしていたのだろう。「私の態度に対し、『無節操』 『変節』等の批判もあるかもしれない」が、これを「勇気」というのだと、苦し 紛れの弁明に努めている。  だが、”懺悔”の甲斐無く山崎に対する宗内の視線は極めて冷やかだった。厚 顔無恥な変節漢を侮蔑する者はいても、”軍師”と仰ぐことはおろか、同情する 者すらいなかった。結局、日顕に利用され振り回された山崎こそ、いい面の皮で あろう。  山崎は山崎で、そんな宗門を見限ってか、某宗教団体でこんな発言をしてい る。 「(宗門で)本当に純粋に信仰し、学んでいる僧侶というのは、本当にごく少数 で、あとは、皆金の為にやっているような僧侶が多く、嫌気がさしている」 「私も教団組織にとらわれず、自由な立場で活動している。日蓮正宗に対しても 同様」「S先生(その教団の教祖)は師匠で、私は弟子だ」  建前も本音も自在に使い分ける希代のペテン師・山崎のこと、何が本音かなど と問うこと自体が愚かなことだが、やはりこの男にとっては、日顕も宗門も利害 の対象でしかないことだけは、本音として滲み出ている。  そして、こんな男が「拝信」した相承とはーーある老僧もしみじみ語ってい た。  「かつて、これほど血脈相承が軽々しく扱われたことがあったであろうか」  山崎の宗内復帰が意味するもの。とりもなおさずそれは、血脈相承すら取り引 きの道具にされたということである。宗内の誰もが強烈な挫折感とともに、日顕 一人の「狂の振り子」に振り回される宗門の行く末に、深刻な不安を覚えた。 ■山崎に裏切られた「正信会」  さて、山崎にさんざん利用された揚げ句、一方的に裏切られた正信会である。 「慧妙」が発行された直後に開かれた緊急会議は、「まんまと山崎にだまされた」 「和解はあり得ない」等々、山崎批判が続出。荒れに荒れて、結局、日顕、山崎 の目論見は完全に破綻する。  無理もない。正信会にしてみれば、山崎を信じたからこそ、それこそ体を張っ て裁判に訴えたのだ。その代償が宗門追放である。それを今になって突然掌を返 されては元も子もない。日顕が土下座でもしない限り、おいそれと宗内復帰など できるわけがない。  この頃、正信会の内部で流れた山崎評がふるっている。 「山崎は七並べのジョーカーと同じだ。最初は使い勝手がいいが、最後まで持っ ていた奴は負ける」  けだし名言である。「最後まで持っていた奴は負ける」とは、暗に日顕をさし て言っているのだろう。  当然、日顕、山崎の恐れた正信会側からの反論も出た。  かつて山崎と一蓮托生だった者の証言など、当事者の話だけに、実にリアル だ。  例えば平成三年の日顕から山崎に対する謝罪についても、日顕は頭を下げただ けではなく、「頼むから、俺に相承があったってことを認めてくれ」と泣きつい ていたこと、それに対して山崎が、勝ち誇ったように「今さら僕のすごさが分か ったんだよ、あの男にもね。僕にひれ伏したんだよ。ハッ、ハッ、ハッ」と自慢 していたことを暴露している。  さらに驚愕すべきは、平成七年の正月、すなわち富士見庵での極秘会談の後、 いよいよ「慧妙」に宗内復帰を公表する直前の山崎からの電話である。 「実は僕は宗門に帰ることにしたよ。正信会をやめてね」 「でも、俺は、阿部から『嘘つきだ』って言われた言葉を忘れたわけじゃないよ。 誰が忘れるもんか! 今に見てろってんだ。あん畜生、必ず仕返ししてやるよ。 俺を見損なうなってんだ。それじゃ、長い間、お世話になりました」  何のことはない。復帰を決めた後になっても、山崎は日顕のことを「あん畜生」 と罵り、「必ず仕返ししてやる」と復讐を口にしていたというのである。  その意味では、山崎の”懺悔”に対する正信会サイドの評価は、まことに正鵠 を射ている。 「私は思わず声に出して笑ってしまった。大嘘つきの山崎氏から認められた血脈 相承の主の顔が目に浮かんだ。大石寺の血脈相承の権威が、私の中で完璧なまで に崩壊した瞬間であった」  この点については、まったく同感である。  山崎との結託で本宗の「血脈相承」は地に落ちた。まずもって宗史に残る大汚 点であることは間違いない。 ■共犯者の暴露本で疑惑再燃  山崎の「相承拝信」が、いかに欺瞞に満ちたものだったか。その反論は、昨年、 思わぬところから出た。  五月十日、『私は山崎正友を詐欺罪から救った!!』というタイトルの本が発刊 されたのである。  著者は、元暴力団組員の塚本貴胤氏。  かつて山崎の四十億円にものぼる「手形詐欺」や「計画倒産」、果ては「富士 宮市議殺害計画」にまで手を貸した”共犯者”が、「過去の行状に対する懺悔の 気持ちを込めて」「山崎正友への決定的な鉄槌になれば」と筆をとった手記であ る。  その本の中で塚本氏は、かつて山崎が、 「日顕は、宗門ではナンバー7なんだ。日達上人の娘婿が菅野といって国立にい るが、これが跡目だった。日顕は悪いやつで、日達上人から相承もないのに相承 があったと言い張って法主になってしまいやがった。  俺は日達上人が死ぬまぎわまでそばについていたから、日顕なんかに相承され なかったことはわかっている。日達上人は日顕を全然信用していなかった」  と話していたことを暴露。  さらに最終章では、例の山崎の「慧妙」手記について、次のようにバッサリ切 り捨てている。 「まあ、よくここまで図々しく厚顔無恥になれるものだ。十数年間唱え続けてき た自説を、これ程簡単に、変節できるものなのか、無節操にも程がある」  白眉は、著者が明かす「なぜ山崎が変節したのか」、その本当の動機である。  塚本氏によれば、事の真相はこうだ。  出所した山崎の所に、ある日、ある筋から大石寺の墓苑建設の話が舞い込んだ。  当時、金に困っていた山崎は、 「まとまった金が必要だ。いい知恵がある」 「日顕が自分に会いたがっている。自分と日顕の手打ちをさせようとする仲介者 がいる。自分が日顕の血脈相承を認める。その代わり条件として、日顕から墓苑 建設のお墨付きをもらおう。それが一番いい」  と、二つ返事でその話に乗ったというのである。  何のことはない。「相承の嘘」という日顕の最大の弱味を握っている山崎が、 今後二度と触れないから、墓苑の利権を任せろというのが本音で、「御相承を拝 信」どころか、結局、山崎が拝信していたのは金だけだったことが暴露されたの である。  思えば、日顕の登座後、山崎が日顕を誑し込もうと作成した密書「申し上げる べきこと」の中に、こんな一節があった。 「墓園は、戦略的二〇三高地であり、ぜひすすめさせていただきたい」  かつて富士宮の墓苑開発で巨額の裏金を手にした山崎にとって、墓苑は何にも まして、己の金儲けのための「戦略的二〇三高地」なのだろう。  当時は、その申し出を「あんたは大嘘つきだ。あんたを絶対、信用しない」と 却下した日顕だが、今回ばかりは自分の相承という最大の弱味を握られ、まんま と山崎の口車に乗ったということだろう。  金で取り引きされた血脈相承ーー日蓮正宗も落ちるところまで落ちたものであ る。  この塚本氏の暴露本について、山崎が裁判に訴えている。  万が一にも山崎に勝ち目がないであろうことは素人目にもよく分かる。  では、いったいなぜ山崎は、こんな自爆に等しい裁判に踏み切ったのか? そ のあたりの事情について宗内では、日顕と山崎の間に裏で密約があったとの見方 がもっぱらである。 「大坊内無任所教師有志一同」の名で出回った告発文書によれば、山崎が「大白 法」を使って、日顕の「相承疑惑」を否定する。その見返りとして、日顕が山崎 に対し、裁判名目で資金援助を行うというのだ。  告発文では、具体的に平成十四年七月二十八日、日顕の息子・信彰と山崎が東 京・新宿の京王プラザホテルで極秘会談を行い、そこで密約が交わされたことを 明かしている。  この告発を裏付けるかのように八月十六日付「大白法」には、本書でもこれま で何度か触れた、日蓮正宗青年僧侶邪義破折班なるグループによる、相承疑惑に 関する反論(「新興宗教『創価学会』と離脱僧らの再度の邪難を推破す」八月六 日付)が掲載された。  その中で、若手坊主が山崎に直接「面談」して問いただしたとして、問題の塚 本氏の暴露本について、「まったくのデマ」と全面否定している。  しかし、若手坊主が山崎と「面談」などというのはまったくの嘘で、京王プラ ザで阿部信彰と密会した際に確認されたものであることは、まず間違いない。  宗内からの情報によれば、そもそも反論を作成したのが若手坊主というのから して眉唾物で、実際には日顕を筆頭に宗門執行部が角つき合わせて書いたという のが真相のようだ。  いずれにせよ、山崎が裁判に踏み切った以上、真偽は法廷で決着がつく。  最後までジョーカー頼みの日顕だが、山崎が裁判に負けたらどうするのか? これは見ものであろう。 第5章 日顕相承の’軽さ‘ ■荘厳さに満ちた日達上人への「略式相承」  「日顕の相承」と先師の例とを比較してみよう。これまた疑問だらけである。  法主が新しい法主を指名する相承をめぐっては、当然、画一的でないさまざま な状況、情勢が考えられる。仮に前法主の病気などの緊急の場合には、宗門では 「略式相承」という方式もある。日達上人への相承はこのケースであった。  日淳上人の側近として日達上人への相承を間近に見聞した柿沼広澄庶務部長( 当時)の証言によれば、相承はこういうふうに行われている。(昭和三十五年二 月二十三日「日淳上人百ヵ日法要」於本山客殿)  日淳上人は、昭和三十四年十一月十七日に遷化されたが、その二日前、十一月 十五日、ちょうど日目上人の御講日に当たる日の午後二時頃、日淳上人から柿沼 庶務部長(東京・品川区、妙光寺)のもとに電話が入り、庶務部長は早速日淳上 人の自宅(大田区池上町)を訪れる。この時、当時総監だった細井日達上人(東 京・池袋、常在寺)に猊座を譲る旨が伝えられた。柿沼庶務部長はすぐさま本山 にいる日達上人に電話をするとともに、常泉寺(東京・墨田区向島)の高野日深 重役(能化)に連絡をとった。高野重役は直ちに日淳上人の自宅に駆け付け、相 承が決まった以上、「今夜のうちにでも相承をしなければならない」と、日淳上 人にその旨を申し上げる。日淳上人もその申し出を承諾される。  主治医も「医者として今晩は十分保障するけれども、明日のことは明日になら なければ分からない」という急迫した病状にあった。  日達上人もすぐに本山から日淳上人の自宅に駆け付け、今夜相承を行う旨を受 けて、自坊の常在寺に帰られる。そして、斎戒沐浴し、その夜再び日淳上人の自 宅に来られた。  午後六時頃、相承に必要な相承箱を塔中の住職たちが守護し、ちょうど六時半 に本山を車で出発、十一時半に大田区の日淳上人の自宅に到着した。その時、高 野重役は「私は三度ほど御相承の警護の役をしたから私の指図に従えば心配ない」 と庶務部長を安心させている。  妙光寺から取り寄せた屏風を開いて相承の場の四方を囲み、次の間に重役、庶 務部長、教学部長、塔中住職たちが警護役として控え、日淳上人の家族には離れ に待機してもらった。  相承は午前零時過ぎから一時半にわたって行われた。事前に高野重役から「御 相承が終わると南無妙法蓮華経という声が聞こえるから、その時には唱和しなさ い」とのことで、一時間半後に題目の声が聞こえてきたところで、警護役の一同 も唱和して、相承の儀は終わった。  こうして十一月十六日午前二時半、十五夜の月が皓々と照るなか、相承を終え られた日達上人は待たせておいた車で、すぐさま本山に帰られた。  相承が終わると、日淳上人は途端に元気になられた。この状態なら翌日も大丈 夫だろうということで、親戚の人も帰ったが、翌十七日午前五時五十五分に遷化 された。  いわば最後の全力をふりしぼって相承の儀式を行い、法主の責務を果たして万 事を終了させ、力尽きて遷化されたというような崇高な使命感を感じさせる。  これが日達上人への「相承」であった。緊急の場合の略式とはいえ、絶対的に 濃密な時間であり、緊張と荘厳な様子がひしひしと伝わってくる。  このように、略式ではあるが斎戒沐浴して出直すなど手順を踏まえた儀式を受 けた日達上人が、自分の後継の者に相承するに当たって、それを誰にも知らせず、 警護役もおかずに密かに二人きりで行うわけがない。  ところが日顕が”自己申告”した「相承」の場合、時間の余裕は十分にあった というのに、あまりにも安直で、この「略式相承」のような真剣な気迫の片鱗さ えも感じ取れないのである。 この時の相承については、『大日蓮』(昭和三十四年十二月号)に、「記録」と して、日淳上人の命を受けた本山僧侶が相承箱をもって出発するところから日淳 上人の発言などの詳細に至るまで、実に細かい記録が宗内に公表されている。そ こには、日淳上人が言葉とともに「譲書」を残していることも明記されている。 ところが日顕の相承にはまったく記録が残っていないのである。  相承の記録については、昭和三十一年三月三十日の六十四世日昇上人から六十 五世日淳上人への相承についても明確である。その厳粛な様子は、以下の通り、 三十一年四月号の『大日蓮』に克明に記録されている。 「三月三十日、午前二時、此処總本山大石寺大客殿に於て恒例の丑寅勤行に続い て新法主日淳上人へ、前法主日昇上人から唯授一人適々の御相承が行はれた。  大客殿の内陣に六枚一隻の金屏風で席がしつらへられ両法主が左右に対座して 時余に渡って行はれたのである。外陣のリン座に總監高野日深師、正座し、外陣、 廊下は宗務院各部長、客殿外の周囲は大坊執事、理事補が警護した古式に則り静 粛に行はれた。  内陣内は寂々として時折、けい咳の響かもれる外は何の音もなく刻々と時が経過 して、東天のほの明るくなった時ようやく終了したのであった」  緊張に満ちた空気が伝わる、細やかな描写である。その場に立ち会った者でな ければ書くことのできない実に具体的な記述である。「いつ」「どこで」「どのよ うに」が明快なのはもちろんのこと、立ち会い人や警護にあたった者など「証人」 まで明確に記されている。この記録を書いたのは、当時庶務部長だった細井精道、 後の日達上人その人である。かつて先師の相承を記録し機関誌に公表した日達上 人が、自分が相承するにあたり、それを公表はおろか、まったく記録に残さない などということがありえるだろうか。 ■日元−日穏上人の息づまるような相承の模様  歴代の法主をみても、さまざまな相承のケースがあった。  第三十四世日真上人は明和元年(一七六四年)に猊座についたが、急病で明和 二年七月二十六日、死去した。あっという間の死で次期法主に相承する時間もな かった。 そこで前法主の日元上人(三十三世)が、亡くなった日真上人に代わって三十 五世日穏上人に相承した。御隠尊からの相承である。  この時の状況については、『世界之日蓮』(昭和十年十一月号)に「昔の面影」 というタイトルで掲載されている。  日穏上人が参上すると、隠尊の日元上人ばかりでなく、大隠居の日因上人(三 十一世)もいる。日元上人がまず日穏上人に向かって言う。「当山には宗祖、開 祖以来伝わる一大事の秘法があるが、お前には受け奉る思いはあるか」。日穏は 答える。「一身一命にかえてお受けいたしたい」。重ねて言葉がある。「本当に相 違ないか」。日穏は言う。「ございません。何度でもお誓いいたします」。ここで 大隠居日因上人から声がかかる。「日穏が相承をお受けしようとする願について はいささかも間違いはないようだ」。また日元上人。「もしこの法を受けるなら、 不肖な私だが私の弟子になってもらいたい」。日穏は「長く大法大恩の師範と仰 ぎたてまつります」。日元上人「それでは相違ない固めの盃を交わしましょう」。  ここで盃が交わされ、師弟の契約は定まったのである。大隠居日因上人が言う。 「日元は私の弟子であり、日穏は日元の弟子である。今、この三人はともに師弟 となった」。  このようにして師弟の契りが結ばれ、日穏は大坊に戻った。そこにまた使いの 理境坊住職が来て、日元上人から、「今夜、子の刻(午前零時ごろ)、一大事を授 与する。この事を決して他に漏らしてはいけない」との言葉が伝えられ、「因師 の内意だが」と前置きして「今夜、日元師から御大事が渡されるだろう。ついて は執事にひそかに命じて、餅をついておきなさい。また赤飯も作らせておきなさ い。客殿は残らず障子を閉めるが、特に裏口が大事である。先年、この大事を立 ち聞きしようとして忍び入った者がいたが、この男は一日で死んでしまった。し たがって裏口をきちんとしないことは、殺生を犯すようなものだ。面倒だが、自 分できちんと見きわめなさい」  その夜は皆、寝ないでその時刻を待つのである。  定刻、日元上人がやってくる。それを中門まで出迎えて、客殿に案内する。理 境坊住職は客殿から書院通り口を固め、執事の慈性坊は玄関口を固める。他に忍 び込む者はいないけれど、日元、日穏の二人はあらためて客殿の前後左右を調べ、 異常なしと確認して、初めて経机をはさみ向き合って座る。  日穏が合掌する。日元上人は「日蓮大聖人が胸中の肉団に秘し隠して持ち給う 唯以一大事の秘法を三十五世の日穏に残らず付嘱せしむ」と述べ、さまざまの箇 条をすべて話されて、終了するのである。  そして書院に移り、盃を交わした後、御本尊書写の相伝、終わると雑煮を食べ 合い、日元上人は戻っていくーー。  当時の文語文を現代文に直すと以上のようになるが、息づまるような二人の会 話や相承の模様がまざまざと浮かび上がるのである。 ■壮絶ともいえる三つの相承を知る日達上人  五十八世日柱上人は、日顕の父・日開らが策謀したクーデターのため在位二年 余で退座となるのだが、登座をめぐり反対派が暗躍する中で、五十七世日正上人 との間で行われた相承もまた、緊張に満ちたものであった。  日正上人は、大正十二年六月ごろから、病気で床につくようになった。東京の 病院で診察を受けると、ガンの症状がはっきりしている。上人も現状を冷静に受 け止めて、静岡県興津の海岸に一軒家を借りて静養されることになった。若い所 化たちが交替で給仕に当たった。  上人は自らの死期が近付いていることを察知されたのだろう、八月十一日の夕 方、大学頭の日柱師、および大阪の中弥兵衛、牧野梅太郎の三人を呼ばれた。こ の二人は在家ながら信心厚く、日正上人の信頼を得ていた。  乱れきった宗門の坊主たちはもう信用できない。誰を次の法主に選び相承する か。在家の二人を後日のために証人として列席させよう。そう考えられたのだろ う。  上人は病気ですでに言葉もはっきりしなかった。後に法主になる日達上人が当 時は所化で、日頃、日正上人に接していたため、そのもつれる言葉を通訳して伝 えた。  日柱師らは一度、旅館に戻ったが、深夜の午前零時、もう一度、上人に呼ばれ、 上人の寝る蚊帳の中に入った。  日達上人、中、牧野氏らは家の周囲で警戒に当たった。この警戒は前述のよう に、相承の場合の当然の警備である。  二人の話し合いは約一時間で終わったが、この時、相承は正常にとどこおりな く行われたものと確信したと、警備に当たった日達上人も述べている。  また、同月十七日の夕方、「明朝、遺言するから皆を呼べ」ということになっ た。ただちに連絡、準備に移った。  明け方、「これに呼べ」という声に関係者は上人の枕元に集まった。一同が座 ると、上人は見渡し、侍僧に紙と筆を持ってくるように命じた。侍憎が静かに立 って用意する。上人はおもむろに「大僧正の権は大学頭日柱に相承する」と遺言 した。  侍僧が認めた料紙を確認したうえで、署名と花押を記すよう命じられ、指で指 図された。これが終わると、また一同を見渡され、目を閉じられた。  これが日正上人の逝去であった。  同上人はこうした二重の儀式をとることにより、相承の事実を明確にし、上人 にあからさまな圧力を加え、相承という最大の儀式を妨害しようとしている日開 らの陰険な勢力に対抗したのである。  これは日正上人の第五十回忌法要の際の日達上人の話、および論文「悪書『板 本尊偽作論』を粉砕す」で、日達上人が述べたことである。このように壮絶とも いえる相承の歴史を見る時、日顕の場合はあまりにも安易で重みがないといわざ るをえない。  日顕が相承を受けたという四月十五日は、第三祖日目上人の御講日であり、本 山には塔中住職が全員いた。まして、日達上人はご自分の相承の折の警護の大切 さと相承における警護の仕来りの重要さも充分知っていた。警護を付けようと思 えばいつでも付けられる状況にあり、相承の仕来りからいって、特に必要な警護 すら付けずに相承したというのは、考えれば考えるほど合点がいかない話である。 日達上人はまた六十三世日満上人から六十四世日昇上人への相承にも立ち会わ れている。昭和二十二年七月十七日、日満上人より宗務院に通達があった。  一筆啓上致候 明十八日御示伝致候間御用意なさるべく右申進候恐々    十七日                           日満   佐藤総監殿  というもので、予告状である。  宗務院ではさっそく準備に移るが、戦時中、客殿は火事で焼失している。「す べて質素に」という日満上人の内意もあったので仮客殿で行われることになり、 佐藤総監が内陣を、若い日達上人と川田利道蓮成坊住職が外陣を担当した。  十八日夜十時から十一時三十分まで、新法主日昇上人への相承が行われた。  そして二十一日には御代替式を御影堂で執行したのである。  日達上人は三度もこのような場に遭遇されている。 その謹厳な日達上人が、立ち話のような安直な相承をされるはずがないというの が、大方の僧侶たちの胸に底流する思いだったのである。  日顕の法主就任の翌年、つまり昭和五十五年夏、日顕の相承を認めようとしな い僧侶たちが正信会を結成し、翌五十六年一月、百八十余名が日顕を相手取り、 地位不存在確認請求訴訟と、職務執行停止仮処分申請を静岡地方裁判所に提出し て、日顕に公然と叛旗を翻した。  この時の彼らの主張を要約すると、  @血脈相承を受けたというなら、なぜその時点で公表しなかったのか。  Aこれまでの実例では、相承するとすぐ法主になるのが宗門の慣例である。そ れなのになぜそうしなかったのか。  B法主になるべき位(能化)ではなく、一段下であった日顕がなぜ法主に就任 したのか。  Cなぜ相承の儀式、手続きをしなかったのか。  というものであった。我々と立場や理念は異なるが、正信会によるこれらの主 張は常識的な疑問でもあった。 ■裁判における日顕相承の陳腐な答弁 「相承を受けた」という日顕の主張について宗門の上層部はどう見ていたのか。 むろん内面での個々の意見はさまざまであったろうが、外部に向かっての公式見 解は「いささかも不審なところはない」というものだった。  正信会の日顕に対する告発事件で、裁判所で行われた宗務院関係者に対する尋 問のなかに、こんなおもしろいやりとりもあった。  弁護士「証人は弁護士の質問に答えて『昭和五十四年六月七日の鹿児島での日 達上人と椎名(法英)重役との会話』について述べていますが、その会話は空港 に向かうハイヤーの中でのことですか」  答「お車の中ということです」  弁護士「同乗者は椎名さん以外にいましたか」  答「そこまではよくわかりません」  弁護士「椎名さんが、日達上人に『猊下が飛行機に乗るのは心配です』と言っ たということですが、どういう意味ですか」  答「椎名さんから聞いた話では『その日は天候が悪いので、法主という大事な 身であるから心配した』と言っていました」  弁護士「椎名さんは、飛行機が落ちるのではないかと心配して、尋ねたという ことですか」  答「飛行機が落ちる落ちないではなく、猊下の御身を心配されて言ったわけで す」  弁護士「その時、日達上人はなんと言ったのですか」  答「『後のことはちゃんとしてあるから』とおっしゃったと聞きました」  弁護士「それは日達さんが椎名さんに、飛行機が落ちても心配ないという意味 のことを言ったということですか」  答「はい」  弁護士「椎名さんはあなたに、その返事を『相承は済んでいる』という趣旨に 受け取ったというように、話してくれたわけですか」  答「いいえ、相承が済んでいるとか、済んでいないということではなく、日達 上人がそのようにおっしゃったということ、そしてご自分が日達上人の遷化の時、 日顕上人のお言葉を拝して『ああ、今にして思えば、そのことをおっしゃってお られたのだな』というように考えられたということです」  弁護士「そうすると、会話の時点ではなんとも思わない普通の会話だと思って いたが、その後、日達さんが亡くなり、日顕さんが名乗られた時に、思い当たっ た、とこういうことですか」  答「そこまで詳しく突っ込んだ話ではなく、椎名重役は、大事な猊下の御身を 心配して聞いたのだと思います」  弁護士「空港に向かう車の中での雑談のような形で、日達さんが宗門の最重要 な儀式である相承について言われるのはおかしいと思いませんか」  答「御相承のことに関しては、まさに御法主上人猊下の御胸中にすべてがある ことであって、椎名重役としては、猊下は大事な人ですから、こんな天候の日に 飛行機に乗って万一のことがあってはいけないという、その心配から尋ねた。そ れに対し日達上人は、その御胸中の一端を、椎名さんに漏らされたというわけで す。それがどういうことかということは、日達上人のお言葉は、そうであったわ けですから、後になって今から思えば、ああ、それほどのことだったのかと感ぜ られるのです。なぜ日達上人がそのようなことを、その時におっしゃったのか、 我々には判断がつきかねます」  弁護士「そのようなことは、阿部さんが相承を受けたのかどうかということと は関係ないですね」  答「もちろん、その時にはそういったことはおっしゃっていません」  弁護士「今の話は、阿部さんが受けたかどうかということと関係づける点はな いですね」  答「ですから日達上人は日顕上人であるとか、そういうことは一切言ってない のです。『後のことは心配ない』ということです」  弁護士「そうすると、飛行機が落ちても心配ないということからすると、その 時、飛行機に同乗されている方以外の方が相承を受けているというふうに、考え るのが椎名さんの考えということになりますか」  答「私どもの話を椎名重役から聞けば、そのようなお考えではなかったと思い ます」  弁護士「その時の飛行機には、阿部さんは乗っていなかったのですか」  答「乗ってなかったと思います」  弁護士「当時、日達さんは自分が飛行機に乗られる際に、誰かを別の便にする ようにというような指示を、自分の口から与えられていたかどうか、知っていま すか」  答「そこまではよく分りません」  弁護士「先程の話の半月ほど前の、昭和五十四年五月十七日、八丈島の無上寺 で法要がありましたか」  答「ありました」  弁護士「当日は雨で、あなた方の乗った飛行機が着陸できるかどうか危ぶまれ るような天気だったことを記憶していますか」  答「私と同じ教区なので、私は一日先に着いていました」  弁護士「日達上人の乗った飛行機が雨で予定通り着くかどうか、皆さんが心配 していたという記憶はありますか」  答「確かに雨であったことは間違いありません」  弁護士「日達さんと阿部さんは一緒の飛行機じゃあなかったのですか」  答「そのへんの詳しいことまでは覚えていません」  弁護士「あなたは迎えにいったのではありませんか」  答「いや、当時の記録をみればわかるかもしれませんが・・・」  弁護士「八丈島へ行く飛行機は小さいから危険と思われますか。日達さんと阿 部さんが一緒の飛行機に乗ったとすれば、先程の話からすれば、飛行機が落ちて も心配ないということではなくて、飛行機というのは落ちることなんかないから オレは大丈夫だよという趣旨に、解釈するのが普通ではありませんか」  答「私が椎名重役から聞いた限りでは、そうではなかったと拝しております。 椎名重役もそういう趣旨でとらえております」  弁護士「昭和五十四年五月十七日に、阿部さんが日達さんと同乗したというこ とは、今の話の前提からすれば、すくなくとも阿部さんは御相承の相手ではない という理屈になりませんか」                ’  答「飛行機で一緒だったかどうかはっきり分かりませんから」  弁護士「もし同乗していたとすれば、そういう理屈も成り立つということにな りますか」  答「いいえ、そんなことは言っていません」  弁護士「(『大日蓮』の昭和五十四年八月号を示して)ここに法要の記事が載っ ていますね」  答「はい、載っています」  弁護士「これによると日達さんは、阿部さんや大村さんと一緒の飛行機で行か れたのではありませんか」  答「この記事によればそのようです」  弁護士の執拗な質問に対して、回答者は懸命に日顕相承の妥当性を説明しよう としている。  このやりとりをみていると、宗門を支配する考え方、とらえ方がよくわかるが、 日顕が「相承」を受けていたと言うから、何とかしてその証拠を揃えようと躍起 になっている。 「多くの僧侶は、僧侶として育ってきて、僧侶の世界しか知らないのです。法水 瀉瓶を金科玉条として学んできたため、日達上人の突然の死は『法水瀉瓶の断 絶!』、『あってはならないことが起こりつつある』と、当時の宗門の僧侶であれ ば、皆、そんな不安な思いでした。それだけに、日顕が自己申告であっという間 に猊座に登ったからといっても、それに対する不信を口に出すことより、むしろ 法水が断絶せずによかった、ほっとしたというのが、宗門僧侶の一般的な気持ち だったのです」(宗門僧侶) しかし、登座してからの日顕については次々と不信の声があがった。 ■一般僧に相承を否定された前代未聞の「法主」  昭和五十六年一月十日、大石寺の対面所でのことである。  これは大奥の対面所で百五十人の在勤教師(住職になっていない僧)とその家 族が日顕に正月の挨拶をした席上での出来事だった。  出席者の話を総合すると、第一幕は対面所に日顕が入ってきた時に始まる。  長いテーブルの前に日顕が座った時、テーブルに大きな茶封筒が置いてあるの を目にした。その瞬間、日顕はムッと気色ばんで「これは何だ!」と叫んだ。  この中には、先に出されていた反日顕派僧侶たちの質問状が入っていたのであ る。そこで一人の僧侶が「先だって差し上げましたお伺い書のご返事をいただき たく…」と言った。日顕は「答える必要はないッ!」と大声で怒鳴りつけた。  僧侶たちも黙ってはいない。口々に「そう言われますが、相承の問題につきま しては、、」などと言い出した。  日顕と僧侶たちとの間で、激しいやりとりが始まった。正月の目通りで、寺族 も居合わせた。日頃、とり澄ました日顕しか見ていない寺族たちは、さぞ驚いた ことだろう。みな顔は青ざめ、中には泣き出す者もいた。  この法主と在勤教師たちとの大激論はなかなか終わらない。双方とも怒鳴り合 うのだから言葉も通じ合わない。  午前中にはケリがつかず、昼飯をはさんで午後も続行されることになった。  日顕も坊主たちも興奮した赤い顔で立ち上がる。口々に何かをわめきながら、 対面所を出ていった。  午後二時ごろ、第二幕の”開演”となった。テーブルに座った日顕が先制攻撃 に出る。 「質問のあるやつは、前に出ろッ!」  数人の僧侶がザワザワと衣擦れの音をさせながら、進み出た。  日顕「一人ずつ質問しろ」  僧侶たちが質問状の趣旨を言い出した。日顕が罵声を浴びせた。 「バカものッ! 過去のことです、それは」  僧侶「いいえ、その問題は、、」  日顕「よく聞け。なんだキサマ、黙っていろッ!」  僧侶「(何か言いかける)……」  日顕「凡僧に何が分かるか」  僧侶「(負けずにさらに言いかける)……」  日顕「なんだ、黙っていろッ。出ていけ、下がれ、下がれッ!」  僧侶「はい、それじゃあ、出ていきます」  こんな具合である。もう話にならない。「質問しろ」と言っておきながら、僧 侶たちが何か言いかけると、こんどは「黙れ、キサマ、凡僧に何が分かるか」と くる。  理性も知性もカケラもない。憎悪と相手を屈伏させようという修羅の生命のぶ つかり合い、低次元な闘争心の爆発である。冷静に話し合って相手を納得させよ うなどという対話の姿勢など、まったくないのである。  不毛の”論争”はなんの意味もなく終わった。 ■日顕が相承を受けていない決定的な証拠 「血脈相承」という全僧侶にとって関心のある問題を、日顕は「何も文句を言う な。オレの言う通りにしろ」と抑えつけた。 「相承」を受けたと言うのだから、自信と余裕をもって対応すべきなのに、問答 無用の強圧ーー。疑問には何一つ答えず、「相承」を確固たるものにしようとす る動きだけが目立った。  昭和五十七年一月十九、二十二日、当時の能化、宗会議員全員が「日顕を血脈 付法の法主と仰ぐ」という趣旨の声明文、決意書に署名している。いや、署名を させられたのだ。  これも裁判記録に見ることができる。  弁護士「署名している方々は、日顕上人を血脈付法の法主と仰いでいるという ことでございますね」              ‐  答「これはですね、(日顕が)怖いからじゃないんでしょうか。昭和五十四年 七月二十二日の日達上人の御通夜の後におきましても、各塔中で御老僧方が『あ れでは早い者勝ちではないか、日達上人は次の方をお選びにならずに御遷化され た』などと、盛んに言ってたわけでございまして、そういう方々がおりますから こそ、こういう決意書とか決議文を出さざるを得なかったんだろうと思います。 (中略)宗門の七百年の歴史においてこのようなもの(声明文、決意書)を出さ せるなどということは、前代未聞のことでございます」  陰で不信の声をあげる住職たち、その声を抑えるために証明書として決意書を 強要して出させる日顕ーー。  こんな証言もあった。登座した新法主に仕える奥番たちの証言である。 「どこかに鶴の紋の入った衣はしまってないのか」「鶴の紋の入った袈裟はない か」  と日顕は法主の着用する鶴の紋の刺繍の入った衣を探していた。これを見た奥 番たちは、 「ホントに相承を受けていたのなら、その時点で用意ぐらいしておくのが当然だ ろうに」  と、疑問を抱いた。  また、日達上人の頃から側に仕えていた奥番に、 「日達上人は護秘符をどのようにしておられた?」  などと護秘符の作り方を聞いたりして、当時の奥番にも不審がられていた。  また老僧たちは、別な面から「あれ(日顕)はニセモノだ」と噂し、見抜いて いたという。別な面とは、御本尊書写についてである。御本尊書写については、 宗門の僧侶であれば一応書写方法は知っている。しかし、ひとたび猊座につくと、 自己流に書写したりはしないものなのだ。どうしても前の猊下の書写を真似る形 となる。心構えが、自然に「先師の如く」と謙虚になり、そうなってしまうのだ という。  例えば昭和三十五年から三十六年頃の登座当初の日達上人の御本尊は、先師日 淳上人にそっくりの書写であったし、日淳上人も登座当初の御本尊は先師日昇上 人に筆跡がよく似た御本尊であった。  ところが日顕は、最初から達筆な筆さばきで書写していた。  「(相承を)受けていないんだから、ああなってもしようがないだろう」と、老 僧をして言わしめている。 第六章 法主絶対論の大嘘 ■意図的に喧伝された異常な「法主賛美論」  日顕が創価学会を破門、除名し、さらに日顕の法主にあるまじき、さまざまな 謗法、悪行が一挙に表面化して、世間の批判を浴びるようになるとともに、逆に 宗門の一部からは、狂的な「法主賛美論」がわき上がってきた。これは法義の上 からも歴史からみても、常軌を逸した滑稽なものであった。  実例をあげてみよう。 「猊下様が現代における大聖人様であり、御内証において人法一箇の御法体を御 所持遊ばす御尊体であらせられます・・・」(『大日蓮』平成三年六月号) 「当宗の信仰は、御法魂を伝持遊ばされる御法主上人の御指南に信伏随順し奉り、 三秘総在の大御本尊を拝し奉ることこそ成仏の要諦なのである」(『富士学報』 第十一号論文) 「凡夫身としてのお姿、法器は変わろうとも、その御法水・御法魂は大聖人已来 寸分変わることなく御当代日顕上人の御身に伝えられ…」(同前)  「三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、そ の内証において、一体不二の尊体にましますということであります・・」(「能化文 書」平成三年九月) 「日蓮大聖人の仏法は、唯授一人法体別付の血脈相承をもって、現御法主上人が 御所持あそばされることは衆知のことであります。したがって、御法主上人御一 人が、本門戒壇の大御本尊の御内証をお写しあそばされる権能をお持ちになるの であります、、」(『大日蓮』平成四年十二月)  例証をあげればきりがないので、このくらいにしておこう。どれをみても”こ れでもか、これでもか”と日顕を持ち上げ、日顕を御本仏日蓮大聖人そのものの ように歪曲し、誇張し、低俗な邪教の教祖を連想させるような”日顕本仏論” ”日顕生き仏論”なのである。ことさら法主・日顕を権威づけ、神秘性を加えよ うとする愚かしい表現のオンパレードがここにある。 「いったい、これはなんだ。”御法魂は御当代上人の御身に伝えられ”とは、狂 った坊主の戯言としか言いようがない。新興宗教の教祖やオカルトじゃあるまい し」  ある高僧は吐きすてるように語ったが、これは少数派とはいえ心ある者に共通 する思いであろう。誰がこのような愚かな僻見を教義論文のような形式で公表し たのか。これは水島公正(埼玉県所沢市・能安寺)、原田輝道(本山・了性坊) らが日顕に迎合し、その意向を汲み、勝手にでっちあげた暴論なのである。  しかし、極めつけは何といっても”顕本仏迹論”だろう。”顕本仏迹論”とは、 現法主・日顕が「本」で、御本仏日蓮大聖人が「迹」であるという大妄論である。 こんな教義破壊の大邪説を言い出したのは宗務院の福田毅道元海外部書記で、平 成三年八月の行学講習会で披露したものだ。  福田元書記といえば、同年初頭、学会破壊工作「C作戦」の存在を暴露し、日 顕が直接深く関与していた事実が発覚したことによって、日顕の身代わりに謹慎 処分を受けた人物である。常識的に考えれば、そんな人物がなぜ宗門の公式行事 で講義できるのか理解に苦しむが、それだけ日顕の側近として信任が厚かったわ けである。  どういう内容の妄論なのかーー。百六箇抄の「立つ浪・吹く風・万物に就いて 本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の御文から、「立つ浪」というのは次から次へ と起こっては消えていくものだから、いま起こっている浪が「本」で、過ぎ去っ た浪が「迹」である。したがって、宗祖日蓮大聖人、第二祖日興上人、また歴代 法主も過去だから迹であり、当代の日顕法主が本である。しかも、日顕法主の指 南の中でも新しい指南が本であり、昔の指南は迹である。したがって、新しい指 南にそっていくのが正しい……。  この妄論が出たすぐ後に、今度は御本尊と法主・日顕の”一体不二論”が出現、 これは、法主日顕が「僧宝」である日興上人を飛び越えて大聖人に並ぶというも のであった。もはや”悩乱”の一語に尽きる邪説である。  この福田元書記による”大妄論講義”は、宗門として何ら訂正や処分を行って おらず、これが法主絶対主義の日顕宗”公認”の教説になっているのである。宗 門には、戦時中に”神本仏迹論”なる大妄論を吐いた小笠原慈聞もいたが、自己 の保身や権威付けなどのためには易々と教義の根本まで破壊してしまう、どうし ようもない体質があるのだ。 ■宗制宗規の処分条項に明白な法主絶対化の意図  幼児性と狂暴性をあわせ持ち、破局への道をやみくもに突っ走る日顕に、当初 から僧侶の間には「何を言ってもダメだ」「下手な諌言や反抗はかえって日顕の 猊座への執着心を強めるだけだ」「面従に徹して大慢を増長させ、その大慢の炎 で自らの身を焼き尽くすのを見守ろう」、そういった声が蔓延し、宗門の高位の 僧でさえ「ダメだよ、あの性格は。徳がない。絶望的だ」と言っていたのである。 この日顕のすべてを知る高僧の言葉に、日顕の本質と前途への失望ぶりが凝縮し ているのではなかろうか。  このような人物とその一派が「唯授一人の血脈」を唯一の旗印に、「本宗の根 本命脈は戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈」という紋切り型の言葉を繰り返して いればこと足りるといった安易な姿勢が、すでに形骸化以外の何ものでもないの である。ちょうどテレビの水戸黄門のように「葵の紋所」さえ示せば、すべて片 がつくという幼稚な権威主義、形式主義にどっぷりと漬かっていて、宗門内でさ え”印籠教学”と冷笑の声が起こっているのである。  このような人物を中心にする宗門だけに、自己防衛の本能はきわめて強く、そ れが法主絶対、法主無謬の風潮や法主信仰という外道の敬神崇天信仰のような低 次元な形で、露骨に現れてくる。  宗門執行部は「法主絶対や法主無謬など言っていない」と必死で否定している が、しかし現行の宗制宗規、とくにその処分条項を一読すれば、そこに流れる法 主の絶対化、無謬を図る意図は明白に読み取ることができる。この強権体制下で は法主に対する異見や批判は一顧だにせず排除され、処分の対象にされる。そこ に底流するのは我一人高し、我一人尊しという法主の権威の絶対化以外の何もの でもない。  宗門の宗制宗規は、明治三十三年九月の制定以来、平成三年七月までのおよそ 九十年間に二十九回の改正が行われている。驚くべきは、この二十九回の改正の うち、実に十六回が日顕の代になって行われていることだ。もちろん、改正の目 的はほとんど法主の権限強化である。  例えば、平成二年十二月二十七日の宗規”改悪”では信徒処分を容易にするた め、「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、めん謗したとき」 (第二百二十九条五項)との項目が追加された。この時、宗規変更にかこつけて、 創価学会池田名誉会長を総講頭職から罷免している。これを初めとして、宗門が 創価学会破壊を目的とした処置を次々に打ち出していったことはよく知られている。  また、平成三年七月六日の宗規改悪では僧侶の処分について懲戒の種目を六種 にし、新たに「奪階」を設けた。これは「現僧階を剥奪し、沙弥に降す」という もので、僧階が現在何であれ、袈裟・衣を着すことの許されない最下位の「沙弥」 まで一気に降格させるというのである。  こんな統制による恐怖政治、時代錯誤の独裁体制の下では、宗内の僧侶は日顕 に対して沈黙、盲従せざるをえず、心ある者も面従腹背を決め込むしかない。宗 門の宗制宗規には、もはや感情のおもむくままに暴走する法滅の法主・日顕を押 しとどめる機能はまったくないのである。  妙楽によれば、仏法でいう「絶対=絶待」とは、相待するあらゆる個々の総体 を超え、超勝したものという単純なものではなく、より徹底した思想性の上で捉 えている。  「相待を以って示す可から不、絶待を以って示す可から不、待絶倶に絶す、故に 滅待滅絶と名く」(天台大師全集・玄義釈籤第二上・五十三左)と。つまり、「滅 絶」の語が示す如く、自らの「絶対」という在り方さえ、絶(否定)し、超えて ゆく「徹底した否定性」の運動そのものとして捉えるのである。物事の真価、一 切法の真の肯定は、徹底した否定を介して、はじめて到達し得る。徹底した否定 (絶)は、自らの”否定(絶)するという行為”そのものを否定(絶)し、遂に 徹底した肯定・大肯定へと転じるという。これが仏法の「絶対観」の基本であろ う。  この「絶対観」に照らせば、自己否定という自省の念など微塵もなく、他の一 切を差別視し、排除・否定する現宗門の「法主絶対」は到底、仏法と呼べる代物 ではない。まさに、独善、独絶(同・玄義第二上・五十二左)であり、独裁以外 の何ものでもない。  妙楽の師・天台はこういった”吾独り勝れる”とし、自らの内に明確な否定を 産出し得ぬ「絶対」などは、無窮に流浪するのみであり、遂には戯論に堕すと明 確に断じている。 「此を降りて已外に若し更に作らば、何物を絶して、何れの理をか顕さん。流浪 無窮にして則ち戯論に堕す」(同・玄義第二上・五十四左)と。  平成三年一月、日顕は「結句は一人になりて日本国に流浪すべきみ(身)にて 候」(富木殿御書)の一文を引いて絶句落涙した。堪え性のない老人がひとり興 奮した末の醜態だったが、これにもし宗祖の言わんとされた並々ならぬ護法の決 意を感じ取った者がいたとしたら、それは一時の感傷、高揚感による幻影にすぎ ず、寺族の女性向けのパフォーマンスでしかなかったのである。女々しいという ならば、これ以上のものは無い。  多くの僧侶はあの我を失った落涙の姿に、まさに、「絶対」を踏み違えた揚げ 句「流浪無窮……」(前引・法華玄義第二)するであろう一法主の不明と迷妄を 感じ取り、絶句する日顕に、万骨が枯れて屍累々、今日の宗門の疲弊と混乱の姿 を察知したのである。日顕もやがて宗門の僧侶たちから疎外され、消滅すること を予感しているのだろう。大石寺のある塔中の腹心の部下を訪ね、酒を飲みなが ら「六十七世(自分のこと)は後世には宗史からも抹殺されるかも知れぬ」と、 深刻な表情で語ったことがあるが、その恐怖を自ら掻き消すように「この宗門の 体制は後になっても絶対に変わらない」と現体制の不動ぶりをことさらに力説し ている(平成四年一月二十八日)。  このまま不満が高まり批判の声が大きくなれば、あるいは自分が退座すれば、 「日顕」は宗史から抹消され、一族もまた石もて追われるごとく宗門から消え去 らねばならない。それは予感としてひしひしと追ってくる。その恐怖を払い除け るように、日顕は”現状不変、永久に、この法主中心のパターンが続くのだ。ワ シに忠節を尽くせ”と必死に予防線を張っているのだ。  平成三年正月の日顕の落涙こそ、宗門内で企図した「法主絶対化」の路線が矛 盾と欺瞞に満ちた戯論に過ぎぬことを日顕自身認めた涙であり、敗北の絶句でも あったのである。 ■こんなにもある珍妙な”血脈相承”の数々  宗門には『家中抄』『続家中抄』という私家版の歴史書がある。『家中抄』は第 十七世日精上人が寛文二年(一六六二年)に、また、『続家中抄』は四十七世 日量上人が天保七年(一八三六年)に著したものだ。  この中にはさまざまな相承の形が記録として残っている。通常の相承ばかりで なく、長期間の断絶、少年僧のような若年貫首を便宜的に就任させる稚児相承、 あるいは在家相承、死活相承など、時代や当時の社会状況を背景にいろいろな相 承が記録に残っている。もちろん、真偽が定かでないものもあるが、現宗門執行 部が金科玉条としている「唯授一人の血脈」が少なくとも宗門史の史実を踏まえ ないまやかしの暴論であることがよくわかる。  [四年間の空白後の相承]  第十七世日精上人は、大石寺の御影堂などを寄進したとされる阿波徳島の城 主・蜂須賀至鎮の内室、敬台院日詔に養母として幼少の頃から恩顧を蒙った。ま た、要法寺日瑶の弟子であり、十六世日就上人に教学を学んだ。出自もスジもよ かった。女性ながら当時かなりの権力を握っていた敬台院は、江戸・浅草鳥越に 寺院を建立し、敬台山法詔寺と称した。そして日精上人を寺主とした。  寛永九年(一六三二年)、日精上人はこの寺で日就上人から相承を受け、大石 寺に移る。これは、スポンサーを意識した登座であった。  自分が面倒を見てきた日精上人が貫首になったため、敬台院の寄進はさらに盛 んになり、その財力もあって、やがて大石寺の御影堂、二天門、総門など多くの 供養がなされた。  だが日精上人は就任して遠からず、敬台院との間に確執を生んだ。”金も出す が、口も出す”で、欝陶しくなったのだろうか、秋風が立ち始めたのである。確 執はしだいに激しくなり、日精上人は大石寺を逃れて江戸に移り、下谷に常在寺 を再建してそこの住職になってしまった。つまり、大石寺は法主無住になったの である。考えられないことだが、大聖人の正統を名乗る一宗の貫首が本山を捨て て逃げ出してしまったのだ。  そのうえ、この貫首離山によって、当時、実施されていた幕府からの大石寺へ の経済援助は断絶しそうになった。朱印制といい、当時、寺院の由緒や縁由に応 じて幕府からの援助があったのである。寛永十八年(一六四一年)の朱印改めの 時、「法主無住では朱印改めを更新できない」ということになった。たちまち宗 内外から苦情が出てくる。寺としてもなんとか苦況を打開しなければならない。  大石寺側は敬台院に直訴し「なんとかしてもらいたい」と懇願したが、法主も 失踪したような寺には朱印は出せない。しかも敬台院と日精上人の感情はますま す対立するばかりである。  結局、幕府からの経済援助ほしさに、法詔寺にいた日感の推薦により、同年、 日舜上人が大石寺に入った。大石寺に入った日舜上人は、その四年後にやっと離 山した日精上人と和解が成立し、相承された。(続家中抄舜師伝)  [稚児相承]  第九世日有上人から猊座は日乗上人、日底上人の順で引き継がれたが、日乗、 日底の二人はともにまもなく病死したため、当時、十四歳であった日鎮に譲位さ れることになった。これには特殊な事情があった。日鎮は下野の国の有力者の出 であると言われている。つまり、日鎮を貫首にすることで、その一族からの経済 的な支援を期待したのである。早い話が宗門も食べていかなくてはならないので、 貫首の座をエサに裕福なスポンサーを探し、援助してもらおうとしたのだ。その 一つが稚児貫首である。十四歳の少年が「唯授一人という本義」を十分に理解、 体得し、宗内を統率する力があったと説明するには無理がある。  宗門は、南条日住らこの頃の元老を稚児貫首日鎮の世話係に立てた。  しかし日鎮がどれほど優れていたとしても、年少の身であり、貫首の立場に対 する多くの僧侶からの嫉妬、反発があった。当然といえば当然だが、少年貫首が イジメられていたのだ。  こうした事態に世話係は、少年貫首を擁護する指令を出すのである。 「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代 りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ ……当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」  たとえ若くとも、この法主の所に本尊はあるのだ。この法主こそ御本仏日蓮天 聖人の生まれ代わりなのだから、宗祖にお会いしたと思わなければならないーー。  最大級の神秘的な言葉で若年貫首を”生き仏”のように権威づけようとしてい る。宗門と法主の権威を高めるための神秘化はこの頃からすでになされていた。  宗内から不信の声があがり、しかもその貫首が人格、力量的に批判に耐えられ ない時、このようなオカルト的な法主擁護論が出てくるのは、今も昔も変わらな い。だが、この程度の指令で宗内の和合という目的が達せられるものではない。 何年経っても日鎮上人への非難の火の手は収まらない。日鎮もとうとう我慢でき なくなったのか、二十二歳の時、三位阿闍梨日芸に手紙を送り、「もう堪らない。 ぜひ会いたい。この書状を見しだい、すぐ登山して私を後見して助けてもらいた い」と訴えている。そうした後見人のお陰か、日鎮上人は大永七年(一五二七年) まで四十五年間も猊座にあった。  [死活相承]  死活とは只事ではないが、これは現実離れしたオカルトというよりも、ほとん ど喜劇的な相承伝説である。  第十四世の日主上人は、上野(群馬県)館林城主の血を引くとされ、十三歳か ら十三世・日院上人の直弟子であった。  伝説によると、日主上人危篤の知らせを受けた代官の寂日坊が、栃木県の蓮行 寺に駆け付けたが臨終に間に合わず、日主上人はすでに息を引き取った後であっ たという。これでは代官による預かり相承とはいえ口頭で相承することはできな い。「唯授一人の血脈」は断絶してしまう。  ところが、死亡して床に横わっていた日主上人は、寂日坊が入室するとガバッ と生き返り、相承を無事に終え、ふたたび死んだという。  むろん後世に捏造された話だろうが、「法水瀉瓶」「血脈相承」の伝統を守るた めには系譜が途切れてはいけない。そのために死人まで生き返らせてしまったの である。このような話を作り出さなければならないほど、すでにこの当時、「血 脈相承」に神秘性をつけ加え、権威を持たせる必要があったのである。  面授相承を重視するあまり、「面授は本当にあったのだ、その証拠に・・・」と、 怪しげなというよりも滑稽極まる「死活相承」まで作り出したのである。  日主上人にまつわる根強い死活相承の伝説に対して、大正十二年四月号の『大 日蓮』において堀日亨上人は、今までの死活相承は後世の捏造であったと論評し ている。  ちなみに富士年表では、日主上人は天正元年(一五七三年)から二十三年間も 法主の座にあり、慶長元年(一五九六年)日昌上人に猊座を譲り、臨終は元和三 年(一六一七年)となっている。  [夢相承]  神秘主義を通り越し、もはや喜劇としか言いようのない死活相承だが、現法 主・日顕もオカルトじみた血脈相承の”奥義”を得々と披露している。  これは平成四年八月の全国教師講習会で行ったものだが、自分が教学部長にな ったときの夢物語を持ち出して、血脈相承にも共通する「授受感応の心」を披露 し、自分の血脈相承の正当性を何とか主張したかったようである。  この時の日顕の”迷説法”を要約するとーー。  昭和三十六年八月、自分が教学部長に任命される日の早朝午前三時、まだ寝て いたらフーッと体が起き上がって、そのことについてまだ何も聞かされていなか ったのに、「教学部長」という言葉がふと自分の口をついて出てきた。そして不 思議にも、その日、本山で日達上人に目通りした際、本当に教学部長の任命を受 けた。これが仏法でいう「授受感応の心」というもので、この心が血脈相承に共 通する心である、と。  そして、続けて「やはりあの者に譲るという場合、重大な意味の場合はね、や はりその凡人凡夫の形だけみて、あれがないから違うとか、この形式がないから 違うとか、そんなようなもんじゃないね、やはり。そのー、深い意味は血脈とか そういう意味においても当然存在する意味があると思うんですね。  私の時も、血脈相承があったとかなかったとか、確かに言われた点もあったし、 いまそのことを弁護しているという意味は決してないんですよ。そういうことじ ゃないけれども、いろいろなこの形だけのところを見てね、あれがあったなかっ たというその短絡的な考え方が、実は違うんだと。もっと、深く厳然と大聖人様 からの御仏意による御指南、相承の元意はですね、厳然と伝わるのであるという ことをね、今はとくにこの血脈という問題が誤って伝えられている中において申 し上げておきたいのであります」  何を言いたいのだろうか。血脈相承に対する自己弁護としか聞こえない。日顕 の”夢説法”で言う「血脈相承」とは、「授受感応の心」によって「お告げ」が あるというのである。自分はこういう”お告げ”を受けるほどの特別の人間だか らこそ、後に血脈相承を受けることになったのだと主張したかったのであろう か。  こんな神がかり的な話を誰が信じるだろう。  [在家相承]  第八世日影上人は、応永二十六年(一四一九年)六十七歳で遷化されたが、相 承にふさわしい適当な人物がいず、在家である柚野浄蓮なる人物に貫首を譲られ たとする説がかねてよりあった。浄蓮は当時、大石寺の寺男であったとされる。  現在の福島県いわき市の妙法寺に「大檀那大伴浄蓮」と第九世日有上人が記さ れた御本尊があり、これが根拠の一つになったようだが、後年、日亨上人は、 「実際に相承はなかったようである」と否定する見方をとっている。  しかしこれに関連して注目したいのは、五十六世日応上人が、この問題にふれ、 涅槃経の四衆平等の文を根拠にして、 「今吾カ金口嫡々相承ノ最要ハ是等惣付ノ類ニアラストイヘトモ其ノ状態ニ至ツ テハ彼此異ルコトナク偏ニ正法ヲ護持スルニアルナリ故ニ當器ノモノナクンハ優 婆塞・優婆夷(在家の男女)ニ附スルモ何ノ妨ケカ之アラン況ヤ浄蓮ハ精師記ニ 云フカ如ク公白衣タリトイエトモ信心甚深ク故ニ之ヲ授ク」(法之道 研究教学 書 巻二十七)と言っていることである。  血脈相承に適する者がいなければ、経文に照らし、この正法を守るために僧侶 でなくても在家の男女に授けても一向にさしつかえない。浄蓮はやっと白衣を着 たような身分の者であるが、信心が深いので相承をしたというのである。  浄蓮相承は誤説としても、これは僧侶たちに対する痛烈な警告になったろう。 「僧侶の中にふさわしい者がいなければ、在家の男女が相承してもさしつかえな い……」。唯授一人の血脈は僧侶の独占物ではないのである。ましてや現在の宗 門のように限られた一族の独占物といった風潮など語るに足りない妄論である。  僧侶だけではなく、在家に継承されても何の不思議もないという開かれたダイ ナミックな血脈観こそ、宗祖本来の血脈観ではなかったか。血脈観にはこのよう な生き生きとした理念が流れていることを忘れてはなるまい。  [法主失踪事件]  文久二年(一八六二年)、五十二世の日霑上人は、日盛上人に猊座を譲り、隠 居する。日霑上人はかなり個性的、つまりワンマンであったといわれ、他に猊下 の器量に達する者がいなかったせいもあるが、自ら指名した日盛上人とソリが合 わず、むしろ嫌悪してことごとに辛く当たった。  日盛上人は困ったがどうにもならない。ある時、大石寺内で火災が発生し、客 殿、六壺、大坊を焼失した。日霑上人はこれをチャンスとして日盛上人の追い出 しを図る。日盛上人ももはやこれまでと、大石寺を離れ、栃木県の寺に移った。 この法主失踪で系譜は乱れ、日盛から日英、しかしこれも登座わずか一か月あま りで、ふたたび日霑、そして日胤、日布とめまぐるしく法主が変わり、明治十八 年(一八八五年)、三たび日霑上人が登場してくる。  こうなると寺は権力闘争の舞台以外の何ものでもなく、法主の座をめぐって激 しい抗争が展開されたのである。  このような醜い争いの中に、大聖人の「内証」がきちんと継承されてきたので あろうか。はなはだ疑問である。   [法主追い出し事件]  大正十四年十一月二十日、大石寺で聞かれた宗門の宗会は、五十八世日柱上人 の不信任を決議、辞職勧告を決定した。宗門がこのように露骨に反法主の姿勢を 打ち出したのはむろん前例がない。  ここに至るまで、議員の間で何度か根回しや密議が進められ、脱落者を出さぬ ための誓約書なども交わされていた。  その内容は「現管長日柱上人は私見妄断を以て宗規を乱し、宗門統治の資格な きものと認む、吾等は速かに上人に隠退を迫り、宗風の革新を期せんが為、仏祖 三宝に誓ってここに盟約す」と前書きし、不法行為としていくつかの点をあげ、 ボイコットを確約しているのである。  すでに知られているように、日柱上人はその二年前、日正上人から法主の座を 譲られたのだが、この猊座をめぐって日顕の父・日開と暗闘、日正上人の強い意 思によって法主の座を獲得したのである。  そういう意味では日柱上人は反対派からの被害者のようにみえるが、実はこれ ほど僧侶たちに評判の悪い法主も少なく、現在の日顕といい勝負なのである。  日柱上人は、名刹の出であることをつねに誇示し、堪え性がなく、所かまわず 中啓で僧侶を打ちつけ、時によっては殴る蹴るの乱暴を働いていた。  したがってクーデターにまで発展するのも自業自得というわけだが、議決の二 日前の深夜には、勤行中の日柱上人に対して、客殿に石や瓦を投げつけたり、ピ ストルを発砲し、脅かす者まで現れる有様だった。  クーデター派は次期法主まですでに決めておくという手回しの良さで、日柱上 人の辞職を勝ちとったが、これは大石寺の檀家たちの反発を生み、文部省も不祥 事として介入、大石寺には日柱前法主、日亨新法主の二人が並立するという異常 な事態となった。  むろん血脈相承どころではない。結局、管長選挙で決定することになり、日亨 上人が正式に就任するのだが、それも二年で自ら辞任、こんどは阿部日開が泥仕 合のすえ選出される。  当時、本山の立木を勝手に伐採して選挙費用に充てたり、元法主の隠居所の維 持費を横領した疑いなどが次々に表面化して警察沙汰になるなど、血脈相承をめ ぐり大スキャンダルが繰り広げられたのであった。  その時の首謀者・日開の息子が目顕で、親子二代、”黒い霧の中の相承”の立 役者になったわけである。  さらに、言いわけもできない厳然たる事実によって、法主絶対論を根底から揺 さぶるこんな法主もいた。六十一世水谷日隆上人である。  宗務総監であった昭和五年十二月、寺の金で芸妓の身代金を払って妾にし、背 任罪に問われて書類送検された。そんなハレンチ僧にもかかわらず、どういうわ けか昭和十年六月に法主になる。法主になった後もほとんど本山にはおらず東 京・向島の常泉寺に住み続け、七百年にわたる宗門伝統の丑寅勤行の大導師を勤 めることなく、御本尊を一幅も書写しなかったのだ。  しかも、大正十四年十一月に起こった五十八世日柱上人追い落とし事件では、 クーデター派の首謀者の一人でもあった。日顕一派が言うように「法主に信伏随 従せずに逆らう者は三宝を破壊する者で、これ以上の謗法はない」のであれば、 この日隆上人も”三宝破壊者”であり、なぜそんな人間を法主にしたのか、そん な人間が法主になれたのか明確に説明すべきであろう。 ■法主と大衆が共同で推持してきた「唯授一人の血脈」  我々は宗門の歴史を無視したり、ことさら美化することで、法主や宗門の真の あり方に盲目であってはならない。できるかぎり冷徹な目と知識で、宗史の生き た側面に肉薄しなければ正確に対応することはできないのである。  ここで我々が主張したいのは、「一本の絹糸のような唯授一人の血脈は、それ を継承する法主一人の力、働きで維持厳護されてきたものではない」ということ、 さらに歴史的に見ると、法主と当時の大衆(僧侶と信徒も含む)が、ある時はせ めぎ合い、ある時は補い合い、共同の連関作業として「唯授一人の血脈」を成立 させてきたということである。ところが現在の宗門の悲劇は、このか細い絹糸が いかに尊いか、それをことさら強調することばかりに目を奪われ、一本の絹糸を 支えるためあらゆる時代を通じて実在した無数の相互の力関係を見捨て、切り捨 ててしまったことにある。その結果、法主のみが絶対、無謬といった妄論を生ん だに過ぎない。  愚かで軽薄な日顕崇拝がその端的な現象で、日顕を生き仏か現人神のように敬 うといっても、支持する僧たちはただ日顕の狂暴性、威圧性に恐れおののき、盲 目的に恭順の姿を装って、台風一過を待っているだけなのだ。  ご自身、相承についての波乱の中に身を置かれることになった堀日亨上人は、 「血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙」という論考(大正十二年)の中 で、血脈相承は冷静に考察すべきであるとし、いたずらに神秘化することを厳し く戒められているが、そのうえで「信仰の対象」と「尊厳の対象」とを明確に区 別されている。 「仏法と御本尊に対する信仰」と「法主に対する尊厳」、この二つは混同しては ならない。現在の法主絶対化は、まさにこの二つを意識的に混同させている。も ともと法主は尊厳の対象として存在するのだが、日顕にはその尊厳性もないため、 それを規則や強制によって周囲から求めようとしているのである。尊厳、尊敬の 念は決して強制や制裁によって生じるものではない。人としての振る舞い、言動 が法主にふさわしければ、周囲が自然と認める。その基本の道理さえ分からない 日顕の姿は、狂乱と断定せざるを得ない。  猊座は尊崇なものであるが、そこに座る人間は必ずしも尊崇とは限らないので ある。  平成九年八月の教師講習会で日顕は、学や徳があろうとなかろうと、どんな僧 でも相承を受けた以上は「生身の釈迦日蓮」であるかの如き発言をしたが、この 発言など、自身を正当化するために猊座の本義を完全にねじ曲げたまったくの邪 義と言わざるを得ない。 第七章 血脈相承の本義 ■日亨上人の血脈相承への問題提起  第五十九世堀日亨上人は近代随一の碩学として知られ、宗義、宗史に対する深 い調査と研究をされているが、血脈相承についても先見的な探求をされていた。 そこでは血脈相承の内容を「御当人の実人」(第一案)「授受の法式」(第二案)、 「法式と実人が兼備した法人映発」(第三案)の三つの観点から考察している。  「御当人の実人」とは法主にふさわしい資格・能力をもつ人物であること、「授 受の法式」とは血脈相承の形式作法、「法人映発」とは法式と実人の双方に権威 があって、これが共に実施されてはじめて相承と認められる、という三つの捉え 方をされていた。  日亨上人が問題提起されたのは、血脈相承は法式に権威があるのか、血脈を受 ける当人に権威があるのかということである。  日亨上人は預かり相承を例に考察され、実人に権威があるとすれば法式は形式 に過ぎないから血脈断絶にはならないが、実人でなく法式に権威があるとすれば 血脈断絶となり、また実人にも法式にもともに権威があるとすれば法水一時枯渇 となる、とされている。  現宗門では法灯連綿と血脈が相承されているという前提に立って法主絶対論を 主張しているわけだが、実人、法式、法人映発の三つの観点からそれぞれ矛盾す る史実があるのをどう説明するのか。早い話が、日顕自身がこの三つの観点にま ったく適合しない。  こうした史実、現実を無視した法主絶対・無謬論は単なる独善でしかない。  日亨上人が指摘された「実人」に対して、嘘をついて登座した日顕は、その出 発点からして「嘘人」である。「実」の反語は「権」あるいは「嘘」にほかなる まい。しかも日顕は、伝統、宗派、宗祖、教義に甘え、自らの権威付けのために それを利用するばかりで、「実人」になる努力すら、まったくしてこなかった。 法主であれ、信・行・学を怠れば、容易に「実人」から「権人」「嘘人」に転落 しえるのである。これが日亨上人の血脈付法の「実人」に対して抱かれた厳粛な 態度であられた。また、「嘘人」であるからこそ、それを言い繕うために嘘をつ き続けなければならないのである。 ■日亨上人の血脈観  その日亨上人が昭和二十六年、相承について、実に明快で重大な発言をしてい る。当時の法主は水谷日昇上人。堀上人は畑毛の雪山荘で、御書の編纂に情熱と 意気を傾けられていた。そこで日亨上人は、身近にいた僧侶に対し、次のように 述べているのである。 「柱師がワシに相承する時は、有元広賀(総監)を使者として、ワシに相承する よう柱師に頼んだ。柱師は、頑として言うことを聞かない。ついに有元が根負け して、三千円あなたに渡すから、それで頼む、と切り出して、ようやく承諾した ものだ。柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知っておる。何も三 千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから三千円の相承はワシには必要な いと突っぱねたんだが、周囲の者が伝統の形というものがありますからなどと言 って承知しないものだから、しようがなく形の上で受けたにすぎんのじゃ。崎尾 の相承もそうだ。中(弥兵衛)とか多くの信者が涙声で頼み込むものだから、つ いワシも傍観できず、二階に上げて聞いたが、案の定、学問する者にとってはビ ックリするほどの内容もなく、大ミエを切って、これが相承であるぞというもの ではなかったよ」  大正十五年三月八日、柱師、つまり日柱上人から堀上人への相承の儀式が行わ れた。前年の十一月に宗会が柱師に辞職勧告を突きつけてから、この相承にこぎ つけるまで、宗内は柱師擁護派と堀上人擁立派に分かれて、逮捕者を出すほどの すさまじい抗争が繰り広げられたのである。  僧侶の大半が堀上人に味方し、柱師を守ろうとしたのは本山の総代や各地の有 力信徒たちで、僧侶はほとんどいなかった。それで、柱師は文部省宗教局に泣き つき、その調停で大正十五年二月に管長選挙が行われた。だが、堀上人が八十二 票に対して、柱師は三票しかとれず惨敗。それでも、柱師は、”管長職は譲って も法主の座は渡さない、血脈相承はしない”と抵抗したのである。  それで、堀上人擁立派の中心者の一人だった、当時総務(現在の総監)の有元 広賀が柱師に隠退料として大石寺から三千円支払う等の待遇案を出して、ようや く相承にこぎつけたというわけだ。  この「隠退料三千円」の一件については、「静岡民友新聞」(現在の静岡新聞) の大正十五年三月二十一日付にも掲載されている。  問題は、堀上人が「柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知って おる。何も三千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから三千円の相承はワ シには必要ないと突っぱねた」と述べている下りだ。  日顕は、”相承には未公開の法門があって、それが相承を受ける者を信仰的に も人格的にも飛躍的に高める”かのようなことを言うが、そんなデマカセは、こ の堀上人の談話一つで吹き飛んでしまうのである。 ■法階が変わっても人格は変わらず  堀上人は登座後の心境を、次のように述べている。 「法階が進んで通称が変更したから従って人物も人格も向上したかどうか私には 一向分明ません」「慈琳が日亨と改名しても矢張り旧の慈琳の価値しかありませ ぬ事は確実であります」  かつて日達上人も「相承といっても特別なものはない。御書をよく読めばみな 書いてあることだ」とおっしゃっていたが、そこには、”法主になれば大聖人の 法魂が乗り移って大御本尊と不二の尊体になる”などというバカげた血脈観は微 塵もないのである。  堀上人が言う「崎尾の相承」とは、五十七世の阿部日正上人が持っていた相伝 書を正師の臨終間際、側に仕えていた崎尾正道がこっそり抜いて持っていたもの。 その相伝書の中身は、五十五世下山日布上人が相承のことを書き記したものと言 われるが、要するに、布師も正師も柱師も、堀上人が自分の研さんで得た以上の ものは、持っていなかったということである。  さらに柱師に至っては、自分が堀上人に伝えるべきものは何もないと自覚して いたから、相承の儀式は行ったものの、相承の中身はあえて言わなかったという。 堀上人は同じ昭和二十六年の冬、次のように語っている。 「ワシは、柱師からあらたまって相承は受けておらん。それは形式的なものだ。 柱師も亦、相承というものは受けておらんかったようだ。考えてみれば、柱師が ワシに相承しないのは、悪意ではなく柱師の善意であったように思う。ワシの方 が法門は勝れているのは柱師も解っていたので、あえて相承の中身を言わなかっ たのだと思う。だから、ワシは昇師が、もし相承しないまま亡くなられても、次 の方に相承をせぬ覚悟じゃよ。ワシはそれ程うぬぼれてはいない。  口決相承等というものは信仰の賜じゃよ。信仰もなく学も行もない、親分・子 分の関係を強いているヤクザの貫首が、いったい何を伝授するというのか。今、 もしこの様なことを言って公にすれば、宗門はまだ小さいし、また伝統を破壊す ることになると思って、じっと黙っているまでよ。それをいいことにして、横 暴・無頼の限りを尽くすとは、いい加減にしなきゃ、いかん。柱師は卑しいこと に、文部省に行ってまで、三千円の約束がある、三千円はどうしたと言っていた。 情ない話じゃ」 「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」とい うのは、直接的には、柱師のことを指しているのだろうが、実に痛烈である。 ■嘘をつく者は法主として論外  堀上人は昭和二十六年夏の談話で、次のようにも述べている。 「英師は、『私は相伝者に非ず。相承の取継番人にすぎぬ』と言ったが、誠に偉 いものだ。口伝なるものは完器にして始めて可能なんじゃ。破器・汚器の者であ れば、猊下と雖も何にもならんということに気がつかないんだから困ったものじ ゃ。おかしくって。猊下というものは、法の取継に過ぎんのじゃよ。嘘をつく者、 如才ない者は論外だよ。でもな、いずれそのうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下 も出てくることだろうよ」  英師というのは、五十一世日英上人のことである。堀上人は、英師の言葉を引 き合いに出しながら、「口伝というのは、ひっくり返ったり漏れたりする、いわ ゆる覆漏汗雑のない完全な器の人物であって初めてできることであって、破れた 器や汚れた器の者は、たとえ法主になっても何にもならない、単なる取継者にす ぎない」と言っているのである。  さらに、「嘘をつくような者、手抜かりがない策略家は法主として論外だ」「そ のうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくる」など、今の日顕の出現を予言 したかのような発言まである。登座自体が嘘で固められた日顕は、さしずめ論外 中の論外であろう。 ■無相承法主ほど猊座を絶対化したがる  堀上人は先に見た「血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び弁蒙」という論文 で、冒頭、「吾宗本山代々貫首の血脈相承と云ふ事が頗る高潮せられたり、又大 に冷評せらる事があるやうである」と書き起こしている。ここに堀上人の血脈に ついての見方の基本が出ている。  すなわち、相承を持ち上げすぎるのも、下しすぎるのも間違いだ、と。その二 つを並べて二つともバッサリ否定しているのである。  持ち上げすぎるというのは、大聖人の”法魂”が乗り移るとか、日顕が平成九 年の教師講習会で言った「学や徳がなくても、相承を受けた者はみな生身の釈迦 日蓮になる」といった神秘的な子ども騙しの相承観。歴史を精査した堀上人の目 から見れば、それが嘘であることは一目瞭然なのだ。  そもそも、本当に相承を受けた法主が、「相承といっても大したことがない」 と言う。これに対し、日顕は相承を受けていないからこそ、相承を過剰に持ち上 げたがっているだけなのである。  堀上人はこうした”高潮”した相承観を否定する一方、談話で「口伝なるもの は完器にして始めて可能」と述べているように、「完器による口伝、相承」とい うものを認め、それを理想とされている。江戸時代に造仏読誦を容認する京都・ 要法寺出身の法主が九代、百年間続いた後、日寛上人が現れたように、破器・汚 器が十代、二十代と続いても、完器が現れるという見方をされているのである。  堀上人が談話で”仮に時の法主・水谷日昇上人が相承しないまま亡くなって も、次の方に相承をしないつもりだ”と述べているのも、自分は完器ではないと いう謙遜と同時に、完器による相承は不断であるとの絶対の確信の表れともいえ よう。  これに対し、日顕は「完器」どころか、穴だらけで汚れきった「破器」「汚器」 といったところだろう。 ■法主は「一閻浮提総与」の御本尊の管理者  「血脈相承」の原点は、宗祖日蓮大聖人から日興上人へ、日興上人から日目上人 へという、この二つの相承の形にみることができる。これが永遠不変の「相承」 のあり方、考え方なのである。途中を云々しても始まらない。今こそ原点に立ち 返って血脈の本義を考えてみたい。  弘安五年(一二八二年)九月、宗祖は「やせやまい」(慢性的な胃腸疾患であ ったろうか)に苦しめられ、身延を下山されて、常陸の湯(温泉)に赴いて治療 されようとされた。身延を下山される前から、宗祖は示寂(入滅)を覚悟されて いたのであろうか、まず「身延相承書」(日蓮一期弘法付嘱書)を認められた。  身延相承書  日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきな り、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時 を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきな り。   弘安五年壬午九月 日                          日  蓮 在 御 判                          血脈の次第 日蓮日興  これによって日興上人への相承を明確にされたのである。途上、宗祖は武州池 上の池上宗仲の邸宅に立ち寄られたが、病いはますます重くなられる。日興上人 に書かせた書状に「所らう(労)のあひだはんぎゃう(判形)をくはへず候事恐 れ入り候」とあるように、書面に花押を認めることも困難な状況になられた。そ して六人の「本弟子」を定められた後、十月十三日、次の書を示して入滅された のである。  池上相承書  釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきな り、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。   弘安五年壬午十月十三日                武州池上                              日蓮在御判  この両書を総称する二箇相承こそ、相承の基本原理であって、深い意義をたか えながら、ともに実に明快な書面である。宗祖の深甚のご意思が簡潔かつ明晰に 述べられている。 「身延相承書」をさらに子細に読んでみよう。この短い文書には絶対的、相対的 な部分がともに明示されている。「絶対的な基軸」、「相対的な基軸」と言い換え てもいいだろう。  まず「日蓮一期の弘法」、これこそ絶対的な基軸である。日蓮大聖人が生涯を かけ身命を賭して完成された仏法、そして「事」として顕わされた大御本尊…こ れは時間、空間を越えて遍満する揺るぎのない真実である。何一つ付け加えるこ とも、減ずることもできない、唯一無二の完璧の三大秘法の仏法とみなくてはな らない。そして「本門弘通の大導師たるべきなり」以下は、当時の状況に立脚し た相対的な基軸と考えることができよう。ある特定の人物に付与するという相承 の手続き、系譜、つまり筋道である。時代や背景に適合させて、ベストの方法が 選ばれることになる。 「大導師たるべきなり」…この仏法を広める最大の指導者として任命されるので ある。そしてやがては広宣流布を担うべき国主(具現者)が現れ、富士山を臨む 場所に戒壇が建立されるであろう。その時が必ず来るのだから、大事なのは「時 を待つ」ということである。事の戒法の原理は完全な形でここに残したのだが、 将来これをさらに完成させ発展させる者は誰であろうか。国主も時もともに必要 なのである。お互いに力を携えこの目的に邁進せよ。こうした宗祖の理念が脈々 と流れている。 「池上相承書」では、さらに明瞭に述べられている。弘通のリーダーと目された 日興上人が、大法を広宣流布する拠点である久遠寺の別当職を授けられたことが 明記されている。弘通のリーダーとして一つの教団をいかに管理、統率するか、 また社会的に、国家的に、さらには一閻浮提という全世界に向かって、どのよう に大法を弘通するかという具体的で現実に対応する要素が前面に打ち出されてい るのである。  一般に「身延相承書」は仏法の一切を日興上人に付嘱されているところから総 付嘱書、「池上相承書」は身延山の別当を付嘱されているところから別付嘱書と いわれているが、ここで間違ってはならないのは、もともと三大秘法の仏法は、 僧侶ばかりでなく、「一閻浮提総与」として全世界の民衆に与えられたものであ り、法主の独占物ではない。相承者とは、この大法を後世に完全に伝えるための 管理者の役目を与えられたに過ぎないのである。  全民衆に授けられるものを、一人の後継者に預けるのであって、それは法を正 しく伝えるための手段と考えてよいだろう。  例えば国宝は全国民の宝物である。ところが貴重なこの宝を後代に大事に、完 全に伝えるために国の博物館なり個人なりが預かって、責任をもって保管してい る。相承もこう考えると、分かりやすいだろう。唯一無二の大法を完全に残すに は、こうした相対的なやり方が、もっとも安全な方法なのである。  貫首とは、あくまで大法の流布を宗祖から預託された管領者に過ぎないのであ る。これを間違って捉えると、貫首が宗祖の仏法を付嘱されたのだから、我こそ 本仏と錯覚し、日顕のような迷路に陥ってしまうことになるのだ。大法弘通は総 と別の逆説(総与というものを相承という形で一人に譲る)の上に具現化される のである。  あらためて言う、日蓮大聖人から日興上人への「身延相承書」に、「日蓮一期 の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」と。  日興上人は、大聖人の「一期の弘法」を付嘱された「本門弘通の大導師」であ る。つまり、「弘通の大リーダー」であることが日蓮大聖人からの「相承」の原 則なのである。弘教の先陣を切って戦う「大導師」、すなわち「弘教の大リーダ ー」の交替なのだ。  弘教も何もせず、ただ権威づくで威張っているだけ、しかも現実に全世界へ仏 法を流布している創価学会を破門、除名するような”大導師”では、微塵も日蓮 大聖人のお心にかなうはずもない。それどころか、宗祖に弓を引く天魔である。 ■「廃嫡処分」が当然の錯乱した”嫡子”  宗史をひもとくまでもなく、大聖人入滅後、御遺命に従って、身延に廟所を営 み、弟子十八人で、輪番制によって守護に当たることになったが、各地に安住す る五老僧たちは、厳格な日興上人の姿勢や謗法厳誠の方針を快く思わず、ついに 墓輪番すらも空洞化させてしまう。そして宗祖の大法要を池上で行うことで、分 裂は必至となってしまった。  民部日向が三年後、身延に上がった。日興上人や地頭たちは歓迎して、学頭の 要職につけたが、日向はすでに鎌倉の軟風に染まって厳粛な身延での生活に耐え られない。とうとう地頭の波木井実長(日円)をも誘惑して、謗法を重ねるよう になり、日興上人の警告に反発して、恨み言をいうようになった。全山には堕落 の空気が蔓延してしまう。  日興上人は「もはや清浄の地に移るしかない」と汚濁化した身延を離れ、大石 寺を建立された。そして弘法に尽力され、正慶二年(一三三三年)二月七日、重 須本門寺で八十八歳で遷化されるが、次に貫首になるのは新田卿阿闍梨日目上人 である。  日目上人は、伊豆国仁田郡畠郷(現在の静岡県田方郡函南町畑毛)の新田家の 出で、南条家の縁で幼少の頃から日興上人の門に入り、身延から富士へとひたす ら常随給仕された。  この相承にあたり、日興上人は『日興跡条条事』で内容を明記されている。  これは全三か条からなるが、第一条は、本門寺建立の時は日目上人を座主とな すこと。新座主の日目上人と僧侶、信徒に対し、「日本国乃至一閻浮提の内山寺 等に於いて…」と、日本ばかりか世界の国々で寺を建立して宗勢の発展を図ると ともに、その管領の仕方についても述べられている。日興上人は宗祖の御遺命ど おり世界への弘通を念頭に置かれていたと拝すことができるのである。次は日興 上人が「身に宛て給はる」弘安二年の大御本尊の日目上人への授与である。もち ろんこれは宗祖が確立された出世の本懐の「法体」を伝持することであり、「広 宣流布をまかせたぞ」というご意思にほかならない。  残りの一か条は「法体」、大御本尊を奉安する大石寺の管理、修理を促されて いる。そして最後に「広宣流布を待つ可きなり」と順縁広布を希望して、最後の 条を終えられている。 これまた実に明快であり、後年から現在に至るまで、「秘儀・奥儀」を誇張し、 いかにも秘密めいたものに仕立て上げた偏狭な宗派の血脈観と異なって、いかに 現実的、具体的、開放的なものか一目瞭然である。  血脈相承とは、「法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(生死一大事 血脈抄)という末法の民衆を救済する原理として、大聖人が確定された御本尊を 素直に伝え継承し、この大法をどのように広宣流布していくかという実践こそが 内容の核心である。このために寺を建立し、管理し、修理せよと、まさに新法主 にはその監督者の役目を命じられているのである。  日興上人が身延離山の際に認められた原殿書の一節にも、開祖の血脈観がはっ きりと打ち出されている。 「打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候 わん事こそ詮にて候え。(中略)日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り 候べき仁に相当つて覚え候えば、本意忘るること無くて候」  これは血脈相承の根本の基準が述べられている。「唯授一人の血脈」の根本の 本義、内実はどこまでも「聖人の御義」であり、「本師の正義、本懐」であり、 「聖人の本意」であると明確に断定しているのである。 「血脈の次第 日蓮日興」(身延相承書)といわれる唯授一人の血脈の淵源の原 像を簡潔にまた明快に浮き彫りにされているのである。日蓮大聖人の仏法にあっ ては、これが正否を決する根本の基準になるのである。  これからみると「大聖人の仏法の化儀化法の一切の決定権は時の法主一人にあ る」というような”日顕擁護論”は、いかに史実に反しているか、いかに時の法 主の個人的威信の絶対化を図るため意図的に作り出された神話、幻想にすぎない か、明白になるのである。『親心本尊抄』にはさらにこうある。 「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行 ずる時は僧と成って正法を弘持す」  これが広布の原型といっていいだろう。折伏を行い、社会に展開する者は賢王 (賢明な王、為政者)として出現し、摂受する者、つまり正法を護持し、監督し、 伝持する者は僧として現れることになる。同じ働きの異なる現れである。この僧 が唯授一人の流れ、系譜であって、この二者は同格でなくてはならない。  人間として最高の行為である折伏は、賢王に象徴されるように、白衣を着て威 儀を正すこともなく、俗世間にあって働き生活する在家によって担われ、僧は摂 受の面を担当することになるのである。こうみると、血脈の一翼である広宣流布 の担い手の主体が在家であるのだから、血脈とは法主一人によって担われるので はなく、本来、僧俗の共同で担われねばならないことになる。と考えるなら、 「我こそ絶対的な法主」という我一人高しとする日顕一派の血脈観がいかに血迷 ったものであるか、明確になるのである。  日興上人は、日目上人への譲状「跡条条事」の中で目師を「嫡子分」と表現し ているが、血脈相承を家督相続に当てはめて考えればきわめて分かりやすい。  親の死後、嫡子が家督を受け継ぐ。多くの兄弟があっても家督を相続するのは、 ただ一人である。これが複数であっては争いの元になるからである。また、嫡子 が立派なのではなく、受け継ぐ家財の内容に意味があるのである。宗門の場合、 「三大秘法」「大御本尊」というたとえようもなく大きな財産を引き継ぐことにな る。しかも、本来、これは全民衆に与えられたものである。この財産を確かに保 持する機能を嫡子である法主に与えられ、法主はその役目を担うわけである。  嫡子は家を維持し、発展させる義務も負う。したがって家財を浪費し、疲弊さ せ、崩壊の危機を招くようなら、廃嫡されるのは当然である。とても家財を相続 する嫡子として認めるわけにはいかないのである。  日顕はまことに愚かにも、宗門を再興し世界的に発展させた創価学会を、嫉妬 と自分の権威の私物化のために切り捨て、宗門を自滅の道に追い込んだ。七百年 有余にわたる法灯と法門はいまや滅亡の淵に立たされている。  日興上人は、「日興遺誡置文」ではっきりと述べられているではないか。  「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」  廃嫡してよろしいというのである。宗祖、開祖の本義から離れて、勝手な理屈 を振り回し、一家を崩壊させる輩は、すでに自ら嫡子分を放棄したのであり、降 りてもらうしかない。遺誡置文では、貫首の権限にこう厳しい制限を与えている。  むろん逆に、「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事」と貫首 の権能に言及している項目もあるが、日顕の場合は、むしろ衆議こそ仏法に適う ものであり、廃嫡処分はしごく当然といわなくてはならない。嫡子が立派なので はなく、家宝こそ立派なのだが、あたかも嫡子そのものが宝であるかのように曲 解し、絶対化、神秘化するのは、滑稽であり危険きわまりない。 「受けた私こそが立派で宝なのだ」という日顕の姿勢は血脈、唯授一人の”一人 歩き”というべきものだろう。 ■「宗派の血脈観」でなく「宗祖の血脈観」の回復  日顕が日達上人より相承を受けていないことは客観的な事実で裏付けられる。 しかもその行躰自体が法主としてあるまじきもので、まったく認められない。し かし、それではいったい、我々の主張と正信会などのそれとはどこが違うのか。  正信会を代表する久保川法章らは、いわば”血脈二管説”とでもいうべきもの を採る。  これは「元々、血脈の流れる管は二本用意されていて、本来は法主の管で流れ ていくが、もし、それがつまったり、切れたりしたら、もう一方の大衆(僧侶) の管に流れるのだから日顕が相承を受けたことは認められないから、現在の時点 では、広く大衆(僧侶)たちの管に流れている、だから適当な人物が登場するだ ろう」というものである。  また顕正会の浅井会長は、「先生所持の人」なる聞き慣れぬ用語を持ち出 し、”正統貫首再生論”を打ち出している。つまり、「日顕と宗門は認められな い。過去世において大聖人の精神を体する正統な法主であった者がいつか再生す ることがある。それを待つしかない」とし、浅井某自らが再生した存在であるか のように暗示している。  これらの主張と我々の主張との違いを明確にすることは、取りも直さず、我々 の主張する血脈観の本質にかかわってくる。  端的に言えば、正信会の「血脈二管論」も、顕正会の「先生所持の人」を持ち 出す正統貫首再生論もともに「相承」なるものに宗教的絶対性、神聖性を認める、 旧来の宗派の血脈観の域を一歩も出ていないということである。  血脈が器用に二管に分かれたり、相承がいったん途切れても、正統な貫首が再 生すれば血脈が再び蘇るという発想は、相承とは絶対・神聖であるべきという願 望の濃厚な反映以外の何ものでもない。  我々はこのような旧来の「宗派の血脈観」をいったん脇に置き、単刀直入に 「宗祖の血脈観」を見据え、回復すべきであると思う。  先に縷々検討したごとく、「宗祖の血脈観」は二箇相承・日興跡条条事にその 全容が明らかになっている。  端的に言えば、宗祖の意図した血脈相承とは、自らの本懐(宗教的救済原理) の滅後への遺託・遺嘱以外の何ものでもない。噛み砕いて言えば、宗祖の法財の 申し送り・継承のあり方こそ相承の実質内容であり、相承をもって宗祖の法財そ のものの一部と見なすことがそもそも根本的誤りであると指摘したい。  先述した原初の相承書はこの点を明確に浮き彫りにしている。  宗祖の法財そのものと、その申し送りの手継・あり方は明らかに別である。 「宗祖の血脈観」から導かれることは、この点に極まるといえる。宗祖の法財は 仏の側に属し、その申し送りのあり方は衆生の側に属するものである。申し送り のあり方の不手際、ギクシャクが起きても何ら不思議はない。先述したような宗 門の歴史を見れば誰もそれを否定できない。しかし、申し送りのギクシャクは、 宗祖の法財そのものに何らの損減を与えるものではない。  我々は”(相承が)あった・なかった、(血脈が)切れた・切れてない”などの 議論に血道を挙げ、その一点に宗祖の仏法の根幹があると錯覚するのは、実に愚 かであり、不毛の議論であると言いたい。相承の断不断は宗祖の法財とは無縁の もので、宗祖の法財は「万年の外・未来までもながるべし」という未来永遠の大 法なのである。「宗祖の血脈観」の骨格は、この点に尽きる。  我々のめざすところは、「宗派の血脈観」の根本的見直しという作業を経た、 ”徹底した解体”とも言える。それは単なる破壊ではなく、取りも直さず「信心 と血脈とは要するに同じ事になるなり」(有師化儀抄註解)という「宗祖の血脈 観」の回復なのである。  我々は、こうした血脈相承の原点に立脚したうえで、あらためて、  @現法主日顕の権威主義的人格、品格、教養の欠如、成り上がりの貴族趣味な どの個人的人格の問題。とくに一宗の最高指導者、責任者としての資質、意識の 決定的欠如。  A宗祖、開祖の本宗樹立の根本目的である末法の「全民衆救済」「広宣流布」 を忘れ、捨て去った日顕一派の信心の欠如。  B血脈相承についての邪義の主張と、それによる法主絶対化、僧侶優位と信徒 蔑視の思想。  C僧俗平等観の否定。  D法主への過度の権限集中。  E大石寺住職の職権の私物化。  F教団の形成と機能に関する基本的認識の欠如。  こうした点を追及し、宗門改革をめざし世論を喚起するために、日顕を不適当 な人物として即時”廃嫡”その一派の退陣を要求しているのである。 阿部日顕の正体「完」 2003年7月16日初版   憂宗護法同盟