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第七章 山崎正友と共謀して女性スキャンダルを捏造

山崎の恐喝に“手を貸した”週刊新潮

 昭和六〇年三月二六日、東京地方裁判所刑事三部法廷――。吉丸真裁判長は、被告人席の中年男を見据えるようにして、判決文を読み上げていた。

 「……なお、被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない。以上のように考えると、本件は犯情が悪く、被告人の罪責は重大であるといわなければならない」

 つまり、被告人は最初からウソをつき、裁判でもウソの証言をするだけでなく、ウソの証拠を持ち出すなど、まったく反省の態度がない、それだけに被告人の罪は重いというのだ。

 被告人席の小柄な男は、いつにもまして小さく見えた。被告の名は、山崎正友。元創価学会顧問弁護士だ。顧問弁護士が守秘義務を破って依頼主を恐喝するという、史上まれにみる犯罪、「創価学会恐喝事件」の第一審判決が下されたのである。判決は懲役三年の実刑――約四年間、七五回に及ぶ審理を通して吉丸裁判長が下した処断が、それだった。

                    ◆

 社会的にも大きな注目を浴びたこの恐喝事件は、犯人・山崎が巧妙にマスコミを恐喝の道具に使った点でも、きわめて特異な事件であった。山崎は、「恐喝に応じなければ、職務上知り得た学会の内情をマスコミにぶちまける」として、学会を脅したのである。恐喝に及ぶ前から、すでに山崎は複数の週刊・月刊誌の編集部とつながりを持っており、この脅しには十分な説得力があった。

 そして、週刊新潮(新潮社)も、山崎が学会を恐喝するにあたって、大きな役割を果たした。結果的に、週刊新潮も山崎の犯罪を幇助したのである。それは、どのような役割であったのか? また、裁判で処断された山崎の「虚構の弁解」とは? 週刊新潮と山崎の“黒いかかわり”を見ていこう――。

週刊誌のネタになりやすいようにウソをつく

 〈「内藤レポート」から削除された「池田大作女性関係」の原稿〉

                              (八〇年六月二一日号)

 これは、山崎正友の情報操作の手口がもっともよく現れた記事である。

 「内藤レポート」とは、月刊『現代』(講談社)八〇年七月号に載った、内藤国夫執筆の記事である。〈池田大作名誉会長復権にうごめく怪情報〉と題した、この内藤の記事自体、相当エゲツない内容だが、週刊新潮は、そこから「削除された」さらにエゲツない部分(内藤本人は書いたが月刊『現代』編集部の自主規制でカットした部分、また、内藤本人ですら書くのをはばかった部分)を使って一本の記事をつくり出した。

 例えば、月刊『現代』の「内藤レポート」では、池田氏が婦入部幹部「Aさん」の膝枕でくつろいだ、などという記述になっているところを、週刊新潮では、その「Aさん」が参議院議員(当時)の渡部通子さんであると実名で断定している。また、「内藤レポート」には出てこない、池田氏の「女性関係」についてもさまざまデッチ上げている。

 そして、記事のクライマックスは、かつて週刊新潮も報じた「マジック事件」の子どもの父親は、実は池田氏本人だった、とした点である。

 「マジック事件」とは、週刊新潮〈池田会長の「奢れる現場写真」三枚が流出した創価学会の反乱〉(七八年七月二七日号)に登場するエピソード。学会本部近隣に住む幹部夫妻の幼女の頬に、池田氏がマジックをちょんちょんと塗った――要はそれだけのことである。だが、その様子を写した写真が山崎によって内藤国夫や週刊新潮編集部の手に渡り、さも大事件であるかのごとく書き立てられたのだ。“学会幹部の子とはいえ、他人の子の顔にイタズラ書きをするとは何事か。これこそ池田の奢りの象徴だ”というわけだ。

 学会側は、“これはむしろ名誉会長の子ども好きを象徴するエピソードであり、茶目っ気でマジックをつけたに過ぎない”と反論している。たしかに客観的にみても、「事件」というほどの出来事とはとても思えない。

 ところが山崎は、これを本当の「事件」に仕立てるべく、恐るべきデマを上乗せして内藤国夫に伝えた。それは、「この『マジック事件』の父親は実は池田大作だ」と吹き込んだのであった。

 さきの月刊『現代』の記事で、内藤はこう書いている。

 「池田氏のウラのウラを知る側近幹部が“極秘情報”を打ち明けなさる。

 『あの子の親は、実は池田大作さん、ともっぱらの噂です。はっきりした証拠があるわけではないけれど、ふだんから、大変な可愛がりよう。可愛さあまって、ついマジックをとなったのでしょうか』

 まさか、とは思う。あってはならぬ話。いくらなんでも、それほどひどいことは、なさりますまい。私自身、信じきれるものでは、とうていない」

 本気でそこまで言うならきちんと事実確認をするのが当然であろう、はっきりした証拠はないと自分でも言っているくらいなのだから。ところがこの話を聞いて“義憤”にかられた内藤は、ウラも取らずにそのまま記事に書いてしまったのである。「側近幹部」とはもちろん山崎のことである。そして週刊新潮〈「内藤レポートから削除された「池田大作女性関係の原稿」〉も、次のような内藤のコメントまで載せて、この話を報じた。

 「いまの創価学会にとってシンボリックなのが、あのマジック事件の子供についての話だと思った。ウワサが学会幹部の間で流れていること自体、異常だと思いました」と。

 たしかに子どもの父親が池田氏と断定はしていない。だが、この書き方で、池田氏に対して見事に悪い印象だけが残る。

 そして、池田氏についての捏造スキャンダル報道が裁かれた『月刊ペン』裁判(差し戻し審)では、内藤も証言に立った(八二年四月九日)。そこで内藤は、月刊現代の“マジック事件の子の父親は池田氏”なる記事について検事に尋問され、次のような醜態をさらした。

 検事 あなたは、この話を聞いて、その真実(父親が池田氏であるのかどうか)、正否を調べたのか?

 内藤 いや、調べない。

 何ということだ。話を聞いたあとも、確認取材すらしていない。証拠もないと自覚していながら、山崎に吹き込まれた話だけで書いているのだ。もちろん、この子と池田氏とは何にも関係ない。

 一人の造反幹部・山崎正友の話を鵜呑みにして、下品な女性スキャンダルで池田氏の名誉を傷つけたばかりか、幼い子供の一生にかかわる大事を、ウラも取らずに記事にして公表したのである。こんな男がいけしゃあしゃあとジャーナリストを名乗っているのだ! 恥を知るべきだ。山崎にしてみれば、自分のデマを何も確認もせず鵜呑みにしてくれる内藤のような御しやすい書き手は、まことに都合のよい存在なのだ。こんな便利な内藤国夫がいたことによって、山崎正友のマスコミ工作はスムーズに運んだのだった。

週刊新潮は“女性スキャンダル”を担当

 ところで、「内藤レポート」が載った月刊『現代』(八〇年七月号)と、〈「内藤レポート」から削除された〜〉が載った週刊新潮は、何と同じ日(八〇年六月五日)に発売されている! しかも、やはり同じ日に発売された『週刊文春』も、同様の学会ネタを扱っていた。つまり、同じ学会ネタが三誌に一度に載ったのだ。本来は、月刊『現代』の「内藤レポート」が先に出て、その記事を見て、後追い取材という形で『週刊新潮』や『週刊文春』が記事にするのが通常なのだが――。

 なぜこんな珍妙な事態になったのかと言えば、山崎が、内容確認のために渡された月刊『現代』のゲラ(校正用試し刷り)を、こともあろうに『週刊新潮』『週刊文春』の二誌に、そのまま横流ししたからである。

 しかも、山崎は同じゲラを学会首脳にも渡し、なんと、それを脅迫のネタにしたのだ。三誌が一度に“山崎情報”による学会批判を掲載することによって、自分がマスコミに対して大きな力を持っていること、学会報道を自在に操れることを強くアピールしたのだ。

 『判例時報』一一六○号に掲載された〈創価学会恐喝事件第一審判決〉には、山崎がこの「内藤ゲラ」をネタに学会を脅す様子が、生々しく再現されている。

 「マスコミを怒らせたらああいうふうになりますよ」「内藤さん、もう一発書くよ」「新潮はあれでも生ぬるいって言って騒いでいたね。もっとどぎつく書きまくるって言ってるよ」「本当に僕が戦争するというんだったら、マスコミの力を借りてやるしかないんですよ」(以上、すべて学会顧問弁護士・桐ヶ谷章氏に対する言葉)

 以上の一例だけを見ても、山崎という男のずる賢さがよく分かる。山崎はここで、「マジック事件」というたった一つのネタ、しかも実際には事件でも何でもない話を、それだからこそ「実は池田会長の子どもだ」などとマスコミ受けを狙って捏造し、二度三度と繰り返し記事にして最大限に利用したのだ。実に陰険で巧妙なマスコミ操作である。

 ここまでの経過を学会恐喝裁判での証言からまとめてみると――。

 昭和五五年五月一八日

 内藤、月刊『現代』七月号の〈池田大作名誉会長復権にうごめく怪情報〉の原稿を書きあげる(この原稿のネタ元は、五月一三日、山崎、原島から内藤が聞いた“盗聴事件”等の話である)。ホテル・グランドパレス(東京・九段)で原稿を山崎に見せる。

 山崎「おだやかな原稿だ」と言う。そこで、飯田橋のチャンコ料理店で、山崎、“マジック事件”の子供の父親が名誉会長であるとマスコミ受けするように吹き込む。内藤、ショックを受け、トーン・アップした原稿に書き直す。

五月二〇日

 内藤の書き直し原稿できる。ホテル・グランドパレスで、夕方、山崎が来て、原稿を見る。そこに杉本氏(当時・月刊『現代』編集次長)、原稿をとりに来る。杉本氏、原稿を読んで内容がひどいので、書き直しを依頼。その際、内藤は「女の話、盗聴等、山崎さんから聞いたから真実だ」と話す。

五月二一日

 杉本氏、再度手直しした内藤原稿を学士会館(東京・一橋)で受けとる。

五月二三日

 午後八時、山崎が講談社(月刊現代編集部がある)に来て、内藤ゲラ(初校ゲラ)を持って帰る(事前に内藤国夫が、自分は京都に行くので、ゲラを山崎に渡すように杉本氏に依頼していた)。

五月二四、二五日

 山崎、『週刊新潮』『週刊文春』に、月刊『現代』の初校ゲラを流す

五月末

 山崎、内藤に電話。山崎「週刊新潮と週刊文春に、内藤さんが書いたような内容の記事が載るがいいか、情報を流した」、内藤「月刊現代の発売日前は困る」と。

 以上の話は、週刊新潮が“山崎情報”によって池田氏のスキャンダルを行なったうちの、ほんの一例でしかない。七〇年代後半から八〇年代初頭にかけて、山崎は学会批判を池田氏にしぼり、それもマスコミうけしやすい女性スキャンダルというやり方で攻める。当初は自分は表面に出ずに“マジック事件”同様、内藤に耳うちして書かせるモノが多かったが、しだいに正体を現わしてくる。例えば――。

 七九年五月一〇日号〈「女」や「カネ」の噂まで出た池田大作辞任劇の俗臭〉は、リークで書かせたもの。

 八〇年十二月二五日号〈山崎弁護士に「学会反乱」を決意させた自らの「女の問題」〉で、名前を出し、正体を明かす。

 八二年三月一一日号〈創価学会裏面史(中)もう嘘は書けない、池田大作をめぐる「未発表の女」たち〉では、遂に自ら手記を書く。

 これらはいずれも池田氏の“女性スキャンダル”を扱ったものだが、その内容がお粗末な捏造に満ちていたことは、裁判の審理の過程で明らかになっていった。

 裁判で厳格な事実認定を迫られると、にわかにあやしげになってくる下ネタ話を山崎正友は平然と話したり手記にしたりしている。また、こんなことが週刊新潮では堂々とまかり通っている。

 池田氏への低劣なスキャンダル攻撃が増えたのが、この時期の反学会キャンペーンの特徴だったが、なかでも週刊新潮は、一番スキャンダラスな部分、すなわち“オンナとカネ”の問題をもっぱら受け持って報じていた。これもまた、山崎のマスコミ操作の一つであった。山崎は、複数の月刊・週刊誌に反学会報道を煽るなかで、その雑誌のイメージや性格によって、与える情報を微妙に区別し、役割分担をさせていたのだ。

 そして、週刊新潮にいちばん下劣な“オンナとカネ”というエゲツない部分を分担させたのだ。というのも、週刊新潮では、記事タイトルを取材や記事作成に先立ってすべて立案するといわれる「新潮社の“天皇”齋藤十一(専務取締役)は、自らを『俗物』と称し、週刊新潮のコンセプトは『金と女と事件』だ」と明言しているからだ(『ビジネス・インテリジェンス』九三年十二月号)。つまり、週刊新潮は金と女のネタであればみさかいなく取り上げる。それを、山崎は知っていたのだ。下劣なデマを流す男も男だが、それを好んで記事にするという週刊新潮は、マスコミとは言えまい。

盗んだ資料でつくられた記事

 週刊新潮と山崎とのつながりは七八年に始まった。八一年九月二八日、創価学会恐喝事件の審理に出廷した広野輝夫氏(山崎のかつての秘書役)は、両者の接触の始まりを、次のように証言している。

 広野 昭和五三年の四月と七月の二回にわたり、山崎さんに頼まれ私が週刊新潮に資料を渡しました。一回目の四月には、社長会記録と学会員の犯罪リストを渡しました。

 検事 どういうふうに渡したか?

 広野 ある日、山崎さんが「広野ちゃん、いいもの見つかった」と、社長会記録を見せ、「これを五〜六部コピーしなさい」と言いました。後日、そのうちの一部を週刊新潮に持って行けと言われました。「できるだけ夜中遅く行って、新潮社の守衛に渡してこい」と言われ、そうしました。そのあと、私は土井という偽名で週刊新潮の“松田さん”と喫茶店で会うように山崎さんに言われ、会いました。

 生々しい証言である。この頃、山崎はまだ表立っては造反態度を示していなかった、自分は表に出ず、広野氏をパイプとして週刊誌に情報資料を流していたのであった。このとき週刊新潮に渡した資料は、山崎が顧問弁護士の立場を利用して入手し、学会本部の別館に隠しておいたものだという。それを偶然「見つかった」と称して渡すあたり、なかなか芸が細かい。

 ちなみに、広野証言にある「松田さん」とは、当時の担当デスクだった松田宏・現編集長である。

 こうして「社長会記録」と「犯罪者リスト」が週刊新潮に渡ったのであるが、五三年四月六日頃、山崎から、広野氏は「週刊新潮の戸田記者が会いたいと言っている。『井上』という名前で会え。俺は『藤井』という名前になっている。俺の立場は一切言うな」と指示され、東京・永田町のヒルトン・ホテルのティーラウンジで戸田記者と会った。その時、戸田記者は「記事として学会問題を取り上げるか否かは、私の一存では判断できない。上司の松田と藤井さんと直接会ってみないとわからない」と述べた。

 山崎は、広野氏からその報告を受けると、

 「わかった、ホテル・オークラを使って、そこでうまくやろう」

 山崎は、ホテル・オークラに廊下をはさんで二部屋とらせた。

 広野氏が指定された部屋に入って待っていると、山崎から電話で、

 「俺は、廊下をはさんだ前の部屋にいる。まもなくそこへ『週刊新潮』の戸田と松田が来るはずだ。むこうが聞いてきたことについて、すぐ電話で俺に言え。そして俺が指示するとおり答えろ」

 しばらくして、松田、戸田の両記者が、広野氏の部屋に来て、いろいろ質問、その度に広野氏は、ホテルの内線で山崎に電話し、その指示通り答えた。そのうち、広野経由ではラチがあかず、山崎自身が直接電話口に出て松田記者と話を始めた。

 前の部屋には、山崎と山崎の運転手の大豆生田氏がいたが、大豆生田氏の証言では「山崎は、内線電話にハンカチをかぶせ、声色を変えて、『藤井ですが』と名乗って、種々話をしていた」という。

 山崎が資料を流してから週刊新潮の記者を取り込んでいくまでの様子が実によく分かる。

 このようにして週刊新潮に渡った二つの資料は、〈「池田体制」のヒビ割れを語る「創価学会犯罪者リスト」の流出〉(七八年四月二〇日号)という記事となり、山崎のもくろみはものの見事に成功した。

 ここで山崎がやった内部資料の漏洩は、きわめて背信性の高い行為である。早い話がコソ泥だ。しかも、山崎が学会本部から盗み出したのはこの二つの資料だけではない。七九年九月二一日には、やはり造反した原島嵩(当時・創価学会教学部長)と組んで、より大がかりな窃盗を行なっている。学会本部から、ダンボール十三箱に及ぶ内部資料を原島に持ち出させ、それを山崎の事務所に運んだのだ。

 面白いことに、山崎は、この資料持ち出しについて池田氏に謝罪を行なっている。七九年一一月二八日、学会本部の一室でのことである。山崎は正座し、深々と頭を下げて、次のように語ったという。

 「先生、このたびは、お詫びしてもお詫びし切れない、大変に悪いことをしてしまいました。本当に申し訳ありません」

 しかし、その舌の根も乾かぬうちに、学会と宗門との分断工作を進め、それが発覚するや、またまた池田氏に詫びを入れている。今度は、八〇年三月二日、新宿文化会館においてであった。このときも山崎は正座して頭を下げ、

 「策を使い、先生をここまで苦しめたことに対し、心からお詫び申し上げます」

 と、涙ながらに言ったという。そのすぐあとに今度は創価学会恐喝に走るのだから、あきれてものも言えない。

 泣いて詫びては、またすぐ裏切る――どこまでも性根の腐った男なのだ。

 そして、奇怪千万なのは、山崎の恐喝を結果的に幇助した週刊新潮が、そのことに対する何らの反省もなく、いまもなお山崎を重用し続けていることだ。

 山崎が恐喝罪で服役し、九三年に出獄したとたん、真っ先に学会批判記事を書かせたのも、週刊新潮であった。九三年一〇月二一日号に、山崎は〈神崎郵政大臣は「盗聴仲間」だった〉なる手記を寄せている。当時は、細川連立政権で公明党(当時)が初の入閣を果たした直後で、山崎の“手記”は、公明党から郵政大臣となった神崎武法氏を攻撃するには格好のネタであった。その内容はといえば、実際は、山崎自身が勝手にやった宮本顕治・共産党議長邸盗聴を、神崎氏ら学会の組織ぐるみの犯行であったとする悪質なデマである。

 事実はこうである。

 「山崎の指示により、昭和四五年五月から七月にかけて、日本共産党・宮本書記長宅(当時)の電話盗聴を行った」との広野氏の証言(五六年一〇月一四日公判)には次のようにある。

 広野氏は、盗聴の計画を山崎から明かされたとき「学会本部の指示なのですか」と反問した。すると山崎は「お前は学会本部の指示でなければできないのか。そんなことで仕事ができるか」と言ったという。更に、「学会首脳には他言するな」と念を押したうえで、山崎が独断で決めて、広野氏にやらせたのだった。

 また、創価学会は、昭和四五年五月三日の第三十三回本部総会で、共産党への基本的な態度を明確にしており、どう考えても共産党の情報など全く必要としていなかったので、広野氏は「それでも盗聴する必要はあるのか」と、山崎に再度確認した。山崎は「学会首脳の考えは甘い。必ず共産党の情報は必要になる」と言い、盗聴を実行させた。

 ところが山崎は、その後の裁判で「(昭和四十五年七月三十日の夏季講習会の)席上、池田会長(当時)から、『お前はこんなところにいないで、すぐ帰って“後始末”せよ』と厳しく叱責され、自分はすぐさま下山の報告書を書き、その日のうちに帰京した。その帰り際、神崎氏ら検事に、事件の事後処理について相談した」と証言している。

 また、この手記でもこの証言と同じことを繰り返し、当時、池田会長も神崎氏も盗聴について知っていたかのように書いているのだ。

 ところが、この山崎の証言は、すでに過去の裁判(五六年六月一六日第十一回口頭弁論)において、そのウソが立証されている。山崎は「七月三〇日、厳しく叱責されて帰京」どころか、講習会の最終日までずっと参加しており、講習会の模様を記録した数多くの写真に、ハッキリと顔が写っている。つまり、池田会長に叱責されたことも、神崎氏に相談したことも山崎のつくり話であったのだ。

 冒頭で紹介した吉丸真裁判長の判決文にもあったように「〜虚構の弁解を作出」する山崎に対し、“盗聴仲間”とされた神崎郵政大臣(当時)は「当時、私は福岡地検小倉支部の検事をしており、物理的に関与できるはずもない」と、平成五年一〇月四日の衆議院予算委員会においてハッキリと山崎との関与を否定している。

 裁判(第十一回口頭弁論)ですでに明確に否定された自らの偽証を、大半の読者が事情を知らないのをいいことに、性懲りもなく“リサイクル”しているのだ。骨の髄まで大ウソつきの山崎らしい、なりふり構わぬやり口である。

山崎なしでもデッチ上げをやってきた週刊新潮

 以上、山崎正友と組んで週刊新潮がやってきた“捏造報道”を並べてみた。だが、山崎からのリークがなければデッチ上げ記事ができないのかといえば、そんなことはない。創価学会報道における“オンナ”がらみの捏造は、もともと週刊新潮の十八番なのだ。その実例を、次に紹介してみよう。

 まず、さかのぼって、〈池田大作会長「ナゾの四十日」と“疑惑の女”石井孝子〉(七〇年四月一八日号)なる記事。

 七〇年に起こったいわゆる「言論問題」(創価学会が、学会批判の単行本を組織的に出版妨害したとされる事件)により、学会はマスコミから総攻撃を加えられていたが、大部分は、当然のことながら、「言論の自由」の観点から学会を批判するものであった。だが、週刊新潮は、編集コンセプトが“金と女と事件”だけに、どうせ“学会を叩くなら女性スキャンダルにしろ”とばかり、以下のような記事をデッチ上げた。

 「言論問題」で紛糾する七〇年一月から二月にかけて、池田氏が四十日間にわたってマスコミから姿を消したことがあったのだという。それが「ナゾの四十日間」というわけだ。その間に、日蓮正宗の日達法主(当時)が池田氏を呼びつけたらしいと、『新宗教新聞』編集長・清水雅人が記事中で語っている。

 では、一方の“疑惑の女”とは何かといえば、やはり清水雅人が、次のようにコメントしている。

 「知人の某氏によれば、会長は大石寺から帰京すると、まっすぐある女性のところに行くことがあるらしい。彼女は、赤坂の芸者だった人で、赤坂七丁目に住む石井孝子さん。『S』という置家の看板を持っているが、現在は休養中で、小唄かなんか教えている」

 池田氏が本山に呼びつけられて云々ということが、実際にあったかどうかは知らないし、それはひとまずおく。問題なのは、「ナゾの四十日間」と「疑惑の女」の間に、どんなつながりがあるのかが、どこにも書かれていないということだ。そもそも、何が「疑惑」なのかも判然としない。池田氏とこの女性との“特別な関係”をほのめかしているつもりなのだろうが、その根拠はといっても清水雅人の伝聞によるコメントだけなのだ。そのくせ、この女性の実名を出してしまうのだから、ひどいヤリ口だ。早い話が、真偽も何も分からぬ噂話を実在の人物の名前を出すことで、さも本当らしく装ったものに過ぎないのだ。

 当時、週刊新潮の編集者をしていたジャーナリストの亀井淳氏は、著書「『週刊新潮』の内幕」(第三文明社)の中で、この記事の裏話を披露している。

 「この記事の取材過程については私は全く知らなかったが、校了の日のことは印象に残っている。担当した記者、編集者二人ほどを前に据えて、野平編集長が怒りまくっていた。(中略)野平氏の怒りは、要するに、“これでは事実があったんだかなかったんだか分からない”“なんとかしろ”と責めているのだった。

 紹介したように、この“ナゾの四十日”と“赤坂の女”の話は、二つとも清水氏の情報である。だが最初のゲラでは、清水氏の存在は伏せられていた」

 そして担当者は、野平編集長(健一・現常務取締役)の怒りをかわすため、情報ソースである清水氏との約束を破って、記事中に清水氏の名前を出してしまった。その結果、担当者は清水氏・創価学会・石井孝子さんの三者から抗議を受けたという。

 反学会情報を鵜呑みにし、ウラも一切取らずに記事にするやり口といい、“オンナ”がらみの低劣な内容といい、週刊新潮はこの当時から、こんな乱暴な記事づくりをやっていたのだ。

実在しない“オンナ”を次々と捏造

 週刊新潮が、実在しない“池田大作のオンナ”を捏造した例は、ほかにもある。

 例えば、〈池田名誉会長が「醜聞アッパー」を受けた創価学会の「よろめき」〉(八〇年六月一九日号)。

 「『背筋が寒くなるほど猟奇じみた』池田大作名誉会長の女の問題」(リード文)について紹介したものだが、そこに紹介された話の捏造のひどさのほうこそ、「背筋が寒くなるほど」だ。

 この記事には、次のような匿名コメントがある。

 「東京・小平市に住む古くからの学会員の娘さんが、池田さんに妊娠させられたというんです。で、学会から北条さん(現会長)が二百万円持って謝りにきた。親が怒ったところ三百万円上積みして、示談にして堕ろしたらしい。去年の春だっていうんです。

 立川の文化会館の三階には会長専用の部屋があって、一昨年十一月ごろから一ヵ月そこに閉じこもったことがある。実は、問題の娘さんは創価高校の二年生で、グレていた。で、池田センセイが“その娘を会館によこしなさい。意見して直してあげるから”といったので、両親はありがたく娘さんを会館にやった。

 以後一ヵ月、娘さんは会館から通学した。その間の出来事だろう、というんですね」

 ところが、これがまったくのウソ。まずなにより、記事中の「一昨年」、つまり七八年当時、創価高校は男子校で、女生徒など一人もいなかった。関西には当時から創価女子高校があったが、東京・立川から通学したというのだから、関西校の話ではあり得ない。

 また、野崎勲氏の著書『創価学会の真実』(毎日新聞社)によれば、「当時の池田会長が、立川文化会館に、一ヵ月、滞在したこともなければ、女学生を泊めたことなどもとよりない。まして、当時の北条理事長が、小平市のいかなるメンバーに対しても、三百万などの示談金と称するものを払った事実は、一度もない」という。何ということだ。記事の一部に誤りがあったというなら、まだ分かる。これはまるっきりの捏造である。それも下品な下ネタを平然と個人名を出してもっともらしく書く。

 火どころか煙すらないところに、週刊新潮は“醜聞の放火”を堂々とやってみせたのだ! 果たして――週刊新潮編集長に“同様の話がある”と書いても編集長は怒らないのだろうか?。

                    ◆

 もう一つ例を挙げよう。「醜聞アッパー」記事から二年半後、八二年一二月二三/三〇日号に載った、〈「検察」が調査に乗り出した「池田大作」をめぐる「富山の女」〉なる記事である。

 ここでの“デマ情報提供者”は山崎正友ではなく、富山市の佐藤由太郎なる脱会者。

 『月刊ペン』の捏造報道においても、同誌編集長・隈部大蔵に“情報提供”した、いわくつきの人物だ。記事は、この男のメモと話を鵜呑みにして構成され、さも池田氏が富山の女性とスキャンダルを起こしたかのように書かれている。その中身は、おおむね次のようなものだ。

 七一年から七三年くらいの間に、富山県高岡市に住む学会員姉妹がたて続けに池田氏の子を身ごもった。まず姉が、七一年に東京の池田家にお手伝いとして働くうち、身ごもって富山に帰り、その後、精神異常になった。そこで今度は妹を池田家にお手伝いとして住み込ませたが、やはり妊娠して富山に帰り、地元で大騒ぎになった――。

 およそ荒唐無稽な、安手のポルノ小説でも恥かしくて書けないような話である。まず素朴な疑問として、姉が本当に池田氏の子を身ごもって帰ったのなら、なぜ代わりに妹を行かせるのだろう? 週刊新潮の記者は、その点をいぶかしく感じなかったのだろうか?

 そして、やはりというべきか、この話には明らかなウソがぎっしり詰めこまれていたのである。いや、ウソが多かったというより、ウソで固められた話だったのだ。

 高岡市から、姉妹でお手伝いとして住み込んだことがあるといえば、山村清一・創価学会富山県副県長(当時)の長女・次女の姉妹の他に該当者は見当たらない。この姉妹が池田家にお手伝いとして住み込んだことがあるにはあった。だが、事実として認められるのは、この一点だけである。他は全部デタラメであった。

 記事では七一年に妊娠し、富山で出産したことになっている姉は、六三年九月から池田家に勤め、六九年には東京で結婚し、三人の子供をいずれも東京で出産している。

 また、姉が帰ってきたので代わりに行ったとされる妹は、実際には、姉の結婚が決まったため六八年九月から池田家に勤め、七四年に富山で結婚するまで働いた。

 以上の事実は、八三年一月一八日、姉妹の父・山村清一氏が『月刊ペン』裁判に証人として出廷し、明らかにされた事実である。「高岡市から池田家にお手伝いに行った姉妹」さえいれば後はどんな下品なスキャンダルでもつくれるのだ。そして、それを週刊新潮は事実確認もせずに書きまくる。これを犯罪と呼ばずして何というのか!

 記事中に引用された佐藤由太郎のメモでさえ、「……以上、徳田の妻君、西崎の妻君、山崎博の言」などと、佐藤が直接見知った事実ではなく、他人から聞いたあやふやな伝聞なのだ。こんなメモさえも“証拠資料”とし、平気でスキャンダルを書き立て、全国で売る。それによって傷つく人たちのことなどまるで気にかけない。要は雑誌が売れれば良いのだ。

 山村氏は、もとより、事実無根の中傷を受けた二人の娘さんは、どんなに深い心の傷を負ったことだろうか。そして、よくもこれだけ根も葉もないウソを書けるものだ。学会を中傷するためなら誰かれかまわず平気で人権侵害も犯す週刊新潮の危険な体質は、昔も今も全く変わらないようだ。

山崎正友のマスコミ工作と、それを証明する「週刊新潮」記事

七〇年 「言論問題」が起こる、山崎正友、創価学会顧問弁護士として対応。

マスコミの第一次反創価学会キャンペーン。

七六年 月刊『ペン』三、四月号に、池田会長(当時)に対する悪質な捏造記事が掲載される。学会は、同誌編集局長・故隈部大蔵を名誉毀損で告訴。

(後に山崎正友は悪意の上申書を提出し、差し戻し裁判に持ち込む。差し戻し裁判では「月刊ペン」側に付き、虚偽の証言を)

七七年 山崎正友が、反学会の怪情報(学会と宗門の仲違い)をマスコミ各社にリーク。週刊新潮が「メッカ大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ただ今ゼロ」(七月二八日号)を。

八月頃より、週刊文春でも山崎の流した情報により「宗門と学会の対立」をテーマに反学会キャンペーンを展開。

内藤国夫が、月刊『現代』十二月号と翌年一月号で、「創価学会と池田大作会長の変貌」を書く(後に山崎が情報を流して内藤に書かせる)。

七八年 山崎正友が匿名で「ある信者からの手紙」という学会批判文書を流す。

これによって、宗門の若手僧侶達の間で反学会色が強まる。

山崎正友、週刊新潮編集部員と接触。

「『池田体制』のヒビ割れを語る『創価学会犯罪者リスト』の流出」(四月二〇日号)

山崎の情報リークにより、池田名誉会長のマジック事件を扱った「池田会長の『奢れる現場写真』三枚が流出した創価学会の反乱」(七月二七日号)。

七九年 池田会長(当時)五月三日勇退、名誉会長に。

「『女』や『カネ』の噂まで出た池田大作辞任劇の俗臭」(五月一〇日号)を皮切りに、学会攻撃のテーマが「宗門問題」から「女・カネ」へと変化。

週刊新潮等、マスコミが山崎の意のままに操られる。

「池田大作名誉会長『国会喚問』の大攻防」(五月二四日号)など、山崎情報による記事作りをゴマ化すため、別種類のテーマによる攪乱記事も掲載。

八〇年 山崎が創価学会を恐喝するため、内藤国夫に月刊『現代』七月号に「池田大作名誉会長復権にうごめく怪情報」を書かせる(また、「週刊新潮」「週刊文春」も同様に山崎が売り込み、学会恐喝のネタにする。それが「『内藤レポート』から削除された『池田大作女性関係』の原稿」〈六月一二日号〉)。

『週刊文春』では山崎の長期連載手記が掲載された。

八一年 山崎正友、創価学会に対する恐喝容疑で、一月二四日逮捕。

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