[ 戻る ] [ トップページ ]

プロローグ 「相承箱」

■日顕の手元にない「相承箱」

「相承箱」ーー。約四十五センチ(一尺五寸)四方の立方体で、黒塗りの手垢が

ついた木製の箱。普段は上に錦の布がかけられている。

 古来、この箱は代々の法主によって受け継がれ、日達上人の時代には、御宝蔵

の中にある鍵付きの戸棚に大切に保管されていた。鍵は執事が持っており、法主

の命令がなければ絶対に開けることができなかった。いわば、この箱を所持して

いることが、相承を受けた法主であることの何よりの「物証」だったのである。

 ところが、この大切な相承箱が、今現在、本来あるべき日顕の手元にないとい

うのだ。

 この相承箱の行方については、日達上人が危篤に陥ってからというもの、内々

ではその所在が焦点となっていた。

 病院から日達上人危篤の知らせをはじめに受けた吉田義誠(日勇)は、すぐさ

ま大石寺理事の野村慈尊に命じて御宝蔵で相承箱を探させた。ところが、いくら

探しても見つからなかったという。

 では、いったい相承箱はどこにあるのか。

 ある僧侶は語る。

 「日達上人はかなり以前から、大宣寺の菅野に相承箱を預けていたと言います」

 「大宣寺の菅野」−昨年十月、なぜか能化に昇格した、故日達上人の娘婿にし

て側近中の側近であった菅野慈雲のことで、知る人ぞ知る日顕の相承の裏舞台を

知る最重要人物である。

 この証言を裏付けるようについ最近、大変に興味深い話が飛び込んできた。

 実は、失われた相承箱を取り返すために、日顕自ら菅野が住職を務める東京・

国分寺市の大宣寺に乗り込んだことがあるというのだ。

 何しろ宗内を欺いて猊座に登った日顕にとって、相承箱の行方は自分にとって

の死活問題である。というのも、正式な相承の場合は、宗内にも発表してから儀

式を行い、重役なり総監なりきちんと立会人をたて、警護役も用意する。だから、

万が一、相承箱がその場になくても、相承があったことは証明できる。ところが

日顕の場合、日達上人からの相承は、こうした正式、公のものではなく、「内付」

であったと主張している。ならば、なおさらのこと、日達上人からの相承を裏付

ける相承箱の存在が不可欠なのだ。

 そこで満を持して強行したのが、「相承箱奪還作戦」だったというわけだ。

 この作戦が実行に移されたのは、日顕の登座から一年半後の昭和五十六年一月

十三日。計画に加わったのは、当時庶務部長兼海外部長の早瀬義孔、早瀬義寛、

そして日顕の一番弟子の八木信瑩と息子の阿部信彰。日顕も含めて合計五人のそ

うそうたる顔ぶれである。

 この時のことについて後に、早瀬義寛本人も「オレ、警護」と発言。また、日

顕の娘婿の早瀬義純も、「兄貴は腕っぷしが強いから、ボディーガードで行かさ

れた」などと周囲に話している。彼がここでいう兄貴とは「袋(池袋)の寛チャ

ン」の異名をとる、宗内でも喧嘩の強さでは右に出る者がいない義寛のことであ

る。ちなみに義寛は、日淳上人から日達上人に相承が行われた際、本山から日淳

上人の自宅まで相承箱を運んだ当事者であり、当日の相承の模様も詳細に記録す

るなど、相承における相承箱の大切さを知悉している人物である。

 本山での御講が終わった後、一行は信彰の運転で大宣寺に向かった。到着する

や、寺に入ろうとした八木は、菅野から「若造!」と一喝され、玄関から中には

入れなかったという。

 結局、八木、信彰の二人を玄関で見張り役にして、奥座敷での菅野に対する直

談判は、日顕、早瀬義孔、早瀬義寛の三人が行った。

 話の中で日顕が切り出した。

「時に……」

 相承箱の話であることに、菅野はピンときた。

 菅野は、すかさず切り返した。

「御相承をお受けになったんでしょう……?」

 これに対し、日顕は、

「ア、ア、そう、そうなんだ」と言って、黙るしかなかった。

 鼻息荒く奥座敷までは押し入ったものの、自分から相承箱の話を出せば、逆に

相承がなかったことを証明してしまう。結局、日顕は何も言えずにすごすごと尻

尾を丸めて本山に帰るしかなかったという。

 にわかには信じがたい話だが、相承箱が日顕の手元にないことだけは確実のよ

うだ。

 相承箱については、日顕の裏の裏まで握っていた河辺慈篤も、「日顕の手元に

は、相承箱はない」と宗内の複数の人間に語っていたことが確認されている。こ

の河辺、ある時、学会の幹部にも、「お山には相承箱がない」と、ポロッと漏ら

してしまったことがある。後で心配になった河辺は、その幹部に電話をかけ、

「実は内事部の金庫の中にあった」と、何とか言い繕った。何も知らないその幹

部は、「それは良かった」と安心していたという。とんだ笑い話である。

立宗七百五十年を迎えた昨年、皮肉にも日顕の相承疑惑が再燃した。

発端は、離脱した三か寺に対する寺院明け渡し請求訴訟において、宗門が相次

ぎ最高裁で三敗したことだった。宗門は、これらの裁判においても、ついに阿部

日顕が正統な法主であることを証明することができなかったのである。

 さらに、立宗七百五十年を前に日顕は、突然、”宗旨建立は三月と四月の二回

あった”と言いだし、三月二十八日に「開宣大法要」なるものを強行、自ら「偽

法主」論議に油を注いだ。

 この、再燃した相承疑惑を払拭するべく、昨年八月、日顕は「日蓮正宗青年僧

侶邪義破折班」なる小僧名で、何やら「相承疑惑」に対する反論らしき文書を出

してきた。

 しかし、案の定、この「相承箱」については、一切触れていない。こと「相承

箱」の話になると、まるで「唖法を受けたる婆羅門」の如く頬被りを決め込む阿

部日顕。よほど口が裂けても言えない事情がありそうだ。

■不可解な登座後の日号変更

 この相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、「百六箇抄、本因妙抄と、こ

の両書に関するもの。あとは授受の代々の法主が伝える一枚の紙切れ」と明かさ

れている。「紙切れ」とは、いかにも堀上人らしい表現だが、「誰が誰に相承し

た」という系譜図のようなものといわれている。

 そこで、俄然、問題になるのが、「誰が誰に相承した」と書き付けられた「紙

切れ」に、果たして六十七世法主・阿部日顕の名前はあるのかという疑問である。

 詳細は後に譲るが、日顕は「昭和五十三年四月十五日」に相承があったと主張

する。この時点で、日顕の名前は「阿部信雄」。まだ僧階が「大僧都」だったの

で、日号を名乗れる能化にはなっていない。

「日号」とは、僧侶が袈裟免許を受ける時点で、時の法主からもらう名前であり、

それを名乗ることができるのは、能化、つまり「権僧正」以上の僧階の僧侶だけ

なのだ。

 日顕が初めて日号を名乗るのは、日達上人の急逝に乗じて猊座に登り、僧階も

最高位の「大僧正」になった時のこと。それも、もともと授かっていた日号を捨

てて、自分で勝手に日顕とつけたのである。

 当時を知る関係者はこう語る。

「日達上人の仮通夜が終わった後、翌日付の『聖教新聞』で発表するために、日

号を聞きに、日顕の宿坊だった学寮に行った時のことです。日顕は『実は困っち

ゃってね。私の日号は法道院さんと同じ日慈なんですよ』と言うんです。しかし、

『今晩中に分からないと、新聞発表に間に合わない』と伝えると、『よわったな

あ、法道院さんは今、東京に向かっている道中で連絡が取れない』と言うのです。

日顕が『ともかく、もう少し待ってください』と言うので、ひとまずその場は辞

したのです」

「間もなく日付が変わろうという午前零時前になって、学寮で日顕の側にいた八

木信瑩から電話が入りました。『決まりました。日号は日顕です。父親が日開な

ので、ご自分は日顕にしました』との話でした」

 しかし、これもおかしな話である。自分の日号が早瀬と同じ「日慈」であるこ

となど、とっくの昔に分かっていたはずである。もしも本当に日顕が相承を受け

ていたなら、相承箱には「阿部信雄」ないしは、「阿部日慈に相承する」という

趣旨の書き付けがあるはずだ。早瀬と同じであっても「阿部日慈」と明記されて

いれば何の問題もない。日達上人から相承を受けた「阿部日慈」として堂々と登

座し、早瀬の日号を変えれば済む話なのである。

 よしんば早瀬に遠慮して日号を変えるにしても、それは日達上人の生前に行っ

ておくべきことで、それも本来は相承を受けた時点で日達上人と相談のうえで変

更するのが筋であろう。いよいよ自分が登座する段になって、慌てて先師から授

かった日号を捨てて、父・日開との「開顕」の語呂合わせで日顕と名乗る。こん

な先師否定、先師違背の大冒涜も珍しい。まさに慢心の極みで、そこには師資相

承を授かるという厳粛さも謙虚さも、微塵もない。

 この日号改変の慌ただしさは、日顕に相承がなかったことを何より雄弁に物語

っている。当然、相承箱には、阿部日顕の名前は影も形もないに違いない。

 また、この系譜図のような「紙切れ」について、堀上人は「精師は(歴代から)

抜いてある」と語られている。

 つまり、江戸時代に「造仏読誦」の邪説を唱えた十七世の日精上人は歴代から

削除、「除歴」されているというのだ。

 大石寺は江戸時代の十五世・日昌上人から二十三世・日啓上人までの九代、約

百年間にわたって、京都・要法寺から法主となる人間をスカウトしたため、要法

寺系の邪義が流れ込んだ。中でも「造仏読誦」の邪説を唱えた日精上人について、

堀上人はことのほか厳しく、「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺

に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せる……」「日精に至りては江戸に地盤を居

へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流

たらしめたり」(『富士宗学要集』)と、明確に批判している。

 ところがこれに対して日顕は、「堀上人が、ちょっと訳の分からないようなこ

とをおっしゃっている」「堀日亨上人は非常に大学者ではあったけど、日精上人

のことについては、正しくご覧になっていないという感がある」などと、堀上人

を批判し、日精上人を擁護する発言を繰り返し行ってきた。

 日精上人の「除歴」については、箱が手元にない日顕には確認しようのないこ

とだが、それだけに日顕自身も相当気にしていたようである。

 昨年一月三十一日、自ら訴えたシアトル裁判において、一審の全面敗訴に続き、

控訴審でも訴え自体を取り下げるという屈辱的な敗北を喫した日顕だが、勝ち負

けはともあれ裁判が終わってホッとしたのだろう。取り下げ直後の法華講幹部と

の目通りの席で、安堵の吐息とともに、

 「これでワシも精師のように言われなくて済む」

 と胸をなでおろしていたという。

 「除歴」にビクビクしていた六十七世法主・阿部日顕。その原因は、何もシア

トルだけではあるまい。さらに深いところに、「法主詐称」という嘘と陰謀で猊

座を盗み取ったことに対する、抜きがたい後ろめたさがあるのだ。

 かつて日顕が周囲の人間にポロッと漏らしたことがある。

 「ある理由があって、ワシは死ぬまで猊座にあり続けることになる」

 ある理由−。それは日顕が先師・日達上人から相承を受けずに登座したことに

ほかならない。相承もなければ、相承箱もない。つまり日顕は、「次」に相承し

ようにも、相承するものを何も所持していないのである。これ、嘘で登座した日

顕の末路、何という哀れな姿であろうか。

inserted by FC2 system