実録小説 転落の法主 目 次 ・プロローグ ・魑魅魍魎 ・御前会議 ・「C作戦」始動 ・還著於本人 ・エピローグ ・あとがき ●プロローグ  紅蓮の炎が空に向かって咆哮しながら客殿を覆った。  その炎は野に放たれた獣のように暴れ狂い、大石寺を飲み込もうとしていた。顔を向けるだけで皮膚が焦げ付く火炎の熱さに誰も近づけない。その地獄の業火の如き炎が蛇のように頭をもたげ、自分に襲いかかってくる。叫び声をあげる気管が熱で焼かれ、その苦しさから自分で自分の首を掻きむしる――そんな悪夢に何度もうなされた河辺慈篤は、宗門の秘史として自分が目撃した生々しい光景を何人かだけに語ったことがある。  「御前さんは、竈の中に下半身がはまり込んだまま焼け死んでいた。上半身だけが黒焦げで下半身と腸は生焼けだった。逃げ遅れたんだ。そして、大奥の二階が崩れ落ちた時に、御前さんも一階の食堂に落ち、そのまま竈にはまったに違いない……」  初めて話を聞いた者は、その酸鼻な情景を思い浮かべ、文字どおり息をのんだ。竈にはまって動けないまま焼け死ぬ。まるで地獄絵図だ。聞いてはいけない話を聞いてしまったと後悔する者もいた。  昭和二十年六月十七日、午後十時半頃、大奥対面所裏の部屋から出火した炎は翌朝四時まで燃えつづけ、大奥対面所だけでなく客殿、書院、六壺などを焼き尽くした。この時、河辺は所化として本山にいた。  「火事だ!」という誰かのわめき声に驚いて寝床を飛び出した河辺や本山の僧侶たちは慌てて、日恭法主を捜し回った。日恭法主はその火事の前日に静養先の隠居所から大石寺に戻り、大奥に泊まっていたのだ。  河辺ともう一人の所化が大坊の廊下を走って大奥へ行こうとしたが、生命を持ったように暴れる炎が彼らの行く手を阻んだ。二人はいったん外に出て、大回りをしてようやく大奥に駆け付けた。しかし、大奥の雨戸は閉まっており、中からカンヌキが掛かっていて開けることができない。  河辺は「御前様はどちらに!」と叫んだ。本山の僧侶たちは混乱していた。ある者は「学寮にいらっしゃるはずだ」と言い、またある者は「きっと寿命寺に避難されたに違いない」と言う。河辺らはやみくもに本山の中を走り回った。蓮蔵坊にも行ってみたが、そこにも日恭法主の姿はなかった。  ある僧侶は付近の檀家の家の、玄関の戸を叩きながら、「御前さんを見かけませんでしたか?」と尋ねて歩いた。そのただならない様子に檀家たちも何か大変なことが起こっていると感じた。  木造の建物は一度燃え出すとその火の勢いは時間とともに増していく。消防団が駆けつけたが消火作業は遅々として進まず、とても誰か人を捜索できる状態ではなかった。あとは火がおさまるのを待つしか手立てはなかった。  六時間にも及んだ火の手の勢いは本山の東側の建物すべてを焼き尽くし、ようやく満足したかのように弱まった。そして、夜が明けてから現場検証が始まった。ところどころで火はまだ踊るように揺れ、息をするとむせるほど煙は充満していた。  本山の役僧たちは消防団員と一緒に、まだくすぶっている残骸をよけながら、まっすぐ大奥に向かって足を急がせた。しかし、大奥があった場所のすぐ手前まで来たところで、皆、足がすくんで動けなくなった。そこはちょうど大奥の食堂があったところだ。そしてそこには大きな竈が焼けただれてはいたが、その形状のまま残っていた。そしてその竈の中から黒い物体が木が生えたように突き出ている。役僧たちの後に付いてきた河辺は煙でしみる目をこすって視線を凝らした。それが人間の屍骸だと気づくまで数秒かかった。  「ああー」  河辺は言葉にならないうめき声をあげた。  焼け跡から発見された日恭法主の焼死体の詳細な状況は長い間、ごくわずかな者しか知らなかった。それは、あまりにも無残な姿であった。    法主の無残な焼死体を直接見た体験は、河辺に大きな衝撃を与えた。しかも、日恭法主は河辺の師僧であった。その師が、たとえ法主でも地獄の業火に焼かれて死ぬこともある。果たして日顕の最期はどうなるのか。「C作戦」に深くかかわった自分もその罪を受けるのか。そんな底知れぬ不安のせいだろうか、河辺は、客殿の火事の悪夢を繰り返し見ていた。 ●魑魅魍魎  平成二年七月十六日夕刻、大石寺東京出張所(通称「西片」)には、法主の阿部日顕をはじめ、札幌・日正寺の住職で参議の河辺慈篤、大石寺主任理事の八木信瑩、それに海外部主任の関快道の四人が顔を揃えていた。この日に行われる「西片会議」の事前の打ち合わせをするためである。  この東京出張所は文京区西片にあり、学会の寄進を受けた日達上人が昭和四十六年九月に開設したものである。出張所といっても、法務を行うためのものではなく、法主が上京した時に使用する別邸であった。日顕が本山にいる時には、妻の政子が居住していた。  西片の和室での打ち合わせであったが、テーブルを囲んだ四人の間には、それぞれの思惑が幾層にも絡み合っていて、はなはだ異様な雰囲気に包まれていた。  「在家のくせに……」  吐き捨てるように、日顕が言う。「なあ、おいよ!」  ぎょろりと睨んだ日顕の視線は、関快道に向けられている。一瞬、関は叩頭する。しかし、それも見慣れた光景であって、河辺も八木も、ことの成り行きには無関係に、黙々と下を向いていた。  ――創価学会を壊滅させて宗門の膝下に置く、そのためにはトップの首を切る以外にない。一言で言えば、これが日顕の腹の内にある。この日の「西片会議」の主題もそれであった。  日顕は、「在家」つまり創価学会員を憎み切っていた。一千万余の会員は、信徒として法主である自分の前に平伏すべきである、にもかかわらず池田名誉会長に向ける敬愛心の何分の一も自分に向けようとしない……煮えくり返るような嫉妬心に、日顕は苛まれ続けてきた。  その憎しみの炎が、まるで自分に向けられているかのように肝を冷やして、必要以上に平伏するのがいつもの関であった。  関は東京大学在学中に創価学会に入会し、卒業後に得度をしている。得度と言っても、関は毎年、少年を得度させ採用する年分得度ではない。いわゆる「臨時の得度」であって、宗内では略して「臨得」と呼ばれた。  十二歳で得度する年分得度者から見れば、臨得の中途半端な仏前所作がこっけいに映る。袈裟・衣の着け方、合掌の姿勢、鈴のたたき方、歩き方、すべての所作がちぐはぐで、素人の付け焼き刃にしか見えない。だから「オイ、リントク!」と呼び、下働きのような扱いをする。「俺たちとお前らを一緒にするな」とあからさまに怒りをぶつける年分得度者も少なくなかった。  もちろん、宗内における「出世」にも暗黙の差別があった。臨得は、たとえ高学歴であっても、その行く末は地方末寺の住職が関の山であった。  創価学会出身のリントク――宗内で二重の悲哀を背負った関は、しかしブラジル赴任を足掛かりにして、日顕の代には海外部主任、宗門大学の設立準備の中心者へと、異例の出世をした。そこへもってきて、ここでまた学会攻略の情報源として日顕に用いられる。関にとっては宗門中枢に食い込む絶好のチャンスだった。だからこそ、日顕の口から「在家」という言葉が出るたびに、ことさら平伏してみせ、彼の寵愛を期待したのである。  貧弱な体をさらに小さくして畏まっている関を横に見て、河辺は軽蔑し切ったように鼻を鳴らす。関は河辺が徳島・敬台寺の住職をしていた時の在勤者である。寺の中では、住職は殿様であり、在勤者は家来に等しい。しかも、関はリントクである。河辺から見れば、駆け出しの小僧に過ぎない。  そんな馬鹿小僧――これは宗内で僧侶を罵倒するときの常套句で、日顕も河辺もよく使った――と、なぜ自分が同席しなければならないのか……。  河辺にとって、米搗きバッタの関も不愉快なら、何かにつけて自分を敬遠し軽く扱おうとする日顕には、それ以上の不愉快さを隠さなかった。何よりも、自分を北海道に飛ばした張本人が日顕であってみれば、河辺の内心は決して穏やかなものであるはずがなかったのである。  河辺は家庭の事情から十歳の時に大石寺に預けられた。昭和十五年のことである。河辺は誰にもなつかない気難しい子供だったが、日顕の母親・妙修尼が不憫に思ったのか、よく面倒を見ていた。だから、日顕と河辺は大石寺で一緒に育っている。そして、昭和二十九年七月、徳島の敬台寺に住職として赴任した。  学歴も派閥もない河辺は、宗内のさまざまな情報を集め、派閥の中を渡り歩きながら頭角を現してきた。一部僧侶の擯斥問題を引きおこした、正信会問題では日達門下に擦り寄り、その一方で、息子の正信を重役の長男である早瀬義寛の弟子にして、宗門の最大閨閥である早瀬家にも近づいた。そして日顕が登座するや否や、反日顕に回った正信会つぶしの先頭に立ち、昭和五十五年六月には、徳島の敬台寺から東京都江東区の妙因寺に栄転している。  宗門では東京の寺院の住職に入るのが一つのステータスであった。重役や総監をはじめ主な宗務院の役僧は東京の寺院の住職である。いくら本山に居ても、塔中坊の住職では自由も利かないし、何よりも金が入らない。東京の末寺に入れば、一国一城の主として振る舞えるだけでなく、年間数億の供養が入る。  河辺にとって、東京に赴任するということには、もう一つ大きなメリットがあった。何といっても、東京には学会本部がある。情報収集を唯一の武器にしていた河辺にとって、東京は学会の情報を得るのに最適な場所だった。学会の中枢に近づき、自分にしか知りえない情報を得る。それがそのまま宗内での切り札にもなる。そしてその切り札を使って、宗内で不動の地位を築く。それが河辺のシナリオだった。そのシナリオを狂わせたのが、他でもない日顕だった。  昭和六十三年十月、札幌・日正寺の秋山日誉が亡くなり、河辺も葬儀に参列した。その帰り道、河辺は傍らにいたある住職に「今度、あそこに入るやつは……」と言いながら、焼香する真似をして見せた。つまり、次に赴任した者は死ぬまで、北海の地にある日正寺から出られない、という意味だ。  いくら二千坪もある大寺院とは言え、本山と東京から遠く離れた札幌の地では左遷と同じだと、河辺は次の住職に同情した。まさか、それが自分であるとは、その時には露ほども思っていなかった。「西へ行くヤツには出世のチャンスはあるけど、東は左遷なんだ」。後日、河辺はよくこう言って、自分を北海道へ飛ばした日顕を恨み、嘆いていた。  八木は、いつも能面のように無表情である。  その無表情の裏を読めば、学会出身でリントクの関と謀略家の河辺、そのどちらも信用できない、ということであったろう。  関は第一次宗門事件の時には要領よく、学会にも宗門にもいい顔を見せていた。最終的には反学会の態度を鮮明にしたが、それは学会の分が悪いと知ったからであり、抜け目のない関の生き残りの術であったことは明白だ。こんな男は使うだけ使って、最後に切り捨てるのが一番だ――関に対する八木の評価はこの程度のものであった。  河辺はどうか。この男も平気で仲間を裏切る。正信会問題の時は、さんざん正信会を煽っておきながら、御前さん(法主日顕)に近づくため、簡単に手の平を返して正信会つぶしに回った。掛けた梯子を外された正信会も気の毒と言えば気の毒だったが、こんな男を信用したのが間違いだった。  たしかに、この男は謀略に長けてはいる。しかし、いつも口ばかりで、分が悪くなると真っ先に逃げだす。御前さんも河辺のことなど信用されていないはずだ。実際に学会攻略の戦いが始まれば、猊下直系の弟子が動くしかない。その筆頭として私はここに呼ばれたのだ……。  八木は昭和十年、札幌教会(現・日正寺)住職の藤本玄奘の次男として生まれた。三男が総監であり東京・常泉寺住職の藤本日潤、五男が埼玉・妙本寺の藤本信恭である。  戦前の宗門は非常に貧しく、八木は藤本家の生活苦から、同じ北海道の上川郡にあった法宣寺の八木直道のもとへ養子に出された。  八木はその後、日顕が住職をしていた本行寺に在勤し、日顕の弟子になっている。他には、藤本信恭、高橋信興、石井信量、大橋信明などが日顕の弟子であった。やがて八木は本山に入って遠信坊の住職となり、教学部主任や年表作成委員などの宗務院の役職を務めた。  将来を嘱望されていた八木の唯一の足枷が養父の八木直道の存在であった。直道は国立戒壇問題で日達上人を詰問したり、「お伺い書」を送付するなどして宗内を撹乱し、昭和四十九年に擯斥処分となった。そのとき、八木も養父の責任を取る形で教学部主任を辞任している。  養父・直道が日達上人に歯向かうようになったのは学会のせいだ、と八木は思い込んでいた。  かつて、法宣寺で行われた村葬の際、直道は袈裟衣を着た他宗の僧侶を本堂に招き入れるという大謗法を犯したことがあった。学会員がこのことを当時の日昇上人に質問し、庶務部長だった日達上人が、「本宗にとっては謗法になります」と明言し、直道は本山へ戻された。この事件から、直道は日達上人を憎み、学会に敵意を持ち始めたのだった。その一部始終を見てきた八木も、自分の悲運な人生は学会のせいだと逆恨みをし、学会員を嫌悪していた。「在家のくせに僧侶のことに口を出すとは許せない」と、八木はことある毎に怒りをぶちまけていた。  その八木の不運な人生が好転したのは、日顕が法主になってからである。阿部日顕の一族は、宗門ではごく小さな派閥に過ぎない、その阿部家が天下を取る時代がきたのだ。八木をはじめ、日顕の弟子にとっては夢のようなことだった。          ◆◆◆  (ところで、僧侶の世界は閉鎖的で、しかも特殊な人脈が幾重にも張り巡らされているから、一般の常識では理解しがたいところがある。そこで、当時の宗内事情について、その概略を述べておきたい)  第六十六世・日達上人の就任に伴い、宗門では昭和三十五年三月から、年分得度制度が始まった。これは本山で一括して得度者を採り、現法主の弟子として大坊で育成する制度である。  当初、日蓮大聖人が十二歳で清澄寺に登ったことに倣い十二歳の少年を対象としていたが、その年に十二歳になるということは三月時点では小学六年生にあがる前であり、転校等の問題もある。そのため、後に対象はその年に中学一年生にあがる者に変わった。  それまでは各末寺の住職が弟子を取って面倒を見ていく、いわばマンツーマン式の指導法であったが、宗門の所化・学衆は集団得度、集団教育という新しい時代を迎えた。  その第一期は二十二人、その内一人だけが寺族、すなわち僧侶の子息で、残りは皆、創価学会員の子息であった。この年分得度制度により、毎年二十五人前後の者が得度し、日達上人の直弟子となった。単純に計算しても、十年間で二百五十人、二十年間で五百人を超える僧侶が誕生することになる。  ところが、問題はその育成だった。当時の宗門には二十数人の小僧を教育するだけの体制が整っていなかった。本山で手の空いている者は、大学を卒業して本山に一年在勤する所化しかいない。必然的に彼らが小僧を面倒見ることになった。しかし、子供を教育した経験のない彼らの中には、暴力を振るう者もいた。また、代々坊主の所化の中には学会批判を口癖にしていた者も少なくなかった。  希望に燃えて本山に入った少年たちを待っていたのは、先輩に対する絶対服従と暴力による制裁だった。まるで軍隊さながらの大坊生活が始まる。そこで小僧は、僧俗差別の考えを徹底して教え込まれていく。  僧侶になった、出家したということ自体が信心のある結果である。だから、これからは信心を深めることは一切、考えなくてよい。折伏もしなくてよい。題目もあげてはいけない――これが所化の歓迎の言葉だった。  学会出身の少年たちは、両親が信心に励む姿を見て育った。だから、信心とは勤行・唱題、折伏のことだと思っている。そう思って唱題すると、本山の所化たちは、もっともらしい顔をして言った。  「僧侶は題目をあげる必要はない。僧侶が題目をあげていると、この僧侶には何か悩みがあるのではないかと、信者が不審がる」――まさにへ理屈である。しかし、小僧たちは洗脳されたように、誰も題目をあげなくなってしまった。  所化たちは小僧の前で、学会批判を繰り返す。次第に小僧の目にも、真剣に唱題し、折伏している信徒の姿が愚かなものに映りだす。いつしか、大坊では、創価学会の悪口を言わないと僧侶ではないという雰囲気ができ上がっていった。  得度したばかりの小僧は池田会長が本山に来ると、「先生!」と大喜びで手を振った。しかし、大坊生活は純粋な少年の心を破壊してゆく。小僧たちは池田会長を「池田さん」と呼ぶようになり、やがて呼び捨てにするようになる。  年分得度が始まって七年目になると、小僧は小学校六年から高校三年まで、七学年で百五十人を超える集団となった。しかし、相変わらず、本山には学衆を教育する機関はない。大坊は無法地帯になっていった。先輩が後輩をいじめる。子供の世界は残酷である。程度を知らない中学生は相手が失神するまで殴りつける。この異常な暴力に耐えきれず、還俗する者も出てきた。  大坊の小僧は富士宮の中学・高校に通っていたが、不良と呼ばれている者たちも「大坊」と聞くと逃げ出した。毎日、殴られて育っている大坊の小僧は喧嘩では既にプロだった。彼らは言った。「殴られるのは怖くない、慣れている。喧嘩は怖がったほうが負けだ」と。そして、不良たちは言う。「ヤクザと大坊には手を出すな」と。事実、大坊の小僧は地元のヤクザともめたこともあった。  年分得度の一期生が大学を卒業して本山に在勤しはじめたのは、昭和四十六年の春からである。この年から、無任所教師が増え続けることになる。彼らは暇をもてあまし、学会批判に明け暮れていく。  創価学会は昭和四十五年一月に念願の七百五十万世帯を達成。そして昭和四十七年十月十二日、世界八百万信徒の真心の浄財により、世紀の殿堂・正本堂が落慶した。  七百五十万世帯を超える創価学会の急激な発展に伴い、日蓮正宗はその歴史においてかつてない繁栄の時期を迎える。過去の宗門の貧しい時代を知らない年分得度の僧侶たちは、その繁栄を当たり前のものとして受け止めていた。信徒の供養に対する感謝の念も持たず、本山で増えていく無任所教師や学会嫌いの僧侶たちが“活動家僧侶”と呼ばれ、学会批判を始めていく。そして、それがやがて第一次宗門事件に発展していくのである。  日顕から見れば、この新参者たちの集団は、将来の脅威だった。やがて、日達上人の弟子は宗内で最大派閥になり、宗門を牛耳っていくに違いない。  宗門には明治以降、僧侶の妻帯に伴って、血でつながった閨閥ができ上がっていた。日応法主の血を受け継ぐ早瀬家は有名であるが、他にも日顕や、日顕の師僧である高野日深の法類のように代々坊主の娘が坊主の家に嫁ぐなどして、縁戚関係が複雑に入り組んだ派閥が生まれている。  その中でも特に際立っていたのが、早瀬家の出身者を中心に構成された「法器会」の存在であった。彼らは豊島区の法道院を中心としてお互いに連絡を取り合い、定期的に会合も開催していた。どこかで赤ん坊が生まれると、すぐにその知らせが電話やファックスで回覧された。まさに一大ファミリーである。  これに対抗する形で、日達上人の弟子は「妙観会」を結成する。「妙観」とは日達上人の阿闍梨号である。第一次宗門事件を引き起こした「正信会」の中心はこの「妙観会」の者たちであった。  当時、宗内には「末寺で弟子を取るから派閥が生まれる。本山で一括して弟子を取れば派閥は解消される」という考えがあった。ところが、結果的には「妙観会」対「法器会」、「年分得度」対「代々坊主」たちという新しい派閥抗争が始まることになった。  代々坊主たちは本能的に守りあうように姻戚関係を結び、高野日深の娘が、早瀬日慈の二男・義雄の嫁になり、高野家と早瀬家が繋がる。また、日顕の娘・百合子は早瀬の三男・義純に嫁ぎ、阿部家と早瀬家も繋がった。  この代々坊主と「妙観会」の争いを利用した人物が一人いた。山崎正友である。山崎は学会の顧問弁護士という立場から、昭和四十八年頃から本山の仕事に携わるようになる。そして本山の実態を知った山崎は、学会嫌いで世間知らずの僧侶集団を利用できると考え、彼らをいともたやすく手玉にとっていった。  そして、山崎は学会と宗門の間で軋轢を生じさせ、その仲裁役を演じて学会と宗門の両方に影響力を持つことをもくろんだ。  マッチ・ポンプの山崎に乗せられて、反学会僧侶が騒ぎ始めた。しかし、そのたびに、池田会長が日達上人と直接話し合い、紛争の火種は消された。また、山崎はその堕落した生活を池田会長に見抜かれ、叱責を受けた。そこから山崎は池田会長を逆恨みし、僧侶の権威を利用して池田会長を追い落とすことに躍起になり始めた。その結果、山崎の情報に操られた反学会の僧侶たちが第一次宗門事件を起こし、事態収束のため池田会長は勇退した。  昭和五十四年をピークとする第一次宗門事件の中心は年分得度の若手僧侶であった。阿部や早瀬たち代々坊主は、山崎と若手僧侶が結託して台頭していくのを苦々しく思って見ていた。代々坊主たちは昔の貧しさを知っている。だから下手に学会と問題を起こしたくないという気持ちもあった。また、彼らからすると貧しい時代を知らない年分得度者たちが贅沢な生活を当たり前に思っているのも癪にさわった。  平成二年に表面化した第二次宗門事件ではそれが逆転する。日顕の登座により、阿部家、早瀬家の代々坊主たちが宗内を支配するようになっていた。 日達上人が急逝し、山崎は慌てる。今度は日顕を情報操作しようと企み、日顕に面会を求め、「申し上げるべきこと」なるメモをもとに、日顕を操作しようとした。しかし、結局、山崎は日顕から「あんたは大嘘つきだ。あんたを絶対、信用しない」と怒鳴られたうえ、二度と本山に来るなと絶縁された。  怒った山崎は日顕攻撃を開始する。そして、昭和五十五年十一月の『週刊文春』に日顕の血脈を否定する山崎の手記が公表された。それは、「二つの疑惑=日達上人の遷化と阿部日顕の相伝」と題し、「日達上人は、事実上の“指名”なり、心づもりなりを周囲の人人に話されたことはあるが、“御相伝”そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だれもいなかった」と書かれていた。  この手記は宗内に大変な動揺を及ぼした。活動家僧侶で結成された「正信会」は、この山崎手記を有力な根拠の一つとして、日顕は相承がないから法主ではないと言い出し、昭和五十六年一月、百八十人を超す正信会僧侶が原告となり、日顕に対して「代表役員等地位不存在確認請求訴訟」を提訴した。日顕は翌五十七年十月までの間に、その正信会僧侶百七十九人を擯斥に処している。  日顕にとって正信会は大きな反対勢力である。自分が弟子を取れば、いずれ、自分の弟子たちとこの反対勢力の派閥抗争が激化してくることは容易に予想できた。だから、日顕は躊躇することなく、正信会の僧侶を擯斥に処したのだ。しかし、その結果、その処分を巡る訴訟が全国の裁判所で行われ、以後二年間以上にわたって、日顕を苦しめることとなった。  一方、日顕を取り込むことに失敗した山崎は金に困り、学会を恐喝する。自らが顧問弁護士を務めている団体を恐喝するという前代未聞の事件を犯した山崎は国法によって断罪される。昭和六十年三月二十六日、東京地裁は恐喝の罪で懲役三年の実刑判決を下した。山崎はこれを不服として控訴したが、六十三年十二月二十日、東京高裁で控訴棄却の判決が下される。山崎は懲りずに上告するが、平成三年一月二十二日、最高裁は上告を棄却し、懲役三年が確定した。  後に、この犯罪者である山崎に対して、日顕は自分に相承があったことを認めてもらうために頭を下げる。犯罪者に認めてもらわなければ成立しない相承とは何か。日顕こそ、日蓮正宗の威信を地に貶めた者なのである。  日顕は、住職時代、そして教学部長時代にあっては、何度も名誉会長に頭を下げてきた。「どうすれば僧侶に学会のような折伏精神を教えることができるのでしょうか」と指導を受けたこともあった。当時の日顕を「名誉会長の前では、まるで米搗きバッタのようだった」と揶揄する僧侶もいたほどである。  「正信会」問題の時もそうだ。正信会は、山崎正友に煽動されて学会批判を重ねていた。日顕が登座してからは、彼に歯向かい、最後には山崎と結託して「阿部は日達上人から血脈相承を受けていない」と言い出して裁判まで起こした。  この「正信会」の僧侶の動きを封じるため、日顕は学会を利用しようとした。特に昭和五十八年に正信会裁判に決着の方向性が見えるまでの約四年間、日顕は名誉会長と学会の功績を徹底して賞賛し、宗内にあって学会寄りの僧俗和合路線といわれるようなポーズを演じてきた。  法主になって後、目通りの席で、一段と高い場所から名誉会長を見下ろすことになった。これほどの快感はない、と日顕は思っていた。しかし、目の前にいる名誉会長は常に堂々として真正面から自分を正視してくる。日顕はいつも圧倒されていた。  日顕は一度、自分の威厳をみせつけるため、名誉会長に「だいたい、あんたが偉すぎるんですな!」と難癖をつけたことがある。しかし、その時も、名誉会長は全く威儀を崩さず、かえって、日顕の方がひるんで、次の言葉が出なかった。  日顕は法主である自分に対して、言うべきことをストレートに言ってくる名誉会長に、過去の嫌な思い出を重ね合わせることがあった。それは、かつて戸田第二代会長に本山で怒鳴りつけられたことである。  日顕はそのことを『大日蓮』(昭和三十三年五月号)に寄せた「戸田会長先生の御逝去に対して」と題する一文の中で次のように書いている。  「私の罪障と云はうか、先生の云ういはゆる坊主根性の為か、昭和二十四年頃の私は、自らの心にある垣根を作り、それが円融闊達にして師厳道尊なる先生の精神に半ば通じない事があった」  何やらもったいぶった書き方をしているが、要するに、日顕は本行寺時代に学会員を脱会させて檀徒づくりをしたことがあり、そのことを知った戸田会長から「コラ! 阿部! 貴様のやっていることはインチキだ!」と叱りつけられたことを告白しているのだ。戸田会長も衣の権威が通用しない恐ろしい相手だった。  一事が万事で、日顕は名誉会長に会うたびに、自分の器の小ささを思い知らされた。だから、日顕は自分が頂点に立つためには、法主の権威で、名誉会長を葬り去るしかないと骨身に染み込ませたのだ。  日顕が「西片会議」の前に打ち合わせを持ったのは、“名誉会長追放”を少しでも早く実行するために呼吸合わせをしておきたかったからで、そのためにはまず慎重派の河辺を説き伏せる必要があると考えたからだった。河辺さえ丸めこんでしまえば、あとは法主の権威で押し切ることができると踏んでいた。しかし、河辺は首を縦に振らなかった。  河辺は、日顕の卑屈なまでの劣等感や嫉妬心に付き合って、無計画に学会を敵に廻すことだけは、どうしても避けたかった。宗門の将来を考えれば、できるだけ信徒を確保することが大事である。しかし、日顕がこのまま暴走すれば宗門はかなりのダメージを受けることになる。  日蓮正宗は日蓮系の教団の中で最も弱小な教団であった。  ちなみに、明治三十七年の政府調査によると、当時、日蓮宗富士派と呼ばれていた宗門の寺院数は八十七であったが、それに対して住職数は四十七人だった。すなわち、半数近くの寺院が住職のいない無住寺だったことがわかる。そのくらい貧しかったのである。  学会の供養があっての宗門の繁栄である。学会が出現する前の、戦後の末寺の悲惨さを思い起こしてみればよい。もしここで下手に学会を敵に廻してしまえば、宗門は昔のように貧乏寺の集まりになってしまう――河辺は今の贅沢な生活を手放すことを恐れていたのだ。          ◆◆◆  テーブルの上には、四通の投書が置かれている。  その投書を平手で叩きながら、  「追放だ、追放!」  そう言って、日顕は河辺を睨みつけた。  「正信会の時のような手ぬるい作戦ではダメだ。まず、トップを倒す。そう言ったのはお前だろう」  「ですから、先ほども申し上げたように、まだ時期尚早かと……」  「あいつが死ぬまで待てというのか。何年先のことだ。十年か、二十年か!」  日顕は癇癪を起こしていた。しかし、その声に驚いてビクッと体を震わせたのは関だけであって、河辺も八木も、押し黙ったままであった。  「この投書を見ろ。在家のくせに……僧侶を、いやワシのことを馬鹿にして!」  それは学会員を名乗る者から本山に送られてきた投書であった。内容はどれも似かよっており、名誉会長が最近のスピーチの中で僧侶批判をしていると書かれていた。また、そのスピーチの中には明らかに猊下のことを指していると思われる部分もある、ともあった。  「おい、お前たちはどう思うんだ」  八木は日顕の怒声には慣れている。冷静な声で答えた。  「名誉会長が昔から僧侶を軽視しているのは事実です。いくら御法主上人が教導されても直らないと思います。やはり追放するしかないと思います」  八木がそう言い終わると、関が慌てて続ける。  「は、はい。わたくしも同感です」  関の声は上擦っていた。下手に余計なことを言えば、日顕の怒りを買う。そう思って関は短く答えた。  この時、関は過去の自分の発言を思い出して、手の平に汗をかいていた。  関は常に二つの顔を使い分けていた。宗門の僧侶には学会批判をし、顔見知りの学会の幹部には宗門の批判をしていたのである。  特に学会出身の「臨得」は、宗内にあって「年分」の何倍も学会批判をしないと信用してもらえない。だから、正信会問題の渦中、昭和五十四年四月に関は本山の「虫払い法要」の布教講演会で、ここぞとばかりに自分が反学会であることをアピールした。  「学会の逸脱の根本原因は三宝帰依の誓いを忘れてしまい、僧侶より自分たちのほうが信心がよく分かっていると思ったところにある。御法主上人こそが現代の大聖人であり、御本尊根本、御書直結という信心はない」  しかし、この時期、関はいつまた学会が有利になるかわからないとも考えていた。だから、万が一のことを考え、学会の幹部に信用してもらえるように、わざと宗門の実態を告発するような話を繰り返していた。  ある時、関は宗門の上層部の動向をわけ知り顔で話した。  「藤本庶務部長は、日達上人の一番弟子だが、無能だから、二番弟子の菅野が妙観会を牛耳っている」  「阿部教学部長は冷たい。日達上人は親分肌で温かいところがあるから人気があるが、彼は人気がない。孤立している」  関の発言は時には無防備だった。日達上人が遷化した日にも、「まだ血脈相承を受けたという人が名乗り出ていない。もし、血脈相承を受けた人がいなければ日蓮正宗はつぶれてしまう。宗内僧侶は皆、真っ青になっている」。そんな際どい発言をして、学会の幹部を驚かせた。  いまだに関が後悔しているのは、迂闊にも法主の内証や血脈について学会の幹部に話をしてしまったことだった。  「法主は大聖人の内証を受け継いでいるというが、実態はそうではない。主師親三徳具備の御本仏に対して、師の徳一つ取り上げてみても、はるかに及ばない。名はあっても実がないところに法主の悲劇がある」  「血脈相承と言っても神秘的なものではない。法主が“次はお前だ”と申し渡す、単なる指名権に過ぎない。要するに派閥ができやすい体質だから、御本尊を書写するコピー係を一人だけ決める」  もし、この時の自分の発言が日顕の耳に入れば、自分はおしまいだ。そう思って、関は背筋が凍った。  ――三人とも、何も分かっちゃいないな、と河辺は改めて思う。学会を攻略するには、まず宗門の体勢を立て直し、そのうえで学会を攻めるという周到な作戦が必要である。並大抵の手立てで対抗できる相手ではないのだ。やるのなら、的を名誉会長一人に絞って、一気に潰すしかないのだが、今の宗門に学会を敵に廻して戦うだけの根性を据えた僧侶は見当たらない。結局、名誉会長の死後、その混乱に乗じて事を起こすしかない、というのが河辺の本心であった。  ところが、日顕にはそんな深謀遠慮が通じない。すぐさま名誉会長を追放しろという。この日顕と河辺の思惑のズレから、一連の会議はその決行時期をめぐって紛糾する。  やがて、総監・藤本日潤、庶務部長・早瀬義寛、渉外部長・秋元広学が、翌十七日に行われる学会との連絡会議の事前協議を終えて西片に到着した。そして、計七人による「西片会議」が始まった。  日顕は自分のペースで話を進めるため、関に進行をまかせた。そして、まず“名誉会長追放”の第一弾の決行日を決めさせた。河辺はもとより、藤本総監や早瀬庶務部長も腑に落ちない顔をしていたが、日顕の険しい表情を見て、何も言えなかった。  「決行は、明日の学会との連絡会議の席が望ましいと思います。学会は例の宣徳寺と是生寺のことで話し合いをしたいと言ってきていますので、ここは先手を打つことが大事かと思われます」  関は、少し早口で翌十七日の決行を訴えた。  例の……と言って、関が引き合いに出した宣徳寺と是生寺の件とは、こういうことだ。  平成二年七月二日に、世田谷・宣徳寺の本堂、庫裏増改築落慶法要が行われたが、この宣徳寺増改築にあたり、大阪・調御寺の高野法雄が二億五千万円の金を融資していた。法要で挨拶に立った高野はこの融資の件を話のネタにした。そして、高野は資金を無利子・無担保で貸したことに触れ、宣徳寺の秋元広学と「娘なら担保になるが、奥さんではダメだ」などと言い合った様子を面白おかしく話した。このことが参加者の顰蹙を買ったのであった。しかも、高野がこの融資にあたり、総代三人の氏名と印鑑を無断で使っていたことが後に発覚している。  秋元広学は不祥事を起こした当事者の一人である。この会議の場では身の置き場もなく、縮こまっていた。  その問題が日顕を煩わせていた最中に、是生寺の問題が起こった。七月十一日に、石川県・是生寺の新築落慶法要が行われたが、住職の坂部が「当日の御供養はすべて猊下が持っていくので、寺への供養は別に包んでくれ」と学会の幹部に話し、まるで供養の二重取りだと大問題になった。  結局、日顕自身が当日の説法の中で「すべて私の責任であり、大変申し訳なく思う」と謝罪せざるを得ない事態になってしまい、面子をつぶされた日顕は、激怒し、坂部は隠居させられた。  学会側がこの宣徳寺と是生寺の問題を連絡会議で取り上げれば、必然的に連絡会議の内容は宗門の綱紀のことに集中するかもしれない。そうなれば、“名誉会長追放”の最初の一手を打つのが難しくなることは、日顕にも十分予想できた。しかし、それでも日顕は、今しか“名誉会長追放”を決行する時はないと決めていた。  「わかった。明日だな。みんな、いいな!」  と日顕が声を荒げると、八木が「はい」と即答し、他の者もそれに従って頷くしかなかった。ただ、河辺だけは、何か言いたそうであったが、日顕が「それで……」と言い、関に先を急がせた。  関は手元のノートに目を落としながら、翌日の学会との連絡会議で宗門からの要求事項として学会に突きつける二点について説明した。  「まず、財務において『供養』と称することは『六・三〇の教義上問題』に違反するということを指摘し、次に学会は、現在募金中の財務募金を中止し、募金したお金は会員に返還させることを要求します。そして、この責任をとって、名誉会長の総講頭解任を通告します」  関は一息ついて、話を続けた。  「ここで問題になるのは、学会から、宣徳寺と是生寺の件について話し合いをしたいと言ってきていることですが……」  「そんなこと、勝手に言わせておけばいい」  日顕が秋元を一瞥して、声を張り上げた。  「問題はこの投書だ、財務を供養と言っていると書いてあるじゃないか。そこを攻めればいいんだ」  日顕の声に怒気が増してきた。  「おい、いいか、池田は追放だ。この投書を見ろ! 総講頭解任だ、そう言ってやるんだ。わかったな!」  日顕は自分で話しながら興奮して、一気にまくしたてた。  「ちょっと待ってください」  我慢しきれず、河辺が口を開いた。  「財務中止は学会にとってかなり大きな問題です。ましてや、名誉会長の総講頭解任など、絶対に認めないでしょう。向こうも黙っていません。必ず、こちらの急所をついてきます。特に、最近の宗門の綱紀が乱れていることは向こうにも伝わっています。それこそ、その信徒の供養で贅沢をしているのが宗門だ、と切り返されるに決まっています」  河辺の話を聞く日顕の顔はまだ、怒りで上気して赤くなっていた。日顕の目を現実に向けさせなくてはならない。河辺は続けた。  「財務をやめさせることによって、学会の財力をそぐことが学会攻撃の重要な部分です。しかし、その責任を名誉会長のせいにして解任を迫るには時期が早すぎます。戦う時を間違えば、両刃の剣になる。現状の宗門でこの問題を突きつければ、返す刀でこちらも切られます。学会の組織全体でそれをやられたら、こちらはひとたまりもありません。もし、やるなら、まず先に宗門の綱紀を正し、その上でやるべきです」  「うーん……」  日顕が唸り出した。  河辺はこの宗門の綱紀の問題については、今までにも何回か日顕に進言していた。そのたびに日顕も頷いていたが、内心ではそんなことはどうでもよいと思っていた。  「だがな、こうやって投書がきてるんだ。お前は、これを放っておけと言うのか」  日顕は何としても、“名誉会長追放”の即時決行を下したかった。ところが、次の藤本総監の一言が状況を一変させた。  「申し訳ございません。その投書は伝聞をもとにしたもので、総講頭解任の根拠としては問題があるかと思います」  「なんだと!」  日顕が驚きの声をあげた。  「申し訳ございません。投書した本人に電話で問い合わせましたところ、直接聞いた話ではないと……」  「なぜ、はじめに確認しなかったんだ」  総監が言い終わらないうちに、日顕が総監に向かって怒鳴りつけた。  「はい……申し訳ありません」  「今さら、何だ!」  日顕は勢いをそがれた。  河辺は日顕の余計な怒りを買わないように言葉を選んで話しはじめた。  「これだけの問題を突きつけるのに、その根拠となる証拠が伝聞では危険です。まずは、名誉会長と学会が宗門を批判している確かな証拠となるものを集めなければなりません。そして同時に綱紀の問題も含め、こちらの態勢を固める必要があります」  河辺の話を聞きながら、総監と庶務部長も頷いた。しかし、日顕は憮然としたまま、河辺の顔を睨んでいた。  河辺の思惑どおり、明日の連絡会議で総講頭解任の通告をすることは取り止めとなり、学会から、宗門僧侶の綱紀の乱れについて協議したいと提案してきていることに対しては、学会側の言い分を聞くだけ聞くことになった。  しかし、日顕は、財務を御供養と称していることについては、その連絡会議で追及することを命じた。日顕は何としても、名誉会長追放の一歩を進めたかった。その追及に対する答えいかんで、次の手を打つことができる。もし、学会が反発してくれば、「六・三〇」違反だとして、名誉会長に責任を転嫁すれば良い。日顕は姑息な計算をしていた。  「六・三〇」とは、昭和五十三年、学会の書物や指導の中に、宗門伝統の教学から見て逸脱があるとの宗門の主張に対し、学会側の見解を「教学上の基本問題について」と題して、同年六月三十日付の聖教新聞に発表したことである。  当時、宗門では反創価学会の僧侶が「活動家僧侶」と呼ばれ、盛んに学会批判を行っていた。それは全国の末寺に飛び火し、住職が葬儀や御講の場で学会の批判をして、脱会者作りを始めていた。これが「第一次宗門事件」である。  六月三十日の聖教新聞の文書は、このような状況のもとで、宗門が学会に対して謝罪・訂正を迫って、掲載されたものだった。もし、この時、学会が宗門の申し出を拒否すれば、僧俗の対立は決定的なものになることが予想された。創価学会は会員のため、そして広宣流布を進めるため、僧俗和合を強調した。  その時、宗門は名誉会長の「在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」との発言を問題にした。これは昭和五十二年一月十五日、関西戸田記念講堂で開催された第九回教学部大会の中で、当時、会長だった名誉会長が「仏教史観を語る」と題して行った記念講演の中に出てくる発言であった。  しかし、日達上人は昭和五十一年六月十八日の室蘭・深妙寺における説法の中で「学会には賽銭箱が無いのに決まっておる。それで御供養を受けたって、それは、学会はやはり一つの宗教団体である。御供養を受け、或いは寄付を募集する。そりゃあ皆んな、自分の学会員、信徒、それ等から貰うんで少しも恥ずることも無ければ、世間で批判することの筋合も無いのでございます」と述べている。すなわち、在家であっても供養を受ける資格があるということを、日達上人が認めていた。  日顕は絶対にそのことを認めたくなかった。実際には、学会は広布基金という形で、会員からの寄付を受けていた。しかし、日顕にとって、僧俗を区別する基準の一つが、供養を受けることができるかどうかである。供養を受ける資格があるのは僧侶だけであり、学会が「供養」という言葉で寄付を受けることを日顕は絶対に許すことができなかった。  日顕は「六・三〇」を、名誉会長追放の“切り札”として使うつもりであった。これに違反をしているから、総講頭を解任する。その口実を作る手始めとして、明日の連絡会議で供養問題を取り上げさせる。  日顕は他にも、いくつか指示をした。名誉会長が日顕や宗門の批判をしているという投書がきているが、それが本当かどうか。万が一の場合に備えて、それらの質問事項を書面にし、それを渡して回答をさせるように準備をしておく。  また、以前の目通りで、日顕が「学会が丑寅勤行の参加者を制限している」と話したことを、もう一度議題にして、丑寅勤行の参加者を増やすように言い渡す……。  日顕の指示を踏まえて、明十七日の連絡会議で藤本らが学会側に詰め寄り、その結果を受けて検討するため、十八日に再度会議を持つこととなった。また、名誉会長の発言の証拠が一番必要だとの声により、関が学会の幹部から情報を取るよう命じられた。  また、今後の会議もこの七人で行い、各自が情報を収集して万全の準備を整えたうえで名誉会長追放に立ち上がること、それまでは、会議の内容は絶対に他言無用であることが確認され、散会となった。  「河辺の馬鹿小僧が……余計なことばかり言いおって!」  六人が西片を去ったあとも、日顕の怒りはおさまらなかった。  「俺は達師(日達上人)とは違う。思い知らせてやる……」  日顕にとって創価学会は体が受けつけない異物だった。異物は吐きだすか、摘出するしかない。  日顕の理想は僧侶が主体の宗門である。創価学会はあくまでも壇徒として寺院に所属し、僧侶から指導を受ける――この考えに憑かれていた日顕は、その自分の考えを自慢げに日達上人に話したことがある。  日顕は昭和三十六年に教学部長に就任していた。日顕は日達上人から内示を受けたその日の朝に“夢のお告げ”があった、と平成四年八月の教師講習会で話した。要するに夢に見るほど、教学部長になりたかったのだ。  日顕は役職を権威としか考えていない。だから、自分は教学では日達上人よりも上であるという慢心を起こし、日達上人に忠言を気取った。そのことを日顕は平成四年八月の教師講習会で白状している。  「(日達上人に)『これからの宗門においては創価学会を外して考えるべきではない』と言われ、そこで私は、寺院における僧俗和合という、自分の広布推進の考えは一時、見合わせた」と。  また、日顕はその翌年にも「近年において創価学会が現れ、信者だけの組織による仏法流布が試みられました。(中略)しかしながら、ある時期に至ったならば当然、その本来の在り方である僧侶が指導する在り方に、次第にその弘法の姿が変わってこなければならなかったのであります」(平成五年一月、西九州親教)と長年の自分の妄想を執念深く語っている。  日顕が自ら語ったように、日達上人から「これからの宗門においては創価学会を外して考えるべきではない」と厳しく弾呵された彼は、昭和三十八年四月、東京の本行寺から京都の平安寺に転任させられた。ここから、日顕は日達上人に対して恨みを持ち、学会に対しても一層の憎悪を燃やし始めたのであった。  日達上人は常に宗門の中心にいて、学会の発展と宗門外護の歴史を自らの目と体で感じてきた。しかし、宗門のほとんどの僧侶は、学会は自分たちの権威を脅かす忌むべき存在ととらえていた。日達上人は、日顕のように僧俗差別と我が身の保身に囚われている僧侶に、法主として厳しい態度で臨まなければならなかった。日顕を京都に行かせたその三カ月後、日達上人は宗内に「訓諭」を発表した。  「一大和合僧団創価学会に対し 実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば 其籍 宗の内外に在るを問はず 全て是れ 広布の浄業を阻礙する大僻見の人 罪を無間に開く者と謂ふべし」(昭和三十八年七月十五日付)  日顕は自分の考えを迂闊に日達上人に話してしまったことを悔やんだに違いない。それ以降、日顕は上辺では学会理解者を装い続け、「自分の広布推進の考え」を実行する時を虎視眈々と狙っていたのである。  魍魎は好んで死者の魂を食らうという。死後の儀礼を生業とし、その報酬として信徒の骨身を削った供養をむさぼる者たち。大石寺の魍魎は、その醜い姿を平成の世に顕し始めていた。 ●御前会議  平成二年七月十八日、大石寺の上空はどんよりとした重たい雲で覆われていた。  日顕の履くスリッパの音が、大奥から大書院に続く廊下に響いた。大書院で待っている者たちはそのスリッパの音を聞き、「お出まし」に備えて身を硬くした。  日顕が大書院に入って来た。  「おはようございます」  そこには、二日前に西片に集まった時と同じ面々――藤本、八木、早瀬、秋元、河辺、関――が事務衣を着て座っていた。  大書院の様子はいつもと違っていた。障子がすべて開かれている。当初、この「御前会議」は大奥で行う予定であったが、万が一の盗聴を恐れて、わざわざ大書院に変更された。障子を開け放てば、人が隠れる所もなく安全であるからだ。  御前会議に先立って、庶務部長の早瀬が、前日に常泉寺で行われた学会との連絡会議の報告をした。  「とにかく、初めから終わりまで、宗門に対する苦情というか……」  早瀬は時々、手の平をさすりながら話をする。手が荒れる持病があるため、いつも手の平に軟膏を塗っている。  「こちらからも、最近、学会が財務を供養と称しているとか、学会が猊下の批判をしているという話も聞いているが、と言いましたら、『今さら、「六・三〇」違反を出してくるのはおかしい』とか、『僧侶の中にも猊下は権威的で怒りっぽいと言っている者がいる。一方的に学会だけが批判しているというのはおかしい』と」  「なに、ワシが権威的だと! 誰がそんなことを言ってるんだ」  一瞬、日顕はカッときたが、それでは自分でそのことを認めるようなものだ。  「へへへ。まあいい。財務問題はまた証拠を集めて攻撃すればいい。それで」  日顕は時々、怒ったあとで「へへへ」と笑うことがある。直情的な性格を笑ってごまかすのだ。  「はい。そのあと、例の話がありまして。末寺の増改築に対して、宣徳寺の例をあげ、庫裏があまりにも豪華すぎる。地元の会員からも疑問が出ていると……」  秋元はバツの悪い顔をして下を向いた。たしかに、宣徳寺の庫裏は、高価な調度品に囲まれた贅沢な造りであった。  「また、中には是生寺のように、新築を理由に供養を強制している寺もあると」  「坂部の馬鹿小僧が……」  日顕は苦虫をかみつぶしたような顔をした。  どこの寺も庫裏が豪華なことは、日顕も十分承知していた。結果として、末寺の新築・改築を奨励してきたのは日顕だった。  日顕が法主になってから、宗内で改築ブームが始まった。本堂の増築・改築のために「特別御供養」と称して会員から供養を募る寺もあったが、学会の供養を当てにして銀行から融資を受けるケースもあった。そしてさらにあくどいことは、そのほとんどが本堂よりも庫裏の増築・改築費が高いことだった。  住職たちは競うように豪華な庫裏を造っていた。大理石でできた浴槽、最新のシステムキッチン、高価な家具が並ぶ一流ホテルのような部屋。家庭用エレベーターを設置する寺もあった。それを見た者は誰もが羨み、「それではうちの寺も」と言い出すのだった。  日顕にしてみれば、自分が親修で末寺に行けるのは、新寺の落慶か増改築の時だけだ。末寺は末寺で、改築は供養集めの絶好の名目である。「猊下をお迎えするためにも」と言われれば、学会の幹部も、何も言えない。さらに住職は、よその寺に負けないようにと、激しく供養を募る。悪循環であった。  日顕はそうした風潮を知ったうえで、それどころか、内心ではもっと多くの寺が増改築すれば、自分が親修で全国を回れると期待し、「実に立派な寺ができた。これも、住職の道念の賜物である」と褒めたたえた。  しかし、会員からすれば、「少欲知足」の僧侶が贅沢な生活に転じていくことは僧侶の堕落としか思えなかった。  早瀬が住職をしている大願寺は十億円をかけて新築をした。地上三階、地下一階。本堂も立派であったが、庫裏も特別な造りであった。  住職の部屋は暗証番号のついたオートロックで家族以外は誰も中に入れない。食事の時間になると、住職の家族が二階の庫裏からエレベーターで一階の食堂に降りてくる。台所の外国製のシステムキッチンは住職の女房の背丈に合わせて造ったオーダーメードで、普通のものより低くできている。  普通の会員は庫裏に入ることができない。だから、住職たちは、どうせ信者には分からないだろうと思って豪華な庫裏を造る。しかし、時間がたつと、寺に出入りする業者から、少しずつ、庫裏の豪華さが噂となって広がっていった。  早瀬の一番の自慢は、新築費用を借金なしに現金で払ったことだった。しかし、それはすべて学会員からの供養である。代々坊主は皆、供養に対する感謝の念がない。彼らは供養をするのは信徒の義務で、もらってしまえば自分の金だと思っていた。  早瀬は不快な顔で報告を続けた。  「その他にも、僧侶の結婚披露宴が非常に派手であるとも」  「うーん。披露宴のこともか……」  僧侶の結婚披露宴が派手になったのも、日顕の代からである。特に役僧の娘や大寺院の娘の結婚披露宴は東京の一流ホテルで数千万円かけて行う場合もあり、宗内からも「やり過ぎだ」という声が上がっていた。  早瀬は長女が結婚したばかりで、その披露宴も宗内で有名になったほど派手だったので、あまりこの話題には触れたくなかった。早瀬の長女は福岡・教説寺(当時)の國島道保と結婚したが、その披露宴は、東京のホテル・オークラで盛大に行われた。それはまるで芸能人のような豪華さであった。「出家」とは対極的な世界である。  「それに、最近は塔婆供養の押しつけが激しいとも。家族一人ずつたてなさいとか……」  「何! なんで、信徒が化儀のことまで口を出すんだ」  日顕は折に触れて、末寺の住職に「もっと塔婆供養を増やせ」とけしかけていた。そのことに学会が口を出すのは、自分に意見をするのと同じだ。日顕は頭に血が上った。  寺の収入を増やす早道は塔婆供養の数を増やすこと、というのが日顕の持論だった。塔婆供養を申し込む時は、信徒は塔婆代とは別に供養を包む。だから、塔婆供養の申し込みが増えると、自動的に供養も増えるのだ。どの末寺でも、そうするように受付の者に言わせていた。だから、日顕は収入が少ない寺の住職に、「もっと塔婆供養を増やせばいいんだ」と言い、塔婆供養が多い寺の住職のことを「あいつは商売上手だな」と褒めていた。  「ええ、それに……」  「まだ、あるのか!」  「はい、最近の僧侶には金銭感覚がないとも……」  河辺は早瀬と日顕の遣り取りを聞きながら、綱紀問題は宗門のアキレス腱だと確信した。やはり、綱紀自粛をしないと、今の宗門では学会と戦えない。  日顕は登座して間もなく、自分に歯向かう正信会を擯斥に処した。宗門の派閥抗争を知らない学会員は、自分たちを苦しめた正信会が擯斥されたことを知り、「今度の猊下は学会を守ってくれた」と思い込んでしまった。だから、純粋な会員は、今まで以上に宗門の外護に努め、真心の供養に励んだ。  その結果、末寺の収入は増えていく。それに甘んじた住職たちは、学会員の善意につけこんで、塔婆供養を奨励するようになった。そして、都会の寺院の収入は年間、数億円を超えていったのである。  猊座についた日顕が、西片で「猊下についたら、途端に金がゴロゴロ転がり込んでくるようになった」と言ったことは宗内でも有名だったが、宗門の僧侶の金銭感覚は日に日に狂っていった。「金が溜まる一方で使う暇がない」と言いながら、貴族のような生活を堪能していた。  「ところで、丑寅勤行の件はどうなったんだ」  日顕は丑寅勤行の参加者の数にこだわっていた。日顕は丑寅勤行の参加者数によって、態度が違う。大勢の時は挨拶するが、学会の登山会が終わり、参加者が二、三十人の時などは、挨拶もせず傲然と退座する。日顕にとって丑寅勤行は己の権威を誇示する場である。だから、参加者数の増減が自分の権威にかかわる重要なこだわりとなっていた。  「はい、それが、『丑寅勤行の参加人数の問題などは実務に関することであり、猊下にいちいち心配をおかけしないよう、連絡会議で取り上げていきましょう』と言うだけで……」  実際には、藤本はその場で「そうですね」と答えてしまったが、そのことは伏せて、学会の言い分だけを伝えた。  「何! ワシの意見を無視するというのか」  しばらく、日顕は黙ったままだった。皆、日顕の次の言葉を待つしかなかった。  「やはり、駄目だな」  投げ捨てるように日顕が言った。他の者たちにも、その意味が分かった。僧侶の批判を始めた時点で、学会の運命は決まった。過去にどんな功績があっても関係ない。僧侶にたてつく者は「悪」なのである。  「学会と戦うしかない、ということですね。では学会のGをとって、『G作戦』ですな」  河辺は早く話を進めようと思い、わざとそう言った。すると、日顕はまるで以前から考えていたように、即座に答えた。  「いや、違う。Cだ。『C作戦』だ」  「『C作戦』?」  「そうだ。カットのCだ。あいつの首を切るからカットだ!」  「なるほど、『C作戦』ですか……」  「とにかくだな。まずは、二十一日の目通りが山だ。そこで何と言ってやるかだ」  日顕の目に憎悪の炎が浮かんでいた。  「池田や学会の奴らが、宗門やワシを誹謗しているという証拠を集めて、一気に『C作戦』を決行する」  日顕は名誉会長を切ることばかり考えて、焦っている。モノには順序があることを忘れている。今の早瀬の報告を聞いても、まだ、危機感を感じていないのか? 河辺はイライラしていた。  「『C作戦』の決行、つまり名誉会長を切るということですが、たしかに、いずれやらなくてはならない問題だということはよく分かります。しかし……」  河辺が発言し出すと、日顕の口元がゆがみ、一層、険しい表情になった。  「先日も言いましたが、今すぐにことを起こせば、両刃の剣を手にするようなものです。もしやるなら、もっと現状を分析する必要があります。しかし、それより大事なことは僧侶の綱紀自粛を徹底することです。そうでないとこの綱紀の問題で返す刀で学会からやられるに決まっています」  河辺の話を聞きながら、日顕の顔色が変わっていった。  「何が分析だ。お前らはすぐ分析・分析と言うが、分析をして何ができるか」  日顕はまるで小僧を怒鳴りつけるように激しく言葉を吐いた。皆、驚いて息をのんだ。関は目を丸くして河辺を見ている。  河辺は日顕をあまり怒らせてはまずいと思ったが、ここが正念場だと思い、話し続けた。  「はい。たしかにそうです。しかし、今の庶務部長の話で分かったように、すでに学会員の間で僧侶の綱紀が問題になっています。おそらく、我々が想像している以上です。綱紀を正さずにことを起こせば、絶対に学会にやられます」  河辺は強い口調で言い切った。その確信のこもった「絶対に学会にやられます」という言葉に、日顕は河辺を睨みつけて「うーん」と唸ったまま、口を閉じてしまった。  河辺は、連絡会議の様子を聞いて、末寺の住職の実態は自分たちが想像しているより、ひどいのかもしれないと感じた。  日顕の暴走をここで止めないと大変なことになる。河辺は念を押すように日顕に向かって言った。  「連絡会議の報告を聞いても、綱紀問題は深刻な状況です。まず、八月の教師講習会で綱紀自粛の指導を徹底し、それから『C作戦』をやるべきです」  日顕は黙ったまま、河辺を睨みつけている。  書院の中に沈黙が充満した。襖が開け放たれた書院の中に入り込む風の音が小さく聞こえていた。その音に交じって、姿勢を直した藤本の衣が畳をこする音がした。  「私もそのとおりだと思います。今、学会との問題をやれば、こちらもやられるのは目に見えています」  藤本が低い声で言った。藤本もやはり危機感を感じていた。  ひと呼吸おいて、河辺が続けた。  「学会と戦うということは、日刊の聖教新聞を相手に戦うということです。綱紀問題のキャンペーンを毎日やられたら、ひとたまりもありません。こちらには、それに対抗する手段がありません」  日顕がようやく口を開いた。  「他の者はどう思うんだ!」  秋元は自分がそのキャンペーンのやり玉に挙がるのが怖いと思った。秋元は会議に参加しても、まず発言することはない。ただ、座っているだけだ。無能に見える秋元が会議に参加する理由は、渉外部長という肩書と日顕の重用による。秋元は日顕が本行寺の住職をしていた時の在勤者であった。従順な秋元を日顕は弟子同然に目をかけた。秋元は住職になると、何かにつけ個人的に日顕に供養や贈り物をしてご機嫌を取り、それが功を奏して、日顕の妻・政子からも「コーちゃん、コーちゃん」と可愛がられていた。取りえのない秋元が渉外部長になることができたのは、日顕の子飼だからだった。  秋元の生活も贅沢なものだった。月に何度も赤坂や横浜の高級クラブや料亭に通い、夜中の二時・三時に在勤の所化に車で迎えに来させていた。このことも学会に知られているのではないか。秋元は自分の派手な夜の生活が新聞に載ることを想像して、ぞっとした。  河辺から聖教新聞のことを言われ、藤本は動揺した。なぜなら、藤本は、昭和五十八年の税務調査の際に、六千万円近い所得をごまかしていることが発覚し、追徴納税を命じられていたからだ。常泉寺所有の土地をある病院に貸しつけ、その病院から得た借地権更新の書き換え料を、常泉寺の会計に入れずに自己の収入としたのである。しかも、その金を女房名義にして隠し持っていた。まるで悪徳政治家のような手口である。  このことを聖教新聞で報道され、全国の学会員に知られることだけは何としても避けたい。藤本にとっては明日にでも起こり得る現実であった。  「私もやはり綱紀自粛を先にやるべきだと思います」  早瀬も河辺に同調した。寺の新築、娘の結婚披露宴と材料は揃っている、早瀬は自分がターゲットにされることを恐れた。それに早瀬家の長男として「法器会」の延命策も考えなければならない。学会を敵に廻すのはいいが、経済的に困窮することは何としても避けたかった。  「御前会議」は昼食をはさんで行われた。日顕は名誉会長を追放する強硬論を声高に主張して興奮していたが、前日の連絡会議で宗門の問題点を痛いほど突かれた宗務院の役僧たちは冷めていた。彼らは、宗門僧侶の綱紀自粛を徹底しないと「C作戦」を決行しても逆に宗門が叩かれるだけだと思い、河辺に同調する形で慎重論を唱えた。その結果、この「御前会議」では、そのまま慎重論が優位に立ち、綱紀自粛を優先する方向で話が落ち着いた。    日顕は「御前会議」を終え、不機嫌なまま大奥に戻った。「御前会議」では、慎重論が大勢を占めたが、日顕自身は、二十一日の名誉会長との目通りの席上で決着をつける考えを捨て切れなかった。  「次の目通りで、『あなたは私を誹謗している』と問いただしてやろうと思っている」  日顕の目の前には関が座っていた。御前会議が終わったあと、大奥に来るように言われたのだ。大奥の対面所の奥には六畳ほどの茶の間がある。いつも、内密な話はここで行われた。  「投書が使えないのなら、ワシの口から問いただして、はっきりさせる」  「は、はい」  やはり、猊下は一気にかたをつけようとしている。そのために、名誉会長を挑発して、何らかの言質を取ろうとしているのだと関は確信した。  「どうも、河辺や宗務院のやつらは弱腰で話にならん。あいつらは、一体、何を怖がっているんだ……。できれば、法華講の三万登山の前に決着をつけたい」  日顕は「御前会議」で話し合ったことを全く無視していた。  「しかし……万が一の場合もある。それでだ、お前の作った作戦も三万登山に合わせて作り直してみろ」  日顕が考えているシナリオと、関が作った『創価学会分離作戦』では、内容が違っていた。『創価学会分離作戦』では、開創七百年を契機に新体制を作るという名目で宗会を開き、名誉会長の総講頭辞任を決議するというものだった。しかし、日顕は名誉会長の財務に対する指導の責任を取らせる形で総講頭解任を突きつけようとしていた。日顕にとってはどちらも「C作戦」であることに変わりはなかった。ただ、日顕は自分の力を見せつけるために、実質的な“処分”という形で決着をつけたがっていたのだ。ところが、あまりにも「御前会議」のメンバーが弱気なため、日顕は強行突破には不安を感じ始めていた。だから、善後策として関の案を用意する必要があると思ったのである。  関は法華講の三万登山の日程を思い出しながら、話を進めた。七月二十八日から三十一日までの四日間にわたり、法華講連合会の夏季総登山会が行われることになっていた。そして、二日目の二十九日に「三万登山」と銘打った総会が行われる。  「三万登山に合わせますと、遅くとも二十八日に宗会を開かないとなりませんが……」  「うん、そうだ。二十一日の目通りの様子次第では、緊急に宗会を開いてもいい。そして、そのあとは……」  「はい、たしか、次の連絡会議が八月の中旬ですから、その時に、正式に通告することになります」  「まあ、その前に三万登山の法華講総会で発表してもいい」  「えっ、法華講総会で、ですか」  「そうだ。けじめをつける意味もある」  関は、日顕の言う「けじめ」の意味がよく分からなかったが、学会に通告する前に法華講の総会で発表するなど無謀すぎると、一瞬、思った。しかし、日顕には絶対に口答えできない。  「目通りの結果次第では、宗会で学会問題として取り上げて総講頭解任を決定する。それが駄目なら、お前の作戦でいく」  「は、はい。承知いたしました」  日顕は、「御前会議」での興奮が徐々に収まり、少し冷静になり始めていた。  「そこでだ。目通りでどうやって切り出すかだ」  日顕は腕組みをしながら、しばらく考え込んだ。関は何か言わねばと思ったが、いつものとおり、下手なことは言えないので緊張しながら、日顕の言葉を待った。  「丑寅勤行の件は、絶対にはっきりさせる。あとは財務の問題と……そうだ、御講の件もある」  関は、御講の件と聞いて、「あのことだ」と思った。御講と学会の会合が重なると、参加者が減るという話が日顕に届いていた。その話には尾ひれがついており、名誉会長が学会の会合を優先するように指導しているからだという噂であった。日顕はその話を鵜呑みにしていた。  「しかし、『そんなことは言ってない』と、言ってくることは分かっている」  日顕は自問自答を繰り返していたが、突然、関の方を向いて言った。  「お前の意見はどうだ」  「は、はい。こちらの意図を相手にさとられないように、うまく誘導することが大事であると思いますが……」  関が神妙な顔つきで答えた。  「うーん」  日顕はまた、考え込んだ。  「そうだな。まあ、言い方はやんわりいくか」  「はい。そのほうがよろしいかと……」  関は緊張で声が上擦っていた。大学科設立の打ち合わせのため、何度もこうして日顕と一対一で話すことがあったが、決して慣れるものではなかった。いや、慣れてはいけないのだ。少しでも馴れ馴れしい言い方をしたら最後、爆弾が落ちて、怒鳴りつけられる。  「まあ、とにかく。あれだ。『C作戦』だ。三万登山に合わせて考えておけ」  「は、はい。かしこまりました」  「『C作戦』か。ふふふ」  日顕はうれしそうに笑いながら、「もういい」というように、出口に向けてあごをしゃくった。  関は大奥を下がりながら、混乱していた。今の話は「御前会議」の決定を全く無視したものだ。しかも、作戦が二転三転している。はっきりしていることは、日顕が法華講の三万登山の前に決着をつけたがっていることだけだ。日顕は以前から、この法華講登山にこだわっていた。きっと何か意味があるのだろうとは思ったが、関はとにかく日顕の言うとおりにすることが大事、それが宗門で生き残っていく唯一の方法だと割り切った。  日顕がこの法華講三万登山を発表したのは、昭和五十八年であった。この時に、すでに日顕は僧侶主体の新体制の構想を胸に秘めていた。平成十二年一月九日の末寺在勤教師初登山で、この時の心境を吐露している。  「実は日蓮正宗は本来、法華講の人達の信心を根本として、僧俗が真に一致していくべきであると思ったのであります。それが平成二年に対する『三万総登山』という打ち出しになったのであります」  この昭和五十八年は、日顕にとって重要な意義があった年だった。この年、三月三十日に静岡地裁において、正信会が提訴していた日顕の日蓮正宗管長並びに代表役員の地位不在確認請求の裁判で、宗門が全面勝訴した。日顕は登座以来、はじめて枕を高くして眠れた気がした。この裁判に勝つためには、弁護士を含めて学会の援助がどうしても必要だった。そのために日顕は登座以来、名誉会長を賛嘆し、学会擁護の発言を繰り返してきた。  正信会の裁判に勝った日顕の次の目標は、宗門の体制作りであった。日顕は七年後の大石寺開創七百年を目指すことを考えた。その年に法華講三万登山を行い、それを目標に法華講の組織強化に力を入れる。そして、その上で僧侶主体の新体制を確立して、開創七百年慶祝行事を挙行する。そのためには、正信会問題で失った寺院を補うためにも、寺院数を増やすことが絶対必要条件だった。そこで、日顕は開創七百年慶祝記念の一環として学会に二百カ寺寄進を申し入れた。できれば七年間ですべてを終了させたかったが、あまり無謀なことは言えないと思い、とりあえず期間は十年間とした。  しかし、十年で二百カ寺寄進となると、年間二十カ寺の建設をしなければならない。学会側は十年間で二百カ寺を建てるのは困難であると判断した。日顕はそれを知って激怒し、昭和五十八年八月三十一日、西片に名誉会長や会長を呼びつけ、居丈高に「あんたは嘘つきだ」となじり、何がなんでも二百カ寺を十年で建てるように迫った。  日顕はこの無理を通すため、つまり学会が二百カ寺寄進を断れないように、翌年の昭和五十九年一月二日には名誉会長の法華講総講頭復任を発表した(池田名誉会長は、昭和五十四年四月二十四日、第一次宗門事件の折、会長勇退に伴って法華講総講頭も辞任している)。そして、昭和五十九年三月、大石寺開創七百年記念慶祝準備会議の席上、学会より「二百カ寺建立寄進」が正式に発表された。  日顕は学会の二百カ寺寄進に対して、「おんぶに抱っこで、申し訳ありません。私が命のあるかぎり学会をお守りします」と殊勝なことを口にしたが、その裏では、本山の僧侶に「(二百カ寺寄進をさせるために)ワシが下げたくもない頭を下げたんだ」と言っていた。  学会が二百カ寺寄進を正式に発表し、日顕は胸をなでおろしたが、名誉会長の総講頭復任は日顕にとって大きな代償となった。なぜなら、僧侶主体の新体制を作るためには、もう一度、総講頭を解任しなければならないからだ。そこで、日顕は六年後に総講頭解任をするためのシナリオを考え始めた。それが最終的に、名誉会長の総講頭解任を第一の目的とした「C作戦」につながったのである。  法華講三万登山の前に総講頭解任を実行して、開創七百年慶祝法要を迎える。これが日顕の言った「けじめ」だった。だから、日顕は三万登山の前に決着をつけることにこだわり続けた。  関は目通りを終えて海外部に戻り、日顕から言われた日程で「創価学会分離作戦」を書き直し始めた。そして、それができ上がると海外部書記の福田毅道にワープロで清書させた。  福田は言われたとおりに関の下書きを見ながら、ワープロで打ち始めた。その下書きの一番上には「創価学会分離作戦」とだけ書いてあったが、関が何度も「C作戦」と口にしていたので、「創価学会分離作戦(C作戦)」と打った。  この「創価学会分離作戦」の出所は山崎正友だった。これは第一次宗門事件の時に山崎が作った「ある信者からの手紙」を焼き直したものだった。  後日、この「C作戦」が他にも流出し、その存在が世に明かされる。  宗内では福家重道が、御前会議の一カ月後に数人の宗内僧侶にその文書を見せている。その時に福家は「『C作戦』という名が付いているのは、池田学会をカットするので、その『カット』の頭文字を取って『C』というんです」と得意満面に説明している。  日顕はこの「C作戦」を立案するのに、関と福田の他に福家も使っていたのだ。日顕が福家を使えると思ったのは、ある目通りで福家が学会批判をし、自分が知っている学会の情報を日顕に伝えたからだった。それ以来、日顕は福家に夜中でも電話をするようになった。福家はその都度、自分が仕入れた学会の情報を日顕に渡して、日顕を喜ばせた。しかし、福家は口が軽く、僧侶仲間に「ファックス代や電話代がかかって大変だろう」と、日顕から二十万円の激励費をもらったことなどを自慢していた。  何を思ったか、日顕は御前会議があった日、「学会を七月二十九日に切る」と福家に伝えている。口の軽い福家は教区の者にその話をしてしまった。  日顕の誤算は福家も福田も警戒心がなく、その行動が軽率だったことだった。「C作戦」をワープロで清書した福田も、平成三年一月二日にSGI(創価学会インタナショナル)事務局にファックスを送りつけ、その中で「実は、例の昨年七月末に頓挫したC作戦の案文を夜間一人きりでワープロで清書しつつ」と、「C作戦」の存在を明らかにしている。  また、群馬・本応寺の住職だった高橋公純も「C作戦」の文書を見ていた。山崎の手先で反学会ジャーナリストの段はこの高橋の弟である。本応寺が発行していた『蓮葉』という法華講の機関誌の「号外第八号」に、高橋は「私もこの『C作戦』なる文書を見た」「一体誰が作ったかと云えば、いづれ名前が明らかになるだろうが、さる在家の人間である」と書いている。  山崎が作った文書を手に入れた関は日顕に相談した。関がそのような行動をとったことにはそれなりの理由があった。宗門の大学科の設置のために、日顕のもとで働くことになった関は、学会の情報を日顕に入れるようになった。  そのきっかけとなったのは、関が知っている、学会のある壮年から聞いた話であった。その壮年は学会に所属はしていたが、幹部に怨嫉し、学会に恨みを持っていた。この壮年は関に会うたびに、学会批判をしていたが、ある時、学会は表では僧侶を尊敬しているように見せているが、陰では僧侶を馬鹿にしているという話を、関にした。もちろん、事実は異なっていた。この壮年は僧侶たちが怒るような話を意図的に関へ告げていたのだ。  関も初めは半信半疑であったが、次第にその話に興味を持ち始めた。なぜなら、もし、この話が事実であれば、大変な問題である。そして、その重大な話を自分が猊下に報告すれば、大きな得点になる。そう計算した関は、ある時、その壮年から聞いた話をさりげなく日顕の耳に入れた。  関の話を聞いた日顕は驚いた様子であったが、ただの驚きではなかった。瞬間湯沸かし器とあだ名される日顕の反応ではなく、「そうか」と言ったきり、黙ってしまったのだ。そして、しばらく「うーん」と唸りながら考え込んだあと、「今後も何かあれば、すぐにワシに報告しろ」と関に命じた。  日顕は“学会が僧侶を馬鹿にしている”という話を聞いて、「いよいよ時がきたか」と思った。自分を中心とした僧俗関係を作るには、それを始める“きっかけ”が必要だった。そう思っていた矢先に、今度は山崎が作ったという学会攻略の作戦文書を持ち込んできた。  日顕は山崎を信用するつもりはなかったが、その文書には興味を覚えた。しかし、一度は自分の相承を否定した男の文書をそのまま使うわけにはいかない。それで、関にそれを「創価学会分離作戦」として作り直させた。  しかし、日顕は徐々に「作戦など、もうどうでもいい」という気持ちになっていた。総講頭の解任さえしてしまえば、あとはそれ次第だ。関との話の中では「やんわりいく」手筈であったが、「何としても、名誉会長に一太刀浴びせてやりたい」と、日顕は激しい衝動に駆られていた。そして、その感情が、二十一日の目通りで爆発した。  平成二年七月二十一日のその日、日顕は意気込んで対面所に入った。日顕は、権威を象徴する大きな白い座布団に座るなり、向かって言った。  「この間の連絡会議の件だ。丑寅勤行に関する私の発言を無視しようとしたことは分かっている」  会長が何か言おうとしたが、取り付く島もなかった。日顕はいきなり机を叩きながら叫んだ。  「法主の発言を封じた。きょう慢だ、きょう慢謗法だ!」  その日顕の怒声は対面所の一階に控えていた学会の副会長らにも聞こえてきた。ビックリして階段上を見上げていると、日顕の怒鳴り声がまた対面所から聞こえてきた。  「あんたにも言っておきたいことがある。懲罰にかけるから」  日顕は名誉会長を睨みつけながら、激しく言葉を吐いた。  「あんたは財務を御供養と指導しているだろう」  日顕は肩を怒らせ、顔を上気させている。しかし、言い方はまるで下手な台詞を言うようで、芝居がかっていた。  「まだ、ある。学会の記念行事があるので、御講に行かなくてよいと、あんた自身が地域の総代に言ったじゃないか」  日顕はつばを飛ばしながら、机の上に手を広げたまま、今にも立ち上がりそうな勢いでわめき続けた。日顕の話には何の根拠もなかった。すべて、風聞をもとにしたものに過ぎなかった。  名誉会長はその日顕の挑発に乗ることはなく、その言いがかりとも言える追及に対して、一つ一つ冷静にその誤りを指摘していった。  結局、日顕の目論見は失敗した。「懲罰」に該当する言質を何一つ取れなかったのである。日顕は怒りで顔を赤くしたまま席を立って、奥に消えた。 ●「C作戦」始動  平成二年七月二十二日、日曜日で本山が忙しいのにもかかわらず、日顕は伊豆長岡の旅館にいた。孫の正教が夏休みに入り、一族で遊びに来ていたのである。日顕と女房の政子、息子の信彰夫婦とその息子の正教と妹、日顕の娘の百合子と夫の早瀬義純、そして義純の二人の娘たち。総勢、十人で一泊二日の旅行であった。  日顕は一族を率いて、毎月のようにこの旅館に遊びに来ていた。そこはいわゆる高級旅館で、日顕と政子は一泊一人十五万円の部屋に泊まっていた。いつもは山海の旬を盛った懐石料理に舌鼓を打つのであるが、その日の日顕は箸の進み方も遅かった。  日顕は行き詰まっていた。前日の二十一日の名誉会長との目通りで、総講頭解任の理由となる言質を取ることに失敗したことは大きかった。果たして、この状態で二十八日に緊急に宗会を開いて総講頭罷免を決議することができるか。やはり、理由がなければ難しい。  いや、一応、理由はある。財務を供養と称したこと。会合で僧侶の批判をしていること。しかし、たしかな証拠はない。伝聞と言われてしまえば、それでおしまいだ。河辺の言うとおり、強い抵抗と反撃が予想される。  残された時間は六日間しかない。どうすればよいか。日顕は悶々としていた。日顕の目の前では、娘の百合子や孫たちが何もしらずにはしゃいでいた。  いくら河辺が綱紀自粛を力説しても、日顕には無縁の言葉だった。この一泊二日のファミリー総出の遊興費は軽く二百万円を超える。日顕にとって、豪遊は法主の特権であり、当然、法主の家族もその恩恵を蒙る権利があった。  しかも、あれだけ丑寅勤行の参加者数にこだわっておきながら、日顕はこうして平気で丑寅勤行をサボって温泉旅館で遊んでいる。日顕にとって、法主には自分のことを棚に上げてもよい権利もあった。問題は法主の振る舞いではなく、法主のやることに口を出すことである。  本山に戻ってからも、日顕の心は重かった。怒りと不安が交互に襲って来る。二十一日の目通り以来、眠りも浅くなっていた。首筋から肩にかけて鈍い痛みがある。日顕は首を揉みながら、本尊書写用の本紙の前に立っていた。大奥の茶の間の隣に和室があり、いつもそこで日顕は常住本尊の書写をしていた。  日顕は本尊を書写する時、まず主題の題目を書いてから、四天王を書く。そして何枚か同じように書いてから、乾くのを待って、四菩薩等を書き始める。乾くのを待つ間、風呂に入ることも多い。風呂からあがった日顕は下着姿のまま、御本尊の前を歩き、庭に面した縁側で涼むこともある。本尊書写は法主の権威の象徴である。しかし、それは聖域の外にいる人間にとってであって、日顕自身にとっては、御本尊を書写することは、決して厳粛なものではなく、単なる仕事でしかなかった。  日顕の本尊書写の姿勢は不可解な部分が多い。形木本尊にしても、日達上人は御形木御本尊と特別御形木御本尊をそれぞれ一度ずつしか書写していないが、日顕は御形木御本尊を三回、昭和五十四年十月十三日、同五十五年六月二十一日、同六十年三月吉日と書き直している。また、特別御形木御本尊も二回、昭和五十六年四月十三日、同六十年三月吉日と、形木の原本となる本尊を書き直している。  昔は木の版に本尊を彫って、その版で印刷していた。そこから、印刷の本尊は「形木本尊」と呼称されている。今は、本尊を写真に撮って印刷する「写真製版」に変わっている。  形木本尊の歴史を振り返ると、戦前は末寺によって下付する本尊が異なっていた。妙光寺は五十五世日布法主、法道院は五十六世日応法主、常在寺は五十七世日正法主と、それぞれ有縁の法主の形木本尊を授与していた。もちろん、本山で特別な開眼など一切行っていない。それが、戦後に日寛上人の形木本尊に統一された。  日達上人は昭和三十四年に登座したが、昭和四十年までは日寛上人の形木本尊を下付していた。当時、形木本尊の印刷は法道院が一手に引き受けていた。  日顕のように、登座してから複数回にわたって形木本尊を書き直すこと自体、異例だが、さらに不可解なことは本尊の相貌が、その都度変わることである。「帝釈大王」を「釈提桓因大王」と書き換えたり、当初は書かれていなかった「妙楽大師」を後年になって加えたりしている。これでは、定まった書写の仕方がないのと同じである。相承を受けていないと言われるゆえんがここにもあるのだった。  御本尊を書写している間も、日顕の心は嫉妬の感情に支配され、その顔は憤怒の形相となっていた。  本尊書写の権利を有している自分こそ、この信仰の世界の支配者である。すべての信徒は自分を敬い、法主の権威の下にひれ伏さなければならない。  しかし、その欲望は満たされない。日顕はその原因を自分の不徳とは考えない。“自分に徳がないのではない。すべては名誉会長のせいだ”――それが自分を納得させる唯一の結論だった。  「法主としての力を名誉会長に思い知らせてやる!」  積年の憤怒がマグマとなって噴火しようとしていた。しかし、名誉会長の総講頭罷免の決め手を得ることに失敗したことが不安となって、その噴火を押しとどめていた。名誉会長と会員の結びつきの強さを考えれば考えるほど、腸が煮えくり返ったが、同時に河辺の「抜いた刀で切られる」という言葉が現実感を伴って日顕の頭の中に響いた。  下手をすれば、学会の手強い反撃によって宗門が大打撃を受けるかもしれない。それだけではない。自分に反感を持つ達師(日達上人)の弟子や、学会出身の住職が学会に同調して自分を追い落とそうとするに決まっている。日顕はそのことのほうが怖かった。  日顕は、福田がワープロ打ちした文書を大奥の茶の間で何度も手にしていた。その冒頭には「創価学会分離作戦(C作戦)」と打たれている。  この二日間、日顕は寝ても覚めても「C作戦」のことを考えていた。名誉会長から、総講頭罷免に値する言質を取れなかった以上、この作戦に頼らざるを得ない。しかし、冷静にこの文書を読み直すと、この作戦には無理があるように思えた。  「大石寺開創七百年を迎え、新体制で出発するにあたり、名誉会長には法華講総講頭職を勇退してもらう」などという口実が通用するはずがない。学会の幹部は「恩を仇で返すものだ」と言うに決まっている。総講頭に再任させたのは自分だ。再任を解任するにはよほどの理由がいる。  日顕は、そもそも総講頭に再任させたことがまずかった。いくら二百カ寺のためとはいえ、軽率だったと、今になって後悔していた。総講頭が終身であることを考慮すべきであった。せめて任期を設けていたら……。そう思いながら、日顕ははっとした。  「そう、任期だ。任期を設ければいいんだ。今からでも遅くはない。任期を設定すれば……それしかない」  日顕は興奮した。手を打って立ち上がり、大奥の茶の間をぐるぐる回り始めた。体が熱くなり、顔が火照るのを感じた。  「ああ、しかし、今から任期を設けると、その間は総講頭を辞めさせることができない」  日顕はまた行き詰まった。握りこぶしを作って、空を叩いた。  「任期をあまり短くしても不自然か……くそっ!」  日顕は興奮と落胆で頭を抱えながら、必死に考えた。「任期、任期」と口の中で繰り返しながら、目が回るほど茶の間のテーブルの周りを歩き続けた。  『法華経勧持品』に「悪世の中の比丘は邪智にして」とある。まさに、日顕は邪智を振り絞るようにして、考えに集中していた。そして、総講頭解任の理由を作るために、頭の中で宗規に何度も修正を加えた。  どれだけ時間がたったかわからないほど、日顕はそのシミュレーションに没頭していたが、急にひらめいて立ち止まった。  「そうだ。任期を設けるから、総講頭の地位を白紙に戻すと言えばいいんだ!」  「C作戦」の中にも総講頭に関する宗規の改正が必要であることが示されていたが、それは名誉会長の総講頭職を解任するためのものであった。宗規には解任に関する規定がなかったのである。しかし、それ以前に問題となることは、どういう理由で解任するかだった。  日顕自ら名誉会長を総講頭に再任したのだから、どんな理由をつけても、その解任は理不尽なものになってしまう。しかし、日顕は「新しく任期を設けるので、現在その地位にある者は一度、その資格を失う」というシナリオを思いついた。このシナリオなら、見かけは解任ではない。宗規の改正に伴う一時的な処置であると弁明できる。問題がなければ、名誉会長を再々任しても構わないとも説明できるはずだ。もちろん、そんなつもりなど毛頭もなかった。しかし、そういう素振りを見せれば、学会の幹部も何も言えないはずだ。  「白紙にするだけだ。これであいつの首が切れる」  「白紙だ、白紙!」  日顕はそう叫びながら、ニタッと薄気味悪い笑いを浮かべた。  誰かがフスマの間からのぞいたら、背筋が凍るほど不気味な光景であったろう。  登座した頃、日顕は十年で猊座を降りるような発言をしていた。もちろん、それは本心からではなく、自分が猊座に執着していないふりをするための演出であった。大石寺開創七百年は平成二年であり、日顕が登座して十一年目になる。日顕は何としても、この大石寺開創七百年の記念行事を自分が行い、宗門の歴史に自分の名を残すつもりであった。  ある時、日顕は上機嫌で秘書役の奥番に、こう言ったことがある。「実に不思議なことだが、ワシは大聖人が生まれて、ちょうど七百年後に生まれているんだ」と。  大聖人の御生誕は一二二二(承久四)年で、日顕は一九二二(大正十一)年に生まれている。大聖人御生誕から七百年後に生まれたという数字合わせから、自分が開創七百年にめぐり合うためにこの世に出現した選ばれた者だ、という妄想にとりつかれていたのだ。  それに付随して日顕には、自分は法主の血を受け継ぐものだという、もうひとつの自負があった。法主の子供が法主になったのは、確かに宗門の歴史にあって日顕が初めてであったが、これはあまり自慢できたものではない。僧侶の妻帯が許された明治五年までの約六百年に及ぶ宗門の歴史では起こるはずのないことであった。  その日顕の父・日開は「宗祖第六百五十遠忌」の行事を行っている。阿部家の名前を永遠に残すため、そして父親を超えるためにも、大石寺開創七百年の記念行事を盛大に開催しなければならない。  しかし、その記念行事は学会ではなく自分が主体者でなければならない。日顕からすれば、僧侶主体の姿こそ、本来の日蓮正宗の姿である。もちろん、それは大聖人が目指した広宣流布の姿とは正反対のものである。  学会を中心としてきた日達上人の時代の繁栄はそれはそれとして、僧侶中心の日蓮正宗というもともとの伝統のあり方がある。いつかはその姿に戻さなければならない。それを日顕は「祖道の恢復」と呼んだ。  したがって、日顕が言う、「祖道の恢復」とは、宗祖日蓮大聖人の御精神に還ることではない。あくまで日本の檀家制度に基づいて僧侶が特権的にあぐらをかく、時代逆行の「僧侶優先の教団」を回復することである。  しかし、その前後のことを考えると、本山の財政基盤もさらに強くする必要があった。名誉会長を切れば、何が起こるかわからない。最悪の場合は、学会からの供養が激減することもあり得る。  本山の収入の中心となっていたのは御開扉料と塔婆供養だった。ゆえに、日顕はまず、登山費の値上げを計画した。  登座十周年を迎えた平成元年三月、学会側に登山費をそれまでの千六百円から二千三百円に値上げをしたいと伝えた。約四四パーセントの値上げである。世間ではその年の四月一日から導入される三パーセントの消費税でも高いともめていた。そんな時に四〇パーセントを超える値上げである。学会側は宗門を守るためにあえて、異を唱えた。日顕は周りの理事クラスにそのことを「いよいよ学会が牙をむいてきた」となじり、名誉会長に対する憎悪を強くした。  そして、翌平成二年三月、宗門は連絡会議で、四月一日より御本尊下付・塔婆・永代回向・大過去帳・納骨保管料の冥加料をすべて一・五倍〜二倍にすると学会に一方的に通知した。この急な値上げに学会側も驚いたが、宗内僧侶も驚き、性急な変更に内事部や末寺の受付が混乱した。  また、日顕は「C作戦」に備えて、平成元年一月六日の末寺住職・寺族初登山で「法華講を作って育成するように」と法華講の強化を打ち出した。   最悪の場合、学会員がすべて宗門から離れてしまうことも考えておかなければならないが、それならそれでいい、と日顕はよく周辺に漏らしていた。ただ、末寺の生活を考えて、宗門の五百カ寺にそれぞれ二百世帯四百人、合計二十万人残れば十分だとも計算していた。二百世帯の檀家がいれば末寺は生活できる、というのが僧侶の世界の通説になっていたのだ。  ともあれ、一番の課題はどういう理由で名誉会長を切るかだった。  日顕はこの“迷案”をもとに、冷静に現実を見据え始めた。  「それでも学会は抵抗してくるだろう。それに備えて宗門を立て直す必要がある。河辺の言うとおりだ。やはり、綱紀の自粛を徹底しなければならない」  日顕は、あれほど鼻についていた河辺の意見を素直に受け入れることができる自分に気づいて驚いた。  「そうだ、焦る必要はない。学会の反撃に備えて綱紀自粛をする。その上で宗会を開いて宗規の改正を行えばいい」  日顕ははやる気持ちを抑えて、とりあえず、関をはじめ関係者に電話で「C作戦」の一時中止を伝えた。それは平成二年七月二十五日のことだった。  日顕は今後のシナリオについて考え始めた。  八月二十九、三十日に行われる教師講習会で綱紀自粛を徹底させる。そして、その自粛が定着した段階で宗規を改正し、総講頭に任期制を導入し、名誉会長の総講頭の地位を剥奪する。  しかし、日顕は総講頭に任期制を導入する案を口にするのは、もう少し待とうと考えた。その理由は、役僧たちが信用できないからだった。やつらは本気で学会と戦う気がない。日顕はそう思っていた。  八月になって、日顕の役僧たちに対する不信は一層、強くなった。学会と戦いを開始するかどうかという大事な時期であるにもかかわらず、子供の夏休みの時期に合わせて、早瀬や藤本、そして関までもが平然と家族旅行を楽しんでいたからだった。  早瀬は庶務部長という立場にありながら、在勤者を息子の道寧の寺や娘婿の國島の寺に留守番に行かせ、家族揃って北海道旅行に出かけていた。在勤者の扱いについて監視する立場にある庶務部長が、自ら禁を破って身内の寺に自分の寺の在勤者を留守番に行かせる。職権乱用である。坊主特有のファミリー主義がこうした公私混同を日常的なものにしていた。  八月に入って、御前会議のメンバーを中心に、綱紀自粛についての会議が何度か持たれたが、いつも会議は遅々として進まなかった。日顕は学会攻略を前提として会議が進むことを期待していたが、どうしても、路線は学会との対決に向かわない。誰もが、保身に走り、今の贅沢な生活を捨てたくないと思っていたからだ。日顕は敏感にそのことを感じ取り、憤っていた。  八月十八日から二十四日まで、非教師を対象とした行学講習会が本山で開催された。役僧たちに不満を抱いていた日顕は、非教師を前にして気が緩み、思わず本音の一部を吐露してしまった。  「最近の信者は文化、文化と言うが、大聖人の仏法はそんなんじゃない」と学会の文化運動を暗に否定し、「下克上というのは今でもあるんだ」と発言したのである。名誉会長といえども信徒でしかない。その信徒が法主にものを言ってくることは、日顕からすれば「下克上」だった。その怒りが口をついて出てしまったのである。日顕の軽はずみな発言に藤本や早瀬は顔をしかめた。  藤本らは、八月二十日の連絡会議で宗内に綱紀自粛を徹底することを学会側に伝えたが、その翌日にある事件が起こった。海外部書記の福田がアメリカ・ロサンゼルスの山田容済に「宗門は学会と手を切る」と電話で伝えたのだ。驚いた山田は確認をとるために慌てて本山に連絡してきた。宗務院は寝耳に水だった。そんな話が宗内に広がれば、大騒ぎになる。早瀬はすぐに福田を呼びつけて「なぜ、そんな電話をしたのか」「誰に頼まれたのか」と厳しく追及した。しかし、福田は口を閉ざして黙秘を守った。  後日、福田はある僧侶に「あの時、俺は口を割らなかった。まさか、猊下に命令されたとは言えないからな」と語った。日顕が福田を使って、学会との戦いに備えて、山田に連絡を取らせたというのが事の真相だった。  また、この頃、七月二十一日の目通りで日顕が名誉会長や秋谷会長に“一発食らわした”という噂が宗内に流れていた。その噂を流していたのは御仲居の駒井専道だった。駒井は本山で反学会の急先鋒だった。駒井は学会出身だったが、日顕に気に入られるために率先して学会批判をしていた。  さまざまな噂話から、宗門と学会の不協和音が宗内で話題になり始めていた。この状態で綱紀自粛を発表しても、住職たちは学会との問題に意識を奪われ、綱紀のことなど頭に残らない。そう判断した役僧たちは、教師講習会で現状を説明することになった。つまり、日顕の尻拭いをすることになったのだ。  教師講習会の初日である八月二十九日、庶務部長の早瀬から、二十一項目にわたる「綱紀・自粛に関する規準」が発表された。それは寺の新築・改築に関するものや御講、葬儀、塔婆などの法務における注意事項だけではなく、冠婚葬祭など個人的な付き合いについてまで触れていた。例えば「各種祝は五万円以内」「返礼品は一万円以内」と、事細かに規定されている。  また、この「規準」では僧侶の妻などの寺族に関しても触れている。「寺族に関する件」として、「寺族は、寺族同心会規約にもある通り、常に寺院教会の護持発展のために努力し、宗門の興隆に寄与しなければならない。信徒に対しては、親切・丁寧を旨として、誠意をもって接すること。また、寺族の言動が、寺院・住職、更には宗門の体面を傷つけることのないよう、充分に注意すること」とある。  この「寺族」という言葉は、僧侶の妻帯が始まった近年に作られたものである。ある住職は真面目な顔でこう言った。  「宗門で一番偉いのが猊下、次が猊下の奥様、その次が末寺の住職、次が住職の奥さん、次が寺の子供、次が在勤者、そしてその次が名誉会長と学会員だ」  この宗門の順位で言えば、住職の妻や子供は在家でありながら僧侶と同格になり、出家の世界の一員となる。その意識が「寺族」という言葉に表れていた。この寺族の集まりを「寺族同心会」といい、年に一度、本山で懇親会が行われた。  平成三年五月三十日、大石寺の大客殿前広場で寺族同心会の会食会が開かれた。参会者は住職と寺族、合わせて約千人。広場にテントを張り、静岡の一流ホテルからコックが出張して料理を振る舞った。競うようにブランド品で着飾った寺族たちで賑わう、その風景はまるで上流階級のパーティーのようであった。  住職の妻の中には、在家出身の者も多くいた。初めは信心のない異質な僧侶の世界に戸惑いを覚えるが、やがて自分も在家より上だという錯覚に陥り、“ファーストレディー”を気取るようになっていく者も少なくなかった。  東京や関西の寺院には在勤者がいる。その在勤者は住職だけではなく、住職の妻にも仕えなければならない。買い物にも付き合わされ、運転手兼荷物運びをさせられることもあった。  その寺族の世界のトップに君臨し、多大な力を持っていたのが日顕の女房の政子だった。その金満ぶりが『中外日報』(平成三年十月二十一日付)に、「“大石寺のイメルダ”阿部日顕法主夫人」と題して掲載され、宗内外の者を驚かせた。  そこには、政子のほか、総監藤本夫人の禮子、主任理事の八木夫人の澄子ら、いわゆる日顕ファミリーが、わずか一年半の間だけで、約二億円もの大金を京都のオートクチュール(高級衣裳店)、エステサロンなどで散財していたことが詳細に書かれていた。  寺族の贅沢を体現していたのは他ならぬ政子であったが、政子にとって綱紀自粛は末寺の問題であり、自分とは関係ないものだった。  この「綱紀・自粛に関する規準」にある内容は、どれを見ても、僧侶として当たり前の内容である。  「少欲知足を旨として、行住座臥に身を慎むこと。妄りに遊興に耽り僧侶として信徒や一般から非難・顰蹙を買うような言動は厳に慎むこと」  「僧侶としての品位を汚すものは禁止する。また、華美・贅沢なものは慎むこと。寺族の場合もこれに準ずる」  「自動車について」というのもある。「価格・車種など、それぞれの分を弁え、決して贅沢なものは選ばないようにすること。また、僧侶として相応しくない形や、赤い車など、派手な色は禁止する。寺族の場合も、僧侶に準じて自粛すること」  いまさら、こんなことを徹底しなくてはならないほど、宗内の僧侶と寺族が堕落していたことを証明したようなものだった。  地方の末寺の住職と寺族は、半分しらけていた。なぜなら、一番贅沢をしているのは、東京や大阪などの大寺院の住職であり、役僧たちであったからだ。  ひととおり、綱紀自粛の「基準」を説明した後、早瀬は七月の学会との連絡会議の模様を伝えた。学会側から僧侶の綱紀の乱れを種々指摘されたこと、また、宗門側からも学会が財務を供養と称しているのは「六・三〇」違反であることを指摘したことを説明した。しかし、「今回の綱紀自粛は決して学会から指摘されたから行うことになったのではない」とも付け加え、「規準が守られない時は罰則も考えている」と厳しい口調で結んだ。  次に立った藤本総監は冒頭、次のように述べた。  「最近、宗門内外の状況の中から、創価学会に関するさまざまな不協和音が聞こえてくることは御承知のことと存じます」  藤本は続けて、第一次宗門事件の背景について説明を始めた。しかし、それはあくまでも宗門の立場からの説明であり、いかにも学会が不祥事を起こしたかのような印象を聞く者に与えた。これは今後の学会との問題に備えて、若手教師に予備知識を与えるのが目的であった。  そして藤本は「不協和音に対して、我々は如何にして対処していくべきか」と前置きをして、「在家信者の在り方を云々する前に、まず、自分自身の姿勢を正すということが肝要であります。我が身の不徳、不行跡をも省みず、他を云々することは、誰も納得しません。ただいまの庶務部長の綱紀自粛の問題も、このような必要性のうえからもぜひ、徹底しなければならない要件であります」と述べた。  大講堂にいた住職たちの多くは他人事のように、綱紀自粛の話を聞き流していたが、次の日顕の発言を聞いて、ショックを受けた。  日顕は唐突に、「ゴルフをやりたければ法衣を脱いでやれ。ゴルフセットは古道具屋に売れ」とゴルフの全面禁止を宣言したのである。  当時、中堅クラスの住職の半数以上がゴルフに興じ、宗内でゴルフがブームになっていた。しかし、日顕はゴルフをしない。ゴルフのできない日顕はゴルフを眼の仇にし、この際、禁止にしようと考えたのである。後日、ある住職は「芸者遊びはよくて、ゴルフは駄目とは、とんだ綱紀自粛だ」と不平をもらした。  最後に日顕は、大講堂に座っている住職たちに険しい視線を送りながら、声を荒げて言った。  「君らの中で、ワシのことを『瞬間湯沸かし器』とか『遠山の顕さん』などと言っているものがいるそうだな」  日顕の怒気のこもった言葉に、大講堂の中はシーンと静まりかえった。  「そんなことを言う者は法を下げ、僧侶の値打ちを下げることになる!」  まさに、日顕自ら「瞬間湯沸かし器」を証明した瞬間だった。  翌三十日の教師講習会閉講式でも、日顕は再度、綱紀自粛に触れ、「昨日の指導会における自粛の意味をよく考えていただき、その根本はやはり我々のふだんの信心と行学にある」と述べた。  しかし、この綱紀自粛の指導会は全くの茶番だったことが後に暴露される。  日顕は三十日の教師講習会終了後、伊豆の高級旅館に出かけていた。女房の政子と息子の阿部信彰夫婦、そして日顕の金庫番と言われている石井信量夫婦も一緒だった。日顕と政子はいつものように一泊一人十五万円の部屋に泊まった。  日顕らにとって「綱紀自粛」は「C作戦」の一部であり、決して信心から起こったものではない。学会からの追及を逃れるために末寺住職を利用しようとしただけであった。だから、自分たちには関係ないものと思い、平然と温泉豪遊を楽しんでいた。  その後も、日顕だけでなく宗門の役僧たちも含めて、九月、十一月、十二月と三回、この旅館に泊まっていた。まさか、そのことが、平成五年、『創価新報』等で報道されることになろうとは、彼らは思いもしなかった。  九月二日、大石寺の大客殿前広場で開創七百年慶祝記念文化祭が開催された。海外六十七カ国・地域から代表が参加し、約二千人による華麗な演技が行われた。  日顕は、表面上は学会攻略の素振りを見せまいとしていたが、発言に学会憎悪の感情が表れた。文化祭で見事なダンスを見て、日顕はプロの舞踊家が出演したものと勘違いし、「この人たちは、謗法の人たちでしょう」と咎めるような口調で言った。また、未入信の会友が日本舞踊に参加していたことを知った日顕は、すげなく「信心していない者が本山で演技することは謗法ではないか」と言ってのけた。  文化祭が終わってすぐに、日顕は身内を連れて、伊豆の高級温泉旅館に出かけた。ところが、温泉での遊蕩から戻って、浮かれている日顕を慌てさせる事件が起こる。週刊誌が「C作戦」を暴露したのだ。九月二十日号の『週刊文春』の学会への中傷記事の中に、「『池田打倒』を画策した『C作戦』なるシナリオ」という一文が出てしまった。日顕らは動揺した。  「一体、誰が週刊誌に漏らしたのだ」  日顕らは犯人捜しをしようとしたが、簡単にはいかなかった。下手に騒ぐとかえって「C作戦」の存在を認めることになるからだ。  そのような状況の中で、開創七百年慶讃大法要が行われた。この法要は初会と本会に分かれており、まず、初会が十月六日、七日の両日にわたって催された。  創価学会は開創七百年記念に大客殿の天蓋を供養し、七日にその点灯式が行われた。宗門の機関誌である『大日蓮』には、その時の模様が次のように書かれている。  「池田総講頭が点灯ボタンを押すと同時に、天蓋から金色の光があふれ、東洋の伝統的技法である透かし彫りの幢幡や西洋技法の結晶ともいえるカットグラスなど、七宝にいろどられた“美の精華”の輝きが盛儀を飾った」  しかし、実際には名誉会長がスイッチを押した時に、僧侶席からは拍手一つなかった。  日顕はこの初会の説法で、  「爾来、歴代上人を中心に有縁の僧俗、種々の苦難を超えて、令法久住広宣流布に努め、特に、近年、信徒団体創価学会の興出により、正法正義は日本ないし世界に弘まり、茲に、その意義を込めて開創七百年の法要を盛大に修することは、洵に大慶至極であります」と学会の功績をたたえた。しかし、この「歴代上人を中心に」と、「信徒団体創価学会」という言葉の中に、「あくまでも法主である自分が中心で、学会は法主に従うべき信徒団体に過ぎない」という日顕の本音が隠れていた。  藤本総監は創価学会が天蓋を供養したことを褒めたたえた。しかし、この天蓋は平成七年には取り外されることになる。  日顕は九月に入ってから、法華講総講頭職に任期制を導入する案を河辺と役僧たちに話していた。そして、その案にしたがって「C作戦」を練り直していた。彼らは裏で名誉会長を葬る密議をしながら、その謀略が露呈しないように、心にもないことを、御本尊を背にして滔々と述べていたのである。  開創七百年慶讃大法要の本会は大御本尊御図顕の日である十月十二日と翌十三日に行われた。初日に、日顕の説法があったが、日顕ははじめに「この席に、池田総講頭ほか大講頭各位、創価学会、法華講各信徒賑やかに御参詣され、盛大に執り行うことができまして、まことに有り難く存ずるものであります」とだけ述べ、それ以上、学会のことには触れなかった。  本会の二日目で、主任理事である八木は経過報告をし、その中で「池田総講頭発願による二百カ寺の建立事業も、さまざまな障害を克服しつつ、現在、百八カ寺の落成を数えていますし、また先日、初会大法要の折、御覧のように八葉の蓮華をかたどった、燦然ときらめき輝く大天蓋が新調寄進され、当大客殿が一段と荘厳されました」と述べた。八木も「C作戦」を学会に覚られないために、わざと学会の功績をたたえた。  そのあと、名誉会長は謝辞を述べ、まず冒頭で「御法主日顕上人、まことにおめでとうございました」と言い、「更に、未来の大宗門を担われてゆく、若き竜象の方々に、私は心よりお祝いを申し上げるものでございます」と言葉を続けた。そこには、若い僧侶たちに大聖人の弟子として恥ずかしくない人生を歩んでほしいという名誉会長の思いがあった。  日顕は名誉会長が何を話すか、注意深く耳を傾けていた。もちろん、名誉会長が自分に対して不遜なことを言わないか、気になったからだ。  日顕は、昭和五十七年に開催された第一回関西青年平和文化祭に出席した時、青年部の「宣言」に「我々は、日蓮大聖人の仏法を広く時代精神、世界精神にまで高め」とあったのを指し、「もともと大聖人の仏法は高いのだから、このような表現は不遜である」と難癖をつけた。  その時、日顕は名誉会長が「猊下も喜んでくださっている」と挨拶したことに対しても激怒した。その理由は学会の幹部に想像できないものであった。本山に戻ってからも怒りが収まらない日顕は、まだ関西で会員を激励中の名誉会長を緊急に本山に呼びつけ、「なぜ、『御法主上人』と言わないのか」と迫ったのである。しかし、学会は日達上人の時代にも「猊下」という呼称を使っていた。本来、「法主」とは大聖人のことを指し、明治時代までは、管長は貫主と呼ばれていた。日顕の怒りは、自分は特別であるという異常なエリート意識から生まれていた。  日顕は名誉会長の謝辞の結びの言葉を聞いて、顔色を変えた。  「多くのいわゆる伽藍仏教が、自宗の権威と権力におぼれて、信徒を小バカにし、民衆を見くだし、軽視してきたがゆえに、その活力も発展もなくなっていったことは、周知の歴史的事実であります。これに対して日蓮正宗は、常に慈悲であられる。日蓮正宗創価学会は、御仏智とはいえこの御指南通りに邁進してきたがゆえに、奇跡的な大発展を見ることができたと、私は信ずるものでございます」  日蓮大聖人の時代、鎌倉幕府は京都文化に追いつくため、寺院の建立に力を入れた。そして、律宗の極楽寺、念仏の浄光明寺、大仏殿、禅宗の寿福寺などの七大寺がつくられ、権力者の厚い庇護を受けていた。大聖人が鎌倉に足を踏み入れた建長五年十一月にも、禅宗の建長寺が建立されている。  大聖人は権力に擦り寄り、民衆救済を忘れて、伽藍仏教に成り果てた当時の仏教各派を目の当たりにして、「堂塔・寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ」(御書一四四一頁)と厳しく破折された。  戦後の農地改革で多くの土地を失い、経済苦に喘いでいた総本山の復興に、戸田・池田両会長は、全力を傾けてきた。五重塔の修復をはじめ、奉安殿や大講堂など、相次ぎ伽藍を建立寄進した。そして、本山だけではなく、末寺の建立にも努めた。それは、大聖人の御精神を継承すベき宗門が民衆救済の使命に目覚めて、広宣流布という大聖人の御遺命成就に邁進することを願ってのことであった。ところが、多くの僧侶が寺院を単なる寝床にして、信徒の供養で遊興に溺れていた。  大聖人の弟子を自覚している者であれば、この名誉会長の言葉に深く頷いたであろう。しかし、日顕には名誉会長の言葉は自分へのあてつけにしか聞こえなかった。  名誉会長の謝辞のあと、日顕は、開創七百年の慶讃委員長として記念事業の推進に当たり、外護の任を尽くした功績はまことに顕著であるとして、池田名誉会長に感謝状を贈った。その時の日顕の表情は険しく、賞状を持つ手は怒りでかすかに震えていた。  この感謝状も新しく練り直した「C作戦」遂行のための伏線であった。宗門は名誉会長に何の悪意も抱いていない。あくまでも宗規改正により、総講頭の地位を失うのだ――このシナリオどおりに日顕らは事を運んでいた。  法要終了後、会食が行われたが、少し長引いていた。それを知った若手僧侶たちは「いよいよドンパチが始まったか」とおどけた調子でささやきあっていた。  日顕の陰謀を諸天が見透かしたかのような珍事が十月十九日の日顕の親修で起こった。板橋の妙国寺の新築入仏式で、日顕がいざ読経しようと磬を叩いた時に、その磬が真二つに割れてしまったのである。この磬とは僧侶が読経する時に使う、平板状のつるされた鐘のことをいう。材質は多くが青銅製であるが、中には石でできているものもある。万に一つも割れることはない。  親教の際に磬が割れるなど過去の記録にもない。まさに珍事としか言いようがないことであったが、日顕はまるで凶事が起こったかのように一瞬、青ざめた。  この妙国寺の住職は日顕の娘・百合子の婿である早瀬義純であった。日顕は身内の法要だけに平静を装い、そのまま導師を行ったが、この珍事はしばらくの間、宗内で話題になった。中には、宗門と学会の抗争が始まる瑞相だと茶化す者もいた。  妙国寺は、昭和七年に豊島区に「豊島教会所」として設立されたが、昭和二十三年に「妙国寺」と寺号を公称した。そして、昭和四十九年、板橋区に移転した。  日顕は説法の中で「常に当寺に御参詣されまして寺門の護持、御本尊様への御供養をしてくださった御信徒皆様方の深信の功徳がここに結晶をいたして、このような立派な本堂・庫裏等の再建となったと思うのでございます」と述べた。しかし、この新築された妙国寺の豪華さは単に立派というようなものではなかった。特に庫裏の造りは宗内でも見たことがないほど、贅を尽くしたものだった。浴室は、家族用と所化用の二つに分かれており、家族用はサウナ付きの温泉風呂で、約五百万円をかけて造られた。しかも、浴室のタイルが冷たく感じないように、床暖房が入っていた。  早瀬義純が一番、お金をかけたのはダイニングルームとキッチンだった。一流ホテル並みの厨房機器は約一千五百万円、そして、食堂のテーブルには約五百万円の焼き肉レストラン並みの設備がついていた。また、一部屋まるごとが野菜などの貯蔵のための冷蔵室になっており、この特大食品庫は約六百万円をかけて造られた。  妙国寺を訪れた住職たちも、この庫裏には驚き、その豪華さは宗内でも有名になった。  「やはり、猊下のファミリーの寺は違う」  誰もが羨むと同時に、「あの綱紀自粛は一体、何だったんだ」と首をかしげた。  日顕は宗規改正をいつ行うか、決めあぐねていたが、その理由のひとつが、この妙国寺の新築法要だった。娘が住む寺の法要だけは無事に終わらせたいと考えていたのである。日顕は説法の終わりをこう結んだ。  「今日、池田総講頭が率先して世界広布に苦心をせられて、世界の人々が現在、正法を分々に受持しております姿こそ、まことに未来の世界が真の平和を形作る一番の根本原因であると存ずるのでございます」  日顕が名誉会長をたたえたのは、単に娘のいる寺院だからで、地元の学会員を喜ばせようとしただけではなかった。東京の学会の幹部が参加していたため、「C作戦」を感づかれないように、周到に言葉を選んだのだ。  十一月二日、日顕は学会から『大白蓮華』新年号に載せる「新年の辞」の原稿依頼を受けた。その時に、日顕はわざわざ、「少し短くてもいいですね」と一言断った。近いうちに宗規改正を行う。だから、どうせ簡単でいいだろうという本音が出てしまった。原稿を書き始めた日顕は、初めは当たり障りのない内容で済ませようと考えたが、「C作戦」を成功させるためには、名誉会長をたたえるものを書くべきではないかと、考えを改めた。  「戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。  また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております。  澎湃たる世界広布の潮流のなか、四代北条会長、五代秋谷現会長も、それぞれ重大な活躍を果たし、また、果たされつつありますが、まことに勝れた不思議な団体たる創価学会が、仏勅の精神に基づき、時代時代に適合する妙法の柔軟性をもって、法のため、民衆のため、世界平和貢献のため、いよいよ活動されることを祈る次第であります」  歯の浮いたような賛辞の裏で、日顕は「C作戦」以降のことをしきりに考えていた。そのひとつが、一カ寺でも多く、学会に寺院を寄進させることだった。しかも地方ではなく、東京に寺院が欲しかった。しかし、「C作戦」を行って名誉会長の総講頭職を奪えば、いくら「これは処分ではない」と言い張っても、学会側は激しく抵抗してくるだろう。そうなれば、二百カ寺寄進も途中で中止されるに違いない。それでも、日顕は東京になかなか寺院ができない不満を学会にぶつけたいという気持ちを抑えることができなかった。  十一月十四日に行われた学会との連絡会議で藤本らは、日顕の命を受けて、「江戸川の大護寺以来、都内二十三区に一カ寺もできていない。理由は何か」と、学会側に迫った。  「あとは時期の問題だ」  宗規改正をいつ行うか、考えを巡らせていた日顕のもとに、御仲居の駒井からある報告が入った。その内容は、十一月十六日の本部幹部会の席上、名誉会長が日顕を「権威、権力ではいけない」と批判し、四箇の格言を否定したというものであった。  駒井の報告を聞いたとたんに、日顕は怒りに身を震わせた。  「権威、権力ではいけないだと!」  十一月二十日と二十一日に大石寺で御大会大法要が行われたが、その出仕者との目通りで、自分の感情を抑えきれなくなった日顕は「最近の学会はおかしい」と言いながら、「百姓をする覚悟の時がくるかもしれない」と発言した。それを聞いた者たちは、いよいよ学会との一戦が始まるのかと感じていた。  そして、日顕は御大会の目通りで、名誉会長や会長に対し、「最近の学会は破折がなくなった」と言い出した。日顕は、「名誉会長が本部幹部会で四箇の格言を否定した」という風聞に基づいて、学会を追及しようと考えていた。しかし、まだ、そのテープが届いていなかったので、言葉を濁して「破折がなくなった」と言うにとどまったのだった。  日顕は、御大会を終えたその足で、また、伊豆の温泉旅館に出かけた。行事の疲れを取るのが目的だったが、学会のことでイライラしていた気分の転換も兼ねていた。  日顕は、この年の春の虫払会が終わった後にも、この伊豆の旅館に遊びに出かけていた。虫払会と御大会は宗門の二大行事とされているが、日顕は何よりも行事の後の温泉を楽しみにしていた。大きな行事を終えたのだから構わないだろうと、二大行事を口実にしていたのだ。  温泉から戻ると、名誉会長のスピーチのテープが内事部に届いていた。駒井がそのテープを嬉しそうな顔をしながら大奥に持って来た。日顕はそのテープを受け取り、大奥の自室にこもった。  「絶対に、名誉会長が自分を批判している証拠をつかんでやる」  しかし、そのテープは盗み撮りだったため、音質が悪かった。雑音がひどく、ところどころで音が反響して、何を言っているのかわからない。日顕はカセットレコーダーに耳をつけるようにして、聞き取ろうとした。  「猊下というものは信徒の幸福を……権力じゃありません」  たしかに、そう聞こえた。  「『猊下というものは』だと。何を生意気な!」  日顕はテープレコーダーに怒鳴りつけた。  他にも、四箇の格言を否定しているように聞こえる部分もあった。日顕は文脈を無視していた。そして、聞き取れる部分を勝手に自分への批判だと思い込んでいた。そして、その思い込みのまま、学会への憎悪を掻き立てた。  「必ず、年内に決着をつけてやる」  十一月二十八日、本山中講堂で富士学林研究科閉講式が行われた。テープを聞いて、頭の血が逆流していた日顕は「最近、四箇の格言を言うのは時代遅れだと言っている者がいるが、それは間違っている」と前置きし、広宣流布が進展したことに対して「我々僧侶の面から見たときに、果たしてこれでいいのか」と言いながら、次のように述べた。  「開創七百年を過ぎて、その初めの一年に当たって、すべての問題をもういっぺん、我々が考え直しつつ、あらゆる問題について道理を根本とし、道理の実現に向かって、大聖人の御指南を深く体しつつ進んでいくということが私は大事ではないかと思うのです。そのような意味では、今までとは色々な面で多少違ってくる意味も出てくるかと思います」  実質的な「C作戦」開始の宣言だった。日顕が盛んに使っている「道理」とは僧が上で信徒が下という差別のことであり、「道理の実現」とは僧による俗の支配のことであった。  学林研究科の終了後まもなく、日顕は会議を招集して、名誉会長のスピーチのテープを議題に取り上げた。そして、すぐにテープの反訳が行われることになった。  十二月十一日、日顕は山形県寒河江市に完成した二百カ寺寄進寺院の入仏法要を終え、その足で伊豆長岡の旅館へ向かった。藤本と八木、そして日顕の息子の信彰と金庫番の石井信量たちも一緒だった。  午後七時、日顕ら一行が旅館に到着した。その少し前から、晴れていた空がにわかに曇り、雷雨となっていたが、しばらくすると大粒の雹が降り出した。  日顕らは遅い夕食を済ませると、旅館の従業員に、「明日の朝五時から会議を行うが、誰も入らないように」と、立ち入り禁止の指示を出した。  そして、翌朝五時から会議が始まった。従業員が部屋の手前までお茶を運ぶと、奥番たちがそれを受け取り、中に運んだ。従業員たちが不審に思うほど、厳重な警備態勢だった。  会議では、反訳したテープをもとに宗務院が作成した、学会に対する質問書の最終的な校正が行われた。この文書は「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」と題され――後には通称「お尋ね」文書と呼ばれたが――、翌十三日に行われる連絡会議で学会側に突きつける予定になっていた。  この温泉旅館での「お尋ね」文書作成の会議は朝七時すぎに終わり、藤本らは連絡会議のために東京に戻った。  日顕は、年末にもこの旅館に来る予定で予約を入れさせていた。しかし、それは寸前にキャンセルされ、代わりに八木夫婦と石井信量夫婦が泊まっている。この旅館は新しく最高級の部屋を建築中で、年末に完成する予定だった。値段は一泊五十万円で、日顕は「今度は五十万円の部屋に泊まりに来る」と従業員に告げていたが、それもキャンセルされた。  十二月十三日、学会との連絡会議で、総監の藤本が「お尋ね」を秋谷会長に手渡そうとした。しかし、会長らは「テープの内容が改竄されていれば総監の責任問題に」と指摘し、話し合いによる解決を要望したため、藤本はその文書を引っ込めざるを得なくなった。  翌十四日は、日顕の誕生祝賀会であった。日顕は総監から前日の連絡会議の報告を聞き、「まあいい。郵送で送ればいい」と指示した。  誕生祝賀会で日顕は、「お尋ね」の一部を話した。いずれ公になるのだから構わない、学会憎しの感情が日顕の口を開かせた。  「親鸞と大聖人とを比較して、親鸞は一般の人たちがよいイメージを持っている。それに対して、大聖人は強すぎるイメージがある。しかるに、そういう強いイメージではこれからの広宣流布はできないというような考え方があります」  この親鸞云々の話は出所不明の伝聞をもとにしていた。ゆえに、宗門は後にこの話を撤回して、学会に詫びている。日顕はそれを真に受けて披露してしまったのである。  そして、日顕は「これから色々と難しい問題がますます出てくると思います」と、今から自分が行う「C作戦」の影響を考えながら話した。  続けて日顕は「日興上人様が、いくら大勢の大衆の意見ではあっても間違ったことをしたときには、貫主すなわち法主がこれを挫くべきである、また法主が間違っているところは、その法主の間違ったことに対して大衆は従ってはならないという御指南があるとおりです」と述べた。これは『日興遺誡置文』の、  一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。  一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。 という条文である。  もちろん、日顕は自分に間違いがあるとは思っていない。この「大衆」とは名誉会長も含めた学会員のことである。日顕は学会を「摧く」決意を込めて話していたのである。  『大日蓮』には掲載されていないが、日顕はこの場ではっきりと「近い将来、学会とけじめをつける」と発言している。  十二月十六日、宗務院は総監・藤本の名で「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」と題する文書を学会に送付した。  日顕は十二月十九日に行われる光明寺の新築落慶入仏式のため、前日から沖縄に入っていた。いつものように、日顕らは沖縄の高級ホテルで、贅沢な料理を堪能していた。まるで「前祝い」でもするかのように、一本十五万円のワインを注文し、計四十六万余円の支払いとなった。  この時の親修に日本全国から六十人の僧侶が集まった。沖縄の繁華街を背広姿に坊主頭の者たちが徒党を組んで歩く姿はまるでヤクザの集まりであった。  当日の入仏式で、日顕は「十四誹謗」を説明しながら話した。  「きょう慢というのは、知らず知らずに自分が慢心を持っておる。計我というのは自分が知らない間に我見を持って色々な物事を誤って計っておる」  明らかに、学会に対するあてつけであった。日顕は続けて弘法大師の話をした。  「第六天の魔王等の用きによりまして、非常に偉い姿、立派な姿、万人が認め、そして万人が慕うような姿を現じているのであります」  日顕は一千万会員から慕われている名誉会長に対する嫉妬の感情と憎しみを織り交ぜて話していた。  日顕が説法しているにもかかわらず、一般僧侶の控室で数人の住職が畳の上に寝そべって、昼寝をしていた。前日の深酒がたたっていたのだ。寺に手伝いに来ていた学会の婦人部員や警備の男子部員はそれを見て、「どうなっているんだ」と驚いた。  日顕は一人で突っ走っていた。  十二月二十一日、二百カ寺建立寄進百十一番目となる三重・仏徳寺の落慶入仏式が行われ、日顕は、七百年前四箇の謗法を犯すことによって身延離山の直接的な原因となった、地頭の波木井のことを通して次のように話した。  「今まで存在しておった間違いを一切打ち破り、誤りは誤りとした上で、あくまで正しいものを立てようというところに正応三年の大石寺の建立の意義があったのでございます。ちょうどまた、七百年を経過いたしました本年において、その意義を色々な形において感ずる意味が存するのであります」  事情を知っている者には、身延離山の意義になぞらえて、暗に学会処分の意義づけをしているようにしか聞こえなかった。おそらく、学会の幹部も「変だ」と思うに違いない。「C作戦」を覚られるのではないか。随行で来ていた総監たちは、日顕の話を聞きながら、ハラハラした。  「C作戦」のことを知らない支院長の梶原孝昭は、祝辞でいつものように学会を褒めたたえ、正信会を非難してしまった。梶原は在勤者に「御講では学会をうんと褒めるんだ。そうすれば供養が増えるからな」といつも諭していた。それをそのまま実行してしまったのである。  梶原の話を聞きながら、日顕は顔をしかめた。法要終了後、僧侶だけの場で、日顕は梶原を睨みつけて言った。  「正信会ばかり悪いと言わずに、学会の方も悪かったということをはっきり言え!」  一同が日顕の怒鳴り声で静まっている中、日顕は吐き捨てるように言った。  「来年から厳しくなるからな」  「お尋ね」への回答の期限である十二月二十日が過ぎたが、学会から返事はこない。日顕の脳裏に、学会は独立を企てるかもしれないという考えがよぎった。しかし、そんな簡単にはいかない。御本尊、御授戒、登山、葬儀など、問題は山積みになる。学会は、しょせんは信徒団体だ。本山と僧侶抜きではやっていけるはずがない。無理をすれば、脱会者が増えるに決まっている。多少はごたごたするかもしれないが、最後には頭を下げてくるに違いない。そう想像しながら、日顕は薄笑いを顔に浮かべた。  ところが、日顕の予想を裏切ることが起こる。日顕の元に「お伺い」という名の文章が届いたのだ。それは、十二月二十三日付で、学会より総監宛に送付されたものだった。内容は、「お尋ね」に対しては話し合いによる解決を要望し、宗門に対する質問事項が九項目にわたって書かれていた。その質問の中心は、その年の七月と十一月の目通りでの日顕の言動であった。  まず、七月二十一日の目通りで、日顕が総講頭罷免の理由となる言質を名誉会長から取ろうとして言ったことが、そのまま問題とされていた。  それは秋谷会長らに「法主の発言を封じた。きょう慢だ! きょう慢謗法だ!」と怒鳴り、続けて名誉会長に「あんたにも言っておきたいことがある。懲罰にかけるから」と激しい口調で述べたこと。また、名誉会長に「学会の記念行事があるので、御講に行かなくてよいと、あんた自身が地域の総代にいったじゃないか!」と詰問したことなどだった。どの発言も、法主としてふさわしい発言ではなく、御講の件については事実関係を調べて責任ある回答をお願いする、とあった。  次に、十一月二十日の目通りで、日顕が「正信会が血脈を否定してまで法主を批判せざるをえなかった原因は、学会にある」と述べたこと。さらに「最近の学会は、柔軟になった。折伏、破折をしなくなった。聖教新聞からも、破折、折伏のことが消えてしまった」と発言したことが挙げられていた。前者は筋違いの話であり、後者は事実と全く異なっていると指摘されていた。  この他にも、七月の連絡会議で問題になった宣徳寺の増改築落慶法要での、「娘さんや、奥さんを、借金の担保にする、しない」という高野法雄の挨拶や、十一月の連絡会議で、総監より、「江戸川の大護寺以来、都内二十三区に一カ寺もできていない。理由は何か」という厳しい問責があったことなどが書かれていた。どれも、信徒から供養を受ける僧侶の発言としてふさわしくないとの指摘であった。  日顕の怒りはすさまじかった。すぐに、宗務院の役僧を招集して、会議を開き、この「お伺い」を粉砕する反論を書いて、学会に送り付けることを命じた。  その日顕の激昂ぶりを見て、藤本や早瀬は「もうこれで学会はおしまいだ」と思った。  宗門は十二月二十九日付で、この「お伺い」への回答を学会に送付した。そこには、非常に威圧的な文章が並び、このような文書を宗門に送ること自体が不遜であると述べられていた。  そして、最後に二百カ寺建立寄進について、もともと契約のようなものではないので残りの八十九カ寺については、寄進を辞退すると結ばれていた。  日顕のただならぬ様子を見て、本山の僧侶たちは「いよいよだ」と感じた。  御仲居の駒井は二十四日に行われた学衆課の忘年会ではしゃぐように言った。  「元旦から学会員の登山ができなくなるぞ。来年は創価班も本山から引き揚げる。輸送センターも必要なくなる。二十七日の宗会で“あること”が決定するんだ」  日顕は忙しく動き始めた。  十二月二十五日、宗務院から責任役員宛に二十六日に責任役員会を行うことが、そして宗内に二十七日に臨時宗会が開催されることが、それぞれ通達された。  この日、日顕は臨時宗会に向けての会議の合間を縫って、大石寺内事部第三談話室で、高橋公純とその弟の段勲、そして名誉会長のスピーチのテープの入手にかかわった押木二郎とその部下、計五人と密談を行った。  その席で、日顕は、「学会員のうち二十万が山につけばよい」と発言し、創価学会と裁判になった際には、押木に証人になってくれるように依頼をした。  年明け後、『週刊文春』(一月十七日号)に「法主極秘会見『池田大作をクビにした真意』」という段の記事が掲載され、そこには、  「法主は、『今日、実は、創価学会との問題で会議をやってましてね』と言い、進行中の問題について語り始められた」  「法主の言葉の端々からは“池田色一掃”の堅固な意思が感じられた」  「法主は、学会問題にはもっと早く手を打つべきであったが、準備に長い時間をついやしたことを残念がり」と書かれていた。  十二月二十六日、宗門は総監の名で、「お尋ね」に対して誠意ある回答なしと受け止めた旨の「通知」を学会に送付し、翌二十七日、第百三十回臨時宗会が宗務院で開かれた。  しかし、この宗会は日顕主導による形式だけの宗会だった。意見を言うことは許されず、宗会は日顕の提案に従うしかなかった。  副議長の土居崎慈成は「机の上に置かれていた茶封筒を開けて初めて分かったんだ。その後、説明を受けて賛成した。反対なんかできるか」と後に語っている。  この宗会で、「日蓮正宗宗規一部改正の件」が議決され、即日施行された。  これにより、総講頭の任期は五年、総講頭以外の役員の任期は三年となったが、「但し、再任を妨げない」とされた。そして、「この宗規変更にともない、従前法華講本部役員の職にあった者は、その資格を失う」とあり、名誉会長の総講頭の地位は即日、剥奪された。  また、信徒の除名等の理由として「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」等の条項が新たに追加された。  この改正について、宗門はマスコミには次のようにコメントした。  「総本山渉外部では『かねて本部役員に任期がなかったのは不備だと宗会で一致したため改定した。管長についての発言などをめぐって学会側との間で見解の相違があったという背景はあるが、改定の直接理由ではない。解任でも処分でもない』としている」(「朝日新聞」)  「大石寺側の説明によると、二十七日、臨時宗会が開かれ、総講頭など法華講の役員(計十五人)の任期制を導入するため、同宗の法規にあたる宗制宗規を改正することを決定、それに伴い、池田名誉会長を含む全役員の資格が喪失した、としている。新役員の任命は未定で、大石寺側では、今回の決定について、『解任などの処分ではなく、宗規改正による資格喪失で再任もありうる』と説明している」(「読売新聞」)  作戦どおり、名誉会長の総講頭職の資格喪失は、解任でも処分でもなく、再任もあり得ることが強調された。いよいよ、日顕のドス黒い陰謀の幕が切って下ろされたのである。 ●還著於本人  平成三年一月二日、正本堂の番部屋のホワイトボードに「六〇七」と記載されていた。今日の御開扉の導師は日顕であるという意味である。  本山で無線を使って日顕の名を呼ぶ時は、六十七世を略して「六〇七(ロクマルナナ)」と呼ぶ。例えば、日顕が移動する時は「ロクマルナナ内事部A」と言う。「A」は「出発」を意味する。  午後一時二十三分、日顕を乗せた黒塗りの車が定刻どおりに大奥から正本堂へ移動した。日顕は車の窓から正本堂を眺めながら、嫌悪感で顔をしかめていた。大鷲が大地から羽ばたくようにそびえ立つ正本堂の威容は、日顕の目には創価学会の権勢の象徴としてしか映っていなかった。  日顕は正本堂を見るたびに、息が詰まるような圧迫感を覚えた。自分が思い描いている和風の本山の風景に、この近代建築はそぐわない。  戦前に現れた信徒団体が、戦後に突然、拡大した。しかも、僧侶の手を借りずに仏法を弘め、いつの間にか日本有数の教団になり、勝手に正本堂なる巨大建築を造った。あれは、日蓮正宗のものではない。名誉会長と学会の持ち物に過ぎない。本来日蓮正宗の法主が持つべきはずの、日蓮大聖人の世界広宣流布の理想など、日顕には考えることができなかった。嫉妬に狂った日顕にはそのようにしか映らなかった。「祖道の恢復」を完結させるには、この正本堂を解体せねばならない。  日顕はつぶやいた。  「いつか、この正本堂も消してやる」  正本堂の前まで来て、車に急ブレーキがかかった。運転していた所化が緊張のあまり、ブレーキを強く踏み過ぎたのだ。  「貴様、気をつけろ!」  日顕の中啓が所化の後頭部に炸裂して、「バシッ」という音が車の中に響いた。  運転手に中啓を食らわした日顕の怒りの原因は、実は別にあった。  この日は創価学会の初登山であったが、名誉会長の代わりに秋谷会長ら学会首脳が登山し、話し合いの目通りを求めて来たのだった。日顕は拒絶し、その後も主任理事の八木から「『お目通り』の儀は適わない身」と伝えさせた。  日顕は名誉会長が「お詫び登山」してくることを期待していた。第一次宗門事件の時と同じ流れになることを見込んでいたのである。  十二月二十五日、反学会ジャーナリストの段勲たちとの面談で、日顕は「一月二日に池田が登山したら、一信徒として扱う。居士衣を着ることも許さないし、特別な席もしつらえない。池田と創価学会には厳しい条件を突きつける。のめなきゃ破門だ」と啖呵を切った。  しかし、名誉会長は登山せず、事態は日顕が予測していたものとは違う方向に動き出していたのである。  日顕の怒りは不安の裏返しであった。年末から立て続けに問題が発生し、日顕の心の中に言いようのない胸騒ぎが起こり始めていた。  宗規改正を行った翌二十八日、日顕は早速、海外組織に手を打つことを考えた。そして、海外部の福田を大奥に呼び、ロサンゼルスの山田容済を通じて、アメリカの学会組織の理事長に「もしものことがあれば安心して、宗門についていらっしゃい」と伝言するように命じた。  日顕は、「我ながら、早い手を打った」とうぬぼれていたが、その二日後に理事長から、伝言の真意を尋ねる手紙が本山に届き、それを見て伝言をしたことを後悔する。  その手紙には「かつての檀徒造りと同じ事を猊下がなされるのでしょうか。この事からも、今回の池田SGI会長の総講頭の資格剥奪も極めて陰謀的な感じを深くするものであります」と書いてあった。  日顕はこの「極めて陰謀的な感じ」という言葉に反応し、「C作戦」の露呈を恐れ、すぐに山田から「お詫び」の手紙を理事長宛に出させた。十二月三十一日の大晦日のことである。  その手紙には「事の真相を調査してみました処、猊下が何事か起こった時に、ウィリアムス理事長並にNSAを心配される御言葉を述べられた折、側にいた福田書記が、早合点し、猊下の御言葉を私情で解釈して、私、山田容済に伝えたのであります」と書いてあった。  しかし、宗門の慣わしで言えば、一介の僧侶が法主の言葉を私情で解釈することなどあり得ない。福田は一言一句、正確に伝えたはずである。  学会を攻撃するのかどうか、宗内の情勢は曖昧なまま、平成三年が明けた。  一部の住職たちは正月の勤行会で学会批判を始めたが、多くの住職たちは、一月六日に本山で行われる教師指導会の打ち出しを待つしかないと思い、学会のことはあえて何も触れずにいた。それでなくても、年末から学会員が総講頭の資格喪失問題で寺に押しかけて来る。これ以上、責められてはたまらないと思っていた。  末寺が混乱する中、本山は学会からの文書の対応に追われながら、年を越した。  十二月三十日付で、学会から「抗議書」が送られてきた。内容は、「開かれた宗門に」「信徒蔑視を改めてほしい」「少欲知足の宗風の確立」という三項目からなっていた。そして続けて、一月一日付で、「お尋ね」に対する回答が送付されてきた。しかし、そこには、彼らが期待した反省の言葉の代わりに、文書の反訳ミスが羅列されていた。名誉会長が語った内容が改竄されており、宗門は改竄された内容を用いて学会を難詰したことになる。明らかに宗門側の致命傷である。  宗務院の役僧たちは真っ青になった。完全に宗務院の失態だった。  その反訳ミスを知って、日顕は愕然とした。  「誰が間違えたんだ!」  日顕は大奥で何の関係もない奥番をどなりつけた。自分の打った手が、ことごとく、無能な役僧たちによって裏目に出ていく。体から力が抜けていくようだった。  反訳問題で苦しい立場に立たされた宗門に、追い打ちをかけるように不測の事態が発生した。一月三日のことである。  「日顕上人猊下が直々に、フリーライターの段勲氏にマスコミによる創価学会攻撃を依頼された」という題名の文書が全国の末寺に送信されたのである。それは、「猊下の側近にきわめて近い情報筋によれば、会談は、二時間になんなんとする長時間にわたり、かなり突っ込んだ話し合いが持たれたということだ」という文章で始まり、その会談の内容が大まかに書かれていたのである。  宗務院は慌てた。このことは一部の者しか知らない極秘事項であった。それが全国の末寺に流れるとは、まさに寝耳に水であった。  報告を受けた日顕もさすがに、動揺の色を隠せなかった。  「一体、誰が漏らしたんだ!」  日顕はすぐに犯人捜しを命じた。一体、誰が書いているのか。本山の僧侶がかかわっているのか。宗務院は内事部周辺者を疑い、内事部は宗務院関係者を疑った。  翌四日には「大村壽顕教学部長の宝浄寺に十一億円余の金」と、センセーショナルな題名が躍っていたファックス文書が送信された。今度は内部告発である。末寺住職たちの中には「おいおい、十一億円くらいじゃ済まないだろう」「次の標的は誰だ」と面白がる者も出てきた。  続けて五日には、年末のアメリカの学会組織の理事長から日顕への質問の手紙、そしてそれに対する山田の「お詫び」の手紙の全文が全国の末寺に流れ、宗内を騒然とさせた。  一月二日、三日の学会の初登山を終え、日顕は次第に、追い詰められているような気持ちになっていた。登山者の数は明らかに減っていた。結局、名誉会長は姿を見せず、反訳のミスの指摘、得体の知れないファックス文書による情報漏れと、予想もしていなかったことが次々に起こり始めている。「このままではすべてが駄目になるのではないか」という危惧と焦りが日顕を思いがけない行動に向かわせた。  日顕は、海外部の福田を大奥に呼び出した。アメリカの伝言の件は自分の失敗だが、福田のせいにしていた。しかし、まだ、福田は使える。段とパイプのあるのは福田だけだ。そう思って、日顕は福田の処分を延ばしていた。  「山崎の部下だった者たちに会う予定はあるか?」  「はい、梅沢十四夫が五日に登山して来ますので」  「そうか。実は頼みたいことがある。絶対に秘密だ。いいか!」  日顕は山田の伝言を命じた時とは打って変わって、深刻な表情であった。日顕のただならぬ様子に、福田は驚きながら、襟を正して頷いた。  「山崎に伝言をしたい。いいか、こう言うんだ。『あの時は嘘つきと言って悪かった。勘弁してください』と」  福田は一瞬、自分の耳を疑った。いくら「C作戦」のたたき台を作った功績があると言っても、山崎は、一度は血脈を否定した男である。なぜ謝る必要があるのか?   「いいか、分かったか!」  日顕は、戦う前から追い詰められていた。万が一のことを考えれば、山崎との関係を修復するしかない。自分の血脈を否定した男だが、やつを使ってマスコミ関係に広げる。毒も使いようだ。仕方がない――日顕は藁にもすがる思いになっていた。  福田は、とんでもない伝言を頼まれてしまったと、冷や汗をかきながら大奥を下がった。  そして一月五日、梅沢が本山に来た。  「梅沢さんは山崎正友さんに連絡はとれますか」  「ええ、とろうと思えばとれますよ」  「では、山崎正友さんに猊下さんからのお言付けをお願いしたいんだ」  突然の申し出に梅沢は驚いたが、伝言の内容を聞いて唖然とする。山崎は正信会問題の時に、週刊誌で血脈を否定し、そのせいで正信会は裁判まで起こした。その男に頭を下げるとはどういう料簡だ。  梅沢は半信半疑のまま、翌日に山崎に連絡を取って、その日顕からの伝言を伝えた。それを聞いた山崎も驚く。  「梅沢さん、それは本当かね。本当ですか」  山崎は何度も念を押して、「分かった。どうもありがとう……ありがとう」と感極まる声で答えた。部下の梅沢は今まで山崎から「ありがとう」などと言われたことがない。これが初めてだった。  山崎はこんなにうまく事が運ぶとは思っていなかった。やはり、世間知らずの坊主集団じゃ、駄目だ。日顕もやっと俺の力が分かったようだな。いよいよ、自分の出番がきた、長年の屈辱を晴らす時がきた、と喜んだのも束の間、その約二週間後の一月二十二日、山崎の「懲役三年」の実刑が確定する。日顕は「救世主」を失うことになるのだった。  一月六日、大客殿で寺族を含む全国教師指導会が行われた。  まず、総監の藤本から、「お尋ね」を出すまでの経過と学会から「お伺い」がきてからの宗務院の対応、そして宗規改正を行った経緯について説明があった。  次に教学部長の大村が、学会からの「お伺い」と「お尋ね」に対する反論の問題点について説明した。それは次に学会に送りつける文書の要約でもあった。  日顕は二人の話を聞きながら、イライラしていた。藤本の説明は淡々とし過ぎていて、説明のための説明に聞こえる。大村は相変わらず原稿の棒読みで何の感情もこもっていない。それを聞いている住職たちも無表情で反応がなく、明らかに戸惑っている者もいる。  日顕が思い描いていたのは、「法主のために命がけで戦おう」という熱気あふれる指導会だった。あまりの落差に、日顕は情けない気持ちのまま、壇上に立った。  名誉会長の悪をはっきりと言わなければ駄目だ。そう思った日顕は、正本堂問題を取り上げた。  「池田名誉会長は、昭和四十三年の正本堂着工大法要の時に『三大秘法抄』の文を引き、『この法華本門の戒壇たる正本堂』とはっきり言っております」  日顕は、本来、そのことは宗門が決定すべきであると述べ、  「ある一人の信徒の方が確定してしまい、発言してしまったということは、言い過ぎでありますから、これははっきりと反省しなければならない。また、訂正しなければならないと思います。ところが今日に至るまで、本人がそれに対する反省も、また訂正も全然ありません」と言い出した。  日顕は続けて、宗規改正のことに触れた後、  「これからいろいろと非常に厳しい事、大変な事、そういうような事が起こってくると思います」  日顕は動揺していた。おえつしながら語り出した。  自分は選ばれた者として、在家の傲慢を挫き、歴代の法主が誰もできなかったことをしようとしている。日蓮正宗を僧侶の手に取り戻そうとしているのだ。それなのに、周りの者たちは、自分のこの気持ちを理解してくれない、誰も自分を本気で守ろうとしない……。  「結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候」  日顕は突然、御書を引いた。そして、涙を流して言った。  「私もまた、その覚悟をもっております。私一人になっても、護ってまいります」  藤本や早瀬は、日顕の突然の涙に唖然とした。まだ、作戦は始まったばかりだ。「一人になっても」などという状況には至っていない。一体、どうなっているのか。また、日顕は誰かを使って勝手に動き、自分たちの知らない所で何かが起こっているのではないか。役僧たちは疑心暗鬼に陥っていた。  一方、ほとんどの住職たちと寺族は戸惑った。なぜ、日顕が泣いているのか、理解できなかったのだ。総監たちの話は学会と全面的に戦うという内容ではない。ところが、日顕は「一人になっても法を護る」とまで言い出した。参加者には、役僧と日顕の話が、あまりにもアンバランスだったという印象しか残らなかった。  一月九日、反訳問題で会議の連続だった宗務院に衝撃が走った。その日の聖教新聞に、海外部の福田が一月二日にSGI(創価学会インタナショナル)本部に送った四枚のファックスについての記事が掲載されたのであった。  そのファックスには「今後、SGIの要請による海外での出張御授戒・御本尊下附は一切なくなる」「国内の創価学会組織のみならず海外のSGI組織についても、徹底して切り崩し、破壊してまいります」と書いてあった。まさに「宣戦布告」である。  宗務院はすぐに福田を呼び出し、その文書の原本を提出させた。福田は無表情に、あくまでも「私信」としてSGIの幹部に送っただけであると弁解していたが、問い詰められるうちに、非を認めて謝った。しかし、福田は確信あって行動したのだ。  役僧たちの弱腰に対する不満と「自分を信頼してくれている猊下のために学会と戦うのだ」という思いが、福田を突き動かして、ファックスを書かせた。これだけ書いてSGI本部に送れば、必ず学会が騒ぎ、いよいよ宗門との全面戦争になる。きっと御前さんもそのことを望んでいるに違いないと福田は信じていたのである。  報告を受けた日顕もにわかに信じられなかった。こんな文書を学会に送るなど、正気の沙汰ではない。馬鹿小僧がとんでもないことをしてくれた。日顕も一度は頭に血がのぼったが、すぐに冷静になった。  福田を頼りにし過ぎたのが間違いのもとか。しかし、だからといって下手に追い詰めると危険だ。山友の件も含め、今までのことを口外されては困る。とりあえず、謹慎させねばならない……。日顕はめまぐるしく考えて決断し、宗務院と相談をした。福田はその日のうちに、海外部書記を免職させられ、自宅謹慎を言い渡された。  この翌日、一月十日に二回目の教師指導会が行われた。これは六日の指導会に参加できなかった教師と寺族が対象だった。指導会は前回と同じ式次第で始まり、藤本と大村が話をした。しかし、二人の話は相変わらず、国会の答弁書の棒読みのようで、単なる説明に終始している。会合は淡々と進み、一向に士気は上がらない。  日顕は、住職たちが福田のファックス問題に絡めて「C作戦」のことで頭が一杯になっているに違いないと思っていた。今回の件を納得させ、住職たちの士気を高めるには、もう一度、自分の口から問題の経過を話すしかない。日顕は自分を奮い立たせるように話を始めた。  まず、日顕は学会からの「お伺い」文書に触れた。  「こちらからの『お尋ね』ということに対して、全くその返答をしないで、逆に学会から九項目の詰問書を突き付けてきたということで、このこと自体が信徒としての信仰の本義を忘れた、高ぶったところの慢心そのものの姿である」  続けて日顕は、この「お伺い」を説明しながら、学会がいかに不遜であったかを説明した。  「その間における色々な経過の中で、どうにも反省の色がなく、まじめに回答する意思がないという背景から、先程の総監からの話にもあったように、十二月の二十五日に宗会を招集し、二十七日に開会してかねて懸案の『宗規』の一部改正をし、また、それに基づいての附則を設けて、現在の総講頭、大講頭は全員、そこに地位を喪失したという形になったのであります」  これでいかに学会がおかしいか、みんな分かっただろう――日顕は自分の話に満足していた。そしてまた、前回と同じように、昭和四十三年の名誉会長の発言を取り上げた。  「その一番の元は池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります」  日顕は鬼の首を取ったつもりでいた。しかし、これは完全に日顕の記憶違いで、致命的なミスとなる。この時の日顕の話を掲載した『大日蓮』の平成三年二月号に、二つの訂正記事が載った。  一つは、「昭和四十三年十月以前に、正本堂につき『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文意を挙げての日達上人のお言葉があったので訂正する」というもの。もう一つは、「その一番の元は池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成である……」という個所の「その一番の元」が「そのような経過の中で大事なこと」に訂正された。すなわち、正本堂を三大秘法抄等の御遺命の戒壇と関連させた発言をしたのは、名誉会長が一番初めではなかったと『大日蓮』は公式に認めざるを得なかったということである。  実際に「正本堂が三大秘法抄の戒壇」ということを最初に公式に発言したのは日達上人であった。  昭和四十年二月、第一回正本堂建設委員会で、日達上人は「一期弘法付嘱書」の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」との文をあげて、正本堂がそれに当たる建物であると述べ、同年九月十二日の院達で「このこと(正本堂建立)は、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立、広宣流布の弥々事実の上に於て成就されることなのであります」と明言している。  日顕自身も、これを受けて昭和四十一年五月三日の学会本部総会で三大秘法抄を引き、「広宣流布の時とは、まさに今日、創価学会の出現により、又その大指導者たる会長池田先生が身をもって示される、法主上人猊下と宗門に対する不惜身命の御守護をもって、いよいよ、その時が到来した事をだんじてはばからぬものでございます」と述べている。  また、日顕は総講頭罷免のわずか二カ月前の平成二年十月十三日の大石寺開創七百年法要の慶讃文でも、「正本堂は未曽有の広布進展の意義を含む本門事の戒壇なり」と明言していた。  かくして、日顕の説法は訂正され、戒壇問題に関する日顕の主張は根底から崩れ去ってしまった。  平成三年になり、名誉会長のスピーチの反訳ミスから始まり、日顕が名誉会長を悪と決めつけた根拠はことごとく崩れていくのである。  日顕はこの指導会の最後をこう結んだ。  「たとえ将来、本山の参詣者がなくなって、粥をすするようなことがあっても、私は正義は正義として立てていこうと思って、今回、この問題に踏み切ったわけである」  また、住職たちは困惑する。今回は、涙はなかったが、その代わりに「粥をすすっても」ときた。贅沢な生活に慣れてしまった彼らは、家族のことも含めて、粥をすする気など、さらさらなかった。第一、本山には、うなるほど金があることを皆、知っていた。粥をすすることなど、ないに決まっている。  この「粥」発言は後に「粥は粥でも最高級レストランの特別製の粥だ」と、笑い話のネタにされることになる。この後まもなく、日顕の遊蕩の限りが暴露されるからだ。  三月十二日、目黒区に日顕が造ろうとした二十億円の豪邸計画が発覚した。仏間は十畳しかなく、地下にプールとトレーニングルームがある。およそ僧侶の住まいとは思えない豪華さであった。その発覚に慌てた内事部は翌日に、これは出張所であると釈明し、「大石寺出張所建設計画並びに取り止めについてのお知らせ」と題する文書を、全国の末寺に通達した。しかし、プール付きの出張所などあり得ない。宗内の誰一人納得できない説明だった。  その二週間後、『中外日報』(平成三年三月二十九日号)に「日蓮正宗はどこへ行く 汚れきった法主一派の贅沢ぶり」という見出しの記事が掲載された。そこには本山の役僧らの遊興ぶりが「もはや僧侶とは思えぬ汚れきった俗物たちのあられもない姿の一端である」と事細かく書かれていた。  「温泉地として有名な熱海の高級旅館『M』(筆者注、原文は実名。以下同じ)に平成元年九月十九日、日顕氏夫妻と宗務院総監の藤本日潤氏夫妻、同教学部長の大村寿顕氏夫妻等八組の僧侶夫妻が投宿して豪遊。一部屋一泊十二万五千円の最高級の部屋を各々がとっていた。同年十二月二十七日、やはり『M』で宗門の忘年会を開催。六十人近くの僧侶たちがドンチャン騒ぎをした。この時、日顕氏は『三百万円』の壺を、この旅館で買っている」  「伊豆の修善寺町に新たに設けた宗門の温泉付き豪華別荘の近く、タクシーで十五分か二十分の所にある有名な温泉地、伊豆長岡の最高級ホテル『T』は日顕氏専用(ママ)のホテルであるという。『T』の最高の部屋は一泊三十万円。今年からは五十万円に値上がりした」  「箱根の露天風呂、室内温泉プール、カラオケバー、ディスコ付きまである高級旅館は日蓮正宗御用達。ここは日顕氏の夫人、大村教学部長や宗会議員、大石寺理事たちが家族連れで頻繁に利用する旅館。日顕夫人名だけで、昭和六十三年に三回。平成元年に一回。平成二年に一回。料金は一人一泊一部屋四万三千円から五万七千円。一回あたり六人から十人ぐらいが宿泊利用した。また藁科・大石寺理事名での利用は、昭和六十三年だけで五回もある。ある時には男女合計で二十一人が百二十万円也の飲み食いをしている。大村教学部長も平成二年だけで四回利用。そのうちの三回は五月から六月にかけての一カ月の間の利用である」  「関東のある有名な温泉地。この温泉地は一人一泊三万円でも高級なホテル、旅館であると言われているところだが、日顕氏夫妻は一泊十万円の離れの部屋に宿泊する。むろん、お供づきである。ある時など、八人で一泊し、遊興費だけでも百万円近く費消(ママ)している」  平成四年三月にも、奥湯河原での温泉豪遊が発覚し、四月の支院長らとの目通りで、日顕は「申し訳なかった。これからはちゃんとやりますから」と弁明した。しかし、そのひと月後、舌の根の乾かぬうちに、修善寺の高級料亭旅館Oで豪遊している。  その後も、枚挙に暇がないほど、本山の僧侶たちの堕落した実態がさまざまな形で暴かれていく。その金銭感覚は、信徒だけではなく、一般の人から見ても異常としか思えないものだった。他宗の僧侶たちもその金満ぶりに舌を巻いた。  平成三年十月六日、今度はTBSテレビの「報道特集」で、宗門問題がとりあげられ、印刷された「C作戦」文書が放映される。この放送は宗門と学会だけではなく、社会的にも大きな影響を与え、日蓮正宗は“一千万信徒を切った宗教団体”としてクローズアップされた。  日顕を取り巻く状況は、すべてが日顕の思惑と反対の方向へ流れていった。日顕はまるで潮の渦に巻き込まれるような錯覚に陥った。そして、その苦しさから逃れるために、一気に権力を行使する。  平成三年十一月七日に「解散勧告書」、二十八日に「破門通告書」が宗門から創価学会に送付された。そして引き続き、十一月三十日の教師指導会で、学会員に対する「御本尊下附停止」を発表した。  日顕に残された最後の権威は、御本尊の書写権しかなかった。その権威を最大に有効に使うため、まずは破門により組織の力を失速させる。そして次に、御本尊下付停止によって学会員を脱会させる。  いくら折伏の団体といっても、しょせん、創価学会は信徒団体である。御本尊がなければ折伏もできない。これで幹部たちも自分たちの浅はかさに気づき、大量の学会員が脱会するに決まっている。ワシに逆らうとどうなるか、これで思い知ったことだろう。日顕は勝ち誇ったように声を出して笑った。  しばらくの間、日顕は上機嫌であった。本尊下付を停止すれば、いくら学会が会員を締め付けて時間を稼いでも、やがて組織を離れる者が増えてくるに違いない。  御本尊下付を停止されて弱っているうちに、学会を徹底して破壊してやるのだ――日顕の強気は、しかし一瞬にして暗転する。すなわち、後に平成五年九月七日、宗門を離脱した僧侶の申し出により、第七十回創価学会本部幹部会の席上、日寛上人の御形木御本尊を授与することが発表された。これにより、日顕の目論見は打ち砕かれることになる。  しかも、そうした暗転を予言したかのように、破門直後からその日顕の法主としてのプライドを根底から打ち崩すことが次々と起きたのである。  まず、平成三年十二月二十七日、創価学会は日顕に「阿部日顕 法主退座要求書」を送付してきたのだ。日顕が受け取りを拒否すると、二日後の十二月二十九日、「阿部日顕 法主退座要求書」と全世界千六百二十四万九千六百三十八人の「退座要求署名簿」を合わせて一緒に受け取るようにと、「催告書」を送付した。日顕はこれもまた受け取りを拒否するしか手はなかった。  学会の破門を契機に、その日顕の非道を糾弾して、次々に宗内僧侶が離脱していく。そして「日蓮正宗改革同盟」「青年僧侶改革同盟」「憂宗護法同盟」等が結成され、離脱した僧侶たちの証言によって「C作戦」の存在が明らかになる。  その一例を挙げると、平成三年三月五日、工藤玄英住職と大橋正淳住職が日顕に目通りした。大橋住職が「C作戦」の存在を日顕に質問すると、日顕は憎々しげに答えた。  「じゃ言ってやるか、あれはだな、あの野郎の首をカットするという意味だ」  そう言いながら、日顕は指を突き出し、C、U、Tと書いて見せた。大橋住職は日顕が宙に書いた字を読みながら、確認した。  「カットという意味ですか?」  「そうだ、そのカットの頭文字を取ってのC作戦だ」  工藤住職と大橋住職は「やはり」と思い、互いに顔を見合わせた。すると日顕は言い訳をするように付け加えた。  「とっさに思いついてやったことじゃない。五、六年も前から考えに考え抜いてきたんだ」  日顕が自分の野望を白状した瞬間だった。  五、六年前に一体、何があったのか。二人には思い当たることがあった。  昭和六十年十月三十一日、名誉会長は精密検査のため、東京女子医大病院に入院した。それを知った宗門の一部の僧侶が「いよいよ宗門が学会を支配するチャンスがきた」と言っているという噂が宗内に流れた。時を同じくして、日顕は「C作戦」の準備に入っていたのだ。  その後も、日顕は目通りで次々に本音を吐いていく。  平成三年十月二十二日、串岡雄敏住職との目通りでは、  「(「きょう慢謗法」発言について)ワシは言ってない。お前は、どっちが正しいと思うのか! ワシの言うことが正しいと言え!」  と怒鳴りつけた。串岡住職は冷静に話そうとした。  「池田名誉会長は……」  そのとたん、日顕はうむを言わさず、わめいた。  「呼び捨てにしろ!」  名誉会長を呼び捨てにすることが踏み絵だったのだ。  その十日後の十一月二日、岡崎雄毅住職が目通りした。そこで日顕は、右手の拳骨を岡崎住職の顔の前に突き出した。  「いいか、これが池田だ」  そして殴りつけるように左手の拳骨を出した。  「これがワシだ」  日顕は岡崎住職を睨みつけたまま、前に突き出した右の握り拳を左の拳の上に乗せ、激しくぶつけた。  「今、こういう状態になっているんだ。これでいいのか! これが許されるのか!」  日顕は両手の拳を振り下げ、テーブルを叩いた。  「学会は切るんだ、もう決まっているんだ」  日顕は散々怒鳴り散らした後、突然黙った。岡崎住職は次にどんな罵声が飛んでくるのかと、身構えた。ところが、  「地獄に堕ちるとすれば、ワシが一番だ」と言いながら、日顕は豹変して「エヘヘヘ」と不気味に笑った。  この時、日顕は学会を切ることが「破和合僧」であることを自覚していた。御書に、その罪は無間地獄に堕ちると説かれている。日顕はその罪を受けてでも、名誉会長と学会を切らなければ、気がすまなかったのだ。瞋恚の炎で身が焼かれても、自分が満足できればよい。常人には到底、理解できない心理であった。  日顕は嫉妬の塊と化し、その嫉妬が溢れて言葉となって表れた。学会員もその日顕の裏の姿を直接知ることになる。日顕の肉声のテープが流出したのだ。  平成三年八月の教師指導会で、ある住職が信心に嫌気がさした信者をどう教導するかについて日顕に質問した。それに対して日顕は次のように答えた。  「信心がイヤになろうが、何しようが、そんなことは関係ないんだ、君にとっては! そんなこと、そんなくだらないことを言っておっては駄目だってことを、頭から少しかましてやればいいんだ!」  学会員は日顕の肉声を聞いて目を丸くした。「頭から少しかましてやればいいんだ」、これが法主の指南とは。  平成六年八月の全国教師講習会でも、日顕は露骨に名誉会長への憎悪を吐いた。  「信者が、わがまま言ってだね、なんだドイツ語みたいで難しくて分かんない?なに言ってやがんだ。なーっ! だって難しいの当たりめえなんだよ。ふざけんなって言いたい。やさしく説けばいいって、そんなもんじゃねえんだ」  「あのねー、ミーチャンハーチャンに分かるようにペコペコよ、頭下げて説いてたらよ、本当の法なんか説けやしないんだ」  「民衆、民衆って言うやつほどバカなんだ」  「お題目を唱えて、我々の仏界涌現、仏界涌現って言うんだ。これはまさしく大謗法だよ」  「人間主義、人間主義なんて言うこと自体、お前らの頭、どっか狂ってんじゃないのかって言ってやんなさい」  僧侶とは思えない汚い言葉で信徒を罵る。これが阿部日顕という男の正体であった。  「C作戦」以降、日顕の衣の下の素顔が次々に暴かれていく。禅寺墓事件で日顕の無節操ぶりが白昼の下にさらされたのは、まだ、序の口にすぎなかった。日顕にしてみれば封印していた出生の秘密から始まり、今まで信徒の目に触れることのなかった人生が次々と丸裸にされていった。一体、この暴露はどこまで続くのか――日顕はまさに無間地獄を味わうことになる。  平成四年六月、『創価新報』に宗内僧侶をも驚かす記事が掲載された。通称「シアトル買春事件」である。  昭和三十八年三月十九日、日顕は栄えある第一回海外出張御授戒の途上、アメリカ西海岸の都市シアトルを訪ねた。その夜、事件が起こった。日顕は売春婦とトラブルを起こして警察の厄介になり、ある婦人部員に助けられたというのが告発の内容であった。  その婦人部員、ヒロエ・クロウ夫人は僧俗和合のため、そのことをずっと隠してきた。しかし、学会の破門を機に、日顕に対する怒りの告発として、すべてを話す決意をしたのである。  この告発に対し、日顕は「ホテルから一歩も出ていない」と反論し、『創価新報』の記事が名誉毀損にあたるとして、平成五年十二月、創価学会および池田名誉会長に対し二十億円の損害賠償と謝罪広告を求めて東京地裁に提訴した。  ところが、平成七年九月、告発をしたクロウ夫人の出廷直前になって、突如、日顕はこの「ホテルから一歩も出ていない」との主張を翻し、シアトルでは「一人で散策し飲酒して帰室」(平成七年九月二十九日、宗門側準備書面)と、ホテルから外出したことを認めた。  裁判は進み、平成九年十二月二十二日、日顕が証言台に立ち、その後、三回にわたり反対尋問が行われた。そして、東京地裁は、六年余に及ぶ厳正な審理を経て、平成十二年三月二十一日、判決で二十カ所にわたる日顕の証言の矛盾を指摘したうえ、日顕が「売春婦と性行為を行った」と認定、日顕側の全面敗訴の断を下した。  これに対し日顕側は、「どんな無理を押し通しても創価学会を勝たせようという、本当に一方的な、不公平極まる判決だった」と猛反発し、東京高裁に控訴した。  しかし、日顕側は、控訴審においても、一審の判決を覆す有力な証拠を出すことができず、裁判所は、日顕側に第一審と同じように「訴えの取り下げ」を強く勧告した。日顕側は創価学会側に二十億円の損害賠償を求め、一審二審を通して、約千四百万円もの印紙を貼って訴えてきたが、高裁から再び、訴え取り下げの勧告を受け、平成十四年一月三十一日、訴えを取り下げて和解した。自らの訴えを取り下げたのだから、それは実質的な日顕の敗北であった。  日顕はシアトル裁判で法廷に引き出されることになるとは、夢にも思っていなかった。「ホテルから一歩も出ていない」との主張を翻したために、証言に立たざるを得なくなったのだから、自業自得である。が、日顕は自分の出廷が決まり、激怒する。そして、弁護団長だった弁護士を解任した。  裁判では衣の権威は通用しない。日顕はかつてない激しい感情の波に翻弄される。クロウ夫人への怒り、創価学会への恨み、告発された恥ずかしさ、証言台に立つ恐怖、自分の権威が失墜する不安。そのすべてが絡み合いながら日顕を襲った。  日顕は耐えがたい苦しみと屈辱から逃れるため、前代未聞の挙に出る。正本堂の破壊を決行したのだ。  正本堂は昭和四十七年十月、全世界の八百万人信徒によって建立された、世界でも比類のない世紀の大宗教建築物である。名誉会長は工事を何度も視察し、その数は五百回を超えている。会員の真心の供養に対する責任感から足を運んだのである。  シアトル裁判から人々の目をそらせたい。そして同時に、名誉会長と学会員に自分の怖さを教えてやる。そのためには、今、正本堂の解体を決定せねば意味がない。その日顕の焦りが、宗門史に否、世界の宗教史上に永遠に残る愚行を引き起こしたのである。  大聖人云く、「所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用いあるべしや、いかなりければ公家はまけ給いけるぞ、此れは偏に只事にはあらず弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ」(御書九二一頁)  「還著於本人」は「還って本人に著きなん」と読み、邪法をもって正念の相手を調伏すれば祈りが逆になり敗れることをいう。  僧侶は大聖人の所従として、広宣流布に進まねばならない。しかし、日顕は広宣流布の団体である創価学会を破門に処し、広布の歩みを阻んだ。その行為は主君である大聖人に対する違背である。法華経の行者を謗り害しようとする者は、かえって自身にその果報を受けなければならない。  「破和合」の大罪を犯した報いは、日顕本人にとどまらず、教団にも降りかかった。信徒の真心の供養で建立された正本堂を破壊した日蓮正宗は、日本のみならず、世界中の人々から非難を受け、その信用までも破壊してしまったのである。 ●エピローグ  正本堂が解体され、河辺は日顕に見切りをつけていた。  日顕があてにしていた山崎正友は、ぬけぬけと「懺悔と共に御相承を拝信」などと言い出しておきながら、その裏で身延派の者に、「板本尊偽作論をもっと掘り下げろ」とけしかけていた。“とんでもない野郎に騙されていることに気付かない日顕は、ただの馬鹿だ”と河辺は心底、あきれていた。  山崎は平成五年四月二十七日、栃木県の黒羽刑務所を仮出獄した。翌六年十二月十日には、大石寺で総監の藤本と会っている。そして、宗門の機関紙に山崎の「私が“御相承”を拝信するに至るまで」という寄稿が公開された。  ところが、山崎は藤本と会う直前、十一月二十四日に、身延派の布教会で「今こそ日蓮宗から論争を提起していただきたい」と話し、十二月六日には、京浜教区教化研究会議で講演を行い、「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしい」と、大石寺攻撃を煽っていた。  河辺は笑った。所詮、山崎の情報など、自分の持っている情報に比べれば、子供だましに過ぎない。何も身延をけしかけなくても、日顕自身が大御本尊を偽物と言っていたのだ。  平成十一年七月七日付の『同盟通信』に、昭和五十三年二月七日付の河辺メモが掲載され、宗内にかつてない驚きと衝撃が走った。  S53・2・7、A面談 帝国H 一、戒旦之御本尊之件   戒旦の御本尊のは偽物である。   種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)   多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他   は時師か有師の頃の筆だ。   日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている 一、Gは話にならない   人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。 一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻るだろうと云う安易な考へ   を持っている ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの。(弘安三年の御本尊)  この「A面談」のAとは当時、教学部長であった日顕こと阿部信雄である。日禅とは日興上人の弟子の一人で、日興上人と一緒に身延を離山し、大石寺の南之坊を開いた人物である。その日禅に大聖人が弘安三年五月九日に御本尊を授与している。  この日禅授与の本尊は、北山本門寺に奉納されていたが、それがあるブローカーに流れ、それを法道院を開いた五十六世日応法主が購入した。  昭和四十五年、この日禅授与の本尊が法道院から本山に納められることになった。その直前、日顕はその日禅授与の本尊の大判のカラー写真をある僧侶に見せながら、「どうだ、君、素晴らしいだろう。これが今度法道院から山に入るんだ」と話している。  この日禅授与の本尊は、本山の虫払法要では、正面に向かって左側、西の二番にかけられる。大きさは大御本尊とほぼ同じである。  昭和五十三年二月七日、日顕は帝国ホテルの一室で河辺に会い、そこで大御本尊に関する自説を披露したが、その背景には、身延派の大石寺攻撃があった。  『月刊ペン』という雑誌の昭和五十一年十月号に、立正大学図書館長・宮崎某が書いた大御本尊を偽作とする論文が掲載され、日顕がその論文に対する反論を書くことになった。その反論を書くうちに、日顕は不安になり、日禅授与の御本尊と戒壇の大御本尊の照合を思い立った。その結果がこのメモの内容である。  日顕の結論は、「戒壇の大御本尊の筆は模写であり、偽物である。日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆である。その証拠に日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」というものであった。  また、このメモにある「G」は猊下、すなわち日達上人を指す。日顕が日達上人を非難した背景には、当時の宗内情勢がかかわっている。  昭和五十三年頃、宗務行政を牛耳っていたのは内事部や菅野慈雲などの日達上人の弟子だった。総監の早瀬や教学部長だった日顕は、日達上人から信頼を失い、実権を失っていた。ゆえに、日顕は自分が次期法主になる道は閉ざされたと思い込み、日達上人を批判するだけでなく、大御本尊に関する発言を軽率に行ったのだ。  この「河辺メモ」は日顕にとって、二重の意味で、最大の脅威となった。まず、自分が宗旨の根本である大御本尊を偽物だと断じ、日達上人を誹謗していたことが発覚した。これは、日顕の正宗僧侶としての生命にかかわる重大問題である。  そして、その発言をした時期が、自分が日達上人から相承を受けたことになっている昭和五十三年四月十五日のわずか二カ月前であるということ。当然、宗内には大御本尊の問題だけでなく、相承問題にも火がつく可能性がある。  このメモが流出した二日後の七月九日、宗務院から「怪文書『同盟通信』の妄説について」という文書が宗内に送信された。  「当時は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河辺師に対して説明されたものであります」  続けて、翌日に「河辺慈篤師からのお詫びと証言」との宗務院通達が出た。  「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります」  しかし、この日禅授与の本尊は大石寺にある。その本尊と大御本尊の類似性に疑問を持つ者は外部には存在しない。宗内には釈然としない雰囲気が漂っていた。そこに、あらたな河辺メモが流出し、この河辺のお詫びがヤラセであったことが明るみに出た。  そのメモは八月十二日付の『同盟通信』で公開された。 メモの件  1、当局の云う通りやるか  2、還俗を決意して思い通りでるか  3、相談の結論とするか、  7/9  自坊tel  宗務院より「河辺の感違い」とのFAX(宗内一般)  最初のメモが公開された七月七日の夕刻から、河辺の姿は自坊から消えていた。行き先は九州だった。目的は、九州・開信寺の法華講対策で出向いていた藤本総監、早瀬庶務部長、阿部信彰の三人をホテルに呼び出して密談するためだった。その内容がこの「メモの件」である。  河辺の狙いは、東京に戻ることだった。学会を切ることに消極的であった自分を、日顕は邪魔になって札幌に飛ばした。河辺はそう確信していた。  そして、日顕は独断で「C作戦」を実行し、失敗した。これ以上、馬鹿な日顕に付き合う気はない。最果ての地で晩年を過ごすつもりもない。  当初の日顕との密約は「十年で東京に戻す」ということであった。しかし、十年たっても、日顕はその約束を守らずにいる。すでに十一年目だ。必ず、俺は東京に戻る。本気だということを教えてやる。俺の怖さを思い出させてやる。河辺の決意は固かった。それがメモにある「還俗を決意して」との一文となった。  日顕はこの一文に震え上がった。「二十年前と同じように、河辺は本気だ」と。  河辺は昭和五十五年六月に、徳島の敬台寺から東京・江東区の妙因寺に栄転しているが、その時にもこのメモを使って日顕を脅していた。  正信会を擁護した菅野を庶務部長から解任した時、河辺はその後釜を狙った。ところが日顕は自分の弱みを握っている河辺を庶務部長にするのは、あまりにも危険だと判断し、早瀬義孔を選んだ。河辺は自分を無視した日顕にすさまじい怒りをぶつけた。  河辺は、“お前が戒壇の大御本尊は偽物だと言ったことをマスコミに流すぞ”と日顕を脅し、それが単なる脅しでないことを示すため、“僧侶を辞めてやる”と言って、敬台寺から荷物を運び出した。  日顕は慌てて、河辺を本山に呼び出した。そこで日顕は河辺に徹底的に叩きのめされる。  河辺は日顕を恫喝した。  「ワシが全部、お前に教えてやったろうが! いわば、お前の御師匠さんやで、『御師匠さん』と呼べ!」  日顕は青くなって、ワナワナと震えた。日顕と河辺の戦いは畜生界である。「畜生は残害とて互に殺しあふ」(御書一四三九頁)。怖じ気づいた者が負けだ。  河辺は日顕の表情に怯えを認めて、「落ちた」と思った。  「どうなんだ、おい! 阿部!」  日顕は観念して、口を開いた。  「御師匠さん」  日顕はこの時の屈辱を思い出し、悔しさと怒りで歯ぎしりしていた。しかし、すぐにその感情はあきらめに変わった。河辺が真相を公表すれば、法主の地位だけでなく、自分の僧侶人生はお終いだ。  七月十四日、庶務部長の早瀬が札幌の日正寺まで出かけ、五時間に及ぶ説得を試みたが、無駄に終わる。  これ以上、河辺を刺激すれば自滅する。日顕は沈黙を決め、約二カ月の間、目通りの席でも、八月二十七、二十八日に行われた教師講習会でも、一切、このメモの話題には触れなかった。  河辺は八月二十六、二十七日は本山にいたにもかかわらず講習会には顔を出さず、宗務院の五部長と会い、自分の決意をもう一度、披露した。  八月三十日、河辺はこの話にケリをつけるため、本山で日顕、藤本、早瀬と会った。そして、とうとう、日顕は折れた。  日正寺の「開創八十周年」の法要を終えた二日後の九月七日、正式に河辺の新宿・大願寺への赴任が申し渡された。その時、大願寺の住職は庶務部長の早瀬義寛から、財務部長の長倉教明になっていた。義寛の父である早瀬日慈は平成五年六月に亡くなり、その後任として義寛は豊島区・法道院に移っていた。  宗内を震撼させたメモを書いた本人であるにもかかわらず、河辺は何の咎めも受けず、新宿の一等地にある大寺院に栄転した。もし、これが他の僧侶であったら、謹慎・隠居はもちろんのこと、もっと重い処罰を受けたであろう。  しかも、代わりに大願寺住職の長倉が日正寺に入り、二カ寺の寺院の住職をそのまま入れ替えるという前代未聞の人事であった。この珍事を説明できる理由はただ一つしかない。日顕が河辺の口封じのために行った人事である。宗内の誰もが、そう感じていた。  河辺の口を封じることに成功した日顕はようやく、口を開き、九月十八日、突然「御指南」なる文書を発表した。それまで、シアトル事件をはじめとして、どんな問題にも日顕自身が書いたコメントが宗内に通達されたことはなかった。  そこには「日蓮正宗に対する種々の批判中の一環として、御本尊と血脈等に関する疑難悪口があることの内容について、ある時に慈篤房と客観的な話しをしたような記憶は存する」「御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである」とある。しかし、大石寺にある日禅授与の本尊と大御本尊を一体、誰が類推して疑難悪口するのかという矛盾は、全く説明されていない。  しかも、この「御指南」の中で、日顕はメモにあった「Gは話にならない」には、一切、触れていない。もちろん、宗務院の通達でも何の釈明もなかった。もし、この件に触れれば、日顕がメモの日付から二カ月後に、その「G」から相承を受けたと申告したことへの疑惑が再燃するに違いない。日顕はそれを恐れていた。矛盾と疑惑を残したまま、この問題を闇に葬ろうとしたのであった。  大願寺住職におさまった河辺は、日顕を自分に屈服させたことに満足していた。しかし、その優越感も長くは続かなかった。平成十四年九月二十日、河辺は心臓発作のため新宿区内の病院に入院した。  河辺は病院のベッドで天井を見つめながら、日顕の末路を占っていた。  日顕は、正本堂を破壊し、「祖道の恢復」を完成したと思っている。しかし、事実は違う。仏教三千年の歴史で僧侶が正当な理由もなく、自宗の建築物を破壊した記録はない。日顕が初めてである。八百万信徒の浄財でできた壮大な宗教建築をこともなげに破壊する。そのような教団を世間の人々が信用するはずがない。  日顕は正本堂を破壊し、その結果、日蓮正宗そのものを破壊したのだ。  歴史に残るものは「事実」である。創価学会が大聖人の仏法を世界に広め、宗門はその創価学会の外護により未曾有の発展をしたという事実。その功労者を「C作戦」という謀略で切り捨て、八百万信徒の供養によって建立された正本堂を破壊した事実。その首謀者である日顕の遊蕩が発覚し、暴かれた宗門の腐敗堕落した実態。  日顕は「学会がたくさん供養して、僧侶が堕落するのを待っていたからだ」と言ったが、そんな戯言が通用するはずがない。後世の人々が見るものは、宗門の実態を暴いた多くの写真と証言、そしてシアトル裁判を始め、司法に断罪された宗門の悪行の数々である。  そして、いつの日か“河辺メモ”が公にされるであろう。どんなに隠しても、歴史が資料を闇から引きずり出す。それが歴史の持っている力だ。  河辺は所化時代を日顕と一緒に本山で過ごしている。復員した日顕から、「海軍ではこうして気合いを入れるんだ」と尻をコン棒で叩かれたこともある。そんな河辺だからこそ、日顕の考えが手に取るようにわかった。  日顕は自分のファミリーから次の法主を選ぶ。そうしなければ、自分が日達上人の功績を悉く消し去ったように、次の法主に自分が造り上げた歴史を覆されてしまうかもしれない。下手をすれば、宗門史上最悪の法主として烙印を押され、歴代から除歴される。  しかし、誰が法主になっても、日顕ほど強権を発動することができない。宗内の僧侶が恐れているのは、日顕の狂気だ。何をするかわからない。逆らえば、擯斥される。その恐怖が宗内僧侶を服従させている。  今の宗門をこのまま維持するためには、日顕と同じ狂気を持った者が法主になるしかない。だが、そんな者は日顕以外にいるはずがない。  いずれにしろ、相承を受けた証がない者から、誰が相承を受けても、権威は確実に弱くなる。すなわち、日顕が退座すれば、一気に宗内の均衡がくずれる。そうなれば、日顕の弟子、日達上人の弟子、早瀬系がそれぞれ動き始める。相承箱の経緯を全て知っている大宣寺一派がどう動くか。正信会も絡んでくるに違いない。  猊座に就く者は、本山の金と権力を握ることができる。分裂を免れても、それを狙って、派閥争いが激化するのは火を見るより明らかだ。その結果、宗門は疲弊する。今でさえ、二百を超える末寺が本山からの援助がなければ生活できない状態だ。その状態が続けば、末寺の統廃合が行われるに違いない。無住の寺も出てくるだろう。  さらに悪いことに、本山には住職になれない無任所教師が溢れている。寺ができないのに、日顕は面子を守るために、いまだに毎年、二十人以上の得度者を募集している。だから、無任所教師が増える一方だ。二百人を超える無任所は仕事もなく、本山でブラブラしているだけだ。やがて、その不満が爆発するかもしれない。何が起こるか、予想できない。  無任所教師の増加により、本山の財政は圧迫されるが、末寺の方がより深刻な経済苦に直面することになる。どこの寺も法華講は年配者ばかりだ。つまり、年々、檀家が減っていくことになる。いよいよ収入が減っていく。  その結果、彼らは出口のない生活苦から、「自分たちも日顕の独裁の犠牲者だ」と言い出し自分たちを巻き込んだ日顕を必ず恨むようになる。  そうだ。しょせん、狂気は狂気なのだ。どんなにあがいても、正常な世界に飲み込まれてしまうのだ。  平成十四年十一月十日、河辺は狂気に加担した自分の運命を呪いながら、その一生を閉じた。  日顕は河辺の訃報を聞き、胸を撫で下ろした。これで、自分の秘密を知る者は誰もいなくなった。しかし、油断はできない。河辺のメモが残っている。庶務部長の早瀬に回収させたが、まだどこかに隠されているかもしれない。  日顕の悩みは深かった。簡単に猊座から降りるわけにはいかない。もし、猊座を降りれば、権力を失った自分をあらゆる勢力が襲ってくる。正信会、そして宗内の不満分子も、ここぞとばかりに自分を攻撃してくるに違いない。  日顕は、正本堂を破壊する以前にも、本山の主要な建物を次々に解体している。大化城、六壷、大客殿。そして建物だけでなく、総門から三門にかけての三百本近い桜を伐採した。そのすべてが日顕の独断で行われた。日顕が、このような破壊的行為を独断で繰り返す裏にはそれなりの理由があった。  一つには、本山から日達上人と学会の功績を完全に拭い去り、新しい建物を作ることによって自分の名前を残すためである。広宣流布の基盤は日達上人の時代にほぼでき上がった。本来であれば、日顕はその功績を守り、後世に伝えていかねばならない。  しかし、法主の子として特別な星のもとに生まれたと信じている、日顕の異常ともいえる虚栄心はそれを許さなかった。何としても、日達上人を超えたい。中興の祖とうたわれる歴史を作りたい。そのためには、日達上人の時代に建築されたものをすべて解体するしかない。日顕は躊躇することなく、次々に本山の建物を解体し、自分好みの和風建築に変えていった。  日顕が独断専行を繰り返した、もう一つの理由は、相承疑惑に根ざしていた。日顕は、自分の力を見せつけることによって、この疑惑を封じ込めようとしたのである。  昭和五十四年七月二十二日、日達上人が急逝した。その直前に菅野慈雲と光久諦顕が大奥に来るようにと呼ばれ、奥番は対面所に布団を敷くように指示をされていた。しかし、日達上人は本山に戻ることなく、入院先の病院で亡くなった。  日顕はその二カ月前の五月七日に総監に就任していた。日顕は、一度は法主になる芽は絶たれたと思い、昭和五十三年二月七日に河辺に「戒壇の御本尊のは偽物」「G(猊下)は話にならない」と述べた。しかし、総監になり、「法主になる道が開いた」と胸を躍らせた。ところが、日達上人が逝去直前に菅野らを呼ぼうとしていたことを知り、愕然とする。もしかしたら、菅野か光久に相承の話があったのではないかと。  一体、誰が相承を受けているのか。日顕は枕経の直前に、西奥番室にいた遺族の細井珪道、琢道、そして日達上人の娘婿の菅野慈雲に向かって聞いた。  「あとのこと、君たち聞いてるか?」  「総監さんじゃないんですぅ?」  日顕に向かって答えたのは菅野だった。  「あぁ、そうか……」  そうつぶやきながら、日顕は誰も相承を受けていないと確信した。  午前十一時過ぎから、本山で緊急重役会議が開かれた。もし、日達上人が相承をせずに亡くなったのであれば、宗内は大変な動揺に巻き込まれる可能性がある。緊張の中、会議が始まった。出席者は、阿部総監、椎名重役、早瀬日慈能化の三人だった。  宗制宗規によれば、法主が相承しないで亡くなった場合は、重役会議で法主を選ぶことになる。まず、その候補として挙がるのは、能化、重役、総監である。自分が法主になる可能性も十分にある。しかし、自分は総監になってまだ二カ月だ。能化か重役が選ばれる可能性も高い。欲望と不安で体が震え、日顕の手の平に汗が噴出していた。  何としても、猊座を手に入れたい。六十七世の地位は目の前だ。  日顕は一世一代の勝負に出る。会議が始まったとたん、日顕が口火を切った。  「今日まで、どなたにも秘してきたが……」  日顕はすでに考えていたシナリオを慎重に言葉にした。問題は相承を受けた日だ。この日なら、確実に日達上人は本山にいたはずだ。  「実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜わったことを御披露する」  「えーっ! そんな」  日顕のいきなりの自己申告に、重役の椎名は思わず、声をあげた。しかし、その瞬間、  「いや、何をおっしゃる。これでお山は安泰だ。南無妙法蓮華経……」  早瀬日慈が日顕に向かって合掌した。六十七世法主が誕生した瞬間であった。  早瀬日慈も法主候補の一人であったが、日顕が先に名乗り出た以上、仕方ない。早い者勝ちだった。  日達上人の通夜のあと、日顕新法主の就任が重役から発表された。  当時の宗門の状況では、相承を受けた者がいないということのほうがはるかに重大問題であった。昔の田舎寺の大石寺と違う。今や、身延を超え、日蓮各派が及びもしない大本山だ。その正統を名乗る総本山の法主が相承せずに亡くなったとなれば、他宗派から、何を言われるか分からない。御家の大事とはこのことだ。日顕はその状況と宗内僧侶の心理をうまく利用した。  その数年後、日顕は大奥で行われた学衆課との会議の席で、吉川幸道住職らを前にこう言っている。  「ワシは、もしかしたら早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、待っていても何も言い出さないので、自分から言い出して登座したんだ」  たしかに、日顕は猊座を手に入れることに成功した。しかし、それを証明するものが何もない。その結果、日顕の法主の地位は常に不安定なものとなる。いつ、その地位を覆す証拠が出てくるやもしれない。日顕は常に、そのことに怯える日々を送っていた。  丑寅勤行を終えた日顕は、大奥のしじまの中で、ため息をついた。すでに時計は午前四時を過ぎている。体は疲れているが、眠れない。日顕は平成十四年十二月十九日に満八十歳を迎えていた。その老体に丑寅勤行はつらかった。  日達上人は信徒の便宜をはかって、丑寅勤行を深夜零時から行った。その時間を午前二時半に変えたのは日顕だった。自業自得とはいえ、いまさら、時間を変えるわけにはいかない。その結果、体の不調のせいにして、一夜番の僧侶に代理をさせることが多くなった。  体力の衰えは、まず、足腰にきていた。車椅子で移動することが多くなり、客殿の導師席も椅子に変えた。  いつの間にか、夜が明けていた。しかし、日顕の心の闇は深くなる一方だった。大奥の真上で雷が鳴り、雨のしずくが大奥の窓を叩いた。雨音を聞いているうちに、急激な眠気が襲って来た。しかし、日顕は眠るのが怖かった。眠ったら、二度と目覚めないのではないかという死の恐怖が影のように離れなかった。目が覚めても、また誰か、自分の嘘を暴く者が現れるのではないかという怯えが常につきまとう。日顕は際限のない不安に駆られていた。  生きるのも地獄、死ぬのも地獄。日顕は地獄の中を彷徨っていた。  眠気で体の力が抜け、日顕は布団の上に横になった。まぶたが重い。ゆっくりと目が閉じていく。暗転した世界に不気味な闇が広がった。  その闇の中で、どんな悪夢に襲われたのか――。  大奥に日顕のうめき声が低く響いた。しかし、その声は雷の音でかき消され、誰の耳にも届かなかった。  黒い雨雲が東に昇る太陽を覆い、すべての光を吸い込む暗黒の世界が大石寺の上空に急速に広がっていった。雷鳴は徐々に大きくなり、稲光が大奥の上に走った。  雨は土砂降りとなり、地を叩く音が毒鼓のように響き渡った。そして、日顕の運命を暗示するように大石寺はその雨の中に沈んでいった。                                   (完) ●あとがき  必死の一人が広宣流布の大道を切り開いてきた。それが創価学会の歴史であり、三代会長の闘争の軌跡である。  そして、狂気の一人、阿部日顕がその広布の道を阻もうとした。それが一連の宗門事件である。  得度の手続き上、阿部日顕は私の師僧である。しかし、私が信心を学んだのは宗門でも、日顕からでもない。創価学会の中である。そしてまた師弟の道を学んだのは池田大作先生からである。特に、創価大学で学んだ四年間が私の人生の原点となった。ゆえに私が人生と信心の師匠と定めた人は池田先生、一人だけである。  私が創価大学に入学した昭和五十四年、その師匠である池田先生が会長を勇退された。四月二十四日、私は創価大学の滝山寮のテレビでそのニュースを知った。その時の衝撃はいまだに忘れられない。その背景に、第一次宗門事件があった。そのことが、私の出家の動機でもある。  得度する前は、まさかここまで宗門が狂っているとは思わなかった。私が見た宗門はすべての価値観が転倒している世界だった。そして、その頂点に立つ日顕こそ、その狂いの根源であったのである。  阿部日顕は、相承を詐称して六十七世法主に就いた。法主である証を持たない日顕は、法主であることを証明するために、常に権力を行使しなければならない。日顕が僧侶や信徒の処分を繰り返す理由が、そこにある。そして、世界一千万余の信徒を破門にし、宗教的抹殺を図るなどという狂った妄想にとりつかれたのも、それ故である。  非暴力を説くべき者が暴力を振るう。信心を教導すべき者が唱題を禁止する。少欲知足を旨とすべき者が、信徒の浄財で遊蕩を続ける。平等を説くべき者が差別を説く。やってはいけないことをすべてやっていたと言っても過言ではない。  法主が狂えば、みな狂う。私が心底、驚いたのは、事故で重傷を負い、生死をさ迷っている息子を目の前にしても、唱題しようとしない住職夫婦を見た時である。最愛の子供のためにさえ、題目を唱えることができない。これが、日顕の狂いが生んだ現実である。  日顕の悪行は際限がない。この小説で描くことができたのは、その何分の一でしかない。ある意味では、言葉では説明できないものが多い。それほど、下劣な世界なのである。  その日顕の正体を暴くため、離脱した多くの僧侶が宗内での体験を語った。しかし、それでもなお、宗門問題の本質は十分に説明し切れないのである。後世の人々に宗門問題の実態を知ってもらい、日顕の蛮行を歴史に留めるためには、どうすればよいか。その試行錯誤の中で、この小説ができ上がった。  本書の大半は、C作戦の発動前から平成三年の十一月二十八日までを追いかけている。言うまでもなく、十一月二十八日は日顕が創価学会に破門通告書を送付した日である。そして、その瞬間、日顕は日蓮大聖人より破門された堕獄必定の輩となったのである。  この小説を書くにあたり、「日蓮正宗改革同盟」「青年僧侶改革同盟」「憂宗護法同盟」の方々の証言を多数、引用、参考にさせていただいた。末筆ながら、衷心より御礼を申し上げる。  また、改革の同志であり、大切な友人であった、今は亡き岡崎雄直君が作成した年表がなければ、この実録小説を書く気にはならなかったかもしれない。彼は宗門の中で虐待に遭い、精神的苦痛から体調を壊し、胃を半分以上切除した。そのことが彼の死因の一つでもある。  本書は、師である池田先生を迫害し、同志である学会員を苦しめ、そして、友人を死に追いやった日顕への仇討ちでもあることを最後に明記させていただく。    平成十六年二月十六日                                 筆者記 著者紹介 渡辺雄範(わたなべ ゆうはん) 昭和34年8月  北海道旭川市に生まれる。 昭和58年3月  創価大学経済学部卒業。      大学卒業後、コンピューター関係の仕事に就く。 昭和61年3月  得度。 昭和62年4月 神戸・法恩寺に在勤。 平成元年4月 豊中・本教寺に在勤。 平成2年4月 新宿・大願寺に在勤し、富士学林大学科に入学。 平成4年5月 謗法と化した大石寺より離山。 平成8年3月 シンガポールの「創価山・安楽寺」の住職を勤め、現在に至る。 実録小説 転落の法主 2004年4月28日 初版第1刷発行