はじめに 最近、『平気でうそをつく人たち』という本が話題になったが、この男ほど「他人にウ ソをつき続けることで成り立っている」人格の持ち主もいないのではないか――山崎正友という男を知れば知るほど、そう思えてならない。  これまで山崎はマスコミに登場しては、創価学会を告発する「正義の仮面」をかぶってみせてきた。巨大な組織を相手に孤軍奮闘する「憂愁の士」を気取ってきた。そして、そうした姿を少なからぬ一般読者が真に受けてしまっているようである。それは何よりも山崎が登場するメディアが、曲がりなりにも名の通った出版社から発刊されていることも一因と言えよう。しかし、それは結局、「活字の魔術」にすぎない。社会的使命を忘れた一部のマスコミが、一方的に、あるいは意図的に垂れ流す山崎の虚像を信じてはならない。 山崎の実像を見抜くための客観的な資料としては、たとえば、この男が犯しか創価学会恐喝事件の裁判における東京地方裁判所の判決文が挙げられよう。同裁判所の吉丸真裁判長が、四年間の事実審理を通じて山崎を注意深く観察し続けた結果、この男が常人の想像をはるかに超えた希代のペテン師であり、悪質な犯罪者であることを暴いた「労作」である。  山崎について知ろうとするならば、まず同裁判長が、この判決文の中で実に四十数回もの山崎のウソを指摘し、「虚構の弁解」「虚偽の証拠を提出」等々、極めて厳しい言葉で繰り返し山崎を弾劾しているという事実を知らねばなるまい。  山崎に踊らされ、操られている人々――一部のマスコミ関係者をはじめ、政治家、宗教家らは、すべからくこの判決文に一度は目を通し、己の迷妄を破すべきであろう。山崎は「憂愁の士」などではない。マスコミで僣称しているような「闇の帝王」などでもない。そんなご大層な人間では決してないのである。山崎の実像とは、たとえば山崎自身が、刑務所に収監される前の己の日常について、次のように言っている姿である。  「家賃もいつの問にか十二ヵ月以上たまり、電話や電気もしょっちゅう止められた。そんな時、仕方がないから歌舞伎町の雀荘でゴロゴロした。サービスのミソ汁やハンバーガーをたよりに雀ゴロ生活をし、生活費とサウナ代が稼げればよし、負けてスッカラカンになったら、バスの始発時間までコマ劇場前の花壇で寝た。オカマに立小便をかけられそうになってあわてたこともあった」(山崎著『平成獄中見聞録』ラインブックス刊)  ここで山崎が「告白」しているように山崎は額に汗して働くこともない。働く気もない。そのくせ金欲、物欲、性欲だけは人一倍という、始末におえない「はんぱ者」「なまけ者」なのである。  普通、人間というものは労働の見返りとして生活の資を得る。山崎の場合、結論から言えば嘘をつき、人を騙し、人に付け込むことで生きている。商売道具は元手いらずのウソ、デタラメ、ゴマカシ、舌先三寸口八丁。いわば「虚言商法」で世と人を誑し込むことで生きている「誑し屋」である。  そんな「誑し屋」を今なお相手にし、その生活を成り立たせているものこそ、一部のマスコミであり、政治家であり、宗教家である。彼らが、いかに山崎に誑し込まれ、山崎をのさばらせてきたか。その結果として、いかに大きな害毒をまきちらしてきたか――それを本書では浮き彫りにしていきたい。  本書で扱う内容は、主に平成五年四月に山崎が栃木県黒羽刑務所を仮出所して以降、この男が重ねてきた悪行である。それ以前の山崎の行状については、北林芳典氏の『邪智顛倒』(はまの出版刊)などに詳しい。本書をまとめるにあたっても、北林氏はじめ諸兄の業績に負うところ大であることを、感謝の思いを込めて、ここに記しておきたい。なお読者の理解の便を考え、本書では時間の推移を追って説明していくというよりは、山崎の手法についての検証に力点を置いた。そのため各章の記述に多少の重複が生まれたことをお許しいただきたい。また本書の目的に照らして、一部の人物の敬称は略させていただいた。 山崎の仮出所から既に五年という歳月が流れている。情報の”賞味期限”が短いこの時代、すでにいささか旧聞に属する内容もあろう。しかし山崎の悪行の数々は、この男の人格品行の低劣さとは別に、時代を超えて伝えていかなければならないほど重大なものである。  その意味で本書が、特に若い方々にとって山崎の実像を知る上での一助となれば望外の喜びである。   平成十年一月 佐倉敏明 プロローグ 山崎正友という「希代のペテン師」について筆を起こすにあたり、まずは、この男が創 価学会に対する悪質な恐喝事件で懲役三年の実刑判決を受けて服役するまでの前半生に触れておこう。  京都大学在学中に学会に入会。同じく在学中に司法試験に合格し、念願の弁護士となった山崎――この男が信仰と人生の正道から転落していった契機について、山崎を知る人々が、まず挙げる点は、山崎が独断で勝手に策謀をめぐらせた、いわゆる立正佼成会分断工作である 立正佼成会分断工作の経緯  昭和四十五年以降、学会の急速な発展に危機感を抱いた日本の諸勢力によって引き起こされた、いわゆる「言論問題」当時、学会にはマスコミや共産党等による非難中傷が浴びせかけられていた。その反学会包囲網の一角に「創価学会対策連絡協議会(創対連とな る団体があった。この創対連は、立正佼成会の最高幹部・庭野欽司郎氏(同会の開祖・庭野日敬氏の次男)から資金援助を受けていたとされる。いわば佼成会による学会攻撃のダミー団体としての役割を果たしていたのである。  そうした背後関係をつかんだ山崎は、学会本部の意向とは何ら関係なく、まったくの独断で佼成会の分断工作を立案。昭和四十八年春、実行に移した。  作戦の中心は佼成会の元最高幹部で、佼成会の現状に不満を持っていた荒木健三郎氏を抱き込み、造反に踏み切らせるというもの。山崎は荒木氏を取り込んだ上で、「明日の佼成会を守る会」なる団体を結成させ、機関紙『刷新』を発行させた。また同会の結成に先立って、荒木氏からの情報をもとに、佼成会を被告とする民事訴訟を提起。この訴訟を火種に、『週刊ポスト』に佼成会批判キャンペーンを張らせたのである。  ――ここで注目したいことは、こうした分断工作が、のちの学会攻撃の原型となったということである。山崎は当初、この作戦を、学会攻撃に力を注いでいた佼成会に対する 「懲罰」として勝手に位置づけ、自己の行為を正当化していたようだが、工作の過程で、その心境が変化していく。この心境変化にあたってば、創対連の理事長にして、名うての「宗教ゴロ」であった稲垣和雄なる人物の影響が決定的であったと伝えられるが、ともあれ昭和四十八年秋のこと、山崎は当時の同僚、後輩に語ったという。  「立正佼成会を分断して、新しい教団を作ろう」「信者の前に出なければ、世間になんだかんだといわれることもない。教祖には、オレは絶対ならない。裏から実権を握ればいいんだ。新しい教団を作って、いい目をみよう」  「いい目をみよう」――山崎の心の中で分断工作の目的が「佼成会への懲罰」から「自分の金ヅルをつかむこと」へと変質したわけである。  しかし、新しい教団を作って自分が裏で実権を握るという山崎の野望も、肝心の「明日の佼成会を守る会」の運動自体が、山崎のはしゃぎぶりとは裏腹に、一向に盛り上がらなかったことから頓挫。そして山崎の動きが、やがて学会首脳の知るところとなり、当然のことながら学会首脳の指示で作戦は中止。あえなく「見果てぬ夢」と終わった。  山崎は、これがよほど悔しかったらしい。その悔しさは、学会首脳、ひいては池田会長(当時)への逆恨みとなっていく。昭和五十一年頃には、「弟子に教団の一つぐらい持たせられないとは、狭量なことだ」などともらすほどだったという。まったく筋違いの逆恨みというはかないが、この逆恨みこそ、山崎の人生の本質であると言える。 土地転がしで巨額の裏金を手に  その後、山崎は、学会が静岡県富士宮市に建設した「富士桜自然墓地公園」の建設をめぐって、昭和四十九年以降、地元の有力な実業家と癒着。学会に内密で、いわゆる「土地転がし」を行った結果、一説に四億五千万円ともいわれる巨額の裏金を手にするにいたる。  まさに[濡れ手で粟]を地でいく大もうけで、山崎の宗教観、教団観は決定的に変質する。宗教というものは「金の成る木」であり、「金もうけの道具」であるという歪んだ観念を、その脳裏に宿らせた。その歪んだ観念は、やがて学会を支配し、実権を握りたいという欲望に変わっていったのである。 宗門への工作  そうした邪念にとらわれた山崎が考えついた策略は、学会と日蓮正宗宗門との間を離間させ、宗門の権威をカサに学会の実権を握るというものであった。  当時、学会と宗門は、いわゆる「僧俗和合」の協調路線を進んでいたが、その陰で宗門僧侶の問には、根強い反学会感情がくすぶっていた。そのことを山崎は、宗門をめぐる諸問題で直接、僧侶と関わるなかで熟知していたのである。  山崎は、そうした僧侶の反学会感情を利用して学会・宗門の間に摩擦を起こし、自分が摩擦解決の仲介役を買って出ることで双方を手玉にとろうと企んだのである。そのために山崎は、あたかも学会が宗門から独立、あるいは宗門支配を企んでいるかのような謀略文書を相次いで宗内に流す。これを契機に宗門僧侶の反学会感情は一気に爆発。そして、学会と宗門の不協和音が次第に高まる頃合を見はからって、自分は何食わぬ顔で仲裁役を買って出たのである。自分で紛争の火種をまいておいて、思惑どおり火が回ると見るや、今度はその火消し役を買って出る――山崎得意の「マッチポンプ」の手法であった。  しかし昭和五十四年七月、細井日達・日蓮正宗管長の急逝によって山崎の宗内における立場は微妙なものとなる。次の管長・阿部日顕からも「大ウソつき」呼ばわりされ、取り入ることに失敗。山崎の宗門工作は重大な危機を迎えたのである。 事業に失敗し、学会を恐喝 山崎は学会と宗門の離間を図る一方、「自分には商才がある」という身の程知らずの思 い込みから、富士宮の土地転がしで手に入れた金を元手に、学会に内密で冷凍食品会社 「シーホース」などの事業経営に手を染めていった。だが、やがて山崎自身の放漫経営から、五十億円ともいわれる負債を抱えて事業は破綻する。その間、資金繰りに苦しんだ山崎は、事業とは何の関係もない学会を恐喝するにいたったのである。  山崎が学会を恐喝するにあたって、その道具としたのが、マスコミであった。山崎は、まずシーホースが学会関連の企業であるという大ウソを垂れ流し、その一方で弁護士という立場を利用するなどして学会本部等から盗み出した膨大な内部資料まで使い、学会と日蓮正宗の間の不協和音についての歪んだ情報をマスコミにリーク。「金を出さなければマスコミで騒ぐ」と学会を脅したのである。  だが、度重なる山崎の恐喝に対して学会は昭和五十五年六月、山崎を恐喝で刑事告訴するにいたる。そして翌五十六年一月二十四日、山崎は逮捕。その後、約四年間、七十五回にわたって行われた裁判の結果、東京地裁は山崎に懲役三年の実刑を言い渡したのである。ときに昭和六十年三月二十六日。同地裁の吉丸真裁判長は判決文のなかで、山崎について、こう弾劾した。  「被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚偽の弁解を作出し、虚構の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない。以上のように考えると、本件は犯情が悪く、被告人の罪責は重大であるといわなければならない」  裁判所としては、異例の厳しい言葉であった。続く控訴審でも同じく懲役三年の判決を受けた山崎は最高裁に上告した。だが最高裁が上告を棄却したことで、ついに山崎の刑は確定し、平成三年、山崎は栃木県黒羽刑務所に収監。また、弁護士資格も失うにいたる。 山崎の転落の人生――それは誰が悪いのでもない。自らに負け、自らが招き、自らが選んだ人生にすぎない。すべては自分白身の責任であり、「自業自得」なのである。  だが、山崎白身は、どうもそうした惨めな自分を認めたくないようである。平成九年暮れの東京・足立区での反学会の集会でも山崎は、こんなたわごとを述べ立てていた。「私は罪を犯したという自覚は、まったくございません。今、再審請求のために、資料を集めて鋭意、準備中でございます。いずれそのことは、私の生きている間に決着させなければそれは復讐とか何とかということではなくて、世の制度のためにやらなければならないことだと思っています。裁判とか、裁判官とかいう、また警察とか検察というものも、公平であるべきなのに、公平な制度ではございません」「創価学会の人たちの集団偽証で有罪というレッテルをはられた」  「再審請求のために、資料を集めて鋭意、準備中でございます」とは、山崎が刑務所を出てから何遍となく繰り返してきた、世間向けのポーズである。刑務所を出てから、ことしで五年。いったい、いつになったら再審を請求するのか知らないが、要するに、この男には反省の気持ちなど毛筋ほどもないのである。反省どころか、裁判所や警察や検察まで逆恨みしているわけである。更に山崎は、この席で、無実の罪で迫害された著名人の例として、韓国の金大中次期大統領や、南アフリカのマンデラ大統領の名前まで引き合いに出しながら、あたかも自分かそうした人物と同じだと大物面していたが、バカも休み休みにしてもらいたいものである。  ともあれ、今年六十二歳にもなりながら未だに「悪いのは自分ではなく学会だ」と逆恨みし続ける山崎だが、それも、学会攻撃が自分の「メシの種」であるということばかりではあるまい。要するに、そうした惨めな自分を直視したくないからであろう。早い話、学会に責任をなすりつけることで、自分の醜い実像を真正面から見つめたくないという己の弱さを、ごまかしているのである。  弱いのである。臆病なのである。小心者なのである。情けない男なのである。惨めな男なのである。だから、ことさら大物面して、学会という大教団に立ち向かっているというポーズを取りたいのである。こうした手合いは、せいぜい笑ってやるがよい。嘲笑ってやるがよい。バカにしてやるがよい。それが、この男にはお似合いなのである。 第1章 底なしのゴロツキ さて、山崎正友の人となりを知るにあたって、今、大分で進行している一つの裁判に関 する話から始めよう。  その裁判とは、和久田和恵という女性が、山崎を相手どり、山崎に貸したという二千数百万円の返済を求めて訴えている裁判である。この裁判の概略を知れば知るほど、この男が、利用できるものは何でも利用すること。しかも利用するだけ利用したあとは、冷酷非情に切り捨てて何ら顧みることがないこと。要するに、人間として具わっているはずの、他人に対する「痛み」や、同情の念を感ずる心がまったく欠落していることが、よく分かるだろう。  以下は原告の和久田さんが、平成九年九月に大分地裁に提出した「上申書」をもとに再構成している。ちなみにこの上申書で和久田さんは、この裁判について自分の事情、意見を裁判所に申し立てている。この上申書の内容については、すでに宗教紙の『中外日報』が報道しているが、山崎にはこの上申書の内容が、よほど気に障っているらしい。というのも平成九年十二月二十七日、「創価学会による被害者の会」なる反学会の団体の集会が、東京・足立区内で行われた。ここに山崎が顔を見せ、話をしたのだが、ここで山崎が冒頭にした話というのが、この『中外日報』に関する話題だったのである。また山崎は、この席で「このたび、幹事の方々が、『これだけいわれっぱなしなのも何だから、言い返す機会を与えてあげよう』という親切な申し出がありまして」などといっていた。これまでウソとデマの限りを尽くして人さまをだましてきた極悪人のくせに、何か「これだけいわれっぱなし」か、お笑いぐさだが、「これだけいわれっぱなし」の意味するとごろが、一つには和久田さんの上申書にあることは明白である。山崎が、この上申書の中身について、どれほど気にしているかが、よく分かる話であろう。以下、特に記載のないものについては、《 》内はすべて上申書からの引用である。なお、上申書の「被告」とする箇所はすべて文中では「山崎」と書き改めてある。 生理中の女性に襲いかかる  和久田さんの上申書は、原稿用紙で百枚以上にのぼる膨大なものだが、はじめに次のようなくだりが出てくる。事実の骨格について述べた部分である。  《山崎は、同志的絆をもって山崎を支えてくれていた伝法寺御住職・浜中和道御尊師の夫人・桂子さんと密通し、その一方で最初から騙すつもりで私とも肉体関係を結び大金を借りて踏み倒したのです。ちなみに私はこのお寺の信者です。山崎は長年にわたり同志たる御住職を欺きその御住職夫人と関係しながら、信者の私とも肉体関係をもっていたのです。山崎は、出獄後の平成八年二月に再婚していますが、その再婚の相手は離婚したこの元御住職夫人です》  伝法寺とは大分県にある正信会の寺院。正信会とは、昭和五十年代前半の学会と宗門との間の不協和音の中で、山崎に煽られた反学会の活動家僧侶によって結成され、後に阿部日顕・日蓮正宗管長によって宗内から追放された集団である。  その住職と山崎は旧知の間柄であった。山崎が、原告である和久田和恵さんと関係を持つかたわら、この住職夫人とも密通を重ねていたというのである。寺の住職である浜中和道氏に山崎は物心両面の支援を受けてきたにもかかわらず、女房を寝取ったのだという。しかも、その女性は現在、山崎の妻になっているという。その女性の名は「桂子」という。続けて和久田さんは、山崎との出会いについて綴っている。  《昭和五十八年の一月頃だったと思います。私の信仰するお寺の御住職である浜中和道御尊師が、私の経営する”リスボン”というスナックヘ、山崎を連れてこられました。(中略)御住職より「正信会にとって大事な人です」と言って山崎を紹介されました。それから、三度ほど、私の店へ山崎が来ましたが、それはすべて山崎がお寺(著者注・大分の浜中住職の伝法寺)に来た時であって、いつも御住職と一緒でした》  山崎が二度目に店に来た後だと和久田さんは記憶している。山崎が東京から和久田さんのもとへ電話をかけてきた。「お世話になった礼を言いたかった」と山崎。以後、山崎からの電話は毎日のように続いた。電話の内容は創価学会の悪口か、自分がいまなにをしているかといったものだった。そしてある時、和久田さんは甥の結婚式のために上京することになった。それを聞いた山崎は、「せっかく東京に来るのだから、一緒に食事をしよう」と和久田さんを誘う。二人は帝国ホテルの日本料理の店で食事をした。その日はそのまま帰ったが、その後山崎からは「会いたい」との電話攻勢が続いた。  二人に男女関係ができるのは、二回目のデートの際だった。和久田さんはその辺の事情をこう記している。 《その年の六月、正信会の大会が大阪の厚生年金会館でありました。その頃には、毎日、幾度となく山崎から電話がかかってきていましたので、私か大阪の大会に参加することを話すと、山崎は私に「是非、会いたいので、大会のついでに東京に来てくれませんか」と言いました。(中略)前回に上京した時と同じく帝国ホテルで待ち合わせをしました。一緒に高級な鉄板焼屋で食事をすると山崎が支払ってくれました。「二人で三万円もしたんだよ」と山崎が話していました。その時、山崎が、「今日は泊まっていくんだろう」と言いますので、私は甥も東京にいますし、また、昔の友人もいますので、そのどちらかに泊まる予定だと言いますと、山崎は帝国ホテルに部屋を用意してあると言いました。私はそのような高級ホテルには生まれてから一遍も泊まったことはありませんでしたが、折角、山崎が予約してくれているので仕方なく帝国ホテルに泊まることにしました。すると山崎は部屋までついてきました。そして無理やりに私に関係を迫ったのです。私はその時は、丁度、生理の最中でしたし、好意は抱いていても夫のある身です。山崎にそのことを告げて拒絶しました。すると山崎は、「生理中であってもかまわない」と言い、「このホテルをとるのに、俺は五万円も出したのだ」と言って、私に襲いかかったのです》  生理中の女性に襲いかかる山崎。しかもその口上が、ホテル代にかこつけているところが、いかにもこの男らしい。 執拗な電話攻勢  だが、この帝国ホテルでの一件のあと、和久田さんは山崎と関係を続けることに大変な戸惑いを抱くことになる。夫のいる身であり、当然のことながら罪の意識を拭いきれなかったからだ。だが、その後の連日のように続く執拗な口説きの電話によって、和久田さんは山崎の思いのままに操られていく。その後も山崎の求めるままに、東京、大分、別府などで情事を重ねた。以下、山崎の執拗な誘いの様子と二人の関係について拾ってみる。  《山崎がいつも、「いつ時間があいている、会いたい」旨を電話で執拗に言ってきたのです。山崎は私の店と自宅兼用の電話に、一日最低でも一、二回、多い時は十回以上も電話をかけてきたのです》  《ところが山崎は、上京するのを私か拒むと激怒し、時には猫なで声で訴えて、「会いたい、会いたい」とすがるように頼んだのでした。私か上京するのを承諾すると、帝国ホテルや、京王プラザホテル、ホテルニューオータニなどの高級ホテルを、山崎はすべて自分で予約したのでした。九州の田舎にいる私か、それ等の高級ホテルを知るはずがありません。しかも、そのホテル代は私に全部、支払わせたのでした》  《私か山崎との関係が重荷になって別れようとすれば、山崎が私に対し猫なで声で哀願し、関係の継続を説いたのでした。たとえば次のようなことを山崎は私に話しました。 「これまで二人で丹精込めて育てた本にやっと花が咲こうとしているのに、自分の手で切り倒そうとするのか」とか、「僕を信じることだ。『走れメロス』を読め」と、何度も引き留められたのでした。今考えれば真に受けた自分が情けなくなりますが、私は実際に太宰治のこの著書を買い求め読み、「山崎さんを疑うことはよそう」と考えたのでした。口八丁手八丁の山崎にとって、単純で情にほだされやすい私を翻すことは実にたやすかったことでしょう》  《会えば山崎は貪欲に私の身体を求めてきたのでした。その一方で、私を欺きながら御住職夫人とも長年にわたり肉体関係を続けていたのです》  山崎は他人の妻である和久田さんのみならず、自分の恩人ともいえる住職の妻にまで手を出していた。和久田さんはその事実を知り、驚愕する。  山崎はこうして和久田さんと関係を持ち、その関係を続ける中で、和久田さんに対して金の無心を始めるようになった。山崎の金を絞り取る手口は以下のようなものである。 体のあとは金を絞り取る 《昭和五十八年九月のことだったと思いますが、山崎が大分県大分市に来たことがあります。この時、山崎は大分駅付近の路上を歩きながら、私に対して、「古賀(著者注・山崎が親しく付き合っていた右翼)という人と一緒に仕事をしていたが、その人が刑務所に入るので、これまで古賀から僕に毎月入っていた二十万円の金が入らなくなる。一年ぐらいの間だから、月に二十万円ずつ貸してもらえないだろうか。なんなら借用書も書くよ」と話し、月々二十万円のお金を定期的に貸してくれるように申し込みました。私はそれに対して、「信頼しているからいいですよ」と。借用書の件は遠慮して言いました。この約束に基づき、昭和六十年の八月までは、毎月かかさず二十万円以上のお金を山崎に貸しました。ここで二十万円以上と書きましたのは、山崎が借りたいという金額が時とともに徐々に増額されてきたからです。私か覚えている範囲でも、大きいのでは浜松町の駅で現金で渡した約四十五万円の記憶があります。たいていは三十万円、三十五万円ぐらいを大分銀行より山崎の口座である大和銀行市ヶ谷支店(648-1926)に振り込みました》  続けて裁判費用のための金として、こうも記している。《山崎に貸したお金の中には、昭和五十九年の暮れに裁判費用として貸した五百万円があります。この五百万円は山崎の取り引き銀行の口座に私の大分銀行の口座より振り込みました。山崎はこの五百万円を私から借り受けるに当たり、保釈金の一部に充当すると話しておりました。(中略)その後、間もなくして山崎は、私に五百万円を返済する旨を電話で、大分県にいる私に伝えてきました。同時に山崎は、この電話において、「三百万円は弁護士さんにお礼として支払いしなければならないので、引き続き貸してくれないか」と私に話しました。この電話を受けた後、私は上京し、山崎より直接、三百万円を引いた残りの二百万円を現金で受け取りました。この二百万円を山崎が私に渡す時、「これから三万円、借りてもいい」と言って、三万円を引き抜き、百九十七万円を私に渡しました。このことは、いまだにもって私の心に印象深い事実として残っております。それ以外にも、八十五万円を大分銀行竹田支店より山崎の口座である大和銀行市ヶ谷支店(648-1926)へ振り込みました。この八十五万円の必要性について山崎は私に、「ハワイから証人を呼ばなくてはならない。ああいう人は、人のお金だと思うとホテルの中でも贅沢をするので、どうしてもそれだけのお金が必要だ」と話しました。以上のような金銭貸借の事実関係からして、山崎が私から借りたお金の一切を「カンパ」と主張することは、まったく事実に反することです》  五百万円の返済が結局、百九十七万円になったわけである。話が前後するが、和久田さんから約二年以上にわたって振り込まれた金を含めて、山崎はすべて「カンパ」だったと裁判の中で主張した。もちろん、返却する意思がないためそう主張しているわけだが、和久田さんの言い分は詳細かつ具体的である。だが、その後も山崎は執拗に和久田さんを ”金を引き出すための道具”にしていったのである。 「金はすぐ返す」と編し続ける  この間の経緯を和久田さんは冷静に、こう綴っている。  《昭和五十八年の夏から平成三年二月に入獄するまでの八年間、山崎が私に、「お金は必ず返すからね。それぐらいはいずれすぐ作れるよ」とか、「老後は二人で楽しく暮らそうね」とずっと言い続けてきたことは、借金の時効を待つための冷酷な打算に基づいた言葉だったと今更ながら思えるのです。その他にも山崎は、甘言の限りを私に尽くし、借金の返済のみならず何億円もの謝礼をすることをことあるごとに明言したのでした。私はそれにまんまと編されたのでした。山崎は、いつもお金の無心の前には、「今度まとまった金が入る」とか、「うまい儲け話かある」と言うのが常でした。「二倍、三倍にして返す」とも口癖のように話していました。ある時、渋谷のチサンマンションに女性を含めて三人の客がありました。私はその客にお茶を出しました。客が帰ったあと、山崎は、「今、二、三十億円の儲け話をしていた。うんと儲けて君を楽にしてやるからな」と私に話しました。また、東京のどこかを歩いていた時、山崎は空き地を指して、「こんな狭い土地でも二、三十億円ぐらいするんだ。いま俺は土地を手掛けている。それで金が入ったら、金も返すし、うんと贅沢させるからな」と私に言ったのでした。山崎は、「竹田の君の店の土地にビルを建てればいい。そのくらいの金は俺がいまに作から(ママ)な」と語ったこともありました。入獄する少し前、山崎から電話が入り、  「いまから何億円と儲かる話をしに人に会いに行く。そしたらあんたには、借りた金はすぐ全額返すよ」「あんたにはいままで金のことで本当に迷惑をかけたから、儲けの半分はやるよ」とも話しました。この時は四、五日して山崎から、「あの話は、途中に妨害する人間がいて、ダメになった」とショボンとして電話があったのでした。このように、いつも山崎から億単位の儲かる話を聞いているうちに、自分の用立てた二千万円ぐらいすぐに山崎は稼いで、返してくれるだろうと思い込み、言われるままにお金を貸したのです》 また金を貸し続けた心情について次のように綴っている。  《このように私か多額のお金を貸し続けたのは、山崎が私に対し、「今は表立って働けないが、現在、裏で不動産も扱っている。大きな仕事がうまくいきそうなのでまとまった金が入ったら一括して返済する。あんたには随分と世話になったので借りた金以上のことは必ずするよ」と、いつも電話や会うたびごとに話していたからです》 “一千万円都合しなければ後釜を探す”  そうして山崎はとうとう一千万円の無心を口にした。  《昭和六十年八月十二日だったと思います。例によって私は山崎から東京に呼び出され、大分に帰るため羽田空港に向かう途中のことです。私と山崎は、新橋駅近くのちょっと古びた二階にある喫茶店に立ち寄りました。山崎と私は向かい合って座りコーヒーを注文し、しばらくの間二人とも沈黙しておりました。すると突然、山崎は、「一千万円つごうできない」と言い出しました。あまりに突然、そのような大金を要求された私は、腹立たしさもあり、「急に言われても、そんなお金はできません」と山崎の要求を言下に退けました。すると山崎は、「あんたが一千万円を作ってきたら、月々三十万のお金が僕に入ることになっている。そうすればあんたは月々無理して僕に金を工面しなくてすむから、楽になるだろう。だから僕にまとめで一千万円を貸してくれ」と言いました。唖然とする私を尻目に、さらに山崎は、「一千万円を用意できなかったら、あんたとは疎遠にならざるをえない」と言いました。あまりの冷酷な山崎の言葉に、私は声が出ませんでした。それまでの山崎の借金の申し出に対しては、必ず返してくれる、そう信じて約一千万円を用立ててきたのです。その私に対して、今までの貸し金への感謝の言葉もなく、まるで無視するかのように、一千万円の借金を申し立ててきたのです。私が黙っていますと、山崎はたたみかけるように、「もし貸してくれなかったら縁を切る。後釜を探さなくてはならない」と、私に冷たく言い放ちました。その時の山崎の表情は、今でもハッキリと脳裏に焼き付いております。喫茶店の窓の外をながめながら、まるで他人事のように言ったのです。私はこのままでは、今まで貸した約一千万円も、本当にこの人だったら私とともに弊履のように捨てることができるだろうと、恐怖すら覚えました》 続けてこう綴る。  《今まで山崎に貸した約一千万円すらも、私にとっては命を削る思いで、山崎を信じて用立てたのでした。そのうえでさらに、一千万円の借金の申し込みを平気でする山崎の神経が、私にはとうてい理解できず、頭の中がパニックになりそうでした。その日は、自分でもどうやって竹田に帰ってきたのかわかりませんでした》  まるでヤクザの脅しである。一千万円を用意しなければ「お前を捨てる」。そう言われて和久田さんは数日間にわたって悩み抜き、考え抜くことになるが、その顛末はこんな具合だった。 続けてこう綴る。  《今まで山崎に貸した約一千万円すらも、私にとっては命を削る思いで、山崎を信じて用立てたのでした。そのうえでさらに、一千万円の借金の申し込みを平気でする山崎の神経が、私にはとうてい理解できず、頭の中がパニックになりそうでした。その日は、自分でもどうやって竹田に帰ってきたのかわかりませんでした》  まるでヤクザの脅しである。一千万円を用意しなければ「お前を捨てる」。そう言われて和久田さんは数日間にわたって悩み抜き、考え抜くことになるが、その顛末はこんな具合だった。 精神が混濁したなかで 《その翌日から、山崎の電話攻勢が始まりました。連日のように山崎から、執拗に、「一千万円を貸してくれ」という電話がかかってきました。それはまるで私か、山崎から一千万円の借金をしており、それを山崎が私に返済するように督促しているかのようでした。私も最後には、変な錯覚に陥っていたのかも知れません。山崎は電話で、「一千万円貸してくれたら、その金を元手に毎月三十万円利子として入ってくる」と言い、「そういう約束がもうできているんだ。その約束の日は今月の二十六日だ」とも話していました。いずれにしても、私の立場など無視しての山崎の一方的な内容でした。私か、「今までどおりで、どうしてだめなの。月々の私からの振り込みでいいでしょう」と言うと、山崎はある時は猫なで声で、「一千万円、僕に貸せば月に三十万円必ず入るんだよ。その金利分を 月々改めて僕に貸してくれればいんだ。これまでのように、月々、金を工面し僕に貸す必要もなくなるからあんたも楽になるよ」と言ったり、急に威嚇するように、「一千万円を用意できなければ、縁を切るよ」と、私にきつく当たるのでした。山崎は、その十日もの間、「一千万円」コ千万円」の繰り返しでした。私の頭の中で、「一千万円」という数字と、山崎の言う「二十六日までに用意してくれ」との「二十六日」の期限の数字が渦巻き精神が混濁していた毎日でした。「山崎に今まで貸した一千万円はどうなるのだろう」「私か今日まで昧わったそのお金の捻出の苦労はいったい何だったのだろう」    こう考えながらも山崎と私との間の、そのすべてが水泡に帰してしまうという恐れも抱き、同時に、もう今までのことは悪い夢だと思い山崎のことは忘れようとも考えたのでした。それらのさまざまな考えが八月二十六日が近づくにつれて大きくふくらんでいったのでした。私のそのようなつらい思いを知ってか知らずか山崎は容赦なく催促の電話を入れてきます。私は山崎の電話での攻勢に次第に追いつめられていきました。そしてついに、「人間というものは、お金に困ったら、何んとかしたいがために私と縁を切るとかというような、心無いことを言うのかも知れない」と勝手に山崎の言動を善意に考え、挙げ句は、「山崎の人間性にかけてみよう」とそれこそ一大決心したのです。まさしく”清水の舞台から飛び降りる”とは、このことでしょう》  和久田さんは一千万円を詰めた旅行カバンとともに上京した。 何の説明もないなか、公証人役場へ 《無事、東京に着き山崎と待ち合わせたのは、赤坂東急ホテルでした。いつものように 山崎とロビーで落ち合い、そのまま山崎が予約してあった部屋に行きました。私は部屋にある鍵のかかるロッカーに一千万円をしまっておこうとしたところ、山崎は、「そこじゃ危ないから、フロントに預けよう」と言いました。その山崎の言葉に従い私は、フロントのセーフティボックスに一千万円を預けることにしました。それから山崎と私は外に食事に出かけ、その夜はホテルに戻り山崎と同宿しました。翌朝、ホテルをチェックアウトした後、山崎が一千万円を持って麻布の竹本氏(注・山崎がよく行くマージャッ屋のオー ナー)のマンションに向かいました。いつも山崎がマージャンをする部屋とは別の小さな部屋に通されました。そこには竹本氏ともう一人、初めて会う男の人がいました。山崎と竹本氏と見知らぬ男の人と、私は三人の男性に囲まれ、これから何か起きるのかまったくわかりませんでした。挨拶もそこそこに山崎は、「それじゃ、行こうか」と言って席を立ちました。他の男たちも席を立ち山崎に従いました。私は、これから一体どこへ行くのだろうと疑問に思いましたが、山崎が促すままについて行く他ないと思い山崎の後を追いました。四人で行った先は、港区麻布十番にある公証人役場でした。山崎が、「言われたとおりに書面に署名をして、印をつけばよいから」と言った言葉に従いそのとおりに署名捺印をしました。私は公証人役場という所に行ったのも生まれて初めてでしたし、山崎から一言の説明もなく何か何だかまったく事情が分かりませんでしたが、ここまできたら山崎の言うとおりにせざるをえないと観念したのでした。私か署名し、捺印したのは一千万円の借主が竹本志郎氏、連帯保証人が数時間前に初めて会った金子信幸氏とする「金銭消費貸借契約公正証書」だったのです。(中略)またこの時、印鑑証明書を提出しました。この印鑑証明書についても、山崎から前もって何の説明もありませんでした。ただ山崎は、「上京する際に必ず印鑑と印鑑証明を持ってきてね」と言っておりました。私はこの時、印鑑証明書を求められ、初めて印鑑証明書が、この場所で必要とされることがわかりました》  和久田さんは、山崎の言うままに公正証書に署名捺印した。だが、お金の貸し借りを公的に証明するこの証書には、不思議なことに、山崎本人の名前は一行も出てこない。山崎は、弁護士としての立場を悪用して法律に無知な一婦人に巧みにつけこみ、証書に自分の名前を出さないという悪行をはたらいたのである。 金をむしり取ったあとはナシのつぶて  二千万円を超える金が、山崎から返ってくることはなかった。その後、山崎が平成三年に刑務所に入所し、平成五年に出所したあと、和久田さんは当然のことながら金を返してくれるように山崎に催促しようと連絡をとるが、山崎は逃げ回るばかりであった。  《とりつく島がないとはこのことでしょう。なるべく下手に出て、山崎の心を和らげ、少しでもお金を返してもらおうとする私に対して山崎は、「俺は刑務所の中で、どうしたらお前とわかれられるか、そればっかり考えていたんだ」とか、「もう、お前の顔なんか見たくもない」と私を電話で怒鳴りつけるばかりです。私は山崎に必死に頼みました。 「私かどんな思いで今までお金を貸し続けてきたと思うの」「私にお金がなくなったから別れるの」「お願いだから少しでもお金を返して下さい」すると山崎は、「そんなこと知ったことか」「そう思いたければ、そう思えばいい」と言い捨てました。山崎はさらに、「もう、お前と関係を続けることは重いんだ」と言いました》  文字どおり手のひらを返したような対応だった。和久田さんは、逃げ続けようとする山崎に対し、山崎の実妹経由で出した手紙の中で次のように書き綴っている。《貴方の求めに応じ固く守ってきた貞操を捧げ、月々貴方の生活費を送り続け貴方のいうままに巨額の金額をお貸ししたのも『必ず返すからね』『老後を楽しく暮らせるようにしてあげるからね』といった言葉を信じたからです》と。  山崎の、色仕掛けで女性をタラし込み、金を引き出し踏み倒す経過は以上のとおりである。  二人の女を両天ビンにかける  山崎は借金を踏み倒しただけでなく、金を引き出すために一人の女性を騙した。しかも同時にもう一人別の女性とも情事を重ねていた。和久田さんが山崎と伝法寺住職夫人との仲に気づいたのは、山崎と関係ができて四、五ヵ月の頃だったという。  《山崎と関係ができて(帝国ホテルでの一件は昭和五十八年六月)、そう歳月を経ていない昭和五十九年のことでした。私は山崎が、私の信仰するお寺の住職の奥さんと深い関係にあるのではないかとの疑念を抱くようになっていました。  私がはじめにそのような疑いをもったのは、昭和五十八年の秋ごろだったと思います。そのころには、山崎は異常とも思えるほど、連日のように私の所に電話をかけてきては、自分の行動を逐一私に報告していました。この山崎の電話をかけまくるクセは、平成三年に山崎が入獄するまで続くのですが、このことにより私は、山崎の隠された行動を知ることになるのです。(中略)山崎が御住職に偽証することを依頼に来た時のことです(注・創価学会の恐喝裁判で自分に有利に証言してもらうように山崎が工作したこと)。山崎は、私には東京で会った時には二日で帰ると言っていたにもかかわらず、一日延ばして三日間、竹田にいました。その三日目には御住職が用事で他所に行かなければならない日でした。そのために、いつものように奥さんと私と二人で、山崎を熊本空港まで送って行くようになるのではないかと私は思っていました。ところが当日になって、浜中御住職が電話で、「山崎さんは、今日は汽車で大津まで行って、そこからタクシーで熊本の飛行場に行くと言っているから、和久田さん、竹田駅で見送って下さい」と言ってこられました。なんでもないことまで私に電話で言ってくるのを常としていた山崎が、そのようなことは一言も私に言っていませんでしたので、少々驚きましたが、御住職に言われたとおり竹田駅まで見送りに出ました。その時の山崎の様子がいつもと違っていました。山崎はなにかをごまかすような表情をして、私に、「急に汽車に乗ってみたくてね」と言い訳をしました。やがて、山崎から電話がかかってきて、「今、大津駅に着いたからね。今から東京へ帰るよ」とのことでした。しかし私は、駅での山崎の態度が妙に気にかかっていたために、熊本空港へ電話をかけて、山崎の乗る予定だった飛行機に山崎の名があるかどうか確認しました。私の予感どおり、そのような人は乗っていないとのことでした。そこでお寺に電話をすれば、山崎の行動がわかると思い、電話をしました。ところが、御住職が御不在なのは当然ですが、奥さんもいなかったのです。私はずっと夜遅くまでお寺に電話しましたが、奥さんは帰ってきませんでした。翌日、山崎から私に電話がかかってきた時、私は思い切って、「あなたは昨日、東京に帰らなかったでしょう」と言いました。私の突然の断定的な口調に驚いたのでしょう。山崎はしどろもどろになりながら、「いや、昨日ちゃんと帰って、今までマーシャン屋にいた」とか、「熊本空港で、正信会の佐々木さんとバッタリ出会った」とか、つじつまの合わないことをペラペラとしゃべりました。ますます不審のつのった私か、「あなたは、お寺の奥さんと逢っていたのでしょう。これで、私たちは一切なにもなかったことにしましょう」と言いますと、山崎はあわてふためき、「そんなこと言わないでよ」と、半泣きの状態で必死になって否定したのでした。私か頑として、「別れましょう」と言い張り、電話を切ると、また、すぐに電話をかけてきて、「絶対そんなことないよ。僕を信用してよ」と情けない声で、すがるように訴えてきました。その繰り返しが、一晩中続いたのでした》 住職夫人との密通に深まる疑念  おかしいと思うことは、ほかにもあった。和久田さんは、山崎ばかりか、「住職夫人も変なことを言うなあ」と思うことが過去にもあったという。和久田さんによると、住職夫人に、熊本で行われている猫の品評会に行かないかと誘われて、車に同乗したことがあった。その時、夫人がこう言ったというのだ。「ご住職(浜中和道氏)はご僧侶としては立派かもしれないけど、オトコとしてはねえ…。山崎先生が『子どもが出来ないなんて、オレならイッパツで妊娠させることができる』つて言うのよ」そう言って、夫人は「ハハハハツ」と笑った。そのあまりにもあけすけな言葉が、和久田さんは今も強く印象に残っているという。またある時、夫人が、「これ、山崎先生にいただいたの!」と言いながら、草色のトウガラシのような形のブローチを和久田さんに見せたことがあった。さらに昭和五十八年四月頃には、浜中住職という夫のいる身でありながら、夫人が、「私、一緒に暮らしたい人がいるの」と語ったこともあったという。この住職夫人(現・山崎桂子)は住職の浜中和道氏とは高校の同窓生。旧姓を「中垣桂子」といった。実はかつて浜中氏と婚約中だった中垣桂子は、一時、山崎の法律事務所で事務員として働いたことかあった。日蓮正宗の慣例として、一寺の住職になるまでの修行中は結婚できないことになっていたからである。つまり、二人は、高校時代からの恋仲で、結婚の資格がとれるまで山崎が桂子を預かっていたわけであった。この女性と山崎との関係は、ほかにもさまざまな点で立証されている。上申書にはこう記されている。  《昭和五十八年の暮れだったと思います。山崎と大分の西鉄クランドホテルで待ち合わ  せたことがありました。山崎が部屋にあるパズル11ムを使っている時、無造作にテーブルの上に置いてあった黒い手帳が目にとまりました。山崎がいつも背広の内ポケットに入れている手帳です。私はなにげなくその手帳を手にとり、パラパラとページをめくってみました。するとある文字が私の目に飛び込んできたのでした。手帳のスケジュール表の中に、「ケイ子・熊本」という文字があったのです。この「ケイ子」とは浜中御住職の奥さんの桂子さんのことに間違いないと確信したのでした。私はスーツと血の気が引き軽い目眩を感じたほどでした。山崎にハッキリと聞いてみなければと思い、山崎がバスルームから出てくるのを待ちました。山崎はニタニタしながら、「あー、さっぱりした」などと言いながら呑気にバスルームから出てきました。私は間髪入れず、「これは何なの!あんた桂子さんと逢っているじゃない!」と黒い手帳を山崎の方に差し出しながら言いました。山崎は、みるみるうちに顔が真っ赤になり(山崎は極度に緊張したり、興奮したりすると顔が真っ赤になる癖があります)、「俺、帰る!」と怒鳴り、急いで身支度を始め、部屋から出て行ってしまいました。この山崎の手帳の中に住職夫人であった桂子さんのことを記したと思われる文字を見つけたのは、この時ばかりではありませんでした。ある日、東京の日航ホテルに山崎とお茶を飲みに行ったことがありました。山崎がトイレで席をはずした際、この時もまた山崎は無造作に手帳をテーブルの上に置いていったのです。前に私か見た手帳とは違っていたように思いますが、山崎があまりにも無造作に置いていったので、私に見られてもいいようなものなのだなー、と軽く解釈し、パラパラと前回と同じ様にページをめくったのでした。ところが手帳のスケジュール表の中にふと変な暗号のような文字をみつけたのです。「Ki」と書かれた文字です。その文字の横には、「モノレール3時30分予約日航ホテルダブル」と山崎の字で書かれていました。その日付はどう考えても私が山崎と会っている日ではありませんでした。私はこの「Ki」というのは桂子さんのことを意味する暗号だとすぐにピンときました。他のぺージをめくってみるとこの「Ki」いう文字が少なくとも3個所ほど記載されておりました。さらにその「Ki」という文字の横に書かれていた「羽田東急ホテル」という文字が強く印象に残りました。なぜなら私が山崎との逢瀬で「羽田東急ホテル」を利用したことはそれまでに一度しかなかったからです。山崎は桂子さんと密会をするのに羽田空港から一番近い「羽田東急ホテル」を利用しているのだと、この時初めてわかりました。とにかく私と今こうしてお茶を飲みにきている日航ホテルで山崎は御住職の奥さんと逢い引きしていたのです。私は、山崎への怒りを通りこしてほとほと自分が情けなくなりました。山崎が長い長いトイレを終えて席に戻ってきた時、すでに私はその日航ホテルの玄関を出ていました。その日はそのまま羽田に向かって大分に帰ったように思います。また昭和五十九年に入ると、山崎の私に対する惜金の要求がだんだんとエスカレートするので、ある時、山崎のクレジットカードの番号を見て、住友カードの会社に電話をしてみたのでした。私は、本人の妻を装い、支出の明細を係の人に尋ねたのです。私といたしましては、私か無理して捻出し山崎に貸したお金を山崎がどのように使っているのか、どうしても知りたかったのです。すると、山崎がたびたび熊本行きの飛行機の切符を購入していることが判明しました(当時はカード会社も身内を名乗れば事務的に支出明細を教えてくれたのでした)。竹田にもっとも近い飛行場で、能本空港で、山崎が伝法寺に来る時は必ず熊本空港からでした。しかし、その当時、山崎が伝法寺に立ち寄った形跡は一度もありませんでした。なおかつ山崎から一度でもこの方面に知人がいるとか、山崎に関する用事があるなどということなども聞いたことかありませんでした。その日付と、私がたまたま所用でお寺に電話したり、参詣した時、お寺の奥さんが不在であった日付がぴたり一致したのです。先述しましたように、当時の山崎は私に自分の所在を電話でいちいち報告することが慣習化していました。そのため山崎が所在不明の時に、奥さんがお寺に不在であることがたやすくわかったのです》 「世間でもよくあること」と居直る  またこういうこともあった。ある時、マージャン屋から山崎が和久田さんのもとへ電話をかけてきた。翌日、和久田さんがなにげなくマージャン屋に電話し、山崎を呼び出すが、すでに帰ったということだった。山崎はマージャンをするときは、いつも翌日の昼ごろまでやるのが普通だったので、和久田さんはおかしいと直感する。  《「やはりそうか」と思い、山崎がマージャン屋を出て、羽田から熊本行きの飛行機に乗り、熊本空港に着く時間を見計らい、すぐに汽車に乗って熊本空港に行きました。熊本空港で待っていると山崎が、私か予想したとおりの時刻の飛行機で到着しました。山崎は私を見ると驚きあわてて、「仕事できたんだ」と言い、私をそこに残し、空港バスに飛び乗って逃げ去ろうとしました。私はそうさせまいと、追いかけるようにそのバスに乗りました。私は、山崎が私を振り切ろうといろいろしたにもかかわらず、山崎のそばにピタリとついて離れませんでした。山崎は仕方なく、熊本駅からわざわざ用もないのに、八代という所まで汽車で行ったのです》  そうして二人は八代駅前の喫茶店に入った。山崎は電話をかけてくるといって席を立ち、店の電話に向かった。当然のように和久田さんが耳をそば立てていると、山崎がハッキリと、「お客の浜中さんを呼んでください」と小声で話すのが聞こえた。「今、人につけられているんだ。明日じゃダメ?」「じゃ、明日」猫なで声で話す山崎の会話が耳に入った。  《私は、「見え透いた芝居はやめなさい。あなたはお寺の奥さんと逢い引きに来たのででょう」と言いました。これに対し山崎は、「俺が友達の女房を寝取るような泥棒猫みたいなことをすると思うか」と、さも怒ったように否定し、その上で、「あんな四角い顔の下膨れの汚い女を俺が好きになると思うのか、バカにするな」と言いました》  《八代の川沿いの土手を歩いている時です。私は山崎に、「私は、御住職にあなたと臭さんのことを話します」と言いました。山崎は、「証拠があるか」と私を怒鳴りつけましたが、私はひるまずに、「証拠がなくて、このようなことを言いますか。あなたが奥さんとホテルから出てきたことを私はハッキリと知っています」と言いました。こんなハッタリを言えるような私ではないのですが、私もあまりの腹立たしさに、相当意地悪くなっていたのでしょう。このように知ってもいないことを述べてしまいました。すると山崎は居直るように、「友達の奥さんとできることは、世間でもよくあることだ」「僕と君と奥さんの三人でよく話し合おう。住職には絶対言うな」と言いました。この開き直って私を威圧する山崎の態度にカッとした私は、「あなたも天下の山崎正友でしょう。こそこそするのはやめなさい」と大声で言って、山崎の顔を平手でたたいたのです。すると山崎はすごい形相になり、私を力いっぱい平手でなぐり返してきました。私のかけていたメガネが飛んだぐらいですので、かなりひどかったと思います。後にも先にも山崎を私がなぐったのは、これ一度きりです。その時山崎は私に、「お前みたいな性悪には、借金をまとめてたたき返してやりたい。札束ごとドブに捨ててやる」と言い切りました》 「僕は泣いちゃったよ」と泣き落とし  このあと、和久田さんは十日ほど寝込んでしまった。その後、山崎からの電話には絶対出ないと心に誓ったが、山崎からは連日のように電話がかかってくる。しばらく無視していたが、家族の手前もあり、とうとう電話をとったのだった。山崎は開口一番こう言ったという。「どこに行ってたの。ずっと心配して電話をしていたよ」「あなたを傷つけるようなヒドいことを言って、ごめんね。僕は泣いちゃったよ」当然のことながら和久田さんはすぐに山崎を許すことはできなかった。だが、山崎からはその後も連日哀願するように電話が入り、それこそ泣かんばかりの声で関係の継続を頼んできた。和久田さんの頑な気持ちも徐々に氷解し、結局その後もずるずると関係が続いていった。  和久田さんが山崎に一千万円を貸した直後も次のようなことかあった。山崎は知られてはまずいことや、やましいことをする時には、和久田さんに対し決まって機嫌を取るようなことを言った。ある時、和久田さんがおかしいと思い、山崎に電話したが、居場所がつかめない。当時、毎日のように電話し合う関係だったので、山崎の行動はだいたい把握していたが、ふと、行方がわからなくなることがあったという。その時、和久田さんはピンときて、羽田東急ホテルに電話を入れた。前述の手帳の出来事があり、住職夫人と山崎の密通の場所は、羽田東急ホテルだと知っていたからだ。その辺の様子をこう記している。 《「斉藤正夫さんはいらっしゃいますか」と私はフロントの方にたずねました。この「斉藤正夫」というのは、山崎がよく使用した偽名です。山崎はどこのホテルを利用するにも必ずと言っていいほど、この「斉藤正夫」という偽名を使っておりました。現在ではなかなか教えてくれないのかも知れませんが、当時は、外から電話をしても、フロントの人は親切に「斉藤正夫」なる人物の所在の有無を教えてくれました。電話に出たフロントの人は、「斉藤正夫様は、すでに出られました」と答えました。私はつづけて、「お連れの方も御一緒に出られましたか」と尋ねました。するとフロントの人は、「はい、御一緒に出られました」という返答でした》  このように、さまざまな状況から、山崎と住職夫人の関係は明らかであった。その後、不倫の当事者である桂子は、浜中住職と離婚。実家に戻ることになる。 コソコソ逃げ回る山崎  《桂子さんが御住職と離婚した後に、居住していたのは福岡市でした。そこの電話番号は、桂子さんのお姉さんから聞いていました。(中略)山崎が私と連絡をとらない時は、必ず桂子さんと逢っていることも確信していました。今思うと愚かなことなのですが、その様子をさぐるために、何度か既に住職夫人ではなくなった桂子さんと電話で話したこともありました。そして、ある日、山崎と連絡がとれないことがありました。その時私は女の直感で、もしやと思い桂子さんに電話をしたのでした。私としては、桂子さんとの会話の中で、それとなく山崎が桂子さんに逢うために今福岡に来ているのではと調べたかったのです。そして、それを山崎に会った時、ぶつけたかったからかもしれません。当時、御住職を裏切り続けた桂子さんを許せない気持ちがあったのは事実です。そして、今思えば、山崎をそのことで怨むことよりも、むしろ相手の桂子さんを憎むという、あさはかな女心があったのは嘘偽りのないことです。ところが、桂子さんにかけた電話に、「もしもし、もしもし」という、紛れもない山崎自身の声が聞こえてきました。私はあわてて受話器を置きました。やっぱり、という気持ちと、そのような姑息な電話をかけた私の後ろめたい心がそうさせてしまったのです。そのことを自分自身でも恥ずかしく思い、ついに山崎には内緒にしていました》  その後、山崎は創価学会への恐喝事件の問題で刑が確定し、平成三年にムショ入りすることになる。出所したあとは、和久田さんからの連絡を避けるようになったのは前述のとおりである。山崎へ借金返済を求めるために、何度も連絡をとろうとするが、山崎は逃げ回るばかりであった。  《ある日、ふと思い付きました。山崎が桂子さんの所に通っていることは間違いのないことです。(中略)そこで試しにかつて山崎と私との間で取り決めていた秘密の電話コールで、桂子さんの電話番号にかけてみたのでした。つまり、電話のベルを二、三度鳴らし、それをいったん切り、そしてまた架け(ママ)直す電話のかけかたです。やはり思ったとおり、すぐに電話がつながりました。しかも直接山崎本人が電話に出たのでした。山崎自身の声が、「もしもし、もしもし」と受話器の彼方から聞こえてきました。私はすがる思いで必死に、「もしもし、山崎さんですか」と呼びかけました。するとどうでしょう。山崎は、その電話をあわてて留守番電話に切り替えたのでした。私はその留守番電話に、「山崎さん、私か貸したお金のことで、御相談したいことがあります。今から福岡へ行きますので宜しくお願いします」と語りかけました》  檻の中から出てきた山崎は、その後、福岡に住む元住職夫人の桂子のところで、半同棲のような生活をしていたということだ。『中外日報』(平成九年十一月二十九日付)によると、平成四年六月から桂子が住んでいたという福岡市内のマンションで、近所に住む住民が次のように証言している。  一○二号室に女性が一人で引っ越してきたんです。派手な服装の、気の強そうな人で したから、水商売の人かと思いました。(中略) 一年ぐらいたったころから男の人が出入りするようになったんです。小柄で小太りの男性で、いつもサングラスと帽子をかぶっていました。なんで覚えているかというと、その男が出かけるときは必ずタクシーを呼ぶんです。タクシーのクラクションがプップツつて鳴るので気にして見るようになったんです。タクシーのクラクションが鳴ると、一〇二号室のドアが開いて、まず彼女が出てくるんです。あたりをキョロキョロ見て、そうしたらサングラスと帽子の男性がサツと飛び出して車に乗るんです。だれかに追われているみたいで、挙動不審だったのでよく覚えています。ときどき姿が見えなくなるかと思ったら、また帰ってくるんでしょうね。タクシーがクラクションを鳴らしてましたから」  『中外日報』記者が山崎の写真を見せると、「この人ですよ!」と住民は断言した。『中外日報』紙には、山崎と桂子が二人で仲良く近所のスーパーに買い物に出かける写真まで掲載されている。桂子がこのマンションに引っ越してきた平成四年六月から一年後というと、ちょうど山崎が仮出所して間もない頃である。つまり、平成五年四月二十七日、山崎は栃木県黒羽刑務所を仮出所したが、その後、福岡市内のマンションに向かい、元住職夫人のもとへ出入りしたことが明らかになっている。一方で山崎は和久田さんに対しては、金だけムシリ取って、あとはまったくの知らん顔を決め込んだわけである。山崎はその後、平成八年二月、桂子と結婚。再婚者同士の結婚であった。  実は結婚する前から、桂子は、山崎の新しい商売との関係で転居している。『中外日報』でも、桂子の実姉のひろこさんが「山崎さんの会社に勤めたということは聞いていましたが…」と述べている。山崎は、桂子を浜中和道氏の婚約者として自分の法律事務所で預かり、住職と離婚した元住職夫人の桂子を自分の妻に迎えたのである。世話になった同志である住職から女房を寝取り、一緒になるという感覚――この男には、それが当たり前なのである。 無心した金でマージャン三昧 《山崎は根っからのマージャン狂いで、賭博の常習者なのです》  ほかにも山崎の特質として、マージャン狂いぶりが挙げられる。過去にマージャンの賭博で逮捕された経験まで持つ。和久田さんと付き合っていた頃の彼の一日の行動は以下のようなものだったという。  《私の知る限りにおいては、山崎の生活パターンは、一日の半分はマージャン屋で過ごし、疲れると自宅に帰って眠り、目を醒ますと、コソコソとあちこちへ電話をかけまくり、それがひと段落つくとまたマージャン屋に向かうという乱れきったものです。その時間の合間に、住職夫人や信者の女性だちと性交渉を持ったのでした。山崎はそのような博徒のような生活をしていながら、正信会のお寺を殊勝な顔をして訪れ、お金の無心をするのでした。山崎の生活ぶりは朝も夜もなく不摂生そのもので、これで病気をしない方がおかしいぐらいです》  そのマージャンについてだが、和久田さんの証言によるとこうである。 《なにしろ完全な博打のマージャンなのです。私か必死に工面した山崎への貸し金が、私の目の前で無造作に法律違反の賭けマージャンのお金として使われていくのです》  《今思えば、正信会の御尊師方が生活の苦しい中から山崎の支援のために渡した尊い仏様のお金や、正信会の多くの信者が、山崎を、創価学会と戦う英雄と信じてカンパした浄財が、すべて山崎の博打の賭け金として薄汚い人々の享楽のお金として消えていってしまったのです。それを思うと、今さらなからに、私は山崎を絶対に許せないのです》 借りた金もマージャンの精算代金に  実は和久田さんが山崎に一千万円を貸したその日も、山崎はそのままマージャン屋に直行している。  《その後、私と山崎、竹本氏は竹本氏の麻布のマンションに戻り、山崎はまたマージャンをはじめました。私は山崎の後ろに座って気が抜けたように呆然と山崎の後ろ姿を眺めておりました》  実はこの和久田さんからの一千万円も、マージャンの精算代金として使われていたことが後で判明する(ただし、金の使い道については別の説がある)。またこんなこともあった。  《ホテルの予約は、山崎が私と一緒にマージャン屋に行った時でも、必ず山崎白身が行なっていました。ただ二度ほど、山崎がしばらく住んでいた渋谷のチサンマンションニ○二号室にある、秘密のマージャンクラブに山崎と一緒に泊まったことがあります。その時すらも、朝になって私か帰ろうとすると、山崎は私に、「ゆうべはホテルに泊まらなかったのだから、宿泊代として三万円おいていけ」と言ってのけ、実際に私から三万円を取り上げたのでした。さすがにその時は私も、なんとミミッチイ男だと腹の底から思ったのでした》  和久田さんは山崎のこうしたマージャン生活が嫌でならなかった。だが山崎のマージャン賭博の癖は一向に変わらない。  《山崎と交際を始めてすぐに、私は赤坂の高級マンションにある秘密のマージャン賭博場に山崎に連れていかれました。その他にも池袋のマージャン屋、銀座のマージャン屋、麻布のマージャン屋、そして山崎が後に寝起きしていた渋谷のチサンマンションの秘密のマージャン屋等、数限りありません。そのなかでも、山崎がよく利用していたのが、竹本志郎という人の経営していた銀座の”チョンボ”という店や、やはり竹本氏が経営していたと思われる麻布のマンションにある秘密のマージャン屋でした》 マージャン賭博で逮捕 その後、山崎は昭和六十一年三月二十九日、警視庁築地署によって自宅で逮捕された。 容疑はマージャン賭博。銀座の”チョンボ”という竹本の店で捕まった現行犯の客のほか、山崎はただ一人、現行犯ではない賭博容疑者として連行されたのである。山崎は当時の週刊誌などに「だれだって千点三百円程度のマージャンが賭博罪になろうとは夢に思いませんよ」と、即日釈放された余裕からか述べているが、山崎のマージャン狂いの現状は疑いようがなく、この言葉も嘘八百である。現実にはそこで一晩で動く金は百万円単位であり、賭博マージャンの最たるものであったことが判明している。警察の話によると「山崎は現行犯ではないが、情報により具体的な容疑が固まったので令状を執行した。一月に一晩で数十万円動いた場で打った、他にも二十数回ある。三人マージャンです。山崎もあっさり認めた」(築地署副署長)とある。しかも、この時の様子を和久田さんは次のように上申書で暴露している。  《私はこの山崎が賭博罪で逮捕されたことを、山崎の恐喝裁判を担当していた河合弁護士より、三月二十九日のお昼過ぎに電話で聞きました。河合弁護士は、「東京の弁護士の河合ですけども、山崎さんが賭博で警察に逮捕されました」と話されました。これは私か三十日に山崎と会う約束をしていたので、山崎が河合弁護士と築地署で接見した折に、私に三十日に会えないと伝言してほしいと頼まれたからです。しかし、山崎は次の日の三十日に釈放されました。山崎は釈放されてすぐに私に電話をかけてきました。「今、出てきたからね。明日、東京に出てくる?」と山崎から呼び出しがあり、私は翌三十一日に上京しました。宿泊したホテルは銀座第一ホテルでした。山崎と同宿した次の朝、山崎は私にニヤニヤしながら次のように言いました。「面白いものを見せてやる。一緒に行こう」ホテルのチェックアウトをした後、山崎は足早に歩きはじました(ママ)。私は一生懸命に山崎の後をついて行きました。山崎に連れていかれたのは、築地署の通りをはさんだ斜め前でした。山崎は、「あれが築地署だ。ちょっと見ててごらん」と言いました。築地署の正面玄関の脇に警察のワゴン車が止まっておりました。しばらくして警察官の指示のもと五、六人が手錠をはめられ、一本のロープに数珠つなぎにされて出てきました。その一団は警察のワゴン車に乗せられていました。山崎はその様子を眺めて、なんとゲラゲラと笑ったのです。私はゲラゲラと笑う山崎を見て底知れぬ不気味さを感じました。そして信じられないことに山崎は私にこう言いました。「近くマージャン屋に手入れがあることは分かっていたんだ。だから俺は竹本に証拠は隠しておけよと言っておいた。だから俺はすぐに出てこれたんだよ」とシャーシャーと言ってのけたのです》  こうして正信会の支援者や和久田さんからの金のほとんどが、山崎の賭博マージャンなどの遊興費用に消えていった。なおかつ賭博容疑で逮捕されたあとも、この男が反省した様子はみじんも感じられない。  ともあれ、以上の上申書でも明らかな、女好きでバクチ狂いの詐欺師――今だにマスコミ等に登場しては正義面で御託を並べている山崎だが、何のことはない、これが山崎の正体なのである。一女性ばかりではない。この男は今日にいたるまでマスコミ界、政界、宗教界に対しても、同じような手口で操っていくにいたるのだが、次章以下、その悪辣極まる手口について検証していこう。 第2章 マスコミ・ゴロ  「オレは、マスコミ利用のプロだ」  山崎正友が常々、口にしていたという言葉である。今日にいたるまで創価学会攻撃に血道を上げてきたこの男が、一貫してその最大の「手ヅル」にしてきたのが、マスコミであった。だが、そのマスコミ利用の手口を子細にたどると、この男の真の狙いは「金もうけ」であり、自分の私利私欲を満たすことのみにあることに気づく。これまで正義面して「学会に立ち向かう」などと言い立ててきたのも、己の醜い本音を覆い隠さんがための、単なる世間向けのポーズであることが分かる。また、この男が平成五年に刑務所を仮出所して以降に行ってきたマスコミ操作も、そうした自分の野心、野望が満たされなかったことから学会を逆恨みしたがゆえの、学会への「お礼参り」にすぎないことが分かる。  山崎にとってマスコミとは、自分の欲望を満たすため、そして恨みを晴らすための、 「道具」にほかならないのである。そうした山崎の正体を知るために、まず平成五年以前にさかのぼって、この男のマスコミ利用の足跡について触れてみたい。 「学会乗っ取り」のためにマスコミを利用  山崎とマスコミとのつながりは、昭和五十二年当時にさかのぼる。プロローグでも触れたように、当時、宗門の権威を使って学会を裏から牛耳るという野心を燃やしていた山崎は、そのために宗内の反学会僧侶を煽り、学会・宗門の分断を画策した。この時、山崎が目をつけたのが、マスコミである。その画策とは、週刊誌などに情報をリークして学会批判記事を掲載させ、マスコミの力で学会・宗門に揺さぶりをかけようというもの。作戦は、この年の夏、『週刊文巻』で始まった。いわゆる「宗門問題キャンペーン」である。当時、山崎は日蓮正宗宗門の反学会の活動家僧侶に、こう語っていたという。  「学会は、社会に対して神経質なまでに気を遣っている。マスコミを使って社会問題化できれば、最終的に学会は宗門の軍門に下るであろう」  「学会乗っ取り」を画策する山崎の筋書に沿って『週刊文春』が学会と宗門の不仲説を取り上げた記事を連載。これが反学会僧侶の学会攻撃に一段と弾みをつける結果となる。ことは山崎の思惑どおりに運んだわけである。  この「宗門問題キャンペーン」で味をしめた山崎のマスコミ操作は、その後、エスカ レートしていく。その一つの終着点が、昭和五十五年の山崎による学会への恐喝事件であった。 恐喝の道具にマスコミを利用  この年の四月、山崎が経営していた冷凍食品会社「シーホース」が、山崎本人の乱脈経営の末、一説には五十億円とも言われる負債を抱えて倒産。その結果、資金繰りに困った山崎は、弁護士という立場を悪用し、「シーホース」とは何の関係もない学会に対して、金を出せと脅したのである。  さらに翌月、山崎は再び学会を恐喝するのだが、その脅しの道具に使ったのが、山崎がブラックこジャーナリストの内藤国夫に情報を提供して書かせた、月刊『現代』(五十五年七月号)の記事のゲラ刷りであった。  ここで山崎が脅しのネタにしたのは、宮本顕治日本共産党委員長(当時)邸盗聴事件なるものである。もとより、そうした策謀に学会が指示を与えたなどという事実は、まったくない。それどころか、後にこの事件をめぐる裁判で明らかになったのは、山崎が自分で勝手に計画し、実行したものだという事実であった。その意味では、先に述べた立正佼成会分断工作と同類の策謀である。ところが山崎は、それを山崎一流のスリ替えで、あたかもこの事件に学会が関与していたかのように仕立て上げようとした。そして、それをマスコミに流すことで、学会を恐喝するネタにしたのである。 マスコミを使って逮捕逃れの煙幕を張る  この恐喝事件については五十五年六月、学会が山崎の告訴に踏み切ることで急展開を迎える。それを察知し、何とか逮捕だけは免れようとした山崎が打った手も、やはりマスコミを利用することだった。当時の山崎は、『週刊文春』誌上に”正義の内部告発者”を装い、「創価学会最高幹部七人の内部告発」なるチ記を、「覆面」というかたちで十四回にわたって掲載。その後、自分の実名を出して「創価学会八闇の帝王”山崎正友弁護士の手記」を十九回にわたって掲載している。要するに”悪いのは自分ではない。自分は学会の指示に従って、ことを運んだだけにすぎない”というイメージを世間に植えつけ、自分が犯した悪事の責任を学会になすりつけることで、何とか逮捕を逃れようとしたのである。  これら一連の手記は山崎が自分の犯罪をひた隠しに隠し、ごまかそうと必死で張り巡らした「煙幕」であった。だが、こんな悪あがきが、いつまでも通用するはずはない。翌五十六年、ついに山崎は追い込まれ、悪質な恐喝犯として逮捕されるにいたる。  念のため言い添えておくが、山崎が悪辣な恐喝事件を犯すにあたって、一部マスコミは山崎寄りの偏向報道を流すことで、結果として山崎の犯罪に荷担したのである。事実の経過を見る限り、一部のマスコミは山崎の”共犯者”にほかなるまい。だが、そうした反省は、未だ皆無のようである。それどころか「全部分かった上で」相も変わらず山崎に手を貸しているのが現状である。 秘密裏に情報をリーク  さて、山崎がマスコミを利用する際に使った具体的な手口とは、どのようなものだったのか。まず挙げられるのが、秘密裏に情報をリークすることである。そのリークの仕方というのが姑息この上ない。  学会に対する山崎の恐喝事件の審理の中で、明らかになったことがある。かつて山崎に近かった人物が、その証言の中で明かしたものである。この人物の証言によれば、昭和五十三年三月ごろ、当時、東京・赤坂のホテルニュージャパンにあった山崎の事務所で、山崎は、ある書類を見せて「いいものが見つかった」と言った。そして、この書類を五、六部コピーさせ、後日、そのうちの一部をある人物に渡し、こう指示した。  「『週刊新潮』に届けろ。話は通じているから、なるべく夜中に行って守衛に渡せ」  後にこれは、山崎が弁護士の立場を利用して手に入れた学会関係の書類であったことが分かる。山崎は当時、弁護士として学会に関わる法律上の問題を担当していた。当然、その職務上知り得た情報については、弁護士としての守秘義務があったことは言うまでもない。にもかかわらず、あえて『週刊新潮』に学会に不利益となる情報をひそかにリークしたのである。 声色まで変えてマスコミをたらし込む  しばらくして『週刊新潮』側から反応があり、山崎に直接会いたいとのこと。そこで山崎は部下に命じて都内のホテルに、廊下を挟んで二部屋を取らせた。山崎の意を受けた人物が指定された部屋に入ると、山崎から電話がかかった。  「オレは廊下を挟んだ前の部屋にいるからな。そこへ 『週刊新潮』の戸田と松田が行くはずだ。こちらが指示するから、むこうが聞いてきたことについて、すぐ電話で俺に言え。俺が指示するとおり答えろ」  ここでいう「松田」とは現『週刊新潮』編集長の松田宏のことである。戸田・松田の両記者が質問するたびに、この人物はホテルの内線電話で山崎に電話して指示を受け、その指示のとおりに答えた。そのうち、山崎が直接電話口に出て、松田記者と話を始めた。山崎と同室にいた者の証言によれば、山崎は電話にハンカチをかぶせ、声色を変えて、「フジイ」という偽名を名乗って話をしていたという。  その数日後の『週刊新潮』四月二十日号に学会を中傷する記事が掲載された。その内容は、まさにこの時山崎が流した情報に基づくもの。山崎はマスコミをたらし込むにあたって、弁護士の立場を利用して手に入れた情報をリークしたのみならず、声色を変えて自分の身分をいつわり、相手を騙すという、手のこんだ手口を使ったのである。 まず匿名、後に実名で「手記」を書く  さて、マスコミをたらしこみ、釣り上げ、学会に何ごとか疑惑があるのではないかと思わせた後、今度は自分で、その疑惑の「証明役」を買って出るという段取りとなる。  山崎は昭和五十六年一月二十四日、学会に対する恐喝容疑で逮捕される。この逮捕にいたるまでの約七ヵ月間、山崎が「告発手記」と称するものを『週刊文春』に連載した件については、すでに触れた。ここで注目したいのは、山崎がチ記を書くにあたって、はじめは「グループ7」「創価学会最高幹部七人の内部告発」なる名前を名乗ったこと――つま り、実名を出さず「匿名」「覆面」というかたちで連載したこと。その後、ようやく実名で登場。「創価学会”闇の帝王”山崎正友弁護士の手記」なる連載を改めて行ったことである。  この手記なるもの、奇妙なことに匿名の際も、実名を名乗ったあとも、その内容は大同小異であった。要するに、山崎は、匿名、実名を使い分けることで同じネタを二回使った。 そうすることで山崎が、原稿料も二倍稼いだことは言うまでもない。同じテーマで、覆面と実名で二度、反復するというペテン――これは、山崎のマスコミ利用の常套手段である。 山崎とマスコミを結ぶ「黒い人脈」  こうして山崎がマスコミを利用するうち、山崎と一部マスコミ関係者の間には、いわば「持ちつ持たれつ」といった密接な関係が結ばれていった。山崎が今なおマスコミで踊っている背景を理解するために、ここで山崎とマスコミを結ぶ「黒い人脈」について述べておこう。 山崎の”忠犬”『週刊新潮』 まず、その筆頭に挙げられるのが『週刊新潮』。同誌は、いわば山崎の「忠犬」といえ るほど、この男の意向に最も忠実な雑誌であるといってよい。  たとえば現編集長の松田宏。松田と山崎とは松田が若手デスクであった当時からの、二十年来の仲である。その関係の深さは、たとえば以下のようなエピソードからもうかがえよう。  昭和五十三年、山崎が学会と宗門の分断を画策していた当時のこと。山崎は、『週刊新潮』編集部に写真三枚とデマ情報を提供。山崎の情報に基づいて『週刊新潮』は、「池田会長の『奢れる現場写真三枚』が流出した学会の反乱」(七月二十七日号)との記事を掲載したのだが、山崎は、この記事のゲラ(校正用試し刷り)を詳細にチェックした上で松田に記事の一部を削除するよう注文をつけたという。  というのも、この記事のゲラには、同年三月に行われた宗門の教師指導会での細井日 達・日蓮正宗管長(当時)の説法について「一宗の管長ともあろうものがこのていたらくでは……」といった文言があった。当時、日達管長は、山崎が目論んでいた学会・宗門の分断工作の、いわばキーマンであった。その日達管長の心証を害することなど、できようはずがない。そこで山崎は松田に相談。松田も「持ちつ持たれつ」の関係から該当個所を削除したのである。  こと学会攻撃にかけては、この二人が、どれほど密接に連携をとり合いながら進んできたかが、よく分かる話であろう。  またこうした『週刊新潮』の手法が、マスコミの常識、倫理の点から見ても、大きく逸脱していたことは言うまでもない。その後も松田は、山崎が恐喝犯として刑務所に収監される前には”壮行会”、出所後には”歓迎会”まで開いて山崎を”慰労”。平成五年以降も山崎との緊密な連携のもと、北海道の日蓮正宗僧侶の事故死をめぐる、白山信之さんに対する人権侵害報道、東京・東村山市議の転落死をネタにした捏造報道等々、学会への中傷を続けて現在にいたっている。 文藝春秋との「腐れ縁」  また『週刊新潮』に勝るとも劣らず、長年にわたって山崎をバック・アップしてきたのが、文藝春秋の編集者たちである。山崎は出所後、阿部日顕・日蓮正宗管長に宛てて、今後の学会攻撃の手順、手口について綴った手紙を送っている。いわゆる阿部日顕宛て「謀略書簡」であるが、その中には次のような一節がある。  「私か、文芸春秋新年号及び二月号に手記を書きます。それと併行して、先回も申し上げたかと思いますが、”政治と宗教を考える国民会議″の座長亀井静香代議、小田晋氏 (筑波大教授)、飯坂良明氏(学習院大教授)の座談が新年号に、北野弘久氏(日大教授)の論文が二月号に掲載されます」  そもそも一般の人間が、大出版社発行の有名雑誌の内容を事前に知り得るなどということ自体、普通ではあり得ない話であろう。だが、事実は山崎の言葉どおりにことが運ぶのである。すなわち『文藝春秋』は平成六年新年号と二月号で山崎のチ記を掲載。亀井・小田・飯坂の三氏によるてい談は同新年号に、また北野論文も二月号にと、山崎の言葉そのままに掲載された。当然、内容など詳細な点にわたっても、双方の間で事前に入念な打ち合わせがあったと見るのが自然であろう。  文藝春秋の編集者と山崎の関係の深さについては、山崎白身が「謀略書簡」で、こうも書いている。  「文芸春秋は、社長の田中建五(ママ)、編集局長堤尭、そして、各雑誌の編集長ら、すべて私の友人で、全社が学会ぎらいです。向う十年間は、この姿勢は変わらないでしょう。日本のマスコミをリードするのは、朝日と文春といわれています」  とりわけ文中の堤尭とは、しばしば盛り場に繰り出しては、盃を交わす間柄。山崎の著書『平成獄中見聞録』によれば、山崎が刑務所入りする前にも、当時、『文藝春秋』の編集長であった堤が、こう語ったという。  「だから友さん、悪いことは言わない。この際、是非ムシヨに行きなさい。そして、中で探見記…じゃない、獄中記か。それを書いて、何とかリアルタイムで俺に届くようにしなさい。必ず活字にして連載するから」  編集長ともあろう者が、収監間近の恐喝犯の罪をとがめ、その更生をうながすでもない。山崎との「なれ合い」ぶりを、ほうふつさせるエピソードではないか。  ともあれ、山崎がマスコミで大手を振って歩いているのも、こうした『週刊新潮』、『文芸春秋』をはじめとするマスコミ関係者との間に結ばれた「黒い人脈」のゆえなのである。 出所後のマスコミエ作  マスコミを己の欲望を満たすための最大の「道具」としてきた山崎――平成五年に栃木 県黒羽刑務所を仮出所した山崎が、すぐさま企てたのも、そのマスコミを利用することであった。日顕宛て「謀略書簡」の中には、次のようなくだりがある。  「私は去る四月二七日、仮出獄いたしまして、現在は、世田谷区善福寺において原田知道住職を引受人として仮住いたしております。仮釈放の期間が終了する十月二七日までは、保護観察中ということで、行動になにかと制約があり、マスコミ活動をはじめ、創価学会問題への公然の関与は差しひかえざるを得ません」  「私は、十月二七日までは、療養と、生活のたて直しのため、静かな暮しをいたしますが満期明けの十月二七日以後は、それなりの行動をとるつもりです。既に、週刊文春、現代、実話、スコラ等、連載の約束がございますし、テレビの報道番組での企画も進行しています」  「それなりの行動」――山崎が出所後、真っ先に働きかけた対象はマスコミであった。 山崎にとってマスコミが、いかに重要な「商売道具」か、よく分かる一節であろう。  事実、「謀略書簡」に記された時期より早い平成五年十月二十一日号『週刊新潮』掲載の「手記」を皮切りに、山崎は、『週刊ポスト』『週刊現代』『週刊実話』といった雑誌に次々と登場。逆恨みの黒い炎を燃やしつつ、学会攻撃に狂奔するにいたる。以下、この男が平成五年以降、いかにマスコミを利用してきたかの実例を挙げていこう。 神崎代議士をターゲットに出所後の初仕事  山崎の出所後の「初仕事」となったのは、『週刊新潮』(平成五年十月二十一日号)の、「神崎郵政大臣は『盗聴仲間』だった」なる「手記」である。それにしても山崎は、なぜ神崎氏をターゲットにしたのか。  学会にお礼参りをするといっても、ただ学会にかみついただけでは、インパクトに乏しい。できるだけ世間を騒がせるネタが必要である。そう思案したであろう山崎にとって、当時の政治状況は、まさに「打ってつけ」であった。  というのも、山崎の出所に先立つ平成四年、戦後半世紀にわたって政権与党として君臨してきた自民党が総選挙で大敗し、下野。非自民連立政権が成立した。前代未聞の危機に陥った自民党にとって、連立政権の一翼を担った公明党は、最大の攻撃目標の一つであった。  そうした状況下にあっては、公明党出身の神崎郵政大臣への攻撃は、世間の注目を集めるばかりか、自民党の思惑ともピッタリ合致することは明らかである。自分の逆恨みを晴らすばかりか、自民党という頼もしい味方も得られるではないか――神崎氏への攻撃は、山崎にとって「一石二鳥」だったのである。 ウソで固めた「手記」  しかしながらと言おうか当然と言おうか、この手記自体、山崎得意のウソまたウソで固めたデッチ上げ記事の典型であった。くだんの手記には「神崎郵政大臣は『盗聴仲間』だった」とセンセーショナルな見出しを掲げている。ここで言う「盗聴」とは、かつて山崎が独断で企て、実行した日本共産党・宮本顕治邸盗聴事件のこと。この盗聴事件に神崎氏が関与していたというのである。「仲間」といえば「遊び仲間」、「釣り仲間」といったように普通、何かを一緒にしたという関係を示すもの。この見出しの通り、現職の閣僚である神崎氏が、かつて山崎とともに盗聴という犯罪行為に関わっていたとすれば、大問題である。  ところが派手な見出しとは裏腹に、記事の本文を幾度読んでも、神崎氏が盗聴に関与したという具体的な事実は、何一つ示されていないのである。山崎が書いているそれらしき話は、かろうじて昭和四十五年七月・八月、大石寺で行われた学会学生部の夏季講習会の折、神崎氏と福島啓充氏(現学会副会長)に会い、くだんの盗聴事件の後始末について相談したということだけ。しかも神崎氏自身に関する具体的な記述は「神崎氏は、さすがに問題の重大さに気づいてイヤな顔をした」云々と書かれているにすぎないのである。  だが、そもそも山崎が昭和四十五年七・八月に、この両氏と会っていたという話自体、この盗聴事件について共産党側か提起した裁判の過程で、山崎のまったくのデッチ上げであることが明らかになっているのである。  会ってもいない人物の、話してもいない話を待ち出して「盗聴仲間」というインネンをつける。「悪いのは自分だけではない。他にも悪いことをした人間がいる」などと言い立てては、何の関係もない人間を自分の”共犯者”に仕立て上げ、引きずり込もうとする ――結局、ウソで固めたデッチ上げで他人に責任をなすりつけ、ドロを塗ろうとする山崎 の手口を如実に現した記事であったというほかない。 すでに破綻したウソも平気で蒸し返す  さらに挙げておきたいのは山崎が、すでに裁判などで明らかになったウソも、平気で繰り返しているという点である。  たとえば先にも触れた「盗聴事件の後始末について、大石寺で神崎氏に相談した」というくだり。この点は盗聴行為に、学会が関与していたかという意味で、実は裁判でも極めて重要な争点であった。「手記」の中で山崎は、「この事実はすでに、昭和五十五年から始まった共産党による民事裁判の法廷でも私が証言し、記録に残されていることである」云々と、さも自信ありげに書いている。だが、実際の裁判審理ではどうだったのか。  山崎の裁判での供述は、要約すると、「昭和四十五年七月三十日から八月初旬の、学生部の夏季講習会に参加する予定で、大石寺に登山した。しかし、その初日である七月三十日の御書講義担当者会の際に、出席した池田会長(当時)から、即刻下山して、盗聴事件の処理をするよう厳しく叱責され、神崎氏らに会った後、その日のうちに東京に戻った」というもの。もし山崎の供述が事実とすれば、学会中枢が当時、山崎が行った盗聴行為について知っていたことになる。  しかも、この山崎の供述は反対尋問の際に、根本的に覆されている。すなわち池田会長から厳しく叱責され、事件処理のためにあわてて帰京したはずの山崎が、八月一日・二日の両日にわたって大石寺に残り、講習会に引き続き参加していたことが、当時、学会の機関紙『聖教新聞』に掲載された写真によって証明されたのである。帰ったはずの山崎が学生の前で講義をしている七月三十日夜の写真、同じく山崎が八月二日の全国学生部幹部会に出席している写真など、「動かぬ証拠」をつきつけられた山崎は、法廷で立ち往生。傍聴席から失笑さえ漏れたというのは有名な話である。  法廷で、木っ端みじんに打ち砕かれたウソですら、ぬけぬけと繰り返す厚顔無恥。まさに「ウソも百回言えば本当になる」という言葉を地でいく山崎の手法である。 女性スキャンダルの捏造  出所後の山崎がデッチ上げた学会中傷記事の中でも「神崎郵政相は『盗聴仲間』だった」と並ぶ悪質なものの一つに、平成八年八月、『週刊文春』に掲載した女性スキャンダル捏造の記事がある。  そもそも女性スキャンダルの捏造は、いかにも下劣な品性の持ち主らしい山崎の「御家芸」なのだが、山崎が、なぜこの時期を狙って女性スキャンダルを持ち出したのかについて、ひとこと触れておこう。  その答えは、くだんの記事のタイトルページを見るだけで分かる。左肩に大きく、ハンカチで鼻水をぬぐう北海道の学会脱会者・信平信子の顔写真−すなわち、詳しくは後述する信平「狂言訴訟」の公判が、まさに始まるという時期を狙っての、いわば援護射撃だったのである。 派手なのはタイトルだけ  ともあれ、例によって例のごとく「総集編」「十三人の女」などと、派手な見出しを掲げた、この手記。さぞ握造スキャンダルのオンパレードかと思いきや、さにあらず。いくら読んでも「十三人の女」なる女性たちが、具体的にどうしたのか、さっぱり分からない。記事に必須のはずの「誰が」「いつ」「どこで」「なにを」「なぜ」「いかに」という「五W一H」を完全に無視した、まさに「看板に偽りあり」のシロモノなのである。  そもそも、その「十三人の女」がスキャンダルに関わっているという「ネタ元」自体がひどい。ここで「十三人の女」と山崎が称する各女性と、その「ネタ元」の関係について挙げてみよう。  お断りしておくが、手記ではこの「十三人の女」のそれぞれについて具体名が挙がっているが、ここでは信平信子以外の名前はあえて控える。当方、山崎のような人権感覚欠落者ではないからである。  1 信平信子。ネタ元は『週刊新潮』。  2 ある未亡人。山崎自身が直接聞いたと称する話。  3・4 学会幹部。ネタ元は『月刊ペン』。  5〜11 学会幹部。ネタ元の記載なし。  12・13 学会幹部。ネタ元は『月刊ペン』。  このうち5〜11の七人に関しては、「夫が学会の幹部に抜擢された」というコジツケで名前を出しているだけ。無理やり「十三人」という数に合わせるためだけの、明らかな「水増し」である。残る六人のネタ元は『週刊新潮』、「山崎自身」、『月刊ペン』。たったこれだけである。  『週刊新潮』がネタ元の信平は言わずもがな。『月刊ペン』については、後述するように、裁判で「根拠なし」として否定されたウソに過ぎない。さらに「山崎の証言」にいたっては、何をかいわんやである。要するに、山崎が「総集編」と銘打ち、ウの目夕力の目で学会をつけ狙っても、せいぜいこの程度なのである。むしろ逆に山崎自身が、学会に疑わしい事実など何もないことを証明しているようなものであった。 ここでもウソの焼き直し  三回にわたった手記の第二回でも大ウソを連発する山崎だが、そのウソの根拠にしているのが『月刊ペン』なる雑誌であった。  『月刊ペン』とは、かつて事実無根の女性スキャンダルで学会を中傷し、その後、筆者である隈部大蔵の有罪が確定した名誉毀損事件を引き起こした雑誌である。この『月刊ペン』事件の最大の焦点は、まさに山崎が手記のなかで取り上げた、先の3・4の女性に関するものであった。  隈部が、この二人についてスキャンダルを程造するにあたり、何を根拠にしたかが注目されたのである。  隈部はまず3の女性に関してはO、Iという二人の証言をもとに記事を書いたという。ところが東京地裁の判決文(昭和五十八年六月十日)では、O、Iの証言は「確かな裏付けに欠けている」「薗言時においていずれも反学会的立場にあることを併せ考えると、同人らの目撃証言を現在の証拠関係の下でそのまま真実と断定することにはなお躊躇せざるをえない」と完全に退けているのである。  さらに4の女性に関する件についても判決文は「本件証拠上これに言及するものは少なく、わずかにこれに言及している原島(嵩)証言、山崎証言等も、単なる風聞ないし推測を根拠とする域を出ないもの」と厳しく断じている。  要するに、いずれも裁判で、「真っ赤なウソ」と証明されているヨタ話なのである。そのウソを、性懲りもなく平然と並べ立てては、あたかも何ごとかあったかのごとく見せかける。裁判で断罪されたことであろうが何だろうが、「誰も知るまい」と夕力をくくり、何度も何度も繰り返す。とにかくイメージだけを独り歩きさせようとする山崎の手法が、ここでも使われているのである。  ちなみに、その後、この山崎の手記の中に、もともと裁判に出廷もしていない学会女性幹部が出廷していたことになっていたという大ウソがあったことから、この女性幹部が 『週刊文春』に厳重に抗議した。この一件で、さしもの『週刊文春』も、山崎にへきえき。 以後、山崎と一線を画する姿勢を取り始めたと伝えられる。  結局、山崎にとっては学会を中傷するどころか、自ら墓穴を掘る結果となったことを、つけ加えておこう。 信平「狂言訴訟」の仕掛け人  さて、出所後の山崎が仕掛けてきた学会中傷報道の最たるものが、北海道の学会脱会者、信平信子・醇浩夫婦による、いわゆる「信平問題」である。  学会にドロをかぶせることを目的に、この夫婦が、ありもしない「事件」をデッチ上げ、挙げ句の果てに噴飯ものの「狂言訴訟」にまで及んだ、この問題。すでに東京地裁は信平側の訴えの主要な部分について判決を行うことを決定しており、その結果、信平側は、いわば「門前払い」されるかたちで事実上の決着がつけられるものといわれている。  だが、見逃してはならないことは、山崎こそ、この信平問題の仕掛け人にほかならないという事実である。 問題がデッチ上げられるまで  山崎の関与について述べるにあたって、まず、この信平問題が、どのようにして騒ぎ立てられてきたのか。その経緯について少々、触れてみたい。  この問題が世に現れたのは、『週刊新潮』平成八年二月二十二日号(十五日発売)が信平信子の「手記」なるものを掲載したのが最初である。その後も『週刊新潮』は、信平夫婦の話のあまりの荒唐無稽さに、追随するマスコミもほとんどないなか、この問題について”孤軍奮闘”。挙げ句の果てに東京地裁の判決が信平側に不利と見るや、こともあろうに裁判官にまで八つ当たりするという醜態まで演じ、大恥をさらす結果となった。  だが、そもそも信平信子の話は、どのような経過をたどって『週刊新潮』編集部にまで行き着いたのだろうか。その経緯について、内藤国夫は、雑誌『テーミス』の同年四月号で、大要、こう述べている。  「今年の二月、夫の醇浩が信子から衝撃の体験を聞いた。その醇浩は学会脱会者の竜年光に相談した。ここから事件の公表話がはじまった」  内藤の話によれば、信子から醇浩へ、醇浩から竜に話が行った。そこから『週刊新潮』編集部の耳に入ったのだという。  一方、信子は、同年二月の記者会見の際、こんな趣旨の話をしている。  「夫の醇浩が竜に相談した。そこから乙骨正生に話か回り、乙骨から『週刊新潮』を紹介された」  内藤いわく、「竜から『週刊新潮』に話が行った」。信子いわく、「乙骨から『週刊新潮』を紹介された」。そもそも話は、そんなに複雑なものではない。「誰が誰に話して記事になったのか」。その経緯は、極めて単純なはずである。いったい、どちらの言い分か正しいのか。 「信平を『週刊新潮』に紹介したのは山崎」  実は、その経緯について、山崎の動きに詳しいある人物が、匿名を条件に、こんな証言をしてくれた。  「ニュースソースについて、あれこれ話か出ているようだが、『週刊新潮』に話をもっていったのは、間違いなく山崎だ。山崎が、『週刊新潮』編集長の松田宏に渡りをつけたようだ。山崎が話をすると、『週刊新潮』は山崎のところへ、それこそスッ飛んでいったらしい。そのことは山崎に近い人間が周囲にもらしていることだ。もともと山崎と『週刊新潮』の松田は『ツーカーの仲』。これまでも山崎が学会攻撃のためのネタを提供し、『週刊新潮』がデマ記事をつくるという二人三脚でやってきた。昔から山崎は付き合いのあるマスコミに、いろんな役回りをふってきたが、その中で『週刊新潮』の役回りは『女性スキャンダル』と決まっていた」  ―『週刊新潮』に実際に話をもっていったのは、竜でも乙骨でもない。山崎だという のである。  そもそも山崎は日顕宛「謀略書簡」で、こんなことを言っていた。「今後、こうした人達(著者注・元公明党議員)や、元学会幹部に証言していただく必要が多くなります」  要するに学会攻撃のための「決め手」の一つは「元学会幹部の証言」だと、自らの手の内をさらしているのである。信平のような、うってつけの「はまり役」を、山崎が見逃すはずもあるまい。また、竜にせよ、乙骨にせよ、「手記」発表前に信平と接触していた人間は、もともと山崎と腐れ縁のある者ばかり。信平の話について、当初から山崎が、まるで蚊帳の外に置かれていたとは考えにくい。むしろ話は、山崎との連携の上で進んでいたと見るのが自然であろう。  山崎の手口。山崎の人脈。いずれの線をたどっても「『週刊新潮』に実際に話をもっていったのは山崎」との見方を裏づける。 『週刊新潮』の関与疑惑  ちなみに『週刊新潮』自体も、このデッチ上げ問題に、当初からかなり深く関与していたようである。  というのも、この問題は、信平信子が『週刊新潮』に「手記」を掲載したことが、ことの発端である。「手記」を名乗る以上、信子自身が書いたものと読者は受け取る。現に、『週刊新潮』の「手記」は、わざわざ信子の直筆署名入りだったのである。  ところが平成八年三月に福岡で行われた反学会の集会に、信子とともに登壇した内藤国夫は、こんな打ち明け話を披露していたのである。              。  「(手記を)僕に書かせればよかったとは思っていないんです。僕は『週刊新潮』が書いたものを読んであげて……」  この内藤の発言によれば「手記」はそもそも、信子の手になったものではない。 『週刊新潮』側か書き上げたものを、内藤が信子に「読んであげた」ものだということになる。 「手記」の成り立ちの詳しい経緯はともあれ、『週刊新潮』が、この問題の発端の時点から深く関わっていたことが、よく分かるだろう。 デッチ上げの動機と思惑  さて、『週刊新潮』に話をもっていったのが山崎だとすれば、その動機は何なのか。この信平問題が世に出るまで、山崎は「四月会」での策動(平成六年)、宗教法人法の改変問題(同七年)での暗躍と、さまざまな学会攻撃の策謀をめぐらしていた。ところが、宗教法人法の改変は実現したものの、その内容は、すぐさま学会の封じ込めにはつながらない。改変問題に関連しての学会の秋谷栄之助会長の参考人招致も、ことさら学会を中傷しようという反学会勢力の意図とは裏腹に事実上の「不発」に終わった。  ここにいたって山崎は、いわば深刻な「手詰まり状態」に陥っていたといってよい。学会攻撃に使える「タマ」が欲しい。どこかに新しい「タマ」はないものか。その「需要」に応えるかのごとく、にわかにクローズアップされてきたのが、実は信平問題だったのである。 「山崎が仕掛け人であることは間違いない」  信平問題への山崎の関与については、実はもう一つ、有力な証言が存在する。山崎と日本共産党との関係については、後に詳しく述べたいが、その共産党の関係者による証言である。      。  その関係者というのは、共産党・橋本敦参議院議員の兵本達吉秘書。ちなみに橋本議員は、秋谷会長の参考人招致の際、党を代表して質問に立った人物である。この兵本秘書が一昨年末、議員秘書仲間と話し合った席でのこと。信平が「狂言訴訟」を起こすにあたって、共産党側に弁護士の斡旋を依頼したのではないかという話について、同秘書は大要、こう語ったという。  「党が紹介なり、お世話したことはない。最初は(共産党系の)自由法曹団を紹介してくれといわれたが、紹介しなかった。党の関係者とも相談したが、真に受けていいかどうか分からないし、常識的に考えて、そんなことはしない方がいいのではないかと考えた」「僕は信平の旦那(醇浩)が、いかがわしいと思った。最初は、金銭目当てで学会をゆするつもりではないかと思った。弁護士に相手にされないので、たまたま共産党に来たのではないかと思った」  「たまたま来た」といっても、相手は共産党の中枢部である。誰かが「橋渡し」をしなければ、そうそう訪ねていけるところではない。信平を最初に共産党側に紹介したのは誰なのか。「それは山崎か」という問いに、兵本秘書は、こう断言したという。「彼らは全部、つなかっている。完全につなかっている」  「信平を共産党に紹介したのは山崎」だというのである。更に同秘書は、信平問題の成り立ちそのものについて、こうも語ったという。  「山崎正友が仕掛け人であることは間違いない。私か見ていても」  共産党への紹介どころか、そもそも「信平問題の仕掛け人は山崎」。まさしく「決定的証言」であろう。 疑惑の「忘年会」  同秘書が、ここまで断言するには理由があるようである。というのも同秘書は、「共産党は、今は信平問題と関わっていないのか」という秘書仲間の問いに対して、こう語っていたという。  「今年(平成八年)は、山崎からの忘年会の誘いはない」「電話もかかってこない」  この席での話によれば、平成七年の暮れに同秘書は、山崎からの誘いを受けて忘年会に参加したという。その忘年会には日蓮正宗僧侶の久保田雄啓と柳坂得道、『週刊文春』の山田直樹、『週刊新潮』の門脇護などが顔を揃えていたとのこと。皆、反学会の関係者ばかりである。当然、学会に関する話か話題の中心であったことは、想像にかたくない。  問題は、「今は信平問題と関わっていないのか」という質問に対して同秘書が、「今年は山崎からの忘年会の誘いはない」と答えている点である。いかにも政治家の秘書らしい言い方だが、その前年の平成七年暮れの段階では、信平の話を聞いていたことは、容易に推測できる。  もし平成七年暮れの忘年会で信平の話、あるいは信平の存在をにおわすような話か山崎の口から出ていたとすれば、これは、ことの経緯を解明する上で重大なポイントである。というのも信平の問題が世間に出たのは、それがたとえ竜や乙骨を介して『週刊新潮』に話が回っていたとしても、その時期は平成八年二月のことだとされているのである。ところが、その前年の暮れには、すでに山崎は信平の存在について、反学会関係者の前で「お披露目」していたことになる。その場合、結局、「手記」発表に関する信平らの話は、全部デタラメ。山崎のもと、その前年から関係者が用意周到に準備を進め、ガッチリ仕込んだ上での話だということになるのである。 信平とも口裏合わせの狂言発言  山崎は前述・平成八年八月の『週刊文春』掲載の「手記」で、こう書いていた。「断っておくが、私個人はこの二十年来、信平さんと一面識もないし交信したこともない」。わ ざわざ「自分は信平問題と無関係」と断っているのである。  そればかりではない。先にも紹介した平成九年暮れの反学会の集会には、山崎と信平が仲良く登場。ここで山崎いわく「さきほど信平さんの話を楽屋で聞かせていただきました。信平さんのおっしゃったとおりに、創価学会の中にいたころも、私は信平さんと一度もお会いしたり、お話しした記憶はございません」「二十年間、今日にいたるまで、一度もお目にかかったこともなければ、口をきいたこともない。手紙のやりとりもありません」 一方、信平いわく「本日は山崎正友さんも出席されていますので、この場でハッキリと言わせていただきます。私は学会であったころも含めて山崎さんとお目にかかったのは、今日が初めてでございます。もちろん電話でお話ししたこともございませんし、手紙のやりとりすら一度もしたことはございません」  だが、何とも奇妙な話ではないか。両方の話が、その細部にいたるまで、まるで口裏を合わせたようにピッタリ一致しているのである。  そもそも、この問題について学会側は、山崎と信平が過去に出会ったことがあるとか、電話で話したことがあるとか、手紙のやりとりをしていたなどということをいっているのではない。事実の経過に鑑みる限り、この信平問題は、明らかに裏で山崎が糸を引いているとしか考えようがない、といっているのである。  にもかかわらず、会ったことがないとか、電話で話したこともないなどと、まるで楽屋裏でセリフ合わせをしたかのような話が、両方の口から飛び出してくる。こうしたこと自体、逆に「やっぱり」という疑念を強めるばかり。この日、山崎と信平は、会場への行き帰りの車も別々、舞台への登場のタイミングなどにも、かなり気を使っていたということだが、そうした一事をもってしても、山崎と信平が、どれはどこの問題の舞台裏を知られることについて神経をとがらせているかが、分かろうというものである。  「山崎正友が仕掛け人であることは間違いない。私か見ていても」 山崎がいかに無 関係を装おうと、いかに言い訳をしようと、真相は隠しようがない。誰が見ても、「信平問題の仕掛け人は山崎」である。 偏向報道を続けてきたマスコミの責任は重大  神崎氏への中傷記事、女性スキャンダルの捏造、そして信平問題と、刑務所出所後もマスコミを使って学会への逆恨みを晴らそうと動き回ってきた山崎だが、デマをまきちらす山崎も山崎なら、それに乗せられて踊るマスコミもマスコミである。  そもそも、かの昭和五十三年当時の山崎の手記にしても、一回や二回ならともかく、一人の人物が特定の団体を攻撃する文書を約八ヵ月にわたって三十三回も連載させるとは、いったい、いかなる了見か。これではマスコミの「公正中立」性などあったものではない。あるのは「社会の公器」としての責任も使命も投げ捨てた、グロテスクな「一個人の『私器』」と化した姿であろう。  最近、日本でも、松本サリン事件の第一通報者をマスコミがこぞって犯人扱いしたことなどから、報道による人権侵害、偏向報道の危険性が次第に指摘されているが、学会をめぐる偏向報道は、その規模といい、継続性といい、恐るべき害毒をまきちらしてきたといえる。その意味で山崎と結託し、山崎に肩入れするかたちで偏向報道を垂れ流してきた一部マスコミの責任は、極めて重大であるといわざるを得まい。 もはや学会批判は「時代遅れ」  かつて学会批判記事を数多く手がけた花田紀凱・『週刊文巻』元編集長は、その著『花田式噂の収集術』で述べている。  「ぼくらの場合は、『宗教団体を取り上げれば、大勢の信者が買ってくれるかもしれない』とむしろ積極的だった。実際、昔は『創価学会ものをやれば、売上げが伸びる』と言われていた時代もあったのだ。最近はそういうこともすっかりなくなってしまったが」  「学会を攻撃すれば部数が伸びる」という手法は、もはや時代遅れだというのである。かつて実際に、そうした手法に手を染めていた編集者の言である。未だに学会への中傷に血道を上げるマスコミ編集者は、そろそろ耳を傾けるべきなのではあるまいか。  そもそも、ある男の野心と私怨に肩入れして、何らの事実の検証もなくデマ記事を垂れ流すようなマスコミが、いつまでも市民の支持を得られるわけがあるまい。くだんの『週刊新潮』も最近、肝心の売り上げが落ち込む一方だと聞く。それも学会報道に端的に現れやでている偏向した姿勢が市民の反感を招き、部数の減少という事態に結びついているということに気づくべきであろう。  山崎の口車に乗せられ、その逆恨みに肩入れしているうちに、いつしか自分の足元も、あやうくなりかねぬ。果たして山崎が、自分たちが心中するほど価値のある男なのか。よくよく考えてみる時期がきているのではないか。 第3章政治ゴロ  刑務所を出所後、創価学会への逆恨みを晴らすために動き始めた山崎正友が、その謀略の手ヅルに使おうとした相手はいくつかあった。  一つは阿部日顕。いま一つは『週刊新潮』をはじめとする一部マスコミ。そして何よりも山崎が精力的に働きかけたのが、一部政治家たちであった。 山崎と政治家の連動  当時の政治状況は、山崎にとって実に好都合であった。この男が平成五年四月に仮出所してわずか三ヵ月後には、一九五五年以来、政権党として君臨してきた自民党が総選挙で大敗を喫して下野。自民党にとっては、連立与党の一翼を担った公明党が、いわば「目の上のコブ」となったことは言うまでもない。  「学会攻撃の弾丸は、私達以外に供給できません」(日顕宛「謀略書簡」)とうそぶく山崎が、そこに目をつけないはずはない。公明党の支持母体である学会への攻撃を通じて、連立政権に揺さぶりをかける――山崎と政治家たちの思惑は一致した。以降、両者は急速に結びついていくのである。  現に自民党による学会攻撃の動きが、にわかに活発化するのは、山崎の水面下での動きが盛んになった時期と重なっている。  この年の通常国会開会中の十月四日。口火を切ったのは越智通雄代議士である。衆院予算委員会で「公明党の選挙活動と創価学会の宗教活動は一体となっているのではないか」などと述べた。さらに六日には野中広務代議士が衆院予算委員会で共産党の宮本顕治氏への盗聴事件に関連して山崎の証人喚問を要求。  参院では七日に、宮沢弘議員が同じく山崎の証人喚問を要求。八日、下稲葉耕吉議員が「(政教分離というが)宗教団体トップによる(公明党への)人事介入があるのではないか」等として、池田名誉会長の証人喚問を要求するにいたった。  このほか山崎がデッチ上げた週刊誌記事をもとに、多くの与党議員が、いわゆる「政教一致問題」や「盗聴問題」などを取り上げたのである。 国会の内部事情に精通していた山崎  繰り返すが、こうした政治家たちの一連の動きが山崎の動きと連動していたことは、言うまでもない。「謀略書簡」で山崎は、こう書いている。  「私も、最近、国会証人喚問などと云われはじめていますが、”週刊新潮”で、神崎郵政大臣の追及を行うのを皮切りに、表立って活動を展開します」「こうした動きにあわせて私と池田大作の国会喚問の動きが国会ではじまると思います」「今後、政教一致、池田独裁、財政、不正、選挙、不正行為、体質といった項目ごとに、キッチリしたキャンペーンを強化していきます。これに、政治と国民運動が連動します」  政治家たちが、どう動くか。どう言い出すか。その内情によほど精通していなければ、こうは書けまい。自らの”指南”に基づいて政治家が動いていると得意げに語る山崎の様子が、よくうかがえる文面ではないか。 民主政治研究会で講演  山崎が「表立った動き」を開始したのは、相次ぐ証人喚問要求の狂乱の最中の十一月十六日のことであった。舞台は民主政治研究会(民政研)。後に文部大臣として、宗教法人法改変を進めることになる島村宜伸代議士を中心とした自民党内の勉強会である。その後、「憲法二十条を考える会」、さらには「四月会」と、反学会勢力の野合団体の結成へとつながっていく集まりである。  民政研は、十一月十六日、二十六日、十二月二日、九日、十六日、二十二日の計六回、ほぼ週一回のハイ・ペースで聞かれた。もとより「民主政治」とは看板だけで、その実態は山崎、竜年光、内藤国夫、乙骨正生らを招いて学会攻撃の手立てを探ることが目的である。  ちなみに、いずれの会合も議員会館など国会の施設内で行われたものであり、特定教団に対する謀議が国会の施設でこらされたことを問題視する声もあるが、山崎は、この六回の研究会のうち四回にわたって講師として登場。舌先三寸、学会に対するデマ、ウソの限りを並べ立てては、出席した議員に学会攻撃を煽り立てたのである。  第一回勉強会の開始は午前八時。早朝にもかかわらず、五十人を超える議員が詰めかけたという。冒頭、あいさつに立った島村代議士は、悪質な恐喝事件、盗聴事件で世間を騒がせた山崎に対し「先生」「先生」と盛んに持ち上げ、下にも置かぬ歓待ぶりで遇した。 ここで山崎は、『週刊新潮』十月二十一日号をはじめ一部マスコミで自らが書き立てていた宮本邸盗聴事件を中心に話した。これは当時、郵政大臣であった神崎式法代議士が、かつて山崎が独断で立案・実行した宮本顕治氏宅の盗聴事件の”仲間”だったという内容である。既に「マスコミ・ゴロ」のくだりで述べたとおり、そもそもこれらの記事自体、どこを読んでも神崎氏が関わったという具体的な記述は出てこないというシロモノだったが、出席した政治家たちは、こうした山崎のウソ、デタラメをまともに取り上げ、「真実を国会で明らかに」などと騒ぎ立てたのである。 居並ぶ国会議員を前にウソ八百 第一回の勉強会で山崎は、さらに池田名誉会長の発言と称するテープを政治家たちに聞かせている。いわゆる”大臣発言”として、その後ことあるごとに政治家たちが騒ぎ立てたテープである。  これは連立政権の組閣発表の前日八月八日に、池田名誉会長が三人の大臣の名を挙げたというもの。この大臣ポストの予想については、その日の新聞各紙で既に報道されていたものであり、その名前を知っていたからといって何ら驚くには当たらない。 たとえば、八月八日付『読売新聞』(朝刊)は、こう報じている。  「公明党は、石田氏が総務庁長官、神崎武法国会対策委員長が郵政相、坂口力・元政審会長が労相、広中和歌子参院議員が環境庁長官にそれぞれ起用される方向だ」  ところが山崎は、居並ぶ議員に、こうブチ上げた。  「八月九日組閣の前日に、池田さんがうかれて口走ったという、その幹部会での演説内容を、幸いテープを入手いたしました。そのさわりの部分をちょっとお聞かせしようと思いますが、いかがでしょうか」  テープが流れると、ある議員から質問が出た。  議員「組閣の前日?」  山崎「組閣の前日でございます」  議員「前日……」  山崎「はい」  議員「はあー」  山崎は国民の誰もが知り得る情報を話しただけのこと。ところが「組閣の前日」と、ことさら強調しての山崎の口車に、まんまと引っかかってしまったわけである。  その後、このテープを「これぞ政教一致の動かぬ証拠」とばかりに大騒ぎした議員は数多い。たとえば下稲葉議員は翌平成六年一月、「創価学会の名誉会長さんが組閣の前の日に多くの方々の前で具体的に労働大臣、総務庁長官、郵政大臣と名前を出しておられるんですね」「宗教団体のトップにある人が多くの信者さんの前でそういうふうなことをおっしやるということは、これはもう大変なことじゃないか」などと言い出す始末であった。 本来、何の問題もない事柄について、事実を歪め、粉飾を凝らし、あたかも重大問題が起こったかのように見せかける。山崎の手口は、見事に「図に当たった」のである。 自分の犯した犯罪も「学会の責任」とウソ  山崎の口から出たデマカセの数々が、いかに政治家に大きな影響を及ぼしたか。それは自民党機関紙『自由新報』が報じた、民主政治研究会での「ある出席者」の言葉からも伝わる。  「神崎大臣はクロとの印象を受けた」「巷間うわさされる多くの疑惑もクロの印象だった」(十一月三十日付)  回を重ねるごとに、自分のウソを真に受けてくれる政治家たちの姿に安心もし、自信も深めたのであろう。山崎は第四回勉強会で、自分が犯した盗聴事件、恐喝事件についてもウソ偽りで固めた自己弁護を試みる。たとえば恐喝事件については、こんなことを言い放っていた。  「私は、創価学会の不始末から一つの会社を抱えることになりました」「私はもう創価学会とは、一切もう嫌気がさして、『辞めさせてくれ』という話をしました。ついては、抱えている仕事を全部処理してくれ、引き受けて引き取るか処理して欲しいという交渉をいたしました。その過程のなかで抱えていた会社の問題がございまして、それをもう倒産させるから、そのための必要なお金ということで学会から金の支払いを受けた」  冗談ではない。「会社を抱えていた」のも不始末をしでかしたのも、その結果、会社を倒産させたのも、すべて山崎個人である。にっちもさっちもいかなくなった挙げ句の果てに、学会を恐喝したというのが、ことの真相である。もし山崎の言うとおりならば、山崎が恐喝犯として懲役刑に服することなどなかったであろう。山崎のウソが裁判で暴かれたからこそ服役しなければならなくなったのである。それとも、己を裁いた裁判の方が、おかしかったのか。  その点について出席議員から質問の手が挙がったが、さすがの山崎もウソがつけない。質問に答えていわく「裁判そのものは手続き的に、捜査も手続き的に違法な点はございません」「裁判自体も丁寧に、念入りにやられた」  当たり前である。にもかかわらず、裁判で断罪されたウソを性懲りもなく繰り返しては人を騙し、たらしこむ。山崎の頭の中には、己が犯した犯罪に対する自責の念などカケラもないことがよく分かる。 「党の会計から費用を出して、我々を支援」  いずれにしても山崎にとって民政研とは、政治ゴロとしての自らの工作を具体化する大きな足がかりであったことは間違いない。日顕に宛てた「謀略書簡」で、山崎は、こう報告している。  「私は、先日、自民党本部で竜氏といっしょに講演をいたしました」「自民党は、党として、党の会計から費用を出して、我々を支援するといっています。今回は、学会を倒すか武装解除まで、攻撃をゆるめないということで、固い約束をとりつけながら進めています」  ここで見逃すことができないのは、自民党が党の会計から支援するというくだりであろう。これがもし事実とすれば大問題である。代表を務めた島村代議士は、その後、「タクシー代程度しか払っていない」等と語っているが、その程度で山崎が「我々を支援する」などと大口を叩くはずがあるまい。  それにしても特定の宗教団体に明白な悪意をもった人間と政治家が、これほどまでに密着し、その特定教団への攻撃を図ったとは、憲政史上の一大汚点であろう。政治家が、こんなていたらくでは、日本の政界浄化など絵にかいた餅にすぎない――山崎と政治家たちの癒着こそ、この国の政治の「お寒い実態」を証明するに十分な一幕であったことは間違いない。 ペテン師に「お膳立て」された国会質問  こうした一部政治家と山崎正友との野合。それが、ついに国会の場にまで持ち込まれるという「事件」が起きた。  平成六年十月十一日、衆議院予算委員会で自民党の川崎二郎代議士(先の総選挙で小選挙区から立候補して落選。比例区で復活)が行った前代未聞の「人権侵害質問」である。この日、質問に立った川崎代議士は、一般紙にも「公明党と支持母体の創価学会との関係を延々と取り上げた」(『朝日新聞』平成六年十月十二日付朝刊)と報道されているごとく、内外に山積する日本の諸課題など、どこ吹く風。重要な予算委員会の場の質問時間を、政治的意図による特定の宗教団体攻撃のために、それこそ「延々と」費やしたのである。  なかでも悪質だったのは、その時期、『週刊新潮』(九月一日号)に掲載された「大石寺僧侶を衝突死させた創価学会幹部」なる記事のコピーを振りかざしながら、そのまま読み上げ、交通事故による”被害者”である一市民を、あたかも殺人者であるかのように、国会質問の俎上に乗せたことである。  この記事は、北海道室蘭市の日蓮正宗深妙寺住職・大橋信明運転の乗用車が、スピードの出しすぎで力ーブを曲がりきれずに、左縁石に接触後、反対車線にはみだし、対向車線を走行してきた苫小牧市在住の白山信之さん運転のトラックに衝突。大橋住職が死亡した事故に関するものであった。  この事故については、警察も終始、白山さんを被害者として扱っていた。また保険会社の調査によっても、事故の原因は一〇〇%大橋住職の過失と結論されていた。にもかかわらず、白山さんが、たまたま創価学会員であったことから、『週刊新潮』はこの事故にさも疑惑があるかのように書き立てたのである。当然のことながら、白山さんは『週刊新潮』編集部に厳重に抗議した。と同時に、事実無根の記事によって、名誉を毀損されたとして発行元の新潮社に対する訴訟を起こした。  ちなみに、この裁判は、一審、二審ともに、白山さんの主張を認め、新潮社に損害賠償の支払いを命ずる判決が下されている。裁判の過程では、この記事が、現地からの取材結 果が入る前に、すでに見出しが決められていたことなど、何の事実根拠もなく、悪意と偏見のみで意図的につくられたものだったことが露呈したのである。  こうした人権侵害記事を世間に流布すること自体、到底、許されるべきことではないが、あろうことか川崎代議士は、この記事を国会の場で取り上げ、そのまま読み上げたのである。しかも、この日の質問は、NHKのテレビ中継によって、全国に放映されていた。   ここで川崎代議士は、「それでは、私どもが非常に注目しております、二つの交通事故を、ご紹介したいと思います。まあちょっと書き方過激すぎると思いますけどね。これね。はい、週刊新潮。大石寺僧侶を衝突死させた創価学会幹部、という書き方をしているんですね」「『交通事故』だろうと思いますよ。しかしながら、こんな号外がですね、この当日の二、三時間後に札幌でどーっと撒かれておった」などと、記事と同じレトリックで、いかにも白山さんに疑惑があることを匂わせ、警察庁の交通局長まで引っ張り出しては答弁させていたのである。 事実の検証、一切なし  そもそも、大橋住職の運転する車を組織的、計画的に事故にあわせるためには、いつどこでセンターラインを越えて来るかを正確に予測し、猛スピードの車にタイミングよくトラックを衝突させなければならない。しかも、トラックの運転者にも大きな危険が伴うのである。そんなことが、はたしてできるものなのか。警察の調べをまつまでもなく、荒唐無稽のデタラメ記事であることは、常識で考えればすぐ分かること。さらに言うならば、白山さんは川崎代議士の質問以前に、すでに新潮社を名誉毀損で提訴しているのである。白山さんの人権に配慮すれば、この記事については、慎重に扱うべきであった。少なくとも、はたして国会質問に値するのかどうかの、最低限の事実関係の確認など、すぐ出来たはずである。それを天下の国会議員が、何の裏付け調査もなく、週刊誌の記事だけを根拠に、国権の最高機関たる国会で、一市民を殺人犯呼ばわりしたのである。  要するに、この質問、単に調査を怠ったなどという次元の問題ではなかった。そもそも、調査などするつもりはなかった。はじめから事実かどうかなどどうでもよかった。質問にかこつけた、創価学会のイメージダウンが狙いだったというほかない。その黒い意図、また、そのために何の罪もない一般市民の人権を著しく傷つけた点で、同代議士の責任は重大である。  既に、白山さん自身、同代議士に対して三度にわたって謝罪要求書を送っており、また同代議士の地元・三重では、市民による抗議運動が進められている。いずれにせよ、その政治的、道義的責任は厳しく追及されるべきであろう。 山崎正友が国会運営のお膳立て  憲政史上に残る汚点ともなった「人権侵害質問」だが、その後、驚くべき事実が発覚した。自民党政治家などと連携をとり、この川崎質問のお膳立てをしたのが山崎正友だということを、他ならぬ山崎自身が明かしていたのである。山崎「謀略書簡」には、次のようにある。  「二十七日、自民党の幹部と、今後の作戦の打合せをしました。これまでの成果をふまえ、これから始まる臨時国会から来年の通常国会に向けて、政治レペルでの戦いをどのように進めるかについて具体的な打合せをしました」  ここでいう、二十七日とは、川崎代議士の質問の約二週間前の九月二十七日のこと。打ち合わせをした自民党幹部とは、自民党の反学会政治家の急先鋒の一人、白川勝彦代議士。また、その打ち合わせの内容とは「十月十一日〜十三日の予算委員会の審議で、テレビ中継の入る時間帯に、一時間ばかりかけて、創価学会問題を集中的に取り上げる、という方針で、これを戦宣(ママ)布告とし、各種委員会で追久(ママ)をつづけ、来年には、証人喚問へと積み上げて行きたい、というのが一致した意見でした」というものであった。そして現実に、十月十一日――NHKの国会中継の時間帯に川崎質問が行われたのである。そればかりではない。山崎は、この川崎質問の内容まで用意したというのである。  いわく「国会質問のための資料づくりを、私を中心に、段、乙骨の三人で作った上で、十日までに、自民、社会、さきがけの首脳、国対をまじえて最終打合せをすることになっています」  要するに、政権与党の国会運営が、ペテン師のお膳立てしたシナリオどおりに進んでいたわけである。 今や民主主義にとって害毒  国会質問まで悪用して、それもわざわざテレビ中継の入ることまで計算し、邪智をめぐらせて学会を攻撃しようと企んだ山崎。それに乗った一部政治家。山崎がデマ情報を流し、週刊誌が記事にする。それを国会議員が取り上げて、騒ぎ立てる――この手口は、のちの「信平問題」などでも、たびたび繰り返されることになる。  だが政権与党が、山崎などという「政治ゴロ」のお膳立てに乗って、党利党略で、特定の宗教団体を攻撃するために、なりふりかまわず牙をむくなどということが、はたして許されるのだろうか。こんなことがまかり通るならば、時の政権の意向に沿わない人物、団体は、いつなんどき、このような陰湿な攻撃にさらされるか分かったものではないだろう。  その意味で山崎という男の存在は、今や日本の民主主義にとっても害毒以外の何物でもないのである。 「民主政治を考える会」で金もうけ  読者の中には、「民主政治を考える会」なる団体の名前を記憶している方もおられることと思う。平成七年七月に参議院選挙が行われた後の同年十月から翌八年十月にかけて、総計すると一億枚にのぽるといわれる膨大な創価学会攻撃ビラが全国にまかれた。その発行元が、この「民主政治を考える会」である。  全部で六号を数えたビラの内容は、そのほとんどが学会と新進党を不当に中傷するものであり、その狙いが平成八年十月に行われた衆議院議員選挙対策にあったことは明白である。  ブラックージャーナリストの内藤国夫が代表世話人を務める、この「民主政治を考える会」には、一部政治家、宗教団体などが、それぞれの思惑から関わっていたことが判明しているが、それらの動きについては紙幅の関係上、ひとまず置こう。肝心なことは、この団体が、その発足の当初から山崎正友の手で実質的に運営され、操られていたという事実である。 内部告発で発覚した山崎の悪行  では、なぜ山崎の関与が発覚したのか。平成八年の暮れのこと――国会議員とマスコミ 各社に、同会有志の名で「絶縁宣言」なる文書が送られた。そこで明かされたことは、くだんのビラは無償ではなく有償で各団体に購入させていたこと。そのビラの制作費や売上金をめぐって同会で内紛が起こっていること。そして、この会を当初から実質的に運営していたのは山崎であり、山崎はビラの制作費・売上金などでこっそり金もうけをしていたという衝撃的な事柄だったのである。以下、この「絶縁宣言」の内容を引用してみよう。 「どうにも我慢のならないことが持ち上がりました。それは会を支えてきた私どもの純粋な活動が、発足当初から会を実質的に運営してきた山崎正友(元創価学会顧問弁護士)の金もうけに利用されてきたことです。私どもの会が発行してきたビラは、山崎にとっては個人の金もうけのタネにすぎなかったのです」  実際に会を切り回してきたのは、代表世話人の内藤ではない。山崎だというのである。しかもその山崎は、くだんのビラで金もうけをしていた。それも「絶縁宣言」によれば、億単位の金を懐にしていたというのである。その金もうけのカラクリは、たとえば以下のようなものであったという。  「通常、会の口座に振り込まれてくるビラの代金が、こと自民党の場合に限っては、現在、自治大臣をされている白川勝彦党総務局長(当時)から山崎が直接、現金でもらってきていたことです。つまり山崎が白川代議士から受け取った何億円にものぼる金の額が本当はいくらなのか、山崎以外の誰も知らないし、そこから山崎がいくら抜こうが、誰にも分からない仕組みになっていたのです」  誰にも教えず、誰にも知らせず、ひそかに自民党サイドからの金を抜き取っていたとは――憤懣やるかたないのは、この「有志」だけではなかろう。 とばっちりを受けた内藤国夫  そもそも「民主政治を考える会」は、そのビラの狙いと配布時期に照らして、政治資金規正法による「政治団体」であることは明らかである。そして「政治団体」は、その届け出を当局に行う以前は、寄付を受けたり、または支出をすることは禁じられているのである。  ところがこの「民主政治を考える会」は、政治団体としての届け出をしていない。届け出をしていないにもかかわらず、一億枚にものぼるというビラを作り、配布し、そのために金銭の支出をしていたのである。これは、明らかに政治資金規正法に違反する行為なのである。  そこで平成八年九月、同会の代表世話人であり、その名前がビラにも顔写真つきで掲載されている内藤国夫が、新進党・西岡武夫幹事長(当時)から告発されるという事態を迎えることになった。その内藤について、「絶縁宣言」は内情を暴露している。  「現に会の代表である内藤氏も私どもと同じような疑問を持ち、山崎に強い不信感をもっています。それも当然でしょう。代表として発行物に責任を負い、そのために新進党からの告発の矢面に立だされているのは内藤氏です。そのウラで山崎が会の財政を牛耳り、一人で『いい目』を見ているとなれば、怒るのが当たり前です。そもそも内藤氏は会の代表とは名ばかりで、会の財政については帳簿も見せてもらえないくらいノータッチなのです」  ここまで読めば同会の有志ならずとも、内藤に同情を禁じ得ないところだろう。事実、この問題を契機に内藤は、二十年来のつき合いであり、かつては監獄入りの”壮行会”で、「俺は、一度体験入獄したいと思っているんだ。一ヵ月位、かわってやっても良いぞ」(山崎著『平成獄中見聞録』)などと「激励」していたほどの仲である山崎と快を分かつにいたる。 内藤「山友に担がれ、利用された」  ここに山崎と内藤と関わりを持つある人物が「民主政治を考える会」の問題に関して内藤に聞いたという会話の内容がある。ここには「最大の被害者」である内藤が、「民主政治を考える会」並びに山崎について語った発言の数々が盛られているので紹介しよう。  それによると、内藤は、自分が「民主政治を考える会」の代表となった経緯について、同会のチラシ作戦を考えついたのは山崎正友であり、当初、山崎が内藤の名前を無断で使ったチラシを配布したため、内藤が怒って山崎に「お前とはもう一生、仕事、一緒にしない。やりたきゃ、てめーでやれ、表に出れない、てめーの名前でやれ」などと文句を言い、山崎と大喧嘩になったという。その後、山崎が詫びを入れたため、内藤は代表に担がれることにしたものの、「俺は名義を貸しただけだ」と言って、盛んに「山友に担がれた、利用された」と言い立てていたという。  何とも生々しい発言だが、山崎にいいように「コケ」にされた内藤の怒りが伝わってくる内容ではないか。また「絶縁宣言」にも記されている、同会の会計をめぐる疑惑についても、内藤は、山崎が同会のチラシで何億円かの金を自民党からせしめ、その金を何人かで山分けしていたが、そのメンバーが現在喧嘩状態となっていること。また、内藤自身が、いくら山崎に渡したのかを白川自治大臣(当時)に追及したところ、そういうことを表にできないのが裏金だから、ということで答えなかったということ。更に内藤が、そのことで白川自治大臣を「大バカヤロー呼ばわりをした」と言い、また「山友とはもう、こりごりなんだから」とぼやいていたという。  ――これが、かりにも会の代表として、総計一億枚といわれるビラのすべてに自分の顔 写真とプロフィルを掲載されていた内藤の口から出たという内容なのである。 狙いは所詮、どこまでも金  名義を貸しただけの自分は新進党側に告発されるという「痛い目」にあい、裏で金もうけをしていた山崎には、何の「おとがめ」もない。  理不尽といえば、これほど理不尽なこともあるまい。内藤ならずとも、怒り心頭に発するのが当然であろう。  他人を代表に担いで全責任を押しつけながら、自分は裏で糸を引き、しかも思う存分、甘い汁を吸っていた。要するに山崎の狙いは、所詮、どこまでも、「金」なのだということが、よく理解できるだろう。自分の金もうけのためには、長年の仲間だろうが何だろうが、利用するだけ利用する。山崎という男の正体を暴いてあまりある話である。 宗教法人法改変問題で踊る  平成七年十二月に衆参両議院で可決成立した宗教法人法”改正”は、「信教の自由」という国民の基本的人権を脅かす暴挙として長く記憶にとどめられるべきであろう。しかも「信教の自由」の侵害というばかりではない。見逃してはならないことは、この宗教法人法が、その翌年に行われた選挙対策という、いわば「政争の具」として弄ばれた結果、 変されたという事実である。  宗教法人法という、一般庶民からみればその条文、いな、その存在すらあまり知られていなかったであろう法律に、政治家たちが、にわかに色めき立ったのには、それなりの理由がある。  そもそも法律の改変は国権の最高機関たる国会の専権事項である。極端な話、世論の動向かどうあれ、煮て食おうが焼いて食おうが議員センセイ方の胸三寸である。そして、己一人の醜い野心のために、政治家たちを裏で操り、いわば法人法改変の狂言回しの役を務めた男の邪心を、私たちは断じて許すべきではないだろう。  日本国民にとって、人権の砦の一つである宗教法人法改変の舞台裏で踊った男――山崎 正友である。 民主政治研究会で「入れ知恵」  時は宗教法人法改変からさかのぼること二年の平成五年十一月二十六日。ところは、千代田区永田町の自由民主党本部。先にも述べた民主政治研究会の席である。  ここで山崎は、創価学会と公明党の、いわゆる「政教一致」問題について一席ぶったのち、こう言い立てた。  「学会が信教の自由を受けるべき対象であるかどうか、厳正に考えていただきたい」  言うまでもなく国民の「信教の自由」は、日本国憲法が保障している。まさか憲法に手をつけるわけには、そうそういかない。ではどうするか。「信教の自由」を実質的に保障している法律――宗教法人法を何とかできないものか……二年後に実現する改変への道すじは、まさにこの時点につけられたといえよう。  「そうか、その手があったか」――おそらく居並ぶ政治家たちの中には、そう脳裏に浮 かべた者も多かったのではあるまいか。 オウム対策に名をかりた宗教弾圧  その後、自民党は与党の座に返り咲いた。とはいえ、学会を有力な支持団体とする最大野党・新進党の存在は、大きな脅威である。しかも平成七年七月に行われた参議院議員選挙の比例区の投票では、新進党が自民以下を大きく引き離して比較第一党に躍り出たのである。これが総選挙での投票結果であったなら――自民党政治家にとっては、背筋も凍る思いであったに違いない。自然、「何としても学会の封じ込めを」との思惑に、一段と拍車がかかった。そこに思わぬ”神風”が吹いた。オウム真理数の問題である。  この年の二月、目黒公証人役場の事務長・仮谷清志さん拉致事件。三月、地下鉄サリン事件。オウム真理教のしわざとされる犯罪が社会を恐怖のどん底に陥れた。さらに九月、失踪していた坂本堤弁護士一家の遺体が、新潟・富山・長野県の山中で発見されるや、宗教を危険視する世論はさらに高まった。改変を企てる政治家にとっては「この機を逃すな」という思いであったろう。  @カルト教団とは、実に恐ろしいA教団による犯罪の再発を防ぐべきだBゆえに宗教への監視を強化しなければならない――−こうして「オウム事件の再発防止」に名をかりた宗教法人法の改変劇がスタートする。もとよりオウム事件の再発防止とは、名ばかりである。  そもそも法人法は宗教団体を取り締まるための法律ではない。オウム事件が起こったのは法人法の不備からではなく、また当時、考えられていた改変案の内容では、再発防止など望むべくもないことは、多くの識者から指摘されていたばかりか、時の村山富市首相すら公言していたことである。  では、真の狙いは何か。それは、ある自民党の閣僚経験者が「(宗教法人)法改正は創価学会対策の色合いが濃くなってきた。オウム対策は二次的なものだ」「創価学会が困るような改正はできないか、これからも知恵を絞りたい」(平成七年八月二十日付『朝日新聞』)と語っていたとおりである。さらに亀井静香、島村宜伸代議士らも「改正の目的は学会対策」と認める発言を繰り返した。  こうした政治家たちが、くだんの「民主政治研究会」や、その時、学会攻撃を目標として設立された「憲法二十条を考える会」「四月会」などを通じて山崎と深い関わりをもっていたことは周知の事実である。  時を同じくして、オウム・バッシングに便乗した学会中傷記事が週刊誌、月刊誌にあふれる。そこに共通していたのは「学会はオウムに似ている。だから学会も悪だ」という論調であったが、これまたその書き手の多くは山崎と密接な関係にある反学会のライターばかり。山崎が宗教法人法をめぐる学会攻撃の「連環の輪」の要にいたことは明白である。 改変案の原型  さらに指摘しておきたいことは、宗教法人法改変の「下絵」が、既に昭和六十三年の時点で山崎の手によって描かれていたという事実である。  「大橋敏雄 決死の国会質問趣意書」――月刊『現代』昭和六十三年十月号に、大袈裟 なタイトルの記事が載った。もはや知る人も少なくなったので付言しておくが、この大橋敏雄とは当時、公明党から造反した衆議院議員である。趣意書の内容といえば、学会が宗教法人法に照らして違法な団体であるというものだが、実は、この趣意書を実際に書いたのが、大橋と手を組んだ山崎だったのである。  当時、山崎は学会への恐喝事件をめぐる裁判で控訴中の身。既に口を開けて待っている刑務所の扉から逃れたい一心の山崎は、さまざまな悪あがきを企てたが、この国会質問趣意書も、その一つであった。学会に反社会的団体のレッテルを貼ることで、逆に自分のイメージアップを狙い、あわよくば裁判を有利に運ぽうというわけである。  結局、山崎は「塀の中」に送られ、この趣意書も不発に終わったのだが、その内容は、のちに宗教法人法をめぐって学会を攻撃する政治家にとっては貴重な「教本」となったとされる。  たとえば趣意書には「学会の政治活動について」という項目がある。――学会は、日常 的に政治活動を行っている。全国にある会館も、ひんぱんに選挙活動に利用しているが、これは宗教団体の目的を逸脱していないか、といった内容である。  もとより宗教団体や、宗教団体に所属している個々人が政治活動を行うことは、何の問題もない。要するに「言いがかり」である。ところが、こうした「言いがかり」が、宗教法人法改変を推進する政治家に格好の「攻め□」を提供したのである。山崎が自身の恐喝事件逃れから編み出した「言いがかり」の数々が、七年の時を経て”活用”されたわけである。  ともあれ、改変推進派議員の動き。マスコミを通じた世論の操作――宗教法人法改変の 暴挙は、すべて山崎という一本の線で結ぶことができる。  「信教の自由」を侵し、ともすれば戦前と同様の宗教弾圧への扉を開きかねない暴挙に道を開いた山崎。だが、言うまでもなく、ことは単に学会ひとりに関わる問題ではない。国民全体の人権そのものに直結する重大問題なのである。己一人の野望のために、あろうことか国民の人権の砦までも蹂躙したこの男の罪は、限りなく重いといわざるを得まい。宗教法人法の改変劇を通じて山崎は、今や国民の敵そのものとなったのである。 自民党ばかりか共産党とも癒着  ここまで山崎正友による「政治ゴロ」の手口を見てきたが、そもそも「ゴロ」の意味を辞書で引くと「ごろつき」の略とある。そこでさらに岩波書店『広辞苑』で「ごろつき」の項目を引いてみると――「ごろ-つき 一定の住所も職業もなく、あちこちうろついた りして、おどしなどを働くならずもの」とある。山崎に、これといった定職はない。脅しにかけては、恐喝罪で懲役刑まで受けたプロ。まさに辞書にいうところの「ごろつき」そのものである。また『広辞苑』によれば、その行動パターンとして「あちこちうろついたり」することが特徴という。その意味で、以下に述べる山崎と日本共産党との癒着は、 「政治ゴロ」山崎の真骨頂ともいえよう。  自民党と結ぶ一方で、自民党と対極にあるはずのイデオロギー政党にもスリ寄っているというのだから、これ以上の「あちこちうろついたり」する例もあるまい。 逮捕逃れのための「最後の賭け」  山崎が表立って共産党に近づいたのは昭和五十五年当時のことといわれる。学会から恐喝容疑で告訴され、さすがのペテン師も追い込まれていた。「逮捕」の二文字が山崎の脳裏をかけめぐったことだろう。  絶体絶命に陥った山崎は、さらにマスコミをたきつけることで反学会キャンペーンを一段とあおろうと図る。学会首脳に「マスコミからの集中砲火を静めるには、山崎の告訴を取り下げるしかない」と思わせるためである。だが、それには月刊誌や週刊誌だけでは足りない。どこかに反学会で手を組める相手はないものか  そう思案した山崎は、最後の大きな賭けに出る。共産党の機関紙『赤旗』を反学会の包囲網に取り込もうとしたのである。  もとより、かつて自分が独断で、時の委員長邸に盗聴工作を仕掛けた相手である。一歩間違えれば裁判沙汰となり、自分の身も危うい。だが、これこそ「背に腹は代えられない」というものであろう。かりにも弁護士、自分が働いた恐喝の犯罪性は、十分に承知している。学会の告訴が受理されれば、勝ち目はない。ためらっている時間はなかった。  学会側の告訴の直後、山崎は動いた。 『赤旗』記者と接触  昭和五十五年六月十五日――東京・九段のフェヤーモントホテルの一室。山崎は『赤旗』の記者と密かに会った。  『赤旗』側としても、宮本邸盗聴事件を「学会の犯罪」と告発するキャンペーンを仕掛けようとしていた矢先のことである。「渡りに船」の話だったにちがいない。  密談は、宮本邸盗聴事件に関して、山崎が記者の質問に答えるかたちで進められた。  ここで山崎は、自分が独断で画策した盗聴工作を脚色し、学会の組織的犯行として語った。とはいえ、もともとが、まったくデタラメな話である。細かいところを突かれると、矛盾したり、つじつまの合わないところが出てくるのは、やむを得ない。盗聴に関わった人数や、工作資金の出所など、肝心な事項についても、あやふやな答えが多かったが、ちょうど衆参ダブル選挙を目前に、やはり共産党も焦っていたのだろう。『赤旗』は裏づけ調査もせず、山崎のウソを鵜呑みにするかたちで、紙面にしてしまったのである。  これがきっかけとなり、衆参ダブル選挙後も『赤旗』は、『黒い鶴の犯罪』と題した学会批判の記事を連載するにいたる。山崎にしてみれば、まさしく「思う壷」であった。  しかし、この山崎の「内部告発」なるもの、考えてみれば奇妙な話である。盗聴事 件の加害者が、被害者側に対して真相――実際には山崎が勝手に脚色したウソだが――を告白するというのだが、これはたとえていえばドロボウが、ある家に盗みに入ったとする。そのドロボウが今度はその家を玄関から訪れて、「私はあの窓から忍び込み、そこのダンスから金目の物を抜きました」などとしゃべっているようなものなのである。  そんな話を鵜呑みにはできまい。共産党は、その背後に明らかに何らか意図があるこ とを感じ取らねばならなかった。  だが共産党が、その意図を見抜くことはなかった。いな、はじめから山崎の意図を十分に理解した上で乗っかったのか―― 意図見え見えの演出も  この『赤旗』記者との密談について、もう一つ注目すべき事実を挙げれば、実はこれ以前にも山崎は密かに『赤旗』の記者と接触していた。両者の仲介役となったのは、ブラックジャーナリストの段勲。ご存じ、山崎と「ツーカー」の反学会ライターの一人である。 学会に告訴された直後のことだが、都内某ホテルのロビーの一角に、山崎と段が座っていた。そして、そのすぐ隣のボックスに、段の指示で『赤旗』記者が座った。その席で段に宮本邸盗聴事件の顛末を話す山崎。その話に隣で耳をそばだてる『赤旗』記者--何と も奇妙な光景というほかはなかった。  三人とも合意の上で、くだんのホテルに来たのにもかかわらず、山崎は、あくまで偶然に『赤旗』記者が隣り合わせたという場面を演出したのである。  なぜ、こんな芝居をうったのか。のちのフェヤーモントホテルでの会談のリハーサルだったという見方もある。また、精一杯、もったいをつけることで、この問題を共産党に高く売りつけることを狙った山崎のサル芝居だと見る向きもある。 共産党議員秘書の証言  その後、山崎と共産党サイドの関係は、水面下で続いていくのだが、そうした動きを知る格好の例証として、宗教法人法改変をめぐる両者の接触について触れてみたい。ここで登場するのが、先の「信平問題」でのくだりでも紹介した、共産党・橋本敦参議院議員の秘書・兵本達吉氏の発言である。  宗教法人法改変をめぐる参議院宗教法人特別委員会における秋谷会長の参考人招致は、他党のみならず、共産党にとっても、学会にダメージを与える絶好のチャンスだったといってよい。  そこでの橋本議員の質問を準備するため、兵本秘書は「創価学会による被害者の会」なる団体を訪ねたという。  同会は元学会員や元公明党議員などの造反者らが結成したもの。機関紙『自由の砦』を発行しているが、反学会の野合団体「四月会」の動きを大きく報道するなど、宗教法人法改変の問題についても大きく肩入れしてきた団体である。  何しろ、学会を攻撃することを目的として設立された団体である。その口から出てくることは、学会への逆恨み、怨念ばかりであろうことは、容易に察しがっくはず。そもそもある団体について公正な認識を得ようと思うなら、その団体を脱会ないし除名された人間の話など聞くものではないことは、いわば最低レベルの鉄則である。  そんな人間のところに、「真実を伝える政党」の看板を掲げる共産党の議員秘書が出入りすること自体、いかがなものかと思うが、それはさておこう。肝心なことは、この兵本秘書が、同団体を通じて山崎と出会ったといっていることである。同秘書は、山崎との出会いについて、こう語っていたという。  「『赤旗』の記者が創価学会の取材をしている時に『自由の砦』という所に出入りしていた。そこでいろいろ話しているうちに、山崎正友の話になった。聞いてみると山崎正友は、自分と京都大学の同級生だということが分かった。そのうちに山崎の方から電話がかかってきた」  大なり小なり学会をマークしている勢力からみれば、山崎といえば、少しは知られたカオであろう。しかも大学時代の同級生とくれば、かねてから注目していて当たり前。そうした事情からすれば「同級生だということが分かった」などという兵本秘書の話自体も、にわかには信じがたい話だが、ともあれ同秘書は、やがて山崎と「再会」を果たしたのだという。  再会した時の同秘書の印象は「暗くなっている。顔の表情も、日陰者のようになっている。最初に会ったときはびっくりした。別人かと思った」というもの。  今日からは想像すらできないが、京大時代の山崎は、すがすがしい真面目な学生という印象だったという。 ともに忘年会で酌み交わす仲  その後、山崎と同秘書のつきあいは、次第に親密の度を加えていったという。兵本秘書の述懐。  「山崎が来るようになって、いろいろな人間が共産党に出入りするようになった」  いろんな人とは誰か。同秘書によれば、まず信平信子・醇浩の夫婦。反学会ライターの乙骨正生。『週刊文春』記者の山田。『週刊新潮』記者の門脇。さらに原島嵩、日蓮正宗の関係者などだという。それらの輩について同秘書は、  「お互いにファクスで連絡し合っている。だから学会の内情も正確に知っている。中心的な人物は、やはり山崎。リーダーは山崎正友だ」  ここで兵本秘書は、何か他人事のように言っているが、何のことはない。共産党の側もまた、そうした「お互いにファクスで連絡しあっている」仲間うちの一人であることを認めているようなものである。  現に同秘書の口からは、前述のとおり、年末にはこうした反学会の輩とともに、山崎を囲んでの忘年会に出席していたという事実も明らかになっているのである。  こうした兵本秘書の発言に端的に現れているように、共産党が対学会工作の上で山崎と結び、山崎と意を通じながら動いていることは明らかであろう。事実、ここに紹介した兵本秘書の発言は、同秘書が他党の秘書仲間に話した内容だというが、そもそも兵本秘書が、そうした話し合いの席に出て、こんな話をしていたということ自体、実は山崎と示し合わせた上での動きではないかという見方もある。  要するに、山崎と意を通じた上で、とぼけた顔で山崎について語り、山崎に関する周囲の情報収集に努めていたのではないか、というのである。  ことの真偽はともかく、そうした疑惑がもたれるほど共産党と山崎の仲は親密なのである。  それにしても、一方では自分たちと政治的な信条をまったく異にする政治勢力と結んでいる山崎のような手合いと癒着する――それは結果として、日頃からあれほど攻撃してや まない「体制側」と山崎を介して間接的に手を結んでいるということになりはしまいか。さしずめ「敵の敵は味方」というわけかも知れないが、これでは「半世紀をこえる反体制」の党の歴史が泣こうというものである。 第4章 宗教ゴロ 身延派日蓮宗との野合を画策  「マスコミ・ゴロ」「政治ゴロ」である山崎正友はまた、希代の「宗教ゴロ」としても悪名を馳せる。  その山崎が近年、手を染めてきたのが、日蓮正宗と身延派日蓮宗との野合である。  先ごろ日蓮宗が開設しているインターネットのホームページに、ある記事が載った。内容は平成九年九月十六日、身延山大学で行われた布教研究会主催の研修会に関するもの。ここには、こんな文章が記されていた。  「宗教評論家・ジャーナリストの山崎正友先生の講演が行われました」「夜は懇親会が行われ、ありかたいことに私達もお招きに預かり」云々。  ここに報じられているとおり、山崎は日蓮宗の総本山久遠寺まで、わざわざ出向いて講演を行い、夜は夜で近くの下部温泉に一泊し、日蓮宗の僧侶と一席設けて「懇親」していたというのである。  ホームページには、ご丁寧にも山崎が日蓮宗の僧侶を前にして講演をしている様子ま写真入りで紹介されていた。この男が、何の目的で日蓮宗と、ここまで深い関わりをもっているのか。また、そのために、どんなルートを使ったのだろうか。 教義的には「不倶戴天の敵」の両派  そもそも日蓮正宗と日蓮宗は、教義の上から見れば、いわば「不倶戴天の敵」ともいうべき間柄である。  日蓮滅後、身延山は「六老僧」といわれる高弟のうち日興が一山の貫首として住持し、他の五老僧は身延を去った。日興は、日蓮の墓所を輪番で守るべき制度を他の老僧と取り決めたが、やがて五老僧は身延山に寄りつかなくなってしまう。後に五老僧の一人である日向が登山して来たことから、日興はこれを重く用いようとしたが、やがて日向は日興の意に反して、日蓮が厳しく戒めた「謗法」に手を染め始める。日興は繰り返し日向を戒めるが、その甲斐なく、しかも地頭の波木井実長までもが日向に肩入れし始めたため、ついに身延を離山することを決意。そして、富士のふもと大石ケ原に一寺を構えたのである。  その身延・日向の流派が、後に日蓮宗となる。日興が建立した大石寺の流派から見れば、教義的に決して相いれないはずの宗派なのである。  ところが、その両派が急速に接近しはじめたという。とりわけ「謗法厳誡」が宗是のはずの日蓮正宗の信者から見れば、まさに「野合」と表現するほかはないほど、驚天動地の出来事なのである。 日蓮宗管長が大石寺を参詣  平成七年六月六日、「池上鶴林会」なる団体が大石寺を参詣した。この団体は、日蓮宗大本山の一つである池上本門寺の僧侶グループで、一行の中には当時、この直後に日蓮宗管長に就任した池上本門寺・田中日淳貫首の顔も見えた。  この時、大石寺側では、能化と呼ばれる高僧の高野日海らが、わざわざ袈裟衣の正装で一行を歓迎。境内を案内した上、大石寺の“迎賓館”ともいわれる蓮葉庵で接待するという、手厚いもてなしぶりだったのである。  こうした「手引き」を、いったい誰が行ったのか。ここで注目すべきことは、この同じ日に山崎も大石寺を訪れ、管長・阿部日顕と密談していたという事実である。  この密談については山崎自身が、直後の六月二十四日、高知で行われた国際正法協会なる宗教団体の講演会で、「六月六日に御法主上人(阿部日顕のこと)にお目通りし、懇ろに懇談した。今後の事も種々語り合った」と語っているとおりである。  身延派管長の大石寺への参詣。その同じ日の山崎による大石寺訪問。この二つの出来事が、まったくの偶然であったとは、到底、考えられまい。 日蓮宗僧侶の証言  日蓮宗と大石寺の野合の仕掛け人は山崎――ここに日蓮宗の有力僧侶の証言がある。  その僧とは佐藤順映氏。平成六年十一月五日に総勢八人で大石寺を訪れ、その時の模様を「大石寺研修参拝記」として、日蓮宗の機関誌『現代仏教』に掲載した、久遠寺の塔中の一つ、志摩坊の住職である。  同「参拝記」によれば、この時の大石寺参詣は「内事部の理事から応諾の電話を頂戴」して実現――つまり、大石寺から正式な許可を得たものであり、後日、案内をした日蓮正宗僧侶から、「皆様の暖かなお心に触れ、外はめっきり寒くなっていたにも拘わらず、暖かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝しております」云々という礼状まで届いたという。  さらに佐藤氏は先に挙げた、平成七年の田中管長の大石寺詣でについても、「あれは私か先鞭をつけた。あの頃は(田中氏が)池上本門寺の貫首だから行けたが、今の日蓮宗管長の立場では行けない。いい時に行けたし、大石寺にとってもインパクトがあ ったと思う。あれで端緒が開けた」などと語っている。いわば佐藤氏は、日蓮正宗との交渉で日蓮宗側の窓目的役割を果たしてきた人物なのである。  ところが最近、その佐藤氏の口から、次のような事実が明らかにされたのである。  「大石寺の小川さん(大石寺理事の小川只道)から、山崎正友さんのことを『あの方は日顕猊下にいつでも会える、猊下直の人です』と紹介された。(山崎とは)年に四、五回は会っている」  「猊下直の人です」「年に四、五回は会っている」。要するに、大石寺側との交渉にあたってのキーパーソンは山崎だというのである。 そこここで動き回る山崎  現に山崎は、佐藤順映氏らが大石寺を訪れた直後の平成六年十一月二十四日、日蓮宗山梨連合布教会主催の講演会に出席し、「日蓮門下の集まりに初めて参加させていただき光栄に思っております」等と発言。  また十二月六日には、東京都新宿区にある日蓮宗常圓寺で聞かれた同宗の京浜教区教化研究会議に顔を出し、「日蓮宗の皆さんに期待したいことは、教義の上で創価学会が主張していることに対して論争を提起して欲しいということです。日蓮正宗そのものとの論争になってしまうかもしれませんが過去をきちんと総括して進むべきではないでしょうか」などと講演。  さらに翌年二月二十四日には日蓮宗僧侶の招きで、長野県の飯田仏教会でも講演している。  一方、こうした山崎の動きと符合するかのように、大石寺側と日蓮宗との交流は深まっていった。平成六年に入って大石寺側の憎が続々と日蓮宗寺院を参拝し始める一方で、日蓮宗の僧侶が大石寺を参拝している。平成七年八月には、大石寺の信徒の代表とも言うべき法華講連合会全国委員長の柳沢喜惣次が身延に詣でている。  こうした事実の経過に照らせば、山崎が両派の野合の旗振り役を務めてきたことは明白であろう。  そもそも佐藤氏が、「日蓮門下は大石寺も含め、大同団結すべきである」ことを持論にしてきたことは、日蓮宗では有名な話。平成四年三月三十一日付の「布教師会報」には、山梨県第一部布教師会長として、次のような提言もしている。  「(創価学会を“破門”して)苦境に立たされている日蓮正宗に対し、大所高所から門下連合会に入会を呼びかけてはどうだろう」「本山参拝部主任在任中、立正大学の大石寺関係学生数十名が二回に分けて身延山に詣で、御開扉を受け、平穏裡に下山して行った事実を認識しており、その真意はどうあれ何等かのシグナルとして捉えるのが妥当であり、お題目教団の総帥としての宗門要職者の慧眼を渇望して止まない次第である」  こうした持論を展開してきた佐藤氏と山崎とのつき合いは、本当に佐藤氏が先に述べているような浅い年月なのか。それどころか、佐藤氏が日蓮宗の中で、こうした持論を開陳するにあたって、あるいは山崎との談合の上で進められていたのではないだろうか。  山崎と日蓮宗を結ぶ線上にある人物としては、このほか中島光民なる日蓮宗僧の暗躍などが浮かんでいるが、紙数の関係上、ここでは触れない。  いずれにせよ山崎が、日蓮宗と大石寺の野合問題について、極めて早い時期から深く関わっていたことは、疑いをいれまい。 野合画策の「動機」  さて問題は、山崎が両派の野合を画策するにいたった動機であり、思惑である。この点については、山崎による阿部日顕宛「謀略書簡」の次のような記述にも明らかである。  「他宗にも(創価学会攻撃の、著者注)行動をおこさせるべく、根まわし工作中です」 そもそも山崎が学会を攻撃するために、従来から各宗教団体を結んでの包囲網を敷くべきであると主張してきたことは、よく知られている。学会攻撃のためには、その謀略に参加する教団は、多ければ多いほどよい。しかも、その包囲網を裏で切り盛りすることで、自分には経済面をはじめとして、十分な見返りが期待できる。いわば「甘い汁」が吸える。要するに、もっともらしい大義名分を掲げて、人を煽るだけ煽り、その陰で自分はコッソリ金もうけしたいのである。  その思惑が具体化されたものが、今回の野合話であり、後に述べるような国際正法協会へのスリ寄り等であることは明らかであろう。ともかく自分の得にならないことには手を出さない。それが山崎の行動規範であり、山崎という男そのものであるからだ。それにしても案じられるのは、ペテン師の口車に乗せられた側の今後であろう。学会を”破門”したものの、一介の弱小教団に転落し、宗教界での孤立化を恐れる日蓮正宗側か、この山崎の画策に一も二もなく乗ったのは当然といえば当然である。  だが日蓮宗の側には、「門下連合に日蓮正宗を加えて、日蓮宗の傘下におく」ということ以外、これといったメリットはないはず。むしろ、一歩間違えれば、学会を敵に回すというリスクを背負わねばならない。昭和三十年、学会との教義論争で完膚なきまでに破折され、宗内の大きな動揺を引き起こした「小樽法論」の記憶は、いまだに生々しいはずである。  そうしたリスクを冒してまでも、山崎というペテン師の口車に振り回されるだけの意味があるのかどうか。老婆心ながら、忠告を試みたいところではある。 「国際正法協会」へのスリ寄り  さて、近年、山崎が「ゴロ」を仕掛けてきた宗教団体の一つに、「国際正法協会」なる教団がある。  園頭広周(本名・園頭勇)が会長を務める同教団は、全国で二千人ほどの会員を有する「宗教法人格を持だない宗教団体」である。もともと高橋信次が創設した宗教法人「GLA(ゴッド・ライト・アソシェーション)」から、昭和五十三年に「正法会」として分派・独立した教団で、かつては九州に本部を構えていたが、昭和六十二年に本部を東京都台東区に移し、「国際正法協会」と改称している。  その「教え」は「智慧と慈悲を持つ一大生命子不ルギーの根源である『大宇宙大神霊』がっくった永遠不変にして普遍的な道である正法を説き、その真理に発した道徳を教えるというもの。特定の本尊、教義を設けずに、「神がつくられた永遠不変にして普遍的な道に生きることを説く」という。  平成人年春に脳溢血で倒れ、現在も病床にある園頭は、大正七年、鹿児島市生まれ。軍隊生活を経て、戦後、宗教活動に入った。その原点は昭和十五年、中国・湖北省で「宇宙即我」を体験したことにある、という。その後、「生長の家」の本部講師となり、「時局対策宗教者会議」事務局長として、創価学会攻撃に取り組んできた。しかし、生長の家総裁の谷口雅春(当時)が学会攻撃路線を修正したことから意見が対立。昭和四十七年に、霊示によって陰陽霊法を行うトゥルース教団に移るかたちで袂をわかつ。後に高橋の著作に触れてGLAに入会。ここで西日本本部長などを歴任する。  やがて高橋の死後、教団が分裂するなかで高橋を「釈尊の生まれ変わり」とするとともに、自らを「釈尊の一番弟子であった舎利弗」「高橋先生の教えの最も忠実な伝道者」と位置づけて独立し、現在にいたっている。 山崎との接点  山崎は、この教団の「顧問」であり、これまでも教団の講演会にしばしば登壇しては学会攻撃を煽ってきたが、そもそも山崎と園頭は、どのようにして接近したのだろうか。  この二人が初めて会ったのは平成五年――山崎が刑務所から出てきた年の十二月六日。内藤国夫が山崎に「こういう人がいるから一度、会ってみないか」と勧めたことによるという。園頭自身、もともと反学会運動を展開してきた男である。園頭が事務局長を務めていた「時局対策宗教者会議」自体、「日本宗教センター」や「日本を守る会」、「生長の家政治連合」などとともに、昭和四十年代初頭から特定の政治勢力の意図を背景に、学会の囲い込み・封じ込めを画策してきた団体である。園頭は、いわば学会攻撃にかけてはキャリア二十数年のベテランといってよい。伝えられるところによれば園頭は、山崎と出会う以前から反学会で知られる自民党の島村宜伸代議士とも連携を取っていたという。  そうした園頭にしてみれば、元弁護士であり、学会の内情に詳しいという触れ込みの山崎を引き入れるということは、まさに「渡りに船」というところだったのだろう。そのはしゃぎぶりは同教団の機関誌『正法』(平成六年四月号)からも、うかがえる。  「私はいつかは創価学会撲滅運動をやろうと雌伏してきた。昨年(平成五年)十一月三日正法協会設立十五周年記念大会の成功を見て、『よし、時機が来た』と思い、十二月六日、内藤国夫氏と山崎正友氏を招いて話合った」  一方、日顕宛て「謀略書簡」の中で「全日仏、新宗連、キリスト者同盟等々の他宗にも行動をおこさせるべく、根まわし工作中です」と記していた山崎である。学会攻撃に参加する教団――自分の金もうけのための手持ちのカードは、多ければ多いほどよい。園頭との初会談の席で山崎は、即座に「私もできることがあればやらしてください」と膝を乗り出したという。  学会攻撃の時期を狙って「雌伏してきた」教祖と、宗教ゴロ。たちまち両者の思惑は一致した。 機関紙の主幹として、ひともうけ その後、山崎は全国各地を回っては同教団の講演会に参加。盛んに学会攻撃を煽りはじめるが、もとより「スポンサー」である園頭に対するケアも忘れない。機会をとらえては歯の浮くようなお世辞を繰り返してきた。  平成七年四月、愛知で講演した山崎は、この月に創刊された同教団の機関紙『国民正法新聞』が、「園頭」とすべき箇所を「国頭」と誤植したことについて触れた。教団の機関紙が教祖の名前を間違えるというのも間の抜けた話だが、山崎は、「国頭と間違えたことに意味がある。三十年たてば、園頭が日本の国の頭になっていると、神様が先に予言されているんじゃないか」等という強引なこじつけでリップ・サービスにこれつとめていたのである。さらに山崎は「園頭先生は師匠で私は弟子」(平成七年六月)などと園頭礼讃を連発。  また、自分が平成六年四月に腎臓病が悪化して入院した際、園頭に入院のため講演会をキャンセルする旨、ファクスで申し入れた。その後、園頭が病院に山崎を見舞って、「釈尊の秘法」なる光を入れたという。このことについても山崎は「(透析の必要がなくなったのは)園頭の秘法のおかげ」と語り、園頭も「南無妙法蓮華経といくら題目を上げても治らなかったのが、私か“光”をいれることによって元気になられ」などと自慢気に語っていたのである。  だが、学会攻撃に共に手を携えるというばかりではない。山崎が、ここまで徹底して園頭を持ち上げるには、それ相応の理由があったはずである。  というのも実は山崎は、前出の『国民正法新聞』の「主幹」という地位を、園頭から手に入れていたのである。当然、そこから何がしかの報酬を得ていたと考えられる。事実、山崎に対して、『国民正法新聞』から主幹報酬として数百万円か振り込まれていたという情報がある。さらに講演会の講師として地方に出向く際にも、「講演料」などの名目で報酬が渡っていたことだろう。  ここで確認しておかなければならないことは、山崎という男は、一円のもうけにもならないことに手を染めるほど、殊勝な心の持ち主ではないということである。山崎の動きは、その一挙手一役足にいたるまで、すべてソロバンずくであり、金もうけに結びついていると考えた方がよい。  学会攻撃のエキスパートとして自分の存在を売り込むとともに、容易に金を引っ張ることができる――その意味で国際正法協会とは、山崎にとって、いわば格好の「エサ場」だったのである。 カメレオン顔負けのお世辞をふりまく山崎  園頭を「師匠」と仰ごうが、自分の病気が治ったのは「園頭の秘法のおかげ」とありがたがろうが、山崎の勝手だが、そもそも山崎は日蓮正宗の信者ではなかったか。  現に山崎は平成六年三月発刊の著書『懺悔の告発』で「私の日蓮正宗への信仰は不変」と綴っており、同年十二月には正式に宗門に復帰している。また日顕をはじめ総監の藤本日潤とも大石寺内で密会している。そして翌七年二月には、宗門の機関紙「慧妙」に、 「私が”御相承“を拝信するに至るまで」に始まる連続四回の寄稿を行い、かつてはその身分詐称疑惑について口を極めて攻撃したはずの日顕に露骨にスリ寄るとともに、日蓮正宗の信者であることを内外に宣言していた。  その舌の根も渇かぬうちに、「園頭先生は私の師匠」発言である。また国際正法協会ばかりか、この間、全日仏の教化セミナーをはじめ、日蓮宗山梨連合布教会や飯田仏教会など、各宗派の会合に出席。それぞれの場で、それぞれの宗派に調子を合わせては、カメレオンも顔負けのお世辞をふりまいていた。さらに日蓮宗の会合では、宗門の信仰の根本である大御本尊についても「偽作論を掘り下げろ」とアジる始末であった。  元来、「謗法厳誡」を宗是とする宗門にあっては、「園頭先生は私の師匠」とまで言い出した山崎の言動は、まさに大謗法にあたるはず。日顕以下が、どうしてこんな山崎を野放しにしているのか。また山崎が所属する法華講にしてみれば、こんな男が宗門にいること自体、自分たちも「誇法」の罪に陥りはしないのだろうか。思えば不思議な話である。 ともあれ、こうした言動の数々に見るように、信仰上の節操など求めるべくもないのが山崎なのである。何を拝もうが、神だろうが仏だろうが知ったことではない。自分を受け入れてくれ、金が稼げるところであれば、どこへでも潜り込む。まさに「宗教ゴロ」の面目躍如であろう。 山崎は「疫病神」  その後、国際正法協会は、山崎との関わりの中で、山崎が実質的な仕掛け人である「四月会」や「民主政治を考える会」などの動きと連動しつつ、学会攻撃のお先棒を担ぐことになる。  しかしながら、山崎と結託したところは、どうしたわけか次第に悲惨な運命をたどるという「定説」がある。いみじくも、かつて山崎の盟友であった、ある僧侶が山崎について、こう述べている。「山崎という人物は七並べのジョーカーと同じで、使うにはちょうどいいが、一番最後まで持っていたら負けだ」  この男を抱え込んだが最後、とんでもない「疫病神」になるというのである。  山崎に「秘法」をほどこし、山崎を救ってやったという園頭も、その例外ではないらしい。山崎と園頭を結びつけた内藤国夫が語ったところによれば、脳溢血で倒れた園頭は、その後遺症のために目は限られた角度しか見えなくなり、口もきけず、身体を自由に動かすこともできなくなっているという。そして病床に臥したまま、かろうじて動く左手で「イエス」か「ノー」かを伝えることができるだけだというのである。  また教団そのものも、教祖が倒れたために、園頭の家族と教団ナンバー2の女性本部講師・北村弥枝との間で内紛が起こり、事実上、北村が教団を乗っ取った状態にあるという。しかもその結果、人事や指導面などの教団の運営方針がそれ以前と百八十度変わったために、教団は四分五裂。以前の勢いも、昔日のものとなってしまったと聞く。  しかも、園頭は、そうした一連の出来事を十分に理解しているのである。理解はしているのだが、悲しいかな、それを伝えるすべがない。園頭にしてみれば、自分が一代で作って育てた教団の滅亡を眼前にすることは、あるいは死ぬより辛いことかも知れない。その絶望的な様子は、内藤をして「これは、もう一種の地獄だ」と言わしめるほど。もとより学会攻撃に血道を上げる余裕など、あるはずもない。  「山崎は疫病神」説の証明に、また一つ、確かな例証が加わった――結局、山崎と国際正法協会の癒着は、そう結論できるのかも知れない。 日顕宛「謀略書簡」に見る「坊主たらし」のテクニック  平成七年一月七日付の『中外日報』に、山崎が阿部日顕に送った自筆の「謀略書簡」がスクープされた。  これまで確認されているものだけで五通(いずれも本書巻末に資料として紹介)。山崎が仮出所した平成五年四月二十七日の直後から、日顕に送られたものと思われる。その内容については本書でも随所に引用しているが、ここには「宗教ゴロ」山崎の手練手管が、あますところなく示されている。  ある時はおだて、またある時は脅しながら、日顕をたらしこんでいく、あの手この手のペテンの手ロ――山崎という男の正体を知る意味で、ここで分析を加えてみたい。 百八十度の豹変ぶり 書簡の中で山崎はまず、美辞麗句の限りを尽くして日顕を持ち上げる。  「御法主上人が、一段と高いお立場に立たれ、より多くの人達を救済せられようと念願しておられる御心がわかるような気がしております」「御法上人(ママ)猊下の御慈悲により、富士の清流がたもたれたことを、後世の僧俗方は、感謝されることでありましょう」「御法主上人の御苦労、御心労は、さぞかし大変なものであったことと、心よりお察し申し上げます」「人格高潔な方ほど、苦痛を味わ(ママ)されるものです」  日顕の人となりを知る者からすれば、あるいは「ホメ殺し」かと見まがうようなセリフだが、かつて山崎が日顕について、どう評していたか。  日顕が法主に登座した直後の昭和五十五・六年にさかのぼると次のようになる(いずれも『週刊文春』山崎手記から)。  「『唯物論者』阿部教学部長」「カネで解決しようというのが、阿部教学部長」「日蓮正宗の僧侶というより、まさにマルクス・レーニン主義、唯物論の信奉者のような考え方」「宗内で一、二を争う遊とう児」「独裁者ぶりを発揮して、『宗門に民主主義は不要』とうそぶいている」「まことに信仰心のうすい、功利主義の権化」「およそ法主にふさわしくない野心家であり、乱れた生活」「日顕の私生活はゼニゲバであり、遊興以外の何ものでもない」  とても同じ人間の言葉とは思えぬ内容である。人格破綻の「遊とう児」で「独裁者」の「ゼニゲバ」から「人格高潔な方」へ。この十数年の間に日顕のどこがどう変わったというのだろうか。変わるわけがない。日顕は、かつて山崎が言ったとおり、昔も今も一貫して「遊とう児」で「独裁者」の「ゼニゲバ」である。百八十度の豹変を遂げたのは山崎の方である。  山崎は日顕の本性など見透かした上で、白々しくゴマをすっているだけなのである。 「おだて」と「脅し」で揺さぶる  さて、書簡の内容を整理すると、大要、以下の六点となろう。  @日達前管長から日顕への「相承」について、自分はかつて疑義を挟んでいたが、今は信じている。ただ、この問題に関する当時の資料は自分が保管している。  A日顕の女性スキャンダルをめぐる「シアトル事件」について、自分はいくらでも協力する用意がある。  B自分は創価学会に揺さぶりをかけるための工作を各方面で行っており、その工作は次第に効を奏しつつある。  C自分はマスコミに太いパイプを持っており、裏事情も熟知している。ゆえにマスコミを学会攻撃に駆り立てることもできる。  D宗門の中枢は無能である。また、学会退転者の福島源次郎や竜年光も無能である。本気で学会を攻撃しようとするならば、自分を使う以外にない。  E宗門と反日顕の僧侶グループ正信会は、いまだ対立関係にあるが、脈はある。秘密裏に和解工作を進めるべきである。  ――この手紙を通読して分かることは、山崎が「おだて」と「脅し」、「アメ」と「ムチ」の硬軟両様を使い分けて、自分を売り込んでいることである。  山崎は、日顕を歯の浮くようなセリフでおだてるだけではない。その一方で、たとえば日顕の「相承疑惑」を脅しの道具として巧みに利用している。  相承疑惑とは、日顕には実は前管長からの「相承」がなく、正統な法主とは呼べないというもの。昭和五十四年七月、日達前管長は後継者について周囲に明言することなく急死した。その直後に「実は、私か相承を受けていた」と名乗りを挙げた日顕が管長の座に就いたのだが、「相承を受けた」とされる日時も場所も非常に曖昧なものであったため、当時から宗内の多くの僧侶たちが、疑義を呈していた。結局、日顕は、自分の相承に異を唱えた正信会の僧侶約百八十人のクビを切ることで、この問題に強引にフタをする。しかし、その後も日顕からまともな反論が一向に出てこないために、今もって真相はナゾのまま。いわば、この相承疑惑こそ、日顕にとっての「アキレス腱」なのである。  そこで山崎は、こんな「あいくち」を日顕につきつける。「私は、その時の手記を何度も読み返しています。書いた内容は、調査で判明した事実の四割にすぎません。のこりは、反論や、名誉毀損の訴えがあったときにそなえ、手の内にとっておいたのです」「私の書いた手記は、簡単に、抽象的な否定行為で消せるような内容のものではありません。仮に私かそれをすれば、正信会サイドから、私の裏切りに対する非難だけでなく、残りの六割の資料によるきびしい反論が行われるでしょう」  世に出た情報は、いまだ「調査で判明した事実の四割にすぎ」ない。裏を返せば「相承のなかったという証拠が六割ある」と凄んでみせているのである。日顕と正信会に「ふたまた」をかけるしかも悪どいことに山崎は、この「脅し」の中で、日顕と正信会に「ふたまた」をかけようとしているのである。  「ちなみに、御相承問題についての調査資料は、山口法興師、原田知道師、そして毛利正顕師(毛利博道師の兄弟)が保管しています。幸いにして三人とも私と親しく、和解を願う気持ちで一致しています。しかし、私か独走すれば、自分白身をまもるため、敵味方にわかれることは当然です」  こうした言葉は山崎にとって、二重の意味があったはずである。一つには、まだ出していないネタがあるとうそぶくことで、日顕に対する自分の立場を有利にすること。もう一つは、正信会を自分につなぎとめておくために、相承問題への態度をしばらく保留してみせることである。  山崎が正信会から離れて日顕に寝返ったケジメとして日顕は当然、自分の相承を否定した「文春手記」を撤回せよと要求するはず。しかし手記を否定すれば、正信会から裏切者の烙印を押され、関係が切れてしまう。日顕と正信会の間を取り持つことで宗門での影響力を高めたい山崎としては、どうしても正信会にも足場を残しておく必要があったのである。  相承問題について態度を曖昧にしてさえおけば、日顕と正信会の間に「ふたまた」がかけられる――そう踏んでいた山崎に、突然ハプニングが起こった。  それが冒頭に紹介した『中外日報』による「謀略書簡」のスクープであった。一連の謀略の全貌が白日の下にさらされたために、いつまでも宗門と正信会の間で立ち回っていることができなくなってしまったのである。山崎も観念したのであろう。同年二月十六日付の「慧妙」に「私か”御相承”を拝信するに至るまで」と題する一文を載せ、日顕側に立つという姿勢を明らかにしたのである。 日顕のメンツをくすぐる  今、述べたような狙いから山崎は、「謀略書簡」の中で日顕に、正信会の宗門復帰を執拗に勧めている。  「宗門と学会が今の型になった以上、正信会問題は存在意義を失いました。当時の正信会側の対応に問題が多々あったことは私も知っていますが、それにしても、あのときの宗務院の対処は誤りであり行きすぎであったことは、後世になればなるほどはっきりと指摘されます。それを、ただせるお方は、それこそ現御法主上人お一人です」  断っておくが、正信会の僧侶のクビを切ったのは、ほかならぬ日顕である。ここで「宗務院の対処は誤りであり行きすぎであった」とは、日顕に対する当てつけである。その上で山崎は、「それを、ただせるお方は、それこそ現御法主上人お一人です」とフォローを図る。  ここが肝心である。そもそも日顕とは、異常なほど自分の体面、メンツにこだわる坊主である。大量の正信会僧侶を「切った」ことについても日顕は、後世に残る恥になるのではと密かに恐れていると伝えられる。そうした日顕の心のヒダに山崎はつけ込む。  「次の方は、もう自分に関係ないこととして、火中の栗を拾おうとされないでしょう。学会の策略によって生じたことであることは、当事者はいずれも承知のことですが、しかし、それは水面下にかくれたことで、歴史には表の事実しかのこりません。手を下した者の責任が残るだけです」  “次の法主の代になれば、もう正信会問題は過去のことになる。お前の責任だけが歴史に残るぞ”。そう脅しつつ、ここでも正信会問題にこと寄せて、自分を売り込んでいるわけである。 相手の弱点につけ込む  さらに現在、日顕が窮地に追い詰められている「シアトル事件」についても山崎は、これを脅しの道具に使っている。  たとえば、裁判対策について言及した箇所には、こんなくだりがある。「特に、久保 法章(著者注・正信会僧侶)師に、何らかの手を打てるなら打つべきです。お若いころのスキャンダルの出所はすべてあの人です。私は、仮に証人申請されても、いかようにも証言できますが、私だけではすまないでしょうから」  「法廷でいかようにも証言できます」。つまり場合によっては「偽証でも何でもする」という「決意発表」であろう。なおかつ、ここでも自分の言葉に信憑性をもたせるため、「お若いころのスキャンダルの出所はすべてあの人」であるという人物の名前を出すことも忘れない。  学会への恐喝事件をめぐる裁判で裁判長から「幾多の虚偽の弁解を作出し、虚構の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない」とバッサリ切られた山崎らしいが、いずれにせよ相手の弱点につけ込むことで、自分を売り込むという山崎の手口の例証である。 ともあれ、「おだて」と「脅し」を巧みに組み合わせた、山崎流「坊主たらし」「坊主ころがし」のテクニックの実例――その後、日顕は、山崎の求めを受け入れて宗門に復帰させたのみならず、山崎を学会攻撃のための”指南役”として仰ぐにいたる。見事、山崎にたらしこまれたわけである。今のところ親密そうに見えるキツネとタヌキのランデブーだが、これが果たして、いつまで続くことやら。その行く末が見ものであろう。 オウム真理教との接触疑惑も  坂本堤弁護士一家殺人事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件、公証役場事務長監禁致死事件等々、およそ日本人の経験の域を超えるオウム真理教の犯罪――その全貌は今、法廷で次第に明らかにされつつある。その残虐さといい規模といい、まさに古今未曾有といってもよい犯罪集団だが、そのオウム真理教をめぐって衝撃的な疑惑が発覚している。それはほかでもない。山崎正友が、オウム関係者と密接な関係にあったというのである。オウムと山崎――その間に、いったいどんな関係が結ばれていたのだろうか。  「学会の仕業だと世間に説明してほしい」  ここに『産経新聞』一九九五年十月十日付朝刊の記事がある。かの目黒公証役場事務長・仮谷清志さん拉致監禁事件について、オウム側か画策した、事件の隠蔽工作に関する記事である。  「オウム真理教による国土利用計画法違反に絡み、偽証事件で逮捕された緊急対策本部長の上祐史浩容疑者(三二)らが二月末の公証役場事務長監禁致死事件後、教団関与を隠すため、反創価学会活動を展開する関係の男性に『学会の仕業だと世間に説明してほしい』と偽証を頼んでいたことが、 九日までの警視庁などの調べで分かった」  仮谷さんの拉致事件について、オウム側か早い時期から「学会の仕業」云々と大ウソを並べ立てていたのは周知の通りである。しかも上祐らは、そのウソの「裏書き」を、「反創価学会活動を展開する関係の男性」に依頼していたというのである。  社会面のトップに掲げられた、この記事。以下、ことの詳細な解説が続く。  「偽証事件の共犯で教団公認会計士の柴田俊郎容疑者(四七)は三月中旬、反創価学会活動に取り組む関係者の男性に『学会のことについて聞きたい』と連絡した。柴田容疑者は関係者に会うと、二月二十八日に数人のグループに拉致された目黒公証役場事務長の仮谷清志さん=当時(六八)=について『犯行は学会だと思う』と話した」「三月下旬、上祐容疑者からも『四月三日の記者会見に同席して、学会との関係について話してほしい』と電話があった」  ここで上祐のいう「四月三日の記者会見」とは、この日に行われた日本外国特派員協会主催の記者会見のことと思われる。この席で上祐は「仮谷さん事件は学会の仕業」等と発言。しかも会見の場に元学会員であるという男まで同席させた上で、「学会がよく使う手口です」などと発言させるという念の入れようだったのである。何とか学会の仕業に見せかけたいと、わざわざ外国特派員協会での記者会見までセットして行ったオウムの隠蔽工作だったが、あまりの荒唐無稽さに世間は一笑。当時、オウム一色で塗りつぶされた観のあるマスコミも、まともに取り上げた媒体は、ほとんどなかった。結局のところ、上祐らの目論見は見事にはずれたばかりか、かえってオウムに対する社会の疑惑の目を深めただけに終わったのである。 「山崎はオウムの林、中川とも会っている」  しかし――ことは、これだけにとどまらなかった。くだんの「反創価学会活動を展開する関係の男性」が教団公認会計士の柴田と接触した際、柴田の口から意外な真相が明らかにされたというのである。というのも柴田は、この年の三月中旬、その男性に、「学会の内情を聞きたい」と話を持ちかけたという。だが、その男性にしてみれば、世間を騒がすオウムの関係者が、なぜ自分を知っているのか。なぜ自分を名指しで「話を聞きたい」と言ってきたのか気がかりなところ。そこで「誰を通じて自分を知ったのか」と問いただしたところ、柴田は言ったという。  「山崎正友さんに紹介されたんです」  さらにその際、柴田は、こうも漏らしていたという。「山崎は、オウムの林、中川とも会っている」と。  「中川」といえば、遠藤誠一とともに、地下鉄サリン事件で使用したサリンを実際に作ったとされる中川智正が考えられる。一方、「林」といえば、元エリート医師の林郁夫、また、地下鉄サリン事件の実行犯として逮捕された林泰男などが思い浮かぶ。いずれにしても、オウムの「裏の顔」を代表する「武闘派」である可能性が極めて濃い。 オウム事件を使って学会批判を煽る  柴田が、この男性と接触したという一九九五年の三月以降、マスコミには、オウム真理教と学会を同一視するかのような記事が数多く流布された。そして、そのうちの多くが、内藤国夫、乙骨正生、段勲、溝口敦など、反学会のライターの手で書かれていた。いうまでもなく、それらは山崎とも関わりの深い輩である。  また、この年の夏以降に急速に浮上してきた宗教法人法の改変問題では、「オウム真理教事件の再発防止のため」という大義名分が、改変を推進する勢力によって煽り立てられた。この改変問題で山崎が暗躍していたことも、前述のとおりである。さらに、この年の十月から前述の「民主政治を考える会」によって配布されはじめた学会中傷ビラの第一弾には、こうあった。「オウムより恐ろしい!!新進党の皮をかぶった創価学会」。この「民主政治を考える会」もまた、山崎が裏で操っていた団体であることは明白である。  要するに、この年、さまざまな機会をとらえては、ことさらオウムと学会を二重写しにさせるというイメージ戦略が展開されていったのである。そして、そのいずれの局面にも、山崎が深く関わっていたのである。そうした状況のなかで、ほかならぬ山崎自身がオウムの関係者、しかも名だたる「武闘派」の面々とも密かに会っていたという――事実とすれば山崎は、そこでいったい何を話し合い、何を企んでいたのだろうか。 オウムによる学会襲撃計画との関連も?  またオウム真理数は、その数々の犯罪行為の罪を学会になすりつけようと図っていたばかりではない。学会施設にサリン迫撃弾を撃ち込もうと図るなど、早い時期から学会に対する具体的な攻撃計画を巡らしていたことは、既に伝えられているとおりである。  一説には、松本サリン事件で使われたサリンも、もともと学会を狙ったテロ計画で使用するはずだったものではないか、ともささやかれている。うがっていえば、そうした学会への数々の陰謀が、まったくの「予備知識」なしで行われていたとは考えにくい。学会の内部事情や実際の攻撃手順について、よほど有力な情報源なり、「手引き」する人物がいなければ、いかにオウムといえども、そうそうやすやすと手はくだせないはずであった。 やはり当時、オウムに「入れ知恵」していた人間がいたのではないか。オウムの陰謀を裏でサポートする人間がいたのではないか――そう考えるのが普通であろう。  オウムの一連の動き。「オウム武闘派」との接触疑惑が取り沙汰される山崎。この二つは、いったい、どんな線で結ばれるのだろうか。接触疑惑が発覚して二年あまり。闇は深まるばかりである。 第5章  親族からの告発手記    手 記      山崎浩三  正友は私の実の兄です。だから一日も早く目を覚ましてほしいのです。 正友を気づかせ、救い出せるのは私だと思っています。  正友は平成三年に収監される前に、私のところにひょっこり寄ったんです。すでに収監を覚悟していたんでしょう。そのとき正友は言いました。  「かがんでくる(頭を下げて刑務所に入ってくる)。あとを頼む!」  それ以来、姿を現しません。正友に会ったら真っ先に聞きたいのは、「どうして、そんなになってしまったのか」ということです。わが家は、私を除いて、みんなまじめな学会員でした。中でも正友は弁護士として、特に頑張っていると思っていたんです。それが週刊誌に載るようになって、しかも学会の悪口を言っている。いったいどうなっているんだろうというのが正直な気持ちでした。  テレビで「創価学会を恐喝した」というニユースを知ったときは、「ああ…、シーホースの経営不振でとうとうそこまで落ちてしまったか」と感じました。  創価新報に、私か正友についての手記を載せたら、『慧妙』という宗門側の新聞に正友が反論を載せていました。でも、その内容にはあまりにもウソが多く、私の身体的な部分まで攻撃しているのには、ここまでおかしくなってしまったかと、憤りよりむしろ哀れさを感じました。  わが家は岡山の草創期のころからの創価学会員で、母も熱心な学会員でした。長兄もこれまた、見事な信仰人でした。長兄についていえば、入院してからも、「浩三、今朝の勤行はしたか、仕事を始める前には勤行はしろよ!」と、意識がなくなる直前まで僕に信心の基本を教えてくれるほどでした。  そういう家庭環境の中にあって正友は、東京で弁護士として活躍し、やがては学会の顧問弁護士にまでなりました。てっきり信仰の面でもがんばっていると思っていたんです。 わが家は母が、一代で財産を築きあげてきたので経済的にはわりと楽でした。株式会社山崎屋商店、すなわち田町旅館を母が経営し、一方では備前あられという米菓の製造まで手がけていました。  私は昭和四十三年三月に大阪の大学を卒業し、山崎酒店を継ぎました。亡くなった父から受け継いだ酒の販売業を、大阪の大学から戻ってきてから、個人商店「山崎酒店」として細々とやっていました。  あれは昭和五十三年ごろだったと思います。正友が戻ってきて、私に言うのです。  「備前あられの倉庫を冷凍庫に改造して冷凍食品の会社をやれ。そうなると四国の食品会社カトキチとも取引きができる。戻りの車が空で帰らずに済む。酒の販売なんて利の薄い商売より、こっちの方が、ズーっと儲かるぞ」。手記に書いたこともありますが、鮮魚店をしている私の友人のアドバイスもあり、この話はキャンセルしました。地味な商売であれ、お得意様も増え、家族が食べていくのに支障がないところまできた。その信用を捨ててまでやるべきではないとも思いました。  それからしばらくして、正友がたびたび戻ってきては母親と口論しておりました。それは母が正友の借金の保証人になり、印鑑をついたばっかりに、株式会社山崎屋商店の土地を売らなくてはいけなくなっていたからです。  正友は来るたびに「早く土地を売れ!」と言っていました。母が売りたがらずオロオロしていると、「もう印を押したんだから、売るしかないんだよ。俺の立場も考えてみろ」と言うのです。  結局、母が営々と築き上げてきた株式会社山崎屋商店の土地は、正友の連帯保証で一部売らざるをえなくなっていったのです。銀行から矢のような請求、あの地獄のような日々は忘れることができません。田町旅館は母にとって命の次に大切なものでした。  母はうろたえてしまい、私か「いったいいくらあるんだ」と聞いても、ただ「大きいんじや、大きいんじや」と言うだけでした。結局、その額は総計二億三千万円でした。  母はまず、長兄が住んでいた上地を売り、次に休業していた備前あられの工場の土地を売却しましたが、それでも二億三千万円には足りませんでした。  母も自分でつくった財産を自らの手で次々と処分するのは辛かったのでしょう。縁側にぼんやりと座ってため息ばかりついていました。気が強く、けっして私に頼ることなどなかった母が、「浩三、あとは頼む。副社長として支えてくれ」と言うのです。  そう言われて私は残りの九千万円の債務整理に狂奔したのです。幸い助けてくれる人がいて、昭和六十二年二月二十日に田町旅館の敷地を約半分処分しただけで済みました。要するに、正友が一方的に借金を押しつけ、家族を地獄に陥れたのです。  『慧妙』の反論で正友は、「母の遺産を兄弟それぞれに財産分けしたのであって、私は自分に与えられた財産分与でシーホースの借金を払った」との内容のことを書いています。母の遺産といっていますが、母は死んでいません。従って、遺産分けをすること自体、あるわけがないのです。法律家でもあった正友が、こんな子どもダマシのウソまでつくとは情けない限りです。  山崎屋商店は株式会社です。母個人のモノではないんです。法人なんです。親子、親族が株主の会社です。正友は、母をダマして保証人の印鑑をつかせたんです。法人が個人に財産分与などありえません。  昭和六十二年の夏、一、二階を貸店舗、三、四、五階を住居というビル建築を計画しました。六十一年に旅館をやめ、且R崎屋商店の経営基盤が失われたためです。私の本業の山崎酒店を去R崎精米所に吸収合併し、社名を現在の去R崎フーズとし、且R崎屋商店の所有地だった旧酒店の土地四十三坪を売却し、ビル建設を進めました。  銀行からの融資は三億円です。バブルがはじけてからの不動産業界は皆様周知のとおりです。去R崎ブースをコンビニエンスストアにしていたのが幸いしてどうにか銀行への借金を返しています。それに対して「浩三には一等地を分与し…」云々などと世間にウソをばらまくのが兄・正友のつとめと思っているのでしょうか。私は立地条件にかなった事業を起こし、会社に利益をもたらすのが経営者のっとめだと思っています。正友によって一度死んだ且R崎屋商店を蘇生させたまでのことです。  私の妻が出ていったのも、正友の影響が大いにあります。突然、億単位の借金を抱え、いろんな人が取り立てに来ました。妻がこのままでは実家にまで害が及ぶのではと、そう思ったのも無理はありません。日に日に暗い顔になり、□を開ければ私に当たるようになったのも当然のことです。  私としても、もとは身内の起こした不始末ですが、ある旦戻ったら、妻の姿がありませんでした。妻は「正友とつながりがあることが怖い。これ以外にも、いくら借金があるか分からない」と、小学生の娘を残して私のもとを去ってしまいました。彼女もまた、正友による”犠牲者”だったのです。  ただ、兄・正友にたぶらかされて学会を離れていった同志の皆さんのことを思うと、わが家の不幸など比べものになりません。会員の皆さまには山崎正友の弟として、お詫びの言葉もありません。本当に申し訳なく思うがゆえに手記を綴るにいたりました。  手 記      鶴見勝子  『慧妙』(平成九年八月一日付)を読みました。そこに書かれていた元義弟・山崎正友の「学会陣営からの個人攻撃に反駁する」の中で、彼の弟浩三さんのこと、私の夫であり正友の長兄の輝男の死去のときの模様を読み、私は思わず”ウソ”だと大声で叫んでいました。  あまりにも事実に反する場面、また兄弟にあるまじき死者を冒涜する文面に怒りをおさえることができなかったからです。  私は昭和四十一年七月十四日に、山崎輝男(正友の長兄)と結婚。夫は三年ほど聖教新聞広島支局長をしたあと、昭和四十三年、岡山支局長として実家のある岡山に転勤しました。  当時、正友はすでに東京で弁護士をやっており、妹の豊子さんが正友のもとに手伝いに行っていたので、山崎家には母の千代子さんと三女の聡子さん、浩三さんがいました。  当時の山崎家は、山崎精米所という精米業、山崎酒店という酒の販売店、「備前あられ」という米菓、それに田町旅館という割烹旅館をやっていました。少しずつ時代の波に押されていたころです。  精米所とお酒のほうは浩三さんが、備前あられは高田専務さんという番頭さんが、田町旅館は三女の聡子さんが担当し、田町旅館と備前あられの実権はすべて千代子さんが握っていました。  広島から転勤してきた私たち夫婦は、当初、山崎家の実家に住んだんです。一階に私たち夫婦が住み、二階に義母の千代子さんと住み込みのお手伝いさんが住んでいました。夫の父親は早く亡くなっており、精神面でも信仰の上でも、山崎家の長男の輝男は一家の中心であり、父親役の存在でありました。  夫は信心が真っ直ぐであり、何事にも几帳面な性格で、いいかげんに済ませるということのできない人でした。池田名誉会長と創価学会が大好きで、広宣流布以外のことはまったく眼中にない人でした。ただそうであるゆえに、正友にとっては煙たい存在であり、目の上のコブのように思っていたのでしょう。  以前、浩三さんが創価新報に、長兄(輝男)から聞いた話として「正友には気をつけろ」と言っていたことについて、正友が「ウソだ」と言っていますが、このことは浩三さんばかりか、私白身、何度も夫の口から聞かされていました。  「正友の性格や気性は心配だ。正友には気をつけたほうがいいよ」  死を予感していた夫の目には、正友の正体が見えていたのでしょう。  夫は昭和五十年ごろから持病の肝硬変が悪化し、岡山の大学病院で検査と入院を繰り返しました。五十四年二月末からは岡山日赤病院に入院しました。忙しい商売の合間をぬって、だれよりも度々入院先を訪れ、看病を手伝ってくれたのは浩三さんでした。夫の死の瞬間までベッドの枕元にいたのは私と浩三さんの二人だったのです。  それを正友は。『慧妙』で捏造しています。よくこんな作り話ができるものだという個所があります。  正友が病院に来たのは夫が亡くなる昭和五十四年三月三十日の十日ほど前のたった一回です。それも夫と正友とは言葉を交わしていません。それが『慧妙』では、「見舞いに行って語り合い、内心に秘めた(学会に対する)無念と怒りを輝男がもらした」などと言っています。よくもまあこんなウソを平気で言えるものです。  正友が岡山日赤病院の輝男の病室にやってきたときは私か付き添っていました。そのとき輝男は深く眠っておりました。正友と語り合ったり、まして意見を述べるようなことができる状況にはなかったのです。  正友は茶色のカシミヤのロングコートを着たままコートも脱がず、夫の顔を一、二分ジッと見ただけで、すぐに帰っていったのです。四階のエレベーターまで見送る私に、「大変だね、何かあったら言ってください」と、正友が病院で発した言葉はそれだけです。  夫が「創価学会に対して不信を抱いていた」などというのは、とんでもありません。私は妻としてこれだけはハッキリ言えます。  正友と違って、夫の輝男は一度として学会に対し不信を抱いたり、それらしいことを□にしたことはありません。それどころか病床にあって、意識の混濁する中で学会活動をうわ言のように□にしていました。目を閉じる瞬間まで夫は信仰人として逝ったのです。  岡山日赤へ入院中の四十日間、ときとして混濁する意識と戦いながら、あるときは無意識の中でだれかの前で御書の講義をしていることがありました。またあるときは、池田先生をお迎えする大きな会合の準備をする場面を思い出しているらしく、「椅子の数は足りるか、弁当はちゃんとお願いしたか!」などと大きな声で言っていました。ベッドに横たわっても、頭の中ではいつも学会活動に参加している様子でした。  正友の言うように、池田先生に対する不信など最後の一瞬まであろうはずがありません。  葬儀の日のことも忘れられません。夫が亡くなった昭和五十四年三月三十日は、支部の皆様に手伝ってもらって、翌日、ごく限られた地域の人たちと身内だけで自宅で行いました。  そこに突然、正友が三人の僧侶を連れてきたのです。  「わざわざ大分から来てくれたんだぞ」  紹介してくれたのは後から分かったことですが正信会の急先鋒の浜中和道であり、もう一人は正友が学会を撹乱するために書いた怪文書「ある信者からの手紙」の清書を女房が手伝い、それを宗門に持ち込んだ光久諦顕でした。  しかも「一人二十万円ずつ入れて。それが相場だ」と言われたのには驚きました。こちらが呼んだわけでもないのに、勝手に連れてきて供養をせびられたのですから。  そのうえ、祭壇の前には不釣り合いな生花のカゴが二つ置かれ、そこには当時人気のあった「宇宙戦艦ヤマト」のNプロデューサーの名前がつけてありました。  「オレが助けてやった会社からだ」  正友はそう説明しました。まるで兄の死を悼むよりも、その場でいかに自分に力があるかを見せたいという正友の本性だけが目立った葬儀になりました。  御書には、まったく他を顧みない悪人も、自分の妻子に対しては慈愛の念を持っているという意味の御文があります。でも、正友のように、自分の肉親をこれほどまでにボロ布のように投げ捨てる悪人は見たことかありません。  正友は『慧妙』の中で「私の事件が理由で離別した者などいない」と言っていますが、正友の前妻だった和子さんや三人の幼い子どもたちが、どれほど辛い思いをしたことか。正友には、自分の妻子に対してさえ、心の痛みのかけらもなかったのでしょう。  長男の死に続き、末娘の豊子さんの離婚、その上だまされて大変な借金を背負うことになった母親はそのころ見る影もありませんでした。また、一番の被害者は何といっても末の妹の豊子さんです。正友のもとで働き、正友の会社のM社長と結婚させられ、また別れさせられたのですから。  正友は創価新報に手記を載せた浩三さんを口汚く罵っていますが、いちばん感謝し、お礼を言うべき相手は浩三さんであるはずです。  大阪経済大学を卒業以来、実家に戻り、家業に打ち込み、泥んこになって働き続けている浩三さんの姿を、私は身近で見て知っています。  義母は強気な気性と事業手腕で、一代で次々と会社を起こし、事業を拡大しました。実権はすべて義母が握っていました。しかし次第に時代の波に乗れなくなり、縮小しながら、何度も危機に直面しました。義母と浩三さんはその度に議論していました。  当時、「備前あられ」の腕のいい職人さんも高齢化して、注文を受けても商品を出せないことが多くなっていました。それがもとで、「備前あられ」が不振になったのです。  「これ以上続けていても赤字がかさむからいっそ畳んでは」と言っても義母がガンとして譲らずに操業し続け、備前あられの看板は最後まで外しませんでした。  また「割烹旅館では人手がかかりすぎる、ビジネスホテルにしては」との意見も受けっけず、自分の信じた通りの事業をする人でした。  現場で走り回っている強さから言うべきことをはっきりいえるのは浩三さんしかいなかったのです。時には激しい口調になり、間に立っていた浩三さんの妻が途方に暮れることもしばしばでした。  そんな中で正友の借金の肩代わりをしたのです。浩三さんが受けて立つしかなかったのです。浩三さん夫婦の離婚が正友の事件と関わりがないなんて、絶対に言えません。  またこんなこともありました。  私の夫が亡くなった同じ年の七月、正友が義母をハワイに連れていってやると言ったんです。義母は一人では心細いからと、私と長女の晴子さんと義母の三人でハワイに連れていってもらいました。  義母はとても喜んで、「マーちゃん(正友のこと)は学会のため、池田先生のために頑張っているんだよ」とさかんに言っていました。  ところがハワイから戻った直後です。  義母から「マーちゃんが『山崎屋商店の隅に机一つと電話を一つ置いて、そこをシーホース・岡山事務所にさせてくれないか、そうすれば月五万円ずつ支払う』と言っているが、どうだろう」と言うんです。それが実現しないうちに、正友に言われて、シーホースの保証人になって財産をつぶされてしまったんです。  あれほど自分の信念で事業をやっていた義母さんが、いとも簡単に正友の話に乗って印鑑をついてしまったのが、山崎屋商店の崩壊の因になったのです。  兄弟姉妹の中でいちばん世話好きであり、優しい性格の浩三さんは、母親の事業の手伝いを始めて以来、常に一族の中でみんなから頼りにされてきました。正友が原因のばく大な借金も、浩三さんががんばって、やっと乗り切ったのです。感謝こそすれ、正友に、浩三さんを批判する資格はありません。  一人の悪人のために一家一族がどれほど肩身のせまい思いで日々を生きているか、正友には全くわからないでしょう。  でも悪の元凶は正友だということはもうみんな知っています。『慧妙』の匿名希望のコメットなんて、そんなものはあるはずがないのです。正友はウソの上にウソを重ね、その辻褄を合わせるためにまたウソをつく。どこまで本当で、どこまでがウソなのか、言った本人にももうわからないのではないかとさえ思います。 付・巻末資料 『謀略書簡』  山崎正友が平成五年四月以降に行ってきた悪事の数々について知るための絶好の資料として、今回とくに、この男が阿部日顕に送った「謀略書簡」のほぼ全文を紹介する。  同「書簡」がこれほどまとまったかたちで世に出るのは、これが初めてである。なお文中、判読不明の個所、山崎が重大な事実の歪曲で創価学会や特定の個人の名誉を傷つけている個所は削除した。  また、一部の誤字、脱字、略字、旧字はこれを改めた。さらに適宜、改行を加えたほか、本文と関係のある個所はゴシック体で示してある。 日額宛謀略書簡1(平成五年五月頃に書いたと思われるもの)  御法主上人猊下におかれましては、益々御健勝のことと存じ上げます。  近年の経過につきましては、報道そのたで私も、ある程度まで存じております。  何よりも、御法主上人猊下の御英断と、歴史的な御振舞いにつきましては、心より讃嘆申し上げる者でございます。私の、日蓮正宗と御法主上人に奉る信服(ママ)随従の志は、いまや先代御在世の頃といささかも変る(ママ)ところなきこと、否、現今の諸状況にもかんがみ、なお一層熱いものがあることを、まず申述べる次第でございます。  既に御承知のことと存じ上げますが、私は去る四月二七日、仮出獄いたしまして、現在は、世田谷区善福寺において原田知道住職を引受人として仮住いたしております。仮釈放の期間が終了する十月二七日までは、保護観察中ということで、行動になにかと制約があり、マスコミ活動をはじめ、創価学会問題への公然の関与は差しひかえざるを得ません。  又、健康状態も決して良くはありません。私には、獄から生還できたことが既に奇跡のように思われるのですが、若年から患っていた腎不全、そして、この数年来、急速に進んだ糖尿疾患のため、腎機能は極限まで低下してしまいました。又、眼底に出血が認められ視力にも障害が出はじめました。近く、東京女子医大の糖尿、腎センターに入院治療の予定です。  このような、きびしいハンデを背負ってはいますが、これからの生活と、自ら、なさねばならぬと信じていることをなしとげるための準備に、毎日努力しております。生命あるかぎり、どんな困難にも屈することなく、人生を切り開いて行くつもりですので、どうか御安心下さい。  (中略)私か十月までの仮住の地に善福寺を定めたことは、御宗門及び御法主上人猊下に逆う(ママ)意思に出でたものでないことはもちろん、いかなる意味でも他意のないことを、御理解いただきたいと思う次第であります。  私は、十月二七日までは、療養と、生活のた て直しのため、静かな暮しをいだしますが満期明けの十月二七日以後は、それなりの行動をとるつもりです。既に、週刊文春、現代、実話、スコラ等、連載の約束がございますし、テレビの報道番組での企画も進行しています。最終目的を達するまでは、何かやりつづけるでしょう。  今日の状況を見るとき、入獄前との様変りの大きさに、今更目を見張る思いです。これひとえに御法主上人猊下の御力によるものであり、信者の一人として、感慨を深くする者であります。御法上人(ママ)猊下の御慈悲により、富士の清流がたもたれたことを、後世の僧俗方は、感謝されることでありましよう。  この間の、御法主上人の御苦労、御心労は、さぞかし大変なものであったことと、心よりお察し申し上げます。創価学会の卑劣さ低劣さ、そして、一度かかわり合うと、表現のしようがない、あと味の悪さを残すいやらしさ等々、人格高潔な方ほど、苦痛を味わ(ママ)されるものです。御法主上人猊下も、幾度となく、これほどひどいものだったのか、との思いをなされたことでありましょう。程度の差こそあれ、何百万、何千万という人達が、この団体のため、いやな思いをしてきているのであり、それが社会的な拒否反応となっているのです。こうした団体に被(ママ)護を与え、悪質なものを黙視して来た宗門の戦後史にも責任はありますが、それを、我身を切り開いてえぐり出す行為をあえて行われた勇気と決断はどれほど価値があったことか、正に後世の歴史が示すことでありましょう。  今日、日蓮正宗と創価学会は絶縁し、全面的な対立状態となっていますし、戦線も拡大しています。私ごときが岡目八目で考えることなど、余り意昧もないことかもしれません。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、私も、日蓮正宗と創価学会の問題に、相当初期のころから、相当深くかかわってまいりました。正宗の歴史も創価学会の本質も、可能なかぎり学び、かつ体験しました。それ故に、現在が、日蓮正宗の歴史上、極めて重大な時期であるということを痛感するものでございます。ともすれば、眼前の、創価学会とのドロドロした争いに関心を奪れがちですが、ことの本質は、そうした相対的な次元のことではなく、明治以後おろそかにされていた近代化への対応、戦後の社会制度の変化への対応、そして、社会的にとるに足らぬミクロの存在から、社会に影響を及ぼし得る存在になったことに対する適切な自覚と対応が、今こそせまられていると思うのでございます。  例えば、国立戒壇論でございます。三大秘法抄で説かれる戒壇論は、”三秘総在の御本尊ましますところ事の戒壇なり”と説かれる場合とは異る(ママ)次元の論義でございます。それが、明治以後、国家主義の風潮の中で、”国立”ということが云われるようになり、歴代御法主上人も公に述べられております。小さな一教団が、天皇主権の国家制度の中でそう主張することは、さしたる社会問題ともならないし、現実に具体的なスケジュールをともなわない間は、キリスト教の”神の国”と同じく、形示(ママ)上のユートピア論、つまり純粋なる宗教教義の世界の問題として自由であったことでしょう。  しかし、社会制度が根本的に変り、しかも、現実に社会に或(ママ)程度の影響を及ぼす存在になった後に、あえて現在の民主主義体制、信教の自由を否定する国家体制を理想とするユートピアをかかげて活動をするということは、改めて考えてみなくてはならぬことでしょう。教義上、あえて現体制の変革を主張することになるユートピア論を固持ししかもその教団の勢力が社会にとってあなどれぬものとなれば、その教団が、社会から攻撃を受け、疎外されることは当然であります。それによって蒙むる(ママ)打撃を考え、覚悟した上で、なお、それで進むというなら、それでよし、教義上、仏法が制度にとらわれるものではないとするならば、もっと柔軟な路線が考えられるでしょう。いずれにせよ、”今が広宣流布である”とか、”正本堂が御遺命の戒壇である”ということは、もはやナ ンセンスであり、その建立は、未来にかかることになるでしょう。(ママ)たとえて云うなら、劇場内の一観衆としてヤジをとばしていたのが、いつの間にか役者として舞台に上っていた、というのが日蓮正宗の立場であり、そのことに充分気がっかなくてうろたえているうちに、創価学会の天下取り構想に乗せられてしまって暴走しはじめた、というのが、いつわらざる姿だったのではないでしょうか。故日達上人の御発言を歴史的にたどってみますと、その軌跡がはっきり見えると思うのでございます。  今、戦後まもなくの頃の原点にかえって、改めて、教義上の再検討を行い、はっきりした指針を出すべきではないでしょうか。御法主上人猊下の今回の御決断は、日蓮正宗の、戦後五十年にわたる歴史の総括ともいえることでござます(ママ)。戦後の”信教の自由”社会において、”布教”を最優先に考え、最強の在家組織を育成(原文ゴマルビ)し、勢力拡大にっとめたのが、日蓮正宗の戦後史でありました。それは、必しも(ママ)宗門の主導によるものでなく、創価学会に引っぱられたものであったにせよ、結果は先に述べたとおりです。その結果生じた”教団の質の変化””下克上”によって、自家中毒症状をおこしてしまったのです。  私は、日達上人は、どうしても創価学会を切れなかったと思います。自らの功を自ら否定することになったからです。日達上人は、現御法主上人のきびしさ、決断力に期待されそれを ”根性”と称されたのです。池田大作以下創価学会首脳は、その”根性”を見誤ったのでしょう。  それにしても、今、問い直されるべきは、在家集団の是非、ないし、その在るべき姿であり、又、僧侶として、信者の教化育成への取り組み方であります。宗門全体としても、布教と教化育成のための、広報、出版、教育を考えなくてはならぬときです。正しい教義の解釈のもと、化儀と布教活動を、もう一度考えなおすべき時ではないでしょうか。  ”戦う姿勢”についても考えなおす必要がございます。法を壊す者に対し、勇敢かつ勇猛な戦いをいどまなくては、仏弟子とは云えないでしょう。そのための制度を充実させるとともに一人一人の理論武装も必要でしょう。  今、大きな波のうねりの中にあって、まさに改革のチャンスですし、それに失敗すれば前途はきびしいものと思えてなりません。  ふりかえって、日蓮正宗の歴史とは、即、歴代御法主上人の御事績の記録であります。宗、開、両祖様はもとより、多くの徳の大きい上人方によって、日蓮正宗は危機を乗り切り、血脈を保たれて今日に至っております。  今は、身延離山以後、最も重要な時であると、私は、息をつめる思いで見守らせていただいております。  総論はさておき、最近感じたことにつき数点、申述べさせていただきます。  一、これまでの戦いを振りかえって  私の視点から見たところでは、宗門側にとって、まずまずの展開であろうかと思います。出て行った僧侶達は、はっきり云っていずれ僧侶をやめてもらった方が良いような人物ばかりです。(もう少し、出て行ってもらった方が良いのが残っていますが)実害(原文ゴマルビ)のない現象は余り気にすることはないし、この際、手足まとい(ママ)になったり、こっそり敵に内通されるよりは、出て行ってくれた方が今後、やりやすいはずです。  ただし、会員の切りくずしは、はっきり云って失敗でしょう。先手必勝の戦いの分野で当初、宗務院がブレーキをかけだのが失敗の第一です。作戦とか、戦術というのは、戦争がはじまるまでのもので、いざ始ったら、戦意とスピードがものを云います。まして、昭和五六年のときのこともあって、会員、信者が宗門に対してどこまで信を置いてよいのかと見守っている時期に、宗門が煮え切らなかったことは致命的でした。このままだと、多くの会員は、学会の中で次第に腐ってゆくでしょう。可愛想(ママ)なことです。もちろん、学会が勢力を増すということも考えられません。  マスコミ、言論戦については、外部のマスコミについては、おしなべて宗門側寄りですし、世間の認識も、行きすぎた創価学会が日蓮正宗より破門された、との見方で、学会の方が悪くなっています。しかし、当事者同士の言論戦では、創価学会が優勢です。これは、宗門側に論客がいないこと、文書による宣伝戦、破壊工作のできる人がいないこと、そして、正信会との紛争から生ずる制約があって、効果的な理論の展開がしにくいこと、などが考えられます。世間の関心は何といっても一時的ですから、今後、一考を要します。  二、今後の問題点について。   (一)、マスコミ対策について。  ある方面で、朝日を強く推されたのに対し、私は、文芸春秋をお推め(ママ)しました。新聞社のような大きな組織では、必ず二股をかけるのです。こちらに、熱心に近よってくる記者がいると、その上役は敵方に通じていて、情報はまるまる流れます。又、編集者や担当記者が変ると、手のひらをかえされることがよくあります。出版社系でも、そうしたところがあります。小学館などがそうです。これに対して、文芸春秋は、社長の田中建五(ママ)、編集局長堤尭、そして、各雑誌の編集長ら、すべて私の友人で、全社が学会きらいです。向う十年間は、この姿勢は変らないでしょう。日本のマスコミをリードするのは、朝日と文春といわれています。今回の問題は、新聞社系ではフォローしにくい性質の事件でもあります。  講談社系(現代)は、出版物も極めて多彩で、学会とのかかわりも複雑です。従って、文春のように単純な図式ではまいりません。一方、週刊新潮は、学会ぎらいでは人後に落ちませんが、少し意地の悪いところがあって扱いにくいところがあるのです。  なお、光文社は、編集者に金をやれば、何でも書いてくれます。  さて、こうしたマスコミに対しても、ちゃんとしたつき合いが必要です。都合の良いときだけ良い顔をして、都合が悪いと知らん顔では、彼らも次第にはなれて行きます。正直いって、宗門のマスコミ対策は決して評判が良くありません。そうでなくても世間の関心は移りやすく、この問題も次第に扱いにくくなっている、と関係者は云っています。マスコミ関係者に評判が良かったのは、福田先生だけです。  (二)、学会員対策について、  今日、邪宗日蓮と、正宗との勢力差は歴然としています。(学会を抜きにして論じます)その出発点は、身延離山であります。その後も正宗から、いく度も異流義が出ましたが、時の御法主がつぶして来ています。今回の事件が、身延離山型となるのか、それとも異流義鎮圧型となるのか。その意味するところの重要性は、御法主上人猊下にはよくおわかりのことと思います。正信会は、何とかつぶされないで勢力を維持することを目的にしました。それでよかったのです。しかし、御宗門は、学会に対してそうであってはならないはずです。あくまで学会を降さなくては歴史上、大きく立場を失います。守りでなく攻めでなくてはならぬはずです。  学会は、本来、守りの立場です。しかし、その戦法は、弾丸を打ちながら、攻めるふりをしながら守りを固める戦術をとりました。宗門は、いささかそれに引っかかった点が見られます。学会が、なりふりかまわぬ行為をするのは、そうしなくては逃げきれないと思っているからです。宗門は効果的で、しつような攻撃をつづけなくては、なりません。そのための戦線構築が必要です。  (中略)なお、末寺僧侶の再教育も必要かと思われます。蘇生講と各末寺の法華講との関係はうまく行っているのでしょうか。政治的な行動は、余り効果もなく、又、余り深入りすることもさけた方が賢明と思います。  私は、竜さん達とも、直接の交流はしないつもりです。私は、私の行き方をする方が価値的と考えますので。  三、訴訟について、  有能な弁護団を編成し、売られたケンカは買われた方がよいでしょう。  しかし、法廷では法廷の論理があり優先します。訴訟に引きまわされることはさけるべきですし、すべての紛争を訴訟の中にとじこめられることも回避すべきです。  名誉毀損訴訟では、御法主上人は、法廷であることないこと、すべてを尋問の形でぶつけられることを予想され、準備なされるべきです。この種の訴訟に聖域は設定できません。隈部裁判で、私か裏工作に苦労したのもこのためでした。その点で、特に、久保川法章師に、何らかの手を打てるなら打つべきです。お若いころのスキャンダルの出所はすべてあの人です。私は、仮に証人申請されても、いかようにも証言できますが、私だけではすまないでしょうから。くどいようですが、写真のことだけではすまないはずです。私か学会の弁護士ならそのようにもって行きます。  四、言論戦について、  質、量、方法ともに、学会に比べて数段おとります。情報面しかりです。真剣にとりくむ必要があります。  五、正信会問題について、  現在は何となく双方流れにまかせているようですが、私は、可及的速やかに対処に動かれるべきだと思います。  宗門と学会が今の型になった以上、正信会問題は存在意義を失いました。当時の正信会側の対応に問題が多々あったことは私も知っていますが、それにしても、あのときの宗務院の対処は誤りであり行きすぎであったことは、後世になればなるほどはっきりと指摘されます。それを、ただせるお方は、それこそ現御法主上人お一人です。次の方は、もう自分に関係のないこととして、火中の栗を拾おうとされないでしょう。学会の策略によって生じたことであることは、当事者はいずれも承知のことですが、しかし、それは水面下にかくれたことで、歴史には表の事実しかのこりません。手を下した者の責任が残るだけです。  訴訟も、はっきりした結果が出る日は遠くないでしょう。それからでは、和解は成り立ちません。宗門内にも感情的なしこりは少くないでしょう。正信会でも同じです。私のいない間に、和解に向けての世論は大きく水をさされました。復帰して、ひやメシをくわされるより、今までのように自由な方がよい、という人達が活発に動き、継命にも影響を与えました。学会側からの謀略のかげもあります。学会にとっては、宗門と正信会が駒をそろえて学会批判を行うことをおそれているからです。しかし、それでも七割の人達は、型さえととのえば、元にもどるべきだと考えています。私か、週刊現代誌上に「阿部日顕上人」と書いたことをとらえて、”裏切った”とかいって排斥しようとした連中もいましたが、しかし、今なお私か、正信会系の寺院にいることをみても、私の支持者が多いこと はおわかりいただけると思います。  御宗門が、あらゆる意味でフリーハンドを得て、学会との問題に集中できるためにも、又、何よりも筋道と法義を重んじる宗派であることを世に宣明するためにも、さけてとおれないことです。又、無駄な費用を支出しなくてすむようになるし、学会の息のかかった弁護士達ともきれいさっぱり手が切れます。今なお、学会系の弁護団をかかえて訴訟を維持していることが、どれほど世間やマスコミ関係者に疑惑を与えているか、ということをこの際良く認識なさるべきであろうと思います。        ’  和解についての私の案は、第一に、双方同時に、無条件で訴訟の取下(ママ)をします。ついで宗門は処分の取消を行います。それから、正信会寺院、僧侶に対し、単一・独立を希望するものは、そのようにしてあげます。復帰を望む寺院、僧侶については、その儀式を行って復帰を許していただきます。その際、後者には御法主上人から、しかるべき(原文ゴマルビ)お言葉があり、復帰者側は、自ら尊い信仰上の使命を果たしたという自覚があるなら、何の条件も文句もなくだまって礼をつくして復帰するべきでしょう。彼らに対する種々の配慮は、御法主上人のお心から与えられるべきもので、多くを和解の条件にするべきではないと考えています。  現状では、もはや正宗は、正信会の占有する寺院を必要とする状況になく、今後なお、文句を云うような人達は、宗内に居てもらうこと自体マイナスでしょうから、出ていってもらえばいいと思います。なお今後、御法主上人のもとで僧道にはげむ、という人達だけ帰ってくればよいのではないでしょうか。  これによって宗門は、大義名分をとりかえし、無駄な出費をなくし、学会批判のフリーハンドを得られます。  この先、時をすごせばすごすほど、とりかえしのつかぬ事実かつみ重なるだけです。時とすれば、今年中だけです。  (中略)とにかく、御法主上人がそれほど成功しないよう、お立場が不安定であるよう望む者が双方にあるだろうと私は臭(ママ)ぎつけています。本当の戦いはこれからだといえます。なお、念のため申し添えれば、藤本先生という方は信頼が置けると思います。但し、用心深すぎて果断さに欠ける点があります。  細井一族には、池田は何らかの期待を持っているかのようですが、しかし、あの人達は大宣寺もふくめて腰抜けの甘ちゃんですから何もできません。  ともあれ、事は密なるを要します。そして余りゆとりもないので、(治療にかかると、しばらく眼もつかえませんので)とりあえず段さんにおねがいすることにしました。何かおたずね、お問合せ等ございましたら、段さんを通して御下問下さるよう、お願い申し上げる次第でございます。  身辺もととのはず、体調もすぐれぬ中で、思いつくまま書きましたので、お読みづらいこともございましょうが、どうかお許し下さい。私にできることなら何なりとお役に立つことにやぶさかではございません。                  山崎正友  御法主上人猊下  追伸  世間もマスコミも、正義感は強いものです。御宗門の出所(ママ)進退にあたっては、”筋をとおすこと”が大事です。学会の不当な攻撃にさらされる御宗門に世論は集まっています。しかし、その御宗門が、更に弱い者いじめを続行しているとなれば、世論もやがてはなれます。 ”どちらもどちら“と見られはじめたら御宗門にとっては大変なマイナスです。  私は、御法主上人が、宗門史上最大の難事業を遂行なされ、新らしい歴史のページを開かれることだけを切に祈っております。そのことが、とりもなおさず、私の人生にとっても勝利となるからです。  そのあと、自適の暮らしに入られた御法主上人のお供をして、諸国めぐりでもさせていただければ、と、手前かってな夢をえがきながら、楽しく毎日を送っています。 ・日顕宛謀略書簡2(平成五年六月から七月の間に書いたと思われるもの)  拝啓  御法主上人猊下におかせられましては、益々御健勝にあらせられ給うと伺い、心よりお喜び申し上げます。又、総本山が、平静と御繁栄を回復されつつある御様子と知り、安心いたしております。  私も、自由の身となりましてから二ヶ月を過ごし、環境にもようやくなじんでまいりました。六月は、二週間ばかり入院しましたが現在は小康を保っており、赤坂に一室を得て静養のかたわら執筆準備にとりかかっております。六月二八日、福田御尊師よりお言葉をうけたまわりました。御法主上人猊下の御決意の程と、御境涯の澄明なる尊地にあらせられるを知り、感動を新たにいたしました。  私に対するお心遣い、まことにもったいないことと存じます。不幸な時代の始り(ママ)にあった不幸な誤解につきましては、私自身にも責任の一端が存在していたことでもあり、それ故に改めての御謝意はもとより、二度と言及されることも御無用のこと故、どうか御失念たまわりたくお願い申し上げる次第です。  「あなたはウソつきだ」といわれた時のことを思い出すとき、その記憶は怨みや怒りの感情ではなくて、苦い後悔を伴うのです。  当時まで、私は非常につらく苦しい思いに耐えながら必死の思いで日達上人に御奉公してまいりました。学会の中枢に身を置きながら、その学会が日に日に邪教化して行くのを見、極めて弱い立場に追いつめられていた日達上人と御宗門をお護りするにはどうしたらよいか、心労のかぎりをつくしました。身も心も疲れ果て、経済的にも限界に達していました。私は、一年余、ほとんど仕事を投げ出しており、そして、日達上人及び身近の方から何の経済的支援も受けてはいませんでした。もちろん、学会側からは経済的なしめつけが行われていました。半ば公然と池田大作氏にそむいたのですから、当然のことでしょう。  日達上人の御遷化とともに、私は一切のことから身を引こうと考えていたのです。日達上人に御奉公申し上げる中で、私は、派閥、人脈といったものの中に、否応なく浸るらざるを得なかったし、新らしい宗門の体制になじみ得るという自信もなかったのです。正信覚醒の人達をなだめ、抑える役割にも、いささかうんざりしていました。しかし、当時、学会内にいた同志の人達からも、又、日達上人の近くに居られた方々からも、新らしい御法主上人猊下に路線の選択を誤られることのないよう御協力申し上げるべきだ、と説得され気持をとり直してその努力をしようとしました。裏目に出た場合の危険は承知していましたが、それでも私は責任を果たさねばならぬと思いなおしたのです。  しかし、当時の私は、身心ともに限界をこえていましたし、隔間だらけでした。儀礼や状況判断への気くばりすら欠けていました。それでいて、分不相応なまでの御奉公を、身を犠牲にしてまで宗門に対してつくした、という自覚とプライドだけは強かったのです。プライドの強さは、私の欠点でもあり、池田大作氏にけむたがられたのもそれが一因です。そうした条件のもとで、あのことがあったのです。私の心の中で糸がプツンと切れてしまいました。絶望観(ママ)と、投げやりな気分の中で最悪の展開を前提として、それへの対応を考えるという方向に傾斜していったのです。  あのとき、もっとよく考え、用心深く、周当(ママ)にことに当っていたら、もっとねばり強く根気よく打解(ママ)にあたっていたら、ということを、後になって考えるようになりました。  その後の経過に、私も大きな責任があると思うが故に、あの時、半分夢遊病みたいな状態で行動していた点が悔やまれるのです。  現在の状況は、従って、私にとっては大いなる救いであります。そして、今の私の最大の関心事は、私の至らざることから生じた多くの人々の不幸と、そして宗門のゆがみをどう回復し、歴史を正しい流れに戻すことができるか、ということにあります。  私か、かつて週刊文春誌上に指摘しました御相承に関する疑難につきましては、これをそのままにして置くことは後世に混乱を残し、又、私自身の信仰上あってはならぬことだと充分に心得ております。既に何年も前から、このことは片時とも念頭から去りません。 しかし、ことが重要でありますだけに、手順方法、論法を誤れば、新たなる混乱と取りかえしのつかぬ禍根を残しかねません。それ故に、私は慎重にならざるを得ません。  今現在の私は、御法主上人猊下の御確信にいささかの疑念をも持っておりません。そして一心欲見仏不自惜身命との御法主上人猊下の御決意と総本山への外護の心情を明らかにさ(ママ)ていただいた上で、私の思うところを率直に述べさせていただきたいと思う次第です。多少、お心にさからうやも知れませんが、直載(ママ)に申し上げ、その上で、御法主上人猊下の御指南、御意見、御判断をたまわりたいと存じます。  一、文春掲載の経緯について  ともすれば、私か、まったく私の一存で週刊文春誌上で御相承問題にふれ、それが原因で正信会の動きがエスカレートしたかのような印象が一部に存在するかも知れません。しかし、それは事実と異っております。日達上人の急な御遷化という異例な事態の中で、外部からは全くわからぬ形でお代替りが行われました。そして、それを境として、宗門の方針が百八十度変りました。その流れの中で、覚醒運動に対する弾圧があり、中心者の処分に至りました。このような経緯の中で、御法主上人猊下に対する不信をいだく僧も少なからず、又、重役会議の内容や、日達上人の身辺に近かった人達の話も次第にもれ伝わりました。それが疑念をあおることとなりました。覚醒運動の中心者の秘かな調査が始まり、私もこれにかかわりました。  これら僧侶の中には、日達上人御遷化直前まで、直接お目どおりしていた人達も何人かおります。率直に申しまして、私も一時は不審の念をいだいておりました。当時、宗内で重要な立場にあられた身内や側近の方々が「相承はなかった。しかし、そのことを云うと、日達上人の御遺徳をきづつけることになるし、相伝が絶えたことになってしまうから云わないんだ」といったような発言を、かなりされました。こうした調査は、かなり綿密に行われました。その上で、正信覚醒運動の中心者達は、弾圧に対抗するため、管長地位不存在の訴えを起こす他ないとの判断に立ち私に協力を求められたのです。 そのため、私は、一度終らせた週刊文春の連載を再開することになったのです。  二、内容と諸状況の問題点  私は、その時の手記を最近何度も読み返しています。書いた内容は、調査で判明した事実の四割にすぎません。のこりは、反論や、名誉毀損の訴えがあったときにそなえ、手の内にとっておいたのです。その後の正信会裁判で、もし、宗門側か相承問題の証言に入ったならば、これらの資料は証拠として提出されたでしょう。そして、私か書いた内容は、具体的な事実であり、それらをつなぎ合わせてみれば、疑念が深まる、という書き方です。  ところで、正信会裁判で、佐々木秀明氏が証人として「相伝問題に疑問を感じたのは、私の手記を読んだからだ」と述べていますが、これは彼の失策であります。後に、私は、佐々水師を中心とする執行部と対立し、決裂寸前までまいりましたが、弁護団と、渡辺広済師らが必死で仲裁しましたので、表面上は仲直りしました。 しかし、佐々木師らは、正信会内での実権を、それ以後失いました。弁護団や正信会の多数が私を慰留し、佐々木師らを排したのは、正に前記の証言の為です。私か相伝問題の手記内容を全面的に撤回したなら、正信会はただちにそのよって立つ基盤を失いかねない窮地に追いこまれること、そして、そのような事態を招いたのは、佐々水師自身の軽率な証言であることを弁護団が指摘し、皆ががく然としたからです。私は、和解に応じるとともに、正信会内に、渡辺広済、近藤済道ラインの指導体制ができました。渡辺ー近藤ラインの実質的な事務局は、善福寺原田知道師であり、彼が、訴訟と継命などを統括しています。  私の書いた手記は、簡単に、抽象的な否定行為で消せるような内容のものではありません。仮に私がそれをすれば、正信会サイドから、私の裏切りに対する非難だけでなく、残りの六割の資料によるきびしい反論が行われるでしょう。内藤国夫や文春は、その際、正信会サイドの肩を持ち、宗門と学会の紛争は脇に追いやられ、御相承問題がむしかえされて、学会を利するだけの結果を招きかねません。  ちなみに、御相承問題についての調査資料は、山口法興師、原田知道師、そして毛利正顕師(毛利博道師の兄弟)が保管しています。幸いにして三人とも私と親しく、和解を願う気持ちで一致しています。しかし、私が独走すれば、自分自身をまもるため、敵味方にわかれることは当然です。  誤解のないよう、念のため申し添えますが現在の私は、御法主上人猊下の御確信にいささかの疑念をもいだいておりません。昭和五三年春、日達上人が御自身の健康をどれほど不安がっておられたか、又、昭和五四年春、だれを後継者にのぞんでおられたか、私は、直接存じておりましたし、それ故に、日達上人の御依頼により、当時の総監に、判断の誤りなきようお話申し上げるべく、常泉寺に伺ったりしたのです。又、私は、医師と日達上人の会話に常に立ち合(ママ) っていましたから、日達上人が御自身の状態をよく知っておられ、従って万一の場合のそなえをなされていなかったとは絶対に思えません。  その上での認識でありますが、日淳上人がなされたような儀式が行われなかったことは否定のしようがありません。そして、日達上人から の指名(原文ゴマルビ)は、一対一で行われ、そして、その事実は、日達上人御遷化後の重役会議ではじめて確認された、ということであります。指名の日時、場所については、その後、明らかにされたのですが、その内容は(法門にわたることは別として)あいまいなままです。  三、対処の方法について、  こうした諸状況をふまえますと、私の手記の訂正は(当時は、今日のような事態を予測することができず、従って容易に打ち破れぬように、そのことだけを考えて書きましたので)御法主上人猊下の密接なる御支援がまず必要であり、そして、そのための状況作りも必要であることがおわかりいただけるかと思います。  まず、正信会、宗門双方、現時点において訴訟をとり下げることです。正信会側は、復帰をのぞむ者は受け入れ、そうでない者は、寺ごと単一独立を認めてやることです。或いは、一率(ママ)に単一独立を認め、その上で、個々に復帰希望者と話合うのもよいでしょう。  次の段階で、宗門より、五五年の処置について一言言及なされ、同時に、改めて御相承の経過について公式に発表していただきます。 日時、場所、いきさつ、お言葉の内容、証人がいればその証言、そして重役会議の内容等です。  過去にも、御相承にかかわる争いはなかったわけではありません。お大事の中味についてはもちろん秘伝ですが、その経緯については、常に御宗門で明らかになされ、説明されています。それは、人間社会の常識であります。地位の主張は、主張する者によって立証されるべきものです。  発表の仕方、内容については、もちろん、私も充分協力させていただき、落し穴にはまらぬよう万全を期する必要があります。その発表をふまえ、そしてこの数年来の経緯をふまえた上で、私は、事実と論理の上で疑念の余地を一切のこさぬよう、私の記事をまとめて過去の論難を一掃すべく、同じ週刊誌  (判読不明) じているようで、私のまわりは数人の見はりがいつもついています。正信会側は、やはり死活問題となりかねない問題であり、又、ねたみもあって心中おだやかでないのでしょう。  しかし、私は、正信会から経済的な支援を受けておりませんし、過去においてもそうでした。彼らのためにつくしてあげこそすれ、彼らから、(何人か親交をむすんでいる人達をのぞいては)援助をうけたことはありません。  私か、一度結んだ学会との和解を、身の危険を覚悟の上で破棄し、戦うことになったのも、彼らの窮地を救ってあげるためでした。その事情も、いずれ明らかにする時が来るでしょう。私か、又、宗門から何の援助も受けるいわれはありませんし、そんなことをはじめから期待もしていないことは、私の真の友人達は皆理解してくれています。  私は、まったくの自由な立場で、信ずる道に従って行動するのがモットーですし、今後もそれを通して行くつもりです。学会が私を攻撃するのは当然でしょうが、正信会の人からとやかく云われる筋合いはありません。  しかし、目的は、すべてが正しい方向に収まって行くということです。そのためには、万全の配慮が必要であるということを、私は申し上げたかったのです。  四、その他の点について。  現在の宗門の意思決定のあり方、宗内の感情については良くわかりますし、当然のことと思います。しかし、首脳の方にも、真に宗門を愛する心がおありなら、正しい方向を選ばれるはずです。そうしていただくための説得や意思形成のプロセスは、避けて通れないことでしょう。そして、今はともかく、昭和五五年当時のことは、御法主上人猊下の御意思が強く働いた結果であったことも事実です。その結果、道に迷った多くの人達を救ってあげることは、どなたの責任か、ということもお考えいただきたいと思う次第です。御法主上人猊下との共通の認識が成立ったならば、私は、藤本総監、八木主任理事らの方方にお会いすることもやぶさかではありません。  むしろ、説得に手を焼くのは、正信会サイドであると思われます。ある程度の落ちこぽれは覚悟しなくてはならぬと思っています。いたずらに安易な道を選んでいては、問題は解決いたしません。又、この問題を解決したあとの有形無形の利益ははかり知れません。 (中略)必要なことは、宗門、僧侶への信頼を回復することです。そのためには、宗門は一体となって、御本尊と血脈付法の御法主上人のもとに一統することです。それから、多くの人々を救うという観点から本来の布教活動、教化育成に力をそそぐことです。登山者には、紛争のことなど忘れさせて、ひたすら成道を祈ることのできる環境をととのえてあげることです。  種々と、思うがままを書き連ねました。或いは、お心にそわぬこともあるかと思いますが、私の真情をどうか御賢察下さり御容捨(ママ)下さるよう、お願い申し上げます。又、御意見御疑念、反論等がございましたら、どうか率直にお申し越し下されたく、この際、なによりも必要なことは、徹底した検討と密なる連けいであると思う次第です。自己満足、独りよがりでなく、宗門のため、結果責任を負わなくてはならぬ立場で、処理に当りたいと考えています。  私は、今年十一月から執筆活動を開始します。既にいくつかの雑誌と連載の約束をしています。できるなら、その中で、御相承のこともふくめ、宗門としての問題には、今年中にけりをつけたいと願っています。一日も早く、心の重荷から解放され、私自身の人生を歩みたいと思っております。  例によって乱筆乱文、又、失礼なる文等、どうかお許し下さいませ。 ・日額宛謀略書簡3(平成五年十月十一日付のもの)  東京もすっかり秋になりました。  総本山の、美しいたたずまいがしのばれてなりません。  御法主上人猊下におかれましては、益々御健勝のことと存じ上げます。  このところ、御法主上人の御発言や御振舞いのことも、次第に私のもとへ、各地から伝わって参るようになりました。他の方にはわからないかも知れませんが、私には、御法主上人が、一段と高いお立場に立たれ、より多くの人達を救済せられようと念願しておられる御心がわかるような気がしております。  世の中の動きは、私の予想を越えたスピードで展開しています。当初の予定では、二年間くらい仕事に精出して資金作りをし、それから足場をしっかり固めなおして戦いを再開するつもりでした。それが、のんびりとしていられない状況になり、見切り発車で始めなくてはならなくなりました。  この一年の展開次第で、この国には大変革がおこります。その結果如何では、御宗門にも、又、我々にとっても取りかえしのつかぬ結果と事態を招きます。どんなことをしてもそれを防がなくてはなりません。  御宗門と絶縁(ママ)した創価学会は、政治権力への直結と、社会的な展開をはかる以外に活路はありません。そして、今のところ、それが成功しつつあるように思われます。彼らが政権内にゆるぎない勢力を固め、社会的な認知をかちとったとき、御宗門は包囲され、完全に孤立させられます。マスコミも裁判所も警察も見て見ぬふりをする中で、どのような陰険かつ狂(ママ)暴な攻撃を加えられるか、あの、文化大革命のときの中国に似たものとなりましょう。  創価学会のような狂気の集団を助成して来たのは、他ならぬ自民党であり、財界であり歯にきぬきせぬ云い方をさせていただくなら御宗門であります。かく云う私も、自分の立身出世の夢と権力欲を満たすことを、この狂気の集団にかけ、奉仕して来た者です。  今、自民党が食い破られ、”悪魔の契約書”に血判を置(ママ)した小沢一郎と池田大作の”呉越同舟軍”によって、新らしい覇権がきづかれようとしています。  政権を失った自民党は、まるで力がありませんし、各議員もバラバラで、バッチをはく奪されかねない事態に直面して、ただうろたえているようです。  あと二回選挙を経過し、創価学会・公明党が権力与党でありつづける事態がつづくと、非常に深刻なことになります。  今、国民は、ようやく創価学会・公明党にまじめな関心を持ちはじめました。自民党も政権奪還には、創価学会と他の野党を切りはなす以外にないと核心を見極めてきたようです。おかしなことに、かつて創価学会のシンパであり、力をかしていた人達が、最近強い危機感を持ちはじめました。元警視総監の、秦野章、下稲葉耕吉といった人物が、いま、反学会で積極的に動きはじめています。  私も、最近、国会証人喚問などと云われはじめていますが、”週刊新潮”で、神崎郵政大臣の追及を行うのを皮切りに、表立って活動を再開します。二回目は市川雄一の練馬区投票所襲撃事件を、三回目は、池田大作の政教一致ぶり、そして、その次は、天下取りの野望を書く予定です。  ”文芸春秋”で、矢野手記の総括をふくめて、論文を掲載させていただくことになっています。こうした動きにあわせて私と池田大作の国会喚問の動きが国会ではじまると思います。又、宗教法人解散請求訴訟や政教一致を憲法違反とし、党の解散を求める訴訟など、超党派で起ってくることも考えられます。一方、草の根的な国民運動の組織もすすめられており、近々発会の予定です。  会内の情報網・破壊工作網の再建も精力的にすすめています。  定年退職者や中途退職者の追跡調査も行っています。又、外部の市民団体などとの情報交換等もすすめており、全日仏、新宗連、キリスト者同盟等々の他宗にも行動をおこさせるべく、根まわし工作中です。  創価学会対策は、もはや一宗でて(ママ)きることではなく、全国民的な包囲網をしかなくてはならない状況なのです。  こうした中で、御本山におかれましても、諸状勢をしっかりと見極め、適切な御対応を行われますよう期待しております。  (中略)御宗門のマスコミ対策については、いま一つ、のところがあります。接し方も、コメントの内容にも、一般的な説得力がやや欠けます。  正信会の問題については、御本山側の弁護士と渡辺議長の接触が持たれたようですが、今のルートとやり方では、まとまる話もまとまらなくなると思われます。もっと奥深いところで、慎重な下交渉と根まわしが必要です。  最後に、先のお手紙に対する御法主上人のコメントについて、私の思うところを述べさせていただきます。  私は、今、御相伝について、信じております。 その点については、御疑念をお払い下さるよう、伏してお願い申し上げる次第です。  私か先に申し上げたのは、その上で、今日に至ったこじれた歴史的経過を、宗門史上にも、又、社会全体に対しても禍根をのこさぬよう払しょくするための手順について、御法主上人の御為と思う立場から具申いたした次第です。御法主上人に相対してではなく、同じ側に立って、御徳と御威光をお守りする上での意見としてお聞き下さるようお願い申し上げます。  又、昭和五五年の路線の問題についても、五月三日には、たしかに、終戦宣言がなされました。しかし、それには、”創価学会が約束を守ること”という前提があり、それは、日達上人の御発言の中にもございます。その後、御遷化の直前には、事態は、かなりきびしくなっていました。それにしても、時の勢いということもあったでしょうが、九月から翌年にかけての御宗門の方向は、過去の、覚醒運動そのものをも否定する形で推移しました。入獄前に、私は、間接ながら、おたよりで、御法主上人のお立場として”学会との関係は、日達上人の御遺志どおり融和につとめたが、学会が従わなかったのでこのたび処分した”という論理でよいのではないか、と申し述べたような記憶があります。私も、御法主上人のお立場に立って理論を考え、発言する場合と、客観的に事実を認識し分析し て述べる場合と、そして、私自身の信条、心境を申し述べる場合があります。最後の立場から云えば、今更紋切り型の対応を受けても意味のないことですし、そこに、気持の整理がついておらなければ、第一、おたよりなど差し上げることはありません。  二番目の立場で申し上げる時は、或いは云いづらいこともありますが、この部分を冷静に受け止め、対処を誤られないことこそ、上に立たれる方の一番大事なお役目ではないでしょうか。人間としての信頼関係がなくては難かしいことではありますが。私には、とにかく創価学会・池田大作を何とか封じ込めなくては、仏法のためにも世の中のためにも大変な災厄を招く、という思いがあるだけなのです。そのことから逃げようとしても、私は逃げられない宿命にあるのです。  御法主上人におかれましては、私の信仰心をあわれみ下さり、どうか御受容下されますことを祈っております。  十月十一日                  山崎正友  御法主上人猊下様 ・日顕宛謀略書簡4 (平成五年十一月十六日から二十六日の間に書いたと思われるもの)  光陰矢の如しと申しますが、今年もあと一月余を残すのみとなりました。  御法主上人におかれましては、御健勝のことと存じ上げます。  未曽有の難局にあたられましてはや三年有余、その問の御心労、御心痛は、いかばかりであったかと、お察し申し上げる次第です。  このところ、御笑顔と御温顔ももどられている由、ひそかに安心している次第です。  他者には決してうかがい知ることのできぬ孤高の激務に耐えられ、そして、直接攻撃の的にされた者にしかわからぬ狂気の集団の破壊にさらされ、今日まで云いわけもなさらず弱音ももらされず、本当によく戦わた(ママ)と、心から敬意を表しております。  世俗のことについて、少し御報告申し上げます。  (中略)私が、文芸春秋新年号及び二月号に手記を書きます。それと併行して、先回も申し上げたかと思いますが、。政治と宗教を考える国民会議”の座長亀井静香代議士、小田晋氏(筑波大教授)飯坂良明氏(学習院大教授)の座談が新年号に、北野弘久氏(日大教授)の論文が二月号に掲載されます。  国民会議は、今月中に発足し、超党派、全宗教界、学者・文化人に呼びかけます。既に事務所等も決まっています。そして、講演、出版・調査、公開質問等を精力的に展開します。どうやら、外からの学会包囲網は、成功しつつあるようです。  週刊文春、新潮、ポスト、現代、その他、雑誌ジャーナリズムは、既に”明年は、皇室、学会、経済問題”がテーマだと、的をしぽて(ママ)います。新聞、テレビも、次第に臨界点に近づきつつあり、創価学会・政教一致問題はゼネコン疑惑の次に社会問題化すると思われます。  私は、先日、自民党本部で竜氏といっしよに講演をいたしました。議員五五名、秘書を入れると八十名をこえ、マスコミも多数集って大盛況でした。  二十六日には第二回(金の問題)そして、十二月前半に、更に三回行う予定です。  自民党は、党として、党の会計から費用を出して、我々を支援するといっています。今回は、学会を倒すか武装解除まで、攻撃をゆるめないということで、固い約束をとりつけながら進めています。  面白いことに、連立与党の中にも、”学会ばなれ”がおこりつつあります。その工作については、更に進んだ段階でお知らせすることになります。  国民運動にしても何にしても、学会攻撃の弾丸は、私達以外に供給できません。学会や公明党内の情報網、破壊工作の浸透をいそいでいるところです。  (中略)今後、政教一致、池田独裁、財政、不正、選挙、不正行為、体質といった項目ごとに、キッチリしたキャンペーンを強化していきます。これに、政治と国民運動が連動します。  十一月二五日号”週刊文春”で、元公明党議員の体験座談会を掲(ママ)せました。  この内容は、各方面に深刻な認識を与えました。協力して下さった法華講の人達に感謝しています。  今後、こうした人達や、元学会幹部に証言をしていただく必要が多くなります。せっかくの知識を、大いに生かしてほしいと思います。  御宗門の活動は、信仰の上で学会を糾すことであります。それは、見方によっては、会員を、正宗信者に”改宗”させる運動であります。過去の経緯からいっても、御宗門は、”当事者”であります。従って、国民運動には直接かかわられるべきではありません。  ”我々は、過去の経緯と宗教的立場、及び責任上からも、国民運動とは別の次元で、更に一歩も二歩もふみこんだ行動をしていかなくてはならないので、独自に活動する”とされるのがよろしいかと存じます。  その上で、法華講の方々や有志の御僧侶が、内々に私に御協力下さることは、どうか許可いただきたいと思います。まず学会を打ちくだく行為が必要であり、それは、一人一人の会員を救済していく御宗門の活動の先駆となると思うのです。  私は、福島源次郎氏のように、講を作る意図もなければ、法華講の中で名聞名利を求める意図もありません。だれかのように、自分一人偉くなることなど必要ないのです。只、現下の学会封じ込めが有効に働くことだけしか念頭にないのです。  マスコミ対策についても、宗務院の次(ママ)勢には問題があります。近く、個人的にお目にかかって、率直に話してあげなくてはと思っております。  (中略)後世に残るものは、教えと、そして御宗門だけで良いのです。信者はあくまで一信者として、必要なら、そしてそれが本人の信心なら、身を捨てれば良いのです。名聞名利やきれいごとに走るべきではありません。  ”蘇生講”とやらも、どれはどの存在意議(ママ)があるのでしょう。本気で信者の伝道、教化育成にのり出したいのだったら、出家し、修業をして僧になるべきだと、私は思います。それ以外に、”在家教団万を批判する資格は得られないように、私は思うのです。  今は、非常の時、過渡期であるからいたし方ありませんが、将来は、やはり寺檀の型で統一され、その中で、新らしい寺院と信者のあり方を確立するとともに、宗教上、すぐれた境涯の御僧侶が多数輩出され、教化育成の足跡をのこされるのが、理想ではないでしょうか。もちろん、その場合、信者の社会的な活動や側面については、宗門は一切かかわられるべきではありません。例え、信者達が語り合って、政党を作ろうと、御宗門自体はこれに、積極的にも消極的にもかかわるべきではないと思うのです。  戦後、創価学会は巨大になりました。しかし、日蓮正宗は、それに合わせて大きくなってはいなかったのです。  今回の破壊と再建の作業を通して、本当の日蓮大聖人の仏法の確立が御法主上人のお力で達成されますことを祈って止みません。その時に、はじめて、私の汚辱にまみれた生命も成仏がかなうものと信じております。                  山崎正友  御法主上人猊下様 ・日顕宛謀略書簡5(平成六年九月から十月の間に書いたと思われるもの)  猛暑の夏も終り、実りの秋となりました。  総本山大石寺におかれましては、益々御繁栄のことと存じ上げます。  六万名登山もつつがなく終えられ、新たな前進の一歩をふみ出された旨、大層心強く拝見いたしております。  この一年余、社会全体に、創価学会・公明党包囲網の結成へ向けて努力してまいりましたが、一応の成果は得られたものと思っております。  公明党は既に権力の座から去り、政界にも宗教界にも、この際、徹底して追及すべしとの声が大きくなっているようです。  二十七日、自民党の幹部と、今後の作戦の打合せをしました。  これまでの成果をふまえ、これから始まる臨時国会から来年の通常国会に向けて、政治レベルでの戦いをどのように進めるかについて具体的な打合せをしました。  自民党首脳も、池田大作の真のねらいと、創価学会・公明党の基本戦略をしっかり見極める人達が大勢を占めたようで、創価学会を徹底してたたかないかぎり、次の選挙での勝利がきびしいという私達の指摘を素直に受け入れています。  十月十一日〜十三日の予算委員会の審議で、テレビ中継の入る時間帯に、一時間ばかりかけて、創価学会問題を集中的に取り上げる、という方針で、これを戦宣(ママ)布告とし、各種委員会で追久(ママ)をつづけ、来年には、証人喚問へと積み上げて行きたい、というのが一致した意見でした。  テーマを、@反社会的・犯罪的行為、A宗教法人法上の問題点、B税法上の問題点、C政教一致問題、Dその他の諸問題、とし、それぞれについて、国会質問のための資料づくりを、私を中心に、段、乙骨の三人で作った上で、十日までに、自民、社会、さきがけの首脳、国対をまじえて最終打合せをすることになっています。  又、これからの国会活動と、四月会や、マスコミ活動をしっかりと支えるために、情報センターを設けることについても話合いをしています。  私達の動きは、あくまで極秘にしておりますので、その点御了承下さい。  宗教界も、おおむね反学会の動きですが、最大勢力である全日仏は、新生、民社等とのつながりもあり、又、体質上、動きがなかなか出て来ませんでした。  理事長、事務総長らと打合せを重ねた結果、十月末に全国支部長会を開き、傘下教団の責任者もいっしょに集めた席で、はっきりした方針を打ち出す、ということになりました。  私も出席して二時間ばかり話をすることになっています。  全日仏の中心勢力は、東西本願寺で、他の教団はその動向を見ているようです。  両教団ともようやく腰を上げる気配で、私のところへ、ゼミナールの要請が来ています。  日蓮宗系からも、講演依頼が来ています。  (中略)単なる、創価学会と脱会者の問題、創価学会と日蓮正宗の間の宗教上の争いということですと、政治が関与したり、国民が全体として関心を持つべきことがらではありません。自分の勝手で入会し、そして止(ママ)めることについて、何があろうとある意味で自業自得のことでしょう。(私自身もふくめて)  しかし、政治的、国民的問題としてとらえるには、そのための大義名分が必要であり、それにかかわるには、それなりの公平なスタンスが必要です。  政治家や他の宗教団体、市民団体の人達と接するには、こうした配慮が必要なのです。 当面、私か、正宗の信仰とのかかわりについてはふれることをさけて運動していた理由を御理解いただきたいと思う次第です。  とにかく、これからが正念場であり、腹をすえて戦いたいと思います。  四月会も、これからは、具体的な活動を展開しなくてはならない段階に入ります。そうなりますと、我々が、もう少し直接的に関与しないと進みません。政治家や有名人が集ってたださわぐだけの集りでは、すぐに行きづまることは目に見えているのです。  私が、当面、御宗門におねがいしたいことは、第一に、マスコミの取材に対して、できるだけていねいに対応していただくことと、必要な情報については、我々に提供していただくことです。  具体的には、段氏や乙骨氏(既に正信会からは完全にはなれています)が接触しますので、渉外部、或いは末寺の御住職の御協力をおねがいいたします。最近、慧命(ママ)、その他の出版物を拝見しております。戦う姿勢がはっきりと出て、大変によいと思います。しかし、国会議員や一般の人には、率直にいってよくわからない内容です。(これらの人達から直接意見を聞きました)  私は、それでもよいのであって、御宗門の出版物は、第一に法華講員の信心指導、そして次に、創価学会及び会員に対する折伏、破折に徹するべきだと思います。  世論向けのことは、我々が、一般マスコミを動かしてやることですから、ただ、そのための協力だけは、しっかりとおねがいしたいと思う次第です。  正信会のことについては、私の胸にいたみが残ります。  現状認識と、身の処し方について、私と、あの人達の間に大きなへだたりが出来ました。  私に対して、御宗門との間の仲だちを期待する気持もあるようですが、あの人達ののぞむような形でのあっせんは、私にはできません。  私の、人生にのこされた時間も決して長いとは思えないし、今は、あれこれと手を出す余猶(ママ)はありません。  今後、正信会の人達がどういう道を歩くかわかりませんが、最後は御本仏の御慈悲と、御法主上人の広大な御心によって、正しい道につくことを祈るばかりです。  私白身の、過去の行為について、是正すべきことは、私自身の信仰心に照らして、しかるべき進退をする所存でありますので、どうか大所高所から御照覧下さい。  昭和五四年以降の経過については、私自身の罪障消滅のため、御本仏が与えたもうた試練と思うが故に、私の心中には何のしこりも残さぬことを、重ねて申し上げる次第です。 体力が衰えたせいか、時に安穏な生活をのぞむ気持が起ります。静かに書きものをしながら、田舎で暮らしたいと思うことがよくあります。  おかげさまで、生活は、さしたる不自由もなく暮らすことができております。  御法主上人の御健勝を、心よりお祈り申し上げます           山崎正友