創価学会報道にみる 週刊文春のウソと捏造 これは犯罪だ! 佐倉敏明◆著 はじめに  「言論出版の自由を濫用して、他を傷つけたり、私益のために公益を犠牲にするような行為は行わない」  ――これは、一九五七(昭和三二)年に発表された“出版界の憲法”「出版倫理綱領」の第三項である。はたして現在の雑誌ジャーナリズムは、この第三項にかなった誌面作りをしているだろうか? 「言論出版の自由を濫用して」取り上げる相手の人権を侵害し、部数を伸ばすという「私益」のために「公益を犠牲に」してはいないだろうか?  単なる憶測を記事タイトルで断定する、記事の意図に合わせて事実を歪曲・捏造する、中立公正を装いつつ偏向した報道をする……昔からあったそうした傾向は、近年とみに強まってきたように思う。特に、熾烈な部数競争の中にある週刊誌の世界は、記事による大小さまざまな人権侵害に満ち満ちている。  そして、雑誌ジャーナリズムが抱えるそうした問題点が集約されているのが、創価学会報道である。  唯一の雑誌専門図書館である「大宅壮一文庫」の目録で「創価学会」の項目を引いてみると、膨大な数にのぼる関連記事のほとんどが批判・中傷であることに驚かされる。特に「言論・出版問題」(七〇年)以降がひどい。藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』の出版にあたり、公明党・創価学会からの出版妨害があったとされる事件だが、これ以降、週刊誌ジャーナリズムは堰を切ったように創価学会批判を始めるのである。まるで、この事件が「創価学会を叩いてもよい」という“お墨つき”であったかのように……。  だが、それらの記事は真実を伝えているだろうか? 否である。昨年来、週刊誌の創価学会批判記事を集めて読みこんできた私には、はっきりとそう言い切れる。  ちょっと考えてみても、池田大作名誉会長が本当に週刊誌の言うような人物であるなら、創価学会の一千万信徒から尊敬を集めるだろうか? 創価学会が本当に週刊誌の言うような団体であるなら、今日まで発展を続け、秩序立った組織を保てるだろうか? 私にはとてもそうは思えない。とすれば、どこに“歪み”があるか? それは雑誌ジャーナリズムというフィルターにあるのだ。本書はその“歪み”を指摘し、正すためのささやかな試みである。  大半の週刊誌が創価学会バッシングをくり返すなかで、週刊文春一誌のみを俎上に上げたのはなぜか? 一つには、七〇年代から現在まで、常に創価学会バッシングの先頭に立ってきた雑誌であるからだ。日本の代表的週刊誌の一つ、週刊文春が、その実いかにひどい“詐欺的記事作り”をくり返しているか――それを検証することは、週刊誌ジャーナリズムの健全な発展のためにも重要と考えるからである。  本書は、週刊文春がこれまでやってきた創価学会中傷報道の中から、特にひどいもの、問題を含んだものを選りすぐった“ワースト・コレクション”である。“こんな古い記事をいまさら蒸し返されても困る”と言われそうなものまで、あえて含めてある。  週刊誌報道の問題点の多くは、読み捨てられることを免罪符にしているところから生まれてくる、と考えるからだ。たとえ二十年前の記事であろうと、誤報は誤報、ウソはウソである。だから、“証拠”として誌面の一部も掲載した。  一九六九年、米『ニューヨーク・タイムズ』紙に、一つの訂正記事が載った。  「謹んで昔の記事を訂正します」。――さかのぼること四十年余の一九二七年、クラーク大学のゴダード物理学部長が、ロケットによる人類の月面到着を予言した論文を発表。『ニューヨーク・タイムズ』は当時、それを紙面で一笑に付し、「ゴダード博士は高校生なみの知識も持ち合わせていない」などと酷評していたのだ。その誤った評価に対し、じつに四十余年を経ての訂正記事だった。アポロ十一号が月面に降り立つ、四日前のことである。  ……こうした誠実さを、日本の週刊誌に望むのは無理だろうか?  雑誌ジャーナリズムに対する批判の声が上がるとき、それに対して「どんな雑誌も所詮は商売なのだから、ジャーナリズムの高邁な理想を求めるのが無理というもの」式の反論がしばしば聞かれる。もちろん、雑誌に限らず、商業主義と完全に切り離されたマスコミなど存在するはずもないのは承知している。しかし、商売だからといっても商道徳というべきルールがあるはずだ。仮に、商店が不良品や粗悪品を売ったとしたなら、社会的制裁を受けるのは当然である。週刊文春の創価学会中傷報道は、ウソと捏造で作られた“欠陥商品”なのだ。いまからでも遅くない、週刊文春は二十年前にさかのぼって、潔く“訂正”をすべきである。  本書が、雑誌ジャーナリズムのあり方を考え直すささやかな契機になれば、幸甚である。                                   著者識す 目 次 はじめに 第一章 ウソ     池田名誉会長が『聖教新聞』から“消えた”と書いた大ウソ     デッチ上げ証言者の「年賀カードを売りつける」というウソ     捏造証言「脱会者を自殺に追い込め」     「ルノワール絵画疑惑」報道で“学会の裏金”を断定     実刑三年の恐喝犯を応援する編集部     「謹告」はしたが「謝罪」ではないという“言い訳” 第二章 かたよった記事     “公平な報道”がよくわからない?     身内のことはタナに上げて“学会御用達”とかみつく     悪意があればいくらでも悪く書ける見本記事     たとえ裁判に勝っても、学会だけはさらに悪く書く     悪いことをしなくても学会はいつでも叩ける     海外の批判報道ならどんな記事でも三ページに     海外の中傷記事引用のオソマツ 第三章 タイトルのまやかし     事実は“百二十分の一”しか書かれていない     “高級イクラ”で脱税を匂わせる無茶苦茶     こじつけタイトルで疑惑を煽る     内藤の妄想“レリーフ事件”とは     タイトルでは断定、本文は憶測     脱会者の“邪推”と「事実」が区別できない     大げさなタイトルとすぐバレるウソ 第四章 人権侵害     学会を“香典泥棒”呼ばわりする根拠はなんだ?     学会員というだけで芸能人を小馬鹿にする差別記事     民間企業に学会員が多数いると異常なのか?     宗教蔑視のプライバシー報道     『朝日新聞』の指摘に、開き直る乙骨正生とは     報道の自由と差別の自由の“区別”ができない 第五章 無節操     昔は日顕を叩きまくった週刊文春なのに     読み捨てメディアの矛盾     法主のウソをそのまま書く記者・段勲のやったこと     「C作戦」の存在をいち早く報道していた不思議 第六章 大はずれ     学会から寝返った次期会長予定の“本命”と“穴”     たかり屋・竜年光の“カラ手形”と領収書     無責任な秋谷会長失脚記事 第七章 無知     悪質な“選挙妨害”記事の核心部分     脱党者に学会の悪口を語らせるいつもの手口     選挙報道を理由に「見てきたようなウソ」を     政教分離問題で朝日新聞に八ツ当たり     落ちこぼれ議員の泣き言を針小棒大に     政教分離をよく知らずに批判 第八章 ニセ本尊キャンペーン     デッチ上げ報道はこうして画策された     他のマスコミを煽動した“悪意のキャンペーン”     仲間割れから発覚した段勲の“悪事”     段と乙骨が二人三脚で作り出した“ニセ本尊”     質問には答えられずに居直る内藤国夫の“醜態”     過去に院達(二九七七号)でも否定されていた     虚言・偽証の連続 あとがき 第一章 ウソ 池田名誉会長が『聖教新聞』から“消えた”と書いた大ウソ 〈聖教新聞から消えた池田大作の近況〉(九四年一月二七日号)  池田名誉会長や秋谷会長が「失脚間近」であると煽るのは、週刊文春の創価学会批判記事の代表的パターンの一つである。そのわりにはいっこうに「失脚」が現実化しないのだから、それだけでもいかに信憑性のない憶測、いや邪推記事であるかがわかる。そして、信憑性がないだけならまだしも、この手の記事は明らかなウソに満ち満ちている。ここに紹介するのは、中でも最も悪質な部類である。  記事は、「年末、年始の晴れ舞台というのに、池田大作の名前が『聖教新聞』の第一面から消えている」で始まる。九三年暮れから九四年初頭にかけて、『聖教新聞』の一面に名誉会長の行動が報じられていなかったことをとらえ、創価学会に何か異変が起こっていることを示すサインではないか、という勝手な憶測を展開したものだ。脱会者の原島嵩がコメンテイターとして登場し、“『聖教新聞』での写真の序列や記事の扱いは、創価学会内部の微妙な権力構造の変化を表している”などともっともらしく解説し、「創価学会に何かが起こった!」という煽りを補強している。  少なくとも、その後の創価学会は、池田名誉会長の“失脚”もなく運営されているのだから、「創価学会に何か異変が起こったのでは?」という邪推そのものが大ハズレであったことはいうまでもない。  が、週刊文春が言うように名誉会長の名前が『聖教新聞』から消えていたとすれば、そんな邪推を許すだけの根拠はあったことになる。そこで、確認してみると「池田大作の名前が『聖教新聞』から消えた」という前提そのものが、じつは大ウソであった。週刊文春が「消えた」と書いた時期にも、『聖教新聞』は名誉会長に関する報道を連日続けていたのだ。  問題とされている九三年一二月、九四年一月の二か月間のうち、『聖教新聞』の一面に名誉会長が登場した日は、なんと三十日もある。じつに半分は名誉会長の名が一面を飾っていたのだ。これではとても「消えた」とは言えまい。  週刊文春は反論するかもしれない。“記事には「年末、年始」とある。年末・年始といったら普通は一二月の下旬から一月上旬を指すはずだ”と――。  よろしい、ではもう少ししぼって、九三年一二月二〇日から九四年一月一〇日までの『聖教新聞』を具体的に見てみよう。それでもやはり、名誉会長の行動は次のように九回も一面で報じられている。 @「創価班が首都圏委員会 名誉会長が和歌三首を詠み贈る」(一二/二二日付) A「静岡県で最高協議会名誉会長が出席 静岡県の協議会も」(一二/二六日付) B「SGI会長、海外代表と協議会」(一二/二九日付) C「各地で新年勤行会 学会本部の集いには名誉会長、会長が出席」(一/四日付) D「名誉会長、海外訪問予定の代表と協議会」(一/七日付) E「新春幹部会、第2回関東総会 名誉会長、秋谷会長が出席」(一/八日付) F「名誉会長、関東の友に和歌三首を詠み贈る」(一/八日付) G「名誉会長、秋谷会長が森田理事長はじめ代表と協議会」(一/九日付) H「名誉会長、神奈川で最高協議会」(一/一〇日付)  ちなみに、『聖教新聞』は一二月三〇日から一月三日まで休刊となる。つまり、正味、十五日間に九回の登場。一日おき以上のペースで、この時期も名誉会長の行動は一面を飾っていたのである。いったいどこが、「第一面から消えている」のだ! 針小棒大の「針」さえもないいいかげんさである。  いいかげんな邪推で記事を作ること、それ自体がすでにジャーナリズムの名に値しない。なのに、その上、週刊文春のこの記事では、「聖教新聞から消えた」というその“邪推の根拠”さえも大ウソだったのだ。                     ◆  この記事の核心は、いうまでもなく「池田大作が『聖教新聞』から消えた」という一点にある。したがって、記事を作るにあたって編集者がまずなすべきは、“本当に名誉会長が『聖教新聞』の一面から消えているのか?”を、チェックすることであったはず。手間のかかる作業でもなんでもない。聖教新聞をとり寄せて確認するだけのことだが、週刊文春の編集者は、その最低限の確認作業すら怠ったのである。  実際は九回も一面を飾っていたのにだ。『聖教新聞』の記事をネタにしようというのに、その『聖教新聞』さえ見ずに記事を作ったとしか言いようがない。「『聖教新聞』から消えた」と書き立てた、その責任はいったいどう取るつもりなのか?  それとも、実際には名誉会長が「消えて」などないことを知りながら、『聖教新聞』が一般読者の目には触れないのをよいことに、ウソ八百を並べ立てたのか? これほど読者を馬鹿にした話はない。もし、ウソを書いたのでないとしたなら、その根拠を示してみろ! デッチ上げ証言者の「年賀カードを売りつける」というウソ 〈聖教新聞から消えた池田大作の近況〉(九四年一月二七日号)  前項と同じ記事を再度取り上げよう。そのわけは、「一面から消えた」ウソだけでなく、もう一つの明白なウソがあるからだ。一つの記事に二つも明白なウソがあるとは、なんとも念の入ったお粗末さかげんではないか。  さて、もう一つのウソとは、記事中にある次のようなコメントだ。  「年末、いつも売り出す年賀カードがあるんです。例年は、池田先生の顔写真に、お言葉がついている。これを高く大量に売りつけて、その中から著作権料と肖像権料をとる。いわば大作サン用ボーナス袋なんですが、この年賀カードからも、池田先生の顔が消えていました」  「池田氏に何かが起こった」説を裏づけるもう一つの“根拠”というわけだが、ここでいう「年賀カード」なるものを、調べてみると、全国にある創価学会の会館で行われる「新年勤行会」の参加者に、無料配布されるものなのだ。それなのに「高く大量に売りつけ」るとは、言いも言ったり。しかも、「その中から著作権料と肖像権料をとる」とか、「大作サン用ボーナス袋」などともっともらしい説明をつけているだけに、悪質極まりない。  それに、このコメントは「地方在住の学会幹部」なる者が発したことになっている。しかし、本当に「学会幹部」なら、この年賀カードが無料配布されていることを知らないはずがない。これは明らかに捏造コメントなのだ。捏造だから、匿名でしか出せないのだ。こんな人物はいない。もし「捏造でない」と言うのなら、このコメントを寄せた「地方在住の学会幹部」なる人物を出してみなさい。対決しましょう。会員なら、「高く売りつける」という話がウソだと即座にわかるが、こんな薄っぺらなウソも、会員でない一般読者には見抜けない。それだけにこの記事によって「学会は年賀カードまで金儲けの道具にしているのか」という悪印象だけが残される。この記事は、それを計算した上でウソをちりばめたのだ。創価学会のイメージダウンにつながればよい、会員以外の読者をだませればそれでよい、ということか?  こうした記事は、創価学会や会員に対して犯罪的なだけではない。ウソを信じさせられる一般読者に対しても、週刊文春は重大な背信行為を犯していると断ぜざるを得ない。  存在もしない「学会幹部」のウソのコメントで、ウソの上塗りをする粗悪な記事のたれ流しで、世間を騒がせるのもいいかげんにしてほしい。 捏造証言「脱会者を自殺に追い込め」 〈どーする!鈴木都知事 「創価学会解散」に署名22万人〉(九二年四月一六日号)  「脱会者を自殺に追い込め!」。思わずわが耳を疑うが、池田名誉会長の発した“指令”で学会離脱者への暴行、脅迫が頻発している。この傲岸不遜な指令が事実なら、間違いなく自殺教唆の罪になる。これだけでも、宗教法人の認証を扱う東京都は学会に解散を迫るべきだ。  これは、創価学会攻撃に狂奔する元公明党都議・龍年光の馬鹿げた署名運動の顛末を報じた記事。その経緯と龍という人物のウサン臭さは別項で扱うとして、ここでは、次のような聞き捨てならない記述について触れてみたい。  「『脱会者を自殺に追い込め!』。思わずわが耳を疑うが、池田名誉会長の発した“指令で創価学会離脱者への暴行、脅迫が頻発している。この傲岸不遜な指令が事実なら、間違いなく自殺教唆の罪になる」  こちらも「思わずわが目を疑う」。まず、創価学会離脱者への暴行・脅迫が頻発しているなどという話は信じられない。本当にそんな犯罪が「頻発している」なら、新聞やテレビでくり返し報じられていたはずだが、あいにくそんなニュースにはお目にかかった記憶がない。  が、それ以上に目を疑うのは、名誉会長が「脱会者を自殺に追い込め!」との指令を発した、としている点だ。  本文中にはその根拠として、「学会本部関係者」の次のような匿名コメントを挙げている。  「名誉会長は、本年一月に、『脱会者を自殺に追い込め』との指令を出したのです。これは一月の県長会議で発表され、全国に伝達されています」と。  まず、「全国に伝達され」たという一節が大ウソの証拠だ。というのは、脅迫罪の教唆に該当するこんな物騒な発言を、わざわざ「全国に伝達」するような馬鹿な幹部がいるだろうか? 仮に、そんな馬鹿な幹部がいたとして、「全国に伝達」されたとしたなら、少なくとも数万単位の人が聞いているはずなのに、聞いた人の実名による証言が記事中にないのも、おかしな話だ。                     ◆  ちょっと考えても、おかしな話だが、それをまともに取り上げた週刊文春もかなりおかしいんじゃないか? そもそも、この記事は報道の体を成していない。大前提となっている二つの事実が、ともにあいまいなままにされているからだ。  「脱会者を自殺に追い込め」という名誉会長の「指令」、そしてそれに基づいて行われたとする「学会離脱者への暴行・脅迫」、いずれも、その根拠としているのは、またもや得体の知れない匿名コメントだけだ。にもかかわらず、「事実なら」という得意の“接続詞”をはさんで逃げを打った上で、週刊文春は思う存分、名誉会長と創価学会をなじってみせる。こんなやり方がまかり通るのなら、どんなデッチ上げでも可能じゃないか!  そもそも「事実なら」という前提で記事を書き進めるのは、ナンセンスだ。「事実なら」ではなく、それが「事実かどうか」を確かめるのがジャーナリズムの役割ではないのか?  もし、こんな“重大な発言”を創価学会のリーダーがしたとするなら、たしかに大問題である。だったら、マスコミとしてやるべきことは、「脱会者を自殺に追い込め」との発言、また「学会離脱者への暴行・脅迫が頻発している」ことのウラを取ることだろう!  いつ、どこで、この発言がなされ、いつ、どこで、誰が、誰に対してどんな暴行・脅迫を加えたのか? その暴行・脅迫のうちの何件が「自殺に追い込め」指令に基づくものなのか? そうした事実関係をはっきりさせた上で、報道をするのがセオリーではないか?  小学生が作る「学級新聞」ですら、4W1H(報道の基本条件、いつ・どこで・誰が・何を・どうした)は押さえている。それが、一つも見当らないこの記事を、臆面もなく掲載した週刊文春よ、恥を知れ! 「ルノワール絵画疑惑」報道で“学会の裏金”を断定 〈裏金15億円の受け取り人 三菱商事絵画疑惑渦中の超大物〉(九一年四月一一日号)  九一年春にマスコミを賑わせた「ルノワール絵画疑惑」。富士美術館が三菱商事から購入したルノワールの絵画二枚(『浴後の女』と『読書する女』)をめぐり、十五億円の使途不明金が発覚した事件である。  一部マスコミは、富士美術館が創価学会の外郭団体であることをとらえ、この十五億円が創価学会の裏金になったかのような報道をくり返した。なかでも一番悪質だったのが、溝口敦を筆者としたこの記事である。  「三菱商事絵画疑惑の核心は、なぜ商事が創価学会の美術館のためにウラガネ作りを手がけたのか、という点だ」とリード文で早々と断定し、本文でも、十五億円が創価学会の裏金だとくり返し断定している。  たとえば「創価学会に即していえば、同会(もしくは富士美術館)は二点の絵を四十一億円で買うことで三菱商事に五億円儲けさせた、そのかわり三菱商事の協力で十四億七千五百万円ものウラ金を得た、というのが結論になる」  といった具合だ。  このところ、司法の場で決着をみる前にマスコミが容疑者を裁いてしまう犯罪報道が問題になっているが、週刊文春と溝口がここでやっていることはそれ以上にひどい。容疑者ですらない創価学会を、捜査も進んでいない段階で疑惑の張本人として扱っているのだ。  そこまで大胆な決めつけをやるからには、それだけの根拠がなければなるまい。だが、溝口が根拠として挙げているのは、当時、創価学会に税務調査に入ったのが国税局の「料調(資料調査課)」なる部署である、ということだけ。「某全国紙の担当記者」とやらの次のようなわけ知り顔のコメントも添えてある。  「料調が調査に入った結果、『何もない、シロです』というのは九九・九%あり得ない。あったら料調のコケンにかかわることなんですよ」  例によって、週刊文春得意の“国税庁が税務調査に入ったからには脱税しているに決まっている”という論法である。税務調査に入りながら創価学会を脱税で摘発できず、「このままではコケンにかかわる」と思った何者かのリークが、ガセネタであるなどとはけっして思わないのだ。つまりだ。“某全国紙の担当記者”の「何もないわけがない」という思惑が、溝口敦の断定の根拠になっているのだ。ほかには、といえば、例によって得体の知れない「学会関係者」の匿名コメントと、脱会者・原島嵩の憶測コメント。ここに至っては、学会をタメにする意図が見え見えだ。  案の定、のちに創価学会とルノワール疑惑の間にはなんの関係もないことが明らかになったのだが、それに触れる前に、「ルノワール疑惑」の概要を説明しておく必要がある。                      ◆  この疑惑は『朝日新聞』(同年三月三〇日付)がスクープして明るみに出たが、週刊誌に“ウラ金作り”を邪推された創価学会側は、『聖教新聞』(四月六日付)ですぐさま反論している。そこには、絵画購入までの経緯について、  「昭和六十三年十二月中旬か下旬ごろ、企業コンサルタント会社社長から、弁護士で学会副会長である八尋頼雄に対し、ルノワールの絵を学会か美術館に紹介したいとの話があった。その説明では、スイス在住のフランス人が売却を希望し、画商『アート・フランス』の石原優社長が売却の委託を受けて保管しているもので、価格は、『浴後の女』と『読書する女』の二点て合計三十六億円で、権威ある鑑定もあるので心配ない、投資顧問会社社長と美術陶器店の女性経営者から持ち込まれた話であるとのことであった」と記されている。  富士美術館では、三十六億円もの巨額の予算づけをすぐにはできないことから、三菱商事にしばらく買い支えてもらうことにしたという。そして、三菱商事が三十六億円で絵を購入したのが八九年三月、富士美術館が三菱商事から四十一億円で購入したのが、九〇年九月のことだった。  三菱商事の購入額と富士美術館のそれには五億円の差があるが、これは、三菱がこの絵を買い支えた一年六か月の金利プラス手数料分として、通常のビジネス慣行に基づいた額である。つまり、十五億の使途不明金は、富士美術館が関わる以前の、画商アート・フランスから仲介者への段階で生まれているのだ。アート・フランスは別の画廊から計二十一億円でこの絵の販売を委託され、三菱商事に三十六億円で売却した。この段階で生まれた十五億円の不明金が問題とされているのだ。  先の『聖教新聞』での反論の中で、創価学会側は、「フランス人が売却を希望し」ているものと聞かされていたことを言明している。ところが、この「フランス人」は架空の人物で、実際にはアート・フランスの持ち物であった。税務調査でそのことが判明し、疑惑が表面化したのだが、「架空の人物」を売主にしたこと自体、仲介者の側に計画性があったことを暗示している。                     ◆  「ルノワール疑惑」は、九三年五月二七日に、仲介者の一人立花玲子容疑者(陶磁器販売会社「立花」取締役)が地検特捜部に脱税容疑で逮捕されたことで、一応の決着をみた。そして、それ以前から、マスコミの大勢は疑惑の焦点を仲介者グループにしぼり、三菱商事や創価学会は無関係との見方を打ち出していたのである。  じつは、立花容疑者は逮捕前に『朝日新聞』の記者に対して、脱税の犯意があったことを事実上認める発言をしていた。九三年五月二八日付の『朝日新聞』から、その部分を引用してみよう。  「ルノワール絵画の取引に加わるにあたり、仲介仲間から、『創価学会が買い手だ』と教えられ、さらに、『買い手が宗教団体だから、間に立つわれわれはいなかったことにしましょう』ともいわれた。宗教法人は収益事業しか課税されないことから、取引は税務当局に把握されないと考え、『所得は隠してもいいと思った』という」  立花ら仲介業者は、最初から所得をごまかすつもりでいたとの注目すべき証言である。  となると、創価学会はむしろ事件に巻き込まれた被害者であったのだ。  さて、立花容疑者の逮捕と証言によって、溝口の言う「十五億円は学会の裏金」説はみごとに崩れ去ったことになる。では、溝口が週刊文春で結論づけて見せた“学会の裏金説”は一体どういうことになるのだ!  ところが、溝口が、その後“自分がまちがっていた”と謝罪したという話は聞かない。つまり、さんざん創価学会を犯人扱いしておきながら、いざ真犯人が捕まってしまったらダンマリを決めこんでしまったわけである。溝口は、いますぐ、この記事に関して創価学会にキチンと謝罪すべきだ。それができないのなら、二度と創価学会のことを書くべきではない。  溝口は論外として、この記事は週刊文春が創価学会バッシングをするときの姿勢を象徴している。事実を見極めようなどという気は毛頭なく、最初から色眼鏡で創価学会を見て「疑惑」とタイトルをつけてから取材を始める――だから、溝口のようなエセ・ジャーナリストを重宝しなければならなくなるのだ。 実刑三年の恐喝犯を応援する編集部 〈創価学会幹部七人の内部告発 第一回“御本仏・池田大作”演出のカラクリ〉 (八〇年六月一九日号)  “学会の内部告発もの”ともいうべき手記を、週刊文春はこれまでしばしば載せてきた。創価学会元顧問弁護士・山崎正友の手記、元公明党都議・藤原行正の手記、同じく元公明党都議・龍年光の手記、まるで反学会手記は週刊文春の専売特許のようだ。  その手記の中でも、分量、内容の“捏造度”の高さ、ともに際立っていたのが、山崎正友の手記である。  山崎は周知のように、顧問弁護士の立場を悪用して創価学会を恐喝し、のちにその罪で三年の実刑判決を受けた犯罪者である。その山崎が週刊文春に“正義の告発者”ぶって手記を連載したのは、八〇年六月一九日号から翌年二月一九日号まで。都合八か月間、全三十三回にも及ぶ長期連載であった。八一年一月二四日に山崎は、創価学会に対する恐喝容疑で逮捕されているから、逮捕に至るまで手記を寄せていたことになる。  ただし、当初の十数回は「グループ7」名義で、〈創価学会最高幹部七人の内部告発〉と銘打たれたものだった。いねば“覆面手記”だ。のちに暴露したが、実際には山崎と原島嵩の二人による共作であったものを、さも学会最高幹部が多数加わっているかのように装い、手記のインパクトを強めたのである。書いている人間がウソつきなら、覆面をしようが、それを脱ごうが捏造手記に変わりはない!  長大な手記の中にちりばめられたウソの数々を、すべてここで紹介する紙数の余裕も必要もない。一事が万事、この手記の連載第一回、「“御本仏・池田大作”演出のカラクリ」で、その手口の一端を見てみよう。  この記事は、池田名誉会長のカリスマ性を高めるべく、側近たちがさまざまな“奇跡”を演出している、という内容だが、「演出」の例として紹介されたいくつかのエピソードが、まるで子供だましの捏造ばかりなのである。  たとえば、「池田名誉会長がたまたま長野県の孔雀を飼育しているところに行くことになった」際のエピソード。側近の一人が「孔雀は貴人の前では羽根をひろげる」という話に基づいて、飼育係と相談して孔雀を棒でつつき、名誉会長の前で無理やり羽根を広げさせた、という記事である。  「一行が孔雀の前までやってきたとき、ゴマすり男は孔雀の尻を気づかれぬよう、思いきり棒でつついた。迷惑なのは孔雀の方で、痛さのあまり横っとびにとびながら羽根をひろげた」と、見てきたようなウソを書いている。  こんな薄っぺらなウソも、孔雀の生態を知らないとうっかりダマされてしまう。  だが、一行が六七年六月に訪れた長野県小諸市の「懐古園」の飼育係が、次のような否定のコメントを寄せている。  「私は、創価学会とは直接関係はありませんが、永年孔雀の飼育をしていますから、池田会長さんが以前にこられたことはよく覚えております。六月には産卵期を迎えるのでよく羽根を広げる季節です。しかし、棒で尻をつついて羽根を開かせるなどとんでもありません。飼育者としてまちがってもそんなバカなことはしませんよ。そんなことをしたら羽根を開くどころか、逆に閉じてしまいます」  また、その孔雀の話の少しあとには、高名なカメラマン・三木淳氏をめぐる、これも悪質な捏造エピソードがある。  「たとえば写真家の三木淳氏が池田名誉会長の写真を写したことがある。このとき池田側近のゴマすりが、『三木さん、池田先生のお顔はこういう角度からはお撮りにならないよう願います』と注文をつけた。プロ写真家、天下の三木淳氏に写真のド素人が指図をしたわけである。このとき三木氏が烈火のごとく怒って怒鳴りつけたという。『馬鹿もの! そんなことばかりいってるから、お前らはいつまでも人の小使いでいるんだ!』」と。  しかし、これについても、三木氏自身が当時の週刊文春編集長に次のような抗議文を送り、全面否定しているのだ。  「貴誌六月一九日号を購入しまして記事を読んでいましたら、二八ページに、私の名前入りで記事が出ておりましたが、誠に私の癇癪持ちらしいところはよく出ていますが、池田大作氏撮影の節は、こういう事実は全くありません。『どうぞ、御自由にお撮り下さい』といわれたことはありますが、側近の人から何ら干渉めいたことを一言もいわれたことはありません」  なんと、事実を一八〇度ねじ曲げているのである。三木氏の抗議に対し、週刊文春はどう申し開きをしたのだろうか? だが、その形跡はない。それどころか、山崎の告発手記は、その後も全編にわたってこうした捏造と歪曲に満ちていたのだ。                     ◆  さらに山崎は八〇年五月ごろから、週刊文春以外の数誌(『週刊新潮』『週刊ポスト』など)とも接触。虚実入り混じった学会情報の意図的なリークをくり返している。そして、山崎を核に、かつてない大がかりな反学会キャンペーンが展開されたのである。が、その中心となったのは、またもや週刊文春であった。  創価学会は山崎を恐喝罪で告訴したため、山崎は、告訴前には創価学会を恐喝する武器として、また、告訴後にはその取り下げを狙う材料として、これらの記事を仕掛けたのだ。  創価学会が山崎の恐喝に応じて三億円の支払いに踏み切ったのは、一つには、山崎の情報操作による反創価学会キャンペーンの加速を憂えたためであったという。その意味で、週刊文春をはじめとする各誌は、山崎の犯罪に加担した“共犯者”なのだ。とりわけ、連載開始当初から捏造が明らかだった山崎手記を、長期間にわたって連載させ、山崎の言い分を一方的に報じてやった週刊文春は、山崎と同罪の“確信犯”である。 「謹告」はしたが「謝罪」ではないという“言い訳” 〈特別財務六百億円で全国各地につくられた池田大作専用“ラブホテル”〉 (八〇年七月一七日号)  捏造に満ちた長大な山崎手記に、週刊文春がまがりなりにも責任を表明したのは、グループ7名義の告発手記の第五回であるこの記事に対してだけだった。内容は、各地の創価学会会館内に名誉会長の専用室があり、それが、名誉会長が来ると「豪華なラブ・ホテル式専用室」となる、などという低劣な捏造スキャンダルだ。  ショッキングなタイトルを重く見た創価学会側が、当時の週刊文春白石勝編集長と文藝春秋社長を相手取って名誉毀損で告訴したが、のちに和解に至り、週刊文春は八三年六月一六日号に次のような小文を掲載した。  「謹告 『週刊文春』昭和五五年七月一七日号の『創価学会最高幹部七人の内部告発・第五回』と題する特集記事及びその広告文に一部不適切な表現がありましたことにつき遺憾の意を表します。  昭和五八年六月一日 『週刊文春』編集部」  だが、記事が掲載されてから三年も経って豆粒ほどの訂正記事が出たところで、創価学会の受けたダメージは回復すまい。それどころか週刊文春側は、なんと、この翌週六月二三日号の学会批判記事の中で、この「謹告」は謝罪文ではないとの“言い訳”までしている。『聖教新聞』がこの「謹告」を「謝罪文」として報じたことに目くじらを立てたのだ。  「小社は『週刊文春』五十五年七月十七日号の一部の不適切な表現――端的にいえば“ラブホテル”というタイトルに遺憾の意を表しているだけであって、記事内容全体について遺憾に思っているわけではないし、また『謝罪』という表記はいっさいしていない」と。  それにつけても「遺憾の意を表する」って何だ? “意地でもあやまらないぞ”ということか! 月刊誌『噂の真相』の名物コーナー「おわびア・ラ・カルト」を見ると、週刊文春はけっこう頻繁におわび・訂正文を出している(それだけウソ・デマ記事が多いということだ)のだが、創価学会に対してだけは、なぜか書いているウソやデマの量に比べると皆無といってよいほど謝罪している気配はない。  約四年、七十数回に及んだ創価学会恐喝事件の公判を担当した吉丸真裁判長は、第一審判決の「量刑の事由」の中で、次のように述べている。  「被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない」                             (『判例時報』一一六〇号)  裁判長は、「山崎正友は最初からウソばっかりついて、裁判中もウソの弁解やウソの証拠を出して、まったく反省していない」と、法廷で断じたのだ。  裁判官からも“ウソつき”と断定されたこの男の言い分を、週刊文春はいまでも信じているのだろうか? いや、信じるというよりは、同じ穴のムジナというべきだろう。山崎が情状の余地なしで三年の実刑判決を受け、刑期を終えて出所してきたいまも、週刊文春は創価学会中傷記事で恐喝犯・山崎のコメントを使っている。虚偽に満ちた山崎手記を連載した責任など、少しも感じていない証拠だ。  JR東日本の記事をめぐるトラブルで、駅売りを拒否された週刊文春は新聞広告を出してJR東日本に対する「おわび」を掲載した。その週刊文春が、JR東日本の場合とは比べようもないほどの捏造記事を作り、社会を騒がせたことに対する「おわび」をしないのは、なんとも腑に落ちない。  「謹告」は出しても「謝罪」はしない。販売ルートを握っているJR東日本にはヘコヘコあやまっても、創価学会にはけっしてあやまらない……週刊文春編集部は、CMの反省ザル以下と言わざるを得ない。  *三木淳氏と飼育係のコメントは野崎勲著『創価学会の真実』(毎日新聞社)より引用 第二章 かたよった記事 “公平な報道”がよくわからない? 〈大新聞の創価学会問題報道を叱る〉(八一年二月二六日号) 〈創価大学出身ジャーナリストが朝日論説委員を叱る〉(九四年一月二七日号)  週刊文春が得意とする学会バッシングのパターンの一つに、大新聞の創価学会報道にケチをつけるというのがある。その代表例がこの二つ。タイトルも似ているが中身も似ている。“我々が懸命に学会の悪を追及しているのに、新聞は報じようとしないのはどういうわけだ”と、新聞各紙の弱腰をなじるというのが基本トーンである。  〈大新聞の「創価学会問題」報道を叱る!〉は、内藤国夫が、恐喝犯・山崎正友の起訴をめぐる朝・毎・読三大紙の報道をひとまとめに批判している記事だ。内藤は、池田会長勇退など過去の事例にまでさかのぼり、三大紙の学会報道がいかに“及び腰”であるかをあげつらってみせる。内藤によれば、三大紙は学会問題の「真相を書く勇気がなく」、「臆病きわまりない」ものなのだという。また、「『一流紙』扱いされない『内外タイムス』の方が、はるかに真相に迫り、実態を伝えている」のだとも……。  べつに三大紙の報道が非の打ちどころがないほど素晴らしいと言うつもりはないが、しかし、娯楽性の強いスポーツ新聞『内外タイムス』の方が「はるかに真相に迫っている」というのは苦しまぎれのたわごとにしか過ぎない。  この記事にも引用された、「山崎起訴」を報じる各紙の中身を孫引きしてみよう。  「起訴によって刑事事件としては一応の決着をみた」(毎日)  「捜査当局が恐かつ罪の立証という“本筋”に重点を置く以上盗聴事件などの“わき筋”の解明には限界があろう」(朝日)  「今度の事件で池田名誉会長や北条浩会長らが責任を取るということもあり得ない」(読売)  対する『内外タイムス』はといえば、「成り行き次第では学会の存亡にかかわる血みどろの場面も」「メスどこまで。学会の暗部握る山崎」といった見出しに象徴される、きわめて煽情的で、創価学会に対する悪意に満ちたタイトルであり、記事内容である。  いったい、どちらがジャーナリズムのあり方として本道か?  三大紙が憶測をまじえた記事を作らないのは、記事の信頼性の高さという社会的立場からも当然のことである。また、週刊誌や夕刊紙が読者の目を引くため煽情的な記事作りをするのも、彼らがよって立つ商業主義の原理が働いているからに他ならない。が、そのちがいで週刊誌側か新聞を批判するのは本末転倒じゃないか! 『東スポ』がよくやる「マイケル・ジャクソン顔面崩壊!」などという記事を三大紙は報じないが、だからといって三大紙が「弱腰」だとは誰も言うまい。しかし、内藤はそれと同じことを言っているのである。  内藤は、過度の粉飾を施さず冷静に事実を伝えた三大紙をなじり、憶測と偏見に満ちた夕刊紙を持ちあげて見せた。彼は創価学会を叩くことが即正義であり、「真相」に迫ることと思っているのだろう。自身もかつては『毎日新聞』の記者だったにもかかわらず、ジャーナリストとしての平衡感覚をとうに失っている。その言い分は、あたかも不良高校生が優等生をいなしているかのようだ。  「ダメだよ、あいつらイイコちゃんだからよ。高校生にもなってタバコも吸えねえんだから情けねえよな。そんなに先公がコワイのか?」  ジャーナリストとしてのルール違反を常々犯していると、ルールを真面目に守っているメディアが“弱腰”に見えてくるらしい。  だが、『内外タイムス』以下だとなじられた三大紙は、この記事を読んで失笑したはずだ。いまだに新聞コンプレックスを引きずっているくせに、ジャーナリストらしい冷静な目をなくした内藤国夫の見当違いの暴言と、そんな男を重用する週刊文春の偏向ぶり、にである。  さて、もう一つの〈創価大学出身ジャーナリストが朝日論説委員を叱る〉は、内藤の記事から十年以上を経て、反学会ライターの後輩・乙骨正生が、またもや週刊文春誌上でそっくり同じことをやったもの。詳細は第四章で述べるが、要は、週刊文春の創価学会報道の行き過ぎを批判した『朝日新聞』の正論に、極論をもってかみついてみせただけのことだ。  朝日新聞社といえば、保守反動右派ジャーナリズムの雄である文藝春秋にとっては、いねば宿敵。週刊文春のみならず、『諸君!』や『文藝春秋』本誌との間でも、過去幾度となく論争がくり広げられてきた。週刊文春にしてみれば、朝日新聞の創価学会報道を批判する乙骨正生のこの手の記事は、創価学会と朝日新聞という二つの敵を一度に叩ける、まさに一石二鳥の手法なのである。  しかし、反学会というだけで、ジャーナリストとしての実績も資質もない乙骨とやらに誌面を提供する不見識もさることながら、批判されれば“叱り返す”というワン・パターンのやり口はポーズだけで切れ昧が悪いのが特徴。“公平な報道”ということがわかっていないから、そんな醜態をさらすのだ。  こんな、デッチ上げと捏造の週刊文春に、大新聞の報道姿勢をなじる資格などありはしない。 身内のことはタナに上げて“学会御用達”とかみつく 〈“聖人君子”池田大作サンの「私の人間学」を出版した読売新聞の「弁解」〉 (八八年九月八日号) 〈一面トップスクープヘの疑問 毎日新聞は創価学会の機関紙か〉(九三年九月二三日号)  朝日新聞との確執もあって、週刊文春は朝日を標的にすることが多いが、もちろん、毎日も読売も、わずかでも創価学会との“接点”があれば、たちまち叩かれる。それも、じつに理不尽な叩き方をするのだ。ここに挙げた二つは、その顕著な例である。  前者の〈“聖人君子”池田大作サンの「私の人間学」を出版した読売新聞の「弁解」〉は、読んでみればなんのことはない、池田名誉会長の著作『私の人間学』が、読売新聞社から出版されたというだけの話。この本を出版するために創価学会が裏取引でもしたのならともかく、「弁解」する必要がどこにあるというのだろう。  そもそも、ほかならぬ文藝春秋も、池田名誉会長の著作を出版したことが一度ならずあるではないか! 『私の釈尊観』(七三年刊)、『二十一世紀への対話』(七五年刊)、『私の人生観』(七〇年刊)の三冊は、いずれも文藝春秋から刊行されたものなのである。著作を出しただけで「読売さん、いつから、学会御用達になったのか」というのなら、文藝春秋もかつては“学会御用達”だったということになるじゃないのか。文藝春秋が“学会御用達”だったことには口をつぐんで、読売を批判するなんて、あまりに身勝手過ぎる。知らなかったじゃ済まされないので、念のためこの三冊の写真を載せておく。                    ◆  『毎日新聞』は、『聖教新聞』の印刷を関連会社(東日印刷)が請け負っていることもあって、最近しばしば“学会寄り”の濡れ衣をかけられている。ここに挙げた〈毎日新聞は創価学会の機関紙か〉は、中でも強烈な印象を与えるものである。  中身はといえば……創価学会は九三年九月七日、本尊の独自下付(宗門の手を通さない下付)を決定したが、毎日がこれをスクープ、同日夕刊の一面トップで報じた――要はそれだけのこと。“他紙に比べて記事の扱いがあまりにも大きい。学会との間に裏取引があったのではないか?”というのが週刊文春の邪推だが、当然ながら記事中にある『毎日新聞』側の弁明の方が、はるかに筋が通っている。  「(注・文春の)指摘は見当外れ。他紙は『抜かれた』のです。しかも、在京各紙は『追いかけ』であったにもかかわらず、一面もしくは社会面で三〜四段の見出しで報じています。共同通信、時事通信も追いかけの配信をしており、各社とも重大なニュースと判断していたものと推測できます」(近江邦夫・毎日新聞社編集局次長のコメント)  結論として、反学会寄りに思いきり偏向している週刊文春の位置からは、公正中立な記事でさえ、もはや学会寄りに見えてしまうのだ。このテの記事は、“ウチの雑誌はこんなに偏向してますよ”と、大見出しを打って触れ回っているに等しい。  名誉会長の著作を出せば「学会寄り」で、一面トップで学会のことを取り上げれば「学会寄り」……週刊文春は、誰かが創価学会に近づくと吠えかかる“おせっかいな番犬”もどきである。  いちいちこんな記事を書かれるようでは、各紙の創価学会がらみの記事の扱いに影響を与えかねまい。“売れれば官軍”の週刊誌とちがい、新聞にとって「偏向」のレッテルを貼られることは致命傷だからだ。“下手に学会のことを取り上げると、また週刊文春に学会寄りと叩かれる”――そんな心理が新聞サイドに働くことも週刊文春は計算づくでやっているとしか思えない。あまりにも身勝手な言いがかりだ。  それにしても、創価学会に近づくと吠えかかる週刊文春の“ナワ張り意識”は、はた迷惑だ。 悪意があればいくらでも悪く書ける見本記事 〈「出廷」のイメージダウンもどこへやら 池田礼賛をブチ始めた創価学会の“逆襲”〉 (八二年一二月二日号)  『月刊ペン』裁判とは、総合月刊誌『月刊ペン』七六年三、四月号に載った池田名誉会長に関する悪質な捏造記事に対し、筆者でもあった同誌編集局長・隈部大蔵(故人)を学会が名誉毀損で告訴したものである。  記事の中身は、名誉会長が複数の学会婦入部幹部、また女子部の幹部と男女関係にあったというものである。しかしこれは、筆者の隈部が裏づけ調査をせず、得体の知れない怪文書を主な情報源としてデッチ上げた記事だった。  が、そうした背景については、『月刊ペン事件の内幕』(丸由実著・幸洋出版)などの詳細なレポートに譲ろう。ここで述べたいのは、その裁判を週刊文春がどのように報じたか、である。  よくも悪くも世間の耳目を集めたこの裁判の経過は、当然、週刊誌のほとんどが報じた。しかし、それらを読み比べると、同じ事柄がこうもちがって映るものかと驚いてしまう。特に、比較的冷静な報道をする新聞社系週刊誌の報道と読み比べると、週刊文春の偏向ぶりが際立って見える。  たとえば、「お手つき」呼ばわりされたスキャンダルの当事者・渡部通子参院議員(当時)が証言する場面は、各誌によって次のように描かれた。  まず、週刊文春と週刊新潮では、  「“本日の主役”は、不敵ともおもえる笑みを浮かべての入廷、たちまち証言はシドロモドロ」(週刊文春)  「大作センセイ好みの広いひたいを前髪で隠しての登場、“笑止千万”な証言ではあった」(『週刊新潮』)  とあるが、これが新聞社系週刊誌になると、  「あるときは語気を強め、またあるときは軽くいなすように、弁護側の法廷証言をことごとく否定していった」(『週刊朝日』)  「よゆうたっぷりに、池田出廷に向けての露払いとしてはまずまず」(『週刊読売』)  この恐るべき落差! 書く側に悪意があれば、事実ではなくイメージで人を貶めるのはたやすいことなのだ。  週刊文春は裁判の経過をたびたび紹介したが、その内容は一貫してこの種の悪意に満ちていた。たとえば、この裁判の“クライマックス”ともいうべき名誉会長の証人出廷を報じた記事を取り上げてみよう。「出廷による名誉会長のイメージダウンと組織の混乱を、『聖教新聞』は池田礼賛記事で必死に取り繕おうとしている、御苦労なことだ……」といった調子の記事だが、そこには、名誉会長の法廷での証言ぶりが、次のように報じられている。  「法廷では肝腎の場面になると、『知らない』『記憶にない』を連発。被告弁護側の質問主旨も満足に理解できず、トンチンカンな答えをして、傍聴席の失笑を買う一幕もあった」  これは事実の報道ではない、かたよった偏向記事である。なぜなら、これらはすべて印象批判であるからだ。書き手(文春側)が「肝腎な場面」と感じても、本当はどうでもよい場面であったかもしれない。書き手には「トンチンカン」に聞こえたとしても、本当は理路整然と的を射ていたかもしれない。書き手の印象をあたかも事実の報道のように書いているだけである。ある人が笑みを浮かべたとき、書き手の気持ち一つで「やさしく微笑んだ」とも「いやらしくニタついた」とも書ける。そうした視点、見方の部分が悪意に満ちているから、偏向だというのだ。  いっぼう、『月刊ペン』側か裁判で見せた「トンチンカンな」言動は、週刊文春ではけっして触れられなかった。たとえば、差し戻し審で被告の隈部がした証言に、次のような一節があった。  「昭和四十一年四月六日午後三時頃、箱根仙石原の学会施設で、池田会長が『人間革命』の執筆をして疲れたため、小田原の女性会員に酒を持ってこさせ、酌をさせ、酒一合を空けてから云々……」(趣意)  この話を隈部は、内閣調査室に出入りする友人から見せてもらった秘密資料で読んだというのだが、名誉会長は昔も今もまったくの下戸で、自ら酒をたしなむことは皆無であるという。  ちなみに、この証言は別の角度からも突き崩された。くだんの昭和四一年四月六日には、名誉会長は総本山大石寺(富士宮市)での「霊宝御虫払い大法会」に参列しており、そのことは『聖教新聞』の四月七、八日付のそれぞれ一面で報じられていたのである。大石寺にいた池田会長(当時)がどうして箱根仙石原に行けるというのだ。  検事がその『聖教新聞』を示して追及すると、なんと隈部は「『聖教新聞』は信用できない」と言い放ったのである! 大勢の目撃者がいる会合の報道記事をである。これには裁判長も驚いて、「三千四百人(注・大石寺での大法会の参列者数)もの人間がいる場での出来事について、『聖教新聞』はウソを書くということですか?」と隈部に尋ねたほどだ。  トンチンカンもきわまった証言だが、やはりこれも、週刊文春誌上では不問に付されている。要するに、週刊文春は都合の悪い部分は隠して、記事を操作しているのだ。 たとえ裁判に勝っても、学会だけはさらに悪く書く 〈罰金たった20万円 これだけ恥部をさらして勝利に踊れぬ創価学会の歯ぎしり〉 (八三年六月二三日号)  『月刊ペン』裁判は、一審、二審、最高裁と進み、東京地裁に差し戻された。そして八三年六月、差し戻し審でも隈部を有罪とする判決が下った。ところが、それを報じた週刊文春の記事タイトルが、右のようなものだったのである。ここでも、裁判の中の都合のいい部分、つまり創価学会の悪印象を増幅する場面ばかりを紹介するという偏向ぶりは改まっていない。それどころか、リード文によれば、隈部への有罪判決も「限りなく無罪に近い有罪」なのだという。要するに、“裁判には勝ったが、それでも池田はアヤシイ、学会は悪だ”と読者に思わせるものになっているのだ。  くり返すが、創価学会は勝訴したのである。罰金が十万だろうと二十万円だろうと、勝訴は勝訴ではないか。それを罰金「たった二十万円」と書く、こんな卑しい週刊文春に公正な報道など期待できない。  ある裁判を公平に報道しようとするなら、判決が下るまでは原告・被告側のいずれにも片寄らない報道姿勢が要求される。それでも、犯罪報道では、マスコミが原告側に肩入れし過ぎて、その偏向が批判されることもままある。ところが、週刊文春がやっているように、原告側(=創価学会)だけを一貫して悪者扱いするような極端な転倒は、マスコミ史上でもまれなのだ。  さらに週刊文春は、裁判でようやく法的正義を勝ち取った創価学会に追い討ちをかけるような中傷記事を書き、なお悪者扱いしたのである。  もし週刊文春にまともなジャーナリズムとしての感覚があるなら、隈部に対する有罪判決が下った時点で、裁判中、隈部を擁護してきた不明を詫びていたはずである。だが実際には、彼らはまったく逆のことをやってのけた。  『月刊ペン』裁判は、結果的には創価学会のイメージダウンにつながってしまった。なにしろ、裁判の経過がおもしろおかしく報じられ、勝訴したことでさえ学会叩きのネタにされてしまったのだから……。  おそるべきは、言論の暴力だ。裁判で勝っても正義を認められないのなら、創価学会や会員は、いったいどうやってその潔白を証明したらよいのか?  週刊文春が『月刊ペン』裁判報道でやったことは、法治国家の根幹である司法制度をコケにし、無視した行為である。  ここで思い出すのは、あの山崎正友のことだ。かつて顧問弁護士をつとめていた創価学会に対する恐喝罪で懲役三年の実刑を受けた山崎。週刊文春は、早い時期から山崎の情報をもとに学会批判記事を作り、また手記を連載するなど、山崎を一貫して援護してきた。彼が裁判で有罪となり服役したにもかかわらず、出所後さっそく記事中でコメントを使うなど、学会批判の場で“重用”している。  つまり週刊文春は、学会側が原告である裁判については、一貫して被告側に立ってきたのである。被告が有罪になっても、実刑を受けて刑務所に入っても、なお被告側に立ち続ける――偏向もここまで徹底すれば、なにをか言わんやだ。  『月刊ペン』裁判で見せた“無法”体質こそが、週刊文春の正体である。公正中立とは、まったく無縁の“無法ジャーナリズム”に、そもそも正しい報道を期待しようというのが間違いなのだ。  *注 『月刊ペン』裁判は、差し戻し控訴審で有罪判決が出たあと、被告人・隈部大蔵が上告中に死去(八七年二月一七日)したため、厳密に言えば判決は未確定である。が、この記事はあくまで差し戻し控訴審の判決について報じたものなので、「勝った」という表現を用いた。ただし、一審、二審、差し戻し後の一審、二審のいずれにも隈部は有罪判決を受けている。また、最高裁が差し戻した理由も、「記事内容が事実である」と認めたからではなく、創価学会という巨大宗教団体の長に関する“風聞”が「公共の利害に関するもの」にあたる(したがって、もし記事の内容が真実であれば名誉毀損の罪責を免れる理由になり得る)から、その点についての証拠調べをするべきだとしたためであった。 悪いことをしなくても学会はいつでも叩ける 〈6億なんてへでもない 僧侶誘拐事件で改めて知る金満池田学会のカネ・カネ・カネ〉 (八九年一一月二三日号)  事件の被害者を悪者扱いする――そんなバカげた記事が、週刊文春の創価学会報道にはしばしば見出せる。たとえば、八九年一一月七日の僧侶誘拐事件の報道がそうであった。大分県別府市の日蓮正宗寺院・寿福寺の玉沢研済住職が、二人組の男に誘拐され、創価学会が六億円の身代金を用意した事件である。翌八日に犯人は逮捕され、事件は解決したが、そのとき週刊文春はどう報じたか? なんと、犯人を非難するのではなく、身代金を用意した創価学会をここぞとばかり非難してみせたのである! これには仰天した。  逮捕された犯人二人のうち、一人は末端の会員であった。週刊文春は、このことを鬼の首でも取ったように騒ぎ立て、「学会自体の乱れ」がこの事件を引き起こしたのだと言う。また、学会側が六億円の身代金を迅速に用意したことをとらえ、創価学会の経理の「ズサンな管理」のあらわれであると断じてみせた。  いったい、創価学会はなにか悪いことをしたのか? 人命を尊重し、身代金を用意しただけではないか。  たとえばの話、週刊文春の編集長が誘拐され、犯人から莫大な身代金が要求され、文藝春秋がそれを用意したとしよう。そのとき、マスコミは文藝春秋を叩くだろうか? 否である。〈金満文藝春秋のカネ・カネ・カネ〉などという記事は、けっして作られないはずだ。  そもそも、この誘拐事件に際して、それでは学会はどう対応すればよかったというのだろう? もし学会が要求に応じず身代金を用意しなかったら、週刊文春はどんな記事を載せたか、いつもの手口にならってシミュレートしてみよう。 〈僧侶の命など知ったことか! カネあまり池田学会が、それでも身代金を払わなかった「背景」〉〉  まあ、こんなところだろう。どちらに動いても創価学会はバッシングのうき目にあったはずだ。週刊文春にとっては、創価学会を叩けるという一点のみが最大の関心事なのだ。  それにしても、誘拐事件の報道でまっさきに“カネの出所”を詮索するなど、週刊文春は尋常な感覚ではない。 海外の批判報道ならどんな記事でも三ページに 〈町議会が進出に猛反対 カナダでも忌避された池田大作〉(九一年一〇月二四日号)  NSC(カナダ創価学会アカデミー)が文化会館を建設する申請をカナダのカレドン市に出したところ、住民の反対運動にあって建設が中止になったのだそうだ。この記事はその顛末を、悪意たっぷりに紹介したものである。週刊文春は地元紙の記事をなんらの検証もなくそのまま紹介し、まるで創価学会が悪いことをしたかのように決めつけてみせる。なにより、悪態をつくリード文が強烈だ。  〈大作サン一人が赤っ恥をかくのは勝手だが、これで「仏教」やら「日本人」やらがまとめてバッシングでは大迷惑。さぁ、どうしてくれる!〉  いったい、いつから週刊文春は日本人の“代弁者”になったのか? ましてや、宗教そのものを蔑視する記事を作り続けてきた週刊文春が、いまさら仏教のイメージダウンを心配するのは余計なお世話である。  ここで問題にしたいのは、海外の学会報道を紹介する際の、週刊文春の偏向し切った姿勢についてである。  “どこそこの国では創価学会はこんな風に叩かれている”と、海外の批判記事の内容を紹介するのは、最近の週刊文春の得意パターンの一つだ。  こうした記事が会員に与えるインパクトは、非常に強烈である。なぜなら、「池田名誉会長を中傷するのは偏狭な日本のマスコミだけ。海外では偉大な指導者として評価されている」というのが、会員たちのコンセンサスであるからだ。日本の雑誌の学会バッシングにはなかば免疫ができている会員たちも、これら「海外でも……」式の記事にはショックを受ける。もちろん週刊文春も、そうした会員心理を読んだ上で、この手の記事をくり返し作っているのだ。  なにしろ海外の話だから、会員には事実確認がしにくい。また、事実誤認をとらえて抗議しようにも、「海外のマスコミが報じた内容を紹介しただけ。ウチに責任はない」と開き直られればそれまでだ。また、批判記事をそのまま訳して紹介すればいいのだから、取材の手間もかからない(実際、この〈カナダでも〜〉の記事でも、週刊文春得意の徹底取材をかけた痕跡はない)。うまいことを考えたものである。  もちろん、その報じ方が公正中立なものであれば、文句をつける筋合いはない。しかし週刊文春は、海外のマスコミが学会を肯定的に報じた場合にはそれを紹介せず(おちょくりの形で紹介することもあるが)、批判的な報道だけを選りすぐって取り上げる。しかも、そのことをもって、あたかも批判的な報道ばかりがあるかのように書くのだ。ここにも恐るべき偏向の構図がある。  創価学会の平和・文化運動を好意的に取り上げた海外の報道は、いまでは枚挙にいとまがない。だが、週刊文春は、一度たりともそれらは取り上げず、遂に、批判的な報道ならどんなチンケな記事でも喜んで紹介するのだ。カナダの田舎町の地元紙の報道が、週刊文春の手にかかると、カナダの国中で問題になっているかのように粉飾されてしまう。  日本には情報が入らないのをよいことに、針小棒大のまやかし記事を書くのもいいかげんにしろ! 海外の中傷記事引用のオソマツ 〈アメリカ、ドイツでも悪評フンプン 池田大作は世界の鼻つまみ〉(九一年七月四日号)  ドイツ、フランス、アメリカ、カナダと四か国にまたがる学会バッシングの模様を報じた、この手の記事の集大成ともいうべきものだ。が、そこに紹介された内容をくわしく見ていくと、「このままいくと仏教と日本のイメージダウンは避けられない」(リード文)と騒ぐほどのことではない。  たとえば、ドイツの経済紙『ハンデルスブラット』に報じられたという記事の内容は、日本の週刊誌による創価学会バッシングを、東京在勤の同紙特派員が鵜呑みにしてなぞっただけのものだ。  この記事を書いたフォン・アンドレアス・ガンドウという記者は、はたして独自取材をして書いたのか? そうではあるまい。週刊文春などの捏造記事を参考にして書いたわけだから、その内容も察しがつこうというもの。なんのことはない、週刊文春は、捏造記事の“逆輸入”をやってのけているのである。  そして、この記事でなにより噴飯ものなのが、フランスの創価学会報道についての部分。フランスの大衆紙『パリジャン』がSGI(創価学会インターナショナル)フランスを中傷した記事を紹介している。週刊文春は、『パリジャン』の記事を引用してさんざん創価学会をコケにしたあと、「詳細は今後の展開に待たれる」と書いているのである。そこで、週刊文春が思わせぶりに書いた“今後の展開”がどうなったかを調べてみた。すると、SGIは『パリジャン』の版元を名誉毀損で訴え、九三年一〇月二二日の控訴審において「全面勝訴」しているのである。  ところが、「詳細は今後の展開に待たれる」としておきながら、SGIの勝訴の事実を報じていないのは、どういう了見なのか? 少なくとも、読者に対してはその事実を報道する責任があるはずじゃないか!  この訴訟で創価学会がもし敗訴していたら、週刊文春はここぞとばかり学会バッシングをくり広げたことだろう。ところが、創価学会が勝訴してしまったものだから、ダンマリを決めこんだというわけだ。これは卑怯きわまりない態度である。報道のルールもエチケットもあったものではない。  そもそも『パリジャン』の中傷記事は、一読してすぐにヨタ記事とわかる、低劣さを売りものにしている。たとえば、SGIの拠点が原子力センターの近くにあることなどを根拠に、“SGIはフランスの軍事機密を狙うスパイ組織である”と決めつけている。いくら週刊文春だって、創価学会がスパイ組織だとまでは思っていないだろう。  が、週刊文春は、この一目瞭然のヨタ記事を、わざわざ中身をボカして紹介し、“フランスでも悪評ふんぷん”というイメージだけを読者に伝えようとした。あざといやり口である。  ちなみに、『パリジャン』は記事中でSGIを「軍隊的セクト」と表現。裁判ではこれが大きな争点となった。『パリジャン』側は、学会が「軍隊的セクト」であるとの証拠として、八二年にフランス国会に提出された『アラン・ヴィヴィアン報告書』なるもので同様の表現が使われていた、と反論した。しかし、この報告書はSGIフランスの脱会者、ダニエル・プランの根拠なき中傷を鵜呑みにしたものだった。公判の過程で、学会が「軍隊的セクト」であるとの『パリジャン』側の主張は、まったく根拠のないものであるとして否定されたのであった。  英国法廷弁護士で、ヨーロッパのジャーナリズムにくわしい、作家の益田洋介氏は、こう語る。  「フランスのマスコミのSGIバッシングはかなり大がかりなもので、『パリジャン』紙以外にも複数の雑誌・新聞が中傷記事を載せました。しかし、学会側が次々と名誉毀損裁判を起こして、これまでに第一審勝訴が九件、控訴審勝訴が一件あります。SGI側の全面勝利ですね。マスコミもそれで懲りたんでしょう。九三年以降、フランスでは、その手の中傷記事はまったくなくなりました。この週刊文春の記事だって、向こうなら充分名誉毀損の対象になり得るものです。『パリジャン』の記事を、なんら確認もせず鵜呑みにして紹介しているわけですから。だいたい『パリジャン』なんて、いいかげんな大衆紙です。天下の週刊文春が、そんな新聞の引用で記事を作るなんて情けない話ですよ」  欧米諸国に比べると、日本の場合は法廷が認める名誉毀損の範囲がきわめて狭いとされる。それをよいことに、雑誌ジャーナリズムがかたよった記事を書き立てるのだ。  週刊文春などの日本の創価学会バッシング記事を鵜呑みにして海外のイエロー・ジャーナリズムがSGIを既め、その海外記事を週刊文春がまた“逆輸入”して創価学会を貶める。こんな愚劣な悪循環は、早く断ち切らないと、日本のマスコミは世界の“笑い者”になる。 第三章 タイトルのまやかし 事実は“百二十分の一”しか書かれていない 〈創価学会5万人の反乱が始まった! ついに出た“御供養金”返還の集団訴訟〉 (七九年一○月一一日号)  週刊文春の創価学会批判記事には羊頭狗肉のものが多いが、これはなかでも図抜けてひどい。  内容は、七九年一〇月一日に、脱会者たちが、かつて学会に出した寄付金を返せという訴訟を起こしたことを報じたもの。この訴訟自体、信仰上の問題であり、週刊誌記者にことの善悪を判断できる類のものではない。  しかも、タイトルに「5万人の反乱」とある。ところが記事を読むと、実際に訴訟を起こしたのは四百十四人しかいない。では、五万人という数字がどこから出てきたのか、それはなんと、「最終的には五万人にのぼる人間が訴訟に加わってくるだろう」という、手前勝手な予想なのだ。しかも、その予想の根拠がどこにも示されていないのだ。それなのに“5万人の反乱”などと平気でタイトルに謳うとは、いくらなんでもやり口が汚くはないか? 「話半分」という言葉があるが、このタイトルの水増しはそんな生やさしいものではない。なにしろ、四百十四人が五万人に化けてしまうのだから……。割ってみれば、じつに百二十倍の水増し! 広告ならば誇大広告で告発されているところだ。四百十四人が訴訟を起こしたのなら、タイトルにも〈創価学会四百十四人の反乱!〉と書けばよいではないか? やがて、これぐらいにはなるだろうという予想で断定的なタイトルをつけられるなら、二十万でも三十万でも書ける。これはあきらかにサギだ。  週刊文春の記事は、「話半分」どころか「話百二十分の一」で読むのがちょうどよいということだ。たとえばの話、〈脱会者二千人が総決起!〉などという記事が出たら、実際に“決起”したのは十五、六人くらいだな、と判断すればよい。  羊頭狗肉のタイトルには、会員の信仰心をぐらつかせ、学会組織を揺さぶる“狙い”がある。実際には蚊が刺した程度のことでも“致命傷だ! 瀕死の状態だ!”と騒ぎ立て、動揺を誘うのだ。週刊文春のこうしたやり口は、ジャーナリズムというよりは諜報組織のアジテーター(煽動家)のようだ。  それにしても、訴訟に加わった人数は、結局どの程度まで増えたのか? 五万人にどのくらい近づいたのか、ぜひとも週刊文春誌上で発表してもらいたいものだ。百二十倍に水増しした数字ではなく、実数で!  それができなければ、これからは週刊文春の記事は“百二十分の一”で読むまでのことだ。 “高級イクラ”で脱税を匂わせる無茶苦茶 〈国税庁に厳重注意された 池田大作の「高級イクラ疑惑」〉(九〇年九月二〇日号)  これは、週刊文春のタイトルのいかさまを象徴する記事である。このタイトルから読者はどんな連想をするだろう? 「疑惑」というからには、ロッキード疑惑やリクルート疑惑と同等の大型経済疑惑を、誰もが想像する。“はて、それにしてはこんなの聞いたことないけど?”といぶかしんで読んでみると――。  四ページ立ての記事だが、奇妙なことに、そのうち三ページ以上が、宗門問題関連の記述で埋められている。タイトルは週刊文春得意の「脱税疑惑」記事なのに……。  そして、最後の部分に申しわけ程度、タイトルの「高級イクラ疑惑」の中身に当たる部分があるのだが、これがなんとも拍子抜け。聖教新聞社の社員食堂の仕入帳簿に「高級イクラ十人分」とあったのを、税務調査にきた調査員が見とがめたというだけの話なのだ。社員食堂で出すにしては高すぎるし、社員全員に行きわたる量ではない、というのである。  この一事を、週刊文春は、“池田家の食費を聖教新聞社の経費で落としている不正の証拠”とし、そこから創価学会の“大規模な脱税”をにおわせる。思わず笑ってしまうほど強引な、こじつけ論理の展開である。  国税局員が帳簿の記述を見とがめてうんぬん、ということが実際あったかどうかは知らない。しかし、それならばキチンと、その不正を記事にすればいい。茶化すにしても、あまりにも度がすぎている。これは「高級イクラ疑惑」とタイトルに打つほどのネタではない。  「高級イクラ疑惑」とまで謳うからには、“高級イクラ大量密輸にからむ創価学会の政界裏工作”くらいの話が出てこないと、読者は納得しないだろう。それが、社員食堂のイクラ十人分? 羊頭狗肉もほどほどにしろと言いたくなる。この程度のことで“疑惑”扱いされるのなら、大企業の役員食堂は“疑惑”だらけになる。  察するに、週刊文春側は、この税務調査で学会側の脱税が発覚すると踏んでいたのだろう。だからこそページをあけて待っていたのに、結果はシロ。そこで仕方なく、「イクラ疑惑」を仕立ててお茶を濁したというわけだ。  この奇抜なタイトルで読者をだました当時の花田編集長は、月刊誌『新聞研究』九三年一一月号に寄せたエッセイ「中身あってのタイトルです」で、こう書いている。  「読者の眼は厳しい。羊頭狗肉のタイトルで買い続けてくれるほど甘くはないのである」  よくぞ言ったり、である。九五年、その花田氏が編集長である『マルコポーロ』二月号の「ナチ『ガス室』はなかった」なる捏造記事が原因で、同誌は廃刊に追い込まれた。読者うけを狙ったタイトルが“あだ”になって、国内外の人権擁護団体や広告クライアントなどから非難されたあげくの廃刊である。「中身あってのタイトルです」などと言っているが、中身がなくとも“タイトルでごまかす”のが、週刊文春のやり口じゃないのか? 「羊頭狗肉」のタイトルで読者を欺き、買い続けさせようとしてきたのは、他ならぬ週刊文春ではないか! 「読者の目は厳しい」などと、もっともらしく言っているが、内心では“読者をだますのはわけない”というのが、創価学会報道にも見られる週刊文春のタイトルのまやかしなのだ。だが、花田編集長は『マルコポーロ』でこの自らの言葉を証明してくれることになった。                     ◆  創価学会が脱税しているという話は、週刊文春誌上では既成事実であるかのように扱われている。この手の“脱税疑惑記事”での週刊文春の基本トーンは、“国税庁無謬論”である。学会に国税庁の税務調査が入った時期には、“税務調査が入ったからには脱税しているに決まっている”という記事を載せ、税務調査が空振りに終われば終わったで、“税務調査が入ってシロということはあり得ない。学会が隠蔽工作をしたにちがいない”と書き立てる。  いまだに創価学会が脱税で摘発されたことがないにもかかわらず、いやが上にも脱税をにおわす“タイトルのまやかし”を週刊文春はいつまで使い続けるつもりか! こじつけタイトルで疑惑を煽る 〈創価大学ロス疑惑 大物議員トム・ヘイドンが「ノー・モア・ダイサク」〉 (九一年一〇月一〇日号)  カリフォルニア州議会議員のトム・ヘイドン氏が、SUA(アメリカ創価大学)の新キャンパス建設計画が環境破壊につながるとして、反対運動をしているのだという。この記事はヘイドン氏にインタビューし、その言い分を三ページ使って報じたもの。ロサンゼルスにある大学にからんだ話だからといって「ロス疑惑」とは、ひどいタイトルもあったものだ。これも例の“タイトルのまやかし”に他ならない。  リード文には「池田創価学会の腐臭は、いまや海を越えて全米に広まりはじめた」とあるが、読んでみると、氏の言い分にはおかしなところがたくさんある。  たとえば、SUAがロス郊外の「国立公園に属する」土地を買収し、そこに大学を建設しようとしている、という部分。常識的に考えてみても、国立公園の中に私立大学が建設できるものだろうか、との疑問を抱く。  また、大学を建設することが環境破壊につながるというのも、ずいぶん強引な理屈のうように思える。なにも工業廃水をまき散らそうというのではないし、軍事演習場を作ろうというのでもない。大学建設に反対する環境運動など、日本では聞いたことがない。  さらに、SUAの大学としての資格を疑問視する部分もある。  「彼らは大学と名乗っていますが、実際は大学ではありません。少数の日本人学生のみが相手の英会話教室で、単なるビジネスの色彩が強い。これを“ユニバーシティ”と称するのは、全く不正直です」と。  環境破壊しているといわれたうえ、大学ですらないといわれたのでは、SUAとしても聞き捨てならないだろう。そこで、大学側の言い分を聞いてみた。取材に応じてくれたのは、SUAの広報担当、ジェフ・オーバン氏。  「まず、SUAの土地は、サンタモニカの国立公園に属する土地ではありません。もともと私有地で、住宅開発の認可もおりている土地です」  記事の前提からしてまちがっている。いや、まちがいというより虚偽である。そして、その虚偽に基づいて、ヘイドン議員はSUAを批判してみせる。  「学問をするのが目的なら、どうしてこの土地に固執するのでしょうか? 宮殿でも作ろうというのならば、確かに絶好の土地ですが……」  開発の権利を有する私有地であるからには、これは大きなお世話というほかはない。というよりも、差別的発言である。ヘイドン議員の次のような言葉にも、差別の意図が明らかである。  「ここは山の頂上に位置し、美しい海が四方に見える、最も眺望の優れた土地であり、全ての市民の憩いの場として開放されるべき場所です。ところが“SOKA”は、ここに私立大学を作って囲い込み、環境を破壊しようとしているのです」  眺望の優れた美しい土地に大学を建設しようとする、当然ではないだろうか? 誰もわざわざ見晴らしの悪い、環境劣悪な土地を選んだりはしない。ところがヘイドン議員は、SUAが美しい土地に大学を建てること自体を許さないというのだ。これはもはや人種差別である。“こんな素晴らしい土地に日本人の大学など建てさせてたまるか”、ヘイドン議員がそう言っているように思えてならない。  次に、この記事の核である「SUAが環境破壊をしようとしている」という批判について、オーバン氏の反論を聞こう。  「私どもは現在、学生数三四〇〇名。記事では五〇〇〇名となっていますが――。建設プランをロス郡計画局に申請中です。プランを出す前に、あらゆる角度で建設用地の環境保護調査を実施しており、その結果に基づくプランです。環境に対する配慮も充分に尽くしております。また、SUAでは学内に『環境保護センター』をオープンし、サンタモニカ地域に生息する植物の育成・保護に力を注いでいます。ここでは、これまでに三〇〇種類の植物育成に成功しており、この種の施設としてはロスでもトップ・ランクの規模です。州公園局などからも、この活動は高く評価されています」  ところが、週刊文春の記事は、こうした事実にまったく触れていない。また、「環境を破壊しようとしている」と煽るだけで、SUAの建設計画にどのような環境破壊の恐れがあるのか、具体的なことはいっさい書かれていない。週刊文春お得意の、ことの本質には踏み込まない“イメージ批判”である。  “SUAはユニバーシティと呼ぶに値しない”との批判についてはどうか?  「とんでもない言いがかりです。まず、現在のSUAは、日本の創価大学の分校ではありません。アメリカで認可された非営利法人であり、カリフォルニア州の高等教育審議会から正式に認可を受けた、れっきとした大学です。九四年九月からは大学院も開校して、世界各国からの学生を受け入れています」  記事の細部について話を聞けば聞くほど、週刊文春の虚偽と捏造が浮き彫りになってくる。そして、記事はなんと、SUAへの批判を強引に創価学会全体への批判に結びつけようとする。  「(土地買い取りの)莫大な費用は、日本の創価学会からの寄付によっていた。しかもその寄付は、公益法人の名の下に無税。  当然、『これは脱税ではないか』という声がアメリカの世論から起こって来る。この非難をよそに、昨年十一月『五千人の大学建設』計画が打ち出されたのだが……」  この説明のすぐあとには、SUAが「合衆国の“法の抜け道”を利用している」というヘイドン議員の言葉もある。SUAが創価学会の脱税に利用されているというのである。ただし、週刊文春の記事では「SUAが脱税している」とは断定していない。あくまでも“アメリカでの噂”と“ヘイドン議員の言葉”を紹介しただけ、というポーズに終始し、週刊文春の責任ではないという逃げを打っている。巧妙で、ずるがしこいやり口だ。  オーバン氏によれば、ヘイドン議員の要求により、九一年にSUAに対する税務調査が行われたという。だが、その結果は百パーセントのシロ。連邦税務局、州税務局、郡税務局のいずれもが、SUAの経理にはまったく問題なしと認定したのだ。  また、大学建設計画についても、SUA側か提出した建築マスタープラン申請に対し、郡当局によるEIR(環境報告書)の審査が最終チェックの段階に入っているという。審査終了後は、このEIRが郡計画局から住民に公表され、公聴会が開かれる。SUAが環境破壊をしようとしているか否かは、このEIRの結果によってこそ正式に判定されるはずである。  だが週刊文春は、そうした「その後の展開」をいっさい報じていない。政治的な意図をもって建設反対運動をしてきた議員の言い分を大々的に報じておきながら、SUA側に有利な「その後の展開」についてはダンマリを決め込むのだ。いつもの手口である。  記事中のヘイドン議員の談話は、次のように結ばれている。  「“SOKA”は自らの行為でジャパン・バッシングに“貢献”しているのです」  だが、創価学会を叩くために不当なジャパン・バッシングに喜んで加担し、一議員の一方的な言いがかり(ないしは曲解)を検証もなく報じる週刊文春の存在こそ、「日本人にとっても重大な問題」なのだ。 内藤の妄想“レリーフ事件”とは 〈“裸の池田大作”像〉(八一年一二月三日号) 〈「正本堂 池田大作ヌード事件」に周章狼狽する創価学会と日顕上人のウソ〉 (八一年一二月一〇日号)  中身を読まず、新聞広告等でタイトルだけ見た人は、どんな連想をするだろう? 「正本堂という場所で、池田名誉会長が全裸になってなにか事件を起こしたのか?」――そう思っても不思議はない。いや、そう思うように仕向けているのだ。しかし事実は「事件」ですらない。  日蓮正宗総本山大石寺の正本堂正面に置かれた「大前机」の前面に、彫刻家小金丸幾久氏の手になる「衆生所遊楽」と題されたレリーフがあった。中心にリンゴの木を置き、子供たちがたわむれ、両端にそれを見守る男女の大人たちのくつろぎのポーズを配したレリーフだ。  ところが週刊文春は、このレリーフに描かれた男性の顔が名誉会長に似ていることを(言われてみれば似ているかな、という程度だが)、あたかも大事件であるかのように報じたのである。筆者の内藤国夫によれば、このレリーフは、『月刊ペン』が書き立てた名誉会長の“女性スキャンダル”の、「動かぬ証拠」なのだという。  内藤はこの記事の中で、じつに三重の決めつけをしてみせた。すなわち、@このレリーフの男性像が名誉会長であると決めつけ、A裸の女性像が名誉会長の“乱れた女性関係”を象徴するかのように決めつけ、Bレリーフを学会が法主の意向を無視して作らせたかのように決めつけているのだ。そして、その手前勝手な決めつけに沿って、このレリーフを「動かぬ証拠」と断じ、名誉会長を思う存分なじってみせたのである。  かりにもジャーナリストを名乗りながら、内藤は事実ではなく自分の勝手な思い込み、決めつけで記事を作っているのだ。ふざけた話ではないか! 社屋に女性の裸像などを飾ってある大企業などは、内藤には気をつけなくてはなるまい。「これこそ社長の乱れた女性関係の動かぬ証拠」などと、イチャモンをつけられかねない。そういう低レベルの話なのだ。  『月刊ペン』の“女性スキャンダル”記事が名誉毀損に問われた裁判の際には、この記事も取り上げられた。しかし、内藤の意見もむなしくこのレリーフは証拠として扱ってもらえず(あたりまえだ)、逆に、内藤がレリーフの作者に取材もせずに、このレリーフの男性像を名誉会長、裸の女性像が乱れた女性関係の象徴、そして法主の意向を無視して作ったものというウソを断定して記事を書いたことがバレてしまうという失態を演じた。そして『月刊ペン』裁判そのものも、第二章で述べた通り、学会側が勝訴したのである。  また、内藤による“三重の決めつけ”については、ほかならぬレリーフの作者である小金丸氏の反論(『聖教新聞』八一年一一月二八日付)が、ことごとく否定している。  小金丸氏によれば、「彫刻のモデルは一切なく」、「半身裸像の男性像を池田名誉会長と勝手にきめつけていることは、全く噴飯もの」だという。また、絵柄についても、当時の日達法主自身の意向によって“従来の仏具とはちがうヨーロッパ調のもの”としたこと、「制作に取りかかる前に猊下に構図を説明し、了承を得ていた」ことを明かしている。  当の作者に一刀両断に否定されても、内藤はまだ納得しない。それどころか宗門問題が起きて、現法主・日顕はこのレリーフを撤去させたが、そのときにもまた内藤は、週刊文春にこんな記事を載せているのだ。  〈窮地に立つ創価学会 池田大作「裸像」ついに大石寺から撤去〉(九一年七月一一日号) 中身を読むと、この撤去によって、裸像のモデルが名誉会長であることが“公認”されたかのような書きっぷりになっている。  九三年一二月二二日、自民党の民主政治研究会が開いた「創価学会に関する勉強会」で講師をつとめた内藤は、またまたこのレリーフの話を持ち出している。講演会の内容をまとめた資料によれば、週刊文春でこの“レリーフ事件”の記事を書くにあたって、内藤は「大作さんは、このスキャンダルで倒れるな」と本気で思っていたのだと告白している。  ところが、学会内部にさしたる動揺は起こらなかった。そこで、「私はカラーレリーフ事件以降、池田は不倒翁であると思うようになったのです」とも述べている。自分の記事で倒れなかった名誉会長を“不倒翁”と持ち上げることで、自分の保身に利用しているのだ。  内藤の、度外れた想像力にはただただ呆れ返る。レリーフから大スキャンダルを妄想したばかりか、それによって創価学会の崩壊するさままで妄想しているのだ。頭の中で想像するのは勝手だが、それを事実であるかのようにして記事を作り、公表するのはやめて欲しい。  それ以上に、こんなとめどない“妄想”を、事件扱いして二度も三度も(しかも最初は巻頭カラーグラビア!)掲載した週刊文春の愚劣さにも、あいそがつきる。 タイトルでは断定、本文は憶測 〈ゴミの山から1億7千万円 元最高幹部が証言 「あれは池田大作の機密資金だ」〉 (八九年七月一三日号) 〈創価学会が棄てた1億7千万円 金庫についていた? 池田大作の脂ぎった指紋〉 (八九年八月一○日号)  八九年七月に起きたいわゆる“金庫事件”とは、横浜市内の産業廃棄物処理場で、廃棄された金庫から一億七千万円が見つかり、『聖教新聞』嘱託の中西治雄氏が持ち主として名乗り出た、というものだ。  週刊文春はこの“事件”を二週にわたって取り上げ、この一億七千万円を“学会の裏金”“池田大作の機密資金”と決めつけた。まちがって金庫を捨ててしまった非も問われるべきであるが、それを重犯罪のように非難するのもおかしな話だ。だが、週刊文春にとっては、またとない創価学会バッシングのネタとなった。この記事がひどいのは、学会の裏金と決めつけておきながら、確たる根拠が何もないということだ。  最初の記事タイトルは「池田大作の機密資金だ」と完全な断定になっているが、これは記事の中の「元最高幹部」のコメントをタイトルに使っただけ、という形になっている。“週刊文春が言うわけじゃありませんよ、あの人が言ったことをタイトルにしただけですよ”という姑息な逃げが打ってあるのだ。その上、次の号ではクエスチョン・マークをつけるという、さらに姑息な手段で逃げている。こうした逃げこそ、根拠があやふやで、はなから週刊文春編集部に自信がないことを示すサインなのだ。  ちなみに、七月一三日号の「あれは池田大作の機密資金だ」の「元最高幹部」らのコメントをよくよく読んでみれば、見事なくらい憶測だけである。  元最高幹部というのは、次の二人である。 証言@「今度の金は、創価大学創立のときの土地買収にからんで受け取ったリベートじゃないかと私は思います」(山崎正友元創価学会顧問弁護士) 証言A「あの金は百パーセント池田の裏金です。金の出元は、正本堂建立のために集められた三百五十億の一部でしょう」(藤原行正元公明党都議) 証言B「たったひとりで学会と渡り合った経験から、昭和四五年から四七年にかけて、相当の裏資金を政界・マスコミ工作に使っていたと肌で感じました。/その資金に使われた金の一部が、いま出てきたという推測は、十分成り立つ」(評論家・藤原弘達)  傍線部分に注目してほしい。「思います」「でしょう」「……と肌で感じました」「推測は、十分成り立つ」――憶測また憶測。これらの「証言」からどうして断定的なタイトルが引き出せるのか! 「あれは池田大作の機密資金だ」と断定しているが、その断定に対する責任を負うのは誰なのか? 週刊文春は責任を取るはずがない。だったら、元最高幹部の山崎か、藤原か、それとも評論家の藤原弘達か?……誰も負いはしまい。だいいち、三人が三人ともちがう憶測をしているではないか。  週刊文春よ、それでどうして機密資金と断定できるのだ。くだらぬ推理ごっこはやめにしろ! 脱会者の“邪推”と「事実」が区別できない 〈独占スクープ 外務省にゴリ押し 天皇まで利用する池田大作のノーベル平和賞狂い〉 (九三年一○月一四日号)  中南米・エルサルバドルのクリスティアニ大統領が、創価大学の名誉学位を受けるため、九三年一一月に来日した。その来日に際し、創価学会が、“大統領を首相と天皇陛下に会わせたい”と外務省に要請した、という記事である。そして、“学会がそのようなゴリ押しをするのは、池田大作が狙っているノーベル平和賞獲得に利用するため”なのだという。おなじみ、“池田大作の危険な野望”シリーズの一編だ。  これは、週刊文春の数ある創価学会批判記事の中でも、残念ながら出来の悪い部類といわざるを得ない。なぜなら、記事の核になっている二つの事柄が、いずれも単なる邪推に過ぎず、しかも邪推に過ぎないことが見え見えだからだ。  一つ目の「核」はもちろん、創価学会が外務省にしたという“要請”である。この要請が事実であるとする記事中の根拠は、わずかに「ある政府高官」なる者の匿名コメントのみ。  「在日エルサルバドル大使から、大統領が来日するから天皇陛下との会見と細川総理との首脳会談をセットして欲しいと1ヵ月位前に外務省に要請があったらしい。創価学会の方からも、やはり陛下と総理に会わせて欲しいと要請があった」。  いかにも“それらしい”匿名コメントなのだが、なんと同じ記事の後半には、外務省の担当部署である中南米局第二課による、次のような否定コメントも載っているのだ。  「要請は在京の大使からで、創価学会からは一切ございません」  誰がどう考えたって、得体の知れない匿名コメントよりは、担当部署の公式コメントのほうが信用できる。週刊文春は同じ記事の中で、矛盾するコメントを載せ、墓穴を掘ってしまっている。さすがに、矛盾に気がついたのか、すぐあとの言いわけが、すこぶる娯楽的だ。  「小誌の取材では創価学会からの要請は事実あった。現場サイドには伝わらなかったのだろうか?」  週刊文春はどこに取材して、その事実を確認したのか? それをはっきりさせろ! それに、「現場サイドには伝わらなかったのだろうか?」と言うけれど、それでは創価学会はどの「サイド」に要請をしたというのか? 創価学会の誰が、外務省のどの部署に対して、いつ要請をしたのか? そして、それをどこの誰が証言しているのか? 例によって、4W1Hが一つも見当らない。にもかかわらず、本文でもリード文でも、創価学会の要請が「あった」と断定されてしまっている。これは、あまりにもひど過ぎるんじゃないか?                     ◆  さて、二つ目の「核」は、“池田名誉会長がノーベル平和賞を狙っている”という話。週刊文春はこの話を自明の前提として記事を書いているが、こちらは果たして事実なのか? 記事中にある“根拠”は、例によって憶測だけ。名誉会長がどこそこで「絶対ノーベル賞を手に入れてやる」と発言した、などという具体的な事実があるわけではないのだ。  たとえば、元最高幹部の原島嵩が次のような噴飯もののコメントを寄せている。  「彼(池田)自身の口から直接ノーベル賞のことが出たことはありませんでしたが、行動を見ているとそうとしか思えません」  「そうとしか思え」ないのは原島の勝手である。が、それは彼の個人的意見であって、事実とは断定できない。原島はかつて教学部長という要職にありながら、山崎正友と共謀して学会の組織破壊を画策した人物である。在職中に創価学会本部からこっそり重要書類を持ち出すという窃盗まがいの行為までして、山崎のマスコミ工作を助けたりもした。そんな男に公平な意見が期待できるはずはない。“池田名誉会長がノーベル賞を狙っている”と断ずる証拠にしては、あまりにいいかげんである。  原島のいう“ノーベル賞を狙っているとしか思えない”池田名誉会長の行動とは、名誉会長が各国の指導者や知識人と会見や対談をしていることである。原島が見ている“行動”もそれ以外にはない。名誉会長の行動は『聖教新聞』に掲載されており、読者なら周知の事実である。最高幹部の“証言”としてわざわざ載せるほどのコメントでもあるまい。  だが、原島のコメントを受けて、記者はこう書いた。  「どうやら池田氏のノーベル平和賞に対する思いは、執念といえるようだ。過去の聖教新聞をひもといてみても、その熱意のほどが窺える。海外訪問、要人や学者との会見、名誉学位や勲章のやりとりで紙面を埋め尽くすのが、聖教新聞の紙面の一大特徴といえるかもしれない」  要人と会うことイコール“ノーベル平和賞狙いの熱意”とは、ずいぶん飛躍した邪推もあったものだ。こじつけもほどほどにしろ!  さらに記事の最後で、週刊文春は次のようにダメ押しをする。  「仮に池田氏のこうした長年に亘る尋常ならざる努力が実って、ノーベル平和賞を受賞したとしたらどうだろう。『しょせんはその程度の賞だ』と選んだ側の低俗さを笑うべきだろうか」  勝手に憶測しておいて、受賞後のことまで心配するとはご苦労なことだ。  そもそも、この記事は池田名誉会長はもとより、皇室、外務省、スウェーデン王立アカデミーに対する名誉毀損にもあたる。週刊文春よ、いつからそんなに“偉く”なったのか! 大げさなタイトルとすぐバレるウソ 〈創価学会極秘テープ入手 男子部長が洩らした池田大作の「Xデー」〉 (八九年一月一二日号)  創価学会の会合での正木正明全国男子部長(当時)のスピーチの極秘テープを入手し、そこで語られた内容から、池田名誉会長の健康状態が深刻な状況にある証拠だ、と邪推してみせた記事である。  くり返し登場する池田名誉会長の「重病説」「失脚説」のバリエーションだ。これはちょっとすごそうだ。なにしろ、全国男子部長が極秘に語った「Xデー」だというのだから……。  この記事が出た頃は昭和天皇崩御(八九年一月七日)の時にあたり、マスコミは「Xデー」という表現を盛んに使っていた。したがって、この時期「池田大作のXデー」とタイトルに打たれたら、誰もが“命にかかわる重病”を連想してしまう。週刊文春はそれを百も承知で、世間を煽ったのだ。  問題とされているのは、第一埼玉県男子部幹部会での、正木氏の次のような発言。  「(池田)先生はいよいよ御自身の年齢と、御自身が人生のどういう段階を迎えているかということを、誰よりも深く認識をされて、先生は手を打ってらっしゃる。いよいよ、御自身が亡き後の広宣流布の戦いということを射程において、手を打たれていらっしゃるなということを、僕は感ずるんです」  リード文によれば、この手の発言は学会では「タブー中のタブー」であるという。全国男子部長が公然とそのタブーを侵しての発言であるから、何かあるのではないか、というわけだ。  また、この発言をとらえて、またぞろ脱会者たちがもっともらしいコメントを寄せる。たとえば藤原行正元公明党都議は、こんな“感慨”をもらしている。  「聞いていると、池田が側近たちに向かって、俺はいつ死ぬかわからんから頼む、とぼやいているという気がします」  だが、調べてみると、これは笑止千万な邪推であることがすぐにわかった。なぜなら、名誉会長自らが、スピーチの中で「私の言葉を遺言と思って聞いて欲しい」といった言葉をしばしば使ってきているからだ。  過去のスピーチの記録をずっと追っていくと、じつに二十八年前、会長時代の昭和四一年から、幾度となく池田名誉会長はこの言葉を使っている。  「……そのような議員は絶対に出してはならないということを、私の遺言としたいのであります」(昭和四一年一一月三日・第十五回青年部総会)  「……ことごとく勝利するためであるということを、私は未来のために遺言として申し上げておきたいのであります」(昭和四三年一一月一七日・第十七回男子部総会)  「最後の勝負を決する鍵は、いつにこの鳳雛会のこのメンバーにかかっていると、私は遺言しておきたい」(昭和四八年五月三日・第一回全国鳳雛会)  名誉会長のこの種の発言の例はそれこそ数え切れないくらいある、というのが創価学会内での常識になっている。これは決して「死を意識して」などというものではない。つまり、遺言を聞くような思いで真剣に聞いて欲しい、という意味なのである。正木氏の発言はそれを援用したものに過ぎないし、こうした発言は学会の中では「タブー中のタブー」でもなんでもないのだ。  こんなことはちょっと過去のスピーチを調べればわかることなのに、週刊文春はその確認作業を怠った。いや、というより、正木氏のなにげない発言を「事件」に仕立て上げるため、知らぬふりを装ったのである。  せっかく会合の模様を盗み録りしてもらったのだから、いかにもすごそうな記事にしなくては、というわけだ。タイトルに驚いて買って読んだ学会員こそ、いい面の皮である。  そもそも、盗聴テープに過ぎないものを、「極秘テープ」などと銘打って記事にすること自体、邪道と言わざるを得ない。週刊文春のモラルは三流雑誌と同レベルということだ。 第四章 人権侵害 学会を“香典泥棒”呼ばわりする根拠はなんだ? 〈創価学会前会長の葬儀に集まった巨額のカネ 北条家の香典はどこへ行った〉 (八一年八月二七日号)  創価学会の北条浩第四代会長は八一年七月一八日に亡くなった。この記事はその直後に出たもので、その葬儀に際して集まった香典の大半を、“創価学会が猫ババしたのではないか?”とする主旨である。しかも、葬儀に集まった人数から香典の総額まで推定し、学会が“猫ババ”したあとの使い道まで推定してみせるという念の入れようだ。  しかし、中身を読んでみれば、根拠らしい根拠がどこにも書かれていない。「金には細かい学会のことだから、どうせそのまま北条家に渡す気はないハズ」などという、悪意に満ちた憶測の積み重ねで断定しているだけなのだ。  また、この記事には池田名誉会長を不当に貶める、次のような記述もある。  「北条会長の死に際して、池田名誉会長は、『師匠より先に死ぬなんて恩知らずなヤツだ』と公言したという」  なんのことはない、伝聞ネタなのだ。どういう場所で、どういう人たちに言った発言なのか、まったくあいまいで、しかもその伝聞をもとに、  「『恩知らず』呼ばわりする相手に対しては何を仕出かしても不思議ではない、という見方が出て来るユエンである」  と、勝手に話を結論づけている。池田名誉会長が北条会長のことを「師匠より先に死ぬなんて恩知らずなヤツだ」と言ったという、そんな風に言うぐらいだから、何をしても不思議ではない。だから、「どうせ猫ババしたに決まっている」「猫ババしても不思議はない」という論理だ。かりにも人を泥棒扱いしようというのである。泥棒呼ばわりされた側にとっては全人格を否定されるに等しい。だが、そこまで言うのなら、それなりの根拠がなければならないはずだ!  芸能人のゴシップ記事のように、「どうせあの二人はデキているに決まっている」という邪推で作る記事とはわけが違う。ことは人の死、しかも巨大組織のトップの死にかかわる問題なのである。週刊誌といえども、書いていいことと悪いことがあるのではないか?  葬儀は学会葬の形を取り、告別式等は全国の主要会館でも行われたため、『聖教新聞』(同年八月八日付)にも「ご会葬御礼」が掲載された。この中に、「ご香資につきましては、教育・社会福祉事業に寄付させていただき御礼にかえさせていただきます」との一節があったのだが、週刊文春はこれにも難癖をつけてみせる。  「かくも麗々しく『教育・社会福祉事業』への寄付を謳いあげた以上、寄付の対象と金額も盛大に『聖教新聞』紙上に発表していただきたいものではないか」  まるで、寄付自体が虚偽であったかのような書きっぷりである。これはなんなんだ! 仮にも葬儀における香典に関する話だ。創価学会なら何を言ってもかまわないのか。  では、実際のところはどうであったのか? 北条会長の未亡人の弘子さんに事情を確認してみた。  「寄付した先は、創価大学・創価学園・国際センター・新宿福祉事務所・四谷福祉事業団の五つです。各団体からの感謝状もちゃんと保存してありますよ。もちろん、寄付にあたって、学会本部から指示や強制があったわけでもありません。お香典のほとんどは学会員の方からのものでしたから、私事に使うわけにはいかないと判断したのです。学会が猫ババしたなんて、とんでもない言いがかりです。ひとの葬儀をこんなひどい記事のネタにするなんて、いったいどういう神経の人だちなんでしょうか」  また、名誉会長が北条会長の逝去にあたって「恩知らず」と「公言」(公言というからには多くの人が聞いていたはずなのだが……)したという記述についてはどうか?  「“恩知らず”云々の発言自体、事実無根ですし、池田先生が主人や私たちに冷たい仕打ちをしたなどということも、一切ありません。逆に、主人が亡くなってから、先生は私たち家族に対して言葉に言い尽くせないほど真心の激励をして下さいました。自宅にもおいでいただいて、本当に懇に追善回向をして下さいましたし、特に主人の両親を何かと温かく気遣って下さったんです。そうした真実は、私たち家族が一番よく知っています」  ちなみに未亡人は、取材のために筆者が送った記事のコピーで、初めてこの記事のことを知ったという。  「こんなひどい記事が書かれていたなんて、知りませんでした。周囲の人たちが、私の目に触れないように気遣って下さったのかもしれませんね」  つまり週刊文春は、葬儀の喪主でもあった未亡人に取材もせず、香典の行方を云々する記事を書いたことになる。                     ◆  「学会員が死ぬと、親戚でもない学会員が葬式にいっぱいやってきて、香典を持っていってしまう」  ――創価学会をめぐっては、数々の“差別的伝説”が語り継がれてきたが、これは中でも一番ポピュラーなものだろう。  一説によればこれは、創価学会が最も精力的に布教活動を行っていた時期、危機感を抱いた他宗の僧侶たちが意図的に流したデマであったという。香典を持っていってしまうというのはもちろん事実無根だが、この“伝説”が定着してしまった理由は、なんとなく推察できる。  会員が亡くなると、近隣の会員たちがズラリと弔問に訪れ、故人とさほど親しくなかった人までが、葬儀の運営を手伝ったりする。信仰仲間を思いやる心の発露なのだが、会員以外の人たち、特に近所付き合いの希薄な現代の都市生活者にとっては、それが不思議でならないのである。そこから、“こいつら、香典泥棒をするために来ているんじゃないか”という邪推が生まれても不思議はない。貧しい会員が多かった昔であれば、その邪推はなおさら説得力を持ってしまっただろう。  さすがに最近は、そんな馬鹿な話を信じている人も少なくなったようだ。だが、週刊文春は、“差別的伝説”そのままに、創価学会を香典泥棒に仕立ててみせたのである。  週刊文春の品性の卑しさが、この記事に象徴されている。葬儀に集まった人数から香典の総額を推定するだけでも卑しいのに、その使い道について言語道断な邪推をめぐらしているのは、もはや畜生なみだ。  執筆した記者(無署名)は、記事にあるようなふざけた言いがかりを、遺族を目の前にしてもう一度口にできるか? 学会員というだけで芸能人を小馬鹿にする差別記事 〈レコード大賞候補のバンド、ザ・虎舞竜のもう一つの顔は創価学会員〉 (九三年一二月二三/三〇日号) 〈山本リンダは池田大作を尊敬してるのか?〉(九一年八月一五/二二日号)  創価学会に対する批判にからめて、学会の芸能人会員は、マスコミによってしばしば不当に信仰を暴かれ、叩かれ、馬鹿にされる。週刊文春の記事にもそうしたものは少なくない。ここに紹介する二つのはその代表的事例である。  前者は、「ロード」の大ヒットで一躍脚光を浴びたバンド、ザ・虎舞竜のメンバーが熱心な会員であることを、目いっぱいおちょくってみせた記事。虎舞竜を「学会の“歌う広告塔”」と断じたこの記事は、乙骨正生の次のようなコメントを使うことによって、彼らの信仰心を踏みにじってはばからない。  「民音という舞台を提供し、コンサートやリクエストに学会員を動員する学会は、芸能人にとって大きな魅力」  言うまでもなく、信仰は個人の内面の問題である。だが週刊文春は、その内面の問題をまるで無視している。メンバーの内面で信仰がどのような役割を果たしているか、ということを脇に置いて、彼らがまるで客集めのために信仰をしているかのような言いぐさだ。  後者の山本リンダの記事は、この手の記事の中で一番品性下劣な事例である。他人が誰を尊敬しようとしまいと、勝手ではないか。余計なお世話もほどほどにすべきだろう(ちなみにこれは、「余計なお世話します」なる特集の中の一編であった)。  余計なお世話なだけならまだいいが、この記事の中には憶測による決めつけ、また悪質な捏造すら含まれている。まず記事全体が、“山本リングは信仰から離れつつあるが、人気保持のため形だけ学会活動を続けている”という悪意ある決めつけに沿って作られている。その決めつけを補強するのは、匿名の芸能記者による次のようなコメントだ。  「今の彼女には、ことさらに学会を辞めて騒動を起こすメリットはないから、“信仰は心の支え”と言い続けるでしょう」  メリットがあるとかないとか、信仰を損得づくでしかとらえられないあたりは、先の虎舞竜の記事と同様である。この芸能記者とやらは、他人の信仰心の中へ土足で入りこんできて、なにをしたり顔で解説しているのか! しかも、心の奥まで見てきたようなことを言うのは、どういう了見だ。  そして、捏造というのは次の部分のことだ。  「ある関係者によると、最近彼女は“親しい向き”に、こう漏らしているらしい。/『今、学会活動はしていない。ゴタゴタ続きで、嫌気がさしたから――』」  そこで、当の山本リンダに話を聞くと、  「とんでもないウソです。学会活動はずっと続けていますし、こんな話を誰かにしたこともありません。学会員であることは、私の最大の誇りなんです。“ゴタゴタ続き”というのは宗門問題のことでしょうけど、あの問題が起きたからといって、学会活動に疑いを抱いたことなんか一度もありません。信仰実践をまったくなくしたいまの宗門は、形式仏法に成り下がっていて、日蓮大聖人の仏法に背いていることがはっきりしています。だから私は、セミナー(各地の学会会館で行う講演)でもずっと宗門を糾弾してきました。“親しい向き”っていったい誰のことかしら? この話をした“ある関係者”という人に会わせていただきたいわ。見損なわないでほしいというのが、この記事に対する率直な感想です。私の信仰は、そんなに簡単にぐらつくほど弱くはありません。それから、タイトルの質問にお答えしますけど、私は池田先生を心から尊敬しています。私にとって人生の師匠であり、世界平和のため、大聖人の仏法を広めるために、命がけで戦っておられる方ですから……。こんな馬鹿な記事を載せるより、もっと大事なことを報道なさったらいかがですか?」  山本リンダはまた、“学会の芸能人信者が仕事上のメリットを求めて信仰している”と決めつける週刊文春の姿勢について、次のように反論する。  「学会では、信心利用、組織利用を強く戒めています。民音で仕事をもらうために信心を続けるなんて、それこそ信心利用でしょう。私自身の場合も、民音のステージが他の仕事に比べて多かった時期なんか、一度もありません。それに、学会がコンサートやリクエストに組織の動員をかけているという事実もありません。芸能人が政治色や宗教色を表に出すことは、大きなリスクをともないます。メリットとデメリットを比べてみれば、創価学会員であると公にすることは、むしろデメリットの部分のほうが大きいはずです。それでも自分の信念として、この信仰の素晴らしさを多くの人に伝えたいから、あえて勇気をもって公にするんです。だから、週刊文春の言っていることは、まるで逆です」  この手の雑誌記事で奇妙なのは、芸能人信者は学会の“歩く広告塔”だから公人として扱う、という論理に貫かれている点だ。  たしかにスキャンダルから恋愛まで、芸能人の場合、公人ということで暴かれ、週刊誌のネタになっている。だが、信仰の問題、心の問題まで踏み込む権利が週刊誌にあるのだろうか? 信仰の問題を低次元な損得勘定の問題にすり替え、芸能人が会員であること自体を、なにか悪いこと、恥ずかしいことであるかのように報じ、信仰心を踏みにじるこの手の記事は、週刊文春の“宗教蔑視”と“人権無視”の体質を如実に物語っている。  週刊文春よ! お前たちの方が芸能人信者を反学会キャンペーンの「広告塔」として利用しているのだ。 民間企業に学会員が多数いると異常なのか? 〈第二の豊田商事事件か? ライベックス経営危機であぶり出された創価学会人脈〉 (九二年二月二七日号)  ライベックス社は都内の不動産会社。投資用ワンルームマンションのブームに乗って急成長し、マルコー、杉山商事と並んで「ワンルームマンション販売御三家」とも呼ばれた時期もある。だが、バブル崩壊で資金繰りが悪化し、九一年頃に経営危機に陥った。  記事はこの経営危機を報じたものだが、書き方に必要以上の悪意がこめられている。千葉隆社長以下、同社の社員に創価学会の会員が多かったためである。  たとえば、〈第二の豊田商事事件か?〉というタイトル。さらに、リード文、本文でも「第二の豊田商事事件を思わせる深刻な事態」という表現が使われている。「深刻な事態」とは、資金繰りの悪化で、ライベックス社からマンションのオーナーたちに支払う家賃の振込みが滞っていたことを指す。なるほど、深刻な事態にはちがいないが、それをとらえて「第二の豊田商事事件」と呼ぶのは、いくらなんでも言い過ぎだろう。  八五年の豊田商事事件は、会長の永野一男が当初から犯意を持っていた明確な詐欺事件である。そのやり口も、独り暮らしの老人をだまし、被害者から自殺者も出るなど、悪辣きわまるものであった。だからこそ永野は惨殺されたのだし、警備会社すら永野の葬儀の警備を断ったのだ。  だが、ライベックスの場合、単なる経営危機であった。それをことさらに「第二の豊田商事事件」呼ばわりするのは、週刊文春が同社を学会中傷報道に利用しようとしたからに他ならない。〈〜あぶり出された創価学会人脈〉というひどいタイトルに、その狙いがはっきり見て取れる。学会が裏で糸を引いて、豊田商事並みの詐欺をさせたかのように読者に思わせる――そんな意図が見え見えだ。  記事は、千葉社長の経歴をこと細かに紹介し、社員に会員が何人いるかまで調べ上げて書いている。しかし、ライベックス社が経営危機に陥ったことと、社員に会員が多いことの間には、当然なんの関係もない。二つを無理やり結びつけただけのことだ。そして、学会員が多いことそれ自体が、何かとてつもなく悪いことであるかのような書き方だ。たとえば、段勲のこんなコメント――  「民音や栄光建設といった学会関連企業以外で、創価大学出身者がこれだけ役員にいるというのは異常」  世の中には、役員の大半を東大出身者が占めている会社もあれば、慶大閥や早大閥が幅をきかしている会社もある。文藝春秋だって東大、慶大、早大などの出身者が多いのは周知のところだ。だが、それが「異常だ」などとは誰も言わない。しかし、創価大卒が多いと異常扱いされてしまう。これは宗教差別以外の何物でもない。  そして、週刊文春は、そのことをとらえて、ライベックス社と創価学会の間になにやら特別な、うしろ暗いつながりがあるかのようにほのめかす。次のようなコメントを載せておきながら……。  「学会から金を貰ったこともないし、学会に金を渡したこともないから、学会とは何の関係もない。そんな繋がりは一切ありません」(ライベックス社・森本広報部長)  この要らざる中傷記事が、ライベックス社再建を阻む大きな障壁となったであろうことは、想像にかたくない。こんな記事が出回っては、融資先もおいそれとは見つからなかっただろう。週刊文春の宗教差別記事は、しばしばそうした実害を与えているのだ。                     ◆  「表現の自由」の根幹となるのは、権力に対する批判の自由である。また、権力批判はマスコミの重大な使命でもある。週刊文春が創価学会をある種の権力とみなすのは勝手だが、その会員は公人ではないのだ。創価学会批判を口実にしたプライバシーの侵害、営業妨害は邪道である。なんの罪もない一市民を、創価学会の会員であるという理由だけで中傷する週刊文春は、その最たるものだ。ペンの“暴力”による“弱い者”いじめ以外のなにものでもない。 宗教蔑視のプライバシー報道 〈創価大学出身官僚・政治家・マスコミ人全リスト〉(九四年一月六日号)  これはタイトル通り、国会・司法界・中央省庁及びマスコミ各社に就職している創価大学出身者を、氏名・学部・卒業年次・現在の部署までリストにして公表している。氏名はすべて実名。そして記事のスタンスは、〈池田大作日本支配の野望〉というサブタイトルが示すように、創大出身者が「国家の枢要な地位を占めつつある」ことの“危険性”を訴えたもの。リストはリストでも“ブラック・リスト”というわけだ。  この記事には、二つの大きな問題点がある。その一つは、リストに載った創大OBのプライバシー、及び信教の自由を侵害するものである、ということ。  憲法二〇条で定められた「信教の自由」には、“自分の信仰について沈黙を守る自由”も含まれている。本人が公表したくないものを、マスコミが勝手に報じることも、「信教の自由」を踏みにじる行為となる。  このリストが公人たる政治家のみにしぼったものならまだしも、まぎれもない私人である新聞社社員やテレビ局員までもが十把ひとからげに紹介されているのだから、これは大問題だ。創大出身者のすべてが会員かどうかは別にして、週刊文春はこの記事で、彼らのプライバシーを勝手に報じたのである。  もし、週刊文春がリストに掲載された人すべてにきちんと掲載許可を取ったのなら、プライバシーの侵害、さらには「信教の自由」の侵害にはあたらないかもしれない。だが、調べてみると、そうではなかった。しかも、かなりいいかげんな取材で記事が作られていたのである。  リストに載せられた一人であるB氏によれば、勤め先に週刊文春の記者を名乗る男が突然電話をかけてきて、  「実は、折り入って話があるんですが……創価学会が徹底的に教育を施した人材が、社会を牛耳ろうとしているという計画があると聞きました。その計画について、内々にお話をうかがいたいので、ご自宅の電話番号を教えてくれませんか?」  なんのことはない、“学会が社会を牛耳ろうとしている”というイメージを打ち出したい、という意図がまずあって、それに沿って取材を進めていたのである。あらかじめ偏見をもって記事作りがスタートしているのだ。  B氏は、「そのような取材でしたら、一個人としてお答えすることはできないと思います。上司に相談して折り返し連絡します」と答え、その場は電話を切った。そして、上司の指示にしたがって週刊文春編集部に電話し、「広報部を通してくれれば取材に応じる」ことを伝えた。すると、それまではていねいだった記者の口調が、急に怒気を含んだものに変わったという。  「あなたがそこで働いてることはまちがいないんですね? じゃあ、もうけっこうですから!」  「ガチャン!」と電話は一方的に切れた。これが取材? 週刊文春はこういう取材をするのか? 会社の名前が出る記事ともなれば会社の広報部を通すのは当然だろう。それが思い通りにならないと、とたんに手のひらを返したような対応をする。しばらくして、くだんの記事が週刊文春に掲載され、B氏は仰天したという。  「記事が出てこうむった被害ですか? 酒の席でからかわれたりしましたね。それと、同僚が私を見る目がちょっと変わったかな、というのはあります。そりゃあ腹が立ちましたよ。長年かかって築き上げてきた人間関係に、ヒビを入れられてしまったんですからね。  ただ私の場合、創価学会員であることを職場でもオープンにしていましたから、まだダメージは少なかった。でも、リストに出た人の中には、立場上、もっと深刻な被害をこうむった人もいるはずです。信仰を隠しておきたい人だっているだろうし……。  それから、創価大学の後輩たちに及ぼす影響も心配です。あの記事のせいで就職にあたって不利になることも充分あり得ますから」                     ◆  二つ目の問題点は、創大卒であることが何か危険なことであるかのように報じていることだ。創大が池田名誉会長の“日本支配の野望”のために存在するかのような記述があふれているのだ。創大の名誉を著しく損なうものであるし、B氏が言うように、今後、卒業生の就職などに悪影響を及ぼすことも考えられる。  週刊文春が言うように、本当に創大が名誉会長の“日本支配の野望”のためにあるとしたら、告発の意義はあるだろう。だが、記事を読むと、その野望とやらの根拠となっているのは、次のような、およそ根拠とは呼びにくい事柄なのだ。  「いわゆる偏差値レベルでは、上級国家公務員や司法試験合格者を大量に輩出する大学とは思えない」  「創価大学から、国会、中央官庁、大手マスコミなど実に百五十人近くのOBが重要な位置に就いていた」  これは、創大生の優秀さを示す例であって、野望うんぬんとは関係ないだろう。だが、週刊文春はさも重大な秘密を突きとめたかのように書いているのだ。  「国家試験合格者や司法試験合格者の卒業生がそれぞれ集うOB会が存在する」  そんなOB会なら他の大学にいくらでもあるだろうに、そのOB会に集うメンバーが会員であることをとらえ、何か秘密結社ででもあるかのように書き立てている。たとえば、国家試験合格者のOB会「ブロンズの会」について、創大卒が売り物の反学会ライター乙骨正生は、次のようなコメントを寄せているのだ。  「メンバーは学会の中でもエリート中のエリートとして扱われていて、池田にとっては手駒の中の手駒と言えるでしょう」  「手駒」とはずいぶんひどい言葉だ。創大OBには個人の自由意志が存在しないとでもいうのだろうか?  「池田氏がしばしば口にしていた『総体革命』という言葉が、OB会でもある種のスローガンとして使われている」  「総体革命」という言葉だけを取り上げると、なるほど、いかにも“日本支配の野望”に向けての運動理念のように思えてしまう。だが、この言葉はそんなおどろおどろしい意味合いのものではない。ちなみに、昭和四五年当時、当時の池田会長が青年部に贈った詩には、次のような一節がある。  「一人ひとりの哲学と思想の中に平和裡に漸進的な汝自身の健全なる革命を願っている。(中略)/これを総体革命と命名したい」  先のB氏によれば、創大生の間で「総体革命」という言葉が使われることなどないという。  「完全に死語ですね。私なんか、この週刊文春の記事で初めてこの言葉を知ったくらいです(笑)」(B氏)  そんな古めかしい言葉まで引っぱり出して、ありもしない“日本支配の野望”でさんざん読者を混乱させているが、記事中の次のような言葉こそ、週刊文春の本音だろう。  「公僕たる公務員、特に国益に直接携わる中央官庁の公務員たちが、一つの宗教、一人の人物を尊敬する繋がりだけで結集するというのは薄気味悪いものがある」  信教の自由とはすべての人間に等しく保障されたものなのに、公務員が特定の宗教を信ずることは国益に反するから許されない、というのである。週刊文春の言いぐさではそういうことになる。“公務員には信教の自由は存在しない”と……。  注目したいのは、最後の「薄気味悪い」なる言葉である。これこそが彼らの本音、要は創価学会を差別したいだけなのだ。いっそはっきり言ったらどうだろう? 会員が社会的に重要な地位につき、活躍するのは薄気味悪い、気分が悪い、と……。  週刊文春は本来、低劣な感情で記事を作っているだけなのに、それを“社会正義のため”“日本支配の野望を砕くため”などという大義名分で飾り立てているに過ぎないのだ。 『朝日新聞』の指摘に、開き直る乙骨正生とは 〈創価大学出身ジャーナリストが朝日論説委員を叱る 池田の野望も信教の自由か〉 (九四年一月二七日号)  これは、前項で紹介した〈〜創価大学出身者リスト〉の、いねば続編である。  あの悪質な人権侵害記事はさすがに物議をかもし、『朝日新聞』夕刊のコラム欄「窓」(九四年一月一三日付)でも取り上げられた。筆者である論説委員のペンネーム〈不〉氏は、次のように警鐘を鳴らしている。  「個人名と職場を一覧表にするのは、他人の信仰を意に反して表に出す可能性が大きく、不当な圧迫を呼び寄せる恐れがありはしないか」  正論である。この記事で週刊文春がしたことは、けっして見過ごしてよいささいな過ちではない。戦時中の国家神道による宗教弾圧のような、ゆゆしき事態にもつながりかねない、危険な傾向の萌芽である。  だが、正論をもって週刊文春の脱線を批判した『朝日新聞』に、週刊文春側はどう応じたか? なんと、今度はその小さなコラムを非難するため、四ページの記事を作ってみせたのだ! それがこの記事なのである。  筆者は、“〜創価大学出身者・リスト記事”にもかかわっていた乙骨正生。彼はこの“反論”の中で、次のように言う。  「信教の自由という大義名分のもとに行われている宗教団体の陰謀的な画策についての報道までも、はたして制限しなければならないのだろうか」  極論も極論、創価学会員に限っては信教の自由など侵害してもよいのだ、と言うに等しい乱暴な論調である。朝日の論説委員の投げかけた疑問には一つとして答えず、逆に開き直ってみせたのだ。しかも、その論拠となっているのは、例によって「池田大作日本支配の野望」なる荒唐無稽なヨタ話だ。  乙骨によれば創大は、「大学全体が、池田氏のマインドコントロールのもとで動いて」おり、「学問の自由、自治は一切存在しない」のだという。また、創大では、「学会が日本を支配するために」「組織的に国家機関に『手駒』を送り込んでいる」のだとも……。  前項でコメントを寄せてくれた創大OBのB氏は、こう言って一笑に付した。  「本当に創価学会が日本支配を狙っているなら、優秀な人材を全部東大に入れるように特訓したほうが、よっぽど話が早いでしょう(笑)。国家機関に手駒として送り込むのなら、創価学会員だということを隠しておいたほうがいいはずですしね。馬鹿らしくて話になりませんよ。あの記事は、創大OBの間では冗談のネタにしかなりませんでした」  創大卒の政治家や官僚が、もしもその地位を利用して創価学会だけに特別な便宜を図ったとしたら、そのときにこそ乙骨は思いきり批判すればよい。しかし、そうした事実もないのに「野望、野望」と吠えられても、困ってしまうのだ。  だいたい、ジャーナリストであるかどうかもアヤシイ乙骨ごときが大朝日を「叱る」とは、いささかおこがましくはないか?  だが、乙骨正生の、本格的デビューともいえるこの「朝日論説委員を叱る」記事以来、彼は反学会バッシング週刊誌のメイン・ライターになってしまった。反学会ライターという狭い狭い世界の中では、乙骨レベルのライターでも“使える”部類に入るのだろう。  週刊文春にしてみれば、創大出身という乙骨の“肩書き”が創価学会バッシングの恰好の材料にしか過ぎない。内容などはどうでもいいのだ。いずれ、乙骨も“骨抜き”にされて、使い捨てられるのがオチだ。 報道の自由と差別の自由の“区別”ができない 〈岩國出雲市長の愛娘は池田創価学会名誉会長の仏語通訳〉(九四年一〇月二〇日号)  東京都知事選出馬が取り沙汰される渦中にあった岩國哲人出雲市長。岩國氏の長女がSGI(創価学会インターナショナル)の公認通訳であることをとらえ、週刊文春は、令嬢が創価学会の会員であることが岩國氏の恥であり、スキャンダルででもあるかのように報じた。例によって宗教蔑視、学会蔑視の悪意に満ちたひどい記事である。  この記事については、他ならぬ被害者である岩國氏が、『東京新聞』の「放射線」欄(九四年一〇月一八日付)に、すかさず抗議の一文を寄せた。その一部を引用させてもらう。  「事実の不当な扱いや誤りについてはここでは省略する。問題は、宗教によって人を差別し、悪いことをしているかのように騒いで見せることが許されるのかということである。  私の娘が例えばクリスチャンなら週刊誌(注・週刊文春)の扱いは明らかに違っただろう」(注・筆者)  しかり。岩國氏の令嬢がもしクリスチャンなら、そもそも記事にならなかっただろうと、氏はいう。これを宗教差別でなくしてなんなのか。氏の指摘はこれまで本書で述べてきた週刊文春の本質をえぐり出し、事実として証明してくれている。  岩國氏は次のようにも書いた。  「社会に迷惑もかけず、静かに生きる願いで異国で勉学に励んでいる二人の娘を驚かせ、困らせ、悲しませて平気なジャーナリストがいる。公人の私をとりあげるのに何も家族を困らせるようなことをすべきではない」  週刊文春は“公”と“私”の区別すらできない、“エセ”ジャーナリストである。そもそも私人と公人という立て分けはなんのためにあるのか? 公人の言動を報ずる際、私人よりもプライバシーの範囲が狭まるのは、いうまでもなく、彼らの言動が公の利益を左右するからである。ひるがえって、岩國氏の令嬢の言動は公の利益にかかわるだろうか? かかわるはずがない。どこをどうひねってみても彼女は私人でしかない。その私人の信仰を不当に暴き、あまつさえその信仰を不当に貶めることは、人権侵害以外の何物でもない。  「この国ぐらい、プライバシーとか、私人としての行動にマスコミの報道の自由が濫用されている国はない」  との岩國氏の言葉はまさに正論である。  公私を混同させた人権侵害をしてはばからない週刊文春よ、「報道の自由」は「差別の自由」ではないことを知れ! 第五章 無節操 昔は日顕を叩きまくった週刊文春なのに 〈池田大作の走狗・日顕上人の僧侶大量処分で始まった 日蓮正宗全面ドロ沼戦争〉 (八〇年一〇月九日号)  九〇年暮れから現在まで続く、創価学会と日蓮正宗の“相克”、いわゆる宗門問題は、その勃発当時からマスコミを賑わせてきた。特に、反学会色の強いメディアはこぞって宗門側に立ち、その尻馬に乗ってここぞとばかり創価学会を叩いた。まさに「敵の敵は味方」の論理である。  その中にあって、週刊文春の偏向は恐ろしく露骨だ。池田名誉会長の総講頭罷免、添書登山の開始、学会への破門通告など、宗門問題の重要な局面では、例外なく宗門の言い分を鵜呑みにして記事を作ってきた。  だが、週刊文春の過去の報道を知る者にとって、宗門を正義、創価学会を悪と決めつける現在のスタンスは、まるでマンガだ、思わず笑ってしまう。なぜなら週刊文春は、過去に散々、日蓮正宗の現法主・阿部日顕をくり返し叩いてきたからだ。  ここに挙げた記事は、そうした週刊文春の日顕批判のほんの一例である。日顕が、正信会(宗内の反・日顕派/反・学会派僧侶の集まり)の僧侶たちを擯斥処分にしたことを報じたものだ。筆者は内藤国夫。なんと、いまや学会の仇敵である日顕にもこのタイトルのように「池田大作の走狗」と呼ばれた時代があったのである。しかも本文によれば、日顕は「以前から“創価学会のスパイ”と噂され」ていたのだそうだ。  中身は完全に正信会の側に立ったもので、日顕の血脈相承にも疑問を投げかけている。血脈相承とは、日蓮正宗の戒律・法門を法主から次代の法主へと受け伝える儀式のこと。日顕の前代の日達法主が急逝したため、日顕に対する相承の儀は、じつは行われなかったのではないか、とするのが正信会側の主張である。すなわち、日顕には法主たる資格がない、と言っているのだ。  「日顕上人の法主就任の違法性までが、声高に論議されている。(中略)そもそも相承の儀があった、と証明する、なんの材料もない」  あの山崎正友も、週刊文春に連載していた手記の一回分を割いて、日顕を批判している。〈法主を僭称する阿部日顕上人の素顔〉(八一年二月一二日号)という刺激的なタイトルで、中身はこれも血脈相承を疑問視したものだ。山崎は正信会をけしかけて宗内を混乱させた張本人であり、正信会の僧侶からは軍師と仰がれていたという。当然この記事も正信会側に立ったものだ。  また、八一年三月二六日号の〈ついに国会で追及される池田大作・創価学会の社会的不正〉なる記事には、「バリ雑言の限りを尽くす法主」という小見出しつきで、日顕が正信会寄りの僧侶を罵倒する様子が、克明に描写されている。  要するに、この頃(八〇年代初頭)の週刊文春の報道は、“正信会を擁護し日顕を叩く”という姿勢で一貫していたのだ。  ところが、九〇年の宗門問題勃発で創価学会と日顕が袂を分かつと、まさに手のひらを返したように、週刊文春は日顕擁護に回った。その無節操な報道姿勢には呆れ返る他はない。  もっとも、週刊文春に言わせれば、“自分たちは反創価学会という姿勢を貫いているのだから、無節操ではない”ということになるかもしれない。正信会は八〇年当時から創価学会の敵であったが、日顕は表面上は敵ではなかったからだ。どちらが正しいかの判断など二の次で、“学会の敵の側に立つ”のが、週刊文春の一貫した姿勢なのである。  それならそれでいい。だが、いやしくもジャーナリズムを標榜するなら、前言を翻すのはそれなりの決着をつけてからにして欲しいものである。そのためにも、週刊文春は次の疑問に明快な答えを出す義務がある。 @日顕を「学会のスパイ」呼ばわりしていたあの記事は、事実誤認だったのか? A日顕の血脈相承にくり返し疑問を投げかけた週刊文春だが、その疑問はどう解決したのか? 日顕擁護に回ったからには、“やはり血脈相承はあった”という結論に達したのか? ならば、その根拠は何か? Bそれとも、週刊文春にとっては学会が叩けるという一事だけが重要で、誰の側に立とう とかまわないのか?  創価学会の味方をする者は理由をこじつけてでも批判し、創価学会の敵に回った者には前言を翻して味方をする。週刊文春のこうした体質こそ、その報道がもはやジャーナリズムの名に値しないことを雄弁に語っている。 読み捨てメディアの矛盾 〈「信徒団体と認めない!」 法主が遂に叩きつけた創価学会「破門状」〉 (九一年一二月一二日号)  九〇年暮れからの宗門問題の展開の中で、一つのクライマックスがあった、宗門から創価学会へ対する「破門通告」である。これ幸いと、週刊文春が小躍りして報じた記事である。  記事は、池田名誉会長がスピーチの中で法主・日顕に「上人号」をつけなかったことを、「ついにはニッケン呼ばわり」との小見出しまでつけて批判している。かつて日顕の血脈まで否定してきた週刊文春が、なにをいまさら日顕に媚びるのか?  そもそも、法主を「○○上人」と敬称で呼ぶのは、血脈相承を受けた正当な法主であることを認めるがゆえである。ということは、日顕の血脈をくり返し否定してきた週刊文春は、それまで“日顕は上人にあらず”とくり返し主張してきたことになる。  つまり、日顕を「ニッケン呼ばわり」してきたのは、ほかならぬ週刊文春なのである。にもかかわらず彼らは、“創価学会が日顕上人を呼び捨てにするとは何事だ!”と、いけしゃあしゃあと憤慨してみせる。なんという手前勝手だ!  これに限らず、九〇年末以降の週刊文春の記事は、“学会は日顕上人を尊敬しないからケシカラン”“僧侶に従わないからケシカラン”という基本トーンで貫かれている。  日顕をさんざん叩いてきた週刊文春が、“池田は日顕上人を尊敬しないからケシカラン”という。その自己矛盾ぶりもさることながら、そもそも週刊文春は、僧侶は信徒より偉いと本気で考えているのか?  『聖教新聞』のコラム「羅針盤」(九一年二月九日付)に、こんな一文が載っていた。「週刊誌の編集者やライターは、だいたいが宗教を蔑視しているような人種である。ゆえに宗教オンチが多い。(中略)/腹の中では宗教を軽蔑している人間が、“学会は宗門の権威に服従しないからケシカラン”などということほど滑稽なものはない」  創価学会側が週刊文春をどう見ているかの一端を示す一文である。“宗教オンチが多い”とは困ったものだ。なぜなら、週刊文春は、宗門と創価学会の問題の本質が分からないまま、あるいはわざと分かろうとしないまま、うわべだけの記事を載せてきたからだ。十何年も前の記事との主張の矛盾など、“読み捨てメディア”である週刊誌にとってはなにほどでもない。しかし、学会の敵が変わるに合わせてカメレオンのように主張を変えてはばからないのは、週刊文春がやっぱり“宗教オンチ”であることの証明である。 法主のウソをそのまま書く記者・段勲のやったこと 〈独占スクープ! 法主極秘会見「池田大作をクビにした真意」〉(九一年一月一七日号)  この記事は、反学会ライター・段勲が法主・日顕と会見した際の日顕の談話を“池田名誉会長を日蓮正宗総講頭から罷免した真意”としてスクープしたというもの。  今回の宗門と創価学会間のいわゆる「宗門問題」報道のスタートとなったこの記事には、じつは日顕のウソがある。同年一月六日に総本山で行われた「全国教師指導会」での、日顕の発言を引用した部分だ。  「池田問題の根源は、池田大作の教義解釈の誤りにある。『三大秘法抄』の本門の戒壇とは正本堂のことであると、池田が断定したことに由来する。(中略)このことは、十年間、私は登座以来、一度も言わなかった。今日初めて発表する」  段はこの発言をわざわざ取り上げ、「今日を限りに池田氏と訣別し、その非を公にする、という、記念すべき宣戦布告である」としている。えらく力の入った、この記事のクライマックスともいうべき部分だ。  この発言の重要性は、信徒以外には少々わかりにくい。「正本堂」とは創価学会が寄進した建物である。その建物が、「日蓮大聖人の御遺命たる本門の戒壇」であると、宗門が意義づける前に池田氏が勝手に意義づけてしまった。信徒の分際でケシカラン……と、日顕はそう言っていたというのだ。正本堂建立以来二〇年近く、信徒がみな信じてきた“建立の意義”が“じつは間違っていた”と言うのだから、これは衝撃的な発言であった。  ところが、その後の調べで、正本堂を「本門の戒壇」として意義づけたのは、池田名誉会長の独断ではなかったことが判明する。名誉会長の発言以前に、日達前法主、また、日顕自身を含む宗内の高僧の発言で、同様の意義づけがなされていたのだ。  後日、工藤玄英氏(東京・長栄寺住職)からそのことを指摘されると、日顕は顔を曇らせ、「あの日は原稿を持っていなかったからなあ」などとあいまいな弁解をしたという。  つまり、段勲が「記念すべき宣戦布告」と大仰に書き立てた日顕の発言は、単なる思いつき、口から出まかせだったのである。それを段は、鵜呑みして記事にした。日顕は、結果的に週刊文春にウソを書かせるために段と会見したことになる。  宗門の言い分の妥当性を、確認調査してから記事にする冷静さは段どころか、週刊文春にもない。だから、こんな失態を演ずるはめになった。「独占スクープ!」「極秘会見」とまで銘打って、大威張りで日顕のウソをタレ流してしまったわけだ。  だが、週刊文春にはタレ流し報道をいちいち気にする姿勢はない。“スクープ”をぶち上げて、世間の耳目を集め、雑誌を売ってしまえばいいのだ。  その後、週刊文春はダンマリを決めこんでいる。それも当然だ。週刊文春の宗門問題報道に、信憑性など不要なことは何よりも週刊文春が承知だからだ。 「C作戦」の存在をいち早く報道していた不思議 〈法主の前で机を叩いた池田大作〉(九〇年九月六日号) 〈国税庁に厳重注意された池田大作の高級イクラ疑惑〉(九〇年九月二〇日号)  本章を書くにあたって関連記事を発表順に通読して、興味深いことに気づいた。宗門問題が表面化したのは九〇年一二月末だが、週刊文春が法主・日顕寄りの報道を始めるのは、それより数か月前からなのである。  具体的には、同年九月六日号の〈法主の前で机を叩いた池田大作〉あたりから、明らかに日顕側、宗門側に立って記事が作られている。この記事は、「一般の学会員は知るよしもないが、総本山の奥の院で驚くべき事件が勃発している」として、学会首脳と宗門中枢部の“険悪なやりとり”を紹介したもの。  日顕との「目通り」の席で、池田氏が怒りのあまり机を叩いたなどと、見てきたような描写づくめである。その描写がどこまで真実であるかは別として、一般信徒にはうかがい知れない内幕を描いているという点で、この記事が宗門中枢からのリーク情報に基づくものであることほまちがいない。  この週刊文春の宗門問題報道で、段勲はずっと中心的役割を果たしてきた。段の実兄・高橋公純は宗門の現役僧侶である。したがって、高橋と段のラインから、週刊文春に、“もうすぐ宗門が学会を切る”という情報が伝わっていたと考えられる。この情報は、週刊文春にとっては願ってもないものだった。だからこそ、週刊文春は宗門問題勃発前から日顕寄りになっていたのだ。  実際、宗門による創価学会分離作戦(C作戦)は、九〇年七月の段階で決行が決議されていたことが、すでに明らかになっている。ところが、週刊文春の記事に、それをほのめかす記述があった。三章でも紹介した〈池田大作の高級イクラ疑惑〉の一節である。  「また、このドサクサの渦中に、学会の某副会長が『池田打倒』を画策した『C作戦』なるシナリオを持って、密かに総本山の僧侶を訪ねた、という話も伝わっている」  学会側は九一年まで知る由もなかった「C作戦」の存在を、週刊文春が前年九月の段階でつかんでいたとは驚きである。明らかに宗門中枢とのパイプがあったことになる。  だが、この「C作戦」、創価新報(平成六年一月一九日号)紙上で、日顕を中心にした宗内の一部僧侶たちの謀議によって練られたものであることがすっぱ抜かれている。  ということは、「学会の某副会長が『池田打倒』を画策して総本山の僧侶を訪ねた」云々という週刊文春の記述は、明らかに捏造である。ひいき目に見ても、宗門側のウソに乗せられた誤報である。このまちがいについて、週刊文春はどう申し開きをするのか? 前項の「正本堂発言」といい、「C作戦」についての記述といい、週刊文春の宗門問題報道は、一〇〇パーセント宗門側に与して作られてきたことがわかる。  宗門と学会の確執を報じるのなら、公平な立場から、どちらの言い分が正しいのかを見極めようとするのがジャーナリズムの立場ではないのか! だが、週刊文春には、そんな公正さなどみじんもない。むしろ宗門側の言い分を一方的に報じて、宗門のプロパガンダを自ら買って出る。そして、宗門側がウソをついていることが判明しても、それを訂正することもない。こんな雑誌は、もはや“ウソの拡声器”でしかない。 第六章 大はずれ 学会から寝返った次期会長予定の“本命”と“穴” 〈本命原島穴福島 池田“退陣説”の中のトップ・レース〉(七三年一月八/一五日号)  池田名誉会長が会長の座を勇退するずっと以前から、マスコミによる退陣説は幾度となくささやかれてきた。これはそんな時期に出た、第四代会長を予想した記事である。週刊文春が作ってきた「学会はもうダメだ!」式予想記事は当ったためしがないのだが、この記事は中でもハズれ方がケタ外れだ。次期会長の「本命」とされた原島嵩、「穴」とされた福島源次郎の二人とも、会長就任どころかのちに脱会し、学会に弓を引く立場になったのだから……。  ちなみに、予想の中には、現会長の秋谷栄之助氏の名前も登場する。秋谷氏については、文中で「十月の正本堂落慶では末席にすわらせられていたからムリ」などと、わけ知り顔で解説してみせている。  週刊文春の学会報道がいかにいいかげんなものか、また、彼らのもとに届く学会の内部情報とやらがいかに信憑性のないものであるかを、この記事は象徴している。  それにしても、このテの“予想記事”というのはじつにうまくできている。予想だから事実誤認をとらえて抗議するわけにもいかないし、予想がハズれたからといって責任を問われるわけではないからだ。だいたい週刊誌は“読み捨てメディア”だから、何年も経って予想がハズれたところで気づく人などいまい。週刊文春編集部だってそうだろう。私のような物好きが昔の記事をひっぱり出さない限りは……。  週刊文春の〈学会はもうダメだ!〉式記事も、十年後、二十年後には、この記事同様、物笑いの種になっていることだろう。  しかし、こんなヨタ記事でも、それなりに会員の動揺を誘ったはずだ。この記事によって信仰を捨てた人さえ、いるかもしれない。〈長島巨人は今年優勝できない!〉などという、他愛のない予想がハズれるのとはわけがちがうのだ。週刊文春は、二十年以上も前からこうした罪つくりをしてきたのである。 たかり屋・龍年光の“カラ手形”と領収書 〈どーする!鈴木都知事 「創価学会解散」に署名22万人〉(九二年四月一六日号)  一章でも少し触れた、元公明党都議・龍年光の馬鹿げた署名運動の顛末を報じた記事である。どう馬鹿げているかを説明しよう。  九一年後半から、龍は「創価学会法定解散」を求める署名運動を続けてきた。“現在の創価学会は宗教法人法に定められた要件を逸脱しており、所轄庁である東京都庁の権限で解散を迫るべきだ”という主旨である。半年かけてこの主旨に同意する市民(多くは法華講員だが)の署名を集めた龍は、九二年四月二日、「法定解散要望書」と署名簿を携えて都庁を訪れた。  集まった署名は二二万四、四七七名分。この数について、龍は次のような珍妙な解釈を加えている。  「戸田先生の命日にあたる四月二日に提出する署名の数が二二四四と並んだのは、戸田先生が我々を支援して下さっている証拠だと思われます。最後の七七は、創価学会はあと七年くらいで倒れるということでしょう」  「あと七年くらいで倒れる」と龍は予言してみせるが、週刊文春に載る“予想”は当たったためしがないのは、先にも書いた。  ところで、龍が「解散請求」の根拠として挙げているのは、宗教法人法第八十一条一項。そこには次のようにある。  「裁判所は、宗教法人について左の各号の一に該当する事由があると認めたときは、所轄庁、利害関係人若しくは検察官の請求により又は職権で、その解散を命ずることができる。  一 法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと。  二 第二条に規定する宗教団体の目的を著しく脱却した行為をしたこと又は一年以上にわたってその目的のための行為をしないこと」(以下略)  週刊文春が連載した龍年光の手記〈池田大作 堕地獄への道〉の最終回(九一年六月六日号〈こうすれば学会は解散させられる〉)で、龍は「現在の創価学会がこの一、二の事由にあてはまることは明白です」と言い切っている。創価学会の「財務」(学会の運営費用としての寄付)は「善良な学会員を欺く詐欺行為」であり、「日蓮正宗の僧侶に対する暴力的行為を全国で繰り返している」からだという。  だが、龍が言い切る解散に該当する事実は見当たらない。だからこそ、自信満々で要望書と署名簿を届けた龍に、都庁は“門前払い”を食わせたのである。九二年四月二日、鈴木都知事本人に面会を求めた龍に対し、都側は篠田伸夫行政部長が応対。都としての立場を明確に伝えた。週刊文春の記事から、行政部長の弁を引用しよう。  「都庁と致しましては、あくまで法律に基づいて行政を行っております。宗教法人法は“行政不介入の原則”と申しまして、教義の内容に触れるような形の立ち入り調査権が与えられておりません……」  法律を盾に学会の解散を訴えた龍に対し、その法律に照らしてみても要望には沿いかねる、と都側は明言したのである。当然だ。創価学会が宗教法人法を逸脱しているという事実などないのだから……。  元都議会議長のキャリアを背景にした龍が「必ず学会を解散に追い込んでみせる。鈴木都知事に直接手渡すから署名を集めろ」と大言壮語し、宗門と法華講連合会をあげて行ってきた署名運動が、まったくの徒労に終わったのである。  だが週刊文春は、水泡に帰したこの署名運動を大いに持ち上げ、「要望書が都を動かし、国を動かせば、いよいよ池田大作氏への『王手』ということになる」と記事を結んでいる。まったく、ものは言いようである。それから三年が経とうとしているいま、龍らの解散請求はどのくらい都や国を「動かす」ことができたというのか?  創価学会の法定解散など不可能であることくらい、週刊文春の編集者も重々承知であろう。それでも、彼らはあえてこの馬鹿げた署名運動を持ち上げてみせた。週刊文春にとっては、学会を叩けるネタであることこそが重要であるからだ。龍は週刊文春に利用されているだけなのである。  ところで、この署名運動には、もう一つの裏事情があった。九二年六月、日蓮正宗の法主・日顕から龍の口座に、一千万円もの大金が振り込まれた事実が明らかになったのだ。龍が都庁に要望書を提出した二か月後のことであり、これが署名運動に対する報酬であったことは容易に推察できる。  なんと、龍は社会正義に名を借りて展開した署名運動の陰で、ちゃっかり宗門から一千万円を貰っていたのである。週刊文春は、こんな“たかり屋”の老醜手記を載せ、たかりに加担した不見識を恥じるべきだろう。 無責任な秋谷会長失脚記事 〈秋谷会長は「軟禁」か? 21世紀“世襲”の野望に燃える「池田創価学会」〉 (八四年一〇月一一日号)  一章で紹介した〈『聖教新聞』から消えた池田大作の近況〉同様、“学会トップの失脚が近い”とする一連の記事の一つ。この手の記事には、会員の動揺を誘うと同時に、池田名誉会長と秋谷会長を仲違いさせようとする意図がある。  八四年の第四回世界文化祭に、秋谷会長が出席しなかった。また最近、『聖教新聞』の見出しには秋谷会長の名前が見当たらない(またこれだ!)――それだけのことで、あたかも会長が“失脚間近”であるかのように書き立てた記事なのである。  おかしいのは、同じ記事の中に、秋谷会長が腸閉塞で入院していたことが報じられている点だ。とすれば、フツーの思考回路を持つ人間なら、“文化祭は病みあがりだから出席を控えたのだな”と考えるはずだし、入院・療養中に『聖教新聞』の見出しに登場しないのはむしろ当然と思うのが筋だ。  ところが週刊文春は、なんとその入院さえも“失脚間近説”に結びつけてしまっている。「秋谷氏の病状は、かなり悪いようです。この重病に便乗して、池田氏の“秋谷さん使い捨て”が始まったんですよ」(原島嵩のコメント)と知ったかぶり。  そして、その後がまたひどい。「マスコミ、学会員の前から消えた秋谷会長はいったいどこにいるのか?」という文を受けて、原島と内藤国夫が次のようなコメントを寄せているのだ。  「箱根あたりに軟禁されてるんじゃないかナ」(原島)  「いや、湯河原温泉で休養中と聞いたが、再起の可能性はないようだ。これで池田ワンマン殿様の暴走・脱線を止める人はいなくなったね」(内藤)  もちろん秋谷会長は、この記事から十年以上が経過したいまも、元気である。「箱根に軟禁」とか「湯河原で休養中」とか、誰から聞いたのか知らないが、よくもまあもっともらしいウソを並べたものである。秋谷会長に「再起の可能性はない」と言い切った内藤国夫には、予想がハズれた理由を釈明すべき義務がある。  それに週刊文春は、秋谷会長に対する名誉毀損に問われてもおかしくはない。事実無根の「軟禁」状態や「再起不能」をデッチ上げ、あたかも名誉会長に秋谷会長は失脚させられたかのように書かれたのだ。筆者やコメンテイター以上に、週刊文春の編集部の責任は重大である。“十年前の記事の責任など知ったことか!”と逃げるわけにはいかないぞ! 第七章 無知 (注)本章で表記している公明党は、現在は公明および新進党に分かれた旧党を意味しています。 悪質な“選挙妨害”記事の核心部分 〈都議選直前情報 創価学会ウィルスが東京を襲う〉(八九年六月二九日号)  週刊誌の学会バッシング報道は、一見、のべつまくなしに行われているように見える。しかし実際には、それなりのサイクルがある。大がかりな反学会キャンペーンは、きまって大きな選挙の前に行われるのだ。  たとえばの話、過去二十年間、大きな選挙が行われた時期と、反学会キャンペーンが激しさを増した時期とを比較対照してみると、キャンペーンの背後にある週刊文春の政治的意図が、はっきりと浮かび上がってくる。  週刊文春のこの記事は、タイトルからして、創価学会による公明党支援をなんとか邪魔したい、との政治的意図が見え見えだ。しかも「創価学会ウィルス」とは、名誉毀損もののえげつない表現である。「都議選直前情報」とあるが、これは情報どころか、単なるマスコミによる選挙妨害ではないか!  この記事の核心は、全国の会員が、都内の知人に公明党候補の応援を頼む様子をさも見たかのように報じ、“都民でもない者が都議選の応援をするとはケシカラン”と批判している点だ。  〈石田新体制になっても創価学会・公明党の腐れ縁は十年一日のごとし。この首都決戦でも近県はおろか全国からウィルスのごとく侵入〉(リード文)  公明党の支援をする創価学会の会員は、ウィルスのような有害な存在だと週刊文春は言っているのだ。  会員がどこそこでこんな選挙違反をしたからケシカラン、というのならまだ話はわかる。だが、記事には、選挙違反にあたる行為を会員がしたという、具体的な事例はいっさい出てこない。つまり週刊文春は、会員が公明党を支援することそれ自体を悪だと決めつけているのだ。創価学会・公明党に対して十年一日のごとくくり返してきた“政教一致批判”の本質は、じつはこんな低レベルのものなのである。  しかも、そう決めつけた上で、こう結論づける。  「都民でない応援部隊の影響力で都政が左右されるなんて、いったい都民の立場はどうなっちゃうの?」(記事の結び)  これでは、自分で火をつけておいて“火事だ、消火しろ”と騒ぐマッチ・ポンプの所業だ。週刊文春が創価学会がきらいなのは勝手だが、学会員には憲法で保証される「政治参加の自由」がある。違法行為の具体的な事例も挙げずに、「ウィルス」と決めつけるのは人権侵害ではないか!  いったい、週刊文春が主張する“都民の立場”ってなんなのだ! こんなコケおどしで“創価学会ウィルスに汚染される”などと本気で思う読者がいるならお笑い種だが、なんの根拠もない一方的な妨害記事を書いておいて、わけのわからぬ“都民の立場”を強調して世間を騒がせる週刊文春のほうが、よほど有害な「ウィルス」じゃないか! 脱党者に学会の悪口を語らせるいつもの手口 〈創価学会破門の衝撃波 公明党市議団長怒りの離党宣言〉(九一年一二月一九日号)  埼玉県川越市の公明党川越市議団長だった水口和夫が、九一年一一月一〇日付で創価学会を脱会、同二六日に離党した。この記事は、水口とその夫人の談話をもとに、創価学会・公明党の“政教一致批判”をしたもの。  週刊文春によれば、水口が脱会を決意したのは、九〇年末からの宗門問題で、創価学会の信仰のあり方に疑問を感じたからだという。また、九一年一一月七日に宗門が創価学会に対して出した「解散勧告」が、直接の引き金になったのだともいう。  宗門と創価学会の、どちらが正しいかはひとまずおくとして、水口が宗門が正しいと思い創価学会を脱会したのは個人の勝手だ。問題は、脱会によって周囲から非難を浴び、それによって水口自身が離党に至ったのを“政教一致”の証拠であるかのようにあげつらっていることである。  「『政教分離』の建前上、宗教上の理由で党をやめろ、とは誰も言えないハズです。しかし、半月間にわたる様々なやりとりの末、やはり私が党に止まることは不自然だと判断せざるを得なかったのです。(中略)“開かれた政党”なんてウソッパチです」  水口はそう言う。だが、考えてみて欲しい、公明党にとって創価学会は支持母体なのである。その支持母体を悪しざまにののしる議員を、党として容認できないのは当然ではないか? これはたとえば、社会党議員が支持母体である労働組合を露骨に批判しないのと同じことだ。政教一致うんぬんというレベルの問題ではあるまい。しかし週刊文春は、それを強引に“政教一致批判”に結びつけようとする。政教一致批判をするなら、その事実を挙げる必要があるのではないか?  ともあれ、週刊文春にとっては、創価学会を脱会し、離党した議員は、またとない取材ターゲットである。また、離党議員にとっては、週刊文春は自分の行動を正当化するための“駆け込み寺”となる。大橋敏雄しかり、龍年光しかり、藤原行正しかり……。  彼らはみな、離党の大義名分をちゃんと用意していた。いわく「池田名誉会長による党私物化を告発するため」、「公明党の政策に疑問を感じた」、あるいは「宗門問題で学会に疑問を感じ、それを口にしたら党にいられなくなった」……どれももっともらしい。だが、はたして、その大義名分は真実だろうか?  水口については、こんな証言がある。  「昭和五四年に、当時の加藤川越市長にまつわる贈収賄事件がありましたが、その中心にいた人物の一人が水口なのです。事件は、市長と須ケ間収入役が、市の建設計画の中で建築業者、不動産業者と癒着し、不正な金を受け取っていたというものです。五四年一一月二三日に須ケ間は逮捕されましたが、彼と一番親しかったのが、水ロでした。当時、水口も逮捕されるのではないかという噂が立ったものです。ダーティーな噂の絶えないタイプでした」(事情をよく知る朝倉一明氏)  誰しも自己正当化の誘惑から逃れられない。うしろめたいところのある問題議員に限って週刊誌に談話など寄せるのは、売名行為というよりは、自己正当化によって精神のバランスを保つための、切羽つまった行動なのである。彼らが言う“政教一致”の事実とやらは、苦しまぎれの“すり換え”にしか過ぎないのである。  本題から少し外れるが、記事中の水口夫人の談話にも興味深い一節があったので、紹介する。  「それまで私は、(池田)先生の仰るとおりに、決して週刊誌も読みませんでした。それだけ社会と断絶していたんです。/でも、この一件(宗門問題)以来、聖教新聞だけでは分からないと、宗門の書物や週刊誌を読み始めました。そして、先生が教義を曲げて宗門を攻撃していることを初めて知ったんです」  なるほど、この言葉を文字通り読めば、創価学会が反社会的な団体であるというイメージは浮かぶ。だが、ちょっと考えてみても、週刊誌も読まず、聖教新聞だけ読んでいたから「社会と断絶していた」とする夫人の発言は恐ろしいほど非常識である。“創価学会は会員に、こんな非常識な指導をしているのか”と、読者に思わせるには充分だ。しかし、常識的に考えても、仮に創価学会が「週刊誌を読むな」と「指導」したところで、会員が週刊誌を読まないように強制することなどできるはずもない。だが、「その非常識を会員に押しつけるのが宗教なのだ。だから“政教一致”は批判されなければならない」というのが週刊文春なのである。  そういえば、前項で触れた〈創価学会ウィルスが東京を襲う〉の中にも、「選挙運動を通じて、学会の外の空気に触れてみて、いまその矛盾に気が付き始めているんです」(傍線引用者)といった、脱会者の噴飯もののコメントがあった。  「週刊誌も読まずに社会と断絶したり」「学会の外の空気にも触れない」そんな創価学会員っているんだろうか? 選挙報道を理由に「見てきたようなウソ」を 〈早くもキングメーカー気取り 池田大作 衆院選で大ハシャギの醜態〉 (九三年七月二二日号)  細川連立政権発足で、公明党が初めて政権入りしたのが九三年八月。創価学会・公明党に対する週刊誌の“政教一致批判”は、その直前から目に見えて激しくなってきた。この記事もその一例。宮沢内閣の解散で公明党の政権入りが確実視されてから、池田氏がハシャギまくって“政教一致的言動”をくり返していた、というのである。  だが、ここで取り上げている“政教一致的言動”とは、よく読めば出所不明の“見てきたようなウソ”か“政教一致”というのもおこがましい代物だ。  まず、“見てきたようなウソ”の方の例を挙げてみる。  記事の冒頭、宮沢内閣解散が決まった直後、池田氏が公明党の石田委員長と市川書記長を電話で呼び出した様子が描写されている。「よくやった。解散に持ち込んだのは君らの力だ」などと労いの言葉をかけたというのだが、いったいこれは誰が目撃した事実なのか? 創価学会のトップと党首脳の“ホットライン”であるからには、人前でする電話であるはずがない。おそらく“だいたいこんなことを言っただろう”という推測で作った記事なのだ。  また、そのすぐあとには、「幹部クラスですら眉をひそめるほどの」「ハシャギぶり」として、池田氏が「周囲に吹聴」したという言葉が紹介されている。「俺は世界の偉い人とどこででも会えるが、今回のことでキングメーカーになれる」「今の道楽は日本の政治だ」などと言ったというものだが、これまた、いつ・どこで・誰に対してした発言なのかがまったくわからない。つまり捏造コメントなのだ。捏造でないというなら、発言した人間をはっきりさせてみろ! 「周囲に吹聴」したのなら、聞いた人物は一人や二人ではないはずだろう。                     ◆  次に、週刊文春は“政教一致”の動かぬ証拠と騒ぎ立てるが、実際にはなんら“政教一致”にあたらない言動の例を挙げてみよう。  週刊文春は、公明党の候補者全員と池田氏が出席した衆院選の「出陣式」が、学会本部内で行われたことを、鬼の首でも取ったように書いている。  「言論弾圧事件以来、政教分離をかかげ、本部での出陣式は控えていたのだが。二十二年ぶりに政教一致の選挙が復活したことになる」  公明党の候補者を、支援団体である創価学会の会合に招き、そこで支援団体のトップがあいさつする――それ自体は“政教一致”とは言えない。本来“政教一致”にはあたらない本部での出陣式をあえて避けるほど、過去二十年間、公明党は政教分離問題に気をつかってきた、というだけのことに過ぎない。それをことさら騒ぎ立てるのは、週刊文春の“政教一致”ヒステリーもここにきわまれりということか?  そもそも「政教分離の原則」とは、国家の宗教的中立性を保つためのものであるのに、週刊文春はそれを政治団体と宗教団体の「分離」とはき違えている。創価学会の会員が公明党を支援すること自体、つまり特定の宗教を信ずる人間が政治的活動をすること自体を“政教一致”だとしているのである。  もう一つ、この記事からその例を挙げれば、段勲の次のようなコメントもある。  「勝利を祈るために、題目も唱えています。『百万遍唱題表』という表を仏壇の前に貼り、題目を二千遍唱えたら、一マス塗りつぶす――百万遍唱えれば、全てのマスメが塗りつぶされるわけです」  公明党議員の当選を祈るために会員が題目を唱えるとはとんでもない、これこそ“政教一致”だ、と言わんばかりの調子である。会員が何を祈ろうと勝手だろうに、余計なお世話としか言いようがない。  “余計なお世話”といえば、まさに週刊文春の“政教一致批判”はそれ以外のなにものでもない。創価学会が、特定の宗教を国家宗教にしようと画策しているかのようなデマをたれ流して、世間の不安を煽る。こんな“オオカミ少年”のような子供だましが、いつまでも世間に通用すると思っているのか! 政教分離問題で朝日新聞に八ツ当たり 「拝啓・新聞殿」(九三年一二月二三/三〇日合併号)  週刊文春に「拝啓・新聞殿」という新聞批判の小コラム欄がある。新聞批判とはいっても、産経をホメて朝日をけなす、という偏向パターンが多く、なんのことはないマスコミ批評のスタイルを借りた週刊文春の立場表明のようなコラムである。そして、反学会の立場を貫いてきた週刊文春である以上、この欄でもやはり、新聞批判に名を借りて創価学会批判をすることが少なくない。  ところで、九三年一二月二三/三〇日合併号のこの欄では、憲法二〇条にからめて『朝日新聞』を批判している。  ヤリ玉にあげられたのは、九三年一二月九日付の朝日新聞の社説。この朝日の社説の中に、特に週刊文春を名指しはしてはいないが、自民党や一部マスコミ(週刊文春など)の“政教一致批判”に疑問を投げかけた、次のような一節があったのだ。  「では、学会票が政局に大きな影響力を持った場合、それを憲法第二〇条の『政教分離』違反といえるだろうか。この主張には無理があると思う。『分離』とは、国家と宗教の分離をいうのであって、政治家が宗教的信条をもつこと、宗教団体が選挙活動をすることを禁じてはいない」  週刊文春のコラム「拝啓・新聞殿」の筆者「S」氏は、朝日新聞のこのまっとうな主張にイチャモンをつけてみせた。かつて学会批判の行き過ぎを朝日新聞に批判され、乙骨正生に反論させた〈創価大学出身ジャーナリストが朝日論説委員を叱る〉(第四章参照)と同じパターンである。ここでも二つの敵――朝日新聞と創価学会を同時に批判できる一石二鳥の好機を、週刊文春は見逃さない。  では、どんなイチャモンをつけたか? 「公明党=創価学会に固有の問題が、宗教界一般のことにスリ替わっている」というのである。  しかし、問題をすり替えているのはどっちだ? 創価学会が公明党を支援すること自体を“政教一致”だというのなら、多くの宗教団体を集票マシーンとして利用してきた自民党も、“政教一致”として平等に批判すべきだろう。  九三年七月の衆院選を例にとれば、立正佼成会は百八十五名、霊友会は百名の自民党候補を、それぞれ推薦している。また、教団自体が自民党の下部機関を兼ねている世界救世教のようなケースもある。週刊文春の論理でいけば、こちらも“政教一致”にあたるはずだ。こちらは、どうなる? はっきりさせてもらいたいものだ。  冗談じゃない! 週刊文春こそ、宗教界一般のことを公明党・創価学会固有の問題に「すり替えた」張本人じゃないか。  そもそも、このコラム(拝啓・新聞殿)は、どう見ても朝日新聞に反論したことにはなっていない。憲法二〇条の解釈が朝日とは異なるというのなら、週刊文春なりの憲法解釈を展開して反論すべきだろう。                     ◆  週刊文春の“政教一致批判”記事は、政教分離を規定した憲法(二〇条、八九条)への言及がいつも欠落している。つまり、まともな論争になっていないということだ。  ちなみに、週刊文春の近年の記事で、“政教一致批判”がらみの主なものは、おおむね次の七つである。 @〈都議選直前情報 創価学会ウィルスが東京を襲う〉    (八九年六月二九日号) A〈竹下院政を改めて印象づけた池田名誉会長年頭オフレコ会談の「中身」〉                              (九〇年一月二五日号) B〈創価学会破門の衝撃波 公明党市議団長怒りの離党宣言〉 (九一年一二月一九日号) C〈早くもキングメーカー気取り 池田大作 衆院選で大ハシャギの醜態〉                              (九三年七月二二日号) D〈矢野絢也前委員長が初めて公開した「公明党」の内幕〉  (九三年九月一六日号) E〈元公明党地方議員 告発座談会「われわれは池田大作の下僕だった」〉                              (九三年一一月二五日号)F〈ホクソ笑む池田大作 創価学会票で決まる危ない代議士の当落〉                              (九三年一二月二日号)  そして、この七つの記事のどこを読んでも、憲法二〇条、八九条にはまったく言及されていないのだ。  「誰も信じちゃいない創価学会と公明党の『政教分離』」(Eの記事のリード文)とか、「『政教分離』のタテマエはどこへやら」(Aの一節)などという、根拠なき決めつけ言葉の羅列にしか過ぎない。要するに、まともに政治と宗教の問題を取り上げようという姿勢は微塵もないのだ。世間的にも立派な学歴を誇る社員がたくさんいる週刊文春編集部にしては、なんともお粗末な限りという他はない。これは、本質論に踏み込めば、創価学会の公明党支援が“政教一致”には当たらないことが判明してしまう。週刊文春にもそれがわかっているからこそ、表層的批判、イメージ批判に終始するしかないのだろう。 落ちこほれ議員の泣き言を針小棒大に 〈元公明党地方議員 告発座談会「われわれは池田大作の下僕だった」〉 (九三年一一月二五日号)  山口優、多賀一成ら、五人の元公明党議員が集まって、言いたい放題、学会・公明党の悪口を語り合った座談会記事である。まがりなり(曲がったなり?)にも国会議員であった大橋敏雄、まがりなりにも学会最高幹部の一人であった藤原行正(元公明党都議)の場合とはちがって、小物ばかりだから、五人寄せ集まってようやく一本の記事になった、というところか。  一読しての印象は、「グチばかり言っている」であった。五人の元議員の品性のなさがにじみ出た記事内容なのだ。  まず、金で苦労した思い出話ばかりしている。「当選はしたんですけどね、収入がいままでの三分の一になるわけです。兼職はいかんというのですから」という山田清二(元和泉市議)の発言など、これが党への「告発」になると本気で信じているのだろうか? 議員としてお金の面でいい目が見たかったのに、公明党はそれを許してくれなかった、と言っているだけではないか?  また、自分が落ちこぼれ議員、不良議員であったことを自慢げに話しているような部分も目立つ。特に、元鹿児島県議・山口優の話はなかなか娯楽的だ。二十年の市議生活を経て県議となった男だが、その山口が県議会に初出馬する際、地元の「学会の婦入部が反対した」のだそうだ。  要は、市議時代の山口の評判が悪かったから婦入部に反対されただけのことだろう。しかし、山口はそれを「婦入部の苛めにあった」と表現している。爆笑ものだ。脱会して学会批判をくり返す山口が言えば言うほど、反対した婦入部の方が正しかったのではないかと納得してしまう。  山口の行状をよく知る玉利正・鹿児島市議会議員は、このときのいきさつをこう語った。  「山口は札つきの問題議員でした。党の会合・活動にほとんど参加しなかったり、国政選挙や市長選では他党推薦の候補を支援したり、異常な行動は枚挙にいとまがありません。一度など、他党陣営に学会員の幹部名簿を横流しして、大問題になったこともあります。  そうした山口の問題行動を、私たちは断腸の思いで党幹部や学会の代表の方に相談しました。その際の話し合いで、“いまの状態で公認から外せば、山口は何をするかわからない。もう少し見守っていこう”という結論になったんです。山口自身、そうした経過を知っているくせに、自分を正当化して言いたい放題言っている。とんでもない男です。山口のことは、鹿児島ではもう誰も相手にしていませんよ」  ところで、山口は座談会の中で、「政教一致ぶりを如実に示す例」として、こんなことを言っている。  「海外視察に行く場合、必ず学会本部に行って挨拶しなさいといわれる。そして帰ってくるときに、かならず池田先生にお土産を買ってこなくてはならない」  だが、前出の玉利議員によれば、これは「山口がごますりで勝手にやっていたこと」なのだという。  「私たちも党本部へは報告書の提出をしたりしていますが、山口は地元のことはほとんどしないくせに、しょっちゅう東京へ出ては中央幹部にごまをすっていました」  また、山口は記事の中で、会員である電話局職員が職権を濫用しているかのような聞き捨てならない発言もしている。  「その職員に頼むと、電話がタダでいくらでもかけられる。都議選の応援だって言ったら、電話を繋いでくれるんです」  しかし、玉利議員はこの発言については一笑に付す。  「そんなことは絶対にあり得ません。電話の交換は機械でするわけですし、いちいち聞いて、タダにできるわけがないじゃないですか」  山口は、この職員が選挙の際に他党の電話を盗聴しているとも言うのだが……。  「公明党は鹿児島では国政選挙に候補を立てていませんから、それほど激しい選挙戦はないんですよ。盗聴なんてする必要もないし、できるはずもない。いくら電話局職員でも、どれが他党にかかってきた電話かなんて、わかるはずがないでしょう」(玉利議員)  ことの真偽はここでは問わないが、なんとも低次元のヨタ話である。問題なのは、こうしたヨタ話を確認もせず掲載している週刊文春だ!  ちなみに、この山口、九一年に脱会してから、無所属で県議会、市議会に出馬し、それぞれ落選の憂き目を見ている。そして、つけ加えれば、この「告発座談会」に登場した五人の元議員が、揃って六十代、七十代であるのは象徴的なことだ。  公明党は議員に六十六歳定年制を敷いている。つまり、この五人はいずれも、定年を目前に控えてか、あるいは定年を迎えて以後に脱会・離党しているのだ。どうせ“告発”をするなら議員生活の真っ只中ですればよいものを、自分の地盤を後進に譲らざるを得なくなってから、また、議員生活を終えてから始めるというのも、おかしな話だ。  定年目前の議員の場合、議員としての地位にしがみついていたいがための離党とも思える。また、定年以後の元議員の場合、もう学会員の支援を必要としない立場になったがゆえの離党とも思える。どっちにしても、“正義の告発”などという格好のよいものではないはずだ。それを週刊文春は“正義の告発”と持ち上げて、誌面を提供する。誰にもそれなりの言い分はあろう。その言い分の中からさも“政教一致”であるかのように見せかけた演出をして記事を作っているのが、週刊文春なのだ。  見逃せないのは、週刊文春がここでもやってはばからない“針小棒大”である。ここに登場するのは、公明党地方議員三千人のうちの、たった五人なのだ。それを週刊文春は、創価学会と公明党が腐敗している証拠だと断定して報じているのだ。  その手口は、第三章の“百二十分の一の針小棒大記事”と同じである。いや、これはそれ以上の“針小棒大”である。 政教分離をよく知らずに批判 〈ホクソ笑む池田大作 創価学会票で決まる危ない代議士の当落〉 (九三年一二月二日号)  「小選挙区比例代表並立選挙制」の導入が国会で可決されたことを受け、それを強引に創価学会批判、“政教一致批判”に結びつけた記事である。  小選挙区制では多くの選挙区で創価学会票が当落のカギを握るが、これは「背筋の寒くなるような重大な危険」だというのだ。なぜ危険か? 公明党は“政教一致政党”であり、創価学会の「日本支配の野望」に近づくからだ――という、たわいない週刊文春のいつもの論調だ。  ところで、この記事には二重三重に、創価学会バッシングのための“イメージのトリック”が仕掛けられている。  トリックの第一は、従来の中選挙区制選挙の結果をもって、小選挙区制の結果まで予測していることである。「学会票の行方次第で、当落が逆転してしまう小選挙区は、なんと七十五もある」(リード文)というのだが、冗談もほどほどにしろ!  そもそも、小選挙区制選挙では枠組そのものが変わるのだから、こんな中選挙区制選挙の結果からの予測は、なんの根拠にもならないのだ。  さらに、創価学会票が影響力を増すことが日本にとって危険なことと断定しているが、その断定の根拠が例のごとくあやふや。週刊文春のいう「池田大作日本支配の野望」が、いかに実体のないイメージ批判でしがないかは、すでに第四章などで述べた通りであるが、ここでもこのイメージ批判というお決まりの手口に終始している。  記事では、“創価学会会員の政治参加イコール危険なこと”というイメージ作りのため、こんな汚い手口まで使っている。池田氏が昭和三二年に、集団戸別訪問を指揮した容疑で逮捕・起訴されたことに触れているのだが、これは、裁判所の厳正な審理の結果、容疑が晴れ、池田氏は無罪放免になった一件なのである。三十数年も前に無実がはっきりしている事件を、週刊文春はわざわざ「池田大作も戸別訪問で逮捕」との小見出しまで打って蒸し返してみせたのだ。本文を読まず、見出しだけを見れば、池田氏のダーティー・イメージが植えつけられるという仕掛けである。                     ◆  そして、“イメージのトリック”の圧巻は、おなじみの“政教一致批判”である。  たとえば、元創価学会地区幹部だという井上実枝子なる女性が、次のようなコメントを寄せている。  「政教一致、一体ぶりは、現在も厳然と行われています。公明党員は、学会支部の指名で半強制的に決められるんです。ところが公明党党員に登録しても、学会の役職もそのままなんです(全員が学会地区部長以上クラス)。そこである時、私は質問したんです。『みんなから政教一致といわれるのに、どうして選挙になると学会具に党員をやらせるのか。おかしいじゃないですか』と。すると、『普段は学会員だよ。選挙になれば全部公明党員だよ』というんです」と。  つまり創価学会の役職を持つ人が公明党の党員として登録されること、創価学会員が政治活動を行うこと――それ自体が政教一致だというのである。しかし、これはおかしい。  日本国憲法で政教分離を規定しているのは、二〇条と八九条。そこでは以下のような事柄が禁じられている。 @宗教団体が国から特権を受け、政治上の権力を公使すること(二〇条一項で禁止) A国及びその機関が、宗教教育その他の宗教行為をすること(二〇条三項で禁止) B公の財産を、宗教団体の利益や維持のために支出、利用すること(八九条で禁止)  つまり、“国もしくは地方自治体などの公的組織の宗教的中立”を規定したのが政教分離原則であり、国民の私的行動を規制するものではないのだ。政教分離の「教」は宗教だが、「政」は国家権力を意味し、政治団体を指すわけではない。  宗教団体が政党を支援するのは、労働組合が政党を支援するのと同じレベルのことで、政教分離原則になんら抵触しない――その点を根本的に勘違い、もしくは知りつつ無視しているのが、週刊文春の“政教一致批判”なのである。  週刊文春の“政教一致批判”の論理でいけば、特定の宗教の信者は政治活動をすることが禁じられてしまう。そのような論理を振りかざして創価学会を叩くマスコミこそ、「信教の自由」に対する重大な侵害を行っていることになりはしないか?  のみならず、創価学会員であることを理由に政治活動を制限せよとの主張は、憲法十四条に保障された「平等権」(人種・信条・性別・門地などにより差別されない権利)にも違反するものだ。  そもそも、日本国憲法の政教分離は、国家神道が国民を精神的に支配し、権力をもって他宗教を弾圧した過去への反省から生まれたものだ。もっとも、戦時中に権力側に屈し、宗教弾圧に加担した致命的な“歴史”を持つ文藝春秋にとってみれば、日本国憲法の過去への“反省”は、自らを否定する刃となる。だから、週刊文春も憲法には触れられないのである。  信教の自由を守ることこそ、政教分離原則の根幹なのである。その根幹に唾する主張をしてはばからない週刊文春が、憲法二〇条を盾に創価学会・公明党を攻撃する――なんともグロテスクな転倒ではないか。  自らの無知をたな上げにして、なにが“政教一致批判”だ。“無定見週刊誌”の週刊文春よ、世迷い言もほどほどにしろ! 第八章 ニセ本尊キャンペーン デッチ上げ報道はこうして画策された  この事件は、紛れもない“犯罪”である。まず、架空の副会長をつくり上げ、その副会長が書いた手記だと偽って、ありもしない「ニセ本尊事件」をデッチ上げた筆者段勲と、それを承知で週刊文春が騒ぎ立てたものだ。  こんなことが、週刊文春でなんと五週にわたって行われたのだ。“間違い報道”ではない、確かめることもせずに、イヤ、百も承知で続けた“デッチ上げ報道”である。〈まさか、あの週刊文春が?〉という思いは、この報道の内実を知るほどに、怒りに変わってくるはずだ。結論から言おう。“学会嫌い”の週刊文春が、悪意をもってブチ上げたのが、この「ニセ本尊事件」だったのだ。 他のマスコミを煽動した“悪意のキャンペーン”  平成二年五月―  週刊文春は「創価学会ニセ本尊事件」と銘打つ一大キャンペーンを開始した。タイトルはこうだ。  「スクープ 一千万信者に衝撃の新事実 池田大作は『ニセ本尊』を売っていた」(九〇年五月三日、一〇日合併号)  創価学会で最も意義ある日とされている「創価学会の日」の五月三日をわざわざ選んで記事が掲載された。  この記事のネタ元は『福田』というワープロで打たれた小冊子である。この小冊子の発行元は、一応「日蓮日興会」という日蓮正宗の信徒団体と称しているが、実際は、週刊文春に“創価学会ニセ本尊事件”を売り込み、自分でも署名入りで書いた張本人・段勲、そして段の実兄で僧侶の高橋公純、他に編集長の渡辺隆(「福田」ではペンネーム・南条白山)、編集発行人の梅沢十四夫(「福田」では唯史を名のっている)で作っていた。この『福田』は、創価学会をためにするヨタ記事を載せるパンフレットだったのだ。  「創価学会ニセ本尊事件」の発端は、この『福田』という小冊子の創刊二号に載った現職副会長「牧田隆」なる人物の手記である。「あなたの御本尊様は本物か?」というタイトルで、昭和四三年三月から創価学会の班長以上に下付された「特別御形木御本尊」は、総本山が下付した本尊を創価学会が水増しして十八万体も作ったという内容である。                     ◆  ここで簡単に、週刊文春の五回の記事にふれておこう。  第一弾〈スクープ一千万信者に衝撃の新事実 池田大作は「ニセ本尊」を売っていた〉では、内藤国夫が法務省OBで元刑務所の印刷技官をやっていたという七十七歳の印刷業者に証言させている。  「外注が舞い込んだ初仕事でしたから、よく覚えています。昭和四十一年のことでした」  と、あたかも創価学会が本尊を刑務所で印刷させていたかのような記事である。  第二弾は〈暴かれた「ニセ本尊」軸木の疑惑〉(九〇年五月一七日号)とのタイトルである。これは、筆者段勲と正信会の機関紙『継命新聞』編集長(当時)の乙骨正生が組み、乙骨が“御本尊をバラバラ”に解体し、段が「ニセ本尊識別法」ルポルタージュとして書いたものだ。  第三弾は〈創価学会ニセ本尊問題 燃え上る「御守り本尊」疑惑〉というタイトルで、“守り本尊まで怪しいぞ”と騒いでみせた。  第四弾は、再び内藤国夫が顔写真入りで登場し〈ニセ本尊疑惑 逃げるな! 池田大作名誉会長〉となっているが、これは取材記事でも何でもない。正木正明氏ら青年部幹部が、週刊文春の内藤国夫の記事に抗議したのに対し、“若造のくせに俺に文句をつけるのか”と筆者、内藤国夫がヤクザ口調でイキまいているに過ぎない。  最後の第五弾は、〈学会員もあきれる 池田大作名誉会長の「信心」より「カネ」〉と、タイトルだけは派手だが、ニセ本尊とはまるで関係ない内容である。  それでも、これら五週にわたる週刊文春の「創価学会ニセ本尊事件」のキャンペーンは、他のマスコミをも煽動し、なんと全誌合わせて二十数回も書き立てた。                     ◆  これを掲載誌ごとにまとめると、大体以下のようになる。 ●夕刊フジ  〈副会長が機関紙に強烈パンチ〉(四月八日付) ●週刊実話  〈創価学会「ニセ本尊」と「本物」はここが違う!〉(五月一〇・一七日合併号)  〈創価学会「ニセ本尊」騒動! 池田大作に集中砲火〉(五月二四日号)  〈創価学会と宗門が「ニセ本尊問題」で宣戦布告!〉(五月三一号)  〈[読者投稿第一弾]池田大作は弱者を食い物にするな!〉(六月八日号)  〈創価学会池田大作支持派VSアンチ派「誌上」大激突〉(六月一四日号)  〈《読者投稿誌上対決》創価学会・池田大作名誉会長にこれだけは言いたい〉(六月二一日号)  〈池田大作が大号令! 「ニセ本尊問題」よりカネ集めだ〉(六月二七日号) 〈[創価学会ニセ本尊]池田大作が逃げきれない“五つの疑惑”〉(七月二六日号) ●諸君  〈月報「創価学会問題」 偽御本尊大量配布〉(六月号)  〈月報「創価学会問題」 嘘と語呂合わせの池田スピーチ〉(七月号) ●東京スポーツ  〈創価学会遂に分裂! 池田追放派が公然旗揚げ〉(四月二七日号)  〈創価学会池田名誉会長120億円ボロ儲けの新事実 ニセ本尊甲府刑務所で製造?〉(五月一一日付)  〈創価学会奴隷工場でニセ護符も 本尊だけではなかった池田名誉会長のニセ物商売〉(六月二日付)  週刊文春から端を発したこれらの一連の「創価学会ニセ本尊」キャンペーンは、ヒステリックですらある。だが、もし事実なら大問題となるはずの週刊文春のこの“スクープ”に追従しているのは、ごく限られたメディアであることが、ことの本質を象徴している。 仲間割れから発覚した段勲の“悪事”  話を先に進めよう。注目したいのは、このキャンペーンから五か月後のことである。暮れも押し迫った平成二年一二月二五日、週刊文春で散々書きまくった段勲が、なんと、法主・日顕と会見している。しかも、その会見内容を「日顕法主との極秘会見」として、週刊文春紙上で得意げに披露しているのだ。  そして、この会見の二日後の一二月二七日、宗門は、池田名誉会長の総講頭を罷免し、“宗門問題”を勃発させた。  この一連の流れは、いったい何を意味するのだろうか。これは後日明らかになるのだが、以前から日顕は「C作戦」と称する創価学会の破門を画策しており、名誉会長の総講頭罷免は、その作戦遂行の第一段階だったのだ。  このような策謀が、日顕を中心に宗門内部で巡らされている折り、段勲と週刊文春との「ニセ本尊」キャンペーンは、日顕を大いに喜ばせた。  日顕は、段の実兄の群馬県本慶寺の住職・高橋公純の紹介で、段と“極秘会見”する。この会見での日顕の目的は、ニセ本尊事件のデッチ上げで創価学会を揺さぶった段をねぎらうことと、創価学会破門後のマスコミの“学会攻撃の応援”の依頼であった。  ところで、このスクープを報じた週刊文春はタイトルで「極秘会見」と仰々しくうたっておきながら、その割に全く中身のない内容である。というのは、“会見の内容が公になると日顕に不利になる”ことが極秘会見後に分かり、日顕が急遽書き直させたためであった。  また、この会見には高橋公純の“不純”な思惑もあった。高橋は、一時、日顕に反旗を翻した「正信会」に寝返ったが、その後、詫びを入れて宗門に戻ってきていた。そこで。一度失った日顕の信用を回復すべく、実弟・段のマスコミでの創価学会攻撃の手柄(ニセ本尊キャンペーン記事)を持って、日顕のご機嫌取りをしようとしたのだ。高橋の思惑は、うまく当たった。だが、段を宗内に引き入れたことで、宗門は以下に述べるように、永久に取り返しのつかない醜態をさらけ出すはめになったのだ。                     ◆  「ニセ本尊」の一大キャンペーンから約一年後の平成三年六月、とんでもないことが発覚する。このキャンペーンの“ネタ元”となった『福田』の編集発行人である梅沢十四夫が「新雑誌X」(叶V雑誌X発行)七月号でインタビューに答えて次のように述べている。  ―― 例の『福田』がファッと世に出るキッカケとなったニセ本尊偽作というのが現役副会長牧田隆氏の名前で発表されたわけですね、これについてはどういうことだったんでしょうか。  梅沢 牧田隆というのは結論からいうと存在してません。  ―― えっ、存在してないんですか!?  梅沢 してないです。  ―― 例えば正信会の人たちも『継命』という新聞の中でそれ(筆者注、特別御形木御本尊の中にニセ物があるとの指摘のこと)は既に何年も前に言ってたことですよね。それをある意味では再び取り上げたということなんでしょうか。  梅沢 そうです。それをドッキングさせたというんですか、いわゆるそういったいろんな過去の事実を集約して、よしそんじゃひとつやっちゃおうじゃないかと。だけどもただ単に南条白山(筆者注、『福田』編集長・渡辺隆のペンネーム)なり何なりじゃインパクトは弱いと。それで“副会長の造反”という形にすればマスコミも取り上げるに決まっている、イケイケ、でもってやったわけです。  ―― なるほど。  梅沢 それに乗ったのが段勲。乗ったというか、むしろ向こうが火をつけたわけですよね。ですから二号がまだ出来ていないうち、私がワープロでたった五郎、牧田隆の談話のとこだけ作ったヤツを持って先走っちゃったわけです。  ―― その後実際に二号が出るまでずいぶん時間があいてますよね。  梅沢 あいてます。二ヵ月くらいかかってる。  ―― それはどういう理由だったんですか。  梅沢 私のワープロも安物で壊れちゃった。あとは体を悪くしたのと。とにかくワープロを打つのは私一人だから。  ―― ということはまだ現物が出来ていないものを、もう出来たという形で段さんがマスコミで発表したわけですか。  梅沢 その通りです!                      ◆  なんと、「現職副会長・牧田隆」なる人物は存在しなかった。『福田』編集発行人の梅沢十四夫が作り上げた架空の人物だというのだ。こんなことが許されていいのか!  しかも、おかしなことに、完成した『福田』二号に、梅沢十四夫が“唯史”というペンネームで『福田』がマスコミに出たことへの戸惑いと不満を述べている(以下原文のまま)。  『福田』マスコミ登場について                                     梅沢唯史  ここ半月間に[週刊実話][夕刊フジ][赤旗・日曜版][週刊文春]等々、たて続けに『福田』第二号の一部内容が報道されました。まだ読者の手に渡る以前にです。  ありていに云えば、僅か五部作成したワープロで打つただけのテスト版がだれかの手によってリークされて出廻ったものらしいのです。  誤字脱字だらけの手造りの、名も無い、お粗末なミニコミ誌が版下も、まだ作製されていないのに――。  この記事は、編集発行人である梅沢が“捏造元”である自分に何の断りもなく、勝手にマスコミに売り歩いた段勲への反抗であった。  驚くべきことに、段勲は捏造を承知で五部コピーして出版社に売り歩いたのだ。まさにマッチポンプである。  自分たちでデッチ上げておきながら、週刊文春等に何食わぬ顔で「創価学会現職副会長のこんな手記があるのです」と言って創価学会叩きをやらせたのだ。  当然、確認もせずに、そのまま掲載した週刊文春のマスコミとしての責任も追及されなければならない。このテの偏った手記の場合、まともなマスコミであれば、当然「牧田隆」に会って事実関係を確認するのが編集のイロハである。だがそれをやらなかったのは、週刊文春編集部が無能だったわけではない。創価学会批判でさえあれば事実はどうでもいいという編集姿勢であるからなのだ。 段と乙骨が二人三脚で作り出した“ニセ本尊”  さて、もう一度週刊文春のニセ本尊キャンペーンの記事を第一弾から検証してみよう。  まず、第一弾の〈池田大作は「ニセ本尊」を売っていた〉である。  この中で内藤国夫が取材したという「元刑務所の印刷技官」という、マコトしやかな証言は何だったのか!?  ハッキリ言おう、こんな男は存在しない。内藤がデッチ上げた証言者なのだ。いもしない証言者をつくり出したのだ。  ただ、この内藤の作った証言者のため、にわかに「ニセ本尊事件」が信憑性を帯び、読者も信じ、他の雑誌も“こういう証言者が出てくるくらいだから本当なのだろう”と信用してしまった。  内藤のこの記事を読み、『福田』関係者の一人が苦笑しながら語った。  「この記事を読んだ時、ニセ本尊事件の“ウソ”がバレてしまったと思いました。だって、御本尊を印刷するのに『一般の活字とは違うため、鉛をとかして一字一字を作字した。梵字もあって作るのに大変苦労したのを忘れられません』と、印刷技官に言わせているんです。これは、御本尊を知らない者の発言です。御本尊を印刷する場合は、撮影した写真を原板にした写真製版印刷で、活字を組む活版印刷ではないのです。記事を、さも本当らしく見せるために、内藤さんが『鉛をとかして梵字(古代インド文字)などの活字を作った』などと言ってみせたのは、却って御本尊を知らないことを暴露してしまった。内藤さんは、御本尊はてっきり、活版印刷でできていると思って、ああいう証言を思い付いたのでしょう」  とんだ“学会通ジャーナリスト”がいたものだ。わけ知り顔で捏造記事を売り歩く、こんな性根の腐った記者が、エラそうに創価学会批判などをする。また、それを平気でつかう週刊文春――。  内藤の記事は全てこの論法(捏造証言)で作られている。捏造でないというのなら“鉛をとかして一字一字作字した”と証言した印刷技官を連れて来なさい。                     ◆  第二弾に移ろう。  段勲は、創価学会叩きをやるためだったら、節操もなく正信会さえも利用する。『継命新聞』(正信会の機関紙)編集長(当時)の乙骨に本尊を“バラバラに解体”させ、「ニセ本尊」を発見(?)させた。  これは「本尊の軸木に、小説の古紙が使われていたモノがあった。この雑な御本尊が学会で作ったニセ本尊なのだ」と断定している記事である。小説の古紙とは、いかにもニセ本尊らしさを演出してくれているが、ならば、それが創価学会で作ったニセ本尊だと断定する根拠はどこにあるというのだ。  そして、いったい、乙骨はどれくらいの数の本尊をバラバラに解体して、この軸木を見つけ出したのか。十体なのか二十体なのか? 解体が事実なら、信仰上の破戒行為をしたことを、臆面もなく公表してはばからない信者・乙骨の精神構造のほうが問題ではないのか?  しかも、不思議なのは、見つけたという本尊以外には、軸木に古新聞や古雑誌を使用した本尊は出てこなかったことだ。小説の古紙を使ったこのような怪しい、本尊は一体しか見つからず、それに類した雑なつくりの本尊も他には全く見つからなかったのである。このバラバラにした本尊は、たまたま、偶然、見つかった一体なのだろうか? ヘンな話だ。  ヘンな話といえば、このルポルタージュもおかしい。「学会から下付された御形木御本尊なので、もしかしたらニセ物ではないかと思い、バラバラにしてみたら、案の定、古紙を巻いた軸木の御本尊だった」という論法であるが、でも、もしそうであれば、そのまま記事にすればいい。それがルポルタージュというものだろう。  学会員の「誰々が」「何時」「どこそこで」下付された本尊を解体したところ、“軸木”に小説の古紙が使われていた。これはどういうことなのか、と見せるだけで十二分に説明できるし、説得力もある。  ところがだ、どこの誰のものとも、どいういう経緯で入手したのかも明確にしないで、ただ「小説の古紙が軸木に使われている本尊を見つけた」「これは学会で下付した“ニセ本尊”だ」と断定する。そんな論法がどこにある。どこの誰のものという証拠も示さずに、なぜ、学会が下付した本尊になるのか。  ハッキリ言おう、「牧田隆の手記」と同様、“小説の古紙を軸木に使ったニセ御本尊”は段と乙骨で勝手に作り出したものなのだ。ウソの記事を書いただけじゃない。ニセ本尊まで作り出したのだ。  そうでないというなら、十八万体も水増しして作られているというニセ本尊が、その後も、これ一体しか出てこないとはどういうわけだ。アチコチから小説やら古新聞やらで巻かれた軸木が出てきて当然だろう。  『福田』関係者の決定的な証言がある。  「『軸木に小説の古紙が使われていた』との記事にはオドロキました。牧田隆の手記にある“ニセ本尊”の意味は、僧侶から直接手渡されなかった御本尊だからニセモノという意味であって、まさか“ニセモノ”という特別な本尊が出てくるとは思いませんでした」と。  「牧田手記」といい「ニセ本尊」といい、勝手に作ってそれを記事にする。それを雑誌に載せて大騒ぎする。そんなことが許されていいのか!                     ◆  第三弾の〈燃え上がる「御守り本尊」疑惑〉は、「牧田隆の手記」を根拠に「先に下付された御形木御本尊がニセモノなのだから、その後下付された『御守り御本尊』もアヤシイぞ」という、段勲“お得意”の煽り記事である。「アヤシイ、アヤシイ」と騒ぐだけで、その根拠が何も書かれていない。  報道記事であるからには、本山なり寺院に取材に行って数字や証拠文書を調べあげ、“こういう事実がある”だからアヤシイと書くべきではないのか。匿名のコメンテーターに「アヤシイ」と語らせるのは、根拠にもなにもなっていない。 質問には答えられずに居直る内藤国夫の“醜態”  第四弾のタイトルは、〈ニセ本尊疑惑 逃げるな! 池田大作名誉会長〉と挑戦的なものだ。  これは、週刊文春の内藤国夫の書いた第一弾で学会の名誉が著しく毀損されたため、正木青年部長(当時)が週刊文春に抗議した、そのことに対し、内藤国夫が青年部長の抗議への反論として書いた記事だ。しかし、その内容は、反論とはとても言えない、ただ文句を並べただけのオソマツなものである。  正木青年部長(当時)の抗議がよほど気にいらなかったのか、内藤は「『ニセ本尊大量捏造』当時、正木氏は昭和二十九年生れだからまだ少年、何ら知り得る立場にない。――青年部長ごときが、なぜにシャシャリ出てくるのか」と、居丈高に怒鳴りつけている。  何という言いぐさか、それでも記者なのか、ジャーナリストなどと肩書きを付け、顔写真までのせて、よくもまあ恥ずかしくないものだ。創価学会が毀損されたのだから、学会の青年部長が記事内容について抗議するのは当たり前のことだ。若かろうが年だろうが関係ない。それよりも、書いた筆者として抗議を受けた以上、その記事について答えるのが書いた者の責任だろう。それをあろうことか脅すとはなにごとだ。  捏造と言われたのが悔しかったら、ツベコベ言わずに、書いた張本人として証言者を連れてくるか「七十七歳の印刷技官はデッチ上げでした」と正直に謝まるべきだろう。                     ◆  「ニセ本尊疑惑追及・第五弾」の大袈裟なタイトルの記事について書く前に、第一弾から第五弾までを通して見直してみると、このキャンペーンの意図が手に取るように見えてくる。  第一弾の内藤国夫の「『ニセ本尊を売っていた』のブチ上げ記事」と、第二弾の段勲の「御本尊バラバラ解体ルポ」だけが、疑惑追及らしい内容の記事(?)になっていて、三、四、五弾は、ただ他誌を後追い取材させるためにキャンペーンを続けただけ、それだけに水増し記事とさえ言えない、「ニセ本尊」とは無関係なスリ替え記事の連続である。  前述したように第三弾では、青年部長の編集部への抗議に対し、筆者の内藤国夫が感情的に「抗議とは片腹痛い」と“腹痛”を訴えたシロモノで、第四弾ではネタがないから段が「こうなりや、御守り御本尊もアヤシイぞ」と煽っただけだ。  第五弾では、それまでの内藤と段が交互に書いていたローテーションが乱れている。本来なら内藤の書く番なのだが「ネタ切れ」のため内藤は降番し、段が“正信会帰り”の兄・公純からのネタで、財務や書籍の購入に難癖をつけている。もはや、「ニセ御本尊疑惑追及」などとタイトルをつけるのも恥ずかしいほど無関係な内容である。 過去に院達(二九七七号)でも否定されていた  ところで、現職副会長「牧田隆」の手記によるニセ本尊事件とは何だったのか。  “学会員の本尊がニセモノである”というデマは、週刊文春のキャンペーンの十年ほど前からすでにあった。段の兄・高橋公純ら正信会僧侶が、昭和五三、四年頃、前日達法主と創価学会を仲違いさせようと盛んに言っていたことなのだ。  それに対し、当時の宗務院ではすでに昭和五四年二月二〇日付の「院第二九七七号」なる「院達」で、「最近、宗内において総本山より下付せられた特別御形木御本尊以外に別の特別御形木御本尊が信徒間に流布されているかの如き説をなす者があるようである。このことについて、このたび御法主上人猊下より『そのようなことは有り得べからざることにつき、今後は絶対にかかる説をなさざるように』との厳しいお言葉がありましたので充分御注意下さるようお願いしたします」とある。  昭和五四年の時点ですでに「根拠のないデマ」であると断定され、前日達法主からも否定された説を、平成二年の宗門問題の半年前に蒸し返しただけなのだ。  もっとも、段の兄・公純が“正信会帰り”であれば、これも当然と言えば当然である。  面白い手記を紹介しよう。  「工作者の先兵、段勲のヨタ記事の舞台裏」というタイトルで「新雑誌21」(九一年一二月号)に『福田』発行に関わった内田千鶴子(本名・浦田)という女性の手記である。  この中で注目したいのは『福田』の渡辺編集長が、  「ニセ本尊問題なども先生(高橋公純)が、やってよしと言われたからやったんだが、問題が大きくなるのはやっぱりまずいんだな」  と発言したのを記述していることだ。これで、ニセ本尊事件には高橋公純が関与し、デマを承知でやらせていたことがよく分かる。  話のついでだが、高橋と段の兄弟は、平成三年一〇月五日の夜九時すぎに、池袋のホテル・メトロポリタンの部屋に、『福田』の作成を手伝った内田女史と小堀(本名・小林)という女性を引き込み、酒を飲ませた上、無理やりキスなどをしたセクハラ行為を、この手記で暴露されている。ニセ本尊事件の舞台となった『福田』を巡る人間模様は、しょせん、こんな低俗なレベルにしか過ぎないのだ。  こんな話もある。段勲が池袋の二間のアパートに住んでいた頃、ある日、突然、ダンボール箱にギッシリ詰められた本尊が韓国から送られてきた。この本尊は、公純が韓国で信徒づくりの道具としてバラまいたもので、あまりにも安易に渡したため返却する者が多数でてきた。本山や末寺に戻すと、いい加減な本尊下付がバレるので、僧侶でもない段の住所を本尊の返却場所にしていたのだ。公純・段兄弟は、この当時から本尊をオモチャにしていたのである。                     ◆  牧田隆の手記では、「当時、三万八千人の地区部長に下付されるはずの特別御形木御本尊が、班長以上までに広げられたため、十八万体以上にまでなっているはずだ。だから、御本尊は水増しされたのだ」となっている。  この、もっともらしく並べた数字も、ちょっと調べると、すぐボロが出る。何ともお粗末な「ウソ」である。  当時の宗務院の通達にも、前日達法主の発言にも「地区部長以上」などという言葉は出ていない。正確には「功労者の方々に」であり、数は限定されていなかった。彼らの言う「三万八千」という数の根拠は、当時の地区部長の人数が三万八千名だった、それをもっともらしく利用しただけのことである。  また、手記にある「昭和四三年から班長以上に下付」というのもデタラメである。  下付される数が膨大であったため、御形木御本尊の下付の実行は昭和五〇年一二月一四日、東京の新宿、千代田、板橋区の功労者からということになったのだ。当時の『聖教新聞』にはその模様が詳しく載っている。  また、今回の週刊文春の“ニセ本尊キャンペーン”が始まった直後にも、当時の宗務院から、再び院達(平成二年五月一九日付)で、全国の宗務支院長に宛てて通達された(以下原文そのまま)。                   記  最近、週刊誌等で特別御形木御本尊の偽物論議の記事が流され、一部信徒の間に動揺があるようなので、末寺住職は、信徒からの問い合わせに対しては、明確に回答していただきたいと思います。  偽本尊を作られたような事実は全くないし、日付の相違についても、昭和41年1月7日付の御本尊は特別御形木御本尊であり、昭和41年1月1日付の御本尊は通常の御本尊である。従って、この両日付の御本尊は全く偽物などである筈はない(筆者注・この日付の近い二つの本尊に対して、一方がニセ物だという噂があった)。  その他の問題も、一切がタメにする邪推または妄説であるから、これらのことに惑わされることなく信心に精進せられるよう、御指導願います。                                       以上  つまり、当時すでにC作戦を考えていた日顕の思惑とは裏腹に、宗門は公式見解として「牧田隆のニセ本尊事件の手記」は“ウソ”なのだと、断定しているのである。度重なるニセ本尊の噂に対し、問題とされている特別御形木御本尊の日付まで明示して否定したのである。 虚言・偽証の連続  「創価学会ニセ本尊事件」の一大キャンペーンが、社会にどのような影響を与えたのか。段や内藤は、このように書いている。  「『こんな本尊を拝ませやかって』  日蓮正宗の某寺院受付に、こう叫んで、本尊を投げ捨てていった創価学会員がいた――。  二十余年間、朝晩礼拝していた本尊安置の仏壇を閉じてしまった会員。あるいは本尊を携えて、寺院住職に『真贋』を問うて歩いたり、また反狂乱になって『池田大作許すまじ』と怒号する学会幹部も現われた」  これまでの経緯から見て、この記事も捏造の可能性は充分すぎるほどある。さも見たようなウソを平気で書く、段や内藤のやり口からすればこれをまともに読むわけにはゆかない。だが、看過できないことがある。  それは、週刊文春がこの一大キャンペーンを展開している“狙い”である。創価学会への“不信”を煽って会員を離反させ、壊滅させようとの目的が見え見えなのだ。この段と内藤の文章が、いみじくも週刊文春の言いたかったことを代弁している。そして一部には、その“狙い”通りの事態も起きている。  この文を書いているときに、奇しくも『マルコポーロ』(文藝春秋発行)が「ナチ『ガス室』はなかった」という捏造記事が原因で廃刊! とのニュースが伝えられた。同誌の花田紀凱編集長は、かつて週刊文春編集長として、このニセ本尊キャンペーンを展開した人物である。このときと同様に誰かのガセネタを鵜呑みにして、裏付け調査もせずに掲載してしまった結果なのだろうが、恐るべきはその“非人道的な感覚”である。同誌が反社会性を指弾されて、廃刊に追い込まれた理由も、ここにあった。そして、ついには、田中健五社長までが“辞任”に追い込まれた。「ユダヤ人に迷惑をかけた」と謝罪して、一応、決着をつけたつもりだろうが、あの記事が「誤り」であったという言葉は最後まで聞かれなかった。                     ◆  週刊文春の「ニセ本尊事件」の捏造記事も、本質的にはこの“非人道的な感覚”が底流にあると言わざるを得ない。なぜなら、創価学会批判のために、本尊という信仰の対象への不信を煽るような捏造をしているからだ。これは信者の“信教の自由”に対する冒涜であり、人間の尊厳を土足で踏みにじる“ペンの暴力”である。  創価学会を批判するのに、あろうことか、ニセ本尊をデッチ上げて不信を煽るのは、とうてい許せない。しかも、虚言や偽証でつくった記事は、まさに詐欺である。これまで週刊文春は、創価学会を反社会的団体と決めつけて記事を捏造してきたが、「ニセ本尊疑惑」の捏造でとうとう自らの反社会的体質を暴露してしまったのだ。“非人道的”な週刊文春の創価学会バッシング報道。これは『マルコポーロ』と同罪というべきではないか! あとがき――「言論の自由」濫用のモデルケース  週刊文春による悪質な創価学会中傷報道がいまも続いている以上、本書はこれで完結ではなく、いねば経過報告である。しかし、創価学会中傷の基本パターンはすべて取り上げたといってよい。  ひとまず作業を終えて、いまつくづく思うのは、週刊誌の創価学会中傷報道とは「イメージのテロ」であるということだ。はじめにイメージありき。「創価学会は悪である」とのイメージ作りのために取材が行われ、批判の内容も多くは“イメージ批判”である。そこでは記事内容が確かな事実であるかどうかは重要ではない。「事実のように見える」ことこそ重要なのだ。週刊文春の創価学会中傷報道から、そうしたイメージの部分を引き剥がすことこそ、本書の目的であった。  創価学会は脱税している、池田名誉会長は日本支配の野望を持っている、創価学会と公明党は政教一致だ、創価学会は金まみれだ……週刊文春の記事から、そうしたマイナス・イメージを一つひとつ剥がしてみたら、らっきょうの皮をむくように、最後にはなにも残らなかった。週刊文春は、事実をもって創価学会を批判していたわけではなかったのだ。“らっきょうの皮むき”のプロセスは、本文でとくとご覧いただきたい。  週刊文春は創価学会中傷報道の“パイオニア”である。現在ある創価学会中傷記事の基本パターンは、週刊文春が山崎正友とともに作り上げたといってもよい。  宗教専門紙『中外日報』が、つい最近(九五年一月七日付)、山崎から法主・日顕に宛てた手紙をスクープしたが、その手紙の中にも次のような一節があった。  「文藝春秋は、社長の田中健五、編集局長堤尭、そして、各雑誌の編集長ら、すべて私の友人で、全社が学会ぎらいです。向こう十年間は、この姿勢は変わらないでしょう」  この手紙はもちろん、日顕と山崎というかつての仇敵同士の野合を暴いた意味でスクープであったのだが、同時に、文藝春秋と山崎との野合も暴き出したのである。もっとも、社長以下「すべて私の友人」というのは、山崎の虚言癖を差し引いて考えなければならない。だが週刊文春は、「全社が学会ぎらい」である文藝春秋の尖兵として、犯罪者・山崎と組んで創価学会バッシングを仕掛けた、という背景をうかがわせるには充分な証拠である。  二月一六日、宗門の機関紙「慧妙」に、山崎正友が、ひとつの証言を暴露した。かつて、散々日顕の相承について、週刊文春誌上で悪口雑言を言っておきながら、いま頃になって法主日顕に取り入ろうと、「日顕上人猊下の御相承について否定した『週刊文春』掲載の見解は今日では認識不足であり、大きな誤りであった」と書いている。つまり、「文春のわたしの手記は、認識不足でまちがいでした」というのである。  となると、文春は、山崎の認識不足とまちがいの手記を平然と掲載していたことになるのだ。山崎の文春記事は膨大にあるが、日顕に対するこれらの記事だけが認識不足とまちがいであって、その他の創価学会に対する記事は、大丈夫なのだろうか? ともかく、手記の本人があれはまちがいだったと言っている。さて、それを載せた週刊文春はどうするのだろう。どうせ“読み捨てメディア”なのだからと、知らんぷりで通すのだろうか。  本文でも触れた山崎の“覆面手記”〈創価学会最高幹部七人の内部告発〉を見ると、八〇年に連載されたこのシリーズ記事の中に、現在の創価学会バッシングのスタイルがまんべんなく揃っていることに驚かされる。  たとえば、連載第五回「特別財務六百億円で全国各地に作られた池田大作専用“ラブホテル”」(八〇年七月一七日号)は、現在も年一回必ず現れる“財務もの”記事の原型だろうし、第八回「池田大作への上納金P代に長期脱税の疑い」(八月七日号)は、一連の“脱税疑惑もの”の原型だ。第十三回には「池田大作の日本乗っ取り計画」(九月一一日号)という、いま流行りの“池田大作日本支配の野望もの”の原型もある。ほかに、“政教一致批判”もあれば“会長世襲説”もある。  逆にいえば、あまたある創価学会中傷報道は、これらの使い古された切り口をくり返しくり返し利用しているだけなのである。  本書にずらり並べたのは、「言論・表現の自由」濫用のモデルケースである。真実性の証明のない憶測・風聞による断定的報道、プライバシーの侵害、創価学会および会員に屈辱を与える文辞による名誉毀損……これらは、もはやジャーナリズムによる“犯罪”だ。  そして、このような異常があたり前となっているのが、日本の週刊誌ジャーナリズムの現状である。犯罪報道の過熱化が問題化している昨今だが、創価学会バッシング報道の行き過ぎは、それと同等の重みを持つ“人権問題”である。  週刊文春のように、もはやジャーナリズムの名に値しない、ためにする中傷ばかりが創価学会に向けられるのは、まともなジャーナリストが創価学会問題を避けて通ろうとするからではないのか? 批判するにせよ、ジャーナリズムのルールにのっとった“筋の通った批判”がなされなければならないはずである。 創価学会報道にみる 週刊文春のウソと捏造 これは犯罪だ! 1995年3月16日初版 著者c1995 佐倉敏明 発行者 江原芳美