はじめに  憂宗護法同盟は、平成四年六月、志を同じくする日蓮正宗僧侶により結成された。  日蓮正宗は、宗祖目蓮大聖人が確立された法義と歴史を有し、全国に六百余ヵ寺の末寺を擁する宗教団体である。  この団体が創価学会を一方的に破門し、現在世間に「宗教戦争」などと呼ばれる醜い争いを招来させている。  われわれは、このような事態を引き起こし、さらに宗門に自滅の道を歩ませようとしている張本人は現阿部日顕法主であるとかねて主張し、七百有余年の歴史を有する宗門の滅亡を手をこまねいて座視することはできず、改革に立ち上がった。  日蓮正宗と創価学会の今回の対立の根本は、宗祖の御遺命である広宣流布を身をもって実践し、宗門を世界的に発展させた信徒の団体を、自らの保身と権威の私物化のために切り捨てた、日顕法主一派なかんずく日顕法主の公私にわたる「堕落」と「愚行」にある。  日顕法主の「堕落」と「愚行」はこれまでさまざま指摘されているが、一宗を統括する最高指導者としての法主自身の人格・識見の欠如がその根底にあることは宗内僧侶のひとしく認めるところである。しかし、法主が絶対的権力者と奉られ、法主の指南には絶対的な信伏随従を強制される体制下においては、宗内僧侶はたとえ一言たりとも意見をいうことができない。  こうした状況のもとにおいて、われわれの同志である一部の住職は、宗派離脱という手段をもって宗祖の御聖訓に報じようとしたのである。  日顕法主の数々の「堕落」と「愚行」は、同じ宗門人として目を覆いたくなるが、それが一宗の命運を決する権力者の立場を有する人となれば、単に個人的欠点として温かく見守るだけで済むものではない。悲しいかな、日顕法主は、世界宗教を目指す日蓮正宗を率いていくに範たる信心と人格を有していないのである。  われわれは、本書において、日顕法主およびその周辺にうずまく乱雑な血統をたどり、法主の人格形成のルーツを明らかにしようと試みた。日顕法主とその一族の人間関係の交錯が、この特異な破戒僧を生み、その結果が、現在の宗門を破滅に導いていることは否定できないからである。  猊座は尊崇なものである。しかし、そこに座る人間は必ずしも尊崇でありえない。いまあらためて日顕法主の失格ぶりをみるにつけ、一日も早い「退座」を願うものである。  この本が宗門内の人びとだけでなく、できるだけ多くの一般の方がたに読まれることを、われわれ「憂宗護法同盟」の同志は心から期待している。一千万の信徒の頂点に立つ日顕法主のあまりにひどい行状を白日のもとに曝すことによって、日顕法主一派ひいては日本の宗教界の現在の堕落ぶりが一般の方たちにも理解してもらえるだろう。「憂宗護法」の旗を掲げ「宗教改革運動」に邁進するわれわれにとって、この本が堕落僧たちの頂門の一針となり、真の宗教人のあるべき姿を模索するすべてのひとたちの一助になることができればこんな嬉しいことはない。  この本に書かれている内容は、残念ながらすべて事実に基づいている。本山における古い資料、宗門内で公然と囁かれている話を徹底的に調査し直し裏付けをとった。この調査・執筆の過程でじつに多くの方から貴重な証言をいただいた。  差し支えある人を除いて、本山の有形無形の圧力に屈しない勇気ある人たちの証言についてはカッコのなかに実名を入れさせていただいた。この欄を借りて協力いただいたすべての人たちに感謝の言葉を申し上げたい。                           憂宗護法同盟代表 小板橋明英 目次 はじめに …………………………………………………………………………………………3 第一章 肉親探しの旅……………………………………………………………13        法主夫人姉弟の不意の訪問        なぜか訪問の目的を明かさず 第二章 法主夫人の母………………………………………………………………25        株屋の父と芸者上がりの母        下々の墓にお経は上げられない 第三章 “不倫の子”の噂………………………………………………………39        数奇な運命を辿った六十世法主        三業地で働いていた法主の母        彦坂スマに一目惚れした法運        夫の弟子と深い仲に?        日顕は日開法主の実子ではないのか? 第四章 頭を丸めて尼になれ………………………………………………62        怒ると手のつけられない子ども        尼になることがすべての解決策        若き日顕の「パンツ事件」        吉原通いで父の死に目に会えず 第五章 隠し子事件………………………………………………………………82        食料調達係の失格        不倫の噂が原因で左遷される        日顕法主の「隠し子事件」        僧侶たちの酒と女遊び 第六章 法主のパイプカット ………………………………………………99        宗門の階段を順調に登る        宗門末寺の経理を握る        ハンサムでダンディな盛り場の寵児        遊びが嵩じてパイプカット        マージャン好きの妙修尼        前代未聞のスキャンダル「シアトル事件」        クロウ夫人をウソつき呼ばわり 第七章 贅沢三昧とご乱行……………………………………………………126        偽装の夫婦?        日顕法主のごひいきの店        不幸な出来事と相変らずの遊興 第八章 閨閥づくりの野望……………………………………………………141        少欲知足と大名遊び        本山の大奥に出入りする美男僧        日本のイメルダ夫人        二十億円の豪邸        「西片閨閥」づくりにはげむ政子夫人 あとがき ……………………………………………………167 〈資料1〉阿部日顕法主の関係略年譜 〈資料2〉日蓮正宗憂宗護法同盟声明書 〈資料3〉同盟通信NO1 〈資料4〉同盟通信NO2 〈資料5〉同盟通信NO17 〈資料6〉同盟通信NO25 装丁・スマイル企画 第一章 肉親探しの旅 〈証言1〉  「突然、見えられて、親戚の者だといわれたときは、本当にびっくりしましたよ。これまで逢ったこともない人たちでしょう。どこのどなたかと……こんな辺鄙なところまで……」(法主夫人の縁戚・野坂寿全の妻・三笠) 〈証言2〉  「益雄さんの残した土地のことで来たのかと思ったらどうもそうではないようだったね。お父さんの妹たちのことを、しつこいほど尋ねておられましたから」(野坂寿全)  法主夫人姉弟の不意の訪問  昭和五十九年九月、北海道島牧郡。  果てもなく続く海沿いの道を一台のレンタカーが走っていた。  山を越え、谷を走り、峠を過ぎ、そのつど左手には錆色に広がる日本海が望めた。二車線の道路に対向車はめったになく、三人の乗った車は、遠慮なくスピードを上げた。  函館から大野国道を北上し、中山峠をへて西へ道をとる。いかにも北海道らしい雄大な風景である。厚沢部町の柳沢で海辺を走る。  乙部町を抜けて熊石町へ。いくつも小さな集落を通り過ぎた。潮の香に濃い魚の匂いが混じる。漁師の町である。  大成町に近づくと、右に幾重もの山が連なって、道はまた山峡をたどった。  乗っているのは、日蓮正宗の法主・阿部日顕の妻・政子、その実弟で寺院の経理事務を仕事としている野坂昭夫とその妻・嘉代子の三人であった。  函館のレンタカーの事務所の係員も、島牧郡島牧村原歌という三人の目的地を聞くと、地図を調べ、「それは遠いですな。はじめての人なら、まあ五、六時間はかかるでしょう。道路は分りやすいけれど、相当、疲れますよ」と、同情するようにいったのだった。  たしかにレンタカーなら、タクシーと比べ費用も三分の一程度ですむ。しかし日顕の妻として、カネに不自由ない生活をしている政子が、強引にレンタカーを選んだ理由は、たんにタクシー代が惜しいという気紛れなケチさからではなく、三人の内輪話を第三者に聞かせたくなかったためかもしれない。  しかし運転する昭夫にとってみれば、目がくぼむほどの厳しいドライブとなったことだろう。  起伏の大きい山道の檜山国道を抜けると、道は瀬棚港に出て、また海沿いに走る。茂津多岬を巡り、高さ千メートルほどのオコッナイ山の裾を回ると、そこが目指す島牧村であった。右手の山ぞいに家が点々とし、反対側の海は道路ぎわまで迫っている。  目的地の原歌地区は戸数三十ほどの集落で、家は道の両際にひっそりと並んでいた。小さな郵便局の隣は空地になっていて、草が生い繁っている。いかにもつつましい漁村のようである。  訪ねる野坂寿全さんの家は海辺にあった。北海道の漁村には明るいモダンな家が多いが、ここもそんな一軒である。出発してから予想通り六時間がたった。ようやく到着したのである。  この辺りの家々は、どこも入口に金属製のカゴが置いてある。大きな鳥カゴのようだが、海でとれたエビや小魚をここで乾燥させるのである。  昼過ぎ、野坂寿全、三笠夫婦は、突然現れたこの三人の客を、不審な顔で迎えた。  男は背広、女たちはスーツ姿である。みな中年すぎの一見、都会の人という感じである。  寿全の証言では、昭夫はこう切り出したという。  「私たち、野坂と申します。東京から来ました……」  そして菓子折りを差出した。  夫婦は一瞬、言葉もなく、顔を見合せた。  「というと、あの、野坂益雄さんのお子さん。そうだ、本家の長男にあたる人だよ」  寿全がいぶかり顔の三笠に向かって、説明するようにいった。  「村の役場から土地の通知をもらったものですから」  昭夫がいった。  「よくわかりませんが、ここの隣村にあるという土地の測量をするからという連絡を受けましてね」  「そうなのか」と寿全は思った。  「まあまあ、お上がり下さい。遠くから、お疲れでしょうに」と三笠がいった。  三人は座敷に招じ入れられた。  この原歌地区は政子ら姉弟の父、野坂益雄の生家のあったところである。  益雄は漁師だった野坂文作とタケの長男として生まれた。むろん祖父・文作夫婦も父・益雄もとうに死亡し、益雄の五人の妹のうち一人は幼くしてこの世を去り、あとの四人は健在だが、いずれも政子姉弟とは交際がないため、どこに住んでいるのかは知らない。  文作一家は離散したが、文作の弟・章三の息子、つまり政子の遠い親類にあたる寿全が分家を継いで、原歌の海辺に住んでいるのである。  その島牧村の役場から、半年ほど前、昭夫のもとに一通の手紙が届いた。  「貴殿の祖父、故文作殿名義の土地が現在、空地のまま放置されています」  益雄の生家はとうに朽ち果てて消えた。が、隣の村にある文作名義の土地だけが放置され草地のままになっている。規則により三十年に一度、測量などの再調査を行う。それに立会ってもらいたいという趣旨であった。通知は、昭夫を追うように前の住所などを転々として届けられた。  こうして政子ら三人は東京からこの地まではるばる訪ねてきたのである。姉弟が幼児の頃、耳にしたこともある父の北海道の故郷、島牧村……こんな機会でもなければ訪ねることもあるまいと思ったのだろう。  今や経済的にも時間的にも十分な余裕がある。政子は一千万人もの信徒をかかえる教団の法主夫人である。「このさい、ぜひ両親のルーツを辿ってみたい」、政子が突然、そんな願望にとりつかれたとしてもなんの不思議はない。  海辺の家にはたえまなく潮騒が響いた。秋も濃くなり陽足も早い。  「まあ、つもる話は後にして、なにもありませんが、夕飯でも食べて……」  寿全夫婦は夕食をすすめながら、あらためて三人をじっとみつめた。  政子と名乗った年かさの女は、流行に関心のない漁師夫婦の目から見ても、カネのかかった服装をしていた。ハンドバッグも時計も高価に見えた。あまり喋らずに、大柄の体をもてあますようにじっと座っていた。  昭夫はいかにも都会勤めのサラリーマンらしく、座をもたせるために一人で努力しているようでもあった。その妻の嘉代子は、そわそわと落着かぬ視線をあちこちに走らせていた。  御飯とカジカの味噌汁と魚の煮付け、香の物という質素な夕飯を三人はおいしそうに食べた。この村には旅館も食堂もないのである。  政子はとくにカジカの味噌汁が気に入ったらしく、「とても美味しい」とお代わりするほどだった。  なぜか訪問の目的を明かさず  食事も終わって、また寿全が口を開いた。  「お父さんの益雄さんは、若い頃、東京に出て株屋として成功し、あんたらのお母さんのあいさんと結婚し、時々、ここにも帰ってきたことあったな。でも何年かして突然、亡くなったという知らせがあった。  まだ小さいあんた方を残され、お母さんは苦労なさったろうに。いつ頃だったか、ここの海苔が欲しいと手紙があり、私が死んだおやじに言われて、何度か送ったことがありましたよ」  政子はだまって、うなずきながら聞いていた。身内としての血はたしかにつながっているものの、生まれも育ちもまったく共通項のない存在……。違和感がこみあげてくるのを否定できなかったのだろうか。  寿全夫婦の方からみても、突然身内と言われても、どうも三人の素性がつかめなかった。一体、どんな人たちなのか。  そこで寿全は遠慮しながら口ごもって尋ねたのである。  「で、この奥さんはなにをしていらっしゃるのかね」  昭夫が答えた。  「部屋がいっぱいある大きいお屋敷に住んでいる人でしてね。無断で入ったら、一斉に防犯ベルが鳴る、そんな仕掛けのある家で、のんびりと暮らしているのですよ。また子どもが外国にいるので、ちょくちょく外国に出掛けて行って、日本にはあまりいないのです」  寿全は高級な政子の服装から推測して、なるほどと思いながら、「そうか、ひょっとしたら金持ちだったご主人と死別して、お化け屋敷のような大きな家に一人で住んでいるのか……」、そんな想像をしたと語っている。  政子は夫の日顕については、片鱗もほのめかそうとはしなかった。  こうして会話は肝心なところに触れず、どこか漠然としたものだけが残った。  この夫婦も、政子の父であるいとこの益雄夫婦と直接に交際があったわけではない。したがって話も伝聞や噂の範囲にとどまらざるをえなかった。  途切れ途切れの会話のなかで、政子が突然、高ぶった口調でいった言葉を夫婦は忘れていない。  「私も、人には言えないような苦労をしてきたのですよ」  その声にはどこか深い哀感がただよっていた。心奥をのぞかせるような重い実感がこもっていた。昭夫がいかにも恵まれた豊かな女のようにいったことへの、弁明なのだろうか。夫婦は「この人はなぜこんなことを言い出したのか」と不審に思った。  寿全は、質問を昭夫に向けた。  「で、こちらの弟さんは?」  と聞くと、政子はもったりした声で、  「はあ、東京の証券会社に勤めていますが、今度、休暇をとって……」  とこれも曖昧に答えた。  三笠が奥の部屋に三人分の寝床を敷いた。  話がとぎれたところで、夫婦は「長旅で疲れたでしょうに。今夜はこのくらいで休まれて」とすすめた。  翌日、三人はまず寿全の案内で村役場に行き、となり村にある所有の土地の測量を役場の人にやってもらい、ふたたび寿全の自宅に戻った。海辺の村にはもう秋の気配が感じられた。  「あの土地はわたしたちでは持っていても管理もできませんのでさし上げますから、手続き上、必要な書類があったらいってください。送らせますから……」  と言い、そして阿部政子という名前と、東京都文京区西片町の住所を書いて夫婦に渡した。  そこが日顕の住む大石寺東京出張所であることは、夫婦には知る由もなかった。  そのかわりに父・益雄の四人の妹たちの住所をしつこくたずね、小さな手帳に叔母たちの名前と住所を書きとっていった。  「札幌の長女・せつさん、室蘭の田沢トシさん、川崎の笹川美代乃さん、横浜の佐藤チエさん、この四人ですね。セツさんは札幌ですか? 帰りに寄っていこうか?」  と姉弟は話し合った。  「土地更新は口実で父親の親類をさがしに来たのか……」  寿全はそう思った。  三人は帰途、「土産に」といって地元特産のサケを大量に買い、車のトランクを一杯にして出発していった。しかし東京に着いてみると、サケは残らず腐っていた。  昭夫は知人に「まさか腐るとは思わなかったが、惜しいことをした」といって、苦笑していたという。  法主夫人政子と昭夫の姉弟が、なぜ草深い北海道島牧村までわざわざ足を運んだのか。それは後に父・益雄の五十回忌の法要の通知が届いたことによって真の目的が判明した。自分たちの現在の地位と権力を親戚中に見せつけたかったからであろう。しかし、われわれが興味を抱くのは「西片閨閥」(後述)を着々と築き宗門内を牛耳ろうとする二人の行動が調査によって克明に分かったことだ。北海道訪問の目的を伏せ、隠密裡に事を運ぼうとする二人の行動パターンが実によく出ているからである。 第二章 法主夫人の母 〈証言3〉  「益雄兄さんが死んで、あいさんはラーメン屋を始めたりしたけど、結川ダメで、そのまま音信不通になりました。  ところが、突然連絡があって、あの病気ばかりしていた政子ちゃんが法主夫人になっていたんですから………これにはビックリしました」(政子の叔母・佐藤チエ) 〈証言4〉  「妙修さんは若い頃、大塚三業地の料理屋で女中をやっていたんです」(政子の母・野坂あい)  株屋の父と芸者上がりの母  島牧村からふたたび函館まで戻るレンタカーの長い帰途は、政子にさまざまな回想をもたらしたことだろう。  おそらくその脳裏に繰返し蘇ったのは、東京・中野、天神宮の辺りの風景に違いあるまいか。  現在、JR中野駅北口から線路づたいに東中野に向かって十分ほど歩くと、左側に突然、下町風の木造家屋が並ぶ一角が現れる。細い路地を歩くと天神宮の社殿を中心に道がクモの足のように延び、豆腐屋、駄菓子屋、銭湯などがある。時折、路地の隙間から電車の通るのが見える。  現代風の建売り住宅も点在するが、とにかくまだこんな古い東京の風情を残しているのである。  東京都中野区中野五の一〇  当時は、  豊多摩郡中野町大字中野二一一一の二  であった。  幼い政子が父・益雄、母・あいと住んでいた頃の住所である。  天神湯という銭湯が、今もなお営業しているが、あいの実家はこの銭湯の前にあって、ささやかに砂糖や塩、醤油など食品類を売っていた。当時、こうした生活品まで統制物資になりつつあったので、店の品数や数量はわずかであった。  伊藤助太郎、まつの次女として生まれたあいは、少女の頃から日本舞踊などの芸事が好きだったが、生活の貧しさもあって、ごく当たり前のように花柳界に入った。  「一時は日本橋蠣殻町で芸者さんに踊りを教えていたが、その後、アチコチの花街を転々として、もっとも長くつとめたのは浅草でした」(野坂あい談)  いつしか踊りの腕も上がり、二十二、三歳の頃から、自前芸者のかたわら踊りの師匠などとも呼ばれるようになり、赤坂の田町に住んでいた。  株屋に勤める益雄が、あいの家の二階に間借りするようになったが、やがて二人は深い関係となって、政子が生まれた。結婚届けは政子の出生届けと一緒に役場に提出された。  こうした若い夫婦に育児はままならなかったのだろう。二人はあいの実家のある中野に引越した。  しばらく実家の二階に住んでいたが、そのうち益雄が株で一ヤマあて、実家の近くの草地に二階建ての家を建てて移った。  現在、横浜に住む益雄の妹の佐藤チエは当時十九歳で、北海道から上京し、その頃、兄の益雄宅に同居していた。  彼女の述懐によると、家の前は原っぱで、陸軍電信隊本部の建物も見えたという。  当時、近所つきあいをしていて、今も中野に住む赤堀のおばあちゃんの話では、「益雄さんは、株ではかなりのやり手だったが、体が弱く外出もままならぬせいか、電話で売買しており、事務は奥さんのあいさんがやっていました」。  政子の下に昭夫が生まれた。あいは昭夫を背負い、政子の手を引いて、よく天神湯に通った。あいは小柄でキリッとしたいかにも粋筋の女だったと、なつかしそうに赤堀さんはいう。  益雄は病弱で無理のできない体質だった。どうやら軽い肺結核だったようだ。チエの話では、二人の家庭は冷たかった。  派手好きなあいは益雄に冷淡で、看病をチエに押しつけては、三味線だ踊りだとあちこちと飛び回っていた。夫やチエの食事には無関心だが、自分だけはうまい物を食べているような女性だった。  益雄は風邪から肺炎を併発、もっぱら妹のチエの看病を受けながら死んだという。  株屋の夫と芸者上がりの妻。むろん蓄えがあろうはずはない。益雄が持っていた株取引の小さな事務所は、奪い取られるように仲間に持って行かれ、たちまち生活に窮するようになる。  あいは生活費稼ぎに地元の婦人会で三味線や踊りを教えたりするが、とても追いつくものではない。  チエは近くのサイダー工場に住み込んで働き、あいたちから離れた。あいはあちこちに仕事の口を求めたが、芸者に戻るにはもう若くもなく、ほかにこれといった手に職はない。  そこで細々とした資本で、中野の新井薬師の近くでラーメン屋を始めた。  チエは「人手がいるので助けてほしい」と頼まれ、サイダー工場をやめて、あいの店を手伝うことにした。  政子は小学二、三年、昭夫はまだ小さく、ともに病弱でよく風邪をひく体質だった。  せっかくの開店したラーメン屋も素人の営業だけに軌道に乗らない。少しでも経費を節減しようと、材料のダシコブや海苔は島牧村の益雄の実家から送ってもらうことにした。海辺の村に残っている唯一の親類、寿全の父である野坂章三は、同情してせっせと海苔やダシの小魚などを送った。  食べ物商売は見よう見真似で客を呼べるほど甘くはない。またあいには味をよくしようと努力するほどの熱意もなかった。  そこでラーメン屋は半年ほどで店終いとなった。チエもふたたび去っていき、いつしか益雄の実家やチエとも音信は途絶えるのである。  幼い政子にとっても、父の死後、落着かぬ不安の日々の連続だっただろう。  あいは家を売り、子どもを一時、茅ヶ崎の実家に預け、あちこちと仕事を捜し、ついに芸者時代の仲間のすすめで兵庫県の川辺郡中谷村に流れつく。ここの多田銀山は金属ブームに乗って景気がよかった。  この盛んな鉱山街に大西亭という料理屋があった。あいはそこの仲居となって、隣家の借家に住む。  かつて東京・赤坂田町で芸者をしていただけに、田舎の料理屋であいはたちまち人気を独占する。踊りや三味線と芸は達者で、また客あしらいも派手だった。  この頃を知る地元の年老いた遊び人は、  「なにしろ、座敷でヤッと掛声をかけ、着物姿のまま逆立ちしては、客を喜ばせたものだった」  などと笑う。当時はパンティなどつけないから、どんなあられもない姿になったものか。この“三点倒立”があいの呼び物だった。  日支事変もいよいよ激化し、日本は軍国色を濃くしていく。鉱山は軍事物資というので優遇され、周りの村はランプでも鉱山一帯の地元だけは煌々と電気が輝いていた。  大西亭から歩いて二十分のところに斉賀という一家の経営する小さな鉱山があった。釜ヶ谷鉱業所といわれる縦穴鉱で、銅のほかわずかだが亜鉛、銀などが採掘できた。それでも軍需景気で羽振りがよく、仕事が休みになると、斉賀兄弟はしばしば大西亭に遊びにきた。かれらは羽振りのよい成金だし、あいは花形スターである。  とくに兄弟の四男の栄一はあいにぞっこんになり、女房と別れて結婚したいといい出すほどののぼせようだった。  このプロポーズは、あいにとっても金的を射止めたことになるが、本気になっていざ所帯を持つとなると、政子、昭夫の子どもたちはどうしたらよいか。正直なところ邪魔である。  ここに日顕の母、妙修尼が登場するのである。妙修尼、つまり昔から親戚つきあいをしていた彦坂スマは、この話を聞き、「あいさん、あんたが安心して結婚できるように、私が二人を引き取ろうではないか」と言ってくれたのである。  妙修尼は、この頃、日蓮正宗の元法主・阿部日開とともに、総本山・大石寺の一隅にある「蓮葉庵」に住んでいた。ここは退座した法主の住まいだ。元法主の妻として、二人を引取ることぐらいなんでもないことだった。  もっとも当時は出家の希望者も少なく、大石寺ではしばしば捨子や親に見離された孤児たちを引取って育てていた。こうした子どものなかには現在、宗門北海道大支院長の河辺慈篤などがいる。  政子と昭夫は、迎えにきた妙修尼に引渡された。  十二歳の政子は「蓮葉庵」の下働きとして、掃除、洗濯、炊事の手伝いをすることになった。九歳の昭夫は、得度して庵から少し離れた「本境坊」の所化小僧として働く。所化とは最下級の僧侶見習だが、身分の上下差が厳しい所だけに、寝小便をした昭夫が、兄弟弟子たちにいじめられ、濡れた布団を持って坊の廊下を歩かされることもしばしばだった。  姉にも弟にも忘れられぬ日々であろう。  この引取られた日を境に、政子と昭夫の運命は大きく変わってくるのである。  下々の墓にお経は上げられない  さて、島牧村から帰った政子は、手帳に書き記してきた父・益雄の妹、つまり叔母たちに連絡し、親戚の顔合せを兼ねて、父・益雄の五十回忌を計画する。  政子には、今の恵まれた生活を誇りたい気持ちもあった。つぶれたラーメン屋の娘で、どこかに貰われていったといい伝えられていた私が、いまどんなに豊かに、最高権力者の妻として振舞っているか……親戚一同に知らせてやりたい。長い間、全身を包んでいたもやもやした霧を自らの手で晴らすような気持ちもあったに違いない。  政子は川崎、横浜の叔母たちに連絡した。  チエの話ではこうだ。  「五十九年の五月だったでしょうか。  突然、昭夫さんから電話がかかり、父の五十回忌をやるので、私と姉の美代乃に来てもらいたいというのです。本当に驚きました。  どうしてここが分ったのと聞くと、前に北海道に行ったとき、帰りに札幌の姉・せつのところに寄って聞いたというのです。  でもそのときは姉の美代乃が病気で、私一人が行ったのです」  当日は昭夫が車でチエを迎えに来て、大石寺に連れていかれた。  寺の境内を案内され、車で墓に行き、堂の一つで五十回忌の法要が行われたが、これにはあいとあいの兄、昭夫の家族、政子の息子の信彰一家などが参列した。  政子の夫の日顕は遠出しているとかで、顔を見せず、別の僧侶が読経した。チエが「日顕法主にお経を読んでもらえたら」というと、「夫といっても宗門の法主だから、下々の墓に簡単にお経を上げることはしないのよ」と政子がいい、みんなを鼻白ませた。  終わって「御飯でも食べながらゆっくり話そう」と富士宮のホテルに行くことになった。これでやっと落着いてと思ったとたん、東京・西片の本宅から「客が来るので急いで帰るように」という電話があり、政子は挨拶もそこそこに慌てて新幹線に飛び乗り戻って行った。  自分で招待しておきながら、なんともあわただしい初の親戚顔合せになったのである。  野坂あいは神奈川県藤沢市の老人専門病院に入院中だった。すでに八十七歳(平成五年現在)となり、もう自力ではあるけず、もっぱら車イスを使っている。  いくほどかの費用は昭夫が負担しているが、彼はつねづね、  「オレは妻の母親と、この母の二人の面倒をみている。妻の母はまだしも、この母にはなんの愛情もない。なにしろ子どものオレたちを捨てた女だからな」  と平然と語っている。  もっともあいはなにも感じていないようだ。上の歯がすべて抜けているため、言葉は空気がもれて聞きとりにくい。  脈絡もなく、日顕たちとの血縁関係について次のような昔話を語ったのである。  「妙修さんとは親戚にあたるので、ずっーと親戚つきあいをしてきたんです。  だから妙修さんのことはよく知ってますよ。たしか、あれはお母さんのぶんさんと一緒に小石川柳町に住んでいた頃ですから、妙修さんがまだ若い娘だったね、大塚の三業地にあった料理屋で女中をしていました。  私も花柳界で働いていました。あちこちと転々としましたけど。  日本橋蛎殻町で芸者さんに踊りを教えたこともあるし、一番長く働いたのは浅草、最後は赤坂でした。  浅草は懐かしいですね。  おじいちゃん(石川貴知)はお武家さんの出でした。そう、それで妙修さんとは私の母が腹違いの姉妹だから、政子たちを引き取ってもらったのです。  子どもがいてはなかなか働くところもなかったので……。  多田銀山の近くの大西亭は自分で探して行ったのです。  子どもは連れていってないんです。妙修さんに預かってもらっていましたから。  その代わり、大西亭からずっと仕送りしていたんですよ。  弟(昭夫)の方は後で小僧を止めてしまって、茅ヶ崎の私の両親のところへ戻っていたのです」  彼女の貴重な証言は、後述で補足したい。 第三章 “不倫の子”の噂 〈証言5〉  「日顕さんは父親の日開元法主の家系のことを知りたい様子で、禅宗の白山寺での墓建立の法要のときも、私にしきりに聞きたがっていました。しかし、日開さんという人は、若い頃、家庭のトラブルから故郷を捨てた人ですからね。うすうすそのことに気づいている日顕さんは、ルーツについては、複雑で屈折した気持ちを持っていたと思われます」(日顕の遠縁に当る阿部光男が福島の友人宅で語った内容) 〈証言6〉  「日顕は日開上人の実子ではなく、日開上人の弟子にあたる高野法玄(後の日深)の子どもだとも聞きました」(日顕上人の弟子・椎名法昭)  数奇な運命を辿った六十世法主  政子の引き取られた「蓮葉庵」は、総本山・大坊の東側、潤井川近くの林の中にあった。前が庭になっている四十五坪ほどの大坊敷地に建てられた木造の平屋で、五、六部屋があり、縁側からは富士山が正面に望めた。  元法主の阿部日開が妻のスマ、法名・妙修尼とともに住む隠居所である。  ここは日開の師にあたる日応元法主が創設した建物で、来賓接待所としても使用されたが、昭和八年、風呂場の火の不始末から焼失、同十年、新築してはじめて日開夫婦が住むことになったのである。  政子が連れられて来たのは昭和十三年二月頃だと言われている。林や畑の日蔭には雪も残り、富士おろしの寒気も厳しかった。  この頃、日本軍の中国侵略はいよいよ激化して、日本政府は、「支那の国民政府が和睦を求めないかぎり、日本は同政府を相手にせず、新政権を樹立する」と内外に宣言し、本格的な戦争への路線に露骨に踏み出したのであった。国民を戦争協力に一本化しようという国民総動員令も発動された。こうした時流に反抗し、新劇の女優・岡田嘉子が演出家の杉本良吉とサハリンの国境を越え、当時のソ連に脱出したのもこの年の正月そうそうだった。  ドイツではヒットラーが政権を取り、ヨーロッパにも暗雲が立ちこめてきたが、日本の国民は、その年に封切られた若い上原謙(加山雄三の父)、田中絹代主演のメロドラマ、映画「愛染かつら」に酔いしれていた。せめてもの心の慰安が欲しかったのだろう。こんな時代背景だった。  政子は女中部屋をあてがわれ、ひたすら妙修尼のいう通り、掃除、洗濯に精を出していた。  日開、妙修尼の夫婦がこの庵に入ったのは、政子の来る三年前であった。その年の五月に、まだスマを名乗っていた妙修が出家し、正式に尼となったのである。また同年の三月、一人息子の信夫は地元の上野村尋常高等小学校を卒業、東京・常在寺の所化として配属となり、上京して駒込にある私立本郷中学校に通学をはじめた。  昭和十三年二月十日、日開と妙修尼の内縁関係に終止符が打たれた。六十四歳になった日開が正式に妙修を妻として入籍したのである。長い間、日陰の身であった妙修は、念願かなって元法主夫人となったのであった。  日開と妙修、この常ならぬ関係を見ると、なんとも不思議な夫婦といわざるをえない。信者たちは、宗門の最高峰として高潔で俗世を超越した法主とその妻というイメージを抱くかもしれないが、実情はそれとはほど遠く、想像もつかぬ生臭いドロドロした半生を引摺ってきた二人であった。したがって日顕と政子の“血と環境”をめぐる人間研究を進めるためには、まずこの二人、日開と妙修尼についてありのままの姿を探るところからはじめなくてはならない。  日開は本名を運蔵といい、一八七三年(明治六年)八月二三日、福島県信夫郡荒井村(現・福島市)に阿部庄右衛門、トヨ夫婦の長男として生まれた。五男二女の子沢山の貧しい農家だった。庄右衛門は若く亡くなり、運蔵は一家の長として、明治二十一年、十五歳で隣村の娘、伊藤サトと結婚する。当時の農村では、農家の働き手を増やすために、こうした早婚はけっして珍しくなかった。  半年後、トラブルが起こる。次男の銀蔵が運蔵の留守中、サトと関係したことから、いさかいが絶えず村中の噂となった。弟・銀蔵はまだ十四歳、あまりにも早熟といわねばならないが、生活程度も低く、また家族そろって雑魚寝するような環境がもたらした悲劇だったろう。  村人の好奇の目にたまりかねた運蔵は、母親に「近くの湯治場・土湯温泉に行ってくる」と、米二升を風呂敷にくるんで首に巻き家を出た。以来、運蔵は二度と故郷の土を踏むことはなかった。  彼は温泉場には行かず、母方の祖母トリが夫の死後、妙俊尼と名乗って留守居番をしていた福島市浜田の広布寺に身を寄せた。  運蔵は妙俊尼の口添えにより、この寺の創建者である日応の弟子として翌二十二年七月一日に得度、法運を名乗ることになった。日応は奇しくもこの年、五十六世の法主となり、これによって法運の前途は、今後、大きく開けることになるのである。  「得度した少年僧・法運は近在をあちこちと布教に歩いたが、荒井村だけは姿を現すことがなかったと、村の古老から聞いています」(加藤勝長談)  法運はみずからの恥辱の過去を払拭したいと思い修行にはげみ、得度後十三年で東京・妙光寺の住職となり、翌年は栃木・浄円寺の事務取扱として赴任、その翌年に正式に住職に任命された。次いで本山塔中の浄蓮坊、一年後には寂日坊の住職と、しだいに出世していった。  一方、荒井村の実家ではどうであったか。サトを兄から奪った銀蔵は、一度は正式に結婚したものの、まもなくサトと離婚、ついでミツ、イチとつぎつぎに妻をかえるが、イチの妊娠中、親戚の娘のイネとも深い仲となり、二人、同時に出産するという乱脈さだった。  一方、出家したとはいえ法運もこういった血と無縁ではなかった。  その後かれは、宗務院総務心得となり、一九一五年(大正四年)は、東京でもっとも権威のある常泉寺の住職になるのだが、宗門での出世コースの裏面では、彼は異常なほどの女好きであった。一つの寺から他の寺に移ると、かならず女が次の寺まで追ってきたと、古い僧侶の間では伝説として語られているほどである。  老僧たちの証言によると、「当時、宗門は貧乏だっただけにカネにはうるさく、厳しかったが、女性関係については、寛容というよりルーズな対応であった。僧侶も女性問題に“女犯”といった罪の意識はまったくなく、上は法主から下は未成年の所化にいたるまで、いたるところに乱れた関係が見られた」という。  したがって法運の行為も、さほど指弾されることではなかったのである。  三業地で働いていた法主の母  さて、一方の彦坂スマだが、彼女もまた波瀾万丈な人生を生きてきた女性だった。  スマの母・彦坂ぶんは愛知県豊橋で生まれ、育った。やがて群馬県上矢島村の農家の息子で、豊橋に働きにきていた清水亀太郎と知合い、結婚して群馬県に移るが、まもなく離婚、やがて青山卯吉と再婚する。これもたちまち破局を迎えた。この二度の離婚は、ぶんを村に居づらくさせた。  明治二十四年のことである。村は中仙道の沿道にあったが、二十七歳のぶんは頼るあてもなく、街道を一人、上京する。江戸が東京と呼ばれてから二十余年たっており、ぶんはこの新しい都で、第二の人生に希望をつないだのである。  中仙道の終着地が小石川村(当時)の白山花街だった。東に駒込西片の高台、北に白山神社の丘、西に蓮華寺の高台に囲まれ、指ヶ谷といわれる谷である。  隣接の町が市街化されるにつれ、ここが周辺住民の遊び場となり、料理、飲食店が軒を並べて、飯盛女と呼ばれる私娼も住みつくようになった。これが白山三業地の始まりである。  ぶんがここに辿りついた当時、盛んだった八軒矢場で働きはじめたといわれている。矢場とは、今でも時代劇などに登場する江戸町民の好んだ射的場で、酒を出し、またそこで働く女は娼婦をかねた者もいたのである。  白山花街はますます発展し、明治の末期には私娼の八軒矢場こそなくなったが、芸妓屋八軒、芸者数十名、待合茶屋五軒、料理屋十数軒という隆盛をみるのである。  さて、田舎出のぶんには、この華やかな町での生活は苦しさだけでなく、楽しいこともあったことだろう。  この近くには旧旗本・阿部豊後守の屋敷なども残っており、一年に数度、ここが一般大衆にも開放された。三業地の女たちも桜の花見などを楽しむ習わしがあった。  日顕は後に母スマの出自について、「先祖は、旗本の血筋を引き、弓の師範をしていたという」などと僧侶たちにも語っていたことがあるが、これは三業地の“矢場と旧旗本屋敷”から生み出された空想ではなく、系譜をしらべると、やや誇張だとしてもその根拠は確かにあるようだ。  ぶんはここで働くうちに静岡県出身の石川貴知と知合い、その世話を受けることになる。石川は士族出身の実業家といわれ、白山の妾宅にぶんを囲う。ぶんは石川との間に長女スマと長男の帰一郎を生む。  石川はかなりの資産家だったらしく、静岡市内の広大な屋敷では、庭で桜の花見の宴なども開かれたといわれていた。  帰一郎が男児だったので、石川は帰一郎を認知するが、その三年前、明治三十年十二月に生まれたスマは、女児という理由で認知しない。スマは私生児として暗い影を引きながら成長していく。  ここに彦坂スマと野坂政子を結び付ける事実がある。石川の本妻をタキといい、この夫婦の次女マツは、後に伊藤助太郎と結婚し、二女のあいを生むのである。つまりスマは石川の妾の娘。政子は本妻のひ孫ということになるわけで、遠い縁者の関係にあった。  のち貴知は正妻の長男の一三に家督を譲った。長男一三は妾・ぶんの住む柳町と目と鼻の先にある指ヶ谷に住む。  スマは十代、二十代の青春期をどのように過ごしてきたのだろうか。  当時の所化だった人は、  「妙修さんは、よくタバコを吸っていたよ。当時、女性でタバコを吸うのは珍しく、粋筋の女くらいのものだった。本行寺時代も、よくくわえタバコ姿で坊主たちを集めてはマージャンをしていたものだった」  と語っているが、後にあいの証言によると、  「娘時代のスマさんは、ぶんさんと一緒に小石川柳町に住み、大塚の三業地にあった料理屋で女中をしていた」  というのである。  これらの言葉からスマの前身はほぼ推測できるが、あいも芸者をしており、ぶん、スマいずれも三業地で働く女。遠縁で、近くに住み、しかも生活環境も似ているため、親戚付合いをしていたのである。後に政子姉弟を引きとる理由は十分だったということになるだろう。 彦坂スマに一目惚れした法運  ではスマと宗門との関係はどうであったろうか。  法運の師であった日応は、全国を布教して歩いたが、明治三十一年、つまりスマの生まれた翌年、白山花街近くの西片町に「法道会」という信徒の会を開いた。この会にはまた「妙典講」という花柳界で働く女たちの講もあり、かなり多くの講員を集めていた。底辺の女たちもここに参集するのが楽しみだったようで、読経をしたり、法話を聞いたりしたものだが、香炉なども連名で寄進している。  「法道会」の近くに住むぶんも、仲間とともに、これに参加していた。  大正九年、大聖人生誕七百年を記念して、妙典講が連名で供養、そのなかに「彦坂ぶん」の名前もある。また同年五月、常泉寺の信徒総会でもぶんは一円五十銭を篤志寄付している。当時、機関誌『大日蓮』の年間購読料が一円二十銭だから、ぶんの熱心さも推測できるだろう。  暗い出生に悩むスマは、やがて母とともに日応に接し、たちまち「法道会」にのめり込む。  日応もスマを「利発な娘だ」と可愛がり、書道や中国古典の『四書五経』を教えたと思われる。父親のように親身になって面倒をみていたのである。  その後、日応は「法道会」以外にも、麻布・我善坊町に「潜龍閣」を股立、布教のかたわら宗門の機関誌『大日蓮』を出版するなど、精力的な活動をしていた。  大正十年正月号の『大日蓮』に、スマはこんな記事を載せている。  「 七百年を記念に吾等の覚悟   彦坂須磨子  宗祖大聖人が大日本帝国に御降誕遊ばされてより已来、星霜茲に七百年、本年は将に其の年に相当致すのであります。處で私共が僅かの経験の上から此の過去七百年の歳月を追想して見ますると実に永い期間の様に思はれますが、然も此の永い期間の歴史を振り返へて観察して見ますると其の大半が宗門の争闘史に終つて居るかの様に思はれてならないのであります。然も其争闘の歴史が聖訓に基く破邪顕正の為めの争闘なれば私共は敬服も為し感謝も致さねばならぬのでありますが、私共の目には何んとなく只徒らに内輪の小競合ひの様に思はれてならないのであります。  茲に於いて私共は大聖人の御報恩の万分の一に報ゆる為め何んとか面目を一新して大聖人の御前に詣ふでて恥しからぬ信徒としての本分を遵奉せねばならぬと思ふのであります……。(後略、原文のママ)」  悪名高い小笠原慈聞や松本諦雄といった当時の論客にまじって、信徒、それも二十歳前後の小娘にすぎないスマが署名入りで堂々と書いているのである。これはどういうことだろうか。しかも宗門のなかでくだらぬ小競合いが多いなどと、平然と批判しているのである。  この雑誌の出版責任者は日応。その日応がこのような記事の掲載を認めるところからみると、いかにスマが日応の寵愛を受けていたかがわかるだろう。また文面から、日応が日頃思っていることを機会あるごとにスマに語って聞かせていたともうかがえる。  こうして日応に可愛がられたスマは、すでに法運が住職をしていた常泉寺に、出入りするようになる。法運にとっても師匠日応の紹介だけに、スマには特別な関心を持つ。スマは人目を引くほど色白で、豊満な女であった。たちまち法運は魅了された。  二人の結び付きについては、人びとの関心もあったせいか、風流譚めいた話が今も残っている。  スマのことを知っている寺の檀家役員が、ある日、こう法運に水を向けた。  「寺好きの女がいるのですがね。住職さんに引き合せましょう。もし見て、気にいったらタバコに火をつけてください。私が女を納得させますから」  法運はスマを見るや否や、慌ててタバコに火をつけ、むせかえったというのである。これは笑い話として当時、宗門内に広がった。  こうして二人は深い関係になるのだが、この頃、これも若い女が富士宮から、突然、常泉寺に法運を訪ねてきた。  夫の弟子と深い仲に?  法運が寂日坊の住職のころ、出入りしていた業者の娘で、夫婦同然の女がいた。彼が常泉寺の住職として赴任するとき、女にきっと迎えにくる……と約束した。  それっきりになった。待てど暮らせど迎えはこない。女は思い切って常泉寺に出向いた。そこにはすでに女房のような女、スマがいた。富士宮の女は実家に戻り、まもなく経師屋に嫁いでいったという。罪な話である。  が、今や法運の関心はすっかりスマに移った。しかも法運は日応の愛弟子として、将来を期待される幹部僧。本山に赴くことが多く、また日応に随従して各地を巡教して歩いたのである。  法運とスマは深い関係になったが、間もなくスマの身辺にいかがわしい噂が流れるようになった。  常泉寺と同じ敷地内にある本行坊の住職・高野法玄(後の日深)とのスキャンダルである。  法玄はスマより三歳の年上で、年齢も近く話も合い、早くから意気投合した。法玄の実父は渡辺玄隆といい、後年、法玄が高野家へ養子に行ったのだが、素行の悪さは群を抜いており、とくに女にかけては衆目の認めるところだった。  明治二十七年十月、静岡県柚野の蓮成寺で生まれ、十四歳で、法運について得度している。つまり法運は師僧ということになる。  若くして結婚したが離婚しており、大正六年、二十四歳で本行坊の住職になっていた。  これと前後してスマは常泉寺に出入りするようになり、当然ながら顔を合せる。  法運は自分より二十四歳も上、年齢の開きはいかんともしがたい。法玄は同年配の若者。スマが気を引かれるのも無理からぬ話だった。しかも男女関係にはルーズな寺という環境である。法玄にとってもこのように思ったのではないだろうか。  正式の妻というのなら手も出せないが、彼女はたんなる手伝い女ではないか。法運個人が独占する者ではなく、男と女、しょせんは腕しだい、気持ちしだいだ。  こうして水心あれば魚心、あっさり一線を越えてしまったといわれている。現に法運の留守中、しばしば法玄が常泉寺に出入りしているのを多く人に目撃され、口の端にのぼった。  当然、この醜聞は法運の耳にも入った。激怒した法運は日応に働きかけ、大正七年十一月十八日、法玄は突然、本行坊の住職を罷免され、同日付けで千葉・本城寺の住職事務取扱として左遷させられてしまう。住職より一格下である。明らかに懲罰人事であるといわれている。  だがこれで法運の胸が晴れたわけではない。  “なにも弟子の法玄などと……。法玄も法玄だが、スマもスマだ。オレの顔にドロを塗って……”  スマヘの気持ちが深いほど憎しみも増してきたにちがいない。  法主とはいえ、かなり俗世の世故に長けていたスマの父親がわりの日応は、事情を判断し、法運にスマとの正式な同居をすすめたようである。そして大正十年五月、法運が宗務院総務に昇進し、能化、つまり最高首脳部として法主への道を開いたことを契機に、スマは公認された形で常泉寺に入った。  法玄はさらに本城寺住職事務取扱のままで妙音坊の兼務住職となった。彼もまたヤケになっていた。  日顕は日開法主の実子でないのか?  本城寺の近くの真言宗の寺の娘冨美と親しくなる。日蓮正宗からみれば、邪宗となる真言宗の寺に出入りし、冨美の家族の歓心をかうため、法事のさいには塔婆書きの手伝いもしていたというのだから、破戒ぶりは堂に入ったものだ。  この荒れ方も自分のせいかと、思うと、スマとしてもいささかの責任を感ぜずにはいられなかったろう。この間も法運と日応との巡教旅行は続き、スマと法玄の逢瀬のチャンスは常にあった。  大正十一年十二月十九日、スマは信夫(後の信雄、さらに後の日顕)を生む。出生地は、東京・向島小梅町一六五番地、常泉寺。だが、当時を知る人の証言では、生まれたのは同寺ではなく、すぐ近くの三囲神社の前にあった寺の家作の一軒、しもた屋風の目立たぬ民家だった。  正式同居となってからも、法運は彼女をここに住まわせ、自分が寺から通っていた。  たとえ“通い夫”にしろ、五十歳になった法運が遅く生まれたわが子を祝福し、喜んで抱き上げていたというのなら、納得もできる。  しかし現実はまったく違った。法運はいつになっても信夫を自分の長男として認知しようとしなかった。その認知は六年後、妻であるスマの入籍にいたっては、さらにそれから九年もたってからである。つまり誕生した信夫の戸籍は、スマの私生児として扱われたのである。  また、この信夫の誕生は大きなマイナスであった。正妻でないスマの子どもである。  実際に大正十四年、法運は次の日柱法主により「行体の乱れ」、つまり素行の乱れを理由に宗務院総務の辞職と、能化からの降格という厳しい処分を受けている。後に法運はこれに反発し、日柱法主の引き下ろしクーデタに踏切る。  だが、それにもまして法運が信夫の認知をかたくななまでに拒否し続けた最大の理由は、「信夫はわしの子ではない」という疑惑、スマに対する不信と、男としての怒りとみることができよう。  「信夫は法運の子ではない。高野法玄の子どもだ」というおぞましい噂は、寺ばかりでなく宗門のすみずみにまで囁かれていたのである。  「日顕の父親が日開だなどとは、誰も思っていない」と、ほとんどの僧侶が口を揃えていうのである。  「あの高野法玄(日深)ならやりかねないわ」と元法主夫人まで語っていたのである。  「平成二年に本山の住職から聞かされてビックリしました。『日深上人と妙修さんの子どもが日顕猊下だという話は本山の古い住職の間では昔から常識でしたよ。いま頃知ったのですか?』って」(中島法信談)  「じつは、あれは私の子なのだと、日深自身から聞いた」と語る幹部僧もいるのだ。  決定的な裏付けになる証拠は、法運の「無精子説」である。  若い時代の淫蕩な生活の過程で、彼は睾丸炎を患い、無精子であったことは宗門内では周知の“暗黙の事実”であった。彼と接した多くの女性のなかで、スマ以外に妊娠した者は一人もいない。  「日開上人が睾丸炎を患って子種がないことは当時の本山では有名な話だったと聞いています」(小板橋明英談)  宗門という狭い限られた世界で、とくにこの種の情報は、驚くべき正確さで定着するのは常識だろう。  写真を見比べれば一目瞭然である。どちらかといえば細面で、損介な表情の法運と現在の日顕は似ても似つかないが、頬の丸さのあたりや目元は目深とはそっくりなのである。  こうした“状況証拠”からすると、日顕の日深実子説は、どう弁明しても肯定されることになる。  日応法主の突然の死は、スマにとっても大きな誤算だった。信夫が生まれるちょうど六ヵ月前の大正十一年六月十九日、父親代わりだった日応が亡くなった。たとえ法玄との噂があるにしろ、親代わりの日応がいるかぎり、弟子である日開は師僧・日応のいう通りに、信夫を入籍するはずだった。子どもの顔を見れば、自ずと愛情も沸くだろう。その母である自分の入籍も早くなるのではないか……と。  日応の死が六ヵ月遅かったら……。  そう期待していただけに現実は厳しく、信夫の誕生後、法運とスマのいさかいは絶えなかった。  彼は少年の頃の早婚で、コキュ(寝取られ男)の屈辱を味わった。そしてまたふたたびコキュの負目を受けねばならなかった。  法運とスマにとっては苦渋に満ちた期間だったにちがいない。スマは母子ともども私生児という汚名の下で、晴れて身分を獲得するまでの、先の見えぬ道を辿らねばならなかったのである。  夫婦の修羅場を救ったのは、関東大震災ではなかろうか。信夫誕生の翌年、大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東を襲った大地震は、とくに下町に大打撃を与え、常泉寺も崩壊、消滅してしまった。  寺ばかりか住む家も失ったが、日達元法主の『大日蓮』に書いた記事によると、  「法運夫妻はやむなく池袋の信者の家を借りて移り、そこから毎日、常泉寺の焼跡に通っては後片付けをした。妙修尼は生まれたばかりの信夫を背負い、埃まみれになって働いた」  というのである。  となると不義の子騒動もひとまず休止である。常泉寺は古刹だけに宝物も多く、地震と火災の最中は、東完道という僧侶がこれらの品々を頭上にかかげ、向島の土手から隅田川に入って、危なく難を逃れたといわれているだけに、後始末が大変だったのだろう。  しばらくして法運の日柱法主の引き下ろしクーデタとなり、次の日亨法主のときには、先に失った能化の地位の回復に懸命となり、成功すると今度は日亨法主の孤立化を図って、早期退陣を画策するというあわただしさたった。  そしていよいよ昭和二年十二月には、法運は有元広賀と法主選挙の一騎討ちを行い、五一票対三八票で勝つ。もっとも法運派は本山の立木を伐採して選挙費用にあてたとか、日応元法主未亡人の住む庵の維持費を横領した疑いで、法運が向島警察署の取り調べを受けるとか、本山を二分するドロまみれの選挙になったのである。  このとき、法運派の選挙参謀として汚れたカネのばらまきに当たっていたのが、ようやく懲罰人事の鎖から解放され、千葉県から本山・蓮成坊の住職に返り咲いた信夫の“父”、高野法玄であった。  法運の法玄に対する憎悪はけっして消えていない。しかし権力をめぐる闘争が、この二人を“野合”させたとみるべきだろうか。 第四章 頭を丸めて尼になれ 〈証言7〉  「ある高僧の奥さんから聞いた話なんですが、信夫さんが生まれたとき、日開上人が怒って妙修さんに『お前みたいな女は、頭丸めて尼にでもなれ!』って怒鳴ったんですって、なんでも自分に子種がないのに妻が妊娠したんですから……っていってました。  妙修さんが尼になったのは、このことと関係あるのですかね」(日顕の兄弟弟子・小板橋明英) 〈証言8〉 「終戦は秋田だった。少尉だったので宿舎が旅館だったんだが、そこの娘に惚れられてしまって、夜になるとその娘が布団のなかまで入ってきたことがある」(日顕が大橋正淳に語った話)  怒ると手のつけられない子ども  法運に認知されぬまま、彦坂信夫はそれでも元気に育った。母子ともに私生児、スマは信夫を抱きながら、いつか信夫が阿部姓を名のり、日開の息子として本山で堂々と生きて行く日がくるのを願ったことだろう。  昭和三年六月八日、法運は六十世の猊座についた。念願はかなえられ最高位に登りつめたのである。五十四歳であった。  登座の満足感が寛容にさせたのか、法運、改め日開が最初にしたのは、信夫の認知であった。たとえ出生に疑惑はあるにしろ、もはやこれ以外に子どもを作れるわけではない。自分の将来のことも考えねば、そして何よりも法主の立場から社会的批判もかわさなければならない……日開もさだめしさまざまに思いめぐらしたことだろう。  六月二十三日、信夫は日開の子として認知された。姓は元の彦坂信夫から名実ともに阿部信夫となった。  信夫は法主の長男、やはり僧侶の道を歩ませたい。信夫の未来はそれしかない。これはスマの強い願望でもあった。そこで八月二十八日、信夫は得度した。  さて、師僧は誰がなるか。師僧とは僧籍にある者にとって、みずからの全てを託す親がわりといった存在であり、僧侶として何事であれ相談したり指導を受ける。これを誰にするかで将来の方向まで影響し、人脈、法脈も決定づけられるのである。  信夫の場合なら、当然、表向きは父の日開がなるべきだった。なにより宗門の最高位にある法主を父に持つのである。他にはまず考えられなかった。  しかし日開はそうしようとしなかった。まったく他人のような態度をとっていた。認知したここに至っても、いぜん生理的な反発感をもっていたのだろうか。  スマは日開ばかりでなく、多くの知人たちにも不満を訴えている。しかし日開は耳を傾けようとしなかった。そこでスマ自身で日開の同郷(福島県)の僧にあたる常在寺の住職・桜井仁道に相談し、師僧になってもらう。  日開は法主として本山に住むが、スマはしばらくは向島で生活を続けた。信雄は本庄の小梅小学校に通いはじめる。  また母ぶんもスマを頼り、向島の家に同居するようになる。  昭和初期、日本の軍国主義化につれ、宗門も戦争協力への傾斜を深めていく。後に布教監になる小笠原慈聞らが先頭に立って、大聖人の教義を曲解し逸脱し、国家主義宣揚に懸命になるのである。「神本仏迹論」や政治権力に迎合した「日蓮宗合体論」などが持ち出された。天皇崇拝が宗門内でも当たり前となるが、日開もまた例外でなく、登座の翌年、昭和四年の元旦には宮中参賀に出席、その感激を『大日蓮』で書き綴っている。  三年には牧口常三郎、戸田城聖らが入信し、五年には創価教育学会(後の創価学会)が発足したにもかかわらず、逆に宗門では、信者たちの純粋な求道心を踏みにじる行動をとるようになった。  六年、日開は文部省に対し、日蓮宗身延派を認める念書を提出するなど、驚くべき謗法に走っている。  スマ母子は住居を本山の石之坊に移し、信雄も上野村の尋常高等小学校に転校した。この頃、本山・大坊には五、六人の小僧が住んでおり、孤児が多かった。スマは小僧たちの衣類の洗濯をしたり、風呂に入れて洗ってやるなど世話をしたという。また家庭医学の本などもよく勉強し、本山の“医師兼看護婦”として、小僧たちの医療管理にも当たっていた。このような彼女の世話になった者はけっして少なくない。スマにはこうした側面もあったのである。  信雄は、大坊と庵の間を往復していたが、「仲間たちからは法主の子だというので、距離をもって扱われ、真の友人もできず、寂しい少年時代だった」と後に述懐している。  小学校時代の友人の証言では、信雄は早くも後の日顕を予想させるエキセントリックな性格を現していたという。彼は比較的に成績のよい反面、グズのようなところがあった。しかし一度、怒ると狂ったようになったという。  ある日ささいなことで女の子と喧嘩になった。女の子は信雄の怒りように恐れをなし、自宅に逃げかえった。家族は畑に出て誰もいない。彼女は押入れに身をかくした。信雄は家の中まで入り込み、押入れから少女を引っぱり出して叩いた……というのである。執拗さはこの頃からすでに見られるのである。  昭和十年はスマたちにとって、忘れられぬ年になった。三月、信雄は上野村の小学校を卒業して、東京の常在寺に配属となり、同寺から駒込の私立本郷中学校に通うため、上京していった。  尼になることがすべての解決策  五月、スマは突然、頭を丸め、「妙修尼」を名乗ることになる。  これは誰も予期しないことであった。後に妙修尼の十七回忌のとき、日顕が「中学校の春休みに、本山に帰ったら妙修さん(彼は実母をこう呼んでいた)が頭を丸めていた。とても驚いた」といっているが、その通りだったのだろう。  「日顕が『妙修さんのお母さんにぶんという人がいますが、この人が日応上人の折伏で信心した。この人は「尼になりたい」といったけど断られた。それほどの強信の人だった』と」(大橋正淳談)  尼になりたいと申し出たのは妙修ではなく、実は母・ぶんだったというのである。では妙修が突然、尼になったのはなぜだろう。  これまでスマはここ石之坊にあっても、どこか不安定な存在であった。入籍していないので、日開の正式な妻ではない。多くの僧侶たちは彼女をどう呼んでいいものか迷って「彦坂さん」といっていた。  入籍してもらいたい。ところがまだ日開は、法玄との不倫にこだわっている。かつて日開が「尼になれ」と罵った言葉通りに、尼になることは、すべて解決することでもあった。  六月十一目、日開は法位を日隆に譲って退位し、やがて再建されたばかりの「蓮葉庵」に移り住んだ。  妙修はここで生花、砂絵、盤景、刺繍、料理などに精を出す。どれも玄人はだしだったともいわれるが、何事にも熱中する性格だった。  高野法玄は富士宮市上井出、通称では白糸の、寿命寺の住職となり内事部理事に就任、権僧都にも叙せられて昇進していく。  一方、妙修にとっても尼になって三年目、ついに日開との入籍を果たすことができた。昭和十三年二月十日のことである。  気がつくと、若い頃に仲をさかれた法玄がつい目と鼻の先の白糸にいるではないか。そう思うと、ふたたび妙修の血は騒いだのだろう。  日開はかつての精力も衰え病気がちになってきたが、尼となった妙修はまだ四十歳で、かえって屈折した色気を発散していたといわれる。  二人の仲は堰を切ったように復活した。  会う場所は本境坊と決まっていた。同坊の住職は佐野慈広といい、元猊下夫人としてどんなわがままも聞いてもらえたし、すべて承知の間柄だった。この本境坊には当時、政子の弟の昭夫が住職の佐野慈広を師僧として奉公していた。  寿命寺から法玄が本山に上がってくると、どこでどう知るのか、妙修が「蓮葉庵」から抜け出て、本境坊に急ぐ。  「まだ電話などのない時代で、どうして連絡できたのか分らないが、法玄がお華水を通り、本境坊に入ると、きまって妙修さんが後を追うように坊に来たものです」  同坊に勤めていた僧侶の一人が証言している。おそらく本境坊の昭夫が、恋のメッセンジャー役をしていたのだろうか。  気丈な女としての側面と情欲に身を焼く女の悲しい性、二つながら物語るといわねばならないだろう。  「蓮葉庵」に若い女の姿を見るようになった。大柄の少女は黙々と働いていた。政子である。  信雄はふたたび本山勤務となったため、県立士富士中学校に転校、十五年三月、卒業して立正大学予科に入学した。昭和十六年九月三日、桜井仁道が死んだため、日開は信雄の師僧を桜井仁道から自分にかえる。信雄十九歳、日開六十九歳、亡くなる二年前のことである。  しかし日開、信雄のあいだに一般の家庭でみるような語らいや笑いやスキンシップがあったという話はまったく残っていない。たしかに年齢も父というより祖父に近いほど離れていたし、信雄が見る父の姿は、多くの僧侶にかしずかれる権威の象徴でしかなかった。したがって、父との真の一体化は、自分もその権威を獲得する以外になかっただろう。  若き日顕の「パンツ事件」  十七年、信雄は立正大学日蓮学科に入る。  若々しい青春があったわけではない。時代背景も暗かった。前年十二月に大東亜戦争に突入し、この年は、『戦陣訓』が軍人ばかりか若者にも徹底され、農繁期には全国の生徒は休校して農作業に連れ出された。  日米両国の緊張感の高まりの中で、近衛内閣は退陣し、戦争決行の東条内閣が成立したのだった。大学、専門学校の繰上げ卒業も決定した。  信雄も勉強らしい勉強はしていない。それよりも大学での仲間すらできなかった。日蓮学科には身延派などさまざまな宗派から学生がきており、日蓮正宗は信雄をはじめ、本間光間、変人といわれた円谷某、川瀬某など少人数だったが、信雄のことを記憶している同級生はいないのである。  京都の他宗のある住職は語る。  「戦時下の特別な時局だっただけに、仲間意識も強かったはずだが、記憶に残らぬ男だった。最近、宗門問題をめぐりテレビで名前を見、あの男が法主かと、驚いたものだよ。  仲間と仏教談義ひとつ交わすわけでもなく、なにをしているのかまったく知らなかった」  これが若き日顕像なのである。  「蓮葉庵」の生活も苦しくなった。厳しい食料難が襲ってきた。本山の僧侶たちも周辺の山を開墾し、イモや麦を作っての自給に備えた。  妙修は政子に手伝わせ、庭をつぶして畑を耕し、味噌、醤油まで自家製だった。肥料を取るため豚も飼った。肥料は豚小屋に敷いたワラに糞尿を染みこませて作るのだが、妙修は自分の手で糞をすりつぶしてワラに混入するといった念のいったやり方たった。小僧たちにもこれをやれと強要し、かれらを悩まさせたという。  日照りの続くときは、雨が降るまで幾日でも、天びん棒の桶で水を運び、作物にかけていた。庵の作物はいつもよい出来栄えだと、出入りの農家からもほめられた。  政子も妙修とともに朝から夜まで働いた。  妙修は政子について聞かれると、「私の遠縁の娘だが、なんでも素直にいうことを聞き、またなんでもよくできる娘だ」と答えるのだった。それが正直な評価だったのだろう。  戦争は激化する。本山は富士山の麓だけに食料悪化を除いては、とくに戦禍もなかったが、檀家の若者ばかりでなく僧侶の中からも応召で出征する者がでてきた。  当時、国民のあいだには「一家の長男で跡継ぎ、しかも結婚していれば徴兵免除になることが多い」といわれていた。  今のうちに適当な女と結婚させたい。私とウマが合い一緒に暮らせるような女と、と考えると、それは政子しかなかった。  もう一日も猶予はない。なにがなんでも、と思う。むろん病気がちな日開に異存はない。娘同然の政子だから、その母親の承諾を得るまでもない。  しかし信雄にはじつはひそかに交際していた女がいた。蓮成坊の娘、川田T子である。信雄より三歳年下であった。  これまでも東京から本山に帰るたびに二人は御影堂の裏や杉木立の中で会っていた。二人のひそかな交際は、T子の父、蓮成坊住職の川田利道もとうに気付いていた。だが利道は二人の結び付きに反対だった。  信雄は一応は日開の息子ではある。だがその不可解な親子関係、さまざまな疑惑はとうに耳に入っている。その原因となる法玄と妙修尼をめぐる噂もある。利道からすれば信雄は「表面はどうであれいかがわしい若者」に過ぎなかった。  T子は信雄に「夕方、三門の前で待っていてほしい」と呼び出された。  後にT子の証言ではこんな会話がかわされたという。  「じつは母から結婚するよういわれている。今夜中に返事をしなければならない。どうしたらいいか」  信雄はおずおずと切出した。  「オレと結婚してくれ」ではない。「オレと駆け落ちしてくれ」でもない。回答をT子にまかせる煮えきらない態度だった。  T子としても、父や家族の反対は知っている。それを押し切れるか。その前に、信雄の気持ちはどうなのだ。十八歳の娘に答えるすべはなかった。ただ黙っておずおずと立ちすくむばかりであったという。  信雄はT子の前からプイと立ち去った。そして大石寺近くの小料理屋「芙蓉荘」に入った。ここは僧侶たちの行きつけの呑み屋たった。信雄はそこで朝まで酒を飲んでいたという。ここの女将は、妙修の生花の弟子で、彼もわがままのきく店だった。泥酔した信雄は明け方、蓮成坊の門の前でT子の名を呼び続けたという。  この美しい思い出も、後に信雄は遊び仲間のK僧侶に、  「T子は義母の出産を見て妊娠をとってもこわがった。『子どもが出来たら困る』というのでパンツをはいたまま抱いたんだ」  と語ったという。  「パンツ事件の話をK氏から聞いたときはウンザリしました」(小板橋明英談)  T子との愛は不毛のまま終わった。当時、本山結婚相談所の所長はT子の父・利道、副所長が妙修尼である。それでも信雄とT子の結婚はムリなのだ。  結局、妙修尼の望む政子との結婚に落着くしかない。信雄にもまだどちらがいいか、判断がつかない。  信雄には女“愛する”といった情感がまだ末熟だった。男と女の確かな結びつき、その表現も知らないうちに、結婚という現象だけが先行したのである。  信雄と政子の結婚披露は「芙蓉荘」で簡単に行われた。四月十日、婚姻届を提出した。  学生結婚にしてはロマンチックな甘さに欠ける便宜的なものだった。信雄はふたたび東京に戻り、政子はそのまま妙修の下で暮らすことになる。  吉原通いで父の死に目に会えず  二人が結婚してまもなく、山本五十六連合艦隊司令長官戦死という報道があり、戦局の行方は暗いものになった。米軍の反抗は本格化し、アッツ島守備軍が全員玉砕した。  十月二十日、出陣学生にいち早く卒業証書が渡された。信雄もこれで大学を卒業したことになり、あとは十二月一日の入隊を待つだけである。  勝てる戦争ではない。どこに行くか分らぬが生還は期しがたい。青年の間にはやり場のない自暴自棄なムードがただよっていた。誰かに赤紙(徴兵令状)がくると、仲間はわずかな酒を持ち寄っては送別会を開いた。  信雄と幼な友だちだった久保川法章も、学徒出陣組の一人であった。  「私は千葉県柏市の航空隊に入隊することになっていた。学徒のために横浜の中華街で壮行会を開いてもらった。日昇、日淳、日達といった方々が出席してくれた。しめっぽくて盛上がらぬ会だったが、みんなヤケになって当時はやっていた沖縄民謡の『阿里屋ユンタ』を歌ったものだった。  マタ ハーリヌ チンダラ カヌシャマヨー  意味もわからないが、“死んだら神様よ”などともじって歌ったものだ」  と語っている。  十一月二十日、久保川は信雄と二人だけで送別会を開こうと誘いあった。出征する者は決まって名前を寄せ書きした日の丸と、千人針を持っていたものだった。それをかかえ、二人は浅草仲町であう。小さな料理屋だったが、信雄が案内した。久保川はこうした店に入るのもはじめてだった。  料理も酒も不足で寂しい送別会になった。金は割り勘で払った。表に出て、夜の浅草界隈を歩いた。これで見おさめになるかも知れない。ただ歩くだけである。  吉原遊廓に出た。「オレは寄るところがあるから」と信雄はいい、ここで別れた。  久保川は十二時すぎ、疲れて寄宿していた、当時、江東、砂村にあった砂町教会(後の白蓮院)に帰った。  すると留守居の女が「日開元法主が危篤という連絡があった」と告げた。  驚くより先に信雄に知らせようと思ったが、吉原で別れ、あとはどこにいったか分らない。遊廓に泊まったことは当然としても、確かめようもない。久保川はあわてて飛び出し、東京駅に急いだ。夜行列車に乗り、ようやく富士宮駅に着いたのは朝。「蓮葉庵」にかけつけると日開はすでに死亡していた。老衰といわれる。  信雄はついに間にあわなかった。  後日、法主となった信雄は日開五十回忌のさい、その臨終に立会えなかったことについて、こう『日開上人全集』巻頭言で弁明している。  「十一月二十日、東京在住有志による送別会があり、終って常泉寺で一夜を過したあと、翌日、砂町教会へ挨拶に行き、勧められるままに夕食の膳についた時、日開上人危篤の報を受けた。  戦時下の当時における交通事情の悪かったことは今では想像もつかないだろう。急遽登山を志したものの適当な列車もなく、本山到着は翌二十二日の早暁となり……」  久保川より一日、遅れたのである。  日顕は二十日の夜、常泉寺に泊まったと書いているが、当時、彼は同寺とは法類(師僧の別による組織系統)が違い、ここに泊まるはずはない。また砂町教会では、すでに二十日の夜には日開危篤の報を受けており(だから久保川は急行したのだが)、二十一日夕食後、危篤の連絡が入ったという日顕弁明は、ウソである。  親子で死に目に会えないことも、現実にはしばしばあるだろう。しかしこの場合は、吉原で遊んでいたため、悲報を知るのが遅れたという事実、後の日顕の乱脈な荒廃した日々を象徴するかのような出来事であった。  出陣学徒ははじめから将校に任官することになっていたので、信雄は海軍少尉として北海道・室蘭に配属された。  外地に送られた者と比べると幸運といわねばならない。戦争はしだいに末期的な様相を呈してきており、室蘭では米軍の上陸に備え街の裏山に砲台を造るのが仕事だった。数名の中年の応召兵や中学校の生徒だちと作業をしていたのだが、後に法主として親教に来たときに、室蘭の寺に寄り大橋正淳に語ったところによれば、  「山の中腹に兵舎があってそこに寝泊りしていた。麓にタバコ屋があり、いい娘がいたのでよくタバコを買いにいったものだ。はて、どこだったか、あまり変わってしまって分らなかった……」  などと語っている。  終戦は秋田で迎えたという。やはり陣地構築の作業をしていたが、将校なので宿舎は町の旅館があてがわれた。  「その旅館の娘にほれられてね。夜になるとその娘が、オレの布団の中に入ってきたものだった」  日顕はこうした女の話が好きで、室蘭の寺でも昔話はきまってこうした自慢話に終わるのである。  昭和二十年八月十五日、日本は敗戦を迎えた。国内にいた兵士たちの復員がはじまった。彼等は支給されていた食料や衣服などを抱えて故郷に戻っていった。  しばらくして信雄も中尉(軍部は復員にあたり一階級ずつ昇進させた)の海軍将校の制服で大石寺の『蓮葉庵』に帰った。出迎えた政子は、信雄を見て「信雄様のお姿が凛々しくて……」といつまでもあちこちの坊の女たちに自慢したという。彼女にとっては束の間の幸福のときだったろう。 第五章 隠し子事件 〈証言9〉  「人間の性格は、極限状況の時によくわかるものだが、あいつの自分勝手さは、戦争直後の食料難のさい、はっきり現れた。ひどい食料不足でね。所化たちはカエルを捕まえたり、ペンペン草なども食べたものだ。彼は所化頭だったが、みんなの面倒をみるどころか、自分だけは『蓮葉庵』に帰って、ハラいっぱい食べていた」(当時を知る住職の話) 〈証言10〉  「私、次女を身ごもったとき、信雄さんと結婚すればよかった、信雄さんに会いたいなんて、そんなことばかり考えてたでしょ。そしたらほんと、信雄さんにそっくりな子が生まれてきちゃったの。まわりは似ているというし、自分でもビックリでした。  これも胎教なのかしら。胎教って恐ろしいものですね」(川田T子が女性誌に語る)  食料調達係の失格  大石寺にも復員僧たちがどっと帰ってきた。大坊には所化(見習僧)が十人ほどいたが、その半分は復員兵だった。かれらは法要以外には、それぞれが軍隊から持ってきた軍服や下着を着ており、なかには特攻帰りなどと豪語する者もいた。白い訓練服の背中に「滅私報国」などと大書して廊下を闊歩する者もあり、寺には殺伐とした空気が流れていた。信雄もその仲間に加わる。  久保川法章が『仏性』に当時の模様を書いているが、その記事によると、信雄は所化頭を命じられたが、めったに顔を出さない。現れると梶棒片手に皆を一列に並べ、「海軍ではこうして気合いを入れるのだ!」などと、所化たちの尻を叩く。海軍でバットといったリンチである。たちまち全員から白い眼を向けられたという。  信雄にはこんなこと以外に芸はなく、とても統率はとれない。結局、久保川が事実上の所化頭を務めた。  当時、本山の塔中の住職は自分たち家族の食料を確保するのに精一杯で、役僧として大坊の在勤者の食料を世話することなど思いもよらなかった。そこで所化頭としての手腕を問われるのは、これら在勤者の食料をどう工面するかだった。  頼りない信雄は誰にも相手にされなかった。しかし「信雄さんは海軍将校だから、なんといっても所化に命令して動かすのがうまい」などとおだてられると、本気にしてすぐ乗ってくる。信雄は久保川と一週間交替で、食料の調達をすることになった。所化を連れて出掛けては、村でなにかを見付けてくる仕事である。  一、二週間したとき、妙修尼が血相を変えて大坊に駆け込んできた。  「信雄さんを食料調達の責任者にするのは止めてください。そんな能力が信雄さんにあるはずはないじゃあありませんか。このままでは蓮葉庵の畑が丸坊主になってしまいます。お願いですから止めさせてください」  と、泣かんばかりにいうのだった。  信雄は食料調達になると、二、三人の所化と、まっすぐに「蓮葉庵」の畑に行く。そして妙修の承諾も得ず、手当たりしだいに作物を抜き取ってしまう。妙修や政子が丹精こめたものを当たり前のように強奪するというのだ。村の農家に頼むことなどしたくない信雄は、最も簡単な方法で、自分の顔を立てようとしたのである。  母親からの苦情が入って信雄はお役放免になった。後は久保川や河辺慈篤らが担当することになったという。たしかに苦しい時代だった。各坊とも半農半僧だった。お塔川寄りの杉林にはお華水に通じる道があった。各坊の住職は道路ぞいの杉林を開墾して、麦などを作っていたのである。  所化たちはもっとひどかった。一日がかりで調達してきたものを、夜中に煮炊きして食べたものだった。主食はよくても麦だけ、野菜という野菜は取り尽くしたので、ピーピー草と呼ばれていた野草を摘み、汁にいれたこともしばしばだった。中庭の鯉、鮒はむろんのこと蛙すらいなくなったという。鶏の足や頭が川に捨ててあると、もったいないと、焼いて食べるものもいた。  誰もがそんな生活をしているなかで信雄だけは、われ関せずの素知らぬ顔をしていた。彼は空腹になると、一人だけ「蓮葉庵」に戻って、たらふく食べて栄養をつけていたのだ。  子どもの遊び仲間に“ミソ”と呼ばれる者がいる。皆と同じことができずしようともしないため、別格に扱われる“仲間外れ”なのだが、エゴイストの信雄はまったく“ミソ”だった。はじめから誰もが相手にしていなかったのである。  余談ではあるが、その頃、妙修のところに三歳年下の弟・帰一郎がフラリと訪ねて来た。石川貴知の妾をしていた母・ぶんがふたりを産み、男の子だったために帰一郎だけが認知され、妙修は私生児のまま大きくなった。  ところが、帰一郎は放浪癖があり、しかもノイローゼ気味でもあったため、いつも、落ち着かず、浮浪者のようになって「蓮葉庵」の姉を頼ってきたのだった。  「あるとき、日顕がカッとなって怒ったことがあったんです、その際、わたしをなぐさめようとして夫人・政子が『妙修さんの弟(帰一郎)に精神分裂症の人がいてねぇ、お師匠さん(日顕)がわけが分からなくなるのは血なのかねぇ』といったことがあるんです」(椎名法昭談)  この帰一郎には妙修も困り果て、「蓮葉庵」に置くわけにも行かず、近くの農家の物置を借りて住まわせた。  帰一郎はそこで野垂れ死にのようになって亡くなった。  不倫の噂が原因で左遷される  日開が死んでから高野日深には気兼ねするものはなく、大っぴらに「蓮葉庵」を訪れた。もうなんの遠慮もなかった。妙修に風呂をたてさせ、ゆっくり入って行く。  「なによりもイヤだったのはお酒を呑んで来て、お風呂に入るとかならず『政子、背中を流せ』といって、よくあの人(日深)の背中を流させられたものよ」  夫人・政子が椎名法昭に語ったことがある。  日深からすれば、政子は息子の嫁のようなものである。「政子、政子」と平気で呼び捨てにした。  「法玄(日深)が自分の着物のほころびを、妙修に『ここを縫ってくれ』と繕わす雰囲気は、師匠の奥さんに対するものではなく、それはもう男と女の雰囲気であったと、当時「蓮葉庵」に所化として在勤していた老僧から聞いている」(小板橋明英談)  法主の息子という出自によるものだろう。信雄は二十一年四月八日、宗務院書記を命じられ、富士学林助教授となった。  同月十日には、さらに戦災寺院復興助成事務局員を命じられる。主流派のエリートコースに乗ったのである。  この頃、婦人参政権が認められた初の総選挙が行われ、三十五人の女性議員が生まれて話題になった。東京では捨子、浮浪児、孤児が目立ち、食料難からの肉親殺しなどの悲惨な事件も頻発した。  そして極東国際軍事裁判が開かれ、第二次農地改革も進められて、大石寺も広い面積の寺領の土地を失うのである。  混乱の時代だった。人びとは今日を生きるのに精一杯だった。  順風満帆に思えた信雄は、十二月二十五日、突然、宗務院書記を、また二十八日には戦災復興事務局員を相次いで罷免された。年を越して二十二年二月には富士学林助教授も止めさせられた。  彼の身辺にスキャンダルが広がったためだった。それはかつての恋人、蓮成坊の娘川田T子との不倫の噂である。  信雄が政子と結婚するよう母・妙修に迫られ、交際していた蓮成坊の娘・T子に告白したことかあった。前述したように、告白とはいえT子に対する自分の意思を伝えたわけでなく、事実を述べただけで、十八歳のT子には回答できない話だったのだ。一晩、「芙蓉荘」で呑み明し、結局、信雄は母のいうまま政子と結婚した。  「芙蓉荘」で開かれた信雄と政子の結婚式には、塔中の女手が総動員されたが、T子だけはこれから外され、政子の顔も見ていなかった。  ところが半年もしないうちに、日開の葬儀が行われ、これにはT子も参列した。一日遅れで帰宅した信雄は政子とならんで座っていた。それはT子にとって大きなショックだった。  その頃、本山の書院は徴用工員らの宿舎に使われ、工員やその監督、訓練に当たる軍属らが泊まっていた。その指導教官の一人、小倉二市は前々からT子にいい寄っていたが、二人の並ぶ姿を見たその夜、T子は小倉に身を任せたという。  やがてT子は妊娠し小倉と結婚することにする。T子らは小倉の実家のある三重県に引越して、女児を出産する。  心から望んだ結婚ではないだけにしっくりいかず、小倉の態度も冷たい。ついにT子は長女を連れて実家の蓮成坊に帰ってきた。二年余りの月日がたっていた。  ここで復員していた信雄に再会するのである。信雄には政子という妻かおり、信彰という長男も生まれていた。だが政子と結婚する前から交際していた女性でもあり、場合によっては結婚していたかもしれないというかつての恋人、そしていまは、里帰り中の人妻である。二人はたちまち深い関係になったという。  が、困ったことになった。T子が妊娠したのである。時期的にみても誰の子どもかは明らかだった。T子は処置に困った。信雄には妻子もいる。現在のように簡単に中絶できる時代ではなかった。  T子は無謀にも、近くの潤井川に何度も飛び込み、体を冷やして、胎児を処分しようと図ったと、当時を知る人は証言するが、T子の告白によると、「飛び込んだのは川ではなく土手からだ」という。  この姿も目撃され、スキャンダルはたちまち広がっていく。胎児の親が誰かは隠しようもない。T子の父・利道は本山の外事部主任だったが、この不始末に怒った。T子が生後八ヵ月のときにその母は死亡、利道は男手で彼女を育ててきたのである。  当然、事情を宗務院に申し立てたことだろう。そして「不届きな行為」として信雄は宗務院書記などの罷免処分を受けたと思われる。突然の罷免はこの懲罰とみていいだろう。  T子も本山に居づらくなった。利道とスミという再婚した後妻との間には、三人目の子どもができかかっていた。このような蓮成坊にはもういられない。T子は身篭もったまま、また三重に戻って小倉と生活することになった。  日顕法主の「隠し子事件」  こうした結末で信雄はしばらく逼塞を余儀なくされるが、五月十三日には、東京・本行寺住職の辞令が出るのである。  本行寺も戦災で焼け、復興が急がれていた。信雄に寺再建の苦労をさせようという本山の意向だったのだろうか。  T子は不幸な生活を送ることになった。夫からは責められ、泣いてばかりいたという。  九月、女児を出産、N子と名付けられた。T子と小倉は女ばかり五人の子どもをもうけ るのだが、N子だけは他の姉妹と顔付きが違い、それがまた小倉のT子を責めるタネになった。  「ほんとに信雄さんとそっくりな子が生まれてきちゃったの、まわりも似ているというし、自分でもビックリでした」(T子の証言)  結局、昭和六十一年、T子は小倉と離婚している。  これが後に表面化する日顕法主の「隠し子事件」なのだが、N子と日顕の交流はまったくない。ただ一度、N子にはこんな思い出があるという。  小学校二年生のころ、学校の休みにN子は本山に帰り、義理の祖母スミに連れられて、蓮葉庵に遊びにいった。そこに偶然、日顕がやってきた。  妙な雰囲気になったが、スミが「これがN子ですよ」というと、日顕は少女をじっと見て「そうか、おまえがN子か。こんな大きくなって」と目に涙を滲ませたというのである。  そんななかで日達上人はN子に目をかけ、「N子、N子」としばしば菓子などを与えた。後に、日達上人はN子に、「おまえの実家は蓮葉庵なのだから、なにか困ったことがあったらいつでも庵に帰っておいで」といっていたほどだった。  さて、N子は中学校を終えると、東京・新宿区坂町で日本舞踊の教師をする花柳昌太朗の内弟子となる。昌太朗は法華講員で、弟子入りは日達の紹介だった。N子は都立竹早高校夜間部を卒業して、NHKに勤めたこともあったが、その後、ある新聞社のカメラマンと結婚、夫の借金が原因で離婚し、やがて不動産業をいとなむ現夫と再婚している。  若い頃の心ない過ちとはいえ、その行為は、T子をはじめいろいろな人間にさまざまな運命をもたらしたことになる。罪深い業のなせるわざか――。  妙修尼にとって思い出となった「蓮葉庵」は、阿部一家が上京した後、吉田義誠夫婦が住んでいた。妙修尼と政子は引越しの際、電灯のソケットまで外して持っていき、吉田一家を困らせたという。  その後、T子の父の川田利道が死亡し、後妻との子どもがまだ小さかったので、未亡人は三人の子とここに住んだ。日昇法主が隠居所として川田一家と共同で使用したこともあった。ときどき顔をみせたN子は日昇にも可愛がられた。誰もがこの少女の哀れな素性を知っていたせいだろう。  男と女との葛藤はここにもつねにウズを巻いていたのである。  僧侶たちの酒と女遊び  本山の周辺もけっして清浄な領域ではなかった。明治時代から僧侶相手の遊び場がちゃんと存在していたのである。  この実態は当時の僧侶たちの生活を知る上で、興味ある資料にもなるだろう。  宗務院の左手にある「三幸旅館」は、かつて「牛や」という汚い呑み屋だった。小部屋も多く、連れ込み旅館風に作られていて、女中が酒の酌をしたり、セックスの相手もしていた。ここは若い僧たちの溜り場になっていた。名前だけは、その後、「三幸」となったが内容は変わりない。  日顕とその仲間もよく寂日坊に集まっては酒を飲んでいたが、飲み足りないと、きまってこの「三幸」に繰り出し、ときには富士宮から芸者を呼んだりしていた。  さらにもう一軒、遊び場が増えた。昭和十年頃、三門の再建に谷平という宮大工がやってきた。周辺は畑ばかりである。ここで「三幸」が僧たちで賑わい、繁盛しているのに目をつけた。  谷平の妻は芸者上がりで、しばらくして三門の前に芸者置屋のような「芙蓉荘」という店を作った。  今の三門のところが川になっていて、滝があった。川の流れが急なので、ときどき土手が崩れたりする。そこで富士山の溶岩を集めて土台を造り、そこに自宅兼用の二階建の小料理屋にしたのである。  もともと大工だから器用なもので、渡り廊下をつけたり、小部屋を配置したり、僧たちがハチ合せしないように工夫もされていた。  女たちは富士宮の色街から集められて、いつも三、四人はおり、夏になると、着物の襟を抜いて肩のあたりまで肌を出した女が、店先にたむろしていた。中にはカツラをかぶっている者もいて、どこか隠微な雰囲気だったという。  三門の横の売店にはうなぎ屋もあった。その頃、うなぎは高級品で、地味な地元では食べる者はいない。客は坊主ばかりで、注文があるとうなぎを裂き、タレをつけて焼く。それが珍しいと地元の子どもたちはよく見にいったものだった。出来上がると、髪を高く結った店の女将が寺に届けに行く。  地元の農民たちは「坊主がうなぎを食べて精をつけ、芙蓉荘に行って遊ぶのだ。大石寺の僧はみんななまぐさ坊主だ」と、冷やかに眺めていた。  昭和三十五、六年まであったが、大石寺に登山者が多くなるにつれ、信者の目があるため、僧たちもここで遊ぶ者は少なくなったというのである。  むろん性病にかかる僧もいた。が、これらは本山暗黙の遊び場で、当時の宗門の、風紀についての対応の姿勢を示すものといえよう。  昭和三十九年、四十三歳になった信雄は熱海の芸者と深い仲になる。氏名は明らかにされていないが、彼女はいかにも粋筋の女という感じだったという。  信雄はこの芸者に夢中になった。ついには政子と離婚して女と再婚するといい出すほどであった。このときばかりは、妙修尼も本気に怒った。  妙修尼は引き下がらず、信雄と言い争いになった。信雄はふてくされ、母・妙修に「出ていけ!」と暴言を吐く始末。  妙修尼はついに腹を立てて寺を出、日開の子飼いの弟子の久保川法章が住職をする八戸市の玄中寺に半年以上も身を寄せて抵抗したのであった。  政子はやはり黙って見守るだけであった。「女は三界に家なし」、この言葉をしみじみと噛みしめたことだろう。子連れの自分にはもう帰るところはない。ただ辛抱するばかりだ。信雄は飽きっぽい性格だから、解決は時間にまかせておくほかはない。 第六章 法主のパイプカット 〈証言11〉  「地方の僧侶が上京するとかならず本行寺に寄っていくんです。というのも寺に来ると相手に合わせて、キャバレー好きの人はキャバレー、待合好みは待合と、相手に合わせて猊下に遊びに連れてってもらったようです」 (日顕の兄弟弟子・中島法信) 〈証言12〉  「信雄さんがパイプカットをしたという話は、当時、常泉寺の所化をしていた岩波法円さんから聞きました」(日顕の兄弟弟子・小板橋明英)  宗門の階段を順調に登る  戦後当時、宗門は主要都市の寺院二十ヵ寺を戦災で失っていた。これは全寺院の十五パーセントにあたり、信徒は離散して、実状もつかめない有様だった。  信雄と久保川法章、阿部法胤の三人が宗務院に呼び出され、任地を伝えられた。  信雄は本行寺、法胤は北海道・小樽の妙照寺、久保川は福島県会津の妙福寺。  本行寺はもともと、名門の常泉寺の付属寺院(塔中坊)とでもいうべきもので、所属する信徒も多く、しかも有力な檀家がいて、焼失した寺の建物さえできれば経営は楽なところだった。その上、資材は本山の木材が支給されるという好条件に恵まれていたのである。  妙照寺は戦災にも合わず、相当数の信者もおり、檀家もそろっているので、経営はまずまず。妙福寺は檀家が二十軒ばかりで、寺の維持には相当の厳しさが予想されていたのだった。  本行寺は現在、言問通りをへだてて、向島一丁目(本行寺)と向島三丁目(常泉寺)に番地も分かれ、別寺院として独立しているが、むかしは常泉寺の地続きであった。  焼失した本行寺を再建することが、信雄に与えられた任務である。とりあえず一年間は妙修尼、政子らは「蓮葉庵」に残り、信雄だけが単身常泉寺の執事として赴任することになった。  この年の五月、新憲法が公布され、社会党の片山内閣が成立した。日本は苦難の中にも、ようやく新生への一歩を踏み出していた。  信雄にも名誉回復の気持ちがあったと思われるが、本行寺は檀家も多く、「一日も早くお寺を」という気前のいい下町的な気風にも支えられて、再建計画は急ピッチで進んだ。  本行寺には「信行講」という講があり、その講員に岩波法円という男がいた。岩波は後に得度してこの名を名乗り、僧として常泉寺に在勤することになるのだが、もともとは事業家で、戦前、パーマネント機械の輸入で巨万の富を築いた男である。本行寺は財政的には安心感があった。再建の材木は本山にまかせればよく、最低の資金で建立ができるのである。  こうした好条件によって、新寺院は昭和二十四年には完成したのである。  宗門末寺の経理を握る  いつの頃からかハッキリしないが、本山の本境坊に野坂慈奘の法名で所化として勤めていた政子の弟・野坂昭夫が、還俗した。  昭和十四年二月、九歳で得度したのだが、上下の身分差別が厳しく、軍隊の内務班のようなリンチや暴力がまかり通る封建的な宗門の体質に、とうとう辛抱できなくなったのだろう。  還俗とは、いうまでもなく一度入った出家集団をすてて俗人の生活に戻るもので、宗門では最大の謗法、仏の心に背くものとされていた。「還俗者は地獄に落ちる。当人だけでなく家族も同じ罪で地獄落ちとなる。いや、孫子七代まで地獄落ちになるのだ。これまでに還俗してまともに生きた者はいない。生き恥をさらすことになるのだ」と宗門は厳しく押えつけていた。  昭夫は還俗して、母・あいの両親が住んでいた神奈川県茅ヶ崎に帰った。そのあと、政子からの仕送りと信彰の家庭教師などで、苦学して明治大学を卒業した。「証券会社に勤めたこともあり、経理事務にくわしく、語学も得意」というのが当人の自己PRだが、実際は小さな貿易会社の経理課に勤めたことがあるだけ。  後に信雄が法主日顕として登座すると、その義弟の立場を利用し、宗門末寺の経理をみることになる。もっとも税理士の免許はないので正式な届け出もなく、看板も出していない。  昭夫は常泉寺をはじめ全国主要二十ヵ寺や西片の東京事務所の経理事務を取扱うことになった。  普通の税理士なら経理帳簿をみる報酬は、一ヵ寺、月当り四、五万円だが、昭夫には毎月十万〜十五万円が支払われていた。これが二十ヵ寺あるのだから、彼の収入はかなりのものであった。しかも無資格なので、各寺はそのまま税務署に申告するわけにはいかない。もう一度、正規の税理士事務所の確認を頼むというバカバカしい二重手間になってしまう。しかしこれも日顕夫婦に対する忠誠の証しなのだから、末寺としてもムダとは知りながらも法主の意向に逆らうことはできない。  そして、これにはもうひとつの側面があった。寺の経理内容が、昭夫を通じて政子にすっかり流れてしまっていたのだ。日顕が各寺の実状を確実に掴み末寺の生殺与奪の権を握ることになってしまった。  政子が昭夫夫婦と北海道・島牧村に父・益雄のルーツ探しに行ったとき、彼はそんな仕事をしていたのだった。  ハンサムでダンディな盛り場の寵児  一年後、妙修尼や政子らが上京して同居をはじめる頃から、信雄は夜の遊びを始めるようになった。夕方になるのを待ちかねるように街に繰出して行く。  銀座や新橋の米進駐軍相手のキャバレーやクラブが日本人客にも開放されて、たちまち信雄の好みの場所になった。  遊び仲間にはこと欠かない。岩波は自他共に認める遊蕩児で、莫大な財産を文字通り“飲み打つ買う”で遣い果たし、最後は寺に逃げこむことになる男だったが、前歴が前歴だけに、信雄はこの年上の岩波を仲間扱いにし、「法円、法円」と呼んでは、一目も二目もおく。こういう遊び人が指南役として側にいるのだから、信雄の遊興にはスジ金が入っていくのである。  夕方、白い法衣を脱ぎ、折目のピンとついたズボンに真白いワイシャツ、洒落たブレザーなどに身を包み、ソフト帽を目深かにかぶって、盛り場の寵児への変身である。寺の下働きの女やホステスたちに「ご住職はハンサムで、とてもダンディ」などといわれると、彼はすっかりいい気分になった。  一般の生活苦をよそに信雄は遊興費にはこと欠かなかった。タクシーを寺の玄関にまで横付けさせ、さっと乗込むという結構な羽振りである。  待合なら築地、根岸、いずれもようやく復興しはじめた一流の格式あるところばかりである。こうしたところではカネを持つだけでなく、相当に遊び慣れた通人でないと相手にされない。これに“合格”したのだから日顕の遊びはけっして半端ではなかった。  「地元、向島で遊んでいた頃、若い芸者に、つけ文を送ったとかもらったとか、とにかく噂になり、以来、地元ではあまり遊ばなくなりました」(当時の常泉寺の所化談)  政子は夫の遊興になに一つ、苦情をいわなかった。黙々と長男の信彰と次に生まれた百合子の面倒をみるだけである。  「蓮葉庵」では永いあいだ、僧侶たちの影の側面を見てきた。彼らがいかに自分勝手で、偽善的な日々を送っているか、残らず見聞きしている。信雄の行動もその同一線上にあるにすぎない。もし嫉妬でもしようものなら、姑の妙修尼からどんな仕打ちを受けるか、これもよく分っている。  そしてなによりも信雄の性格、気性を知り尽くしていた。なにをいってもムダと知っていたのだろう。どんなに苦情をいおうと、泣こうと結局はダダっ子のように自分のやりたいようにするだけだ。そう考えてみると信雄に今更、なにをいうことがあろうか。  妙修尼もまた、腫れものに触れるように信雄を扱っていた。彼女にとって信雄のこのような遊びは、罪悪でも“女犯”でもなかった。僧侶の女性観や女扱いは骨の髄まで知り尽くしている。信雄の遊びは僧侶としてごく当たり前なのである。妙修は次のように考えたのではないか。  遊びは恥かしいことでも、罪でもない。避けねばならないのは過失である。過失とは、妊娠させたり、噂を立てられて川田T子のときのようにスキャンダルになることだ。それさえなければ女遊びは男の甲斐性なのだ。  また、僧侶の世界は上下関係の世界でもある。上が白といえば、黒も白になる。そのためにはノシ上がらなくてはならない。足の引張り合いも盛んだ。だからミスをおかしてはいけない。  ヘマをしないこと、間違ってもあのときのようなヘマは繰り返してはならない。  そして今のうちに信雄の支持者、なにかのときに役に立ち、彼をバックアップしてくれる者をたくさん作っておくこと。宗門で昇進し勢力を伸ばすには、これがいかに大事か、妙修尼はよく知っていた。  難しいことではない。遊び仲間でいい。一緒に飲み食い遊び……それが仲間たちを結束させるのだ。信雄を出世させるためのステップである。カネはなんとかなる。いつか必ず入ってくる。今の遊興費などは先行投資と思えば安いものではないか。妙修尼にとっては、僧侶の世界は自分の掌を指すように分りきっていた。  だから若い僧には「遠慮なく遊びにいらっしゃい」と声をかける。「なにかのときは、信雄さんを頼みますよ。力になってやってくださいね」という一言も忘れない。  こうした母の“協力”もあって、信雄は気前がよかった。若い憎がくると、すぐさま連れ出した。もっとも相手によって行き先を変えた。  キャバレー好きとみると、浅草・六区の「新世界」「ワールド」といったところを選ぶ。料金も大衆的で広いフロアーには多くのホステスがひしめき、脂粉の香りがむせるばかりである。  若い仲間たちが一緒に行くと、信雄はホステスを並べ、「ここからこっちを指名するからサービス満点にしろよ」、などと景気よく振舞う。金払いのいい客だから店でももてる。だからますます楽しい。  芸者なら築地か根岸の花街にする。若い僧侶たちはここで十分に満足する。  「当時、太田慈晁がよく待合に連れていってもらったとうれしそうに話してました」(当時の常泉寺の所化談)  遊びが嵩じてパイプカット  信雄の遊び好きは口コミで伝わる。「誰が行っても気前よく遊ばしてくれる……」、そんな噂が立つ。「好みに合せて、遊ぶ場所も選んでくれるそうだ」  となると地方から上京したら、「ぜひとも本行寺へ」ということになる。「遊びなら本行寺」「遊びたいなら本行寺」――それが合言葉のように広がって行った。  訪ねる僧侶たちは多くなった。目的は同じだから相手をする信雄はますます忙しい。楽しい忙しさである。遊びの舞台もいろいろに変わった。  どこで遊ぶにしろ、女を妊娠させることだけは、注意しなくてはならなかった。  当然、妙修尼はそれとなく信雄に注意したことだろう。  “妊娠だけはさせないようにしよう。T子のことで懲りている”  そこで信雄は岩波に相談したといわれている。遊びの裏表に精通し、なんでもござれの岩波は、ようやく日本に入ってきたばかりのパイプカットを信雄に教えた。  「こんな便利なものがあるんだ。手術は痛くもなし、健康にはなんの心配もない。しかもなんの不安もなく遊べる」  そんな岩波の言葉に信雄は飛びついたという。  事実、岩波法円から信雄のパイプカットの話を聞かされた者は大勢いる。他にも、大橋正淳などは、  「あれは昭和四十年頃でした。常泉寺の高野執事長(永済)から『阿部信雄がパイプカットした』という話を聞き、いかにも新し物好きな日顕らしいと思った。『具合はまったくかわらない』とか『医者にカットした証明書を書いてもらった』などという話をはっきり覚えている」  と語っている。  日本ばかりか世界のどこに、パイプカットをした法主がいるだろうか。健康上の理由というならまだしも、“安全な遊び”のためにこんな手術をする男は、俗人にもそう多くない。かりそめにも宗教人でありながら、敢えて実行に移した希有の存在が日顕法主である。  彼はそれを恥じるどころか、むしろ自慢しているのである。  ある僧侶が「とてもあの真似だけはできない。いくら遊び好きとはいえ、あそこまで品格を落せるものか」と辟易するように、露悪的なまでの行動をするのである。  筆にするのもはばかられるが、ある遊び仲間の僧侶は「彼は酒が入ると、ホステスや芸者に平然と自分の局所を出して見せるクセがあるんだ」と証言している。そうなったのももともとは、  〈オレはパイプカットしているんだ。だからなにをしても大丈夫だよ。なに、ウソだって。本当さ。触ってみろよ。ここに小さなコブみたいなゴリゴリがあるだろ。それそれ、それがカットのときのひもの結び目なんだ。カットしている証拠はこれだよ。だからな、安心だから……〉  という具合に女たちを口説くときの口実にしていたのが始まりだという僧侶もいる。  信雄は女性を愛するのではない。心底から好きになるのでもない。女なら誰でもいいのだ。違う女には、また新しい女としての興味を持つ。むろん美人に越したことはないが、とくに美醜は問わない。女は女だし、醜女にはそれなりの面白さがある。こうして数ばかり増えていく。  「男として女への限りない憧れ、ドンファンにはそうした側面があるはずでしょう。ところが日顕にはそれがない。あるのは女への欲望ばかり。だから照れるとか、恥ずかしいとかのためらいはないのです。性のエネルギーが満足されるまで、臆面もなく続けるのです」  日顕をよく知り、ともに遊んだこともある僧侶の話である。  彼をもふくめ若い僧たちには、吉原はもっとも手軽な性の解放地だった。遊廓として長い歴史を持つ吉原も公娼廃止により姿を消し、後に青線という遊び場になるが、当時は「今のうちだ」とばかりに、彼らはしばしば遊びに行った。  そこの女たちにも、入信してご授戒を受けに来る者もいる。そしていつかの相い方が坊主であったことを知り驚く。  スネに傷のある坊主はご授戒の願い書の住所に「吉原」と書いてあると、儀式の担当を別の者に回したという。そして吉原地域の入信希望者は敬遠されるようになったというのである。  若い僧侶たちは夜遅くまで吉原で遊び、寺に帰る。もう門は閉まっているので、隣接する大島病院の塀を乗越えて、やっと寺に戻ってくる。塀を越えるとき、病院の入口に積んである薬の箱を踏み台に使うので、たいへん迷惑だと、しばしば病院から苦情がきたものだった。僧侶とも思えぬ無頼な生活をしていたことが分る。  マージャン好きの妙修尼  遊びを先取りすることに、妙修尼も一役買った。それは僧侶たちの間にマージャンを流行させることだった。現在こそマージャンは大衆化して家庭にも普及しているが、戦前、戦中はむろんのこと、戦後になっても、まだ一部の愛好家の間だけに限られていた。健全な場所や家庭には入り込めず、むしろ白眼視されていた。妙修尼はそのマージャンを、本来ならもっとも縁遠いはずの寺院に持ち込んだのである。  「藤本信恭も『マージャンは本行寺で妙修さんから教わった』と言ってたけど、宗門のマージャンは妙修さんが教えたのが始まりなんです」(大橋正淳談)  「煙草をくわえ、立て膝でマージャン卓を囲みながら、チーとかポンとかいっていた姿が目に浮かぶ」  元同寺に在勤した僧の話だが、妙修尼は剃りあげた頭をテラテラに光らせ、夢中になってマージャンに興じていた。  この席には、岩波や若い所化たちに混じって政子も加わっていた。それでも人数がたりない場合はすぐさま向かいの常泉寺に手のあいている者を呼びに行くというありさまだった。  部屋にはタバコの煙が充満し、賭け金があちらへこちらへと動き、酒のコップや店屋ものの丼などが並んで積み上げられていた。なかには座布団を二つ折にして枕代わりに寝ている者もいた。  とても寺の一室とは思えない。ヤクザの賭場のようなこの上なく頽廃した姿だった。法衣のまま、裾をからげて「チー、ポン、上がった」などと叫んでいる姿は、無頼そのものだった。そうしたウズの中心者が妙修尼だった。  当時、使命感に燃えた創価学会員はひたすら折伏に走り回っていた。しかし肝心の僧侶たちは、ただただマージャンにうつつを抜かしていたというしかない。  現在でも、この寺でのマージャン熱は盛んである。二つの寺の勤務僧たちは、毎晩のように行ったり来たりしながら、血道をあげている。勤行題目はそっちのけで、仏道修業はすなわちマージャン修業、その先鞭をつけたのが妙修尼だったのである。  この頃、向かいの常泉寺に、高野日深が赴任してきた。今度は住職である。昭和三十一年三月二十五日のことであった。  妙修はよく常泉寺に行き、花を活けたり、砂絵を造って飾ったという。  「妙修さんは日深上人を『旦那さん、旦那さん』と呼んで、暇さえあれば常泉寺に入り浸っていました、長火鉢の前でふたりでベッタリ話し込んでいることが多かったですね」(当時の常泉寺の所化談)  この頃の日深は渋谷、円山町で「堀池」という連れ込み旅館をやっていた未亡人を愛人にしていた。  妙修同様、彼女も常泉寺によく出入りしていた。  彼女が日深の愛人であることを知っている妙修は堀池の女将さんが来るとイライラしていたという。  でも、自分が日深に惚れていることを悟られまいとして「女に貢がせて、悪い人だよ。まったく!」とワザと日深の悪口をいっていたが、誰もが妙修のヤキモチに気付いていた。  このような日々を送りながらも、信雄は昇進の道を歩いた。三十年五月二十四日には選挙により宗会議員に初当選する。日頃の遊興作戦が功を奏したのだろう。  「気っ風がいい、金離れがいい、その上、遊びが大胆だ」という褒め言葉とも悪口ともつかぬ信雄評が、宗門に蔓延していたのである。  まもなく宗門の会計監査員も命じられる。このことによって本山がいかに金回りがいいか、創価学会員や信徒からいかに供養の金が流れ込んでくるか、十二分に知らされるのである。  前代未聞のスキャンダル「シアトル事件」  この本行寺時代の信雄の最大の失敗は、アメリカでの初の海外出張御授戒のさい、シアトル市で起こした売春婦とのトラブル、いわゆる「シアトル事件」だろう。  信雄は口さがない人間だけに、自分の遊興の数々を露悪的なほど平気で他人に語り、あえて自慢するほどだったが、さすがにこの「シアトル事件」だけは極秘にしていた。  それが宗門問題の余波で、平成四年六月、突然、暴露されてしまったのである。  まさに旧悪露顕というほかはない。この内容は創価学会員ばかりでなく、全宗門関係者をも唖然とさせたのである。  ロサンゼルス・ガーデナ市在住のヒロエ・クロウ夫人は、長い間、胸の底に秘めていた問題をどう扱ったらいいか、悩んでいた。  それは日顕、当時の信雄をめぐる想像外のスキャンダルだった。  事件の発生以来、日顕の妻・政子の名前で日本の歳暮の時期にはきまって高価な品物が届いていた。これが口止め、口封じの意味を持つことにはもちろん気づいていた。  これまでは尊敬すべき宗門の法主の失態だけに、口が裂けても他言はしないつもりだった。しかし日顕は学会を破門したのである。もはやこれまでと、クロウ夫人は意を決して内容を公表することに踏みきった。  事件はさる三十八年三月二十日深夜から翌日未明にかけて起こった。  当時の教学部長の阿部信雄と現教学部長の大村寿顕の二人は、宗門の期待を担ってアメリカに出発した。  宗門を代表して、初の海外出張御授戒の儀式をとり行なうためである。これは「宗史に輝く壮挙」(聖教新聞の見出しから)であった。  信雄は出発前、見送り人を前に頬を紅潮させて、「将来のアメリカ広布達成の基となるよう、宗門を代表する僧侶として、心を引き締め、立派に使命を遂行して参ります」と語っている。  信雄と大村はハワイを振り出しに、御授戒の旅を始め、ロサンゼルスで北回り、南回りに別れ、それぞれ東海岸に向かった。信雄は北回りで、次の目的地のシアトルに入ったのである。  シアトル地域の学会員は喜びに溢れて信雄を迎えた。御授戒は九十六人を対象に行われ、信雄も「今後一層、精進を重ねるように」などと殊勝に説法したのであった。  終わって緊張がとけ、信雄の接待にあたった婦人部員からも冗談が飛出すようになった。信雄もすっかりくつろいでいた。  懇談も終わり、クロウ夫人は午後十時、オリンピック・ホテル(現フォー・シーズンズ・オリンピック)に車で案内した。そしてもしなにか困ったことが起きたときのために、その夜の宿泊先の電話番号をメモして信雄に渡した。  宿泊先の友人宅に戻った夫人は肩の荷を下ろす間もなく、翌日の朝食の手配、シカゴ行きの準備にとりかかった。  午前二時を回った頃だったろうか。突如、電話が鳴り響いた。いぶかりながら受話器を取る夫人の耳に警察官の声が響いた。  「売春宿と思われる場所の前で、日本人男性が売春婦とトラブルを起こした。本人に事情を聞いても、英語が通ぜず要領をえない。ところが男があなたの電話番号のメモを持っていたので連絡した。すぐ来てもらいたい」  寝耳に水とはまさにこのことだった。わずか数時間前、自分がホテルに送り届けた宗門の高僧が、まさかそんなところに。なにかの間違いではないか。  とは思ってもほっておけない。現場にかけつけた。シアトルのダウンタウンは、長年活動で通い慣れていた。警察官にいわれた場所がいかがわしいところであることはすぐ分かった。見ると、道路ぎわに駐車したパトカーのそばで、二人の警察官の足元に、男が泣きじゃくって座りこんでいるではないか。たしかに信雄だった。  一体、これはどうしたことか。つい先刻、白銀の袈裟に身を包み、重々しく御授戒の儀式をしていた人物が、いまこんなおぞましい場所で、ひと目もはばからず泣き崩れていようとは。彼女は呆然自失、しばし思考も停止したのだった。駆けつけるなり、「どうしたんですか」と声をかけた。  信雄は警察に連行される直前だった。夫人は「この人は、日本から来られた高僧で、法律を犯すような人ではありません。言葉が分らぬための誤解だと思います。私がすべての責任を負います」と警官に懇願、警察署での信雄の事情聴取を避けえた。  ここはダウンタウン。七番街付近の歓楽街で、怪しげなバーや一、二階建ての安ホテル、ストリップ劇場などが並んでいるところである。日暮れとともにあちこちに街娼が立っている。  明らかに売春婦と思われる二人の女たちの証言は、こうであったといわれている。  「夜更け、英語のまったく分らない日本人がやってきた。カメラを持ち、Aに身振り手振りのジェスチャーで、“金を払うから、ぜひともヌード写真を撮らせてくれ”という。  希望通りに写真を撮らせた。  そこにBが来て男を誘い、実際の行為に及んだ。トラブルはその料金をめぐって起こった。  男は意味不明なことを口走りながら、手にしたカメラを振り回し二人を追い払おうとした……」  そこに警察のパトカーが通りかかった。警官は坊主頭の男がカメラを振り回して暴れている姿を目撃する。この国では坊主頭の人間は刑務所の囚人と、まず思われる。何事だろうか。パトカーは急停車し、警官が降りてきた。  クロウ夫人にとってはまさに悪夢としかいいようがない。警官の言葉には筋が通っている。信雄は弁解じみた口調で、「夜景がきれいだったので歩いてみようと思い、ホテルを出たら道に迷ってしまって」と。  とにかくふたたび信雄を連れてホテルヘ戻った。その後、彼女は信雄の身元保証人として警察に出頭した。彼女は警察から説明を求められ、いくつかの書類にサインをしたが、その後、彼女は信雄の呼び名は「のぶお」ではなく、「しんのう」であることをこの事件を通して知るのである。  これが「シアトル事件」の概要である。さらにつけ加えると日顕の人物を知るエピソードがこのあとにも――。  事件の翌日も、彼は貝のように押し黙ったまま関係者に見送られ、次の目的地のシカゴにむかった。これにも同行したクロウ夫人の証言によると、機内でたちまち金髪のスチュアーデスの胸や腰に触るという破廉恥な行為を繰り返し、夫人を赤面させ、呆れさせている。  翌日のシカゴでのことである。婦人信徒のひとりリーブマン夫人が「ご尊師は美男子でいらっしやるから、女性にもおもてになるでしょう」といった。アメリカあたりではなんでもない会話で、このリーブマン夫人も軽い気持ちでいったのだろう。突然、信雄は「ハッハッハツ」と高笑いし、よくぞいってくれたとばかりの上機嫌な表情をした。  その場にいたクロウ夫人は少々、はしたないと思ったのか、「でも、われわれと違って聖職にお在りの身だから」とたしなめるように言葉をはさんだが、信雄はなんと右手の小指を突き出し、「なぁ〜に、私にだって人並みにコレがいますよ」と言ったのである。  話を前に進めよう――。事件から一ヵ月半ほどたった五月三日、クロウ夫人は東京・日大講堂(当時)で開かれた学会本部総会にアメリカ代表の一人として参加、そこであの信雄と再会するのである。  総会終了後、臨席していた日達上人は、彼女を控室に招き、信雄を脇に置いてこう語った。  「シアトルではいろいろご面倒をおかけしましたね。私はこれ(信雄)のことはよく知っているのです」  その瞬間、座っていた信雄は弾かれたように立上がり、顔面蒼白になって夫人に深々と頭を下げたのである。  信雄が日達上人になんと報告したのかわからない。しかし警察沙汰になったのは隠しようもない。後日、なんらか問題になることを予測し、適当に弁明しておいたのだろう。  いらい毎年、政子の名前で夫人あてにきまってお歳暮が届くようになったのである。  夫人の娘の結婚式のときは、阿部の名前で祝いの品が届く。娘には「星月菩提珠」、夫人には数十万円もする高価なインド翡翠の念珠であった。普通では考えられぬ高価なプレゼントである。これからみても、日顕がシアトルのスキャンダルをいかに隠蔽しようと、口止めに汲々としていたかがわかる。  クロウ夫人をウソつき呼ばわり  秘密にされていたこの不祥事は、平成四年六月十七日付の『創価新報』に掲載され、たちまち世界各国の信徒から、非難の十字砲火を浴びることになる。「聖職者、いや人間としても許されぬ行為だ」「宗教においては、聖職者の行動と人格は、その宗教の規範を代表する。日顕ははじめから聖職者としてのあるべき姿を失っていたのだ」などという厳しい批判にさらされた。  日顕と宗門は「人の噂も七十五日」とばかり、ひたすら沈黙作戦を通したが、内外からの厳しいブーイングに宗門は宗務院通達で「まったく事実無根の虚偽の事柄を捏造」と通告、また機関誌『大白法』に「御法主上人猊下より、今回、そのような事実は全くないことの御言葉を仰せ頂いた」という記事を掲載し、全面的に否認してみせた。  こうした日顕の無反省な態度に、クロウ夫人はあえてその全容を明示することを決意、詳細な供述書を作成し、バックリン弁護士を代理人として、日顕にあてて「みずから真実を語るべきだ」という通告書を突きつけた。  しかし日顕はシラを切り通した。  間もなく行われた目通りの席で、日顕は僧侶たちに向かってこううそぶいたのである。  まず皆の顔を見渡して、  「まあ、何かみんな人の顔を見て、エヘッ、何か言いたそうだが(笑)、たぶん、やったこととしては確かに、まー、ひどいことだけれども、だ、世間じゃ……あのー、私以外の者だよ(笑)。エヘッ、まー、宗門の僧侶は(笑いながら)ないだろうけれども、世間ではある、よくある、あんなものはね」  いやしくも法主として、この下品な言葉はどう考えるべきだろうか。歯切れの悪い最低の弁解である。これを聞いている僧侶も僧侶、ただヘラヘラと追従の笑いを浮べるだけである。  そして日顕は最後に、「みんな、笑ってばかりいないで、何かきちんと義憤に燃えたような顔で帰ってよ」。  宗門としてもなんらかの対抗策を講じねばならない。日顕の長男・阿部信彰(東京・大修寺住職)ら六人を現地に派遣し、なんと“現場検証”を行ったのである。三十年も前の事件に検証もないものだが、せめてなんらかの反証の手掛りでも欲しいと思ったのだろう。  日顕はもはや否認を続けるしかなかった。ついには公然と夫人をウソつき呼ばわりしたのである。  夫人はついに日顕と宗門、関係団体を名誉毀損で提訴、現在なお審理が進められている。 第七章 贅沢三昧とご乱行 〈証言13〉  「黒人女だけは手を出さんほうがいい。あれはあまり良くないんだ、日本人には具合が悪い。病気を感染されてどうしようもなくなるぞ。止した方がいい」(昭和五十八年四月、工藤玄英がロサンゼルス赴任の挨拶に、目通りした際にアメリカ赴任の心得として日顕が語った)  偽装の夫婦?  日達上人は、東京と並んで京都を重視していた。「京都は学問の府であり、所化たちを東京ばかりでなく京都でも勉強させたい」という意向だった。  京都遊学には所化たちの寄宿する場所も必要となる。  そこで創価学会に「京都に寺を作っていただきたい」と、強く要請したのである。学会も快くこれに応え、平安寺が建立された。  伝統的な伽藍様式にこだわらず、モダンなスタイルだが、品格があり機能的な三階建ての寺院建築になった。  この平安寺の住職に信雄が任命されたのは、昭和三十八年の四月で、東京・本行寺に赴任してから十六年がたっていた。  信雄にとっては遊興三昧の東京生活だったが、日開元法主の息子であり、代々宗門の家系という出自が効果を発揮して、三十六年には教学部長にも任ぜられていたのである。  彼が昇進する過程は、創価学会の外護によって、宗門そのものが大きく発展した歴史と重なっている。  戦後、衰退と疲弊のドン底にあった宗門は戸田二代会長が指揮する創価学会の団体登山(参詣)をはじめ、膨大な寄進によって成し遂げられた境内の大改革、整備、農地解放で失った土地の再取得、各坊建物の建設、造営など、全宗教界が驚愕するほどの急速な隆盛を見せたのである。宗門にとっては未曾有の上げ潮であった。  当時、人材払底の宗門にあっては、大学卒の学歴を持つ者はごく少なく、大学卒の肩書きを持つ信雄は必然的に昇進していった。  信雄の平安寺での生活は、東京・本行寺とまったく同様に遊興に明け暮れたといっていいだろう。  教学部長という要職は彼の遊びの舞台をさらに広くした。この肩書きで落慶法要などに行き、その先々の宴会では、気に入った芸者がいるとどこかに姿を消すこともあったという。  政子は東京での生活の延長のように、地味な目立たぬ暮らしだった。信雄はさまざまな女を見ているだけに、本山から京都に帰ったりすると、政子に「もっとマシな服装をしろ」などといったという。しかし彼女は妙修尼の手前それどころではなかった。相変わらずの服で、所化だちと掃除などに没頭していたという。  ある平安寺の近くの人はこう当時の模様を語る。  「住職の奥さん? あまり表にも出ず、人目にもつかなかった。いつも所化さんたちとバタバタ忙しそうに、寺内を走り回っていた。キリリと緊張したような顔付だったな。外出するときも、そういっては悪いが、着たきり雀だったよ」  後年の政子とは大違いである。本来、寺の家計や台所は住職の妻が管理するものだが、この頃はまだ寺の実権は妙修尼が握っていたのである。  信雄はまさに傍若無人のように振舞っていた。  「ある住職から聞いた話ですが、『信雄・政子夫婦は偽装夫婦だ。妙修尼の手前、二人で一緒に出掛けても、行く先は別々。旅行に行くように見せかけて、信雄はそのまま女の所へ。滞在が数週間になったこともあった。その間、政子は信雄から“おまえも自由にしていろ”といわれ、鈍行列車で北海道などに一人で行ったりしていた。信雄が帰るときに、駅で政子と落ち合いまた寺に戻っていた』と聞いたことがあります」(小板橋明英談)  日顕法主のごひいきの店  信雄は本行寺時代に、向島の芸者に手紙を出し、それが噂になって困ったことがあり、それに懲りたせいか、平安寺でもはじめは京都で遊ばず、もっぱら大阪に通っていた。  大阪・ミナミの千日前のアルサロ「夢の国」は好きな店の一つだった。東京・浅草の「新世界」などと同様に、気軽で大衆的なところが気にいったのだろう。  千日前の千日前会館の隣り、敷島シネマの向かいに大きな雑居ビルがあり、そのビルの地下に「夢の国」はあった。当時はかなり人気のある有名な店だった。  しかしいつまでも大阪ばかり行っていられない。だんだん大胆にもなり、京都でも遊ぶようになる。  信雄が京都在任中、彼やその仲間が利用し、また後に法主となってからも使った店をリストアップしてみよう。 ●待合(貸し席)「宮城野」  ここをしばしば使うようになる。かつては風呂付きの部屋もあり、信雄は下河原から芸者を呼んだこともある。 ●お茶屋「祝」  信雄がひいきにしていた。姉妹店に「小朱」というお茶屋もあり、日蓮正宗で葬式を出したことで祗園では有名になった。 ●高級クラブ「千子」(祗園)  ママは元芸者だった。後に興福寺(広島)の青山聴瑩の父の葬儀の帰途、雪のため京都に下車して、ロイヤルホテルに宿泊。信雄は同行していた奥番の西村に「今夜はどこかに行ってこい」と十万円を渡し、一人でこのクラブヘ。このクラブは二階があり、会員制。高級感が好きだったようだ。 ●「招福楼」(八日市市)  啓道寺(草津)の法要の前日、彦根芸者を呼んでどんちゃん騒ぎをしている。  大村寿顕(笠原建道の岳父)、早瀬義雄が日顕の歓心をかうために接待した。 ●高級料亭「和久伝」  信雄はここの“かに料理”が大変、気にいり、案内者に「君もすみにおけないね」と上機嫌でいっている。 ●「かのこ本店」(四条河原町)  信雄はすき焼きを好み、中心となってしばしば宴会も。店を借切ったこともある。 ●寿司、料理「なか一」  世雄寺(滋賀)の落慶法要のあとで宴会を開いた。以来ひいきにしている。信雄は五十年ものの泡盛を飲みご機嫌になっていた。 ●スッポン料理「大市」  信雄やそのファミリーもよく利用した。 ●京都の超一流料亭「つる家」  ここは日本の首相と外国の元首と会議の場ともなっているが、信雄、妙修尼、八木信瑩阿部信彰、石井信量らが、よく会食し、「祝」を通して、芸者を呼んで騒いでいた。 ●超高級クラブ「蓼」  平安寺時代、信雄はよく利用している。 ●名古屋の超一流料亭「河文」  近郊の寺の落慶法要などがあると、かならずここを利用。あるときなど、沖縄の舞踊団をわざわざ現地から呼んで大騒ぎしたこともある。信雄はここの女将が気に入り、贔屓にしていた。 ●超一流料亭「吉兆」  京都店は、信雄が平安寺住職時代に出入りした。東京店は、信雄が常泉寺住職となって東京に行ってからよく出入りし、とくに法主となってから、ファミリーや役僧らを引きつれ頻繁に利用している。 ●「萬養軒」  宮内庁御用達のこのフランス料理店で、再三、パーティを開く。 ●旅館「楠荘」  祗園近くにある旅館だが、ここでよく教区会を行なった。会が終わると、何人かがかならず祗園に行くのが通例になっていた。  「一流ホテルで坊さん集めて会食やるのはいいんですが、身内という気やすさもあってか、猊下はすぐに酔っぱらって、イスに掛けたまま、足を組んで食事するんです。羽織、ハカマで足を組んで食事する格好は下品にみえますよ」(能勢宝道談)  「京都・本感寺の法要の前夜、フランス料理店『ラ・ヌーベル・フォンテーヌ』に食事に行ったんです。終わって宿舎のブライトンホテルに戻って、明日の法要のごあいさつに行ったところ、机に足をのせたまま、『ワシはああいう奥さんがいいなあ』と、突然、何を言いだしたのかと思ったら、給仕してくれたその店の奥さんの品定めをするんです。翌朝になってもまだ、『昨日の女性はいいなあ、ウン』って。何を考えているんだろうと思いましたよ」(小板橋明英談)  こうした店のリストをみると、信雄は高級料亭や良いもの好みのように思えるが、こと女相手の遊びとなると、まったく場所を選ばない。  どんな安待合のヤトナ(枕芸者)でも、いっこうに平気なのである。大阪・ミナミのいわゆるピンクサロンにも平然と出入りしていた。通常、芸者遊びなどをすると、体面上でも、ピンサロは敬遠するものなのに、信雄はどこにでも顔を出す。  「一度、札幌の薄野で一緒に歩いているとき、ふっと阿部の姿が消えた。なんだろうと不思議に思っていると、道を歩いている若い女に声をかけるんだ。  『おねえさん、お茶をのまない?』って」  ある老僧は苦笑して語った。 「本山の教学部長という重鎮が、こんなチンピラまがいのことをするのだから。呆れてものもいえない」  本当に常識では考えられない行為をするのだという。  日顕とはこういう男なのだ。「遊びのプロなのだよ」とは、ある老僧の証言である。  不幸な出来事と相変らずの遊興  政子に不幸が見舞った。子宮筋腫で子宮摘出の手術を受けたのである。  これも原因の一つかもしれないが、平安寺時代の信雄はさらに遊びに没頭するようになる。  こうした遊興資金はどう捻出したのだろうか。  「京都の檀家たちは見栄をはらないせいか、ご供養は本行寺の三分の一程度だ。その点は東京の方がよかった。供養の金はどんどん入ってきたものだ」  信雄はいつもこういっていた。そして実際、本山での法主への納付金は、一流寺院にしては低い金額だったという。もっともそうでもしなければ、こうした派手な遊興の費用はとてもまかないきれなかったのではないか。  むろんこうした信雄の主張を否定する僧侶もいる。小板橋明英は、  「まさか、そんなことはない。京都は三ヵ寺しかないのです。東山・住本寺、九条・住本寺、そして西の方は砲山までふくめて平安寺の管轄だった。それ相応の十分な供養があったはずです」  こちらの証言の方が信憑性がある。  もっともこの平安寺の頃、兄弟子だった大阪・広宣寺の須賀法重のところに金を借りにいった話は有名になっている。  人目を避けてか、朝帰りの途中か、朝はやく須賀のところに借金に来た。  須賀が承知して、門の外まで送っていくと、電柱の陰に女が立っていた。  妙修尼は、平安寺の生活には満足していると、多くの人たちに語っている。  夢を託している信雄は、エリートコースに乗り、平安寺の住職で、しかも本山の教学部長の要職につき前途は洋々である。心配なのは遊び好きだが、これは誰もがしていること、ヘマさえなければ致命傷になることはない。パイプカットもしているので、どんな女にも妊娠させる懸念はない。  政子も我慢して裏方として信雄に尽くしているので、目下、家庭が崩壊する心配もなさそうだ。  願望は、いつか信雄が猊座に登ることだが、それも不可能ではない。この頃、日達上人もしばしば京都の平安寺に顔を見せた。昔から妙修尼とは顔なじみで、妙修尼が書道、華道を日達上人に教えていたこともあり、大変、世話になった間柄である。日達上人も地味な性格の政子を気に入っていたらしく、なにやかやと可愛がってくれ、政子も遠慮なく、日達に「おじいちゃん、おじいちゃん」となついている。こういったことも将来にとっては明るい材料となっていたのである。  妙修尼は信雄の身辺につねに細かい配慮をしていた。前述したように、毎朝、信雄を起こし、勤行や唱題を真面目に行うように心を配る。マザコンの表れといわれても仕方がないが、このような手綱をしめることは、妙修尼以外にはできなかったのである。  四十七年ごろから、妙修尼は病床に伏すようになった。老衰で体の不調を訴えた。  あちらこちらに遺言などを書き残しているが、「長い間の労苦も報いられて、ここ京都でもっとも幸福な有難い生活を送っている」などと書かれていた。  四十八年一月十八日、死亡。翌十九日平安寺で葬儀が行われた。「妙修房日成大徳」という。  久保川法章の「妙修尼を偲ぶ」の一文によると、晩年は旅行が好きで、北海道も積極的に見物して歩き、あちこちの寺の住職の妻たちを数人連れて、知床半島を船で一周したこともあるという。  信雄と熱海の芸者の問題で腹を立てたときは家出して、久保川の青森・玄中寺に身を寄せたが、約半年の間、起居を共にしながら、久保川の家族たちに宗門における人間関係の在り方、慣習、日常作法などを教えたという。  波乱の人生に生きた女性だったといえるだろう。  平安寺在任中の信雄は、本山に行くと、その帰りはまっすぐ寺には帰らず、かならず京都・ロイヤルホテルに泊まった。  シャレたブレザーにフラノのズボン、ビジネスバッグ片手という頭さえ見なければ、会社の役員といったスタイルで、ホテルからはすぐ祗園へ。ここでも一流の「祝」など三軒に限られていた。  金遣いは派手で、舞妓、芸妓、仲居の一人一人にお土産と十万円ほどの心付けを配る。大事にされる客であった。あるお茶屋の女将の証言では「特定の女性もおり、隠し子までいるという噂もありました」。  これと同一人かどうかは別として、この頃の信雄には、大阪・宗右衛門町の芸者にたいへん気に入りの女がいた。黒い座敷着が似合う女で、美人だった。信雄は彼女を「クロちゃん、クロちゃん」などと呼び、熱を入れていたという。  のち信雄は東京・常泉寺に赴任し、“クロちゃん”と自由に会えない。そこでしばしば久保川に「クロちゃんはどうしているかな」と聞いていたというのである。 第八章 閨閥づくりの野望 〈証言14〉  「札幌の日正寺の住職・河辺慈篤の奥さんは、『日顕猊下にだってちゃんと“二号さん”がいるのよ。うちのが法主になっていたら、こんどの宗門問題のようなことは起きず、スキャンダル騒ぎにならなかったのに』と、はっきりいっていました」(日正寺の元従業員・滝口悦子) 〈証言15〉  「私は伊豆長岡の高級旅館で働いていましたが、日顕猊下ご夫妻とそのご家族のご宿泊は、誰もが驚くほど豪華なものですよ。  ご夫婦で一泊三十万円、旅館でも最高級のお部屋です。本間、次の間、三の間と三部屋が続き、七百坪もある見事なお庭に面しています。  いらっしゃいますと十万円もする特別懐石料理をお食べになります。十万円ものチップをくださいますので、いいお客様でございました」(旅館の元従業員)  少欲知足と大名遊び  妙修尼が死亡した昭和四十九年の夏、日顕は総監代務者に就任した。  京都平安寺に赴任してから十一年がたっていた。このあいだも着実にエリートの階段を一歩、また一歩と登って行った。  五十二年十一月、名門、東京・常泉寺の住職を命じられ、猊座にさらに一歩近付いた。  五十四年七月二十二日、日達上人が死去、日顕は日蓮正宗第六十七世法主に就任する。とうとう念願を果たしたことになる。  日達法主とのあいだに、法主継承の証である「血脈相承」の儀式があったのか、大いに疑問とされたが、彼は五十三年四月十五日、「法を内付された」と主張、強引に猊座についたのであった。  日顕が登座したとたん、宗門はカネという魔力に取り憑かれるようになった。  宗祖の日蓮大聖人は、三度の食事すら満足にとれないほどの質素な生活をされ、そのなかで、少欲知足という僧侶のあるべき姿勢を説かれた。  ところが現代、清流であるはずの宗門は、全山こぞってただカネ、カネ……バブル経済の標本のような実状に追い込まれた。塔婆の強要・値上げ、祈願の種類の多さは他宗に類をみないほど、その頂点に立つのが日顕法主である。彼の遊興好きは、流れ込むカネにより、限りなく増幅されるのである。  日顕と政子、その一族と取巻きの僧侶たちは、信徒や末寺からのご供養により、贅沢三昧の大名遊びを始めた。  法要、親修などの終了後、あるいは一族の家族慰安などで選ばれる先は、伊豆長岡、修善寺、奥湯河原、熱海、箱根などの高級旅館、東京・赤坂などの超高級料亭、都内の一流ホテル……カネに糸目をつけぬ大盤振舞いとなるのである。  数ある成金遊びのなかから、一例として伊豆長岡「三養荘」のケースを取上げてみよう。  ここは数寄屋造りの純日本建築で、離れ風に部屋が造られ、敷地四万坪。庭だけで五千坪というたいへん贅沢な高級温泉旅館である。  平成二年八月三十日、日顕夫婦、息子の阿部信彰夫婦、側近の石井信量夫婦の六人が入った。三つの部屋をとったが、むろん日顕は最高の部屋で一人一泊十五万円、これに十万円という特別な懐石料理が出される。  むろんこうした旅行の前には、ミスがないようにと、石井信量らが下見をするが、このような一夜の旅行でも数百万円に上る。  同年四月十三日、日顕夫婦はじめ二十数人がみな夫婦連れでやってきた。大宴会場ではカラオケ大会に発展、飲めや歌えやの大騒ぎとなった。娘の早瀬義純の妻・百合子は浴衣で片膝を立て、あられもない姿で酔っぱらっていたといわれる。  五月十五日には日顕夫婦ばかりでなく、早瀬重役(当時)をはじめ早瀬一族、藤本総監や信彰らがいずれも夫婦連れ。六月には日顕夫婦たちが木の箱入りの初物のサクランボを旅館に忘れて帰り、あとで大騒ぎとなったため、従業員たちの記憶に残っている。七月には日顕夫婦が孫を連れてという具合に、毎月のように豪遊をしている。  これは伊豆長岡の「三養荘」だけで、同じ伊豆長岡の「石亭」や、修善寺の「鬼の栖」、箱根の「梅庵」など、毎週のように遊び回っていたのである。  この八月の豪遊の前日、八月二十九日から二日間、大石寺では全国教師講習会が行われ、初日の教師指導会では、二十一項目にのぼる僧侶や寺族の「綱紀・自粛に関する規準」が発表されたばかりだった。  全国各地で僧侶たちの腐敗、堕落の姿があまりにも人目を引き、創価学会や信徒から指摘されて厳しい自粛を求められたため、宗門も受けざるを得ず、対策を新しく制定したのである。  そのいくつかを挙げると、  一、寺族は、常に寺院教会の護持発展のために努力し、宗門の興隆に寄与しなければならない。  二、品行について、少欲知足を旨として、行住座臥に身を慎むこと。  三、服装・装身具等について、僧侶としての品位を汚すものは禁止する。また華美、贅沢なものは慎むこと。寺族の場合もこれに準ずる。  つまり立場を考え、贅沢はするなということである。  しかし伊豆長岡での豪遊は教師講習会が終った、その日のこと、まさに舌の根も乾かぬうちの背信行為である。  もっともらしい「綱紀自粛」など、身内、法類以外の末寺住職やその寺族に守らせるためのものと考えていたのだろう。  指示した当人がその日のうちに違反するのだから、身近にいる宗門中枢の住職たちは従うはずがない。  それにしても日顕の時代になってからの宗門は、とにかく宴会ずくめであった。  昭和六十一年十月三日、日顕の師僧であり、実父ともいわれる高野日深の満山法要(大石寺で日顕を導師とし全僧侶が出席して開かれる)が終了後、伊豆長岡の超高級旅館で遺族遺弟が集り、芸者を上げての大宴会。日顕も「一人一人歌え」と号令をかけ、全員、舞台にあかって大騒ぎになった。  平成元年十月四日の高野日深の十三回忌では、大石寺から東京・帝国ホテルに移って六十人の宴会。その翌日は藤本総監主催の百五十人の宴会が浅草のビューホテルで、多数のコンパニオンも呼ばれて盛大に行われた。  日深の妻の四十九日法要の後は、向島の高級料亭で芸者を集めての宴会。  法要のときばかりでない。昭和五十八年一月七日の日顕還暦内祝は東京のホテルオークラ。六十二年十二月三日の本行寺三百五十周年記念の祝宴は、浅草ビューホテルでコンパニオン多数入りの二百人以上の大パーティ。  平成二年六月二十日の高野日海の能化昇進内祝は帝国ホテルと、毎回、数百万、何千万円単位の信徒の供養が湯水のように浪費されたのである。ほかにも、 ●熱海の高級旅館「小嵐亭」では日顕夫婦、藤本総監夫婦ら八組が投宿。一泊それぞれ十二万五千円の部屋。 ●日顕を含む僧侶八人が那覇市の高級ホテルヘ。一本十五万円のワインを注文し、二時間で四十六万円の豪華ディナーを開く。 ●日顕、香川県の高級ホテルヘ。一泊二十三万四千円。支配人も「はじめての経験」というくらいの贅沢ぶり。 ●松山市の応供寺の落慶入仏式で。日顕夫婦は最高級ホテルで皇族並みの待遇を要求したという。  こうした実例は枚挙にいとまがなく、いかに批判を浴びようとも、かれらは今も平然とこの種の贅沢を続けているのである。  本山の大奥に出入りする美男僧  日顕は大奥に住み、信徒の目からは厳しく隔てられた秘密のベールに包まれた生活をしている。  本山・大客殿の西側に一般信徒が近寄れない大坊、内事部がある。大坊はいわば内閣官房だが、そこから長い廊下を進むと、大奥玄関にぶつかる。ここから先が、大奥の区域で、最高首脳の幹部、日顕の子飼いの数人の弟子、また身の回りの世話をする奥番といわれる二、三人の所化それ以外は誰も入ることは許されない。  二階に八十畳の広さの対面所がある。日顕との面会はすべてここで行われる。室内には日顕専用の机が置かれ、あとはなにもなく、面会者は平伏して彼の登場を待つのである。  玄関の先は奥番、つまり秘書の部屋、台所と続き、二つの客間を過ぎると、いかめしい扉があり、そこからは完全に禁断の場となる。  食事などをする十畳間が二つ並び、廊下を隔てて、予備室、寝室、フロ場、日顕専用の台所がある。  総ガラスなので明るく見晴らしもよく、時代劇の城の内部のような豪華なたたずまいである。  食事は朝、昼、晩の三回、奥番が大坊の食堂で食事担当者がつくった特別食を漆塗りのおかもちに入れて運び、専用の台所で暖め直したりする。  夜はガラスの外側からシャッターが降ろされ、警備は万全である。  日顕の趣味は健康管理とでもいえそうで、健康には異常なほど気をつかうが、信心でというより、さまざまな薬、栄養剤、健康器具に頼っている。  とくに宮城県の気仙沼でとれるマコモ(沼地に自生する多年草)の粉末を愛好し、茶にも風呂にも入れ、風邪ぎみのときはこれでシップするほどの熱の入れ方である。  日顕は女性だけでなく、この頃は稚児好みもあるのか、美男の青年僧をつねに手元に置いている。  心理学者メラニー・クラインは、羨望の深層心理につきまとわれ、心が満たされることのない人間は、性の面でも限りない漁色に走り、たんなる女あさりや乱交から同性愛にまで発展する可能性があると指摘しているが、日顕にもその傾向がでてきたのだろうか……。  本山・対山坊のNは、すでに二十九歳で宗務院の書記を勤め、本来、奥番という年齢ではないが、日顕の愛寵を受け、今でも夜中に電話がかかり、大奥から呼ばれる。日顕は寝そびれたりすると、Nを呼び出し、酒の相手をさせるのである。  「ジイさんは、海苔で酒を飲むのが好きでね。バカ話を聞きながら、遅くまで飲んでいる。しかしバアさん(政子)は、オレがジイさんと飲むのをいやがっている。だから突然、バアさんが来たため、裏口から逃げだしたこともあったよ」  と仲間に語っている。  「いつもの通り呼ばれて、用意しておいた海苔を持って行こうとしたところへまた電話があり、『いま、政子が来たから、今夜は止めだ』といわれたこともある」  なかなか自由にはならないようだ。  こうした愛寵ぶりに当人もすっかりいい気になり、書記の仕事をさぼっても咎めはない。最近では調子に乗って、東京・六本木のホストクラブにも出没、アルバイトもしているのである。  「クラブのママに頼まれ、軽い気持ちで一日だけ手伝う約束だったけれど……、それが ちょくちょくやるようになって……。というのもお客さんから、背広を作ってもらったり、ダンヒルの二十万円もする金時計をもらったり、けっこう楽しいのよ」  ずっしりと重い金時計を仲間に見せたことがある。  このような若い男が身辺にいては、またどんなスキャンダルに発展するかと、政子は心配して、石井信量の妻・ナツ子をときどき大奥に出入りさせては見張りをさせているのだ。  もともと日顕は若い女が好きだった。人前ではことさらいかめしい顔をしてみせても、若い女が現れると、とたんにデレッと相好を崩してしまう。それがあまりにも極端なので、僧侶たちもあきれてしまうほど。  反対に年配の女は大嫌いで、弟子に結婚話が出るとかならず身上書を提出させる。年齢が男より下ならいいが、年上だったりすると「なんだ、これは」と怒り出すのだが、余計なお世話というほかはない。  日本のイメルダ夫人  日顕の贅沢好きは止まることを知らない。彼の着ている普段着の紬は、超一流の歌舞伎役者や金持ち政治家が着ているものと同じく、人間国宝クラスの職人の手による製品で、着物と羽織で一着で二千万円、これの色違いを四着もっている。その上、袴や帯、草履や小物などを加えると、優に一億円。一般から見ると、莫大な財産を身にまとっていることになる。  大橋正淳住職にはこんな思い出がある。  昭和三十年、テレビが普及しはじめた頃、当時、常泉寺の住職だった日淳上人に、所化たちが「テレビを買っていただきたい」と頼んだことがある。そのとき、日淳上人は 「学会員みんながテレビを持てるようになったら、寺でもテレビを入れよう」と答えた。  べつにテレビを買うカネがなかったわけではない。日淳上人には常に布教・折伏をしてくれている学会員と労苦を共にしようという気持ちがあった。それが日顕には全然ないのである。  政子もまたカネの魔性のとりこになった。  日顕やその取巻きの贅沢な遊興に同行するうちに、高級品のショッピングに莫大な散財をするようになった。  とくに平成二年の春から、一ヵ月に数回も藤本日潤総監の妻・禮子、大石寺主任理事、八木信瑩の妻・澄子、同寺理事、石井信量の妻・ナツ子、弟、昭夫の妻・嘉代子ら“日顕ファミリー”を引き連れ、京都への豪華な“おしゃれ旅”を繰り返したのである。  京都に着くと、そのままハイヤーで超高級のオートクチュール店に直行する。ここはブランド物のスーツが一着何百万円という高級品ばかりが並び、客層もきまっているので看板も出ていない店である。  この店の向かい側に外車ディーラーの店があるが、そこの経営者ですら「なんの商売なのでしょうか。運転手付きのベントレー、ロールスロイス、ベンツなどがいつも止まり、見るからに金持ちらしい年配の女性が出入りしています。新興宗教の教祖か占い師でもいるのかと思っていました」といっている。  政子はもともとは、東京・赤坂の皇室御用達のロイヤルブランドの店を愛用していた。ところが注文した洋服が後回しにされたことに腹を立て、京都の美術商の紹介でこの店に代えたのである。  買い方もすさまじい。店員に「ここからここまで」と製品の吊るされた場所を指差す。このなかからまず政子が気にいった品物を好きなだけ選び出す。その残りをファミリーのメンバーたちがまた選ぶ。  購入した高級服は、一度着ると、僧侶たちの妻に気前よくプレゼントしてしまうので、政子の選ぶ品はみな同じような柄、色、素材のものばかり、普通の女性らしいおしゃれの冒険はしない。  こうしてここだけでも一年半で約八千万円も使ったという。  次にかならずエステティック・サロンに行く。これもパーマだけで数万円という高級美容サロンで、美顔、全身美容などをふくめると一回に十数万円はかかる。このオーナーは商売上手な四十代半ばの女性だが、政子を女王のようにもてなす。サロンの店内には、ここかしこに絵画や伊万里、鍋島などの陶器、美術品などが展示され、いずれも驚くほどの価格だが、政子はこともなげに、これらの品も次々に購入するのである。  終わると、サロンの女性オーナーが政子たちを祗園の高級割烹「なか川」などに案内して、ご機嫌をとりむすぶのである。  高級クチュールとエステで一年半で約二億円も散財したといわれる。  東京・三越でも、愉入の洋服類、宝石、装飾品など、平成二年だけでも夫婦で三億円という買物をしている。政子はこうして「日本のイメルダ夫人」というニックネームを受けることになった。  政子に化粧品を売った女性がいる。  その話を聞いてみよう。  「昭和六十年の初めだったでしょうか。ある人の紹介で、阿部政子さんという奥様のお肌の相談をさせていただいたことがあります。  『化粧品が合わないのか、どんな高い化粧品を使っても肌がザラザラしてしまう』というものでした。最初はお電話でのご相談でしたが、次に私どもの化粧品の見本をお持ちしたのです。  文京区のお屋敷に着いたのが夕方でした。もう表札もよく見えず、なかはうかがい知れぬほどの高い塀にかこまれており、「アベ」というのですから、てっきり政治家の安倍晋太郎さんのお屋敷と思ったのです。  お化粧の相談に乗り、奥様も大変、気に入って下さったようで嬉しくなりました。  その後、また連絡をいただき、『近く海外に行くので、お土産にしたいから』と、一万円のセットを二十組、お買上げいただきました。  お金の支払いはすべて現金。振込みはしないということで、西片のお屋敷まで取りに伺いました。お約束の時間に少し遅れましたので、奥様はおられず、行儀見習いのお嬢さんたちが四、五人おりまして、その一人がお金を預かってくれていました。  お金はすべて新しいピン札でした。  『お金のことは世間がうるさいので、金額がわかる振込みはいたしません。お代金のこともけっして口外しないでくださいと、いわれました。  このとき、はじめて本山の阿部日顕法主の奥さんではないかと、ピーンときたのです。  そこで『あの、日蓮正宗の猊下の奥様ですね』と、その娘さんに聞いたのです。  と、逆に『あなたは創価学会さんですか』と聞かれました。『ハイ』と答えました。  そのときは別になんでもなかったのですが、それっきり、ばったりと連絡は途絶えてしまいました。  なんのことか、さっぱり分りませんが、その頃から学会に対して、なにかふくむものがあったのでしようか」  こうした贅沢な生活を学会員には秘密にしておきたかったのだろうか?  二十億円の豪邸  政子の浪費癖は、海外でもいかんなく発揮されていた。  息子の信彰がブラジル・サンパウロ市の一乗寺の住職となったのは、昭和五十五年である。地元信徒の期待をよそに、信彰は行動が衝動的で自分勝手、そのため信徒たちを困惑させていたが、五十七年、「学会が寄進したこの土地は狭くて、オレにふさわしい立派な寺は建てられない。もっと大きな寺にするので、隣の土地を手に入れたい」と云い出した。  建物もふくめ一億円必要だという。信彰は皆の見ている前で日本に電話したという。  こんな会話が政子と交わされた。  「土地を買うので一億円いるのだが……」  「安いじゃあないの。すぐ送るから買いなさいよ」  言葉通り、間もなく日本から一億円の送金があった。政子一族の金力に驚くと同時に、貴重な供養のカネがこんな具合にあっさり処理されてよいものか、信徒たちは唖然とするばかりだったという。  翌五十八年、新しい一乗寺が建立された。落慶式には、日顕夫婦はじめ、藤本総監夫婦、早瀬義雄宗会議長ら取り巻きの役僧が総勢三十六人やってきて、豪華版の親修観光旅行となった。  一行の費用に糸目をつけぬ贅沢さ、気ままさは今でも現地で語り草になっている。  そのわずか四ヵ月後、この旅行で味をしめた政子は義妹など親しい仲間六人と、ふたたびブラジルを訪れた。学会員には内緒の贅沢な観光旅行で、有名なイグアスの滝を見るのも目的の一つだった。  一行はイグアスに向かった。現地は季節外れの豪雨に見舞われ、イグアス―サンパウロ間の航空便は欠航。動きがとれない。どうしても同日中にサンパウロに帰りたい政子は「飛行機がダメならタクシーにするから用意して」と。  イグアス―サンパウロ間は約千百キロ、東京と九州までの距離である。しかも悪路のところも多く、ここをタクシーで走ろうという話は現地でも前代未聞である。その強引さ、カネさえ払えばというやり方に、地元の関係者は驚くばかりだった。  むろんこんな無謀なタクシー運転手はいない。結局、イグアスに泊り、翌日、帰ったのである。  したがって日本での浪費などは、彼女にとってはたかが知れたものであった。  日顕と政子は豪邸建設計画を立てた。目黒区八雲という一等地に予算二十億円(土地代は別)で大石寺東京第二出張所を建築しようというものだった。これはひそかに宗教法人日蓮正宗の寺院建設計画として進められていた。  その青写真によると、地下にはプール、トレーニングルームを備え、茶室十二畳、寝室十畳、仏間十畳、お手伝いの部屋六畳などとなっており、とても寺院とは考えられない。  寝室と仏間が同じ広さの寺などはない。日顕が退座した後の隠居所として計画したことは明らかだった。  宗門問題の表面化によって、計画が外部に漏れたため中止の通達が出されたが、建築計画は政子が中心になり、エステティックの仲間たちにそそのかされて、トレーニングルームやプールを思いついたものといわれている。  目黒の二十億円プール付豪邸は挫折しても日顕夫妻は豪邸にあくまでも執着するのか、今度は東京・世田谷区の一等地に新たに豪邸を購入する計画が進められていることが平成六年二月に発覚した。その全容は明らかになっていないが、目黒の豪邸計画に遜色ないものであろう。その購入費用がどこから出るのか、いま宗内の注目の的となっている。困窮 に苦しむ末寺はますます台所事情が悪化することだろう。   「西片閨閥」づくりにはげむ政子夫人  かつて妙修尼と遊び好きの日顕の下で、ひたすら押えられ、忍従し、自己主張もしなかった政子は、妙修尼の死後、そして日顕が猊座について以来、昔日の反動のように法主の妻の権威と金力を発揮しはじめた。四十七年間、押えつけられた女の怨念を一度に爆発させるような行為となって現れた。  「裏猊下」「裏宗務院」という呼び名が宗門にはある。夫人・政子を指しての呼び方である。  「(宗門内の)次期ポストを狙うなら、猊下に気に入られただけじゃ不十分。裏猊下のお墨付き(気に入られること)を貰わなくちゃ」といわれるほど、宗門内では政子の発言権は大きい。  裏人事に関して、面白い話がある。  渉外部長のポストが、秋元広学に決まったのは、政子の「学ちゃんがいいんじゃない」の一言だったと噂されている。  というのも、以前、秋元が「宝石を買い集めて脱税容疑」という記事を週刊新潮にスッパ抜かれたことがあり、「あの宝石類はじつは猊下夫人にもずいぶん贈っていた」と僧侶のなかで噂になったからだ。  真偽のほどは別にして、宗内には「出世したけりや、西片詣(東京・文京の西片町に大石寺出張所があり、そこに政子夫人が住んでいる)」といわれる風潮があるのは事実。  政子へのご機嫌取りは昔からあった。たとえば、取り立てて学歴や功績があるわけでもないのに、河辺慈篤が四国の末寺から、トントン拍子に出世して、いまでは海外部で幅を利かせているのも「裏宗務院に認められたからだ」と陰口を叩く僧侶もいる。  いまや、政子は日顕法主を意のままに動かし本山の人事にまで口を出している。  それだけではない。  政子は昔から「西片閨閥」づくりをやっていた。  日顕はふだんは本山の大奥に住み、西片の屋敷には政子しかいない。  ところが、ここには常時四〜五人、未婚の女性が「行儀見習い」と称して住み込んでいる。  かつて自分も本山の「蓮葉庵」で行儀見習いを兼ねた下働きとして、日顕の母・妙修尼に仕え、やがて日顕に嫁がされた。  自分か辿った道をいま、政子は西片でやっている。  宗門の寺の娘や法華講の信者の娘を集め、行儀見習いから住職夫人としての心構えなどを教え、それがひと通り終わると、若手僧侶に嫁がせる。  こうして、いままでに二十人余りもの娘たちが西片から僧侶のところへ嫁いでいった。  もちろん、政子の口利きである。  そして、結婚した僧侶は、当初はさほど目立たないがやがて……。  「人事異動で効いてくるんです。ドンドン格が上の寺に移り、うまくすると金庫番にもなれるんです」(椎名法昭談)  「金庫番」とは、現在、日顕法主の金庫番といわれる石井信量の妻・ナツ子が、元は京都・平安寺でお手伝いとして住み込んでいたときに、政子が石井に嫁がせたもの。  これが「西片閨閥」のルーツである。  政子は、ナツ子と一緒になった石井を可愛がり、日顕法主に進言、その効果か「金庫番」に。  これにはもう一つの側面があり、十数年前の「正信会事件」の教訓でもあるという。  「正信会事件」というのは、昭和五十六、七年にかけて日顕法主が、若手を中心とする百八十名もの僧侶を擯斥処分にして宗外に追放してしまった事件である。これらの若手僧侶グループは「正信会」を結成し、一時は二百名以上が参加して、宗門執行部の方針に反逆し、遂には日顕法主は前法主日達から血脈相承を受けていないと主張し、その法主・管長たる地位を否定するようになったのだった。  あの「正信会事件」は男だけの理論でコトが行われた、住職の暴走を止める女房がいたら、日顕法主に反逆する僧侶が二百人も出なかったろう。  そこで、住職を押し止める影響力のある住職夫人の存在が必要になった。  西片閨閥で結婚した僧侶の動向は、僧侶夫人を通して、逐一、政子の耳に入る。  また、そんな彼らを取り立てることによって、他の僧侶もみな西片詣をするようになる。  いつの間にか、日顕法主を取り巻いている側近重役などより、政子を取り巻いている宗務院の妻たちの方が、結束は固い。  豪遊で有名になった「イメルダ買物旅行」に同行するのは藤本総監夫人、八木主任夫人、石井信量夫人、そして大村教学部長の妻まで入っている。  毎年、エルメス、グッチなどの高価なブランド物のハンドバッグや京都の織物屋に織らせた高級反物を六百人余りの住職夫人に送り届けるのも、それなりの効果を考えているからだ。  それに何といっても、政子は宗門の金の出入りを手中に収めている。  政子は日顕法主が登座すると同時に、日顕を通して税理士資格を持たない実弟・昭夫に末寺の会計を見させてくれるよう頼む。  女房に言いなりの法主は弟子・石井信量に命じて、さしたる収入のない田舎の末寺を除いて、主要な寺院の会計をみさせることを約束させた。  実弟・昭夫はこれまで勤めていた貿易会社を止めて寺院会計に専念する。  当初は、実弟の割りのいいアルバイトにしか見えなかった寺院会計も、じつは寺の金の出入りをすべて、弟・昭夫を通して夫人・政子に見せるはめになってしまった。  いまや宗門は政子姉弟によってガッチリと握られてしまった。  政子が唯一、心を許せる相手はもちろん、日顕ではない。  十二歳と九歳で安寿と厨子王のように本山にあずけられた、たったひとりの弟・昭夫である。  事実、いまだにどこに行くにも、この姉弟は一緒である。  あの一九八四年の秋、姉弟で北海道の実家を訪ねて行ったように、いま、果てしなく遠い、それでいて目的地もハッキリしない旅にふたりは出発したともいえる。宗門を道づれにして……。 あとがき  猊座と猊下は別のものである。猊座は犯すべからざるものであるが、そこにつく猊下は人格者もいればそうでない者もいる。これがわれわれの主張である。  パイプカット、愛人騒動、シアトルでのトラブル等々、スキャンダラスな事件の数々、これが普通の人の起こしたことであれば問題にされることはあまりない。しかし、日顕法主は、一大宗教団体の最高リーダー、猊座にある人である。とすればその影響は甚大である。  たとえ猊座にあろうとも、その人の人格によって宗門が誤った方向に向い、多くの人々を混乱に導いているのであれば、厳しく弾可することが宗祖日蓮大聖人の教えに適った行動である。日顕法主の兄弟弟子中、五名までが宗門を離脱したのも、身近にいて法主の現実を知っていたがゆえである。  われわれは、これ以上宗門が汚されていくのを見るに忍びなく、あえて日顕法主とその関係者の複雑なつながりと育ちを公表することにより、誤りの根源を明らかにする方法をとった。宗門を憂うる故である。  この本をまとめるにあたり、取材にあたってくれた方々、また、資料の提出をいただいた多くの宗門の先輩の方々に、再度心よりお礼を申し上げる次第である。 関係資料集 〈資料1〉阿部日顕法主の関係略年譜 大正11年12月19日  彦坂信夫(日顕)生まれる。父日開(48)、母スマ(24) 昭和3年6月2日  父日開、六十世法主     6月23日  彦坂信夫を日開認知(信夫6歳)     8月26日  得道し常泉寺の所化となる(師・桜井仁道)           やがて本山にあがり上野尋常小学校へ転校 昭和10年4月    桜井仁道のいる常在寺の所化となる           駒込の私立本郷中学校に入学     5月    母スマ得道、妙修となる     6月1日  父日開、猊座をおりる 昭和13年2月10日  日開、妙修を入籍。彦坂信夫が阿部信夫へ改姓           政子の弟・野坂昭夫(8)得道し本境寺の所化になる           本郷中学校から静岡・富士中学校へ(信夫) 昭和16年6月9日  彦坂スマから阿部スマヘ改姓(大日蓮) 昭和18年11月21日  日開死去     12月10日  阿部信夫、政子と結婚 昭和19年1月7日  信夫出征、室蘭へ     8月2日  長男信彰生まれる(信夫21、政子17) 昭和21年4月8日  信夫、宗務院書記・富士学林助教授となる       10日  戦災寺院教会復興助成事務局員となる     11月    本山に戻ってきたT子と会う(不倫?)     12月25日  宗務院書記罷免       28日  戦災復興事務局員罷免 昭和22年2月28日  富士学林助教授罷免     5月13日  本行寺住職となる     9月26日  T子、女の子を生む(隠し子の噂) 昭和31年4月28日  信夫を信雄に改名 昭和36年9月1日  本山の教学部長となる 昭和38年4月5日  平安寺住職となる 昭和48年1月18日  妙修尼死去 昭和49年8月1日  総監代務者に就任 昭和52年11月22日  常泉寺の住職となる 昭和54年7月22日  日達上人が死去           第六十七世法主になる 平成2年7月17日  創価学会より宗門へ宗内僧侶の堕落、綱紀の乱脈に自粛を要望     7月20日  学会首脳部を「驕慢謗法」と大声で怒鳴る 平成3年3月16日  宗門より学会へ従来の月例登山会廃止を通告     11月28日  宗門より学会に「破門」通告     11月30日  創価学会、宗門より独立宣言     12月27日  学会から送付された「法主退座要求書」の受け取りを拒否 平成4年6月16日  「日蓮正宗憂宗護法同盟」が結成され、埼玉・妙慧寺の椎名法昭住職から離脱通告           このあと小板橋明英住職らぞくぞく宗門から離脱 平成4年9月17日  シアトル事件に関してヒロエ・クロウ夫人から名誉毀損で提訴される 〈資料2〉日蓮正宗憂宗護法同盟声明書  私たちは、同志の総意をもって、ここに「日蓮正宗憂宗護法同盟」を結成いたします。  現今の宗門の状況を見て、これでよしとする者はただの一人もいないと思います。祖道の回復、僧俗の筋目等と声高に叫んでみても、宗内の現状は、あまりにも宗祖大聖人の本義を忘却し、これを危うくするものと言わざるをえません。果たして宗門はどこへ行こうとしているのか、僧侶たる者のありかたはこれでよいのかと、宗門の未来を思い、誠実に自問し自答するならば、誰もが暗澹たる思いにとらわれるのではないでしょうか。  もはや、私たちは、このまま座して黙するままに時を空しくしてはならないと考えます。猊下にまつわる事柄であるからとして、いたずらに口を閉ざしていることは、現在の状況に鑑みれば、あまりに卑怯未練との謗りを免れないものであるからです。今こそ、私たちを隷従と沈黙の淵につなぐくびきを解き放つべきであると訴えるものです。  今日の宗門のこの救いがたい混迷は、どこにその原因があり、誰にその責任があるのか――私たちは、それは、ひとえに猊下自身の激情、短慮、幼時性、残忍性、独善性、誇大妄想癖という性格の異常性に大きく左右される指導性の狂いがその元凶であると断ずるものであります。このことを否定しうる者はいないと思います。その異常性に気づきつつ、それを諫言できなかった執行部の責任は、まことに大なるものがあると言わなければなりません。  私たちは、今あらためて、「猊下」と「血脈」の本義を問いなおすべきであると思います。  宗門は、古来より、「猊下」に対して「猊座」という表現を用い、「猊下」と「猊座」を明確に立て分けてきております。すなわち、宗開両祖以来の血脈の本義が脈打つ「座」に対してこそ、「猊座」という象徴的な用語によって特別の尊敬が払われてきたのであります。  しかるに現在の宗門は、「猊下」を知って「猊座」の尊厳を忘れ、猊下の個性を敬うことにのみ走って、歴代正師の継承した血脈の本義を失ってしまっているのであります。  ここに私たちが最も留意しなければならない点があります。それは、「猊座の尊厳」とは、時代時代に出現される猊下の徳の厚薄、器量の善悪等によっていささかも損なわれることなどありえないという絶対の確信であります。  歴代正師が「猊座」に就かれる時、必ず「猊座を穢す」という表現をされるのが慣例であります。ここに、歴代正師が等しく、宗開両祖以来の血脈の本義が脈打つ「猊座」に、特別の尊信と厳粛な自誡の意を込められていたことを拝することができましょう。  ところが、正本堂の意義の改変、御本尊模刻問題への再介入等、猊下の無節操かつ邪まな最近の所行は、近代正師の御指南を悉く踏みにじるものであり、これこそ師敵対、下剋上以外のなにものでもありません。まさに、「猊座」を穢し、「猊座」の尊厳を破壊しているのは猊下であります。  私たちの運動は、どこまでも、「猊座の尊厳」を回復し、本宗の血脈の本義を守るものであります。と同時に、猊下の個性を敬うようでありながらかえって「猊座の尊厳」を犯し、猊下の個性に追従するあまり「本宗血脈の本義」を忘失した宗風を一掃する改革であります。  次に、血脈相承の本義・大綱は、それを継承する猊下個人にのみ存するものではないのです。むしろ、「血脈」とは、一人から一人へと人人相望し相続してゆく「御一人の流れ」「脈路」であり、その「脈路」に脈打つ宗祖の「仏意」を離れて、その本義は存し得ません。そして、その「仏意」は、宗祖出世の本懐たる戒壇の大御本尊によってその内容が確定されるのであり、それを越えるなにものかがあるはずはないのです。  要を結して言えば、血脈相承の本義・大綱は、戒壇の大御本尊の万年にわたる伝持とその弘宣流布の二点を越えるものではない、と言うことができます。これは、身延相承書、池上相承書、興師の身延離山の際の原殿御書、さらに日興跡条々の事の文等に明らかに確認されることであります。さらに下っては、日寛上人の伝持・弘宣・守護の三付属の指南(撰時抄文段)に明らかであります。とくに、日興跡条々の事にある、「日本乃至一閻浮提」の語、「広宣流布を待つ可きなり」の文が、戒壇の大御本尊の伝持は単なる伝持のための伝持でないことを示すものであることは明白であります。すなわち、伝持は一閻浮提流布・弘宣のための伝持であり、弘宣流布は正統の伝持あっての弘宣であり流布であります。戒壇の大御本尊の伝持と弘宣の二義こそ、血脈伝持の二大両輪であり、そこにこそ血脈相承の大綱・本義が存すると拝さなければなりません。  このことは、日寛上人が二箇相承は弘宣と伝持の二付属に当たると断ぜられた指南(撰時抄文段)の上にも明らかに確認されるのであります。  ところが、猊下は、血脈伝持の大綱を見失い、伝特によって弘宣を切り捨て、伝持の一輪をもって弘宣の一輪を踏み砕く大罪を犯したのであり、そのことに少しも早く気づくべきであります。まさに豆の殼をもって豆を煮る悪逆の所行、狂気の所行であり、血脈の分裂・血脈の自壊を自ら招いたものにほかなりません。それは、近代正師が妙法流布の大きな時の流れを感じ取り、伝持の時が移り、弘宣流布の時が到来したとの大局の把握の上からなされた数々の御指南を悉く踏みにじり、時代逆行の路線を狂進する姿であります。  以上のとおり、「猊下」といい「血脈」というも、広宣流布と衆生救済の大目的を離れて存在するものでないことは言うまでもありません。  しからば、それらを全く忘失し去った現況に対し、私たちは、宗門人として何をなすべきでありましょうか。  私たちは、歴代正師の踏まれた「猊座の尊厳」をどこまでも護り、宗開両祖以来の血脈の本義大綱を回復する崇高な道念の発露であり、弘宣流布のための宗門を再建することを目指します。そして、その道念のうえから、「猊座の尊厳」を破壊した猊下ならびに執行部の深い反省懺悔と総退陣を強く要求致します。理想の宗門の再生、再構築は、それを抜きにしては断じて達成しえないと声を大にして叫ぶものであります。  この私たちの運動を下剋上と難ずるのは、宗開両祖以来の本宗の血脈の本義を見失ったものにほかなりません。私たちは、猊下ならびに執行部こそ、歴代正師の継承した本宗血脈の本義を踏みはずし、これを蹂躪した師敵対・下剋上の姿そのものであると断じます。  私たちは、真理は、他律的な強制や制裁の中からは決して生み出されるものではなく、いかなる時代においても、それを求めてやまぬ自律的、主体的な熱き求道心と深き道念の中にのみ生まれると信じます。ゆえに、この同盟は、あくまで、現在の宗門の混迷を憂い、これを打破し、未来の新たな宗門を再生、再構築することを求めてやまぬ宗門人個々の主体的自覚をこそ、最も尊重するものです。そして、その主体的な自覚を少しでも宗内に波及せしめようとするところに運動の主眼を置きます。すなわち、宗門内における宗門改革であって、宗門人による主体的な宗門再構築の運動であります。しかしもちろん、その運動は、各自の主体的改革意思に基づくものでありますから、自発的に派生する離脱もその運動・改革の一部として認めるべきであります。  したがって、宗内の誰もが、参加するも自由、去るも自由であり、そこにいかなる強制や制裁もありえません。  同盟は、憂宗と護法の念を持ちながら、猊下への尊敬が猊座の尊厳であるという猊下と執行部によって作出された幻想にとらわれ、それらを胸中に秘めている方々に、自由な発言と討論の場を提供するものです。宗門人の積極的な参加を呼びかけます。その小さな一歩が、世界宗教たる日蓮正宗の大きな飛躍をもたらすであろうことを確信するからです。  平成四年六月 〈資料3〉同盟通信NO1(1992・9・13) 【発刊の辞】  此の度、同志の総意を以て憂宗護法同盟として、独自に通信を発刊することになりました。執筆陣は、同盟内の各師が交替で当たることになっております。発行は、時に従い、機に応じ、随時と致します。  従って、文体の不統一は予め御了承願うものです。極めて、高い確度の情報を持続的に発信し続ける“地涌”の力量には、とうてい比肩し得るものではありません。しかし、大奥の中や宗務院・内事部は、もとより全国津々浦々に張りめぐらされた同同盟の情報ネットワークに引き上がった“ゲリラ的”な情報を宗内にお届け出来れば幸いと思うものです。  言うならば、痒い処に手が届く“旬の情報”をタイムリーにお届けしたいのです。無論、本格的な教義問題や、大局観に立った高度な角度からの宗門問題に関する言論戦は、同盟内の優秀な執筆陣が、順次論文の発表出版等を既に進めております。  この通信は、そういった内容とは別に「猊下の丑寅勤行の際の表情はどうだった」とか、  「大奥の朝食の内容は、どうだった」とか、そう言ったもっとも身近な、“ホット”な内容に限りたいと思うのです。  情報は、ふつうソフトといわれますが、もともと情報そのものはハードです。その “ハード”な情報をどのように扱うかは“ソフト”の部分に属すると信ずるものです。戦いにおいては、どんな小さな情報でも武器となり得るものです。それも、これも偏に宗門の未来を思い、宗門の再生と再構築を希う同盟諸士の熱い道念の発露であることに変わりはありません。  御信徒の出入りも無くなった閑散とした境内を眺めながら、時折静けさを破る蝉の声や、近所の子供たちの喜々と遊ぶ歓声を耳にしながら、慣れないワープロのキーを叩きつつ、手造りのホットな通信をお届けしたいと思うものです。宗内諸賢の一層の御叱責と御協力を切に希う次第です。   平成四年九月十三日 夢のシアトル教師講習会雑感  この類の件は、黙ってさえいれば時が解決するものだったかもしれない。  真意の程は兎も角、この程度の話は、黙ってさえいれば風化するはずであった。言わずとしれたシアトル事件である。  皮肉で言う訳ではないが、こういう際には、早瀬重役の処世術が対照的に鮮やかに浮かび上がってくる。何を言われ書かれても、仮病を使って病院に駆け込むか、兎に角だんまりを決め込むに限る。猊下もそれを見習うべきであった。もっとも重役の場合は、そのストレスが高じて、本当の病気になってしまったのはお気の毒の限りだ。  でも所詮、度量の違いは争えぬ、そんな声も漏れ聞こえた。“大白法”や“妙観”で余計な反論や全面否定をしたばかりに事態がややこしくなりかけていた。  三十年前の一夜の話が、一婦人への全面攻撃で名誉毀損という思いもかけぬ形で現代に蘇ってしまったのだ。それもこれも黙っては居られない小心な性分のせい。もう充分ではないか。これ以上触れれば火に油を注ぐだけである。  今度の講習会では、一切無視して欲しい、否きっと無視してくれるに違いない。そんな淡い期待も「御目通り」の段から一気に吹っ飛んでしまった。開口一番「何か皆んな人の顔を見てエヘッ。何か言いたそうだが(笑い)」ああやっぱり始まってしまった、とは「御目通り」の参加者の共通の感想であった。  「全くありません。一歩も出ていません。またそういうことは三十年も前だから……出れば、ただずっーとひとつのこの経過から見て絶対出ていません」と。「出た記憶はネ、出ればネ、夜のあのアメリカの、あの分からないでしょ……シアトルの夜のネ、女が立って建物があって……そんなシアトルのとかネ、全然覚えもなければ、何もないんだからネ」絶対に一歩も出てないのなら、くどくど言う必要もあるまいに、何という自信のない法主なのか。  そんな訳で「御目通り」から「開講式」の言葉に到るまで、“シアトルに始まりシアトルに終わった”観のある講習会ではあった。“全くありません。一歩も出ていません”――これを一生懸命説明し、納得してもらおう――これに尽きる講習会であった。  ある僧侶の感想が妙に印象に残った。「書院で話すなら兎も角、大講堂で御本尊様を背にして一宗の法主がシアトル事件の弁解に終始している姿自体、異常ではないか」と。確かに言われてみればそうかも知れない。御本尊様を背に話している当の御本人を除けば、誰もがその異常さ加減には、気づいて居るのだ。でも異常者は、いつも異常を感じられぬという。確かにそうであろう。挙宗一致でシアトル事件の全面否定の雰囲気の演出に努力している姿には涙ぐましいものがある。  しかし、当の御本人が群を抜く無責任・二枚舌・三枚舌の持ち主であることを宗門人は、呉れ呉れも忘れてはなるまい。  「一歩も出ていません」、猊下御本人のお言葉を聞いたとき「ああ、もうこれはダメだ」と思った。後に続く尾林・高橋両師が何といおうと、所詮は“へりくつ”にしか聞こえなかった。これは私だけではない。何故なら、既に御本人が過去に異なる発言をしているのを何人もの僧が聞いているのだ。  今年に入ってある「御目通り」の席で「ホテルを出たことは認めるが、あのような事は全く無い」旨の発言を既にしている。更に何年か前の海外派遣要員の講習会の席で、自分の海外出張の初体験の模様を訓戒の意を込めて話しているという。その時の参加者の一人は「初めて海外に出た時は、興奮して夜眠らず酒を買う為にホテルから出た事もあったが、海外の治安は悪いから気をつけるように」との旨の話だったと証言している。九州方面にいるある若手の僧も、参加者の一人として同じような証言をしている。  今回の「一歩も出ていない」との猊下の証言は一体何なのか、人の口に戸は立たぬという。しかし、「一歩も出ていない」と御本人が公式の場、何百人もの僧侶の前で明言してしまったのだから、あとは、挙宗一致で過去のくい違う猊下の発言を聞いてしまった僧侶を徹底して洗い出し、その口を封ずるべきではないか。いつものように尻拭いを。でも吾々同盟にこの情報が届くのだから、もう遅いのではないか。  政子夫人の内助の功も涙ぐましいものがある。クロウ夫人に念珠等を送ったのは、クロウ夫人から“松茸”を頂いたお礼なのだと、あっちこっちでアリバイ工作に余念がない。政子夫人も事の重大さに気づいていない。  “松茸”の話が出れば、その“松茸”が京都産のものかシアトル西海岸の白い“松茸”なのかと、あらぬ火の手が上がるのを気づかないのである。困ったものだ。若し内助の功と言うならば政子夫人が今できる最善のことは、夫であり、猊下である本人に「もうここまでです。退きなさい。」と一言忠告するしかない。吾々同盟とて、猊下勇退の花道さえも塞ぐ程、不義理はしたくない。どんな戦いにも一分の信義は必ずあるものだ。しかし、このまま行けば猊下自身が最後の花道さえも自ら目茶苦茶にしてしまうだろう。  講習会後、宗門中枢からこんな発言が漏れてきた。曰く「シアトル事件はもうケリがついた。」と。どうやらその根拠は「聖教」「創価新報」等でのシアトル報道が最近ぷっつり途絶えたこと。今回の講習会で尾林・高橋両師の現地報告までして、一応宗内の説得工作に成功した(と実は錯覚しているのだが)こと、その程度のものであろう。相も変わらぬ、世間知らず「上野村の坊ちゃん」らしい判断ではないか。それとも身延の毒気を引きずっている誰かの言をそのまま信じているのであろうか。念のため猊下及び執行部に忠告致しておきたい。「嵐の前の静けさ」を決して忘れてはなりませんと。 〈資料4〉同盟通信NO2(1992・9・19) 尻拭いには、もう私的も公的も言ってられない  =シアトル事件よりもっと深刻なお話=  いつまでも宗門人は「駄々っ子法主」の尻拭いをし続けなければならないのか。七十歳も過ぎて「心のオムツ」が取れないと何処かの精神科医が言っていた。本当にその通りなのだ。そんな法主の私的な尻拭いも生前中は、母の妙修尼が一手に引き受けていたのだ。  彼をよく知るある老僧はそんなことを言っていた。妙修尼が亡き後、その役目は、妙修尼の分身とも言われる政子夫人が一手に引き受けたという。法主の内弟子がそう言うのだから間違いあるまい。でも、それはどこまでも私的な尻拭いで済んだのだ。そんな人物が、一宗の法主という公的な立場に登ったばかりに、今度は公的な尻拭いという厄介な仕事が始まった。無論、それを引き受けるのは宗門人或いは信徒である。  シアトル事件は、どこまでも「信雄君」一人の私的な問題だった。生きていれば、妙修尼と現政子夫人の二人でとつくに始末できた事だろう。  否、始末できたと思っていたのだ。でも「信雄君」がその後、たまたま法主に為ったため、一宗、否、全信徒を巻き込んだ国際的な汚名事件となってしまった。厄介なことだ。そんな事件に巻き込まれるのは吾々宗門人は、真っ平御免だ。でもこの事件も猊下が退座し、元の「信雄君」に戻れば、嵐の後の様に静まるだろう。もっとも、莫大な慰謝料は支払うだろうが。  ところが、正信会和解の工作は、若し事実とすれば退座後もずっと尾を引く、もっと厄介な問題なのだ。“駄々っ子法主”は、とんでもない宿題を吾々に残しそうだ。若しそれが事実とすれば、シアトル事件よりもっと深刻なお話。とんでもない置き土産とは、このことだ。  「宗門人も人が良すぎた。特に、私も人が良すぎた。この中には、もっと人が悪くて、いろいろ昔、学会が悪いんだと立ち上がった人がいた。その人達に私は改めて、ここで敬意を表し尊く思うものであります」と、自分の血脈相承を否定した僧侶を二百人以上も処分しておきながら「宗門人も人が良すぎた」とは、残った吾々宗門人に対して随分と馬鹿にした話ではないか。否定された血脈相承はどうする? “お人よし”によってなされた処分はどうなる?  と言いたくなるではないか。  それよりも、十年以上も猊座に居ながら「特に私も人が良すぎた」とは、一宗の責任者として、とうてい口から出る言葉ではない。“身勝手すぎる”というなら“正直”と認めてあげてもよいが……。ともあれ「心のオムツ」が取れない老人と言われても仕方がない。講習会で突発的に、この発言が出た途端、シアトルの弁解など上の空で聞く気になれず、背筋がゾクッとしたと大半が漏らしていた。  正信会和解は、宗門人一人一人の未来にかかわる、切実な問題だ。猊下個人のシアトル事件とは違う。講習会直後、猊下の発言の真偽を確かめようと「チビタ君」こと、藤本総監に詰問した僧も何人かいたようだ。それはそうだろう。その返答は、「あの発言は、突発的に出た猊下個人の意見だ。宗務院とは関係ない」であったとのことだ。そう答えざるを得なかった総監も一層小さく見えた事だろう。むろんこう言った発言が、公式の場でなされる以上、吾々の知らぬ水面下での工作は、相当前から進んでいると見た方がいい。ちょうどC作戦の様に気が付いたらもう止められないという状況があるかも知れない。  前科のある高橋・段のラインに依る正信会工作は、相当先行しているはずだ。それに追い打ちをかける様に内事部から駒井君、宗務院から梅屋君が、正信会と個別の接触を始めているとも伝えられている。でも先の総監の発言からすれば梅屋君の場合は、渋々ポーズの一面も考えられる。囲碁の好きな猊下だけに手の打ち方は、抜かりがない。  既に、七月の信徒除名を決議する参議会でも、正信会の工作は、議案に出されたという。  「こんな状態では、正信会受け入れも本気で考えても良いのでは」とは、高野能化の発言。でも本心とは思えないから、この高野能化の発言は、恐らく猊下の意を受けたものであろう――(“ひょっとすると次は自分かも”と期待しつつ)。その発言に対し、口角“泡”を飛ばして猛反対したのが、“阿波の篤さん”こと、河辺氏だとは、専らの噂だ。ありそうな話ではないか。単に“篤さん”の高野嫌いだけのことではない。  何せ、放火犯と火消しの消防隊の二役を一人でやってのけた“篤さん”だけに、正信会側の恨みは半端ではない。常日頃“正信会問題は、オレのライフワークだった”と豪語していた。反面“オレは正信会にいつ命を狙われてもおかしくない”と小心ぶりを漏らしていた。若し正信会を受け入れるようになれば、河辺氏は、どこに身を隠すのだろう。河辺氏にとっても、これは対岸の火事では済まない。  どうやら正信会受け入れ工作は、宗門中枢にさえ、予想外の波紋を投げているようだ。実際、ある中枢の僧は「もう猊下の首に誰かが、鈴を付けないと大変なことになる」と、警戒心を露にしている。でも“駄々っ子”の猊下の首に鈴を付ける程、勇気のある人がいるのだろうか。かつて“猊下を意のままにできるのはオレ一人”と豪語していた“篤さん”にとっても、猊下は、もう手の届かない人となってしまったのか。  こうなれば、かつての私的な尻拭いのベテラン、元「教学部長」の母親・故妙修尼に夢枕にでも出て来て叱ってもらうしかない。それも無理とならば、妙修尼の分身、政子夫人に頼むしか手はあるまい。みっともないが、もうこうなったら、私的も公的も、言ってられない。政子夫人に尻拭いをしてもらうしかない。“もうここまでです、退座の時を見誤ってはなりません”と。この“一言”でどれだけの人が胸をなでおろすだろう。否、宗門の未来は、意外とこの“一言”にかかってるかも知れない。政子夫人、いよいよ出番です。それもできれば早いほうがいい。主人であり、猊下でもある被告人が、ロスの裁判所でクロウ夫人と「お目通り」する前に。そして、世界中の笑い物になる前に。汚辱にまみれる前に……。 〈資料5〉同盟通信NO17(1993・6・25) =カット!かっと!CUT!…………。  但し、今度は自らのパイプカット!  パイプカットした前代未聞の法主が、前代未聞の宗門破壊を遂行してしまった=  冒頭のタイトルからして露骨な表現になってしまった。でも猊下の今日までの異常な行動を支えている心理の深層に係わることでもある。=「猊下はパイプカットをしている」=この情報が寄せられた時、我々編集子一同、一瞬、我が耳を疑った。しかし、故人となった一人を含む四人の宗門僧侶と一人の寺族の計五人がそれぞれ別途ルートでその情報を得ていることを確認できた。しかも故人となった一人の僧は、世間の「遊び」に関しては、現猊下の「師範役」とまで周囲から呼ばれ、猊下との親密度は、他の宗門人の追従を許さぬものがあったという。更に情報源となった一人の寺族は現職の宗務院の某部長の夫人でもある。しかもこの某部長は、シアトル事件で有名になったあの北米初出張御授戒に、かつての「信雄君」と同行している。ここまで言えば名前を言ったも同然だが、本人が気が小さく卒倒しても困るから、最後まで名前は伏せたい。  当時四十一才の血気盛んな猊下のこと、胸ときめかした初飛行の機上での何げない二人のやり取りの中で、つい口を滑らせた可能性もある。或いは、この部長夫人は政子夫人とも相当に親しかったので、そのルートから漏れたのかもしれぬ。従ってこの情報には相当の信憑性があると言える。本人に確かめれば一番早いのだが、さすがに我々同盟員も、その勇気だけは持ち合わせていない。「カチ栗の部長」と異名を取る現職部長の夫人クラスが、こう言った猊下の極めて私的な臍下の話を知っているのだから、猊下のパイプカットの話は他の宗務院や内事部等の猊下に近い取り巻き連の一部では既に暗黙の秘事となっている可能性は充分ある。或いは噂話が唯一の生甲斐である部長夫人たちの間ではもう何度か密かに話題に登ったのかもしれない。こうなれば寺族夫人たちの間では引っぱりだこの人気を呈する大杉山の某師に、真意を打診して居きたかったのだが、生憎と時間が無かった。こう言った話を、自分の子供たちに打ち明ける父親はいないから、信彰君や百合子嬢は知らぬとしても、政子夫人だけは知っているはずだ。猊下の竹馬の友と言われる阿波の篤さんこと河辺氏にも、ひょっとしたら猊下は漏らしているかも知れない。  第二子百合子嬢が産まれたのは、昭和二十二年六月である。当然パイプカットはその時期以降であることは間違いない。而も巷間、信じられている話を真に受ければ、猊下とK・T女との間に、N子が産まれたのは同じ昭和二十二年九月である。「巷間」と曖昧な表現をしたが、宗門の古老たちの間では、このことは粗間違いない話として語り合われている。後に成長したN子が日本舞踊に身を入れ、その御披露目の会を催すに際し、猊下がその費用一切を負担したと証言する投下に近い古老もいる。  いずれにしろ一人の男がどういう動機で自らの子種の管を切ろうと、元々どうでもいい話には違いない。しかし、こと猊下に関しては、それは通じない。登座以降、今日に到るまでの猊下の一連の行動の深層に渦巻く心理を理解する上で、この一件は意外と大きな意味を持ってくるからだ。猊下が次々と目先を変えては新しいものに飛びつく実に息の短い「凝り性」の持ち主であることは宗門でしらぬ人はあるまい。かつて、神がかり的なオカルト紛いの整体師に通い詰め、カーバイトを燃やす治療法に凝り、マコモに凝り、最近では九十に近いある在野の老師の勧める野菜スープに凝りに凝っているようだ。この老師との出会いにも、何やら神がかり的なものがあったのだよと得々と側近に自慢しているのだから始末におえない。その都度宗内に整体ブーム、マコモブームを引き起こし、その尻馬に乗っかった宗門人は数知れない。しかしさすがに今回の野菜スープだけは猊下の説得口上も虚しく、真似する人はいないようだ。どうせいつまで続くか知れたものではない。猊下やその側近が唱える信伏随従とは所詮この程度のものでしかない。  この猊下の「新しものがり屋」は少なくとも昭和三十年代にパイプカットをしたという猊下の行動に既に象徴的に顕れている。今でこそ、名前はどうにか普及したものの当時の日本ではあまり馴染みの薄いパイプカットに飛びつき、それを決行する勇気ある男性は日本広しと雖もそうざらにはいない。そうなって見ると、英邁と思われていた猊下も、一皮むけば短慮・軽薄この上もない本性が浮かび上かってくる。更には過去の御歴代と比べても稀に見ると言われる登座以来の猊下が引き起こした一連の波紋も、パイプカットという角度からスポットをあて直すと、意外と納得され、一つ一つの波紋が実にあざやかな光彩を帯びてくる。猊下のパイプカットの話は、猊下が天性の遊び人であることを証明するのみに止まらない。今回「猊下がパイプカットをしている」という情報が宗内に漏洩した事実は、現在迄の猊下の極端な行動に依って起こされた波紋の一つ一つに異様な説得力と鮮やかな色彩を与えずにはおくまい。「猊下の一連の行動の裏には、ものや人を問わず破壊し、切り刻んで何の痛痒も感じない冷酷さに貫かれている。この点を見なければ猊下という人物は分からないよ。」彼を知るある古老がしみじみと漏らしていた。古老のこの言葉が何とも言えぬ説得力を持っているから不思議だ。この冷酷さは、自らの内に止めどなく涌き上がる欲動を発散し、充足させる為には、生命誕生に関わる自分の身体の一部の管をも平気で切り取るという猊下の行動の中に、象徴的に集約されている。そうしてみると「カット症候群」とも呼べそうな猊下の一連の行為のルーツは案外と根深いのだ。  混乱の時代には、単純なものを複雑に分析するよりは、複雑なものを単純化してみると意外と見通しが利く。先号(十六号)の筆者は「猊下の一人芝居」という主題で現況を実にうまく表現していた。それを受けて、今回の宗門の混乱も「パイプカットをした前代未聞の法主の一人芝居」という角度で捉え直すのも一興かもしれぬ。登座間もない正信会問題で百六十名以上に及ぶ僧侶の首を切ったのは、近世どころか、宗門史上、前代未聞の不祥事には違いない。その際、相承の疑義を突きつけられ、内相承の事実の片鱗さえも反証として提出できずに一人でオロオロする猊下を、ただ信心の一点で法廷に出さずに外護した信徒団体を、今回は返す刀で一刀両断に切り捨ててしまった。そこに介在した「C作戦」という謀略が「CUT」の略であることは、猊下自身も発言し、今更説明も要しない。  その間、大化城の撤去。六壷の全面建て替え、正本堂の意義改変等と、取り憑かれた様に先師日達上人の偉業を跡形もなく切り捨て、破壊したことは周知の事実だ。挙句の果てに、二百本以上の桜の木を一気に切り倒し、随分と波紋を巻き起こして呉れた。自分の欲望の充足の為には、子種の管を平気で切り取る人物に、僧侶も桜もあったものではない。こう並べてみると、猊下の生涯に亘る行動を支える心的動機の中心に、物を破壊し、切り刻むことに異常な快感を覚えるという病的な性癖が介在していると言われても仕方あるまい。宗門人が陰に回れば猊下のことを「首切り日顕」「カミソリの顕」「CUT魔」などと悪態をついている事実は、案外と猊下の異常な性癖を宗門人なりに的確につかんでいると言わざるを得ない。宗門人もそれ程、見捨てたものではない。  猊下のパイプカットの話を聞きつけたある中堅住職は、「やっぱり猊下は最初からカットが好きだったんだ」と冗談交じりではあっても、妙に納得した表情を浮かべていた。一つの欲動が突然隆起した時、その隆起を妨げ、或いはその欲動の隆起によって明らかに障害となるものは、前後の見境も容赦もなく振り捨て切り捨ててしまう。そんな異常な幼稚性の性癖を引きずった一老人が、僧を切り、信徒を切り、桜を切り、先師日達上人の偉業を切り刻み、過去の御歴代の精神も切り捨て、挙句の果て、宗門の未来までも木端微塵に切り刻んでしまったのだ。この先何を切り裂こうとするのか。ひょっとしたら自らの首しかあるまい。そんな深慮遠謀などという言葉とはおよそ無縁な薄っぺらこの上ない老人を猊座に戴いている限り、宗門に未来はありはしない。  最近の御目通りには白ケムードが漂っているらしい。末寺の経済的困窮が反映してか、奉御供養の中身にも今一つ熱が込もらない。伝え聞けば「五萬円だった人は三萬円に、三萬円だった人は一萬円に、一萬円だった人は五千円にしよう」などと僧階ごとの仲間うちで協定が結ばれているのは確かなようだ。かく言う筆者自身も減額をしているのを正直に告白せざるを得ない。末寺は本当に苦しいのだ。尤も、この先そう長くもない猊下に、今更覚え目出たくしてもらっても仕方がないという僧侶らしい底意地の悪い本能が既に働き出しているのは間違いない。機を見るに敏な宗門人の根性は悲しいけれども、なかなか、したたかなものだと我乍ら感心もする。  でも宗門人に忠告したい。御目通りで合掌しひれ伏している相手がパイプカットをした「現代に於ける大聖人様」であることを、決して忘れてはなるまい。白ケきった御目通りにも、きっと一抹の新鮮味が甦るに違いない。と同時に、もつれ切ったように見える現在の宗門の混乱の原因が極めて単純明確に浮かび上がってくるに違いない。  前代未聞のパイプカットをした法主様が、前代未聞の宗門破壊を遂行してしまった! 嗚呼…無念! 嗚呼…無念! 〈資料6〉同盟通信NО25(1993・12・10) =たった三日間の猊下不在中、しっかり「鬼の居ぬ間の洗濯」をやった者がいる。夫人政子は、偽名で四十万の部屋に一泊した翌日、京都の高級エステサロンに直行した。こんな阿部一族を守ることが、どうして宗門を守ることになるのか=  十二月七日、エール・フランス276便で、猊下は随行と共に、成田に到着した。  六日発行の「同盟版宗務広報」の時点では、猊下のスペイン御親教も、宗内の六割程は半信半疑であった。それもそうだろう。だが七日の夕刻、慌てふためいた様に出された「真正版宗務広報」に依って、宗内は事の真相を納得した様だ。而も、その取って付けた様な、白々しいお粗末な広報の文章に、宗門人の多くは、あきれる以上に、込み上げる笑いを押さえるのがやっとだった。「本宗の世界広布史上燦然と輝く歴史的な壮挙」「ヨーロッパ全土における真の正法広布」「確信」等の活字のみが虚しく踊り、その表現が仰々しいだけに一層内容の虚ろさを伝え、宗内に与えたのは白けムードだけだ。  三日の夜、見送りの夫人も含め、随行の諸師全員が偽名で高級な部屋に一泊し、おまけに猊下夫婦は、一泊四十万円のスイートルーム。この完全に隠密裡に行われた前例なき、異様な出発光景。それを打って返した様な宗務役僧・阿部一族・法華講役員一同が勢揃いした賑々しい七日の出迎え光景。その直後に、バツの悪そうに出された迫力この上無いお粗末な宗務広報。これらの間にある名状し難いちぐはぐな落差に、一体、誰が笑いを押さえられると言うのか。「偽名」とは、露見しないからこそ絵になるものだ。しかし「偽名」が初めからバレているとなればそれはもう漫画だ。「やっぱり本当だったのか」「もうかってにしたいことをすれば」「もう政権末期だ」そんな嘲笑交じりの呻きとも、溜息ともつかぬ圧し殺した声が一斉に宗内に興った。「たった三日の不在じゃ、心の洗濯もできやしない」と冗談交じりの声もアチコチから上がった。  だが、この短い不在中、しっかり「鬼の居ぬ間の洗濯」をやって退けた御仁がいる。夫人政子は出発前日、四十万円の部屋に一泊し、翌日、猊下をホテルで見送った後、信量君の夫人ナツ子と京都の高級エステサロンヘ直行した。まさに鬼の居ぬ間に心身の洗濯をしたのである。おまけに高級ブランド洋服を店内で販売しているこのサロンで、高額な散財をしたことは充分考えられる。しかも、七日の午前中にはチャッカリ成田空港に姿を現し、夫を出迎えているのだから。この女性のしたたかさは相当なものだ。宗内でのしたたかさでは、右に出る者もいない阿波の篤さんこと河辺師でもその足元にも及ぶまい。  「衣食足る」という言葉がある。だが政子夫人の場合、「足る」などという生易しいものではない。夫人のブランド洋服への異常としかいいようのない散財ぶりは夙に報道され有名だ。でも、政子夫人の「食の嗜好」への異常な拘わりは、宗内でもあまり知られていない。未だに西片へは毎週一、二度定期的に宅急便の小包が舞い込んでいるという。今更、態々西片へ贈り物をし、御気嫌を伺う末寺住職などおりはすまい。何のことはない。政子夫人自ら全国各地の珍味名産を取り寄せているからだ。西片にパイプのある某住職がソッと伝えて呉れた。「西片の食卓は、贅を究めた山海の珍味が、途絶えることはないんだよ。未だに……」と。  この問題が起こる以前、政子夫人程の贅は及ばぬとも、せめて家族で焼肉を食べに行く位の末寺はザラにあった。だが、今や焼肉も食えなくなったとの声は確かに後を断たぬ。  「今じゃ、一人千円の定食を家族四、五人で食べに行くのが月一度の唯一の楽しみだ」とはある住職の声。生命保険を解約し、寺院の火災保険も、積立方式を止め、年四、五万の掛け捨て方式に切り替えた末寺は数え切れない。更に、寺族夫人にとって余計な電気のスイッチを切って歩くのが、今や夜の重要な日課の一つになって仕舞った。こんな末寺の実態も知らず、一泊四十万円のロイヤルスイートに偽名で泊まり、翌日、高級エステサロンヘ直行し、未だに山海の珍味を食卓に並べる政子夫人とは、一体どんな女性なのか。  今回、鬼の居ぬ間に奇妙な洗濯をした御仁がもう一人いる。  空港に出迎えに行った法華講幹部たちが帰路「藤本総監の姿が見えなかったがどうしたのか」と漏らしていたという。通称「小学生の潤ちゃん」と呼ばれるだけに、確かに五、六人の人垣ができれば小ぶりな総監は見えなくなってしまう。居たかも知れぬと勘違いした人々に、同盟がキャッチしている情報を、お伝えしておきたい。四、五、六日の猊下のスペイン親教中、藤本総監は、都内の某病院に入院していたらしい。常泉寺内から、漏れ伝わる話では、手術を要する程の“大病”とも言われる。いずれにせよ、これも洗濯には違いあるまい。時の法主が出発前日、四十万円の部屋に偽名で一泊し、「本宗の世界広布史上燦然たる壮挙」であるスペイン親教中、夫人政子は高級エステヘ直行し、N02で次期法主の噂もある藤本総監は、大病を患い入院。どこか歯車の噛み合わせがおかしくはないか。誰しもそう思わずに居られまい。  我々は、血脈付法の法主を生き仏の如く崇める挙句、「宗祖の御目」「御戒壇様の御目」 という言葉が死語に成り果ててしまった現在の宗門は、明らかに異常であると警鐘を鳴らし続けている。  異常なまでの法主崇拝の悪弊が、宗開両祖以来の正統な法脈・宗風を死滅させ、宗門を破滅の淵へ追い遣ろうとしている。そんな姿を、どうして座して黙することができるであろうか。この時期の藤本総監の大病を「御戒壇様の裁き」などと大仰なことを、我々平憎が軽々に言うつもりはない。  しかし、心ある能化・老僧方に再度問いたい。一千万信徒を何の根拠もなく一刀のもとに破門に付し、宗祖の仏意・法脈を蹂躪し続ける狂乱の法主の非に気付きつつ、座して黙する自らの怯懦に一分の恥も感じないのですか、と。そんな宗門にやがて総罰・現罰が下らないと断言できるのですか、と。我々は、明らかにその兆候が既に起きて居ると明言して憚らない。「徴前に顕れ災い後に致る」(立正安国論25P)総監のこの時期の大病などまだまだかわいい徴でしかない。末寺の困窮を一顧だにせず、臆面もなく、散財をし続け、自らの血族の繁栄しか眼中にない猊下と夫人政子!  そんな阿部一族を守ることが、どうして宗門を守ることになろうか。宗内の心ある諸賢にも、再度の沈思熟考を祈らずに居れない。