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第六章〈特別講座〉週刊誌のウソの見抜き方 ――講師・岡庭 昇氏(評論家)

 「手先」「回し者」から「実は」「お友達」まで

 ――最近、一部の週刊誌では、「あいつは創価学会の味方だ」とか「どうも学会員らしい」と言いふらすことが多くなりましたね。創価学会員だけでなく学会を取り巻く周辺にまで罵詈雑言が及んできた。これはいったいどういうことなんでしょう。

 例えば、『週刊文春』(九五年一〇月一九日号)には「池田大作の『手先』となった二人の元大物大使」というタイトルで、フランスの地元ジャーナリズムに対しSGIが起こした名誉棄損裁判に元駐仏大使二人が上申書を提出して学会を擁護したから、「彼らは学会の手先だ」などという論法です(この裁判はSGI側か完全勝訴している)。

 さらに旧公明党が細川連立政権に加わったとき、組閣で法曹界の重鎮である三ヶ月氏を法相に指名したところ、『週刊新潮』(九三年八月二六日号)は「三ヶ月法務大臣は創価学会の回し者」というタイトルでデタラメな記事を書いて攻撃したこともあるし、小沢一郎氏の妻は学会員らしいといった憶測記事を載せた週刊誌もありました。

 よくそんなウソを平気でつけるなとも思いますが、それ以上に疑問なのは、なぜ彼らがこんな子供のいじめにも似た論法をとるのかということです。

岡庭 マスコミに求められるのは、本来、フェアプレイのはずです。「あいつは実は学会員だ」とか「学会の協力者だ」とか「回し者だ」と言って、まるでそれが犯罪を犯したことであるかのように騒ぎ立てることで、学会自体があたかも犯罪者の集団であるかのようなイメージを増幅させ、さらに、「学会は別に悪くないじゃないか」と言ったり、公平なものの見方をする者まで、学会を非難しないものは学会と同じ犯罪者だ、というふうに語っていく。そんなふうに叩かれたら、普通は「あんまり学会のことを弁護するのはやめよう」と思うでしょう。そのときに、「学会は悪くない」と言うことは、非常に勇気のいることになります。

 そのことで結局、良識的な発言さえ封じ込めようとしているのだとしたら、大問題でしょうね。

 ――なるほど。事実、学会関係の出版物に、かつては好意的な文章をよせていた学者や知識人が、最近では「名前を出されるのは困る」と言ってきたりするケースもあるようです。

岡庭 週刊誌などの一連の論法は、かつてアメリカで吹き荒れたマッカーシズムによる、いわゆる「レッド・パージ(アカ狩り)」を想起させます。

 言論を封じ込めるというやり方は、民主主義の根幹を破壊する行為でもあるわけです。マッカーシズムはまさにそれだったのです。

 アメリカは、この事件で対外的な威信が決定的に傷付けられ、民主主義の国だという神話がガラガラと崩れ去ったといわれます。

 ――百科事典によると、マッカーシズムとは「一九五〇年から五四年までにアメリカを襲った反共ヒステリー現象をいう」(『大日本百科事典』)とあります。マッカーシー上院議員は、五〇年二月に「国務省内に二〇五人の共産主義者がいる」と演説して、徹底した「アカ狩り」を扇動した人物として有名です。

 共産主義者でもない人や、思想信条の自由を訴える民主主義者まで「アカだ」といって弾圧される。それに対して、政治家や知識人はほとんど反論もしなくなったといわれていますね。

岡庭 当時のアメリカは、中国が共産主義革命を起こしたことで、それまでの大市場を奪われたこともあって、国全体が共産主義嫌いというムードになっていたといいます。まあ、仮にそれがやむを得ないことだったとしても、いわゆる「レッド・パージ」で、本当に共産主義者なのかどうかという調査はほとんどしなかった。つまり、調査の「身ぶり」による政治弾圧だったのです。

 例えば、ある新米記者がいて記事になるネタを探していたとします。そのとき、ある上院議員が彼を議院のロビーかどこかで呼び止めて「君にいいネタをあげよう。実はね、有名な○○はどうやらレッドらしいよ」とささやきかける。「ささやき戦術」です。「〜らしい」と言うだけでいいんです。日本の週刊誌と同じやり方です。すると、その新米記者は飛び上がって喜び、それを特ダネとして新聞に書き立てる。

 例えばそんなふうにして、あいつは共産主義者だ、とマスコミが騒ぎ立てると、その人物を非米活動調査委員会に呼び立てて証人喚問をする。そこでさらに「君は共産主義者だろう」と責め立てるわけです。もちろん、喚問された本人は必死で弁明しようとする。すると「弁明するとは、ますます怪しい。きっとこいつはレッドに違いない」「こいつは民主主義の皮を被った共産主義者だ」となる。

 要するに、共産主義の悪感情を国内にわきたたせることが最大の課題だったから、本人がほんとに共産主義者かどうかなんて問題はどうでもよかった。知識人や学者だけでなく、著名なジャーナリストや言論人、作家、芸術家などが次々と槍玉にあげられましたが、それ以上にハリウッドのスターや脚本家、監督が攻撃の的になったんです。

 ――たしかに「反共でないものは共産主義者だ」という論法は、「反学会でないものは学会員の味方だ」というのとそっくり同じですね。しかし、なぜ有名人を狙い撃ちにしたのでしょう。

岡庭 それは特別ハリウッドの有名人に「レッド」が多かったからではないんです。

 理由は、単に彼らが「有名」だったからです。単純な理由です。有名なスターが証人喚問されるわけですから、これ以上の格好の見せ物もないでしょう。当然、マスコミは喚問のたびに大々的に書き立てるし、人々の関心も否応なしに高くなる。

 そのことを計算して、マスコミを操作し、反共感情を人々にわきたたせ、共産主義を批判しない言論までも弾圧していったわけです。

 喚問の対象になった人物が本当にレッドかどうかという調査がなおざりにされていた、ということも問題ですが、それ以上にマッカーシズムが問題なのは、「なぜ共産主義が悪か」、「なぜ非難されなければならないのか」といったことについてはほとんど論議されなかった、ということです。本来あってしかるべき論議がまったくないまま、レッド・パージが強行されていったわけです。

 それは本質的には、心の底で民主主義を憎んでいた勢力が、リベラルな考えを持つ者を押さえつけることで、一度握った権力を手離すまいとして仕掛けたものだったのです。だからそれが、結局、アメリカの民主主義そのものさえ危機に追い込んだ結果になったのは当然といえます。

 雑誌が「暴君が創価学会を滅ぼす 出てこい池田大作」(『週刊文春』九五年一一月三〇日号)などと騒ぎ立て、自民党などの与党が池田大作名誉会長の証人喚問に躍起になる。まるでこの「レッド・パージ」の「証人喚問」とそっくりですね。

 本来、宗教組織の責任者に意見を聴く、つもりなら秋谷会長でいいはずなのに、政治的な「効果」しか考えていない。しかも彼らにとつては、喚問する理由なんていうのは、どうでもいいんであって、喚問するという事実だけが大切なんです。マッカーシズムと同じです。

 ――三ヶ月法務大臣の場合も、元駐仏大使の場合も、彼らは学会の「回し者」だ、「手先」だと言われると、直接的な影響も出てくるのではないでしょうか。

岡庭 それはあると思いますよ。「あなたが回し者だとは思わないけど、この際、誤解を避ける意味でも〜」といったやり方でスポイルされることがあるでしょう。また、学会につ

いても、マスコミが騒ぎ、何回も書き立てると、やがてそれがいつの間にか「事実」であるかのような錯覚を起こしてしまう。

 いくら記事の内容が事実でなかったところで、毎日、電車の中で学会批判の中吊り広告を見ていると、「学会は何か問題がある」ということが当たり前になってしまう。

 もうひとつ付け加えれば、さっき「ささやき戦術」と言いましたが、これは差別を利用した「手法」です。典型といえるのが、在日差別です。「あの人、実は……」というささやき。

 在日朝鮮人は、別に喜んで日本名を名乗っているわけじゃない。そうしないと、日本では就職や仕事に不利になることがあまりにも多いからです。それをこういう言い方をする日本人的な「差別」のあり方がある。

 在日朝鮮人が、どんな文化を持っていて、どのように暮らしているか、などということは問題外で、ただ朝鮮人「らしい」ということだけを問題にする。

 「悪口を言う」ことを目的とした記事づくり

 ――先ほども取り上げられた『週刊文春』「暴君が創価学会を滅ぼす」(九五年一一月三〇日号)の記事のなかには、「元学会員」と称する人々のコメントがいっぱいで、しかもコメントを述べているすべてが「元学会員」やら「元学会関係者」などの匿名です。

 また、同誌の「史上空前 ここまでひどい嫌がらせの実態 創価学会脱会者3300人大調査」(九五年一二月一四日号)というタイトルの記事などは、編集部に届いたとされる脱会者の声だけを拾い集めて記事にしています。この第二弾である「創価学会 狂気の金集め」(九五年一二月二一日号)でも同じです。

 タイトルを見ただけでも、おぞましくなるようなひどいものですが、こういう悪口のし方というのは、どうなんでしょう。

岡庭 たしかに、私も記事を読んで、なんだか暗い執念と姑息なこだわりが混じったようなつくり方に、やりきれない想いがしました。でもまあ、個人的な好みはこの際置いておくことにしても、この記事づくりの方法は取材の原則からして反則です。

 ようするに「元」信者のコメントだけでつくられており、否定的な例だけが強調して出されている。反学会の人たちだけのコメントですから、学会に否定的な話題ばかりになるのは当然です。

 仮にコメントした本人たちに誇張やウソがないとしても、それはあくまでその人個人の見方であり、見解でしかない。立場を変えれば、見方も見解も当然変わります。そんなことは、ごく当たり前の道理でしょう。

 説得力のある記事をつくりたいなら、両方に取材して、その両方の見解を載せなければならない、ということもまた、ごく当たり前の道理です。それが取材の基本です。もし、本当にジャーナリストを名乗りたいなら、そうするのが当然なんです。

 ――ところが、『週刊文春』はワンサイドの見方や見解しか載せていない。まるで悪口を書きたいがためにだけ、「証言」を集めた感じです(笑)。

岡庭 そのとおりです。取材の結論として批判があるのではなく、まず「悪口を言う」という前提があり、そしてその結論を導きだすために、否定的なコメントだけを並べている。そう決めつけられても、仕方がない面がある。

 ともかくこれだけ基本を無視した記事づくりはない、ということだけは断言できます。

 ――しかし、どうして『週刊文春』などの週刊誌は、創価学会のことになれば、これほどの罵詈雑言を平気で並べられるのでしょうか。その感覚が、常識的に考えてもどうもわかりませんが……。

岡庭 私が気になるのは、マスコミ全般に「創価学会だけは別」という考えがあるのではないか。つまり、ルールを適用しなくてもいいということになっているように思える。学会側へのきちんとした取材もなしで、事実かどうかの確認もせずに記事にするというのは、「ルール外」として学会を差別しているからではないのか。

 昔、私の家の近所に、ご主人が左官屋さんの学会員のご夫婦が住んでいました。実直な人柄で好感の持てるご夫婦でした。ところが、その夫婦は、お互いに結婚してから数年間、相手が学会員だということをまったく知らなかったというのです。つまり、自分が学会員だということがバレれば破談すると、お互いに思い込んでいたんですね。それほど「学会員」というだけで差別感情が世間にあったということです。

 現在、それがマスコミによって「あれは別」という形になっている。

 しかし、そんなときほど学会員の方々は、「創価学会で何が悪い!」「なぜ、創価学会は別なんだ!」と言い切っていくべきです。そうでないと、「あれは実は」という言い方が有効だということになりかねませんから。

 ――最近は、新聞社系の雑誌まで、その「学会は別」という風潮に乗っかってきているような気がしますが。

岡庭 朝日新聞社が出している『AERA』(一月一―八日号)に「池田大作の側近人脈」という記事が出ましたが、これなど創価学会の幹部をめぐるウワサ話といった程度のものにすぎない。その情報が正しいかどうかはとりあえず不問にするにしても、なぜ、当事者への取材も裏付けもとらずに、一方的に決めつける記事が書けるのか。それが不思議です。双方に取材するのが客観報道、という取材のイロハぐらい、大朝日に所属する頭のいい記者なら当然のこととして知っているはずなのに、平然とこんなルール違反がまかりとおる。そこには「創価学会のことに関しては、取材も裏付けも必要ないんだ」「創価学会は別」という考えが露骨に見えています。

 気をつけなければいけないのは、この「ただのウワサ話」が特別な意味を持つ陰口になりかねないことです。

 ウワサ話が妄想のなかでなんとなく増幅されて、本当はとりたてて何ということもない平凡な事柄が、大問題のように取り上げられてしまう。ここに差別と偏見の構図があるんです。

 「ウソだと言うなら証拠を出せ」という論法

 ――カネの問題で言えば、自民党の亀井静香代議士がやたら週刊誌に登場し、創価学会について語っています。

 そのなかで、亀井氏は「この無税のカネ(財務=布施のこと)が、いったい何に使われるのか」(『週刊朝日』九五年一一月一〇日号)と言い、いかにも選挙活動に学会の資金が使われているというふうなコメントや、「無税の金で創価学会が新進党とフル回転したことは間違いないんですから。『違う』と言うなら、そうでないことを証明すればいいんです。しかも公の場で」と池田名誉会長の証人喚問が必要だといったようなコメントなどが、やたら週刊誌に出ています。

岡庭 すべての記事の原則ですが、まず最初に、「これこれこういうときに、これだけのカネが流れた」と、きちんと証拠を出して話さなければいけない。この当然のことが、反学会記事には適用されない。ウラどりという常識をまったくせずに、「違うと言うならおまえが証明しろ」とは、どうも無茶ですね。

 佐藤友之氏のような冤罪に取り組むライターは、かねて日本に民主主義が不在の結果、被害者である冤罪の「被疑者」が自分で無罪を証明しなければならない点を批判しています。日本の問題点として、そういうおかしなことがある。

 日本には冤罪事件が多く、しかも冤罪だということが証明されるまで非常に長い年月がかかります。それはなぜか。日本では、身に覚えのない無実の罪を着せられた人は、無実だということを自分で証明する以外にないからです。場合によっては、自分で真犯人を突き止めるということまでしなければいけない。

 しかし、これは根本的におかしな話です。本来は、捕まえたほうが証明しなければいけないのに、裁判のシステムや行政がそうなっていないというところに問題があるのです。

 自分の卑しさを他人にも強要する

 ――「〜かもしれない」というのも、週刊誌のよく使う手ですね。

 『週刊現代』(九五年一一月一一日号)には「『創価学会政権』誕生で日本はこう変わる!」というタイトルで、「道徳向上が強調され、ヘアヌードやポルノは規制が激しくなるのかもしれない」と書いていたのには笑ってしまいました。

 しかし、その後に「国家権力を総動員しての他宗叩きが始まらないとも限らない」とか、「軍拡に邁進する日本に変わる可能性がある」といった記事に至っては、そのあまりの無知と偏見にこちらが驚くほどです。

岡庭 まず「偏見」といいますが、そういう記事にはその「偏見」さえない、といったほうが正しいのかもしれませんよ。つまり、偏見のカケラでもあれば、学会の理念や哲学にもふれてそれを批判するでしょうが、そんなことはまずない。彼らは学会の理念などといったことはどうでもいい、まるで興味がないんです。

 第一、もともと彼らの宗教観は希薄です。

 あの橋本龍太郎首相が通産大臣のときですが、新進党の議員に「あなたの宗教は何か」と聞かれたことがある。そのときの閣僚は、橋本大臣をはじめ全員が「うちの宗教は……」という答え方をしていました。

 本来、宗教は個人のもので、自分が何を信仰しているかということを聞いたはずなのに、彼らにとって宗教は「家の宗教」にすぎないんです。だから私にとって信仰とは、なんて自分に問い詰めたこともなく、ただ家がどんな宗派に属しているか、という程度の意識しかないと言えるでしょう。

 つまり、彼らにとっては「宗教」とは「形式」であり、また「制度」でしかないんですよ。だから宗教が個人の内面を変革して、例えば世の中を良くしたいなんて考える人がいることは信じられない。学会の理念や哲学に無関心なのもむしろ当然というところです。

 また、だからこそ彼らには、宗教の外面的な動きだけが気になる。しかもその行動を支える理念や哲学がまったく理解できない。しかし、「理解していない」ということさえ自分でわからないものだから、無茶なことを、取材も証明も抜きで書く。

 ただ差別感だけを増幅したい、ということじゃないでしょうか。

 ――だから「宗教ごとき」がデカい面するな、ということで、宗教法人法の改悪も強引にやってしまうということでしょうか。

岡庭 そうでしょう。「体制」の枠のなかにきちっと囲い込みたいんです。そうすれば、自分たちの宗教観にもピッタリおさまるわけですから。

 宗教法人法の問題でいえば、もうひとつ大事なことがあります。

 それは日本の官僚がなぜ権力を持ちえるのか、という問題ですが、それは彼らに「税金」と「許認可権」が与えられているからです。金を取り立て、許認可を与えるかどうかで、自分たちに国民をひざまずかせる。「税金」と「許認可権」というのはつまり「支配権」ということと同じです。

 だから彼ら官僚には、これまでの「ノーサポート、ノーコントロール」などという宗教法人法が不愉快でしょうがなかった。この二つの支配権が宗教には及ばないからです。宗教だけは脅しがきかない。

 まあ、目先の理由としては創価学会を叩き、新進党から勢力を殺ごうということでしょうが、その奥には、宗教を自分たちの支配下に置きたい、宗教を脅す手段を手に入れたい、という官僚の支配意識があると思います。

 「宗教団体から税金を取らないなんて不公平だ」という意見は自由だが、こういう現実も踏まえておかなければならない。

 ――それが官僚支配を強化し日本をますますダメにしていく元凶だということを、マスコミはちゃんと認識する必要があるようですね。しかし、最近の週刊誌はあまりにもひどい。自分が何を書いているのか、わかっているのでしょうか。

岡庭 ある雑誌に「学会員は、手弁当で選挙の応援をしている」と書いてありました。ところが、驚いたことに「批判」している記事なんですね。

 「手弁当」というのは普通誉め言葉じゃないですか。それを非難する言葉として使う。私は驚きました。

 きっと、人は金をもらわないと動かない、というのが彼らの「常識」らしい。損得でしか人は動かない、だから金ももらわずに選挙の応援をするなんておかしい、というわけです。池田名誉会長は権力欲の塊だ、とかいう論法も同じです。

 人間なんて所詮、カネとセックスに弱いんだ。トップに座り続けるためには、すごい権力欲がなきや変だ。独裁者でなければ、こんなに長くトップの座に居続けることなどできるわけがない――などということを人間として当然のことのように語り、「ねえ、それが人間ってものでしょう」と同意を求める。

 そういう、いかにもそれが当然めいたエセ・リアリズム、卑しいことがリアリズムだという語り口は、結局、彼らが、いかに人間として卑しいか、ということを証明するだけです。

 もともと「民」は「官」に従うことが当然とされてきた日本では、自我の確立といった問題がなおざりにされてきました。個人が理想を求め、自分の判断でそのために行動する、といったことが少なかったのです。理想主義や、理念に生きるといった伝統がなかったということです。

 だから、理想や理念を持っている者に対しては、必ず「卑しい話」で叩く。理想をかざすなんてどうもうさん臭いヤツだ、大人がカネもらわなきゃどうするんだよ、もっと大人の話をしようよ、本当は違うんだろう、本音はこうなんだろう、というわけですね。

 人間は常にそういう「リアリズム」の次元だけに生きているわけではない。

 理想を捨てた損得勘定優先の日本に未来はない

 ――宗教法人法「改正」問題についてなんですが、まだ同「改正」法案が国会を通る前の『週刊現代』(九五年九月三〇日号)に「橋本自民党が仕掛ける『創価学会殲滅作戦』」というおどろおどろしいタイトルの記事が出ています。

 その記事では、法「改正」の狙いが自民党による創価学会潰しにあることを明確にしたうえで、「及び腰」の自民党をけしかけて「はたして自民党が、ストップ・ザ・創価学会といくか、学会の“力”の前に屈するか。死闘はいま始まったばかりだ」と、まるでプロレスでも観戦するかのような記事を載せています。

 まったくあきれ果てた記事で唖然とします。

岡庭 基本的に民主主義を大事にするという前提がない。憲法感覚がない。自民党や政府与党が、国会という公の場を利用して、一宗教団体だけを狙い撃ちにした法案を強引に通そうとしている。しかも強行推進派の自民党議員には、それを公言してはばからない者までいるんです。それがマスコミには、どういうことなのかまったくわからないらしい。

 自民党では次に、宗教法人の政治活動を禁止する法案までつくろうとしていると報道されている。

 法律とは、国民の安全や幸福を守るためにつくるものです。なのに、それを自分たちが気に入らない団体を潰すためだけに法律をつくろうとしています。

 本来これは、法案論議以前の問題ではないでしょうか。なのに大多数のマスコミは、新聞もテレビも含めて、そのことにはなんのコメントもしません。ただ、「だれがこう言った」だのという、事実だけを報道してよしとしている。

 問題は、関係者の利害ではない。社会の基本であるべき憲法の問題になっている。

 ――地方紙などでは、宗教法人法の「改正」について、憲法や信教の自由などを守る立場から、反対の社説を掲げたところのほうが多かったようですね。

 地方紙はまだ中央の権力に与していないだけあって、それだけ冷静に物事を見つめる目があった、ということでしょうか(笑)。

岡庭 おそらく、物事を筋道立てて考えても一銭の得にもならない、という風潮が一般的なのでしょう。

 しかし、損得勘定を優先させる思考パターンは、日本経済の高度成長を支えもしましたが、その後のバブル経済やその崩壊、さらには住専問題を引き起こした主原因にもなっているわけです。アジアの人たちが「日本はおカネがあるからみんな幸せなんだと思って来てみたら、みんな暗い顔をしている」と言って驚いています。

 今だって、経済状況が回復してきたなんて言っていますが、失業率は戦後最高だし、大手企業の中堅幹部でもいつクビを切られるかと戦々恐々としているし、いい大学を卒業しても就職するのも並大抵のことじゃない。

 企業戦士だのと言われて、ただ猛烈に儲けることが最大の価値になってしまった。その挙げ句に人々は、儲けているのは大企業と銀行だけで、自分じゃないことに気付かされたのです。先ほど、日本には理想主義がないと言いましたが、しかしそれにしても日本の社会や教育は、本当に社会のために役立つ人間を育てようとはしてこなかった。その結果がこれです。

 それに、権力を握る者たちもマスコミも、自分に理想などないものだから、理想をかかげて行動する人々を邪心で見て、必死で叩こうとする。理想が消えて、残るのは損得勘定だけ、といのではあまりにも情けないし、そこには未来などあるはずがないのです。

 日本人はニヒリズムに陥っています。こういうときだからこそ、よりいっそう理想をかかげて行動することが重要になってくるのだと、私は思います。

 ――では、時間も来ましたようですので、今回はこれくらいで……。本日はどうもありがとうございました。

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