創価学会報道にみる 週刊新潮のウソと捏造 これは犯罪だ! 佐倉敏明◆著  はじめに  前著『創価学会報道にみる週刊文春のウソと捏造』に続き、シリーズ第二弾を上梓する。  本年三月に通算二〇〇〇号を達成した週刑新潮は、いうまでもなく、出版社系週刊誌の先駆けにして、その代表格。創立百周年を迎える新潮社の看板雑誌である。だが、その内実はどうか? 本書は、週刊新潮の創価学会報道を検証し、そこから同誌の報道の“姿勢”を問うものである。  何かにつけて比較される週刊文春と週刊新潮は、創価学会批判の最前線を走ってきた点でも共通している。が、両誌の学会報道には根本的な違いがある。週刊文春が社会正義を振りかざし、“創価学会という巨悪を告発する”というポーズを崩さないのに対し、週刊新潮の学会報道はつねに冷笑的で、スキャンダラスである。そしてそれは、週刊新潮の記事に強い影響力を持つ新潮社相談役・斎藤十一氏の個性の反映でもある。  斎藤氏の存在を抜きにして、週刊新潮を語ることはできない。「天皇」とも呼ばれるほど、新潮社において絶対的な権力を握っている斎藤氏は、週刊新潮の「特集」タイトルのほとんどを一人で立案してきたといわれる。このことは、関係者には周知の事実であったが、九五年の年初に朝日新聞が、話題の大型企画「週刊誌考」で週刊新潮を取り上げ、そこで初めて“公表”された。  「週刊誌考」では、週刊新潮において“斎藤天皇”の意向が絶対的なものであることが明らかにされている。それによれば、週刊新潮の特集企画は、まず編集長や担当常務らが練り、斎藤相談役にお伺いを立てるという。  「現場の案に良いものが多ければ僕が居る必要はない。現場の案では『週刊新潮は出せない』と考えれば、僕の案を言います」(「週刊誌考」九五年二月一〇日付の斎藤氏のコメント)  要するに、斎藤氏に気に入られる企画でなければ通らないのだ。そこからどんな弊害が生まれてくるか――?  タイトルと中身のひどいギャップ、事実関係があいまいなまま結論づける危うさ、取材相手の発言内容の歪曲……週刊新潮の記事にそうしたアラが目立つのは、一つにはそんな裏事情のためなのである。  例えば、前出の「週刊誌考」で、斎藤氏は次のような驚くべき発言をしている。  「文芸に正義も真実もない。人間的真実そのままに物事をつかんで書けば、非常に多くのことができる。これは週刊新潮の個性だ」  週刊新潮はジャーナリズムではなく、「文芸」だと斎藤氏は言うのである。なるほど、「文芸」なら、社会正義を振りかざす必要もないだろうし、記事内容の事実関係などどうでもよいことになる。  また、斎藤氏は、月刊誌『ビジネス・インテリジェンス』(九三年十二月号)のインタビューで、週刊新潮のコンセプトについて聞かれ、こう答えている。  「僕は俗物ですからね。俗物が興味を持つものは決まっています。金と女と事件」  要するに、週刊新潮の記事の根底にあるのは、「金と女と事件」を面白がる低劣な俗物根性でしかないのだ。  週刊新潮は、その記事づくりの手法として「藪の中」という独特の方法を編み出した。芥川龍之介の小説「藪の中」からヒントを得た手口である。結論は常に「藪の中」で“所詮、真実は誰にも分からない”というわけだ。斎藤氏が、「文芸に正義も真実もない」と言うのは、このことを指している。  だが、読者は週刊新潮の記事が「文芸」だとは思っていない。この落差を、週刊新潮は巧妙に利用しているのだ。  週刊新潮は、俗物なるがゆえに、取材対象をも俗物の世界へ引きずり込もうとする。その切っ先は、「金と女と事件」に向けられる。勝手に“聖域”をつくり上げ、それに対してスキャンダラスな記事を書いて“俗物化”しようとするのも、当然なのである。この姿勢を改めようとしない限り、同誌は限りなく創価学会のスキャンダルをつくり続けてゆくに違いない。  しかし、本書に引用した週刊新潮の記事は、「文芸」だとか「俗物」だとかで逃げられる類のものではない。もはや、ペンによる犯罪以外の何ものでもないからだ。                                     著者識す 目次 はじめに 第一章 矛盾だらけの内容     詐欺のような“コジツケ”の見本記事     勝手に“生き仏”と断定しておいて、それを否定する馬鹿さかげん     マージャン賭博犯を弁護する編集部の屁理屈     “内部告発”を装った、的はずれの「政教一致」攻撃 第二章 タイトルで印象づける     オウム報道のドサクサにまぎれて、創価学会に泥をかけるルール違反     いったいいくらで誰から買ったのか? 「金で買った」の中身は無しのオソマツ     たった三回「鑑定書」を書いただけで「回し者」呼ばわりする異常な決めつけ     安手のスパイ小説並みの語彙で、「秘密組織」を夢想する幼児性     「噂」なんだから何を書いてもいいという“怪文書”雑誌     攻撃の材料がなくとも、勝手に“火”をつけて騒ぐいつもの“連中” 第三章 リード文で勝手に断定する     元閣僚の言うことなら信用できる? 証拠もなく断言する「脱税」報道     裁判所の示した判断までねじ曲げる、恐るべき宗教蔑視     「風聞で記事を書いて何が悪い!」という手のつけられない開き直り     盗み録りテープを使った国会議員の学会攻撃を援護射撃するのはなぜだ     “学会員を公務員にするな”という暴論 第四章 匿名という便利な証言者     お金のことしか眼中になく、しかも「噂」にしか興味がない     ろくに取材もしないで匿名証言で言いたい放題     ポンドは誰にも取材していない匿名証言者という存在     信仰が分からないクセに頭からバカにしてかかる記者の無知     落語仕立ての無責任な悪口報道     本人が「違う!」と言っても、匿名証言者で当事者にさせるやり口     けっきょく全部ウソだった“ルノワール疑惑”報道 第五章 記事のトリック     はなはだしく品位を欠いたという理由で新聞社を辞めさせられた内藤国夫     まともに相手にしてもらえなくて新聞社に突っかかる反創価学会記者     ガセネタを信じて「ウソ」を証明してしまったドジな記事 第六章 人権無視で書き放題     差別と偏見の高校野球報道     「ホステスには信仰の自由は許されない」という週刊新潮の姿勢     フランスのデマ報道を更に悪意を込めて記事にする     「少年法」に八つ当たりしてどうする? 第七章 山崎正友と共謀して女性スキャンダルを捏造     山崎の恐喝に“手を貸した”週刊新潮     週刊誌のネタになりやすいようにウソをつく     週刊新潮は“女性スキャンダル”を担当     盗んだ資料でつくられた記事     山崎なしでもデッチ上げをやってきた週刊新潮     実在しない“オンナ”を次々と捏造     山崎正友のマスコミ工作とそれを証明する「週刊新潮」記事 第八章「わたしは“衝突犯”にさせられた」(白山信之)     国会でもわたしが犯人と――     “事故で死なせた”という週刊新潮の理論     始めから終りまで暴言と挑発の“取材”     何かをデッチ上げようとしている意図がありあり     大橋住職は地元では有名なスピード狂だった!     明らかに悪質なウソがある記事     記事の仕掛け人は日蓮正宗の僧侶・藤原広行だった あとがき 第一章 矛盾だらけの内容 詐欺のような“コジツケ”の見本記事 〈新興宗教の集団「自殺」と集団「投票」〉(一九七八年一二月一四日号)  読者ウケを狙ったにしても、この記事はひどい。詐欺である。  集団自殺というのは、この年に南米ガイアナで、カルト教団「人民寺院」が起こしたもので、教団の調査のため訪れたアメリカ合衆国下院議員ら四人を射殺した後、教祖ジム・ジョーンズを筆頭に九百人以上が集団自殺したという、衝撃的な事件だ。  教祖ジム・ジョーンズは、徹底した人種差別撤廃主義者で、人種の違う八人の子供を養子にし、一九六一年にはインジアナポリスの人権擁護委員会の委員長に指名された人物。しかし、核戦争の幻想やガンの恐怖を訴え、次第に閉鎖的になり、信者にセックスするよう命令したり、六百万ドル分以上といわれる金塊を銀行に隠し持つなどの異様な行動がめだつようになった。その揚げ句に起きたのが集団自殺だった。  ところが週刊新潮は、なにをとち狂ったか、このジム・ジョーンズの起こした「人民寺院」集団自殺事件が、創価学会の“集団投票”と、構造が同じだと言い放つのである。  リード文には、こう書いてある。  〈「集団自殺」が狂気の行動であるのはいうまでもないが、我々の身近にも狂気としか思えない行動をとる集団が少なからずあるのを思い起こしてみるのも、この際、無駄ではなかろう。例えば創価学会による「集団投票」「替玉投票」も民主主義を冒涜する狂気のさたではあるまいか〉  なんと、「例えば」の一言で「集団自殺」と創価学会を結びつけただけのことではないか? いくらなんでも、それは無理なコジツケというものだ。  週刊新潮も、さすがに無理だと思ったのか、冒頭からわざわざ言いわけしている。  「『集団自殺』で、創価学会を引き合いに出すなんてケシカランという方がいるかもしれない。しかし、教祖サマ、ないしは教団の命じるまま、自殺であれ、投票であれ、みな一様に同じ行動をとるあたり、その構造は全く同じではないだろうか」  ちょっと待ってほしい。自殺と投票とは全く別の次元の話じゃないの? それに「みな一様に同じ行動をとる」というが、宗教に限らず、集団ってそんなものじゃないか? 「例えば」……週刊新潮だって、「社長サマ、ないしは会社の命じるまま」記事をつくっているわけで、「その構造は全く同じ」ということになる。  何のことはない、この記事はタイトルを先に決めた上で書き下ろしたというのが見え見え、筆者が、無理なコジツケを承知の上で必死になってとりつくろっている様が痛々しいほど見てとれる。ともかく時流に合わせようとするあまり、詐欺まがいのコジツケを平気でする“イエロー・ペーパー”の面目躍如とでも言っておこうか。  「集団投票」という表現がまたなんとも不気味だ。これは、いったい何を意味する言葉なのだ。  企業だって、労働組合だって、他の宗教団体だって、医師会だって、集団で選挙支援をやっているではないか。  さすがに週刊新潮も、自らが言っていることの大ボケに気付いている。  「むろん、この『集団投票』ということについていえば、これはあながち創価学会だけにかぎったことではないかもしれぬ。他の宗教団体、あるいは労働組合、といった団体も同じようなことをやる。が、その『集団行動』の統制ぶりについて、創価学会は定評のあるところであり、『人民寺院』に比せられるユエンもここにある、というわけである」  何が「というわけである」だ!「定評がある」というだけで、ただ選挙の支援活動をしている人を“狂気”と呼んでいいのか!  要するに、週刊新潮は“宗教は狂気”だと言いたいのだろうが、次のコメントは聞き捨てならない。  「この宗教団体も、『政教分離』などといいつつ、選挙などでは、一糸乱れぬ集団行動をとるとされている。『自殺』は自分が死ぬだけ。『投票』はその結果を第三者にまで及ぼす。こちらの方が、よほどハタ迷惑ではないのか、という声もある」  佐瀬昌盛なる評論家のコメントだ。「ケシカラン」のは次の発言。  「人民寺院みたいに、魔術にかかった人間が物理的に死んでくれるというのならまだいいんです。私は生ける屍が社会に出てしまうことのほうが深刻な問題だと思いますよ。今の日本の新興宗教の中には生ける屍を作りあげてしまう集団があるんです。“我こそは唯一の正義である”と、他人のいうことには聞く耳を持たない集団が外部の人間を引っぱり込む。引っぱり込まれる人間の中には自分の思想をゼロにして、すべて教祖の言いなりになってしまう者もいる。というより、そういう人間の方が多い。正直にいって、私は新興宗教が怖いんです。一度テレビで“折伏”とかいうのを見ましたけれど、不気味ですねえ」  週刊新潮は、この佐瀬発言をうけて、  「この結果、多数の『生ける屍』が、ゾロゾロと投票所へ向う」  と結論づけてみせる。  なんと、創価学会を「人民寺院」以上の狂気の行動をとる集団にデッチ上げているのだ。しかも、創価学会が「集団投票」や「替玉投票」をしているという証拠も示さずに、一方的に決めつけている。「民主主義を冒とくする狂気のさた」とは、週刊新潮のこの記事のほうではないのか。  この詐欺まがいの“コジツケ”記事のリード文にならって、次の一文を週刊新潮編集部におくろう。  〈「集団自殺」が狂気の行動であるのはいうまでもないが、我々の身近にも狂気としか思えない記事を捏造する集団が少なからずあるのを思い起こして見るのも、この際、無駄ではなかろう。例えば週刊新潮による「創価学会報道」も民主主義を冒とくする狂気のさたではあるまいか〉 勝手に“生き仏”と断定しておいて、それを否定する馬鹿さかげん 〈池田名誉会長が出る「生き仏」否定という変な「法廷」〉(八三年一一月一〇日号)  まず、タイトルの意味がわからない。記事もそれ以上に、変である。  〈もう一つの学会裁判である山崎正友元顧問弁護士の「三億円恐喝事件」の方は、「検察危うし」の状況となり、いやがる大作サンに三回目の出廷を要請しなければならなくなった〉(リード文)  なるほど、山崎正友・元創価学会顧問弁護士による創価学会恐喝事件の裁判のことか、と少し分かる。でも、どこにも「検察危うし」の状況などはなかったじゃないか。審理が長引くのは、単に山崎正友被告が次から次につくり話をデッチ上げたせいだ。つくづく変だ。リード文はさらに続けて、  〈で、この裁判、何が裁かれるかというと、坊さんでもない大作サンが事もあろうに“生き仏”になろうとして、いかに非常識な言動に走ったか、ということなんだそうである。“恐喝事件”の背景もそこにあった〉  池田会長(当時)は自分が“生き仏”だなどと主張してはいない。そんなことを言っているのは山崎正友である。彼は、創価学会と日蓮正宗宗門とを対立させるために、「池田は自分こそ“仏”だと述べて、法主と宗門の存在を否定している」というデマ宣伝を意図的にしくんで反創価学会の僧侶や信徒を煽っていた。しかし、それが裁判の争点ではないのだ。裁判の争点はあくまで山崎被告の恐喝についてであり、刑事被告人がわめく、根拠のないデマ宣伝を裁判所が追及する理由はない。  まして、週刊新潮が記事にしているような「“恐喝事件”の背景もそこにあった」といえるような事実はないのだ。  山崎被告の側の証人として法廷に立った、元創価学会教学部長の原島嵩はこう証言している。 「創価学会にとっての宗門問題というのは、また宗門にとっての創価学会問題というのは、創価学会が日蓮正宗の信徒の団体であるか、それとも創価教学、創価仏法という教義を柱とした一世一派を立てていくのか、この二つの路線、二つの問題を、それをめぐっての対立問題、それが問題の真相でございます」  「池田さんの基本的な考え方は、宗門を支配していこうという考え方でした。なぜかというと、宗門の伝統、それから七百年の流れ、そういったものを手中に収めて宗教的権威、権力というものをバックボーンにして天下を取るというのが、池田大作さん及び私たちの考え方でございました」  週刊新潮は、これをうけて。  「つまり、山崎正友被告の『恐喝事件』の背景には、池田大作氏が、自ら『生き仏』となろうとして宗門と対立し、その間に入って調停工作を進めた山崎元顧問弁護士が、『どうしても、池田“生き仏”論には問題あり』と見て、ことごとく池田氏と対立した――ということなのである」  と解説している。原島ですら法廷では“生き仏”とは言ってないのに、週刊新潮は池田氏を勝手に“生き仏”と断定しているのである。  しかも、この記事の最後の部分で、記者は、「むろん、裁判長がいかなる判決を下すか分らないけど、二年に及ぶ審理の結果、学会側か『恐喝された』という根拠は、大きく崩れかかっている」と結んでいる。週刊新潮が「大きく崩れかかっている」とする、この裁判は、池田氏の“生き仏”論を前提にしての話である。  だが、この前提のほうこそ、後に「大きく崩れ」てしまっている。周知のように、この「三億円恐喝事件」で、山崎正友は有罪、懲役三年の実刑判決を受けたからである。  昭和六〇年三月二六日の東京地方裁判所の「判決文」で吉丸裁判長は、  「なお、被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない。以上のように考えると、本件は犯情が悪く、被告人の罪責は重大であるといわなければならない」  と、山崎の“うそつき”ぶりを叱責した。これは裁判の判決としては異例なことだ。  “生き仏”説は、山崎のウソだったことが判明した。ついでに、週刊新潮がこの記事を山崎のウソに加担してデッチ上げたということも今や明白になったのである。  となると、この記事の中で週刊新潮が書いていたことは、どうなるのだ。例えば、  「ここで(注=裁判の法廷で)問題になっているのは“池田本仏論”なのである。創価学会という日蓮正宗の単なる信徒の集りの、一介の世話人に過ぎない池田大作氏が、自ら『生き仏』になろうと画策した事実があるか、というやりとりなのだ。坊主でもない大作サンが『生き仏』になろうなんて、まったくコッケイな話なのだが、創価学会というところ、こういう非常識が堂々とまかり通るらしい」 「池田大作氏の思い上りというか、増長、うぬぼれ、誇大妄想狂というか、『生き仏』になろうとは、まったくもって珍奇な話なのだが、これに異論を唱えた坊主は、学会幹部にリンチを受けるという事態にもなったのだ」  などと、公言している。どうしても、池田氏を“生き仏”にしたいという意図が見え見え。  週刊新潮の狙いは単純である。要は、池田氏の存在が気にいらないというだけの話なのだ。“俗悪”を好み、それを記事ネタにする週刊新潮にとって、聖人君子的な存在は、格好のターゲットになる。それが、右の怨念のこもった文章に見事に表れている。  笑ってしまうのは、「坊主でもない大作さんが『生き仏』になろうなんて」というくだり。では、坊主なら“生き仏”になる資格があるとでもいうのか?  ついでに言っておくが、日蓮仏法では「即身成仏」といって、生きたまま仏になる(自身が仏の生命をもつことを覚知する)ことを目的にしている。その意味では、信徒のみならずすべての人(週刊新潮の編集部員も当然!?)が“生き仏”の資格がある。これは、創価学会員なら常識の範疇である。  だから、「坊主でもない大作さんが」などと騒ぎ立てる週刊新潮は、仏教への無知を広言して大恥をかいているばかりか、記事が単なる池田氏へのイチャモンにしか過ぎないことをさらけ出しているのだ。  池田氏本人が“生き仏”説を否定しているのに、勝手に“生き仏”だと決めつけ、それを“俗悪”に引きずり下ろしてコキ下ろす。こうした目茶苦茶な記事づくりこそ、週刊新潮が得意とする“人を貶める手口”である。それをこの記事は証明している。以上、オソマツでした。 マージャン賭博犯を弁護する編集部の屁理屈 〈ささやかなマージャン賭博で山崎元弁護士が捕まった仕掛け〉                               (八六年四月一〇日号)  山崎正友・元創価学会顧問弁護士は、創価学会恐喝容疑で、昭和六〇年三月二六日に東京地方裁判所で懲役三年の実刑判決を受けた。その後、山崎は控訴し、保釈されて自宅にいたのだが、昭和六一年三月二九日、今度は「賭博罪」で逮捕されたのだ。  保釈中の身で賭けマージャンとは何をやっているのかと誰もが呆れた事件だが、異常にも週刊新潮は、その「賭博罪」逮捕は、警察と創価学会が仕組んだのだと騒いでいるのである。本来追及されるべきは、山崎被告の反省も自粛もしない異常な精神構造のほうなのだが、どうしても週刊新潮は犯罪者とつるみたがるようだ。  「私はマージャンは好きですよ。弱くもないけどマージャンの稼ぎで食っていけるほど強いわけでもない。だいたい私のレートは千点で三百円といったところ。たまに五百円でやる時もありますが、そんな時には腰が引けてしまいますよ。一晩に何百万も動くヤクザがらみの賭けマージャンではないし、いちいち逮捕することですかねえ。誰だって千点三百円程度のマージャンが賭博罪になろうとは夢にも思いませんよ」  と、山崎はぬけぬけと述べる。何が「夢にも思いませんよ」だ。  たとえ干点百円でも、法律上は賭博罪になることは誰でも知っている。未成年者の喫煙や飲酒にしても、違法駐車にしても、本来は法律違反だが多くの場合は見過ごされていることは確かだ。かといって、警察がそれをまのあたりにした以上、放って置くわけにはいかないのは当然だろう。  山崎は、銀座の高級クラブで遊んでいた絶頂期には、特注の象牙の麻雀牌を手にいれ、四枚のイーピンにそれぞれ「山」「崎」「正」「友」と彫らせていたほど、麻雀が好きだった。そんな特注の牌で「干点三百円程度」のマージャンを楽しんでいたとは思いにくいが、とりあえずレートのことはおくとしよう。  要するに、種を明かせば、金子某というこのマンション・マージャンの客の一人から通報があって警察が出向いたというだけのこと。  金子某は博打と遊びの好きな男で、多方面から一千万円にのぼる借金をつくっていた。これが返済不能になり、結局、警察のごやっかいになることになる。そこで借りた金は博打でスったことを白状し、それが高額レートのマンション・マージャンであったことがわかったのである。警察としてはこれを調べないわけにはいかない。創価学会との関係など出てくる余地はないのだ。この博打好きの金子某とマージャンをうっていた人物の一人がこの山崎正友だったのだから、どういう言い逃れも通用しない。  モラルという点でおかしいのは、山崎正友だけではない。週刊新潮もそうだ。  「家庭マージャンに毛の生えたような賭けマージャンを摘発したのはなぜか。新聞に“山崎逮捕”を書かせることが目的だったとしか思えない」  “屁理屈”もここに極まれり、である。この記者は、何を考えているのだ。  今回の逮捕は、賭けマージャンをしたかどうかではなく、そこで金を巻き上げられたと主張する金子某がいたからだ。たとえ仲間同士のマージャンでも、そこで、「あいつに金を巻き上げられた」と騒ぐ人が一人でも出れば、警察が動くのは当然である。それを逮捕したからといって、いちいち警察と創価学会が癒着していると報道するほうがどうかしている。  山崎は、平成三年一月二十二日、恐喝罪のほうでの上告を棄却され、実刑が確定した。賭博罪と恐喝罪は成立した。元弁護士の呆れた犯罪…週刊新潮にとって、これほど面白い記事ネタはないのだが、山崎の懲りない悪事をたしなめるどころか、それを強引に創価学会に関連づけようとするから無理が出るのだ。それとも、こんな山崎を弁護するからには、この稀代の犯罪男に何か弱みを握られているの? “内部告発”を装った、的はずれの「政教一致」攻撃 〈ワイド特集 池田会長「勇退仇討ち選挙」の創価学会“内部告発”〉(七九年九月二〇日号)  一九七九年の選挙戦における、創価学会の公明党(当時)支援活動に対し、あいもかわらぬ「政教一致」攻撃をしている。  趣旨としては、〈題して池田会長「勇退仇討ち選挙」。これが今回の総選挙での創価学会・公明党の「合言葉」だそうだ。竹入サン、「政教分離の誓い」を、どのドブに捨ててしまったのか〉(リード文)というもの。  記事中の発言がすべて匿名であるため、ほとんどつくり話といった趣。週刊新潮の創作といわれても仕方がないだろう。だが、その内容は捨て置けない。例えば、次のくだりだ。  「つい先日、都内某区で開かれたあるブロック会議の模様」では、次のような様子が描かれている。                     ◆  一般会員「世間には学会と党の“政教一致”を批判する声が強いが」  幹部「“政教分離”はタテマエさ。オレたちは“政教一致”よ。そうだろう?」  会員全員「そうですッ」  幹部「オレたちが戦わないで一人の公明党代議士も生れるかい」  一般会員「週刊誌には池田センセイを批判した記事がたくさん出ているが、あれは誤りですね」  幹部「週刊誌を読むヤツは恩知らずだ。池田センセイは本山の若坊主とマスコミに引きずり下ろされたのだ。池田センセイが、どこで、どんな悪いことをなさったか。それよりキミの信心はどうかね。信心が足りないから、迷いが生じるのだ」                     ◆  これは、見てきたようなウソというより、とってつけたウソだ。  そもそも、創価学会員は自ら「政教分離」だの「政教一致」だのは言わない。ましてや幹部となればなおさらだ。“政教一致だ”なんて思ってもいないのだから、言葉になって出るわけがないのだ。  しかも、週刊新潮がここで強調しようとしているように、宗教団体が政党の支援活動をすることを「政教一致」とはいわないのである。  にもかかわらず、週刊新潮はこう書く。  「何しろ今回の創価学会と公明党の『合言葉』は、池田会長『勇退仇討ち選挙』だそうだ。竹入サンの『政教分離の誓い』などどこ吹く風。実体は、以前をもしのぐ堂々たる『政教一致』選挙。投票の自由などまったくない“憲法違反(的)”選挙)  「“憲法違反(的)”選挙」という表現が笑える。さすがに“憲法違反”でないことははっきりしているので、(的)とわざわざカッコに入れてはさみこんでいるわけだ。こんな言い方までして、必死で悪印象を与えようとムキになっている。すなおに、憲法の精神にしたがって信仰者が積極的に政治にかかわろうとしているひとつのモデルケースだとでも言っておけばいいものを……。  これは、最初から最後まで「政教一致」という用語の使い方を誤った記事である。週刊新潮はこんなにも不勉強なのだろうか。  「都内の元大ブロック長を務めた人」の話がまたおかしい。  「やれ、票取りすれば功徳があるとか、逆にナマケれば法罰が下るのどうのと自分でもいって来たし、またいわれもした。しかし脱会をしても病気一つかからない。思えば本当に信じて学会に従っていた十八年間がバカらしい。カネもずいぶん出した。そのカネで池田は、四十万円の背広を着、二十五万円の万年筆や腕時計を身につけている。こんな話だって私らは聞いているんだ。ある時、池田が文化会館にカバンを忘れた。三ヵ月たっても取りに来ない。恐る恐る中をあけて見たら、何と“大人のオモチャ”が入っていた」  とってつけたウソも、ここまで書かれてしまえば、何をか言わんやだ。まして、背広や万年筆などの値ぶみをして、いかにもそれらしさを装ってみせているが、何を根拠にこの金額を出しているのか?  「文化会館にカバンを忘れた」と言い、「取りに来ない」と言うのだって、よく考えてみれば、秘書もいる名誉会長という立場ではあり得ない話だ。  “大人のオモチャ”云々にいたっては開いた口がふさがらない。デマカセもいい加減にしろ!  いったい、週刊新潮は、こんな話を誰から聞いたというのか。ことは名誉毀損にあたる話である。匿名という隠れみので創作記事をタレ流しする愚も、ほどほどにしようね。 第二章 タイトルで印象づける オウム報道のドサクサにまぎれて、創価学会に泥をかけるルール違反 〈警察庁長官狙撃でオウムと創価学会の「詰り合い」〉(九五年四月一三日)  “タイトルの詐欺”の最新版をご紹介しよう。  九五年三月三〇日に起こった、国松孝次・警察庁長官狙撃事件は、現時点でまだ解決に至っていない。嫌疑をかけられているオウム真理教側は、テレビのワイドショーなどにひんぱんに出演し、反論につとめていた。そして、民放のテレビ番組で、オウムの外報部長・上祐史浩が、“一連の事件(地下鉄サリン、假谷さん拉致、長官狙撃)は創価学会の陰謀である”と言い出し、スポーツ紙などがその発言を大見出しで報じた――。  ……と、ここまでは読者諸氏も周知のことだろう。さすがに、この荒唐無稽な“創価学会犯行説”を、まともに受け止めたマスコミは皆無であった。ふだんから学会バッシングをくり返している一部のメディアが、面白がって記事にしただけだ。週刊新潮のこの記事も、その類である。                     ◆  このタイトルを見れば、オウム幹部と学会幹部が、実際に角突き合わせてなじり合っているさまを、誰もが連想する。そして、その様子こそが記事の中心であると思い込んでしまうだろう。  ところが、中身を読んでみれば、狙撃事件の目撃者証言などがメインで、創価学会は最後に申しわけ程度に触れられているに過ぎない。全五ページの記事のうち、最後の一ページの途中から出てくるだけだ。  しかもそれは、上祐発言を「全くバカげています」と否定する学会広報室のコメントが載っている、というだけのこと。つまり、このタイトルは二重の意味で詐欺なのだ。  詐欺の@ タイトルに「創価学会」と打っておきながら、実際には学会が刺身のツマ程度にしか登場しないこと  詐欺のA タイトルに「詰り合い」とあるのに、実際にはオウム側と学会側は会ってすらないこと  では、週刊新潮はオウムの言う、“創価学会犯行説”を信じているのかといえば、さすがにそうではないようだ。要するに、オウムが学会の名前を出したのをこれ幸いと、得意の学会バッシングも“ついでにやった”だけなのだ。新興宗教そのものを目のカタキにしてきた週刊新潮にとってみれば、オウムと学会をいっぺんに叩ける一石二鳥のチャンスを、見逃すわけにはいかない、というわけだ。  しかも、オウム真理教に対して日本中がダーティー・イメージを強めているさなか、オウムのダーティー・イメージをそのまま創価学会にもなすりつけてしまおう、との意図があることは明白だ。  許しがたいのは、この記事の最後に次のような手前勝手な記述がある点だ。  「創価学会ももともと宗門との宗教戦争で、全国で数々のトラブルを生じさせてきたのはこれまで報道されている通りである。オウムの格好の標的にされた学会が、その口実を自ら与えていることも確かなのだ」  自分たちがオウムの尻馬に乗って学会を中傷しておきながら、中傷される学会側にその原因があるというのだ。レイプされた被害者を、“アンタにもスキがあったんだろう”となじるようなものだ。  しかも、学会が宗門との確執の中で、「全国で数々のトラブルを生じさせてきた」とある。だが、学会と宗門との確執は、宗教上の論争に過ぎないのだ。「これまで報道されている通り」とあるが、学会と宗門との間のありもしない“犯罪的トラブル”を捏造して報じてきたのは、ほかならぬ週刊新潮ではないか。オウム側は、その記事をもって「口実」にしているに過ぎない。「口実を自ら与えた」のは、学会バッシング記事を捏造し続けた週刊誌やスポーツ紙なのである。                     ◆  例えば、九四年九月一日号の〈大石寺「僧侶」を衝突死させた創価学会幹部〉(本誌第八章に詳細あり)。交通事故死した宗門僧侶にぶつけられた車の運転手が、たまたま学会員だったというだけで、事故そのものが“学会幹部の計画的な殺人”であるかのように書き立てたものだ。  他にも、九四年九月二九日号の〈「脱会者」をトレーラー車で衝突死させた創価学会戦争〉。こちらは、事故死した被害者が脱会者だというだけで、ぶつかったトレーラーの運転手も、その会社の社長も学会員ではない。にもかかわらず、これまた、学会が故意に引き起こした事故であり、偽装殺人であったかのごとく書き立てたのである。  ちなみにこの二つの記事は、「反学会」という点では週刊新潮と立場を同じくする『噂の真相』にさえ、批判されている。  「A 以前の創価学会絡みの記事もそうだね。宗門僧侶と脱会者が相次いでトラックにはねられ事故死した件を、あたかも学会側の仕業であるかのような記事を掲載。『新潮』の反学会のスタンスは評価するけど、あれはいくらなんでもやりすぎだ。  B 案の定、名誉毀損で訴えられて現在係争中なんだが、新潮社のお家芸とはいえ、こうした人権侵害・誹謗報道が『新潮』の場合多すぎるね」              (『噂の真相』九五年二月号〈週刊誌記者匿名座談会〉より)  週刊新潮が言う、“学会が引き起こしたトラブル”とは、結局、週刊新潮自らが捏造したありもしないトラブルでしかないのだ。  創価学会を批判するなら、正々堂々と真正面から批判すればよい。オウム・バッシングのドサクサにまぎれて、後ろ足で泥をひっかけるような週刊新潮のやり口は、あまりにも汚い。 いったいいくらで誰から買ったのか?「金で買った」の中身は無しのオソマツ 〈金で買った「池田ゴルバチョフ会談」の真相〉(九〇年八月九日号)  九〇年七月、池田名誉会長はゴルバチョフ大統領(当時)と会談した。会談の中でゴルバチョフ氏が訪日を希望していることを明言(翌年実現)したため、この会談の模様は一般紙やテレビ・ニュースでも報じられた。そのことが気に食わなかったのか、週刊新潮はこの会談自体を、学会が「金で買った」ものだと噛みついてみせたのである。  他人の業績を貶める一番手っ取り早い方法は、その業績が実力によるものでなく、裏取引によるものだと吹聴することだ。大学に合格した受験生を貶めるには、「あれは裏口入学だ」と吹聴すればよい。裏取引の存在が事実なら、それは「告発」だ。だが、裏取引が事実でないなら、単なる「デマ」だ。さて、この週刊新潮の記事は、「告発」か、それとも「デマ」か――?  中身を読んでみると、どうも、限りなく「デマ」に近い印象を受ける。なぜなら、週刊新潮がタイトルで鬼の首でもとったように「金で買った」と言い切っているわりには、その根拠があまりにも薄弱だからだ。  記事は、会談の内容を「お互いの“ヨイショ”に終始」などと茶化してみせたり、会談に応じたゴルバチョフ氏の「狙い」を“外交評論家”とやらに邪推させてみせたり、脇道にそれてばかりで、なかなか本題に入らない。  本題とは、いうまでもなく、「金で買った」と断ずるに足る具体的な証拠だ。創価学会が、クレムリンのどの部署の、なんという担当者から、この会談を「買った」のか? いつどこでその話がまとまったのか? いくらで「買った」のか? 読者だって、そこのところを期待して記事を読んだことだろう。  ところがだ、驚くべきことに、記事の中には、いつ・どこで・誰から・いくらで買ったのか、具体的な事実は何一つ出てこないのだ! では、「金で買った」と断ずる「根拠」は何かといえば、記事中に出てくるそれらしきものは、以下の二つのコメントだけ。  「今回の会談の裏工作に、学会のカネが使われたことは十分考えられます」                      (池田問題対策事務所・押木二郎事務局長)  「池田が海外に出かける場合、かなりの金がバラ撒かれるのはよく知られています。(中略)外国へ行く時は最低でも五億円は使うと発言した幹部がいました」(学会消息通)  二つとも、ゴルバチョフ会談に即した事実を語ったものではなく、悪意に満ちた憶測を述べただけものでしかない。しかも、一方は得体の知れない匿名コメントであり、もう一方の押木二郎は脱会者(元学会本部職員)である。つまり、発言の責任を負わない語り手と、学会に恨みを抱く語り手の言葉でしかない。いずれもとうてい信用のおけるコメントとは言いがたい。このコメントだけで「金で買った」とタイトルに謳う週刊新潮は、いったいどういう了見で記事をつくっているのだろう?                     ◆  さきの裏口入学の比喩で考えてみよう。某有名女優の子息が某大学に入学した際、編集部に「あれは裏口入学だ」という密告電話が入ったとしよう。しかし、取材してみると、その裏口入学を手引きした相手も、払った金額もまったく分からなかった。それでもなお、“アヤシイと言っている人もいる”ことを根拠に、〈有名女優○○の息子が裏口入学!〉という記事にしてしまうのが週刊新潮のやり口なのだ。少なくとも、この「ゴルバチョフ会談」の記事に関する限り、それと同じことを彼らはやっているのである。  週刊新潮の記事が羊頭狗肉なのはいまに始まったことではないが、いくらなんでもこれはひどすぎる。  だが、これほどひどい“タイトル詐欺”記事であっても、創価学会のイメージダウンには有効なのである。中身を読まず、新聞広告や車内吊り広告でタイトルだけを見たら、「ああ、あの会談は金で買ったのか」という悪印象だけが刻み込まれるからだ。  そもそも、国家元首との会談が「金で買える」と考える発想自体が卑しい。その“卑しさ”は、自らを“俗悪”と称してはばからない週刊新潮にとって望むところなのだろうが、それ以上に、デマ記事を掲載した週刊新潮を読者に「金で買わせる」厚顔ぶりには、ただただ呆れ返るだけ。 たった三回「鑑定書」を書いただけで「回し者」呼ばわりする異常な決めつけ 〈三ヶ月法務大臣は創価学会の「回し者」〉(九三年八月二六日号)  九三年八月に発足した細川連立政権は、公明党が結党以来初めて入閣を果たしたことでマスコミでも大きな話題をまいた。反学会メディアは、細川政権批判にかこつけてここぞとばかり公明党と創価学会を叩いたが、週刊新潮はなんと、公明党閣僚ではない三ケ月章氏の法務大臣就任さえ、学会叩きに利用したのである!  三ケ月氏は高名な民事訴訟法学者。細川連立政権の“目玉”でもあった。民間人を閣僚に登用するというアイデアによって、法曹界から抜擢され、法務大臣に迎えられた。  ところが週刊新潮は、この“異例の抜擢”は公明党の思惑によるもので、それは創価学会の意図を受けたものなのだという。なぜなら、三ケ月氏は学会の「回し者」であり、氏が閣僚入りすることは、学会にとっても「強力な援軍」(記事小見出し)を得たに等しいからだ、と。  記事中には、「三ケ月氏を学会と結びつけた当事者の一人」とやらの、次のようなコメントもある。  「学会にとっては、(三ケ月)先生が法務大臣でいてもらえば安心ですよ。学会が一番怖いのは検察ですからね」  コワイ検察を牽制するために、学会や公明党がゴリ押し人事で三ケ月氏を閣僚に据えたというのである。だが、事実を細かく見ていくと、これが例によって週刊新潮お得意のタイトルの決めつけに過ぎないことがわかる。  まず、学会と三ケ月氏の「結びつき」についてだが、実際には、学会がからんだ二つの裁判で、過去三回ほど、「鑑定書」を書いたことがあるに過ぎない。  二つの裁判とは、昭和四七年に起きた松本腰弥裁判(寄付金返還訴訟)と、昭和五六年の正信会裁判。週刊新潮は、この二つの裁判の、反学会側の当事者である正信会僧侶に、次のように言わせている。  「三ケ月氏が、二度ならず三度までも創価学会寄りの鑑定書を作成している事実を知ってる者から見れば、三ケ月氏の法務大臣の椅子を色眼鏡で見ざるをえません」  「創価学会寄りの鑑定書」と簡単に言ってくれるが、これ自体、三ケ月氏への名誉毀損にあたる暴言である。そもそも、法学者が依頼されて鑑定意見を出すことは常識的なことで、不当なことでも何でもない。依頼された学者は、裁判の経過を検証し、中立的な立場から自らの鑑定意見を書くのである。それをあたかも、意図的に創価学会に有利な鑑定書を作成したかのように言う――法学者に対する最大級の侮辱であろう。  依頼されて書いた鑑定書が、裁判でたまたま学会側に有利に働いたとしても、それだけでは三ケ月氏を「回し者」呼ばわりする根拠としては、あまりに弱い。  「回し者」とはまた古めかしい表現だが、『広辞苑』を引くと、「間者。間諜。いぬ。スパイ」などと記してある。かりにも一国の大臣をつかまえて、週刊新潮は「いぬ、スパイ」呼ばわりしたのである。しかも、根拠らしい根拠すらなく……。たまたま学会がらみの鑑定書を書いたばっかりに、週刊新潮の創価学会バッシングに巻き込まれた三ケ月氏は被害者なのである。  また、公明党が三ケ月氏の閣僚入りをゴリ押しした、という記述の根拠もまったく見あたらない。明治学院大学助教授の川上和久氏は、著書『情報操作のトリック』(講談社現代新書)の中で、この記事に触れて次のように書いている。  「国務大臣である法務大臣の起用に関する強引なねじ込みは、もしあったとすればその時にメディアがキャッチするはずだし、連立与党の側からも、この起用が公明党サイドの働きかけだったという話はまったく聞かない」  そして、果たして週刊新潮の記事には、連立政権側はおろか、野党側の議員のコメントも一切登場しない。もし本当に「ねじ込み」があったなら、一人くらいその様子を証言してくれてもよさそうなものだ。  また、ルポライターの佐藤友之氏は、『創価新報』(九四年三月二日付)に寄せた原稿「死刑と報道」で、まったくちがう角度からこの記事のいいかげんさを暴いている。三ケ月氏は名うての死刑推進論者であり、いっぽう、公明党や創価学会には死刑廃止に真摯に取り組んでいる人が多い。だから、公明党が「死刑推進派の人間を法相にかつぎ出すはずがない」との主張である。佐藤氏の意見を引用する――。  「わたしはこうしたデータをもとにヨタ記事と判断した。三ケ月が本当に創価学会の『回し者』なら、死刑廃止に向けて積極的に行動したろう」  実際には、九三年一一月、三ケ月法相の命令で四人の死刑囚が処刑されているのだ。  自ら死刑廃止に長年取り組んできた佐藤氏の言葉には、重い説得力がある。いっぽう、週刊新潮の「ヨタ記事」には、どれほどの説得力があるだろうか? 安手のスパイ小説並みの語彙で、「秘密組織」を夢想する幼児性 〈外務省の「池田大作」機関〉(九三年九月三〇日号)  いやはや、じつにおどろおどろしいタイトルである。中身もそれ以上にスゴイ。「外務省は明らかに池田大作に私物化され」つつあり、そこに入りこんだ学会員官僚は、池田氏の世界戦略のため、日夜奮闘しているのだという。外務省内には、学会員の外務省職員が集まる「秘密組織」もあるのだという。そして記事は、「池田による外務省私物化」を象徴する事例として、九三年九月の池田氏の訪米で、学会員官僚がいかに大きな役割を果たしたかを報じている。池田氏とクリントン米大統領との会談を実現すべく、彼らはさまざまな“裏工作”をしたのだという。  こうして記事を要約してみると、まるで、安手のスパイ小説の類である。日本の政界を裏で操る“ドン”(「影の総理」と呼ばれていたりする)が、自分の手駒をさまざまな組織の要所要所に据えていて……とまあ、そんなイメージ。週刊新潮の記者は、この記事を書いていて、アホくさいとは思わなかったのだろうか? 一宗教団体のトップが外務省を「私物化」できると、本気で思っているのだろうか?  もっとも、記事の細部に目を向ければ、おどろおどろしいタイトルとは裏腹に、どうってことのない内容である。  週刊新潮の言う外務省内の「秘密組織」とは、学会員の外交官・外務省職員が集う「鳳会」という親睦組織があるというだけのこと。それがあったらどうだというのだろうか? 学会には、芸能・芸術関係者の会員が集う「芸術部」という組織もあるし、農業従事者の会員が集う「農村部」もあると聞く。同じ職業につく会員たちが集って語り合うことの、何が問題なのだろうか?                     ◆  「鳳会」を、「秘密組織」「私兵部隊」と呼ぶからには、同会が何かよからぬ策謀を巡らしていると考えるに足る根拠がなければならない。週刊新潮は、「鳳会」のメンバーが、池田・クリントン会談の実現に向けて裏工作をしているかのように書いているが、その根拠は、例によって得体の知れない匿名コメントだけなのだ。登場するのは、「学会内部のさる事情通」「学会内部のある幹部氏」「元公明党幹部」「別の学会内の事情通氏」の四人。いや、名前もないのだから、四人いるのかどうかもアヤシイ。一人の「幹部氏」のコメントを振り分けているだけかもしれないのだ。  そして、記事をよくよく読み返してみれば、内容の主要な部分は、すべてこの四氏の匿名コメントが根拠となっているのだ! 池田氏がクリントン大統領との会談を狙っているという話、「鳳会」のメンバーが要人との会談の裏工作をしているという話など、肝心な部分はすべて匿名コメント。そして、実名や部署名で登場するコメントは、記事の内容を否定するものか、記事の大筋とは関係のないコメントばかりなのである。  それらのコメント以外に登場する「事実」はといえば、訪米した池田氏を、外務省のロス総領事が空港まで公用車で出迎えたという内容のみ。週刊新潮は、たったそれだけのことを、まるで大事件のように騒ぎ立てる。外務省が池田氏によって私物化されているから、このような出迎えがなされたのだ、と言うのだ。だが、数々の民間外交の成果を上げている池田氏を、総領事が出迎えたとして、なんの不思議があろう。  そもそも、この九三年九月の訪米の主要目的は、池田氏のハーバード大学での二度目の講演であった。そしてそれ以外にも、ボストン、カナダでは、各大学での公式行事でスケジュールはびっしりつまっていたという。  記事の本筋とは少し離れるが、この記事の中に、次のような聞き捨てならない記述があった。  「池田氏といえば、女性問題をはじめ法廷闘争にまで発展した数々のスキャンダルの当事者である」  「スキャンダルの当事者」だって? 池田氏の「女性スキャンダル」を捏造して報じた『月刊ペン』が、学会から名誉毀損で訴えられたことを指しているのだろう。だが、あの「法廷闘争」は、学会側が原告となり、勝訴したケースである。訴えた側、勝訴した側を「スキャンダルの当事者」呼ばわりするとは、ずいぶん都合のいいすり替えもあったものだ。  被害者を加害者にすり替える――これは、週刊新潮の常套手段である。  匿名コメントでデッチ上げた“裏工作”で、創価学会が何かとんでもないことをやらかそうとしていると煽る情報操作。週刊新潮のこの“裏工作”のほうが、よっぽど問題だ。 「噂」なんだから何を書いてもいいという“怪文書”雑誌 〈創価学会「民族大移動」を噂される「選挙区」〉(八三年一二月二二日号)  この記事は、タイトルにわざわざ「噂」と銘打っている。「噂」を平気で記事にすること自体、メディアとしての自殺的行為なのに、さらに始末の悪いことには、「噂」なんだから何言ったって責任なんかないのさ、といわんばかりに、「公明党・創価学会」を選挙の度に住民票移動をやる“犯罪者”と断定して「妖怪」と罵倒する。  リード文では、〈日本をいま、一匹の妖怪が蠕動している。「公明党・創価学会」という妖怪が〉と騒いで、〈少々大袈裟にいえば、投票日直前の日本全国が「公明党・創価学会」の「民族移動」の噂で持切りなのだ。たとえば、東京一区では八千票、千葉四区では五千票、京都一区では二千票、兵庫県では瀬戸内海を渡って四国香川県からの「民族移動」があった……〉という調子で、具体的な票数まで出して、露骨な反公明党・反創価学会の攻撃を行なっている。  記事の趣旨はこうだ。「前回衆院選で、公明党が失った二十五議席のうち、二十四までは次点で、あと一歩でした」「当選はしたものの、逆にわずかの得票差で、かろうじて議席を守った選挙区もありました」という公明党機関紙『公明新聞』の記事を出発点に、公明党は「守るも攻めるももう五千票上乗せできれば、五十台の議席を確保できる」という読みだ、と勝手に決めつけている。  そして、「『もう残る手段はあれしかない。公明党・創価学会には“民族移動”という伝家の宝刀があるではないか』と他の政党が警戒心を抱くのもこういった事情からだった」と、誰が言ったでもない主張をのせて、公明党に疑惑を抱かせるように細工したものだ。  取り上げられた選挙区は、干葉四区、東京一区と十区、京都一区と二区、愛知一区と六区。  一応、取材をしている風を装っているが、「噂」を流している発信者はすべて、公明党と選挙を争う対立候補の陣営の人たちだ。                     ◆  「こんどの選挙も、公明党は候補者のいない選挙区から大量に住民登録を移して、選挙にそなえていることはご承知だと思います」  と、自民党東京十区の島村宣伸候補の個人演説会での発言を取り上げ、さらに同候補は、“中曽根首相が、年内解散に踏み切らざるを得なかった裏の理由として、公明党の「民族移動」による裏取引があったことを暴露した”というのだから、これが本当なら国政をゆるがす大スキャンダルだ。  「それは創価学会の投票です。大量に住民登録を移したのはいいんですが、中曽根さんのいう通り(選挙が)一月一日を越えたら、子供さんの学校は、住民登録を移している先でいろいろ指定されてしまう。納税申告、その他いろいろ不便なことがでてきちゃう。だからもし、年内選挙やってくれないんだったら、仮に四万票、四万人の創価学会の人を三万人移しているんですが、残りの一万人を自民党の対立候補にぶつける、とこういう圧力をかけられた。それをやられたら自民党はおっこっちゃう。年内解散の裏には、こういう裏取引があるんです」(島村発言)  この嘘八百の暴言に怒った公明党(当時)が「事実無根だから訂正し謝罪せよ」と抗議すると、島村陣営の幹部は、  「島村本人には、訂正も謝罪するつもりもございません。本人は、物的証拠はないが、極めて信頼できる筋から得た情報にもとづいて話したことで、事実にまちがいないと確信しているということです」  と、平然と述べている。「物的証拠はないが」「まちがいないと確信している」とは、すごい論法だ。  さらに、週刊新潮は、「東京十区のどの選挙事務所に聞いても、『公明党の“民族移動”は選挙の常識だよ』という声が返ってくる」と述べて、いかにも「噂」が“公然たる事実”のごとく思わせるように細工している。  以下は、止めどない中傷発言に終始するばかり。  愛知一区の保守系候補の参謀には、悪意を込めてこう語らせる。  「始まったのは参院選直後。市営団地のようなところで、空いていた部屋がどんどんふさがり始めた。自治会長さんで気づいた人もいたようですが、今度のは手がこんでましてね。ちゃんと家財道具まで運び込み、表札を出し、町会費まで払ってる。形だけとはいえ、そこまでやられると、先日の最高裁の判断が出ても、無効だと訴えるのは難かしいと見てます」  なるほど、そこまでやれば“選挙のための住民票移動”とはみなされないのか、と逆に納得させられる。この「参謀」なる人は、自分の体験を語っているのではないか、と勘ぐりたくなるような発言だ。しかし、チョッと考えてみるとずいぶん変な話だ。市営住宅というからには民間アパートと違って、入居にもきちんとした手続きがいるだろうし、空き部屋の募集も一定の時期に行なうわけだから入居者が一時期に集中するの当然である。それが、どうして公明党・創価学会の選挙のための住民票移動と断言できるのか? 第一、こんな手間とお金がかかることを学会員に強要したなら、反発されるのがオチだ。  京都二区の革新系候補の選対責任者には、こう語らせる。  「京都は、一、二区ともに学会員が急増しているという話があります。京都府の北部から入った情報ですと、舞鶴では二千人の住民票移動が行われたということです」  やはり「話があります」というレベルで、どうにも実態がない。その舞鶴の革新陣営には、  「舞鶴では住民票移動はないようですね。選管に聞いても有権者数の増加はないということでした。なんでも、大量に有権者をかかえて、人口が急増している京都市の南の方、伏見や長岡京の方でそういう動きがあるという話ですが」  と言わせているが、はっきりと「舞鶴で住民票移動はない」ことを主張しているではないか。  問題はここだ。「舞鶴では二千人の住民票移動が行われた」という“噂”を前置きにして、次に同じ舞鶴の人間に「住民票移動」を否定する発言をさせる(これが逃げだ!)。ところが、「伏見や長岡京の方でそういう動きがあるという話」を付け加え、“住民票移動があった”かのようなニュアンスで締めくくっているのである。「住民票移動の事実はない」と言いながら、「さもあるような疑惑」だけを残すようにつくっている。真相はどこまでいっても“藪の中”、これが週刊新潮お得意の手口である。                     ◆  干葉四区の場合は、「千葉を変えよう!県民の会」の代表、宮川淑・独協大教授のコメントを取り上げている。  「調べてみると、奇妙な数字が出てきたわけです。干葉四区の有権者の数は、選挙のある年とない年とでは、増え方がちがうんですね。だいたい五千人ぐらいの差が出てくる」  と述べ、週刊新潮は、「五千人」という数字を、自分が勝手に憶測した「公明党の読み」と結び付けて“疑惑”に仕立てている。  ところが、同じく宮川教授は続けて、  「ぼくは公明党が住民票を移しているとは一言もいっていませんよ、公明党というだけの証拠は何もありませんからね」  とも言っているのだ。週刊新潮は得意の手口で、一人の人間の“アヤシイ”という発言と“証拠はない”という、正反対の発言を巧みに結び付けて、「疑惑だ」という記事づくりをしているのだ。  次に、自治省選挙課の「完全に違法行為ですが、事実認定が極めて困難なケース」というコメント。週刊新潮はこれを勝手に拡大解釈し、「目下のところ積極的に調査、再検討する姿勢はまるでない」と、自治省選挙課の発言を論評している。そして「妖怪どもの哄笑が聞こえてくるではないか」と「噂」をいつのまにか勝手に“事実”にすりかえ、あろうことか「公明党・創価学会」を「妖怪」と罵倒してかかる。  「住民票移動」など、どこにも“事実”も“証拠”もなく、「噂」に過ぎないからから自治省は調査しないのだ。ところが週刊新潮は、意図的にそれを歪曲し、選挙の反公明党陣営の流す作為的な「噂」を、必死に拡大している。  この問題についての中島源夫・公明党選挙対策事務局次長のコメントは明快だ。  「選挙の度に、そういうことをいわれたり、書かれたりしていますが、現実問題としてそんなこと不可能ですよ。何千人もの人間を、指一つで移動させるなんて非常識な事はできません。住民票の移動は過去においてもありませんし、現在もありません」  確かにそうだ。「五千人」などという単位の住民票移動をすれば、住んでいる住民はすぐわかるし、役所だってすぐ気付く。こんな非常識を、ことさら強調する週刊新潮の“常識”が問われよう。  本来、「噂」の発生源を調査してその謀略を暴くことがマスコミであるはずなのに、その「噂」を積極的に広めようとやっきになっている。これでは、まるで、選挙が近くなって反対陣営攻撃のためにばらまかれる誹謗中傷の“怪文書”と同じではないか。いや、週刊新潮はまさに、そのテの雑誌なのである。 攻撃の材料がなくとも、勝手に“火”をつけて騒ぐいつもの“連中” 〈長男を後継者にする「池田大作」の落日〉(九〇年五月三・一〇日号)  例によって、「池田名誉会長が長男・博正氏を次期会長にしようとしている」という世襲制ネタである。池田博正氏が、九〇年三月の人事で副総合青年部長に就任したことにふれ、鬼の首を取ったように、これこそ世襲制の証しだ、と騒いでいるわけだ。  しかし、今回の記事が一風変わっているのは、“池田大作名誉会長は世襲どころではないくらい、その地位と権勢はゆらいでいて「落日」を迎えようとしている。そこで、焦りからか、博正氏を後継者にしようと強引な人事工作をやっている”と主張している点である。しかも、その「落日」の証拠が「ニセ本尊事件」だというのだからあきれてしまう。  最初から最後までデッチ上げなので話が見えなくて困るのだが、まず世襲制批判――。  どうやら「創価学会ウォッチャー」は、池田博正氏は、この時の人事で「副会長」になると予想していたものとみられる。もっとも、毎度おなじみの、何の根拠もない思い付きである。その証拠に、池田博正氏が就任したのは「副総合青年部長」のポストだったため、あわてて言いわけしている。  内藤国夫が言う。  「副会長昇格は見送られた形になりましたが、ある意味で、副総合青年部長というのは、副会長就任という予想を上回るものだったともいえるんです」  「副会長」という予想がはずれた腹いせか、開き直ってわけ知り顔で吹きまくっている。  「副会長は現在百二十数名もいるのに対し、今度新設されたポストは青年部のナンバーツー。大作自身、青年部の参謀室長時代にメキメキ力をつけたと言われていますから、長男にも同様の道を辿らせようとしている、とも言える。とにかく、この人事によって博正が後継者に向って数歩前進したことは確かです」  と、どうしても“世襲制だ”と言い張るわけである。まったく、誰も内藤に譲ろうなどと言ってるわけじゃないんだから、そこまでムキにならなくていいよ。  何より、当の創価学会の広報室が、  「後継者ウンヌンの話も勝手な憶測で言われているだけでしょう。名誉会長が明確に言っておられるように、世襲ということはありえないんです」  と明確に述べているではないか。  ところが、週刊新潮は「公式発表をどこまで信じてよいのやら」と勝手に疑う。こういうのをゲスの勘ぐりというのである。このように、公式発表さえも疑い、反対に自分たちの勝手な思い込みと決めっけで事実をごまかそうとしている。  この無理な憶測の上に立って、さらに、元創価学会教学部長で脱会者の原島嵩が、好き放題に言ってのける。  「最近の大作は六十歳を超えて、かなり焦っているんではないですか。自分の目の黒いうちに、学会の財産イコール大作の財産を肉親に受け継がせたいということでしょうね。金を握ることが力を握ることだ、という発想の人ですから」  「世襲を実行したその時から、大作の崩壊は急ピッチで進んで行くと見ています」  自分たちの勝手な憶測で「池田は世襲制をもくろんでいる」とわめきながら、自分たちで「そんなことできっこない」と決めつけて攻撃するのである。疲れる精神構造だ。                     ◆  さらに「落日」というタイトルをつけた根拠にあげたのが「ニセ本尊事件」。  ルポライターの段勲が登場して言うには、  「これは、学会の副会長(注・牧田隆)が、『福田』という日蓮日興会の機関誌で告発した事件で、内容は、四十三年、富士宮の正本堂建立記念に売り出された“特別御形木御本尊”のニセ物が出回っているというものです。ニセ本尊を作ったのは池田大作で、二十一億を儲けたというんですね。告発文では、ニセ物は約十五万体となっていますが、私の試算では四十万体以上はあると思う。このスキャンダルは、言論妨害事件や池田の女性問題の比ではない。宗教の根幹に関わる大問題ですよ」  よく言ってくれるよ、この大嘘つき。  『福田』の編集者の一人であった梅沢十四男氏は、『新雑誌X』平成三年七月号に、「牧田隆というのは結論からいうと存在していません」「“副会長の造反”という形にすればマスコミも取り上げるに決まっている、イケイケでもってやったわけです」そして更に「それに乗ったのが段勲。乗ったというかむしろ火をつけたわけですよ」「まだ現物ができていないものを、もう出来たという形で段さんがマスコミに発表した」と段勲がマッチポンプしたことを、暴露してしまった。“マッチポンプ”の段も、編集者にまではあえて口止めしていなかったとみえる。  四月八日付『夕刊フジ』の「副会長が機関誌にペンネームで強烈パンチ」に始まって、『週刊実話』『週刊文春』『諸君』『東京スポーツ』が次々に取り上げた創価学会「ニセ本尊事件」キャンペーンは、マッチポンプ段勲と、嘘を平気で載せる一部マスコミが結託して行なった謀略宣伝攻撃だったわけだ。  ともかく、この記事の特徴は、最初から最後まで、内藤、原島、段という反創価学会・売文屋たちの勝手な憶測で書かれた記事だ、ということだ。事件自体をデッチ上げ、“池田名誉会長が考えているであろうこと”を勝手に想像し、“そんな無理なことできるもんか”と攻撃してくる。ここまでひねくれた精神構造で、記事が捏造されていることに、読者だって気が付かないわけがあるまい。  「また嘘をついている」……そう言われないよう、週刊新潮は「創価学会ウォッチャー」を今のうちに整理しておいたほうが、いいんじゃないの? 第三章 リード文で勝手に断定する 元閣僚の言うことなら信用できる? 証拠もなく断言する「脱税」報道 〈「ミッチー節」がバラした創価学会「脱税」のモミ消し〉(九三年一二月九日号)  ミッチーこと渡辺美智雄・元副総理が、九三年一一月二六日の講演会で、「これまで自民党は、法案に賛成して貰うために創価学会の脱税をもみ消したりした」と“爆弾発言”したことを報じた記事である。見ての通り、タイトルにクエスチョン・マークすらなく、創価学会の「脱税」が既成事実として扱われている。だが、中身を読むと、不確かな、そして悪意に満ちた憶測ばかりが目立つ。  リード文にはこうある。  〈元副総理兼外相で過去には大蔵大臣も務めた人物が、ここまで口にしたのである。時の政権による「脱税のもみ消し」というスキャンダラスな行為が、過去に行われてきたのは間違いない〉  周知のように渡辺元副総理はかつて、「野党支持者は知能指数が低い」などと数々の放言をしてきた前科がある。ところが、週刊新潮はこの発言の事実関係を追及するどころか、元閣僚の放言癖を渡りに舟と、粉飾してはばからない。  まさに、“待ってました”の世界。その勢いで「スキャンダラスな行為が、過去に行われてきたのは間違いない」と週刊新潮は断定してみせる。本文を読む前にすでに“創価学会の脱税はリード文で確定されてしまった”のだ。当然、本文ではその根拠が述べられていなければならない。  ところが、記事の中で当の渡辺元副総理に取材しているのだが、そこではなぜか「ミッチー節」がトーングウンしてしまっている。  「二十六日のあの(脱税もみ消し)発言は、自民党が何もかも創価学会の面倒を見てきたという過去のいきさつの中のだな、シンボリックな部分を言ってみたものなんだ。俺はやったことはないけどね」  講演会での発言では自ら脱税もみ消しに手を染めたような口ぶりだったのに、いつの間にか「俺はやったことない」に変わっている。当の本人が否定してしまったのだ。この、「シンボリック(象徴的)な部分」とはいったいどういう意味だろう? 事実ではなく比喩として「脱税」という言葉を使ったということなのか? 週刊新潮は、「ミッチー節がバラした」と言い、「大蔵大臣も務めた人物が、ここまで口にした」と煽り立てておきながら、よく恥ずかしげもなくこんな記事が書けるものだ。  しかも、このコメントの続きは、さらにトーンダウンはなはだしい。  「(脱税のもみ消しについては)具体的に知っているわけじゃないんだが、たしか湾岸戦争の頃話があったよ」  具体的に知らない噂レベルの話を、ミッチーはすべてを知っているように断言してみせたのである。やっぱり、おしゃべり男の放言に過ぎなかったわけだ。この政治家の厚顔無恥も度しがたいが、それ以上にひどいのは、週刊新潮の報道姿勢である。ミッチーのこうした卜ーンダウンぶりを知りながら、タイトルやリード文ではそ知らぬ顔で、創価学会の脱税が証明されたかのように書く。中身を読めば「なーんだ」ということになるが、リードまでしか読まない“半読者”には、「創価学会は脱税している」というイメージだけが植えつけられるというわけだ。  「創価学会の脱税」をにおわせるこのテの記事ほど、週刊新潮の偏向ぶりを如実に示したものはない。要は、最初から「創価学会が脱税している」という前提のもとにつくられているのだ。  例えば、この〈ミッチー節〜〉記事には、次のような記述がある。  「(平成三年のルノワール絵画疑惑の際には)その使途不明金が池田大作氏の懐ろに入った疑いが持たれ騒がれたのである。で、東京国税局は裏金解明のための調査を再開した、と伝えられ一時は期待もされたのだが、やはり見るべき成果はないまま終了。創価学会の難攻不落ぶりを見せつけただけだった」  まず事実として、創価学会は過去一度も脱税で摘発されていない。国税局の税務調査が二度ほど入ったが、いずれも結果はシロだった。二度も税務調査が入ってシロだということは、学会の経理に何らうしろ暗いところはないということだ。ところが、週刊新潮はそうは考えない。「創価学会の難攻不落ぶり」――すなわち、脱税していながらなかなかボロを出さないしぶとさとして見るのだ。しかも、言葉のはしばしに、「学会が脱税で摘発されればいいのに」との悪感情が見え見えである。  週刊新潮は、「容疑者」でもない学会を「犯人」扱いし、“どうせ学会は悪いことをしているに決まっているから、早く捕まればいいのに……”とくり返し言っているわけなのだ。  さらに週刊新潮は、臆面もなくこう書く。  「実は、この二回目の、一連の調査(国税局の税務調査)の際にも『政治的圧力』が加わったという噂が広がってはいたのだが、ミッチー発言がその噂に太鼓判を押した関係になるのである」  「噂に太鼓判」を押したミッチー発言も、「(脱税のモミ消しについては)具体的に知ってるわけじゃ」なく、じつは噂に過ぎなかった……とは、何ともしまらないオチではないか。 裁判所の示した判断までねじ曲げる、恐るべき宗教蔑視 〈創価学会奥の院を直撃した「ご本尊」ニセモノ告訴の破壊力〉(七六年四月一五日号)  関係者の間では「松本勝弥裁判」と称されている、学会に対して起こされた寄付金返還訴訟が過去にあった。昭和四七年一一月、元民音職員松本腰弥が、正本堂(創価学会の寄進によって建てられた、富士大石寺内の建造物。日蓮大聖人が認めた本尊が安置されている)建立のために出したご供養=寄付金を返還せよとの訴えを起こしたものである。正本堂に安置された本尊がニセモノだとする意見が一部にあり、“ニセモノならば、正本堂建立のために集めた寄付金を返すべきだ”と言うのが松本の主張であった。  本尊の真贋をめぐって、信者が宗教上の寄付金の返還を求めるという、前代未聞の裁判であった。記事は、この裁判が一審、二審を経て地裁に差し戻された時点で書かれたものである。  この裁判自体、宗教上の問題を扱った非常にデリケー卜な性質のものであり、週刊誌記者ごときが軽々に正邪の判断を下せるものではないはずだ。だが週刊新潮は、記事の中で一貫して松本の肩を持ち、裁判に事よせて、思う存分学会をなじってみせたのである。  しかも、捨て置けないのは、記事のリード文で裁判所の示した判断をねじまげて紹介している点だ。  〈近来マレに見るおもろい裁判ではなかろうか。(中略)たとえていうなら、イワシのアタマを霊験あらたかなご本尊のように宣伝して、金を集めるインチキ宗教は取り締らねばならぬ――というような考えを裁判所が示したのである。「イワシのアタマも信心から」という宗教の本質(?)が否定された、ともいえるだろう。問題になっているのが創価学会であるのはいうまでもない……〉  週刊新潮がこの裁判を面白がるのは勝手だ。しかし、記事の企画意図に合わせて、裁判所の判断までねじまげているのは許しがたい。裁判では、大石寺の本尊がニセモノであるとの判断も示されていないし、創価学会を「金を集めるインチキ宗教」とも言っていない。                     ◆  実際には、二審で東京高裁が示した判断は次のようなものであった。  「憲法二〇条は信教の自由を保障することを目的とし、国が宗教に対し中立的な立場にあることを明らかにしたものであり、宗教上の行為だからといって、これに財産上の権利の存否をめぐる紛争がからむ場合に、その司法上の救済の道をふさぐことは、宗教団体に政治上の権力の行使を認める結果になり、かえって同条の趣旨に反することになる」(要旨)  一審では、宗教上の問題は裁判になじまないとして原告敗訴の判決が下された。この二審判決はその判断をふまえたもので、たとえ宗教上の問題であっても、お金がからむ場合には「実体的審理」を尽くすべきとしたのであった。その結果、一審判決は取り消され、審理は地裁に差し戻された。  要するに、“地裁は「審理」を尽くしていないからやり直せ”と、高裁が言っただけである。誰も本尊がニセモノだなどとは言っていないし、ましてや創価学会をインチキ宗教とも言っていない。週刊新潮が勝手に“拡大解釈”しているだけのことだ。それならそうと、インチキ宗教うんぬんは週刊新潮の意見だと断ればよいものを、あたかも裁判所が創価学会をインチキ宗教と“認定”したかのように書く――ドサクサにまぎれて勝手にリード文で断定してしまう。週刊新潮のこうしたやり口は、もはや犯罪的だ。  しかも、地裁に差し戻しになったというだけのことなのに、週刊新潮は学会側が完全に敗訴したかのように書き立てている。  「『完勝』とばかり思っていた『大御本尊』問題の二審が、逆に『完敗』という結果」と。  だが、この「松本勝弥裁判」は、差し戻し判決のあと学会が最高裁に上告、昭和五七年一一月、学会側の勝訴で結審した。  週刊新潮の論法でいけば、学会がインチキ宗教ではなく、本尊もニセモノではないと裁判所が認めたことになる。さて、この点、週刊新潮は、インチキ報道を読ませられた読者に対して、どう申し開きするつもりなのか? 「風聞で記事を書いて何が悪い!」という手のつけられない開き直り 〈「池田スキャンダルは風聞」の論告求刑が触れない「証拠」〉(八三年三月一〇日号)  学会がらみの裁判の報道では一貫して反学会側に立つのが、週刊新潮の基本スタンスである。前項の「松本勝弥裁判」に限ったことではない。『月刊ペン』が池田名誉会長の“女性スキャンダル”を捏造して名誉毀損に問われた裁判でも、週刊新潮はやはり一貫して『月刊ペン』側に立ったのだ。  『月刊ペン裁判』は、八三年六月一〇日に差し戻し審の判決が下り、学会側の勝訴に終わった。この記事はその少し前に出たもので、検察側の論告求刑にイチャモンをつけた内容である。  この裁判で『月刊ペン』が出してきた証人は、小沢よね、山崎正友、原島嵩などの脱会者、及び反学会の立場にある者ばかりで、しかもその証言内容の大半は風聞・伝聞であった。検察側の論告求刑はその点を衝いたもので、「証人らは反学会の立場にあり、内容は伝聞、風聞などで信用できない」としていた。  ところが週刊新潮は、リード文で、それに噛みついているのである。  〈検察側の“有罪の論理”は、どう見てもへ理屈としか思えない。伝聞、風聞だから信用できないというのなら、一流新聞だって信用できないことになる。ジャーナリズムというのは、たいがい伝聞と風聞で構成されているものなのだ。まして、反学会だからダメだというなら、学会員以外は“真実”を語れないことになりはしないか。そんなバカな……〉  このリード文には、いつものおちょくり調の文体よりも、ややヒステリックな調子が感じられる。週刊新潮はムッとしているのである。なぜかといえば、“反学会の立場”にある者ばかりをひっぱり出してきたり、“伝聞・風聞ばかり”で記事を構成するのは、週刊新潮の創価学会報道の常套手段であるからだ。検察側の論告求刑は、週刊新潮の記者にとっても耳の痛いものだったにちがいない。“週刊新潮の記事も信用できない”と言われているように聞こえたのだろう。だからこそ、この記事でヒステリックに検察側に噛みつき、自己正当化せずにはいられなかったのだ。                     ◆  だが、このリード文にみる“週刊新潮の論理”こそ屁理屈であり、悪質な開き直りである。  というのは、まず「反学会だからダメだというなら、学会員以外は“真実”を語れないことに」なるとは、ずいぶんと飛躍した論法である。この記者の頭には、反学会と親学会の二つの立場の人間しか浮かばないのだろうか? 世の中には、反学会でも親学会でもない中立的な立場の人間がいくらでもいる。まさに検察側は、そうした人間を証人に出すべきだと言っているのだ。  また、「ジャーナリズムというのは、たいがい伝聞と風聞で構成されているもの」だとは、開き直りもきわまった言いぐさである。伝聞を「人から聞いた話」として考えれば、なるほど、新聞だろうと雑誌だろうと、「人から聞いた(取材した)話」が主になって構成されてはいる。しかし、同じ伝聞であっても、信ずるに値する伝聞と、そうでない伝聞があるはずだし、アヤシゲな伝聞のウラを取って信憑性を推し量るのも、ジャーナリズムの仕事のうちではないか。週刊新潮の言いぐさは、“しょせんジャーナリズムは伝聞で成り立っているのだから、ウラなど取る必要はない。信用してもらわなくともけっこう”と開き直っているに等しい。  本文中にも、同様の開き直りがある。名誉会長と渡部通子議員のことを、  「よほどの内部告発者でも登場しないかぎり、(中略)“証拠物”は出てこないのである。しかし、出てこないからといって、(中略)シロというわけにはいかないのがジャーナリズムなのである。たとえ伝聞や風聞であっても、その情報を何ケ所かにトレースし、信じるに足るものと判断すれば、記事にすることもあり得るのがジャーナリズムの『常識』といってもよい」  ずいぶん傲岸不遜なジャーナリズムもあったものだ。確たる証拠もなく、宗教団体のトップの女性スキャンダルをデッチ上げて報じるのが、ジャーナリズムなものか。まともなジャーナリズムは、まともなテーマを、まともに取材してまともに報じるものだ。  そもそも、検察側が言っているのは、あくまで法廷での証言内容についてであることも見逃してはならない。法廷で伝聞を証拠として認めるかどうかの証拠能力が厳しく問われるのは当たり前の話である。それをもって言論の自由が制限されるなどと言うのは、論理のすり替えでしかない。 盗み録りテープを使った国会議員の学会攻撃を援護射撃するのはなぜだ 〈国会で公開ストップとなった「池田大作テープ」の内容〉(九四年六月九日号)  タイトルに言う「池田大作テープ」とは、九四年五月二四日の衆院予算委員会・総括質疑で、自民党の亀井静香議員(運輸相)が質問の中で使ったテープのこと。池田名誉会長の、学会の本部幹部会でのスピーチを録音したものである。質問に立った亀井議員は、このテープを突然流し、スピーチの内容をネタに、公明党と学会との“政教分離問題”を追及してみせたのである。  事前に許可を得ていなかったため、テープは数秒間で止められた。この記事は、そのテープの内容を改めて紹介し、学会・公明党の政教一致批判につなげたものだ。つまり、亀井議員の尻馬に乗って、国会質問での学会攻撃を誌上で念入りに再現しようというのである。リード文にいわく――。  〈「公明党の人事は池田氏の意向で決まっているのではないか」。衆院予算委員会でそう斬り込んだ亀井氏は、大作サンの肉声入りテープを再生しようとした。委員会ではストップが掛ったが、内容をあらためて聞くと、それはまさしく、「政教分離」はマヤカシ、ということの証明に他ならない〉  週刊新潮のリード文はいつもそうだが、「まさしく『政教分離』はマヤカシということにほかならない」というように勝手な断定が特徴だ。リード文でこういうからには本文ではその証拠がくわしく書かれてあるのだろうと誰もが思ってしまう。イヤ、そう思わせるためにつくられている。                     ◆  テープは、九三八月八日、長野で行なわれた学会の本部幹部会でのスピーチの模様を収めたものだという。  まず問題なのは、このテープが出所不明であり、まぎれもなく盗み録りされたものであるということ。そんなテープを国会質問に使う亀井議員の見識を疑いたくなるが、それを記事に再利用する週刊新潮も週刊新潮だ。  では、本当にそのテープの内容が政教一致の証拠たり得るものかどうか、記事を読んでみると……。  “亀井質問”の目玉となったのは、スピーチの中の「大臣は皆さんの部下」という池田氏の発言に触れた部分であった。亀井議員は「創価学会幹部の部下だと池田大作さんは言っておられる」と、鬼の首でも取ったような口調で言った。これぞ政教一致の動かぬ証拠、というわけだ。しかし、この発言はことさら問題視すべきほどのものだろうか? 「皆さん」を「創価学会幹部」と言い換えたのは亀井議員の意図的なすり替えであって、池田氏の発言は「国会議員は国民に奉仕すべき公僕である」という、ごく当たり前の常識を述べたものに過ぎない。  また、亀井議員は、池田氏が細川連立政権の閣僚人事に事前に関与していたと決めつけたが、これもあまりに短絡的だ。亀井議員が“事前関与説”の根拠としたのは、同じスピーチの中で、池田氏が長野県婦人部長の夫を「労働大臣、総務庁長官、郵政大臣になってもいいくらいの素晴らしいご主人」と誉めたたえた部分。だが、このたとえに出された閣僚ポストがその翌日発表された公明党のそれと一致していたから、池田氏が事前に関与したにちがいない、という理屈である。  週刊新潮も、亀井質問で取り上げられたこの二つの発言を紹介し、次のように書いている。  「池田氏は閣僚名簿の内容を事前に承知していて、その上で、さらに党史上初の大臣たちを、学会員の部下だといってのけたのではないのか」  だが、月刊誌『TIMES』の九四年五月号で、創価学会の原田稔副会長は、“事前関与説”を次のように否定している。  「名誉会長のスピーチは新聞の予測記事を元にしての話です。組閣前日の読売新聞や毎日新聞で一致した予想が出ていました。それらをもとに、午後の私どもの会合で話したものです。それを捉えて閣僚人事を事前に知っていたなどと言われるのは、全く見当外れですよ」  このスピーチが行なわれたのは九三年八月八日の午後。組閣は翌九日である。八日付の読売と毎日の朝刊には、確かに、公明党の閣僚ポストについて、池田氏の発言と一致した予測が載っている。自らが創立した公明党の、初の閣僚入り。それを予測した新聞記事を見て、池田氏がスピーチでそれに触れたとして、なんの不思議があろう。ことさら問題視するほうがおかしいのだ。  週刊新潮の記事でも、羽田内閣の建設大臣となった公明党(現・新進党)の森本晃司議員が「(池田氏が大臣ポストを言い当てたのは)新聞の予想記事をふまえての発言だと思います」とコメントしている。  にもかかわらず、週刊新潮は、八月八日付の朝刊の記事についてはいっさい触れず、森本氏のコメントも黙殺している。都合の悪いことは見ないふりをして、都合のいい証言のみを強調する。しかも、亀井議員には改めて取材をかけ、こちらはその言い分をたっぷり報じてやっているのだ。  要するにこの記事は、政治家(亀井静香)と反学会メディア(週刊新潮)による、学会攻撃の“連携プレー”のほんの一例なのだ。 “学会員を公務員にするな”という暴論 〈創価学会に占領された「東村山市役所」の歪み〉(九五年二月九日号)  このリード文とタイトルは強烈である。まず、リード文の全文を見てみよう。  〈創価学会という集団の恐ろしさは、その凄まじい「金集め」や選挙の際に示される「団結力」ばかりではない。いつの間にやら組織の中に入り込み、気づいた時には学会員だらけ、という蔓延ぶりをも見せるのだ。東京都下の東村山市でも市役所に学会員が増殖。今や「十人に一人が学会員」という声さえあるという。これでは、健全な自治体運営など夢のまた夢。行政の歪みが露呈するのも当然ではないか〉  このリード文の「創価学会という集団の恐ろしさは、その凄まじい『金集め』や選挙の際に示される『団結力』ばかりではない。いつの間にやら組織に入り込み、気づいた時には学会員だらけ、という蔓延ぶりをも見せる」とは、どういうことなのか。  まず、「創価学会という集団の恐ろしさ」の例として「凄まじい『金集め』や選挙の際に示される『団結力』」を挙げているが、何の根拠もなく言葉のイメージで学会をケナすやり口は、週刊新潮の常套手法。これは、まず学会に対する“偏見”があり、その偏見にのっとって記事がつくられていることを物語っている。  さらに、「いつの間にやら組織に入り込み、気づいた時には学会員だらけ」というのも偏見に満ちた表現である。創価学会に共感する人々が増えれば、当然、社会のいろんな分野に会員が存在するようになる。これはごく自然な成り行きである。それを、「気づいた時には学会員だらけ、という蔓延ぶり」とは、あまりにひどい差別表記、人権蹂躙の表現だ。まるで学会員が増えることを伝染病や何かのような言い方だ。  「東村山市でも市役所に学会員が増殖」という表現も同様で、これではガン細胞か何かのようである。  つまり、週刊新潮は「蔓延」「増殖」といった悪意や嘲笑を込めた言葉を創価学会に対して使用することで創価学会員を誹謗し、その名誉や人権を著しく傷付けているのである。これは、明らかな人権侵害である。  また、リード文は、本来、それ自体で一つの文脈として成立していなければならない。ところが、「十人に一人が学会員」であれば、どうして「健全な自治体の運営など夢のまた夢。行政の歪みが露呈するのも当然」なのか? その“どうして”という部分をまったく書かずに、いきなり「健全な自治体の運営など夢のまた夢。行政の歪みが露呈するのも当然」と断定できるのか? 偏見に寄りかかった強引な論法は、まさに怪文書の手法である。  あらかじめ「悪意」を持って書かれたこのリード文は、創価学会員が増えることは恐ろしいことで、気付いたときにはもう手遅れで、いつの間にかみんな侵されている、と言っているわけだ。  この記事について、東村山市の市川市長が新潮社の山田彦彌社長宛に「抗議書」を送付したのは、これが全くのデマであることを物語っている一つの証左だ。 第四章 匿名という便利な証言者 お金のことしか眼中になく、しかも「噂」にしか興味がない 〈「新本尊」下付で学会が「ン百億円」の金集め〉(九四年四月二八日号) 「またしても、創価学会が巨額の金集めを目論んでいるのだ」  と、勢い込む週刊新潮だが、今回はほとんどガセネタをつかんでしまったことが見え見え。  内容は、創価学会が新しく会員に下付することにした本尊について、それにあてこんで金儲けをしようとしている、というよくあるデマ話。  登場人物は全員匿名。そりゃあ、こんな嘘っぱち、名前を出しては言えないでしょうよ。  「ある地区幹部」は、  「表向きは希望者のみということになっているが、学会につくか、宗門につくかの踏み絵でもあり、半強制的なものなんです。そしてその際には、下付料の八千円に御供養を加えて、最低一万円は納めなければならない。全国でざっと四十億円くらいの金が集まるはずですよ」と、述べたという。  これは創価学会員なら皆わかる。はい、デッチ上げの発言ですね。  念のために調べてみると、新本尊は江戸時代の大石寺の貫首(法主)・日寛上人の書写による本尊である。  記事には、「希望があれば下付するというだけ。ご供養は三千円以上で、下付料はない」という、学会のコメントも載せている。  このコメントを載せておきながら、一方で「下付料の八千円に御供養を加えて、最低一万円は納めなければならない」という、デッチ上げをしている。これは週刊新潮のいつもの手口である。「三千円以上」が、いつの間にか「最低一万円」になってしまった。  つまり、本尊をダシにして学会がこんなにもアコギな商売をしていると言いたいわけだ。たしかに、そういうインチキ宗教はゴマンとあるはず。そっちを取材すれば、デッチ上げのボロも出さずに済むと思うのだが……。  言うにこと欠いて、こんなコメントも――。  「折からの不況で、集まりが悪かった去年の財務を、これで補填しようという狙いもあるんですよ」  「儲けるという字を分解すると信者になるが、学会にとって、まさに信者は儲けの源というわけです」  最後の、「儲けるという字」が「信者」というシャレは誰かの受け売りだろうが、その伝でゆくなら、嘘を書いて不信を煽って儲けようとする週刊新潮のほうが、よほどタチが悪い。  週刊新潮は、創価学会を「金満宗教」「暴力宗教」「政教一致」等と叩いてきたが、どれもタメにする中傷ばかりでいずれも「噂」に過ぎなかった。  これらの「噂」には一定のパターンがある。それは「噂」を流す者の心理が、「噂」自体によく現れる、ということだ。  例えば、かつて創価学会が「香典泥棒」だという噂を流したのは、学会の初期の布教活動時代の他宗の僧侶だった。彼らは葬儀や法要の席上で、「創価学会に入ると葬式のときに香典を全部とっていってしまう」といった内容の話をデッチ上げ、次から次へと口コミでエスカレートさせていった。檀家を奪われるのを危惧する心理が、「香典泥棒」という「噂」をつくり出したのだ。  また、創価学会を「暴力宗教」というのは、かつての創価学会員が布教活動している姿(学会で「折伏」と呼ばれる)を恐れる心理が生んだ「噂」にしか過ぎない。  同様の構図は、「政教一致」攻撃にもありありと見える。創価学会・公明党が「政教一致」であるといって騒ぐのは、たいがいタカ派政治家である。彼らの多くが、憲法改正論者であり、靖国神社公式参拝推進派で、戦前の国家神道の復活を目論む者ばかりだ。彼らは、自分自身が「政教一致」をめざしているがゆえに、創価学会・公明党もそうだと、勝手に邪推しているのである。だから、宗教と政治、と聞くだけで、すぐに国教化に結び付けてしまう。火のないところに煙は立たないのである。  週刊新潮は、ことさらこうした「噂」をネタに、創価学会を批判してきた。「匿名」証言が、何よりもそれを雄弁に語ってくれているではないか。 ろくに取材もしないで匿名証言でいいたい放題 〈ワイド特集 弱味の代償 その1 「女」や「カネ」の噂まで出た 池田大作辞任劇の俗臭〉(七九年五月一〇日号)  タイトルも下品だが、内容がそれに輪をかけて下劣。  池田会長が会長職を辞任し名誉会長となったことに対し、その本当の理由は何だったのか、それを勝手な「噂」話だけで構成した記事である。  まず、リード文。  〈「ネエ住職、池田会長が辞任したっていうけど、何が原因だったんですか?」  「ウン、熊サンが面白がってた、例のマジック事件の写真の件かもしれないねえ」  「女ってウワサもあるでしょう」  「ウン、結局、金と女、テメエの煩悩にゃあ勝てねえってことさ」  「なんだあ、住職とおんなじじゃねえかあ」〉  リード文でわざわざ「住職」を出すところが、ミソなのである。創価学会と宗門との対立を茶化してみせているわけだ。  ところで、この記事は藤原弘達と内藤国夫、創価学会の内部事情に詳しいという作家・境忠雄以外は、すべて匿名である。  「つい最近、学会を脱会したばかりの元中堅幹部」  「つい最近脱会した学会員」  「ある宗教評論家」  「某消息通氏」  よくも、こんなに正体不明の証言者を出して記事がつくれるものだ。これではまるで、どこかの“怪文書”である。  池田会長の辞任した理由としてあげるのが、第一に、大石寺との抗争説。  内藤国夫は、「真の原因」は「金の争いなんです」と述べる。  「宗教法人『創価学会』規則の第三五条に、残余財産の帰属という項目がありますが、(中略)これをめぐって学会と宗門が大ゲンカをしていたわけです。実はこのケンカはまだ公にはされていない。つまり、宗門側にすれば、一説によれば学会の財産は二兆円強といわれているわけだが、この財産はご供養のために集めたものじゃないか、という理屈になる。ご供養のためというのは仏様のために集めたということであり、そんな金を役員たちの議決でどうするか勝手に決めるのはケシカランと。仏様のために集めたんだから、宗門に帰属すべきものであり、この三五条は、“残余財産は宗門に帰属すること”と定めよ、つまり書き換えろと迫っていたわけです。ところが、学会は応じないばかりか、宗門を兵糧攻めにかかった(注=大石寺への参詣が一時、激減した)。したがって、宗門側にすれば、大ゲンカの原因である三五条を学会が書き換えれば、それこそ学会は変った、謝ったということになる。戦争も終わるわけです。ところが、池田会長は辞任しても、この三五条は変わらない。この辺がどうも今回の辞任劇の妙な点なんですねえ」  内藤は長々と説明しているが、結局、池田会長が辞任しても三五条は変わらなかった。だから、「金の争いではなかった」ということになる。内藤自身、「妙な点なんですねえ」と言ってお茶を濁し、自分の発言の不正確さを露呈しているではないか。  内藤は、池田会長辞任の真相について何も知らないのだ。それなのに、三五条などとわけ知り顔に説明している。内藤のコメントにこのテは多い。                     ◆  第二にあげられるのが、スキャンダル説。  「ある政治評論家の『直感』によれば、『池田会長自身のプライバシーを暴かれかかったのではないか』というのだ」  「匿名」の評論家の、その上「直感」で物を言われちゃかなわないが――。確かに政治家は女性や汚職のスキャンダルがバレそうになると叩かれる前にあわてて身を隠すのが常だ。  さらに「ある宗教評論家」なる人物は、女性スキャンダル説をぶちあげている。  「いや、池田大作にスキャンダルがあるとすれば、女のことではないか」  「隠然たるウワサとして語られているのは、彼のかつての秘書グループだなあ。彼はとにかく情熱家だからね」  また「某消息通氏」が言うには、  「アメリカはフロリダなんだが、ここに、池田会長個人のものか、学会のものかわからないけど、かなりの財産があるらしいんですね。その財産を管理している五十年配の女性がいるんだが、(中略)まあ、アメリカにおける池田会長の秘書的役割をしているようだけど、まあ、そういう関係もあって二人の仲はいいらしいねえ」  いや本当に言いたい放題、全く根拠のないオハナシをよくもまあ言ってくれる。  それにしても週刑新潮の、「それにしても、突然の『池田会長辞任劇』、いま一つその理由がはっきりしない」とは、どういう言いぐさだろうか。あることないことデッチ上げて池田会長攻撃をしていた当事者が、今さら「はっきりしない」で済むか。  この記事は、人をおとし入れるためだけに書かれた、“言いたい放題”記事だ。この手法で、“言いたい放題”書かれるんじゃ、学会ならずともたまったものじゃない。 ホントは誰にも取材していない匿名証言者という存在 〈悪い噂 選挙後の創価学会「秋谷会長」更迭の陰謀〉(八六年七月一〇日号)  いったい、どれくらいウソが重ねられているのかわからない記事だ。まず、タイトルがひどい。タイトルからして「悪い噂」に過ぎないと断わり書きしている。最初にこれを言った以上、中身はすべてウソでもいい、というのが週刊新潮の口実である。  まず、「選挙後の創価学会『秋谷会長』更迭の陰謀」というタイトル。  「陰謀」なんて全然ない、って。  リード文を見ると――。  〈とにかく、池田名誉会長は秋谷栄之助会長に不満を抱いている。前会長の北条浩氏が大作サンのために文字通り“殉死”したのに、秋谷氏は暗に大作批判ともとれる発言をしたりするのだ。その秋谷氏の任期がこの七月で切れる。大作サンにすれば、会長のクビをすげかえる好機。さて、思惑通り、「秋谷更迭」が実現できるかどうか〉  秋谷会長のクビをすげ替えるだって? そんな「事実」なかった、って。  冒頭の本文には、「池田、秋谷の両幹部の間に秋風が吹いていることは、学会員の誰もが承知している」とある。  学会員は誰も「承知」してない、って。  「ある古手の会員」の発言には――。  「昨年、池田が糖尿病で入院した時、実は、遺言をテープに吹き込んでいるんです。遺言は学会の後継人事にも触れ、“集団指導の形をとれ”とは言っているものの、秋谷のことは完全に無視した。秋谷はむくれましたよ」  遺言テープなんぞなかった、って。秋谷会長もむくれてません、って。  そもそも、遺言を残すような病気ではなかった、って。  会長人事も、どうせデマカセとは言いながら、本当にはずれまくっている。週刊新潮は、  「ポスト秋谷で本命視されているのが、大作サン子飼いの山崎尚見副会長か森田一哉理事長」  「大作サン、当初は自ら『会長にカムバック』して“復権”するつもりだった」  と、予想していたのだ。ホントに創価学会のことを知らない奴だ。  「公明党の竹入委員長が学会会長に就任するというウルトラC」  などと、目茶苦茶なことを言い出す始末。いったい何なんだ、この記事は――。開いた口がふさがらないとはまさにこのこと。  「ある学会ウォッチャー」は公明党人事にまで口を出す。  「とにかく、竹入と矢野は犬猿の仲。竹入は矢野を反公明党分子呼ばわりし、“オレが辞める時は必ず矢野と抱き合い心中してみせる”と言っている。その場合、委員長は大久保直彦、書記長には、竹入の子分の権藤恒夫(党国対委員長)か、池田の覚えめでたい中川嘉美の線もある」  と、これまた、トンチンカンな予想をする。  創価学会に対してここまで何も知らない人間が、どうして勝手に予測するのか。  さらに、ばかばかしい証言は続く。「反池田派会員」という変な会員の話。  「秋谷体制は続きます。更迭は九十九パーセントありえません。竹入会長説も聞きますが、青年部では失笑の対象でしかない。学会を離れて二十年ですから、帰ってきても何もできやしません。学会内の池田、秋谷勢力も今や五分五分ですよ」  どうも今回のデッチ上げ記事を書いているジャーナリストは、自民党の政権抗争レベルで創価学会組織を見ているようだ。「政教一致」と邪推するだけに、これは仕方がないか?「学会を離れて二十年ですから、帰ってきても何もできやしません」という発言も、学会や公明党のことを知らない人間のデッチ上げだ。信仰に縁のない人間が、わけしり顔で口だしするものだから、すぐボロがでる。  週刊新潮のこの記事の捨て台詞はこうだ。  「山口組と一和会の抗争ではないが、一戦交えてみたらいかが」  結局最後まで、名も言えぬ、存在すら不確かな人物ばかりの言葉で埋められ、何一つ明快な根拠も、「陰謀」の影もなかった。  要するに、創価学会内部の対立を煽っているだけの記事だ。いや、本人は煽っているつもりなのだろうが、あまりにも荒唐無稽なつくり話ばかりなので、煽っていることになっていない。  結局、タイトルにある「陰謀」とは何だったのか。記事のどこにも、「陰謀」の実体を示すものはなかった。あったのは、週刊新潮の「陰謀」だけだった。なあんだ、「悪い噂」を流して、陰謀をたくらんでいたのは、週刊新潮だったのか。 信仰が分からないクセに頭からバカにしてかかる記者の無知 〈信者三千五百万人をかかえる新興宗教のご利益〉(七二年五月二〇日号)  この記事は、学会員である匿名の主婦から送られてきたと称する一通の手紙をネタにして、その信仰のあり方を、「程度が低い」といって罵倒し、創価学会のような新興宗教がはびこるところが日本の後進性なんだと言い放つ、異様な記事である。  これまで、池田会長(当時)や、脱会した幹部、犯罪を犯した学会員について罵詈雑言をあびせることはあったが、一通の匿名の手紙をもとに、創価学会という宗教団体全体、そして、新興宗教という集合名詞で示された人々を十把一絡げに罵倒する記事はちょっとない。  まず冒頭で、週刊新潮は、  「最近、大阪・堺に住む創価学会の幹部だと称する一人の主婦から、一通の手紙が舞い込んだ。『私しは思ったことをじうぶんにかけませんからよろしく』(原文のまま)という書出しで始まるのだが、送りがなや言葉の使い方などが極端に乱雑をきわめ、はなはだ読みにくい。しかし内容にはなかなかリアリティーがある。加筆訂正しながら紹介すると、こんな具合である」  と、匿名の手紙を紹介する。この記事はこの手紙がすべてであり、とりあえず読者に真偽を見極めてもらいたいので、その文章を掲載する。  『(創価)学会に入信すれば、一人一部、新聞(聖教新聞)の購読をしなくてはいけません。一家に五人いれば、五部買わなくてはいけません。それに折伏と同じで、本部から新聞販売の推進わりあてがあると、それをやれない場合は、わりあて分全部を自分で買い取らねばなりません』  『家の中は火の車ですが、いっしょうけんめい行事に参加したりするのは、そうしておれば功徳があるのだと信じているからです。世間から笑われても、本人は信心していれば、それで社会のために役立つとも思っている。池田(大作)会長の指導に対して、少しでも疑っておれば、せっかく今日まで積み重ねてきた功徳が水の泡となる。あと一息だからどんなに苦しくとも、きっとよくなると幹部たちは指導します。会長は、大石寺の正本堂建立までに結果が出る、信心をよくやった人はよくなるが、しなかった人には罰があたるともいいます』  さて、読者はどう感じただろうか。貧しい中でがんばる主婦の姿に感動したか、創価学会はやはり金集め宗教なのかと思ったか、あるいは、創価学会は気休めばかりいうと思ったか。  週刊新潮は、この手紙を次のように解釈した。  「つまり、せっせと新聞を買い、金を出して登山会に加わり、信心を深めれば、正本堂建立のあかつきには必ずいいことがあると教えられるのだが、ほんとだろうかと、この主婦は質問しているのである。いわば、信心というより、毎日二万円ずつ投資してきたが、それに対する物質的な見返りはほんとうにあるのかと、やや悲痛な心境のように見受けられる。創価学会がなんと答えるかはともかく、この信心に現われている程度の低さは少々目をおおいたくなる。  『苦しい時の神だのみ』とか『イワシのアタマも信心から』という日本人独特の不誠実な宗教心があるが、まさにそこのところが、こういう主婦たちの信仰の出発点であるらしい」  さらに何を言い出すか読ませていただこう。  「新興宗教のほうも文字どおりイワシのアタマ的なシャーマニズムか、あるいは神秘的な儀式などを用意して宗教性をよそおい、一方ではしきりに現実的なご利益を約束する」  「そもそも自主性などない無教養な信者たちは、一度足を踏み込めば、あとはなんらかのご利益を得るまで邁進しようとする」  「本来、厚生省や各都道府県庁が福祉事業として救済に出動すべきところを新興宗教が肩代わりしているとも解釈できるが、末端の貧しい庶民から相当の金を吸い上げ、しかも、その数を利用して政党を作るとか政治家を国会に送るという宗教団体のあり方もまた目をおおいたくなる」  「そこには日本の後進性が集約的に現れていて、民主主義の基盤などどうひっくり返しても見当たらない」  なるほど、週刊新潮は、宗教を低いレベルでとらえていることがよく分かる。しかも、「自主性などない無教養な信者たち」「末端の貧しい庶民から相当の金を吸い上げ」「日本の後進性」など、これだけ庶民を蔑視した記事は、他には見当たらない。  そして、最後には、日本の近代化に果たす新興宗教の役割について暴論をはく。  「信教の自由が保障されているとはいえ、日本における真の近代化は、新興宗教の信者数が減ることに逆比例するのではあるまいか」  何だ、この回りくどさは。それはさておき、週刊新潮は、日本が近代化するには、新興宗教に入らない人間が増えるようにならなければだめだ、というのである。これは信仰の自由を守るか守らないかという次元ではない。言論による信教の自由に対する侵害である。  この記事を書いた執筆者には、宗教の何たるかが何も分かっていない。あるのは、庶民蔑視の感情である。こんな人間に、民主主義や近代化など語る資格はない。無論、週刊新潮も同様である。 落語仕立ての無責任な悪口報道 〈「ゆすり」は告発しても「醜聞」には沈黙する「池田名誉会長」海外逃亡説〉                            (八一年一月二九日号)  週刊新潮は、落語ネタが得意。「匿名」ネタをこんな風にチャカして悦に入っている。  「熊さん  ねえ、ご隠居、池田大作っていう創価学会のオヤブンが警察の事情聴取とかなんとか受けたらしいけど、あの人、いい人なんですか、悪い人なんですか、教えて下さいよ。  ご隠居  簡単にはいえないねえ。学会の信者とかさ、なんだ、取り巻きの女の人たちにはいい人かもしれないが、大作サンのやり口にあきれ返って学会をやめた人にとっては、悪い人かもしれないしねえ。しかし、おまわりさんに調べられるようじゃあ、たいしたオヤブンじゃあないな。  八つぁん その事情聴取とかすんだら、すぐ、外国を行っちまいましたねえ。あれはやっぱり、逃亡なんですか?………」  冒頭からしてこんな調子。全文、この三人の対話である。無責任もここまでくると恐ろしくもある。週刊新潮は、記事の虚実については何の責任も感じていないし、執筆者がどういう人間であるかなどどうでもいいのである。  週刊新潮も、普通のパターンじゃ飽きてしまったらしい。なるほど、これならいつも怪しげに登場する「創価学会ウォッチャー」「宗教ジャーナリスト」「元学会員」「元学会幹部」などという、匿名に気を使う必要がない。どうせつくり話なんだから、この方がすっきりしている。最初からこうやっていれば、「ブラック・ジャーナリスト」とか「エセ・ジャーナリスト」とか「売文家」とかいわれて罵倒されることもなかったのに。  ここまで凝った真似をして何を言うのかというと、  「八つぁん あっしが聞いた話なんですけどね、なんでも、創価学会の本山である大石寺、そのお寺のある富士宮市の市議会が、去年の暮にものすごくもめたんだそうですよ。なんでもめたかって、池田大作サンは、この富士宮市の名誉市民なんですよ。わざわざ条例までつくって大作サンを名誉市民にしたらしい。多額の寄付をしたり、いろんな施設を作ってくれたから、ってわけですよ。ところが、山崎弁護士という口八丁手八丁のような人物が学会の旧悪を暴露してから、どうも、市と学会が癒着してたんじゃないか、という問題が持ち上がった。施設を寄付してくれたが、学会所有の土地の税金を負けてやったんじゃないかとか、盛んに火を噴き始めたんだね」  なるほど、富士宮市の市議会で創価学会に関連する疑惑をデッチ上げたのは、山崎正友だったのか、というのがよく分かる。しかも、彼は週刊新潮からは“口八丁手八丁のような人物”と思われているようだ。  タイトルの「海外逃亡説」は、「説」とことわっているとおり、ただの嘘言である。  「八つぁん まあ、こんなことやられていたんでは、大作サン、国外逃亡もしたくなるでしょうねえ。  ご隠居  やっぱり、逃亡かねえ。この大事な時に二ヵ月も日本を留守にするってことは、よほどの理由がないと行けないよ。アメリカ、メキシコ、パナマ、ドミニカなどを回って、文化祭とか何とかに出席するっていうじゃないか。大作サンは、SGI(注=創価学会インターナショナル)という団体の会長サンでもあるんで、海外活動も重要らしいけど、聞くところによると、二十万いるという海外の学会員は、実数は二万人ぐらいしかいないというじゃないか」  たった、これだけ。つまり前からの約束通り、SGI会長としてアメリカ、メキシコ、パナマ、ドミニカなどの会員を激励し、文化祭に出席したり要人と会うという「よほどの理由」があるので、海外に出かけたのである。週刊新潮の見出し(海外逃亡説)など何の意味もない、ということがよく分かる。  最後に「ご隠居」がしゃべる内容が怖い。無理な内容でそれでもそういうタイトルをつける神経が分からない。タガがはずれたのか、ぼろぼろ口をすべらしている。  「ご隠居  それにしても、“池田大作醜聞報道”から半年以上たっちまった、ということは、もはやあの記事を告訴できない。時効だということになる。まあ、すべて学会側は、池田サンの女性スキャンダルについては認めたことと同じだ。となると、ひとつ、醜聞報道の第二ラウンドでもやってもらわなければ、観客の方は沸かないよ。これで、“池田おろし”もできずに、なんとなく、竹入公明党委員長と原島さんがシャンシャンシャンの握手なんてする事態になれば、いったい、何のための“醜聞報道”だったかわからないからねえ。オイ、熊に八、がんばるんだぞ。」  いくら、匿名記事だからといって、ここまでズバリ言われると困ってしまう。  “池田大作醜聞報道”とは、内藤国夫が月刊『現代』八〇年七月号に書いた「池田大作名誉会長復権にうごめく怪情報」のことだ。それを、  「ご隠居  聞くところによると、あの記事を書いた記者(内藤)は、最高裁まで争うつもりでいたそうだよ。ところが、何もない。拍子抜けしたというか、記者としてのプライドをえらく傷つけられたといってたそうだ」  と述べ、内藤の思惑を紹介している。なんと内藤は池田名誉会長を醜聞まみれの記事を書いて裁判になるように意図し、あのスキャンダルをデッチ上げたというのである。  しかし、意図に反して、創価学会は告訴しなかった。そのせいで「池田サンの女性スキャンダルについては認めたことと同じだ」と今度は週刊新潮が逆宣伝をしているのである。ああ言えばこう言う、嫌な連中だが、それだけではない。  「となると、ひとつ、醜聞報道の第二ラウンドでもやってもらわなければ、観客の方は沸かないよ」  つまり、内藤国夫による醜聞報道が第一ラウンドで、次の第二ラウンドを、ここに匿名で登場している「八つぁん」「熊さん」「ご隠居」に語らせることでやろうというのである。しかも、観客を沸かせる目的でやったのである。要するにマッチポンプのことではないか。自分で放火して「火事だ!」とわめいている愉快犯たちだ。  この落語ネタを使えば、週刊新潮のこともこんな風に書ける。  「熊さん  ねぇ、ご隠居、週刊新潮ってのは、いい週刊誌なんですか、悪い週刊誌なんですか、教えて下さいよ。  ご隠居  簡単には言えないねえ。学会をやめさせられた人たちや、ブラックジャーナリストたちには、いい週刊誌かもしれないしねえ。しかし、すぐにばれるウソを書いているようじゃあ、たいした週刊誌じゃあないな。」 本人が「違う!」と言っても、匿名証言者で当事者にさせるやり口 〈「脱会者」をトレーラー車で衝突死させた創価学会戦争〉(九四年九月二九日号)  学会員が「脱会者」を殺した、だって?  実にすごいタイトルだ。「衝突死させた」とは、「明確な意志を持って実行した」ということである。しかも、この部分には、「という意味になる」というお得意のカッコも付けていないのだから、よっぽど自信あり、と思いきや……。  記事によると、九四年の九月六日、札幌市西区内でワゴン車がトレーラーに追突されて大破。ワゴン車を運転していた富岡孝一さんと、後部座席に乗っていた美容師の對馬妙子さんが死亡し、助手席に乗っていた富岡さんの妻、恵子さんも重傷を負った。そして、この富岡夫妻は、仏聞寺の法華講信徒で創価学会を脱会した人間だという。  そしてさらに記事には、何とトレーラーの運転手とその勤務先の社長が学会員らしい、と書かれている。しかも、そのウラには宗門と学会の対立の激化があったというのだから驚きだ。またさらに「法華講信徒の間に事故の話が伝わるやいなや、たちどころに『創価学会に狙われたのではないか』という噂が広まった」という。  もしそれが全部事実なら、確かに「『脱会者』をトレーラー車で衝突死させた創価学会戦争」というタイトルは、いかにも本当のことのように思えてくる。つまり、対立が激化して、ついに学会員が脱会者の車にトレーラー車を故意に当てた、という可能性も浮かび上がってくるというわけだ。  だが事実は、まったくのデタラメ。「暴走した」のは、トレーラー車ではなく週刊新潮の記者と編集者だったというのが真相だ。  記事によると、「『うちは代々、浄土真宗なんだから、息子が創価学会に入っているなんてバカなことは絶対にありない』と、トレーラー運転手の実父は反発する」と書かれている。さらに運転手の勤務する運送会社の社長の言葉としては、「遺族の方にも問い詰められましたが、入っていないものはいないと言うしかないではないですか」と、創価学会員だというウワサを、二人の当事者は全面否定している。  だが、問題はその後だ。  富岡恵子さんの実父の言葉として、「(社長は)通夜と葬式に来てくれましたが、その時に手にしていた数珠はまぎれもなく日蓮正宗のものでした」と語らせ、しかもその数珠が「私が十数年前に池田大作からもらったものとそっくり同じ」とまで語らせている。  つまり、接点は唯一、高岡さんの実父の「わたしが池田さんからもらった数珠と同じモノを持っていたから学会員だろう」という思い込みだけである。あとは便利な匿名(毎度おなじみの匿名手口!)の「学会関係者」の証言として「社長は間違いなく学会員だよ」と書くことを忘れない。しかも「日蓮正宗・大慈院の信徒名簿にも出て」いるし、「一般学会員には知られていないかもしれない」が、有力者で「池田大作が札幌に来るときには、車を手配して自分も一緒に乗っかって走るくらい」だと「匿名」氏に語らせる。  さらに、別の「匿名」氏(今度はたんなる「脱会者」)はトレーラー運転手に言及。何でもこの運転手が住むアパートには、「学会内のビクトリーグループと言われる尾行や嫌がらせを行う特殊グループの中心的な人物が住んでいて」「運転手だって関係があったはず」だと語らせて、「法華講信徒の抱く疑惑は深まるばかり」と記事を続け、いかにも卜レーラー車の運転手や運送会社の社長が嘘をついているかのように思わせている。  ここで「まてよ?」と首をひねる読者もいることだろう。そう、疑惑を深めているのは日蓮正宗の法華講信徒だけである。つまり法華講信徒が、勝手に疑心暗鬼にかかり「きっと、アレは学会のしわざだ」「学会員は、オレたちを殺そうとしているのだ」なんて思い込んでしまっているだけなのである。そこで、記者はその「疑惑」にさらにハッパをかけ、匿名発言でいかにももっともらしく粉飾して、捏造記事を書き上げたというわけだ。  実際の真相はどうなんだろう。「創価新報」(九四年一〇月五日発売)によると、同紙の取材を受けた社長は「私の会社の社員の事故で、いかにも学会が悪いかのように書かれ、学会さんに申し訳なく思う」と語っている。また「数珠」に関しては「我が家には、日蓮系と念仏系の数珠があって、あの日私が手にしたのは、たまたま日蓮系の数珠だったんです。池田大作さんからもらったものなんてとんでもない」と全面否定している。  週刊新潮は、この記事を載せるほんの一ヵ月前にも、「大石寺『僧侶』を追突死させた創価学会幹部」という、事実無根のとんでもない記事を載せたばかりである(第八章に詳細あり)。その時、記者は確かに当事者(白山信之さん)に取材はしたが、取材を受けた白山さん本人の語った言葉と、記事に書かれたものとでは、まったくの正反対の内容だったのである。記事に都合のいいように発言さえも変えてしまう。今回は、当事者の発言こそデッチ上げはしなかったが、匿名証言者で断定してみせる手口からして似たようなものである。これを詐欺と言わずして、何と言うのか? けっきょく全部ウソだった“ルノワール疑惑”報道 〈「三菱商事」絵画売買は池田創価学会の「裏金作り」〉(九一年四月一一日号)  事件が報じられたのは、三月三十日付「朝日新聞」朝刊である。  朝日新聞は、ルノワールの『浴後の女』(五十号)と『読書をする女性』(十号)の二点の絵画について、画商「アート・フランス」の石原優社長が、三菱商事に売り、三菱商事はさらに東京富士美術館に売ったと報じた。  東京国税局は、この間に、申告されない十四億円の架空取引があるのではないかと疑いをもち、調査を始めた。石原社長は二十一億二千五百万円で売ったと言い、三菱商事はそれを仲介者から三十六億円で買ったと言う。しかし、仲介者の正体は分かっていない。その後、三菱商事は五億円のマージンを上乗せして四十一億円で東京富士美術館に売ったと言う。確かに不明瞭な取引だ。  この事件を知った週刊新潮は喜び勇んで、これを全部、創価学会の犯罪にしてしまえ、というわけだ。  リード文は謳う。  〈記事を読んでみると、どうも、今ひとつ釈然としない。何か肝心な部分が伏せられているような記事なのだ。と、そこへ、「実に見え透いた事件さ」と声を挙げたのは、創価学会ウォッチャーたちである。「あれは池田大作の裏金作りだよ」〉  全く何の根拠もない。国税局の発表にもない話を、吹きまくっている。  「学会ウォッチャー」は言う。  「しかし、今回は、三菱商事が富士美術館にああいう形で絵画を売ったとなれば、これは創価学会という団体の裏金作りではなく、池田大作個人の裏金作りと考えられる。学会員は毎年一回、富士美術館に寄付を出さなければならないのに、法外に高い値段の絵を買い、その差額が池田のポケットに流れ込んだとあっては、末端の学会員は浮かばれませんよ」  この「学会ウォッチャー」は、いったい何をウォッチしているのだろうか。学会員が富士美術館に「年に一回、寄付を出さなければならない」などということは調べればすぐ分かる嘘だ。  創価学会と三菱の関係についてもまた、知らないくせにただ騒ぐ。  「三菱銀行は学会のメーンバンク、三菱信託銀行は学会の財テクの責任者、そして三菱商事が墓苑、会館建設の代理店ですからね」  「ある宗教ジャーナリスト」が、またでまかせを言う。  「なぜ、三菱商事が学会の事業を肩代わりして進めるのか。それは、学会の名前を出すと、墓苑にしろ会館にしろ、事業が進まないからです」  「近くに学会の会館が建つと分かれば、必ず反対運動が起る。そこで、天下の三菱商事が前面に出て、土地買収から何からすべてを引き受ける。三菱商事がやるとなれば、事業も順調に行くわけで、商事の名前できれいに作り上げたところで、学会に引き渡す。これだけで何百億円という巨額の取引になるわけです」  嘘をつくな。近隣住民に理解を求めに行くのは創価学会が行なう、当たり前のことだ。実際の使用者が挨拶に行かなくてどうするか。建築目的も告げないで、「三菱商事です」と言っておいて、建物ができてから創価学会が来るなんて、そんなペテンをかければ、特に反対運動のないところでも反対運動が起きてしまう。嘘をつくにしても、もっと常識の範疇で嘘をつけ。  創価学会と三菱商事が“癒着”しているという背景がないと、週刊新潮の記事は成り立たない。そこで、なんとか“癒着”のようなものをデッチ上げたくて書いているのだろう。それにしても、見て来たような嘘をつく、こんなこと書いているのもさぞ辛かろう。  まず、週刊新潮は、「十四億円は池田の裏金だ」という勝手な決め付けをする。それを前提にして、“なぜ、金に困っていない池田氏が、そんなハシタ金を裏金で作る必要があったのか”と、わけの分からない問題設定をしている。  そこで、「学会ウォッチャー」が裏金作りの理由を説明する。  「一説には、一回の外遊で五億円は使うといわれていますから、これを表の金から出すわけにはいかなかったので、裏金が必要だったのかもしれない」  さらに「ある宗教ジャーナリスト」の推測。  「大作は去年六月に、ゴルバチョフに会いに行ってるでしょ。あれですよ、きっと」  「この会談を仲介したのはアーマンド・ハマーで、仲介料は五十億円と言われてますが、大作は外国の要人と会うときは、かなり根回しをしますからね。結局、ゴルバチョフと会うために、その裏金で十四億円を使ったということじゃあないですか」  もはや、笑いをこらえきれない。これでは子供だましのオハナシだ。ビジネスでもなく、そんな巨額の金を外国で使えると思っているのか。そんなことをすれば、外国為替法違反でつかまるのがオチだ。  さて、突然、九三年に飛ばさせていただく。  九三年五月二七日に、陶磁器販売会社「立花」の実質的経営者・立花玲子(五二)が、法人税法違反の疑いで、東京地検特捜部に逮捕された。これがルノワール絵画売買に絡む脱税事件の最後の容疑者であった。  三菱商事から支払われた売買代金のうち十五億円の行方が不明だということで、東京国税局が強制調査を実施しだのは、九一年一一月。すでに二年たとうとしていた。  この二年の間に、絵画取引を仲介した投資顧問会社代表、経営コンサルタント会社相談役、建設会社取締役の三名、及び、画廊「アート・フランス」もすでに修正申告を行なっており、十二億円のゆくえが確定している。  立花には、残る三億円の所得を隠している嫌疑がかけられていた。  結局、国税局が脱税で追いかけた十五億のうち、創価学会の裏金になった部分は一銭もなかった。すべて仲介者の仲介手数料となって消えていたのである。  「池田大作の裏金作りだよ」とわけ知り顔で吹聴していた創価学会ウォッチャーは、ただの大嘘つきに過ぎなかったのである。本当に悪辣な連中だ。  しかし、問題なのは、この週刊新潮の記事の「宗教ジャーナリスト」が、のちに最後の容疑者である立花玲子の見苦しい言いわけと同じ発言をしていることである。  『財界展望』平成五年六月号には、立花の発言が掲載されている。  「私はね、本当いうとね、あの件では一銭ももらってないのよ。全部、池田のためにやったことなのよ。一億だって本当はもらってないんだけどね。まあ、私がかぶってやってもいいかって思ってるのよ」  「学会の裏金作りよ。全部、池田に頼まれて裏金作りのためにやったのよ。だから、お金は全部、学会にいったのよ。池田はね、ゴルバチョフに持っていったのよ。ノーベル賞欲しさにね。ゴルバチョフに会いにいった時、渡したのよ。わたしもついてったんだから」  この立花のせっかくの創作ミステリーも、「わたしもついてったんだから」という台詞ひとつで台無しになってしまった。どうして会員でもない立花が、名誉会長についてゴルバチョフに会いに行けるのだ。この“妄想”としか言えない発言をもって、立花がどんな人間か、容易に想像がつく。  そして、「ゴルバチョフ」と「裏金」という二つの“キー・ワード”が、立花発言と週刊新潮のコメントに共通しているのだ。誰もが“奇妙な符合”を感じることだろう。 第五章 記事のトリック はなはだしく品位を欠いたという理由で新聞社を辞めさせられた内藤国夫 〈告発者内藤国夫記者 「毎日」辞職の仕置人〉(八〇年七月一〇日号)  記者・内藤国夫が毎日新聞社を辞職した。平岡敏男社長宛ての「辞職願」を提出しだのは、この八〇年六月二三日のことだった。  原因は、内藤が書いた月刊『現代』七月号に掲載された「池田大作名誉会長復権にうごめく怪情報」と題するレポートのせいだ。  細島泉・毎日新聞社取締役編集総務は、その理由を次のように述べる。  「まず、レポートの内容ですな。ヘソ下三寸のことを書いたりしたのが、ちょっとまずい。雑誌の書き方と新聞記事の書き方は違うということです。彼は毎日新聞の幹部(編集委員)ですからね。社の方針からいっても、彼のレポートは、はなはだしく品位を欠いたものといわざるを得ない。次に、彼のレポートは共産党の公明党批判に利用されてしまった。選挙中にあんなものを出せば当然でしょう。毎日新聞までが政争に巻き込まれるのは困りますからねえ」  「彼のレポートは、はなはだしく品位を欠いたもの」とは、確かにそのとおり。毎日新聞社の良識的判断である。  しかし、問題なのは、この週刊新潮の記事が、内藤の辞職の裏に創価学会からの圧力があったと言い張ることである。  リード文では、例によって、〈周辺には、おのずと、かの藤原弘達氏の一件に次ぐ、第二の学会言論弾圧事件めいたニオイがプンプンとたちこめて…〉と、勝手な憶測で言いたい放題だ。  この記事の登場人物は内藤国夫だけ。要は、内藤自身の“内藤国夫辞職事件”の経過説明である。  内藤の言いわけによれば、月刊『現代』の発売から三日後の六月八日、“厳重注意”“謹慎”という処分をうけ、自主的に自宅待機の身となった。そのあげく「始末書を書いてくれ」と言われて、「いくら何でも、それは承知できませんよ。だいいち、ボクは間違ったことを書いたつもりはない。にもかかわらず、そんな始末書を書いちゃったら、ボクの将来にわたる社内外での言論活動が、たちまち制約されることになりますからね」と言ったそうだ。  「ボクの将来にわたる社内外での言論活動」とはお笑いぐさだ。すでに内藤氏の社内外での言論活動はまったく信用されていないのである。だからこそ「始末書」を出せ、と言われているのだ。  内藤は自分では“真実を伝えるジャーナリスト”だと思っているようだが、それは“狂信的な”思い込みに過ぎない。第三者から見ても、彼の記事内容にも取材姿勢にも、社員としての自覚にも、問題があり過ぎるのだ。にもかかわらず反省も謝罪することもできないのである。「始末書」を書け、書かない、という押し問答が続いた末、内藤は仕方なく「辞職願」を出した。  彼はそれから十五年たった今も、池田大作の女性スキャンダルは本当だと講演の度にしゃべり続けている。この男は死ぬまで下ネタを騒いで一生をおくるのであろう。                     ◆  さて、問題の創価学会の圧力云々であるが、内藤国夫自身、「今度のことで、学会から会社にどう圧力がかかったかは具体的には分からないんですがね」と前置きしている。  そのくせ、  「実は、聖教新聞の印刷は、毎日の子会社に当たる東日印刷でやってるんですよ。それも、一時、ヨソで刷っていたのを、毎日が経営危機に陥ったときに、“また刷らしてくれ”と頼み込んだイキサツがあるという話を、ボクは、学会の秋谷副会長から聞いたことがある。また、編集局長からは、人を介して、“読売が聖教新聞の印刷を取りたがっている。お前が(学会批判を)書くと、取られちゃうぞ”といわれたこともある。そのほかにも、会社がボーナスを支払うカネのない時に、学会から何億かのカネを先払いしてもらったという話を聞いたこともありますよ」  などと、悔やし紛れに毎日新聞のことを邪推してみせる。  「圧力なんかありません」と細島取締役が言っても、全然気にしないのだ。  内藤が、この記事で“あることないことしゃべる”のをみても分かるように、単に内藤のはねっかえりがすべての原因だったのである。  つまり、彼の、あの月刊『現代』の仕事が、毎日新聞社の社員として行なったこと。もちろん、肩書きも毎日新聞記者としてであり、取材のための器材やアシスタントも毎日新聞社のものを利用していた。完全に「毎日新聞・記者」を装って仕事をしたのだ。にもかかわらず、新聞社の上司の承認もなく、スタンドプレーをはたらき、『毎日』の名を汚してしまったのである。そのことに、内藤は全く触れていない。  末尾の週刊新潮の言い分がふるっている。  「だが、考えてみれば、創価学会は、みすみす、虎を野に放ったことになりはしないか。内藤氏の闘志に、いっそう火をつけてしまったからである」  内藤を「虎」というのは持ち上げ過ぎだろう。だが、この週刊新潮のエールを背にうけた内藤は、創価学会批判だけをメシのタネにするという、けったいな「創価学会ウォッチャー」として再出発したのである。  「品位に欠ける」という理由で“ニューズ・ペーパー”にいられずに、“イエロー・ペーパー”の寄稿者となった内藤国夫。悪筆を振るうには、週刊新潮は格好の舞台ではある。 まともに相手にしてもらえなくて新聞社に突っかかる反創価学会記者 〈「不買同盟」が怕くて新聞が書かない創価学会問題〉(九三年一二月一六日号)  週刊新潮は、創価学会攻撃となると、どうしてここまでムキになるのだろう。とうとう、“イエロー・ペーパー”にとっては、コンプレックスの的とも言うべき新聞に突っかかってみせたのである。  リード文にはこうある。  〈つねづね“反権力”を標榜している新聞も、なぜか細川新政権には好意的だ。なかでも政権与党の公明党・創価学会に関する報道ぶりは、すこぶる遠慮がち。神崎郵政大臣の盗聴事件関与や「創価学会の脱税をもみ消した」という渡辺美智雄元副総理の発言などは、徹底的に追及して行くべきなのに、新聞各社とも及び腰である。その理由は、創価学会員の「不買同盟」が怕いからではないのか〉  つまり、神崎郵政大臣の盗聴事件関与“疑惑”や、渡辺美智雄元副総理の「創価学会の脱税をもみ消した」という発言に対し、新聞社が創価学会・公明党攻撃の論陣を張らないのは、創価学会員の「不買同盟」を恐れているからだ、というものだ。  さらに、週刊新潮が「新聞が創価学会に遠慮しているとしか思えない実例もある」として出しだのが、汚職の取り調べに際して参考人に暴力をふるったとして起訴された金沢仁元検事である。金沢元検事の出身大学が創価大学だったということを大新聞が報道しなかったというのだ。  内藤国夫は、「ゼネコンの社長は出身大学を書いて、創価大は触れないというのは奇妙奇天烈ですよ」と書いている。  これについて、新聞社側の反論も、一応、載せている。東京新聞の大石章編集局次長は、  「創価大卒という経歴には触れていませんが、こういうケースでは基本的に学歴は出さない。 創価大だから書くとか書かないということではないです」  と、とあっさりしたもの。別に学会をかばおうなどと思っているわけではない。  だが、内藤は、  「不買運動なんて、いまどきやるはずがないし、また仮にやったとしても影響はでないでしょう。熱心な学会員は聖教新聞とか公明新聞しか読みませんからね。新聞社は不買運動という昔の亡霊に怯えているだけです」  と、しきりに新聞社に反創価学会攻撃に立ち上がれと煽っている。不買運動は影響ないから心配せずに攻撃しろと。  しかし、各新聞社とも内藤のいうところとは逆に、創価学会の不買運動など気にしていない。そんなにムキになる動機など全くないのだ。内藤自身「やったとしても影響はでない」と認めている。自分で認めていながら「不買運動を恐れるな」などとアジる内藤の自己矛盾はどうしたものか……。                     ◆  週刊新潮に載った各新聞社からのコメントは明快である。  朝日新聞の山本博昭読者広報室長は――。  「一般論ですが、記事を掲載するかどうかは、価値判断の問題になるわけで、要は掲載するだけの価値がなかったということでしょう」  日本経済新聞の棗田常義副社長は――。  「発言の事実だけは報じましたが、その根拠がはっきりしないのでそれ以上の記事にはならないのです。(中略)必要なのは記事にすべき確固たる根拠ですよ。確証さえあれば創価学会の問題でも公明党の問題でもきちんとした報道をおこないます。不買運動が怕いといったことは一切無いと思います」  読売新聞の山室寛之広報部長は――。 「創価学会関連の問題で、取り上げるべきものは取り上げている。学会からの圧力は一切ない」  毎日新聞の上西朗夫社長室長は――。  「学会問題に及び腰だとは思っていません。適正な判断をして記事にしているだけで、恣意的に載せないということはない」  というふうに、すべての新聞社から軽くあしらわれてしまった。  にもかかわらず、週刊新潮は、新聞社は創価学会の不買運動を気にしている、と言い張るのである。否定コメントは表向きで、真実は“藪の中”といういつもの手口である。  新聞各社がミッチー発言や山崎発言の問題を追及しないのは、ガセだと知っているからだ。政治記者は皆そのことを知っているから、それ以上詮索しないのであり、ムキになってわめいているのは、週刊新潮などの反学会メディアだけである。  もっとも、そのことを週刊新潮も知らないはずはあるまい。神崎氏も「盗聴仲間」だったという山崎正友の証言は、裁判長から「信用できない」とあっさり却下されたつくり話の一部だし、ミッチー発言にしても、国税庁の調査の結果、創価学会は「全く税法上問題無し」の太鼓判を押されている。                      ◆  週刊新潮は、新聞社の明快な反論を受け流し、無理やり反学会仕立ての結論に持ってゆく。  「ある私大教授の話」として――。  「七〇年代の半ば、学会員による組織的で徹底した不買運動が繰り広げられたことがありました」  また、「宗教問題に詳しいジャーナリストの段勲氏」の話として――。  「学会問題を取り上げると新聞社やテレビ局に嫌がらせの電話が殺到するのです」  「中央の一般紙では毎日新聞が聖教新聞の印刷をしていますし、ローカル紙の中には聖教新聞の地方版を印刷して、採算を上げているところもある」  そして週刊新潮は、  「やはり、新聞が創価学会問題を書けない有形無形の障害があることは間違いないようだ。その中でもっとも大きく“致命傷”になりかねないのが新聞に対する創価学会の不買運動だ」  「不買運動という無言の圧力と嫌がらせという実力行使。この二つの武器で新聞を抑え込んでいるというのだ」  「さらに、聖教新聞の印刷に絡んで、経済的に新聞社を取り込む戦術もとっている」  と、断定してしまうのだ。  これが新潮の記事のつくり方なのである。証拠を固めるのではなく、取材結果とも完全に矛盾しても、仲間内の証言によってインタビュー記事を創作し、自分たちの都合のいいように記事をデッチ上げる。  結局、反創価学会ジャーナリストたちが、仕掛けて煽っているにもかかわらず、一般紙が積極的に報道しないことを、週刊新潮は、この記事でグチっているにしか過ぎない。そんなグチをまともに聞いていられるか! ガセネタを信じて「ウソ」を証明してしまったドジな記事 〈メッカ大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ただ今ゼロ〉(七七年七月二八日)  この記事は、どう読んでもうさん臭い。  冒頭にまず、「第二の“言論封殺事件”ともいえる、ただごとならぬ情報だが、これは創価学会にきわめて近い、信頼の置ける人々の間でささやかれている話なのである」と、ご丁寧にことわり書きされている。  しかも、話の出所はどこなのかいくら読んでも分からない。ただ、「話によれば」「という話も伝わっているのだ」「もっぱらいわれている」「ささやかれている」と言い張るのみなのだ。  とりあえず、その「ただごとならぬ情報」とは何かを読んでみよう。  まず、本山大石寺のお膝元である富士駅と富士宮駅の駅員への取材から始まる。富士駅では、四月、五月と臨時列車が減り、六月はついにゼロになったと言い、富士宮駅では五、六月は、臨時列車があったりなかったりで、七月に入ってからは十四日まで一本もなかったと言う。つまり、いずれも例年に比べて総本山・大石寺へ行く団体参詣客が大幅減少したと言うのである。  問題はそうなった原因についての部分だが、週刊新潮は、「信頼のおける人々の間でささやかれている話」を真にうけて紹介。現在大石寺の手で編まれている『日蓮正宗の歴史』に、戸田第二代会長についてわずか一行しか書かれていないことに池田会長(当時)が「激怒」したためだというのである。  記事では、池田会長か代理の者が本山に対して、  「原稿の書き直しを要求。もし、本山がこれを入れなければ、本山へのいっさいの特別列車をストップさせると強談判。その際、会長サイドからは、『われわれのおかげで本山がメシを食えるのだということ忘れるな』といった“暴言”までも飛び出したと伝えられる」  と書いている。  これが原因で、池田会長が、“参詣禁止令”を出し、本山を“兵糧攻め”しているというのである。「第二の“言論封殺事件”」だと騒いでいるのは、「日蓮正宗の歴史」の編纂に創価学会が介入したことを指しているのだ。しかし、そんなことあったのだろうか?                     ◆  大石寺理事、吉田義誠渉外部長(当時)は、取材に対して「寺と学会との間にどうのこうのということはないですよ」と、あっさり否定し、さらに、  「お名前のことをいえば、戸田先生や池田会長は、ご寄進なさった大客殿や御堂のことで、以前つくった日蓮正宗の年表にたくさん出て参ります。だいたい池田会長はそんなことをおっしゃる人ではありませんよ。もっと器の大きな方です。現に池田会長は、毎月、登山して来られる。今月は二十四日に来られる予定ですしね」  と、ガセネタであったことを説明している。  もちろん創価学会のほうも、身に覚えのない“参詣禁止令”などコメントのしようがないのでまっこうから否定している。  さすがに、週刊新潮も、この問題はこれ以上どうしようもないと思ったらしい。突然、ホコ先を変え、「学会の広報部員」を攻撃している。単に、学会の広報部員が“「日蓮正宗の歴史」という本の存在を知らなかった”ということを、印象批判で罵倒している。  「『そんな本の話、聞いてないなあ。そんなのないですよ。それなのに、ああじゃないか、こうじゃないかといわれたって、こっちが迷惑する!』と、およそ一度でも南無妙法蓮華経と唱えた青年とも思えないフテブテしさだった」  書くことがないからこんなことを言うのだろうが、これは、記者の勝手な“印象”でケナしているだけだ。  それにしても、これで双方の当事者から、週刊新潮の言う“喧嘩”は完全に否定されてしまったのである。タイトルでぶちあげた「大石寺が創価学会と喧嘩」とは、一体どこの話だ。  話を続けることができなくなった週刊新潮は、この取材の中で、本山の側から聞いた話をもとに、さらにホコ先を変えて、今度は学会への「政教一致」批判に移る。  「『そりゃあ登山者が減れば少しは収入は減るし、さびしいですよ。けれども選挙の時は仕方ありません』と何度も“選挙”を参詣人減少の主因として説明するのだ」  この発言をたてにとり、「政教不分離の見事な証明」であると、強引に“政教一致論”を展開。  しかし、宗教団体が政治活動することを禁止した法律など日本にはない。憲法に保障された基本的人権には、すべての人に「政治参加の自由」が認められている。宗教団体が選挙運動することを禁止するほうが、逆に憲法違反なのだ。  結局、この記事の、タイトルにつけた「大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ただ今ゼロ」という話は全くのガセネタであった。ごくろうさん。おまけに、政教分離問題で、自分の無知を天下にさらけだしたのである。これまたごくろうさんというほかない。 第六章 人権無視で書き放題 差別と偏見の高校野球報道 〈創価高校甲子園出場「快挙」の内幕〉(八三年八月一一日号)  この年、創価高校野球部が西東京大会で優勝し、初めて甲子園への出場を決めた。  現在、西武ライオンズに在籍している小野選手が、創価高校の投手で四番打者だった時のことだ。  週刊新潮の記事は、その創価高校野球部の優勝が、創価学会の金と組織力をバックにして初めてできた「快挙」であるとし、「池田スキャンダルのダーティーなイメージを吹き飛ばすには、高校野球が一番と考えたんですよ」という偏見に満ちた「あるスポーツ紙の記者」のコメントを基本にすえて話を進めている。  発言者は、他に、「事情通」という匿名者、「高野連のある役員」、そして元創価学会教学部長・原島嵩などである。  記事ではまず、「あるスポーツ紙の記者」が語る。  「西東京といえば、三年前、さわやかなアマチュア野球で評判になった都立・国立高校が出てきた地区。同じ初出場でも、国立高とは正反対のデビューだけに、“汗と涙の甲子園ドラマ”に仕立てようがなくて困っているのである」  「さわやかなアマチュア野球」と「正反対のデビュー」とは何だ。「“汗と涙の甲子園ドラマ”に仕立てようがなくて」とは、どういう言いぐさだ。彼らは、相手が創価学会となれば、高校生すらも徹底的に差別してかかる。この「スポーツ紙の記者」は、露骨なまでの、差別主義者だ。                     ◆  週刊新潮の差別発言は続く。  「例えば、地元の小平市たかの台商店街にできた後援会を通じての寄付集め。杉浦孝次会長は、『毎年、夏の大会が始まると、後援会員の家を回って、カンパを集めていました』」  週刊新潮にとって、このような高校野球なら全国でみられる後援会の光景も、“創価学会の金集めだ”と考え、攻撃の材料にする。  「つい最近、学会は恒例の『財務』で四百億円を集めたといわれている。そのほんの一部でも回せば、高校野球の費用など軽くまかなえるはずだが、そんなことをしなくても新たに寄付集めをすればいいわけだ」  創価学会は宗教法人であり、創価学園は学校法人である。組織も会計もまったく別だ。両者の金が一緒であると、この記者は平然と主張している。しかも、学会が四百億円集めたというが、その根拠を示してもいない。  さらに、「あるライバル高の監督」の発言として――。  「ふつうの学校でも七千万円くらいは集めるわけですから、創価高なら二億や三億は軽く集まりますよ。組織を利用しての情報収集、金銭的バックアップ、この二つがあって、稲垣監督も初めてチーム作りが可能になった。しかも、運のいいことに、小野投手という逸材を獲得できて、監督はこの投手を中心に三年計画で甲子園進出をめざし、その最後のチャンスに実現することができたんです」  せめて、この「監督」ぐらいは、実名で登場させてもよいはずなのだが、週刊新潮はそれすらしない。  ここにいたっては、デッチ上げの記事としか言いようがない。  多くの高校で普通に行なわれている優秀なスポーツ選手を学校に入学させようというスカウト活動も、創価高校だけは例外である、と週刊新潮は考えているのだろう。だから、タイトルにもあるように創価高校の「快挙」には原因があって、その内幕とは、創価学会の組織力と金がバックにあるからだ、と暗に言いたいわけだ。  さらに、「あるスポーツ紙の記者」には、次のように発言させる。  「その時(注‥創価高の小野投手が五回表、ノーアウト満塁のピンチにたった時)なんです、創価高校の応援団でお経を上げる声が上ったのは」  「このピンチを信心で守り切るんだという調子でね。何人かの人たちが、ホントにお経を誦んでいた」  「試合後、応援団の人たちにインタビューしても、“信仰のおかげです”とか“お祈りの力です”といった答えが返ってくる。それも大マジメにやるものだから、対応に困りました」  見てきたようなウソ、とはこのことだ。野球場で応援団が“お経を上げる”など、あり得ない話である。この一事をもっても、この記者は取材をしていないことが分かる。むしろ、こんな記者さえ存在していまい。  さらには、「高野連のある役員」には次のように言わせている。  「創価高校の今の実力では、一、二回戦止りだと思いますが、万が一、勝ち進んでいって、しかもPLや天理と対戦するようになったら……。双方の信者が殺到して、甲子園がいくつあっても足りなくなる。あまり有名でないところと対戦して、無事に消えてくれることを祈るのみですよ」  高野連が、ホントにこのような差別発言をしたのだろうか。問題である。高野連の誰の発言か、ぜひ、確かめたいところだ。  いずれにせよ、「あるスポーツ紙記者」「あるライバル高の監督」「高野連のある役員」というように、この記事は「ある」発言者のコメントのオンパレード。週刊新潮の記事にしょっちゅう出没するこの「ある」は、「存在しない」という意味だと解釈して読む必要がある。 「ホステスには信仰の自由は許されない」という週刊新潮の姿勢 〈銀座ネオン街を支える創価学会員たちの生態〉(八〇年一〇月九日号)  この記事は、銀座のホステスの中にいる創価学会具にまつわる「噂」を紹介したもの。宗教差別、職業差別に満ちている。  登場人物の「あるマネジャー」なる人物が、  「テーブルの下で数珠をもみながら“今日は指名がたくさんきますように”なんて唱えてるんだよね」  というと、「別の一人」は、  「そんなのは、まだいいほう。飲みに来た客を折伏しようとした狂信者がいたからね」  「さっそく、ミーティングで厳重に禁止しましたが」  などと言い、そんなホステスがホントにいたのかどうかも疑わしいが、ともあれ、露骨な差別意識をむきだしにしている。また、  「更衣室に、毎日必ず『聖教新聞』を二部ずつ置いて行く、というホステスもいた。店の経営者が捨てても捨てても、置き続ける執念深さ。しまいに大喧嘩のあげく、クビにしてしまったという話もある」  というオハナシも紹介している。そんなことでクビにしていいのだろうか、と憤りを覚えるが、週刊新潮は、この処置を当然だと考えているらしい。  ある店の店長には平然と次のように語らせている。  「で、永年の経験から、学会員ホステスを見分けるいい方法を発見したのです。ホステス全員を、初詣でとか何かの折に、お宮参りに誘うのですよ。それを断るのは、ほぼ確実に学会員。お宮参りが、いわば、彼女らの踏絵になるんです」  「踏絵」などという、江戸時代のキリスト教弾圧のやり口を平気で口走り、また実行し、それを公言しているこの店長の感覚はどうかしている。この店長は、ホステスに信仰の自由を認める気が全くないのである。憲法にも保障された人権の尊さが何も分かっていない。この店長の人権感覚は、そのまま週刊新潮の人権感覚である。そう言えば、この「踏絵」という言葉は、九四年四月二八日号の記事(第四章に紹介)でも使っていた。週刊新潮は、「宗教弾圧」に関わるこの言葉がよほど好きなようだ。  自分が無信仰であることを信念とするのはいいとして、だからといって、他人の信仰を一方的に否定してかかるのは、明らかに人権侵害である。  この記事は、週刊新潮が得意とする、不特定多数の「噂」をかき集めてつくったフィクションである。だが、フィクションに名を借りた宗教差別を見逃すわけにはいかない。  週刊新潮は、これで創価学会のイメージダウンを狙ったつもりなのだろうが、ネオン街で働くホステスをも一緒に差別していることに気がついているだろうか。  要は、ホステスに信仰の自由は許されない、と言いたいわけだ。宗教と職業という二重の差別意識からつくられたこの記事は、週刊新潮の人権感覚の程度を示している。 フランスのデマ報道を更に悪意を込めて記事にする 〈フランスで報道された創価学会「スパイ集団」説〉(九一年八月二九日号)  結論からいえば、フランスの雑誌で報道された創価学会「スパイ集団」説は、ある一人の被害妄想的な精神疾患の女性が、マス・メディアに怪文書を乱発したことに端を発している。  内容はというと、“創価学会は悪魔を信仰する狂信的集団であり、また、創価学会がフランス国内で入手した土地や施設の近くには決まって核施設や軍事施設があり、これが、創価学会は「スパイ」であることの証明だ”という、何ともトンチンカンなものだ。日本の「反創価学会ジャーナリスト」でもさすがにここまでは言えまい。  もちろん、ほとんどのメディアは無視したが、創価学会のことを何も知らなかった『ヌーヴェル・オプセルバトゥール』を始め、いくつかのメディアがそれを鵜呑みにして報道した。  特に、彼らは、手軽に入手できる情報として、日本で出版された「反創価学会ジャーナリスト」の著作や雑誌の記事を参考にしながら記事を組み立てた。このため、怪文書と同様、創価学会に対する悪意に満ちた内容になったわけである。                     ◆  その後、フランスSGI(創価学会インターナショナル)はこの事実無根の中傷報道に怒り、訴訟を起こした。裁判は、フランスSGIの言い分を百パーセント認める全面勝訴で決着し、被告とされた各新聞・雑誌は謝罪広告を出した。  つまり、この記事、「フランスで報道された創価学会『スパイ集団』説」を掲載した週刊新潮も、フランスの裁判なら名誉棄損と人権侵害で“有罪”が確定するのである。  むろん、勝訴したからといって、フランスSGIの会員たちの受けた精神的苦痛と社会的信用の失墜はさけられない。そのことを思えば、刑務所にたたき込んでも何もむくわれない。つくづくメディアの暴力は、一度書かれてしまったら取り返しがつかないものだと思う。  これに関連して日本のテレビ番組でも、評論家の俵孝太郎が「オレは知ってんだぞ。創価学会はフランスでも『スパイ』だと問題になってるだろう」と公言した。その後、このスパイ説のウソが裁判で明らかになったが、俵は一度も謝罪していない。俵のように、根も葉もない中傷記事をもとに、罵倒するだけ罵倒して、あとは知らん顔というのはあまりに無責任だ。日本のマスコミにはこの手合いが多いが、この態度は週刊新潮も同様である。  記事中で、「さる学会ウォッチャーの話」として載せているコメント。  「学会はフランスに欧州進出の拠点をおいているんです。池田大作は、ミッテラン大統領に近づくために夫人の創立した基金に多額の寄付をしたり、ヴィクトル・ユーゴー文学館を設立するために城を買い取ったり、とにかく呆れるほどの金をそこら中でばらまいて顰蹙を買っています。しかし、スパイ説については、たまたま原発の近くに学会の研修センターがあり、発電所の技術者のなかに学会員がいたというだけのことで、スパイということはありませんよ。それでも、そんなに誇大な報道になってしまう程、創価学会には非難の目が向けられているんです」  「スパイ説」はただの誤報だと認めながら、なおかつ学会は悪いと言い張るこの確信犯 はどこのどいつだ。わけ知り顔にコメントするなら名前ぐらい出せ!  そして、記事の結びがじつにひどい。  「宗教は本来、人の内面に迫るものなのに、現世利益ばかりを追及し、何でも金に執着するのでは、“えせ仏教セクト”と見られても仕方あるまい」  この、いきなりの断定は何だ。根拠もなく、単に匿名の「創価学会ウォッチャー」の発言と、その「ウォッチャー」にさえ否定された(つまり、スパイ説はまちがいだったという)フランスの記事があるだけではないか。なのに、いきなり結論で「現世利益ばかりを追及し、(中略)“えせ仏教セクト”と見られても仕方あるまい」と決め付ける。こんな論法がまかり通るとでも思っているのか。  しかも、宗教蔑視の週刊新潮が、「宗教は本来、人の内面に迫るもの」だって? 上ッ面でしか創価学会を見ずに、歪んだ報道しかしない週刊新潮が、今さら何を言っているんだ! 「少年法」に八つ当たりしてどうする?  〈少年3人が無罪となった「アリバイ」に創価学会の「霧」〉(八九年九月二八日号)  この記事は、東京・綾瀬の母子強盗殺人事件についてのレポートである。この事件で容疑者とされた三人の少年が、逮捕から一転、無罪となった。  週刊新潮はこの記事で、「無罪」になった背後には“創価学会員によるアリバイ工作があった”として、この事件にからんだ創価学会員を貶めようとしている。  タイトルには「霧」と書かれており、単なる憶測に過ぎないと言外に言っているが、それでもこのように人を勝手に犯罪者に仕立てる。  問題の事件は、一九八八年一一月一六日、足立区綾瀬のマンションに住む宍戸晴子さん(三六)と長男の秀礼ちゃん(七)が絞殺され、現金八万三千円か奪われた事件。犯人探しは難航したが、八九年四月二五日、警視庁綾瀬署の捜査本部は、現場近くに住んでいた三人の少年を逮捕した。少年たちは、取調べに対し、大筋で捜査通りに犯行を自供。一人がマンションの一階で見張りをし、他の二人が宍戸さん方に侵入し、まず秀礼ちゃんを殺し、続いて帰宅した晴子さんを絞殺したと自白した。  しかし、その後、少年たちは全面否認に転じ、六月八日の第二回審判には、見張り役とされていた少年が、犯行当日、アルバイト先の千葉県柏市にある塗装店の仕事でJR船橋駅の駅ビルで働いていたというアリバイが飛び出した。  そして八九年九月一一日には不処分が決定。決定理由として、「C少年(見張りをしたとされた少年)にはアリバイが成立する疑いが濃い」としたうえで、自白の信用性についても「いずれもいわゆるいじめられっ子の萎縮し易い弱い性格を持っていて、強い者や権威あるものに迎合し、一時逃れにその場限りの供述をし易い傾向にあるため」などとして、自白の任意性を認めなかった。  週刊新潮が「霧」と呼ぶのが、この見張りをしたとされたC少年である。この少年の父親が学会員で、柏市の塗装店も経営者から従業員のほとんどが学会員。このため、アリバイは談合によって作られたのではないか、と疑っているのである。  「ある捜査関係者」は、  「アリバイを立証する側もアリバイが必要な側も同じ学会員」  「少年の名前を手帳に書いた現場責任者も学会員、少年と一緒に作業していたと証言した従業員も学会員」  「さらにもう一つ、三人には最初、創価学会系の弁護士がついた。言ってみれば身内ですよ」  と、学会員しかいないことを取り上げ、まるで、学会員ぐるみでアリバイをデッチ上げたかのように言う。これは宗教的差別である。こんな人権無視の人間が捜査しているのだ、これなら冤罪が起きてもおかしくはない。                     ◆  週刊新潮にしても、ことは刑事事件であり、軽はずみに“アリバイ工作をした”というような書き方をすべきではあるまい。書き方ひとつで、無関係な人まで傷つけることになるのだ。  裁判所の不処分決定の理由は明快だ。週刊新潮も明快に書いている。  「事情に詳しい裁判関係者」は、  「不処分になったのはアリバイで勝ったからではない。犯行現場の状況と少年三人の自白が合致しなかったからなんです。例えば、被害者の晴子さんの頭頂部に三日月形の深さ 二・五センチ、幅一センチの傷があった。これがどうして傷ついたかわからない。壁に頭をぶつけたと自白していますが、そんなことで出来るものではない。電話コードで絞めたとされる首の跡も電話コードでつくような傷ではない。首に残された付着物を調べれば凶器が特定されるから鑑定結果を出せ、と物的証拠でギリギリ詰めていく作戦でした。対する検察側はいつまでたっても鑑定結果を提出しなかったんです」  つまり、少年たちの自白以外に、物的証拠のないままで捜査は進んでいたのである。殺人事件でこの捜査では「杜撰な捜査」といわれても仕方ないだろう。  いずれにせよ、創価学会がどうのこうのという問題ではない。  週刊新潮のつけたタイトルは全くの空振りに終わった。  ところが、週刊新潮はこう居直っているのだ。  「事実の究明を阻んでいるものは、少年の更生を第一の目的とした現行の少年法そのものではあるまいか」  「今回の少年たちに対する処分が素直に受け入れられないのは、事実関係が十分に争われていないことが最大の理由。少年犯罪であっても殺人事件などは、審理を尽くすべきである。大人の罪であっても、子供の罰で済むのでは納得できない」  と、「少年法」がおかしいと言うのである。  契約の自由も、職業選択の自由も、選挙権もない未成年に、犯罪者だけは大人と同じに扱うべきだと主張するのだ。  創価学会をアリバイ工作の“疑惑”で追い詰める途中で思い付いたアイデアなのかもしれないが、ことのついでに議論するような問題ではない。“「少年法」を逆手にとって創価学会が無罪を勝ち取った”と言いたいのだろうが、因縁をつけるのもほどほどにしろと言いたい。今さら「少年法」に八つ当たりしてどうするのだ。  この記事で看過してならないのは、週刊新潮が、証拠もなしに、噂だけで、しかも自分たちがデッチ上げた噂だけで、いとも簡単に人を犯罪者呼ばわりしている点である。「少年法」の改正どころの話ではないのだ。問題をすり替えるのも、たいがいにしろ。 第七章 山崎正友と共謀して女性スキャンダルを捏造 山崎の恐喝に“手を貸した”週刊新潮  昭和六〇年三月二六日、東京地方裁判所刑事三部法廷――。吉丸真裁判長は、被告人席の中年男を見据えるようにして、判決文を読み上げていた。  「……なお、被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない。以上のように考えると、本件は犯情が悪く、被告人の罪責は重大であるといわなければならない」  つまり、被告人は最初からウソをつき、裁判でもウソの証言をするだけでなく、ウソの証拠を持ち出すなど、まったく反省の態度がない、それだけに被告人の罪は重いというのだ。  被告人席の小柄な男は、いつにもまして小さく見えた。被告の名は、山崎正友。元創価学会顧問弁護士だ。顧問弁護士が守秘義務を破って依頼主を恐喝するという、史上まれにみる犯罪、「創価学会恐喝事件」の第一審判決が下されたのである。判決は懲役三年の実刑――約四年間、七五回に及ぶ審理を通して吉丸裁判長が下した処断が、それだった。                     ◆  社会的にも大きな注目を浴びたこの恐喝事件は、犯人・山崎が巧妙にマスコミを恐喝の道具に使った点でも、きわめて特異な事件であった。山崎は、「恐喝に応じなければ、職務上知り得た学会の内情をマスコミにぶちまける」として、学会を脅したのである。恐喝に及ぶ前から、すでに山崎は複数の週刊・月刊誌の編集部とつながりを持っており、この脅しには十分な説得力があった。  そして、週刊新潮(新潮社)も、山崎が学会を恐喝するにあたって、大きな役割を果たした。結果的に、週刊新潮も山崎の犯罪を幇助したのである。それは、どのような役割であったのか? また、裁判で処断された山崎の「虚構の弁解」とは? 週刊新潮と山崎の“黒いかかわり”を見ていこう――。 週刊誌のネタになりやすいようにウソをつく  〈「内藤レポート」から削除された「池田大作女性関係」の原稿〉                               (八〇年六月二一日号)  これは、山崎正友の情報操作の手口がもっともよく現れた記事である。  「内藤レポート」とは、月刊『現代』(講談社)八〇年七月号に載った、内藤国夫執筆の記事である。〈池田大作名誉会長復権にうごめく怪情報〉と題した、この内藤の記事自体、相当エゲツない内容だが、週刊新潮は、そこから「削除された」さらにエゲツない部分(内藤本人は書いたが月刊『現代』編集部の自主規制でカットした部分、また、内藤本人ですら書くのをはばかった部分)を使って一本の記事をつくり出した。  例えば、月刊『現代』の「内藤レポート」では、池田氏が婦入部幹部「Aさん」の膝枕でくつろいだ、などという記述になっているところを、週刊新潮では、その「Aさん」が参議院議員(当時)の渡部通子さんであると実名で断定している。また、「内藤レポート」には出てこない、池田氏の「女性関係」についてもさまざまデッチ上げている。  そして、記事のクライマックスは、かつて週刊新潮も報じた「マジック事件」の子どもの父親は、実は池田氏本人だった、とした点である。  「マジック事件」とは、週刊新潮〈池田会長の「奢れる現場写真」三枚が流出した創価学会の反乱〉(七八年七月二七日号)に登場するエピソード。学会本部近隣に住む幹部夫妻の幼女の頬に、池田氏がマジックをちょんちょんと塗った――要はそれだけのことである。だが、その様子を写した写真が山崎によって内藤国夫や週刊新潮編集部の手に渡り、さも大事件であるかのごとく書き立てられたのだ。“学会幹部の子とはいえ、他人の子の顔にイタズラ書きをするとは何事か。これこそ池田の奢りの象徴だ”というわけだ。  学会側は、“これはむしろ名誉会長の子ども好きを象徴するエピソードであり、茶目っ気でマジックをつけたに過ぎない”と反論している。たしかに客観的にみても、「事件」というほどの出来事とはとても思えない。  ところが山崎は、これを本当の「事件」に仕立てるべく、恐るべきデマを上乗せして内藤国夫に伝えた。それは、「この『マジック事件』の父親は実は池田大作だ」と吹き込んだのであった。  さきの月刊『現代』の記事で、内藤はこう書いている。  「池田氏のウラのウラを知る側近幹部が“極秘情報”を打ち明けなさる。  『あの子の親は、実は池田大作さん、ともっぱらの噂です。はっきりした証拠があるわけではないけれど、ふだんから、大変な可愛がりよう。可愛さあまって、ついマジックをとなったのでしょうか』  まさか、とは思う。あってはならぬ話。いくらなんでも、それほどひどいことは、なさりますまい。私自身、信じきれるものでは、とうていない」  本気でそこまで言うならきちんと事実確認をするのが当然であろう、はっきりした証拠はないと自分でも言っているくらいなのだから。ところがこの話を聞いて“義憤”にかられた内藤は、ウラも取らずにそのまま記事に書いてしまったのである。「側近幹部」とはもちろん山崎のことである。そして週刊新潮〈「内藤レポートから削除された「池田大作女性関係の原稿」〉も、次のような内藤のコメントまで載せて、この話を報じた。  「いまの創価学会にとってシンボリックなのが、あのマジック事件の子供についての話だと思った。ウワサが学会幹部の間で流れていること自体、異常だと思いました」と。  たしかに子どもの父親が池田氏と断定はしていない。だが、この書き方で、池田氏に対して見事に悪い印象だけが残る。  そして、池田氏についての捏造スキャンダル報道が裁かれた『月刊ペン』裁判(差し戻し審)では、内藤も証言に立った(八二年四月九日)。そこで内藤は、月刊現代の“マジック事件の子の父親は池田氏”なる記事について検事に尋問され、次のような醜態をさらした。  検事 あなたは、この話を聞いて、その真実(父親が池田氏であるのかどうか)、正否を調べたのか?  内藤 いや、調べない。  何ということだ。話を聞いたあとも、確認取材すらしていない。証拠もないと自覚していながら、山崎に吹き込まれた話だけで書いているのだ。もちろん、この子と池田氏とは何にも関係ない。  一人の造反幹部・山崎正友の話を鵜呑みにして、下品な女性スキャンダルで池田氏の名誉を傷つけたばかりか、幼い子供の一生にかかわる大事を、ウラも取らずに記事にして公表したのである。こんな男がいけしゃあしゃあとジャーナリストを名乗っているのだ! 恥を知るべきだ。山崎にしてみれば、自分のデマを何も確認もせず鵜呑みにしてくれる内藤のような御しやすい書き手は、まことに都合のよい存在なのだ。こんな便利な内藤国夫がいたことによって、山崎正友のマスコミ工作はスムーズに運んだのだった。 週刊新潮は“女性スキャンダル”を担当  ところで、「内藤レポート」が載った月刊『現代』(八〇年七月号)と、〈「内藤レポート」から削除された〜〉が載った週刊新潮は、何と同じ日(八〇年六月五日)に発売されている! しかも、やはり同じ日に発売された『週刊文春』も、同様の学会ネタを扱っていた。つまり、同じ学会ネタが三誌に一度に載ったのだ。本来は、月刊『現代』の「内藤レポート」が先に出て、その記事を見て、後追い取材という形で『週刊新潮』や『週刊文春』が記事にするのが通常なのだが――。  なぜこんな珍妙な事態になったのかと言えば、山崎が、内容確認のために渡された月刊『現代』のゲラ(校正用試し刷り)を、こともあろうに『週刊新潮』『週刊文春』の二誌に、そのまま横流ししたからである。  しかも、山崎は同じゲラを学会首脳にも渡し、なんと、それを脅迫のネタにしたのだ。三誌が一度に“山崎情報”による学会批判を掲載することによって、自分がマスコミに対して大きな力を持っていること、学会報道を自在に操れることを強くアピールしたのだ。  『判例時報』一一六○号に掲載された〈創価学会恐喝事件第一審判決〉には、山崎がこの「内藤ゲラ」をネタに学会を脅す様子が、生々しく再現されている。  「マスコミを怒らせたらああいうふうになりますよ」「内藤さん、もう一発書くよ」「新潮はあれでも生ぬるいって言って騒いでいたね。もっとどぎつく書きまくるって言ってるよ」「本当に僕が戦争するというんだったら、マスコミの力を借りてやるしかないんですよ」(以上、すべて学会顧問弁護士・桐ヶ谷章氏に対する言葉)  以上の一例だけを見ても、山崎という男のずる賢さがよく分かる。山崎はここで、「マジック事件」というたった一つのネタ、しかも実際には事件でも何でもない話を、それだからこそ「実は池田会長の子どもだ」などとマスコミ受けを狙って捏造し、二度三度と繰り返し記事にして最大限に利用したのだ。実に陰険で巧妙なマスコミ操作である。  ここまでの経過を学会恐喝裁判での証言からまとめてみると――。  昭和五五年五月一八日  内藤、月刊『現代』七月号の〈池田大作名誉会長復権にうごめく怪情報〉の原稿を書きあげる(この原稿のネタ元は、五月一三日、山崎、原島から内藤が聞いた“盗聴事件”等の話である)。ホテル・グランドパレス(東京・九段)で原稿を山崎に見せる。  山崎「おだやかな原稿だ」と言う。そこで、飯田橋のチャンコ料理店で、山崎、“マジック事件”の子供の父親が名誉会長であるとマスコミ受けするように吹き込む。内藤、ショックを受け、トーン・アップした原稿に書き直す。 五月二〇日  内藤の書き直し原稿できる。ホテル・グランドパレスで、夕方、山崎が来て、原稿を見る。そこに杉本氏(当時・月刊『現代』編集次長)、原稿をとりに来る。杉本氏、原稿を読んで内容がひどいので、書き直しを依頼。その際、内藤は「女の話、盗聴等、山崎さんから聞いたから真実だ」と話す。 五月二一日  杉本氏、再度手直しした内藤原稿を学士会館(東京・一橋)で受けとる。 五月二三日  午後八時、山崎が講談社(月刊現代編集部がある)に来て、内藤ゲラ(初校ゲラ)を持って帰る(事前に内藤国夫が、自分は京都に行くので、ゲラを山崎に渡すように杉本氏に依頼していた)。 五月二四、二五日  山崎、『週刊新潮』『週刊文春』に、月刊『現代』の初校ゲラを流す 五月末  山崎、内藤に電話。山崎「週刊新潮と週刊文春に、内藤さんが書いたような内容の記事が載るがいいか、情報を流した」、内藤「月刊現代の発売日前は困る」と。  以上の話は、週刊新潮が“山崎情報”によって池田氏のスキャンダルを行なったうちの、ほんの一例でしかない。七〇年代後半から八〇年代初頭にかけて、山崎は学会批判を池田氏にしぼり、それもマスコミうけしやすい女性スキャンダルというやり方で攻める。当初は自分は表面に出ずに“マジック事件”同様、内藤に耳うちして書かせるモノが多かったが、しだいに正体を現わしてくる。例えば――。  七九年五月一〇日号〈「女」や「カネ」の噂まで出た池田大作辞任劇の俗臭〉は、リークで書かせたもの。  八〇年十二月二五日号〈山崎弁護士に「学会反乱」を決意させた自らの「女の問題」〉で、名前を出し、正体を明かす。  八二年三月一一日号〈創価学会裏面史(中)もう嘘は書けない、池田大作をめぐる「未発表の女」たち〉では、遂に自ら手記を書く。  これらはいずれも池田氏の“女性スキャンダル”を扱ったものだが、その内容がお粗末な捏造に満ちていたことは、裁判の審理の過程で明らかになっていった。  裁判で厳格な事実認定を迫られると、にわかにあやしげになってくる下ネタ話を山崎正友は平然と話したり手記にしたりしている。また、こんなことが週刊新潮では堂々とまかり通っている。  池田氏への低劣なスキャンダル攻撃が増えたのが、この時期の反学会キャンペーンの特徴だったが、なかでも週刊新潮は、一番スキャンダラスな部分、すなわち“オンナとカネ”の問題をもっぱら受け持って報じていた。これもまた、山崎のマスコミ操作の一つであった。山崎は、複数の月刊・週刊誌に反学会報道を煽るなかで、その雑誌のイメージや性格によって、与える情報を微妙に区別し、役割分担をさせていたのだ。  そして、週刊新潮にいちばん下劣な“オンナとカネ”というエゲツない部分を分担させたのだ。というのも、週刊新潮では、記事タイトルを取材や記事作成に先立ってすべて立案するといわれる「新潮社の“天皇”齋藤十一(専務取締役)は、自らを『俗物』と称し、週刊新潮のコンセプトは『金と女と事件』だ」と明言しているからだ(『ビジネス・インテリジェンス』九三年十二月号)。つまり、週刊新潮は金と女のネタであればみさかいなく取り上げる。それを、山崎は知っていたのだ。下劣なデマを流す男も男だが、それを好んで記事にするという週刊新潮は、マスコミとは言えまい。 盗んだ資料でつくられた記事  週刊新潮と山崎とのつながりは七八年に始まった。八一年九月二八日、創価学会恐喝事件の審理に出廷した広野輝夫氏(山崎のかつての秘書役)は、両者の接触の始まりを、次のように証言している。  広野 昭和五三年の四月と七月の二回にわたり、山崎さんに頼まれ私が週刊新潮に資料を渡しました。一回目の四月には、社長会記録と学会員の犯罪リストを渡しました。  検事 どういうふうに渡したか?  広野 ある日、山崎さんが「広野ちゃん、いいもの見つかった」と、社長会記録を見せ、「これを五〜六部コピーしなさい」と言いました。後日、そのうちの一部を週刊新潮に持って行けと言われました。「できるだけ夜中遅く行って、新潮社の守衛に渡してこい」と言われ、そうしました。そのあと、私は土井という偽名で週刊新潮の“松田さん”と喫茶店で会うように山崎さんに言われ、会いました。  生々しい証言である。この頃、山崎はまだ表立っては造反態度を示していなかった、自分は表に出ず、広野氏をパイプとして週刊誌に情報資料を流していたのであった。このとき週刊新潮に渡した資料は、山崎が顧問弁護士の立場を利用して入手し、学会本部の別館に隠しておいたものだという。それを偶然「見つかった」と称して渡すあたり、なかなか芸が細かい。  ちなみに、広野証言にある「松田さん」とは、当時の担当デスクだった松田宏・現編集長である。  こうして「社長会記録」と「犯罪者リスト」が週刊新潮に渡ったのであるが、五三年四月六日頃、山崎から、広野氏は「週刊新潮の戸田記者が会いたいと言っている。『井上』という名前で会え。俺は『藤井』という名前になっている。俺の立場は一切言うな」と指示され、東京・永田町のヒルトン・ホテルのティーラウンジで戸田記者と会った。その時、戸田記者は「記事として学会問題を取り上げるか否かは、私の一存では判断できない。上司の松田と藤井さんと直接会ってみないとわからない」と述べた。  山崎は、広野氏からその報告を受けると、  「わかった、ホテル・オークラを使って、そこでうまくやろう」  山崎は、ホテル・オークラに廊下をはさんで二部屋とらせた。  広野氏が指定された部屋に入って待っていると、山崎から電話で、  「俺は、廊下をはさんだ前の部屋にいる。まもなくそこへ『週刊新潮』の戸田と松田が来るはずだ。むこうが聞いてきたことについて、すぐ電話で俺に言え。そして俺が指示するとおり答えろ」  しばらくして、松田、戸田の両記者が、広野氏の部屋に来て、いろいろ質問、その度に広野氏は、ホテルの内線で山崎に電話し、その指示通り答えた。そのうち、広野経由ではラチがあかず、山崎自身が直接電話口に出て松田記者と話を始めた。  前の部屋には、山崎と山崎の運転手の大豆生田氏がいたが、大豆生田氏の証言では「山崎は、内線電話にハンカチをかぶせ、声色を変えて、『藤井ですが』と名乗って、種々話をしていた」という。  山崎が資料を流してから週刊新潮の記者を取り込んでいくまでの様子が実によく分かる。  このようにして週刊新潮に渡った二つの資料は、〈「池田体制」のヒビ割れを語る「創価学会犯罪者リスト」の流出〉(七八年四月二〇日号)という記事となり、山崎のもくろみはものの見事に成功した。  ここで山崎がやった内部資料の漏洩は、きわめて背信性の高い行為である。早い話がコソ泥だ。しかも、山崎が学会本部から盗み出したのはこの二つの資料だけではない。七九年九月二一日には、やはり造反した原島嵩(当時・創価学会教学部長)と組んで、より大がかりな窃盗を行なっている。学会本部から、ダンボール十三箱に及ぶ内部資料を原島に持ち出させ、それを山崎の事務所に運んだのだ。  面白いことに、山崎は、この資料持ち出しについて池田氏に謝罪を行なっている。七九年一一月二八日、学会本部の一室でのことである。山崎は正座し、深々と頭を下げて、次のように語ったという。  「先生、このたびは、お詫びしてもお詫びし切れない、大変に悪いことをしてしまいました。本当に申し訳ありません」  しかし、その舌の根も乾かぬうちに、学会と宗門との分断工作を進め、それが発覚するや、またまた池田氏に詫びを入れている。今度は、八〇年三月二日、新宿文化会館においてであった。このときも山崎は正座して頭を下げ、  「策を使い、先生をここまで苦しめたことに対し、心からお詫び申し上げます」  と、涙ながらに言ったという。そのすぐあとに今度は創価学会恐喝に走るのだから、あきれてものも言えない。  泣いて詫びては、またすぐ裏切る――どこまでも性根の腐った男なのだ。  そして、奇怪千万なのは、山崎の恐喝を結果的に幇助した週刊新潮が、そのことに対する何らの反省もなく、いまもなお山崎を重用し続けていることだ。  山崎が恐喝罪で服役し、九三年に出獄したとたん、真っ先に学会批判記事を書かせたのも、週刊新潮であった。九三年一〇月二一日号に、山崎は〈神崎郵政大臣は「盗聴仲間」だった〉なる手記を寄せている。当時は、細川連立政権で公明党(当時)が初の入閣を果たした直後で、山崎の“手記”は、公明党から郵政大臣となった神崎武法氏を攻撃するには格好のネタであった。その内容はといえば、実際は、山崎自身が勝手にやった宮本顕治・共産党議長邸盗聴を、神崎氏ら学会の組織ぐるみの犯行であったとする悪質なデマである。  事実はこうである。  「山崎の指示により、昭和四五年五月から七月にかけて、日本共産党・宮本書記長宅(当時)の電話盗聴を行った」との広野氏の証言(五六年一〇月一四日公判)には次のようにある。  広野氏は、盗聴の計画を山崎から明かされたとき「学会本部の指示なのですか」と反問した。すると山崎は「お前は学会本部の指示でなければできないのか。そんなことで仕事ができるか」と言ったという。更に、「学会首脳には他言するな」と念を押したうえで、山崎が独断で決めて、広野氏にやらせたのだった。  また、創価学会は、昭和四五年五月三日の第三十三回本部総会で、共産党への基本的な態度を明確にしており、どう考えても共産党の情報など全く必要としていなかったので、広野氏は「それでも盗聴する必要はあるのか」と、山崎に再度確認した。山崎は「学会首脳の考えは甘い。必ず共産党の情報は必要になる」と言い、盗聴を実行させた。  ところが山崎は、その後の裁判で「(昭和四十五年七月三十日の夏季講習会の)席上、池田会長(当時)から、『お前はこんなところにいないで、すぐ帰って“後始末”せよ』と厳しく叱責され、自分はすぐさま下山の報告書を書き、その日のうちに帰京した。その帰り際、神崎氏ら検事に、事件の事後処理について相談した」と証言している。  また、この手記でもこの証言と同じことを繰り返し、当時、池田会長も神崎氏も盗聴について知っていたかのように書いているのだ。  ところが、この山崎の証言は、すでに過去の裁判(五六年六月一六日第十一回口頭弁論)において、そのウソが立証されている。山崎は「七月三〇日、厳しく叱責されて帰京」どころか、講習会の最終日までずっと参加しており、講習会の模様を記録した数多くの写真に、ハッキリと顔が写っている。つまり、池田会長に叱責されたことも、神崎氏に相談したことも山崎のつくり話であったのだ。  冒頭で紹介した吉丸真裁判長の判決文にもあったように「〜虚構の弁解を作出」する山崎に対し、“盗聴仲間”とされた神崎郵政大臣(当時)は「当時、私は福岡地検小倉支部の検事をしており、物理的に関与できるはずもない」と、平成五年一〇月四日の衆議院予算委員会においてハッキリと山崎との関与を否定している。  裁判(第十一回口頭弁論)ですでに明確に否定された自らの偽証を、大半の読者が事情を知らないのをいいことに、性懲りもなく“リサイクル”しているのだ。骨の髄まで大ウソつきの山崎らしい、なりふり構わぬやり口である。 山崎なしでもデッチ上げをやってきた週刊新潮  以上、山崎正友と組んで週刊新潮がやってきた“捏造報道”を並べてみた。だが、山崎からのリークがなければデッチ上げ記事ができないのかといえば、そんなことはない。創価学会報道における“オンナ”がらみの捏造は、もともと週刊新潮の十八番なのだ。その実例を、次に紹介してみよう。  まず、さかのぼって、〈池田大作会長「ナゾの四十日」と“疑惑の女”石井孝子〉(七〇年四月一八日号)なる記事。  七〇年に起こったいわゆる「言論問題」(創価学会が、学会批判の単行本を組織的に出版妨害したとされる事件)により、学会はマスコミから総攻撃を加えられていたが、大部分は、当然のことながら、「言論の自由」の観点から学会を批判するものであった。だが、週刊新潮は、編集コンセプトが“金と女と事件”だけに、どうせ“学会を叩くなら女性スキャンダルにしろ”とばかり、以下のような記事をデッチ上げた。  「言論問題」で紛糾する七〇年一月から二月にかけて、池田氏が四十日間にわたってマスコミから姿を消したことがあったのだという。それが「ナゾの四十日間」というわけだ。その間に、日蓮正宗の日達法主(当時)が池田氏を呼びつけたらしいと、『新宗教新聞』編集長・清水雅人が記事中で語っている。  では、一方の“疑惑の女”とは何かといえば、やはり清水雅人が、次のようにコメントしている。  「知人の某氏によれば、会長は大石寺から帰京すると、まっすぐある女性のところに行くことがあるらしい。彼女は、赤坂の芸者だった人で、赤坂七丁目に住む石井孝子さん。『S』という置家の看板を持っているが、現在は休養中で、小唄かなんか教えている」  池田氏が本山に呼びつけられて云々ということが、実際にあったかどうかは知らないし、それはひとまずおく。問題なのは、「ナゾの四十日間」と「疑惑の女」の間に、どんなつながりがあるのかが、どこにも書かれていないということだ。そもそも、何が「疑惑」なのかも判然としない。池田氏とこの女性との“特別な関係”をほのめかしているつもりなのだろうが、その根拠はといっても清水雅人の伝聞によるコメントだけなのだ。そのくせ、この女性の実名を出してしまうのだから、ひどいヤリ口だ。早い話が、真偽も何も分からぬ噂話を実在の人物の名前を出すことで、さも本当らしく装ったものに過ぎないのだ。  当時、週刊新潮の編集者をしていたジャーナリストの亀井淳氏は、著書「『週刊新潮』の内幕」(第三文明社)の中で、この記事の裏話を披露している。  「この記事の取材過程については私は全く知らなかったが、校了の日のことは印象に残っている。担当した記者、編集者二人ほどを前に据えて、野平編集長が怒りまくっていた。(中略)野平氏の怒りは、要するに、“これでは事実があったんだかなかったんだか分からない”“なんとかしろ”と責めているのだった。  紹介したように、この“ナゾの四十日”と“赤坂の女”の話は、二つとも清水氏の情報である。だが最初のゲラでは、清水氏の存在は伏せられていた」  そして担当者は、野平編集長(健一・現常務取締役)の怒りをかわすため、情報ソースである清水氏との約束を破って、記事中に清水氏の名前を出してしまった。その結果、担当者は清水氏・創価学会・石井孝子さんの三者から抗議を受けたという。  反学会情報を鵜呑みにし、ウラも一切取らずに記事にするやり口といい、“オンナ”がらみの低劣な内容といい、週刊新潮はこの当時から、こんな乱暴な記事づくりをやっていたのだ。 実在しない“オンナ”を次々と捏造  週刊新潮が、実在しない“池田大作のオンナ”を捏造した例は、ほかにもある。  例えば、〈池田名誉会長が「醜聞アッパー」を受けた創価学会の「よろめき」〉(八〇年六月一九日号)。  「『背筋が寒くなるほど猟奇じみた』池田大作名誉会長の女の問題」(リード文)について紹介したものだが、そこに紹介された話の捏造のひどさのほうこそ、「背筋が寒くなるほど」だ。  この記事には、次のような匿名コメントがある。  「東京・小平市に住む古くからの学会員の娘さんが、池田さんに妊娠させられたというんです。で、学会から北条さん(現会長)が二百万円持って謝りにきた。親が怒ったところ三百万円上積みして、示談にして堕ろしたらしい。去年の春だっていうんです。  立川の文化会館の三階には会長専用の部屋があって、一昨年十一月ごろから一ヵ月そこに閉じこもったことがある。実は、問題の娘さんは創価高校の二年生で、グレていた。で、池田センセイが“その娘を会館によこしなさい。意見して直してあげるから”といったので、両親はありがたく娘さんを会館にやった。  以後一ヵ月、娘さんは会館から通学した。その間の出来事だろう、というんですね」  ところが、これがまったくのウソ。まずなにより、記事中の「一昨年」、つまり七八年当時、創価高校は男子校で、女生徒など一人もいなかった。関西には当時から創価女子高校があったが、東京・立川から通学したというのだから、関西校の話ではあり得ない。  また、野崎勲氏の著書『創価学会の真実』(毎日新聞社)によれば、「当時の池田会長が、立川文化会館に、一ヵ月、滞在したこともなければ、女学生を泊めたことなどもとよりない。まして、当時の北条理事長が、小平市のいかなるメンバーに対しても、三百万などの示談金と称するものを払った事実は、一度もない」という。何ということだ。記事の一部に誤りがあったというなら、まだ分かる。これはまるっきりの捏造である。それも下品な下ネタを平然と個人名を出してもっともらしく書く。  火どころか煙すらないところに、週刊新潮は“醜聞の放火”を堂々とやってみせたのだ! 果たして――週刊新潮編集長に“同様の話がある”と書いても編集長は怒らないのだろうか?。                     ◆  もう一つ例を挙げよう。「醜聞アッパー」記事から二年半後、八二年一二月二三/三〇日号に載った、〈「検察」が調査に乗り出した「池田大作」をめぐる「富山の女」〉なる記事である。  ここでの“デマ情報提供者”は山崎正友ではなく、富山市の佐藤由太郎なる脱会者。  『月刊ペン』の捏造報道においても、同誌編集長・隈部大蔵に“情報提供”した、いわくつきの人物だ。記事は、この男のメモと話を鵜呑みにして構成され、さも池田氏が富山の女性とスキャンダルを起こしたかのように書かれている。その中身は、おおむね次のようなものだ。  七一年から七三年くらいの間に、富山県高岡市に住む学会員姉妹がたて続けに池田氏の子を身ごもった。まず姉が、七一年に東京の池田家にお手伝いとして働くうち、身ごもって富山に帰り、その後、精神異常になった。そこで今度は妹を池田家にお手伝いとして住み込ませたが、やはり妊娠して富山に帰り、地元で大騒ぎになった――。  およそ荒唐無稽な、安手のポルノ小説でも恥かしくて書けないような話である。まず素朴な疑問として、姉が本当に池田氏の子を身ごもって帰ったのなら、なぜ代わりに妹を行かせるのだろう? 週刊新潮の記者は、その点をいぶかしく感じなかったのだろうか?  そして、やはりというべきか、この話には明らかなウソがぎっしり詰めこまれていたのである。いや、ウソが多かったというより、ウソで固められた話だったのだ。  高岡市から、姉妹でお手伝いとして住み込んだことがあるといえば、山村清一・創価学会富山県副県長(当時)の長女・次女の姉妹の他に該当者は見当たらない。この姉妹が池田家にお手伝いとして住み込んだことがあるにはあった。だが、事実として認められるのは、この一点だけである。他は全部デタラメであった。  記事では七一年に妊娠し、富山で出産したことになっている姉は、六三年九月から池田家に勤め、六九年には東京で結婚し、三人の子供をいずれも東京で出産している。  また、姉が帰ってきたので代わりに行ったとされる妹は、実際には、姉の結婚が決まったため六八年九月から池田家に勤め、七四年に富山で結婚するまで働いた。  以上の事実は、八三年一月一八日、姉妹の父・山村清一氏が『月刊ペン』裁判に証人として出廷し、明らかにされた事実である。「高岡市から池田家にお手伝いに行った姉妹」さえいれば後はどんな下品なスキャンダルでもつくれるのだ。そして、それを週刊新潮は事実確認もせずに書きまくる。これを犯罪と呼ばずして何というのか!  記事中に引用された佐藤由太郎のメモでさえ、「……以上、徳田の妻君、西崎の妻君、山崎博の言」などと、佐藤が直接見知った事実ではなく、他人から聞いたあやふやな伝聞なのだ。こんなメモさえも“証拠資料”とし、平気でスキャンダルを書き立て、全国で売る。それによって傷つく人たちのことなどまるで気にかけない。要は雑誌が売れれば良いのだ。  山村氏は、もとより、事実無根の中傷を受けた二人の娘さんは、どんなに深い心の傷を負ったことだろうか。そして、よくもこれだけ根も葉もないウソを書けるものだ。学会を中傷するためなら誰かれかまわず平気で人権侵害も犯す週刊新潮の危険な体質は、昔も今も全く変わらないようだ。 山崎正友のマスコミ工作と、それを証明する「週刊新潮」記事 七〇年 「言論問題」が起こる、山崎正友、創価学会顧問弁護士として対応。 マスコミの第一次反創価学会キャンペーン。 七六年 月刊『ペン』三、四月号に、池田会長(当時)に対する悪質な捏造記事が掲載される。学会は、同誌編集局長・故隈部大蔵を名誉毀損で告訴。 (後に山崎正友は悪意の上申書を提出し、差し戻し裁判に持ち込む。差し戻し裁判では「月刊ペン」側に付き、虚偽の証言を) 七七年 山崎正友が、反学会の怪情報(学会と宗門の仲違い)をマスコミ各社にリーク。週刊新潮が「メッカ大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ただ今ゼロ」(七月二八日号)を。 八月頃より、週刊文春でも山崎の流した情報により「宗門と学会の対立」をテーマに反学会キャンペーンを展開。 内藤国夫が、月刊『現代』十二月号と翌年一月号で、「創価学会と池田大作会長の変貌」を書く(後に山崎が情報を流して内藤に書かせる)。 七八年 山崎正友が匿名で「ある信者からの手紙」という学会批判文書を流す。 これによって、宗門の若手僧侶達の間で反学会色が強まる。 山崎正友、週刊新潮編集部員と接触。 「『池田体制』のヒビ割れを語る『創価学会犯罪者リスト』の流出」(四月二〇日号) 山崎の情報リークにより、池田名誉会長のマジック事件を扱った「池田会長の『奢れる現場写真』三枚が流出した創価学会の反乱」(七月二七日号)。 七九年 池田会長(当時)五月三日勇退、名誉会長に。 「『女』や『カネ』の噂まで出た池田大作辞任劇の俗臭」(五月一〇日号)を皮切りに、学会攻撃のテーマが「宗門問題」から「女・カネ」へと変化。 週刊新潮等、マスコミが山崎の意のままに操られる。 「池田大作名誉会長『国会喚問』の大攻防」(五月二四日号)など、山崎情報による記事作りをゴマ化すため、別種類のテーマによる攪乱記事も掲載。 八〇年 山崎が創価学会を恐喝するため、内藤国夫に月刊『現代』七月号に「池田大作名誉会長復権にうごめく怪情報」を書かせる(また、「週刊新潮」「週刊文春」も同様に山崎が売り込み、学会恐喝のネタにする。それが「『内藤レポート』から削除された『池田大作女性関係』の原稿」〈六月一二日号〉)。 『週刊文春』では山崎の長期連載手記が掲載された。 八一年 山崎正友、創価学会に対する恐喝容疑で、一月二四日逮捕。 第八章「わたしは“衝突犯”にさせられた」               (白山信之) 国会でもわたしが犯人と  平成六年の七月。北海道で、ある交通事故が起こった。翌日の『北海道新聞』は、この事故を「トラックと衝突 乗用車の僧死ぬ」と見出しをつけ一六行のベタ記事で、次のように報じた。  「二十一日午後六時十分ごろ、胆振管内大滝村清陵一〇の国道で、室蘭市八丁目平三ノ三二、僧りょ大橋信明さん(四六)の乗用車が道路左側の縁石に接触、弾みで対向車線に飛び出し、苫小牧市双葉町二ノ四ノ一三、自営業白山信之さん(四七)のトラックと衝突した。大橋さんは同管内虻田町の病院に収容されたが、同十時すぎ、全身打撲、肺挫傷などで死亡した。伊達署で詳しい原因を調べている」  その後の警察の調べでも、センターラインを越える暴走によって事故を起こしたのは、“僧侶=大橋住職”のほうだったことが明らかになった。警察も、保険会社も、この事故は一〇〇パーセント大橋住職の過失で、トラックの運転手=白山さんは被害者であると断定している。  いわば暴走した僧侶の“自爆事故”である。ただ、それだけの事故だった。  ところが、事故から四〇日後、九月一日に発売された週刊新潮が、この事故を五ページにもわたって報道したのである。そこには「大石寺『僧侶』を衝突死させた創価学会幹部」という見出しが躍っていた。  記事は、初めから「大橋住職の知人」「信徒」「住職の友人」なる人物たちの風聞、想像や出所不明の怪文書をもとに構成されており、事実の裏付け取材が全くなされていないものだった。あたかも学会員が大橋住職の車を猛追撃し、センターラインをオーバーさせ、対向車線のトラックに衝突させたかのような印象をもたせる、荒唐無稽なストーリーが展開されていた。  しかし、顛末はそれだけではなかった。  なんと、またまたその四〇日後の一〇月一一日に、この記事が国会にまで持ち込まれたのだ。自民党の川崎二郎代議士が、予算委員会において次の発言を行なった。  「私どもが非常に注目しております二つの文通事故をご紹介したいと思います。まあ、ちょっと書き方が過激すぎると思いますけどね。これね。はい。週刊新潮。『大石寺「僧侶」を衝突死させた創価学会幹部』という書き方をしてるんですね」  川崎代議士は、週刊新潮の論旨をそのまま鵜呑みにして、わざわざ国会の場で取り上げ、発言した。政治上の争いのために一庶民の人権が踏みにじられた、と言っていいだろう。しかも、その模様は公共放送の電波に乗って全国中継された。  ある日、突然、無実の人間が、ましてや被害者が殺人者呼ばわりされたら、その人の生活は、いったいどうなってしまうだろうか。こんな野蛮な行為が、マスコミや国政の場で堂々と行なわれたのだ。キチンと確認もせずに一方的に取り上げた週刊新潮の記事や川崎代議士の発言は、恐るべき“人権侵害”である。  そもそもの始まりである週刊新潮の記事は、どんな経緯でつくられていったのだろうか。 “事故で死なせた”という週刊新潮の理論  週刊新潮の記事には、被害者でありトラックを運転していた白山さんのコメントも載っている。そこには「間違えないで下さい。私は被害者なんです」という明確な言葉が語られている。なのに、どうしてその人が「衝突死させた創価学会幹部」となってしまうのか。  当然ながら、記事を読んだ白山さんも、創価学会本部も、週刊新潮に抗議を行なった。それに対する回答書は、抗議を「笑止千万な言いがかり」と決めつけ、「『事故で死んだ』当人が『事故死した』なら、相手方から見れば『事故で死なせた』となることは小学生でも分かる理屈ではないでしょうか」などという珍妙なスリカエの言いわけで押し通した。  白山さんは被害者である。「死なせた」という言葉は、その背景に犯意や過失があってこそ使える言葉だ。この「小学生でも分かる理屈」でいえば、大金を盗まれた被害者は、“ドロボウに大金を盗ませた男”になり、ジェット機がハイジャックされても“ハイジャックさせたジェット機”になってしまう。噴飯ものの屁理屈だ。  そんな週刊新潮が、被害者の白山さんに対して、どんな取材をしたのか。白山夫妻の話を聞いてみた。 始めから終りまで暴言と挑発の“取材”  ――白山栄子夫人(四五)の証言  その日(平成六年八月二二日)は、北海道ではめずらしく暑い日で、戸も窓も開けっ放しにしていたんです。朝の十時半ごろでしたか。突然、玄関のほうで「ゴメンください」「ゴメンください」と、大きな声がするので行ってみると、背広姿のスラリとした男性が二人立っていたんです。誰かしらと思っていると、いきなり、こう言うんです。「週刊新潮の者ですが、この間の車をぶつけたことについて聞きたいと思って――」。反射的に、「うちはぶつけたんじゃありません。ぶつけられたんです」と言い返しました。“ぶつけた”なんて何を言いだすの、という気持ちでした。  記者も意外なほどアッサリ、「ああそうですね」と納得したんです。それでも、私より主人のほうがくわしい話が聞けると思ったのか、「ご主人はどこに行っているんですか。連絡をとってください」と言うのです。だから、「主人は、いま仕事中なので、それは困ります」と言いました。  それでもしつこく記者の人たちは、「いつ帰ってくるんですか」と聞きます。「夕方でないと帰りませんよ」と言うと、鳥山昌宏記者(後で名刺を見て分かったのですが)が、「すぐに連絡をとらないと大変なことになりますよ」と、突然、脅迫めいたことを言い出したので、「ウチは大変なことになるようなことは、何もしてません」と言ったんです。  すると、もう一人の庄司一郎記者が、「宗門と学会がケンカしているんですが、お宅は創価学会と関係あるんですか」と。それで「事故と学会と何の関係があるんですか? 事故のことなら警察で聞いてください」と言ってやったんです。  二人は、名刺も出さずに引き揚げていきました。ところが三〇分ぐらいして、また戻って来ました。今度は名刺を出して、「改めて、もう一度聞きたいのですが――」って。何を聞くのかと思ったら、「お宅のご主人は創価学会で役職を何かやっているんですか?」と言うんです。  「〜役職を」と言うからには、すでに下調べしてきたんだなと思いました。私はさっきのふたりの態度で腹を立てていたので、一言、「地区部長です」と言いました。それが聞こえなかったのか、「支部長さんなんですか?」と、また聞くんです。「違います」と言うと、「じゃ、一般の会員の方ですか?」というので、面倒くさくなって「そうです」と答えてやりました。なんでそんなに学会の役職にこだわるのか不思議でした。  その後もいろいろ聞いてきました。主人の事故が法華講六万総登山の直前(六万総登山は七月二三〜二四日。事故は七月二一日)でしたから、「六万総登山に対して、学会員の妨害がアチコチで起こっているけど知ってますか?」とか、「いろいろ会合などもやっているんでしょう?」とか、まるで学会員が集まって悪い相談をしているかのような言い方をするんです。だから「そんな(会合)は知りません」と言うと、今度は質問を変えて、「大橋住職の顔は知ってる?」「車は何か(車種)知ってるでしょう?」「彼(大橋住職)のスケジュールは知ってたのでしょう?」と、立て続けに質問をあびせてきたんです。  その言い方は、まるで私たち夫婦が、大橋住職を以前から知っていて、事故を仕掛けたのだろうというような口ぶりでした。私は大きな声で「知りませんッ」と、言いました。ホントに知らないんだから、それ以上答えようがありません。  記者は、最後に手に持っていたファイルからチラシを出して、「こういうのが出ているんですが、知ってますか?」と見せたんです。初めて見るチラシだったので、「いいえ、初めて見ます」と答えたんですが、彼らは「宗門で聞いたのですが、この号外チラシが大量に出回っているんです。事故が起きて四時間後に住職が亡くなり、亡くなってからわずか二時間後にこんなチラシが配られているんです。あんまり手際がいいので、偶然とは思えないんですよね」って、こんなヒドい言い方をするんです。  もう悔しくて、悔しくて。「手際がいい」とか、「偶然とは思えないですよね」っていう言い方は、暗に“お前たちはこのチラシに関係があるんじゃないのか”という意味でしょう。そんな質問ってあります? 暴言ですよ。あの人たちの態度は取材なんて生やさしいものじゃありません。始めから終りまで暴言と挑発でした。  私も怒りで気が動転して、思うように言葉が出ませんでしたが、「下手したら、こっちが死んでいたかもしれないんですよ。お宅さんたちだったら、そんなこと(事故を仕掛けることを)できますか?」と、言い返してやりました。  それでやっと引き揚げたかと思ったら、今度は二時半ごろ電話があって、「(日蓮)正宗の人に聞いたら、お宅のご主人は一般会員じゃなくて役職があるじゃないですか」って責めるような言い方をするんです。だから、「支部長ですか? と聞かれたから、違いますと言っただけだ」と突っぱねました。  ところが、また、夕方六時半ごろ、庄司記者が来ました。「もう、(主人は)帰って来ましたか?」って。とにかくしつこいんです。「何時になるか分かりません」と言ってやりました。  主人が帰って来たのは、八時でした。その二、三分後、庄司記者が飛び込んで来たのです。近くで、ズーッと見張っていたんでしょう。 何かをデッチ上げようとしている意図がありあり  ――白山信之さん(四八)の証言  夜の八時ごろです。私が家に帰ってくると、すぐに庄司一郎という記者が、一人でやって来たんです。記者は開口一番、「伊達警察署に行ったけど、教えてもらえないので事故の様子を教えてほしい」って言うのです。  それで事故の一部始終を話して、「アッチ(大橋住職)が一方的に突っ込んできたんだ。そのことは警察も十分知っている」と説明しました。  すると、今度は「室蘭の大橋住職は以前から知っていたんですか?」と聞いてきたので、私は「室蘭の寺には行ったこともないので知らないし、会ったこともない」と答えました。それでも庄司記者は「大橋住職の車は知っていたのでは――」と言い、私が「知らないですよ」と答えると、今度はファイルから出したチラシを見せて、「こういったチラシを見たことがありますか?」と聞くんです。初めて見るものなので「見たことなどない。いま初めて見ます」と答えました。  この頃になってやっと彼の意図が分かりました。庄司記者は、警察で説明してもらえなかった事故のことを私に聞きに来たのではありません。すでに何かをデッチ上げようとしている、そんな意図がありありと感じられました。  また、後で記事を見たらデッチ上げ記事に必要なところだけを、何度もしつこく聞いていたんです。  私の役職にしてもそうです。近くの寺の住職から聞いて来たんでしょう。仏法寺(苫小牧)の吉田秀晃は、以前から「信徒名簿を書かないと葬式に行ってやらないぞ」と脅して、地域の学会員の名簿づくりをやっていたそうです。その集めた名簿を全部コンピューターに入れてあるというんです。  翌日の新聞の事故の記事には私の名前と住所が載っていましたから、コンピューターで調べたら、新聞の住所と一致したので、それを北海道第一布教区副支院長の藤原広行にでも知らせたんじゃないですか。それで「役職をやっているんでしょ」という発言になったのでしょう。後で考えれば、あの記事のタイトル(「〜衝突死させた創価学会幹部」との記述)のために、何とか役職を確認したかったのだと思います。  ――それでも庄司記者の質問には、玄関先でしたが、自分ではていねいに説明したつもりです。彼が帰ったので時計を見たら、九時近くになっていました。 大橋住職は地元では有名なスピード狂だった!  住職の知人のコメントとして、週刊新潮の記事にはこんな話が載っている。  「極端にスピードを嫌い、よほど急ぐ時以外、高速道路さえ使わない。住職を助手席に乗せたこともありますが、スピードを出すと口やかましくてうるさいほどでした」  このコメントを伏線に、記事は、自動車を運転することにそこまで慎重だった住職が“自爆事故”を起こすほどスピードを出すわけがない、おそらく誰かに後ろから煽られたのだろう、という印象を与える語り口にもっていく。  果たして、事故の実際はどうだったのだろうか。白山さんは、その時の様子をありありと覚えている。  白山さんは、こう証言する。  ――事故が起きたのは七月二一日の夜六時一〇分ごろです。私は仕事を終えて、国道276号を自宅のある苫小牧市へと向かって走っていました。  道路は中央に黄色いセンターラインが引かれた片側一車線です。左が山側で、右が川になっているところでした。  大滝村と喜茂別に分かれる二差路を過ぎ、大滝清陵の大カーブに差しかかった時です。私は他の道から、国道に入ったばかりでしたので、まだ加速もしておりませんでした。対向車が、猛スピードで必死にカーブを曲がろうとしていました。車体の左側を路肩にガリガリ擦りつけながら走ってきたのです。  いきなり、その車の尻が大きく振れたと思ったら、センターラインを越えて私の前に飛び込んできてそのまま正面衝突したんです。私がハンドルを切る余裕さえもないほどの猛スピードでした。  私は仕事用(冷暖房器具販売修理業)の2トントラックに乗っていたんですが、それでもぶつかった瞬間はものすごい衝撃でした。ドーンという音とともに、二、三分は気を失っていました。事故の瞬間、私は目の前が真っ白になり、一瞬、「死ぬな」と思いました。その瞬間の恐ろしさは言葉では表現できません。  通りがかりの人たちだと思いますが、気がついたら周りに四、五人おりました。外に出ようとしましたが、衝撃でドアが曲がり、開きません。腕や足に激痛が走るのをこらえ、割れた窓から外に出ました。そして大橋の車に近寄り「大丈夫ですか?」と、声をかけたんです。相手が首を左右に動かしたので、生きていることを確認しました。私は、気が動転していたため、茫然としてしまい、周りにいた人に「どうしたらいいんだろうか?」と聞いたんです。周りの人の「早く警察に連絡したほうがいい」という一言で、ハッと我に返り、洞爺方面に向かう車の人に「大滝警察に知らせてください」と頼みました。  二、三〇分で大滝消防署の赤い四輪駆動車が来ました。それに遅れること一〇分か二〇分で伊達警察署のパトカー、それにあとから救急車も来ました。  まず、食い込んでいる相手の車を引きはなし、車の中から運転者を救出しました。私は幸いケガが少なかったので救急隊員と一緒に救急車に乗せたのです。この男が大橋住職だなんて、むろんその時は知るわけもありません。  救急車が行ったあと、相手の車から飛び散った大量のカセットテープを拾い集めて車に入れ、道路が渋滞していたので、大型トレーラーも来て、私のトラックを道路の脇に寄せました。  そのあと現場で伊達署交通課事故係の警官が現場検証をし、調書を取りました。  相手の車の左縁石への擦り具合、また、相手の車の左側が完全に私のトラックの正面にぶつかっている状況から見て、相手が一方的に飛び込んできたことは明白です。こんな状況でぶつかっていて、どうして私が故意に事故を起こすなんて発想ができるのでしょう。  自分のトラックは使えないので、パトカーに乗せてもらって大滝村まで戻りました。そのパトカーの中で、警官同士が免許証を見ながら、「(相手は)室蘭の坊さんだな」と話していました。相手の職業を知ったのは、その時が初めてです。でも、まだそれが深妙寺の住職だとは知りませんでした。  その時、事故係が「あなたは被害者だよ」と言ってくれました。後日、保険会社からの保険金も、私が一〇〇に対して大橋住職が○で、全額おりたのです。  家に着いたらすでに、警察から電話があって、相手の人が亡くなったと聞かされました。翌日、大橋住職をよく知る知人が、彼が大のスピード狂であったことを教えてくれました。どうりで、パトカーの中で警官が免許証を見ただけで「室蘭の坊さんだよ」と言ったわけが分かりました。免許証に職業が書いてあるわけではないし、つまり、大橋住職は札幌に行くたびに、この道をぶっ飛ばしていたんでしょう。それで、伊達警察署のあの警官たちも知っていたんだなと思いました。 明らかに悪質なウソがある記事  鳥山、庄司両記者が、白山さんの家を訪れてから数日後、週刊新潮が発売された。その記事を読んだ白山信之さんは愕然とする。なんと、自分が“殺人犯”に仕立てられているのだ。あの意図的な取材の目的は、これだったのか。しかし、いまさら気付いても後の祭だった。  「何が驚いたって、『大石寺「僧侶」を衝突死させた創価学会幹部』というタイトルです。これでは、私が犯人扱いだ。たまったもんじゃないですよ。週刊新潮の記事で、私と私の家族がどれだけ傷ついたか! 分かりますか。どこに、この怒りをぶつけたらいいのか。私も家族も、その憤りを忘れられる日は一日もありません!」  白山さんは、そのやり場のない怒りを、一気呵成にこう語るのだった。さっそく白山さんは週刊新潮に抗議文を送った。その返事が、先に紹介した“小学生でも分かる理屈”だというスリカエの論理だ。  「何て返事が返ってきたと思います? 『“衝突”して死んだのだから“衝突死”でなぜ悪い』と言うのです。そんな論法がありますか。加害者と被害者の区別くらいキチンと書くのが記事でしょう。自分たちは書く側だからマヒしているのかもしれません。でも、一方的に“殺人者”と言われた者の痛みは想像以上ですよ。もし、自分が“衝突死させた”と週刊誌に書かれ、新聞の広告に載り、全国に知らされたとしたら、どんな気持ちがするか! それだけではありません。あの記事には明らかにウソがあるんです。それも、とても悪質なウソです!」  それは、記事の中にある白山さんの証言の部分だ。取材の時に、記者たちが白山さん夫妻に執拗に見せた“チラシ”に関するコメントが正反対に書かれているのだ。  すでに述べたように、白山さんも、奥さんも、このチラシに関しては取材の時に「初めて目にしたものだ」と断言している。にもかかわらず、記事では、こうなっているのである。  “――ビラは見ました。しかし、このビラも学会がやったことじゃありません。こんなことをやってはいけない、と学会では禁じられているんですから”  白山さんは言う。  「捏造コメントです。私は『見たことなどない』と、そうハッキリ言っているのに、週刊新潮の記事では『見ました』と答えたことになっているんです。悪質なのは、故意につくり変えた“この一言”で、“事故”と“チラシ”が、さも関係あるかのようにされてしまったことです。  間違いでは済まされません。最初から事故とチラシを関連づけたいという意図があったのでしょう。そのためには、どうしても私の『チラシをすでに見たことがある』という証言が必要だったのです。  もし、このチラシを私の証言どおり、『初めて見る』としたら、どうなります。苫小牧での文通事故があり、札幌でチラシが配られていただけの話です。私の『チラシの存在を知っていた』という証言によって、この二つの話を関連づけることができ、学会による交通事故の計画を臭わせることができるんです。だから、証言までつくり変えて、この記事をデッチ上げたのでしょう。取材方法といい、記事といい、これは紛れもない犯罪です」  調べにあたった札幌の東署によると、このチラシは仏見寺の隣の国際物産札幌商店という仏具店のシャッターに一枚張られてあった他は、仏見寺の法華講員(信徒)の家の周りに数枚まかれただけで、それ以外に拾った人や目撃した人さえいないという。週刊新潮に書かれていたように“組織的に配られた”形跡はどこにもないのだ。  ここまで見てくると、こうしたチラシまで用意し、事件をどうしても創価学会と関連づけたかった人物がいるとしか思えない。 記事の仕掛け人は日蓮正宗の僧侶・藤原広行だった  その人物こそ、札幌の仏見寺住職である藤原広行だったのである。  藤原は、平成六年一一月三日、北海道テレビのニュース番組「学会VS宗門 北海道戦争の真相」(午後五時五五分〜)に登場し、この事故が学会の謀略であったかのように得々としゃべっているのだ。彼の発言を再現してみよう。  「その道(国道276号)を通るときは、必ず現場から一・八キロ手前にあるコーヒーレストハウスの“ログハウス”があるんですが、そこで(死んだ大橋住職が)一休みしてコーヒーを飲んで、そこから、また車に乗って、行くっていうのですね。事故の当時のですね、いろいろ、あの……、調べた方かおりまして、で、その方によりますと、大橋氏の車が出たあとですね、それを追いかけるようにして、乗用車が二台、急発進していったと」  この発言の中には、すでに四つもウソがある。以下、順に検証すると――。  @「現場から一・八キロ手前にある」と言ったレストハウスとの距離は実際には二・五キロである。一・八という細かい数字まで出すなら、キチンと調べるべきだろう。  A大橋住職は「その道を通るときは、レストハウスで必ず一休みする」とあるが、このレストハウスの関係者によると、大橋住職が来店したことは、事故当日はもちろん、これまでにもほとんどないという。大橋住職の写真を見ても覚えている人は皆無であった。つまり、常連客などではないのだ。  B「事故当時の状況を調べた」とあるが、取材してみると確かに藤原の関係者は、二度ほど現場に来ている。一度目は事故の約一週間後に僧侶二人で来たことが目撃されている。二度目は約一か月後、数人の僧侶と弁護士らしき男性、女性もふくめた総勢八人が来ている。この時に、レストハウスで、「(大橋住職は)もともとスピード狂ではなく、時速四〇キロから六〇キロのスピードしか出さない安全運転の人が、ああいう事故を起こすはずがない」などと話しており、店内の人たちに、大橋住職は慎重な運転をすることを盛んに印象づけて帰っている。  C「大橋氏の車が出たあとですね、それを追いかけるようにして、乗用車が二台、急発進していった」とあるが、この場面の目撃者が出て来ない。まして、当日、事故のあった時刻にレストハウスにいた関係者は、「二台の車の急発進など、見たことも聞いたこともない」と証言している。  また週刊新潮が書いている「大橋住職は安全運転の人」という証言も大ウソであった。大橋住職の寺(深妙寺)の関係者の話では。  @大橋住職は、自動車レースの大ファンで、FIレースがテレビで放映されると必ずビデオに録画し、暇さえあればそれを観たりしていた。また、車の雑誌をよく買ってくるなど、熱烈なカーレース・ファンだったのである。  A大橋住職はドライブが大好きで、友人だちと車数台でドライブすることがよくあった。この際、いつも大橋住職の車が先頭を走ったが、後続の車はまったくついていけなかったという。それは、大橋住職が猛スピードを出しながら、自分の前を走っている車を次から次へと追い越してしまうからだった。  Bそんな大橋住職の運転を、大橋住職の実母は「あんなにスピードを出して、事故を起こさなければいいがね」と言って、常々心配していたという。  すでに書いたように週刊新潮の記事には、「(大橋住職は)極端にスピードを嫌い、よほど急ぐ時以外、高速道路さえ使わない。……スピードを出すと口やかましくてうるさいほどでした」とあるが、いったい誰から聞かされた話なのか。白山さんの証言同様、話を都合よくつくり変えたのだろうか――。  いや、そうではない。実は、この記事は藤原広行がつくったストーリーに沿って書かれたものなのである。  そのことを裏付ける、こんな証言がある。  藤原自身が、近郊の末寺の住職数人に電話で「週刊新潮にネタを流したのはオレだよ。その証拠に週刊新潮のゲラも持っている。だいいち、ぶつかった相手を調べさせたのは、このオレなんだから」と、得意げに話していたというのだ。  同僚の僧侶の死まで、自分たちの謀略の道具にするとは、いったいこれが僧侶のやることか。さらに、何の裏付けも取らず、いや、それどころかそんな藤原と共謀し、最初から面白おかしく捏造記事をつくるために取材し、被害者を“加害者”にスリカエるような記事を臆面もなく発表した週刊新潮とは、何という下劣な雑誌なのだ!   あとがき  「週刊新潮はジャーナリズムではない」――これが、「まえがき」にも記した本書の出発点である。  そして、本書で紹介した捏造記事や虚偽報道は、それを証明してくれている。だが、週刊新潮にとってはいつもどおりの仕事であるに過ぎない。それが悪いという認識は毛頭なく、逆にもっとインパクトのある内容にしようと努力しているくらいだ。  “イエロー・ペーパー”といえども、全く取材をしないわけではない。直接インタビューに行くし、写真もとる。電話取材もする。警察発表や政府発表などは、資料を見ながらきちんと書く。しかし、それらの取材結果が、コメントした人たちの意図とは無関係、もしくは全く逆に、週刊新潮の作為的なシナリオの補強材に使われていく。事実とごっちゃになっているがゆえに紛らわしいのだ。  インタビューを受けた人たちが、週刊新潮の“憶測”“仮説”“噂”“疑惑”を全面否定しても、週刊新潮には関係ない。「創価学会は否定しているが」「関係者はそんな事実はないというが」と言いながら、「創価学会ウォッチャー」「宗教ジャーナリスト」「元創価学会員」「元創価学会幹部」という匿名のコメンテーターのデッチ上げたシナリオにしたがって“疑惑”を増幅させていく。  第八章で詳述したように、北海道の白山信之さんが、文通事故の被害者でありながら週刊新潮の悪辣な捏造記事によって殺人犯に仕立てられたのは、典型的な例だ。  記事の中に登場するコメンテイターは、ほとんどが内藤国夫、山崎正友、乙骨正生、段勲らの、創価学会攻撃をメシの種にするブラック・ジャーナリストたちだ。彼らには嘘をつく以外にできる仕事がない。知っていることがあまりに少ないのだ。週刊新潮が“イエロー・ペーパー”であるおかげで、内藤や乙骨のような本来のジャーナリズムから爪弾きにされた者たちや、山崎のような犯罪者、段のような日顕宗宗門おかかえのライターまでも登場できるのである。  週刊新潮は、販売部数の数を自分たちへの支持と勝手に解釈しているのかもしれないが、逆に見れば、週刊新潮の被害を受けた人の数がまだその程度である、という現状を示すに過ぎない。週刊新潮がジャーナリズムでも何でもなく、見境なく市民のささやかな生活や人権を踏みにじる、日本で最も悪辣・凶暴な部類の“イエロー・ペーパー”であることを知れば、読者は離れ、いなくなるはずだ。  “虚偽”“捏造”を書く週刊新潮が、現実に一般庶民に被害者を出し続けている“事実”は、ジャーナリズムならば放ってはおけない。“同業者”のやることだからといって、見逃してはなるまい。彼らの悪事をいま告発できるのはジャーナリズムだけなのだ。 創価学会報道にみる 週刊新潮のウソと捏造 これは犯罪だ! 1995年5月3日初版 著者c1995 佐倉敏明