創価学会報道にみる 週刊誌のウソと捏造 これは犯罪だ!    佐倉敏明◆著 はじめに  昨年(九五年)一年間に週刊誌、月刊誌に載った創価学会への明らかな中傷記事と思われるものだけで、五二六回を数える。  五二六回――実に、二日に三誌の割で載っていた計算になる。  内容は、前二著(『創価学会報道にみる週刊文春のウソと捏造』『創価学会報道にみる週刊新潮のウソと捏造』)でも指摘したとおり、タイトルだけの脅かしや、リード文での一方的な決めつけだけの内容のないものから、脱会者や反創価学会取材をメシの種にしている売文屋たちの“日本乗っ取り計画”だの“日本を滅ぼす”だのといった相変わらずの誇大妄想めいた話が多い。  従来と少々趣を異にするのは、五二六回という中傷記事の多さもさることながら、年間を通してこれら週刊誌・月刊誌報道が大きな“シナリオ”の存在を感じさせるような展開、流れになっていたことである。  まず、オウム事件――。年頭のオウム真理教による松本サリン事件、地下鉄サリン事件の発覚に事寄せて、強引に「学会もオウムと同様である」という記事づくりが行われた。これに類する記事は三七回も登場する。そもそも学会とオウム真理教が結び付けられたのは、オウムの上祐外報部長(当時)のテレビ発言からである。翌日のスポーツ紙は一斉に書き立てたが、テレビ局側からの謝罪や自治大臣による「関与なし」の発言でいったんは収まった。ところが、五月一〇日号の『サピオ』で溝口敦がなんと「オウム真理教と創価学会」と題してあたかも同様であるかのように書き、六月号の『諸君!』で内藤国夫が「オウムは学会に似ている」と溝口記事をフォロー、七月号の『宝石』で段勲が「池田大作と麻原彰晃の類似点の検証」と追い打ちをかけ、反学会ジャーナリストたちの連携プレーで強引に“似ている”ことにしてしまった。  いまとなってはだれも一緒だなどとは思わないが、当初は凶悪なオウム事件に対するマスヒステリー現象から「似ている」と書かれたことによって、創価学会に対する拒否反応が出たことは否めない。このこじつけ記事はきわめて悪質である。  「オウムと似ている」とイメージ付けられたため、創価学会は昨年一年間、週刊誌、月刊誌の中傷のマトにされた。  その一つに、池田創価学会名誉会長の証人喚問問題をめぐる記事がある。オウムの麻原と並べてみせたことで、“何を言ってもかまわない”というムードができ上がり、ついに『週刊文春』に至っては「出てこい池田大作」というとんでもないタイトルを打った。尋常な感覚では信じられないこんなタイトルが電車の中吊り広告や新聞広告に大きく載った。麻原彰晃ならともかく、いくら“公人”とはいえ、『週刊文春』にどうしてこんな個人を罵倒する権利があるのか。こうしたタイトル付けは、いかなる根拠があって許されるのか。タイトルだけではない。記事の中身も相変わらず推測、憶測の羅列である。まるで中身がないのに、この証人喚問問題の記事は手を変え品を変えして、二九回も掲載されている。  昨年は、また、参院選挙があり、学会が新進党を支持したこともあり、年頭より学会を牽制する記事も多く、選挙関係記事はなんと一三七回も掲載されている。要するに、「何かあった」から記事にしているわけではない。「なんとかする」ために記事が作られているのだ。この膨大な記事掲載回数からそのことがよくわかる。こと、創価学会報道に関しては一部週刊誌、月刊誌は“火のないところに煙を立てよう”としているのだ。  たった三名の旧公明党系タレント候補を自分で勝手に二〇名に水増しして「学会の衆愚政治」が始まる(『週刊新潮』六月四日号)と言ってみたり、出所不明の“捏造和歌”まで登場させて「政教一致もなんのその」と歌わせて(『週刊ポスト』九月八日号)学会のイメージ・ダウンをねらっている。週刊誌の記事は取材をして書くものなのに、いざ取材をしてみると「二〇名のタレント候補」にならず、「出所を明らかにする」と捏造和歌であることが明白になるので、あえて取材をしないで記事を作る。これでは「怪文書」と同じである。  しかも。参院選挙で自民党が大敗したことから露骨な学会攻撃が始まった。自民党など連立与党は、記録的な低投票率を招いた自らの政治的責任を棚上げし、最大のライバル・新進党でなく、その有力支持団体である学会に対して、なりふりかまわぬ攻撃を仕掛け始めた。新聞やテレビなどは、したり顔で小選挙区制導入で学会の集票力が改めてクローズアップされ、自民党など与党が危機感をつのらせている事情を説明する。そうした現象面だけしか見ず、自民党による学会攻撃という政治的権力による民間(宗教)団体の抑圧を少しもおかしいとは思わず、あくまで「政争」レベルで捉え、ケンカ両成敗式の報道で公正中立の立場を守っているつもりのマスコミはいかにも不気味だ。  こうした報道姿勢が自民党など与党を勢いづかせた。その好例が宗教法人法改正問題である。「宗教法人法改正で必死の創価学会に押される自民党」(『週刊新潮』九月二一日号)、「宗教法人法改正を恐れる創価学会の弱み」(『フォーカス』一〇月一八日号)などと、宗教法人法改正は創価学会にタガをはめるためのものという記事内容である。当初、「オウム問題」をきっかけとして始まった宗教法人法改正論議だが、村山首相(当時)は「法改正はオウム対策ではない」と強弁するなど、与党は国会の場では建前ばかりを並べ、本音はむしろ週刊誌などで語るというかたちで、オウム拒否の世論を利用してまんまと改正案を押し切ってしまった。この問題の関連記事は四六回を数える。  また、東村山市議転落死は意外な展開となった。転落死した市議が反創価学会運動の闘士だったことをたくみに利用して、その死に「学会の関与」をにおわせ、「オウムと一緒」と叫ぶ輩も合流して、短期間のうちに五二回ものキャンペーン記事となった。  かくして、一二月八日、参院本会議で宗教法人法「改正」案は可決、成立してしまった。これにより、政府が宗教団体を管理・監督する一つの手がかりを得たが、もちろんそれで学会攻撃は収まるどころか、逆に勢いづいている。一部自民党議員は、明らかに憲法上無理がある「宗教基本法」なるものを準備しつつ、政争上の最大の切り札として証人喚問をチラつかせている。  自民党議員の学会攻撃の本質とは何か――。ひとことで言えば、権力への執着、自己保身である。この「守旧派」たちの権威に身を擦り寄せ、世論操作の役割をになっているのが、一部の週刊誌、月刊誌である。哀しいかな、これらの雑誌には定見も倫理感も節操もまるでない。読者を、国民を愚弄するその傍若無人の報道姿勢は、現在の政権与党とまったく同一で、人権感覚を決定的に欠いたものである。こうした卑劣な雑誌ジャーナリズムが持つ危険な体質を看過してよいはずがないのである。                                     著者識す 目 次  はじめに 第一章 〈ドキュメント〉東村山市議転落死の真相     典型的な「週刊誌報道の犯罪」     当初から意図的だった週刊誌記事     発端となった万引き事件     もろくも崩れたアリバイ工作     告訴でトーンダウンした『週刊現代』     あきれるスリカエの連続     学会員による嫌がらせは事実なのか     マスコミが煽り政治家が脅す     反学会ジャーナリストたちの作意     かくして「狂気」の集会は開かれた 第二章 オウムと学会を一緒にしたこじつけ報道     「オウムのついでに学会も叩いちまえ!」     上祐の苦しまぎれの言い訳に乗ったマスコミ     共通点をデッチ上げる内藤国夫のひどいやり口     「メロンが好きなら麻原級の悪人」という決めっけ     オウム捜査の遅れまで学会のせいにする記事     毎度おなじみの「こじつけ論法」 第三章 証人喚問を「魔女狩り」に使う雑誌     「証人喚問」の本義を歪める     海外に行くと「逃げた」と決めつける     喚問に応じた場合、どうなるか     なぜ、自民党に一方的に与するのか     国政調査権の濫用を扇動した週刊誌の罪 第四章 自民党の広告ページと化した選挙報道     雑誌が選挙前に必ずブチ上げる学会中傷記事     取材のスタート時点から破綻していた記事     「サブリミナル効果」をねらった悪質な数行     とんでもない人権無視の暴言を掲載した責任     同日号のせいでバレたデマ情報の出所     人の発言を捏造して中傷の材料にする     誌面を使って「怪文書」をタレ流す     珍妙千万な“ひねくれ論理”による中傷     時代錯誤のトンチンカンな憶測とデマ 第五章 すべては宗教法人法を通すために     自民党の学会への牽制を煽る雑誌     与党をけしかけて学会バッシングヘと世論を誘導     悪政のツケまで一宗教団体に押しつける報道     狂気じみた宗教差別主義者の珍妙な主張 第六章 〈特別講座〉週刊誌のウソの見抜き方 ――講師・岡庭 昇氏(評論家)     「手先」「回し者」から「実は」「お友達」まで     「悪口を言う」ことを目的とした記事づくり     「ウソだと言うなら証拠を出せ」という論法     自分の卑しさを他人にも強要する     理想を捨てた損得勘定優先の日本に未来はない あとがき 巻末資料 95年一年間の主な創価学会中傷記事データ 第一章〈ドキュメント〉東村山市議転落死の真相  典型的な「週刊誌報道の犯罪」  “週刊誌報道の犯罪”の典型ともいえるような報道が、また行われた。東京都下の東村山市女性市議マンション転落死をめぐる一部週刊誌の報道である。  昨年(九五年)九月一日。東京都下の東村山市で、マンションの六階の踊り場から、同市の女性市議・朝木明代さんが、落ちて死亡するという不幸な出来事があった。  まだ警察の捜査の段階で、「事故」か、「自殺」か、またなんからの「事件」に巻き込まれた可能性があるのか、何も明白になっていないこの時期に、複数の週刊誌がこの出来事への創価学会との関与を臭わせるような報道を行った。  なかには、女性市議が創価学会によって殺害されたと断定する見出しを打った週刊誌(『週刊現代』――創価学会は同誌の編集・発行人と朝木市議の夫と娘を名誉毀損で告訴)もあった。  市議の転落死に創価学会が関与していたのではないかという憶測は、彼女がかねてから反創価学会のリーダーとして、派手な反創価学会運動を展開していたというところから生じている。だが、それだからといって「市議の死」と「創価学会」を結び付けるのはあまりに乱暴で、まして記事はあくまでも憶測であり、そこにはなんら裏付けとなる一つの根拠もない。  作為的な目的にしたがってマスコミが寄ってたかって学会員を犯人に仕立て上げるばかりか、あろうことか、またまたその週刊誌を“証拠書類”として国会で議員が“恫喝”する事態まで起こった(まさに北海道の交通事故の被害者を加害者とすり替えて報道した『週刊新潮』を手に国会で質問した自民党議員を思い起こさせる)。この一連の女性市議転落死報道は、またもや、はからずもこの国のマスコミと政治家の低俗ぶりを明らかにしたものといえよう。  その後の警察の捜査で、転落死は「自殺」と発表されたからよかったものの、そうでなければ、煽り立て、騒ぎ立て、罪もない個人・団体を犯人に仕立てていくマスコミ攻勢がまだまだ続いていたに違いない。  日本に、まっとうなマスコミははたしてあるのだろうか。真のジャーナリズムは存在するのだろうか。こうした報道姿勢に接するたびに、暗澹たる気持ちになるのは筆者一人ではあるまい。偏向報道に狂奔する週刊誌をマスコミと呼ぶことはできない。それは単に他人をおもしろおかしくからかったり、イジメたりして、メシの種にしているゴシップ屋でしかない。  ともあれ、九五年一二月二二日、警視庁は、朝木市議の転落死を「自殺」と断定した。  以下に警視庁が自殺と断定した理由を、詳しく紹介しよう。 一、現場の状況  1 同市議は身長一六〇センチあり、踊り場の防護壁を乗り越えることができる。(自力で防護壁に上がることができる=筆者註)  2 防護壁の上面に指の擦れた個所が三か所あり、指先方向は階段のほうに向いている。(ぶら下がった痕跡がある=筆者註)  3 他人から突き落とされた痕跡は認められない。  4 ビルの外壁すれすれに着地しており、他人からの力が加わっていれば、外壁から離れて遠くに落ちるはずである。   A 外壁とフェンスの間は六〇センチしかない。   B 頭にも損傷はない。(頭から落ちたのではなく、ぶら下がった痕跡からも足から落下した=筆者註) 二、発見時の状況  1 午後一〇時三〇分。ビル一階のハンバーガー店長が「大丈夫ですか?」と声をかけ、さらに「落ちたんですか?」と聞いたところ、同市議は「大丈夫です」と答えた。  2 午後一〇時三五分。同店長がふたたび「大丈夫ですか?」「痛くないですか?」と声をかけると、「ハイ、大丈夫です」と答えた。さらに「救急車を呼びましょうか?」と聞くと、「いらない」と答えた。 三、遺体・聞き込みによる状況  1 着衣に争ったときにできる破れや綻びがない。  2 死亡者の身には争った跡や外傷がない。  3 現場周辺での不審な人や車の目撃がない。  警視庁は、以上の理由から、朝木市議の転落死については他人が介在した様子が見受けられないとし、「自殺」と断定したのである。警察の捜査は、これで終了した。  自殺と結論が出た現在、ふり返ってこの事件をながめてみると、週刊誌の「ウソと捏造」が面白いほどよくわかる。  当初から意図的だった週刊誌記事  この転落死に関する週刊誌の第一報は、『週刊文春』と『週刊新潮』(ともに九五年九月一四日号)だった。  『週刊文春』は「反創価学会女性市議の『怪死』」との見出し、『週刊新潮』は「女性市議『転落死』で一気に噴き出た『創価学会』疑惑」という見出しを付け、すでに「事件」の方向を「何者かによる他殺」というイメージ付けを行い、そこに創価学会の関与を執拗なまでに強調している。  両誌の記事に共通するのは、第一発見者であるマンション一階のハンバーガー・ショップ店長のコメントである。  店長が、通路に仰向けに倒れている女性を発見し「大丈夫ですか?」と声をかける。すると、「大丈夫です」という返事があった。ここまでは、警察の調べと同じなのだが、問題は次の記述である。  「『落ちたんですか』  『……いいえ』  女性は小さな声でそう言って首を横に振った」(『週刊文春』)  「こちらが“落ちたんですか”と、聞くと“いいえ”と言う。あとは何を聞いても応答はありませんでした……」(『週刊新潮』)  両誌によれば、店長の「落ちたんですか」という質問に、女性は「いいえ」と明確に答えていることになる。つまり、ここでこの女性は“落ちた”のではなく、何者かによって“落とされた”ということを暗示させているのだ。  しかし、先に紹介した警察の発表を見てほしい。  店長が、「落ちたんですか」と聞いたところ、朝木市議は「大丈夫です」と答えている。そこには決して「いいえ」など同市議が否定した事実は、ない。  そのことを筆者が再度警察に確認すると、  「この点については何度も聞きました。『いいえ』とは言っていません。発見者は、(市議が)『ウーン』と唸って首を動かしたので、「落ちたのではない」と言いたいのかなと思ったと言っていました。つまり、あくまでもこの部分は、発見者の印象です」  という答えが返ってきた。  さらにおかしいのは、両誌とも、そのあとで店長が「救急車を呼びましようか?」と聞くと「いらない」と答えたという重要な会話にはまったく触れていないことだ。ここに何かの意図が感じられないだろうか。故意に隠しているとさえ思われるのだ。  救急車を呼ぶことを断わったという事実は、朝木市議の死への覚悟を語りかける。その部分の話を記事にすることで、自殺という線が強調される。それを両誌は嫌ったのだろう。何がなんでも、この事件を「怪死」というイメージに仕立て上げ、そこに創価学会の影を感じさせたいという意図が最初からあったのではないか。  だからこそ、「落ちたんですか」という店長の質問に、警察での度重なる調べにもなかった「いいえ」という朝木市議の言葉を“捏造”したのだろう。  週刊誌の取材に応じた東村山署の千葉副署長は、この「救急車」の部分に関して。  「取材に来られた記者にはきちんと説明しているのに、なぜかその部分を書かないんです。それどころか逆に“怪しい”と強調した書き方が目立ってました」  と、これらの記事に対する感想を語っていた。警察では、第一発見者であるハンバーガー・ショップ店長と市議のやりとりのなかで、最初からこの救急車の部分を重要視していたのだ。市議が、ハッキリと救急車を断わった事実。他殺、あるいは事故であっても、救急車まで断わるだろうか。「痛い、助けて!」と叫ぶなりして救助を求めるのが自然であろう。  また、現場の状況は隣が駐車場でその仕切りの低い柵がすぐ近くにある。そのため、六階から放り投げられた場合、どうしても柵の向こうに落ちてしまう。朝木市議は、隣との仕切り柵とマンションの間の狭い場所に落下、それでも柵に右半身をぶつけている。  もちろん、飛び込んでの自殺なら頭から落ちるはずだし、この場合も放物線を描いて柵の外側に落ちる。いったいどういう状態で落下したのか?  警察犬、検死官、地方検事、それに担当刑事数人を動員して調べ、五階と六階の階段の手すりの外側に彼女の手の擦った跡があるところから、警察は次のように見ている。  「一度、自殺しようと手すりの上にあがったが、決心がつかないうちに態勢が崩れた。キャーと叫んで(五階の住人が声を聞いている)思わず手すりにつかまったがズルズル滑って真下に落下した」  これでは他殺説の出る隙などない。  発端となった万引き事件  警察では、この転落死に関しては当初から「事件性は薄い」と発表していたのである。それにはいくつかの理由がある。少々、長くなるが、それを見ていこう。  一九九五年六月一九日午後三時一五分。東村山駅前の洋品店「スティル」で、朝木市議が万引きをしたという事件があった。そもそもの発端は、この事件だったのだ。  洋品店「スティル」の女性店主から訴えられた同市議は、創価学会の人間が自分のそっくりさんを使って行った犯行で、これは創価学会の陰謀だと、犯行を否定した。  ところが、「スティル」の女性店主を筆者が取材したところ、彼女は、  「うちは創価学会とは何の関係もありません。朝木さんが万引きをしたから訴えたまでのことです」  と、怒りをあらわにして反論する。しかも、女性店主の説明によると、朝木市議の万引きはそのときが最初ではないそうだ。  九四年秋頃、店頭に置いてあったセール品のワゴンの中からセーターを盗んだことがあったという。  最初、朝木市議がワゴンの中をかき回していたので、「あら、朝木さん。セーターでも買ってくれるのかしら?」と思っていたら、その日は物色しただけで帰り、翌日、ふたたび現われた。ワゴンのなかから商品を選んでいるのかなと思ったら、パッとセーターをつかんで、止めてあった自転車の前カゴにそれを入れ、その上にバッグをのせてそのまま立ち去った。  女性店主は、あまりの出来事に盗まれたということすら実感できないほどであったという。もちろん、今回の万引き事件で、このときのことも警察には話してあるそうだ。  「スティル」には外からではわからないが、表の庇のところに防犯ミラーが取り付けられている。そのため、店主はレジの前にいながらにして店頭に並べたセール品とお客の様子が見えるようになっている。  今回の犯行のあった時刻も、駅のほうから朝木市議が来たときに、“セーターの件”もあったので、女性店主は店にいた二人のお客にはかまわず、防犯ミラーを注意深く凝視していた。すると、朝木市議は、店頭のワゴンを物色したあと、ハンガーにかけてあったキュロットとTシャツのセットからTシャツだけをはずして折りたたみ、脇の下にはさんでスタスタと歩き出した。あまりの大胆さに、女性店主は体が震え恐怖さえ覚えたという。  女性店主は店から飛び出していった。十数メートルのところで追いついて、「店の品物を持っていったでしょう?」と聞くと、朝木市議は「知らないわよ」と犯行を否定し、そのうち朝木市議の脇の下からパサッと盗品のTシャツが落ちた。  そのすきに朝木市議は隣のイトーヨーカ堂のなかに逃げ込んでしまった。  「追いかけて捕まえればよかったんでしょうが、そのときは目撃者の存在など眼中にはなく、万引き犯と対峙しているのは自分だけだという気がして、正直、怖かったんです」  と、女性店主は、そのときの気持ちを語っている。  ところが気がつくと、側に店にいたお客さんの一人が立っており、「現行犯なんだから、訴えるのなら証人になるわよ」と言ってくれた。また、隣の駐車場から出てきた人も、ちょうどその様子を見ており、そのうえ近くのイトーヨーカ堂の店員も通りかかり、「このまま一緒に交番に行ってあげることはできないが、いつでも証人になってあげますよ」と申し出てくれた。女性店主は意を強くし、万引きで朝木市議を訴えた。  これに対し、すでに書いたように、朝木市議側は「市議によく似た替え玉を使っての、創価学会による陰謀だ」と主張するのだ。しかし、その点に関して、「スティル」の女性店主は、  「私も朝木さんも同じ諏訪町で、子どもの小学校の入学式や卒業式には彼女は地元選出議員として出席してましたから、顔はよく覚えています。それに、店内にいて一部始終を見ていて証人になってくれたお客さんも、本町の人で、朝木さんの顔を知っていたのです」  と、替え玉説を否定している。  捜査にあたっている東村山署でも、  「複数の証人が現場で朝木市議を確認しております。そのことを警察としてはたいへん重視しております」  という見解を示していた。  もろくも崩れたアリバイ工作  この万引き事件は、最終的には書類送検となった。たとえ二度目とはいえ、ふつうは万引きくらいでは書類送検まではやらないのではないかと思われる。このことに対して、警察では、「アリバイ工作をするなど、きわめて悪質なので送検しました」(前述の千葉副署長)というのである。  その「アリバイ工作」とは、いったいどういうものなのだろうか。  犯行時(六月一九日)は、ちょうど市議会開会中であった。警察も、議会の会期が終わるのを待って、朝木市議に出頭を要請した。  最初、朝木市議は興奮して「学会の陰謀だ。冤罪だ」と主張するだけで、話を聞くことすらまったくできなかった。ところが、数日後、再び呼んだところ、今度は、  「私にはアリバイがある。その証拠も持っている」  という。朝木市議が主張するそのアリバイとは、こういうものだ。  犯行があった日、つまり六月一九日は午前中は議会があり、午後二時頃、銀行に行き、その後二時半から三時半、ちょうど犯行のあった時間は近くのレストラン(「びっくりドンキー」)で支援グループの矢野穂積氏と食事をしていた。したがって、犯行時間の三時一五分に洋品店に行くことは不可能である。  「店を出た時間が三時半。店のレシートにも同様の時間が入っている」  と、朝木市議は訴えたという。これが市議の言うとおりであれば、まさに冤罪である。  警察は、市議の証言をもとに、レストランで裏付け捜査を行った。  市議が証言したテーブル席(一七番テーブル)で、証言どおり三時半に食事を終えて、お金を支払った客はたしかに記録されていた。  ところが、その客は市議の言うように男女二人(市議と矢野氏)連れではない。女性客二人だった。  なぜ、そんなことがわかるのかというと、当日、そのテーブルの係になったウェイトレスが医者に行く予定があり、その時間の客が最後の注文だったのでよく覚えていたのだ。  また、最近のレストランでよく見かける電卓型の端末機を使う注文票には、注文を受けた時間が記録される。レジでのレシートには、人数、料金支払い時間(店を出る時間)、料金額しか記録されないが……。その注文票に記録されていた入店時間は、午後一時数分だった。  つまり、朝木市議が自分がいたといったテーブルには、女性客が二人一時過ぎから三時半まで座っていたのである。市議の証言どおり、銀行の防犯カメラには二時一二分に彼女が映っており、銀行に行ったところまでは証明できるが、その後、二時半から三時半まで、そのテーブルに座っていたという証言は辻棲が合わなくなってくる。  さらに市議の証言では、「食べたのはこの店の日替わりランチで、とてもおいしかったのでよく覚えている」とあった。  ところが、この日替わりランチは、その日は午前中で売り切れており、市議の口には入らないのである。  警察では、ここまでアリバイの裏取り捜査を進めたうえで、調書をとるために市議を呼んだ。市議は、前回語ったのと同じことをふたたび詳細に述べ、証拠としてそのレストラン「びっくりドンキー」の“一七番テーブルのレシート”を提出した。警察では、アリバイがすでに崩れていることを告げた。その途端、  「私はどうなるのでしょう?」  と、市議は不安を隠すことができずに聞いた。取り調べを担当した係官は、  「書類は地裁に送検されます」  と話したという。  その万引き事件の第一回目の地裁での事情聴収は、九月五日に予定されていた。朝木市議が転落死したのは、その四日前の九月一日だったのである。  告訴でトーンダウンした『週刊現代』  こうした背景があって、前述の『週刊文春』(反創価学会女性市議の「怪死」)、『週刊新潮』(女性市議「転落死」で一気に噴き出た「創価学会」疑惑)の第一報が出たわけだ。そして、これに続いて『週刊現代』が九月二三日号で「夫と娘が激白! 『明代は創価学会に殺された』」という見出しの記事を掲載した。  記事の内容は、そのタイトルどおり、朝木市議の夫と娘のコメントを中心に構成されている。二人の談話がそのまま記事の主調となり、“朝木市議を創価学会が殺した”という印象を煽っている。たとえば、こんな調子だ。  「母が死んだという一報がきたとき、すぐに母は殺されたんだと思いました。二年くらい前から尾行されたり、いたずら電話が続いたり……」(娘)  「……そこから推測される事実は一つです。創価学会はオウムと同じ。まず汚名を着せてレッテルを貼り(万引き事件を学会の陰謀と言うのだ=筆者註)、社会的評価を落とす。そして、その人物が精神的に追い込まれて自殺したようにみせて殺すのです」(娘)  「妻が自殺するはずがありません。創価学会に殺されたんですよ」(夫)  一方的に娘や夫の憶測による感情的な談話をたたみかけ、それに対する事実の裏付けになるような証拠や検証は一切ない。事実は“謎だ”と、ぼかしているだけだ。  しかし、たとえ遺族の談話だとしても、世間に向かって“殺された”と言われては、当の創価学会としても黙ってはいられない。同記事を事実無根の中傷記事だとして、創価学会本部は、名誉毀損罪で、同誌の編集・発行人と朝木市議の夫と娘を警視庁に告訴した。  奇妙なのは、その告訴後の『週刊現代』の対応である。  もし『週刊現代』が、確たる物的証拠なり、目撃者への取材を通した確かな手応えのなかで「殺された」と言い切ったのであれば、告訴された後の号では、その証拠なり、目撃者を登場させ、自分たちの記事は正確な事実のうえに積み重ねた正当な記事であるということをハッキリさせるべきであろう。  だが、次号(九月三〇日号)では、「東村山市議『変死事件』の深まる謎と創価学会の『言論弾圧』」というタイトルの記事を載せた。  どう考えても、おかしな話である。先に「殺された」と断定しておきながら、今度は「『変死事件』の深まる謎」と言う。  これは、順序が逆ではないのか。「『変死事件』の深まる謎」を取材していったら、「学会に殺された」ということがわかってきた……というのなら理解できる。  しかし『週刊現代』は、前号で、何の証拠も出さずに、あたかも創価学会が朝木市議を殺したかのようなキャンペーンを張っておきながら、告訴されるやたちまち「朝木市議の変死事件の真相解明は、今後の捜査の進展を待たねばならない。しかし、朝木市議に対する学会側の中傷・嫌がらせはあったのである」と、前号での“怪気炎”を一挙に卜ーンダウンさせ、引かれ者の小唄よろしく、問題の焦点を「学会側の中傷・嫌がらせ」のほうに持っていっている。  この記事からも、前号では、夫や娘の感情的な談話の裏も取らず、“大丈夫だろう”という見切り発車で記事にしたという経緯がよくわかる。  あきれるスリカエの連続  しかも、見切り発車で記事を書いておきながら、告訴されたら逆にそれを「言論弾圧」と言うのは、問題のスリカエもいいところである。「言論弾圧」と言うなら、『週刊現代』は自説(掲載記事)の正当性を客観的に立証すべきではないか。  それもせず、それ以降、『週刊現代』は意地になったかのように反創価学会記事を掲載し続ける。それもスリカエの連続で――。  一〇月二八日号〈これでも創価学会は「中傷・嫌がらせ」はなかったというのか!〉  またもや何人かのコメントを中心に、さも学会による中傷・嫌がらせがあったかのようなイメージをつくりあげた記事を載せた。その一つひとつのコメントに対する検証も曖昧なのだ。しかし、ここで『週刊現代』がやるべきことは、何度も言うように、“学会が朝木市議を殺した”という自説に対する立証ではないのか。  創価学会が『週刊現代』を名誉毀損で告訴したのは、学会が朝木市議を殺したかのような一方的な報道に対するものなのだから、このスリカエはだれが見てもおかしい。  一一月二五日号〈東村山市議変死事件の遺族が刑事告発へ。「創価学会の宗教法人法違反」を問う!〉  折から国会で宗教法人法の改正が問題になっていたときだけに、今度はそちらに話題を擦り寄せようという意図が見え見えである。自説の立証ができないからといって、相手のイメージダウンをはかるだけの報道を繰り返すことが、はたして社会的影響力の強いマスコミのすることなのだろうか。  自分が間違っているのなら、素直に謝る。これは子どもでもわかる理屈だと思うが、居直りは見苦しい。  創価学会に名誉毀損で告訴された当初、『週刊現代』の編集人である元木昌彦氏は、こうコメントしている。  「(『週刊現代』九月二三日号の記事は)事件の関係者や肉親への取材に基づいてリポートしたもので、内容には十分な自信をもっている」  しかし、その後のこういう報道姿勢を見ていると、ますます『週刊現代』の「自信」の存在が疑わしくなってくる。  たとえば、問題の九月二三日号の記事では、朝木市議の転落死が「自殺ではない」ことの根拠として、市議の遺体を検案した嘉数能雄医師の証言を、次のように紹介している(九月三〇日号にも掲載)。  「検案を開始したのは午前4時ごろからでしたが、自殺と判断できる材料はありませんでした。遺体の状態は肋骨がほとんど折れて肺に刺さっていた。そこからの出血で死亡したと判断しました。頭部に損傷はなく、足の指も踵も損傷はありません」  さらに、こう記事をつないでいる。  「この証言は、新たな謎を呼ぶ。朝木さんが転落したとみられるビルの5階と6階の間の踊り場の手すりには、朝木さんの指紋がついていて、朝木さんは手すりにぶら下がってから、飛びおりたようだと警察は説明してきたのだが、それならば足を下にして転落するはずだ。前出の嘉数医師も、『足を下にして落下したとは考えられません』と証言する」  ところが、嘉数医師は、筆者の取材に対して、こう述べているのだ。  「私は『週刊現代』の記者に『足を下にして落下したとは考えられません』などとは言っていません。私は死因について話しただけで、それを記者が勝手に解釈して、そういう言い回しに変えたのでしょう。  二号(九月二三日号と同三〇日号)にわたって、私の証言として『朝木さんの遺体からは自殺と断定できるような材料は見つかりませんでした』と自殺を否定するかのようなコメントをしたことになっておりますが、これは状況説明を省いて都合のいいところだけを自殺否定のコメントに使ったんです。  私かお話したのは『これから捜査するのだから、いまの段階ではまだ自殺も他殺も判断できない』と言ったのです」  すでに述べた、朝木市議の第一発見者のコメントとして使われた「落ちたんですか?」「いいえ」という否定の返答にしても、この嘉数医師のコメントにしても、一部の週刊誌記者は自分の都合のいいように人のコメントを「勝手に解釈して、そういう言い回しに変え」ることが仕事だと思っているようだ。  学会員による嫌がらせは事実なのか  『週刊現代』もさることながら、他誌にもひどいものがある。例えば、『週刊新潮』一〇月一二日号である。  タイトルは「創価学会員の関与が判明した東村山市議転落死の周辺」とある。このタイトルを読むかぎりでは、東村山市議の転落死に創価学会が関与していた事実が判明したかのように受け取れるが、記事を読むと、この転落死に至るまでに起こったとされる同市議への嫌がらせに学会員が関与していたというものだ。  ところが、例に挙げられたどのケースをとっても根拠が薄弱で、説得力がない。事実、嫌がらせのたびに捜査を依頼されている東村山署の係官も、  「矢野市議(朝木市議と同じ会派「草の根市民クラブ」の議員=筆者註)に代表される故朝木市議側の一方的な情報だけを週刊誌は取り上げて書くんです。でも、そのなかには明らかに攪乱情報もあるんですよ。ここにきて学会員による『嫌がらせ』や『脅迫』がこんなにもあったと言っていますが、警察では全部調べています。新聞紙に灯油を染み込ませて火をつけたという燃えカスも、脅迫状も……。でも、これらが学会員の仕業であるという証拠は何も見つかってないんです」  と言うのだ。  その一つに“ワゴン車で女性を待っていた男”というのがある。『週刊新潮』の記事からその部分を抜き書きしてみると、  「不気味だったのは、朝木市議が転落死した日の深夜二時過ぎ。家族が朝木さんの行方を案じていたまさにその時に、朝木家を監視するかのように、家のすぐ前にワゴン車が停っているのを家人が発見。不審に思った家族が運転手に声を掛けたところ、『男はニヤニヤ笑うだけで、返事もしないんです。なぜか暑い中、エンジンもかけずに車の中に座っているだけで、その内、車は急発進していなくなってしまったんです』(直子さん――朝木市議の娘=筆者註)」  ところが、後日、このワゴン車の男が東村山署に現われ、  「週刊誌などで自分が『不審なワゴン車の男』(この『週刊新潮』の記事以前にも数誌ですでに取り上げられていた)と書かれているが、事実はこうだ」  と証言したのである。それによると、彼は、その夜、近所のフィリピンパブで飲み、ホステスのフィリピン女性と待ち合わせ、彼女の来るのを車で待っていた。そこに彼女が自転車で現われた。「なんだ、自転車で来たのか」と話したところも、矢野市議は目撃して知っていたはずだし、それで誤解がとけたと思ってワゴン車を出したという。警察への通報はこのあと矢野市議によってなされたのである。  マスコミが煽り政治家が脅す  この「ワゴン車の男」の話は、反創価学会ジャーナリスト乙骨正生か『文藝春秋』一一月号に書いた「東村山市議怪死のミステリー」でも触れられている。その部分を引用してみよう。  「二時半、朝木宅前でニヤニヤ笑っている不審な人物の乗る車を発見。直子さんらが問いただしたところ、『女性を待っている』。  二時四〇分、矢野氏が『朝木さんの自宅前に不審車が止まっている。朝木さんは行方不明状態だ。連れさられた可能性もある』と110番通報。不審者運転手は、パトカーが来る前に、通りかかった女性を待っていたと称して逃走。車のナンバーから運転手は、狭山市広瀬に住むS氏であることが判明。このS氏、九日にフィリピン人らしき女性を伴って『草の根』事務所を来訪。『自分はこの人をまっていただけだ』と弁解」  前述の話と読み比べてみれば、このニュースソースが矢野市議であることは容易に想像がつく。この記事全体が、それまでに出されたこの「事件」に関する週刊誌報道の総まとめのような原稿でもある。もちろんその視点は、いつものように創価学会に対する悪意に満ちたものであり、記事に使われているデータも朝木市議側の提示する一方的なものばかりだ。  しかも、今回の「事件」では、乙骨自身がコメンテーターとしてしばしば何誌かの週刊誌に登場し、悪意に満ちた憶測によるコメントを述べている。いくつか紹介しよう。  「私はいろいろな面で今回の事件には納得がいきません。この事件の背後にはどうしても創価学会の影を感じるんです……この上なく公明党・創価学会は、朝木さんの存在を目の上のタンコブとして見ていたんです」(『週刊新潮』九月一四日号)  「朝木さんは最近、宗教法人法の改正にも力を入れていました。この問題は創価学会・公明にとっては死活問題。しかも、創価学会の認証は国ではなく東京都によるものだから、彼女が都議会に進出したら、とんでもないことになる。彼女の存在は、ただの地方議員というだけにとどまらず、創価学会はかなり危機感を持っていたはずです」(『週刊現代』九月二三日号)  学会の関与を臭わせ、荒唐無稽にその動機をひも解く。「殺人」を問題にしている記事中でのコメントとしては、タメにする発言以外の何物でもない。  乙骨と朝木市議の出会いは、『文藝春秋』の同記事によると、九四年六月頃からであるという。ある取材で知り合い、「私(乙骨)が東村山出身であること、また、以前、創価学会に在籍し、創価学会問題を重要な取材対象としていることなどもあって、創価学会・公明党(現公明)と厳しく対峙していた朝木さんと親交を重ねることになった」ということだ。  実際に、乙骨は朝木市議が主催する反学会集会などに呼ばれて講演をしたりしている。いわば同じ学会バッシング(叩き)仲間だったということである。その意味からも、乙骨の原稿が、一方的な意図をもって書かれたものであることが実によくわかる。  しかし、だからといって、次のようなくだりを何の注釈もなしに書くというのは、その意図があまりに露骨すぎはしないか。  「その朝木さんが亡くなったとの矢野市議の電話が、私のもとに入ったのは二日の午前六時。矢野氏は、絞り出すような声で朝木さんの死を私に伝えた。  『朝木さんが殺されました』  (中略)  『東村山駅前のビルから突き落とされたようです』  矢野氏の言葉に、私は取るものもとりあえず、東村山に向かった」  朝木市議が「殺された」というのは、あくまで矢野市議の推測にすぎない。事実を調べもしないで、それをまるで事実でもあるかのような印象を与える書き方をしているのは、朝木市議側は当初からこの出来事を「殺人」として位置づけようとする意図があったことをはからずも暗示しているようなものである。  さらに、この乙骨が書いた『文藝春秋』の記事をはじめ、『週刊新潮』『週刊朝日』などを資料に、自民党の穂積良行議員と熊代昭彦議員が宗教法人法改正審議の場において学会の関与を決めつける質問をするに及んだ(一一月七日、衆院宗教法人等特別委員会)。  その審議の席上、まず穂積議員は、  「実は、私、この雑誌(乙骨が書いた「東村山市議怪死のミステリー」『文藝春秋』一一月号ほか数誌)を見ていて思い出したものは、申すまでもなくオウム真理教の坂本弁護士拉致・殺害事件。……」  と、まるで創価学会とオウムが同質なカルト犯罪集団であるかのようなイメージ付けを行っている。  次に質問に立った熊代議員も、「東村山問題」に事寄せて「オウム真理教はそれ(国家乗っ取り=筆者註)を暴力でやろうとした。創価学会さんは合法的な選挙でやろうとしている」などと、週刊誌の記事をそのまま受け売りしたデマ情報を放言している。  さらに、同じく自民党の保坂三蔵議員も「(東村山問題は)これだけの週刊誌が取り上げているのだから(創価学会が)疑わしい」とか「創価学会もカルト教団に含まれる」と、週刊誌の記事が正しいことを前提にあからさまな学会中傷をくり広げた(一一月三〇日、参院宗教法人等特別委員会)。  こうした国会での中傷質問だけではなく、自民党執行部の反学会の急先鋒、亀井静香組織広報本部長などは、「警察庁長官や警視総監には『これを単に自殺事件として片づける度胸があるのか』と言いました。客観的な状況からいって、殺人事件の疑いもあるという観点から取り組む事案であることは間違いない」(『週刊朝日』一一月一〇日号)とか、「警視庁の国松長官に、事件の何日か後に電話をして、『やれ』と言ったんだ。(長官は)『ちゃんとやります』と言っていた。一連の件も含めて手加減する理由はない」(『週刊宝石』一二月一四日号)と、警察の捜査に圧力をかけたことまで放言している。  ここまでくれば、学会叩きのためにこの“転落死”を利用して、「マスコミが煽り、政治家が脅す」という構図が最初から予定されていたと考えるほうが自然ではないか。  反学会ジャーナリストたちの作意  実際に、週刊誌の捏造記事を資料に政治家を動かそうという意図は、矢野氏をはじめとした朝木市議側には早くからあった。  すでに九五年九月一八日に、龍年光元公明党都議襲撃未遂事件(九五年八月三一日に龍元都議の事務所に創価学会員を名乗る男が日本刀などの凶器を持って侵入しようとしたとされる事件)と、朝木東村山市議転落死事件の真相解明を求める請願書なるものを、深谷隆司国家公安委員長(当時)に提出しているのである。  その請願書には、こう書かれている。  「命を狙われた龍年光(元都議)も、怪死した朝木明代(市議)も、これまで一貫して、創価学会・公明党の反社会性を厳しく糾弾してきた。  そのため、両名とその関係者は、創価学会による(もしくは同会々員によるものと思われる)、さまざまな脅迫、監視、嫌がらせ、デッチ上げ訴訟によって、直接的または間接的な被害をこうむり続けることになったが、その果てに今回の事件が起きたものである。  状況から見て今回の事件の背景には、かの、坂本弁護士を教団の敵として麻原彰晃の命令で一家皆殺しにしたオウム真理教と、きわめて本質が酷似する、巨大宗教団体・創価学会の影が感ぜられる」  そして、その証拠の資料として、彼らは以下の週刊誌を提示している。 「週刊新潮  九月一四日号(女性市議「転落死」で一気に噴き出た「創価学会」疑惑) 週刊ポスト 九月二二日号(女性市議転落死、元公明都議襲撃、反創価学会闘士に次次奇っ怪事件が) 週刊実話  九月二一日号(創価学会批判者が受難、東村山女性市議が放火された直後に謎の死) 週刊現代  九月二三日号(夫と娘が激白! 『明代は創価学会に殺された』)」                             (四誌のタイトル=筆者註) さらに請願者には、龍年光、朝木大統、朝木直子、矢野穂積といった名が並ぶ。何をか言わんやである。  自分たちがニュースソースとなって、一方的な悪意の憶測を流し、それを事実の確認もなしに週刊誌が書き立てる、その週刊誌をふたたび証拠資料だとして、屋上屋を架すように、なんと「オウム真理教と、きわめて本質が酷似する、巨大宗教団体・創価学会の影が感ぜられる」と根拠のない決めつけを行っているのである。  朝木市議転落死事件とオウム真理教による坂本弁護士一家拉致・殺害事件とを同質視しようという動きは、この龍年光元都議同様に、反創価学会のブラック・ジャーナリスト内藤国夫にもあった。  内藤は「民主政治を考える会」などと称して「朝木明代市議怪死の経緯と創価学会の関わり!?」と題する怪文書をばらまいていた。この文書にも「坂本弁護士事件とそっくり!!」という見出しが踊っている。  その内容は、これまで見てきた週刊誌報道となんら変わらぬ捏造、憶測、決めつけのオンパレードである。いや、逆にいえば、彼らの広報機関としてさまざまな週刊誌が、彼らにその誌面を提供してきたと見るほうが妥当だろう。  九五年一〇月二九日に東村山社会福祉センターで、朝木市議の追悼集会が開かれた。当日、内藤国夫をはじめ、乙骨正生、段勲など反学会ジャーナリストといわれる者たちが顔をそろえ、故人の追悼というよりも、学会を感情的に中傷し糾弾するスピーチが続いたという。  この顔ぶれは、そのまま、この転落死に関するさまざまな週刊誌報道のコメンテーターでもある。その一事を見ただけでも、これらの週刊誌報道が最初からある意図(つまり、創価学会とオウム真理教とを同質視させ、うさん臭さを臭わせるという)にしたがって行われたものであることが理解できる。  常軌を逸した学会攻撃は、一一月二五日にそのピークを迎えた。日比谷公園の野外音楽堂で「東村山・朝木市議殺人事件糾明集会」なるものが開かれたのである。なんの根拠もなく「殺人事件」という決めつけが、すでに行われている。  その集会は、まさに彼らのヒステリックな狂気をまざまざと見せつけるものであった。その模様をレポートしよう。  かくして「狂気」の集会は開かれた  日比谷野音のステージ正面には「東村山・朝木市議殺人事件糾明集会」の横段幕と、菊花で飾られた朝木市議の大きな写真が掲げられていた。  主催者は、東村山朝木市議殺人事件を糾明する会、邪教から国政を守る会、草の根市民クラブなどの団体である。  会場には「創価学会を解散させよう」「池田大作は地獄へ行け」などと書かれたプラカードを持つ人が目立った。  このプラカードといい、転落死を何の根拠もなく「殺人事件」と決めつけている主催者の立場といい、会場には一種独得の雰囲気がかもしだされていた。「糾明」というかぎりは、なんらかの新しい事実が提示されるのかと期待していたのだが、集会は、ヒステリックな登壇者の決めつけに終始した。  まず、はじめに「東村山朝木市議殺人事件を糾明する会の会長がステージに立った。そして、いきなり、  「朝木市議殺害事件は、創価学会の犯罪だ。これは第二の坂本弁護士事件であり、このような市民へのテロ行為を許してはならない……」  と、決めつけた。もちろん、創価学会が「殺害」したと語る根拠は、なにひとつ提示されない。そして、  「……池田大作は『脱会者を自殺に追い込め』『脱会者はハリガネでゆわえトンカチで叩け!』といったという。その本性はアル・カポネ、ヒトラーだ。……警察は創価学会に強制捜査をすべきだ」  と結んだ。ここには感情的な中傷以外のなにものもない。  続いて紹介された四月会の有力メンバーでもある北野弘久日大教授のメッセージも、  「朝木さんの死は自殺ではないと確信している」  という一節から始まり、  「学会は、朝木さんたちだけではない。自分たちに敵対する文化人、ジャーナリストたちにもさまざまな暴行・暴力を加えている」  と、その暴力の延長線上には殺人もあるという含みをもたせるような内容だった。  草の根市民クラブの議員で、朝木議員の盟友だった矢野氏も、朝木議員の人柄を紹介しながらあの万引き事件を陰謀だと決めつけるなど一方的に転落死に至るまでの経緯を紹介し、さらに、  「朝木さんは落とされて死んだんです」  と、泣いて見せることまでした。そして、  「高潔な朝木市議。それを万引き犯人扱いする『スティル』の女店主。みなさん、『スティル』に行ってその女店主がどんな顔をしているか見てきてください」  なんと卑劣にも、洋品店の女性店主に社会的な制裁を加えるような扇動までしたのである。  「母の殺害の集会に、市民のみなさんがこんなにも集まってくれたことをうれしく思います」  壇上から、こう話しかけたのは娘の朝木直子氏だ。彼女は、  「議員が自宅から拉致され、強殺されるという事件が起きたんです」  と絶叫し、続いて、  「母は言論には言論でという人でした。その言論がいま、暴力によって殺されたのです。民主主義が危機に瀕しています」  と言うや、こんな決意表明までしたのだ。  「半年以内に行われるという総選挙に新二〇区から出馬することを決意しました。母の弔い合戦と真相究明のための出馬です。……新二〇区を学会に渡さないためにも闘います。よろしくお願いします……」  いったいこの集会は、何の集会だったのだろう。まるで選挙のための事前運動ではないか。彼女の選挙への出馬と、この転落死の真相究明がどうつながるのだろうか。  さらに、邪教より国政を守る会の長峰会長のスピーチは、聞くにたえない内容だった。  「朝木さんは学会を批判しただけで殺されたんです。これは市民への挑戦だ。市民への敵は断じて許さない」  「創価学会は、池田を見ればわかる。彼は留置場に入ったことがあるんです」  「八月頃、『脱会者は地獄に落とせ』と指令したことがあるんです」  「今回のことも池田の指令で朝木さんは殺されたんです」  「自分たちを批判する者は殺してもいいという学会は宗教ではない」 ………  ここまでくれば、もう言いたい放題の世界である。「だから」と、長峰氏は次のように結論する。  「池田を国会に証人喚問し、朝木さん殺人事件を追及すべし。学会に強制捜査を行うべきだ。そうすればオウム以上の犯罪集団であることがわかるはずだ」  この日の登壇者に共通していたのは、自分勝手で一方的な決めつけと、根拠のない作り話だけであることだ。学会を中傷し、ただ参加者を煽っていく。その目的は、池田創価学会名誉会長の国会への証人喚問と、学会への強制捜査にあるようだ。  それは、一部与党議員の策謀と軌を一にするものである。  何がなんでも、朝木市議の転落死を「殺人」と呼び、それを創価学会封じの政争の具にしたい様子がありありと伝わってくる。  集会は、「池田を逮捕させ、学会を解散させるまでガンバロー!」と気勢をあげ、最後に「池田 逮捕!」「学会 解散!」と何度もシュプレヒコールを繰り返し、そのまま東京駅までデモ行進していった。  最後の最後まで、彼らが主張する「殺人」の根拠や証拠については、何一つ述べられることもなく終わってしまった。  すでに述べたように、朝木市議の転落死から一一〇日あまり経って、警察はそれを「自殺」と断定した。週刊誌の虚偽と捏造報道から始まり、この狂気の集会まで続いた一連の反学会キャンペーンは、この警察発表により前提とする根拠を完全に失ってしまったのである。 第二章 オウムと学会を一緒にしたこじつけ報道  「オウムのついでに学会も叩いちまえ!」  全マスコミを挙げての怒濤のようなオウム真理教報道が、今年(九六年)に入ってもまだ続いている。それらの報道のなかには問題点――信者や家族のプライバシーを暴き立てる人権侵害、警察発表に全面的に依存する“権力の広報化”、被疑者を犯人と断定する不当な決めつけなど――が山ほどあるのだが、それはここではひとまずおこう。オウム真理教が引き起こした一連の事件についても、読者諸氏は周知のことと思うので、くわしくは述べない。  ここで問題にしたいのは、オウム・バッシングが過熱の一途をたどっていた九五年四月から八月にかけて、「ついでに創価学会も一緒に叩いちまえ!」とでもいうような“便乗バッシング記事”があふれかえったことだ。例えば――。  〈創価学会との「宗教戦争」勃発?〉(『週刊文春』四月一三日号、筆者・乙骨正生)  〈警察庁長官狙撃でオウムと創価学会の「詰り合い」〉(『週刊新潮』四月一三日号)  〈宗教法人改革へ「税務調査」を強化しろ〉(『テーミス』五月号)  〈オウム真理教と創価学会〉(『サピオ』五月一〇日号、筆者・溝口敦)  〈オウム騒動で「池田大作」が招集した「緊急会議」〉(『週刊新潮』五月八日号)  〈オウムは創価学会に似ている〉(『諸君!』六月号、筆者・内藤国夫)  〈オウム騒動に戦々恐々 今度は池田学会の番?〉(『諸君!』七月号、筆者・内藤国夫)  〈麻原彰晃と池田大作〉(『現代』七月号、筆者・溝口敦)  〈池田大作名誉会長と麻原彰晃代表の酷似点を検証〉(『宝石』七月号、筆者・段勲)  〈学会とオウムは違うか〉(『諸君!』八月号、筆者・内藤国夫)  〈「坂本弁護士」捜査を阻む創価学会の影〉(『週刊新潮』八月一七・二四日号)  ざっと目についたものだけを拾ってもこんなにある。スポーツ紙、夕刊紙を含めれば、関連記事の数はさらに増える。記事の内容は大同小異で、要するに、“オウムと創価学会はこんなに似ている。だから学会も悪なのだ”という趣旨である。  これだけたくさんの「似ている」記事があるからには、オウムと学会はさぞやよく似ているのだろう――タイトルだけを見た人は、だれもがそう思うに違いない。  だが、中身を読んでみれば、オウムと学会には「似た点」などなく、具体的なつながりなど何ひとつないことがわかる。この章では、一連の週刊誌報道のウソとこじつけを指摘し、学会を叩くためならなんでも利用する反学会メディアのあざとさを、浮き彫りにしてみよう。  上祐の苦しまぎれの言い訳に乗ったマスコミ  そもそも、これら「オウムと学会は似ている」記事がドッとあふれたきっかけは、オウム真理教の幹部・上祐史浩外報部長(当時)が、テレビ番組で「オウムが犯人とされている一連の事件(假谷さん拉致事件、地下鉄サリン事件など)は、実は創価学会による犯行である」旨の発言をしたことであった。  たとえば、九五年四月二日放映の『報道2001』(フジテレビ系)では、上祐外報部長は次のように発言している。 上祐「我々が申し上げたい犯人の必要条件というのは、オウム関連でちらついてくるのは、假谷さん拉致事件も、事件に使われたレンタカーを借りるに使われた名義人、この名義人も、その我々がいま、心の中に思っている団体の団員なんです」 キャスター「その団体、特定の団体であるとおっしゃっていますが、その名前というのはこの場でいえますか?」 上祐「はい。基本的に創価学会です」  また、同日放映された『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系)でも、上祐外報部長は同趣旨の発言を繰り返した。いわく、「創価学会員が、深夜に『サリン事件の犯人はオウム真理教である』と書かれたビラを配っていた」、「オウム・バッシング報道の先鞭をつけたのは『サンデー毎日』だが、毎日新聞は創価学会寄りだから、そめ報道も学会が糸を引いていた可能性がある」などなど……。なんとも荒唐無稽な弁明である。  オウムの一連の事件への関与が明らかになったいまとなってみれば、上祐幹部の発言は単なる言い逃れ、マスコミの目を教団からそらすための出まかせであったことがわかる。そもそも、四月二日の時点でも、まっとうなジャーナリストは誰も上祐発言を本気になどしていなかったのだ。  たとえば、まず、先の『サンデープロジェクト』でも、司会進行役をつとめる田原総一朗氏は、上祐幹部に次のように苦言を呈している。  「米軍がからんでいる可能性がある、国家権力がからんでいる可能性がある……。やっぱり唐突なんですよね。そして、さっきまた創価学会。唐突なんですよね。こういう唐突なものが出てくるというのは、リアリティーがないんだなあ」  また、創価学会広報室が上祐発言についてフジテレビ、テレビ朝日に厳重抗議をしたところ、『報道2001』のプロデューサーから釈明・謝罪のコメントも出されている。  さらに、翌日の衆院予算委員会「地下鉄サリン事件集中審議」でもこの上祐発言が取り上げられたが、席上、野中広務自治大臣(当時)は、「(創価学会関与の)根拠はまったくないわけでございまして、改めてここで明確に申し上げておきたいと思います」と明言している。  だが、週刊誌やスポーツ紙、夕刊紙などの反学会メディアは、リアリティー・ゼロの上祐発言を、わざわざ大見出しで面白おかしく取り上げた。彼らにしてみれば、上祐発言が事実無根であろうと、そんなことはどうでもよいのだ。それをネタに学会が叩けることだけが重要なのである。創価学会を叩くネタがあれば、たとえ見え見えのガセネタだろうと食らいつく。それが反学会メディアの性質なのだ。  もっとも、彼らにはちゃんと言い逃れの道が用意されている。「上祐が『創価学会が関与している』と発言したことそれ自体は事実であり、私どもはその事実を報じたまでですよ」と……。  上祐幹部にしても、そのへんのことを計算したうえで、創価学会に罪をなすりつけようとしたのだろう。発言がもし他の宗教団体であったら、どのメディアも記事になどしなかっただろう。創価学会だったからこれほどの記事になったのだ。  こうして反学会メディアは上祐幹部のまいたエサに見事に食いついた。“だまされたふり”をして……。  共通点をデッチ上げる内藤国夫のひどいやり口  〈創価学会との「宗教戦争」勃発?〉だとか、〈オウムと創価学会の「詰り合い」〉だとか、タイトルだけ見ていると、両教団があたかも実際に角突き合わせて「抗争」をしているように見える。  だが、事実はといえば、両教団の接点は、@先の上祐発言に対して学会広報室が反論のコメントを寄せたこと、Aオウム幹部がサリン・ガスを使って池田名誉会長を襲撃しようと計画していたこと――の二点くらいしかない。オウム側はともかく、学会側はオウムなどまったく相手にしていないのだ。それを「宗教戦争」とか「詰り合い」などと報じること自体が、事実を歪める詐欺報道である。  しかし、反論コメントを「詰り合い」と表現するくらいの針小棒大は、その後に出てきた「オウムと学会は似ている」という一連の記事のひどいこじつけに比べれば、まだおとなしい部類だ。  例えば、内藤国夫は、『諸君!』六月号の記事で、「二つの教団が抱える問題に、同列ではないが、共通性が感じられる」と書いている。だが、彼が例として挙げる「共通性が感じられる」こととは、まともな頭で考えればおよそ「共通性の感じられない」ことばかりなのだ。例えば――。  「マインドコントロールのために、信者を集団催眠にかける点でも、似たものを感じさせられる。もっとも、創価学会は音楽祭や文化祭などで集団催眠を施すにとどまり、オウムのように、クスリや注射を使うことはなかったが……」  こじつけもここまで強引だといっそ娯楽的だ。創価学会が主催してきた音楽祭や文化祭も、内藤にかかると「集団催眠」だということになってしまう。「クスリや注射を使う」明確な犯罪行為と健全な文化運動を、一緒くたにしているのだ。  失礼ながら、内藤サン、「マインド・コントロール」という言葉の意味をご存じなのだろうか。  創価学会は文化祭の参加者を隔離して情報遮断しているわけではない。文化祭をマインド・コントロールというのは、“すべての企業人は「企業の論理」によってマインド・コントロールされている”などという物言いと同じで、あまりに大げさな比喩である。悪意に基づく比喩としての「マインド・コントロール」と、そのものずばりのオウムの「マインド・コントロール」を、同列に論じられてはかなわない。  また内藤は、同じ記事の中で、池田名誉会長と麻原彰晃の「共通点」として、「二十代の後半、人生のこれからという時に警察に逮捕され、獄中体験を味わ」ったことを挙げている。  そして、「この屈辱体験が二人の胸中深くに、権力への敵視と憎悪、そして裏返しの権力への渇望をもたらした」と、そのことをもって二人が「同じ穴のムジナ」であるかのごとく彼は言うのだが、このこじつけにこめられた悪意はただごとではない。  というのも、「獄中体験」とはいっても、麻原のそれは有罪(薬事法違反で二〇万円の罰金刑)で、池田氏は裁判の結果無罪(公選法違反容疑)を勝ち取っているからだ。なんと、逮捕拘留されたというだけのことで、有罪と無罪を故意に混同しているのである!  クソミソ一緒とはこのことだ。これほどひどいこじつけをしてまで、麻原のダーティー・イメージを池田氏になすりつけようというのである。こんなやり口がまかり通れば、どの宗教団体も「オウムに似ている」ことになってしまうではないか。  内藤記事のひどいこじつけは、ほかにも枚挙にいとまがない。例えば――。  「オウム真理教はサリン路線へと脱線・暴走し、創価学会は政治路線に同じく脱線・暴走中である」  ――宗教団体の政治参加は憲法に定められた当然の権利であり、「脱線」でも「暴走」でもない。薬物を使ったテロとごく正当な政治参加を「同じく」の一言でつないでしまうとは、ブラック・ジャーナリストならではの荒技である。  「テレビで放映される特注・特大の白い椅子にふんぞりかえる麻原代表の説法風景。池田名誉会長もまた特注・特大の白い椅子が大のお気に入り。(中略)あぐらをかく(麻原氏)か、かかない(池田氏)かの違いがあるのみ」  ――座る椅子が特注だろうと白かろうと、よけいなお世話ではないか。では、池田氏が既製品の事務用パイプ椅子にでも座ってスピーチをすれば、麻原とは似ていない(=悪でない)ことになるとでもいうのか。  「メロンが好きなら麻原級の悪人」という決めつけ  ほかの“学会ウォッチャー”段勲や溝口敦の記事も、こじつけの低劣さは五十歩百歩だ。  例えば、段勲は、『宝石』七月号の記事で、池田氏と麻原がともに「メロン好き」であるとか、衆院選初出馬の際に立てた候補者の数がともに二五人であるとか、どうでもいいような「共通点」まで探し出しては並べてみせる。  ここまでくると、あきれてものも言えなくなる。二人ともメロンが好きだったらどうだというのか? メロンが好きな人はすべて麻原なのか? 衆院選に立てた候補者の数が同じだったら何か問題でもあるのか? こうなるともう、“A氏とB氏は目もあって鼻もあって耳もある。だから似ている”というレベルの因縁つけでしかない。  教団のトップがメロン好きである、などという瑣末な共通点がいくつあろうと、「オウム同様、学会も悪だ」ということの根拠にはならない。それは言わずもがなのことだ。  溝口敦が『サピオ』五月一〇日号に寄せた原稿もひどい。彼は例えば、次のように書いている。  「さらに信者会員からの集金法も、採る手段は違うものの、気分は同じである」  信徒を薬物潰けにし、拉致監禁してまで財産を奪い取ったオウムと、会員の自由意志にもとづく創価学会の「財務」行為の、いったいどこが同じなのか? 「気分は同じである」とは、なんとも恐れ入ったこじつけ方ではないか。仮にもジャーナリストを名乗りながら、溝口は「気分」で物事を判断するらしい。  溝口はまた、同じ記事のなかで、池田氏と麻原の共通点として「教団内で女性をまかなう機会主義」を挙げている。これなど、こじつけである以前に、この一節だけで名誉毀損ものの記述だ。  「教団内で女性をまかなう」(なんと品位を欠く表現か!)、すなわち、“池田氏が学会の婦人部・女子部幹部と特別な関係になっている”と言いたいのだろう。かつて『月刊ペン』という雑誌にそうした内容のヨタ記事が載ったことはあったが、これに対しては、『月刊ペン』側を創価学会が名誉毀損で告訴し、学会側か勝訴している。  つまり、溝口は、裁判ですでに否定されたヨタ話を、なんの説明もなく事実かのように蒸し返しているのだ。すでに学会側か勝訴していることなど百も承知のうえで、一般読者がそうした事情に無知なのをいいことに、過去の捏造記事を“再利用”してみせたのである。彼ら学会ウオッチャーは、「なんでもいいから、学会の悪口を一つでも多く言っておこう」とでも思っているのではないか。  ちなみに、内藤・段・溝口の三者が書いた一連の記事は、不思議なくらい似通った内容である。“オウムと学会の「共通点」”として挙げている事柄の多くが、重なっているのだ。彼ら“学会ウオッチャー”たちは、どこぞで集まって「企画会議」でも開いているのだろうか?  キリがないから、こじつけの例を引くのはこれくらいにしよう。  オウム捜査の遅れまで学会のせいにする記事  さて、ここでいま一度冷静に考えてみよう。学会ウオッチャーたちの言うようなどうでもよい「共通点」は抜きにして、本質的な部分で、オウムと創価学会は似ているのだろうか。  なるほど、オウムも仏教団体を名乗ってはいる。が、実際は、オウムの教義はチベット密教、ヒンズー教、キリスト教などのそれをつぎはぎしたものでしかない。また、オウムの顕著な特徴である出家主義も、終末思想も、超能力志向も、創価学会にはないものである。  そのほか、数え上げれば、二つの教団には共通点どころか相違点ばかりが目立つ。そうした本質的な相違から目をそらし、表面上の瑣末な“共通点”だけを数え上げて(また、共通点ですらない点まで共通点として)、無理やり「オウムと学会は似ている」と騒ぎ立てたのが、一連の中傷記事なのである。  要するに、すべて“印象批判”なのだ。実際にオウムと学会が似ているかどうかなどどうでもよく、「似ているように見せる」ことこそ重要なのである。なんとなれば、いまや日本中がオウムに対する強烈なダーティー・イメージを抱いているからであり、そのオウムに「似ている」と思わせるだけで、学会のイメージ・ダウンという所期の目的は達せられるからだ。中身がいかにひどいこじつけに満ちていても、記事のタイトルくらいしか見ないいわゆる“半読者”には、十分効果がある。  そして、イメージ・ダウンのためには、「学会とオウムは似ている」と何度も繰り返してやらなければならない。ウソも一〇〇回繰り返せばなんとやら、だ。内藤国夫のやり口はまさにそうである。『諸君!』に連載していた「月報『創価学会問題』」で、内藤はなんと三回連続で「学会とオウムは似ている」という“テーマ”を取り上げている。先に引用したようなくだらない“共通点探し”を、三か月間にわたってやってみせたのだ。この連載は昨年一二月号をもって“めでたく”終了したが、打ち切りを決定した編集者の気持ちがよくわかる。ただでさえ無内容な原稿を、さらに水増し連載されてはたまったものではあるまい。  だが、内藤国夫の水増し連載も、「オウムと学会は似ている」というイメージづくりの点では大きく貢献したはずだ。怖いのは、一般読者の多くに「オウムと学会は似ている」というイメージがすでに刷り込まれているように見えることだ。  四月の段階では、両教団をつなぐものは、先に引いた「上祐発言」しかなかった。もちろんいまでも、具体的な共通点などありはしない。が、内藤国夫らの学会ウオッチャーが「似ている、似ている」と騒ぎ立てたことで、いつの間にやら、「オウムと学会が似ていること」を「前提」として記事が作られるようになってしまった。  例えば、『週刊新潮』八月一七・二四日号の〈「坂本弁護士」捜査を阻む創価学会の影〉なる記事――。オウムに殺された坂本堤弁護士一家の捜査を、創価学会が「阻んでいる」とはいったいどういうことか? いぶかしんで読んでみれば、“オウムの犯罪には暴力団が関与しているが、その暴力団は学会ともつながりがあるため、「その方面の捜査を手控えてくれ」と創価学会が警視庁に圧力をかけた”といった内容である。  ひとことで言って荒唐無稽、「いくらなんでもそりゃあないだろう」と笑い出したくなるヨタ記事である。  それにしても、オウムのダーティー・イメージをそのまま学会になすりつけたうえ、捜査の遅れまで学会のせいにするとは、なんという責任転嫁だろう。いまや創価学会は、世間の人々が抱いているさまざまな不満を晴らすためのスケープ・ゴート(いけにえの山羊)と化しているのである。  毎度おなじみの「こじつけ論法」  他の宗教団体が何か社会的な問題を起こしたとき、それを強引なこじつけで学会批判に援用するという手口は、実は以前からあるものだ。  例えば、七八年にアメリカのカルト教団「人民寺院(ピープルズ・テンプル)」の信者が集団自殺を遂げたとき、『週刊新潮』はそれを学会批判にこじつけて見せた(拙著『創価学会報道にみる週刊新潮のウソと捏造』の一二ページ「詐欺のような“コジツケ”の見本記事」の項でその記事〈新興宗教の「集団」自殺と「集団」投票〉『週刊新潮』七八年一二月一四日号)を取り上げているので、ご覧いただきたい。  これは、人民寺院とはなんの関係もない創価学会を貶めるため、なんと、学会員の投票行動を集団自殺と「似ている」とこじつけた記事である。リード文にはこうある。 〈「集団自殺」が狂気の行動であるのはいうまでもないが、我々の身近にも狂気としか思えない行動を取る集団が少なからずあるのを思い起こしてみるのも、この際、無駄ではなかろう。例えば創価学会による「集団投票」「替玉投票」も民主主義を冒涜する狂気のさたではあるまいか〉  「集団投票」(そんな言葉があるとは知らなかったが)と「集団自殺」――この二つが似ているとしたら、「集団」という言葉だけだろう。似ても似つかない物事を「似ている」と強弁し、カルト教団と学会を強引に結びつけるやり口は、一連の「オウムと学会は似ている」記事とまったく同じである。“反学会雑誌メディアの論理”に照らせば、カルト教団と学会を一度に叩けるこうした記事は、まさに一石二鳥ということになるのだろう。  昔、「私はタバコを吸うが健康だ。だからタバコは健康にいい」と発言して物議をかもした政治家がいたが、「オウムと学会は似ている」という類の記事に使われているのも、それと同レベルの低級な詭弁でしかない。その詭弁は、たとえば次のようなものだ。  〈オウムは悪だ→オウムは政治に進出した→学会も政治に進出した→だから学会も悪だ〉  タバコが健康にいいわけもないのと同様に、表面的な共通点がいくつかあっても、オウムと学会を同一視してよい理由にはならない。こんなお粗末な詭弁にだまされぬよう、読者はこじつけを見抜く眼力を養わねばなるまい。  そして、一連の「オウムと学会は似ている」記事の書き手が、内藤国夫、段勲、溝口敦と、毎度おなじみの面々である点も見逃してはならない。三人は職業的な学会批判者、つまり学会攻撃でメシを食っている輩であって、今回の一連の記事も、その目的はオウムよりむしろ学会を叩くことにこそあったのだ。  そして問題は、彼らが、「学会を叩くためならなりふり構わない人種」であるということだ。彼らの仕事ぶりの悪どさについては、本書にも、また、前著、前々著にも数々の事例が載っているので、ご参照いただきたい。  内藤・段・溝口は、過熱オウム報道のどさくさにまぎれて、選挙前恒例の学会イメージダウン・キャンペーンを張っただけなのだ。“オウムについてなら何を書いてもいい”というマスコミのヒステリックなムードを、彼らはたくみに利用したのである。  アドバタイジング(広告)の世界には「イメージ・メイカー」と呼ばれる職種がある。選挙の候補者や企業の「よいイメージ」を作り出し、売り込む専門家、専門会社のことである。内藤ら学会ウオッチャーは「ジャーナリスト」を名乗っているが、実際の仕事はこの「イメージ・メイカー」そのものだ。ただし、彼らが売るのは、「学会の悪いイメージ」であるが……。 第三章 証人喚問を「魔女狩り」に使う雑誌  「証人喚問」の本義を歪める  ここ何年か、国会が始まると決まって、池田創価学会名誉会長の「証人喚問問題」がクローズアップされる。言論・出版問題のころから幾度となく取り沙汰されてきたことではあるが、公明党が初の政権入りを果たした九三年以来、週刊誌の騒ぎ方もひときわ派手になってきた。  最近の関連記事をリストアップしてみよう。  〈「池田喚問」で自公の裏取引き「重大証言」〉(『週刊ポスト』九四年一〇月二八日号)  〈池田大作「証人喚問」を狙う自民党の“爆弾”〉(『週刊文春』九五年一一月九日号)  〈池田大作はまたも国会喚問を恐れ東南アジアに外遊〉(『週刊実話』九五年一一月二三日号)  〈池田大作「国会喚問」を逃げられない状勢〉(『週刊新潮』九五年一一月二三日号)  〈自民・国対委員長が「池田喚問」でついに宣戦布告!〉(『週刊ポスト』九五年一一月二四日号、筆者・溝口敦)  〈出てこい池田大作 国会喚問で質すべき「五つの大罪」〉(『週刊文春』九五年一一月三〇日号)  タイトルだけ見てもわかるとおり、どの記事も、次のような前提のもとに作られている。  “池田大作が証人喚問されるのは当然だ。なぜなら池田は悪事を働いているからだ。しかし、池田は憶病だからなんとか喚問を避けようとしている”  だからこそ、「国会喚問を逃げられない」だとか、「出てこい池田大作」などという悪意に満ちたタイトルがつけられるのである。  だが、これらを本当に自明の前提としてよいものなのか? 池田氏は本当に「証人喚問されて当然」なのか?  「否」である。筆者は、池田氏への喚問要求は横紙破りの不当なものだと思う。  そもそも、「証人喚問」とはどういう意義があるものなのか? その本義を知れば、だれも「池田は喚問されて当然」などとは思えないはずだ。  証人喚問は、憲法六二条に規定された国政調査権の行使として行われるものである。六二条には、次のようにある。  「(国会が)国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる」  国政に関する重大事の調査を行うものであるから、当然、強い強制力を持つ。調査の範囲は立法・行政・司法の三権すべてを含んでいるし、証人は出頭を強制され、偽証をすれば懲役刑にも処せられるというものだ。  もともとは、終戦直後の昭和二十二(一九四七)年に、隠匿物資摘発に関連してできた制度である。そのためもあって、証人の人権保護への配慮に欠ける側面があり、法律の専門家からもしばしば批判を浴びてきた。  過去には、証人が喚問後に自殺したり、喚問中、心理的圧迫に耐え切れず椅子に倒れ込んだ例もある。衆人環視のもと、弁護人なしで証人を寄ってたかって責め立てるという、「公開リンチ」的な性格が問題となるのである。  だからこそ、現在の証人喚問は、国政にとってよほどの重大事でなければ行われない慣行ができているのだ。過去二〇年ほどの喚問の例を見ても、ロッキード事件、リクルート事件、佐川急便事件、二信組疑惑など、政治・経済スキャンダルの究明のために行われたものばかりである。  では、池田氏は、証人喚問されなければならないほど重大なスキャンダルの当事者なのだろうか? 何か法に触れることでもしたというのだろうか?  自民党が証人喚問要求の理由として挙げているのは、例えば「創価学会の脱税疑惑を質すため」というものだ。しかし、これについては、国税庁が九〇年、九一年の二度にわたって学会に税務調査に入り、摘発なしに終わったという経緯がある。国税庁が二度も調査してシロだったのに、いまさら何を聞こうというのか。  また、関連記事に登場する自民党議員の多くは、「政教一致疑惑を質すために喚問するのだ」と述べている。つまり、創価学会・新進党の「政教一致疑惑」も、十分証人喚問に値する政治的事件ではないか、と……。  だが、学会と新進党の「政教一致疑惑」などというものは、一部マスコミと自民党が作り上げたイメージであって、なんら実体がない。例えば「学会が信徒から集めた浄財を新進党の政治資金に提供している」などと言うが、具体的な事実があって、はじめて「事件」となるのである。しかし、これほど多くの記事が出ているのに、一度もそうした事実は示されていない。つまり、そんな事実はないのである。  先に挙げた〈池田大作「証人喚問」を狙う自民党の“爆弾”〉なる記事のなかで、学会攻撃の急先鋒である亀井静香議員(自民党組織広報本部長)はこう述べている。  「池田大作さんは創価学会の幹部に、『今度できるデージンはお前たちの部下だ』といった。政教分離といったって誰も信じませんよ」  亀井議員の言う池田氏の発言とは、公明党が初の政権入りを果たした細川連立政権発足の前日、学会の本部幹部会のスピーチで述べたものである。しかしこの発言は、「公僕たる大臣は庶民の手足であるべき」という、ごく当り前の原則を述べたものにすぎない。亀井議員はその点を曲解し、何かというとこの発言を「政教一致の証拠」として挙げるが、そのこと自体が、学会と新進党の政教一致疑惑を証明する具体的事実が何もないことをよく示している。  どこそこから汚れた金をもらつたとか、脱税の具体的な証拠があるとか、池田氏が何か悪事を働いたという「事実」が見つかって、はじめて「証人喚問をしよう」ということになるのが物事の順序というものだろう。しかし、週刊誌の論法はそうではない。「池田は悪いヤツに決まっているから、とにかく証人喚問してしまえ!」という論法なのだ。そして、池田氏を「悪いヤツ」と決めつけた根拠はといえば、自分たちがこれまで延々と作ってきた「ウソと捏造」の学会批判記事というのだから、開いた口がふさがらない。  証人喚問が本来持っている重要な意義を、各週刊誌は寄ってたかって歪めている。罪のない一民間人を公開リンチにかける「魔女狩り」の儀式にしようとしているのだ。   海外に行くと「逃げた」と決めつける  一連の「証人喚問記事」はみな、「池田は憶病だからなんとか喚問を避けようと逃げている」というトーンで貫かれている。  「当の池田氏は、『海外逃亡』を決め込んでか東南アジア歴訪の旅に出ている」(『週刊新潮』一一月二三日号のリード文より)  「今回の外遊は、そうした危機を避けるための、いわば緊急避難、ひらたくいえば国会への招致、喚問を逃れるための逃亡だ」(『週刊実話』一一月二三日号)  だが、こうした決めつけはあまりにも短絡的にすぎるだろう。池田氏はこのときのアジア歴訪で、ネパールのビレンドラ国王を表敬訪問したり、国立トリブバン大学で記念講演を行ったりしている。常識で考えても、一国の国王との会談がそんなに簡単にセッティングできるはずがあるまい。  「池田氏がアジア歴訪の旅に出発したのは、十月三十日のことです。衆院本会議で、宗教法人特別委員会の設置が可決されたのが翌三十一日ですから、あまりにもタイミングが良すぎるんですよ」「(委員会での参考人招致を避けるため)あわてて海外に脱出したと見るべきでしょう」  『週刊新潮』一一月二三日号の記事中の「ある学会関係者」のコメントである。  この匿名発言者の推測どおりなら、学会は「お、ヤバイ、宗教法人特別委員会の設置が決まりそうだぞ」と、一〇月末の時点であわててアジア歴訪を決めたことになる。そして、電光石火の早業で国王などのVIPとの会談をセッティングし、大学での講演を決めたということになる。そんな馬鹿な話があるだろうか。  同じ記事のすぐあとに出てくる創価学会広報室のコメントのほうが、よほど信用に値する。  「今回の訪問は昨年から決まっていたもので、参考人招致から逃れるために海外に行ったという考え方は、完全に間違っています」  そもそも、すでに述べたとおり、証人喚問の出頭要請は強制力を持つものであり、海外に行っていれば証人喚問をかわせるというものではない。当人が病気で入院している場合ですら、質疑が可能な状態なら「臨床尋問」が行われるのだ。海外に行けば喚問に応じずに済むなどと、そんな幼稚なことをだれが考えるだろうか。海外滞在中にも、池田氏の行動は逐一『聖教新聞』で報じられているのだから、国会の担当事務方がその先へ要請を出すだけのことではないか。  もちろん、これらの週刊誌の記者たちも、そんなことは百も承知のはずだ。池田氏のスケジュールが昨年から決まっていたことも、海外へ行くことで喚問がかわせるわけではないことも、だ。百も承知のうえで、彼らはあえて、「池田は喚問から逃げるために海外へ逃げた」と書くのである。なんというあざとさだろうか。  こんなヨタ記事でも、新聞や電車の中吊り広告でタイトルだけを読む、いわゆる“半読者”には、池田氏の悪印象が十分に刷り込まれるという寸法だ。  喚問に応じた場合、どうなるか  週刊誌が「池田を喚問して吊るし上げろ!」と盛んにアジっているうち、一見リベラル・中立的な立場にある人だちからは、「池田さんも、やましいところがないなら喚問に応じればよいのに」という声が寄せられることが、目立って増えてきた。  例えば、ノンフィクション作家の猪瀬直樹氏は、宗教法人法改正をめぐって池田氏招致が取り沙汰された九五年暮れ、テレビの報道番組で大要次のように発言している。  「だから、池田さんもさっさと喚問に応じちゃえばいいんだよ。こんなの一回出ればそれで終わりなんだよ。一回応じちゃえば、自民党だって喚問要求を切り札みたいに使えなくなるんだから……」  一見もっともらしい意見に聞こえる。だが、本当に「一回出ればそれで終わり」なのだろうか?  なるほど、九五年暮れに秋谷創価学会会長が参院の参考人招致に応じたときには、自民党の質問も意外なほどにおとなしかった。だが、もし池田氏の証人喚問が現実化したら、同じように穏便に済むとはとうてい思えない。  ただでさえ、証人喚問に世間が向ける関心は大きい。テレビの国会中継の視聴率も、証人喚問が行われるときはピンとはね上がるのだ。ロッキード事件における小佐野賢治、若狭得治の証人喚問のときなどは、視聴率が三〇パーセントを超えたという(通常の中継は平均二、三パーセント)。同時に、新聞も一面卜ップで扱う場合が多い。そして、週刊誌が喚問をスキャンダラスに報じることは言うまでもない。  そのように日本中の人間が注視するなかで、議員たちが声を荒げて、法的に何の問題もない宗教団体のトップを追及する――これは本質的には、「異端審問」、「魔女裁判」となんら変わりない。  「悪」であることではなく、「異端」であることを理由に火刑に処された中世ヨーロッパの罪なき“魔女”たちのように、自分だちとは異質な信仰を持っているからとの理由で学会を断罪しようというのだから……。  そして、そこでどんな質問がなされ、池田氏がどう答えようと、それが学会にとって、はかり知れないイメージ・ダウンになるのは間違いない。  八二年のこと、アメリカで一人のポーランド人が産業スパイ容疑で捕まるという事件があった。このポーランド人が保釈されたとき、米三大ネットワークの一つ、ABC放送がインタビューを行ったのだが、そのなかにこんな質問があった。  「率直に言ってほしい。あなたはスパイですか?」  答えはもちろん「ノー」だったが、その質問に対して、ライバル・ネットワークが批判を浴びせた。公共の電波で「あなたはスパイですか?」と聞かれたら、どんなに否定しようと、「この男はスパイなんだ」という悪印象を視聴者に与えてしまう。重大な人権侵害だ、というのである。  池田氏の証人喚問でも、それと同じ、いや、もっとひどい人権侵害が行われるはずだ。「新進党の人事はあなたが決定しているのですか?」「学会は脱税しているのですか?」「財務で集めた金で勲章を買っているのですか?」……週刊誌をネタ元にしたそうした中傷質問が、国会で、衆人環視のもとでなされたら、池田氏がどんなに否定しようと、視聴者の心には悪印象だけが刷り込まれるだろう。「ああ、この人は証人喚問されるほど悪い人だったのか」と……。もちろん、それが証人喚問を要求する自民党などの狙いなのだが。  そして、池田氏がどう答えようと、その答えがさらなる“追及”の糸口になるはずだ。「証人喚問での池田氏の答えには偽証の疑いがある」  そういう大義名分で、先の宗教法人法改正で新たに定められた「質問権」が使われるというわけだ。  週刊誌の言う「疑惑」が事実であるかどうかにかかわらず、喚問に応じれば否応なしに悪人として扱われる――筆者が証人喚問を「魔女狩り」の儀式と呼ぶゆえんである。  「委員が招致を決めて、(池田氏が)正当な理由なくして出てこないなら、一般的に(池田氏と創価学会には)また何かあるんじゃないか、と当然いわれることになる」(『週刊ポスト』九五年一一月二四日号、自民党・村岡兼三議員のコメント)  証人喚問を避けるからには何かあるのだろう。やましいところがないなら応じればよいではないか……これが、関連記事中の各週刊誌の基本的なロジック(論法)である。これまた、一見もっともらしい。  だが、よく考えて欲しい、これは言い方がまったく逆だ。  まず、参考人招致については、宗教法人創価学会の代表役員は森田理事長であり、会長は秋谷氏である。すでに秋谷氏が宗教法人法改正に際して参考人招致に応じたのだから、このうえ、権限規定のない名誉会長である池田氏が招致に応じるいわれはない。  また、「やましいところがない」なら証人喚問を受けて立て、というのもおかしい。証人喚問とは、そもそも「やましいところがある」人物を召喚するものなのだから……。「正当な理由なくして出てこないなら」「何かあるんじゃないか」というが、そもそも「正当な理由なくして」証人喚問を行おうとしている自民党などのほうが、筋道をはずしているのである。  なぜ、自民党に一方的に与するのか  一連の「証人喚問」記事で奇妙なのは、各週刊誌とも、自民党側に一方的に与していることだ。  例えば、住専問題を取り上げる場合には、各誌とも自民党の議員たちを容赦なく叩く。ところが、ことが創価学会に及ぶと、見事なくらい、自民党の一方的な言い分を報じてやる“党機関誌”と化してしまう。これはいったいどうしたことか。  例えば、『週刊文春』の〈池田大作「証人喚問」を狙う自民党の“爆弾”〉は、亀井静香議員、白川勝彦議員など、自民党の反学会派議員のコメントばかりをズラリと並べ、言いたい放題を報じてやっている。それに対して、新進党議員のコメントはたった一つしか入っていないし、いつもは申し訳程度でも載せている創価学会広報室のコメントもない。これが公正な報道といえるだろうか。  この記事で何よりヒドイのは、自民党の“マドンナ議員”野田聖子議員の、次のようなトンチンカンなコメントである。  「(学会は、宗教法人法改正で)認証を移して教義が明らかになることを恐れている。それはお家の事情でしょう。  今回、認証について国がどうこう言うことはないとしても、この論議で創価学会の教義がハッキリしていないことが明らかになれば、今までの宗教法人法がいかにいいかげんであったかという証ですね」  この“マドンナ議員”サンはご自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。創価学会が「教義が明らかになることを恐れている」とはどういうことか。学会の教義はその設立段階からすでに「明らかに」なっているし、それが途中で変わったという事実も聞かない。そもそも、野田議員は学会の教義について、いったい何を知っているというのだろうか。  自民党議員が主催した学会攻撃のための勉強会(例えば、島村宜伸議員が主宰していた「民主政治研究会」など)あたりで聞きかじってきたことを、自分でよく理解しないまましゃべるから、こんな醜態をさらす。この野田議員といい、九四年一〇月の国会質問で日蓮正宗を「ニチレンセイシュウ」と何度も読み間違えた川崎二郎議員といい、どうも自民党議員は、学会について不勉強なままで、学会を攻撃しようとしている。まったくお粗末の限りである。  他の関連記事も、自民党ベッタリである点では五十歩百歩だ。『週刊ポスト』の〈自民・国対委員長が「池田喚問」でついに宣戦布告!〉は、タイトルどおり、自民党の国対委員長の言い分を延々と報じているだけのしろものだし、『週刊文春』の〈出てこい池田大作 国会喚問で質すべき「五つの大罪」〉に至っては、反学会の人間のコメントだけで記事をまとめた、きわめてイージーな作りとなっている。  ジャーナリズムの基本は中立公正・不偏不党――そう信じる筆者などにとっては、こうした記事の作り方は信じがたい。各誌の編集者や記者は、自分の雑誌が自民党の「広報誌」や「広告ページ」と化していることが、恥ずかしくないのだろうか。記者クラブにも所属せず、権力に与しないことこそ、週刊誌ジャーナリズムの衿持ではなかったのか。  国政調査権の濫用を扇動した週刊誌の罪  宗教法人法改正が成立してしまったいまも、池田名誉会長の証人喚問はしばしば取り沙汰されている。そして、そのたびに各週刊誌はそれを後押しする記事を載せる。両者の呼吸はピッタリ合っていて、なにか緊密な“連係プレー”を思わせる。  議員たちは「週刊誌にこんな記事が載っていた。本当だとしたらケシカラン」と、週刊誌のヨタ記事をネタに池田氏の証人喚問を要求する。そしてそのことを週刊誌がさらに報じて、問題をフレームアップする――そうしたことが繰り返されているうち、「池田を証人喚問するのは当然だ」という空気ができあかってしまう。  池田氏が証人喚問されなければならない基本的な理由の検証に一切目が向けられず、なんらの前提もなく「池田は悪だ」というムードだけが醸成されてしまうのだ。このことをもし国民の多くが疑問に思わないとしたら、筆者などはとても恐ろしい気がする。中世の魔女狩りや五〇年代アメリカのマッカーシズムに通ずる危うさ、怖さがある。  池田氏の喚問がもし仮に実現したとすれば、国政調査権の強制力を盾にすれば宗教弾圧が正当化できるという、危険な前例を作ることになる。  はたして、国政調査権は、憲法二〇条に保障された「信教の自由」の侵害に使われてもよいのだろうか。  九四年一〇月の国会論戦の中で、自民党の川崎二郎議員は、創価学会と日蓮正宗宗門との“教義の違い”に触れ、そこから学会の解散(!)をすら云々してみせた。同じことが証人喚問のなかで行われたなら、それこそ、国政調査権の濫用による「信教の自由」の重大な侵害である。そんなことが許されれば、憲法二〇条そのものが骨抜きになってしまう。それが、戦時中のような本格的な宗教統制への足がかりとなると考えることは、決して杞憂ではあるまい。  週刊誌を含めジャーナリズムは、本来、そうした政治権力の暴走を監視、牽制すべき立場にある。しかし、一部週刊誌の実態は、むしろ逆だ。  彼らは創価学会に「悪」のレッテルを貼り、証人喚問の材料となる記事を作り、“池田名誉会長を証人喚問しろ!”というトーンの記事によって世論を感情的に煽ってきた。弾圧の「加害者」をではなく、「被害者」を一方的に攻撃するという転倒を犯しているのだ。  これでは、中立公正も不偏不党も何もあったものではない。 第四章 自民党の広告ページと化した選挙報道  雑誌が選挙前に必ずブチ上げる学会中傷記事  〈創価学会に東京を売り渡す小沢一郎の「悪魔の選択」〉              (『週刊現代』一月二八日号)  よくもこんな荒唐無稽なタイトルをつけたものだと、その厚顔無恥さにあきれてしまう。『週刊現代』は現実を劇画か何かと勘違いしているのではないか。  それでも、一般の読者にしてみれば、これほど荒唐無稽なタイトルがつけられるほどの内容とは、どんなものかと興味を持って読んでみたら、「ああ、いつもの内容空疎な中傷記事か」と失望させられたに違いない。  記事によれば、どうも新進党が総選挙の候補者調整で、旧公明党議員をどの選挙区に立てるかを調整していることを指しているらしい。それをどうして「東京を売り渡す」だの、リード文に言う「首都・東京を壟断しようとしている」だのという表現になるのか。  それでも、あえてタイトルに関連する個所を探すと、一か所だけある。  「問題のその候補者調整で、創価学会は小沢に“東京の切り売り”を要求しているという。どうしても手放せない選挙区があるというのだ」  と述べて、ある自民党都議の発言を引用しているところだ。その自民党都議とやらは、  「学会が小沢の最側近である中西啓介に『東京3・4区(大田区)、11区(板橋区)、15区(江東区)、の各選挙区には、ぜひとも旧公明党の候補を立ててほしい』とゴリ押ししてますわ。中西もそれを了承した、と聞いている」  と話している。どうも話はそれだけのことらしい。つまり、旧公明党系の候補者を立てるのに、他の旧新生党系、旧日本新党系の候補を他の区に回すという調整が行われているということだ。何か驚くに値することなのか。  実際には、旧公明党系候補の相当数が比例区に回っていることは、政治にかかわる者の常識だし、取材すればすぐにわかることだ。それなのに、何人かの候補が地元で戦いたいと言っただけで、どうして「売り渡す」だの「壟断する」だのという見出しになるのか。しかも、記者や編集部の怠慢か故意か、敵対する政党・自民党の都議の流す噂話だけを一方的に真に受けての記事である。“いかがわしい”雑誌というほかない。  さて、もう一つの疑問は、それがどうして池田創価学会名誉会長を「黒幕」に据える話になるのか。それは、冒頭に出てくる言葉だけだ。『週刊現代』は次のように経過を述べている。  「新進党党首の座をめぐって、海部、羽田両陣営が激しく切りむすんでいた昨年12月5日の前後、秋谷栄之助創価学会会長が、小沢一郎新進党幹事長に池田大作名誉会長の“御墨付き”をこう伝えた。  『うちの名誉会長は、最終的にはあなたを一番信頼している。ぜひ、新進党で頑張っていただきたい。ウチ(創価学会=公明党)としては一票残らず海部に投票するから、自信を持って幹事長をやっていただきたい』  この言葉に、小沢は大いに意を強くしたという」  この言葉は明らかにでっちあげである。宗教団体のトップが政党である新進党の党首選びに「ウチとしては一票残らず海部に投票するから」などと口出しするはずがあろうか。そんなことを言おうものなら、政治家のほうが怒るだけだ。それに創価学会の会員が聞いたら大笑いしそうな話である。秋谷会長もずいぶんと偉くなったものだ、と。  末尾の「という」との自信のない表現が『週刊現代』の嫌らしい体質をよく表わしている。情報源などまったくないのだ。自分たちで勝手に噂を撒き散らして、いかにも創価学会が直接、政治に関与しているように見せかけようとしているだけだ。姑息なやり方だ。  タイトルとリード文のお粗末さは無残ですらある。  「創価学会に東京を売り渡す」だの「悪魔の選択」だのと、大仰なタイトルで創価学会に対するマイナス・イメージを増幅させようというのだろうが、この程度のタイトルの出来では当の『週刊現代』のほうにマイナス・イメージを抱かれてしまうだろう。  小見出しに言う「首都制圧」などの言葉も劇画か何かと勘違いしているのではないか。  さらに肝心の記事本体も、「内幕追及レポート」とうたっているからには、もう少しキチンと作られているのかと思ったら、なんら明確な根拠も示せないまま、ただ意地の悪い中傷ばかりを書きつらねている。  選挙前の下馬評、しかも新進党に選挙で勝てそうもない自民党議員が腹立ちまぎれに発した愚痴の嫌らしい部分だけを集めてきて、それを学会に絡め、編集の都合のいいようにストーリーをこしらえ上げたにすぎないものだ。  そのため、コメンテーターは、伝聞と匿名にならざるを得ない。誰が言ったの? 根拠は? と聞かれても答える術などないのだ。  こうした何の根拠もない記事を、週刊誌が大きな見出しタイトルを付け、選挙前にねらいを定めてブチ上げるのは、いくら何でも露骨すぎはしないか。どこかの政党に頼まれてやっているのか。それならちゃんと「広告ページです」という断わり書きをはっきり入れておくべきであろう。  取材のスタート時点から破綻していた記事  〈創価学会が衆愚政治のため用意したタレント二十名〉(『週刊新潮』六月八日号)  夏の参議院選挙に合わせて話題を選んだつもりなのだろう。この選挙に旧公明党から元宝塚歌劇団の松あきら、但馬久美、女優の沢たまきの三氏が立候補することが決まったことに対して、さっそく中傷をしてきたのが『週刊新潮』である。  そもそも、これまで最も多数のタレント候補を選挙に担ぎ出してきたのは自民党であるから、旧公明党がわずか三人の候補者を立てたぐらいで「衆愚政治」と呼ばれるゆえんはどこにもないのだ。  この記事はまったくの“てんぷらタイトル”である。記事の中身がなくてタイトルだけ派手なところから、衣が厚くて中身がお粗末なてんぷらに例えてこう呼ぶが、この記事はその典型だ。  記事は、匿名の「ある学会関係者」の発言を根拠にして、創価学会の池田名誉会長が、「(選挙に)芸術部を総動員だ」と大号令をかけたのだ、と解説している。しかし、この発言は四月二五日の緊急代表者会議の席上だと、日と場所を特定したことで、逆に墓穴を掘ってしまった。  その後で、この記事は、「あたかも、この発言に呼応するかのように、翌二六日に発表された新進党の第二次公認候補者リストには、芸術部幹部の女優、沢たまきの名前がはいっていた」と続けることで、あたかも池田名誉会長の指令で候補者が決まるかのように紛飾している。ところが、沢たまき氏は「私に出馬要請の話があったのは三月末のことでした」とこともなく語っている。まったく話が矛盾している。  この記事が、雑誌記事として最低の出来である“てんぷらタイトル”の見本になってしまった決定的な理由は、タイトルにつけた「タレント二十名」の中身だ。「衆愚政治」も「タレント二十名」という“多さ”から導き出される印象であり、これがなければ「衆愚政治」も引き立だない。  そこで、選挙とはなんの関係もない学会員のタレント、雪村いづみ、岸本加世子、栗山英樹、山本リング、研ナオコ、林家こん平、坂上二郎、村田英雄、細川たかし、市川右近、元大関琴風の尾車親方などを次々に列挙していく。  たしかに『週刊新潮』の挙げるこうした人たちが当選したら国会も面白くなるだろうが、当然、露骨に批判する人も出てくるだろう。しかし、これはあくまで『週刊新潮』が勝手に取り上げて言っているだけで、創価学会がこうしたタレントたちに立候補しろと言った事実はどこにもないのだ。  その証拠に、『週刊新潮』の取材に対して、右に挙げたタレントたちのコメントが「ありえません」「打診されたこともない」「そんな誘いなんかくるわきゃないんです」といった調子なのだ。なかには「興味がありますね」「受ける受けないはともかく、真剣に考えねばなりません」と真面目に答えた人もいるが、取材記者がつまらないことを聞いてくるので、とりあえず当たりさわりのない返事をしておいたという程度の話だ。  こうなると、反学会メディアが考えざるをえないのは、あの“学会知ったかぶり”の乙骨正生を登場させることである。乙骨はウソ記事を平気で書き、取材した人の発言を勝手に改竄して発表するなど、創価学会差別の記事以外にはまったくお呼びがかからない奇妙な“ジャーナリスト”だ。この乙骨が言うには。  「学会員タレント全員に声がかかれば、それこそ総出馬なんてことにもなりかねませんよ」  この発言で、タイトルの「タレント二十名」に少しでも真実味を持だせようというのだが、それは所詮、無理というものだ。  最初から、すでに発表されていた松あきら、但馬久美、沢たまきの三氏のことだけ書いておけば、まだしも恥をかかずに済んだだろうに。おそらく、それではタイトルの「衆愚政治」が成り立たないので、ここまで話をでっち上げるハメになったのだろう。  最後の結びで書かれた文章が、これまたひどい。  「タレント候補を出す政党が悪いのか、タレント候補を選ぶ国民が悪いのか。いずれにせよ、亡国の道を歩んでいることは間違いあるまい」  記事づくりがすでに破綻しているにもかかわらず、こんなお粗末記事を体よくまとめ上げようとしたのだろうが、いったいこの記事で何か言いたかったのか。「亡国の道」を歩んでいるのは自分たちの雑誌だと自覚したほうがよい。  「サブリミナル効果」をねらった悪質な数行  〈遠のいた宗教法人法改正〉(『週刊新潮』八月三日号)  結局、この『週刊新潮』など反学会メディアは、創価学会が支援した選挙で勝っても負けても悪口を言う。目的は創価学会を揶揄することにあり、勝ち負けは関係ない。  さて、この号の記事は選挙後の話である。参議院選挙で自民党が敗北を喫し、新進党が議席を倍増させたことについて、『週刊新潮』は強引に新進党の勝利を池田創価学会の勝利だとすり替え、この新進党の勝利によって「オウム事件で弾みのついた宗教法人法の改正にも、ブレーキが掛るのは必至の情勢だ」と、わざわざオウム事件と宗教法人法改正問題を絡ませたうえで、それを創価学会攻撃の手段に使おうという自民党の戦略そのままの記事を載せている。  自民党の提灯持ちを地で行く記事内容だが、さすがにこの時点での話としてはかなり唐突で、あからさま過ぎると思ったのか、何とか時流に合わせて中立を装おうとオウム事件を引き合いに出している。  実際には創価学会員や旧民社党系などの組織票だけでは選挙に勝てるはずはなく、旧新生党や旧日本新党などの支援者も一緒にがんばった結果なのだが、『週刊新潮』は「今回、学会がこれ程までにハッスルした背景には、かねてからの政教分難問題に対する風当りに加え、オウム事件を機に、宗教法人法の改正まで取り沙汰されるようになったことへの危機感があった」と勝手な推測による解説を行っている。  これも自民党の創価学会攻撃の手法とまったく同じものだ。最初から宗教法人法改正は創価学会牽制のためのもので、オウム事件のようなものの再発防止とは関係がない。しかし、それでは唐突な改正はできないので、自民党など連立与党は必死でオウム事件と結び付けようとしただけのことだ。  宗教法人法のどこにも、犯罪を犯す宗教法人を保護せよとする規定などない。他の該当する法律によって厳正に処罰すればいいことだ。警察の不手際や行政の判断の甘さなどを、すべて宗教法人法のせいにしてまんまと改正を果たし、本当のねらいである創価学会牽制を行おうとしたのである。  選挙後のこの時点で、世論の動向が、自民党が負けたことの原因追及や責任問題のほうに向かうとまずいので、『週刊新潮』は強引に宗教法人法改正の方向に引っ張ろうとしているわけだ。  そこで登場するのが、創価学会を誹謗中傷することを飯のタネにしている段勲。この段に「これで、宗教法人法の見直し問題が影響を受けないと言えば嘘になるでしょうね」と発言させることで、選挙の次は宗教法人法改正だという切り替え操作を行っている。  選挙に敗北した時くらい、自民党も『週刊新潮』も、自分たちの考え方が間違っていたと反省してもよさそうに思うが、それも望み薄のようだ。しかし、自民党・『週刊新潮』のウソと捏造は、マスコミ関係者と知識人、それに新進党を支援した人たちはみな知っている。一つのウソを隠すため、もう一つのウソをさらに上塗りしていくことで、『週刊新潮』も自民党議員もその悪辣さはエスカレートする一方だ。  この記事の末尾の文は、並みはずれて悪辣なものだ。  「史上最低の投票率の中、わが国民は、オウムよりもタチの悪い宗教教団を、またしてものさばらせる結果を生んだのかもしれない」  「オウムよりタチの悪い」……これはさり気ない言い方だが、メディアにかかわる者は絶対にやってはならない“サブリミナル効果”をねらったものだ。意識せずに読み流したつもりでも絶対に頭に残ってしまう。なぜなら、連日連夜の異常な集中報道によって一人残らずそのイメージを埋め込まれたオウムに絡めて、「オウムよりタチの悪い創価学会」という言葉を読者の脳裏に刷り込もうとしているからである。  閉鎖教団、リンチ殺人、無差別殺戮、テロ、麻薬、毒ガス、セックス、カネ、狂気……オウムのありとあらゆるマイナス・イメージと創価学会を結び付けようというのである。オウムの麻原被告と創価学会の池田名誉会長の写真を並べて載せているのも、はっきりとそのサブリミナル効果を意識して実行している証拠である。  たとえ自民党の宣伝媒体であったとしても、一般向けの雑誌として最低限のモラルも常識もない、ここまで無法な記事づくりは許されない。  とんでもない人権無視の暴言を掲載した責任  〈創価学会「非納税者三百万票」で自民党の選挙権考え直し〉                             (『週刊新潮』八月一〇日号)  選挙に絡めて『週刊新潮』が創価学会を中傷、攻撃するのはいつものことだが、この記事は見逃すことのできないあまりに血迷った暴言だ。“ええっ?”と、思わずわが目を疑った読者も多いのではないか。  まず、冷静にリード文を見てみよう。  「参院選で新進党を勝利に導いた創価学会の組織票は約七百万票。これは全有権者のわずか八%に過ぎない。だが、この勢いが続けば、八%の組織票で政界を支配できる可能性も出てきた。一宗教団体が国政を牛耳るなど、あってはならないこと。ようやく自民党も危機感を抱いて、創価学会への対決姿勢を強めていこうとしているが、まず見直すべきは学会に三百万人いる非納税者の『選挙権』である」  「一宗教団体が国政を牛耳るなど、あってはならないこと」というのも勝手な言い方だが、「ようやく自民党も危機感を抱いて、……まず見直すべきは学会に三百万人いる非納税者の『選挙権』である」というのは、いったいどういうことか。  まさかと思うが、中身を読もう。  「学会選挙の恐ろしいところは、納税していない婦人や老人が中心となって、手弁当で選挙活動に走り回ることである。運動員を雇い、支持者に飲み食いさせなければ票が集まらない自民党にとっては大変な脅威である」  やはり、“主婦や老人は非納税者だから選挙権を取り上げろ”と自民党は検討し、『週刊新潮』はそれを後押ししようとしているのだ。  とんでもない暴言だ。こんなことを“一雑誌”が言っていいものか。これだけでも十分この雑誌を廃刊処分にする理由になる。納税者と非納税者を分けて、非納税者の選挙権をなくそうなどとキャンペーンを張ろうとしているのだ。  参政権は人権の要である。婦人が参政権を得るまでの日本の歴史を考えると、このタイトルはとうてい無視しえない。怪文書ならともかく、定価をつけて書店やキオスクで売っている雑誌のなかに、こんな人権無視もはなはだしい暴言記事が載っていいはずがない。しかし、これはまぎれもなく『週刊新潮』の主張なのである。  「根本的に見直しを実行するならば、二十歳になれば誰にでも一票選挙権を与えている選挙制度そのものを問題にするべきだろう」  「非納税者には選挙権を与えないなどというと、人権擁護派は一斉に反発するだろう。だが、権利ばかり主張することを野放図に許してきた戦後民主主義が到達しだのは、一宗教団体による政治支配の危機ではないのか」  どうやら基本的人権に反する発言であるという自覚はありそうだ。それでここまで言うのだから、まぎれもない確信犯である。『週刊新潮』はとうとう民主主義まで否定しようというのだろうか。  「創価学会員の中で非納税者は約三百万人。選挙権を納税者に限れば、学会票の半分が減るわけである。今年九月の自民党総裁選に出馬予定の河野総裁、橋本通産相にそこまでやる決断力と実行力があるだろうか」  あるわけがない。そんなことをやれば自民党自体が解散しなければならなくなる。民主政治は民衆の代表者が政治を行うシステムである。それを納税者だけが国民だ、というのは明治時代の選挙制度である。時代錯誤もはなはだしい。  人間としてまっとうな神経の持ち主であれば、選挙支援活動を買収や接待もなく、プロの運動員を金で雇ったりもせず、ボランティアだけでやる創価学会員をむしろ誉めるのが筋ではないか。それが『週刊新潮』になると、「運動員を雇い、支持者に飲み食いさせなければ票が集まらない自民党」の側に立って創価学会叩きをするとは、いったいどういう了見なのか。相手が創価学会なら何を言っても許されるとでも思っているのだろうか。それなら明らかに差別だ。  同日号のせいでバレたデマ情報の出所  〈池田大作創価学会名誉会長が日本を滅ぼす〉(『週刊文春』八月一〇日号)  参議院選挙で、新進党が勝利し、自民党が敗北した。新進党のうち公明系は選挙区・比例区合わせて一三名を当選させ、改選前の一〇名に三名の上乗せをした。  新進党は、勝因について、閉塞状態にある自民党政治に愛想を尽かした改革志向の政治家が結集し、それを支援する幅広い市民層からの支持が得られた結果だとした。  一方、敗れた自民党は反省も責任感もなく、相手に罵詈雑言を浴びせる以外の何の対策も打てないらしい。それを如実に示しているのがこの記事だ。  「日本を滅ぼす」というモノモノしいタイトルとは裏腹に、内容はまったく空疎で、羊頭狗肉記事の典型だ。記事のなかでタイトルを成立させる部分はわずか一か所だけだ。  「『政治は二番、池田名誉会長を護ることが第一番』(元学会員)という学会員議員は、着実に国政の場で増殖しているのである。そんな議員ばかりになってしまったら、まさに日本は滅ぶしかない」  これだけである。  内容は、例によって、「新進党は創価学会党だ」式の誹謗中傷のオンパレードだ。「今回の参院選で、創価学会は完全に新進党を乗っとった。新進党はもはや“池田新党”になった」とか、「結局、政治権力を通じて創価学会の勢力を拡大させ、日本を牛耳ろうという池田名誉会長の“野望”」とか、「学会直系の選挙区候補者は六名。…(候補者名略)…全員トップ当選を飾ったが、彼らを候補者として指名したのはすべて池田名誉会長である」といった具体的根拠を欠く言いたい放題のデマを書きつらねている。  自民党が選挙に負けたから、『週刊文春』が学会攻撃をする、というのはどういう構図なのか。選挙違反でもあったと言うなら、取り上げるのもわかるが、そんな事実は一切示されていない。強いてあげれば、「重病人を投票所に連れだす」という小見出しのところだろうか。  ここで、この記事は、選挙当日に学会員が重病人を強引に投票所に連れ出して投票させたという“事件”があったと述べている。その部分を引用してみよう。  「関東地方のある市では、末期ガンの重病人が学会員に連れ出されるという“事件”も起きた。  『創価学会と関係のない母は、投票所に連れ出され、請われるままに学会が推している新進党の候補者名を書いたのです。母は『迎えにまで来られると断りきれなかった』と弁解しましたが、日増しにやせ衰えて歩くのもやっとの重病人です。連れ出した学会員に抗議の電話をいれると、『本人の意志で投票した』と言うばかりでした』(息子)  そんな無理無体を背景に当選した学会直系の選挙区候補者は……」  さて、この記事の内容は本当だろうか。実は、これと奇妙によく似た記事が先の『週刊新潮』八月一〇日号にも載っている。『週刊新潮』の記事ではこう記されている。  「今回の選挙でも学会選挙は繰り返された。一例を挙げると、福島県内に住む七十二歳の女性が、直腸ガンで余命いくばくもないというのに学会員の娘と仲間に強引に連れ出され、投票させられるケースがある。その女性の長男がこう訴える。  『母は末期ガンで一月前に病院から治療の見込みがないと自宅に帰されました。人工肛門ですし、人に寄り添って歩くのがやっとなんです。それを投票日の午前中、学会員の婦人部の人がやってきて、妹と母を車で投票所に連れていき、新進党にいれさせたんですよ。妹は二十年ほど前に学会に入りましたが、母は全く学会とは関係がない。私かその場にいたら、絶対にそんなことはさせなかった。母親にどうして行ったのかと聞くと“とにかく断り切れなかった”と言うばかり。最後には学会の地区幹部が謝罪しましたが、私は許せません』  手段を選ばぬ体質が如実に現れているが、自治省や地元の選管はなぜ問題にしないのだろうか」  さて、両誌の記事を見比べると、大要はほぼ同じである。しかし、ディテール(細部)は少し異なる。まず、息子のしゃべった内容が違う。『週刊文春』では学会員が「本人の意志で投票した」と言い逃れているのに、『週刊新潮』では「最後には学会の地区幹部が謝罪しました」とある。さらに“事件”の場所も違う。『週刊文春』では「関東地方のある市」と言い、『週刊新潮』では「福島県内」とある。  ただ、どちらの記事にも情報源が明かされていないし、取材をした形跡もない。だれが言ったとも、どのあたりの噂とも書かれていない。  この話は、『週刊現代』八月一二日号にも出ている。実は、ここに上記二誌の記事の出所が書かれており、「創価学会の被害者ネットワーク」なる団体からのものだというのである。この団体は、「被害者」と名乗ってはいるが、過去に創価学会員による暴行事件を捏造して警察沙汰になり警察から厳重注意を受けた経歴を持つ、どちらかといえば「加害者」の集まりである。  なるほど、これでよくわかる。この話はデマなのである。どこにもそんな“事件”はなかったのだ。『週刊文春』で“事件”とわざわざチョンチョンガッコを付けて載せたのはそういう理由からだったのだろう。出所がバレてはまずいのである。これがもし実際に取材した事実なら、『週刊文春』も『週刊新潮』も意気揚々とタイトルに使って報道するだろう。特に『週刊新潮』などは、交通事故で危うく死ぬところだった「被害者」を捕まえて、「交通事故死させた」とのタイトルで「加害者」と誤認させるような報道を行った危険なデマ雑誌だからなおさらである。  いずれにせよ、このネタは何者かが「創価学会の被害者ネットワーク」からの情報を加工して『週刊文春』に提供したものである。そして『週刊文春』はそれの裏付け取材もせずに、ぬけぬけと載せた。しかし、信憑性を持たせるため具体的に言おうとして、かえって墓穴を掘ってしまったのだ。この記事が載る『週刊文春』と『週刊新潮』はどちらも八月一〇日号だったため、両誌の間で口裏合わせができなかったのであろう。  なんともお笑いぐさではないか。  さらに、『週刊文春』は、創価学会が新進党の支援活動を金ももらわずにボランティアで行ったことが気に入らないらしい。  「選挙期間中に身を粉にして運動に勤しむ学会員はまったくのボランティア」  「この日本最大の選挙マシーン」  と、嫌らしく因縁をつけてくるところは、嫉妬と怨念のかたまりのようだ。まさか『週刊文春』は、金のかかる自民党選挙のほうを好ましく思っているわけではあるまい。それなら、わざわざ言挙げするにも及ばない話だ。  悔しまぎれでもないのだろうが、この記事は最後をいかがわしい“サブリミナル”で結んでいる。  「ファシズムはいつのまにか、忍び寄っているもの、その教訓を忘れてはなるまい」  ナチス同様に、まったく根拠のない捏造記事を連ねた挙げ句に、他人をファシズム呼ばわりし、自民党の提灯持ちのような記事ばかりを載せる『週刊文春』が、よくぞこの言を吐けたものだ。まさに笑止千万と言うべきだろう。  人の発言を捏造して中傷の材料にする  〈次の総選挙で自民党は池田創価学会に叩き潰される〉              (『週刊現代』八月一二日号)  リード文は次のように仰々しく書き立てる。  「大新聞やテレビは報じようとしないが、参院選での新進党の大勝で、創価学会による『政界支配』の可能性がにわかに現実味を帯びてきた。700万ともいわれる組織票をバックに、新進党支配を強める創価学会と、自民党の『最終戦争=ハルマゲドン』が始まった」  オウム報道の“後遺症”でもあるまいが、「創価学会と、自民党の『最終戦争=ハルマゲドン』」ときた。いくらなんでも参院選で自民党が新進党に負けたくらいで「日本乗っ取り計画の全貌」だのと叫ぶほどのことでもあるまい。  この記事は、新進党は創価学会が支配する党であり、新進党が選挙で勝つことは、創価学会が日本を乗っ取ることになるのだ、というかたくなな思い込みによって書かれたものだ。もちろん、次の総選挙では絶対に新進党に勝たせてはいけないというメッセージを込めた記事であることは言うまでもない。国民に負担を強いるばかりの自民党など連立与党を、『週刊現代』がなぜここまでかばいだてしなければならないのかはわからない。ただ、この記事の内容のお粗末さが群を抜いていることだけははっきりしている。  まず、記事の冒頭を見よう。  「『みんなご苦労だった。今回は小沢(一郎・新進党幹事長)を立てて選挙をやったが、次はむしろ小沢を使って、学会が前面に立っていくようにしなければならんな』  史上最低の投票率で、国民の誰しもがシラけた思いで結果を見た参議院選挙。その大勢が判明した七月二十三日の夜、池田大作・創価学会名誉会長は、つめかけた学会幹部を前に、上気した顔つきで冒頭のように語ったという」  さて、この記事が書く内容は本当だろうか。会合名も、誰に言ったとも、場所も何も特定されていない。創価学会広報室に尋ねたところ、池田名誉会長の言動については会合でしゃべったことは聖教新聞に載せており、こんな発言は誰も知らないという。  ということはどういうことか。つまり、でっち上げなのである。  そういえば、記事には「と語ったという」と記されている。「という」とはどういうことか。要するに、「語った」は池田名誉会長にかかるが、「いう」はだれか別の人間が勝手にしゃべっただけなのである。『週刊現代』が、「語った」かどうかの事実の検証もせず、いかにいい加減な話を鵜呑みにして書いているかがよくわかる。これでよく雑誌だなどといえるものだ。  記事に出てくるコメンテーターといえば、原島嵩と乙骨正生である。  原島は元創価学会教学部長の肩書を売り物にしているが、悪さばかりするので創価学会にいられなくなり追い出された男だ。記事は、この男が一方的に話す学会に対する不平不満・批判のオンパレードだ。よほど材料がなかったとみえて、この男の言葉を金科玉条のごとく使って記事を作っている。  「新進党を通じて日本を思うがままに動かすことこそ、池田氏の狙いですよ。私はかつて大作さんの側近だったので、いつも彼の言葉を聞いていた。彼は以前から『二つの政党を作って政権をたらい回しにし、自分がその上に君臨する』と言っていた。今や、流れはその方向にある」  ちょっと待て、「二つの政党」だの「たらい回し」だのというのは、ここ数年の政治情勢のもとでなら理解できるが、原島が教学部長だった頃にはとうてい言えない話だ。一般の人が創価学会について知らないのをいいことに、デタラメを言ってはいけない。  同様に「創価学会に詳しいジャーナリスト」として引用されている乙骨正生の言葉も、創価学会について何も知らないことがよくわかる。  「池田をホメイニ師のような宗教と政治にまたがる指導者にし、日本の中枢を学会が支配する体制にしようと考えている層が、学会には根強くある。公明党では現実化できなかったが、新進党ならそうした恐ろしい構想も夢ではない」  「学会には根強くある」と思っていたのは乙骨だけではないのか。この男の売り物は創価大学出身ということだが、大学時代、常軌を逸した言動ばかりが目立ったため、だれにも信用されなくなった人物である。そんな男の「妄想」だろう。  結局、この『週刊現代』のようにウソと捏造だけで作った記事を掲載することが許されるのなら、どんな好き勝手なことでも書ける。こういう話がある。  「『こんな記事を書いていいんですかね』と記者が聞いたところ、週刊現代編集長は『いいんだよ。どうせ一週間もすりゃあ読者なんてみんな忘れちまうんだから。いいのいいの』と上気した顔付きで語ったという」と。  誌面を使って「怪文書」をタレ流す  〈創価学会名誉会長池田大作が参院議員松あきら応援に贈った選挙和歌〉                            (『週刊ポスト』九月八日号)  雑誌がやってはいけないことの最大のものは、ウソを承知で書くことだ。独自のテーマを見つけて取材をするのは当然として、取材をしていった過程でウソが判明した段階でその記事は中止になるのも、やむをえない。それまでの取材にかけた時間や経費がもったいないからといって、そのまま無理やり載せようというのは職業倫理にもとる。ましてウソを承知で書いたとするなら「怪文書」と同じで、悪質極まりない。  この『週刊ポスト』の記事は、ウソであることを確認せず、もしくはウソと承知で掲載したものだ。  タイトルに「選挙和歌」とあるように、この記事は池田創価学会名誉会長が参院選挙の際、松あきら氏の選挙応援のために贈った和歌を問題にしている。リード文にも、  「神奈川選挙区で二位に二十五万票の大差をつけて当選した松あきら参院議員。その選挙戦渦中、池田大作名誉会長から〈神奈川の友へ〉と題して激励の和歌が贈られた。内容は、まさに戦意高揚を意図した挑発的なもの――。参院選で新進党を大勝に導いた創価学会票の威力を、組織選挙の実態という側面から、さらに分析した」  とあり、「まさに戦意高揚を意図した挑発的なもの」とまで言い切るからにはよほどのものなのだろうと、だれしも思う。  問題の和歌とはどういうものか。それほど挑発的なものなのか。冒頭に掲載された六首の和歌は次のようなものだ。  〈新しき 仏の軍勢 神奈川が 巌とおわせば 勝利は確かと〉  〈神奈川の 歴史に残らむ 勝利をば 日本国中 祈り待つらむ〉  〈勇敢な 地涌の菩薩の 戦いは 連戦連勝 万年先まで〉  〈我が友が 障魔に負けぬ 大法戦 君ら戦え 天下取るまで〉  〈邪悪なる 自民四月を 追い越して 仏の使いの 友を讃えむ〉  〈政教の 一致批判も 何のその 勝利の凱歌に 諸天はみつめむ〉  その頃の聖教新聞を調べてみると、前の三首はたしかに七月九日付で発表された池田名誉会長作の和歌として掲載されている。しかし、後の三首については聖教新聞にもまったく掲載されておらず、当の学会内部にも知る人はいない。創価学会広報室も「そんな和歌は存在しない」とはっきり否定する。  ところが、『週刊ポスト』はこう述べている。  「この6首の和歌は、創価学会の池田大作名誉会長が〈神奈川の友へ〉として七月九日に詠んだものと伝えられている」(傍点=引用者)  「6首の和歌をワープロ書きした文書が一部マスコミにも流れている」  要は、だれかがでっち上げた“捏造和歌”だということである。実際には池田名誉会長が作った和歌でもないのに、あたかもそうであるかのように捏造し、それを反学会キャンペーンを張る一部マスコミに送り付け、池田名誉会長や創価学会を中傷しようとねらった者がいるわけである。  『週刊ポスト』は、この怪文書をなんらの検証もなく、そのまま報じたのだ。本来なら、どのような経緯でこの和歌が『週刊ポスト』編集部に持ち込まれたのかを調べ、さらにこの和歌が本当に池田名誉会長の作なのかどうか裏付けを取つたうえで、なおこの怪文書が記事にするのにたえる内容かどうかを検証するのが、取材のイロハであり、編集部の仕事のはずである。  ところが、『週刊ポスト』編集部はまったくその基本手続きを怠った。あるいは、ウソと知っていて、あたかも本当であるかのように装って報道する道を選んだ。  これは、まるでジャーナリズムの名に値しない仕事ぶりである。決して言い訳のできない致命的なミスである。  しかも、『週刊ポスト』の記事はわざわざこの捏造和歌のなかの言葉を使って、  「会合に出席した幹部は、その後、各地域の会合できたる総選挙の必勝を指導したというから、まさに『政教一致の批判も何のその』である」  と書き、創価学会の選挙支援が政教一致であるかのように読者の脳裏に刷り込もうとしている。結局、それは、この記事のネタになった怪文書の送り手のねらいそのものだ。つまり、『週刊ポスト』はその誌面を使って怪文書を一般読者にバラまいておいて、なんら悪びれるところがないのである。  珍妙千万な“ひねくれ論理”による中傷  〈創価学会の「選挙支援」の見えざるカネを検証する〉溝口敦                          (『週刊ポスト』 一〇月二七日号)  さて、この記事は反学会ジャーナリスト溝口敦の署名入り記事だ。この自称ジャーナリストの因縁のつけ方は、いつもそうだが、奇怪にひねくれているので注意して読まないと、いったい何が言いたいのかよくわからなくなる。  今回は、タイトルで「見えざる金」と謳うからには、だれでも創価学会が選挙に裏金でも使っているのかと思うだろう。もちろんそう思わせるように作ったタイトルだろうが、例によって何一つ具体的な事実が示されるわけではない。それどころか、創価学会の会員が、選挙の度にボランティアで支援することが「害」だと主張するのである。  どうしてかというと、自民党の選挙なら支持者に金をバラまかねばならないから巨額な選挙資金が必要とされるのに、「学会選挙」なら人件費タダで、それは「見えざるカネ」と考えるべきだ、というのである。  金まみれの選挙ではなく、支持者が手弁当で集まってボランティア支援をしているわけなのだから、ごくごく常識的な見方では「創価学会はすごいね」と称賛されてもいいはずだが、この溝口の捉え方は正反対なのだ。「見えざるカネ」を巨額に使うのはよくない。人件費・運動費はカネに換算しなくてはならないので、それを見えないようにする創価学会の選挙は問題だ、と言うのである。まことに強引なこじつけだが、要するに学会のボランティア支援をなんとか批判したいがために、理屈にもならないことを言っているのだ。  記事の最初のほうでは、自民党の田沢智治参院議員が立正佼成会から二億円の融資を受けていたことが発覚し、法相辞任に追い込まれた問題を取り上げている。溝口は、この田沢議員と立正佼成会の関係を「まさに政教一致の典型」と言う。  そこで引き合いに出すのが西尾幹二電気通信大学教授の言葉だ。  「政教分離はヨーロとハの歴史の中で確立されてきた理念です。西欧各国はキリスト教会の威力からどう国権を守るか、さんざん苦労してきた。今の日本では政教分離というと、国家から宗教を守って、宗教に自由を保障する話になってますけど、本来は逆。宗教から国家を守って、政治に自由を回復させる話です。宗教の持つ恐ろしさを忘れてもらっては困ります」  念のために言っておけば、この教授の意見は決して多数派のものではない。  それに「宗教から国家を守って、政治に自由を回復させる」のが政教分離というなら、地鎮祭への公金の支出や靖国神社への公式参拝など、政教分離を主張する自民党のタカ派議員が推進していることはどう解釈するのか。これは、憲法二〇条の「信教の自由」の解釈を変え、神社神道と国家は一体であり、それ以外の宗教は国家の名で統制しようという運動ではないのか。  この問題を抜きにして、創価学会の支援活動だけを「政教分離の原則」に反すると主張しても、まるで説得力を持だない。  当の自民党政府には「政教分離答弁書」があり、これを溝口が引用している。  「憲法の定める政教分離の原則は、信教の自由の保障を実質的なものにするため、国そのほかの公の機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨であると解しており、それをこえて、宗教団体または宗教団体が事実上支配する団体が、政治活動することをも排除している趣旨であるとは考えていない」  溝口はこの見解を勝手に解釈して次のように話す。  「自民党は創価学会を脅し、すかしして自陣営に票を回させ、国会運営や政策に公明党を同調させるのが一貫した戦略である。そのため『政教分離』を宗教が政治を侵さないことではなく、政治が宗教を侵さないことと答弁した。先に西尾教授が指摘したように本来は逆である」  溝口は、憲法の解釈など与党の政治的な思惑ひとつで簡単に変えられると思っているのだろうが、残念ながら法治国家ではそうはいかない。溝口が常套手段にしている強引なこじつけのように簡単にはいかないのである。  また、溝口は、自民党の選挙についてこう述べている。  「自民党候補はなぜカネがかかるのか。たとえば県内に10の市があれば自民党系市議全員に金をばらまく。1市平均15人の市議がいれば150人。10万円ずつ渡しても計1500万円。県議もいる。20入いれば20万円ずつ配って400万円。集会もある。選挙中に5000人集会を2〜3箇所でやる。動員する支持者の半分にはバスを仕立て弁当を出す。最低でも1回の集会に250台のバスが要る。バス代は1台7万円で1750万円……」  こんなことを書かれて、自民党議員は腹が立たないのだろうか。訂正や謝罪を求めないのだろうか。  それはさておき、創価学会のボランティア支援についてはこう述べる。  「創価学会の支援があれば、参院選選挙区でも2億円かかるところが6000万円ですむ。しかも当選はほぼ確実。議員にはこたえられない」  「創価学会はカネに換算したら何千億円にもなるこの信者の集票活動を武器に政治を侵し続けてきた」  選挙を金まみれにしてしまった自民党と対照的に、金のかからないボランティア選挙を実践してきた創価学会員に対し、こんな中傷をするのは尋常な思考ではない。どうも溝口は、選挙にボランティアを使うなどとんでもないことで、自民党のように当然の出費として金をバラまくべきだと言っているのだろう。どう読んでもそうとしか思えない。  この記事を掲載した編集担当者や編集長は、溝口のこの異常さに気付かなかったのだろうか。気付かずに載せたとすれば、編集部もまた異常である。信教の自由にせよ、政教分離の原則にせよ、政治参加のあり方にせよ、民主主義の根幹にかかわる問題だけに、いくら署名記事とはいえ、こうした暴言を平気で載せた編集部の責任は重い。  ここで、改めてこの記事のリード文の表現を見てみよう。  「田沢法相への2億円融資は、まさに政教一致の典型だが、『選挙支援』の名の下に実質上巨額なカネを動かす創価学会もまた、政教一致の害だ」  それにしても「実質上巨額のカネを動かす」とは奇妙な日本語だ。具体的事実がないのに、なんとか「創価学会もまた、政教一致」と言いたいために、こういう不自然で無理のある言い方になってしまうのだ。この記事の書き手のように、憲法でも、公職選挙法でも、宗教法人法でも、すべて独自の“ひねくれ論法”に都合のいい部分だけをちゃっかり拝借して、珍妙千万なこじつけ記事を書くという者も珍しい。しかし、もっと珍しいのは、そういう珍妙千万な記事を載せている当の『週刊ポスト』のほうかもしれない。  時代錯誤のトンチンカンな憶測とデマ  〈「創価学会政権」誕生で日本はこう変わる!!〉(『週刊現代』一一月一一日号)  「シミュレーション」とあるからヘタなパロディーでもやっているのかと思ったら、さにあらず、大まじめで珍妙な中傷を並べている。  まず「新進党は創価学会党だ」と勝手なすり替えをしておいてから、新進党政権が誕生すれば、つまり“創価学会政権”が誕生すれば、「日本が大きく変わる危険性」と言い、時代錯誤のトンチンカンな憶測を並べ立てている。  巨人の長嶋茂雄監督は現役時代に「社会党政権ができればプロ野球ができなくなる」との迷セリフを吐いたそうだが、この記事はそんな他愛のない話ではなく、相当に嫌らしい「妄言」ばかりが並んでいる。例えば――。  「男性幹部の髪は七三分けで、長髪やパーマはダメ。スーツも地味なものをという方針だし、女子部にもチャラチャラした格好はさせない。常々講演で『清く正しく美しく』を唱えているぐらいだから、道徳向上が強調され、ヘアヌードやポルノは規制が厳しくなるのかもしれない」  「学会員は基本的に、神社の鳥居をくぐらないし、お祭りの神輿もかつがない。そうした排他性と、強引な勧誘=折伏が、多数の“創価学会嫌い”を生み出しているわけだが、自分たちの政権ができれば、晴れて創価学会を国民に強制することができる。現在、国会で論議を呼んでいる宗教法人法改正などは問題にならず、宗教団体に批判的な意見などは徹底的に抑えつけられる。行き着く先は国教化だ。もちろん国教と決まれば、その他の宗教は排斥されるであろう」  「創価学会は『総体革命』と称して、会員を法曹、官僚、経済、教育などの各界に送り込んできたが、政権誕生の暁には、これらの人々が幹部に昇進し、池田氏の寵愛を受けるための競争が始まり、池田氏のいいなりの幹部がぞくぞく登場してくることになる」  これは『教育の現場』でも変わりはない。現在、系列の創価中・高校の校内に設けられた創立者(池田氏)のコーナーには聖教新聞が掲示され、教室内には池田氏の写真が飾られたこともあり、ホームルームなどでは池田氏の著作や講演集などの勉強をすることもある」  ここで、いつものように、その学会批判記事を面白おかしく盛り上げるために何でも作ってしゃべる“便利屋コメンテーター”乙骨正生が登場する。  「この傾向は全国に広がり、池田氏のスピーチなどのビデオを見せることによって、池田氏を礼賛するマインド・コントロールが行われるでしょう。そして、ガリ勉タイプで上昇志向が強く、ロイヤリティ(忠誠心)の高い学生や生徒が増えていくことになると思います」  乙骨は創価大学出身を売り物に、かつて『週刊文春』(九四年一月六日号)に「創価大学出身官僚・政治家・マスコミ人全リスト」というとんでもない人権侵害の記事を載せ、母校や同窓生を売り歩く差別主義者として社会的批判を浴びた。  この記事には、「七三分け」だの「清く正しく美しく」だの「総体革命」だのといった時代錯誤の言葉ばかり出てくるが、出所はこの“学会知ったかぶり”の乙骨だろう。こんなヨタ話、だれより当の創価学会員に大笑いされるだろう。  乙骨はかつての同級生たちの姿を思い浮かべて「ガリ勉タイプ」だの「上昇志向」だの「ロイヤリティ」だのと発言しているのかもしれないが、自分が二浪までして入った大学で学んだことはその程度のことだったのか。  さて、この記事ではもう一人、金子勝立正大学教授という学者も、どういう理由からか知らないが、ずいぶん無茶な憶測をしている。  「日米安保条約の堅持やPKO活動の容認は間違いない。口では平和の希求を叫ぶが、それさえ百八十度転換しても“教祖主権”でチェック機能すら作動しない組織なだけに、自衛隊の多国籍軍への参加、日米安保のグローバル・パートナーシップ提携までいきかねない」  「“教祖主権”でチェック機能すら作動しない組織」とはひどい誹謗の仕方だ。仮にも学者の肩書でコメントするのなら、客観的事実と主観とをきちんと立て分けて、しゃべるのが最低限のルールというものではないか。  要するに、この記事は、創価学会が支援する新進党が政権をとるなんてとんでもないことだと言いたいがためにこしらえたヨタ話だ。東西冷戦時代の最中、自民党は「共産主義になれば女房もパンツも共有財産にされ、個人所有のものは何もなくなるぞ」といったデマを流して共産党や社会党を攻撃したものだが、今度は「創価学会政権ができたらヘアヌードがなくなるぞ」「他宗教は弾圧されるぞ」「マインド・コントロールされるぞ」と低俗なデマを流すことにしたのだろう。  時代はどんなに変わろうと、権力者の単純な思考回路ややり口はまるで進歩がないということだが、問題はこの『週刊現代』など一部の雑誌が臆面もなくそういう権力のお先棒をかついでいることなのである。 第五章 すべては宗教法人法を通すために  九五年一年間の週刊誌を中心とした雑誌ジャーナリズムの学会報道の論調を時系列で見ていくと、本書第一章で書いた東村山報道や第二章のオウムとのこじつけ報道、第三章の証人喚問報道、第四章の選挙報道の「学会が政権を取ったら怖いぞ」式の記事も、すべて宗教法人法改正案を通すために利用されたことがよくわかる。  自民党など与党首脳は、当初は「オウム対策」と言っておきながら、「宗教法人法改正ではオウムのような事件の再発防止はできない」と指摘されるや、「本音は創価学会つぶしだ」と本性を現わした。  こうした与党の「暴挙」に対しても、なりふりかまわず与党に追従するマスコミの報道姿勢は、これまた滑稽だった。一部には、新聞や出版物の再販制度存続をチラつかせた文部大臣の「行政指導」があったとの報道もあるが、その真偽は別にしても、与党側の世論誘導に大きく貢献したことは間違いない。  自民党の学会への牽制を煽る雑誌  〈「宗教法人法改正」で必死の創価学会に押される自民党〉                            (『週刊新潮』九月二一日号)  この記事は、自民党の加藤紘一政調会長(当時)が韓国・済州島で「秋の臨時国会では、宗教法人法の改正が、補正予算案の審議と共に二大テーマとなる」と発言したのを受け、いよいよ本格的に与党が宗教法人法改正に動き始めたことを報じるとともに、この法案が創価学会に与える影響が大きく、創価学会が支援する新進党が、総力を挙げてこの法案に反対するだろうということを予測したものだ。  タイトルに「押される自民党」とあるから、『週刊新潮』は中立にあるかのような印象を受けるが内容はまったく違う。自民党の改正案以上に過激な「改正」を要求している。  加藤政調会長は、この発言で「宗教は一人の教祖の言うことを絶対視して行動するのだから、本質的に民主主義とは相いれない」との暴言をはいたのだが、『週刊新潮』はこの暴言については「新進党内では、加藤氏の発言は信教の自由を保障した憲法に違反するという声も上がっていますよ」という新進党関係者の発言を併記するにとどめ、その暴言を放置している。  つまり、『週刊新潮』は、この宗教法人法は自民党と創価学会の戦いであり、新潮自身には何の関係もないばかりか、オウムと創価学会以外の人にも何の影響もない、と主張してはばからないのだ。  マスメディアでありながら、信教の自由にかかわる人権の問題でこれほどまでに無責任でいられる裏には別の狙いがある。それは世論誘導である。  宗教法人法改正は創価学会弾圧を目的とした自民党の謀略であることは誰にでも推測がつくことだが、『週刊新潮』はあえて自民党の党利党略を問題にせず、宗教法人法改正がすでに既成事実化しているかのように装っているのである。阪神大震災で政府の対応が問題にされた最中に、いきなりオウムに矛先をそらし、さらに宗教法人法に標的を切り替えたわけである。自民党にとってこれほどありがたいことはない。しかも、『週刊新潮』の主張は、与党自民・社会(当時)・さきがけ三党と文部省が進めようとしている改正程度では生温い、宗教法人課税も含めてもっと徹底的なものにしろというのだから、政府にとってこんな都合のいい記事はない。  オウムのような凶悪犯罪、テロの防止に、宗教統制によって臨むというのは、どだい無理な話である。政治団体や営利法人として登録している暴力団や右翼が、鉄砲や麻薬を入手して犯罪を犯したからといって、その法律をいじろうという議論は出てこない。それなのに、宗教法人のみを標的にすることによって、テロ対策や組織的暴力の摘発といった国民の命に直接かかわる最重要の課題が二の次にされてしまった。阪神大震災で適切な処置をとらなかった政府は、オウム事件でも適切な措置を怠り、それに対する非難を宗教法人の管理・統制でかわそうとする行動に出たわけである。しかも、この『週刊新潮』など一部雑誌がその動きを援護射撃する役目をになったわけだ。  『週刊新潮』の作為はコメントの仕方によく示されている。  旧公明党の二見伸明代議士は、新進党側の主張として、「もし、与党がこのままの状態で改正案を臨時国会に提出するということになれば、真っ向から対決ということになるでしょうね。信教の自由ということだけでなく、言論の自由、思想の自由ということも絡めて、国民の理解が得られるようにキャンペーンもしていかなければならない」と述べているのだが、『週刊新潮』はこの発言をバッサリと切り捨てる。  「(二見氏の発言内容)という大げさな話になるのだから、いささかクビをひねりたくもなってくるのだ」  「小沢一郎幹事長以下、新進党ぐるみで池田大作氏と学会を守るために奔走しているのだから、これはもう喜劇としかいいようがない」  最初から、与党の立場に立って、創価学会・新進党攻撃のシナリオが組まれていることがよくわかる。『週刊新潮』はそもそもこの宗教法人法改正が必要なのかどうか、という基本的論議を抜きに、新進党がこの改正に反対するのが「喜劇としかいいようがない」と中傷するのである。なんとも嫌らしいやり口である。  ここで登場するのが「ある政界事情通」である。  「実際、創価学会と自民党の幹部の間で、すでに宗教法人法改正の落とし所を水面下で協議しているという話も聞いています」  「文部省への所轄の変更については、変更の際に再申請はもちろん、一切の書類提出の必要なしで、単に移行するだけの形にするようです。また、情報開示にしても、せいぜい信者数や年間行事をオープンにするだけで、財務内容などには踏み込まない形で決着することになりそうですよ」  昨年九月の時点で、ここまで明確に言えるのは実際に「改正」に立ち合っている自民党と文部省の関係者だけだ。しかも、与党内でのコンセンサスがすでにこのレベルに落ち着くことが予測されていたのである。いったいどこにオウム事件の再発防止などの目的があろうか。最初から創価学会への牽制が目的だったのである。  怖いのは、この程度の改正で終わらせてなるものか、とさらに自民党にハッパをかける『週刊新潮』の立場である。今度は記者自身の主張が出てくる。  「(新たに厳密な審査を行うことをせずに)それで、創価学会にあたかも宗教法人法改正のみそぎを受けたような顔をされたのでは、“改正”どころか“改悪”といった方があたっているだろう」  ここでは完全に創価学会を犯罪集団扱いにしている。もちろん、創価学会にどんな罪があるのかは指摘されていない。  さらに誹謗中傷は続く。「金は政治と犯罪へ」というひどい小見出しのところだ。  ここでは村田昭氏という税理士のコメントを入れている。村田氏は宗教法人課税強化を主張する自民党寄りの税理士で、極論が目立つ人物だ。  「今の宗教法人の非収益事業による収入ほど不透明なものはありません。創価学会ではこれが政治資金に流れ、オウムでは犯罪の資金に使われました」  よくも何の根拠も示さずこんな断定的な発言ができるものだ。しかも、まるで政治家が使う裏金と同じ捉え方をし、さらにそれを犯罪と同じ意味に解釈して使っている。『週刊新潮』は、それを平気で引用するばかりか、それに批判も加えず、自分たちの主張の補完材料に使っている。客観的事実より自分たちの偏見を優先するという、雑誌記者にあるまじき公正を欠く手法である。  類は友を呼ぶではないが、この記事にはもう一人、同じような公正を欠く手法を得意とする人物が登場している。九五年五月に独自の宗教法人法改正試案を発表したという北野弘久日大教授だ。一二月四日に、参議院宗教法人等特別委員会の参考人として共産党から推薦を受けて招致された人物だ。その北野教授が言うには、  「支出についても規制し、非収益事業で集めたお金を政治活動などに使った場合は、非収益事業とは見なさずに課税すべきなのです。実際、アメリカなどではそうなっているし、政治活動とは思想や信条に拘らず、集票活動や資金提供、組織が候補者を出したりしたような場合を指すわけです。創価学会など、まさにこれに当たるわけですよ」  というが、これは実は根拠薄弱な言いがかりにすぎないのである。  北野教授は、参議院での参考人としての冒頭陳述のなかで、「憲法二〇条の『政教分離』の原則を見直せ」だの「宗教法人の税制も変えろ」だの「労働組合や企業が政治献金を行うこと自体が、おかしいと思っている」など、好き勝手な持論を展開した。しかし、その後の質疑のなかで、彼がこれまで根拠として述べてきた「アメリカでは、当局が宗教法人の実態を調査している」とか、「宗教法人が政治活動を行うと、免税特権を剥奪される」といった主張が、実はただの特殊事例にすぎなかったことが暴露されたのだ。彼は、偏った持論を補完するために極端な判例を寄せ集めたにすぎなかったのである。つまり、限られた特殊な事例においてしか“北野学説”は使えないのである。  結局、北野教授といい『週刊新潮』といい、自民党の選挙対策のために、何の必然性もない宗教法人法改正を唐突に言い出したために、あちらこちらに無理が生じたのである。ナチスの宣伝誌ではあるまいし、雑誌ならもう少し良識をわきまえるべきだろう。  与党をけしかけて学会バッシングヘと世論を誘導  〈「宗教法人法改正」を巡る死闘 橋本自民党が仕掛ける「創価学会殲滅作戦」〉                            (『週刊現代』九月三〇日号)  この記事はまたひどいタイトルだ。政治家が公権力を使って(つまり税金を使って)、一宗教団体を攻撃することを、『週刊現代』は喜んで騒いでいる。メディアなら、政府・与党のこの異常な行動を監視し、牽制しなければならないはずだ。にもかかわらず「創価学会殲滅作戦」と名付けて後押しをするとは、『週刊現代』はどうかしたとしか言いようがない。  内容は、自民党の衆議院議員へのアンケートを含め、自民党議員がこの宗教法人法改正をどう捉えているかをまとめたものだ。だれもが露骨に創価学会攻撃と選挙のための仕掛けであることを認めているのだからどうしようもない。  例えば自民党の「宗教と秩序に関する調査特別委員会」の松永光委員長はこう述べる。  「今回の改正案は、昭和33年の宗教法人審議会答申に基づくもので、純粋に法理論的に不備な点を訂正していこうというものです。たとえば、全国で活動する団体が、一都道府県の所轄というのは、子供が聞いてもおかしいとわかる話です。創価学会は文部大臣の所轄の方がきこえがいいのに、なぜ都知事所轄で頑張るのかわからない」  しらじらしい発言ではないか。文部省がどういうところか、知らないとでも思っているのだろうか。現に島村宜伸文部大臣(当時)は、八月の内閣改造で、就任早々、韓国に対する“暴言”問題で物議を醸し、すぐに陳謝した。しかもこの記事の中で「自民党関係者」が伝えるところによると、島村氏は「もっと吠えてもいいんだが、今回オレは創価学会を叩き潰すために文相になったんだから、この際は自重しておく」と言ったということからも、反省のあとなどカケラもないことがわかる。こんな大臣の言動を批判もせず、そのまま報道する『週刊現代』の姿勢はジャーナリズムとしてあまりにも無責任といえよう。  アンケートに答えた三二人中、全員が法改正に賛成で、三一人が所轄庁を国に移管することに賛成、財務・会計の公開についてもほとんどが賛成という結果になった。ただ、回答者数が少ないことは、自民党内にも創価学会以外の宗教団体から支援を受けている議員が多く、法改正に及び腰となっていると指摘している。  自民党議員の思惑はさまざまで、次のような意見もある。ただし、反対する人間はいないようだ。  「梶山(静六幹事長)さんもいっているように、衆院選は参院選とは取り組みが違う。ただ、解散・総選挙に持っていく前に、新進党は創価学会の支配下にあるという現実と、それが日本の未来にとっていかに危険極まりないかという点を徹底して国民にアピールしていく必要があるんだ。宗教法人法改正はそのための格好の材料になる」  「たとえば『政治と宗教』という本を出す計画がある。その中で、創価学会の政治支配の実態を暴露するわけだ。また、先の選挙時に作った“新進党は創価学会だ”という内容のパンフレッ卜があるが、これらも有効に活用していく」  「税法を改正して、宗教法人の営利事業の税率を上げるということで、大蔵省とはタッグを組める」  最後で、『週刊現代』は、「オウム事件と参院選が火をつけた形の宗教法人法改正問題は、ついに国政の行方まで左右するところにきたようだ。はたして自民党が、ストップ・ザ・創価学会といくか、学会の“力”の前に屈するか。死闘はいま始まったばかりである」と結んでいるが、なんとも無責任な発言ではないか。無駄な税金を使うという点では、今の住専問題と大差ないというのに、なぜ『週刊現代』は問題にしないのだろうか。それはいま一つ宗教法人法改正に盛り上がらない世論を作為的に誘導していくことがねらいだったからではないのか。『週刊現代』はいつから自民党機関誌のような真似をすることにしたのだろう。  最後の、カコミに入れられた「池田大作名誉会長を誌上喚問する」と題する自民党「憲法20条を守る会」の川崎二郎議員の弁は面白い。  「私は、宗教団体が政治活動をやることが悪いとか、創価学会が悪い宗教団体だとか言っているわけではありません。ましてや自民党が参院選で負けたからだとか、政治が宗教を裁こうなどというつもりでいっているわけでは毛頭ない。宗教団体が政治活動をしようが、それは自由だと思いますし、宗教団体が選挙の時に動員力があることを羨ましいとはいえますが、だからといって、憎いと思っているわけではない。自ら『政教分離』を掲げている団体が、それを守っているかどうかを問いたいだけです」  「ちょっと待ってくれ、川崎さん」と言いたい。「宗教団体が政治活動をやることが悪い」ことじゃなくて、「宗教団体が政治活動をしようが、それは自由だ」と言うなら、なぜ「政教分離を宣言しているが、その宣言を守っているのか」などと問う必要があるのか。「政教分離」の意味を勝手に曲解しているのは、あなた方自身ではないのか。川崎議員の珍妙な言い回しは、本来の「政教分離」の意味を知っている口ぶりにも思える。つまり、国家の立法・司法・行政や戸籍管理・税の徴収などの統治的権力を宗教団体が行使してはならない、ということだ。政府の「政教一致」攻撃は筋違いであり、創価学会への単なる嫌がらせにすぎない。川崎議員ははからずもこのことを暴露してしまったようだ。  結局、『週刊現代』は自民党議員がいかに創価学会攻撃に狂奔しているかをあからさまに示してしまい、創価学会バッシング(叩き)へと世論を誘導するよりも、残念ながら後世に自民党の恥を伝えようとするかのような記事内容になってしまっているのだ。  悪政のツケまで一宗教団体に押しつける報道  〈宗教法人「課税」なら創価学会は「五兆円」〉(『週刊新潮』一二月七日号)  宗教法人法改正の次は宗教法人課税だ、と意気込むのは、与党自民・社会(当時)・さきがけ三党ばかりではない。『週刊新潮』もそうらしい。  この記事は、宗教法人法改正案の審議が翌月から参院に移り、審議も大詰めを迎えるのに合わせ、次の問題として宗教法人課税の見直しを俎上にのせるべく火のないところに煙を立てようとしたねらいがありありの記事だ。  記事はのっけから噂話で始まっている。  「さる外国銀行の為替ディーラーが語るには、  『それは二十三日から二十四日にかけてのことでした。かなりの量のドイツ・マルクとオーストラリア・ドルが買われたんです。  マーケットでは、創価学会が買ったというのが専らの見方でした』  一説には、ドイツ・マルクだけで五億マルク(約三百五十億円)か、場合によってはそれ以上とも言われていた。  『目的は、利回りのいい外債を買うためで、最初は財テクじゃないかとも思われた。ただ、時期が時期だけに宗教法人法改正案が成立し、財務関係書類の開示などが求められていることに備え、今のうちに資金を円から外貨に替えて、海外に持ち出しておこうという資産隠しに出だのではないかという憶測も出ていました』  そう言えば、池田氏はスイス銀行に個人口座を持っていて、学会本部の机の上には  よくそこから白い封筒が送られてきていた――という話は昔から語られている」  まったく勝手な憶測、ウソと捏造に終始しているのがありありとわかる内容ではないか。噂話だけを根拠に創価学会があたかも「資産隠し」をしているような疑惑を週刊誌自身が捏造しているのである。  さらに内容は創価学会の収益事業に踏み込み、「収益事業はボロ儲け」という小見出しをつける。そこでは、「もっとも、念のために断っておけば、現在、俎上にのぼっている宗教法人課税の見直しは、生協、農協、学校法人や財団法人などまで含めた所謂『公益法人』全体の課税論議の中で語られているに過ぎない」と述べ、宗教法人だけを云々する問題ではないことくらいは承知しているようだ。しかし、自民党税調の「見直し」のねらいは創価学会叩きにあることは明白なので、『週刊新潮』はその意を受けて報道しているわけだろう。週刊誌が政治権力の意のままに世論誘導をするのは犯罪に等しい。ナチス・ドイツや日本の軍国主義に果たしたメディアの役割についての反省は、この『週刊新潮』にはまったくないらしい。  さして裕福でもない創価学会員が、わずかずつためた貯金を出し合って宗教活動をしているだけではないか。そうした庶民が出し合ったお金を、“あるなら出せ!”と横からぬっと手を出して奪い去ろうというのは、ヤクザが「みかじめ料」を出せというのとなんら変わりない。  他人のカネにこんなにムキになる暇があるなら、もっと早くから住専問題や農林系金融機関の問題をきちんと報道すべきだったのだ。この点でもメディアの責任は大きい。  さて、宗教法人法と宗教法人課税に関する『週刊新潮』の意見はこうだ。  「期間を区切り、銀行振込みで出させるカネが果してお布施と言えるのか。池田先生の来臨に備えた豪華な設備を持ち、選挙のたびに事務所になる建物が宗教施設といえるのか。SGIと称する団体を隠れ蓑に世界の要人と会い、金をバラ撒いては勲章を買い取る行為が宗教活動と言えるのか。それ以前に、すでに宗門から破門され、信仰すべき本尊さえ持たない団体を宗教法人と呼べるのか」  例によって実態をなんら取材することもせずに、憶測や曲解による言いたい放題だ。これらが課税の根拠だというなら、単なる言いがかり以外の何物でもないことが逆によくわかる。いずれも、これまで一部週刊誌が騒ぎ立ててきた憶測や決めつけ話を繰り返しているにすぎない。  記事では、そのうえでコメンテーターとして反創価学会ジャーナリストの段勲や乙骨正生、匿名の脱会者、税理士の村田昭氏、政界関係者、税法が専門のさる大学教授たちの登場となる。  そのなかで村田氏は次のように言い切っている。  「現状は、宗教法人に非課税特権を与え、国が実質的に補助金を出している格好です。しかし、そもそも政治に手を出しているようなところは宗教団体とは思えませんし、学会の財務などは、とても浄財とは呼べない。池田氏への贈与と見做して課税すべきでしょうね」  「政治に手を出している」かどうかが宗教団体認証の基準になるとは知らなかったが、こんな主張で世論を誘導しようというのだから、勝手な話である。  また、創価学会の資産をわざわざバブル最盛期の評価の約一〇兆円と算定し、「総資産十兆円の法人である創価学会からは少なくとも五兆円を請求できることになる」と煽る。どこの世界に個人営業の商店主並みに扱われる宗教団体があろうか。  記事の結びはこうだ。  「この分(五兆円)を消費税の廃止に回してもいいけれど、やはり国民にとって有難いのは大型減税ではないか。五兆円規模の減税といえば、昨年の所得税と住民税を一律二〇%還付してくれた戻し減税(五兆五千億円)が記憶に新しい。消費の回復にも役立って、誰も反対しないだろう。おぼつかない税制改革など待っているヒマはない。国民の血税と引き替えに特権を享受している目の前の集金団体を突き崩せば済む話」  まさに、国民の目を政治の現状に向けさせようとせず、一宗教団体に悪政の責任をすべて転嫁しようとするかのような極めて悪質な記事づくりである。『週刊新潮』は意図的に巨悪を逃し、まったく無関係の創価学会に濡れぎぬを着せようと世論を煽っているのである。  狂気じみた宗教差別主義者の珍妙な主張  〈「宗教法人法と創価学会」溝口敦〉(『週刊ポスト』一〇月二〇日号)  この溝口敦という自称ジャーナリストは、創価学会をオウムと同一視して、犯罪集団として攻撃し続けている。このスタンスは溝口独自のものというわけではないが、彼はあらゆる宗教を同一視して扱い、宗教というものを狂信と盲信、欲望とカネで解釈する。この元左翼の偏狭な宗教観を知っておかないと、彼の主張は非常につかみにくい。  この記事は、宗教法人法改正賛成の立場に立って、創価学会が「第二のオウム」となる前に、宗教法人を徹底して調査できる権限を政府に与えるべきだと主張するものだ。  創価学会が「第二のオウム」だという根拠などまったく示されないが、最初から溝口はそう決めつけて、それを前提に勝手な憶測話をどんどん積み上げていく。他人を煙に巻く彼得意の論法である。  さて、オウム同様の犯罪を犯したなら「第二のオウム」と呼ばれても仕方あるまいが、まったく無関係の宗教法人をつかまえてオウム呼ばわりするのは、ただの中傷であり、名誉毀損以外の何物でもない。オウム真理教の上祐幹部が自分たちの犯罪を棚に上げ、創価学会が犯人だと攻撃したのとそっくりだ。常識や人権感覚のないジャーナリストなど、社会にとって狂犬と同じものである。  まず、溝口は、宗教法人審議会が九月二九日に発表した素案である四つの改正点、つまり、  「@二つ以上の都道府県に境内建物を設置している宗教法人は文部大臣の所轄とする。   A信者や利害関係人は正当な理由がある場合、宗教法人に対し、財務会計などについての書類を閲覧させるよう請求できる。   B宗教法人は役員名簿、財産目録、収支計算書、貸借対照表、境内建物についての書類い公益事業、収益事業などについての書類を所轄庁に提出する。   C所轄庁がその宗教法人に、収益事業の停止や解散などに相当する疑いがあると認める場合には、宗教法人審議会の意見を聞いた上で、その宗教法人に報告を求め、質問することができる」  に対して、真っ向から疑問を提起する。  「この素案は、国民がオウム真理教事件で抱いた不安を解消するものだろうか。  換言すれば、オウムは坂本堤弁護士一家を殺し、死体を遺棄しながら、その上当初からオウムの犯行を疑われながら、なぜ5年以上もの長期にわたって警察の捜索を免れたのか。なぜサリンの原料である三塩化リンやフッ化ナトリウムをあれほど大量に宗教会計で買い付けながら、長く秘密を保てたのか。宗教団体でありながら、なぜ大規模な化学プラントや鉄砲工場を開設できたのか……。  素案はこうした事案再発の歯止めになりうるのか」 彼の解釈がトンチンカンなのは、政府が宗教法人法改正の目的をオウム事件の再発防止だと言っているのを真に受けていることだ。昨年の宗教法人法改正はだれが見ても次の選挙のための創価学会弾圧が目的である。オウム事件は世論を誘導するためのきっかけにすぎない。  さらに、テロや組織犯罪はめったなことでは外部に情報は漏れない。もちろん今回は警察自身が「まさか」と思って対応が後手後手に回っていたのが事件を大きくした理由のひとつだろうが、暴力団やヤクザが拳銃を密造したり麻薬を密輸したりするのを取り締まるのさえ大変なのである。組員自身が内部告発するケースなどほとんどなく、暴力団自身が自分の活動内容を帳簿にして役所に届け出たりはしない。コトは犯罪なのである。  しかし、溝口は取り締まりさえ厳しくすればそれがなくなるかのように述べる。  「(オウムが宗教法人となった)認証の経緯が明かすのは、宗教法人法は宗教団体になんらの義務を課さず、単に“権利”だけを与える法律だということである。たとえ教団の活動に疑惑があろうと、所轄庁は認証前に立ち入り調査をすることはできない」  「つまり、宗教法人はたとえ法改正が成ったとしても、人を拉致し、殺し、サリンを撒くまで放任され続けるのだ」  「オウムの一連の事件が明らかにしたのは、宗教法人だからこそ、事犯の摘発が難しいことである。教団の施設は多少とも『聖域』であり、通常の捜査は『信教の自由』『政教分離』に阻まれる。信者は深くマインド・コントロールされ、暴力団の擬制血縁集団など問題にもしないほど、徹底した上意下達と秘密の保持で貫かれている。  あえて誤解を恐れずにいえば、犯罪を組織化するのに、これほど好適の団体はない」  ここまで読んでくると、実は、溝口は自・社・さ連立政権の行う宗教法人法改正の本当の目的を知らないふりをして、建前での論議を進めていることがわかってくる。しかも、彼独特の宗教に対する抜きがたい差別感・嫌悪感をもとに、あらゆる宗教団体を犯罪の温床であるかのように主張していく。  宗教法人法はどこまでも宗教団体に法人格を付与する目的の法律で、宗教法人を統制する法律ではない。しかし、溝口はそれを承知のうえで、すべての宗教団体を国家の管理・統制の対象にせよと言っているのである。民主主義の理念や憲法で保証された人権の基礎である「信教の自由」や「言論の自由」、「結社の自由」などを軽視しているのである。そこには元共産党員の“転び左翼”としての抜きがたい思考傾向が如実に現われている。  そんな溝口は、これだけ創価学会について書いているにもかかわらず、学会員に精力的に取材したことはない。彼が取材するのは、常に創価学会に対して悪意を持って中傷する人間たちだけである。取材中に創価学会に対して好意をもっている人、あるいはごく普通の平和団体の一つ、宗教団体の一つとして捉えている人に会うと、「創価学会から金を貰ったか、洗脳されたかだ」と解釈してしまう。  別冊宝島の『隣の創価学会』の特集でも、他の記者が創価学会員の家に訪ねて行ったり、会館を訪れたり、会合に出席してメモを取ったりと、精力的に取材するのに対し、溝口はひたすら部屋に篭って関係書物を読みながら、自分勝手な解釈をこねくって作文していた。その“成果”が次のようになっている。  「では、仮に創価王国がなったとして、池田氏は何をしたいのか。創価学会に対する批判者、反対者、あるいはその団体を徹底的に弾圧することは当然として、次にくる施策は何か。何もないにちがいない。池田氏は権力者という状態が欲しいのであって、具体的に権力を握って何をしたいという目的への欲求を持っていない。これが世を見返してやりたいという池田氏の限界である」       (「『いじめられっ子』池田大作、世にはばかる」、『となりの創価学会』所収)  溝口はそれでジャーナリストとしての仕事を果たしているつもりなのであろうが、彼が原稿を発表するごとに、彼の支持者はいなくなっている。反創価学会のライターをやっている内藤国夫や乙骨正生、段勲らも溝口のトンチンカンな考え方にはついていけない。  溝口に言いたいのは、ジャーナリストを標榜するなら、一度でもいいから、ワンサイドでなく、両サイドからの取材を行ってほしいものだ。取材もできないほど対人恐怖だというのなら仕方がないが、少なくともジャーナリストという肩書ははずすべきである。  そして、『週刊ポスト』には、訴訟にたえるだけの証拠固めをしないまま原稿を書く差別主義者・溝口と本気で心中する意志があるのだろうか。おそらく彼は、今後、もっとひどいことを言い出すだろう。創価学会相手なら何を言ってもいいと思っているのだから。内藤国夫がある講演会で、「実はここだけの話なんですけど、創価学会は部落なんですよ」とささやいたことがあるが、溝口もこの狂気的な差別主義者と限りなく近い位置にいる。  「ナチ『ガス室』はなかった」の記事で世界的な批判を浴びた『マルコポーロ』事件をふたたび繰り返してはならない。      ◇  かくして九五年一二月八日、宗教法人法「改正」案は参議院本会議で可決、成立してしまった。 第六章〈特別講座〉週刊誌のウソの見抜き方 ――講師・岡庭 昇氏(評論家)  「手先」「回し者」から「実は」「お友達」まで  ――最近、一部の週刊誌では、「あいつは創価学会の味方だ」とか「どうも学会員らしい」と言いふらすことが多くなりましたね。創価学会員だけでなく学会を取り巻く周辺にまで罵詈雑言が及んできた。これはいったいどういうことなんでしょう。  例えば、『週刊文春』(九五年一〇月一九日号)には「池田大作の『手先』となった二人の元大物大使」というタイトルで、フランスの地元ジャーナリズムに対しSGIが起こした名誉棄損裁判に元駐仏大使二人が上申書を提出して学会を擁護したから、「彼らは学会の手先だ」などという論法です(この裁判はSGI側か完全勝訴している)。  さらに旧公明党が細川連立政権に加わったとき、組閣で法曹界の重鎮である三ヶ月氏を法相に指名したところ、『週刊新潮』(九三年八月二六日号)は「三ヶ月法務大臣は創価学会の回し者」というタイトルでデタラメな記事を書いて攻撃したこともあるし、小沢一郎氏の妻は学会員らしいといった憶測記事を載せた週刊誌もありました。  よくそんなウソを平気でつけるなとも思いますが、それ以上に疑問なのは、なぜ彼らがこんな子供のいじめにも似た論法をとるのかということです。 岡庭 マスコミに求められるのは、本来、フェアプレイのはずです。「あいつは実は学会員だ」とか「学会の協力者だ」とか「回し者だ」と言って、まるでそれが犯罪を犯したことであるかのように騒ぎ立てることで、学会自体があたかも犯罪者の集団であるかのようなイメージを増幅させ、さらに、「学会は別に悪くないじゃないか」と言ったり、公平なものの見方をする者まで、学会を非難しないものは学会と同じ犯罪者だ、というふうに語っていく。そんなふうに叩かれたら、普通は「あんまり学会のことを弁護するのはやめよう」と思うでしょう。そのときに、「学会は悪くない」と言うことは、非常に勇気のいることになります。  そのことで結局、良識的な発言さえ封じ込めようとしているのだとしたら、大問題でしょうね。  ――なるほど。事実、学会関係の出版物に、かつては好意的な文章をよせていた学者や知識人が、最近では「名前を出されるのは困る」と言ってきたりするケースもあるようです。 岡庭 週刊誌などの一連の論法は、かつてアメリカで吹き荒れたマッカーシズムによる、いわゆる「レッド・パージ(アカ狩り)」を想起させます。  言論を封じ込めるというやり方は、民主主義の根幹を破壊する行為でもあるわけです。マッカーシズムはまさにそれだったのです。  アメリカは、この事件で対外的な威信が決定的に傷付けられ、民主主義の国だという神話がガラガラと崩れ去ったといわれます。  ――百科事典によると、マッカーシズムとは「一九五〇年から五四年までにアメリカを襲った反共ヒステリー現象をいう」(『大日本百科事典』)とあります。マッカーシー上院議員は、五〇年二月に「国務省内に二〇五人の共産主義者がいる」と演説して、徹底した「アカ狩り」を扇動した人物として有名です。  共産主義者でもない人や、思想信条の自由を訴える民主主義者まで「アカだ」といって弾圧される。それに対して、政治家や知識人はほとんど反論もしなくなったといわれていますね。 岡庭 当時のアメリカは、中国が共産主義革命を起こしたことで、それまでの大市場を奪われたこともあって、国全体が共産主義嫌いというムードになっていたといいます。まあ、仮にそれがやむを得ないことだったとしても、いわゆる「レッド・パージ」で、本当に共産主義者なのかどうかという調査はほとんどしなかった。つまり、調査の「身ぶり」による政治弾圧だったのです。  例えば、ある新米記者がいて記事になるネタを探していたとします。そのとき、ある上院議員が彼を議院のロビーかどこかで呼び止めて「君にいいネタをあげよう。実はね、有名な○○はどうやらレッドらしいよ」とささやきかける。「ささやき戦術」です。「〜らしい」と言うだけでいいんです。日本の週刊誌と同じやり方です。すると、その新米記者は飛び上がって喜び、それを特ダネとして新聞に書き立てる。  例えばそんなふうにして、あいつは共産主義者だ、とマスコミが騒ぎ立てると、その人物を非米活動調査委員会に呼び立てて証人喚問をする。そこでさらに「君は共産主義者だろう」と責め立てるわけです。もちろん、喚問された本人は必死で弁明しようとする。すると「弁明するとは、ますます怪しい。きっとこいつはレッドに違いない」「こいつは民主主義の皮を被った共産主義者だ」となる。  要するに、共産主義の悪感情を国内にわきたたせることが最大の課題だったから、本人がほんとに共産主義者かどうかなんて問題はどうでもよかった。知識人や学者だけでなく、著名なジャーナリストや言論人、作家、芸術家などが次々と槍玉にあげられましたが、それ以上にハリウッドのスターや脚本家、監督が攻撃の的になったんです。  ――たしかに「反共でないものは共産主義者だ」という論法は、「反学会でないものは学会員の味方だ」というのとそっくり同じですね。しかし、なぜ有名人を狙い撃ちにしたのでしょう。 岡庭 それは特別ハリウッドの有名人に「レッド」が多かったからではないんです。  理由は、単に彼らが「有名」だったからです。単純な理由です。有名なスターが証人喚問されるわけですから、これ以上の格好の見せ物もないでしょう。当然、マスコミは喚問のたびに大々的に書き立てるし、人々の関心も否応なしに高くなる。  そのことを計算して、マスコミを操作し、反共感情を人々にわきたたせ、共産主義を批判しない言論までも弾圧していったわけです。  喚問の対象になった人物が本当にレッドかどうかという調査がなおざりにされていた、ということも問題ですが、それ以上にマッカーシズムが問題なのは、「なぜ共産主義が悪か」、「なぜ非難されなければならないのか」といったことについてはほとんど論議されなかった、ということです。本来あってしかるべき論議がまったくないまま、レッド・パージが強行されていったわけです。  それは本質的には、心の底で民主主義を憎んでいた勢力が、リベラルな考えを持つ者を押さえつけることで、一度握った権力を手離すまいとして仕掛けたものだったのです。だからそれが、結局、アメリカの民主主義そのものさえ危機に追い込んだ結果になったのは当然といえます。  雑誌が「暴君が創価学会を滅ぼす 出てこい池田大作」(『週刊文春』九五年一一月三〇日号)などと騒ぎ立て、自民党などの与党が池田大作名誉会長の証人喚問に躍起になる。まるでこの「レッド・パージ」の「証人喚問」とそっくりですね。  本来、宗教組織の責任者に意見を聴く、つもりなら秋谷会長でいいはずなのに、政治的な「効果」しか考えていない。しかも彼らにとつては、喚問する理由なんていうのは、どうでもいいんであって、喚問するという事実だけが大切なんです。マッカーシズムと同じです。  ――三ヶ月法務大臣の場合も、元駐仏大使の場合も、彼らは学会の「回し者」だ、「手先」だと言われると、直接的な影響も出てくるのではないでしょうか。 岡庭 それはあると思いますよ。「あなたが回し者だとは思わないけど、この際、誤解を避ける意味でも〜」といったやり方でスポイルされることがあるでしょう。また、学会につ いても、マスコミが騒ぎ、何回も書き立てると、やがてそれがいつの間にか「事実」であるかのような錯覚を起こしてしまう。  いくら記事の内容が事実でなかったところで、毎日、電車の中で学会批判の中吊り広告を見ていると、「学会は何か問題がある」ということが当たり前になってしまう。  もうひとつ付け加えれば、さっき「ささやき戦術」と言いましたが、これは差別を利用した「手法」です。典型といえるのが、在日差別です。「あの人、実は……」というささやき。  在日朝鮮人は、別に喜んで日本名を名乗っているわけじゃない。そうしないと、日本では就職や仕事に不利になることがあまりにも多いからです。それをこういう言い方をする日本人的な「差別」のあり方がある。  在日朝鮮人が、どんな文化を持っていて、どのように暮らしているか、などということは問題外で、ただ朝鮮人「らしい」ということだけを問題にする。  「悪口を言う」ことを目的とした記事づくり  ――先ほども取り上げられた『週刊文春』「暴君が創価学会を滅ぼす」(九五年一一月三〇日号)の記事のなかには、「元学会員」と称する人々のコメントがいっぱいで、しかもコメントを述べているすべてが「元学会員」やら「元学会関係者」などの匿名です。  また、同誌の「史上空前 ここまでひどい嫌がらせの実態 創価学会脱会者3300人大調査」(九五年一二月一四日号)というタイトルの記事などは、編集部に届いたとされる脱会者の声だけを拾い集めて記事にしています。この第二弾である「創価学会 狂気の金集め」(九五年一二月二一日号)でも同じです。  タイトルを見ただけでも、おぞましくなるようなひどいものですが、こういう悪口のし方というのは、どうなんでしょう。 岡庭 たしかに、私も記事を読んで、なんだか暗い執念と姑息なこだわりが混じったようなつくり方に、やりきれない想いがしました。でもまあ、個人的な好みはこの際置いておくことにしても、この記事づくりの方法は取材の原則からして反則です。  ようするに「元」信者のコメントだけでつくられており、否定的な例だけが強調して出されている。反学会の人たちだけのコメントですから、学会に否定的な話題ばかりになるのは当然です。  仮にコメントした本人たちに誇張やウソがないとしても、それはあくまでその人個人の見方であり、見解でしかない。立場を変えれば、見方も見解も当然変わります。そんなことは、ごく当たり前の道理でしょう。  説得力のある記事をつくりたいなら、両方に取材して、その両方の見解を載せなければならない、ということもまた、ごく当たり前の道理です。それが取材の基本です。もし、本当にジャーナリストを名乗りたいなら、そうするのが当然なんです。  ――ところが、『週刊文春』はワンサイドの見方や見解しか載せていない。まるで悪口を書きたいがためにだけ、「証言」を集めた感じです(笑)。 岡庭 そのとおりです。取材の結論として批判があるのではなく、まず「悪口を言う」という前提があり、そしてその結論を導きだすために、否定的なコメントだけを並べている。そう決めつけられても、仕方がない面がある。  ともかくこれだけ基本を無視した記事づくりはない、ということだけは断言できます。  ――しかし、どうして『週刊文春』などの週刊誌は、創価学会のことになれば、これほどの罵詈雑言を平気で並べられるのでしょうか。その感覚が、常識的に考えてもどうもわかりませんが……。 岡庭 私が気になるのは、マスコミ全般に「創価学会だけは別」という考えがあるのではないか。つまり、ルールを適用しなくてもいいということになっているように思える。学会側へのきちんとした取材もなしで、事実かどうかの確認もせずに記事にするというのは、「ルール外」として学会を差別しているからではないのか。  昔、私の家の近所に、ご主人が左官屋さんの学会員のご夫婦が住んでいました。実直な人柄で好感の持てるご夫婦でした。ところが、その夫婦は、お互いに結婚してから数年間、相手が学会員だということをまったく知らなかったというのです。つまり、自分が学会員だということがバレれば破談すると、お互いに思い込んでいたんですね。それほど「学会員」というだけで差別感情が世間にあったということです。  現在、それがマスコミによって「あれは別」という形になっている。  しかし、そんなときほど学会員の方々は、「創価学会で何が悪い!」「なぜ、創価学会は別なんだ!」と言い切っていくべきです。そうでないと、「あれは実は」という言い方が有効だということになりかねませんから。  ――最近は、新聞社系の雑誌まで、その「学会は別」という風潮に乗っかってきているような気がしますが。 岡庭 朝日新聞社が出している『AERA』(一月一―八日号)に「池田大作の側近人脈」という記事が出ましたが、これなど創価学会の幹部をめぐるウワサ話といった程度のものにすぎない。その情報が正しいかどうかはとりあえず不問にするにしても、なぜ、当事者への取材も裏付けもとらずに、一方的に決めつける記事が書けるのか。それが不思議です。双方に取材するのが客観報道、という取材のイロハぐらい、大朝日に所属する頭のいい記者なら当然のこととして知っているはずなのに、平然とこんなルール違反がまかりとおる。そこには「創価学会のことに関しては、取材も裏付けも必要ないんだ」「創価学会は別」という考えが露骨に見えています。  気をつけなければいけないのは、この「ただのウワサ話」が特別な意味を持つ陰口になりかねないことです。  ウワサ話が妄想のなかでなんとなく増幅されて、本当はとりたてて何ということもない平凡な事柄が、大問題のように取り上げられてしまう。ここに差別と偏見の構図があるんです。  「ウソだと言うなら証拠を出せ」という論法  ――カネの問題で言えば、自民党の亀井静香代議士がやたら週刊誌に登場し、創価学会について語っています。  そのなかで、亀井氏は「この無税のカネ(財務=布施のこと)が、いったい何に使われるのか」(『週刊朝日』九五年一一月一〇日号)と言い、いかにも選挙活動に学会の資金が使われているというふうなコメントや、「無税の金で創価学会が新進党とフル回転したことは間違いないんですから。『違う』と言うなら、そうでないことを証明すればいいんです。しかも公の場で」と池田名誉会長の証人喚問が必要だといったようなコメントなどが、やたら週刊誌に出ています。 岡庭 すべての記事の原則ですが、まず最初に、「これこれこういうときに、これだけのカネが流れた」と、きちんと証拠を出して話さなければいけない。この当然のことが、反学会記事には適用されない。ウラどりという常識をまったくせずに、「違うと言うならおまえが証明しろ」とは、どうも無茶ですね。  佐藤友之氏のような冤罪に取り組むライターは、かねて日本に民主主義が不在の結果、被害者である冤罪の「被疑者」が自分で無罪を証明しなければならない点を批判しています。日本の問題点として、そういうおかしなことがある。  日本には冤罪事件が多く、しかも冤罪だということが証明されるまで非常に長い年月がかかります。それはなぜか。日本では、身に覚えのない無実の罪を着せられた人は、無実だということを自分で証明する以外にないからです。場合によっては、自分で真犯人を突き止めるということまでしなければいけない。  しかし、これは根本的におかしな話です。本来は、捕まえたほうが証明しなければいけないのに、裁判のシステムや行政がそうなっていないというところに問題があるのです。  自分の卑しさを他人にも強要する  ――「〜かもしれない」というのも、週刊誌のよく使う手ですね。  『週刊現代』(九五年一一月一一日号)には「『創価学会政権』誕生で日本はこう変わる!」というタイトルで、「道徳向上が強調され、ヘアヌードやポルノは規制が激しくなるのかもしれない」と書いていたのには笑ってしまいました。  しかし、その後に「国家権力を総動員しての他宗叩きが始まらないとも限らない」とか、「軍拡に邁進する日本に変わる可能性がある」といった記事に至っては、そのあまりの無知と偏見にこちらが驚くほどです。 岡庭 まず「偏見」といいますが、そういう記事にはその「偏見」さえない、といったほうが正しいのかもしれませんよ。つまり、偏見のカケラでもあれば、学会の理念や哲学にもふれてそれを批判するでしょうが、そんなことはまずない。彼らは学会の理念などといったことはどうでもいい、まるで興味がないんです。  第一、もともと彼らの宗教観は希薄です。  あの橋本龍太郎首相が通産大臣のときですが、新進党の議員に「あなたの宗教は何か」と聞かれたことがある。そのときの閣僚は、橋本大臣をはじめ全員が「うちの宗教は……」という答え方をしていました。  本来、宗教は個人のもので、自分が何を信仰しているかということを聞いたはずなのに、彼らにとって宗教は「家の宗教」にすぎないんです。だから私にとって信仰とは、なんて自分に問い詰めたこともなく、ただ家がどんな宗派に属しているか、という程度の意識しかないと言えるでしょう。  つまり、彼らにとっては「宗教」とは「形式」であり、また「制度」でしかないんですよ。だから宗教が個人の内面を変革して、例えば世の中を良くしたいなんて考える人がいることは信じられない。学会の理念や哲学に無関心なのもむしろ当然というところです。  また、だからこそ彼らには、宗教の外面的な動きだけが気になる。しかもその行動を支える理念や哲学がまったく理解できない。しかし、「理解していない」ということさえ自分でわからないものだから、無茶なことを、取材も証明も抜きで書く。  ただ差別感だけを増幅したい、ということじゃないでしょうか。  ――だから「宗教ごとき」がデカい面するな、ということで、宗教法人法の改悪も強引にやってしまうということでしょうか。 岡庭 そうでしょう。「体制」の枠のなかにきちっと囲い込みたいんです。そうすれば、自分たちの宗教観にもピッタリおさまるわけですから。  宗教法人法の問題でいえば、もうひとつ大事なことがあります。  それは日本の官僚がなぜ権力を持ちえるのか、という問題ですが、それは彼らに「税金」と「許認可権」が与えられているからです。金を取り立て、許認可を与えるかどうかで、自分たちに国民をひざまずかせる。「税金」と「許認可権」というのはつまり「支配権」ということと同じです。  だから彼ら官僚には、これまでの「ノーサポート、ノーコントロール」などという宗教法人法が不愉快でしょうがなかった。この二つの支配権が宗教には及ばないからです。宗教だけは脅しがきかない。  まあ、目先の理由としては創価学会を叩き、新進党から勢力を殺ごうということでしょうが、その奥には、宗教を自分たちの支配下に置きたい、宗教を脅す手段を手に入れたい、という官僚の支配意識があると思います。  「宗教団体から税金を取らないなんて不公平だ」という意見は自由だが、こういう現実も踏まえておかなければならない。  ――それが官僚支配を強化し日本をますますダメにしていく元凶だということを、マスコミはちゃんと認識する必要があるようですね。しかし、最近の週刊誌はあまりにもひどい。自分が何を書いているのか、わかっているのでしょうか。 岡庭 ある雑誌に「学会員は、手弁当で選挙の応援をしている」と書いてありました。ところが、驚いたことに「批判」している記事なんですね。  「手弁当」というのは普通誉め言葉じゃないですか。それを非難する言葉として使う。私は驚きました。  きっと、人は金をもらわないと動かない、というのが彼らの「常識」らしい。損得でしか人は動かない、だから金ももらわずに選挙の応援をするなんておかしい、というわけです。池田名誉会長は権力欲の塊だ、とかいう論法も同じです。  人間なんて所詮、カネとセックスに弱いんだ。トップに座り続けるためには、すごい権力欲がなきや変だ。独裁者でなければ、こんなに長くトップの座に居続けることなどできるわけがない――などということを人間として当然のことのように語り、「ねえ、それが人間ってものでしょう」と同意を求める。  そういう、いかにもそれが当然めいたエセ・リアリズム、卑しいことがリアリズムだという語り口は、結局、彼らが、いかに人間として卑しいか、ということを証明するだけです。  もともと「民」は「官」に従うことが当然とされてきた日本では、自我の確立といった問題がなおざりにされてきました。個人が理想を求め、自分の判断でそのために行動する、といったことが少なかったのです。理想主義や、理念に生きるといった伝統がなかったということです。  だから、理想や理念を持っている者に対しては、必ず「卑しい話」で叩く。理想をかざすなんてどうもうさん臭いヤツだ、大人がカネもらわなきゃどうするんだよ、もっと大人の話をしようよ、本当は違うんだろう、本音はこうなんだろう、というわけですね。  人間は常にそういう「リアリズム」の次元だけに生きているわけではない。  理想を捨てた損得勘定優先の日本に未来はない  ――宗教法人法「改正」問題についてなんですが、まだ同「改正」法案が国会を通る前の『週刊現代』(九五年九月三〇日号)に「橋本自民党が仕掛ける『創価学会殲滅作戦』」というおどろおどろしいタイトルの記事が出ています。  その記事では、法「改正」の狙いが自民党による創価学会潰しにあることを明確にしたうえで、「及び腰」の自民党をけしかけて「はたして自民党が、ストップ・ザ・創価学会といくか、学会の“力”の前に屈するか。死闘はいま始まったばかりだ」と、まるでプロレスでも観戦するかのような記事を載せています。  まったくあきれ果てた記事で唖然とします。 岡庭 基本的に民主主義を大事にするという前提がない。憲法感覚がない。自民党や政府与党が、国会という公の場を利用して、一宗教団体だけを狙い撃ちにした法案を強引に通そうとしている。しかも強行推進派の自民党議員には、それを公言してはばからない者までいるんです。それがマスコミには、どういうことなのかまったくわからないらしい。  自民党では次に、宗教法人の政治活動を禁止する法案までつくろうとしていると報道されている。  法律とは、国民の安全や幸福を守るためにつくるものです。なのに、それを自分たちが気に入らない団体を潰すためだけに法律をつくろうとしています。  本来これは、法案論議以前の問題ではないでしょうか。なのに大多数のマスコミは、新聞もテレビも含めて、そのことにはなんのコメントもしません。ただ、「だれがこう言った」だのという、事実だけを報道してよしとしている。  問題は、関係者の利害ではない。社会の基本であるべき憲法の問題になっている。  ――地方紙などでは、宗教法人法の「改正」について、憲法や信教の自由などを守る立場から、反対の社説を掲げたところのほうが多かったようですね。  地方紙はまだ中央の権力に与していないだけあって、それだけ冷静に物事を見つめる目があった、ということでしょうか(笑)。 岡庭 おそらく、物事を筋道立てて考えても一銭の得にもならない、という風潮が一般的なのでしょう。  しかし、損得勘定を優先させる思考パターンは、日本経済の高度成長を支えもしましたが、その後のバブル経済やその崩壊、さらには住専問題を引き起こした主原因にもなっているわけです。アジアの人たちが「日本はおカネがあるからみんな幸せなんだと思って来てみたら、みんな暗い顔をしている」と言って驚いています。  今だって、経済状況が回復してきたなんて言っていますが、失業率は戦後最高だし、大手企業の中堅幹部でもいつクビを切られるかと戦々恐々としているし、いい大学を卒業しても就職するのも並大抵のことじゃない。  企業戦士だのと言われて、ただ猛烈に儲けることが最大の価値になってしまった。その挙げ句に人々は、儲けているのは大企業と銀行だけで、自分じゃないことに気付かされたのです。先ほど、日本には理想主義がないと言いましたが、しかしそれにしても日本の社会や教育は、本当に社会のために役立つ人間を育てようとはしてこなかった。その結果がこれです。  それに、権力を握る者たちもマスコミも、自分に理想などないものだから、理想をかかげて行動する人々を邪心で見て、必死で叩こうとする。理想が消えて、残るのは損得勘定だけ、といのではあまりにも情けないし、そこには未来などあるはずがないのです。  日本人はニヒリズムに陥っています。こういうときだからこそ、よりいっそう理想をかかげて行動することが重要になってくるのだと、私は思います。  ――では、時間も来ましたようですので、今回はこれくらいで……。本日はどうもありがとうございました。 あとがき  この本の校了直前に「私は池田大作にレイプされた」(『週刊新潮』九六年二月二二日号)という記事が出た。あまりの記事のデタラメさに創価学会本部もすぐに『週刊新潮』に厳重抗議した。  当然であろう。だれかに強要されているのかと思えるほどの偏った内容に、マスコミ関係者でなくとも、「根拠も示さずに一方的にこんなことを言って大丈夫なのか?」と不安を感じるほどの内容である。  「告白という形であれば、どんな悪口を言ってもかまわない」ということはない。むしろ、逆である。告白という一方的な内容であればあるほど、証言が事実かどうか慎重に確認し、そのうえで掲載するのが、マスコミの姿勢である。それもせずに、ただ一方的な悪口のみを載せるのは、怪文書と同じである。  この脱会者である北海道の元婦入部幹部の告白も、三回にわたって創価学会の名誉会長から暴行を受けたと言っているが、その第一回目の暴行については、当時、責任者だった斉藤順子現総合婦人部長が「3階の担当は私ともうひとりの方で彼女はそこにはおりませんでした。」と断言している。二回目の暴行についても、実妹の丸山文子さんが証言している。「暴行現場とされるプレハブ(仮設)の『喫茶ロワール』はその年にはすでにありません。しかも、当時は姉と私はずっと一緒でしたからよく知っていますが、そんな事実はありません。この発言はウソです」と。三回目についても、当日、彼女を車に乗せて会場に運んだ婦人部員がおり、この記事がすべてウソと捏造であることが明らかになった。  事実を確認もせずに報道するから、掲載した直後にウソが発覚する。北海道室蘭での「大石寺僧侶を衝突死させた創価学会幹部」、東村山市議転落死に続いて、『週刊新潮』は、もう一つのウソ記事を追加した。                                      著 者 1996年3月3日初 版 1996年5月10日第3刷