実録小説 大石寺・大坊物語 目 次 プロローグ 第1章 出家得度 第2章 大坊の掟 第3章 信伏随従 第4章 大奥の秘密 第5章 唱題禁止令 第6章 大学科の失敗 第7章 師弟相対 終 章 阿部家の血脈 あとがき プロローグ  ゆるやかな風が小さな音をたてて杉の葉を揺らしている。東京では聞くことができない自然のささやきが木の間をくぐり抜けて広がっていく。富士の麓の八月も夏の暑さを感じさせるが、木陰のひんやりとした涼しさと静けさは、やはり都会にはないものである。  山辺と神田は、大客殿の東側にある日興上人(第二祖)お手植えの子持ち杉を見上げていた。二人は平成二年度の行学講習会に参加するために本山の大石寺に来ていた。  子持ち杉は目高(人の目の高さの幹の部分)から上が伐採されていたが、その直径二メートルを超える幹の太さから、数十メートルはあっただろう在りし日の堂々たる姿が容易に想像できた。  「昔は、七、八メートルの所で数本の枝に別れていたので、子持ち杉と呼ばれていたそうですね」  神田は伐採された子持ち杉の古い傷跡に軽く手を触れながら続けた。  「本当に日興上人のお手植えならば樹齢七百年になるわけですが、達師(66世・日達法主)の時代に木の梢の枯れが目立ち始めたらしいです。そうなると強風で倒れることもあるそうで……。それで、達師が専門家を招いて、立ち枯れしないように努力されたそうですが。結局、木を守るためには、ここから上を伐採するしかなかったわけですね」  その伐採された部分から少し下にある切り株から挿し木された若枝が四、五メートルほどの長さにまで伸びている。  「見かけではわからないけれど、この挿し木というのは大変な労力が必要らしいね」  「ええ。まず、伐採前の子持ち杉から枝の穂を採取して、それを今度は林木育種場というところに委託して苗木に育ててもらったそうです。その苗木が育つのに三年ほどかかったとか……」  「それから、その苗木を挿し木にするのだから、並大抵の仕事ではないね」  山辺は自然の持つ生命力に強く心を動かされたが、それを支えた人たちの熱意にも感銘していた。  「専門家の話では、杉というのは非常に生命力が強いらしいです。特に根の力が強く、きちんと挿し木すれば何代も続いて、同じ木が何千年も生き続けるらしいです」  「この子持ち杉は静岡県の天然記念物に指定されているんだよね。それが何千年も続くわけだ。まさに、大聖人の仏法の繁栄を象徴しているようだ」  「本当にそうですね。そのためにも、大石寺の小僧たちがこの苗木のように育てばいいのですが……」  神田が途端に暗い表情を見せた。山辺と神田がさきほどまで話題にしていたのは、本山の所化教育の問題であった。二人は同じ大学の先輩と後輩であったため、いつも宗門の問題について忌憚無く意見を交換していた。平成になって、宗内では反創価学会の言動をとる僧侶が増えていた。また、山辺らのように学会出身の青年得度に対して「お前たちはどっちにつくんだ。本山か、学会か?」とあからさまに言ってくる者もいた。  「この若枝のように、子供たちには無限の可能性が秘められている。でも、問題はその子どもたちをどうやって教育するかだと思う」  山辺はそう言いながら、同じ寺に在勤している堀越のことを思い出していた。彼は小学校を卒業した年に得度する年分得度だったが、僧侶の子息、いわゆる寺族ではなく、学会出身だった。その彼が山辺に「僕の信心は小学校六年生で止まっているんです」と告白したことがあった。  しかし、堀越は各学年二十数名から一名だけ選ばれる「大奥番」(法主の秘書係)に抜擢された、いわゆるエリートであった。そのエリートである彼がなぜ、小学校六年生で信心が止まっていると言うのか? その時の堀越の話が、山辺の耳朶から離れない。  創価学会には小学生が対象の「少年部」がある。彼は、少年部で地元の合唱団に所属していた。合唱の練習は、時にはとても厳しく、担当の学会幹部から唱題をしていこうと励まされ、真剣に唱題を積み重ねて練習にのぞんだという。彼はその頃の合唱のテープを宝物のように大切にしていて、時々、それを隠れるようにして聞いていた。それを山辺に見られて、彼は恥ずかしそうに告白したのだった。  「その合唱の練習を通して、徹底して信心を叩き込まれたんです。だから、落ち込んだ時に、このテープを聴くと、やる気が出てくるんです」  彼は遠い昔のことを懐かしむように言っていた。  「あの時が僕の信心のピークでした。だから、僕の信心は小学校六年生で止まっているんです」と、彼はうつろな目でそう繰り返していた。  奥番に選ばれ、法主の身の回りのことをしながら、本山で六年間過ごしたが、信心は一歩も進んでいない――。同じく学会出身である青年得度の山辺には、彼の言わんとしていることが、すぐに理解できた。なぜなら、彼も得度してから自分の信心が進んでいるとは思えなかったからである。それどころか、日に日に信心を失っているのではないかという不安を胸に抱えていた。  「人を教育するには知識も必要ですよね。学衆課の教師たちは児童心理学も知らないし、そういう知識が必要とは考えていない。何よりも小僧たちを立派に育てようという熱意を持っているとはとても思えない。分からなければ、殴ればいいと思っている。彼らに子どもを教育する資格などないですよ」  神田の言葉に山辺もうなずいた。  「あの子どもたちが正しい教育を受けていれば、宗門も変わっていたに違いない。あの子たちこそ、宗門の犠牲者かもしれない」  「今の彼らのやり方は苗を育てるどころか、手間の掛かる苗なら必要ないと言って平気で潰すようなものです。そんな考えを持った者ならば、この杉の木を育てる面倒を嫌って切り落としてしまうかも知れない……」  山辺と神田は悲壮な顔で子持ち杉を見上げた。  ――この老木は七百年に及ぶ宗門の歴史をつぶさに見てきたに違いない。今のこの宗門を見て、何と思うであろうか――。  大石寺は古くは富士門流、日興門流などと称していたが、明治時代になり、新政府のもとで教団の統合がなされ、一八七六年(明治九)に日興上人の流れを汲む富士五山(上条大石寺・重須本門寺・西山本門寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺)を初め、保田妙本寺・京都要法寺・讃岐本門寺等が合同して日蓮宗興門派として独立した。その後、一八九九年(明治三十二)に興門派は本門宗と改称したが、翌年九月に大石寺はこの本門宗より離脱して日蓮宗富士派と称した。さらに一九一二年(明治四十五)六月に富士派を日蓮正宗と改称して今日に至っている。  明治三十七年の内務省の調査によると、当時の日蓮宗各派の実勢は以下のようになる。まず、最大規模の日蓮宗は寺院数が三六八五、住職数が二九六五。それに続いて、顕本法華宗は寺院数が五六六、住職数が三三七。本門法華宗は寺院数が三一六、住職数が二二六。その後に、本門宗、法華宗と続き、富士派(大石寺)は寺院数が八十七、住職数が四十七である。日蓮宗の信徒数は約一〇八万人であるのに対し、富士派は二万八千人程度である。戦後に創価学会が誕生し、八百万信徒の日本最大の宗門となるが、平成三年十一月に創価学会を破門し、日蓮正宗の信徒は激減し、いっきに富士派の時代に戻るのである。  創価学会の急激な発展とは対照的に、大石寺の僧侶の世界は二十一世紀になっても、まるで江戸時代さながらであった。法主との面会を「目通り」、法主の住む場所を「大奥」と称し、僧侶は法主を「御前様」と呼ぶ。所化小僧は大奥の対面所での目通りの際、額を畳にこすりつけるような伏拝を行い、法主が「顔をあげろ」というまで顔を上げてはならない。  山辺は子持ち杉を見上げながら、この数年間に自分が見てきた宗門の異様な世界を振り返っていた。この七年後、平成九年にこの老木は日顕によって切り倒される。それは、宗門が自らの手で富士の清流を断ち切った、象徴的な行為であった。 第1章 出家得度  二月の大石寺の風景は寒々としていた。登山会がないから人気がなくて寂しいというだけではない。山門から見える塔中のたたずまいは古めかしく、まるで新参者を拒むように立ち並んでいる。  参詣登山で何度も訪れているはずなのに、その日の大石寺はまるで違う世界のように感じられた。富士の頂から降りてくる冷風は肌を刺すように痛く、冷たく光る石畳のせいで余計に寒さが増したように感じて、藤川は身震いをしながら山門をくぐった。  その日は「一般得度」の試験日であった。「年分得度」の試験はすでに終わっていた。年分得度は、その年に小学校を卒業する者が対象になる。三十名前後の子どもたちが合格するが、その大半は僧侶の子どもであった。彼らは「僧侶の子どもだから」という理由だけで僧侶になる。いや、正確には親の意志により得度させられる者がほとんどである。  それに対して、一般得度は「青年得度」とも呼ばれ、十八歳以上が対象になる。その中には、年分得度に落ちた者の再挑戦や一度還俗した者の復帰のチャンスも含まれていた。  得度するために必要な資格はたった一つ、「入信十年以上」であった。それも場合によっては身元引受人となる末寺の住職の裁量によってどうにでもなるのだから、資格はないに等しいともいえる。  藤川は入信してまだ八年目であったが、手続きをした寺の住職の口利きで受験資格を手に入れた。彼は大学を卒業し、ある企業で働いていたが、創価学会に入会して日蓮大聖人の仏法に出会い、その深い哲学性に感銘した。そして、いつしか彼は、世俗を離れてもっと純粋に信仰に励んでみたいと思うようになり、妻の理解を得て、得度を決意した。  大化城で事前の説明会が行われた。その年は、約三十名近くの者が得度試験を受けた。彼は信心強盛な者が日本中から集まって来るものと勝手に思い込んでいたので、その受験者の姿を見て内心驚いていた。  まずスーツ、いわゆる正装をしている者が半数くらいで、あとの半数は普段着に近い服装をしていた。作業着の者も何人かいた。藤川が違和感を覚えたのは彼らの外見だけではなく、その場の雰囲気であった。「出家」という厳かな言葉とかけ離れた、何とも言えない緊張感のない空気が流れていたのである。  受験者は三々五々に散らばって雑談していたが、ある四、五人のグループの会話が藤川の耳に聞こえてきた。彼らは、得度の動機について語り合っていた。  「何で出家するかって? 決まっているだろう。生活のためさ」  厚手のセーターを着た五十代と思われる男が、あぐらをかいた足を上下に揺すりながら話している。  「あんたも正直だね。確かに、坊さんになれば安定した生活が手に入るもんな」  向かい側に座っている男の顔は見えないが、皺のよったジャケットを着た背中が丸くなっている。  「俺の地域の住職の生活を知っているか? 一度、庫裏の中に入って驚いたよ。見たこともない高価な家具でぎっしりさ」  セーターの男は少し声を下げながら続けると、その横に座っている男が割り込むように身体を前に傾けて話しはじめた。  「俺がよく行く店のホステスが何と言っていると思う。不況に強いのは坊主と医者だとさ」  その男が得意げに話すと、ジャケットの男が大きくうなずきながら言葉を続けた。  「坊主と乞食は三日やったら、やめられないってか」  「そりゃあ、そうさ。お経さえできれば、黙ってても供養が入るし、いい車にも乗れるんだからな」  セーターの男はそう言いながら、下卑た笑いを顔に浮かべた。  藤川は彼らのあからさまな話を聞いて呆れていた。しかし、得度希望者の中には彼が想像もしていない、屈折した理由から出家を考えている者がいることを彼はまだ知らなかった。「屈折した理由」とは、創価学会の中で認められず、学会の幹部を見返すために出家するという意味である。実際に、幹部に怨嫉を繰り返していたある会員は得度試験に受かり、「私が僧侶になったら、私のことを『先生』と呼ぶんですよ」と、鼻高々に周りの学会員に言っていた。  正午過ぎから、まず説明会が行われたが、その最中に、作業着を着た中年の壮年がさかんに手を上げて、同じ質問を何度も繰り返していた。その質問とは「私はお経が覚えられないけれど、僧侶になれますか?」というものだった。  それに対して担当の僧侶は「お経を覚えられるようになってから、また来てくださいね」と同じように何度も答えていた。その壮年は最後には質問をするのをあきらめたが、納得できない顔で、「また仕事を探さなきゃ」とグチをこぼした。  藤川は一瞬、自分が職業安定所にいるような錯覚におちいった。  説明会の後、医薬坊で簡単な身体検査を終え、午後二時から宗務院の会議室で試験が行われた。内容は小論文と筆記試験であった。その年の小論文の課題は「僧侶の使命について」だった。  筆記試験があることは事前にわかっていたので、藤川はそれなりに準備はしていたが、実際に試験を受け、戸惑いを覚えた。なぜなら、あまりにも簡単な問題ばかりが並んでいたからである。  大聖人が受けた法難名と年代を線で結ぶ問題や、「九横の大難」の「九横」に「よみがな」をふる問題など、創価学会で行われる任用試験とは比べようもない初歩的な問題ばかりである。おそらく受験者のレベルに合わせたものなのだろうが、それは同時に長年の受験者の、質の問題を象徴しているようにも思えた。  小論文で藤川は広宣流布における僧侶の役割を、自分の決意を込めて書き綴った。「いよいよ世界広宣流布の時に、僧俗和合のため、僧侶として自分の一生を捧げていく決意です」と書いた後に、末寺の住職に言われた通り、「御法主上人猊下に信伏随従して参ります」と書いて筆をおいた。地元の住職から、“宗門ではこの最後の一言が必須である”と言われていた。  得度試験は一泊二日で行われ、受験者は翌日、早朝五時四十五分に起床し、六壺の朝の勤行に参加する。六壺の勤行には本山にいる中学一年生から高校三年生までがそろう。受験者は荘厳な本山の勤行に参加するということで、緊張した面持ちで六壺に向かった。しかし、その勤行の様子は受験者の想像を絶するものであった。これは決して大げさな表現ではない。彼らは、まさか、本山の勤行で暴力が行われるなどということは微塵も想像していなかったのだから。  六壺では御本尊に向かって、中学一年生を先頭に小僧たちが一列に約二十名ずつ座っていた。はじめは普通の勤行のようであったが、勤行が始まって少したつと、大人の僧侶がその学生たちの周りを巡回し始めた。その様子は禅宗の座禅のようである。そのうち、小僧の周りを回っている大人の僧侶たちが数人の子どもたちに注意を与え始めた。居眠りを始めた中学生を叱責しているようであったが、それは単に注意するというレベルを超えていた。  拳骨で子どもの頭を殴る。殴られた子どもが床にバタッと大きな音をたてて倒れた。中には、数珠で子どもの頭を叩く者もいた。叩かれた子どもはあまりの痛さに頭を抱えてうずくまっている。殴るだけではない。小僧の白衣の襟首をつかんで畳の上を引きずる者もいた。年端もいかない小さな子どもたちが、右に左に飛ばされる。参加した得度受験者たちは、呆気にとられて勤行どころではなくなっていた。  御本尊の前で大人の僧侶が小さな子どもに暴力をふるう光景は異様であった。仏教は非暴力を説くものである。暴力を止める立場にある僧侶が暴力をふるう。矛盾に満ちた信じ難い光景が受験者の目の前で繰り広げられた。  藤川は、こんなに簡単に人が殴られるのを見たのは初めてであった。映画やテレビの世界でしか見ないような非現実的な光景である。それが太鼓の音をバックにまさに映画のフィルムが流れるように続いている。  六壺に低く響き渡る太鼓の音が止まり、勤行が終わった。受験者は皆、青い顔をしたまま、無言であった。得度すると、自分たちも同じような暴力を毎日受けるのか。そういう恐怖で顔がひきつっていた。  勤行が終わったとたん、一人の壮年がその場から姿を消していた。しばらくして戻って来たその壮年が、六壺を出て大化城に向かおうとしていた藤川とその横にいる数人に向かって言った。  「妻に電話をして、得度を断念したことを告げました。あんな暴力に私は耐えられませんから……」  藤川たちは言うべき言葉が見つからず、ただうなずいて、去っていく壮年の背を見送るだけだった。  午後から中会議室を使って面接試験が行われた。  面接の時間は人によってまちまちだった。やがて藤川の順番になり、彼は緊張しながら、会議室のドアを開けた。目の前には、総監、庶務部長、教学部長、海外部長などの役僧がずらりと並んでいた。  初めの質問は「なぜ、君は僧侶になりたいのか?」だった。  藤川は緊張で汗をかいている両手を膝の上で握りしめながら答えた。  「はい、広宣流布のためです」  すると、彼の履歴書を手にしていた教学部長がメガネの奥から冷たい視線を彼に送りながら言った。  「君ねえ。その前にやることがあるんじゃないか。両親はまだ信心していないんだろう?」  「は、はい。まだしていませんが、必ず折伏するつもりです」  「それにだ。僧侶にとって大事なことは令法久住であって、広宣流布ではない」  その声には少しの温かみもなく、まるで突き放すような言い方で、藤川は何も言えなくなってしまった。  令法久住を書きくだすと「法をして久しく住せしめん」となる。意味は「未来永遠にわたって妙法が伝えられていくようにすること」である。  もちろん、藤川はその言葉の意味は知っていたが、彼は仏法の目的は仏法を広く流布させる「広宣流布」であり、「令法久住」もそのためのものであると理解していた。しかし、宗門の中では、布教である「広宣流布」は在家の役目であり、法を護る「令法久住」は僧侶の役目であると、立て分けられていたのである。  「まあいい。では、君の尊敬する人物は?」  周りの役僧よりも一回り小柄な総監が無表情に質問した。  「は、はい。御法主上人猊下です」  藤川は顔を上げ、総監に向かって答えた。この質問にはそう答えるように末寺の住職に念を押されていた。  「よろしい。得度すれば、君は猊下の弟子になるんだからな」  総監の言葉には人を疑っているような響きがあった。  この質問は受験者を振り分けることが目的だった。もし、尊敬する人を「池田名誉会長」と答えたならば、その受験者は「学会色が強い」というレッテルを貼られることになる。  他にも大学での専攻や現在の仕事の内容なども聞かれたが、彼は「僧侶の役割は令法久住である」と言われたことが頭から離れなかった。「布教を放棄した僧侶に如何なる価値があるのか?」。この素朴な疑問を抱えたまま、藤川は面接を終え、一礼して会議室をでた。  次に面接を受けたのは須藤という二十三歳の青年だった。彼は寺の息子、いわゆる寺族である。彼に対する初めの質問は「なぜ、年分得度試験を受けなかったのか?」だった。  「はい、子供の頃は身体が弱くて……。でも今は健康になり、ご奉公の誠を尽くしたいと思っております」  須藤は殊勝に答えたが、実はウソであった。  彼は動作がのろく気弱な子供であったため、学校でもよくいじめられた。両親は「この子を本山に出しても周りについて行けず、脱落するのではないか」と心配して年分得度試験を受けさせなかったのである。「還俗でもしたら大変なことになる。自分も大恥をかいてしまう」――住職の心配はそこにあった。  須藤は一浪して都内の大学に進学したが、卒業を控え、就職で悩んだ。人よりワンテンポ遅れる彼の性格は変わっておらず、父親である住職は、何不自由なく育った我が子が、厳しい競争が強いられる一般社会で生き残ることは難しいと判断した。  そして須藤は父親から「世間で生きていくのは大変だ。僧侶になれば楽だから」と言われ、自分でもそう思い、得度することを決めたのだった。  須藤の面接は短かった。寺族である彼はいわば、宗門の側にいる人間である。身元は確かである。あとは本人のやる気次第だった。  須藤は「ご奉公のため」と恭順を示す言葉を何度も繰り返し、役僧たちの好印象を得て、面接は終わった。  二日間にわたった試験を終え、藤川は自宅に戻ったが、一抹の不安が胸に燻っていた。その不安の正体は何か。彼は唱題しながら冷静に考えた。その不安は試験の合否ではなく、一種の戸惑いであることに彼は気がついた。もちろん、得度してこの身を仏法のために捧げたいという決意は変わらなかった。しかし、自分が垣間見た本山の様子を思い出し、想像していた出家の世界と違ったことが彼を不安にしていたのだ。  自分が得度することが本当に自分の使命なのであろうか。「僧侶の使命は広宣流布ではない、令法久住である」と、面接で言われたこの一言が彼の脳裏から離れなかった。  縁あって、自分は創価学会に入会した。そして大聖人の仏法の素晴らしさに感銘し、広宣流布にこの身を捧げたいと思うようになった。その思いはどんどん強くなり、やがて「出家」という次元にまでいたった。しかし、得度の面接試験で「僧侶は広宣流布ではない」と頭から自分の真剣な決意を否定されたのだ。そして、六壺で見たあの信じ難い、暴力の光景。「いったい、どういうことなのか。本当にそれが大聖人の教えなのであろうか」――考えれば考えるほど、彼の頭は混乱した。  「祈るしかない。得度することが自分の使命なら受かるだろう。しかし、もし、自分の使命が他にあるなら落ちるに違いない」  彼は唱題に励み、そう結論した。そして、その数日後、末寺の住職から「合格した」との電話を受けとった。  三月二十八日、本山で得度式が行われた。得度式は大客殿で行われ、一人ずつ法主の前に進み出て、剃髪した頭の上にシキミの葉を一枚置き、法主がそのシキミの葉を払う。剃髪を模した儀式である。  藤川は初めて間近で法主・日顕を見た。それまでは、御開扉で遠くからしか見たことがない。日顕の険しい表情を一瞬目にし、「この人が自分の師となるのか」と感慨深い気持ちになったが、その気持ちもすぐに得度式の緊張感に覆われてしまった。  得度式が終わり、彼は自分の道号が書かれた札を手に、「いよいよ自分の新たな人生の始まりである」と自分を奮いたたせた。  得度すると法主から「法名」として「道号」をもらう。阿部日顕の法主になる以前の道号は「信雄」である。年分得度は「信」の一字をもらい「信○」となり、一般得度は「雄」をつけて「雄○」となった。  一般得度者は年分得度者と同じように、大石寺の大坊の中にある寮に住むことになる。一部屋二名の部屋であった。入り口の近くに机が二つ、壁に向かって横に並び、その奥に六畳ほどの和室がある。  藤川の同期は全部で十二名であった。その中には、寺族出身の須藤もいた。須藤と同部屋になったのは、森嶋という学会出身の青年であった。その森嶋が食堂に集まっていた他の同期たちにため息をつきながら言った。  「須藤君は勤行ができないんだよ」  「そんな馬鹿な」  その場にいた同期生は驚いて声をあげた。  須藤は照れくさそうに「そんなに驚かないでくださいよ」と頭をかいた。すると、誰かが「じゃあ、学生時代、下宿に御本尊は?」と聞くと、「ありませんでした」と素直に答える彼に、同期生たちは信じられない思いで彼の顔をまじまじと見つめた。  彼は同期生のリアクションに怪訝な顔をして、「だって勤行しろと言われたこともないし、父親も信者さんが来ない日はしないし……、母親もしないし……」と弁解を始めた。  後に、彼が御書(日蓮大聖人の著作)を読んだことがないということも分かったが、「勤行もしたことないんだから、そりゃあ、御書も読んだことがないに決まっているだろう」と同期生は皆、妙に納得した。  結局、須藤は同室の森嶋から勤行を教わった。勤行が出来なくても、寺族であれば得度試験に合格するという事実は、藤川たちが知ることとなる宗門の秘密の中ではごく初歩の小さなものでしかなかった。 第2章 大坊の掟  日蓮正宗には「山法山規」というものがある。これは、成文化されておらず、本山に古くから残っている慣習から出来ている不文律である。その中に、「新発意(新しく仏門に入る者のこと)は三日間、客として扱うこと」というのがある。この慣習にのっとり、四月から入山した一般得度者と年分得度者は三日間、何もせずに本山で過ごす。彼らが寝起きする場所が「大坊」である。  客分といえば聞こえはいいが、彼らは、何もしないことほど不気味なことはないと初日に思い知らされる。特に、年分得度の中学一年生にとっては恐怖の三日間となる。  この三日間、彼ら中学一年生は、一つ上の中学二年生が上級生にあごで使われ、その先輩の一言一言に「はい!」と異様に大きな声で答え、どんな遠くからでも全速力でその先輩のもとに走り寄る姿を目の当たりにする。そして、四日目から、そのすべてが自分の身の上に起こることと予感し、恐怖で小さな身体を震わせるのである。  上級生たちは「中一」(中学一年生)の身体を舐めまわすような視線を送る。しかも、その口元には不気味な笑みを浮かべている。まるで、逃げられない獲物をわざと自由にして恐怖を植え付け、もてあそんでいるように見える。  「これから僕はどうなるんだろう?」  お父さんのせいだ――年分得度の横山は父親が恨めしかった。本当は、お坊さんになんかなりたくなかったのに。どうして、僕はお寺に生まれなければならなかったんだ。普通の家に生まれていれば、こんな所に来なかったのに。お母さんが普通の人と結婚すれば良かったんだ。彼は心の中で何度も同じことをつぶやき、ついこの間まで一緒に遊んでいた友だちの顔を思い浮かべ、心細さで目に涙がにじんでいた。  客分扱いの三日間は三日目の夜に終わった。その夜、横山たち中一は早速、「集合」と呼ばれるいじめの洗礼を受けた。その集合の理由は単なる言いがかりである。「返事が小さい」「目付きが悪い」「挨拶の仕方が悪い」など、思いつくものであれば何でも「集合」の理由になった。  食堂で行われる夜の九時の点呼が終わった後、中一は全員「娯楽室」に集められた。そこは学生たちが音楽などを聴ける唯一の場所である。中一は後ろの壁際に正座させられ、中二(中学二年生)の先輩たちがその前をゆっくり歩いていく。中一の顔は恐怖で青ざめている。  「いいか。これから俺たちが言うことをしっかり、頭に叩き込むんだぞ!」  中二(中学二年生)の一人が声をあらげた。  「わかってるのか!」  「はい!」  「声が小さい!」  「はい!」  中一は必死に叫ぶように返事をする。  「いいか、絶対に廊下の真ん中を歩くなよ!」  「はい!」  「先輩さんが来たら、立ち止まってちゃんと挨拶するんだぞ!」  「はい!」  中二は優越感で顔に薄笑いを浮かべている。去年、一年間、さんざん先輩たちからヤラレたことをやり返すことができるからだ。  「先輩から呼ばれた時は全力疾走すること!」  「はい!」  「もたもた歩いてんじゃねえぞ!」  「はい!」  「食堂で先輩の話を聞く時は、立ったまま聞かない。必ず、しゃがんで聞くこと。いいか!」  「はい!」  「声が小さい!」  「はい!」 中一たちは半ベソをかきながら、叫んだ。  “しっかり締めないと、今度は自分たちが先輩から集合をかけられる”と、中二は先輩の目を気にしながら、中一に気合を入れていた。それでも時には「集合のやり方がなまぬるい」と中三から集合をかけられる。終わりのない制裁ゲームである。  この「集合」はしばしば、抜き打ちのように行われた。ある日、夜更けまでの集合があり、中学一年生はノドから血が出んばかりの大きな声で返事をさせられた。翌朝、日顕から「寝られないじゃないか。大奥まで聞こえて、うるさい」と苦情が出た。それは法主の御指南として学衆課に伝えられ、学衆課の僧侶は中学二年生を集めて、「大声で返事をさせるな!」と叱りつけた。しかし、学衆課が集合それ自体を止めさせることはなかった。集団生活の規律の一部として、学衆課はいじめを黙認していたのである。  中二の役目は大坊での注意事項を中一に教えることだ。朝起きて何をしなければならないか、先輩から教えられたことを中一は必死の思いで記憶していく。十日番の者は朝の勤行の際、先に六壺に行って、先輩の脱いだ草履をそろえなければならない。だから遅刻は許されない。また、食当(食事当番)の者は勤行が終わったらすぐに食事の用意のために食堂に走らなければならない。寮の掃除当番の中一は各部署の掃除道具を真っ先に運ばなければならない。  中二から大坊の規則の説明が終わった後に、数名の中三が中一の前に仁王立ちになった。そのうちの一人が中一が背にしている白い壁を指さした。  「いいか! お前たち! この壁を見ろ!」  中一たちは“一体、これから何が起こるのか”と固唾を呑んで、背にした壁を振り返りながら見つめた。  「これは何色だ?」  「し、白です」  中一の何人かが恐る恐る答えた。  「そうだ、白だ。だが……」  そう言いながら、その中三が右手を大きく振りかぶった。そして次の瞬間、その振りかぶった手を勢いよく振り下ろし、人差し指で壁を突くようにしてさした。  「もし、猊下がこれを“黒だ”と言えば、黒だ!」  中三の声が一段と大きくなった。有無を言わさない鋭い声だ。中一たちは一瞬、意味がわからず、ポカンと口を開けている者もいた。  「もう一度言うぞ。たとえ“白”でも、猊下が“黒”と言えば、黒だ。わかったか!」  「は、はい」  中一たちにはどういう意味なのか、よくわからなかった。なぜ、白が黒になるのか。何の説明もない。明らかに矛盾している論理だ。その中三は、自分も得度三日目で先輩から同じことを言われて強烈な印象を受けたことを思い出しながら、言葉を続けた。  「つまり、猊下の言葉は絶対だということだ。わかったか!」  「はい」  中一たちには考える余裕はなかった。ただ、先輩の言うことを“そういうものだ”と受け入れるしかない。  「声が小さい! わかったか!」  「はい!」  「いいか、大坊では先輩の言うことが絶対だ。絶対に逆らうな! わかったか!」  壁を指差した中三の横にいた一人が凄むように言った。  「はい!」  中一たちは足がしびれるのも忘れ、声をふり絞って「はい」を何度も繰り返すだけだった。  いよいよ中一たちの大坊生活が始まった。地獄の一日目を誰よりも早く迎えたのが、横山と吉田だった。番役は同じ部屋の者同士でやることになっている。二人の初めての番役は十日に一度の丑寅番だ。深夜二時、横山たちは白衣を着る。そして、緊張した面持ちで中二の先輩の後について部屋を出て、一夜番の住職が待つ内事部前の「茶の間」に集合した。各学年二人ずつの丑寅番の学生たちが全員がそろった段階で、薄暗い廊下を通って大奥に向かう。そして、大奥の階段の下で端座合掌をして日顕の“お出まし”を待つ。「端座合掌」とはしゃがんだ姿勢で合掌することをいう。大奥の対面所では畳に伏して合掌する。これが「伏拝」である。  日顕の“お出まし”を待つ間、横山たちは昼間に先輩から教えてもらった客殿までの道順を何度も頭の中で繰り返していた。  二時二十分、大奥のドアが開く音と「パタパタ」という日顕のスリッパの音が聞こえた。一気に学生たちに緊張が走る。  階段の上に待機していた御仲居と一夜番の住職の「おはようございます」との挨拶に「うん。おはよう」と日顕が答え、階段を降りて来る。御仲居は御講などの日には丑寅勤行に必ず出席するが、それ以外は出席しない。この日は新得度者のはじめての丑寅勤行なので出てきたのである。  その日の日顕は機嫌が良いように見えた。しかし、ここで安心してはいけない。日顕の“お供”という最初の難関が待ち構えている。  横山たちは練習通りに提灯を持って、日顕の先導を始めた。先導は青年得度の二人と中一の二人の計四人である。歩いている最中には決して、日顕の顔を見てはいけない。横目で日顕の歩くスピードをうかがい、その速さに合わせなければならない。  内事部に向かう長い廊下にさしかかった。ところが青年得度の歩くペースが少し早い。その瞬間、日顕の罵声が飛んだ。  「おい! きさま! そこのでかいの」  青年得度が驚いて立ち止まった。  「おまえだ! 早く歩きすぎるんだよ! 馬鹿野郎!」  青年得度は「は、はい!」と言って歩くペースを落としたが、動揺で提灯を持つ手が震えていた。  「この馬鹿小僧が! 気をつけろ!」  「ふふふ、小僧じゃないな、大僧だな。なあ、御仲居」  日顕が急に含み笑いをしながら言うと、「は、はい。そうですね」と御仲居が愛想笑いをしながら頭を下げている。  横山はショックを受けた。まさか、猊下が「貴様」とか「馬鹿野郎」などという言葉を使って、怒鳴るとは思ってもいなかったからだ。横山は父親が母親に「今の猊下は怒ったら怖い」と話しているのを聞いたことがあった。しかし、彼が想像していたのは学校の先生のように、理路整然と人を諭す厳しさだった。ところが目の前にいる猊下は自分が聞いたこともない汚い言葉で怒鳴っている。まるでやくざの親分みたいだと、横山は目を丸くしていた。  出仕太鼓の低い音が響く中、学生たちは怯えた表情で咳一つせずに日顕の後をついて客殿に向かう。日顕はときおり、御仲居に何か言い、そのたびに御仲居がおおげさに頭を下げながら答えている。  二時半ちょうど、日顕が鈴座に座った瞬間に出仕太鼓の最後の一打が大きく客殿に響いた。小僧たちは客殿の内陣に座り、合掌の姿勢を取る。客殿の座配は鈴座の日顕が東を向き、小僧たちと勤行に参加している信徒は御本尊に向かう。御本尊の両脇には日蓮大聖人と日興上人の御影が並び、三宝を顕す。すなわち、仏宝が日蓮大聖人、法宝が御本尊、僧宝が日興上人になる。法主は脇に控え、客分である信徒を三宝に取り次ぐという儀式である。そこには三宝と法主の立場の違い、そして三宝を格護しなければならないという歴代法主の役割がおのずと明らかになっている。  また、丑寅勤行とは法主が広宣流布成就を祈念する場であり、小僧たちはあくまでもそのお供であるから、一切、祈念してはならないと先輩から注意されていた。  日顕は丑寅勤行の間、ずっと東を向いているため、ちょうど目の前に小僧が見える。日顕は勤行の間、ひたすら小僧たちの様子を観察している。そして、丑寅勤行を終え、六壺で方便・自我偈の勤行の後、日顕はお供の小僧たちと大奥に戻る。  大奥の階段の前に着いた途端、日顕は小僧に向かって怒り始めた。小僧は全員しゃがみ込んで端座合掌をしている。  「お前は全然、口が動いていないじゃないか! 寝ていたんだろう!」  そう言いながら、日顕は中啓で中二の小僧の頭を叩き始める。「パン!」という大きな音が響いた。小僧は身を硬くしてうつむいている。  この「中啓」とは扇をたたんだ状態で、中ほどから末広がりに啓いて作られている扇を言う。中啓は室町時代に作られたと言われているが、宮中や公家が使い始め、次第に寺僧や武家に広まっていった。現在では、僧侶や神社の儀礼用扇として使われている。  日顕はこの中啓でいつも本山の小僧を叩く。所化小僧はこれを「中啓パンチ」と呼んでいたが、日顕はこれを自分で「中啓ミサイル」と名づけた。平成六年六月十六日に催された日恭法主五十回忌の目通りで、「私は丑寅勤行におかしな態度をしている所化小僧がいると、必ず怒るんだ。それでも言うことを聞かない奴は、この“中啓ミサイル”だ!」と言っている。  この日も日顕の中啓ミサイルが炸裂した。  「おい、こら! わかってるのか? 返事をしろ!」  その小僧は顔を上げて、「はい!」と答えた。すると日顕は「何で顔を上げるんだ!」と中啓でまた、その小僧の頭を叩く。日顕が許可するまで、小僧は顔を上げてはならない。勝手に顔を上げて日顕を見るのは恐れ多いことなのだ。  「この馬鹿小僧が!」そう言って、日顕は何度も中啓で小僧の頭を叩く。  「パン、パン、パン」と乾いた音が大奥の廊下にこだまする。  中啓ミサイルが終わったかと思うと、日顕は興奮した面持ちで、高校生の所化の方に歩み寄って怒鳴り始めた。小僧たちはしゃがんだまま、常に日顕に向かって合掌しなければならない。だから、日顕が左に動くと、全員、しゃがんで合掌したまま、左に身体を回す。  「今日の太鼓は誰だ!」  二人の高校生が「はい!」と答える。  「お前たちは、全然合ってないじゃないか!」  そう言って、日顕は二人の高校生の頭を交互に中啓で叩いた。  「おい、わかっているのか? こら!」  二人は下を向きながら神妙に「はい!」と答えているが、日顕は気がおさまらないというように中啓でまた叩き始め、「パン! パン!」と二回、大きな音が弾けた。  一瞬、なんとも言えない静けさが大奥の階段の下に広がった。小僧たちは恐怖で凍りついている。  「ふふふ、まあ、いい」  突然、豹変して日顕は含み笑いをした。一部始終を盗み見ていた横山は、その日顕の変わりように驚いた。「これが猊下なのか」  「ご苦労様」そう御仲居と一夜番の住職に告げて、日顕は階段を登っていく。小僧たちは端座しながら、その日顕に向かって合掌を続けている。  「バタン!」と、大奥のドアが閉まる音がして、ようやく小僧たちは立ち上がる。その後、小僧たちは茶の間に向かう。時々、そこで悲劇が起こる。茶の間で一年在勤の所化がイライラして小僧たちを待っていた。  大学を卒業した者は本山に一年間、“お礼奉公”のため在勤をする。出仕太鼓とマイク導師をするのがこの一年在勤の所化である。彼らは一年在勤を終えると晴れて「教師」となり、日蓮正宗の中で市民権を得ることができる。たとえば、在勤解除の前日まで「おい、○○」と呼び捨てにされていたのが、「○○師」と敬称付きに変わる。言い方を変えれば、「教師」になるまで、所化小僧は人間扱いされないのだ。  一年在勤の所化は気が短く、粗暴な者が多い。  「お前たちよ、ちゃんとしろよな。御前さんを怒らせて。下手をしたら、こっちまでとばっちりを受けるんだからな!」  マイク導師をしていた所化がわめいた。  「お前よ、太鼓ぐらい、ちゃんと叩けよ。たるんでんじゃねえぞ!」  そう言って、その所化が高校生の横腹に足蹴りを入れた。  「すいません」と言いながら、その高校生は横腹を押さえながらあやまっている。一夜番の住職もいつものことと知らぬ顔をしている。  最後に「おやすみなさいませ」と全員で一夜番の住職と一年在勤の所化に挨拶をして、ようやく小僧たちは開放された。ところが、寮に帰る廊下の途中で所化から足蹴りをされた高校生が「お前、俺が蹴られるのを見て笑ったな」と横山に難癖をつけ始めた。新発意の中一にぶざまな姿を見られた腹いせだった。ここで締めておかないと後でなめられると、考えたのだ。  「笑ってません」と横山は反論したが、それがかえって悪かった。「何! 口答えするな!」と高校生が凄んで、横山のみぞおちにパンチを入れた。「ううっ」とうなって、横山はその場でしゃがみ込んだ。  「おい、中二、ちゃんと教育しろよ」  そう、捨て台詞を残して、その高校生は立ち去った。横山は、みぞおちを押さえながら、痛みで涙が流れた。  「馬鹿だなあ。ああいう時は、何も言わずに謝るんだよ」  中二、中三の先輩たちはそう言いながら、去って行った。  「大丈夫?」と同室の吉田が心配をしている。横山は痛みを我慢して立ち上がり、うなずいて歩き始めた。  部屋に戻ってもまだ、みぞおちが痛んだ。丑寅勤行は朝の勤行を兼ねているので、丑寅番は食事の時まで寝ていてもいいことになっている。しかし、横山は布団に入っても、なかなか寝付けなかった。みぞおちの痛みはようやくおさまったが、「僕は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目にあうんだ」と、行き場のない悔しさが消えなかった。毎日、こんなことが続くのかと思うと憂鬱になり、また、涙が滲んで来た。  翌日、高校生の石田が横山の部屋へやって来た。横山はまた先輩から叱られるのかと身をすくめたが、そうではなかった。石田は「俺が中一の時はもっとひどかった」と自分の体験を教えてくれたのだ。  「ケツバットさ」  「ケツ、バット……ですか?」  「そう、金属バットで尻を叩くから“ケツバット”」  「えっ! き、金属バット!」  横山は金属バットと聞いて、身震いした。とても信じられない。  「そうさ。ひどい先輩がいたんだ。例えば、御開扉に一人が遅刻したら、連帯責任だと言って、中一全員、西寮の廊下に並ばされて、フルスイングでケツを叩かれるんだぞ」  「ふ、フルスイングですか?」  「そう、フルスイング。手加減なし」  「うわーっ、痛そうですね」  「あたりまえだろう、馬鹿!」  「す、すみません」  「目をつぶって我慢するんだけど、目の前に本当に火花が散るんだ」  横山は聞いているだけで背筋がふるえてきた。  「しばらくは、歩くだけでも痛いし、椅子に座るときなんか、死にそうな痛みさ」  「大人の人は何も言わないんですか?」  横山は、自分がいた学校でそんなことが起これば、PTAで大問題になると思って聞いた。  「知ってるけど、何も言わないのさ。それに、顔じゃないから、見た目じゃわからないからな。パンツを下ろせば、わかるけどな。青くあざになってるから」  「えーっ」。想像するだけで、恐怖で顔がゆがんでくる。  「あの……、僕らもされるんですか?」横山は恐る恐る、質問した。  「安心しな。去年、御前さんの孫が来てから、そんなことはできなくなったから」  横山は安堵で身体の力が抜けて、その場にしゃがみそうになった。そんな目にあうなら、本山を逃げ出すしかないと思ったからだ。  「俺たちが中一の頃は、娯楽室がなかったから、先輩の部屋に集合させられたんだ。態度が悪いと、スペシャルがあってな」  「スペシャルですか?」。横山は次々に出てくる未知の言葉に恐怖が増していった。  「特別にシメルから、スペシャル。あとに残されて、“生意気だ!”って、怒鳴られて腹は蹴られるし、最悪さ」  言葉が出なくなってきて、横山は「ゴクリ」とつばを飲み込んだ。  「でもな、昔はもっとすごいことがあったらしいぞ」  「えーっ! もっとすごいことですか?」  横山は調子はずれの声で叫んだ。  「そう。伝説のトマホーク」  「トマホーク……」。凄い名前だ。横山は耳をふさぎたくなってきた。  「お所化さんから聞いた話なんだが……」  “お所化さん”というのは、大学を卒業した一年在勤の所化のことである。石田が聞いたのは、実際に先輩からトマホークの刑を受けた所化からだった。その話によると、まず部屋の電気が消される。そして“受刑者”は暗闇の中、畳のヘリにそって歩く。二畳分、約三・六メートルの長さである。その間に、十数人の先輩から、ボコボコに殴られるのだ。顔を殴るとバレるので、身体を殴られ、蹴られる。  トマホークとは、語源はアメリカ・インディアンが戦闘に使用した斧のことであるが、巡航ミサイルの名称でもある。これはセンサーにより飛行コースの修正を行って、標的を狙う。つまり、暗闇で相手の気配をさぐって殴るから、“トマホーク”と名付けられた。  横山は話を聞いているうちに、胃のあたりがキリキリと痛んできた。  (お坊さんの世界でどうしてそんなことが)と聞こうと思ったが、そんな間もなく、「じゃあ、頑張れよ」と石田は去って行った。  (どうしよう。お父さんに電話しようか。お母さんに話そうか)とも考えたが、そんなことをすれば、きっと先輩からひどい目に遭わされるに違いない。金属バットの話が頭をよぎった。こんな所にあと六年間もいると思うと、横山は暗澹たる気持ちになって、また、泣きたくなってきた。  中一にとって、一日は長かった。緊張のしどおしである。先輩に呼ばれると、身体がビクッとした。「はい!」と大きな声で返事をして、全速力で走った。ちょっとでも反応が遅いと怒鳴られる。廊下を歩く時は端に寄り、壁をはうようにして歩いた。常に回りに気を配らなければならない。数メートル先に先輩の姿が見えれば、その場で止まって、大きな声で挨拶をする。部屋にいても、いつ先輩から呼ばれるかわからない。気の休まるときはなかった。  十日後、横山たちの二度目の丑寅番が回って来た。横山が学校から戻ると、中二の先輩が嬉しそうな顔をして近づいてきた。  「おい、今日はお代理だからな。ついてるぜ」  “お代理”――その一言を聞いて、横山は「やったー」と叫んだ。日顕が本山にいない時は、一夜番の住職が代理で導師をする。  その夜、小僧たちは茶の間に入って来ると、「おはようございます」と一夜番の住職に明るい声で挨拶をした。みんな、本山に日顕がいないのでほっとしているのだ。  「今日は、少し飛ばしますからね。二十分以内で終わりましょうよ」と、一年在勤の所化が一夜番の住職に言った。この所化は役僧の息子なので、言葉遣いが横柄だが、住職は何も言えない。「ほどほどにな」と一夜番の住職が仕方なく答えている。  「飛ばす」というのは、勤行の速さのことだった。その言葉の通り、その日の丑寅勤行はもの凄い速さだった。横山はとてもその速さにはついていけなかった。「こんなに速くては信者さんも驚いているだろうな」と思いながら、横山が横を見ると、先輩たちは半分、居眠りをしている。真面目に勤行するのがバカらしくなり、横山も居眠りを始めた。  丑寅勤行が終わって小僧たちが茶の間に行くと、一年在勤の所化が「お前ら、食堂に来い」と言い出した。一夜番の住職は見て見ぬふりをしている。食堂に行くと四、五人の一年在勤の所化が集まって、酒の臭いをぷんぷんさせていた。  「お前たち、御前さんがいないからって、たるんでんじゃないぞ」とマイク導師をしていた所化が小僧たちをねめ付けた。「御前さん」とは日顕のことである。  「お前、ずっと寝てたろう!」  所化が中二の小僧を指さした。  「は、はい。すみませんでした」  小僧の顔は脅えで引きつり、声は震えている。  「せっかくだから楽しませてもらおうか」  所化たちは酒を飲み、退屈しのぎに小僧たちをもてあそぶ、そのために食堂で待っていたのだ。  「蝶々だな」  別な所化がにやけた顔でそう言うと、他の所化たちも「チョウチョ」「チョウチョ」とうれしそうにロにしながら、小僧を床にうつ伏せにたおして取り囲んだ。そして四人の所化が恐怖におののいている小僧の手足をつかんで四方に引っ張った。小僧はうつ伏せのまま両手足を引っ張られ、身体が宙に浮いた。さらに四人の所化は「チョウチョー、チョウチョー」と歌いながら、その小僧の手足を上下に振りはじめた。  つかまれている手足が上下するたびに、小僧の身体も上下に激しく揺れる。手足を基点として胴体が上下するので羽を上下にばたつかせているようにも見える。それを形容して、この刑は「蝶々」と呼ばれていた。  やられるほうは堪まらない。引っ張られる手足の痛みだけではない。うつ伏せになっているので身体が降下する時に、顔が床にすれすれまで近づく。もし、その時に手足を放されたら、顔面から床に激突する。  この「蝶々」には表と裏がある。表があおむけで行われるもの。裏がうつ伏せで行われるもの。もちろん、うつ伏せの方が恐怖は倍増する。時にはフルコースで両方されることもある。  小僧は「ヒィーッ」と声にならない悲鳴をあげ、四人の所化は一層激しく小僧の手足を上下に振った。  小僧の身体は何十回と上下に振られた後、勢いよく上空に放り投げられた。小僧は「ウワーッ」と手足をばたつかせ、「バタッ」と大きな音をたてて、床に落ちた。顔は手でかばったが、全身を床にぶつけ、小僧は「ウーッ」とうめいた。  所化たちはゲラゲラ笑いながら、その場を去っていった。小僧は床に倒れたまま、うめいている。  横山は目の前で繰り広げられた光景に身体が凍りついていた。他人ごとではない。明日は我が身である。  横山は眠い目をこすりながら寮に戻ろうとした。すると、中三の先輩から「お前も居眠りしてたろう! 中一の分際で生意気なんだよ!」と腹を殴られた。  横山は痛みで顔を歪めた。しかし、中二の先輩が受けた「蝶々の刑」や昼間に見た西寮の廊下の鉄の扉にある傷を思い出して、(床に叩きつけられたり、金属バットで殴られるよりましだ)と腹の痛みを我慢した。  その鉄扉の傷は、石田が教えてくれたフルスイングの金属バットがつけた傷だった。幅十五センチほどの傷で、少しえぐれている。こんな傷ができるほどの力で尻を打たれたら、絶対に骨が折れるに違いないと思い、横山はゾッとした。  青年得度の大倉は中一の変わりように、驚いていた。得度式の時の子どもらしいあどけなさは微塵も残っていない。日に日に表情は暗くなり、常におどおどしている。先輩に対する卑屈な態度は、とても十二歳の子どものそれとは思えない。  大坊の小僧たちもさすがに青年得度には手を出さない。昔は青年得度でも殴られたことがあったが、日顕の孫が得度してから目立った暴力は禁止されていた。  彼らは大人だから、一応、別な扱いになっていた。それでも、廊下を歩く時は中一と同じように、端を歩かなければならないし、高校生に会えば、九十度腰をかがめて挨拶をする。  ある日、大倉は横山に同情して声をかけた。  「大丈夫? 頑張ってね」  すると横山は「むっ」とした表情になって言った。  「おい、大倉! 俺の方がお前より、三十分、得度が早いんだからな。法臘は俺の方が上なんだぞ!」  法臘とは、得度してからの年数である。宗門の世界では、年齢よりもこの法臘が重んじられる。年下でも法臘が長ければ先輩になる。だから、年下から呼び捨てにされることもある。横山はすでに大坊特有の先輩づらを身につけていた。  宗門の世界は差別で成り立っていると言っても過言ではない。僧侶の世界には法臘と僧階がある。例えて言うなら、江戸時代の武士の世界に階級があるのと同じだ。そこには代々坊主と呼ばれる僧侶の子どもと、在家出身の子どもという“生まれ”による差別もある。日顕が一番信用しているのが、自分と同じ代々坊主である。日顕からすれば、在家出身の子は純潔ではない。  さらに、宗門には全体として武士と農民のように、僧侶と信徒の間にはっきりとした境界線がある。だから、本山の住職たちは小僧たちに「お前たちは出家したのだから、信徒よりも上だ。たとえ、池田名誉会長でもお前たちよりも下なんだぞ」と吹き込んでいた。  末寺に行くとこの差別はもっと細かくなる。一番上が日顕。次が日顕の妻・政子。そしてその次が住職。その後に、住職の妻、住職の子どもと続き、所化小僧は一番下になるのだが、さらにその下が池田名誉会長と信徒ということになる。  このように、小僧たちは大坊で軍隊さながらの暴力で、「上の者に絶対服従すること」を身体で教え込まれ、差別を基本とした考え方にならされていくのだった。 第3章 信伏随従  押井たちは緊張しながら大奥に向かった。青年得度だけの目通りである。  対面所は階段をのぼった大奥の手前にある。対面所に入った押井たちは横一列に並ぶとそのまま正座し、伏拝した。額を畳につけるようにして、両手を合掌したまま、頭の前に置く。いわゆる“ひれ伏している”状態である。  畳にひれ伏していると、二十歳を過ぎているのに、ここでは自分が駆け出しの小僧にすぎないと思い知らされる。押井は得度したばかりの頃、絶対服従を示す屈辱的なこの姿勢に抵抗を感じた。テレビで新興宗教の信徒が教祖に向かってひれ伏すのを見たことがあるが、それは低俗な宗教によって人間が無力化された姿にしか見えない。いかにも狂信的で、あわれに思えた。本山に入って、まさか自分が同じように畳にひれ伏すなどとは思ってもみなかった。しかし、宗門の世界ではそれが当たり前である。押井もいつの間にか慣れてしまっていた。  押井たちは息を殺して、日顕の“お出まし”を待つ。誰も声を出さないが、時おり、白衣の擦れる音がする。伏拝の姿勢は長時間になると苦しい。息を吸おうとして身体を動かすたびに白衣がこすれるのだ。  しばらくして、「パタパタ」という日顕のスリッパの音が聞こえてきた。いよいよお出ましである。対面所に緊張が走る。奥番が襖を開ける音がして、咳払いをしながら日顕が入って来る。畳を擦る音がして、日顕が正面の大きな絹の白い座布団に座る気配が伝わってきた。  「よし。顔を上げろ」  日顕のかわいた声が聞こえてきた。押井たちは一斉に顔をあげる。  「今年の青年得度の者たちです」と御仲居が緊張した声で押井たちを紹介した。  押井たちの期は十名である。その中に寺族はいない。全員在家出身であった。  押井たちが、これほど至近距離で日顕と向かい合うのは初めてであった。丑寅勤行の時は常に合掌して下を向いているので、まともに日顕の顔を見ることはない。  日顕の顔の輪郭は特徴的である。頭の先端が長くとがっているように見える。髪の毛は薄いうえに剃っているので頭が光って見える。眉毛は薄く、金縁のメガネの奥の眼窩がくぼみ、そのうえ目が細いため、冷酷な印象を与える。口は黙っていると「へ」の字になり、いかにも意地が悪そうだ。  日顕はそれぞれの顔を見ながら、おもむろに話しだした。  「お前たちは二百箇寺には入れないな。お前たちが住職になるのはもっと後だからな」  当時、創価学会による二百箇寺建立寄進が進められ、毎年、十ヵ寺の寺院が建立されていた。  宗内の僧侶にとっては一国一城の主である住職になるのが最大の目標である。法臘や僧階の違いがあっても、住職になれば、一城の主として他の住職と横並びになる。住職の地位が一城の主というのは、経済的な意味も含んでいる。末寺は単立法人であるから独立採算である。住職はいわば中小企業の社長のようなもので、自分の給与も自分で決める。そういう意味では金銭的にも自由になる。彼らにとって大事なことはその一城の主になることだ。広宣流布ではない。それは、自分と家族の生活を守ることも意味している。  「まあ、でも毎年死ぬ奴がいるから、心配するな」  押井は法主の指南を受けられると聞いていたので、どんな激励があるのかと内心期待していた。広宣流布達成のために僧侶は何をすべきか、大聖人の弟子としてどうあるべきか、聞きたいことは山ほどあった。ところが、目の前の日顕は覇気もなく、世間話をするような調子で言葉を続けている。要するに、“住職になるのは順番だから、誰かが死んで空きがでるまで待て”という話だった。  周りの同期は姿勢を正して、日顕の話を神妙に聞いているが、押井は拍子抜けしていた。  「お前たちも若いから、遊びたいと思うだろうが」  日顕は「ペロッ」と唇をなめ、ニヤニヤしながら話しだした。  「でもな、住職になるまでは我慢するんだ」  「はあ?」と思わず、押井は声を出しそうになった。「出家の身なのだから遊んではいけない」というのではない。「住職になるまで我慢しろ」ということは「住職になったら遊んでもいい」という意味なのか。  押井は高校生の所化が「住職になるまでの我慢だ。住職になれば、自由の身だ」と言っていたのを思い出した。それはこういう意味だったのだ。  「もちろん、住職になっても初めは苦労するが、ワシくらいになると何だってできる!」  急に日顕の語調が強くなった。  “何だってできる”――法主になると一体、何ができるのだろうか? 押井は耳を澄ました。  「やろうと思えば豪華客船を借り切って世界一周旅行もできる。でも、まあ、そんなことをしたいと思わないが。やろうと思えばできる。フフフ……」  日顕は薄笑いを顔に浮かべ、自慢気に話している。  押井は目を丸くした。「何でもできる」というのは“お金でどんな遊びもできる”という意味か……。少欲知足の僧侶と豪華客船。何と不釣合いな組み合わせだろう。  法主と言えば僧侶の最高位である。その頂点に立つ人間が目ざしているものが「世界広宣流布」ではなく「世界一周旅行」なのか? 弟子にもそれを目ざせというのか?  僧侶の目標は金で遊ぶことなのか? これが法主の指南とは……。得度したばかりの押井にはショッキングなことだった。  その後も日顕はとりとめのないことを機嫌良く話している。それでも聞く方の所化は緊張したままだ。これは畏敬の念から来る緊張ではなかった。日顕がいつ爆発するかわからないという恐怖から来る緊張だった。  押井たちは得度してから何度も日顕が切れるところを見て来た。丑寅勤行のたびに誰かが日顕の中啓攻撃の犠牲になる。丑寅勤行だけではない。先日もそうだった。  押井たちは大坊の掃除をしていた。青年得度の作務の一つである。作務とは修行として雑用を行うことだ。作務衣として紺色の作業着を着て行う。その日、押井は内事部から大奥につながる渡り廊下の窓を拭いていた。そこに日顕が通りかかった。  日顕は宗務院での会議を終え、内事部によって大奥に戻るところだった。押井は日顕の姿を見た途端に、その場でしゃがんで合掌する端座合掌をした。本山ではたとえ百メートル先でも、そこに日顕がいるのが見えたら、端座合掌をしなければならない。  押井は緊張しながら日顕が通り過ぎるのを待った。ところが、押井の前で日顕が足を止めた。押井はもしかしたら日顕が労いの言葉をかけてくれるのではないかと期待した。ところが違った。  「お前、ここで何をしてるんだ!」  日顕がいきなり怒鳴りつけてきたのだ。  押井はびっくりして顔を上げそうになった。しかし、法主の前で顔を上げてはならないことを思い出し、合掌して下を向いたまま、「掃除をしておりました」と答えた。すると日顕は、  「何だ! 馬鹿野郎! こんな所にいるな!」  と、もの凄い剣幕で罵声を浴びせて来たのだ。押井は何がどうなっているのかわからず、ただ畏まって「はい」と答えるのが精一杯だった。日顕はもう一度、「馬鹿野郎!」と怒鳴ってそのまま大奥に向かった。  もし日顕が中啓を持っていたら叩かれていただろうと押井は思った。さいわい、日顕は中啓を持っていなかった。日顕が中啓を持つのは丑寅勤行と御開扉の他、法要に出るときだけである。  (それにしても、掃除をしていただけなのに、何故怒られたのだろう。ただ単に、機嫌が悪かったのだろうか?)  押井は日顕が見えなくなるまで端座合掌を続けた。  このように本山にいると何度も日顕が癇癪を起こすのを目の当たりにする。だから、日顕が機嫌良く話しているからといって安心できない。いつ、瞬間湯沸し器の異名の通りに、突然怒りだすかわからない。  「うん。じゃあ、いいな、これで」  日顕は御仲居に向かってそう告げて立ち上がった。その瞬間、押井らはサッと身を伏せて合掌する。条件反射のように身についた動作である。しかし、まだ、油断できない。丑寅勤行の時のように、日顕が帰りかけたところで何かが起こることもある。ある時など、日顕が大奥に戻る直前に、奥番を怒鳴りつけたこともある。  対面所の襖が閉まり、日顕のスリッパの音が小さくなっていく。  (これで終わった)押井は身体の力が抜けるのを感じた。御仲居もホッとした顔で座っている。  「豪華客船で世界一周旅行か。いくらかかるのだろう?」  「そりゃあ、数百万円どころじゃない」  山岸の問いに植田が答えた。山岸は押井たちの目通りでの日顕の指南を聞いて「まるで成金趣味だな」と感じたが、とてもそんなことは口にできない。  山岸と植田は押井と年齢は同じだが、得度は一年早い。三人は行学講習会で顔見知りになり、同世代の親しさから講習会の間、時おり話をしていた。  「どんな指南でも信伏随従だからなあ……」  「そう、信伏随従なのさ。この世界では」  “信伏随従”――得度してから、毎日のように聞く言葉だ。  「たとえ黒でも猊下が白と言えば“白”。それが信伏随従……」と山岸は合掌するふりをしてつぶやいた。  「僕が在勤している寺の住職も同じことを言っていたよ。『たとえ白でも、猊下が黒と言えば“黒”なんだ。覚えておけ』とね」  植田も声を低くして話している。  「それって、やっぱり本当なんですか!」  「シーッ! 声が大きいよ」山岸が指を唇にあてた。  「こういう話は宗門では禁句だからね……」  押井は高校生がこの白黒談義をしているのを聞いたことがあった。彼らも「これが宗門の鉄則だ」と語っていた。  三人は中講堂にいた。植田は周りに人がいないのを確認してから、「彼はその信伏随従を身で体験したんだから」と山岸を指差した。  「またあの話かよー」。山岸が不快な顔をした。  「信伏随従を体験したって、どういう意味ですか?」  「まあいいか。実は、去年の丑寅でね……」。山岸が自分の体験を話し始めた。  その日の丑寅勤行で日顕はすこぶる機嫌が悪かった。中学生の一人が居眠りしていたのだ。日顕は何度も斜め後ろに座っている奥番を呼んでは、注意に行かせた。中学生と言えば、まだ十二、三歳である。深夜二時半の勤行には耐えられないこともある。本人は一生懸命に勤行しようとしているのだが、何度も居眠りしてしまう。山岸は後ろから見ていて「仕方ない」と同情していた。しかし、本山ではそれではすまない。勤行の後に惨劇が待っていることは誰でも予想ができた。  「この! 居眠りばかりしおって!」「パン!」  案の定、丑寅勤行が終わり、日顕は怒りを爆発させた。居眠りしていた中学生の頭の上に日顕の中啓がいつもの倍のスピードで炸裂した。  「はい!」。その中学生の声が震えている。恐怖でひきつっているのだ。  「“はい”じゃないだろう! 何で寝てるんだと聞いておるんだ!」  日顕はしゃべりながらも、目を吊り上げて「パン! パン!」と中啓で所化の頭を叩き続けている。  「はい!」  「だから、何で寝てるんだと聞いておるんだ! バカモノ!」  「はい!」。中学生は何て答えていいのかわからないのだ。  「何度も同じことを言わせるな! 理由を言え!」  「パン! パン! パン!」と日顕は狂ったように中啓で小僧の頭を叩き続けている。  「バキ!」。とうとう叩きすぎて、中啓が壊れてしまった。  「この! 馬鹿小僧が!」。そう言いながら、さすがに日顕も全力で叩き続けたので肩で息をしている。  中啓が壊れるほど、頭を叩かれた小僧は苦痛で顔を歪めながら、それでも下を向いて合掌している。それ以上、どうしていいのかわからないのだ。  「もう、いい! オイ! 御仲居。学衆課の者にもしっかり指導するように言っておけ!」  「はい!」。御仲居もまるで小僧のように身をちぢめている。  「まー、これも修行だ。へへへ……」  日顕はいつも、怒りを爆発させた後に愛想笑いをする。この様子を初めて見た者は「二重人格ではないか」と驚く。  日顕は高校生に向かい、急に優しい声で「今日の太鼓は良かったぞ」とほめた。  それから日顕はおもむろに山岸の方を向いて、  「あー、たしか、お前は雄尊だったな」と声をかけてきた。しかし、山岸の道号は雄尊ではない。山岸は神妙に答えた。  「いえ、雄才でございます」  山岸がそう言った途端、日顕の表情が変わった。  「何! 貴様! 口答えするのか! 貴様は雄尊だろ!」  山岸は一瞬、頭の中が白くなった。自分の道号は確かに雄尊ではなく、雄才だ。  「あ、あの……」。言葉が出てこない。  「おい! お前は雄尊だ!」  山岸は観念した。「はい、雄尊でございます」  「そうだ、お前は雄尊だ。この馬鹿が! 生意気に!」  要するに、何があっても日顕に口答えしてはならないのだ。日顕が黒といえば、白であっても黒なのである。  「そんな……。自分の名前なのに」  押井は山岸の話を聞いて、にわかに信じ難かった。  「だから、黒でも白。白でも黒。これがこの世界の信伏随従さ」  「とんでもない世界に来てしまったよね」  植田がため息をついた。  「シーッ。声がでかいよ。誰かに聞かれたら、俺たちクビだぞ」  そう言って、山岸は自分の首を手で切るふりをした。  「はぁあ」。押井もため息をついた。自分の想像していた宗門とあまりに違う。知れば知るほど、その違いがはっきりしてくる。一言で言えば、「法主信仰」なのである。  『御義口伝』には「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」と身心ともに法華経に帰伏することが信伏随従であると書かれている。ところが、宗門の世界では「法華」が「法主」に入れ替わっていた。  「そういえば、福田が授業で『猊下が本で、大聖人は迹』と言っていたよね」  植田が思い出したように言うと、山岸もうなずいた。「本」「迹」は仏法の言葉で、例えば「本」は本体、「迹」はその影である。  「そうそう。ビックリしたよ。だって、『大聖人が迹』だなんて。そんなこと授業で教えるか?」  「しかも、『C作戦』はワープロを打っただけとか言い出して」  「勝手に告白し始めるんだから、驚いたよな」  「えっ! 福田がそんなことを言ったのですか?」  「シーッ。声が大きいって」  平成三年八月の行学講習会で、元海外部書記だった福田が百六箇抄の「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の文を次のように講義した。  「『立つ浪』というのは次から次へと起こっては消えていくものだ。だから、いま起こっている波が『本』で、過ぎ去った波が『迹』である。したがって大聖人や日興上人、また歴代上人も過去だから迹であり、当代の御法主上人猊下が本である」  暑さで疲れている年分の学生はほとんど福田の話を聞いていない。中には居眠りしている者もいる。青年得度の何人かが、「え?」と思った。  日顕が猊座についてから、法主のイメージは変わって行った。先代の日達法主は所化には優しく、弟子が自由にものを言える雰囲気があった。しかし、日顕は違う。自分に従わない者には容赦ない。事実、“法主に従わない者は僧侶にあらず”と日顕の相承に疑いを持った正信会の僧侶はことごとく擯斥となった。いつの間にか法主は絶対的な存在になり、福田のように法主を高くまつり上げるために転倒した自説を唱える者も出てきたのである。  この時、福田は次のようにも言っていた。  「また、御法主上人の指南の中でも新しい指南が本であり、昔の指南は迹である。したがって、新しい指南にそっていくのが正しいのだ」  これは明らかに日顕の「C作戦」(学会破壊を企てた謀略)を補強するための論であった。日顕は登座してすぐに正信会(宗内の反日顕グループ)から“相承があったことを証明しろ”と詰問された。だから日顕は自分に歯向かう正信会に対抗するため、学会の組織力を利用しようと考えた。そのために、日顕は説法するたびに学会と池田名誉会長を讃嘆してきた。  しかし、「C作戦」を発動して、学会組織を切り崩そうとすれば、必ず、日顕の学会を讃嘆してきた過去の説法が邪魔になる。「自語相違(説いた教えが前と後で矛盾すること)」になるからだ。これを防ぐ理論として、福田は用意周到に「新しい指南が本であり、昔の指南は迹である」と言いだしたのだ。  福田はこの年の一月二日に、「C作戦」にまつわる所感をファックスでSGI事務局に送信し、それが聖教新聞に掲載されて大事件になった。宗務院は慌てて福田を呼び出して尋問した。福田はその一週間後の一月九日に宗務院海外部書記を免職になり、自宅謹慎の処分をうけた。  もちろん、講義を受けていた所化たちもそのことを知っている。福田は皆の自分に対する視線の冷たさを感じたのか、突然、言い訳をはじめた。  「みんなも『C作戦』という言葉を聞いていると思うが、あれは私が考えたんじゃない。私はワープロを打っただけだから……」  一瞬、教室がざわめいた。  「馬鹿! あいつは何を言っているんだ」  ある年分が舌打ちした。福田は構わずにしゃべり続けている。  「それで……。自分の考えを色々書いて、SGI事務局に間違ってファックスして謹慎になってしまった……」  「C作戦」とは、池田名誉会長を切る(CUT)ことによって創価学会の組織を壊滅させ、会員を宗門の信徒にして支配することを目的としていた。かつて山崎正友が「ある信者からの手紙」で言っていた作戦を関快道が焼き直し、福田にワープロで清書させたものである。  その冒頭には「創価学会分離作戦(C作戦)」とあり、その後に「この計画作戦の目的とするところは、池田名誉会長を総講頭職から解任し、日蓮正宗は創価学会とは無縁の宗教団体であることを一般世間に公表し、創価学会組織の徹底壊滅を図り、もって純粋なる信仰に基づく金甌無欠の組織の再編成を目的とする」と書かれていた。  「やっぱり『C作戦』はあったんだ」  山岸と植田は福田の話を聞いて、そう確信した。  十一月二十八日、宗門は創価学会に対して「破門通告書」を一方的に送りつけたのである。 第4章 大奥の秘密  宮内はこの三日間、緊張のし通しだった。奥番に任ぜられたはいいが、まったく勝手がわからず、戸惑うばかりだった。  日顕が大奥にいる間、奥番はひと時も神経が休まることが無い。常に、日顕の様子をうかがい、何かあれば日顕のもとに飛んでいかねばならない。日顕は用があれば自分の部屋に設置してあるブザーを押す。そのブザーは奥番部屋につながっている。ブザーが鳴らないからといって安心できない。「パタパタ」と日顕のスリッパの音がしたり、「オイ!」と日顕の声がすれば、奥番部屋から脱兎のごとく駆けだす。  宮内が一番緊張したのは、御開扉のお供だ。日顕はすべての御開扉に出るのではない。「何時と何時はワシが出る」と日顕がその日の朝に決める。日顕が出ないときには、内事部が代理を手配をする。  大奥から車で出る時に、奥番は助手席に座る。運転手の所化も緊張しているのが伝わってくる。後ろから日顕の咳が聞こえてきただけで、身体が「ビクッ」とするのだ。  途中の運転はスムーズだったが、正本堂に車をつける時に、運転手は緊張から急ブレーキを踏んでしまった。後ろで日顕の身体が「カクッ」と前につんのめったのがわかった。宮内は(やってしまった)と運転手に同情した。  「この馬鹿! 急に止まるな! バシッ!」  すかさず、日顕の罵声と共に中啓が飛んだ。  「はい!」  運転手の所化は短く返事をした。余計なことを言うとまた怒られることを大坊育ちの所化たちは熟知している。  正本堂に着き、日顕は控室に向かった。そこで日顕は袈裟・衣に着替える。奥番はその着替えの手伝いをしなければならない。  日顕が衣を着るまでは問題は無い。厄介なのは袈裟を着ける時である。通常、袈裟はタスキの部分を左肩から前にたらして袈裟と結ぶ。しかし、日顕が正本堂で着る袈裟はすでに結んであって、それを頭からかぶるだけになっている。ビジネスマンが結んであるネクタイを頭からかぶるのと似ている。奥番が袈裟を日顕の頭の上からかぶらせるのだが、その時に絶対に日顕の頭に触れてはならない。  宮内はそれほど背が高くない。背伸びをして、そっと袈裟のタスキの輪を日顕の頭の上に運んだ。緊張で手が震えている。(猊下の頭に触らないように、触らないように)と心の中で呪文のように唱えながら、そろそろと手を運んだ。しかし、難しい。宮内は自分の手の短さを呪った。  「カサッ」  (アーッ! シマッタ!)  タスキが日顕の頭のてっぺんに触れてしまった。  「貴様! 何をやってるんだ。この馬鹿が!」  数十センチしか離れていない日顕の顔から、つばきと共に罵声が飛んできた。  「申し訳ありません」  宮内は頭を下げたくても、袈裟を持ったままなので、どうしようもない。  「もういい! 自分でやる! この役立たずが!」  宮内は内心「助かった」と思った。パッと身をひるがえして、頭を低くさげてもう一度、謝った。日顕は無視して、「馬鹿小僧が」と舌打ちしながら、袈裟を肩ヒモで結んでとめている。  正本堂番から連絡が来るまで日顕は控室にいる。日顕は難しい顔をして黙っている。ほんの数分だが、宮内には何時間にも感じられた。  御開扉では、その日の当番になっている本山の僧侶がまず先に内陣に入る。その後に所化小僧が続く。そして、最後に日顕が出仕する。この入場がスムーズにいかないと日顕は怒りだす。  いまでも語り草になっている悲劇がある。昭和六十三年の話である。  衛四坊に勤務していた小島は、正本堂で無線係として運営に当たっていた。事件が起こったのはある日の御開扉の前であった。通常は日顕が出仕する前に、小島の指示で西控室にいる本山の住職らが正本堂・内陣に入場する。ところが、その日は無線連絡のミスで、住職たちがまだ控室で待機している所に、いきなり日顕が現れたのである。小島は驚き、反射的に端座合掌をしてしまった。  「おい! 貴様! 何をしてるんだ。さっさと開けろ!」  日顕はそう怒鳴り散らしながら、端座合掌している小島に中啓パンチを浴びせさせた。  もともと反応が遅いと言われている小島はとっさのことで判断ができない。思わず、日顕の中啓攻撃を合掌している手で防いでしまった。日顕からすれば、黙って叩かれているのが所化の本分である。それを防ぐとは自分に対する反抗に近い。日顕は逆上した。  「コラッ! 貴様! 何をしてるんだ!」  そう言いながら、日顕は中啓で小島の頭を叩き続けた。その攻撃は、上からだけでなく右から左からと変幻自在である。小島は必死で顔をかばっている。日顕はさらに逆上して足蹴りを加えた。  御開扉が始まる時間が迫っている。日顕はまだ気がおさまらずに、小島を怒鳴り叩き続けている。住職たちは仕方なく、その悲惨な光景を尻目に内陣に入場していった。内陣に入場するときには、入り口の扉を開ける。扉が開いている間、日顕の中啓の音が内陣にまで聞こえてきた。住職たちはその音が前列に座っている信徒たちにも聞こえているのではないかと心配した。  そして間もなく、日顕が何食わぬ顔で入場し、御開扉の勤行が始まった。  日顕が所化と対面するのは主に丑寅勤行と御開扉の前後である。日顕はそこで自分が師匠であることを弟子に教えようとする。偉大な師匠であれば、弟子はおのずと信伏する。しかし、日顕には徳が無い。だから、自らの徳で弟子の尊敬を得る代わりに、権威で相手をひれ伏せさせようとする。  日顕にとって師弟とは、弟子が師匠に絶対服従することを意味する。だから、弟子の自分に対する態度が少しでも不遜であれば、激怒する。権威だけに頼っている日顕にとって所化になめられることほど恐ろしいことはない。日顕が暴力をふるうのはその恐怖の裏返しである。  所化は日顕に対して対面所では伏拝を行うが、対面所以外では通常、その場でしゃがんで合掌する端座合掌をする。ただ、正本堂の入り口で日顕を出迎える番役の所化は床に伏せる伏拝をしなければならない。細かいことのように思えるが、日顕にとってはその細かい作法が信伏随従の証である。それを軽んじた者には容赦ない。  例えば、昭和五十七年に正本堂番をしていた石田はその作法を間違えて日顕の逆鱗に触れた。その日の御開扉で、石田は正本堂に入る日顕を、伏拝をせずに端座合掌で迎えてしまったのだ。日顕は、その石田の姿を見た瞬間、怒り狂った。  「何だ! それは!」と大声を張り上げた日顕は中啓で叩くのではなく、石田の衣の襟をつかんで、肘打ちをしたのである。  「何で、お前は他の者と同じことができないのだ!」  さらに日顕は膝で石田の胸元を蹴り上げた。まるで路上の喧嘩である。  日顕は石田や小島のような日達法主の弟子の僧侶に対しては特に厳しかった。日顕の相承に対して疑問の声をあげた正信会はそのほとんどが日達法主の弟子である。日顕にとって日達法主の弟子はいつでも敵対勢力になり得る脅威の存在である。日顕は日達法主の弟子との目通りの際、うわべでは平静を装っているが内心では、「こいつらはワシと達師を比べて、ワシを馬鹿にしているに違いない」と疑心暗鬼にとりつかれていたのである。  日達法主の弟子の集まりである「妙観会」の中心者の一人が大宣寺の菅野であった。菅野は日達法主の娘婿にもあたる。日顕はこの菅野の動きには敏感だった。妙観会が定期的に大宣寺で会合を開いていることに対しても快く思っていなかった。日顕が恐れていたのは妙観会の動きだけではない。自分の弟子に対する影響も心配であった。四十代から五十代の住職はほとんどが日達法主の弟子だ。自分の弟子は必然的にそこに在勤することが多くなる。だから、自分の弟子が妙観会の者と近い関係になることもありうる。それは自分の弟子の勢力が日達法主の弟子の勢力に侵食されることを意味する。そのような日顕の不安が爆発したことがあった。  平成六年十月、法華講の支部登山の引率で本山に来た宮田が御開扉の直前、日顕にビンタを張られるという事件が起こった。その理由はまるで子供じみたものだった。宮田の寺で法華講の内紛問題が起こり、宮田は本山に来る三日前に大宣寺の菅野にそのことを相談したのである。そのことを知った日顕は「なぜ、ワシのところでなく、菅野のところに行ったのだ」と眉間にシワを寄せた。そして御開扉の前に宮田を見つけるやいなや、  「キサマ、だれの弟子だ! ワシの弟子だろうが!」  と控室に響き渡る大声で一喝し、宮田の顔面にビンタを食らわしたのである。自分の弟子でありながら、妙観会の中心的な存在の菅野に相談を持ちかけることなど、日顕には絶対に許すことのできないことだったのだ。  宗門の歴史は派閥争いの歴史でもある。そして、その醜い権力争いは荘厳な正本堂の中でも行われていたのである。  御開扉の間、宮内はマイク導師が気になって仕方がなかった。微妙に合わないのだ。御開扉のマイク導師は二人だ。本山の番役で一番難しいのが、この御開扉のマイク導師だと言われていた。まず、読経の長さが決まっている。方便品は二分三十秒、寿量品は八分三十秒。自我偈は三分だが、二回繰り返すので計六分。そして唱題は六分、と決められていた。これだけでも難しいのにさらに、二人のマイク導師は絶対に一緒に息つぎをしてはいけないという鉄則がある。必ず、一人が息つぎしている時はもう一人が声を出していなくてはいけない。二人、同時に息つぎするとマイク導師が止まってしまうからだ。この読経の速さや息つぎが上手くいかないと、御開扉が終わった後に日顕の中啓パンチが待っている。  この日のマイク導師は息継ぎが合っていなかった。一瞬だが、マイクの声が途切れたことが何回か続いた。日顕も気付いているに違いない。  (ああ、今日のマイク導師はこってり絞られるな)と宮内は思ったが、その時、異変が起こった。通常は自我偈を二回繰り返して唱題に入るはずなのだが、「自我得仏来……」と日顕が三回目の自我偈を読みはじめたのだ。  (御前様は居眠りしていたのではないか?)宮内だけでなく、本山教師たちも意味ありげな笑いを顔に浮かべていた。  御開扉が終わり、日顕は何も言わずに控室に戻った。  (マイク導師の失敗に気付いていないのに違いない。やっぱり、居眠りしていたんだ)宮内はそう確信した。  日顕が控室に戻ると、すでに布団が敷いてあった。その日は御開扉が二回続くので、番役がマニュアル通りに布団を敷いたのだ。  学会が破門になる前は登山者が多く、午後の御開扉が二回続くことがあった。一回目は一時半開始、二回目は三時半開始となっていた。その際、日顕は一時半の御開扉の後、控室で昼寝をする。奥番はその間、待機していなければならない。  日顕はいつもの通り、昼寝を始めた。宮内は、須弥壇の扉の電源をたしかめに正本堂番の部屋へ行った。番部屋はいつもの如く散らかっている。テレビゲームがあり、ロッカーの中にはワイセツな本が山積みになっている。  (正本堂の中にこんな本があることを信者さんが知ったら、大変なことになる……)  宮内はこの番部屋にくるたびにやり切れぬ思いになった。宮内自身も何年か前までは創価学会の青年部員だった。仕事と活動で忙しい中を何とかやり繰りして御開扉に来たものだ。いつも自分の宿命転換のために必死だった。何度、御開扉で涙を流したことか。  (その神聖な場所の裏側がこんなことになっているなんて、口が裂けても信徒の方には言えない)  宮内は暗い顔で番部屋を出て控室に戻った。  午後三時半からの二回目の御開扉が無事に終わった。日顕は疲れている様子で所化小僧に見送られ、そのまま大奥に戻った。  日顕は大奥に戻るとテレビをつけた。日顕は相撲に目がなく、相撲がある時期になると毎日のようにテレビにかじりついている。日顕はあるとき「ワシが勝つように祈った力士が勝った」と喜んだことがあった。その日も日顕はテレビの相撲を観て歓喜の声をあげていた。  夕方になり、宮内は大坊の食堂から日顕の食事を運んだ。大坊には日顕専属の栄養士がいた。その栄養士が日顕のために高価な食材を使って用意した献立である。この食事の時間は奥番にとってつらい修行である。日顕が食事をしている間、奥番は側に控えていなくてはならない。  高級料亭で出される料理のように豪勢な食事であるが、日顕は無表情で食べている。  (猊下の口に合わないのかな)  宮内はそんなことを考えながら、日顕の食べる仕草を見ていた。すると、宮内の視線に気づいた日顕に「お前! 何をジロジロ見ているんだ!」と怒鳴られてしまった。宮内は「すみません」と謝り、下を向いて日顕を見ないように努めた。しかし、今度は「おい! お茶だ! 何をボーッとしているんだ!」と詰られてしまった。お茶の出すタイミングを計るために日顕の様子をうかがえば怒られるし、日顕を見ないようにしているとお茶がなくなっていることに気がつかなくて怒られる。  日顕は丑寅勤行にそなえて遅くとも九時には床につく。奥番部屋から日顕のいる部屋に行く廊下の間に木戸があり、そこに鍵が掛かっていれば、日顕が寝たことがわかる。その日は八時過ぎに木戸がしまっているのを見て、宮内はホッとした。  深夜二時、宮内は日顕の寝室の前に座った。日顕は二時二十分に大奥を出て丑寅勤行が行われる客殿に向かう。奥番は十五分以上前から日顕が寝室から出てくるのを部屋の前で待たねばならない。  いつもの通り、二時五分に日顕の寝室で目覚ましが鳴った。宮内は少し大きな声で「おはようございます」と声をかけた。いつもなら「ああ」と声がして、日顕が起きたことがわかる。しかし、その日は声がしなかった。宮内は少し待ったが、一向に日顕が起きてくる気配がない。奥番にとって一番嫌なタイミングだ。日顕が寝過ごしている可能性もある。しかし下手に声をかけるとどやされる。  とうとう、二時二十分になった。結局、日顕は起きてこなかった。急きょ、一夜番の住職が代理で導師を行うことになった。  日達法主は信徒の便宜を考えて丑寅勤行を深夜零時から行っていた。それを日顕が「丑寅勤行なのだから、丑寅の時刻に行うのが筋である」と言いだし、深夜二時半からの開始になった。日顕はわざと自分と日達法主の違いを見せつけようとした。日顕の父親は第六十世の日開である。だから日顕は(自分は法主の子であるが、日達法主は在家出身だ)と、内心で日達法主を見下していた。丑寅勤行の時間を変えたのも、自分の正統性を示したいがためだった。日顕にとって信徒の便宜など関係ない。信者は法主である自分に従うのが当然であると思っていた。  しかし、やがて日顕は丑寅勤行を深夜二時半に変えたことを後悔し始めた。歳をとるにつれ、深夜に起きるのがつらくなっていった。寝過ごすこともあれば、声が出なくて、勤行の途中で導師を交代して大奥に戻ったこともある。  宮内は得度して、丑寅勤行が朝の勤行を兼ねることを知って驚いた。本山では丑寅勤行に参加した者は朝食の時間まで寝ていても良いことになっている。自分が男子部の時は丑寅勤行に参加しても朝の勤行をしていた。その時は、丑寅勤行は特別なもので、朝の勤行とは違うと思っていたからだ。おそらく、彼だけではなく多くの信徒がそう思っていたに違いない。  宮内は末寺にいる時に信徒から「本山の修行は大変ですね。毎日、丑寅勤行に出るのでしょう?」と聞かれることがある。あるとき、宮内は正直に「いいえ、毎日ではありません。所化は交代ですから。それに、丑寅勤行は朝の勤行を兼ねているので、終わった後はずっと寝てるんですよ」と答えたことがある。それを聞いた信徒は「ええっ、そうなんですか」と驚きの声をあげた。  宮内は徐々に奥番の仕事に慣れていったが、同時に疑問がいくつも出てきた。  (猊下はどうして夕方の勤行をしないのだろう?)  日顕は一度だけ、大坊の夕方の勤行の導師をしたことがある。その時は、「これからワシが毎日導師をする」と意気込んでいたが、翌日からこなかった。  日顕は御開扉や会議のない日は、常住本尊の書写をしていることもあるが、本を読んだり、テレビを観ていることが多い。時には落語を聞いていたり、昼寝をしていることもある。そして夕方になると勤行をすることなく、夕食を食べる。  (法主は信心があるから勤行しなくていいのだろうか? それに折伏もしない。時間があるのに、何もしない。法主だから広宣流布の活動をしなくてもいいのだろうか?)  宮内はそんな疑問を持ちつつも、師である日顕に対して自分なりに弟子としてしっかり仕えようと努力していた。  ある肌寒い日、宮内は御開扉から戻ってくる日顕のために部屋の暖房を入れておいた。師である日顕の健康を気づかったのである。ところが、日顕は部屋に入るなり、表情を変えた。  「何だ! 貴様! 暑いじゃないか! 何で暖房を入れるんだ! バカヤロー!」  日顕が矢継ぎ早に宮内を罵った。宮内は少しでも自分の気持ちを知ってもらおうと  「はい。少し肌寒かったものですから」  と答えた。だが、日顕はさらにけわしい顔になり、  「貴様! ワシに口答えするのか! ワシは暑いんだ、このバカヤロー!」  と怒鳴りつけてきた。  宮内は男子部の時に先輩幹部から創価学会の戸田会長と池田会長の姿を通して師弟について教えてもらったことがある。戸田会長は入獄で身体が衰弱し、池田会長はいつも戸田会長の身体を気づかって配慮していたという。また、戸田会長も身体の弱かった池田会長のことを常に心配していたという。宮内はその麗しい師弟の姿に感動した。だから、自分も弟子として日顕に対して配慮しなければならないと思い、暖房を入れたのだった。しかし、日顕にとって、弟子は自分に絶対服従するものでなければならない。弟子が師の許可無く勝手に何かをすることは許されない。たとえ、それが正しいことであったとしても。  宮内の失敗を聞いて、先輩の奥番が笑いながら教えてくれた。  「お前、馬鹿だなー。いいか、奥番の鉄則は余計なことはしない。何を言われても『はい』と答える。そして、絶対に口答えはしない。猊下が白と言えば、黒も白。猊下が機嫌をそこねた時は、自分が悪くなくても『申し訳ありません』と謝る。謝るときは、平伏して、おおげさに謝るんだ。おおげさにだぞ」  宮内は納得はできなかったが、「郷に入れば郷に従う」と割り切るしかないと思った。  次の日も少し肌寒かったが、宮内は勝手なことをするとまた叱られると思い、暖房を入れなかった。すると今度は、  「おい! お前は寒くないのか。なぜ暖房入れないんだ! バカヤロー!」  と日顕から大目玉を食らった。  宮内は先輩の言葉を思い出した。そして、パッと床に手をつき、土下座して「申し訳ありません」と時代劇に出てくる家来が殿様に平伏するように、恭しく謝った。するとどうだろう。日顕は急に「ふふふ」と笑い  「いいか。ワシは若くないんだからな。老人はいたわりなさい」と言い、自分で暖房のスイッチを入れたのだ。宮内は(ああなるほど、これがコツなのか)と得心した。  ある日、宮内は不思議なものを目にした。  日顕が風呂に入っている時に、たまたま風呂場の前を通ったら、床に白い布包みが落ちていた。その布包みには見覚えがあった。日顕が身につけていたのを一度、見たことがある。  (もしかしたらお守り御本尊かもしれない)と宮内は思った。もし、お守り御本尊であれば、日顕が脱いだ着物のところへ戻しておいたほうがよいだろうと思って、宮内はその白い布包みを手にした。よく見ると、その布包みの口元が開いて、中のものが少し頭を出していた。  (あれ! 御本尊じゃないぞ)  布にくるまれているものはこげ茶色の十二、三センチメートルほどの仏像だった。宮内は慌ててその布包みを日顕の脱いだ白衣の上に置いた。  (どうして、猊下はこんなものを身に付けているんだろう?)  宮内はあるとき、このことを奥番の先輩である松本に尋ねた。  「実は、御前様が仏像を持っているのを見てしまったんですが……」  松本は一瞬、顔を歪めたが、すぐに真顔になって  「別にいいんじゃない。大聖人様も一体仏を身につけていたんだから」と言った。  松本の言う「一体仏」とは、大聖人が伊豆に流罪された時に、地頭の伊東八郎左衛門から奉納された釈迦仏の立像のことである。病にかかった八郎左衛門は様々な治療を受けたが良くならず、流罪中の大聖人に病気平癒の祈願を頼んだ。八郎左衛門はまだ大聖人に帰依していなかったが、大聖人はそこに法華経に対する一分の信があることを認め、八郎左衛門の願いを受けられた。  そして、大聖人の御祈念により病気が平癒し、八郎左衛門は大聖人に帰依することとなった。八郎左衛門は御祈念していただいた御礼にと、漁師が海中より引き揚げた立像の釈迦仏を大聖人様に捧げたのである。大聖人はこの一体仏を随身仏として所持されたといわれているが、遺言として、この一体仏は「墓所の傍らに立て置くべし」と言い残されている。すなわち、この一体仏は末法の衆生の本尊でないことは明らかである。また、この一体仏は日朗が身延から持ち去ったとされている。  (御前様は大聖人を真似されているのだろうか……)  宮内は腑に落ちないまま、松本に礼を言った。その数日後に、宮内は得度して以来、最大のショックを受ける出来事に遭遇した。  大奥にも仏間があり、板御本尊が安置されている。ある日、宮内はやはり僧侶として自分を成長させねばならないと思い、その仏間で唱題をした。十分ほど唱題していると突然、奥の部屋にいた日顕が仏間に入ってきた。  「おい! コラッ!」  日顕は目をつりあげて自分を睨んでいる。宮内はきっと唱題の声が大きくて、日顕の邪魔をしたのではないかと思った。しかし、そうではなかった。  「お前! 何を馬鹿なことをしてるんだ」  宮内は自分の耳を疑った。日顕が「唱題」を「馬鹿なこと」と言ったのだ。  「いいか! 唱題なんていうのはな! 信者がやることだ!」  宮内は唖然としてしまった。『御義口伝』には「今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり廿八品は用なり廿八品は助行なり題目は正行なり正行に助行を摂す可きなり」とある。僧侶は大聖人の弟子である。ところが日顕は末法の正行である題目を唱えることを「馬鹿なこと」と罵り、「信者がやること」と見下しているのだ。  宮内は日顕が一体仏を身に付けていることを思い出した。上辺だけは大聖人の真似をしているが、言っていることは大聖人とまったく正反対である。大聖人の跡を継ぐというのならば、誰よりも唱題行に専念し、折伏の先陣を切るべきである。ところが日顕は勤行をサボり、毎日、時間を無為に過ごしている。  それどころか日顕は、月末になると、一族で温泉に遊びにいく。本山の住職なら誰でも知っていることだった。御開扉は二十五日で終わる。だから、二十六日から日顕は自由の身になり、上機嫌でいそいそと出かけて行く。お供は日顕の弟子で金庫番と言われている石井信量であった。  日顕は奥番に「誰かにワシの所在を聞かれたら、弟子なら西片(大石寺東京出張所)へ行ったと答えろ。弟子以外には不在ですと言え」と指示を出していた。  ある日、北海道・苫小牧で住職をしている吉田が本山で宮内に「猊下はどこにいるの」と聞いて来た。宮内は指示された通りに「猊下は不在です」と答えた。すると吉田はニヤニヤしながら「本当の事を言えよ。どうせ一カ月の疲れを癒しに、温泉にでもつかって、芸者と遊んでいるんだろう」と言うではないか。末寺の住職にも日顕が月末になると遊びに行くことは知れ渡っていたのだ。  宮内は日顕に唱題を「馬鹿なこと」と言われてから、混乱していた。一体、信心の根幹は何なのか、わからなくなってきたのだ。そこに追い討ちをかけるようなことが起こった。  その日、日顕が突然、奥番を一人ずつ呼び出した。まず、西村が呼ばれた。しばらくして西村が帰って来た。宮内が「何ですか?」と聞くと西村は「聖教新聞がどうだとか……意味わかんねえ」と首をかしげている。  次に宮内が呼ばれた。日顕のいる和室に入るとテーブルの上に聖教新聞が置かれていた。そのテーブルの向こうで日顕が仁王立ちしている。日顕は宮内を見るなり、聖教新聞を指差した。  「これを見て貴様はどう思うか」  日顕は明らかに不機嫌だった。その新聞の一面には「二〇〇一年五月三日 新世紀の広布の山へ 全会員がスタート」というタイトルが大きく出ている。宮内は、  「はい。池田名誉会長は、かつて“二〇〇〇年までに確たる平和勢力を築きたい”とおっしゃっていますし、二十一世紀には……」と自分の意見を話し始めた。すると日顕は宮内の話をさえぎり、  「そんなことはどうでも良い! 貴様! 二〇〇一年とは何だ」  「西暦です」  「西暦とは何だ」  「西暦はキリスト生誕の年を基準として……」  「そうだろう。だから、学会はキリスト生誕二〇〇一年に向けて進むのか」  宮内は日顕が何を言いたいのか、ようやくわかってきた。  「立宗何年という言い方よりも、一般的に広く西暦が使われているので、こういうタイトルになったと思います」  仕方なく、宮内はまるで子供にでも諭すように説明した。すると日顕は、憮然として「もういい!」と言って宮内を部屋から追いだした。  宮内は愕然とした。創価学会は世界へ布教している。今や、西暦は世界の標準である。それを日顕はまるで“西暦を使うのは謗法(大聖人の仏法に背くこと)だ”とでもいうように難癖をつけている。そのような狭い料簡では世界広布など実現できるはずがない。法主であるならば、創価学会の並々ならない努力を理解し、称えていくべきではないか。日顕は世界に発展している創価学会に対して、僻んでいるに違いないと宮内は感じた。と同時に(こんなことでは僧俗和合はかなわない)と悲しい気持ちになった。  宮内が得度を志したのは僧俗和合を願ってのことだった。宮内は第一次宗門事件を通して、いかに僧侶が創価学会のことを理解していないか、痛切に感じた。山崎正友に踊らされた僧侶たちの策謀により、昭和五十四年四月二十四日、池田第三代会長は会長を勇退した。その三ヵ月後に日達法主が逝去し、日顕が六十七世に就任した。そして日顕は反創価学会の僧侶の集まりである正信会の僧侶二百名以上を擯斥(宗内から追い出す処分)にした。  だから宮内は、日顕は学会に理解があるものと信じていた。しかし、事実は違った。日顕が正信会の僧侶を擯斥にした本当の理由は、彼らが自分の相承に対して疑問の声をあげたからだ。彼らは反日顕の勢力だったから切られたのである。  宮内は得度してから、宗門の歴史が派閥抗争の歴史であったことを知った。そして日顕が決して学会擁護の法主でもないことにうすうす気がついて来た。そしてこの「西暦問題」で日顕が学会の世界広布を妬んでいることがよくわかった。  (一体、自分は何のために出家したのだろうか)と、宮内は暗澹たる思いに駆られていた。奥番を命ぜられた時、法主の側で修行できると歓喜した。しかし、日顕の側にいればいるほど、自分が出家したことに意義が見出せなくなってくる。このままでは、自分の信心までもおかしくなってしまう。広宣流布を忘れ、信徒を見下し、唱題を馬鹿にする人間になってしまう。奥番などになるものではなかった――そう心の底から悔やんでいた時に、宮内は奥番を免ぜられ、末寺在勤を申し渡された。宮内は「助かった」と喜び、御本尊に心から感謝した。  奥番を経験した者は一般の僧侶が知ることのない大奥の秘密を知る。年分の小森もその一人だった。  小森が奥番になってまず驚いたことは、日顕のファミリー主義であった。日顕の普段の食事も高価な食材が盛られているが、妻政子や娘の百合子が大奥に来た時は、さらに凄い。伊勢海老など、小森がめったに見たこともない贅沢な食べ物が大皿に所狭しと、並んでいる。  ある時などは、大奥の庭にじゅうたんを敷き、家族でバーベキューパーティーを行った。そのときは、わざわざ東京から最高級の食材を取り寄せていた。  話によると日達法主は公私の混同には厳しかったという。ところが日顕は、出家でありながら在家以上にファミリーを大事にするのだ。  それでも奥番にとって助かったことは、妻の政子が大奥にいると日顕が落ち着くことだった。政子は、極めて褒め上手だった。ある時は奥番の前で、  「御前様は、海軍時代は本当にステキだったのよ。とっても格好が良かったのよ」  とノロケて見せた。日顕は普段は絶対に見せない嬉しそうな顔で、  「いやー、これもなかなかだったぞ」と上機嫌だった。  政子が西片に帰ると途端に日顕はイライラしてくる。ちょっとしたことで怒り、奥番を怒鳴って憂さ晴らしをするのだ。  大坊慣れしている小森は多少のことには驚かない。小僧たちが中啓で叩かれるのもいつもの儀式だ。日顕から怒られても、その場さえしのげばいいのだから、どうってことはない。そんな小森でも、日顕の御本尊書写の姿を見た時には我が目を疑った。  その日、渉外部長が目通りを願って来た。大奥では、御本尊の書写をしている時には、一般の末寺住職の目通りは取り次がないことになっていたが、緊急の場合や、相手が役僧の場合には取り次いで良いことになっていた。小森は目通りを取り次ぐために、日顕が御本尊を書写する部屋に向かった。  日顕の邪魔をしないようにと、小森は静かにドアを開けた。すると、中から誰かの話し声が聞こえてきた。  (一体、誰の声だろう)と小森は耳を澄ませた。小森は「ハッ」とした。その声は、古今亭志ん生の落語の声だった。  落語好きの日顕は、昼間から落語のテープを聞いて過ごすことがよくあった。小森はきっと御本尊書写が済み、落語を聴いてくつろいでいるのだろうと思い、「失礼します」と声をかけて部屋に入った。  部屋に入った途端、小森は身体が硬直した。日顕が落語を聞きながら、御本尊を書写していたのだ。机の上にはテープレコーダーを置いてあり、カセットテープが並んでいた。  日顕は小森が部屋に入ってきた気配を感じ、顔をあげた。そして、小森の顔を見て日顕も驚いて書写の手をとめた。日顕の顔には明らかに動揺の色が浮かんでいた。「とんでもないところを小僧に見られてしまった」と顔をしかめているのだ。そして、慌ててテープレコーダーのスイッチを切った日顕は  「何だ! 貴様!」  と、立ち上がって小森を睨みつけ、大声を張り上げた。小森は驚きで声が出ない。日顕はさらに一歩前に踏み出し、「何だ! 何の用だ!」とわめいた。小森は、一瞬、(殴られるのではないか)と恐怖を感じた。  「すみません。渉外部長様が目通りに来られました」  小森はやっとのことでそう告げた。しかし日顕は興奮がおさまらず、  「わかった! あっちにいってろ!」と小森を部屋から追いだした。  小森は「見てはいけないものを見てしまった」と冷や汗をかきながら、逃げるように西奥番室に戻った。それでも、今見た光景が脳裏に焼きついて離れない。  (落語を聞きながら、御本尊を書写するなんて……)  堀日亨上人は、御本尊を書写する際の心構えとして「本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬いらるるもの」(『富士日興上人詳伝』)と述べられている。  つまり本尊書写は筆の巧みさで書写するものではなく、心を定め、清浄なる一念で臨まなければならない。そして御本尊の授与を願う主の真剣な信心に真摯に応えるものではなくてはならないのである。しかし、日顕は違う。「法主のワシが書いてやるのだ」という傲慢な態度で書写をしているのだ。だから、落語を聞きながら書写をするという不遜なことができるのである。  小森は奥番になった自分の運命を呪った。奥番であるがために、知らなくてもいいことを知ってしまう。本尊書写のことだけではない。小森は奥番になってはじめて法主の元に巨額の供養が集まることを知った。  年始の挨拶の目通りには、数百万単位の供養を持ってくる住職もざらであった。また、寺院の新築や増改築の願いを出す時にも住職は数百万の供養を持参する。ある住職は「この度、墓地を造りたいと思っております」と言って、五百万円を日顕にさしだした。  供養を持参するのは住職だけではない。ある信徒は本山に就職が決まった時、小切手を日顕に供養している。奥番が御供養の袋を預かり、「なんか小切手みたいだぞ」と言いながら、明かりに透かして見ると、そこには「壱千萬円」と書かれていた。  それらの供養を奥番が対面所から日顕の居間に運ぶ。そこで待っているのが、金庫番の石井信量である。そして、時には女房の政子、娘の百合子ら一族がその場に居合わせた。  日顕は供養の額が大きければ大きいほど、機嫌が良くなる。昭和六十二年、川崎市の持経寺住職の阿部が目通りに来た。何故か、阿部は段ボール箱を持って来た。小森は一体、中に何が入っているのかと訝しく思った。  目通りを終えた日顕は気味が悪いほど機嫌が良い。いつもの日顕ではないのだ。  「ふふふ。この箱を居間に運べ」  奥番に命ずる声まで優しい。小森はこの箱には何か大事なものが入っているに違いないと細心の注意を払って箱を持ち上げた。箱はずっしり重い。  「一億円だよ」  日顕が目を細めてそう言った。  (一億円!)  小森はあまりの驚きで手が滑りそうになった。  法主の権威には常に巨額の供養がからむ。だから、日顕は猊座を降りようとはしない。日顕はあるとき、奥番にこう言った。  「ワシは利息だけで一千万円入るんだ」  それが一日の利息なのか、ひと月の利息なのか定かでないが、日顕とその一族が巨万の富を築いていることだけは確かである。  (一体、こんな権力と金に塗れた本山の何処に大聖人の仏法の正義があるというのか。こんな世界に身を置いていると信心を失うだけではなく、人間性そのものが狂ってしまう)  小森が垣間見た大奥の世界は、広宣流布とかけ離れた腐敗堕落した世界であった。そこでは信徒の想像を絶することが行われていた。しかし、彼が見たものは氷山の一角でしかない。  奥番は目通りの最中、日顕が出入りする扉の外で控えている。だから、嫌でも日顕の話が耳に入ってくる。目通りの場は密室に近い。そのためか、日顕は気を許して、別の顔を見せることがある。その顔とは“遊びのプロ”である。  例えば、日顕がアメリカに赴任する住職に「黒人女にだけは手を出すな」と忠告したことは有名な話であるが、その後に日顕は次のように続けている。  「あれは、あんまり良くない。日本人には合わないんだ。病気をうつされ、男性自身がだめになる。あれは、よした方がいい」  “あれは、あんまり良くない。日本人には合わないんだ”――これは明らかに体験した者の言い方である。誰かから聞いたことを伝える言い方ではない。  日顕は海外に行く者は誰もが自分と同じように買春するものだと思い込んでいる。だから、平然とこのようなことを、はなむけの言葉として海外赴任者に贈るのだった。  日顕が買春を匂わす発言をしたのは、一度だけではない。平成元年五月、吉川がワシントンの妙宣寺に赴任することになった。その入院式に参加する数名の住職と共に、学衆課の吉岡も日顕に目通りした。日顕は機嫌良く、彼らに話しかけ、突然、次のように言った。  「なんかロウソク病と言うのがあるらしいぞ。怖いらしいぞ。女と接触するとあそこが溶けてしまうらしい」  この言葉も相手が買春することを前提にしている。「気をつけて遊べ」と、忠告しているのだ。吉岡はまさか、海外に行く報告の目通りでこんな話がでるとは思わなかったが、彼はある老僧が「今の猊下はプロだよ」と言っていたのを思いだしていた。  「たしかに、普通の遊びをしている人の話ではないな」吉岡は大奥の階段を降りながら、ひとりごちた。  また、このようなこともあった。ある住職が結婚の報告で相手の女性を連れて目通りをした時のことである。その場には、たまたま数人の僧侶が同席していた。後に離脱をした大山もその中にいた。  日顕は報告に来たその住職に二人の年齢を尋ねた。  「はい、私が三十歳で、妻は十九歳です」  すると、日顕はその女性の身体を舐め回すような視線を向け、その住職に向かって言った。  「そうか……。お前、おもしろがって壊すなよ」  大山は一瞬、言葉を失った。「猊下がそんなことを……」  ところが、回りの住職は「ククク……」と下卑た笑いを押し殺しながら、にやけた顔でその女性をながめている。まるで女性を玩具のように表現している、それが日顕の女性観であるが、その場にいた住職たちも同じような感覚であったのだ。  その女性は、日顕の言葉に唖然としていた。信じられないという顔つきである。小森は奥番であったがために、幾度もこのような場面に遭遇した。品性がない、日顕の卑猥な言葉に日顕の正体を見た気がした。いくら権威で人間をひれ伏せさせることができても、その心まで支配することはできない。小森は日顕に対する尊敬を失っただけでなく、日蓮正宗そのものに疑いを持つようになり、やがて還俗を決意した。 第5章 唱題禁止令  昭和三十四年、日達法主が猊座につき、年分得度制度が作られた。これは十二歳の少年を本山の法主の元で得度・修行させる新しい得度制度である。それまでは末寺で得度者をつのり、得度した者はその末寺の住職の元で修行をし、ある時期になると本山にあがっていた。  吉岡は昭和三十七年、その三期生として得度した。彼の両親は学会員であった。毎日のように折伏に走る母。母親は何かあると御本尊の前に座り、唱題にいそしむ。そんな家庭で育った彼にとって、信心とは折伏と唱題に他ならない。ところが小学校六年生で得度した吉岡らに、大坊の先輩が贈った歓迎の言葉は思いもよらないものだった。  「いいか。僧侶になった、出家したということ自体が信心のある結果だ。だから、これからは信心を深めることは一切、考えなくてよい。折伏もしなくてよい。題目もあげてはいけない」  汚れない子どもの生命はどんな色にも染まってしまう。真っ白なタオルが泥水を吸って黒く変色していくように、大坊の唱題蔑視の風潮は小僧の心に浸透し、唱題する者はいなくなっていった。そして同時に小僧たちは、唱題や折伏に励む信徒を自分たちより劣っている存在として蔑むようになるのだった。  吉岡も一度は先輩の言葉を鵜呑みにし、唱題をやめてしまった。しかし、彼が中学一年生のとき、たまたま茶の間にあった『聖教新聞』が彼を変えることになる。当時の本山は形ばかりは僧俗和合を唱えていたので、『聖教新聞』を茶の間においていたが、“在家の新聞など読む必要はない”という暗黙の了解で、本山の僧侶は誰一人新聞を手にとることはなかった。  ある日、吉岡はその手つかずの『聖教新聞』を何気なく手にし、紙面をめくった。報道されている創価学会の会合の様子は熱気を帯び、「広宣流布」という四文字が踊っている。十三歳の吉岡には全く別な世界の話を読んでいるような気がした。しかし、ある体験談を読むうちに、本山で過ごした一年間に忘れてしまっていた「感動」という感情が彼の胸に沸き起こり、その場に立ちすくんでしまった。  『聖教新聞』を読んでいるところを先輩に見つかったら、何と罵られるかわからない。彼は新聞を白衣の袂に隠して、部屋に持ち帰り、何度もその体験談を読み返した。宿業の壁を題目で乗り越えた名も無い学会員の姿に、母親の姿が重なった。様々な困難を唱題で乗り越えて自分たち兄弟を育ててくれた母親。そして自分が得度したことを涙を流して喜んでくれた母親。「我が子を広宣流布のために捧げることができてこれほどの幸せはない」と語った母親の言葉がよみがえり、吉岡は涙を止めることができなかった。  その体験談に出てくる御書の一節が吉岡の胸に突き刺さった。  「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり」  大聖人は「唱題こそ成仏の道である」と言われているではないか。先輩たちの言うことはやはり間違っている――消えかかっていた信心に再び炎が灯った瞬間だった。  それから吉岡は、茶の間にある『聖教新聞』を隠して部屋に持ち帰っては体験談を貪り読んだ。蘇生のドラマの陰には御書があり、池田会長の指導がある。御書と指導に傍線を引きながら、吉岡はあらためて大聖人の仏法の偉大さを知った。そして、その仏法を現代に展開する学会の姿と池田会長の奮闘に感銘した。  吉岡は一日一時間の唱題を決意する。しかし、唱題をするために六壺に向かうことは容易ではなかった。  先輩に見つからないように裏口に回り、人がいないのを見計らって入らねばならない。たまたま先輩に見つかったことがあった。  「お前、六壺に何しに行くんだ」と聞かれ、吉岡は恐る恐る「唱題しに行きます」と答えた。すると、その先輩は、  「はあ? 唱題? お前、おかしいんじゃないか」と吉岡の顔をまじまじと見ながら言った。まるで変人扱いであった。  六壺は正応三年(一二九〇)、日興上人が創建した。六室に分かれていたところから六壺と呼ばれるようになったと伝えられている。本山の朝晩の勤行はここで行われる。その信心修行の場で唱題をしようとすれば変人扱いされる。吉岡は(やはり、今の宗門は何かが狂っている)と思わざるを得なかった。(大聖人、日興上人は必ずわかってくださる)そう自分を励ましながら、吉岡は唱題を続けた。  そのうち、吉岡が六壺で唱題をしていることが噂になり、彼は周りの者から白い目で見られるようになる。「僧侶のくせに唱題をする変な奴」と言われ、「唱題の吉岡」とあだ名をつけられ、馬鹿にされた。普通に考えれば「唱題の吉岡」と言われれば、最高の誉れであろう。それが宗門では蔑称になった。しかし、吉岡は「凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」の御書の一節を読み、(やはり御書の通りだ)とかえって確信を持ったのであった。  吉岡は本山の怠惰な住職や、中学生のくせに喫煙などを覚えて非行に走る大坊の学生たちを見て憐れに思った。彼らは真実の仏法に縁をしながら、題目の本当の力を知らない。題目を唱えると、沸々と勇気が湧いてくる。一週間前の自分、ひと月前の自分と今の自分を比べて、一歩も二歩も成長できたと実感することができる。吉岡は体験を重ね、さらに(自分は間違っていない)と確信を深くした。  普通の子どもがそうであるように、自分のことしか考えられなかった吉岡だったが、いつしか自分が身を置いている宗門のことを憂うるようになっていった。聖教新聞を読めば、創価学会は急激な勢いで発展していることがわかる。そのおかげで宗門がかつてない隆盛の時を迎えている。ところが肝心の僧侶がこのていたらくでは、必死の思いで折伏している信徒の方々の足を引っ張ることになりかねない。(このままの宗門ではいけない)という思いが日に日に強くなっていた。  吉岡は昭和五十四年から本山の学衆課に配属された。ちょうど第一次宗門事件の時である。その事件の中心にいたのは大坊で育った彼の仲間であった。彼らの信心はあまりにも未熟であったと言わざるを得ない。唱題を軽視し、折伏の経験のない大坊育ちの小僧たちに大聖人の精神など理解できるわけがない。またそんな彼らに現実の社会の中で想像を絶する苦労をしながら、広宣流布を進めている学会員を非難する資格などない。  しかし、当時の宗門においては「僧侶は上、信徒は下」という差別観が横行していた。信心の修行は無視され、袈裟・衣を着している者が聖なる存在であるという考えが当たり前のものとして受け入れられていた。その結果、修行によって自己を向上させようという考えは薄らいでいく。「差別」という便利な装置がある。相手の地位を貶めれば、自動的に自己の地位が上がるのだ。  衣の権威の上に胡座をかくだけで飽き足らず、信徒の浄財で贅沢をする者も少なくない。高級品で身を飾り、有名な料亭に通う。本山の住職たちは、暇があればマージャンに興じていた。  自分たちが不自由なく生活できるのは信徒の供養のお陰であるのに感謝をしない。供養は信徒の義務だと思っているからだ。中には「信徒は我々に供養することによって功徳を受けることができるのだから、我々に感謝してもらわないと」と言う者もいる。そして自分より下だと思っている者が少しでも評価されると「信徒の分際で」とねたむ。  彼らは学会の発展を恐れていた。信徒が必要以上に力を持つと、自分たちの優位な立場を脅かす存在になると感じていたからだ。第一次宗門事件は起こるべくして起こったのだ。本山の実態を知っている吉岡には僧侶が衣の権威で信徒を押さえつけるようになることは当然の帰結のように思えた。  大聖人の仏法の正統を誇る大石寺の僧侶が、どうしてここまで堕落してしまったのか?――得度して以来、吉岡が抱えていた大きな疑問だった。いや、正確に言えば、問題点は明らかである。折伏・唱題という実践がないということである。解決法も明らかである。その実践を奨励すればいい。ところが、これほど明らかなことができないのだ。なぜなのか。それが吉岡の疑問であった。  大坊の小僧に関しては、その教育の問題が大きいが、本山の住職たちは大坊で育ったわけではない。ほとんどは末寺の住職を師僧として指導を受けて来たはずである。その住職たちが唱題をしないという事実は、宗門には昔から唱題を軽視する風潮があったことを物語っている。  いまの宗門は大聖人の御遺命である広宣流布を忘れ、他宗派と同じように「葬式仏教」と化している。そこに問題の本質があると、吉岡は結論をくだした。  日本の仏教寺院は、徳川幕府の時代に民衆支配のための末端機構として組み込まれた。それが「檀家制度」である。この制度の目的はキリシタン禁制であり、幕府は全国の民を強制的にいずれかの寺院の檀家とし、キリシタンであるか否かを判定する権限を寺院に与えた。もし、キリシタンと見なされれば本人はもちろんのこと、一族が罪人とされる。寺院はキリシタンでないことを証明する「寺請証文」を出す権限を持ち、僧侶が民衆の生殺与奪の権力を握ることとなった。  この檀家制度はさらに宗教儀礼と結びついていく。そこで利用されたのが「宗門檀那請合之掟」である。これは偽造された文書であったが、幕府の命令であると徹底され、“盂蘭盆・彼岸・先祖の命日などに寺に参詣しないものはキリシタンと見なして役所に届け出る”などと定められた。寺院は年忌法要を行うための台帳として過去帳を作成し、民衆支配の体制を作り上げていった。当時は布教が実質的に禁止されていたため、寺院が行うのは葬儀・法要などの儀礼だけとなり、寺院は檀家からの収奪によって生活が安定し、僧侶の腐敗が急速に進んでいった。  大石寺の化儀の多くはこの檀家制度の名残であると言っても過言ではない。事実、宗門は今でも僧侶による儀式執行が成仏に不可欠であると主張している。  吉岡は宗門には抜本的改革が必要であると漠然として感じていたが、何をどうすれば良いか見当がつかなかった。しょせん、一僧侶でしかない自分に出来ることは限られている。吉岡は自分の無力さに打ちひしがれていた。そんな時に、降って湧いたように学衆課配属の辞令がでた。吉岡は(きっと何か意味があるに違いない)と密かに決意をしていた。  学衆課の前身である「小僧世話係」は日達法主により昭和四十九年四月、内事部に設けられた。その目的は所化教育の改善だった。年分得度制度により、小学校六年生から高校三年生まで百五十名以上の小僧が大坊で生活をするようになった。しかし、その小僧の面倒を見る者は、大学を卒業して本山に一年間在勤する所化しかおらず、小僧の教育はおざなりであった。そこで設置されたのが小僧世話係である。  当時の御仲居であった光久のもと、小原と駒井がその任に命じられた。駒井は吉岡と同じく、昭和四十八年度の一年在勤の所化であったが、在勤解除後、駒井は本山に残って小僧の面倒を見ることとなった。たしかに、毎年、教育係が変わるよりも、専属で小僧の面倒を見たほうがよい。ところが、たった二人で百人以上もの小僧の面倒を見ることは実質的に不可能に近い。結果は以前と同じで、小僧は野放し状態であったが、ある意味では、以前より事態は悪い方向に向かっていた。教育熱心な者が担当になっていたなら、それでも所化教育は改善の方向に向かったかもしれない。しかし、大坊育ちの駒井は自分のされたことを教えることが教育だとしか考えていない。何かあれば、小僧を殴るのが駒井の仕事となった。教育係が子どもに暴力をふるう。狂った世界が大坊ではじまった。  駒井の暴力は確実に大坊を腐らせていったが、すぐには明るみにはならなかった。しかし、病んだ体の膿が噴出するような事件が昭和五十二年に立て続けに起こった。  昭和五十二年九月、中学三年生の小僧が駒井に殴られた腹いせにウイスキーを一晩で一本を飲みつくして急性アルコール中毒で死亡した。発見された遺体は殴られた傷と死斑で全身まだらになっていた。駒井は責任を逃れるために医師に「内緒にしてくれ」と頼み、事件にはならなかった。  その半年前にも大坊の寮が火事で焼け、逃げ遅れた中学生が死んだばかりだった。この小僧も駒井に叱られてふて寝していたと噂されていた。一年に二人の小僧が死亡するなど、前代未聞の出来事である。事態を重く見た本山は、昭和五十三年から学衆課に石橋と東野の二人を増員させた。しかし、彼ら学衆課の体罰主義は変わらず、大坊は荒れていった。  どの高校でも大坊の学生は学校をサボり、遊びに行く。教師の間では「大坊の子は手に負えない」と敬遠された。毎日のように先輩や学衆課に殴られて育っている小僧たちは、喧嘩だけは滅法強い。不良と呼ばれている高校生たちも大坊の高校生だけは避けていた。  その後、東野がアメリカの寺院赴任のために学衆課を去り、石橋は正信会の僧侶を一晩泊めたことを咎められて東京の大宣寺にだされた。そして昭和五十四年に吉岡が学衆課に配属された。吉岡は大坊の改善のためにはまず、学衆課に信心のある者が必要だと思い、昭和四十八年に一年間一緒に本山に在勤した佐川に会いにいった。  佐川は創価学会の高等部出身で、吉岡と同様、“信心とは唱題である”という信念を持っていた。吉岡から見れば、佐川は唯一、唱題の意義を話せる貴重な存在だった。いわゆる青年得度の佐川も、宗門の唱題蔑視の風潮に疑問を抱いていた。吉岡は佐川に率直に言った。  「大坊の改革のために君の力を借りたい」  吉岡の突然の誘いに佐川は戸惑った。  「私は吉岡さんと違って年分得度ではありませんから……」  佐川は年分ではない引け目を感じていたのである。宗門では青年得度は臨時得度の略である「リントク」と呼ばれて差別されていたからだ。しかし、吉岡は力強い声で答えた。  「あなたは学会の高等部で訓練を受けている。だからこそ、宗門に新風を吹き込むことができる」  その吉岡の熱意に打たれて、佐川は宗門改革のためになるならば、と立ち上がり、吉岡の推薦で昭和五十六年に学衆課に配属された。  昭和五十六年、宗門は日蓮大聖人第七百遠忌を奉修した。その年、日顕は“七百遠忌記念大処分”と揶揄された程、大量の所化の離弟処分を行った。当時の大坊は荒れており、多くの小僧が喫煙や万引きなどの非行に走っていたのだ。  「どうしようもない悪い小僧はクビを切る。若いのだから、仕事を探せばよい」  そう言って日顕は処分を断行した。約半分が処分された学年もあった。  吉岡と佐川は“処分することで大坊の問題を改善することはできない。今こそ、大坊を抜本的に変革しなければならない。そのためには唱題会を行うしかない”と決断し、日顕に唱題会の許可をもらうために目通りを願った。最悪の場合は二人とも学衆課をクビになるかもしれない。それでも構わないと、二人は決死の覚悟で臨んだ。  対面所で二人は日顕に懇願した。  「唱題会を始めさせてください」  「唱題会?」  日顕は考え込むようにして腕を組んだ。  「大坊を良くするためにお願いします」  二人は畳に手をついて土下座した。しばらく日顕の沈黙が続いた。  「うん。いいだろう」  日顕は“仕方がない”という表情で答えた。  日顕にとっても小僧の非行問題は深刻な悩みであった。達師の弟子を処分することには躊躇をしなかったが、自分の弟子を処分することには抵抗があった。なぜなら、それは自分の勢力を減らすことになるからだ。万策尽きていた日顕は二人に賭けるしかないという思いで唱題会を認めた。吉岡と佐川の二人は喜びで小躍りするように大奥を辞した。そしてここに大坊の歴史始まって以来の唱題会が開始された。  大坊は夜九時に点呼が行われる。吉岡らはその点呼の際に、御書の一節を通して、また『聖教新聞』の体験談を読んで聞かせて、題目の功徳を訴えた。そして点呼後、全員が六壺で毎日一時間の唱題会を行った。また、日曜日は各学年別に座談会を持ち、御書を通して小僧たちに信心の基礎を教えていった。  この唱題会によって、大坊の雰囲気は一変した。非行がなくなり、上野中学校での小僧たちの成績は向上した。地元の高校から“入学試験で同じ点数なら大石寺の学生を取りたい”とまでいわれるほど評判がよくなった。  しかし、その一方で末寺の住職たちから、「最近、本山では“唱題をしろ”と変な指導をしている」という批判があがり、「うちの子どもが休暇で帰ってきたら、唱題ばかりして困る」という苦情が本山に寄せられた。学衆課の主任になっていた吉岡は、(大坊の運命は自分の肩にかかっている。ここでやめたらすべてが水の泡だ。絶対にやめてはいけない)と、それらの批判を無視して唱題会を続けた。  その当時、藤本総監の次男が本山にいた。彼は内気で人と話すことができず、大坊の生活に耐えられないだろうということで、特例だが親元の東京・常泉寺で暮らしていた。ただ、それでは本山にいる子どもと差がつくというので、学校の長期休暇を利用して本山に短期在勤するようになっていた。彼は本山の唱題会に参加し、題目をあげると不思議に勇気が湧いてくると感じ、常泉寺に戻ってからも唱題を続けた。彼が一度、「題目をあげたいと思うけど、あがらない」と吉岡に相談にきたことがあった。吉岡は『聖教新聞』の体験談を読むことを勧めた。彼はそれをきっかけに『聖教新聞』を読むようになり、体験談のスクラップを作りはじめた。  ある日、総監の妻・礼子から吉岡に電話がかかってきた。吉岡が電話を取ると礼子は挨拶もなしに、いきなり、  「うちの子が最近おかしい。『聖教新聞』の体験談を切り抜き、一日二時間もお題目をあげる。あなたが変なことを教えたんでしょう!」  と怒鳴りつけてきた。  吉岡は「少し前に火事で死んだり、酒を飲んで死んだりする事件がありましたが、ここまでよくなったのは唱題会のおかげです」と唱題会によって大坊が変わったことを説明したが、礼子は聞く耳をもたない。「とにかく息子の唱題をやめさせなさい」の一点張りだった。吉岡は総監の息子のことを思い「いいえ、やめさせません」ときっぱり言った。すると礼子は「結構です。直接、猊下に言いますから」と言って、受話器を叩きつけるように電話を切った。  その数ヵ月後、昭和五十九年八月の行学講習会で、日顕が怒気を含めて話し始めた。  「この中で二時間も題目をあげているヤツがいる。あげすぎだ、すぐにやめろ。そんなに題目をあげればいいというものではない。ほかにもやることがあるはずだ。三十分ぐらい真剣に行うのはよいが、それ以上は弊害がある」  この日顕の話は正式な法主の指南として『大日蓮』(昭和五十九年十月号)に掲載された。  日顕が「三十分は良い」と言ったのには理由があった。日顕は吉岡との目通りで、「ワシもかつて、一度だけ、三十分唱題したことがある。教学部長の時、海外のメンバーに頼まれて一緒に唱題した。十五分を過ぎると、何とも言えない、すがすがしい気持ちになった。こんな気持ちになったのは初めてだった。これが仏界かと思った」と話したことがあった。  日顕は自分の体験を基準にしていたのである。三十分以上、唱題をしたことがない日顕は、弟子が自分よりも題目を唱えることなどあってはならない、すなわち、弟子が自分を超えることを許してはならないと考えたのだ。  日顕の指南を聞いた高校生たちが学衆課に来て、「今日の猊下の説法はおかしいんじゃないですか」と疑問の声をあげた。しかし、この日顕の指南により唱題会は中止になった。  吉岡と佐川はすぐに日顕に目通りし、「いま唱題会を禁止したら大坊は元に戻ってしまいます。唱題会の中止を取り消してください」と直訴した。  しかし、日顕は「貴様ら、ワシにたて突くのか!」と怒るばかりで、吉岡たちを目通り禁止にしたうえ、「今後、二度と『題目をあげろ』と指導してはならん」と厳命したのであった。  唱題会が中止になり、大坊は坂をころがり落ちるように元のすさんだ状態に戻っていった。イジメや暴力が復活し、学校の成績は低下した。万引き、喫煙等の非行に走る子どももでてきた。  その後、日顕は学衆課のことは、当時の御仲居を通すようになった。また、佐川は神奈川の寺院へ赴任させられた。  日顕が唱題会を中止させた翌年、昭和六十年に日顕の孫である正教が得度した。日顕は孫の得度に合わせたように、数年前から小僧の待遇の改善を始めていた。年間約五千万円の予算をつけ、南寮、北寮の改修から始まり、風呂場も新装され、体育館が作られた。特に体育館は日顕の妻の政子が「この体育館には、お寺が一つできるだけのお金を使ったのよ」と言ったように、バスケットボールのゴールリングが電動で高さや位置を調節できるなど、最新の設備が整っていた。また、食費の予算も一食二百円が千円になり、それまで“一汁一菜”に近かった内容が、肉中心の豊富なメニューに変わり、朝からステーキがでることもあった。  こうした待遇改善がほとんど終わったころ、日顕の孫が大坊に入って来た。得度試験の受験者名簿の中に、「阿部信康 大修寺・阿部信彰 長男」の俗名を見つけた学衆課の僧侶たちは、「なんだ、孫が入る準備をしていただけじゃないか!」と叫んだ。  この日顕の孫・正教が得度した昭和六十年の大坊在勤式で日顕は「暴力はいけない」と言いだした。それまで、日顕は「小僧は多少、殴らないとわからない」と自から中啓で小僧を叩いていた。その日顕が暴力を禁止しようとしたのは、明らかに孫を守るためであった。しかし、当の正教は得度式のときから、白衣の帯で同期生を叩いて暴力をふるっていた。  この昭和六十年に得度した年分の期は、日顕の孫をはじめとして、庶務部長の息子や能化の孫など、有力僧侶の子どもが集まっており、後に“史上最悪の年分”と呼ばれるようになる。  日顕が突如、暴力禁止を打ち出したため、こんどは後輩の所化たちがどうせ暴力はふるえないのだろうとタカをくくって先輩たちをからかい始めた。法主の孫や役僧の息子が相手では先輩たちもうかつに手をだすことはできなかった。  やがてこの“史上最悪の年分”は次々に問題を起こすようになる。その先頭を切ったのが日顕の孫・正教だった。正教は得度して一カ月もしないうちに、同級生や大学を卒業して本山に一年在勤する所化の部屋から金を盗んだ。その金額の合計は五十万円を超えていた。あまりにも多額であったため、学衆課の吉岡が問いただすと正教は親のタンスから盗んだ金も含まれていることを白状した。  唱題会の件で“目通り適わぬ身”となっていた吉岡は御仲居を通して、この正教の窃盗の件を日顕に報告した。そのとき、吉岡は正教の将来を考え、「猊下の孫なので影響が大きいですからクビにだけはしないでもらいたい。必ず学衆課の我々が立ちなおらせますから」と日顕に伝えてもらうように頼んだ。しかし、日顕は「そういうわけにもいかん」と言って、正教を下山処分にした。正教は、祖母・政子のいる東京・西片の大石寺出張所に“預かりの身”となった。  「下山処分」というのは擯斥と同じで「還俗」を意味していた。しかし、日顕にとって自分の血を継ぐ者が金を盗んで還俗することなどあってはならないことだ。結局、正教は半年ほどで本山に帰ることを許された。これが先例となり、有力な僧侶の子どもが問題を起こして下山処分になっても、数ヶ月で本山に戻ることが当たり前のことになっていくのであった。  早瀬庶務部長の息子の正寛も信じられない問題を起こしている。その当時、本山の塔婆は塔婆室勤務の僧侶が書いていたが、塔婆の「妙法蓮華経」の題目は高校生の所化が書いていた。彼らは早く終わらせたいために、書く速さを競い、題目をぐしゃぐしゃに書きなぐり、とても「妙法蓮華経」とは読めない題目を書く者も少なからずいた。そのため、塔婆の題目は印刷されることになった。  と同時に、故人の名前や戒名を高校生が書くことになった。ところが問題の本質は変わらず、高校生は題目を書いていたときと同じように、作業を早く終わらせるため、故人の戒名等を書きなぐる。判読しがたい文字が書かれた塔婆が増えていった。きわめつけが庶務部長の息子の正寛だった。正寛は、戒名を書く代わりになんと、棒を一本、上から下に引いただけの塔婆を書いたのだ。前代未聞の事件だった。  この事件が起こった背景には、本山の塔婆申込みの増加があった。あまりにも申し込みが多くなり、十万本以上の申し込みが溜まってしまったのだ。この経過については、日顕が平成二年四月の「全国宗務支院長会議」において、次のように発言している。  「何万本とたまっちゃって。八万本とか十万本、そうじゃないもっとだ。十何万あるといったな。そのまたお題目が高校生が書きなぐりに書くものだから、ふためと見られないお題目。それで、どうしますというから。それよりも私がお書きして統一したほうがよいだろう。それで(印刷塔婆にして)今、多少は体裁がよくなったんです」  塔婆の回向は、六壺で朝晩の勤行の導師を行う学衆課の僧侶が行うことになっていた。申し込みが増え続け、一回の勤行で何百という数の回向を行わなければならなくなっていた。しかし、回向は済んでも塔婆が書かれていないという状況が続き、やがて回向さえも追いつかないほどに申し込みが溜まっていった。  吉岡はこのままではいけないと思い、昭和六十二年に御仲居に塔婆供養の申し込みを制限して減らすようにしてはどうかと進言した。そのとき、御仲居は、「猊下はどんどん塔婆供養をやる方針だ。塔婆供養は本山の大事なドル箱なんだから」と答え、吉岡の進言を無視した。  日顕の発言どおり、この書き切れない塔婆は溜まり続け、ついに十万本を超えた。困り果てた塔婆室は内事部の理事たちに相談し、理事たちがそのことを日顕に報告した。それに対して日顕は、  「今までたまっている十数万本分は、九尺(約三メートル)の塔婆を一本立てて、それで済ませばよい」  と指示をした。当時の塔婆料は一本千円であった。十万本以上であれば、総額一億円を超すことになる。「故人の成仏のため」と言って塔婆供養を奨励しながら、いざ多くなったら「書けないから」という理由で、塔婆を立てずに処理をする。日顕らがこんないい加減なことができたのは、彼らが信徒を見くだしていたからである。  これは塔婆供養の問題だけではなかった。納骨作業の実態も目を覆うばかりであった。本山ではある時期、納骨の作業を中学一年生に担当させていた。彼らは学校が終わると納骨の受付事務所に行く。その受付の裏に作業場があり、子どもたちはそこで納骨の壷の入れ替え作業などをさせられた。  本山の納骨には「一時預かり」と「合葬」がある。一時預かりのお骨は本山の規定の骨壷に入れ替える。そこに入りきらずに残った骨はすべて合葬の袋に入れられた。その合葬の骨を納める袋は茶色の米袋だった。その中に、入れられるだけ、何十人分もの骨を入れるのである。それが大石寺の合葬方式だった。  お骨を預けた遺族の気持ちなど想像できない子どもたちは、ふざけながら作業をしていた。一緒に作業している青年得度者たちは気が気でなかった。骨壷には番号と故人の名前を書くが、それを間違える子がいるからだ。最後のチェックで訂正することもあったが、完全とはいえなかった。  合葬の骨を入れた米袋は、納骨堂の地下に無造作に入れられた。上から、乱暴に放り投げるため、その衝撃で袋が破れたり、湿気と重なった袋の重みで袋が破けたりして、骨が外に散らばることもあった。青年得度の岡本は合葬の改善を求めるため、その破れた米袋を写真に撮った。彼の離脱後、その写真が公開され、多くの学会員に衝撃を与えた。  大石寺が米袋に不特定多数の骨を入れていたことを知ったNST(アメリカ日蓮正宗寺院)の顧問弁護士が宗門に「海外信徒にとって、合葬はナチスによるユダヤ人虐殺の結果としての集団埋葬がイメージされる」「合葬の事実が発覚すれば訴訟問題に発展する恐れが十分ある」と警告した。その結果、海外信徒の遺骨だけは「合葬」「一時預かり」の区別なく、すべて持参した骨壺のまま保管していた。  大石寺の納骨の問題はこれだけではなかった。昭和五十四年九月下旬、大石寺は、納骨堂の地下が一杯になったため、遺骨が入った百袋以上の米袋を、境内の大納骨堂と十二角堂の中間の空き地に埋めていたのだ。  離脱した僧侶や本山の従業員などの証言により、その事実が明るみになり、遺族を中心に「大石寺納骨被害者の会」が結成された。同会は大石寺側に対し再三、説明を求めたが、誠意ある回答がなかったため、平成十二年三月、訴えを起こした。そして平成十五年四月八日、東京高等裁判所は、大石寺に対し、原告の遺族各自に五十万円、合計二百万円の慰謝料の支払いを命じる判決をくだした。  裁判で大石寺側は、遺骨を埋めたことは認めたが、その場所は日達上人が決めたことであり、遺骨を埋めた際、「意義のある極めて重要な儀式」をとり行ったと主張した。そして、その証拠として日達上人が大奥の庭で大事に育てていた由緒ある大杉の苗木を五本植えたと述べた。また、その埋めた場所は総本山内においても特に聖地ともいうべき霊域であるとも言った。  しかし、東京高等裁判所は、この大石寺側の主張について、「多くの疑問があり、信用することができない」とし、その行われたという法要については、大石寺、日蓮正宗の記録には何も残っていないし、何らかの方法で公表されたこともなく、遺族に知らせたこともない、と指摘した。  遺骨を埋めた場所に植えられたという五本の杉についても、この裁判中の平成十三年に四本が伐採されて、一本しか残っていないことから、「普通の樹木にすぎなかったと考えられる」とし、場所についても、「境内の東のはずれの林の一画で誰でも立ち入れる場所」にすぎないと判断された。  判決は宗門の行為を以下のように断じた。  「遺族の全く知らない間に、境内の誰でも立ち入れる一画に穴を掘って袋に入った大量の遺骨を埋めて土をかぶせ、その上に数本の杉を植えたというにすぎない」「法要等の慰霊の措置は何らとられていないし、遺骨が埋葬された場所にふさわしい施設も全く設置されていない。要するに、遺骨を境内の一画に投棄したと評価されてもやむをえないものである」  また、判決では他宗派の納骨方式にも触れ、主な宗派では遺骨が丁重に保管され、遺族が参拝できる施設を有しているのに比べ、日蓮正宗の杜撰な遺骨管理は国民の宗教的感情に適合しないことが指摘された。  この裁判により、大石寺の反社会的な体質が浮き彫りにされたが、この納骨問題は本山だけではなかった。末寺も同じ有様だったのである。神奈川の持経寺では、子どもの遺骨を汚れたコーヒーカップに入れ、山口の弘法寺では湯呑み茶碗を骨壷にしていた。また、多くの末寺が無許可で納骨の保管業務を行っており、地域住民の告発により、書類送検が相次いだ。  これらの末寺の杜撰な納骨管理の実態は、日蓮正宗の僧侶が宗教性を失っていることを物語っていた。  日顕の孫の正教が下山処分された日の夜の点呼で、吉岡は大坊の小僧に向かって言った。  「どんなに偉い人が言ったことでも題目をあげるなとか、唱題を禁止するというのは間違っている。かまわないから題目をあげるんだ」  やむにやまれぬ気持ちからでた言葉だった。  この吉岡の発言が大坊の小僧に勇気を与え、小僧たちは自主的に唱題をあげ始めた。しかし、その結果、末寺住職たちの吉岡に対する批判はいっそう激しくなり、吉岡は昭和六十三年六月に京都の寺へ赴任するように命じられ、本山を去ることになった。その直前に、駒井が御仲居に抜擢された。  題目の吉岡を追い出し、暴力の駒井を登用する――この人事が大坊の破滅の始まりとなるのだった。 第6章 大学科の失敗  昭和五十九年八月、本山で行われた教師講習会の席上、日顕が宗門大学の設立を発表した。この年は日顕が「創価学会分離作戦」、いわゆる「C作戦」の準備を開始したともいえる年でもあった。  日顕はこの年の一月に池田名誉会長を法華講総講頭に復任させた。しかし、それは創価学会に二百カ寺寄進を納得させるための手段に他ならなかった。  創価学会は日顕が突きつけた難題に関して、“宗門外護のために”と二百カ寺寄進を決定した。日顕は「おんぶにだっこで申し訳ない。私が命のあるかぎり学会をお守りします」と殊勝な態度を見せたが、その裏で本山の僧侶に対して、学会に二百カ寺寄進させるために「ワシは下げたくない頭を下げたんだ」と本音を吐いていた。要するに日顕は、できるだけ多くの寺院を学会に寄進させようと企んでいたのである。寺院を増やして宗門の基盤を整える必要があると考えていたからだ。  また、この年の三月に日顕の息子である阿部信彰がブラジル・一乗寺住職の任を終え帰国した。日顕は信彰を東京・府中の大修寺に入れる。学会に対抗するためには自分の弟子をまとめる必要がある。信彰は日顕の弟子の中心的な役割を果たす、大事な手駒の一つであった。また、府中にいれば、東京の寺院の監視役にもなる。東京には妙観会の中心者の一人の菅野、日達法主の長男の細井、法道院系のグループ・法器会の中心者である早瀬など有力な僧が多くいる。その動きを知らなければ宗内を抑えることは難しい。  日顕は大学科の構想を発表する直前に、大坊の唱題会を禁止した。日顕は大坊の小僧が何時間も唱題していることを知り、「自分の弟子が在家のような考え方になるのではないか」という危惧を覚えた。当時、学衆課の主任は吉岡であったが、小僧たちに「唱題をしろ」などと学会幹部のような指導をする吉岡は、日顕の目に危険な存在として映った。大学科が開設した昭和六十三年、日顕は吉岡を京都の寺に赴任させ、体よく本山から追い出した。そして、その直前に日顕は駒井を御仲居に抜擢した。駒井は反学会の急先鋒であり、ロボットのように日顕の言うことを聞く。本山の自分の弟子をコントロールするには、うってつけの存在であった。  昭和六十年二月、宗内の各方面の代表僧侶五十数名を集めて、「宗門大学検討会」が行われた。その席で、高野日海が「そんなもの作って、一体誰が行くんだ! 行く者なんかいやしない!」と強硬に反対した。大学科の設立に対して宗内から多くの疑問の声があがっていた。高野はそれを代弁したのだった。  当時、宗門の学生のほとんどが、立正大学をはじめとした他宗派が運営する仏教系の大学に進学していた。“それでは大聖人の仏法を正しく研鑽することができない”というのが、日顕が大学科の構想を発表した表向きの理由であった。しかし、その裏には、創価大学の創立者である池田名誉会長に対する日顕の露骨な嫉妬と対抗意識があった。自分を頂点とした僧侶支配の教団を作る。その考えにとりつかれていた日顕にとって、信者が大学を持っているのに自分には自前の教育機関がないということは許しがたい恥辱であった。大学科の創立者として自分の名前を宗史に残す。日達法主にも出来なかったことを自分がやるのだと、日顕は妄想ともいえる野望を抱いていたのだ。  日顕は、自分が作った大学科「法教院」に小僧たちを行かせるため、規則の改変を行う。法教院卒業生には本山での一年在勤後、無試験で講師に昇進する特典をつける一方で、一般の大学卒業者は高卒扱いにするという差別化をはかった。高卒者は一年在勤の後、訓導を四年、少講師を三年経て、検定試験を受けて講師になる。つまり、小僧は法教院に行かないと出世が七年遅れることになる。  この法教院の最大の問題は正規の大学として登録できないということだった。大学とは「学校教育法」等に基づき、大学教育に必要な設備や教職員などの基本的要件を満たした上で、文部大臣の認可を受けて、初めて開設できる。しかし、「正規の大学にすると僧侶以外の者や場合によっては他宗の者の入学も認めなければならない。それでは宗門の僧侶の英才教育を行う支障になる。だから正規の大学としての認可を申請しない」というのが日顕の自説であった。それに対して宗内から「いくら大学科を卒業しても社会的には高卒の学歴になってしまうではないか。世間から馬鹿にされる」という反対意見が出た。しかし日顕は「僧侶は出世間であり、世間の評価など関係ない」と突っぱねた。  この学歴問題は後に大きな落とし穴になる。日顕は諸外国に僧侶を駐在させる手段として、留学を奨励した。どの国でも駐在用のビザを取得するのは容易ではない。そもそも受け入れをする日蓮正宗の法人がほとんどない。あったとしても国によっては法律的なハードルが高い。それに比べて学生ビザは大学に入学すれば誰でも取得できる。語学も上達するから一石二鳥であると考えたのだ。  しかし、留学する場合、日本の大学の在学証明書や卒業証明書が必要な場合がある。ところが正規の大学ではない法教院では証明書が発行できない。もし、そんなことをすれば国法を犯すことになる。  しかし、その“まさか”ということが現実に起こった。宗門は教団ぐるみで“学歴詐欺”を行い、韓国の延世大学やインドのデリー大学の大学院に所化を入学させようとしたのである。  その手口は巧妙であった。宗門は「富士学林大学科」を「フジ・ガクリン・ユニバーシティー」と詐称し、あたかも正規の大学を卒業したかのような卒業証書を偽造した。その偽の卒業証明書には、履修した科目や成績までが付され、ローマ字で学林長・八木信瑩のサインが記されている。さらに、その卒業証明書には、「教学士」という、あたかも“学士号”に見える肩書きまで添えるという、手の込みようだった。  宗門は海外であれば、偽の卒業証明書でも通用するであろうとタカをくくっていた。確信犯である。しかし、その悪巧みは露呈し、新聞沙汰になって世間を騒がす結果となった。  平成十一年(一九九九年)、宗門は二人の学生にこの偽の卒業証明書を持たせ、インド国立デリー大学大学院に入学させようとしたが、デリー大学当局の事前の調査で、この不正入学工作が発覚し、新聞でも報道された。  ヒンディー語の夕刊紙「サーンディア・タイムス」は九月二十四日付の紙面で次のように報道している。  「デリー大学には外国人による入学申請には大使館の承認が必要であるとの規定がある。大使館は二人が提出した卒業証書には虚偽があるとして、承認を拒否した」  また、英字紙の「ザ・ヒンドゥー」も、十月四日付で、「デリー大学は学歴を詐称して願書を申請していた二人の日本人学生の入学を取り消した」として次のように報じた。  「二人の学生は正式な入学願書に『フジ・ガクリン・ユニバーシティー』の卒業生であると記入。しかし、そのような名前の大学は日本に存在しないことが発覚した。大学を名乗っているが、実際は日本では大学として承認されていない」  大坊の小僧はよく、「ばれなければ、何をやってもいい」と言う。この言葉は単に小僧たちが作り出したものではなく、小僧たちの心を侵食している宗門の体質が生み出したものである。そのことをこの学歴詐称事件が証明している。  平成六年五月に行われた「全国教師・寺族指導会」で日顕は「学会のね、誹謗なんてね、ウソもあれば本当もあるだろう。けれどもね、それでもって我々が手を、警察でもって、手に手錠を掛けられるということがありますか?」と話している。これは裏を返せば、「手錠をかけられない限りは何をやっても構わない」ということになる。日顕には、僧侶としての節度や常識を規範として行動するという発想が欠如している。善悪の基準が自己の欲望に基づいているのだ。欲望を達成するためには何をしてもいい。その日顕の邪な心がこの「学歴詐称事件」を引き起こしたといえるであろう。  松田は大坊の小僧たちが勉強意欲を失っていく様を見て、「おそらく大坊の中高生の学力は落ちていく一方だろう。法教院を作ったことが致命的な問題になる」と予感していた。彼は青年得度だが、教学力を認められて本山の歴代室に勤務していた。この歴代室は歴代法主全集発刊のための資料研究などを行う部署である。  法教院が出来たため、大坊の高校生は一般の大学を受験するという目標がなくなり、勉強する必要性を感じなくなっていた。もちろん、法教院にも入学試験はある。しかし、それは試験と呼べる代物ではない。小僧たちは高校三年生になると学衆課から一冊の市販の問題集を渡される。法教院の入試問題はその問題集の問題がそのまま出るので、答えを丸暗記すればよいのだ。  松田の予感は的中した。高校生たちは「問題集を覚えるだけだから、入試の一カ月前でも十分に間に合う」と言いだし、まったくといっていいほど勉強をしなくなった。それは中学生にも影響を与え、それまでは富士宮のトップクラスの高校にも合格する者もいたが、年々、合格する高校のレベルが下がっていった。普通科に入れない者も増えていった。  英才教育のために設立された法教院が逆に人材の芽を摘んでいる。日顕の思惑と正反対の結果を生んでいたのだ。松田は日顕の教育に関する無知がすべての原因であると思った。また何よりも、つまらぬ日顕の野心の犠牲になる小僧たちのことが憐れであった。  松田は歴代室に勤務するようになり、宗門の教学研究の底の浅さに失望していた。宗門には教学研究書の類があまりにも少ないのである。二十六世日寛上人の後には教学研究そのものがなかったように見える。近代においては第五十九世日亨上人の研究書や六十五世日淳法主の論文などを除けば、ほとんど何の成果もないと言わざるを得ない。  宗門には御書の講義集もなかった。末寺の住職の多くが創価学会版の講義集を使って講義していた。大村教学部長でさえ、池田名誉会長の講義をそのまま使っていた。もちろん、「在家の作ったものなど使えるか」と学会の講義集を嫌う者もおり、そんな彼らはピタカ出版の『日蓮聖人遺文全集講』などを使っていた。  昭和六十三年、法教院が開学した。法教院が建てられた土地は東洋哲学研究所が所有していたものであった。それを創価学会が宗門に寄進したのである。この年に吉岡が学衆課を去り、駒井が御仲居に就任した。前任の御仲居は所化の教育を学衆課に任せていたが、駒井は直接的に学衆課にかかわってきた。法教院の設立により無気力が蔓延しはじめた大坊は、さらに駒井の影響により加速度的に退廃していくのだった。  青年得度の菅井はこの年の春から学衆課の手伝いを命じられた。菅井は駒井が御仲居になったことを知って、「これで大坊は悪くなることはあっても、良くなることはないだろう」と絶望的な気持ちになった。なぜなら、駒井の暴力は御仲居になる前から大坊で有名だったからである。ある日、駒井は問題を起こした小僧を並べて、罰として金属バットで尻を叩いたことがある。前述した、通称“ケツバット”である。駒井はフルスイングでバットを振って小僧たちの尻を叩いた。常識では考えられない暴力である。  “こんな男が御仲居になれば、大坊は昔のように暴力が渦巻く世界に戻ってしまうに違いない”――この菅井の不安は現実のものとなる。  御仲居になってからも駒井は小僧が問題を起こすたびに暴力を振るった。駒井から拳骨やビンタで殴られ、鼓膜が破れた小僧もいた。また、駒井に頭を竹ぼうきで叩かれた小僧もいる。その時にはほうきが折れてしまった。  小僧たちは陰で駒井のことを「駒専」と呼んだ。駒井専道の略である。また、駒井の顔は四角で、まるでカニの甲羅のようであったから、「カニ」とか御仲居をもじって「オナカニ」と馬鹿にされていた。  駒井が容赦なく暴力を振るう背景には、日顕の暴力を容認する発言があった。日顕は孫の正教が得度した時に一度、暴力を否定したことがあったが、そのうちに、正教の環境がもはや安全と思ったのだろう。「やはり小僧は多少、殴らないとわからない」と言い始めた。さらには末寺の住職の暴力を容認する発言もしていた。  平成二年八月、本山で行学講習会が行われた。いつもの通り、目通りで所化が一人一人立って、日顕に挨拶をした。その中に目に眼帯をした所化がいた。豊中の本教寺に在勤していた出川であった。出川は住職の佐藤慈暢から顔面を殴られ、目を負傷していたのである。その眼帯をしている出川の顔を見て、日顕が「お前、どうしたんだ?」と尋ねた。出川は「住職に殴られました」と素直に答えた。すると日顕は薄笑いを浮かべながら、  「あれ(佐藤)も殴り方が下手なんだよ。おい、御仲居、あいつに、もっとうまく殴るように言っておけ!」  と駒井に注意を与えたのである。つまり、顔に怪我をさせるような殴り方はせずに、殴った痕が残らないように顔以外のところを狙うなど、考えて上手く殴れという意味である。  出川の後に本教寺に在勤した橋田も住職からひどい暴力を受けている。左顔面を拳骨で三十発前後も殴打され、そのうえに足で頭を踏みつけられて頭部と眼球打撲、左側の鼓膜も損傷という全治三週間の大怪我であった。橋田はこのままではどんな目にあわされるかわからないと思い、本教寺を抜け出し、本山に避難した。そして、平成三年八月二日、日顕に目通りしたが、日顕は橋田の顔を見て、  「酷い殴られ方だな。しかし、これも修行だからな」  と言っただけであった。結局、暴力を働いた佐藤に対するとがめは何もなかった。  橋田は本山を離脱後、佐藤を告訴し、大阪地裁は佐藤に対し五十五万円の慰謝料の支払いを命じる判決をくだしている。  日顕が発言したように、宗門では暴力も修行であると見なされていた。もし、日顕が徹底して暴力を否定し、暴力を振るう者に対しても厳しく臨んでいれば、このような悪弊を改善することができたかもしれない。しかし、法主である日顕自身が小僧を中啓で殴り、「暴力も修行だ」と認めていたために、駒井のように子どもを虐待する者が本山でのさばっていたのである。  駒井が大坊で悪名を馳せていた原因は暴力だけではなかった。その徹底した“ゴマスリ”ぶりは誰よりも際立っていた。目上の者にはペコペコするだけでなく、目下の者には威張りちらす。権威におもねる典型的な人間だった。  駒井は日顕の孫の正教をはじめとした役僧の子どもたちが、多少の問題を起こしても目をつぶっていた。例えば、大坊で喫煙した者は下山処分である。事実、過去に喫煙が理由で何人も下山処分を受けている。ところが、正教の喫煙が見つかったとき、駒井は正教に注意をしただけで、何の処分もしなかった。  またあるとき、大坊の規則では個人で持ってはいけないはずの電気ストーブを、正教が持っていることが発覚した。ところが、駒井は、「まあ、寒いからいいよな」の一言ですませた。もし、他の小僧が同じことをしていれば、その小僧は処分を受けていたことであろう。  学衆課の近藤が、学校をサボった正教らを殴ったことがあった。それを知った駒井が、「やりすぎだ」と近藤に注意をした。駒井はこのことが日顕に知れるのが怖かったのだ。駒井がいなくなると近藤は、「何言ってるんだ。あいつは過去にもっとひどいことをやったんだ」と吐き出すように言った。  また、庶務部長の次男の正寛が故人の戒名や名前を書かずにタテに一本、棒線を引いただけの塔婆を書いた事件が起こった時も駒井はあからさまな差別をした。最初、誰がやったのか分からず、駒井はある在家出身者を犯人呼ばわりして殴りつけた。その後、“真犯人”が正寛だと判明したが、駒井は正寛に注意をしただけであった。  駒井は身内にも甘かった。大坊ではヘッドホンステレオは高校生以上しか所持できない規則になっていた。ところが、駒井の息子が得度した途端に、駒井はヘッドホンステレオの所持を中学生にも許可した。それまでは、ヘッドホンステレオを持ったために、何人もの中学生が処分されていたのである。あまりにも露骨な待遇の変化であった。  平成元年に青年得度の土田が菅井と同じように学衆課の手伝いを命じられた。この年の二月、宗門は登山費を一六〇〇円から二三〇〇円にと大幅な値上げを要求した。それに対して池田名誉会長は、日顕との目通りの席で「私は外護の責任者として、宗門にご迷惑のかかることについては言うべきことは言わなければならない立場ですので」と前置きして「社会的には便乗値上げと言われる恐れがありますから」と早急な値上げを控えるように助言をした。当時、社会は消費税の導入問題で騒然としており、そういう時期に宗門が登山費を値上げすれば、便乗値上げの印象を受けてしまうという配慮からの助言であった。  しかし、日顕は目通りの後、周りの僧侶に「わずかな値上げを反対した」と不満を漏らした。一六〇〇円から二三〇〇円の値上げは決して“わずかな値上げ”ではない。日顕の目論見は「C作戦」の実行を前に資金を蓄えることであった。その思惑を封じられたことに対して日顕は怒りを感じていたのである。  その目通りの話は大坊の教師の間で「学会が登山費の値上げを反対したらしい」と噂になっていた。これは“信徒の分際で宗門に反対した”という意味であった。  ある日、学衆課の教師が回りにいないのを見計らって、土田が菅井に話しかけた。菅井は病気の小僧を病院まで車で送って学衆課に戻ってきたところだった。  「駒井が今年の一般得度者を集めて話をしたのを知っていますか?」  「詳しいことは聞いてないけど……」  「駒井は“『人間革命』は信徒の書いた本だから、読む必要ない”と言ったらしいです」  「そんなことを言ったんだ。そういえば、駒井は昔から反学会だからね」  「“『人間革命』は信徒の書いた本だから、読むな”という言い方は、昭和五十四年の宗門事件のときに似ていますよね」  「たしかに……。僧俗和合に反した考えだ」  「登山費の値上げ問題以降、何だか変な雰囲気ですね」  「いきなり二三〇〇円にするなんて、四十パーセント近い値上げだからね。常識で考えてもおかしい。それに値上げの理由がわからない。本山の財政が逼迫してるなんてことはありえないし……」  「そうですよ。学会員の登山費と塔婆供養などで年間、数百億円の収入ですよ。それ以上、増やす必要があるとは思えません」  「それに“学会は信徒の分際で反対した”というのも宗門事件のときと同じ発想だ ……」  必要の無い登山費の値上げと御仲居の反学会的な言動。菅井と土田は何かがおかしいと感じていた。  宗門は翌年四月に、御本尊下付・塔婆・永代回向・大過去帳・納骨保管料の冥加料を一方的に二倍に値上げした。すべては「C作戦」実行への布石であった。「C作戦」を実行した場合、どれだけの学会員が宗門につくかわからない。その備えとして充分な資金を蓄えておく必要があると日顕は計算していたのである。  「C作戦」の進展にあわせるように、平成に入ってから、大坊は荒れていった。それはまるで日顕の広布破壊の心象が、大坊の小僧の心に投影され、小僧たちの心が急速に病んでいったように見えた。夜間の無断外出に始まり、本山近辺の商店での万引き。そして酒、タバコ、禁止された物の不法所持。大坊ではいわゆるエロ本、ビデオ、ファミコン、電気機器などは持ち込み禁止になっていたが、学生たちは親からせびった金でそれらを購入しては大坊に持ち帰っていた。  また、大学を卒業して本山に在勤していた所化の部屋から、ワイセツな本やビデオが盗まれることも日常茶飯事だった。ある晩、学衆課の国井が血相を変えて食堂に飛び込んで来て、大声を張りあげた。  「誰だ! ビデオを盗んだのは!」  しかし、大坊の学生たちは無反応だった。誰もが知らない振りで食事を続けていた。  吉岡のあとに学衆課の主任になったのは天野だった。天野には小僧を育てようという熱心さはまったくなかった。中・高校生相手に話すことといえば、女性の話ばかりだった。そのせいか、大坊の学生の中には女性問題を起こす者もいた。  平成二年八月、大坊の学生たちが三浦海岸に海水浴に行った。当時、高校生であった庶務部長の次男・正寛と福家重道の長男・正導が夜に宿を抜けだし、昼間にナンパをした女子大生と海岸で会って、タバコを吸っているところを発見された。ナンパに喫煙である。ふつうであれば、還俗処分になるところが、二人は白衣処分で済んだ。これは、一時期だけ、僧階が一番下の沙弥になり、袈裟・衣が着られないだけの形ばかりの処分であった。  平成二年四月から、青年得度の菅井と入れ替わりで同じく青年得度の大山が学衆課の手伝いとして勤務を始めた。彼は双子で、兄も青年得度として後に出家している。大山は役僧の子ども以外の小僧が問題を起こすと駒井や学衆課の僧侶が容赦なく、暴力の制裁を加えるのを間近に見て言葉を失った。  駒井のことを嫌っていた近藤もすぐに暴力をふるう。だから、近藤は小僧たちから「ミニ駒井」と呼ばれていた。彼らの体罰は日に日に頻度が増え、やがて毎日のように小僧が殴られていた。大山は土田に自分の心情を吐露した。  「こんな状態では子どもたちはおかしくなってしまいますよ」  「本当に……。だんだん暴力がひどくなってきている」  土田も大坊が最悪の状況になってきていると感じていた。  「子どもどうしの暴力も始まっています。目のまわりにあざを作っていた中学生に『どうした』と聞いても、『階段から落ちた』の一点張りです。先輩から殴られたと思うのですが、密告するともっと仕返しされるので、怖がって言わないんです」  「駒井や学衆課に殴られて、そのうっぷんを晴らすために、後輩に当たり散らしているに違いない。これでは悪循環だ」  「僕がもし小僧だったら、こんなところにはいられません。逃げ出します」  「きっと、小僧の中には『こんなことなら還俗したほうがましだ』と考えはじめる者もいるに違いない……」  二人が案じていたように、小僧の中には暴力に耐え切れず、大坊を脱走する者がでてきた。  平成三年四月、正信会から復帰してきた原田篤道が金を盗まれ、学生の部屋の家宅捜査が行われた。本棚、箪笥、押入れ、学生服、カバン、絨毯の下までと部屋の中はかき回され、さらに身体検査も行われた。子どもの一人は「態度が悪い」と駒井に殴られ、耳の鼓膜が破れた。  この後、六人の学生が集団脱走した。その中には「C作戦」の立案者であるといわれていた関快道の息子の正和も含まれていた。  学生たちの中には、下山処分になって本山を抜け出すために、わざと悪事を働く者もいた。彼らは「万引きは見つからないと、した意味がない」と言って、見つかるまで万引きを繰り返していた。罪を犯してでも、大石寺から逃げたい。もはや、ふつうの心理状態ではなかった。  学衆課の手伝いをしていた菅井は平成二年から神奈川の寺院に在勤しながら、宗門の大学科である「法教院」に通い始めた。彼がそこで見たものは大坊と同じ無気力な学生の姿だった。彼らが大学科に行くのは、ただ卒業するためである。「卒業さえすれば、教師になれる。それまでの我慢だ」――これが学生たちの本音であった。  宗門では、“教師にあらざれば人間ではない”と言われていた。所化小僧は人間以下であり、どう扱われても文句はいえないのである。  また、法教院は閉ざされた世界である。一般の大学であれば、周りに自分たちを“日蓮正宗の僧侶”と見る他者の目がある。それは視点を変えれば、自分の振る舞いをとおして、他者に日蓮正宗を知らしめるということになる。だから、必然的に正しい振る舞いをしなければならないという自覚に立つことができる。  しかし、法教院は大坊の延長でしかない。他者の目はないに等しい。学生たちは高校時代と同じように授業をサボり、遊ぶことに専念していた。それを咎める者もほとんどいない。法教院が出来た当初は一般教養を教えるため創価大学から教授を招いていた。その中には、学生の授業態度に厳しい教授もいた。文学を教える土井教授がその一人だった。  土井教授は僧侶であっても彼らを一学生として扱い、厳しい態度で授業に臨んだ。授業態度がいい加減な学生に対しては容赦なく叱責した。土井教授は彼らに学生としての、そして社会人としての基本を教えるべきだと感じていたからだ。しかし、学生たちは「あの野郎、在家のくせに生意気だ」と陰口をたたいていた。菅井はその学生たちの傲慢な姿を見て、宗門の僧俗差別の風潮が人間としての節度さえも奪っていると痛感した。  また、日本史を教えていた神立教授は菅井や同期の山辺たちの同窓の先輩でもあった。神立教授は学生たちの無気力さに呆れ、「一体、宗門の教育はどうなっているんだ」と山辺に聞いてきたほどであった。  菅井たちが実際に法教院の授業を受けて驚いたのは、仏教を教えている教授陣のレベルの低さだった。一般教養以外の専門として仏教の講義を担当していたのは宗内の僧侶だった。「世界宗教学」を教えていた高野はイスラム教とキリスト教を混同して教えていた。早瀬義純の「六巻抄講義」では、創価学会版の六巻抄講義をそのまま読むだけで、青年得度から講義内容の間違いを指摘されたこともあった。佐々木慈啓は「宗教批判」と称して、新興宗教の施設の中を自分で盗み撮りしたビデオを自慢げに見せていた。  日顕は四年生を対象に「三大秘法義」を教えていたが、平成四年の授業で日顕は根も葉もないデマを話している。平成三年三月十四日に広島市安佐南区で五十三トンもの橋ゲタが落下し、十四名の方々が圧死した事故があった。その事故に触れて、日顕は「広島で橋ゲタが落ちて多数の死者がでたが、死者十四名のうち六名が創価学会員だった」と話したのである。  しかし、実際には死者十四名の中に創価学会員は一人もいなかった。僧侶であるならば、事故の当事者が誰であろうと哀悼の意を表明して追善すべきであろう。しかし、日顕は学生を相手に人の死を冷笑することを教えていたのである。  教える側がやる気がなければ、その授業を受ける学生も真剣にはならない。彼らは授業には全く関心がなかった。学生たちにとって一番の楽しみは通学途中の遊びであった。授業に行く前にパチンコをし、授業の帰りにカラオケによる。そしてときには授業をサボって風俗店にでかける。法教院は昼間と夜間の二部制になっていた。一年生と三年生が夜の部で、二年生と四年生が昼の部であった。これは学生が交代で末寺の手伝いができるようにするためであった。夜間の学生の中には、通学の途中に酒をあおって真っ赤な顔でやってくる者もいた。  大坊で抑圧された生活を強いられてきた小僧たちは本山をでてから、狂ったように遊び始める。彼らは大学科に通うために関東近辺の末寺に在勤するが、毎日のように夜になると末寺を抜け出して町に遊びにでかける。そして、渋谷にある法教院の行き帰りに新宿界隈で遊ぶのが常だった。しかし、その遊びは普通の大学生とは大きく異なっていた。そのほとんどが風俗遊びであった。  学生たちは僧侶に見られることを嫌っていた。なぜなら、僧侶という立場では遊ぶには都合が悪いからだ。彼らは寺の外では住職のことを「社長」と呼び、必要があれば「野球部だ」とか「水泳部だ」と身分を偽って盛り場や風俗の店に出入りをしていた。自然と服装も派手になり、金のネックレスやブレスレットをして、高級ブランドスーツで身を包む。一見すると暴力団のチンピラのようであった。  法教院がある代々木上原駅の雰囲気は異様であった。冬になると、全員が申し合わせたように黒革のハーフコートを羽織っていた。坊主頭でタバコをくわえながら、駅から法教院の道を往来する。どう見ても僧侶には見えない。付近の商店街の人たちも迷惑そうな顔で彼らを横目で見ていた。  教室での学生たちの話題はまず、末寺の生活のことであった。そこでは住職や寺族の実態が暴露される。ある日、世田谷の渉外部長の寺に在勤している学生が不満まじりに話し始めた。彼は住職のことを「あいつ」と呼んだ。  「あいつはどうしようもないよ。渉外部長のくせに裁判サボって寺にいるし、夜中まで飲んだくれて、“車で迎えに来い”と電話してくるんだぜ。それも夜中の二時だぜ。タクシーで帰って来ればいいのによ! ふざけんなって言いたいよ」  ある学生は住職のことを「クソオヤジ」、住職夫人のことを「クソババア」、住職の娘のことを「バカ娘」と呼んでいた。寺にいると学生たちは住職だけではなく、住職の女房や子どもたちにもこき使われる。学生たちは互いに寺の実態を暴露することで、その鬱憤を晴らしていた。  法教院は学生たちの情報交換の場である。そこでは、末寺の話から始まり、遊びに関する情報が飛び交う。その中心は代々坊主の年分得度であった。彼らは親である住職から多額の小遣をもらって遊んでいたので、その手の情報に詳しかった。彼らの金銭感覚は普通ではない。親の名義のクレジットカードでブランド物ばかり買う者もいれば、常に数十万円の現金を財布に入れて持ち歩いている者もいる。また、中には二十歳の誕生日のお祝いに百万円もらったと自慢する者もいた。  一般の学生の遊びの財源は末寺の供養であった。夏になると学生たちは住職の代理としてお経回りをする。ほとんどの寺は信徒からの供養の一部を学生がもらえることになっている。多いところは半分が学生のものになる。中には全額、学生の小遣として与える寺もあった。その結果、学生たちは一夏で数十万円を手にすることになる。本行寺の高野は「もらった金は使い切れ。貯金するな」と学生に告げていた。それらの供養は寺院の収入として帳簿につけていないからだ。  「C作戦」の失敗により、この法教院は宗門の単なるお荷物に成り果ててしまった。法教院の運営には莫大な費用がかかる。教職員の給料、ガス・電気代等々、年間数億円の計算になる。しかし、信徒の激減により、末寺だけでなく本山の収支も赤字である。だからといって、日顕が鳴り物入りで始めた法教院を封鎖するわけにはいかない。  一番の問題はこの法教院を維持するためには、毎年、入学者がいなければならないということだった。  日顕は、法教院の第一回の入学式で、「今回は四十五人の入学者であり、しばらくの間は三十人程度の入学者ということで推移していくと思うのであるが……五十人、百人、あるいは二百人というようになっていくことも考えられる」と話していたが、実際には入学者は十数名に落ち込んでいる。  もし、入学者が途絶えれば、法教院は存続できない。日顕は法教院の入仏式の際、入学者が「二十人、そして十人、五人とだんだん減るようでは存立の意味がなくなる」と述べていたが、日顕が恐れていたことが現実に起こりはじめているのだ。  当初、日顕は「C作戦」を実行すれば、大量の学会員が宗門について、宗門が発展すると考えていた。そして寺院をどんどん建立し、法教院を卒業した学生が末寺の住職になっていくと夢見ていたのである。ところが、実際には学会を離れて宗門についた者は微々たる数で、寺院を建立するどころか、半数近い末寺が本山からの援助がないと生活ができないほど困窮している。  これほど、宗門は経済的に逼迫しているのにもかかわらず、毎年、二十数名の得度者を募っている。その数はそのまま、無任所教師の数となって増えていく。入る寺のない無任所教師は数百名に増え続け、ますます宗門の財政を圧迫する。  寺院が建たないのに得度者を減らすことができない。その原因が法教院である。法教院を維持するためには、たとえ無任所教師が増え続けることになっても、得度者を募らなければならないのだ。まさに、悪循環である。  さらに問題は深刻になっている。得度希望者自体が減っているのだ。平成三年までは、例年、六十人から八十人近くの受験者がいて、二十五人から三十人程度の合格者をとっていた。ところが平成四年以降、受験者が三十人台に半減している。  顕著なのは、住職の子息が得度しない例が増えていることである。「創価学会を破門して信徒が激減し、末寺の存続さえ危ぶまれている宗門に未来はない」と住職たちが宗門を見限り始め、自分の子どもを得度させることに不安を抱きはじめたのだ。  大学科「法教院」ができたために、小僧は学習意欲を失って、その質が下がる一方であった。彼らは入る寺も無く、希望もないまま、無任所教師となっていく。人材を潰し、無計画に得度者を増やし、財政をどんどん圧迫させる。日顕が自己満足のために設立した「法教院」の存在そのものが、宗門を破滅に追い込んでいるのであった。 第7章 師弟相対  平成十年四月八日、本山内事部のカウンター前に、正本堂解体の公告が掲示された。そこには、工期は「平成十年五月から二十四カ月」、工費は「四十八億五千万円」と書かれていた。  その公告が張り出された翌月、五月二十六日に宗門を震撼させる事件が起こった。『大日蓮』編集室勤務の後藤信和が静岡県青少年環境整備に関する条例違反(十八歳未満に対するみだらな行為)の疑いで、富士署と静岡県警少年課により、大石寺独身寮で逮捕されたのである。  事件は、平成九年三月二十日、後藤が富士市内のテレホンクラブで知り合った同市内の少女二人(いずれも当時、中学二年生)を、同市内のホテルに誘い、少女らが十八歳未満と知りながら、淫行をはたらいたというものであった。  事件のあった三月二十日というのは、奇しくも三十五年前、日顕がシアトルで売春婦とトラブルを起こして警察沙汰になったといわれている日であった。  後藤は日顕が登座後、最初に採った年分得度の一人である。いわば、後藤は日顕の代の、年分得度・第一期生にあたる。しかも、本山で『大日蓮』編集室に勤務していたのだから、エリートになる。その第一期のエリートの弟子が師と同じ日に事件を起こすとは、歪んだ師弟相対の姿としかいいようがない。  この事件は、僧侶が淫行を行ったというセンセーショナルな事件として、テレビでも取り上げられた。日顕は正本堂解体により、シアトル裁判から世間の目を背けようと企んだが、その企みを弟子が阻止し、かえって師僧である日顕の裁判が脚光を浴びることになってしまったのである。  シアトル裁判とは、昭和三十八年三月二十日、当時教学部長だった阿部日顕が初の海外出張御授戒で訪れたアメリカ・シアトルで、深夜、売春婦とトラブルを起こし警察沙汰になったことを、平成四年六月十七日付の『創価新報』等が報じたことに対し、日蓮正宗と大石寺が名誉毀損であるとして、平成五年十二月、二十億円の損害賠償の支払いを求めて、創価学会等を訴えたものである。  宗内僧侶のシアトル事件に関する印象は、一種、独特のものであった。彼らは買春をしたことについては驚かない。ほとんどの僧侶は若いときから風俗で遊んでいる。これは決して悪いこととは思われていない。なぜなら、宗門では昔から「飲む、打つ(賭博)、買う(買春)をこなせば一人前だ」と言われていたからだ。だから、酒が強く、よく遊ぶ者は回りから一目を置かれていた。  また、海外部が出来、海外へ頻繁に出張するようになってからは、出張した者が買春することも珍しい話ではない。彼らにとっては買春することは特別なことではない。いわゆる“男の甲斐性”だと考えられている。スペインに駐在していた山田や海外部の中本が買春していたことも暗黙の了解の上である。問題はそれが“ばれるか、ばれないか”だ。ばれたら、“あいつは馬鹿だ”と言われるだけである。  ただ、当時は海外旅行そのものが珍しい時代であった。言葉も通じず事情がわからないだけでなく、栄えある第一回の海外出張御授戒という緊張した中で、果たして買春することができたのだろうかと、宗内の僧侶は疑念を抱いていたのである。しかし、日顕と同世代の住職たちは“あいつなら、やりかねない”という確信に近い気持ちを持っていた。なぜなら、日顕の“女好き”は若い頃から、尋常でなかったからだ。  昭和十七年頃、日顕はまだ二十歳であったが本山のある宿坊の娘と交際していた。その時のことを日顕はある僧侶に、「『子供が出来たら困る』というのでパンツをはいたまま抱いたんだ」と語っている。後に、週刊誌から取材を受けたその女性は「戦前、わたしが十六か十七歳だったころ、信雄さんとおつきあいがあったのは本当です」と話している。  日顕は昭和十八年、二十一歳で政子と結婚しているが、当時を知る人の話によると、日顕が遊んでばかりいるのを心配した母親の妙修尼が、早く所帯を持たせたほうが落ち着くと考え、二人を結婚させたという。しかし、日顕とその宿坊の娘の交際は結婚後も続き、戦後に問題となった。  昭和十八年十一月二十一日、父親の日開が七十一歳で死去した。日顕はその時、本山に駆けつけておらず、「吉原の赤線にいて父の死に目に会えなかった」という噂が広がった。  日顕は『日開上人全集』の巻頭言で、十一月二十日の夜は常泉寺に泊まり、翌日に江東にあった砂町教会に挨拶にいき、そこで夕食の膳についたときに日開の危篤の報を受けたと書いてあるが、事実は違った。  この二十日の夜、日顕は友人の僧侶である久保川と浅草で会っているが、その後、吉原で別れている。久保川は寄宿先であった砂町教会に戻り、そこの留守居から、日開の危篤の連絡を受けて夜行列車で本山に向かい、二十一日の朝に本山に着いている。すなわち、砂町教会には二十日の夜に日開の危篤の報が入っていた。ところが日顕は吉原からどこへ行ったかわからず、翌日まで連絡が取れなかったのだ。日顕が本山に着いたのは二十二日の朝であった。  日顕は、日開の死後すぐ、十二月に徴兵され、昭和十九年一月から、海軍少尉として室蘭に配属されている。日顕は街の裏山に砲台を作る仕事をしていたが、当時を振り返って、ある僧侶に「山の中腹に兵舎があってそこに寝泊まりしていた。麓にタバコ屋があり、いい娘がいたのでよくタバコを買いにいった」と語っている。日顕が過去を振り返るときには、なぜかいつも、女性の話であった。ちなみに日顕の息子の信彰は、この年の八月二日に生まれている。  昭和二十年七月三日、牧口会長の遺志を受け継いだ戸田理事長が出獄し、学会再建に立ち上がった。その翌八月、日顕は秋田で終戦を迎えた。当時、日顕は旅館に寝泊まりしていたが、その頃のことをある僧侶に「旅館の一人娘に惚れられて、せまられて困った。夜中にワシの布団の中に入ってくるんだよ」と自慢している。  日顕は昭和二十一年から本山に戻り、「宗務院書記」「戦災寺院教会復興助成事務局員」などに任命された。ところが、十二月にそれらの役職を依願免職している。理由は定かではないが、その頃、以前から噂のあった本山の宿坊の娘を妊娠させたという噂が本山内に広まっていた。妊娠したことを思い悩んだその娘は、流産させるために潤井川に飛び込んだという。この娘との関係は、日顕が法主になってから、「隠し子事件」として週刊誌で暴露された。  昭和二十二年五月、日顕は東京・向島の本行寺の住職となる。当時の本山や末寺は経済苦にあえいでいた。それを助けたのが学会の未曾有の折伏だった。授戒と御本尊下付の冥加料や会員からの供養により、末寺の収入もこれまでになく増えていった。  日顕がいた本行寺も地方の末寺がうらやむほどの収入を得るようになった。同時に日顕の生活は派手になり、贅沢が目立つようになる。寺に高価な風呂を設置し、妻の政子も買い物に、芝居にと遊び回るようになる。  また、この頃、宗内でマージャンがブームになるが、その火付け役も本行寺だった。日顕の母親の妙修尼も大のマージャン好きで、本行寺に立ち寄った者が、「人数が足りないから」と妙修尼からマージャンの誘いを受けることもしばしばだった。  昭和三十年、日顕は宗会議員に初当選するが、それは日顕が僧侶仲間を遊ばせて取った票だという者もいた。当時、若手僧侶の間では、“遊びたくなったら本行寺”といわれていた。ある僧侶はこう言う。「遊びたくなると本行寺に行ったものだ。芸者遊びによく根岸に連れていってもらった。向島では学会員が増えており、目立つから根岸、柳橋とだんだん場所を変えていった」  日顕は向島の芸者に惚れ、ある僧侶に“つけ文”、いわゆるラブレターを届けさせたりもした。  また、日顕は浅草の高級キャバレーの常連で、昭和三十五年の秋、『日淳上人全集』の発刊記念の打ち上げも浅草の高級キャバレーだった。そこで日顕は「〇〇はいないのか!」などと指名し、たちまち、約二十人のホステスを集めたという。  日顕が芸者好きなのは宗内では周知の事実であったが、それは法主になってからも変わらなかった。法主になって二年後、富士学林の授業の休憩時間に、日顕はある住職に「熱海の○○という芸者を、知ってるか?」と聞いてきた。そして「ワシは熱海に行けば、○○を呼ぶんだ!」と、得意気に語った。さらに、日顕はこのお気に入りの芸者について、「目がクリッとして、色白の美形で、高級温泉旅館のパンフレットにもモデルとして登場する、熱海で超売れっ子芸者だ」と、さも嬉しそうに語ったという。  このように日顕が筋金入りの“遊び人”であることをよく知っている者たちは、日顕が買春したからといっていまさら驚かない。日本で買春している者が海外でも同じことをするのは不思議ではない。もし、本当に日顕が海外で買春したのなら、宗門では初めてであるから、武勇伝になるのではないかと考えていた者もいた。  シアトル裁判が始まり、一審の東京地裁の審理では、事件を告発したヒロエ・クロウ夫人が三回にわたって出廷、事件当夜の模様を克明に証言した。また、現場に立ち会った警察官スプリンクル氏も、これを裏付ける証言をし、もう一人の警察官メイリー氏も、同様の宣誓供述書を裁判所に提出した。  スプリンクル氏の事件当夜の証言は生々しかった。深夜、パトカーで巡回中に複数の売春婦がアジア人男性に向かって声を荒らげていたこと。トラブルの内容が支払いをめぐる口論であったこと。その男性は、髪が極めて短かく、眼鏡をかけ、黒か濃い灰色のコートに帽子をかぶっていたこと。そして、英語が話せぬ男性をパトカーの後部座席に乗せたこと。男性が持っていた紙に書かれた電話番号に電話をかけたところ、東洋人の女性が現場に駆けつけてきたこと。その女性が三十年後に再会したクロウ夫人に間違いないこと、など。まさに事件現場に立ち会った者でないと語ることのできない具体的な証言であった。  日顕は当初、「その夜はホテルから一歩も出ていなかった」と主張して事件を全面否定した。そして、その日顕の発言を補強するために、宗内挙げて、日顕がホテルから外出していないことを証明しようとした。宗門の僧侶にとって大事なことは自分たちの悪事が外にばれないことである。僧侶の権威を保つには、どんなウソをついても事実を隠蔽しなければならない。  平成四年八月、本山で全国教師指導会が行われた。この会合は僧侶だけの会合である。海外部長の尾林は緊張した顔で壇上に上がった。  「重大な責務を負い、また、くたくたになっていた方が、言葉の不自由な国の、カナダ国境に近い、未だ寒さも厳しい深夜のシアトルの街へ、外出しようという気持ちなど、どう考えても、起こるはずはありません」  次に登壇したのはサンフランシスコ・妙信寺住職の高橋慈豊だった。高橋は「現地住職の立場からのクロウ事件に関する調査報告」と題して話をはじめた。  「シアトルは、北緯四十八度に位置しております。これは千島、樺太、ハバロフスクと同じ位置であります。海流の関係から、シアトルの冬はそれほど厳しくはありません。しかしそれでも、まだ早春の三月と言えば相当の寒さであります」  高橋は自分の調査を誇らしげに話し続けた。  「問題の三月十九日、二十日も天候は悪く、両日とも少量ですが雨が降ったとの記録があります。悪天候の中、夜中のシアトルを歩き回ることは、到底不可能であります」  聞いている者たちも、“いくら遊び好きの猊下でも、そんな悪天候の中では遊びにいけないだろう”と思いはじめていた。  「極めて過密なスケジュールと、加えて極度の緊張、更には時差ボケと戦っての御授戒旅行でありましたことは容易に想像されるのであります。御法主上人猊下御自身は、この日シアトルにおいて御授戒の後、『ホテルから一歩も出なかった』と仰せられておりますことは、常識から考えても、誠にうなずけることであります」  この二人の話は皮肉にも、後にかえって日顕の行動の異常性を強調する結果になってしまう。  日顕は、クロウ夫人の出廷直前になって突然、前言を撤回して「一人で散策し飲酒して帰室」(平成七年九月二十九日、宗門側準備書面)と、ホテルから外出して飲酒していたことを認め、事件の根幹にかかわる主張を一八〇度転換したのである。  つまり、日顕は“重大な責務を負い、過密なスケジュールで言葉が不自由であったにもかかわらず、寒くて雨が降るという悪天候の中、シアトルの夜の街に外出するという常識では考えられない行動に出た”ということになる。  日顕は全国教師会での尾林と高橋の話を聞きながら、先のことを考えていた。  ――宗内の奴らは誰でも買春くらいしているから、ワシのことは責められない。お互いさまだ。問題はここから先だ。いずれ、ワシがホテルを出たことを証明する何かがでてくるかもしれない。そのときに、どう誤魔化すかだ――  日顕はウソをつくことに何の罪悪感も抱いていない。日顕から見れば、信徒は下である。そんな下の者たちが本当のことを知る必要など無い。だまって従っていればよい。僧侶の問題に口を出すこと自体、不遜である。ワシが何をしようと信徒や世間の人間に関係ない。これが日顕の本音である。  そして、“ばれなければ何をやっても構わない”――これが宗門の僧侶の共通認識である。だから、買春でも賭博でも、やりたければ何でもやる。見つからなければいいのだ。万が一、見つかった場合はどうするか。その時は、どんなウソをついても逃げ通すしかない。シラを切り通せば、時間が味方になる。人はいつか忘れてしまうものだ。  日顕が懸念していた通りに、“日顕がアメリカから帰国した後で、「シアトルで夜外出し、酒を飲み、道に迷ったところを、現地の婦人部の人に助けられた」と他言していた”という証言が複数の宗内僧侶からでてきた。  それでも、日顕は黙りこくった。とにかく、ここは我慢をしてウソを突きとおすしかない。自分を守るためには、ウソに徹することだ。  平成六年八月に本山で行われた法華講の講習会で日顕は言った。  「シアトル事件が本当なら、私は退座する」と。  これは日顕が計算して述べた言葉だった。ウソというのは、大きければ大きいほど、ウソに見えないものだ。また、本気で言えばなおさらウソに聞こえない。「本当なら退座する」と言えば、誰もがウソとは思わないだろう。  日顕の計算は自分から裁判を起こすことになった時から始まっていた。日顕は弁護士にも「ホテルから一歩も出ていない」とウソを突きとおした。その結果、“それなら創価学会を訴えましょう。外に出ていないのなら、絶対に勝てますから”と、自分から裁判を起こす方向に話が進んでいった。まさか、“実はウソでした”とも言えず、日顕は平成四年十二月十五日に創価学会と池田名誉会長を名誉毀損で東京地裁に提訴したのである。  日顕はこの時点から、裁判になれば、必ず、自分の記憶を証明する何かが必要になると予想していた。そこで思いついたのが「手帳」を利用することであった。当初、日顕はこの手帳を隠し通すつもりでいた。なぜなら、そこには外出して酒を飲んだこと、しかもその店の名前まで書いてある。もしその店の関係から調べられて、自分に不利な証拠が出てきたら困る。だから、日顕はこの手帳を弁護士にも見せていなかった。  しかし、万が一の場合はこの手帳を逆に利用するしかないと日顕は考え始めた。手帳に自分のアリバイを書いておけば有力な証拠になるのではないか。深夜の一時に寝たことにすれば、事件があったのは深夜二時だから、そこにいなかったことになると日顕は思いついた。  ここで日顕は簡単なミスを犯した。「午前一時」と書くべきところを「午后一時」と書いてしまったのだ。あとで気づいたが、書き直すわけにもいかず、疲れていたので間違えたことにした。ただ、インクの色がその前後の文字と違うのが気になったが、仕方がない。そこだけ、寝る直前に書いたが、たまたま、ペンを無くしたから別なペンで書いたとか、適当に言えばいいだろうと安易に考えた。  しかし、この「手帳」がいつ、どこで見つかったのか、その説明が必要だ。ひとつ間違えば命取りになる。何しろ、突然出てきたようにしなくてはいけない。そこで日顕はあるストーリーを思いつく。“手帳の存在は記憶していたが、どこかにまぎれて所在が分からなくなり、紛失したものとあきらめていた。ところが、それが荷物の整理をしている際にでてきた”と。このあたりの悪知恵、そして浅知恵は日顕独特のものである。  問題はどういう理由で荷物の整理をしたかだ。日顕は悩んだあげく、引っ越しを思いつく。そこで急きょ、西片から引っ越しをすることにしたのだった。もちろん、本当の理由は誰も知らない。表向きの理由は、「手狭になったから」と言えばよい。“誰もワシに逆らうわけがない”と日顕は強引に引っ越しを決めた。  平成五年十月、裁判を提起してから約十ヵ月後に、本山の金庫番の石井信量夫婦と本山職員の谷平明が世田谷の豪邸を下見に訪れた。そして、日顕の女房・政子もその立地条件等を気にいり、購入が決定された。どんなに金がかかろうと、自分の立場を守るためなら安いものだと、日顕は思った。  いよいよ裁判が始まったが、日顕は「ホテルから一歩も出ていない」との主張を変えなかった。平成七年六月に行われた口頭弁論でも宗門側は、創価学会側代理人から「事件当日、ホテルから一歩も出ていないという原告の釈明は維持されるのか」という質問に対し、「もちろん、その趣旨である」と答えている。  しかし、裁判の争点が“ホテルから一歩も出ていないかどうか”ということに絞られていることを知り、日顕はそろそろ、手帳を出す時だと考えた。証言が始まってから、ホテルから出ていたことを示す証拠が出たら、それだけで自分の証言の全てが疑われてしまう。それは得策ではない。そう思った日顕は“実は、引越しの際に、なくなっていた手帳がでてきた。そこにはホテルを出て飲酒をしたことが記録されていた”と弁護士に告げた。  弁護士は突然の話に驚いたが、今さら手を引くことはできない。そこで、平成七年九月二十九日の準備書面で「(阿部)教学部長は、同月十九日午後七時カワダ・ケイコ宅において挙行された御授戒を終了して、宿舎であるオリンピック・ホテルの自室に戻り、一人で散策し飲酒して帰室、同月二十日午前一時には就寝した。以後、もとより、同教学部長は、同ホテルより一歩も外には出ないまま、当朝十時に起床した」と書いた。“一度は出たが、その後は一歩も出ていない”という苦肉の表現になった。  困ったのは宗務院であった。あれだけ、「猊下はホテルを一歩も出ていない」という大キャンペーンを張っておいて、今さら、「実はホテルを出ていました」と宗内に知らせるわけにはいかない。だからといって、黙っていれば、必ず情報が流れ、宗門は大打撃を受けてしまう。  そこで宗務院は同日の深夜に「お知らせ」を宗内に発信した。  「御法主上人は、午後七時挙行された御授戒を終了し、宿舎であるオリンピック・ホテルにお入りになられた後、少々市街を散策され、特段、何事もなくホテルに戻られ、午前一時には、就寝され、以後当朝午前十時に起床されるまで、ホテルより一歩も外に出ておられない」  宗務院は「飲酒」をしていた事実を隠し、準備書面と同じように“ホテルを出て、少々散策したが、その後は出ていない”という珍妙な表現を使った。  この「お知らせ」を受け取った宗内の僧侶は「今さら、これはないだろう」と呆れかえったが、昔から日顕を知っている者たちは「やはりな」と思った。なぜなら、日顕には若い頃から“夜になると一人で出歩いて遊びに行く”という習性があったからだ。  話は昭和二十年代にさかのぼる。土浦の本妙寺の御会式に、柿沼広澄と早瀬道応(日慈)が来た時のことだ。当時はまだ貧しく、僧侶が地方の末寺に行ったときは、その寺に宿泊するのが普通だった。柿沼と早瀬も寺に泊まったが、そのとき、二人が話題にしていたことは、「信雄(日顕)は、夜になると必ず抜け出すクセがある」ということだった。若い頃の日顕は末寺に来ても、その寺に泊まらずに「眠れないから、旅館に泊まる」と言い訳をして、別のところに泊まっていた。もちろん、夜に遊びにいくためだ。  日顕の兄弟子にあたる千種日健能化も「信雄君は、僕が誘っても一軒ぐらいつき合って、いなくなっちゃうんだよな」と言っていたという。  また、日達法主の配慮で、『富士年表』の年表委員の慰労会が熱海で行われた時も、食事のあと、日顕は「碁を打つから」と言って、部屋に引きこもった。ところが碁を打つというのはウソで、夜の十一時過ぎまでどこかにこっそりと遊びに行っていた。  このように日顕が夜になると一人こっそり抜け出して遊びに行くというのは、昔から宗内では有名な話だったのだ。  裁判の原告は自分ではなく、日蓮正宗と大石寺の二法人となっている。自分は直接、裁判とは関係ない立場だから、法廷に出る必要はないと日顕はタカを括っていた。ところが、ついに出廷が決まってしまい、“話が違う”と狼狽し、怒った日顕は弁護団長を事実上解任した。  日顕が東京地裁に出廷したのは、平成九年十二月二十二日、翌十年二月二日、同五月十八日の三回である。この法廷で日顕は自分のウソを次々と弾劾され、かつてない窮地におちいった。  特に事件当夜のアリバイについての追及は日顕にとって生涯忘れられない屈辱となった。日顕は法廷に当時の「手帳」を提出したが、シアトルの夜についてはこう記されていた。  「夜、渡米已来始めて一人歩きし、あちこち尋ねつゝ、とうゝゝウイスキーにありつく。久しぶりで酔った。こちらで聞くことは判ってくれるが、むこうの返事はとたんに判らない。身振り手振りでやっとわかる程度。我ながら情ない。さあねよう、  午后1時、  Mrs.クロウヒロヱの例  主人の遺言『骨を大石寺に(中略)  あくまで遺言によって、火葬にするよう守りぬいたこと」  この記述をもとに、日顕は、事件当夜は「カルーセル・ルーム」という店でウイスキーをダブルで二杯くらい飲んで、ホテルに帰り、手帳に「夜、渡米已来」の個所から「さあねよう」までを書いて寝たこと。しばらくして目が覚め、手帳に「Mrs.クロウヒロヱの例」から「〜守りぬいたこと」までを書き、前の部分に戻って、「午后1時」(「午前一時」の誤り)と就寝時間を書き、朝十時まで寝ていたことなどを説明した。だから、事件があった午前二時頃は現場にいなかったというのが日顕の証言だった。  このことについて一審の判決文では次のように述べられている。  「原告らは、阿部作成の手帳を提出し、その手帳には、『さあねよう 午后1時』(なお、午后1時については午前一時の誤記であるとする。)との記載があるから、本件事件が発生した午前二時に阿部は本件事件の現場にはいなかった旨主張する。しかし、阿部は、右『午后1時』(午前一時)との記載について、外出から帰ってきて一旦眠ったが、夜中に一度目が覚めて、そのとき、右『午后1時』(午前一時)の記載の下にある『Mrs.クロウ・ヒロエの例』とともに記載したものである旨供述していたが、反対尋問において、その点の記憶の有無について質問されると、はっきりしていないなどと供述するに至っているなど、右『午后1時』(午前一時)の記載についての阿部の供述は不自然かつ曖昧であり、信用することができず、したがって、手帳の右記載の正確性についても疑問があるというべきである。以上によれば、手帳の『午后1時』(午前一時)の記載は信用することができず、同記載が存在することをもって、阿部が本件事件の現場にいなかったということはできない」  また、同じ時に書いたという「午后1時」のインクと、「Mrs.クロウヒロヱの例」以下のインクは違う質のものであることが、鑑定の結果、判明した。  さらに、日顕が酒を飲んだという「カルーセル・ルーム」について日顕は当初、「入った中の感じは、広い感じで、明るい感じでありました」と説明したが、当時のこの店は、肩や太ももをあらわにした水着のような服装のウェイトレスが働き、売春婦も出入りするようないかがわしい店だった。法廷でこれを学会側の弁護士から指摘されると、日顕は急に、「中に入らなかったんです」と供述を変えた。  日顕はウソにウソを重ねていったが、科学的証拠については打つ手がなかった。「手帳」に書かれた「午后1時」の文字は、鑑定によって、真裏に記載された次の訪問地であるシカゴの記載よりも後に書き加えられたものであることが判明した。  宗門は独自の鑑定資料を提出したが、判決文では「原告らは、『午后1時』の文字が、裏面の記載よりも後に書かれたものとは認められず、『午后1時』の文字とその下側の文字は同じインクで記載されたものである旨の○○作成の鑑定書ないし意見書を提出するが、右の諸事情及び証拠によれば、○○作成の鑑定書ないし意見書は信用することができないというべきである」と断じられている。  日顕が思ってもいないところから、ウソが暴かれたこともあった。日顕は、手帳について、“出張御授戒から帰国後、京都・平安寺への転任準備の忙しさのなかで、引っ越し荷物の中に突っ込んでしまい、以来、その存在すら忘れていた、平成七年三月、大石寺出張所を西片から世田谷に移転する際、荷物の整理をしていたら偶然、妻の政子が「手帳」を発見した”と述べていた。しかし、学会側から昭和三十八年四月、日顕が平安寺で『聖教新聞』のインタビューに答えている写真が提出され、その写真に写っている日顕の手元に、ないはずの「手帳」がしっかり写っており、“引っ越しの荷物に紛れて、存在自体を忘れていた”などというのはウソであることが暴露されてしまった。  日顕の証言について判決文では「不自然」「不合理」「曖昧」「信用できない」などと、十七カ所にもわたり指摘され、最後にこう結論されている。  「以上によれば、阿部は、昭和三八年三月、原告日蓮正宗の教学部長として、アメリカ合衆国へ第一回海外出張御授戒に行った際、同月一九日から二〇日にかけての深夜、シアトルにおいて、売春婦に対し、ヌード写真を撮らせてくれるように頼んだこと、売春婦と性行為を行ったこと、その後、その料金をめぐって売春婦らとトラブルを起こし、警察沙汰になったことが認められる」  平成十二年三月二十一日午後一時十分、東京地方裁判所七〇九号法廷で、裁判長は判決文を読み上げ、「主文、原告らの請求をいずれも棄却する」と判決を言い渡し、六年余にわたったシアトル事件裁判の一審は、日顕側の全面敗訴で終わったのである。  これに対し日顕側は、東京高裁に控訴したが、一審の判決を覆す有力な証拠を出すことができなかった。日顕側は創価学会に二十億円の損害賠償を求め、一審二審をとおして、千四百万円もの印紙を貼って訴えてきたが、高裁から再び、訴え取り下げの勧告を受け、平成十四年一月三十一日、訴えを取り下げて和解した。自らの訴えを取りさげたのだから、それは実質的な日顕の敗北であった。  しかし、この結果は日顕にとっては好都合だった。これ以上、裁判で争えば、シアトルでの買春が立証されるだけでなく、日本中、いや世界中から注目され、いよいよ自分の立場が危うくなる。内心では安堵のため息をついていた。  大坊の学生たちは、「法教院」が出来たため、一般の大学を受験するという目標がなくなり、将来の夢もなく、無気力に陥っていた。そのうえ、法教院にいっても、そこは大坊生活の延長で、先輩の顔色をうかがう生活が続く。そんな彼らにとって、唯一の鬱憤晴らしが“遊ぶ”ことだった。大坊で六年間抑えられていた分を取り返すかのように、彼らは狂ったように遊びを覚えていく。  その彼らの姿は師である日顕と同じであった。日顕の若い頃と同じように、夜になると寺を抜けだし、繁華街に消えていくのである。彼らの目指す場所は風俗店であった。夜に寺を抜けだして遊んでいることを住職に見つかって殴られても、「殴られれば済むから」と言って、また遊びに行くのである。彼らは大坊生活で暴力に慣れてしまい、少しくらい殴られても平然としている。  師のやることを弟子は真似ていく。ときには、真似ようとしなくても、同じ思想、同じ行動原理により、結果として師と同じことをする場合もある。  ある役僧の息子は、ホテトル嬢とトラブルを起こした。その学生は「財布を盗られた」とホテトル嬢を追いかけ、ホテルのロビーでつかみ合いになった。しかし、後に財布が見つかり、大恥をかいた。まるでシアトル事件の学生版である。  また、ある学生は大学科の教室で「ホテトルはいいぞ。ブスが来たら、チェンジできるからな。昨日もチェンジしてやった」とはしゃいでいた。  彼らは買春をしても全く罪の意識が無い。まるで武勇伝のように僧侶が買春を自慢するとは――学会出身の青年得度にはまったく理解できない行動である。しかし、年分得度の学生たちからすると、真面目に修行している青年得度の存在の方が不思議であった。“一体、何が楽しみで生きているんだ?”と。だから、彼らは遊びにいかない青年得度に「身体が悪いのか?」と聞くのであった。  平成元年十一月、日顕は「秋季学林」でこう言っている。  「若いうちにあんまり真面目すぎて、世間的な遊びを経験していないと、四十才くらいになって突然、遊びにのめり込む危険がある。だから、若い連中は少しくらい遊んだほうがいいんだ」  師弟相対とは、師匠が弟子に法を教え、弟子は師匠に対して絶対の信をもって随従することをいう。だから、日顕を師として弟子の道を歩むならば、この指南を実践しなければならない。彼らにとっては“遊ぶことも修行のうち”なのであった。  また、彼らにとって信仰は職業に過ぎない。自分自身が信じるのではなく、信仰を利用して供養を受けるのが目的である。彼らは信徒のいない所で本音を話す。  大阪・調御寺の執事の木村が、在勤していた成川に尋ねたことがある。  「おい。なんで学会のやつらは題目ばかりあげるんだ?」  成川が「やはり、幸せになるためではないでしょうか」と答えると、木村は怪訝な顔をして、こう言った。  「バカだな、おまえ。本当に信心で幸せになると思っているのか。人生そんなに甘くねーよ。信心して幸せになるなら誰も苦労はいらねーんだよ!」  大坊育ちの木村は信心の意味を理解していない。単なる「他力本願」くらいにしか考えていないのだ。  成川は「たとえ、すぐには結果はあらわれなくても生命は永遠なんじゃないですか」と反論した。すると、木村は、  「おまえは本当にバカだな。マジで生命が永遠だと思っているのか。やっぱり、学会はおかしいよ」  と言うのであった。木村は仏法で説く三世の生命を信じていないのである。これが本山で教育を受けた僧侶の実態であった。しかし、それは日顕も似たようなもので、信徒には法を説きながら、自らは御本尊を信じていない。  かつて日顕は創価学会のある婦人が信心で病気を克服した体験を聞き、「本当に題目で病気が治るのですか」と驚いたことがある。唱題の実践がない日顕にはにわかには信じ難いことだった。事実、日顕はガンになった住職に信心の指導をせずに、「マコモは効くぞ!」とマコモをすすめていたことがある。この日顕のマコモ好きにより、一時期、宗内にマコモが蔓延した。  当時、大奥の風呂場の浴槽は、一パックが一万円もするマコモを五パックも使ったマコモ風呂と、そこからあがって体についたマコモを洗い流す湯船と別になっていた。また、日顕は毎日、決められた量のマコモをお湯に溶かして飲んでいた。「鼻がつまる」と言って、鼻の上にマコモを塗っていたこともある。  日顕は題目の実践はないが、健康療法の実践には夢中だった。そして、“マコモ教”ともいうべき日顕の指導により、毎日、マコモを飲んだり、マコモ風呂に入っている住職が大勢いたのである。  法主絶対の宗門では、法主が間違った指導をしても誰もとがめることができず、その間違った指導を受け入れて、皆が狂っていくのである。 終 章 阿部家の血脈  昭和六十三年十月、学衆課勤務の土田が御仲居の駒井に突然、呼びだされた。用件は「府中の大修寺に手伝いに行け」ということだった。“大修寺”と聞いて、土田は背筋が凍った。当時、日顕の息子の信彰が住職の大修寺は、庶務部長の早瀬が住職の“地獄の大願寺”を超える、“阿鼻叫喚の大修寺”として所化の間では恐れられていたからだ。  大願寺の早瀬の暴力も凄まじいものであった。ある所化は早瀬のお供として通夜にいき、出された寿司を残してしまった。寺に戻ってから、早瀬は「おまえは俺に恥をかかせた!」と怒鳴りつけ、その所化に二十発余りのビンタを見舞った。暴力で育てられた住職たちは、同じように所化に暴力を振るう。暴力を受けるのが修行であると思い込んでいるからだ。  早瀬に殴られたこの所化は暴力がトラウマになったのか、早瀬が寺にいるだけで、緊張して下痢をするようになってしまった。早瀬は庶務部長であるため、本山に行くことが多い。早瀬が本山に行く時、所化は車で出かける住職を最敬礼で見送り、車が見えなくなると「やったー! 万歳! これで自由だ!」と歓喜の声をあげた。  たしかに大願寺は所化にとって“地獄”であったが、大修寺はその上をいくといわれていた。だから、地獄よりもっと恐ろしい所という意味で“阿鼻叫喚の大修寺”といわれていたのだ。  大修寺に在勤していた川内はいつも法教院でグチをこぼしていた。  「毎日殴られているから身体の調子が悪い。この間なんか、怒鳴られただけで鼻血がでてきた」  大願寺の所化は住職と一緒にいるだけで下痢をし、大修寺の所化は怒鳴られただけで鼻血がでるという。所化がいかに大きな精神的ストレスを受けていたかがわかる。  また川内はあるとき、怒りを吐き出すように言った。  「怒られている最中に、ハサミが何かのはずみで飛んできて手に当たり、血が流れているのに平気な顔して怒鳴ってるんだぜ、信じられないよ」  目の前で所化が血を流しているのに、手当てもせずに怒鳴り続ける。常識では考えられないことが大修寺の中で起こっているのである。  大修寺に手伝いに行かされた理由を知って、土田は愕然とした。大修寺に在勤していた所化が逃げ出したのである。  その所化は過去帳を書かずに溜め込んでいたことが発覚し、信彰から足腰が立たなくなるほど暴行を受け、顔は原形をとどめないほど腫れ上がった。そして、その翌日、その所化は「俗の道に入ります」と書き置きを残して大修寺を飛び出し、そのまま行方不明になってしまったのである。  悲劇はここで終わらなかった。信彰から電話で自分の息子が寺を抜け出したことを知らされた所化の父親のショックは相当なものだった。父親は『出家功徳御書』を開いて何度も読み返していたという。この『出家功徳御書』には、一人が出家すれば先祖も子孫も七代すくわれ、逆に「還俗すると我が身のみならず、六親眷属もみな大地獄に堕ちる」と書かれている。得度式に法主が読む御書であるが、偽書の可能性が高いともいわれている。  還俗すると一族が地獄に堕ちるのなら、日顕の一族も地獄に堕ちることになる。なぜなら、日顕の妻・政子の弟である野坂昭夫は昭和二十三年に還俗しているからだ。野坂は、日顕が登座してから西片や末寺の帳簿調べなどをするようになった。日顕に関係のある住職たちは、日顕の心証をよくするため、この野坂に帳簿をみてもらっている者が多く、野坂はかなりの報酬を得ている。また、野坂は日顕の個人資産も管理しているが、税理士などの資格はなく、貿易会社などで経理を担当していた経験があるだけである。野坂は還俗しても日顕の恩恵にあずかり、優雅な生活を楽しんでいる。すなわち、法主である日顕自身が“還俗すれば、一族が地獄に堕ちる”などとは信じていないということだ。  しかし、得度式でこの御書を聞かされた得度者の親は決して忘れることはできないだろう。現に、大修寺を飛び出した所化の父親は息子がしたことを我がことのように悔やみ、苦しんだ。そして、我が子の罪をあがなうためには、自分が身代わりになるしかないと決断し、農薬を飲んで自らの命を絶ったのである。  父親が残した遺書には、妻に対して「あなたを不幸にしてしまった」と、息子には「お父さんは何も言わない。自分の好きな道を選びなさい」と書かれていた。  この父親の妻と妻の妹の学会婦人部員が葬儀を終えてから、大修寺に行った。信彰はいかにも迷惑そうな顔で二人を迎えた。所化の父親の死を悼む言葉はなく、飛び出した所化の悪口を言うだけで、自分こそ被害者であるといわんばかりの傲慢な態度であった。信彰はしきりにこう言った。  「魔が強かったんですよ」  つまり、所化の父親の死は自分のせいではない、信心が弱いために魔に負けたのだという意味であった。しかし、信彰が暴力さえふるわなければ、所化が寺を飛び出すことも父親が自殺することもなかったはずである。すべては信彰の暴力から始まったのだ。  信彰は自分が所化に暴力をふるったことについては、ひとことも触れなかった。信彰にとって暴力は修行の一部である。修行に耐えることができない所化が悪いのだ。信彰には罪悪感などまるでなかった。  土田が大修寺に派遣されてからしばらくたって、飛び出した所化が母親とともに信彰のところに謝りにきた。彼はある温泉地に身を隠し、居酒屋で働いていたのを見つかり、実家に連れ戻されていた。二人は頭を下げ、寺を飛び出したことを詫び、許しを請うた。しかし信彰は、  「おまえのような奴は、猊下に言って離弟にしてもらう!」  と言って全く取り合おうとしなかった。  この件はすぐに彼の同期に伝わり、同期の所化たちが日顕に、“離弟だけは許してもらいたい”と嘆願書を提出した。しかし、日顕はそれを無視して、その所化を離弟処分にした。法主の決定は絶対であるが、彼の同期たちは内心で納得できなかった。なぜなら、信彰の息子や庶務部長などの役僧の息子ならば、問題を起こしたり寺を飛び出しても決して離弟にならなかったからだ。  宗門には僧俗差別だけではなく、僧侶の中においても差別があった。それは僧侶の子どもと在家の子どもの差別である。日顕をはじめとした代々坊主の住職たちからすると、僧侶の子どもは純血であり信用できるが、在家の子どもは在家の血が混じった不純な存在である。だから、日顕は僧侶の子どもに対しては情状酌量することがあったが、在家の子どもに対しては容赦なく厳しい処分を言い渡すのだった。  土田は大修寺に手伝いにだされて、生まれて初めての恐怖を味わった。単なる暴力に対する恐怖ではない。暴力に対して無抵抗でなければならない恐怖である。普通の暴力ならば、防ぎようもある。しかし、宗門では暴力を修行として受け入れなければならない。どんな仕打ちを受けても、抵抗してはならないのだ。  第一日目の朝から、土田の試練が始まった。朝の勤行で土田は信彰の右後ろに座った。勤行が始まり、しばらくすると、突然、信彰の右手が動いた。衣の袖がひるがえったと思った瞬間に喉に激痛がした。一瞬、土田は何が起こったのか、わからなかった。信彰は右手に磬(住職が鈴の変わりに叩く、金属の板)を打つ棒を握っていた。信彰はその棒で土田の喉を叩いたのである。この棒の先には硬い石のようなものがついている。その硬い部分でもろに喉仏を叩かれ、土田は痛みで息ができなくなり、涙を浮かべながら咳き込んだ。  「お前の勤行は学会臭い!」  信彰は座ったまま顔だけ振りむき、険しい目をして、そう怒鳴った。そして、  「師匠の勤行を真似出来てこそ弟子である!」  と言って、そのまま勤行を続けた。  土田は唖然としたまま、喉の痛みをこらえていた。磬を打つ棒で人の喉を叩くなど正気ではない。もし、怪我をしたらどうするつもりなのだ。とんでもない人間の所にきてしまったと、土田はあらためて絶望に近いものを感じはじめていた。  勤行が終わってからも、信彰の言葉が土田の頭から離れなかった。一体、自分の勤行のどこが“学会臭い”のか、わからなかった。信彰の勤行はたしかに声は日顕に似ているが、生命力もなく、ただ声を出しているという感じである。あんな勤行では歓喜も湧いてこない。土田はとても信彰の勤行を真似る気にはなれなかった。  大修寺では毎日のように暴力が行われていた。年分の所化たちは毎日、しかも一日に二度、三度と殴られていた。青年得度の土田は怒鳴られることはしょっちゅうだが、殴られることはめったにない。しかし、年分の所化が目の前で殴られるのを見ているだけで、自分も殴られたように錯覚し、心が凍りついた。いつ自分も同じ目にあうかわからないからだ。  所化は朝、住職に対して三指をついて「お早うございます」と挨拶をしなければならない。年分の所化の山部はいつも、“挨拶がなっていない”と顔をあげた瞬間に痛烈な平手打ちを毎朝のようにされていた。  また日中、所化は受付にいなければならない。信彰は日に何度もインターホンで所化を呼び付ける。その時に、所化はベルが一回以内に出なければならない。少しでもインターホンに出るのが遅れるとそれだけで殴られた。  ある日、土田も信彰にビンタをされた。理由は年分の所化の喫煙だった。土田は成人しているからタバコを吸うことは許されていた。ただし、自分の部屋の中だけである。しかし、年分の山部はまだ十九歳であったから、タバコを吸うことはもちろん禁止されていた。しかし、山部は住職が留守になるといつもトイレに隠れてタバコを吸っていた。当時の大坊の高校生の大半が喫煙しており、山部も大坊でタバコの味を覚えたのだった。  その日、信彰が所化が使うトイレに入って、山部がトイレでタバコを吸っていることが発覚した。大坊育ちの山部は怒られるのは上手だ。いかにも“つい出来心で吸ってしまったような態度”で謝った。それでも、山部は何度も信彰に殴られた。そして、山部を殴った後に信彰が、今度は土田に「こいつがタバコを吸うようになったのは、おまえが来てからだ」と、一方的に決めつけて、手をあげたのだ。山部は殴られ慣れているので、何事もなかったようにケロッとしているが、土田にとっては人からビンタをされることなど、初めての経験だった。土田はビンタの痛みより、自尊心を傷つけられたショックで、数日間、“もうこんな寺を出て行きたい”と真剣に考えた。  大修寺に在勤した者は誰もが地獄を味わった。青年得度の出川は大修寺に一月間在勤したが、彼は電話に出るのが遅いという理由でいつも信彰から殴られていた。出川はあまり殴られるのでノイローゼ気味になり、ある時に信彰が探し回ったら、出川は押入れの中で膝を抱えて震えていたという。彼は手伝いから戻って、同期の所化に「頭の形が変わるくらい殴られた」と、その恐怖の体験を語っていた。  他にも青年得度の鹿山は、勤行の声が小さいとの理由で信彰から正座させられ、ビンタを食らった。年分の土村は大修寺へ一週間、手伝いに行かされ、一週間で十回殴られたという。彼は「あそこに在勤するなら、俺は坊さんをやめる」と言った。息子の正教も例外ではない。正教が本山にいる時に父親の信彰が面会に来た。偶然、その場を通った所化が、信彰が正教を怒鳴りつけながら、彼の腹をこぶしで何度も殴りつけているのを見ている。  大修寺の元従業員も、次のように証言している。  「所化が勤行中に居眠りをしようものなら、ものすごい形相で怒ります。怒鳴るだけならまだしも、鼻血が出るまでたたき、『ぶった方が悪いのか!』と問いただすのです。所化は『いいえ、私が悪うございました』とわびるしかありません。法衣に飛び散った鼻血を洗うたびに、もうかわいそうで、かわいそうで」  信彰はあるとき、土田にこう言った。  「御前様の若かりし頃は、手当たり次第そばにあるもので殴られたものだ。塔婆で殴られることなどしょっちゅうだった。それから見るとお前たちは幸せだ。わしは平手だからな」  信彰が言うとおり、日顕の信彰に対する暴力は、周りで見ている者が青ざめるほどむごいものだった。  昭和五十一年、佐賀・深遠寺の日達法主親修の打ち合わせを終え、タクシーを呼んだときのことだった。当時、教学部長だった日顕が「まだ来ないのか?」と聞くと、信彰が「まだ来ません」と答えた。日顕はイライラしながら、信彰に「見てこい」と命じた。  信彰は「見てきましたが、まだ来てません」と答えたが、実はタクシーは寺の裏に来ていた。それを知った日顕は「貴様! 本当は見てないだろう!」とわめいて、信彰をものすごい勢いで殴った。居合わせた住職が息を呑むほどの凄まじさで、殴られた信彰が地面に転がったという。  更に翌日、日顕が汽車で移動したとき、ある駅で日顕だけが降りることになった。その時、信彰は網棚の鞄を下ろして日顕に「お師匠さん、鞄」と言って、日顕に鞄を渡そうとした。すると日顕は「貴様! なんだ、その渡し方は!」と激怒し、信彰をホームまで引きずりおろして、何度も殴りつけた。つまり、日顕は、信彰がホームまで降りてきて見送りもせずに、鞄だけを渡そうとしたことが気に入らなかったのだ。  “この親にしてこの子あり”との言葉の通り、信彰の暴力は日顕そっくりである。萩山という所化は、信彰に一本背負いをかけられ、投げ飛ばされたことが何度もあるが、それも日顕の真似である。日顕は本行寺の住職をしていたときに、本堂で八木信瑩や高橋信興、藤本信恭など自分の弟子等を相手に柔道技をかけて、投げ飛ばしていたという。  また、年分の西村が大修寺在勤中、彼の車の運転が気に入らないと、信彰は後部座席から身を乗り出して「貴様! バカヤロー!」と殴っていた。日顕が本山で運転手で奥番の所化を殴るときとまるで同じである。西村の父親は久成坊の住職である西村荘道だった。その父親が学衆課の僧侶に息子が大修寺でひどい目に遭っていることを話し、「信彰のオヤジは猊下だから何も言えない」となげいた。  信彰が殴るのは所化だけではなかった。信彰はブラジルに赴任する前、埼玉の能持寺の住職をしていたが、隣にある仏具屋には、毎日、信彰が妻を殴る音が聞こえてきたという。寺から飛び出した妻の信子を、ステテコ姿の信彰が血相を変えて追いかけたり、真っ昼間に信彰が信子の髪の毛をつかんだまま近所を歩いていたこともあった。近所の住人もその光景を目にし、「何だろうね、あの住職は」と呆れていたという。  信彰の妻に対する暴力はブラジルの一乗寺に移っても同じだった。拳を振り上げ、「貴様!馬鹿野郎! お前はバカだ!」と怒鳴り散らす信彰に、信子が土下座して「申し訳ありません! 南無妙法蓮華経」「もうしません! 南無妙法蓮華経」と謝るのだ。異常としか思えない光景である。またあるときは、信子が学会員宅に「助けてください」と逃げ込んできたこともあったという。  ある住職の妻によると、信子が信彰の暴力に疲れ果て家を飛び出したことがあり、気がついたら線路の上を歩いていたという。日顕の妻・政子の弟の野坂でさえ、「大修寺に信彰が帰って来るとみんな、ビリビリしている。あんなにドヤシまくるなんて、ふつうじゃない」と陰口をたたいていた。  日顕と信彰、この親子の異様な暴力体質はどこからくるのであろうか。この二人に共通しているのは“自分は法主の子である”というエリート意識である。日顕の父は六十世の日開である。だから、日顕と信彰の意識の底には“自分たちは特別な存在であり、万人が自分たちにひれ伏すべきである”という強烈な感情がある。もちろん、それに見合う立派な振る舞いがあれば、人々は自然に尊敬するかもしれない。  しかし、この二人には、自分たちの存在そのものが聖なるものであるという錯覚がある。だから、自分を向上させようという気持ちはまったくない。その結果、二人は力と恐怖で相手を支配しようとするのだ。  日顕は八百万信徒の供養で建立された正本堂を破壊した。真心の供養によって建てられた殿堂であるなどと思ってもいない。日顕は、ただ自分の力に酔いしれ、自分はなんでもできると、優越感に浸っていたのだ。日顕は正本堂の解体の様子を自分の部屋のテレビモニターに写し、毎日、嬉々として壊れていく正本堂を見ていたという。まさに狂気である。  信彰も同じだ。暴力を受けて苦しむ所化を見て、自分が支配者であることを確認して喜んでいるのだ。そして、その信彰の子供の正教もいつかは自分が法主になると信じている。  正教は昭和四十八年に生まれた。名前は信康。一説によると、この名前は日顕が将来、この孫を法主にしたいと願い、天下を取った徳川家康の名前にあやかったといわれている。日顕は自分の名前の「信雄」の「信」と、「家康」の「康」をとって命名したのだ。  昭和五十五年、信彰が一乗寺住職となり、翌年、正教が初めてブラジルにやってきた。信彰一家を歓迎するため、学会の文化会館の前にブラジルのメンバーが集まっていた。そのとき、正教は車から降りるなり、辺りを見回して、  「おれの家来は誰だ!」  と叫んだという。この言葉が阿部家の異常なエリート意識を象徴している。彼らにとって信徒は家来なのである。  正教は、法教院時代、日顕の娘婿・早瀬義純が住職を務める板橋の妙国寺に在勤していたが、平成三年にこの寺を飛び出している。他の所化が正教の部屋を片付けていると、寿司屋やクラブの何万円という高額の領収書が束になってでてきた。所化の給与は月に五万円程度である。いかに、正教が身分不相応な贅沢な遊びをしていたか、わかる。  この領収書とともに正教の部屋から一枚のメモが発見された。そこには、次のように書かれていた。  “○年×月 日顕上人遷化。×年△月 結婚する。△年○月 庶務部長になる。×年×月 総監になる。□年△月 猊下になる”  つまり、これは正教の人生の予定表である。自分も祖父と同じようにやがては法主になると信じていた証拠である。  日顕は日蓮正宗を完全に自分の支配化に置こうとした。それが「C作戦」である。その第一歩として、平成二年十二月二十七日、日顕は臨時宗会を開き、池田名誉会長の法華講総講頭の実質罷免を行った。姑息にも、学会が迅速な対応ができないように聖教新聞の年末の休刊日を狙ったのである。  「第六天の魔王」の別名を「他化自在天王」という。欲界の六欲天の最頂に住するからだ。『大智度論巻九』に「他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。日顕は「自ら娯楽する」ために、「他の化する所」を奪おうと、創価学会を破門にした。  また、この魔は多くの眷属と共に仏道を成ずるのを妨げて智慧の命を奪うので「奪命」ともいう。しかし、日顕は信心強盛な学会員にその野心を見抜かれ、退散を余儀なくされた。ところが、こんどは宗門が、日顕一族により奪命され、滅亡に追いやられている。宗門は日顕らに私物化され、日顕と一族だけが末寺の困窮を横目に裕福な生活を続けている。半数近い末寺が本山から援助を受けなければ生活を維持できない。だから、何があっても彼らは日顕一族には逆らえないのだ。それは、日顕の狂気に加担した宗内僧侶たちの「還著於本人」の罰の姿ともいえるのである。  すべては日顕の狂った支配欲から始まった。そして、その狂気は脈々とその子・信彰と孫・正教にも受け継がれているのである。 あとがき  私は拙著『転落の法主』で「C作戦」を中心に、日顕の邪な信徒支配の野望の実態を書かせていただいた。しかし、なぜ宗門にいる他の僧侶たちまでが、簡単に日顕に従ってしまったのか。その答えを説明するためには、僧侶の教育の実態を描かなければならない。また、宗門内外の多くの人々に宗門事件の背景を理解していただくためには、僧侶の生活の実態を知っていただかなくてはならない。そのためにはどうすればよいかと考えた末に、私はこの小説を書くことを思いたった。登場人物の一部は仮名であるが、すべて、現実にあった体験を基にしている。  僧侶にとって、自分たちの住む世界と信徒の住む世界は全く別なものである。彼らは自分たちの世界にいる時には、欲望のままに行動し、見つかりさえしなければ、何でもする。善悪の基準はないに等しい。ただ、あるのは目上の者への服従だけである。  しかし、彼らは、“自分たちより下”の信徒の世界に降りていくときには、衣でその本性と欲望を隠し、聖人を装う。多くの信徒がこの衣の権威に惑わされていた。まさか、その衣の下に極悪の世界が存在しているとは思わないからだ。  ましてや、その衣の権威に信仰を置いている者にとっては、僧侶を疑うことは自分の信仰を否定することになる。だから、僧侶が悪事を働いても、それを責めることはもちろんのこと、目を向けることさえできない。  その僧俗差別の世界の頂点にいるのが日顕である。日顕からすれば、信徒は下僕のような存在である。その下等な存在から何を言われても気にならない。だから、ウソをつくにも迷いがないし、信徒の供養で建立された正本堂を壊したことにもまったく罪悪感を抱いていない。この「人間を軽賤する者」(法華経)こそ、僭聖増上慢であり、天魔なのである。天魔である日顕は、人が自分を恐れ、己のために人が動くのを見て、自分が世界の支配者であることを確認するのだ。  このような異常ともいえる世界で教育を受ける子どもたちは実に憐れである。十代の多感な青春時代に受ける教育はその子どもの人格形成に大きな影響を与える。大坊の小僧は僧俗差別を吹聴され、暴力で体制への絶対服従を教え込まれる。彼らは自分でも気づかないうちに僧俗差別を当たり前のこととして受け入れ、法主絶対の思想を身につけていくのである。  それに対して、池田名誉会長はいつも大坊の小僧たちに慈悲の心で接し、本山に来られた際には、いつもお菓子などの真心の供養をしてくださっていた。小僧たちは、初めは喜んでそれをおいしそうに食べていたが、彼らはやがてその差し入れのお菓子に「また、これかよ」と不平を言うようになり、最後には「こんなものいらねえ」と言って、食べもせずにごみ箱に捨てる者もいた。差別が子どもたちをここまで狂わせているのだ。  もちろん、そんな宗門の世界にも数は少ないが、真面目な住職がいた。ところが、宗門事件が起こると、一見、人柄の良い住職でも「信徒が僧侶に逆らうのは間違いである」と言い、池田名誉会長と学会員をののしるのだった。これが「差別」の持っている恐ろしさである。だから、宗門事件で、学会の方が誠意を持って僧侶に話しても、悲しいことだが、まったく通じない。彼らは自分より下の人間が話していると見下ろしているからだ。“僧侶も同じ人間なのだから、誠意をもって話せばわかってくれる”というのは大きな誤解である。差別の世界に生きている僧侶たちには、「信徒も同じ人間だから」という意識は全くない。だから、下手に慈悲を持って接すれば、かえってその悪を増長させるだけなのである。  日蓮大聖人云く  「此の経閻浮提に流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし、其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし」(御書全集 一四一五頁)  創価学会がいよいよ世界広布への驀進を開始した時に、日顕がそれを阻止しようとした。まさに御書の通りである。そして、先陣を切って戦った池田門下生により、その日顕の邪悪な試みは完膚なきまでに打ち砕かれた。  私たちが日蓮正宗より離脱できたのも、すべては偉大な師匠である池田先生の深い広宣流布への一念の賜物である。また、その池田門下の正義の戦いによるものである。私たちはその御恩に報いていかねばならない。それが人としての道であり、弟子の決意である。  私たち、離脱した僧侶ももとは宗門に身を置いていた者である。私たちはそのことを自覚し、まずは自分の生命の中にある天魔の命を断ち切っていかねばならない。それは一人の大聖人の弟子として、民衆の中に入って戦うということだ。  私たち一人一人が自らの生命を変革した時にこそ、本当の意味で天魔・日顕に勝利できるものであると信じ、私自身も池田門下生の一人として一生を広宣流布に捧げていく決意である。  最後に、貴重な証言を寄せてくださった改革の同志の皆様に、心より御礼を申し上げるとともに、一人でも多くの方が本書により、宗門事件の本質を理解されることを願ってやまないものである。  平成十七年十二月十九日                            青年僧侶改革同盟 渡辺雄範 著者紹介 渡辺雄範(わたなべ ゆうはん) 昭和34年8月 北海道旭川市に生まれる。 昭和58年3月 創価大学経済学部卒業。      大学卒業後、コンピューター関係の仕事に就く。 昭和61年3月 得度。 昭和62年4月 神戸・法恩寺に在勤。 平成元年4月 豊中・本教寺に在勤。 平成2年4月 新宿・大願寺に在勤し、富士学林大学科に入学。 平成4年5月 謗法と化した大石寺より離山。 平成8年3月 シンガポールの「創価山・安楽寺」の住職を勤める。 平成16年4月 実録小説『転落の法主』を上梓。     現在に至る。